アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:規範文法・記述文法

 日本語では形が似ているので「言語学」と「語学」は頻繁に混同されるが、ドイツ語だと前者はLinguistikあるいはSprachwissenschaft(シュプラーハヴィッセンシャフト)、後者がFremdsprachen(フレムトシュプラーヘン、「外国語」)と全然違う語で表すのできちんと区別してもらえる。この二つは本質的に全く異なるもので、その違いをさる音声学の教授は次のように説明している。
 
「『語学』と呼ぶのは技術論であるのに対し、『言語学』は科学(サイエンス)である。換言すれば、語学における究極の目的は、或る言語を読み、書き、話し、聞くことができるようにすることである。これに対し、言語学の方は、人類の営む言語を客観的な視点から構造や体系に分析し、ユニバーサルな尺度によってこれを記述し、説明することを究極の目的にしている」

 喩えでいえばこういうことだろう。鳥類学者は鳥の飛行のメカニズムを観察し、生物学者はゾウリムシの原形質流動の様子を記録するが、だからと言って自分が素手で空を飛びたいとか細胞分裂・クローン技を体得しようなどとは思っていない。言語学者も同じで、「ネイティブはどうしてこの言語がしゃべれるのか」、「人はどうやって第二言語を獲得するのか、どうやったら効果的か」、「この言語のしくみはどういう風になっているのか」それらの事自体が知りたいだけで、自分がその言語をペラペラしゃべってやろうなどと大それたことは考えていない場合が多い。 実際語学の苦手な言語学者などゴロゴロいる。それはちょうど数学者や物理学者が、必ずしも暗算が得意だとは限らないのと同じことだ。
 もちろん数学者や物理学者は数(ここは「かず」でなく「すう」である)というものと日常接しているから暗算が早い人だっているだろうし、言語学者も言語をいじるのが商売だから自然に外国語が出来るようになってしまう人もいる。ただ、それが目的ではないし、苦手でも商売の決定的な支障にはならない。それこそ自然科学系の学者や芸術家、ビジネスマンなどのほうが言語学者なんかよりよっぽど語学が得意なのではないだろうか。

 すこし前、本屋で知らない人とつい立ち話になってしまったことがあるが、聞いてみたら物理学の学生さんだった。その人が「物理学を専攻しても純然と物理で食べていける人なんてほとんどいないですよ。物理それ自体は日常生活から遊離した、全く役に立たない理論です。で、先生やったり企業で電気いじったり機械を作ったりまあ、応用で食べていってるわけで。」と言っていた。それと同じで言語学も日常生活からは完璧に遊離していて、それ自体では絶対生活していけない。なんとか応用してやっていっているわけだ。失語症の治療にあたったり、IT技術者とくっついて自動翻訳を開発したり皆食べていくのに必死だが、語学教師というのもそれら「応用」の可能性のひとつではある。だから語学の教師には純粋な語学教師と言語学崩れが混ざっているのだ。

 ところで、語学の教師が語学系か言語学系か見分ける方法がある。「ここはどうしてこうなるんですか」と質問した際、「とにかく○○語ではそういうんです。覚えましょう」という類のことを連発する人は語学系、それをクドクド説明し始める人は言語学系である。ただ、そこで一生懸命説明してくれてはいるのだが、その説明が全く常人の理解できない単語・言い回しで結局質問者は前よりもっとわからなくなり、質問をしてしまったことを後悔して「下手に質問するべきじゃないな、これからはここはこうだ、とただ覚えることにしよう。その方が早い」と自分から悟ってしまうため、結果的には「覚えましょう」の語学系教師と同じことになるのである。そこでなされた説明にあくまで食い下がるタイプの人は言語学には向いているかもしれないが、語学そのものはいつまでたっても上達しない。常にその調子でなかなか先に進めないからだ。
 また、「○○語ってどんな言葉ですか?」と聞いたとき、「○○語で「こんにちは」は×××ですよ」という方向の答えをする人は語学系、「○○語は帯気と無気を区別するんですよ」とか「能格言語です」とか言い出すのは言語学系である。これは逆も真なりで、「○○語で「こんにちは」はなんて言うんですか?」などとすぐ聞いてくる人は語学系、「○○語にはどんな音素がありますか?」的な質問をする人は言語学系と見なしていい。
 もう一つ、言語学系の人には「その言い方は正しい」とか「間違いだ」といった規範的な表現に対してアレルギー反応を起こす人がいる。「正しい」の代わりに「その言い方は許容されている」、「間違っている」の代わりに「現段階ではまだその言い方は当該言語社会では使われていない」という。言われた学習者はその言い方をしていいのか悪いのかいまひとつよくわからない。小学校の国語の先生が目のカタキにしている「食べれる」「見れる」なども言語学系の人は拒否しないだろう。「その形は類推によって現代日本語に広く浸透しており、事実上許容されている。」で終わりだ。言語学系の教師がOKを出した言い回しを他で使って直され、「あの野郎デタラメ教えやがったな」と矛先を言語学者に向けられても困る。言語学の文法は「規範文法」ではなく、「記述文法」だからだ。

 これだから、一般言語学系の人が語学を教えると生徒は出来るようにならない、と言われるようになるのだ。これは別に被害妄想で言っているのではない。私が日本語教師の口を捜して面接に行った先で、専攻が一般言語学だとバレると露骨に引かれたことが本当に何回かあるのだ。「授業はあまり言語学的にならないように会話を覚えさせることを重点にしてください」とはっきり牽制されたこともある。しかしたしかにその通りなので、何も言い返せない。「皆さんよくわかっていらっしゃる」としか言いようがない。
 もちろん一口に言語学と言っても範囲が広いから、中には応用言語学など言語教育と直接つながっている分野もあるし、最初に誰かが当該言語を科学的に分析調査、そして記述をしなければそもそも文法書も教科書も作れないわけだから、「言語学は語学の邪魔」とまでは言えまい。でもこの両者の微妙だが根本的な姿勢の差ははっきりしている。
 
 そういう事を以前コンコンとさるドイツ語のネイティブに訴え、「私は言語学専攻なんだから語学が苦手なのは当たり前だ。名詞の性を間違える度にいちいち揚げ足とるな!」と諭したら敵は「なんでそんな簡単なもん間違えるんだよ。名詞の性おぼえるなんてオウムにだってできるよ」と来た。それでは私はオウムより頭が悪いというのか。そんなことはない、オウムはたしかに文法上の性も含めてセンテンスをまる暗記して発音するのは私より上手いかもしれない。だがオウムにはこういうエッセイは書けない。「言語の分節性」というものが理解できず、言語を構造を持ったひとつの体系として捉えられないからだ。   


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 こちら昔は「語学」というとラテン語か古典ギリシャ語のことだったから、当然その中心は読み書きにあった。そのうち「書き」をだんだんやらなくなった。ドイツ語やフランス語など自国語の書き言葉が発達して、ラテン語で書く必要がなくなったからである。それでも結構長い間普通高校を出た人ならばラテン語が読める(ことになっている)のが普通だったが、最近はまったく古典語はやらない高校も増えた。現代の言語、フランス語やスペイン語だけやれば卒業できるようになったのである。昔、と言っても私が現実に見聞きしているくらい割と最近までは英語の他に古典語一つ以上現代語二つ以上、合計3つの外国語、例えば英仏羅というのがスタンダードだったが、今は英仏だけで高校を卒業できるのだ。ただラテン語なしで高校は卒業できても入れる大学の学部が限られてはいたところが、その制限もだんだんなくなってきている。最近など英語しか外国語をやったことがない「外国語学部の学生」に会った事があるがさすがにこれは例外である。
 そうやって古典語をやらなくなるにつれて、外国語の授業のやりかたや教科書も変わった。見た目にやたらと子供っぽい教科書が増えたのだ。

 以前にもちょっと書いたが、私が若かりし頃通学していた都立高校には自由選択ではあったが第二外国語の授業があった。高校生用のドイツ語の教科書というのものがなかったので大学の教科書を使っていたが、これが無愛想というか無味乾燥な構成で、まず章の始めにちょっとした会話のテキストがあり、次に単語の説明があり、文法事項があり、最後に練習で〆る。これを延々と繰り返して螺旋階段のごとく次第に高度な文法に進んでいくというものだった。もちろん挿絵などというものはなかったし、当然全部が白黒印刷である。授業形式も学生と教師が面と向かうものであった。

 時が流れてドイツの大学で受けたクロアチア語の授業も教科書もまさにこれであった。表紙は黄土色の超地味な色、中は全て白黒印刷だ。

私たちの使ったクロアチア語の教科書。私の書き込み付きでご紹介。
Kroatisch_1

Kroatisch_2

 ところがロシア語の教科書は違った。全てカラー印刷で値段もそれに従って高い。表紙も派手だが、中身にもやたらとイラストだろ写真だろがあり一見子供の絵本である。絵を見ながらそれをロシア語で描写する練習のためというような意味のあるイラストもあるが、そうでない単なる挿絵、会話のパターンの練習のわきにわざとらしいロシア風の服を着たおじさんやらおねえさんやらが立っているものも多い。こんな要りもしない絵を全部除いたら制作代も節約できるし教科書も薄くてすむだろうにと思った。

