アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:語順

 以前にも書いたが、構造主義を発達させたのは言語学、特に音韻論である。「音素」という観念がすでに大発見だと思うが、それをさらに分割した最小単位「弁別的素性(そせい)」というアプローチが構造主義が広がる出発点となった。ヤコブソン、トゥルベツコイなどがあくまで言語学用に確立したこの観念を人類学・民族学者などがちゃっかり(?)拝借して応用し、そこから一般に広まった。民族学などの本の方がギチギチの理論詰めで書かれている無味乾燥なトゥルベツコイの『音韻論概説』なんかよりよっぽど読みやすくて面白いからだ。
 しかしロシア語を勉強した者ならふと疑問に思う人も多かろう:構造主義の先頭を走っていたロシア・ソビエトの学者はその後どこへ行ってしまったんだ?フォルトゥナートフがモスクワで、ボドゥアン・ド・クルトネがカザンで構造主義の先鞭を付けていたはずだが、その鞭は今何処にあるんだ?ド・クルトネについてはスラブ語学者の千野栄一氏もエッセイで強調しているが、ソシュールより30年も前にすでに構造主義言語学の基本的な考えに到達していたのである。プラーグ学派がナチにつぶされ、ユダヤ人のヤコブソンがアメリカに亡命してそこでアメリカ構造主義の発展の一因になったことはまだわかる。しかしナチに打ち勝った本家ソビエト・ロシアの構造主義はどうなったんだ?と。実際私たちのように外部にいるものには、1930年ごろから1960年ごろまで、こちらで構造主義やらソシュール言語学やらが花開いていた時期のソ連の業績がほとんど伝わって来ない。
 幸い、といっていいのかどうか、今では少なくともその暗黒時代の原因については皆に知られている。スターリンの御用学者のマールという言語学者だ。この人が1925年あたりからソ連言語学を牛耳り、自身の死後もスターリンの後押しでその言語学は影響力を失わず1950年代まで君臨し続けたからである。その言語学は一言でいうとイデオロギーを完全優先させたもので、言語の発展や変化の過程を階級闘争の一環として把握しようとする。印欧語学も構造主義の言語学も「ブルジョア脳」が生み出したものとして排除された。どうしてスターリンが言語学などというマイナーな分野に口を入れたのかよくわからないが、マールがグルジア人だったので同胞のよしみということなのかもしれない。また構造主義言語学がブルジョア言語学に見えたのは、当時の学者はド・クルトネにしてもソシュールにしてもトゥルベツコイ侯爵にしても貴族や裕福な家庭の出、つまりええとこのボンが多かったので、その思想も階級の敵という扱いになったのではないだろうか。1950年代にスターリンが突然掌を返してマールの説を放棄し、50年代中ごろからソ連でも構造主義がリバイバルするが、30年近く発展を阻まれてた言語学者の被害は甚大、いわばせっかく自分たちで築き上げた成果を民族学にさらわれる前に自分たちで滅茶滅茶に踏みにじったのである。
 このブランクのため50年代後半に構造主義言語学にOKが出てもしばらくはもたついていたようだ。構造主義への批判もあった。「構造主義は言語という人間の営みを非人間化している」と言う声もあったそうだが、そういえば一見人間の実際の生活や文化から遊離しているかに見える抽象的な理論に対しすぐ生活の役に立つの立たないのとケチをつけだす小学生が『身体検査』というソログープの短編に出ていた。大人になっても言語理論が一見日常会話言語と乖離し、言語学をやっても全く語学には役立たない(『34.言語学と語学の違い』参照)、こんなアプローチをやって何になるのかという懐疑を持っている人は多い。
 しかし一方かつて世界をリードしていたロシアの伝統はさすがに消えはせず、土台は残っていたので(その土台に立っていた建物はマールが焼き払っていたにせよ)そこからまた言語学の建設が始まった。チョムスキーの Syntactic Structures などいち早く紹介され、そのモデルをロシア語に応用した独自の変形文法理論などもすぐに出た。その一人がS.K.シャウミャン Себастиан Константинович Шаумян である。1965年に Структурная  Лингвистика(『構造主義言語学』)というズバリなタイトルの本を出して独自の生成モデルを展開し、それを「適用文法」と名付けて1974年にАппликативная грамматика как семантическая теория естественных языков(『自然言語の意味理論としての適用文法』)という論文(本)で集大成している。前者は1971にさる言語学のシリーズの一巻としてドイツ語訳が出ていて、そのシリーズ全般を監修したのがコセリウである。後者は1978年に『適用文法入門』というタイトルで出た日本語訳がある。
 時期的にはチョムスキーの変形生成文法がいわゆる(拡大)標準理論だったころで、もちろんその影響を強く受けている、というよりこれはチョムスキー標準理論のロシア語版である。いわゆる「言語ユニバーサル」という考え方が前面に出ていて、あらゆる言語を共通のモデル、共通の公式化で文法記述できる、少なくともそういうユニバーサルな公式化を目ざすという姿勢が顕著だ。英語やロシア語はその手始めなのである。さらに文法というのは既に発話された言語データの説明記述ではなく、その生成のメカニズムの再現であるべきだという考え。演繹面の強調である。言語構造を認識するためには統計的な手法は役に立たないとはっきりと述べている、また言い間違いや言語状況に左右される不純物を除いた理想的な言語あるいは「潜在的な言語」という想定もチョムスキーそのままだ。さらに、小さなことだが、名詞に付加された形容詞は関係節文を圧縮した結果とする見方も懐かしいというか当時の変形生成文法そっくりだ。
 
シャウミャンの別の論文にはチョムスキー式の樹形図が出ている。Структурная  Лингвистикаのドイツ語訳から。
StLingu213
 違う点はシャウミャンではそもそもそのタイトルからもわかるように文の生成の出発点からすでに語の意味(特に格の意味)や動詞のバレンツ構造が大きな意味を持つことである。当時の変形生成文法ではシンタクスと意味部門は別モジュールになっていて、共起制限の発動や格の意味(後にΘ役割とか呼んでませんでしたか?)の添加はシンタクス構造がある程度固まってから、少なくともシンタクス構造生成の過程で行われていたが、適用文法では格や動詞の意味が文生成の出発点だ。言い換えると適用文法では統語と意味を区別しないのである。格変化のパラダイムを全てと言っていいほど失った英語と、それをまだ豊かに持っているロシア語との違いという他はない。
 21世紀も20年通過した今になってこういうものを出すと、昭和ノスタルジーに駆られてウルウルするおじさんおばさんがいそうだが、変形生成文法の最初の一歩はこんな感じではなかったろうか。

1. S →  NP + VP
2. NP → N
3. N → {John}
4. VP → NP + V
5. NP → N
6. N → {duck}
7.  V → {see}

もちろんこの他にも duck の不定冠詞の a がついたり動詞に三人称 -s が付け加えられる細かい作業があるが、最終的に John sees a duck という文が生成されることになる。1のNPは主語、4と5のNPは目的語だから格が違うが、それは不問にされる。英語では形が全く同じだからである。対してシャウミャンでは出発点から深層格が顔をだす。ごく簡単に一例を見てみよう。

Raplo T1 T2 T3 T4

Rは人称に応じて変化する形式的述語、まあ大雑把に動詞のことである。その後ろにくっ付いているa、p、l、oというのが動詞のバレンツだが、注意すべきはこれがいわば深層格であって表面上に出てくる(つまり辞書に載っている)動詞の支配する格構造とは違うということだ。あくまで抽象的な深層の格構造であって、実際に具体的な発話として実現される際は別個の格になったり前置詞がくっついて来たりする。シャウミャンは格を「状況関与成分が演じている役割の呼び名」と定義していて、「役割」という言葉がチョムスキーとよく似ている。a は奪格 аблатив、p は通格 пролатив、l は向格 аллатив、o は対象格 объектив といい、それぞれ運動の起点、運動の通過点、運動の終点、動いている点そのものを表わすが、その際純粋に物理的な運動ばかりでなく、例えば

Иван нанёс  рану Петру ножом
Ivan主格 + bore/carried + a wound対格 + to Peter 与格+ with a knife造格
イワンがピョートルにナイフで傷を与えた


では、イワンが a、傷が o、ピョートルが l、ナイフが p だ。さらに次のような文の成分も深層格は上と同じだが、表層格は全く違う。前置詞を伴ったりもする(太字)。

Нанесена Иваном ножом Петру рана
is born/carried + by Ivan造格 + with a knife造格 + to Peter与格 + a wound主格

Рана нанесена Петру Иваном с помощью ножа
a wound主格 + is born/carried + to Peter与格 + by Ivan造格 + with the help of a knife生格

また動詞がバレンツ項目を吸収して意味の圧縮が起こることもある。例えば

Иван ранил  Петру ножом
Ivan + wounded + Peter + with a knife
イワンがピョートルを傷つけた

ではRo が一つの動詞に圧縮されている。
 Tは深層格を担う成分で、数字の順番通りにa、p、l、oの格役割を割り振っていき、T が a、T2 が p、T3 が l、T4 が oとなる。ここら辺は当時のチョムスキーなら

T1 → Ta
T2 → Tp
T3 → Tl
T4  →  To


とか何とか書きそうだが、シャウミャンはこれを次のように表わしている。
Schema1-168
Tの番号を見れば深層格も自動的にわかるので必ずしも必要ではないが、語順変換規則を適用した後などこんがらがりやすい時は明確にしておくためTにさらに格記号をつけることもある。T1a、さらに最初の番号を取ってしまって Ta などと書いたりもする。最終的にはこの T にさらに具体的な語彙素が代入される。これが構造の具現化である。上で出した懐かしの公式にある { } のようなものだ。

