アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:記号

 確かタランティーノの『パルプ・フィクション』にこんな内容の会話があった。

A: Are you OK? Say something!
B: Something.

Bをいったのはウマ・サーマンと記憶している。ドイツ語版ではここが

A: Sind sie OK? Sagen Sie etwas!
B: Etwas.

で、監督の意図通りうちでは皆ここで素直に笑ったが、これを日本語で言うと

A: 大丈夫ですか?うんとかすんとか言いなさい。
B: すん。

となり結構使い古されたギャグである。しかし語用論レベルでは同じ機能であっても言語構造そのものはドイツ語あるいは英語と日本語では決定的な違いがある。ドイツ語バージョンを直訳してみるとよくわかる。

A:大丈夫ですか?何か言ってください。
B:何か。

BはAへのリアクションとしては不正確だ。ギャグになっていない。まあその意図を組んで笑ってあげる人もいるだろうが、「うん」と「すん」の場合より笑いだすのが何分の一秒か遅れ、しかも浅くなる。おかしさが本来のものでないからだ。なぜか。
 一言でいうと日本語では指示対象、ド・ソシュールの用語でいうと、シニフィエが普通に当該単語以外の事象かシニフィアンである当該言語そのものが同時にシニフィエであるかを引用符なしでも明確に区別できるからである。例えば

1.何かと言ってください
2.何か言ってください

との違いをドイツ語では表すことができない。だからこそわざと上のように誤解釈させてギャグにすることができるのだ。日本語はこの区別が下手にできてしまうために2と言ったら「何か」という語そのものでなく本当に何か言語外に指示対象のある語を発せよということになり、「アヒル」とか「山」とか「川」とか言わなけれないけない。シニフィアン≠シニフィエだ。逆に1では指示対象がまさに何かという語そのもの、シニフィアン=シニフィエだから、「何か」というしかなく、誤解釈させてギャグにすることができない。そこで「うん」や「すん」のような意味のない、からのシニフィアン(?)を持ち出して「たとえ話」にするしかないのである。言い換えるとドイツ語や英語での笑いは、指示対象を誤解釈したため生じるものだが、日本語ではたとえ話・言葉のあやをマに受けたマヌケさ(まあわざとやっているわけだが)に対する笑いだ。出所がまったく違う。まあ要は笑えればいい、言い換えると発語媒介行為(『118.馬鹿を馬鹿と言って何が悪いという馬鹿』参照)を写し取ればいいわけだ。
 この、シニフィアン≠シニフィエとシニフィアン=シニフィエを引用符を使わずに区別できるというのは日本語のセールスポイントの一つだと思うのだが、日本語の授業などでは割とないがしろにされている。だから学習の進んだ者でも次の区別がつかない。

3.山田さんは嘘をいいました。
4.山田さんは嘘といいました。

4では山田さん自身は嘘を言っていない。他の人の発言が嘘だと判断したのである。もちろん山田さん本人が昔やった自分の発言を「あれは嘘だよ」と白状した場合にも使えるが、当該発言が嘘であるか否かということは命題の内容そのものには入っていない。ここで4に

山田さんは嘘だといいました。

と、コピュラの助動詞を添加すれば学習者はよくわかるようになるが、そうなると今度は勢い余って3の方にも「だ」をつけて

山田さんは嘘だをいいました。

とか言い出す。要するに指示対象のレベルの違いが呑み込めていないのである。もしかしたら「山田さんは嘘だといいました」は

Herr Yamada sagte, dass es eine Lüge war.

「山田さんは嘘だをいいました」は

Herr Yamada sagte, es sei eine Lüge.