書き込みが減ったロシア語の教科書
Most_1

 しかしそれよりド派手なのが日本語の教科書だ。表紙からして日本女性がにっこり微笑んでいる顔のアップ。中を見てもとにかく挿絵がデカい。課の頭には半ページくらい使って日本人のサラリーマンが大きなビルの前でお辞儀をしている写真とか、この年寄りの私でも見たことがないような古臭い日本の祭りの風景などとにかくステレオタイプなドイツ人の異国情緒にこれでもかと訴えるクサい写真のオンパレードである。
 だいたい私は語学の授業でいわゆる文化とか習慣を紹介するのは邪道だと思っている。語学の教科書は旅行案内ではないのだ。そもそも今はその手の異国情緒などインターネットでいくらでも見られる。語学の授業なんかで富士山の写真を見ている暇があったら「現代」と「原題」のアクセントの区別でも練習した方がいい。実際文法規則だろ発音だろ語学そのものでついて来られない者に限ってやたらと日本の正月とかキモノとかそういうことばかり知りたがる。語学そのものができないのに、いやできないからこそ言語外の情緒や憧れにしがみ付いて勉強した気にだけはなりたいのである。これは一種の自己欺瞞だ。私自身が昔よくこの欺瞞をやって語学から逃げていたからよくわかる。問題はそれが自己欺瞞であることにいつ気づくかである。

ここまでエキゾチック・ジャパンを強調する必要があるのか非常に疑問。
Japanisch_1

Japanisch_2

 さらに最近のドイツ語の教科書を見る機会があったが、これも上の日本語路線で総天然色。私のころと比べて隔世の感がある。私だったらこんな絵本みたいな教科書を見せられたらむしろ勉強する気が失せるかもしれない。
Deutsch_1

 しかし比べてみると同じ色つきでも上のロシア語の教科書と日本語・ドイツ語のとでは中身というかコンセプトそのものに違いがあることに気づく。ロシア語の教科書はまあ古い時代のものであるが、挿絵や表紙は派手で会話のテープ(CDやアプリでなくテープである!)がついていたりしても構成そのものは白黒のクロアチア語とさほど変わらない。文法説明があり、会話のパターンがあり、その後チョチョッとその練習をして課を終える。しかしある意味では内容が白黒のとあまり違わないからこそ一層カラー挿絵の無駄さが浮き彫りだ。
 それに比べて時代の下った日本語ドイツ語の学習書では絵が学習内容そのものに組み込まれているのがわかる。まさに上で述べた「絵を見ながらそれを当該言語で描写する練習」になっているわけだ。それなら別に無駄にはなっていないわけだからいいかとも思うが、私の感覚だとその練習部分があまりにもクド過ぎて、後で「文法の説明部分」をちょっと参照しようと思った時などやたらとパラパラ教科書をめくらないと見つからない。その練習課題にしても「楽しく遊びながら学べる」ことを最重要項目にしてあるらしく、クロスワードパズルだろなんだろがあって正直馬鹿にされているとしか思えない。
 語学を始める時は子供にかえったつもりになれとはよく言われることで、もちろんそのこと自体に反対はない。しかし学習者は白黒の無粋な教科書の第一課でdo-bar dan! などと練習させられる時すでに十分自分は子供であると感じているのだ。カラー挿絵やクロスワードでその上さらに子供感覚を強調する必要があるのか?理論物理で理学博士号を持っているが今度ドイツの大学にくることになったのでドイツ語もやっておきたい、という人に対してもこんな教科書をやらせるつもりか?教わる側は全員がその手の「遊びながら楽しく学べる○○語」の類の授業を望んでいるのか?またそういう授業はガチガチの授業に比べて万人に本当に効果的なのか?いろいろ考えてしまう。
 例えば講師は学習者を飽きさせないように30分ごとに授業形式を変えろと言われる。30分対面形式で授業をやったら形式を変え、グループ学習と称して学習者を分け、その中で学習者同士で会話の練習をさせる。その、「隣の人と会話をしてみましょう」という練習のパターン会話が教科書に書いてある。
 古い奴だと思われそうだが、実は私はこの「グループ学習」というのが大嫌いだ。学習者というのはつまり私と同レベルのヘタクソである。その自分レベルのヘタクソなんかと会話するなんて真っ平だ。向こうだってそう思っているはず。対話をするなら是非ネイティブ、つまり講師と練習させてもらいたい。そのための講師ではないのか?

 私はこういうクドい教科書・楽しい教科書は教わる側のためというより教える側をマニュアル化・規格化するためなのだろうと思えてならない。それが証拠に最近の教科書には必ずと言っていいほど「教師の皆様」に向けたアンチョコというか指導法マニュアルがついている。これこれの練習は学習者にこういう練習をさせ、こういうことをマスターさせるためのものです。教師側はその際これこれこういう教えかたをしてください、と詳しく「教科書使用法」が書いてある。その使用法に従ってやれば誰でも日本語やドイツ語が教えられますというわけだ。
 しかしその「教授法マニュアル」というのは市販されているから、学習者側も買えてしまうのである。もっともドイツ語の教科書は使用マニュアルもドイツ語だからまだいい。理屈としては現在そのドイツ語の初歩をやっている学習者が講師用マニュアルなど理解できないだろうから裏がバレる恐れはないが、日本語教育のマニュアルは日本語でなくドイツ語で書いてある。下手をすると講師より学習者の方に通じてしまうのではないだろうか。つまり教える側の手の内が教えられる側に丸見えになる可能性があるのだが、これで学習者はドッチラケないのだろうか?

 そのマニュアル教科書執筆者がさかんにいう。「文法なんて忘れさせなさい。Guten Tagという挨拶を覚える際、これが対格だなんて普通考えますか?語学の授業は言語学者じゃない、unverbildetな学習者のためにあるのです。また自分で説明などあまりしないで市販の教科書に素直に従いなさい。これらの教科書は経験のある言語学者が皆で執筆したもの。これに従っていれば安心です」。unverbildetというのは「学問をしたせいで駄目になったりしていない」という意味である。一瞬、語学屋が言語学専攻者に喧嘩を売っているのかと思うが、こういうことを言っている執筆者自身言語学者なのだからこの発言には裏がありそうだ。
 裏の一は、上でも書いたようにこの種の教科書が「ただネイティブというだけの人にも教えられるように」考案されたマニュアルであるということだ。そんな人に下手にいいかげんな文法説明をされたら困る、知らない事には口をつぐんでいなさい、というまあいわば素人に対する牽制。学習者でなく講師への牽制である。その際講師に「言語学をやってないあんたは所詮素人だから黙って私たちの指示に従え」などとあまり露骨に言ってしまうと相手が怒るから学習者のほうをunverbildetと呼ぶことで間接的に「私たち言語学者はverbildetでございます、余計な知識があって頭でっかちである」と暗示して卑下し語学教師に対して言語学者には抱いている人もいる内心の優越感を隠している。
 裏の二は一の点ともつながるが、最近の語学教授法では実際に理論→実践という昔のやり方はとられなくなって子供が第一言語を獲得するプロセスを真似るようになっていること。当該言語をまず理解するより、使ってみるほうを参考させ理論のほうは自分の内部で構築してもらう方式になってきていることだ。言語発達は心理言語学の分野で抽象度の高い理論が展開されている分野である。ポッと出のネイティブ語学教師なんかはあまりシャシャリ出ないで学者のいう事を素直に聞いていた方が無難といえば無難なのだ。
 裏の三は「文法」という観念である。『34.言語学と語学の違い』でも述べたように言語学で言う文法は記述文法である。ところが普通の学習者にとって文法というとまず規範文法が頭にあるだろう。小説家などにも文法=規範という捉え方をしている人が大勢いる。「文法を間違える」などという言い方をするのがそのいい証拠である。言語学者側もそのことは承知している。だから言語学者が学習者に「文法を気にするな」という時、それは「規範文法を気にするな」という意味なのである。普通の学習者や小説家はそもそも「記述文法」という観念を持たないのでそれでいいが、時々「文法なんて忘れろ」というのをマに受けすぎて言語学で言う記述文法的な文法観念まで「忘れろ」を拡大解釈してしまう人がいるから怖い。「言語には構造がある」という事実まで無視してしまうのである。彼らは「文法(言語の構造)なんて気にすることはない。とにかく単語を勝手にバラバラ発音して通じればいいんだ。これが本当の実践語学だ。とにかく勇気を持つことだ」と、言語の構造を無視して突進する。そして永久にブロークンレベル以上の言葉を話せるようにはならない。こういう本質的な誤解をする人は結構多い。

