人からちょっと聞かれたことがあって大学図書館から古教会スラブ語の教科書を借り出したことがある。何気なく筆者の名前を見たらアウグスト・レスキーン(A. Leskien)だったのでびっくりした。ドイツ青年文法学派(Junggrammatiker)の主要メンバーだった人だ。
19世紀に比較文法理論が花開いてから1930年代のプラーグ学派活動期まで、言語学の中心はヨーロッパにあった。それも大陸部が強かった。ドイツ語の授業でも教わるが、「青年文法学派」というのはそこで1870年ごろドイツのライプチヒを中心としていた一派だ。つまりレスキーンはそのころの人。この教科書も初版は1905年、1910年の第五版へレスキーンが書いた「始めに」などもまだしっかり載っている。彼は生まれが1840年だから、この「始めに」はレスキーン70歳の時のものになるわけか。
レスキーンの名はたいていの「言語学者事典」に載っている。たまたま家にある大修館の「言語学入門」の第八章「歴史・比較言語学」の10.「研究の歴史」にも出ていた。そういう本がいまだに学生の教科書として通用しているのが凄い。しかもこれを1990年に再出版したハイデルベルクの本屋(出版社)はなんと創業1822年だそうだ。
さらについでに図書館内を見まわしてみたら音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイが『古教会スラブ語文法』という本を出している。出版は1954年ウィーンだが、原稿自体は1920年代にすでにトゥルベツコイがドイツ語で書いて脱稿してあったのだそうだ。夫人と氏の同僚たちが残された原稿を整理して死後出版した。トルベツコイは1938年にウィーンで亡くなっている。
こういうのを見ると言語学の歴史を肌で感じているような気がして畏敬の念に打たれる。なんだかんだ言ってヨーロッパの学問文化は重みというか蓄積があるな、とヒシヒシと感じてしまうのはこんな時だ。
トゥルベツコイや構造主義言語学のヤコブソンなどコスモポリタンな一般言語学者というイメージが定着しているので、トゥルベツコイが古教会スラブ語の本を書いているのを見たり、ヤコブソンが「ロシア語аканье(アーカニエ。ロシア語で母音oがアクセントのない位置でaと発音される現象。『6.他人の血』の項参照)について」などというタイトルの論文を書いてるの見たりするとむしろ「えっ、この人たちこんなローカルな話題の論文も書くの?!」とむしろ意外な気がする。さらにトゥルベツコイがロシア語で書いているのを見て「そうか、トゥルベツコイやヤコブソンってロシア語も出来るのか…」とか馬鹿なことで感動したり。話が逆だ。ロシア語のほうが彼らの母語である。
トゥルベツコイは妥協を許さない、いい加減なことができない人物だったらしく、当時の言語学者のひとりから「言語学会一の石頭」と褒められた(?)という。レスキーンはどういう人だったのだろう。ヤコブソンもそうだが、ド・ソシュールやチョムスキーなど、言語学者はイメージとしてどうも厳しそう、というか怖そうな人が多い。日本の服部四郎博士には私の指導教官の先生が一度会ったことがあるそうだが、「物腰の柔らかい、親切な紳士だった」と言っていた。でも一方で、東大で博士の音声学の授業に参加した人は、氏が「音声学ができないのは耳が悪いからではなく頭が悪いからだ」と発言したと報告している。やっぱり怖いじゃないか。
「言語学者」の範疇には入らないかもしれないが、ミュケーナイの線文字Bを解読したマイケル・ヴェントリスの人物に関しては次のような記述がある。線文字Bで書かれているのはギリシア言語の知られうる最も古い形、ホメロスのさらに700年も前に話されていた形だが、ヴェントリスはそれを解読した。その経歴はE. Doblhoferの書いたDie Entzifferung alter Schriften und Sprachen(古代の文字および言語の解読)という本に詳しいが、その人生の業績の頂点にあった時、交通事故によりわずか34歳の若さで世を去った氏を悼んだ同僚J.チャドウィックの言葉が述べられている(280-281ページ):
Es war bezeichnend für ihn, daß er keine Ehrungen suchte, und von denen, die er empfing (...) sprach er nicht gern. Er war stets bescheiden und anspruchslos, und sein gewinnendes Wesen, sein Witz und Humor machten ihn zu einem überaus angenehmen Gesellschafter und Gefährten. Er scheute keine Mühle für andere und stellte seine Zeit und Hilfe großzügig zur Verfügung. Vielleicht werden nur die, die ihn kannten, die Tragödie seines frühen Todes ganz ermessen können.