で、要するに意味内容は同じだと思っているのかもしれない。同じじゃないっての。

 これは決して些末な問題ではない。信じたくない話を聞かされ、必死の懇願で

どうか嘘と言ってくれ

と言うかわりに

どうか嘘を言ってくれ

などと言ったら頭を疑われかねない。また

馬鹿を言うな

でなく

馬鹿というな

と言ったりしたら帰ってくる返事は「別にお前のことを馬鹿だなんて言ってないだろ」とかであろう。相手のキョトンとした顔が見えるようだ。
 面白いことにシニフィアンとシニフィエが別のものであれば、そのどちらもが単語、つまり言語外に指示対象がなくても対格の「を」が使える。例えば冒頭のセリフを描写する場合、私の感覚では

5.Somethingを言ったのはウマ・サーマンだ。
6.Somethingと言ったのはウマ・サーマンだ。

のどちらもOKだ。6がOKなのは当然だが、どうして5が可能なのか。これは今私がここで述べているSomething(シニフィアン)が映画でサーマンが過去に言ったSomethingを指している、言い換えると映画の中の発言がシニフィエと解釈できる、つまり厳密にいうとシニフィアンとシニフィエが一致しないからである。日本語の本文のなかに英単語が組み入れられていることによってそのことが強調されている。これがもし下手に翻訳して

何かをいったのはサーマンだ。

と言ってしまうと、サーマンがうんとかすんとか言った、つまり「何か」とは言わなかったという解釈しかできない。またこれを強調文でなく普通の文にして

サーマンがSomethingをいった。

とすると5と違って「うんとかすんとか」という解釈以外はしにくくなる。シニフィアンもシニフィエも言語である場合not equal解釈に持って行くのは不可能ではないが難しいテクがいるようだ。

 さてこの不変化詞「と」だが、ここの「と」が共格Komitativの「と」(『152.Noとしか言えない見本』参照)や並列の「と」、さらに「銀行は右に曲がるとすぐ前にあります」のような接続助詞とは異なる語であることは明らかだ。上でもちょっと暗示したように機能的に英語のthat やドイツ語の dass に近い。

山田さんが高橋さんはマヌケだといいました。
Mr. Yamada said that Mr. Takahashi was an idiot.
Herr Yamada sagte, dass Herr Takahashi ein Idiot war.

ドイツ語の文法だと dass は接続詞 Konjunktionに分類されている。確かに用法が「と」より広く、

Er ist dermaßen blöd, dass er nicht einmal seinen eigenen Namen kennt.
(He ist so stupid that he does not know even his own name.)

というような構造にも使えるからKonjunktion なのだが、ちょっともの足りない。英文法ではthat や dass をComplementizer と呼ぶがこっちの方が適切ではないだろうか。私も「と」は日本語の Complementizer だよと説明している。ただ日本語のComplementizerは中身が文でなくても使えると注はつける。つまりドイツ語では

Er sagte, dass es eine Lüge war.
He said that it was a lie.

とdass の後に文が来ないといけないが、日本語だとここで

*Er sagte dass eine Lüge.
*He said that a lie.

というドイツ語では許されない構造が可であると。
 もっとも今調べたらドイツ語の ob(英語のwhether )もComplementizer 扱いされている。そこから考えると日本語の「お前がマヌケ(どうか)俺が知っているさ」の「か」もComplementizer かなと考えてしまいそうになるが、「か」はあくまで「質問文マーカー」であってCompとは言えまい。第一にここでの「お前がマヌケ(どうか)」はシニフィアン≠シニフィエ、つまり文は言語外の命題そのものを指示しているし、第二にマヌケ文そのもの、つまりシニフィエが指示対象になる場合は「と」がつく。

山田さんがお前はマヌケか聞いていました。

「と」を抜いた形は本当は引用符付きの別構造だろう(下記15参照)

山田さんが「お前はマヌケか」聞いていました。

もちろん普通の叙述文と違って「か」がつくと「と」が省略されうる、ということは心にとめておかねばいけないだろうが。

 さてこのComplementizer 君だが、格表現を取らない。上の例4、「山田さんは嘘といいました」の「嘘」は「言う」という他動詞の直接目的語だから対格のはずだが、表層では表現されない。格表現してしまうと非文になる。