 さて、これらの裏、特に第二点に注目しつつ上記の日本語の教科書を見てみるとその効果にさらに疑問が湧いてくる。同じような構成のドイツ語の教科書と一つ決定的な違いがあるからだ。ドイツ語のほうはメタ言語というか説明する言語もドイツ語である。そしてこの教科書は現地で毎日毎日数時間勉強する集中的な授業形式を念頭に置いているものだ。学習の言語環境は実際に子供が第一言語を獲得する時のものと近い。すでに周りに当該言語が溢れているところをちょっとプッシュしてやろうというもの。上でコキ降ろしてはしまったが、これならば確かに理論物理学者に対しても有効かもしれない。
 日本語の教科書はそういう「擬似第一言語獲得方式」をなぞってはいるが、言語環境が全く違う。ドイツではあらゆる道端で日本語が聞こえてくるなどということはないし、授業も週に3回一コマずつというのならまだいいほう、下手をすると週に一コマというスッカスカな形式だ。そんな密度の学習環境でクロスワードパズルなんてやっても、遊びながら「学ぶ」ことなどできまい。遊んで終わりである。またドイツ語の教科書は説明もドイツ語だからさらに擬似ネイティブ性が強化されているが、日本語のは説明の方がドイツ語なのでスカスカ性のほうがアップしている。TPOを無視して安易にドイツ語の教科書を真似たのではないか、と思えてならない。

 もしかしたらこのように教科書をランダムに比較するのはフェアではないのかも知れない。いろいろな教科書の構成や挿絵の挿入具合の違いは昔と今の差ではなくて想定された学習者、大学対一般という差なのかもしれない。事実こちらの大学の外国語学部などではprinted in Japanの古典的な構成の教科書を使っている場合が多い。しかし一方そういう、大学で使っている教科書でもイラストが入り、無駄に高いカラー印刷になっていたりするのだから、やはりこれはある程度時代の流れなのだろう。
 私個人は、当該言語が話されていない地域で語学をやるにはある程度咀嚼困難でも「文法」を重点にして言語構造の骨組みをしっかり立て、その後の肉付けは現地に行って各自やってください、という古い方式のほうがむしろ効果的なような気がするのだが、実際どうなのだろうか?

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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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 プラーグ学派のテーマ・レーマ理論では「伝達価値の高いもの(レーマ)は基本的に文の最後に来る」と言っていた。「基本的に」という注意書きがついているのは、詳細にデータを検討すると逆方向のものもゴロゴロみつかるためだ。別にそれに忠義立てしたわけではないが、前にシャウミャンの話をしたとき、最も主張したかったのは実は最後にチョチョッとつけた情報構造理論についての段で、特に「日本語の授業で助詞の「は」は既知の情報を表わすなどという説明をする人はアンポンタン」という部分である。どこがアンポンタンなのかもシャウミャンの項で述べておいたがあれじゃああまりにもはしょり過ぎだと自分でも思うので、ここでそのテーマをチョチョッと繰り返すことにした。
 
 次の文はソルジェニーツィンの『ガン病棟』の翻訳の最初の文である。

ガン病棟はすなわち第13病棟だった。

これが始まりなのだからガン病棟は既知の情報などではない。それなのにしっかり「は」でマークしてある。もっとも既知論者はこういうかも知れない:「この小説のタイトルが『ガン病棟』だ。だから表紙で言及してあり、その意味で既知である」。あっそ。こじつけ感は否めないのだがまあ認めるとしよう。ではタイトルのない発言はどう解釈したらいいのだろう。

地球は青かった。

これも既知論者は比較的簡単に説明できる。「地球と言う存在は皆知っている。すでに指示対象が背景知識として存在しているという意味で既知」。この理屈で次の、これも小説の最初の文に「は」がついていることも説明できる。

春はあけぼの。

「春」という概念は誰でも頭に持っており、その意味で既知である。あっそ。では次の文はどうだろう。

吾輩は猫である。

この発言者は私の知り合いでも何でもないので誰なのか私には特定できない。その意味で私の「背景知識」にはこの指示対象は存在しない。もちろん既に言及された人物でもない。作者の夏目漱石は誰でも背景知識として持っているという詭弁も通じない。この人物(猫)は夏目漱石ではないからだ。そこで既知論者は言うかもしれない:「吾輩」「ここ」「きのう」など指示対象が発言者や発話状況に依存することが前提となっているDeixis、直示表現はいわばその意味の軸・指示の出発点の存在そのものが既知。あっそ。

 これらの説明はある程度は「あっそ。なるほど」とは思うのだが、既知論者が既知という概念を玉虫色に変化させていることがわかるだろう。「は=既知」という図式を放棄したくないばかりに「既知」の意味範囲のほうを都合によって好き勝手に拡大解釈している感がある。
 しかし実はこの玉虫色の中に重要なポイントが隠れている。「既知」にはいろいろな段階があって「既知対未知」という単純な二項分割にはならないということだ。この「既知の程度」を言語学ではreferential status 「指示のステータス」というが、これにはいろいろな段階がある。段階分けのしかたや設置する段階数はもちろん学者によって異なるが、ここでは大言語学者人食いアヒルの子に従って次のような6つの指示のステータスを区別してみよう。1が最も既知の度合いが高く、6が一番低い、言い換えると未知の度合いが強い指示対象である。

1.記憶の焦点:
指示対象はたった今テキスト・発話の場に導入された。
2.活性状態;
指示対象は生々しく記憶に残っている。
3.半活性状態:
指示対象が以前に言及されたことを(ぼんやりとでも)思い出すことができる。
4.非活性状態だが特定可能:
言及の記憶はないが言語外状況などの助けによって当該指示対象がわかる。
5.特定不可:
文脈などの助けがあっても指示対象を特定できない。
6.エンプティな指示対象:
指示対象が存在せず、その補充を求める。

指示対象はこれらの段階の違いによって異なる言語形式で表わされる。例えば1と2は英語やドイツ語では人称または指示代名詞を使う。3,4になると定冠詞付きの名詞で表わす。5が不定冠詞と名詞。6は疑問代名詞で対象を指示する。それに対して日本語では1はゼロ代名詞、2から4までは指示代名詞(これ、それ、あれ)または指示代名詞に名詞をつけて表わす(この犬、その犬、あの犬)。5では名詞の前に「ある」や「さる」がつく(ある人、さる町など)。または「なにか」「どれか」など疑問代名詞に「か」をつけた形で表わされることもある。6は英語と同じく疑問代名詞だ。ロシア語でも1はゼロで表わし、2では指示代名詞、это や этот が使われることが多い。3になると英語などと違って定冠詞のないロシア語では(裸の)名詞句を使うが、もちろんこれも「そういう場合が多い」であってキッチリ決まっているわけではない。定冠詞がないから5でも3と同様名詞を使ったりするからだ。その代わりというのも変だが、ロシア語では「なにか」「だれか」をさらに細分する。例えば「なにか」ではчто-то と что-нибудь を明確に区別し、前者は現実に存在はするが発話者が特定できない対象物、後者はそれが存在するかしないかに対してさえ発話者が不確実な対象物である。「昨日田中さんがなにか言ってました」のなにかは前者、「田中さんはなにか言ってましたか?」のなにかは後者である。「(なんでもいいから)なにかおいしいものを持ってきてください」も後者だ。後者はいわば5と6の中間的と言えるかもしれない。6はロシア語でも疑問代名詞である。
 上のガン病棟や地球や春は4ということになるだろう。ここで既知論者は「そうか、じゃあ4までが「は」の範囲なんだな」と早合点しそうだが、そうは問屋が下ろさない。まず1を考えて欲しい。屁理屈を言えば記憶の焦点に立つ指示対象、つまり既知の指示対象には「は」がつかない。ゼロ形を使うから「は」のつけようがないからだ。まあそりゃあまりにも屁理屈だと言われるとその通りだが、ちょっとこういう発言を考えてみて欲しい:「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.いろいろ話をしてくれたよ。」ここでは「友だち」が焦点なので、2と3ではゼロ形で指示してある。指示ステータス表現の図式通りだ。次にその焦点対象を全部「は」で表わしてみよう:「1.昨日友だちが来たんだ。2.その友だちはアメリカに行ってたんだ。3.その友だちはいろいろ話をしてくれたよ。」2では焦点対象(既知)を「は」で表わしており、既知論者の主張する通りである。だが3はどうだ。私の感覚ではこの文はウザ過ぎて容認不可である。ここでは「友だち」は焦点ステータスを持続している、つまり普通の焦点以上に焦点で、そのスーパー既知の対象に「は」がついているのだから既知論者の理屈では何の問題もないはずだ。それなのにどうしてこの文はウザいのか?それともこれは「は」の問題でなく単に焦点をゼロ形で表わしていないからなのか。それでは焦点対象に「は」をつけないで比べてみよう:「1.昨日友だちが来たんだ。2.その友だちがアメリカに行ってたんだ。3.その友だちがいろいろ話をしてくれたよ。」 まさにその「焦点がゼロで表わされていない」という理由で2はボツである。上の「その友だちは」の方はOKなので、ここまでだったら既知論者の主張が正しい。しかし焦点がスーパー化している3になるとそうはいかない。文のウザさはむしろ「は」より小さくなる。2を図式通りゼロで表わしてみるとさらにはっきりする。次のうち、どちらが座りがいいだろうか:「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.その友だちはいろいろ話をしてくれたよ。」、「1.昨日友だちが来たんだ。2.アメリカに行ってたんだ。3.その友だちがいろいろ話をしてくれたよ。」 私の感覚では後者、スーパー焦点に「は」がついていないほうが座りがいい。少なくとも既知の度合いが最も高い対象物に「は」がつかないことなど日常茶飯事なのだ。これが一つ。
 逆に既知度の低い、上述の段階で言う5と6にも実は「は」をつけることができる。私自身時々「ある人」「あるところ」など5の対象物に「は」がついているのを見かけるが、ガン病棟も次のような出だしで始めることができる(ただし文学性はソルジェニーツィンより劣る)。