「彼の彼らしかった点は、世の賞賛を集めよう、などとはまったくしようとしなかったこと、そして受け取ってしまった賞賛の話を(…)するのは嫌がったことだ。常に謙虚で無欲で、人を魅了せずにはおかないその人となり、ウィットとユーモアで、本当に付き合うのが楽しい人だった。面倒な顔もせずにいつでも他人のために時間をさいてくれ、手助けをしてくれるのにやぶさかではなかった。ひょっとしたら、彼を知っていた者達だけが、その早い死が如何に大きな損失かを本当に理解できるのではなかろうか」
ヴェントリスは本業が建築家で、言語学は趣味だった。チャドウィックはバリバリの本職言語学者だったが、「素人」のヴェントリスと互角の言語学者として付き合い、「解読の先鞭をつけたのはヴェントリス、私は歩兵のようなもので、単に地をならし、橋を架けて進みやすいようにしただけだ」と言っている。チャドウィックの謙遜・無欲も相当なものだ。
すると言語学者が「怖い」のはいい加減に知ったかぶりでものをいう人に対してだけで、きちんとした知識のある研究者に対しては腰も低く親切だということか。やっぱり私にとっては怖いじゃないか。
それにしても、私が死んだら私の友人は何と言ってくれるか、想像するだけでそれこそ怖い。
「彼女の彼女らしかった点は、目立ちたがりで、たまに誉められたりするとすぐ図に乗ってひけらかしたことだ。出しゃばりで、注文が多く、鼻をつままれるその人となり、下品なギャグと笑えない冗談で、できれば避けたい人だった。何か頼まれるとすぐ渋い顔をし、しつこく手助けの恩を着せたがった。ひょっとしたら、彼女を知っていた者は、本当に死んで良かったと胸をなで下ろしているのではなかろうか」
ヴェントリスとは差がありすぎる…。
ところで私はあの、泣く子も黙る大言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールと誕生日が一日違いなのだが、この一日の差が死を招いてしまったのだと思っている。たとえばチンパンジーとホモ・サピエンスはたった1パーセントくらいしかDNAが違わないそうだが、後者が月まで行けたのに対し、前者はちょっと大きな川があるともう越えることができずにボノボという亜種を発生させてしまうほど差が開いてしまった。私とソシュールもたった一日の差で向こうは大言語学者に、こちらは言語学的サルになってしまったのだと思っている。そしてさすがサルだけあって私は長い間フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の名をフェルディナンド・ソシュールかと思っていたのであった。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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19世紀に比較文法理論が花開いてから1930年代のプラーグ学派活動期まで、言語学の中心はヨーロッパにあった。それも大陸部が強かった。ドイツ語の授業でも教わるが、「青年文法学派」というのはそこで1870年ごろドイツのライプチヒを中心としていた一派だ。つまりレスキーンはそのころの人。この教科書も初版は1905年、1910年の第五版へレスキーンが書いた「始めに」などもまだしっかり載っている。彼は生まれが1840年だから、この「始めに」はレスキーン70歳の時のものになるわけか。
レスキーンの名はたいていの「言語学者事典」に載っている。たまたま家にある大修館の「言語学入門」の第八章「歴史・比較言語学」の10.「研究の歴史」にも出ていた。そういう本がいまだに学生の教科書として通用しているのが凄い。しかもこれを1990年に再出版したハイデルベルクの本屋(出版社)はなんと創業1822年だそうだ。
さらについでに図書館内を見まわしてみたら音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイが『古教会スラブ語文法』という本を出している。出版は1954年ウィーンだが、原稿自体は1920年代にすでにトゥルベツコイがドイツ語で書いて脱稿してあったのだそうだ。夫人と氏の同僚たちが残された原稿を整理して死後出版した。トルベツコイは1938年にウィーンで亡くなっている。
こういうのを見ると言語学の歴史を肌で感じているような気がして畏敬の念に打たれる。なんだかんだ言ってヨーロッパの学問文化は重みというか蓄積があるな、とヒシヒシと感じてしまうのはこんな時だ。
トゥルベツコイや構造主義言語学のヤコブソンなどコスモポリタンな一般言語学者というイメージが定着しているので、トゥルベツコイが古教会スラブ語の本を書いているのを見たり、ヤコブソンが「ロシア語аканье(アーカニエ。ロシア語で母音oがアクセントのない位置でaと発音される現象。『6.他人の血』の項参照)について」などというタイトルの論文を書いてるの見たりするとむしろ「えっ、この人たちこんなローカルな話題の論文も書くの?!」とむしろ意外な気がする。さらにトゥルベツコイがロシア語で書いているのを見て「そうか、トゥルベツコイやヤコブソンってロシア語も出来るのか…」とか馬鹿なことで感動したり。話が逆だ。ロシア語のほうが彼らの母語である。