*山田さんは嘘とをいいました。

さらに7でもComp氏は対格、8では主格である。

7.山田さんが禁煙といっていた。
8.ここに禁煙とある。

これらをそれぞれシニフィアン≠シニフィエの「普通の」構造と比べてみると格構造がはっきりする。

9.禁煙を守れ
10.禁煙が決まりだ

9の「守る」は10の「言う」と同じく他動詞、10はコピュラ文、8の「ある」
は自動詞だから「禁煙」はどちらも主語で主格である。
 この「主格と対格を表現するとNG」という現象は次のように主題表現の際も見られるが(『65.主格と対格は特別扱い』参照)、上の2のようなもともとの疑問代名詞に「か」をつけて作る「何か」「誰か」のような表現もそうで、主格と対格は表さない。

誰か来ましたか?
誰か見ましたか?
何かたべましょう。
何かありますか?
何処か開いてますか?

これらの「~か」構造に格表現を持ち込むと明らかに許容度が減る。少なくとも有標表現にはなる。

誰かが来ましたか?
誰かを見ましたか?
何かをたべましょう。
何かがありますか?
何処かが開いてますか?

「誰かがきっと待っていてくれる」「何かを求めて」など「~か」主・対マーカーをつけた表現は歌の歌詞とか「失われし時を求めて」のような書き言葉的な言い方で、口語としては有標だ。それぞれ「あそこに誰かいますよ。」と「あそこに誰かいますよ。」、「何かお探しですか」と「何かお探しですか」を比べてみると、どちらが自然な日常生活表現か考えてみるとわかる。
 主格・対格以外ではこれもまた『65.主格と対格は特別扱い』で見たように有標性をあげることなく(?)格マーカーがつけられる。

11.誰かこのことを話しませんでしたか。
12.その時誰か会いませんでしたか。
13.その時誰か見かけませんでしたか。

比較のために文のパターンをそろえてみたが、私の感覚では13だけ格マーカーがないのとあるのとで明らかに有標性に違いがある。

 これに対してCompの「と」はいかなる格マーカーも許さない。さらに主格対格以外の解釈を許さない。シニフィアン=シニフィエが主・対以外の格になる場合は引用符がいる。

14.この文章は嘘でいっぱい。
15.この文章は「嘘」でいっぱい。
16.*この文章は嘘とでいっぱい。

14はこの文章はフェイクまみれということだが、15はこの文章にはやたらと嘘と書いてあるという意味である。引用符が不可欠で、「と」で嘘という言葉自体を表すことができない。

 日本語でも語の指示対象とシニフィアンとしての語そのものの区別が常に引用符なしでできるわけではないようだ。さらに言語の構造云々でなく言葉の指示対象あるいは言葉で表される命題と言葉そのものを区別できないというのがいる。例えば以前私は話者の視点が文の構造にどのように反映されるかを調べようとして次のような文が許容できるかどうか何人か人に聞いてみたことがある。

太郎の奥さんが自分の夫に殴られた。

私が期待していたのは「最初に太郎の奥さんと言っておきながら同じ文で太郎を自分の夫などと表現するのはおかしい。論理的におかしいからボツ」というような答えだった。実際大部分の人はその方向の答えをしてくれたが、一部「自分の妻を殴るなんて許せないからボツ」というレベルの議論を持ち出す人がいて困ってしまった。なぜ困ったかというとそこでさらに「こんな不道徳なことを言うなんて」と説教までされたからである。私は文(の論理構造)が許容できるかどうか聞いただけでその文が表す事象が許容できるかどうか聞いたのではない。

 とにかくたかがSay something如きのセンテンスでも実に様々な事象が絡みあっているものだ。

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 時々、というよりよく相手に向かって馬鹿だろゴキブリだろという言葉を使い、それを咎められると「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレる人がいるが、もしこの人が本当に何が悪いのかわかっていないとしたらこの人の方こそ真正の馬鹿だ、と私がここでいったら「そんな馬鹿な」と言われるだろうか。