あるガン病棟には13号棟という番号が振ってあった。まったく縁起の悪い話だ。

また次のような会話は十分可能である。

「私また試験に落ちてしまいました(涙)」
「まだ2回目でしょ?平気ですよ。ある人は5回も落ちたそうですから。」

この「あるガン病棟」や「ある人」は少なくとも発話者には特定できるから当てはまらない?ガン病棟はそうかもしれない。しかし後者の例では慰めている人は5回落ちた人を直接知っておらず「誰か5回落ちた人がいる」という話をまた聞きしただけかもしれないではないか。さらに次の例はどうだろう。

あれをやるな、これをやるなって、うるさいな、じゃあ何はやっていいんだ?!

疑問代名詞にも「は」をつけられないことはないのである。さらに私の言語感覚では次の文は完全にOKである。

昨日の集まりね。誰は来て誰は来なかったのか、ちょっと表にでもしてくれない?

この場合は「誰が」と「が」を使ってもいいが、上の「あれをやるな」の文は「何がいいんだ」と「が」をつけるとむしろ許容度が下がる(一番いいのは「じゃあ何ならやっていいんだ?!」と「なら」を使うことだろう)。
 確かに指示のステータスの低い対象物に「は」をつけられるのは限られた文脈だ。限られてはいるが理論的には可能なのである。「は」は未知のものにもつけられる、これが二つ目だ。

 次に既に上でちょっと出したが、「既知の対象にも「は」がつかないことも多々ある」ことをもう一度見てみよう。これは「未知の対象物にも「は」はつけられる」ことといわば裏表の現象である。以下はたしか久野暲の出していた例だが、

強盗が僕の家に入った。その強盗が僕にピストルを突き付けて金を出せと言った。

焦点の「強盗」に「は」がついていないのに、久野氏ばかりでなく私の感覚をもってしてもこの文は完全にOKである。どうしてここは「強盗」なんですかと聞かれたら既知論者はどう説明するのだろうか。「この文章は正しくない、「は」をつけるべきだ」とか規範文法精神を丸出しにして以下のように無理やり訂正でもさせるか。

強盗が僕の家に入った。その強盗は僕にピストルを突き付けて金を出せと言った。

私の日本語感覚では(うるさいな)こんな訂正など余計なお世話、いや害にしかなっていない。要するに「は」がついているからと言って既知とは限らないし、ついていないからといって未知とは限らないのだ。既知論者はどうやってこのオトシマエをつけるのか。ここはやはり「既知」の観念を玉虫色操作したりの妙なアリバイ工作などせずに「実は「は」は指示のステータス、つまり既知・未知の区別とは理論的に無関係です」とさっさとゲロしてしまった方が楽ではないのか。

 では「は」とは何なのか。「は」がテーマ・主題マーカーとも呼ばれているように、話者が「当該対象物と関連させてセンテンスを発話します」、「この発話は当該対象物についてです」とシグナルを出すためにつけるのだ。それ以上でも以下でもない。そして『175.私は猫です』でも書いたようにそのトピックは本来格に中立であると同時に指示のステータスにも中立なのである。
 ではなぜ「は」は既知の対象物などという誤解が生じたのかというと、既知の対象物がトピックになりやすい傾向が確かにあるからだ。このメカニズムも1980年代に言語学者らがとっくに説明している。全く未知の対象物をいきなりトピックにすると聞き手には二重の負担がかかる。つまり1.その対象物が存在するものとして自分の記憶の場に書き込まねばいけない、2.さらにその、今自分で書き込んだばかりの対象物をトピックとして引っ張り出さないといけない。これを譬えるとフォルダ(トピック)とファイル(センテンス内容)を同時に作成するようなもので、聞き手はまず新しいフォルダを自分の頭の中に用意したのち、その真新しいフォルダに発話内容を入れる、二度手間である。
 このような、話者側が「聞き手はこの対象物は記憶にはない」とわかっていながら敢えてそれをトピックマークする行為を日露混血の言語学者オルガ・ヨコヤマ氏は imposition、「押し付け」と呼んでいる。上でも出した例、小説などの場合は受け取る側(読者)にその準備ができているから(だからこそ本を開いたのだ)トピックを押し付けても問題ないが、日常会話は事情が異なる。余計な負担をかからないように、相手がこちらの情報を自分がすでに持っているフォルダに入れられるよう配慮してやるか、せめてまずこちら側からこういうフォルダを作れと指示して下準備させてからそこに入れる情報を伝える、これが普通だ。だからトピックは既知の対象であることが多いのである。しかしこれはあくまで傾向であって、定義として持ち出すことはできない。凶悪犯罪者の90%が男性だからと言って「男性」という言葉を「犯罪を犯しやすい性」などとは定義できないのと同じことだ。そしてトピック=既知が傾向でしかないことも1980年代にチェイフやラインハルトなどの学者が見抜いている。未だにこれを定義と混同する人がいるのはなぜだろう。それとも言語学はその後「やはりトピックは既知の対象と定義すべきだ」という流れに変わったのだろうか。
 
 理論上は無制限デスマッチだからこそ、何をトピックにするか、適切な対象物をトピックマークできるかによってその人の言語・会話能力が露見するのである。自己裁量、自由意志だからこそ余計にそこで日本語能力が問われるのだ。自分はなぜこの対象物をトピックマークするのか、なぜこの対象物は焦点なのにトピックとしないのか、自分で理由がわかっていなければいけない。母語者はたとえ人には説明できなくてもわかってはいる。前にも出した例だが、「どなたが山田さんですか?」との問いに「私山田です」と言って手を上げる人など日本語の母語者にはいない。「既知の対象には(自動的に)「は」をつける」などとアンポンタンな教師に刷り込まれてしまうとこんな簡単な事すら永久にできるようにならない。またちょっと高度だがやはり母語者なら絶対ハズさない例としてさらにこんな状況を想像してみてほしい:私は山田さんという人とアポがあるので、指定の時間に山田さんの事務室に行った。ところがドアをノックしても誰もいない。あれと思っていたらちょうどそこに山田さんの同僚田中さんが通りかかった。田中さんは私が山田さんとアポがあることを知っている。そこで田中さんが私にいう。「あっ、山田さんは今来ます。ごめんなさい、ちょっと物を取りに行ったんですよ。」
 以前これとそっくりな状況になったことがある。ただし通りかかったのは田中さんではなく日本語がペラペラの外国人である。その人はマジに日本語がパラペラだったが、そこで私にこういったのだ;「あっ、〇さん今来ます。」 これも日本語の母語者ならまず言わない。なぜか。
 山田さんのドアをノックしている私を見れば「山田さん」という対象物が私にとって指示のステータスの頂点に立つことは明白だ。だからそこで通りがかりの人もそれを汲んで「山田さん」をフォルダ(トピック)にしたのだ。「あなたが山田さんとアポがあることは知ってますよ、ですからその山田さんに関する情報(=今来ます)をどうぞ」というシグナルである。このフォルダなしに「山田さんが来ます」といわれるとまるで私のアポとは関係のない別の山田さんが来たような感じで「それがどうした」と思いかねない。
 
 こういう「は」の本質は母語者には深く染みついている。知らずにうっかり間違った敬語を使ってしまう日本人などいくらもいるが、文脈にふさわしくない「は」を知らずにうっかり使ってしまう日本人はいない。使うとすればそれはわざと、例えば会話を打ち切りたいと暗示するシグナルとしてとかである。