Raplo Иван  нож  Пётр  рана

 話が前後するが、実はこの Raplo T1 T2 T3 T4 というの4項構造がそもそもさらにいくつかの2項からなる原初構造(シャウミャンは「公理の型」と呼んでいる)から派生されたもので、全くの出発点ではない。だから前述の Иван нанёс рану Петру ножом などの文も直接 Raplo T1 T2 T3 T4 から導き出されたのではないと言う理屈になる。Raplo T1 T2 T3 T4 が生成された過程は以下のように図示できる。

Rao T1 (Rpo T2 (Rlo TT4))
Rao Иван (Rpo  нож (Rlo  Пётр рана))

( )はちょうど掛け算より足し算を先にするときに使うようなもので、括弧内部の処理をしてから外の計算(?)をかけろという意味だ。これがいわば深層構造でここに様々な変形規則を適用する。ちょっとごく簡単な例をみてみよう。

Он обрабатывает деталь
he + is processing + a/the part
彼が部品を加工している。


という文の出発点は次のような公理であり、

Roa (Rlo T1l T2o) T3a

この文の意味の深層構造は

* Он каузирует, (чтобы) деталь была в обработке
* he + causes, +  (that) + a/the part + was + in + a/the process
 
となる。 he が T3a、a/the part が T2o、a/the process がT1l であることがわかる。この基本形に二段階の演算処理が施される。

1. Roa (Rlo T1l T2o) T3a ------- (A)
2. B Roa (Rlo T1l ) T2o T3a --- (B)
3. Poa  T2o T3a ------------------ 融合規則 1.8

2の頭についている B というのは「意味規則」と言われるものの一つで処理の優先順位を変える。Aは(私の理解した限りでは)「絶対的被演算子」と呼ばれる、つまり始めの一歩だ。意味規則の他に融合規則と言うのがあり(3)、その1.8は

B Roa (Rlo T1l ) →  Poa

と図式化され、Pは「基本的述語」、シャウミャンの言葉でいうと「任意の複合の度合いを持った辞項の代表」である。上で述べた「意味の圧縮」を念頭に置くとわかりやすいと思うが、ここでは (Rlo T1l )が独自にまとまって

находится в обработке
is situated + in a/the process
加工中である


という意味単位を作る。

 さてこの文の受動表現のほうは別の公理から出発し、4段階の演算を経て次のように生成される。

Деталь  обрабатывается им
a/the part + is being processed + by him
部品が彼によって加工されている


1. Rao T1a (Rlo T2l T3o) ------------- (A)
2. C Rao (Rlo T2l T3o) T1a ---------- (C)
3. B (CRao) (Rlo T2l) T3o T1a ------ (B)
4. C (B (CRao) (Rlo T2l)) T1a T3o -- (C)
5. Pao T1a T3o ------------------------- 融合規則 1.1

この文の公理は  Rao T1a (Rlo T2l T3o) だから、その深層意味構造は

* (То, что) деталь в обработке, каузируется им
that + a/the part + in a process + is caused + by him

である。融合規則 1.1というのは

C (B (C Rao) (Rlo T1)) → Pao

というもの。
 これらは単純な文だからまだ付き合えるが(付き合うついでに誤植ではないかと思われる部分があったので勝手に直しておいた)、埋め込み文だの関係節だのになるとこんなもんじゃなく文一つ作るのに延々と演算が続く。また最初の絶対的被演算子が同じでもそこにかます演算の種類や順番が違うと非常に異なったアウトプットになる。さらにここからまた形態素の変換規則、それをまた音韻に変換する規則がたくさん続くから、まだ実際の発話となって出てくるまで道は遠い。

 まあこのように変形生成文法標準理論のロシア語版なのだが、一つエラく気になった部分があった。いわゆる「主題(トピック)」という観念の把握だ。シャウミャンは絶対的被演算子 としての文構造の最後に来る基項を「意味的に一番重い」とし、これを「主題」と名付けている。表面層ではこの主題が文頭に立つのだが、この考え方はそれこそプラーグ学派のテーマ・レーマ議論から一歩も出ておらず、しかも一部混同している。プラーグ学派で「意味的に一番重い」、つまり「情報価が高い」とされたのはテーマでなくレーマのほうだ。いわゆる「新情報」だからである。しかし当該指示対象が既知か未知か、既知だったらどれほど既知かという度合いをreferential status 指示のステータスというが、これと主題・述部といった文の情報構造とは理論的には互いに独立、無関係であるということはチョムスキー側ではそれこそ既知となった。私の覚えている限りでは1981年にイスラエルの言語学者ターニャ・ラインハルトが(言葉は違うが)そういうことを言っているし、なによりチョムスキー側には1960年代から日本の言語学者が多数参加し、「主題」を表わす特別な形態素を持っている日本語を議論に加えたことが大きいと私は考えている。日本の言語学者が世界レベルで果たした貢献であると。
 つまりプラーグ学派のテーマ・レーマ理論は「古い」のである。もちろん1960代当時は英語学側でもまだ議論が進んでいなかったから、その後の発展と比較してシャウミャン側を云々するのはフェアではないし、未だに日本語の授業で助詞の「は」は既知の情報を表わすなどというアンポンタンな説明をする人もいるから、こちらもあまり大きな顔はできまい。

一般化された語彙的意味を持つ深層語形から具体的な語彙的意味を持つ深層語形への変換。『適用文法入門』から。
234


深層の名詞語形を表層の名詞語形に変換する規則。これも『適用文法入門』から。
240

名詞の語形変化をその音韻表示に変換する規則。同上
244

「与える」という意義を持つコミュニケーション動詞の断片的な転換意味の場の生成の例(のごく一部)。同上
252


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レイアウトが特にスマホではグチャグチャになるそうなので以前書いた記事の図表を画像に変更していっています日本語は例の単数・複数というカテゴリーがないので楽勝かとナメてかかると(誰がナメるんだよ)、後でこういう罠が待っていますので特に印欧語のネイティブは要注意。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。


 数詞というか数の数え方というか、例えば1から10までを何というのかなどは挨拶の仕方と同じく語学の授業の最初に基本単語として習うことが多いから日本語の場合も字もロクに読めないうちから数を覚えたがる人が結構いる。グッドモーニング、グッドバイときたら次はワン・ツー・スリーに行くのが順序という感覚だ。嫌な予感を押し殺しつつ仕方なく10くらいまで教えると、案の定「にひと」「さんアヒル」とか言い出す。それぞれtwo men、three ducks のつもりなのだ。それではいけない、単なる数字を勘定に使うことはできない、人とアヒルは数え方が違うのだ、人間も鳥も自動車も皆同じくtwo なら two を使えるほど日本語(や中国語)は甘くない、などという過酷な事実をそもそもまだ「私は学生です」という文構造さえ知らない相手に告げるのは(これは確か夏目漱石が使っていた表現だが)徒に馬糞を投げてお嬢様を驚かすようなことになりかねない。もっとも英語やドイツ語にだって例えば a cup of teaなど日本語や中国語に近い数え方をすることがある。日本語ではただそれが広範囲で全名詞にわたっており、単語を覚えるたびに数え方をチェックしておかなければならないというだけだ。ドイツ語で名詞を覚えるたびにいちいち文法性をチェックしておかなければならないのと同じようなもの。基本的に大した手間ではない。中国人だと中国語と日本語では数え方が微妙に違っているのでかえって面白がる。『143.日本人の外国語』でもちょっと言ったように、これしきのことでいちいち驚くのは構造の全く違う言語に遭遇したことがない印欧語母語者に多い。ただ、後になってから初めて「さんアヒル」と言えないと知らせて驚かすのも気の毒なので最近は数字を聞かれた時点で「これらの数字はただ勘定するときだけにしか使えず、付加語としての数詞は名詞によって全部違うから、後でまとめてやります」と言っておくことにしている。ついでに時々、「日本語は単数・複数の区別がなくて楽勝だと思ったでしょう?そのかわり他のところが複雑にできていて帳消しになってるんですよ。どこもかしこもラクチンな言語なんてありませんよ」と言ってやる。
 印欧語の母語者にとってさらに過酷なのは、普通日本語では数量表現が当該名詞の付加語にはならない、ということである。例えば英語なら

Two ducks are quacking.

で、two は ducks の付加語で duck というヘッド名詞の内部にあるが(つまり DP [two ducks])、日本語では数量表現が NP の外に出てしまう:

アヒルが二羽鳴いている。

という文では二羽という要素は機能的には副詞である。これに似た構造は幸いドイツ語にもある。量表現が NP の枠の外に出て文の直接構成要素(ここでは副詞)に昇格するのだ。いわゆるfloating numeral quantifiers という構造である。

Die Enten quaken alle.
the +  ducks + are quacking + all
アヒルが鳴いている。


Wir sind alle blöd.
we + are + all + stupid
我々は馬鹿だ。

ドイツ語だと副詞になれる量表現は「全部」とか「ほとんど」など数がきっちりきまっていないものに限るが、日本語だと具体的な数表現もこの文構造をとる。違いは数詞は付加語でなく副詞だから格マーカーは名詞のほうにだけつけ、数詞の格は中立ということだ。しかしここで名詞と「副詞の数詞」を格の上で呼応させてしまう人が後を絶たない。

アヒルが二羽が鳴いている
池にアヒルが二羽がいる
本を四冊を読みました

とやってしまうのだ。確かに数詞のほうに格マーカーをつけることができなくはないが、その場合は名詞が格マーカーを取れなくなる。

アヒルØ二羽が鳴いている。
本Ø四冊を読みました。

これらは構造的に「アヒルが二羽鳴いている」と似ているようだが実は全然違い、格マーカーのついた「二羽」「四冊」は主格名詞と解釈できるのに対し格マーカーを取らない「アヒル」や「本」は副詞ではない。それが証拠に倒置が効かない。

アヒルが二羽鳴いている。
二羽アヒルが鳴いている。

アヒル二羽が鳴いている。
*二羽がアヒル鳴いている。(「アヒルが二羽鳴いている」と比較)