 そこでこういう人たちのどこが馬鹿なのかちょっと考察してみたい。

 彼らは言語の機能は単に指示対象を指し示すことだけではない、ということがわかっていないのである。『78.体系とは何か』でも述べたように言語の単語というのは当該言語内で体系をなしていて、その指示対象や純粋な意味内容より当該単語の言語体系内での位置のほうが重要になってくることがあるのだ。指示対象は同じでも機能が違うのである。そして人間の言語の言語たるところはまさにその体系構造の複雑さにあるのだから、「馬鹿」と「理解が遅い」、「ババア」と「老婦人」が全く同じに見えるという人、つまり同じ対象を別の言い方で表現すれば言語内での機能が違ってくるということがわからない人はホモサピエンスの頭を持っていないということになる。「目の不自由な方」などと表現するのは「偽善・きれいごと」、そこで「メクラ」というのが「正直」だという類の主張をしている人(ネットなどに結構いる)を見るといつも、この人は生まれつき言語取得能力に欠陥があるのか、それとも成長の過程で何かしらの障害を負い言語の発達が阻害されたか、それとも単に捨てゼリフを吐いているだけなのか考える。
 最後のカテゴリー、つまり捨てゼリフ組は言語能力そのものは備わっているのだからいいじゃないか、と言われるかもしれないが問題なしとしない。なぜなら彼らは論理的に自己矛盾をおかしているからである:彼らが人をゴキブリと呼ぶとき、自分自身でもこの言葉の持つ機能をきちんと意識している、つまり本人も罵倒のつもりで使っているのである。そして相手が「その言葉使いはなんだ」と咎める時、矛先が向いているのは語の意味そのものではなくその機能である。だからここまででは相手はきちんと発話者のメッセージを理解している。しかしそこで発話者が「ゴギブリをゴキブリといって何が悪い」と返すとき、話題は機能でなく語の純粋な意味にすりかえられている。最初自分の方から機能面を前面に押し出しておきながら、相手がそれを正しく受け取ると今度は意味面に話題を摩り替える。自ら談話を打ち切っているのだ。これもやはり意味と機能をはっきりとは区別できていない馬鹿ではないだろうか。「話す」という行為、発話行為の何たるかがよくわかっていないのである。

 その発話行為(speech actまたは Sprecheakt)は階層をなしていて、例えばサールSearleは一つ一つの発話行為は次の4つの行為に分解できるとしている。

1.発語行為(utterance actまたはÄußerungsakt):意味のある言語音声を現実に発生する行為。この発語行為の基準は文法性、つまり当該言語音姓がまともな発音でまともな文章になっているかということである。
2.叙述行為(propositional actまたはProposionaler Akt)で実現されるのは世界についての叙述である。サールはこの行為の基準として当該命題真であるか偽であるかを問題にしていたそうだが、そもそも真偽を云々できない事象というのもあるし、例えば「花子はもう来たよ」と命題内容が等価な「花子はもう来たのか?」はその真偽そのものを問うているわけだからもちろん真偽判断は下せない。とにかく意味のある何らかの叙述を行なっていればこの叙述行為である、ということでいいと思う。
3.発話内行為(illocutionary actまたはillokutionärer Akt)では発語された命題の機能が問題になってくる。当該命題は発語された言語環境とのかかわりの中で初めて意味を持ってくる。つまりその発言による話者の意図である。文法性とか意味のある叙述かということではなくその意図が伝わったかどうかが基準となるのである。全く同じ命題でも環境によって単なる供述なのか警告なのか脅しなのか推薦なのか、全く意味機能が違ってくるからだ。この意図はイントネーションや語の選択などによって積極的に表現することもできる。
4.発語媒介行為(perlocutionary act またはperlokutionärer Akt)は相手が話者の発言によって話者の意図した通りの状態になれば成功したと言える。警告によって相手が「そうか危ないな」と思ったり、相手がビビったりしてくれれば発語媒介行為がうまく行ったのである。