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 1492年は受験生泣かせの年で(誰が泣くか)世界史で重要な出来事が3つも起こった。その一はコロンブスのアメリカ大陸到着(一部には新大陸発見などという名称も使われているようだが、いくら何でも先住民に失礼すぎやしないか)、その二がレコンキスタの完成(グラナダ王国の滅亡)、その三がアントニオ・デ・ネブリハによる『カスティーリャ語文法』Gramática de la lengua castellana の出版である。
 ネブリハの『カスティーリャ語文法』は長い間ヨーロッパで唯一の書き言葉・文化語であったラテン語の位置が各国言語、つまり口語にとって変わられていく重要な一歩となった。その序文でネブリハはこの本を大国となったカスティーリャの女王イザベラに捧げ、新たにその支配下にはいった(カスティーリャ語を母語としない)民がこの素晴らしい支配者の言語が使えるようになるための手助けになろうと言っている。またそこで述べられているネブリハの言語観は今でも通じる近代的なもので、この文法書は 今から見ると言語学史上の金字塔であった。
 私はその『カスティーリャ語文法』について大きく誤解していた点が二つある。まず、私はこれがあたかも1957年に出版されたチョムスキーの Syntactic Structures のごとく出版と同時にセンセーションを巻き起こしたのかと思っていた。ところが実はそうではなかったらしく、ネブリハの生存中当書はほとんど人の目を引かず、やっと18世紀になってから第二版が出たそうだ。ダイグロシア崩壊期によくある「下品な口語なんかに文法もクソもあるか」というお決まりの批判にも晒された。そもそもネブリハはラテン語の専門家で、直前の1486年に『ラテン語入門』Introductiones latinae という本を出版している。こちらの方は売れに売れて16世紀だけで59版刷られたそうだ。「金字塔」という評価はずっと後になってからなされたのである。
 二つ目の誤解は、「新たに女王の支配下に入った民」と聞いてアメリカ大陸の先住民が思い浮かんでしまい、植民地の支配を容易にするためにカスティーリャ語を押し付ける手助けにこの文法書を捧げたのかと思っていたことだ。こちらの誤解の方がずっと程度が馬鹿で我ながら赤面に堪えない。ちょっと考えてみればわかりそうなものだった。
 『カスティーリャ語文法』が出版されたのは1492年8月18日である。その直前、やっと8月3日にコロンブスが航海に出発したのだから、当然その時点では植民地もアステカ人やインカ帝国への虐殺・支配はまだ影も形もない。コロンブスのバハマ到着が10月12日、その地でいろいろ探検して、スペインに帰って女王に航海の結果を報告したのは翌年1493年3月である。しかもコロンブス本人は死ぬまで自分の行った地はインドか中国だと思っていたのだし、ネブリハも確かに文法書の出版は1492年だが原稿そのものはそのずっと以前から着手していただろうから、「女王支配下の新住民」がアメリカ大陸の先住民を指していたはずはない。
 この「新たに支配下に下った住民」というのはイベリア半島の住民のことである。ロマンス語を母語としない住民、つまりアラブ人とユダヤ人のこと以外あり得ない。グラナダ王国が陥落したのは文法書が出る前の1492年6月2日だがそれ以前にイスラム側はジワジワと領土を失っていっていた。しかし領土が失われ支配者が入れ替わっても住民まで入れ替わったわけではない。早とちりな誤解への反省の意味を込めてちょっとイスラム支配下のスペインの歴史や言語構成、住民構成はどうなっていたのか見直してみた。

 本題に入る前に確認しておきたいことが何点かある。第一点が「レコンキスタ」、「再征服」という命名にそもそも問題があることだ。複数の歴史家がそう言っている。この言葉から連想されるのはキリスト教徒が団結してムスリム支配のイベリア半島を北からジワジワ取り戻していったという図である。しかし実情は全然違う。領土の奪回を狙ったイベリア半島のキリスト教領主は別に「キリスト教の地」を回復しようなどという意図はなく、単に自分の領土、自分の勢力を拡張したかっただけで宗教の事など頭になかった。現に隣のキリスト教領主の領地を奪い取るために仲良しの(?)イスラム教領主の助けを借りたり同盟を結んだりする、またはその逆が日常茶飯事だったそうだ。当地ではキリスト教徒とイスラム教徒は小競り合いはあってもきちんと共存していたである。
 「レコンキスタ」という言葉に暗示される「キリスト教対イスラム教」という間違った対立図式を無理やりイベリア半島にまで当てはめようとしたのは13世紀の初頭エルサレムを取り戻せと十字軍にハッパをかけたローマ教皇インノケンティウス3世あたりらしいが、とにかく「レコンキスタ」という用語は後から人為的にイベリア半島に投影された観念なので不適切だそうだ。
 もっとも十字軍などキリスト教側が狂信化していった時期にはイベリア半島のほうもアラブ人でなくベルベル人の支配下にあって、このベルベル人はアラブ人より宗教的寛容度がずっと低かったようだ(下記)。それで対立図式が当てはまりやすい状況ではあったらしい。

 第二の確認事項は、アラビア文化とイスラム教は区別して考えないといけないことだ。言い換えると「アラブ化」は「イスラム化」とイコールではないということである。イベリア半島にイスラム教徒がやってきたのは711年、イスラム教が起こった622年から100年も経っていない。軍の大部分を構成するベルベル人を率いていたアラブ人が携えてきた文化は「イスラム文化」ではなく「アラブ文化」である。アラブ人が武力だけでなく文化の面でも世界最高のレベルに達したのは確かにイスラム教をかすがいとして諸部族が統一され、領土がアラビア半島外に広がってから、ウマイヤ朝がダマスクスに、アッバース朝がバグダッドに中心を定めてからだろう。そこでインド、古代ギリシア、メソポタミアなどの知の遺産に触れて高度な文化を築き上げた。だがそれ以前、イスラム帝国がまだアラビア半島から出ない頃にすでにアラブ人たちは詩などの言語の文化を発達させていた。酒を愛し、愛の歓び悲しみを歌う高度な言語文化、そういう下地があったからこそ他の文化に触れて自然科学や数学・哲学を自分たちのものとして消化し、自らの文化をドッと開花させられたのだ。野蛮人だったら(差別発言失礼)そこで相手の高度な文化に飲み込まれて自分たちの文化のほうは消滅させてしまうのがオチだ。イベリア半島に伝わったのはこういうアラブの豪族文化であって必ずしもイスラム文化ではない。だからこそイベリア半島には「アラブ人化したキリスト教」が大量にいたのである(下記)。

 第三点。「スペイン人」、つまり「イベリア半島人」としてのアイデンティティはいつ生じたのか。ローマ帝国時代は自分たちをローマ人と思っていたろうが(もちろんバスク人などローマ以前からの先住民はいた)、帝国崩壊後、5世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の西ゴート人がやって来て支配者となる。だからスペイン語にはロドリゲス、ゴンザレス、エンリケス、アルバレスなど一目でゲルマン語だとわかる名前が多い。だがそのゴート人は上層部に限られ、当時300万人ほどとみられるヒスパノ・ロ―マ人に対してゴート人はたった15万人くらいで、しかも被支配者の文化に飲み込まれてキリスト教となり言語も速攻でロマンス語に転換してしまった。(ということはゴート人はさすがゲルマン人だけあって「蛮族」だったわけですかね)
 歴史家の意見が分かれるのはここからで、伝統的なスペイン史観では、西ゴート人支配下で「イベリア半島人」(原スペイン人)というアイデンティティが生じていたが、8世紀の初頭にアラビア人が「押し入ってきたので」住民は自分たちのアイデンティティを守るべく立ち上がってレコンキスタに持って行った、ということになる。この歴史観を取っている人には例えばサンチェス・アルボルノス Claudio Sánchez-Albornoz などがいる。もう一つは、西ゴート人支配の頃にはまだまだ「イベリア人または(原)スペイン人」としての一体感などなかった、それが生じたのはアラブ人の支配下でイベリア半島が統一されてから、特にああ懐かしや高校世界史で習ったアブド・アル・アフマーン一世下のウマイヤ朝がスペインをまとめてから、そこで初めて自分たちは同一民族であるという意識が生まれたのだという見解。つまりアラブ文化はイベリア半島人の血肉だということだ。近年はこちらの見解の方が優勢だそうで、カストロ Américo Castro などの学者が唱えている。
 
 四つ目の点は、上記の三点全部に関連することだが、イスラム教は本来他の宗教、キリスト教とユダヤ教に対して非常に寛容だったことだ。このこと自体ははさすがに現在の欧州では(まともな教養の人は)皆知っている。知っているは知っているが時とすると忘れそうになる人もいるので再確認しておく必要がある。イスラム教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」ahl al-kitāb と呼んで一目置き、支配地でも宗教の自由を完全に認め、種々の宗教儀式を遂行するのにイチャモンなどつけなかった。ただ他宗教の教徒は人頭税を払わないといけなかったようだ。
 ウマイヤ朝期に首都コルドバでさかんにムスリムをディスっていたキリスト教徒 Eulogius という人物でさえ「このクソ宗教への改宗を強要されたりはしていない」と言っている。後にイスラム教国のグラナダ王国が陥落したとき、キリスト教の支配者がその地に残っていたイスラム教徒に「改宗するかスペインから出ていくか」の二者選択を迫ったのとは対照的である。時代が下ってバルカン半島を支配していた時もイスラム教支配者は基本的に他宗教に寛容であった。そうでなかったらボスニア・ヘルツェゴビナ、シリア、果てはエジプトに現在でも大量のキリスト教徒が暮らしているわけがない。とっくに殲滅されていたはずである。特に成立して間もないイスラム教に支配されていたいイベリア半島にはこの「みんないっしょ」感覚があったらしい。それで上述のように「スペイン人としての一体感はイスラム支配下で発生した」と主張する歴史家もいるのだろう。