数詞が名詞になっている後者の場合、「アヒル二羽」が一つの名詞、合成名詞とみなせるのではないだろうか。「ドイツの料理」という二つの名詞が合体して「ドイツ料理」という一つの合成名詞をつくるのと同じである。シンタクス構造が違うからそれが反映されるのか、意味あいも違ってくる。あるまとまりを持った集団に属するアヒルたちというニュアンスが生じるのだ。「アヒルが二羽」だと池のあっち側とこっち側で互いに関係ない他人同士、いや他鳥同士のアヒルがそれぞれ勝手に鳴いている雰囲気だが、「アヒル二羽が」だと、アヒルの夫婦か、話者の飼っているアヒル、少なくとも顔くらいは知っている(?)アヒルというイメージが起こる。ドイツ語や英語で言えば前者は不定冠詞、後者は定冠詞で修飾できそうな感じだ。この「特定集団」の意味合いは「二羽のアヒル」という言い回しでも生じる。

二羽のアヒルが鳴いている。

ここでの「二羽」はシンタクス上での位置が一段深く、上の「アヒルが二羽」のように動詞に直接支配される副詞と違って、NP内である。属格の「の」(『152.Noとしか言えない見本』参照)によって「二羽」がヘッド名詞「アヒル」の付加語となっているからだ。先の「アヒル二羽」は同格的でどちらが付加語でどちらがヘッドかシンタクス上ではあまりはっきりしていないが(まあ「二羽」がヘッドと解釈していいとも思うが)、「二羽のアヒル」なら明らか。いずれにせよどちらも数詞は NP内で副詞の位置にいる数詞とはシンタクス上での位置が違う。そしてこれも「アヒルが二羽鳴いている」と比べると「アヒル二羽」のイメージに近く、つがいのアヒルが鳴いている光景が思い浮かぶ。もっともあくまで「思い浮かぶ」であって、「アヒルが二羽」はバラバラのアヒル、「二羽のアヒル」ならつがいと決まっているわけではない。また後者でもそれぞれ勝手に鳴いている互いに関係ないアヒルを表せないわけではない、あくまでもニュアンスの差であるが、この辺が黒澤明の映画のタイトルが『七人の侍』であって『侍(が)七人』とはなっていない理由なのではないだろうか。あの侍たちはまさにまとまりをもった集団、固く結束して敵と戦うのだ。
 逆に集団性が感じられない、英語ドイツ語なら冠詞なしの複数形になりそうな場面では副詞構造の「アヒルが二羽」「アヒルを二羽」が普通だ。在米の知り合いから聞いた話では、これをそのまま英語に持ち込んでレストランでコーラを二つ注文するとき Coke(s) two といってしまう人がよくいるそうだ。Two Cokes が出てこない。さらにその際 please をつけないからネイティブをさらにイライラさせるということだ。

 それで思い出したが、ロシア語には普通の数詞(単純数詞、простые числительные)の他に集合数詞(собирательные числительные )というものがある。その名の如く複数の当該事象を一つのまとまりとして表す数詞、と説明されている(しかし集合数詞という名称がおかしい、という声もある。下記参照)。
Tabelle1-158
形としては一応10まであるが、9と10の集合数詞は事実上もう使われなくなっているそうだ。この集合数詞は単純数詞と語形変化の仕方が違う。全部見るのは面倒くさいので「3」と「5」の単純数詞と集合数詞の変化を比べると次のようになる。集合数詞と単純数詞はそもそも品詞そのものが違うことがみてとれるだろう。
Tabelle2-158
Tabelle3-158
数詞の被修飾語の名詞のほうは『65.主格と対格は特別扱い』『58.語学書は強姦魔』でものべたように、主格と対格では複数生格、その他の格では数詞と呼応する形が来る。
 日本語では数詞は語形は変わらずシンタクス上の位置が違ってくるが、ロシア語のほうは語そのものが違いシンタクス上の位置は変わらない。だから、というのもおかしいが使い方・意味合いも日本語の「アヒルが二羽」と「二羽のアヒル」と違い、なんとなく別のニュアンスなどというあいまいなものではなく使いどころが比較的きっちりと決まっている。例えば次のような場合は集合数詞を使わなければいけない。
1.ロシア語には形として単数形がなく複数形しかない名詞があるがそれらに2~4がついて主格か対格に立つとき。なぜなら2~4という単純数詞には単数生格(本当は双数生格、『58.語学書は強姦魔』参照)が来るのに、その「単数形」がないからである。

двое суток (主格はсутки で、複数形しかない)
two集合数詞 + 一昼夜・複数生格

трое ворот (ворота という複数形のみ)
three集合数詞 + 門・複数生格

четверо ножниц (同様ножницы という複数形のみ)
four集合数詞 + はさみ・複数生格

2.дети(「子供たち」、単数形はребёнок)、ребята(これもやはり「子供たち」、単数形はребёнокだがやや古語である)、люди(「人々」、単数形は человек)、лицо(「人物」)という名詞に2~4がついて主格か対格に立つとき。

двое детей
two集合数詞 + 子供たち・複数生格

трое людей
three集合数詞 +人々・複数生格

четверо незнакомых лиц
four集合数詞 + 見知らぬ・複数生格 + 人物・複数生格

3.数詞の被修飾語が人称代名詞である場合。

Нас было двое.
we.属格 + were + two集合数詞
我々は二人だった。


Он встретил их троих.
He + met + they. 属格 + tree.集合数詞
彼は彼ら3人に会った。



その他は基本的に単純数詞を使っていいことになるが、「も」も何もそもそも単純数詞の方がずっと活動範囲が広いうえに(複数形オンリーの名詞にしても、主格対格以外、また主格対格にしても5から上は単純数詞を使うのである)、集合数詞は事実上8までしかないのだがら、集合数詞を使う場面の方がむしろ例外だ。集合数詞、単純数詞の両方が使える場合、全くニュアンスの差がないわけではないらしいが、イサチェンコ(『58.語学書は強姦魔』『133.寸詰まりか水増しか』参照)によるとтри работника (3・単純数詞 + 労働者・単数生格)とтрое работников(3・集合数詞+ 労働者・複数生格)はどちらも「3人の労働者」(または労働者3人)という完全にシノニムで、трое などを集合数詞と名付けるのは誤解を招くとのことだ。歴史的には本来この形、例えば古スラブ語のdvojь、 trojь はdistributive分配的な数詞だったと言っている。distributiveなどと言われるとよくわからないがつまりcollective 集合的の逆で、要するに対象をバラバラに勘定するという意味だ。チェコ語は今でもこの意味合いを踏襲しているそうだ。

 そうしてみると日本語の「アヒルが3匹」と「3匹のアヒル」の違いとロシア語の集合数詞、単純数詞の違いはそれこそ私がワケもなく思いついた以上のものではなく、構造的にも意味的にも歴史的にもあまり比較に値するものではなさそうだ。まあそもそも印欧語と日本語の構造を比べてみたって仕方がないと言われればそれまでだが。

