アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:語学の教科書

 英語かドイツ語が母語の人が日本語を勉強していて、「今日は寒くなる」とか「部屋がきれいになりました」と言えずに「今日は寒いなるでしょう」、「部屋がきれいなりました」あるいは「部屋がきれいだなりました」とやっているのを見たことがないだろうか。それぞれ heute wird kalt 、das Zimmer wurde sauber あるいは it will be cold today、the room became clean といった母語での言い方が干渉したのであろう。ドイツ語・英語では「~になる」という文ではコピュラ構造の場合と同じく、述部に形容詞の辞書形がそのまま来るからだ。ウルサイことを言えば例えば「寒い」という形容詞は kalt あるいは cold と等価ではなく、be cold とか kalt sein とかコピュラ付きでいうべきだろう。が一方日本語にはコピュラという動詞がない。「です」だろ「だ」だろは動詞ではなくセンテンスの当該部分にくっ付いてそれがpredicate nounまたはcomplement(ドイツ語でPrädikatsnomen)であることを示す単なるマーカーである。そのPräkatsnomenは格に関しては基本的に中立だから、「です」がつくと格マーカーが削除されることが多い。特に主格マーカーは必ず削除される。「山田さんは先生です」であって絶対「山田さんは先生がです」にはならない。しかしドイツ語のクセを出してこの「です」をコピュラとみなしてしまうと自動的にPräkatsnomenを主格と解釈してしまうことになる。現にドイツ語母語者には「山田さんは今アメリカです」という極簡単なセンテンスが理解できない者がいる。「アメリカ」が処格であることがわからないからだ。ついでに言えば主題の「は」も格は中立だから、主格グセがつくと「その本は昨日読みました」「山田さんは先週お嬢さんに赤ちゃんが生まれました」がわからない。

 話を戻すが、そこで「なる」と「です」では全くセンテンスの構造が違い、前者は動詞、後者はマーカーで、動詞「なる」のほうはその補語に形容詞がそのまま来ないで副詞化した形で置かれる、と説明してもドイツ語母語者相手だとまだ十分でないことがある。英語だと簡単だ。日本語では it became beautiful でなくit became beautifullyというんですよと言えばいいが、ドイツ語は形容詞がそのまま副詞になるからだ。Sie ist schön のschön は形容詞で「彼女は美しい」だが、Sie singt schön は「彼女は美しく歌う」でschönが副詞なのに形は全く同じである。gut(形)→ gutØ(副)、schön(形) → schönØ(副)といういわばゼロ付加だ。対して英語には -ly という目に見えるマーカーがつく(beautiful → beautifully )。英語ではさらにゼロマーカーも使うし(cold → coldØ)、語そのものを変換してしまうことがある(good → well)が、ともかく -ly という副詞形成の形態素が存在しているからいい。ドイツ語のように一つの形がいわゆる形容詞と副詞の2つの品詞にまたがっていると、頭ではわかっても気を抜くとすぐ区別が怪しくなる。
 そもそも副詞というカテゴリーに入れられているメンバーは形容詞崩れあり前置詞起源のものあり種々雑多で、副詞というのを一つの独立した品詞とみなしていいのかという議論さえあるくらいだ。「つまり動詞でも名詞でも形容詞でもない単語が消去法で副詞として扱われるのだ」と主張する言語学者も少なくないそうだ。カルツェフスキーあたりもそんなことを言っていたらしい。特に形容詞との境界線があいまいで、ヘルマン・パウルでさえこんなことを言っている;

Die formelle Scheidung des Adjektivums vom dem Adv. beruht auf der Flexionsfähigkeit des ersteren und der dadurch ermöglichten Kongruenz mit dem Subst. Wo dies formelle Kriterium entfällt, da kann auch die Scheidung  von dem Sprachgefühl nicht mehr strikt aufrecht erhalten werden. ... Wir haben eigentlich kein Recht mehr gut in Sätzen wie er ist gut gekleidet, er spricht gut und gut in Sätzen er ist gut, man hält ihn für gut einander als Adv. und Adj. gegenüberzustellen.

形容詞は副詞と形式上分離させられるが、それは前者が語形変化して名詞と呼応できるという点に基づいている。この基準が満たされなかったりすると言語感覚からしてこの二つをきっちり分ける必要性があまり感じられなくなる。… 本来 er ist gut gekleidet (「彼は良く着飾っている」)、er spricht gut (「彼は上手く話す」)の gut とer ist gut(「彼はいい(人だ)」)、man hält ihn für gut(「皆彼をいい(人だ)と思っている」)という文の gut を副詞対形容詞として対立させて考えなければならない理由はないのだ。

現代ドイツ語文法の権威Dudenでは gut は品詞としては形容詞だが、形容詞には付加語的用法(attributiver Gebrauch)、述語的用法(prädikativer Gebrauch)、副詞的用法(adverbialer Gebrauch)があるとしている。つまり品詞という言語範疇そのものとその機能を分けて考えているわけで、近代言語学的というか説明力が強い。このように機能と形を観念的に区別すると例えば副詞の形容詞的用法というのも成り立つわけで、die Zeitung heute ist interessantという言い回しの副詞 heute がまさにそれであろう。heute は品詞としては副詞だが、ここでは動詞でなく名詞(それともDPとか何とか呼ぶべきか)の die Zeitung(「新聞」)にかかっており、この文は「今日の新聞は面白い」である。
 言い換えると品詞そのものが移行するのでなく機能が移行するのである。上述の見方だとgut(形)→ gut(副)はゼロ付加による品詞の転換だが、機能と形を分けるこの考えかただとer singt gut (「彼は上手に歌う」)の gut は形容詞の「転用」と見なせる。日本語ではこれが形容詞の活用として文法化されているのである(いい → よく、寒い → 寒く、きれい → きれいに)。

 ロシア語でも形容詞を副詞にするのは一定の形態素の付加による「造語」あるいは「派生」とみなされているようだが、転用、さらには活用と接触する点があって面白い。
 文法書をみると形容詞の項に「性質を表す形容詞(Qualitätsadjektiveまたはqualitative Adjektive)からは語尾を -o、-e にすることによって規則的に性質を表す副詞(qualitative Adverbienまたはdeterminative Adverbien)が作られる」とあるし、反対側の副詞の項には「形容詞の語幹から性質を表す副詞を形成するのはロシア語でもドイツ語でもさかんに行なわれている方法である。」と同じことを言っている。詳しくいうと:

1.語幹が硬音子音(非口蓋化音)で終わっている性質形容詞 качественные прилагательные には –о、軟音(口蓋化音)なら –е をつける。
2.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっている性質形容詞語幹には -и をつける。
3.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっていても関係形容詞относительные прилагательныеならさらに前に по- をつけ、後ろの -и とで挟む。性質形容詞にもこの型で副詞をつくるものがある。
4.形容詞の女性対格形に в-、за- の前置詞をつける。
5.前置詞に古い短形活用のパラダイムを継続させる。с-、из-、до-+短形生格、 на-、за-+短形対格、по-+短形与格、в-、на-+短形前置詞格を後続させる。

それぞれ次のような例が挙げられる。左に示した形容詞は男性単数主格形、下線部が語幹である。
1.
быстрый → быстро(速い → 速く)、красивый → красиво(美しい → 美しく)
односторонний → односторонне(一面的な → 一面的に)、
крайний → крайне(極端な → 極端に)

2.
творческий → творчески(創造的な → 創造的に)、
дружеский → дружески(親しげな → 親しげに)

3.
русский → по-русски(ロシアの → ロシア風に・ロシア語で)

4.
крутой → вкрутую(堅い → 堅く)(卵の茹で方に関してのみ)、
частый → зачастую(頻繁な → 頻繁に)(частоという1のパターンの造語も可)

5.
новый → снова(新しい → 新しく・もう一度始めから)、
далёкий → издалека(遠い → 遠くから)、сытый → досыта(満腹な → 満腹に)、
скорый → наскоро(速やかな → 速やかに)、 новый → заново(新しい → 新しく)、
пустой → попусту(空しい・無駄な → 空しく・無駄に)、
далёкий → вдалеке(遠い → 遠くへ)、 лёгкий → налегке(軽装の → 軽装で)

明確に「造語」と言い切れる英語と違って、ロシア語の形 → 副変換はむしろ文法の範疇に入ることが一見して明らかだ:前綴りとしてあげられている по- や с- などはれっきとした前置詞、つまり独立単語だし、特に4と5で顕著だがその前置詞がきちんと格支配までしている。しかも前置詞が本来の意味を保持している。だから同じдалёкий(「遠い」)という形容詞に из(「~から」)がつくと「遠くから」、в(「~へ」)がつくと「遠くへ」になるのだ。さらにこの形容詞には当然1のパターンのдалекоという副詞もありこれが「遠いところにある」。だからこれらは品詞としての副詞というよりむしろシンタクス上の単位、れっきとした前置詞句PPである。
 では1と2はどうか。быстро、 крайнеなど -o、-e で終わる形は形容詞の活用形の一つ短形活用の単数中性形と同じだ。実は私は今までこの быстрый → быстро タイプの副詞化は形容詞の短形中性単数が「転用」されたのものだと思っていた。ところが文法書ではこれが「造語」扱いされているのでむしろ驚いたのである。
 ロシア語の形容詞の活用には長形と短形の二つのパラダイムがあり、上でも述べたように形容詞の代表形として挙げてあるのは長形活用の男性単数主格だが、この長形活用形は形容詞一つにつき単数男性、単数中性、単数女性、複数形の4つにそれぞれ主・生・与・対・造・前置の6格あるから理論的には4×6=24形を区別する。「理論的には」と書いたのは複数生格と複数前置格など、同形のものがあるので実際には24より少なくなるからだ。なお、20世紀の初頭までに書かれたロシア語には複数男性・中性と複数女性形を区別しているものがある。前者は語尾が -ые、後者は -ыя となる。例えばкрасивый(「美しい」、男性単数)の主格形は красивая(女性単数)、красивое(中性単数)、красивые(複数)の4つだが、一方男性単数ではкрасивый(主格)、красивого(生格)、красивому(与格)、красивый/красивого(対格)、красивым(造格)、красивом(前置格)という6つの格変化形があるが、中性単数と男性単数は主格と対格以外同形である。上の4で出してある形は女性単数対格である。
 対して短形活用のほうは現在では主格形しかないし、形容詞によっては短形を作らないものがある。「美しい」の短形単数男性はкрасив、単数女性がкрасива、単数中性красиво、複数形がкрасивы。語幹が口蓋化音で終わると女性、中性、複数形がそれぞれ-я、-е、-и で終わる。しかし上で「現在では」と但し書きをつけたように、昔はこの短形が長形と同じくフルバージョンで活用し、名詞と全く同じ活用語尾をとった。上の5を見てもらいたい。形容詞が短形中性単数形の格変化形を完全に供えているのがわかる。1の -o、-e も中性単数の活用語尾ではないのか。英語の -ly とは違って造語・派生形態素ではなく活用語尾、形 → 副の転換は形容詞の一つの活用形をシステマティックに転用したもの、という気がしてならない。さらにこれらは中性単数主格なのではなく実は対格なのではないかと私は疑っている。
 問題は2、3のタイプ、-ский などで終わる形容詞で、これらに -и がつくのはどうしてかちょっと調べてみたがわからなかった。落ちこぼれロシア語学習者で申し訳ないが、落ちこぼれなりに考えてみると、このタイプの形容詞は名詞から派生してきたもの、つまり形容詞としては新参者が多い。だから5と違って形容詞が中性名詞的に働くことが出来ず、付加語としての陰を引きずっているのかもしれない。言い換えると昔は後ろに「様式」とか「やり方」を表す名詞がくっついていたのかもしれないとも思ったがこれがあまり上手く行かない:現在は「やり方」はобразという男性名詞で、形容詞を無理やり短形パラダイムにすると「創造的に」はпо творческу образу となるはずで -и  が出てこないからだ。では昔はобраз という意味の女性名詞があったのかと解釈しても、与格支配の по とは合わない。では少なくとも2は複数対格かあるいは女性単数生格か複数対格起源だとして逃げようとしても3の例が残るので逃げ切れない。やっぱり -и となる理由が考えつかないまま堂々巡りである。
 やはり素直に-o、-e、-и は派生の形態素とみるしかないのか。