 この「イスラム支配下のスペイン」のことを「アル・アンダルス」という。歴史用語である。

 さてそれらの確認事項を踏まえてアラブ人の到来からネブリハの文法書出版に至るまでのイベリア半島の歴史をごくかいつまんで追ってみた。
 上述のようにイベリア半島はラテン語崩れのロマンス語を話すいわばヒスパノ・ローマ人を少数のゴート人の貴族が支配している状態だった。ガッチリ統一された国家でなく諸侯のバラバラ支配だったので結束が弱く、あっという間にアラブ人に入られたのである。711年、アラブ人の将軍ムーサー・イブン・ヌサイルの代理ターリク・イブン・ジヤードが7000人のアラブ人兵士と5000人のベルベル人の兵士を率いてやってきた。それでスペインの最南端が「ターリクの山」、ジャバル・アル・ターリクと呼ばれているのだ。もちろんこれがジブラルタルという名前の語源である。続いて将軍自身もさらに18000人ほどの増強兵力(その多くはベルベル人)を率いて上陸し、あっという間にイベリア半島を支配した。支配者アラブ人の人口は兵士や、後からやってきたその家族を入れても5万人ほどだったのではないかと思われる。それに対してヒスパノ・ロ―マ人は五百万人から六百万だったと、上述とは別の歴史家の推定している(やはり人によってばらつきがあるようだ)。
 ゴート人なんかの文化にはほとんど影響を受けなかったヒスパノ・ローマ人も、このアラブ人の文化は自分たちを遥かに凌駕していることに気づきたちまち影響された。ヒスパノ・ローマ人の四分の一が一世代内でイスラム教に改宗、10世紀には四分の三、後のグラナダ王国では住民の大半がイスラム教徒だったと推定される。この人たちは muladíes、ムラディと呼ばれた。また上述のようにイスラム教徒は他宗教に寛容だったのでキリスト教徒のままでいた住民も少ないとは言えなかった。これを mozárabes、モサラベという。「アラブ人のようになった人たち」という意味だ。モサラベはイスラム教は取り入れなかったが、アラブ文化には強烈に影響された。上述のように「イスラム化」には何世紀かかかっているが「アラブ化」は速攻だったようだ。すでに9世紀にコルドバのアルバロ Álvaro(名前からするとこの人はゴート人である)とかいうモサラベ人がボヤいている:「最近の若いもんはラテン語もよくできないくせにアラビア語の詩だの寓話だのをありがたがり、イスラムの哲学神学の本ばっか読みやがる。アラブ人の言語文学を勉強し過ぎてキリスト教のこと書くのにまでアラビア語の文章語を使いおって、ああ嘆かわしい」
 身近な者がどんどんアラブ化していくのに危機感を持ったのはアルバロばかりではなかったらしく、不満の矛先をイスラム教徒に向けて悶着をおこすこともあったらしい。居辛くなって9世紀ごろからまだアラブ人に支配されていないイベリア半島の北の方に移住する者もいた。もともと人のあまり住んでいなかったところで、支配しても得になりそうになかったのでアラブ人に無視されていたのである。後にここから「レコンキスタ」が始まった。

初期のアル・アンダルス。ウィキペディアから。
By Al-Andalus732.jpg:Q4767211492~commonswiki (talk · contribs)EmiratoDeCórdoba910.svg:rowanwindwhistler (talk · contribs)derivative work: rowanwindwhistler (talk) - Al-Andalus732.jpgEmiratoDeCórdoba910.svg, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59750789
Al-Andalus732.svg
 ウマイヤ朝に続くコルドバ・カリフ国の終わりごろ、11世紀の初頭から国が分裂しはじめ、小国相対するいわば戦国時代になった。これをターイファ tā’ifa 時代という。面白いことにこの、政治的に不安定だった時期に優れた詩人や思想家・芸術家が続出した。諸侯が権力を誇示するために武力をひけらかすばかりでなく、競って芸術の擁護者たろうとしたからである。セビーリャのアル・ムタミド・イブン・アッバード al-Mu'tamid ibn Abbad など自らが詩人である領主もいた。
 一方このターイファ諸侯が周りとの戦いのためアフリカからベルベル人の傭兵をさかんに呼び寄せたことから政治状況がさらに不安定になった。ベルベル人がアラブ人に取って代わってアル・アンダルスを支配するようになったからである。この時期にやってきたベルベル人は、ムーサー・イブン・ヌサイルやウマイヤ朝のアラブ人と共に来たベルベル人とは分けて考えないといけない。前者はイスラム教徒だったばかりでなくアラブ文化にも同化していたが、後者はアラブ化はせずイスラム教だけ取り入れた集団であったからだ。背景となったアラブ文化、その寛容さや享楽的な背景なしでイスラム教だけ取り入れたらどうなるかは簡単に想像がつく。彼らは今でいうイスラム原理主義だった。キリスト教に対するのと勝るとも劣らない批判の目をアル・アンダルスの「堕落した」イスラム教徒に向けた。例えばそこでよく詠まれていたペルシャのイスラム神学・哲学者アル・ガザーリー al Ghazālī の著書を焚書に処したりしている。またコルドバ・ウマイヤ朝やカリフ国がダマスクスやバグダッドの当時世界最高の文化と密接な交流があったのに対し、ベルベル人の臍の緒は常に北アフリカと繋がっていた。11世紀からアル・アンダルスを支配したベルベル人の王国アルモラヴィド朝もその後継者のアルモハード朝も首都はイベリア半島にでなく、モロッコのマラケシュにあったのだ。このベルベル人支配の下でキリスト教モサラベ人はコルドバ・カリフ国より格段に居辛くなった。「居辛く」というより追放令も出たそうだ。そのモサラベの脱出先、北の方も北の方で上述のように十字軍のころ、キリスト教側も狂信的になっていたころである。しかもピレネーの向こう側から助っ人がワンサとやってきた。ボソング Georg Bossong という史学者はこの状況を「ヨーロッパ化したキリスト教とアフリカ化したイスラム教、つまり十字軍とジハードの衝突」と言っている。この二者がアル・アンダルスを引き裂いたのである。
 言い換えると、もし「イスラム教がイベリア人のアイデンティティを分断した」とどうしても考えたいのなら、それはアラブ人のことではない、(第二波の)ベルベル人である。そして文明文化をもたらしたアラブ人は「イベリア人」の側なのだ。
  そういえば昔当時のスペインを題材にした(という)『エル・シド』という映画があったが、あれも注意しないと解釈を誤る。原作の叙事詩にすでに脚色があることに加え、映画も原作に忠実とは言い難く、しかもご丁寧にキリスト教スペクタクル映画の定番チャールトン・ヘストンが主役なので、どう見ても「イスラム教と戦ったレコンキスタのキリスト教英雄伝」にしか見えない。しかし実際のエル・シド、Rodrigo Díaz de Vivar あるいは Ruy Díaz de Bívar はむしろターイファの騎士で、カスティリアのキリスト教領主から、サラゴサのイスラム教領主へ転職し(これはあくまで「転職」であって裏切りとかそういうものではなかった。上述のようにアル・アンダルスではユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「みんないっしょ」だったからである)、その領主に何年も忠実に使えている。そして共にバレンシアに攻め入ってきたアルモラヴィド人(ベルベル人)と戦ったのである。この映画のラストをおぼろげに覚えているが、エル・シドの死体が馬に乗せられて戦場を駆け抜けるとき(あらネタバレ)、ターバンを巻いた兵士たちが畏怖の念に憑かれてサーッと引いていく。あれらの兵士はアラブ人ではない、北アフリカの「異民族」ベルベル人のはずだ。これを単純に「イスラム戦士」といっしょくたな解釈をしてはいけない。

アルモラヴィド朝の領土。首都はスペインでなくモロッコのマラケシュにあった。
https://historiek.net/al-andalus-het-spanje-der-moren/74627/から