 なおオースチンAustinも同じような分類をしているが、オースチンでは1と2がいっしょにされて、発語行為(locutionary act またはlokutionärer Akt)としてまとめられている。つまりここでは発話行為が3階層になっているわけだ。
 だいたいサールやオースチンにことさら言われなくても本能的に誰でもわかっていることだが、発話で重要な意味を持ってくるのは発話の命題内容そのものより3や4の点、これが発話された具体的なコンテクストにおける機能である。だから自分が馬鹿と言われたり人が馬鹿と言われているのを見て抗議するのは「侮辱されたと感じる」という肝心な機能をきちんと把握する人間としての言語能力が備わっている証拠である。発話の命題内容だけで機能を理解することができず、ここで「何が悪い」と聞く人は「今何時かわかりますか?」と聞かれると時間を言わずに「わかりますよ」とだけ答えるのだろうか。そういう人はこの発話の目的が「時間を知る」ことであるのがわからず、「わかりますか?」という言葉どおりのイエス・ノー・クエスチョンと把握するからである。
 また「本当の事をいって何が悪い」というタイプの質問形式をとってくる人もいるが、こういう人は「本当のこと」、つまり真偽判断のみが発話行為の目的だと思っているわけだから、まさに上で述べた叙述行為より先には思考が進めないということで、いわばサールに図星を付かれていることになる。

 さて「馬鹿を正直に馬鹿と言って何が悪い」とキレてくる馬鹿にはどういう対応をしたらいいのだろうか。上記のようにサールやオースチンの発話行為理論を丁寧に説明してやって、発話の命題の外にある発話の機能というものを感知できない点が悪いんですよ、と教えてあげる以外にはあるまい。
 もっとも捨てゼリフでこういうことを言っている人からは、「あなたはこの発話の機能、捨てゼリフということを理解せず発話の命題そのもの、「何が悪い」という質問形式にだけ対応した」と抗議されるかもしれない。まあそもそもそういう議論が出来る人が「ゴキブリをゴキブリといって何が悪い」などという言い回しは使いそうもないが、万が一そう返されたら「発話に捨てゼリフという機能を持たせたいのだったら他に言い回しがたくさんある。時間を聞いたり蔑称として社会的に既に因習となっている言葉を用いたりする場合と違って捨てゼリフの形式というのはまだ十分に因習化されていない。それあるに誤解される危険性のある質問形式をとってそこに捨てゼリフの機能を持たせようとしたあなたの言語戦略は詰めが甘い。言い換えると発話内行為が不成功に終わったのは発話を言葉どおりにとった相手の所為でなく、発話者の戦略がまずかったからだ。つまりあんたが悪い。」と言い返してやればいい。

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 いわゆる忌み言葉というものがある。結婚式の祝辞で「切れる」の「別れる」のと言ってはいけないし、普段の会話でもうっかり変なことを口走ると「縁起でもないことを言うな」と怒られる。昔は「言霊」ということを言った。
 こういう「縁起でもないことを言うと縁起でもないことがおこる」「ポジティブな言葉を唱えると事象がポジティブになる」といういわゆる言霊思想が「非科学的」であるということには誰も異を唱えないだろう。非科学的であることは十分わかっているのだが、他人の気分を害してまで科学や論理に義理立てする必要もないから、結婚式で別れる切れるを連発したり、言霊を信じていた昔の日本人を「本当に非論理的だな。だから日本人は精神年齢12歳とマッカーサーから言われるんだ」などとこき下ろしたりはまずしない。私もしない。そのくらいの非科学性なら喜んで付き合う、気持ちはわかる、という人が大半ではないだろうか。そもそもこういう発想は多かれ少なかれどこの民族だってやっているのだ。