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機種とブラウザによってはブランクが二つ以上続いた場合自動的に一つに縮められてしまい(余計なことするなバカタレ)せっかくの苦労が水の泡、レイアウトが崩れるので画像にしたりブランクの代わりにハイフンを使って直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 以前にも書いたが、構造主義を発達させたのは言語学、特に音韻論である。「音素」という観念がすでに大発見だと思うが、それをさらに分割した最小単位「弁別的素性(そせい)」というアプローチが構造主義が広がる出発点となった。ヤコブソン、トゥルベツコイなどがあくまで言語学用に確立したこの観念を人類学・民族学者などがちゃっかり(?)拝借して応用し、そこから一般に広まった。民族学などの本の方がギチギチの理論詰めで書かれている無味乾燥なトゥルベツコイの『音韻論概説』なんかよりよっぽど読みやすくて面白いからだ。
 しかしロシア語を勉強した者ならふと疑問に思う人も多かろう:構造主義の先頭を走っていたロシア・ソビエトの学者はその後どこへ行ってしまったんだ?フォルトゥナートフがモスクワで、ボドゥアン・ド・クルトネがカザンで構造主義の先鞭を付けていたはずだが、その鞭は今何処にあるんだ?ド・クルトネについてはスラブ語学者の千野栄一氏もエッセイで強調しているが、ソシュールより30年も前にすでに構造主義言語学の基本的な考えに到達していたのである。プラーグ学派がナチにつぶされ、ユダヤ人のヤコブソンがアメリカに亡命してそこでアメリカ構造主義の発展の一因になったことはまだわかる。しかしナチに打ち勝った本家ソビエト・ロシアの構造主義はどうなったんだ?と。実際私たちのように外部にいるものには、1930年ごろから1960年ごろまで、こちらで構造主義やらソシュール言語学やらが花開いていた時期のソ連の業績がほとんど伝わって来ない。
 幸い、といっていいのかどうか、今では少なくともその暗黒時代の原因については皆に知られている。スターリンの御用学者のマールという言語学者だ。この人が1925年あたりからソ連言語学を牛耳り、自身の死後もスターリンの後押しでその言語学は影響力を失わず1950年代まで君臨し続けたからである。その言語学は一言でいうとイデオロギーを完全優先させたもので、言語の発展や変化の過程を階級闘争の一環として把握しようとする。印欧語学も構造主義の言語学も「ブルジョア脳」が生み出したものとして排除された。どうしてスターリンが言語学などというマイナーな分野に口を入れたのかよくわからないが、マールがグルジア人だったので同胞のよしみということなのかもしれない。また構造主義言語学がブルジョア言語学に見えたのは、当時の学者はド・クルトネにしてもソシュールにしてもトゥルベツコイ侯爵にしても貴族や裕福な家庭の出、つまりええとこのボンが多かったので、その思想も階級の敵という扱いになったのではないだろうか。1950年代にスターリンが突然掌を返してマールの説を放棄し、50年代中ごろからソ連でも構造主義がリバイバルするが、30年近く発展を阻まれてた言語学者の被害は甚大、いわばせっかく自分たちで築き上げた成果を民族学にさらわれる前に自分たちで滅茶滅茶に踏みにじったのである。
 このブランクのため50年代後半に構造主義言語学にOKが出てもしばらくはもたついていたようだ。構造主義への批判もあった。「構造主義は言語という人間の営みを非人間化している」と言う声もあったそうだが、そういえば一見人間の実際の生活や文化から遊離しているかに見える抽象的な理論に対しすぐ生活の役に立つの立たないのとケチをつけだす小学生が『身体検査』というソログープの短編に出ていた。大人になっても言語理論が一見日常会話言語と乖離し、言語学をやっても全く語学には役立たない(『34.言語学と語学の違い』参照)、こんなアプローチをやって何になるのかという懐疑を持っている人は多い。
 しかし一方かつて世界をリードしていたロシアの伝統はさすがに消えはせず、土台は残っていたので(その土台に立っていた建物はマールが焼き払っていたにせよ)そこからまた言語学の建設が始まった。チョムスキーの Syntactic Structures などいち早く紹介され、そのモデルをロシア語に応用した独自の変形文法理論などもすぐに出た。その一人がS.K.シャウミャン Себастиан Константинович Шаумян である。1965年に Структурная  Лингвистика(『構造主義言語学』)というズバリなタイトルの本を出して独自の生成モデルを展開し、それを「適用文法」と名付けて1974年にАппликативная грамматика как семантическая теория естественных языков(『自然言語の意味理論としての適用文法』)という論文(本)で集大成している。前者は1971にさる言語学のシリーズの一巻としてドイツ語訳が出ていて、そのシリーズ全般を監修したのがコセリウである。後者は1978年に『適用文法入門』というタイトルで出た日本語訳がある。
 時期的にはチョムスキーの変形生成文法がいわゆる(拡大)標準理論だったころで、もちろんその影響を強く受けている、というよりこれはチョムスキー標準理論のロシア語版である。いわゆる「言語ユニバーサル」という考え方が前面に出ていて、あらゆる言語を共通のモデル、共通の公式化で文法記述できる、少なくともそういうユニバーサルな公式化を目ざすという姿勢が顕著だ。英語やロシア語はその手始めなのである。さらに文法というのは既に発話された言語データの説明記述ではなく、その生成のメカニズムの再現であるべきだという考え。演繹面の強調である。言語構造を認識するためには統計的な手法は役に立たないとはっきりと述べている、また言い間違いや言語状況に左右される不純物を除いた理想的な言語あるいは「潜在的な言語」という想定もチョムスキーそのままだ。さらに、小さなことだが、名詞に付加された形容詞は関係節文を圧縮した結果とする見方も懐かしいというか当時の変形生成文法そっくりだ。
 
シャウミャンの別の論文にはチョムスキー式の樹形図が出ている。Структурная  Лингвистикаのドイツ語訳から。
StLingu213
 違う点はシャウミャンではそもそもそのタイトルからもわかるように文の生成の出発点からすでに語の意味(特に格の意味)や動詞のバレンツ構造が大きな意味を持つことである。当時の変形生成文法ではシンタクスと意味部門は別モジュールになっていて、共起制限の発動や格の意味(後にΘ役割とか呼んでませんでしたか?)の添加はシンタクス構造がある程度固まってから、少なくともシンタクス構造生成の過程で行われていたが、適用文法では格や動詞の意味が文生成の出発点だ。言い換えると適用文法では統語と意味を区別しないのである。格変化のパラダイムを全てと言っていいほど失った英語と、それをまだ豊かに持っているロシア語との違いという他はない。
 21世紀も20年通過した今になってこういうものを出すと、昭和ノスタルジーに駆られてウルウルするおじさんおばさんがいそうだが、変形生成文法の最初の一歩はこんな感じではなかったろうか。

1. S →  NP + VP
2. NP → N
3. N → {John}
4. VP → NP + V
5. NP → N
6. N → {duck}
7.  V → {see}

もちろんこの他にも duck の不定冠詞の a がついたり動詞に三人称 -s が付け加えられる細かい作業があるが、最終的に John sees a duck という文が生成されることになる。1のNPは主語、4と5のNPは目的語だから格が違うが、それは不問にされる。英語では形が全く同じだからである。対してシャウミャンでは出発点から深層格が顔をだす。ごく簡単に一例を見てみよう。

Raplo T1 T2 T3 T4

Rは人称に応じて変化する形式的述語、まあ大雑把に動詞のことである。その後ろにくっ付いているa、p、l、oというのが動詞のバレンツだが、注意すべきはこれがいわば深層格であって表面上に出てくる(つまり辞書に載っている)動詞の支配する格構造とは違うということだ。あくまで抽象的な深層の格構造であって、実際に具体的な発話として実現される際は別個の格になったり前置詞がくっついて来たりする。シャウミャンは格を「状況関与成分が演じている役割の呼び名」と定義していて、「役割」という言葉がチョムスキーとよく似ている。a は奪格 аблатив、p は通格 пролатив、l は向格 аллатив、o は対象格 объектив といい、それぞれ運動の起点、運動の通過点、運動の終点、動いている点そのものを表わすが、その際純粋に物理的な運動ばかりでなく、例えば

Иван нанёс  рану Петру ножом
Ivan主格 + bore/carried + a wound対格 + to Peter 与格+ with a knife造格
イワンがピョートルにナイフで傷を与えた


では、イワンが a、傷が o、ピョートルが l、ナイフが p だ。さらに次のような文の成分も深層格は上と同じだが、表層格は全く違う。前置詞を伴ったりもする(太字)。

Нанесена Иваном ножом Петру рана
is born/carried + by Ivan造格 + with a knife造格 + to Peter与格 + a wound主格

Рана нанесена Петру Иваном с помощью ножа
a wound主格 + is born/carried + to Peter与格 + by Ivan造格 + with the help of a knife生格

また動詞がバレンツ項目を吸収して意味の圧縮が起こることもある。例えば

Иван ранил  Петру ножом
Ivan + wounded + Peter + with a knife
イワンがピョートルを傷つけた

ではRo が一つの動詞に圧縮されている。
 Tは深層格を担う成分で、数字の順番通りにa、p、l、oの格役割を割り振っていき、T が a、T2 が p、T3 が l、T4 が oとなる。ここら辺は当時のチョムスキーなら

T1 → Ta
T2 → Tp
T3 → Tl
T4  →  To


とか何とか書きそうだが、シャウミャンはこれを次のように表わしている。
Schema1-168
Tの番号を見れば深層格も自動的にわかるので必ずしも必要ではないが、語順変換規則を適用した後などこんがらがりやすい時は明確にしておくためTにさらに格記号をつけることもある。T1a、さらに最初の番号を取ってしまって Ta などと書いたりもする。最終的にはこの T にさらに具体的な語彙素が代入される。これが構造の具現化である。上で出した懐かしの公式にある { } のようなものだ。

Raplo Иван  нож  Пётр  рана

 話が前後するが、実はこの Raplo T1 T2 T3 T4 というの4項構造がそもそもさらにいくつかの2項からなる原初構造(シャウミャンは「公理の型」と呼んでいる)から派生されたもので、全くの出発点ではない。だから前述の Иван нанёс рану Петру ножом などの文も直接 Raplo T1 T2 T3 T4 から導き出されたのではないと言う理屈になる。Raplo T1 T2 T3 T4 が生成された過程は以下のように図示できる。

Rao T1 (Rpo T2 (Rlo TT4))
Rao Иван (Rpo  нож (Rlo  Пётр рана))

( )はちょうど掛け算より足し算を先にするときに使うようなもので、括弧内部の処理をしてから外の計算(?)をかけろという意味だ。これがいわば深層構造でここに様々な変形規則を適用する。ちょっとごく簡単な例をみてみよう。

Он обрабатывает деталь
he + is processing + a/the part
彼が部品を加工している。


という文の出発点は次のような公理であり、

Roa (Rlo T1l T2o) T3a

この文の意味の深層構造は

* Он каузирует, (чтобы) деталь была в обработке
* he + causes, +  (that) + a/the part + was + in + a/the process
 
となる。 he が T3a、a/the part が T2o、a/the process がT1l であることがわかる。この基本形に二段階の演算処理が施される。

1. Roa (Rlo T1l T2o) T3a ------- (A)
2. B Roa (Rlo T1l ) T2o T3a --- (B)
3. Poa  T2o T3a ------------------ 融合規則 1.8

2の頭についている B というのは「意味規則」と言われるものの一つで処理の優先順位を変える。Aは(私の理解した限りでは)「絶対的被演算子」と呼ばれる、つまり始めの一歩だ。意味規則の他に融合規則と言うのがあり(3)、その1.8は

B Roa (Rlo T1l ) →  Poa

と図式化され、Pは「基本的述語」、シャウミャンの言葉でいうと「任意の複合の度合いを持った辞項の代表」である。上で述べた「意味の圧縮」を念頭に置くとわかりやすいと思うが、ここでは (Rlo T1l )が独自にまとまって

находится в обработке
is situated + in a/the process
加工中である


という意味単位を作る。

 さてこの文の受動表現のほうは別の公理から出発し、4段階の演算を経て次のように生成される。

Деталь  обрабатывается им
a/the part + is being processed + by him
部品が彼によって加工されている


1. Rao T1a (Rlo T2l T3o) ------------- (A)
2. C Rao (Rlo T2l T3o) T1a ---------- (C)
3. B (CRao) (Rlo T2l) T3o T1a ------ (B)
4. C (B (CRao) (Rlo T2l)) T1a T3o -- (C)
5. Pao T1a T3o ------------------------- 融合規則 1.1