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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 ロマニ語話者が言語調査をしに来た言語学者に拒否的な態度をとることがあると『50.ヨーロッパ最大の少数言語』で述べたが、アイヌ語の話者にも日本人の言語学者に対してそういう態度をとる人がいたらしい。当時発行されていた『月刊言語』という雑誌にアイヌの人がそういう趣旨の投稿をしていたのを実際見たし、言語学者側の服部四郎氏もアイヌ語をフィールドワークした際、言語学者たちがアイヌ語の調査をするのは本を出したり講演したりしてお金を儲けるためだと誤解する人がいなくはなかった、と述べている。月刊言語の投稿の執筆者も「ほとんどは学者先生の富と名声を築くために行われた作業…モノでも扱うような見下げた態度で」とのべている。しかし残念ながらこれは誤解である。なぜなら言語学者が本を書いたりたまに講演などしても全くお金など儲からないからだ。下手をすると出版費用は学者持ち、学会での講演だってむしろするほうが参加費や会費を払うものなのだ。そもそも言語学という分野そのものがマイナーであって、そんな分野で本など出しても金にも話題にもならない。1980年代にシュメール語が能格言語だという世界級の発見がなされた時のマスコミの冷たさをみてもわかる(『51.無視された大発見』参照)。構造主義の考え方にしても人類学者が使いだしてからやっと世間の人たちにも広がったが、その元の元の大元であるトゥルベツコイやヤコブソンの言語学・音韻論などはほとんど無視されている。普通の頭を持っている人は金や名声が欲しかったら絶対言語学などやらない、経済経営学かIT工学でも専攻するだろう。
 非母語者による言語記述を母語者が見るとある種の違和感を感ずることは確かにある。それで上述のアイヌの人も別箇所でその記述は「水分も血液も無くなった死体を解剖するような、血も涙も無い干涸びた学説ばかり」と言いたくなったのだろうが、これもある意味では誤解で、まさにその「違和感」が非母語者による言語記述のレゾン・デートルなのである。母語者が無意識にやっていることを可視化されると誰でも「えっ?」と思うからだ。あまりにも無意識にやっていたので母語者が見落としていること、また逆に規範文法に目をくらまされて見えないでいた言語事実も非母語者は見落とさないからだ。「日本語は外から見るとこういう言語である」、それを知る必要があるのだ。むしろ「干涸びた」無味乾燥な記述でなければいけないのである。ラテン語文法を核にして日本語を記述したロドリゲスの日本語文典などいまだに十分読むに耐えるのはそのためだ。

 しかし反面、ロマニ語やアイヌ語の話者の気持ちはよくわかる。言語学でなく語学のほうでそういう感じをもたされることが少なくないからだ。一言でいうと「母語をダシにされる屈辱感」である。日本国内の留学生や外国人の会社員が日本語を勉強したり、言語学者が自分の研究のためにアイヌ語をやったりする場合はある意味自分の生活がかかっているわけだから本当に当該言語を覚えようと思っている。真剣さの程度はやや落ちるが大学の第二外国語もまあ単位、ことによると卒業がかかっているのでついていこうとする。それに対して日本国内にいるのでもなく、単位がかかっているわけでもなく、職業的興味もないのに単なるファッションで日本語をやりに来る人もいる。そういう人はそもそも真剣に語学の勉強などやる気がない。あくまで「お楽しみ」でしかないのだ。
 彼らはごく簡単な日本語のフレーズ、「こんにちは」とか「さようなら」とか「〇〇をください」などの決まり文句を口にして日本語をしゃべっている気になりたいだけなので、
ちょっとでも難い話、例えば文法のことになるともう勉強する気が失せる。「日本語にとても興味がある」といってやってきて、文字を見せられたら「これ、本当に覚えなければいけないんですか?」と驚き次から消えた人がいる。文字や文法ばかりではない、発音もそうだ。「もう〇年間日本語をやりました」というのに「はい」「今」「何」がどうしても言えずにいた人がいたから(それぞれ「灰」、「居間」、「ナニ」になってしまう)、ちょっと練習してもらったらむくれられた。むくれられるだけならまだいい方で、「どうしてそんな高低アクセントがあるんですか日本語は?!」とか「アクセントなんて方言差があるし、意味はコンテクストから判断できるからやらなくていいと前の先生に言われました!」とか食ってかかられたことさえある。やってできないのではない、最初から練習する気がないのだ。またやらせるほうだって怖い顔をして命令したわけではない。一生懸命身振りもまじえ、にこやかな顔をしてお願いしたのだ。
 こういう、ファッション語学者は実はまじめに勉強したい人の足も引っ張っている。少し前に村上春樹がエッセイで書いていた。スペイン語を勉強しにいったら、クラスのメンバーの一人がこのタイプの皆の邪魔にしかならない「たまんない男」で、そのために氏はそのクラスでのスペイン語学習そのものを放棄してしまった。講師にはまったく不満はなかったが、これでは勉強にならないと思ったそうだ。私の知り合いも夜の学校でヒンディー語を勉強していたところ、クラスの皆から「先生が厳しすぎる」と文句が出たそうだ。その先生は熱心な先生で宿題なども出し、次回にその宿題をベースにして授業を始めるので家できちんと勉強してこないとついていけない。そうしたら生徒側から「私たちは楽しみのために勉強しているんだ。宿題なんか出されたら全然楽しくない」と声があがったというから驚く。知り合いその人は「私は勉強したいから宿題はむしろ歓迎」といったら今度はクラスメートからガリ勉とかなんとか言われたという。お楽しみが欲しかったら語学の勉強などしないでビールでも飲みに行けばいいのに、と思うのだが。
 これを例えると、パンダが大好きな人がいて、ぬいぐるみを集めたり写真を見たりするが、生物としてのパンダの姿は全く見ようとしないようなものだ。エキゾチックでキャーカワイイという自分のイメージを膨らませたいだけで、真剣に生態を研究したり、時々自分の手を切りながら笹を集め糞の掃除をして飼育したりする、つまり本当にパンダとかかわる気は全くない。下手をすると本物のパンダはぬいぐるみほどモフモフしていないからイメージを壊されるといって邪魔にしかねない。つまりパンダ、あるいは日本語をダシにして精神的自慰、といって悪ければ自己陶酔しているだけである。教える側にも相手のエキゾシズム自慰に便乗しているような感じの人がたまにいる。動物園訪問者のイメージ通りに芸をしてやる悲しきパンダだ。『127.古い奴だとお思いでしょうが…』でも述べたように私がエキゾチックジャパンを不自然に強調して相手のぬいぐるみ願望に訴えるタイプの教科書が嫌いなのもそのためだ。自らをキャーカワイイ的見世物として提供する。これは自分の尊厳を自分で貶めていることにはならないのか。「需要に合わせる」ということなのだろうか。考え込んでしまう。