トゥルベツコイは妥協を許さない、いい加減なことができない人物だったらしく、当時の言語学者のひとりから「言語学会一の石頭」と褒められた(?)という。レスキーンはどういう人だったのだろう。ヤコブソンもそうだが、ド・ソシュールやチョムスキーなど、言語学者はイメージとしてどうも厳しそう、というか怖そうな人が多い。日本の服部四郎博士には私の指導教官の先生が一度会ったことがあるそうだが、「物腰の柔らかい、親切な紳士だった」と言っていた。でも一方で、東大で博士の音声学の授業に参加した人は、氏が「音声学ができないのは耳が悪いからではなく頭が悪いからだ」と発言したと報告している。やっぱり怖いじゃないか。
「言語学者」の範疇には入らないかもしれないが、ミュケーナイの線文字Bを解読したマイケル・ヴェントリスの人物に関しては次のような記述がある。線文字Bで書かれているのはギリシア言語の知られうる最も古い形、ホメロスのさらに700年も前に話されていた形だが、ヴェントリスはそれを解読した。その経歴はE. Doblhoferの書いたDie Entzifferung alter Schriften und Sprachen(古代の文字および言語の解読)という本に詳しいが、その人生の業績の頂点にあった時、交通事故によりわずか34歳の若さで世を去った氏を悼んだ同僚J.チャドウィックの言葉が述べられている(280-281ページ):
Es war bezeichnend für ihn, daß er keine Ehrungen suchte, und von denen, die er empfing (...) sprach er nicht gern. Er war stets bescheiden und anspruchslos, und sein gewinnendes Wesen, sein Witz und Humor machten ihn zu einem überaus angenehmen Gesellschafter und Gefährten. Er scheute keine Mühle für andere und stellte seine Zeit und Hilfe großzügig zur Verfügung. Vielleicht werden nur die, die ihn kannten, die Tragödie seines frühen Todes ganz ermessen können.
「彼の彼らしかった点は、世の賞賛を集めよう、などとはまったくしようとしなかったこと、そして受け取ってしまった賞賛の話を(…)するのは嫌がったことだ。常に謙虚で無欲で、人を魅了せずにはおかないその人となり、ウィットとユーモアで、本当に付き合うのが楽しい人だった。面倒な顔もせずにいつでも他人のために時間をさいてくれ、手助けをしてくれるのにやぶさかではなかった。ひょっとしたら、彼を知っていた者達だけが、その早い死が如何に大きな損失かを本当に理解できるのではなかろうか」
ヴェントリスは本業が建築家で、言語学は趣味だった。チャドウィックはバリバリの本職言語学者だったが、「素人」のヴェントリスと互角の言語学者として付き合い、「解読の先鞭をつけたのはヴェントリス、私は歩兵のようなもので、単に地をならし、橋を架けて進みやすいようにしただけだ」と言っている。チャドウィックの謙遜・無欲も相当なものだ。
すると言語学者が「怖い」のはいい加減に知ったかぶりでものをいう人に対してだけで、きちんとした知識のある研究者に対しては腰も低く親切だということか。やっぱり私にとっては怖いじゃないか。
それにしても、私が死んだら私の友人は何と言ってくれるか、想像するだけでそれこそ怖い。
「彼女の彼女らしかった点は、目立ちたがりで、たまに誉められたりするとすぐ図に乗ってひけらかしたことだ。出しゃばりで、注文が多く、鼻をつままれるその人となり、下品なギャグと笑えない冗談で、できれば避けたい人だった。何か頼まれるとすぐ渋い顔をし、しつこく手助けの恩を着せたがった。ひょっとしたら、彼女を知っていた者は、本当に死んで良かったと胸をなで下ろしているのではなかろうか」
ヴェントリスとは差がありすぎる…。
ところで私はあの、泣く子も黙る大言語学者のフェルディナン・ド・ソシュールと誕生日が一日違いなのだが、この一日の差が死を招いてしまったのだと思っている。たとえばチンパンジーとホモ・サピエンスはたった1パーセントくらいしかDNAが違わないそうだが、後者が月まで行けたのに対し、前者はちょっと大きな川があるともう越えることができずにボノボという亜種を発生させてしまうほど差が開いてしまった。私とソシュールもたった一日の差で向こうは大言語学者に、こちらは言語学的サルになってしまったのだと思っている。そしてさすがサルだけあって私は長い間フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure)の名をフェルディナンド・ソシュールかと思っていたのであった。
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