この文の公理は  Rao T1a (Rlo T2l T3o) だから、その深層意味構造は

* (То, что) деталь в обработке, каузируется им
that + a/the part + in a process + is caused + by him

である。融合規則 1.1というのは

C (B (C Rao) (Rlo T1)) → Pao

というもの。
 これらは単純な文だからまだ付き合えるが(付き合うついでに誤植ではないかと思われる部分があったので勝手に直しておいた)、埋め込み文だの関係節だのになるとこんなもんじゃなく文一つ作るのに延々と演算が続く。また最初の絶対的被演算子が同じでもそこにかます演算の種類や順番が違うと非常に異なったアウトプットになる。さらにここからまた形態素の変換規則、それをまた音韻に変換する規則がたくさん続くから、まだ実際の発話となって出てくるまで道は遠い。

 まあこのように変形生成文法標準理論のロシア語版なのだが、一つエラく気になった部分があった。いわゆる「主題(トピック)」という観念の把握だ。シャウミャンは絶対的被演算子 としての文構造の最後に来る基項を「意味的に一番重い」とし、これを「主題」と名付けている。表面層ではこの主題が文頭に立つのだが、この考え方はそれこそプラーグ学派のテーマ・レーマ議論から一歩も出ておらず、しかも一部混同している。プラーグ学派で「意味的に一番重い」、つまり「情報価が高い」とされたのはテーマでなくレーマのほうだ。いわゆる「新情報」だからである。しかし当該指示対象が既知か未知か、既知だったらどれほど既知かという度合いをreferential status 指示のステータスというが、これと主題・述部といった文の情報構造とは理論的には互いに独立、無関係であるということはチョムスキー側ではそれこそ既知となった。私の覚えている限りでは1981年にイスラエルの言語学者ターニャ・ラインハルトが(言葉は違うが)そういうことを言っているし、なによりチョムスキー側には1960年代から日本の言語学者が多数参加し、「主題」を表わす特別な形態素を持っている日本語を議論に加えたことが大きいと私は考えている。日本の言語学者が世界レベルで果たした貢献であると。
 つまりプラーグ学派のテーマ・レーマ理論は「古い」のである。もちろん1960代当時は英語学側でもまだ議論が進んでいなかったから、その後の発展と比較してシャウミャン側を云々するのはフェアではないし、未だに日本語の授業で助詞の「は」は既知の情報を表わすなどというアンポンタンな説明をする人もいるから、こちらもあまり大きな顔はできまい。

一般化された語彙的意味を持つ深層語形から具体的な語彙的意味を持つ深層語形への変換。『適用文法入門』から。
234


深層の名詞語形を表層の名詞語形に変換する規則。これも『適用文法入門』から。
240

名詞の語形変化をその音韻表示に変換する規則。同上
244

「与える」という意義を持つコミュニケーション動詞の断片的な転換意味の場の生成の例(のごく一部)。同上
252


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前回の続きの古い記事を全面的に書き直しました。表も画像にしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 前回の続きです。

 more にあたる語がplūs かmagis かという他にもう一点気になることがある。スラブ語にはちょっとお休みをいただいてロマンス語派とゲルマン語派の主なものだけもう一度見てみよう。
Tabelle1-N30
 問題は more の位置だ。ほとんど総ての言語で more にあたる語が dollars の後に来ているのに本国ポルドガル語のみ、more が a few dollars の前に来ている。ちょっとこの点を考えてみたい。なおここでは「本国」と「ブラジル」と分けてはあるが、別にブラジルでは本国形を使わない、あるいはその逆というわけではなく、要は「どちらでもいい」らしい。スペイン語もそうで、本国では南米形を使わないという意味ではない。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)や ein paar (a few)が Dollar の前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for + a few + dollars + more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここで mehr (more) を Dollar の前に持ってきた構造

?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけての NG 宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のように mehr (more)を ein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの * 印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more books あるいは some more books という語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員 For a few more dollars はOKだと言った。For a few dollars more のほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱり NG 宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でも más(more)は dólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

*Por unos cuantos más dólares と*Por más unos cuantos dólares の許容度に差があるかどうかは残念ながら聞きそびれてしまった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 次にいわゆる p- 組のフランス語ではスペイン語と同じく、more が名詞の前、ましてや a few の前には出られない。a few more books がフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some + books + of + more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques plus dollars
*Pour plus quelques dollars

の二つはどちらも却下した。
 同じくp-組のイタリア語では più (more) が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a + few + more + of + books

残念ながらネイティブが見つからなかったので Per qualche più dollaro とかなんとか more が dollars の前に出る構造が可能かどうかは未確認である。
 もっともロマンス語を見ると純粋に more にあたる語の位置に加えて前置詞の使い方がポイントになってくるようなので、ちょっと私の質問の仕方が悪かったかもしれない。またネイティブに聞いたといっても偶然そこに居合わせた人に(しかも一人だけ)よもやま話で持ちかけただけなのでとても「調査」などと言えるようなシロモノではない。いつか詳しく知りたいものだ。

 それでもここまでの結果を見てみると問題は実は「more にあたる語が dollars の前に出られるか否か」というよりむしろ「more (にあたる語)が a few (にあたる語)の前に出られるか否か」であることがわかる。言い換えると more (にあたる語。面倒くさいので以下単に括弧にいれて「more」と呼びます )は数量表現の前には出られないのである。シンタクス的には 「more」は数量表現を支配していると解釈できるから、支配要素が非支配要素の数量表現の後に来ていることになる。「支配・非支配」というのはちょっと専門的な用語になるが、いわゆる修飾語は被修飾語に支配されている関係と思っていい。a cute duck という句なら修飾語の cute は非修飾語の duck に支配されている。ついでに a は限定辞 deterniner として cute duck を支配する。
 とにかく「more 」は数量表演を支配するが、その際何を持って数量表現ととするかという点に言語による違いがあるらしい。通貨単位を含めた「a few dollars 」全体を数量表現と見なす、見なせるというのは全言語共通だが、英語はそこからさらに a few を切り離してこれを単独で数量表現とみなせるということだ。ドイツ語も実はそうなのだろう。上で述べたように Für ein paar mehr Dollar の否定に時間がかかったのはそのせいだと思う。その a few more dollars という構造だが、ここでは more は数量表現を支配する一方、後続の普通名詞 dollars  に支配されている、more が dollars  を修飾していることがわかる。違いを図で書くとこんな感じになりそうだ。

for [ [a few dollars] more] N
for [ [ [a few] more]N1 dollars]N2

つまりmore はある意味名詞なわけで、a few more dollars では名詞が別の名詞を修飾している状態、日本語の「母さんアヒル」と同じ構造だ。悔しいことに辞書を見たら more の項にしっかり「名詞」と載っていた。なぜ悔しいのかと言うと「わーい more って名詞じゃん!」というのは私が自分で発見した新事実だと思っていたからである。ちぇっ、もう皆知っていたのか…

 しかし実は「支配する要素は支配される要素の後ろに来なければいけない」という必然性はない。例えばフランス語では形容詞(支配される要素)が名詞(支配する要素)の後ろに来る。「more」が「a few」の前に出られないのか前者が後者をシンタクス上支配しているから、という理屈は成り立たないのである。では「more」はなぜ「a few」の前にでられないのか。私が(ない頭を必死にひねって)考えつく理由はたった一つ。「more」が数量表現の前に来ると「more than」(ドイツ語では mehr als)と紛らわしくなって意味が変わってしまう危険性が高すぎるからではないかなということだ。For more a few dollars あるいは Für mehr ein paar Dollar とやったら For more than a few dollars(Für mehr als ein paar Dollar)かと思われ、しかも more や als が欠けているから意味が違う上に文法的にも間違いということになり、意図した意味と乖離しすぎる。
 そういえばドイツ語には Für ein paar Dollar mehr の他にもう一つ「あともう少しのドルのために」を表す方法がある。副詞の noch を使うやり方だ。これは英語でいえば still とか in addition 、つまり「その上さらに」という副詞だが、als とツルんで「~以上」という意味になったり、他の句を支配したりなどと言う器用なことはできない。混同される虞が全くないので名詞句の前に立てる。

Für noch ein paar Dollar

しかし名詞を支配できないから数量表現と名詞の間に割って入って橋渡しすることができない。

* Für ein paar noch Dollar

またこれが文末、あるいは句の最後尾に来ると何かが大幅に省略されている感じで、そもそも意味が取れないそうだ。

* Für ein paar Dollar noch

では Für noch ein paar Dollar とFür ein paar Dollar mehr は完全に同じ機能かというと「含意が違う。後者の方が言外の意味が広い」そうだ。まず前者だが、含意としては当該人物が例えばすでに100ドル持っている、あるいは賞金稼ぎで100ドルのお尋ね者をゲットした。しかしさらに金が欲しいから働く。その「さらに」は5ドルかもしれないし、110ドルかもしれない。要は元金(?)100にいくらか上乗せされればいいのだ。これが基本の意味で、後者もその意味で解釈していい。しかし後者ではもう一つの意味解釈ができる。前回100ドルの懸賞金を得た当該人物がさらに今度は100ドル以上の賞金のついたお尋ね者を狙う、つまり懸賞金のグレードアップというニュアンスの解釈が可能だそうだ。「これは明らかにレオーネの前作 Per un pugno di dollari (「一握りのドルのために」、邦題『荒野の用心棒』)への暗示だ。」いやネイティブというのは言うことが細かい細かい。

 さて、ではその間違えやすい For more than a few dollars の方は上にあげた言語ではどういうのか、自動翻訳するとこうなった。これを思いついたときは周りにネイティブがいなかったので仕方なくディープ L 先生に頼ってしまったのである。「本国」と「南米」の区別は出来なかったのでスペイン語とポルトガル語の単なるバリエーションということにした。
Tabelle2-N30
 さて、ポルトガル語には mais(more)が数量表現の前に来ても「more than と誤解されない何か」があるのだろうか。他のロマンス語と何か決定的に違う点はあるのだろうか。For more than a few dollarsの意味ではポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順、「more」が「a few」の前に出るという下のようなウルトラCが可能だ(下記太字)。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかは未調査)