 さらにこのダシが自慰を超えてマウンティングの材料になることがある。自慰なら基本自分一人でやっているから怒るのは今更発音を直されたりしてその行為を邪魔されたときだけなので放っておけるのだが、マウンティングになると黙ってそばに立っているだけで巻き込まれる。「ワタシ日本語やっているのよ、できるのよ」という自慢話の聞き役をやらされるのだ。自慢を聞かされるのは全く日本語のできない人たちであることが多いが、時によるとネイティブまでがサンドバックにさせられることがある。経験したことはないだろうか、自称「すでに日本語をやったことがある」学習者が日本語の授業にやってくる、それはいいのだがその意図はさらに勉強を進めることではなくて周りの(初心者学習者に)「どうだ私はできるだろう」と見せびらかしたい、講師に「本当にお上手ですね」とほめてもらいたいことにあるのが露骨に感じ取れるタイプの学習者を。上で述べた人もひょっとしたら「あなたの日本語は完璧だ、よくできる」と言ってもらうつもりだったのがアテが外れてムッとしたのかもしれない。講師が日本語非母語者だったら、「あの先生は私より日本語ができない」とかなんとか人のせいにすることもできただろうが、さすがにネイティブ相手だとその論法が効かず、マウント願望が宙に浮いてしまったのか。こういうタイプは大抵次から来なくなる。生活も単位もかかっていないとやめるのも実に早い。
 マウンティングのさらなる発展形として「自分より当該言語が出来るネイティブを邪魔者扱い、敵視する」というのがある。もっともこれは日本の英語教師の帰国子女いじめなどにもみられる通り日本語学習者に限ったことではないが。以前にスペイン語のネイティブも、スペイン語学部を取り仕切っている非ネイティブの教授かなんかに煙たがられたという話をしていた。
 自慰にしてもマウンティングにしても対象がエキゾチックなマイナー言語である場合のほうが程度がはなはだしい。例えば世界言語の英語なら実際にできる人も多いし、できる基準も皆わかっているからさすがにやたらと「英語ができる」とか「英語のオベンキョしてるのよ」などと軽々しく自慢したりはできまい。すぐボロがでるからだ。マイナー言語だと誰もその基準を知らないのでホラを真に受けやすいのだ。「さようなら」が言えずに「ざよなーらー」と無茶苦茶な発音をしても周りの人は感心してくれるのである。中国人や韓国人には相当日本語ができても変に見せびらかす人が少ないのは東アジアでは日本語がエキゾチック言語などではないのと、東アジア人には本気で日本語をやりたい、つまり生活がかかっている人が多いからだろう。「お楽しみ」などではないのである。もちろん語学をダシにしての自慰・マウンティング行為は欧米人の専売特許ではない。上述の帰国子女いじめでもわかるように私も含めた日本人だっていくらもやっている。私自身も振り返ると相当チャライ態度で語学に臨んでいた。今考えると慙愧の念に耐えない。困ったものだ。

 確かに自慰・マウンティングのダシになるのは語学ばかりではない。芸術、スポーツ、あらゆる文化活動が材料にはなる。しかし言語と他の文化活動を比べると一つだけ決定的な違いがある。言語というのはその言語を母語とする民族がその精神活動、文化活動、歴史などをすべてそれをベースにして築き上げてきた、いわば民族の精神の支柱、民族の精神のエッセンスであるということだ。その言語を軽く扱い、いわんやエキゾシズム自慰のダシにする、ロクにできもしないのにできた顔をする、さらにネイティブを煙たがったりするのはその民族の精神活動全体、民族そのものを軽く見るようなものではないのか。
 いうまでもないが、学習者を一絡げに「当該言語を軽く見ている」などというつもりはない。第一にそういう、学習意欲より自慢や自己陶酔願望のほうが前面に出てきているような人は圧倒的少数だし、第二に彼らだって悪気でやっているのではないからだ。言語、特に非母語の学習は一生毎日やっても十分なところまで行き着かないだろう。彼らはその道の遠さが見えていないか、あるいは見ると目がくらむので敢えて見ようとしないかだ。誰だって空しくなるだろうから。だがそこで空しいのは学習者ばかりではない、教えるネイティブのほうだって空しいのである。いわゆる語学アドバイスの類で完全にスッポ抜けている視点がまさにこの母語者に対する配慮であろう。「間違いなど気にするな。発音など気に病むな。勇気をもって話しかけろ」とよく言うが、そういう言語で話しかけられた母語者、自分たちの精神の支柱である母語がボロボロにされているのを見せつけられる母語者のほうがどういう気持ちになるか全然考慮されていない。もちろん普通の人は外国人の言葉が少しくらい不完全でも露骨に嫌な顔などしないだろう。気前よく付き合ってくれるが、でもそれはあくまで向こうが我慢しているのだということをこちらは忘れてはいけない。また向こうが何回も聞き直してくると気を悪くしたりする人。「こっちだって一生懸命しゃべっているんだ。そのくらい聞き取ってくれてもいいだろう」とでも言いたいのか?当該言語を破壊しているのは自分なのに、そのうえ母語者をその破壊言語に付きあわせるつもりか?聞き直すのは向こうだって理解したいから聞き直すのである。つまり向こうはこちらに歩み寄っているのに怒ったりスネたりするのは母語者への思いやりがすっぽ抜けているからだ。
 私が今までに遭遇した「外国語の学び方」の類でその点に言及していたのはたった一つだった。英語の学び方についての本だったが、当地の大学に何年か留学していて、本人は楽に英語が話せるつもり、上級のつもりでおり、そろそろ他の日本人の英語にイチャモンをつけて「オレは他の日本人より英語ができる」と自己陶酔しだすレベルの中級話者は往々にして「自分は気持ちよくしゃべっているつもりでも、その英語が相手に苦痛を与えているということに全く気付いていないから始末が悪い」と指摘していた。実はこの「ネイティブに苦痛を与えるか与えないか」というのがヨーロッパ言語共通参照枠(『123.犬と電信柱』参照)のBレベルとCレベルの違いである。Bの後半になれば学生や研究者として論文を書いたりできるが、語学としてはあくまで中級である。
 もう一つ語学書ではないが、「ハウサ語を勉強する利点」という文脈で松下 周二という人が「利点は全くありません。片言のハウサをしゃべったくらいで胸襟を開いてくれるような甘いハウサは一人もいないでしょう」とニベもないことを言っていた。そういえば、欧米ではあまり見かけないが日本ではちょっとでも日本語を話すと「まあお上手ですね」などとほめられることが多い。私はこの言葉の裏には「さあ褒めてあげましたよ。もう気が済んだでしょう?だからもう私たちの大切な母語をそうやってブロークンに千切って聞かせるのやめてくれませんか?」という母語者のホンネ、ある意味では必死の懇願が隠れているような気がしてならない。