 ただ、この「非科学性」がどのように非科学的・非論理的なのか、ということをもう少し考えてみると結構面白いと思う。記号論に関わってくるからである。

 いわゆる記号論・記号学は大学の「言語学概論」の類の授業で基礎だけはやらされる。言語というものが記号体系だからである。ではその「記号」とはいったい何かと聞かれると結構複雑だ。ちょっと当時の教科書Studienbuch Linguistik(「言語学概論」)(『43.いわゆる入門書について』の項参照)という本の埃をはらって覗いてみると、記号を

aliquid stat pro aliquo

と、厭味にもラテン語で定義してある。もちろんこの教科書はラテン語の怪しい無学な学生をも念頭においているものなので後で懇切丁寧に訳も解説もしてあり、記号の本質的な性質を

dass sie einem Zeichenbenutzer etwas präsent machen können, ohne selbst dieses etwas zu sein.

「その記号の使用者に対して、それ自体は当該事象ではないのにある事象を出現させられること」だと言っている。つまりある事象、あるモノが別の事象・モノの代わりをするわけだ。言語学では「記号」を一般に理解されているより少し広い意味で把握していることがわかる。もっとも英語やドイツ語で「記号」はそれぞれsignとZeichen、つまり普通に日常会話で使っている「しるし」という単語だから、そもそも元の言葉の意味範囲が日本語の「記号」ということばより意味が広いのだ。

 さて、この記号だが論理学者のパースPeirceは3つのタイプを区別している。インデックス記号(index)、アイコン記号(icon)、シンボル記号(symbol)である。
 インデックスは当該事象とそれを表すもの、つまり当該事象の代わりに立つものが因果関係にあるような記号である。記号をA,当該事象をBとすると、AとBとの間に「Aならば(あるいはAだから)B」という関係が成り立つ。煙は火事の、笑顔は幸せの、発熱は病気の、「じゃん」という語尾は南東京・横浜方言のそれぞれインデックス記号である。英語のsignという言葉ならこういう場合に使って「熱は病気のサイン」と言っても問題ないが、日本語の「記号」のほうは「じゃんは南東京方言の記号」という言い方で使うと相当無理がある感じだ。
 アイコンは当該事象の模写である。ピクトグラムなどがこの種の記号の代表例。パースのころはインターネットなどなかったからもちろん例にはあがっていないが、現在盛んにネットで使われている絵文字などもこれだろう。文字にもこのアイコン起源のものがある。シュメールの楔形もエジプトの象形文字も、何より漢字がもともとがアイコン記号であったのがしだいに抽象度を増していったのだ。
 さらにオノマトペはある意味では音声面でのアイコン記号と言える。「ある意味」といったのはオノマトペが純粋な意味でのアイコンとは言えず、むしろ下のシンボル記号に属すと考えたほうがいいからだ(下記参照)。
 インデックスもアイコンも指し示す事象Aと指し示される事象Bとの間に自然的な繋がりがあるわけだが、AB間にこの自然的つながりの全くないのがシンボル記号である。人間の言語はこの代表だ。AはBを指し示す、ということは社会規約で決められていてその協約を知らなかったら最後、いくら人生経験が多かろうが目や耳が良かろうがAを聞いてBを知る、あるいはAを見てBを想起する、ということが出来ない。
 例えばあのワンワン鳴いて尻尾を振る動物をある言語ではいぬ、またある言語ではHundという全く違った音声で指し示すのは音声と当該事象との間に自然的つながりのない良い証拠である。煙を見て「あっ、火事のサインだ」と感づいたり(インデックス)、スカートをはいた人物のマークを見て婦人用のトイレだと了解したり(アイコン)するのとは違い、いきなり[sɐbakə]という音を聞かされたりძაღლიという文字を見せられても犬が思い浮かんでくることはない。
 シンボル記号のこういう性質、指示されるものと指示対象物との間に自然の繋がりがないという性質をド・ソシュールは「言語の恣意性」と呼んだ。