上の表をざっと見るとたった一つ思いつくことがある。他のロマンス諸語と違ってポルトガル語には「more than」の「than」を1語でなく do que と2語で表す方法があるということだ。1語しかないとわざと抜かしたのか聞きそびれたのかわからない、つまり more than なのか単なる more なのか紛らわしいが、さすがに2語抜けるとわざとであることが明確、つまり単なる more であることがはっきりするからOKとか。でも一方ポルトガル語にはスペイン語と全く閉口する形、Por mais de alguns dólares という「more」を1語で表す形もあるではないか。そのオトシマエはどうつけたらいいのだろう。無理やり解釈すれば、たとえ mais de という短い形があっても mais do que という存在が背後にあるので「than」をつけないのは意図的と解釈されやすく、短い de のほうを消してもわざとなのかうっかりなのかが混同されにくいとか。しかしそりゃあまりにも禅問答化しすぎなので、方向を変えて mais do que と mais de のどちらが古い形なのかちょっと考えてみた。
 まず、イタリア語の di、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の de は同語源、皆ラテン語の前置詞 dē(of, from)から来たものだ。ポルトガル語の do の方はしかしもともとは2語、de  + o で、後者は the である。つまりこの語はポルトガル語内で発生した比較的新しい語だということだ。だから他のロマンス語と並行するポルトガル語形 Por mais de alguns dólares は古い形、やや廃れつつある形なのではないだろうか。もう一つ、スペイン語にもポルトガル語にも「than」に que を使う構造がある。この que はラテン語の quid(that, what)だが、スペイン語の por más que unos pocos dólares が文句なく For more than a few dollars であるのに対し、ポルトガル語の Por mais que alguns dólares は文句大ありの形である。なぜスペイン語に文句がないのかと言うと、この形を英語やドイツ語、果てはフランス語などの逆翻訳すると例外なく For more than a few dollars にあたる形が出て来るからだ。一方ポルトガル語の方は逆翻訳すると英語でもドイツ語でも意味が違って出てくる。どうもこの que だけ使うポルトガル語表現はマージナルなのではないだろうか。これらを要するに、ポルトガル語では「than」に2語使う Por mais do que alguns dólares がメインであるために「more than」と「more」の区別がつきやすく、mais がalguns dólares(a few dollars)の前に出て For a few dollars more の意味を担うことを許したのではないだろうか。
 でもなぜいくら条件が許したからと言って mais は大人しく最後尾に引っこんでいないで前にしゃしゃり出る気になったのか。別に誰も「おい、mais、前に出ろ」とは言っていないのだ。これもわからないのだが、たった一つ私に考えつくのは上でもチョロッと述べたようにロマンス語は本来支配要素が非支配要素の前に立つのが基本だということだ。最後尾に甘んじてはいても実はスペイン語の más もイタリア語の più も以前から前に出たくて出たくてしかたなかったのかもしれない。そうやっていたところポルドガル語で条件が整ったのでヒャッホーとばかり名詞句の前に出たとか。
 もしそうだとするとそのポルトガル語ヒャッホー形は新しい「more than」表現 mais do que よりさらに下った時代のイノベーションということになるが、この記事の冒頭や前回述べたように Por uns dólares a mais がブラジルポルトガル語、Por mais alguns dólares が本国ポルトガル語とされていることが実に興味深い。言語学には波動説というものがあり、「周辺部の形は当該言語の古形を表す」という現象が知られているからだ。例えばいつかオランダ語のネイティブが言っていたが、アフリカーンス語(『89.白いアフリカ人』参照)はとても古風なオランダ語に見えるそうだ。アフリカーンスはいわばオランダ語の周辺バリエーションだから古い形を保持している。この図式をポルトガル語に当てはめるとブラジル・ポルトガル語は「より古い形が残っている」ことになり、Por mais alguns dólares はポルトガル語の比較的新しいイノベーションという見方にマッチする。

 以上が私の考えだが、繰り返すようにこれは超テキトー&穴だらけなネイティブ「調査」に端を発し、あげくはディープL先生のおっしゃったことを鵜呑みにして無理やり出した結論だから、アサッテの方角にトンチンカン砲を放っている虞大ありだ。何か知っている方がいらっしゃったら教えていただけるとありがたい。

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「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いを考えついたので追加しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 数詞というか数の数え方というか、例えば1から10までを何というのかなどは挨拶の仕方と同じく語学の授業の最初に基本単語として習うことが多いから日本語の場合も字もロクに読めないうちから数を覚えたがる人が結構いる。グッドモーニング、グッドバイときたら次はワン・ツー・スリーに行くのが順序という感覚だ。嫌な予感を押し殺しつつ仕方なく10くらいまで教えると、案の定「にひと」「さんアヒル」とか言い出す。それぞれtwo men、three ducks のつもりなのだ。それではいけない、単なる数字を勘定に使うことはできない、人とアヒルは数え方が違うのだ、人間も鳥も自動車も皆同じくtwo なら two を使えるほど日本語(や中国語)は甘くない、などという過酷な事実をそもそもまだ「私は学生です」という文構造さえ知らない相手に告げるのは(これは確か夏目漱石が使っていた表現だが)徒に馬糞を投げてお嬢様を驚かすようなことになりかねない。もっとも英語やドイツ語にだって例えば a cup of teaなど日本語や中国語に近い数え方をすることがある。日本語ではただそれが広範囲で全名詞にわたっており、単語を覚えるたびに数え方をチェックしておかなければならないというだけだ。ドイツ語で名詞を覚えるたびにいちいち文法性をチェックしておかなければならないのと同じようなもの。基本的に大した手間ではない。中国人だと中国語と日本語では数え方が微妙に違っているのでかえって面白がる。『143.日本人の外国語』でもちょっと言ったように、これしきのことでいちいち驚くのは構造の全く違う言語に遭遇したことがない印欧語母語者に多い。ただ、後になってから初めて「さんアヒル」と言えないと知らせて驚かすのも気の毒なので最近は数字を聞かれた時点で「これらの数字はただ勘定するときだけにしか使えず、付加語としての数詞は名詞によって全部違うから、後でまとめてやります」と言っておくことにしている。ついでに時々、「日本語は単数・複数の区別がなくて楽勝だと思ったでしょう?そのかわり他のところが複雑にできていて帳消しになってるんですよ。どこもかしこもラクチンな言語なんてありませんよ」と言ってやる。
 印欧語の母語者にとってさらに過酷なのは、普通日本語では数量表現が当該名詞の付加語にはならない、ということである。例えば英語なら

Two ducks are quacking.

で、two は ducks の付加語で duck というヘッド名詞の内部にあるが(つまり DP [two ducks])、日本語では数量表現が NP の外に出てしまう:

アヒルが二羽鳴いている。

という文では二羽という要素は機能的には副詞である。これに似た構造は幸いドイツ語にもある。量表現が NP の枠の外に出て文の直接構成要素(ここでは副詞)に昇格するのだ。いわゆるfloating numeral quantifiers という構造である。

Die Enten quaken alle.
the +  ducks + are quacking + all
アヒルが鳴いている。


Wir sind alle blöd.
we + are + all + stupid
我々は馬鹿だ。

ドイツ語だと副詞になれる量表現は「全部」とか「ほとんど」など数がきっちりきまっていないものに限るが、日本語だと具体的な数表現もこの文構造をとる。違いは数詞は付加語でなく副詞だから格マーカーは名詞のほうにだけつけ、数詞の格は中立ということだ。しかしここで名詞と「副詞の数詞」を格の上で呼応させてしまう人が後を絶たない。

アヒルが二羽が鳴いている
池にアヒルが二羽がいる
本を四冊を読みました

とやってしまうのだ。確かに数詞のほうに格マーカーをつけることができなくはないが、その場合は名詞が格マーカーを取れなくなる。

アヒルØ二羽が鳴いている。
本Ø四冊を読みました。

これらは構造的に「アヒルが二羽鳴いている」と似ているようだが実は全然違い、格マーカーのついた「二羽」「四冊」は主格名詞と解釈できるのに対し格マーカーを取らない「アヒル」や「本」は副詞ではない。それが証拠に倒置が効かない。

アヒルが二羽鳴いている。
二羽アヒルが鳴いている。

アヒル二羽が鳴いている。
*二羽がアヒル鳴いている。(「アヒルが二羽鳴いている」と比較)

数詞が名詞になっている後者の場合、「アヒル二羽」が一つの名詞、合成名詞とみなせるのではないだろうか。「ドイツの料理」という二つの名詞が合体して「ドイツ料理」という一つの合成名詞をつくるのと同じである。シンタクス構造が違うからそれが反映されるのか、意味あいも違ってくる。あるまとまりを持った集団に属するアヒルたちというニュアンスが生じるのだ。「アヒルが二羽」だと池のあっち側とこっち側で互いに関係ない他人同士、いや他鳥同士のアヒルがそれぞれ勝手に鳴いている雰囲気だが、「アヒル二羽が」だと、アヒルの夫婦か、話者の飼っているアヒル、少なくとも顔くらいは知っている(?)アヒルというイメージが起こる。ドイツ語や英語で言えば前者は不定冠詞、後者は定冠詞で修飾できそうな感じだ。この「特定集団」の意味合いは「二羽のアヒル」という言い回しでも生じる。