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 日本語では名詞の格を印欧諸語のような語形変化でなく助詞を後置して表す。この「助詞」という言葉だが、こちらでは普通「不変化詞」Partikelと呼んでいる。何度か「後置詞」Postpositionと呼んでいるのも見た。その種々の不変化詞の中で文法格を表すものを学校文法では格助詞というが、私はこれを格マーカーと言っている。
 日本語にはいくつ格があるのかとこちらでは頻繁に聞かれるが、正直返事に困る。はっきりした語形変化のパラダイムがなく格そのものの観念がユルいし、一つの助詞、例えば「に」など(『140.格融合』参照)、複数の格を担っているものがあったりするので、見る人によって格の数が違ってくるからだ。それでも「人によって違います」では答えにならないので私個人はドイツ人には一応日本語には次のような13の格があると説明している。
Tabelle152
「山田さんは鈴木さんより頭がいい」という場合の「より」は果たして「格」といっていいのがどうかやや不安な気もする。これは後述するように、名詞句で使うことができない上限定格の添加も許さない。だから括弧に入れておいた。
 最初にも述べたようにこれらの不変化詞は日本語でも助詞と呼ばれているのだから、日本語側でもこれらが当該名詞のセンテンス内でのシンタクス上の位置を表す機能を持っている(つまり格を表す)と把握されているわけで、私の説明の仕方もそれほどムチャクチャではなかろう。しかしこれらの助詞をじいっとみてみると、当該名詞の格を表すという基本的は働きそのものはいっしょだが、助詞自身のシンタクス上の現れ方によって大きく3つのグループに分類できることがわかる。「が、を、に」と「へ、から、で、と、まで」と「の」の3グループだ。(「より」は観察から除外)。
 まず第一グループ「が、に、を」と第二「へ、から、で、と、まで」はセンテンスの直接構成要素の名詞にしか付加できない、言い換えると当該名詞は動詞の直接の支配下でないといけない。ドイツ語や英語の前置詞と大きく違う点である。ドイツ語のin、an、 bei、nach、mit、英語の from、withなどの前置詞は動詞句VP内でも名詞句NP内でも使うことができる。

VP内
Meine Bekannte wohnt in Heidelberg.
my + acquaintance + is living + in + Heidelberg 
NP 内
meine Bekannte in Heidelberg
my + acquaintance + in Heidelberg

VP内
Er arbeitet bei Nintendo.                        
he + is working + at + Nintendo
NP 内
Angestellter bei Nintendo           
an employee + at + Nintendo
NP 内
die Arbeit bei Nintendo                    
the + work + at + Nintendo

VP内
Sie fährt nach Moskau.
she + is going to drive + to + Moscow
NP 内
der Weg nach Moskau
the + way + to + Moscow

VP内:My Friend came from Germany.
NP内:my friend from Germany               

VP内:I discussed the problem with Mr. Yamada.   
NP内:a discussion with Mr. Yamada                 

対応する日本語の構造では格助詞が名詞句NP内では使えない。動詞句VP内のみである。

VP内:私の知り合いはハイデルベルク住んでいる。
NP 内:*ハイデルベルク知り合い          

VP内:彼は任天堂働いている。
NP内:*任天堂社員
NP 内:*任天堂仕事

VP内:彼女はモスクワ行く。
NP 内:*モスクワ

VP内:私の友達はドイツから来た。
NP内:*ドイツから友だち

VP内:山田さんその問題について議論した。
NP内:*山田さん議論

*のついている構造はOKじゃないかと思う人がいるかもしれないが、それは当該構造を名詞句ではなくて省略文として解釈しているからである。そのことはちょっとつつくと見えてくる。例えば

任天堂で仕事は楽しかった。
任天堂で仕事はプログラミングだった。

を比べてみると、最初の文では

任天堂で仕事(をするの)は楽しかった。

と動詞が省略されているのがわかる。つまり「任天堂で」は名詞の「仕事」ではなく省略された動詞の「する」にかかっているから名詞句内ではないのだ。2番目の文もそう。「任天堂で」は「仕事」でなく「プログラミングだった」という述部にかかると解釈しない限り非文である。さらに

ドイツから友だちは先週のことでした。

という文は私の感覚ではおおまけにまけてギリチョンでOKだが(これを許容しない人も多かろう)、それは「ドイツから友だちが来たのは先週のことでした」という省略文解釈がギリチョンでできるからで、

*ドイツから友だちはシュミットさんといいます。

はオマケのしようがない非文である。さらに以下のセンテンスもオマケがしにくい。

モスクワへ道は遠い。
山田さんと議論はその問題についてだった。

前者はそれでもまだマシで上記の任天堂同様「モスクワへ」は「道が遠い」という述部全体にかかっているという解釈が成り立つが、後者はその解釈が成り立たないので非文度がアップする。
 このように日本語では「が、に、を」と「へ、から、で、と、まで」といった格マーカーは名詞句内では使えない。それではどうするのかというと第三のグループ(「グループ」と言ってもメンバーは一人しかいないが)の限定格マーカー「の」を付加するのだ。そうするとあら不思議(でもなんでもないが)上では非文だった構造が許容できるようになる。

任天堂で仕事はプログラミングだった。
ドイツから友だちはシュミットさんといいます。
モスクワへ道は遠い。
山田さんと議論はその問題についてだった。

だから助詞の「の」は単に属格というより連体格とか限定格とかいうべきだと思う。この「の」は常に名詞句NP内にしか現れず、センテンス、あるいは動詞句VP、またはCPとかという節で使うことができないし、他の格マーカーとの共存できる。使われるセンテンス内の位置が他のマーカーとはっきり異なっているのだ。その際私の感覚では

任天堂での社員

という名詞句は「の」がついているのに許容できないが、実はこれが最初の私が「に」と「で」を一括りに処格としないでそれぞれExistentiell-Lokativ(存在処格)とAktional-Lokativ(動作処格)とに分けた理由である。「に」は「アメリカにいる」とか「アメリカに住む」とかいうように、場所そのものが主体で、動詞は「いる」とか「ある」とか「住む」とか意味の薄いものである。「で」は「アメリカで働く」とか「図書館で本を読む」とか動詞がはっきりした「活動」を表し、処格が意味的にも完全に動詞の支配下にある場合に使われる。畢竟「AでのB」という構造ではBが何らかの活動を表す名詞でないとおかしい。「社員」は活動でなく人であるからいくら「の」をつけてシンタクス的にはNP構造にしても「で」の意味と被修飾語の「社員」が不適合だからはじかれるのである。他方「任天堂での仕事」は、「仕事」が活動を表すからOKとなる。