Het-imperium-van-de-Almoraviden
 さてこのベルベル人は戦いでは勇敢、宗教的には生真面目だったが、政治の駆け引きや人民の統治能力がなく、どんどんその領土を失っていった。キリスト教徒の南進によって、その領土内には大量のイスラム教徒が居残ることになる。彼らは町の中心部からは立ち退かされたが、領内に住むこと自体は許され、宗教の自由も認められた。これらのイスラム教徒を mudéjares、ムデハルという。「居住を許された者」という意味だ。このムデハルも言語や文化の面でキリスト教側に大きな影響を及ぼした。
 13世紀半ばにはセビーリャがキリスト教徒の手に落ち、イベリア半島はほとんどキリスト教側の支配下に入った。その「ほとんど」を維持し、1492年まで200年に渡ってイスラム教の王国として持ちこたえ、高度な文化を維持したグラナダのナスル朝はアラブ人の国である。武力ではなく政治手腕で持ちこたえた国だったが、とうとうグラナダの陥落する時がやってきた。最後の王アブー・アブダラー Abū ʿAbdallāh はキリスト教側の降伏要求に応じて1492年1月2日宮殿の鍵を手渡したのである。王はグラナダから追われ最後に峠から町を一瞥して溜息をついた。その峠が現在 El Suspiro del Moro「ムーア人の溜息」と呼ばれる場所である。それを見て王の母が言ったそうだ:「何を女みたいにメソメソしているの?町を取られたってあなた、それを守り切れなかったのはあなたでしょ」。もちろんこれは単なる伝説である。
 細かい事を言えばアブー・アブダラーはアラブ人であってムーア人、つまりベルベル人ではなかったはずだが、グラナダ王国の時期には北から「居辛くなった」ムデハルが多数う移住してきてある程度均等な社会を構成しており、住民レベルではアラブ人とベルベル人の区別は薄れていたそうだ。
 溜息の後アブー・アブダラーは北アフリカに渡り、モロッコのフェズで不幸な生活を送りそこで死んだ。

(前置きだけで記事が終ってしまいました。この項続きます。)

「レコンキスタ」進行の様子。最後の砦グラナダ王国も1492年陥落した。
http://ferdidelange.blogspot.com/2018/05/reconquista-van-miquel-bulnes-is.htmlから

2000px-Reconquista_(914-1492).svg


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 前回大まかに歴史背景を確認したが、イベリア半島の住民、バスク人、ゴート人、ユダヤ人、アラブ人、ベルベル人、ヒスパノ・ローマ人、宗教的にはモサラベ、ムラディ、ムデハルといった人たちは互いにどんな言語で話し、どんな言語を書いていたのだろうか。

 まあバスク人は北の方でバスク語を話しラテン語で書いていたのだろうが、その他の民族の言語生活は複雑だったらしい。宗教と言語が一致していなかったのである。文化的に圧倒的に上位にあったアラブ人の言語が広がり、キリスト教のモサラベまでアラビア語で読んだり書いたり話したりするようになってしまったことは前回書いた。つまり日常会話はアラビア語で行われていた。このアラビア語と言うのはもちろん書き言葉(ファーガソンのいうHバリアント、『162.書き言語と話し言語』参照)ではなく、それと著しく異なった口語のアラビア語である。バグダードのでもアラビア半島のでもない、アル・アンダルス特有のアラビア語口語が発展していた。当地のアラブ人が話していたのもこれである。
 しかしそのアラビア語口語と並行して住民はヒスパノ・ローマ語も日常会話に使っていた。西ゴート人が言語的にはヒスパノ・ローマ人と同化してしまったことは前回書いた通りだが、アラブ人の側にもこれのできる人がいくらもいた。これも前述の詩人国王アル・ムタミド・イブン・アッバードなどもヒスパノ・ローマ語がペラペラだったそうだ。ユダヤ人も日常話していたのはもちろんヘブライ語でなくヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語だった。ムラディにもヒスパノ・ローマ語を母語とする者多くいた。だから上で「日常会話はアラビア語で行われていた」と書いたのはやや不正確で、「アラビア語でも行われていた」としなければいけない。要するにバイリンガルな言語社会だったのだが、 言語社会がバイリンガルだと個人レベルでもバイリンガルな人が大勢いるということで、上の詩人国王なども決して例外ではなかったのだろう。
 注意すべきはこの「ヒスパノ・ローマ語」である。これは現在のスペイン語の直系の先祖ではない。モサラベ語、つまりモサラベ人の言語と言い(繰り返すがこれを話していたのはモサラベだけではない)、当時のカスティーリャ語とは著しく違った別言語である。アラブ人からはaljamía 「外国語」と呼ばれていた。現在イベリア半島に残っているロマンス語はポルトガル語、カスティーリャ語、カタロニア語しかないから、モサラベ語はつまり死語ということになる。『154.そして誰もいなくなった』でも書いたようにバイリンガル状態では一方の言語がもう一方の言語に押されて消滅してしまう危機があるが、ムスリム領内でのモサラベ語も文化語アラビア語に押され気味だったようで、9世紀には書き言葉までアラビア語を使うようになっていたモサラベも多かった(前項で述べたアルバロがボヤいた通りだ)。非寛容なベルベル人支配下ではモサラベはムスリム支配地から北へ脱出し、そこでカスティーリャ語に影響を与えながら吸収されていった。つまり現在スペイン語に夥しく見られるアラビア語要素は直接アル・アンダルスのアラビア語からだけではなくモサラベ語を通して受け入れたのもあるということだ。そうやって話者数は減ってはいたがそれでも13世紀前半には十分話者がいたそうだから、ネブリハの「カスティーリャ語文法」の想定読者にはモサラベ人も含まれていたはずだ。
 忘れてはいけないのがベルベル人である。「第一波」のベルベル人はアラブ人に同化してアラビア語を話していたが、「第二波」、ターイファ時代以降にやってきた人たちはそのままベルベル語を話していた。これもアラビア語に押されていたことは想像に難くない。
 さてそれらの人々の書き言葉はなんであったか。まずアラビア語文語である。ムスリムは当然としてこれで書いていたが、上述のように一部のモサラベ人も使っていた。ユダヤ人もこれで文学活動をしていた。その文章語ヘブライ語は姉妹言語アラビア語の影響を受けてさらに発展したそうだ。キリスト教徒側の文章語はもちろんラテン語だ。つまりアル・アンダルスには理論上1.アラビア語口語とアラビア語文語、2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語、4.ヒスパノ・ローマ語とヘブライ語、5.アラビア語口語とヘブライ語、6.アラビア語口語とラテン語、7.ベルベル語とアラビア文語という7種類のダイグロシアが存在していたということである。前者がLバリアント、後者がHバリアントだ。6はアラビア語を話すようになってしまったモサラベを想定したものだが、とにかく極めて複雑な言語社会だったに違いない。その上Lバリアントのバイリンガルが個人レベルで異なったダイグロシア間を行き来していただろうから複雑さがさらにグレードアップする。
 
 文化的に圧倒的に優勢だったのはアラビア語文語だが(ターイファ時代までは政治的にも圧倒していた)、これも前回述べたように(しつこい)アラブ人はイスラム以前にすでに言語文化を発達させており、ペルシャやギリシアの文明を自分の言葉に翻訳して増幅発展させることができた。現在の自然科学もアラブ人が知識をその言語にまとめて体系化してくれていなかったら、あちこちの言語に様々な知識がバラバラとある状態が長く続き、発展が今より遅れていたかもしれない。だから私は個人的に「アラブ人が自分たちで発明したものはほとんどない、他の文化を吸収して他に伝えただけだ」という言い方は不当だと思っている。「他の文明を吸収して他に伝える」と簡単に言ってくれるが、吸収する側にそれに見合った土台、よほどの言語文化がないとそんなことはできない。その「よほど」の例としてアッバース朝が9世紀始めにバグダッドに建てた「知恵の館」という図書館がある。世界各地からいろいろな文献を収集したばかりでなく、そのアラビア語翻訳も行っていた。アラビア語とギリシャ語ができたシリアのキリスト教徒などが従事した、世界の知の中心地であった。ここでアラビア語文語にさらに磨きがかかったのである。
 この翻訳文化、書物への敬意精神が3世紀の後アル・アンダルスに飛び火した。ただそこではアラビア語のほうが翻訳される側だった。すでに11世紀初頭にリポルRipoll という町の僧院にアラビア語文献の翻訳所が開かれ、その後12世紀始めに大司教ライムンドらによってトレドに翻訳学校が設置された。このトレドの翻訳所は有名だが、ギリシャの自然科学や哲学、ペルシャやアラビア文学ばかりでなく、コーランまで翻訳されたそうだ。それも1134年と1210年の2回もである。翻訳言語は当然ラテン語であった。
 この翻訳の過程がまた面倒で、まずアラビア語文語の読める者、モサラベあるいはムデハル、あるいはユダヤ人が当該テキストの内容をヒスパノ・ローマ語、つまり口頭で脇に控えているヨーロッパ中からやってきた識者に伝える。それを聞いて識者がラテン語に書き取るのである。上で言う2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語というダイグロシア型の話者が共通のLバリアントを通して交流したということだ。その共通Lバリアントが専らヒスパノ・ローマ語だったということは6.アラビア語口語とラテン語のパターンの話者は極めて少数だったか、ほぼ全員ヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語のバイリンガルだったのだろう。とにかくこうして様々な文献が訳された。ヒポクラテスもアリストテレスもプトレマイオスもアラビア語から訳されたのだ。ペルシャの大学者イブン・スィーナー (本名はこれより遥かに長い。下記参照)の著書が訳されたのもここだ。ただその際名前がちゃっかりラテン語化されてAvicenna アヴィケンナとなり、こちらの名のほうが有名で、この人があくまでイスラム哲学者であることがかすんでしまっている。
 レコンキスタが進んだ1248年にはその地はカスティーリャ王国の支配下に入ったが、その王アルフォンソ10世はさすが「賢王」 Alfonso el Sabio と言われただけあって学術を奨励し宗教に寛容でトレドに第二の翻訳学校を建てた。翻訳する側の言語はカスティーリャ語だった。ダイグロシア崩壊の下地はここら辺から作られていったらしい。日本の言文一致運動もそうだったが、口語をもとにした書き言葉を磨き上げるのに翻訳が果たす役割は大きい。そしてこれも日本と同様、いきなり口語オンリーにするのも困難で、ラテン語への翻訳も続いてはいた。コルドバ生まれの大哲学者アブー・アル・ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(こんな名前が覚えられるか)の著書もこの時期にラテン語名アヴェロエス Averoes (これなら覚えられる)で翻訳されている。
 考えてみるとこの翻訳文化が大開花したのはヨーロッパではすでに十字軍が開始されアル・アンダルスはベルベル人が支配していた、政治的には非寛容色が強まっていった時期である。そういう時期でもキリスト教・イスラム教双方の側にこういう人たちがいたのだ。「みんないっしょ」のアル・アンダルスメンタリティの残照はまだ残っていたのか。