二羽のアヒルが鳴いている。

ここでの「二羽」はシンタクス上での位置が一段深く、上の「アヒルが二羽」のように動詞に直接支配される副詞と違って、NP内である。属格の「の」(『152.Noとしか言えない見本』参照)によって「二羽」がヘッド名詞「アヒル」の付加語となっているからだ。先の「アヒル二羽」は同格的でどちらが付加語でどちらがヘッドかシンタクス上ではあまりはっきりしていないが(まあ「二羽」がヘッドと解釈していいとも思うが)、「二羽のアヒル」なら明らか。いずれにせよどちらも数詞は NP内で副詞の位置にいる数詞とはシンタクス上での位置が違う。そしてこれも「アヒルが二羽鳴いている」と比べると「アヒル二羽」のイメージに近く、つがいのアヒルが鳴いている光景が思い浮かぶ。もっともあくまで「思い浮かぶ」であって、「アヒルが二羽」はバラバラのアヒル、「二羽のアヒル」ならつがいと決まっているわけではない。また後者でもそれぞれ勝手に鳴いている互いに関係ないアヒルを表せないわけではない、あくまでもニュアンスの差であるが、この辺が黒澤明の映画のタイトルが『七人の侍』であって『侍(が)七人』とはなっていない理由なのではないだろうか。あの侍たちはまさにまとまりをもった集団、固く結束して敵と戦うのだ。
 逆に集団性が感じられない、英語ドイツ語なら冠詞なしの複数形になりそうな場面では副詞構造の「アヒルが二羽」「アヒルを二羽」が普通だ。在米の知り合いから聞いた話では、これをそのまま英語に持ち込んでレストランでコーラを二つ注文するとき Coke(s) two といってしまう人がよくいるそうだ。Two Cokes が出てこない。さらにその際 please をつけないからネイティブをさらにイライラさせるということだ。
 さて、確かに二羽以上の複数のアヒルについては「集団性」ということでいいだろうが、単数の場合はどう解釈すればいいのか、つまり「一羽のアヒル」と「アヒルが一羽」の違いである。これも私の主観だが、「一羽のアヒル」というと他の有象無象のアヒルから当該アヒルを区別しているというニュアンス、いわば当該アヒルが他の有象無象に対して自分のアイデンティティを確立しているニュアンスになる。「アヒルが一羽」だとそういう「このアヒル」というアイデンティティがあまり感じられず、有象無象の一員に過ぎない。実はこれが集団性の本質ではないだろうか。単数複数に関わりなく、当該人物(当該アヒル)対他者とを区別すれば集団なのである。そして既述する側が当該対象にこの集団性を持たせたいときには「一羽の」や「七人の」などの付加語形式を使う。

 それで思い出したが、ロシア語には普通の数詞(単純数詞、простые числительные)の他に集合数詞(собирательные числительные )というものがある。その名の如く複数の当該事象を一つのまとまりとして表す数詞、と説明されている(しかし集合数詞という名称がおかしい、という声もある。下記参照)。
Tabelle1-158
形としては一応10まであるが、9と10の集合数詞は事実上もう使われなくなっているそうだ。この集合数詞は単純数詞と語形変化の仕方が違う。全部見るのは面倒くさいので「3」と「5」の単純数詞と集合数詞の変化を比べると次のようになる。集合数詞と単純数詞はそもそも品詞そのものが違うことがみてとれるだろう。
Tabelle2-158
Tabelle3-158
数詞の被修飾語の名詞のほうは『65.主格と対格は特別扱い』『58.語学書は強姦魔』でものべたように、主格と対格では複数生格、その他の格では数詞と呼応する形が来る。
 日本語では数詞は語形は変わらずシンタクス上の位置が違ってくるが、ロシア語のほうは語そのものが違いシンタクス上の位置は変わらない。だから、というのもおかしいが使い方・意味合いも日本語の「アヒルが二羽」と「二羽のアヒル」と違い、なんとなく別のニュアンスなどというあいまいなものではなく使いどころが比較的きっちりと決まっている。例えば次のような場合は集合数詞を使わなければいけない。
1.ロシア語には形として単数形がなく複数形しかない名詞があるがそれらに2~4がついて主格か対格に立つとき。なぜなら2~4という単純数詞には単数生格(本当は双数生格、『58.語学書は強姦魔』参照)が来るのに、その「単数形」がないからである。

двое суток (主格はсутки で、複数形しかない)
two集合数詞 + 一昼夜・複数生格

трое ворот (ворота という複数形のみ)
three集合数詞 + 門・複数生格

четверо ножниц (同様ножницы という複数形のみ)
four集合数詞 + はさみ・複数生格

2.дети(「子供たち」、単数形はребёнок)、ребята(これもやはり「子供たち」、単数形はребёнокだがやや古語である)、люди(「人々」、単数形は человек)、лицо(「人物」)という名詞に2~4がついて主格か対格に立つとき。

двое детей
two集合数詞 + 子供たち・複数生格

трое людей
three集合数詞 +人々・複数生格

четверо незнакомых лиц
four集合数詞 + 見知らぬ・複数生格 + 人物・複数生格

3.数詞の被修飾語が人称代名詞である場合。

Нас было двое.
we.属格 + were + two集合数詞
我々は二人だった。


Он встретил их троих.
He + met + they. 属格 + tree.集合数詞
彼は彼ら3人に会った。



その他は基本的に単純数詞を使っていいことになるが、「も」も何もそもそも単純数詞の方がずっと活動範囲が広いうえに(複数形オンリーの名詞にしても、主格対格以外、また主格対格にしても5から上は単純数詞を使うのである)、集合数詞は事実上8までしかないのだがら、集合数詞を使う場面の方がむしろ例外だ。集合数詞、単純数詞の両方が使える場合、全くニュアンスの差がないわけではないらしいが、イサチェンコ(『58.語学書は強姦魔』『133.寸詰まりか水増しか』参照)によるとтри работника (3・単純数詞 + 労働者・単数生格)とтрое работников(3・集合数詞+ 労働者・複数生格)はどちらも「3人の労働者」(または労働者3人)という完全にシノニムで、трое などを集合数詞と名付けるのは誤解を招くとのことだ。歴史的には本来この形、例えば古スラブ語の dvojь、 trojь は distributive 分配的な数詞だったと言っている。distributive などと言われるとよくわからないがつまり collective 集合的の逆で、要するに対象をバラバラに勘定するという意味だ。チェコ語は今でもこの意味合いを踏襲しているそうだ。

 そうしてみると日本語の「アヒルが3匹」と「3匹のアヒル」の違いとロシア語の集合数詞、単純数詞の違いはそれこそ私がワケもなく思いついた以上のものではなく、構造的にも意味的にも歴史的にもあまり比較に値するものではなさそうだ。そもそも単数にはこの集合数詞が存在しない、という点で日本語とは大きく違っている。まあそもそも印欧語と日本語の構造を比べてみたって仕方がないと言われればそれまでだが。

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 マリア Maria という名前があるが、これをナワトル語で Malintzin という。後ろについた -tzin というのはいわば丁寧語の接尾辞で、日本語で言えば「お」だろうか。江戸時代に例えば「シマ」という名前の女性を「おシマさん」と呼んだようなものだ。-in は多分ナワトル語の音韻か形態素を整える働きだろうから、つまり Maria は Malia。要するにナワトル語は l と r の区別をしないのである。日本語やアイヌ語と同じだが、流音が一つしかない言語は別に珍しくはなく、東アジアの言語は韓国語から中国語からモンゴル語から皆そうだ。太平洋の向こう側ではナワトル語の他にケチュア語もこのタイプである。
 さらにナワトル語にはソナント以外には有声子音がない。b、d、g、z がないのである。ないというより無声子音と有声子音の音韻対立がないといったほうが正確だろう。ナワトル語には無気と帯気の対立もないから、「l と r の区別がない」と言う点ではお友達であった中国語、韓国語とは袂を分かつ。日本語には無気と帯気の区別がない点ではお友達だが、その代わりb、d、g、z などの有声子音を区別する。するはするがこれら有声音は本来の日本語には存在しなかったのではないかと言う言語学者は少なくない。これらの音は中国語の影響によって後から生じたというのである。それが証拠にb、d、g、z などの音は「ば・だ・が・ざ」というように元の文字「は・た・か・さ」に濁音を付加して表す。無声子音の方がデフォなのだ。だから日本語も昔はナワトル語とお友達だったのかもしれない。
 これらの「流音が一つ」、「無声と有声の対立がない」「無気と帯気の対立がない」という特徴を今に至るも保ち続けている言語はアイヌ語だ。それでふとナワトル語とアイヌ語はすごいお友達なのではないかと思った。スケールの大きな話だ。それだけに一掃アイヌ語が消滅寸前なのが残念でならない。
 ところがさらにナワトル語の入門書を読み進んで文法に行くと、両言語の類似点は「ふと」どころではなさそうなことがわかる。どちらもいわゆる抱合語 polysynthetic languages で、動詞の語幹を核にして人称表現、時表現などがベタベタ頭や尻にくっつき、動詞が肥大するのである。「いわゆる」と言ったのは、この抱合語という用語の意味が毎度のことながら言語学者によって少しずつ違うので、細かくこだわりだすと先に進めなくなるからだ。ここでは一般に把握されている意味での抱合語という大雑把な把握でお許し願いたい。
 前にもちょっと述べたが、ナワトル語は動詞に人称接頭辞がついて「語形変化」する。まずバレンツ価1,つまり主語だけを要求する ēhua(「出発する」)という自動詞を見てみたい。
Tabelle1-213
â という表記は母音の後ろに声門閉鎖音が続くという意味で(『200.繰り返しの文法 その1』参照)、複数形のマーカーである。接頭辞として付加される人称形態素だけとりだすと以下のようになることがわかる。3人称では単複共にゼロマーカーとなる。
Tabelle2-213
(i) と母音を括弧に入れて挿入したのは、動詞が子音で始まる場合は i が挿入されるからだ。ナワトル語は語頭には連続子音を許さないからである。例えば miqui(「死ぬ」)という動詞は次のようになる。
Tabelle3-213
二人称複数形に i がついていないのは mm という子音連続が語頭に立たないからだ。
次にバレンツ価2,主語と目的語を取る他動詞だが、主語を受け持つ接頭辞に目的語を表す接頭辞をつける。ということは主語マーカーと動詞との間にさらなる人称接頭辞が挟まってくることになる。今度はまず最初に人称形態素だけ取り出して表にしてみよう。
Tabelle4-213
主語と目的語が一致する場合は普通の人称接頭辞とは別の再帰接頭辞を使うので n(i)- +-nēch-、t(i)- + -mitz- などの組み合わせはあり得ない。3人称だけは「彼が彼を」と言う場合、主語の彼と目的語の彼は違う人物であり得るのでOKだ。itta(「見る」)という動詞で見ると:
Tabelle5-213
ここでは主語が単数の場合のみ示したが、複数主語の場合は上で見たように動詞の最後に声門閉鎖音が入るから、「彼らが彼を見る」は quittâ、「彼らが彼らを見る」は quimittâ。また「彼」は「彼女」でもあり得るのだが、面倒くさいので「彼」に統一した。
 では主語や目的語が代名詞でなく普通の名詞の場合はどうするのか。例えば「その男が死ぬ」などである。そういうときは動詞の外側に拡張子(?)として名詞を立てる。動詞の接頭辞と名詞とが呼応することになる。