 さてNP内では使えないというのは第一グループ「が、に、を」と第二「へ、から、で、と、まで」に共通の性質だが、第二グループが「の」と共存できるのに第一グループの不変化詞は当該名詞句内でダブル非変化詞を許さないという大きな違いがある。「の」が付くと自身は削除されるのだ。

*アメリカの旅行は楽しかった。
アメリカの旅行は楽しかった。

*田中さんのお土産は日本で買ったパソコンだ。
田中さんのお土産は日本で買ったパソコンだ。

*映画の鑑賞は私の趣味だ。
映画の鑑賞は私の趣味だ。

*高橋さんの批判は辛らつだった。
高橋さんの批判は辛らつだった。

このうち「に」については与格、方向格は「へ」、奪格は「から」でそれぞれ代用できる。「へ」も「から」も「の」と両立するから名詞句内での両名詞のシンタクス関係または意味関係を表すことができる。

アメリカへの旅行は楽しかった。
田中さんへのお土産は日本で買ったパソコンだ。
モハメド・アリからのパンチは強烈だった。
(「モハメド・アリにパンチを食らった」と比較)

しかし存在処格、主格、対格の区別は表現しわけられない。「映画の鑑賞」ならまあ「映画」が対格だなとわかるが「高橋さんの批判」となると高橋さんが批判したのかそれともされたのか、つまり主格なのか対格なのかはどうやっても表すことができない。意味に頼るしかないのだ。
 この、二つの名詞からなる名詞句で修飾するほうがされるほうの主格なのか対格なのかというのはドイツ語でもよくわからないことがある。それについて個人的な思い出があるのだが、『85.怖い先生』で述べたドストエフスキーの『悪霊』のゼミの期末レポートで私は Mord Šatovs (「シャートフの殺人」)と書いた。小説ではシャートフという人が殺されるのである。そしたら教授が私のレポートについて批評してくれた際、これではシャートフが人を殺したことになってしまうから Mord an Šatov(「シャートフへの殺人」)か Ermordung Šatovs(「シャートフの殺害」)と書かないといけないと教えてくれた。提出前にネイティブチェックを通してはいたが、そのネイティブは『悪霊』を読んでいなかったので誰が被害者なのか知らず、これにOKを出していたのであった。
 逆に、日本語では単純に「AのB」という構造になっているのでそれ以上深くAとBとの意味関係について考えずにいたところ外国語に訳された形を見て初めて両者の格構造に思いが行く、ということもあった。安倍公房の小説『砂の女』のタイトルがロシア語で Женщина в песках となっていたのである。直訳すると the/a woman in sands、英語タイトルでは the woman in the dunes で、存在処格の「に」が削除された名詞句である。

 まあどこの言語でも名詞句内の名詞の関係(『150.二つの名詞』も参照)には苦労するようだが、とにかく私はこうやって日本語の格マーカーを3つのグループに分けて説明している。

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 実は私は黒澤明の映画で、TVやリバイバルでなく劇場公開時に見たのは『デルス・ウザーラ』だけである。黒澤の映画は世界的に有名だが、黒澤以前にもソ連でアルメニア人の監督アガシー・ババヤンБабаян, Агаси が1961年に一度映画化している。原作は帝政ロシアの軍人ウラジーミル・アルセーニエフ(1872-19230)の探検記 По Уссурийскому краю(「ウスリー地方探検記」、1921)と Дерсу Узала(「デルス・ウザーラ」、1923)で、ババヤンの方は知らないが黒澤はこの両方を参照している。探検自体は出版よりずっと早い時期、1906年から始まっていて、原作ではデルスは「ゴリド人」と呼ばれている。現在で言うナーナイ人だが、スィソーエフ Сысоев, Всеволод (1911-2011) というハバロフスクの作家はこれに疑問を持ち、デルスはナーナイ人ではなくウデへ人のはずだ、と主張したそうだ。まずナーナイ人は魚をとって定住している民族で、獣を追って森のなかを歩き回ったりしない、さらにデルスがアルセーニエフに教えたという言葉はナーナイ語でなくウデへ語だというのである。しかし、ウデへ人とナーナイ人は言語も民族も非常に近く、アルセーニエフの資料からどちらかにキッパリ決めるのは難しいそうだ。デルスはゴリド人(ナーナイ人)ということでいいのではなかろうか。

ババヤンの『デルス・ウザーラ』のアルセーニエフとデルス。https://dibit.ru/p/films/1628から。
1126-3
1126-4
アルセーニエフの原作(=本物)のデルス。ババヤンのデルスの容貌のほうが黒澤のよりむしろ現実に近い。
ウィキペディアから。
Dersuuzala

 そのデルスの話す言葉、ナーナイ語だが幸いトゥングース諸語の一つである。なぜ「幸い」なのかというとトゥングース諸語はさすが大言語の満州語を要するだけあって、古くからロシア人や中国人の興味を引き、比較的研究が進んでいるからだ。研究ばかりではない、文字や書き言葉を発達させ、歴史的な資料も豊富な満州語は文化語としても中国語と並んでかの地の文化生活をひっぱっていた。ソ連の論文でトゥングース・満州諸語 тунгусо-маньчжурские языки と呼んでいるのを見かけたが、いかに満州語の重みが高いかわかる。それともこの名称で「満州語は中国の、トゥングース語はソ連の領域」という政治的分割でも暗示されているのだろうか。まあそれもありうる(下記参照)。
 ナーナイ語の話者はウスリー江沿岸(アルセーニエフが探検した地域だ)と、あとアムール川の周りにもいる。ソ連(ロシア)側と中国側合わせてナーナイ人の人口は1万人強ということだが、この数字があまり正確でない上にロマニ語と同じく民族に属してはいてもナーナイ語を話せない人も多く(『154.そして誰もいなくなった』参照)、言葉そのものの話者はわずか1000人から2000人くらいという報告もある。しかも全員がロシア語あるいは中国語とのバイリンガルで、日常生活に使っているのはむしろそちらの方であり、ナーナイ語を完全に流暢に話せるのは皆50から60歳以上だそうだ。とにかく非常な危機言語である。