  もう一つアル・アンダルスの言語接触の例として詩があげられる。アル・アンダルスで特有のアラビア語口語が発達したことは上で述べたが、さらに10世紀ごろから新しい詩の形式が発展した。ムワッシャハ  muwaššaḥ (スペイン語で moaxaja)といい、連構造を持ち脚韻交代にパターンのある形だが、そのムワッシャハの最終連の後にハルジャ harǧa (スペイン語で  jarcha )というオマケといっては失礼すぎるがリフレーンのようなものがついていたのである。このハルジャがロマンス語史上極めて重要で、アラビア語文語でなくヒスパノ・ローマ語(つまり事実上モサラベ語、まれに古カスティーリャ語)で書かれていた。これが「ロマンス語で書かれた最古の詩」で11世紀初頭にまで遡れ、やっと12世紀に始まったオクシタンのトルバドゥール抒情詩より100年も古い。その一つを見てみると:

tanto amare, tanto amare, habîbi tanto amare!
Enfermeron olyos nidios, ya duolen tan male!

愛をたくさん、愛をたくさん、愛しい人 愛をたくさん!
輝く目が病気になった、ああ痛い痛い!
(無粋な訳ですみません)


これを今のスペイン語にすると次のようになるそうだ。

¡De tanto amar, de tanto amar, amigo, de tanto amar!
Enfermaron unos ojos brillantes, y que ahora duelen mucho.

注意しないといけないのはこれらハルジャが元々アラビア文字またはヘブライ文字で書かれていたことである。ということは母音が表記されていなかったのだ。またアラビア語文語の詩の尻尾にくっ付いていたことや、時々アラビア語からの借用語が使ってあったりするため(上の habîbi (太字)がそれ)、長い間誰もこれがロマンス語であることに気付かず、やっと1948年になってからスターン Samuel Miklos Stern という学者がこれが実はロマンス語であることを「発見」した。だからここに出したラテン文字の例はそのアラビア語表記からいろいろな学者が苦労して再構築したものである。同じハルジャでも解釈者によって表記が違っていたりするのもそのためだ。スターンに続いてゴメス García Gómez が1952年にさらに24のハルジャを見つけた。現在では60以上の作品が収集されている。
 ハルジャのモティーフは若い女性がつれない恋人の態度を嘆いたりするなど本家アラビア詩にはあまり見られなかったものだが、それにしてもアラビア語で詩を詠んだ後突然モサラベ語にコード転換してオマケを付けるという発想はどこから出てきたのか。そもそもハルジャを詠んだのはアラビア語の本歌を作った本人なのか。第一の疑問については当時は詩は朗読するものではなく節をつけて歌うもので、ムスリムとキリスト教徒は単に共存していただけでなく一緒に文化活動もし歌もいっしょに歌っていたからだという説を見た。「聴衆」も過半数はヒスパノ・ローマ語の母語者だったろうからそれにも配慮したのかもしれない。第二の疑問点だが、ハルジャはアラビア語詩人本人が作ったのではなく(そういう人もいたろうが)、記録には残っていないがすでに10世紀にはヒスパノ・ローマ語で作られた歌詞の原形のようなものがあり、アラブ詩人がそれを引用したのではないかとも言われている。
 このムワッシャハからさらにザジャル zaǧal(スペイン語で zéjel)という詩形が生まれた。ムワッシャハの連構造を引き継いでいるが、文語でなく全てアラビア語口語やヒスパノ・ローマ語で詠まれたものだ。このザジャルがカスティーリャ語の詩の発展に絶大な影響を与えたであろうことは容易に想像がつく。初期カスティーリャ語の詩のモティーフや登場人物の名前を見てもアラビア語口語のザジャルの詩にその原本が見いだせる例は枚挙にいとまがないそうだ。
 また15世紀のカタロニア語の詩集(歌集)に次のような作品があって注目に値する。

Di ley vi namxi
Ay mesqui
Naffla calbi

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero finar

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero morir.

最初の3行(イタリック)を長い間誰も解読できないでいたところ、ソラ=ソレ Josep Maria Solà-Solé という学者がこれがアラビア語であることに気づき次のように解読した。

(b)ille [h]i bi[k] namxi
Ay m(i)squi
Na(ḥ)la qualbi

詩全体を訳すとこうなる:

神よ、貴方と歩く
おお麝香
貴方は私の心を甘美にする(ここまでアラビア語)


貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛のあかしに歌を詠おう

貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛にためなら命をささげよう
(韻にも何もなってないヘタレ訳ですみません)

これはムワッシャハから「二か国語構成」というアイデアを受け継いだのだろう。尻尾でなく頭にいわば「逆ハルジャ」がくっついている。15世紀と言えばすでにグラナダ王国以外のイベリア半島がキリスト教徒の支配下に入っていたころだ。しかも北方のカタロニアはもともと最初からムスリムの支配をあまり受けていない。それでもアラブの精神文化の影響は強烈だったのだ。

 1492年、グラナダ王国が陥落し、ネブリハが新しい支配者の言語の普及を試みた時、イベリア半島はこういう多言語状態であった。さてこの豊饒な言語文化はその後どうなったのだろうか。残念ながらまさに「イヤな予感」通りの展開となったのである。
 グラナダ王国が消滅した時点でイベリア半島全体に住んでいたムデハル(前項参照)は後ろ盾を失った。またグラナダを占領した「ヨーロッパ化したキリスト教徒」は初期ムスリムのような寛容さは持っていなかった。1498年にはムスリムを強制的に改宗させる措置が始まり、1499年にはグラナダでアラビア語の本が焚書に付された。続いて1502年、カスティーリャでは「ムスリムは改宗するか出ていくかのどちらかにしろ」という正規のお触れが出た。これで出て行ったムデハルも多いが、これが1526年にはさらに強化されて、宗教だけでなく「ムスリムのような生活様式」まで禁止された。少し遅れてアラゴンでも1525年に人口の3分の1を占めていたと思われるムデハルの強制改宗令が発布された。これら、1492年以降にキリスト教に改宗したムスリムをモリスコ moriscos というが、改宗した後もなお不信の目で見られ続けた。というのもイスラム教では確かに一旦アラーに誓いを立てたものが他宗教に寝返るのは死に値する罪ではあったが抜け道があったのである。改宗が外からの強制による場合は、改宗したふりをして十字を切ってもいい、心のうちでこっそりアラーを信じよという隠れムスリム作戦が許されていた。キリスト教側はその心の領域まで完全に同一化しようとしたのである。1565年にはアラビア語の使用が禁止されモリスコの財産が没収されたりした。ここまでやられたらモリスコは反乱を起こすか(起こしたモリスコもいるが残酷に鎮圧された)出ていくしかない。
 1609年、モリスコの大量追放が始まり、当時推定850万人の人口の30万人を占めていたモリスコが主に北アフリカに追放された。その後1614年、何とか僻地に住んでいたモリスコも一掃され、イベリア半島はムスリムがいなくなった。
 
 しかしそれまで文化面では本家バグダッドがモンゴル人に破壊された後も200年間その世界最高文化を維持し、経済面では特にイベリア半島東部で農業や様々な産業に従事してイベリア半島を支えていたモリスコがいなくなったことで、スペインは経済も文化も空洞化した。そのスの入った国内経済の穴埋めのため、スペイン政府は血眼になってアメリカ大陸を略奪し金銀を奪ったが、国内産業がスカスカなのに略奪品だけで国家財政を保つなど無理がありすぎる。モリスコ追放令を出す以前、ムデハルをジワジワいびり出していっていた時点、1575年にスペインはすでに一度国家破産しているのだ。そこへ持ってきてのモリスコ追放は「スペインにとって人道面だけでなく、経済面でも大災害であった。17世紀以降スペインが衰退していった大きな原因がこれである」と上述のボソング教授は言っている。

この名曲もこのような歴史を考慮して改めて聞いてみるとさらに胸に迫るものがある…



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