 ただし、よく観察してみるとアイコンも実はある程度社会あるいは文化規約を知らないと解読することはできない。例えば女性がスカートを全く穿かない文化圏の人には女性トイレを見分けることは困難であるし、究極のアイコンである写真も、写真というものを全く見たことがない人は自分の写真を見せられても自分だという事がわからないそうだ。鏡では常に自分の顔を知っていても写真だとわからなくなるという。言い換えると写真による対象指示のメカニズムをある程度知っていないとアイコン記号は解読できないのである。絵文字にしても「意味」を誤解されたり理解されなかったりするのは珍しいことではない。例えば私もスマイルマークの絵文字など、こちらの意見をOKと言っているのかそれともせせら笑われているのかわからなくてイライラすることがよくある。
 そういう意味でアイコンも社会規約と無縁ではない。私ごとで恐縮だが、もう20年以上前こちらの「言語学概論」の期末試験に出た問題の一つが「アイコンはconventionalな記号であるか?」というものだった。答えはもちろんイエスである。
 
 もうひとつの微妙な問題は上でも述べたオノマトペである。これは一見音声のアイコン記号、つまりシンボル記号である言語内での例外現象のようだが、当該の自然音が記号化される言語によって全く違う形をとることが多い。例えば馬の泣き声は日本語ではヒヒーンだがロシア語だとイゴゴー、豚は日本語ではブーブー、ドイツ語ではオインクオインクまたはグルンツグルンツ。鳩の鳴き声などドイツ語でRuckediku-ruckedikuと表されているのを見たことがあるが、これでは「鳩ポッポ」という単語が成り立たない。しかしこれだけ違った描写をされているからと言ってドイツの鳩や豚がロシアや日本の同僚と全く別の声を出しているわけではない。つまりオノマトペの本質は「自然音を模写」することでなく、その言語の音韻体系内で当該事象の対応する要素を新しく作り出すことにあるのだ。あくまでシンボル体系内の出来事であるから事象AとBとの繋がりの恣意性は保たれているわけだ。(ということが一応オノマトペに対する言語学者の一致した見解だが、それでもこのオノマトペがアイコン寄りの位置にあることは頭に置いておいたほうがいいと私は思っている。このオノマトペというのはつきつめて考えていくと結構面白い現象であると。)
 それに対して動物学者が狼の鳴き声を正確に再現して群れを呼び寄せたりするのは、すでに人間の言語体系の外に出てしまっているからオノマトペとはいえない。

 言霊だろ忌み言葉だろと言い出す人たちはつまりこの言語の本質、つまり「言語がシンボル記号であること」や「言語の恣意性」がわかっていないことになる。シンボル記号である言語をインデックス記号と混同して、指示する側Aと指示対象Bとの間に自然的な繋がりを想定してしまっている。上のドイツ語の説明で、記号は何かをpräsent machen(「そこに出現させる」)という言い回しをしているが、この「出現させる」のは頭の中に出現させるということであるのに、自然界に実際に出現するかのように受け取ってしまっているのだ。その上AとBを逆にして、「AだからB」であるはずのところを「BだからA」と解釈しまっている。記号論上の根本的な誤りを二つも犯しているわけで、精神年齢12歳というお叱りを受けなければならないとしたらマッカーサーからでなく、むしろソシュールやパースからであろう。

 さて、この言霊・忌み言葉と似たようなものに呪文・まじないの類がある。祈祷師が意味不明のフレーズを唱えると雨が降ったり死人が生き返るというアレである。これは一見言霊思想と同じタイプの非論理性に基づいているようだが、よく考えてみると言霊とはメカニズムが違うような気がする。言霊は自分の言語、自分たちが使っているシンボル体系の記号性を誤解釈したものだが、呪文の言葉は自分たちのシンボル体系ではない。「意味不明のフレーズ」である。これは話しかける相手の言葉と自分たちの言葉が違うということを前提にして自然の支配者に話しかけている、言い換えるとこちらにはわからなくともあちらには通じているという前提なわけで、相手のシンボル記号を使っている(つもり)、つまりある意味では「言語の恣意性」ということがわかっているのだ。忌み言葉忌避より罪一等軽いから、ソシュールやパースは見逃してくれるのではないだろうか。

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