 ナーナイ語を文字化する試みはすでに19世紀後半に正教の教会が行っている。布教のためだろう。1928年にはロシア語とラテン語アルファベットを用いた正書法が考案されたが、これが「統一北方アルファベット」Единый северный алфавит(ЕСА)の土台となった。「統一北方アルファベット」というのはソ連国内の北方少数民族の言語を共通のアルファベットで記述し、書き言葉化を推進するため考案された文字体系である。ラテン文字が基本になっている。どうもあまり普及はしなかったらしく、1933年ごろに改良されたЕСАでナーナイ語は再文字化されたりはしたのだが、1930年代後半にはナーナイ側のイニシアチブによりまたロシア文字をもとにしたナーナイ正書法になってしまったそうだ。確かに私が1980年代で見たナーナイ語の出版物でも皆ラテン文字でなくキリル文字が使ってあった。

1941年出版のナーナイ語で書かれた物語。キリル文字が使用されている。
https://e-lib.nsu.ru/reader/bookView.html?params=UmVzb3VyY2UtNjk0NQ/MDAwMDEから。

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内表紙はナーナイ語とロシア語併記。
nanai2-bearbeitet

 正書法と同時に言語の研究そのものも進められた。ロシア・ソ連で研究論文もたくさん出ている。よく引用されるのが1959年に出たアヴローリン Аврорин, Валентин Александрович による文法書で、ナーナイ語関係の論文には頻繁にこの本が参考文献に掲げてある。言語的には上述のように満州語と近いのに、満州語は中国で、ナーナイ語はロシア・ソ連でとそれぞれ研究地が割れてしまっている感じなのは残念だが政治的には仕方のないことなのだろうか。とにかくちょっとナーナイ語と他のトゥングース語との「近さ」を見てみよう。トゥングース諸語はいわゆる膠着語で名詞の後ろに格マーカーがつく。日本語の「てにをは」と同じだ。格が語形変化のパラダイム自体にはなっていないわけだから格の数も学者によってばらつきが出るが、アヴローリンは主格、対格、具格、与格、処格、向格、奪格を区別している。偶然手元にあった1983年の『月刊言語』にエウェンキ語、ウイルタ語、満州語の資料が載っているので比べてみよう。ナーナイ語だけ単語が違っていて申し訳ない。
Tabelle1N
エウェンキ、ウイルタ、満州語のmooは「木」という意味である。ナーナイ語の ogda と giol はそれぞれ「ボート」と「オール」。キリル文字をラテン文字に直しておいた。格の数にも違いがあり、満州語には処格、向格がない。その代わり属格がある(ここには出していない)。エウェンキ、ウイルタ語にはさらにたくさんの格があるが(例えばウイルタ語には共格がある)、ここではナーナイ語にある格だけ比較した。それでも相似性は一目瞭然だ。主格は全言語でゼロマーカーとなっており、対格マーカーのそれぞれの-wa、-woo、-bə、 -wa 始め与格、処格など形態素がそっくりだ。またナーナイ語も含めたトゥングース語には母音調和、つまり母音間の共起制限があるため、例えば対格マーカーの-wa は単語によっては -we、与格の -du は -do、処格の -la は -lo で現れる。
 さらに上の「活用表」はいわば「単純系」で、これら格語尾の後ろにさらに人称語尾が付くことがあるそうだ。エウェンキ語では一人称単数-w、二人称単数 -s、三人称単数 -n、二人称複数 -sun、三人称複数 -tin、ウイルタ語では一人称単数 -bi、二人称単数 -si、三人称単数 -ni、二人称複数 -su、三人称複数 -či、満州語にはこの現象がないとのことだ。これを頭に置いてアヴローリンの挙げているナーナイ語の「ボート」と「オール」の主格の例を見てみよう。
Tabelle2N
「ボート」の主格が -i になるのが残念(?)だが、他はなんとウイルタ語そのものである。実際ウイルタ語はトゥングース諸語の中でナーナイ語と同じグループに属し、別グループのエウェンキ語、満州語より近いのだ。さてここで一人称複数をすっ飛ばしたのには理由がある。エウェンキ語ではここで除外形と包括形(『22.消された一人』参照)を区別するのだ:除外形 -wun, 包括形 -t。ウイルタ語にはこの区別がなく-puだけ。ナーナイ語も一人称複数は一つだけだが、これがまたウイルタ語とそっくりで、ogda-pu と giol-pu。またウイルタ語では単複ともに一人称では斜格で別形をとり、一人称単数 -wwee、一人称複数 -ppoo。これがナーナイ語ではそれぞれ-iwa、-powaとなるようで、「オール」で見ると一人称単数主格が giol-bi(上述)、 具格が giol-di-iwa、処格が giol-dola-iwaだ。一人称複数だと主格 giol-pu(上述)、具格 giol-di-powa、処格 giol-dola-powaで図式通り。時々音が変わったり削除されたりすることがあるが、まあそれは仕方がないだろう。「オール」の対格は giol-ba-iwa ではなく、giol-b-iwaである。
 二人称、三人称は主格と斜格の区別がないので、「ボート」、「オール」の二人称単数主格がそれぞれogda-si 、giol-si(上述)、対格は ogda-wa-si、giol-ba-si で人称表現の形態素が主格も斜格も同じになる。
 これらは名詞につく人称表現の形態素なので、人称代名詞と形が完全にイコールではなく、例えば名詞では人称表現をしない満州語も人称代名詞そのものはしっかり持っている。エウェンキ語の人称代名詞に除外と包括の区別があるのは上の事から推してもなるほどと思うが、名詞では人称を区別しない満州語も代名詞にはこの区別がある。名詞で区別しないウイルタ語やナーナイ語は代名詞にもこの区別がないが、まあそれはそうだろう。

 膠着語ということは名詞ばかりでなく動詞にも後ろにベタベタ助動詞や人称表現がくっ付く。例えば過去形は -xa(n)/-xə(n)/-ki(n)/-či(n) という形態素を動詞の後に付加して表わす。やたらと形の幅が広いのは上述のように母音の共起制限がある上、その母音に引っ張られて子音価が変わったり、後続する形態素の影響を受けたりするからである。

Mi  ǯok-či  ǯi-ǯu-j-či-jə-wə,  ama jama-wa tuliə-du xulə-xə-ni.
we + home-向 + arrive-再起-非過去-向-1単斜, father + pit-対 + yard-与 + dig-過去-3単

この例も以下の例もオスコリスカヤ Софья Алексеевна Оскольская という学者が挙げていたものだが、上で述べた人称形態素が現れているのがわかる(下線)。動詞をで示したがまあよくもここまでいろいろくっつくものだと感心する。でも日本語の動詞だって外からはこんな風に見えるにちがいない。-xəが過去マーカーだが(太字)、この文はアスペクト上ニュートラルで、不完了体・完了体のどちらにも解釈できるそうだ。