ø-miqui in tlācatl
3.sg-die + the + man
その男が死ぬ

動詞の現在形は英語で言う現在進行形の意味にもなれるので、「その男が死んでいっている、死にそうだ」ともとれる。3人称の主語が単複共にゼロマーカーをとることは上で述べた。「その男たちが死ぬ」なら名詞と動詞が複数形(『200.繰り返しの文法 その1』参照)になる(太字)。

ø-miquî in tlācâ
3.pl-die + the + men
その男たちが死ぬ

自動詞なら拡張名詞が必要になるのはゼロマーカーの3人称のときだけだから、語順を除けば the man dies や the men die といった英語などと一見並行しているように見えるが、文構造の本質は全く異なる。他動詞では3人称の目的語が拡張名詞と接頭辞が呼応することになる(太字)。比較のためまず主語が接頭辞のみの一人称の例をみてみよう。

ni-qu-itta in calli
1.sg-3.sg-see + the + house
私が家を見る。

主語も目的語も3人称になると当然拡張名詞が二つになる。

Ø-qu-itta in cihuātl in calli
3.sg-3.sg-see + the + woman + the house
その女が家を見る。

基本語順は VSO なのがわかるが、目的語が不定名詞だと目的語が前に来てVOSになる。

Ø-qui-cua nacatl in cihuātl
3.sg-3.sg-see + meat + the + woman
その女が肉を食べる

さらにトピック化した名詞(主語でも目的語でも)は動詞の前に来たりするのでややこしいが、どちらの名詞も不定形だったり逆に双方定型だったりして意味があいまいになるそうなときは主語名詞が先行するのが普通だ。もっともどうしようもない場合もある。

Ø-qui-tlazòtla in pilli
3.sg-3.sg-love  + the + child

は「彼がその子を愛する」なのか「その子が彼を愛する」なのかわからない。文脈で判断するしかない。
 動詞接頭辞としてはこれらの人称代名詞のほかにも someone、something を表すものや再帰接頭辞、また方向を表現するものなどあって順番も決まっているのだがここでは省く。

 さて上で述べたようにアイヌ語も動詞に人称を表す接頭辞がつく。以下はちょっと資料が古いのだが、金田一京助、知里真志保両氏による。まず主語マーカーを見てみよう。上のナワトル語と比べてほしい。
Tabelle6-213
アイヌ語には雅語と口語の二つのパラダイムがあり、口語では一人称複数形に包含形と除外形の区別がある(『22.消された一人』参照)。日本語なら文語と口語の違いだろうが、文語、ファーガソンの言うHバリアントは必ずしも「書き言葉」とは限らない。文字を持たない言語にも古い形が口伝えで保存され、場所を限って使われ続けることがあるのだ。「口承の文語」というわけだが、いろいろな言語でその存在が確認されている。どちらにせよ形態素の形そのものがナワトル語とは全然違うので両言語間のいわゆる「親族関係」やらを云々することはできまい。だが、3人称はゼロマーカーという点が全く同じで感動する。次に目的語の接頭辞だが、目的語についても3人称がゼロマーカーになる点が上のナワトル語と異なる。
Tabelle7-213
まず主語、目的語の両方を持つ他動詞の構造を見てみよう。主語の接頭辞の次に目的語接頭辞が続き、最後の動詞語幹が来る。ナワトル語にそっくりだ(繰り返すが似ているのは構造だけで形態素そのものの形は全く似ていない)。kore(「与える」)という動詞で見ると:
Tabelle8-213
「彼が彼(ら)に与える」の形は資料にはなかったので私が再構築したものである。次に口語だが雅語と比べてイレギュラーな点がいくつかある。
Tabelle9-213
「私があなたに与える」は資料では確かにこの表のようになっていたのだが、e-kore の誤植かもしれない。事実 e-kore-ash という方言形があるそうだ。「彼が彼(ら)に与える」は上と同様私の勝手な判断である。大きく目を引く点は、主語が一人称で目的語が2人称の場合は一人称主語が脱落する。しかしここには出さなかったがその2人称目的語が尊敬形、-i- だと主語は脱落しない。この一人称は別の所でもおかしな挙動をし、例えば自動詞ではナワトル語と違って一人称主語マーカーが後置される。つまり接頭辞でなく接尾辞になるのだ。それで「入る」という動詞 ahun の雅語一人称単数「私が入る」は ahun-an。口語だと定式通りku-ahun である。ではこの一人称主語接尾辞は雅語だけの現象かと言うとそうではなく「私が笑う」は mina-an、nina が「笑う」だ。
 次に3人称の主語や目的語が普通の名詞だったらどうなるのか。アイヌ語も拡張子がつく。「私が酒を飲む」は:

sake a-ku
sake + 1.sg-drink

「あなたが猫を追う」は:

meko e-moshpa
cat + 2.sg-hunt

主語も目的語も3人称の場合は動詞が裸になる。

Seta meko noshpa
dog + cat + ø-ø-hunt
犬が猫を追う

基本的にはナワトル語と同じだ。ただアイヌ語は語順がナワトル語よりやや厳しいらしく、拡張子もSOVの一点張りらしい。
 さて上の「与える」という動詞の例だが、ちょっと待てと思うのではないだろうか。「与える」はバレンツ価が3,主語と間接目的語の他に「何を」、つまり直接目的語がいるからだ。残念ながら金田一氏の本にはそこの詳しい説明がなかったのでちょっとこちらで勝手にナワトル語から類推して考えてみよう。
 上で見たようにナワトル語の(アイヌ語も)人称接頭辞や名詞には格を表す形態素がない。だから対格目的語も与格目的語も要するに目的語、形の上での区別はないが「目的語を二つとる動詞」はある。ナワトル語文法には bitransitive (二重他動詞?)という言葉が使ってあるが、その代表が「与える」 maca だ。「私があなたにそれを与える」という場合、「私」という接頭辞が先頭、次に「あなた」が来て3番目に3人称単数の接頭辞が来るはずなのだが、目的語接頭辞は二つつくことはできないという規則があり、3番目に来るはずだった目的語3人称の接頭辞は削除される。事実上「私-あなた-動詞」という形になるわけだ。与えられたものが名詞である場合は拡張子がつく。例えば

Ni-mitz-maca in xōchitl
1.sg.-2.sg-give + the + flower(s)

は「私があなたに花をあげる」という意味になる。「花」という名詞(太字)は動詞内に呼応する要素を持たない。また花の受け取り手が「その女性」である場合は本来「私-彼女-それ-動詞」だが、「私-彼女-動詞」になり、拡張子が二つつく。

Ni-c-maca in cihuātl in xōchitl
1.sg.-3.sg-give + the + woman + the + flower(s)

「その女性」だけが動詞内に呼応要素を持ち、「花」は相変わらず宙に浮く。また3人称が主語のときは主語がゼロマーカーだから、目的語接頭辞が一つつくだけ。

Qui-maca in Pedro cōzcatl in cihuātl
ø-3.sg-give + the + Pedro + jewellery + the + woman
ペドロがその女性に宝石をあげる。

拡張子が3つ付加されているが、「宝石」は不定形だから「その女性」の前に来る。
 実は3人称の目的語が複数だった場合は複数マーカーだけ残ったりするのだが、もうこれで十分だと思うので(すでにゲップが出ている)それは無視し、基本の「2番目の目的語接頭辞は削除される」という原則にのっとってアイヌ語の「与える」kore の使い方を類推してみよう(アイヌ語ではそもそも3人称は常にゼロマーキングだが)。主語が一人称単数だと「私があなたに酒をあげる」は口語ではこうなるのではないだろうか。

Sake echi-kore

前述のように一人称単数主語は口語ではイレギュラーだが、雅語だと接頭辞が二つ、拡張子はつくが動詞内に呼応する要素がないという原則通りの形になるだろう。

sake a-e-kore

「あなたが私に酒をくれる」ならこうなりそうだ。

sake e-en-kore

問題は拡張子が二つ以上重なったらどうなるかだ。例えば「パナンペが私に酒をくれる」「パナンペが美智子に酒をあげる」はそれぞれ

Panampe sake en-kore
Panampe Michiko sake kore

とでも言うのだろうか。知っている人がいたら教えてほしい。

 前に松本克己教授が日本語、アイヌ語、さらに太平洋の向こう側のナワトル語、ケチュア語も含めた環太平洋の諸言語には一定のまとまりがあり、これによって日本語とアルタイ語は明確に袂を分かつと主張していたが、こういうのをみるとなるほどと思う。

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