1.私が家に着いたら、父が(ちょうどその時)庭に穴を掘っていた。不完了体
2.私が家に着いて、父が(その後)庭に穴を掘った。       完了体

動作様相でいえば、前者が進行相、後者が起動相である。副文の動詞が非過去形になっているのが面白い。その非過去形は形態素 -j/-ri/-ǯi/-či を付加して表わすが(太字)、これも動詞によっては完了体・不完了体の両方のアスペクト解釈を許す。下の例では動詞に下線を引いておいた。

(母親がケータイで娘に「今何処にいるの?」と聞いたのに答えて)
 Mi škola-či ənə-j-i.
1単 + school-向 + go-非過去-1単
学校に行くとこよ!     不完了体(進行相)

ələə ələə ǯukə ənə-j
soon + soon + grandpa + go-非過去
今おじいさんが行くよ!   完了体(起動相)

いわゆる瞬間動詞の非過去形では完了体以外の解釈が非常にしにくいのはナーナイ語も日本語もロシア語も同じらしい。

Sagǯi daan’a bu-ǯi-ni.
old + grandma + die-非過去-3単

この文は「年取った祖母が直に死ぬ、今死ぬところだ」という完了体(起動相)解釈しか成り立たず、「年取った祖母が今死亡中」、つまり不完了体(進行相)のと受け取るのは不可能だ。
 解釈だけでなく、形の上でアスペクトを表わす形態素もいろいろある。機能的に日本語の助動詞「~いる」のようなものか。例えば -či/-so ~ -su/-si は不完了体表現。

Alosemǯi klass-či ii-wuči-ə-ni nuči guru-səl ele-se-xa-či.
teacher + class-与 + enter-分詞接続法2-斜-3単 + small + people-複 + stand-不完-過去-3複
先生が教室に入ったら、子供たちが立っていた。

Alosemǯi klass-či ii-wuči-ə-ni nuči guru-səl ele-xa-či.
teacher + class-与 + enter-分詞接続法2-斜-3単 + small + people-複 + stand-過去-3複
先生が教室に入ったら、子供たちが立った。

前者と後者の違いは動詞部に-seという形態素があるかないかだけだが、前者を「子供たちが立ち上がった」、後者を「子供たちは立っていた」と解釈することはできない。
 また -psin/-psiŋ という形態素は完了体(起動相)を表わす。

Ag-bi ičə-rə n’oani mora-psiŋ-ki-ni «Baače-go-a-pu».
elder brother-再帰単数 + see-分詞・同時 + she + shout-起動-過去-3単 + „Hello“
自分の兄を見て、彼女は「あら元気?!」と」叫んだ。

この起動相マーカーがないと進行形・不完了体の意味にしかならない。

Mi komnata-či ii-wuči-jə,
əjkə-i ak-či-jə mora-xa-ni.
I + room-向 + enter- 分詞接続法2,
elder sister-1単 + elder brother-与-再帰単数 + shout- 過去-3単


ここでは動詞(下線)に psiŋがついていないので、起動の意味にはならず、

私が部屋に入ったら、姉が兄に何か叫んでいた。(不完了体、進行相)

であって、

私が部屋に入ったら、姉が兄に何か叫んだ。叫び出した。(完了体、起動相)

とは受け取れない。
 これらの他にもアスペクトまたは動作様相を表わすマーカーがいろいろあるが、動詞の側にも特定のアスペクトマーカーをつけないと語としては成り立たないものがあるそうだ。反対に特定のアスペクトマーカーを付加できない動詞もある。

 こうしてみると形としてはいろいろな解釈を許すニュートラルな動詞にしてもマーカーにしても、それらが表わすのは「アスペクト」というより動作様相といったほうがいいかもしれないが、それをさらに抽象して完了・不完了の二項対立に持って行っているのがいかにもロシアの学者らしくて面白かった。それをふむふむ言いながら読んでいるうち本論とは別に語彙面でも面白いことに気づいた。ナーナイ語では日本語と同じくelder brotherや elder sisterを英独露語のようにバラさずに一つの単語で表わせるようだ。オスコリスカヤ氏の挙げた例の中に、əjkə (elder sister) 、ag (elder brother) (上述)、nəu (younger brother) などの語が見える。それぞれ日本語の「姉」「兄」「弟」みたいだ。英語やドイツ語で「兄」と「弟」が同単語になっていることに常々ムカついていたのでこれは本当に嬉しかった。「妹」はどういうのかと気になってアヴローリンの本を覗いてみたら younger brother が нэку- とある。オスコリスカヤ氏の nəu だが、そこに括弧で younger brother (sister) と注が入れてある。ということは自分より年が若いと性で区別しない、つまり「弟」と「妹」の区別がないということだろうか。
 もう一つ、ロシア語からの借用語が多いことに目がとまる。上述の例だけみてもすでに
jama(「穴、堀」)、 škola(「学校」)、 klass(「クラス、教室」)などの単語が見つかる。一目瞭然それぞれロシア語のяма、школа、класс からの借用だ。この調子だとロシア語からの借用語は相当多そうだ。中国領のナーナイ人は中国語からいろいろ取り入れているに違いない。

 最後に『デルス・ウザーラ』の原作者アルセーニエフのことに戻るが、その後夫人(黒澤の映画で描かれていた人だ)と離婚し、1919年にその「原因」となった女性と再婚した。ただし元の夫人や息子(これも映画に出てきた)の生活費・養育費などはきちんと払い続けている。アルセーニエフの死後、二番目の夫人は大粛清の煽りを受け反革命分子として1938年に銃殺された。1920年に生まれた娘も収容所に送られたり大変な目に遭ったらしい。アルセーニエフ自身の親戚たちも既に大粛清以前に革命のごたごたでほとんど命を落としている。時代の波を被って破滅したのはデルス・ウザーラだけではなかったのだ。

黒澤明の『デルス・ウザーラ』は最近ブルーレイがでたようだが、レビューを見ると音声も画質もあまりよくないようだ。
81i11V8KfLL._SL1500_



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機種やブラウザによっては図表のレイアウトがグチャグチャになってしまうことがあるので、これから時々古い記事の表部分を画像に変更していきます(最初からそうしろよ)。図表を直すついでに本文も見直しました。原本の古い記事だけ密かに直そうかとも思ったのですが、せっかくなので再投稿します。

この記事と内容が全く同じですのでわざわざクリックするには及びません。(自分で言うな)

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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