アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:群盗荒野を裂く

 マカロニウエスタンは1960年の終わりに頂点に達したのち70年代に入ると衰退期に入るが、その前にちょっとしたサブジャンルがいくつか生じた。 その一つが俗に「メキシコ革命もの」と呼ばれる、フアレス将軍時代のメキシコ革命をモチーフにした一連の作品である。直接メキシコ革命を題材にしていないもの、たとえばセルジオ・ソリーマの『復讐のガンマン』でもトマス・ミリアン演じるメキシコ農民がセリフの中でフアレスの名を口に出したりしている。いかにも最初から社会派路線を打ち出したソリーマの映画らしい。

 実はどうしてマカロニウエスタンにはメキシコ革命のモチーフがよく出て来るのか以前から不思議に思っていたのだが、次のような事情を鑑みると結構納得できるのではないだろうか。

1.このサブジャンルが盛んに作られたころから1970年代の始めにかけてはイタリアやフランスで共産党の勢力が強かった頃で、調べによればイタリア共産党(Partito Comunista Italiano)は当時キリスト教民主党(Democrazia Cristiana)と協力して連立政権を取りそうな勢いさえあったそうだ。

2.メキシコ革命もののマカロニウエスタンの代表作といえる『群盗荒野を裂く』(監督ダミアーノ・ダミアーニ、1966)、『復讐無頼・狼たちの荒野』(監督ジュリオ・ペトローニ、1968)などの脚本を手がけたのはフランコ・ソリナスだ。 ソリナスは『豹/ジャガー』(監督セルジオ・コルブッチ、1968)でも原案を提供しているし、上述の『復讐のガンマン』でもクレジットには出ていないが脚本に協力したそうだ。この人はその前に『アルジェの戦い』の脚本を書いてオスカーにノミネートされ、後にはオスカーばかりでなくベネチア、カンヌでも種々の賞をガポガポ取ったコンスタンチン・コスタ-ガヴラスと『戒厳令』(1972)で脚本の共同執筆をした政治派で、おまけにイタリア共産党員である。

3.そもそも映画監督だろ脚本家だろには、左側通行だったり反体制のヘソ曲がりだったり、あるいはそのどちらも兼ねている人が多い上に、たとえマカロニウェスタンの監督であっても(おっと失礼)皆インテリで正規の映画大学などで教育を受けているのが普通だから、ゲラシモフだろエイゼンシュテインだろプドフキンだろのソ連の古典映画を教材にしたに違いない。

4.そうでなくても当時のイタリア映画界はソ連映画界と結構仲がよく、1971年にはダミアノ・ダミアーニがモスクワ映画祭で金メダルを取ったりしている。 残念ながら(?)『群盗荒野を裂く』ではなく『警視の告白』という作品である。そういえば黒澤明がソ連でデルス・ウザーラを取った時、日本側の世話人(プロデューサーと言え)が松江陽一氏、ソ連側がカルレン・アガジャーノフ氏だったが、イタリア映画実験センター(チェントロ)で映画の勉強をしていたことがある松江氏もそしてアガジャーノフ氏も(なぜか)イタリア語が話せたので外部に洩れては困る会話はイタリア語で行なったそうだ。

5.アガジャーノフ氏もチェントロにいたのかどうかは知らないが、とにかく当時のイタリア映画界はソ連映画界と結構密接につながっていた模様だから、「革命」のモチーフはソ連から来たのかもしれない。

 こうして意外なところで自分の専攻したスラブ語学とマカロニウエスタンがつながったので無責任に喜んでいたが、さらにちょっと思いついたことがある。、一つは1965年に西ドイツで製作されたDer Schatz der Azteken(「アステカの財宝」)という映画だ。いわゆるカール・マイ映画と呼ばれる一連の映画の一つである。主演はヴィネトゥ・シリーズを通じて(『69.ピエール・ブリース追悼』参照)ピエール・ブリースと共演していたレックス・バーカーで、1864年ごろのメキシコ革命時が舞台になっている。映画そのものはあまり面白いと思わなかったし、ブリースも出ていなかったためか興行的にもヴィネトゥ映画ほどは成功しなかったようだが、カール・マイ映画群がある意味ではマカロニウエスタンの発生源であることを考えると、案外この映画あたりがモチーフ選択に影響を与えたのかもしれない。『アステカの財宝』は時期的にも『群盗荒野を裂く』が作られる直前に製作されている。

 もうひとつ、1968年にアメリカで製作された『戦うパンチョ・ビラ』という映画がメキシコ革命を題材にしていたのを思い出してちょっと調べてみたら、これがもうびっくらぼんで、何とフランク・ヴォルフとアルド・サンブレルが出演している。ヴォルフもサンブレルも、普通に普通の映画を見ている常識的な人は誰もその名を知らないが、マカロニウエスタンのジャンルファンなら知らない人はいないという、リトマス試験紙というか踏み絵というか、「知っている・知らない」がファンかファンでないかの入門テストになる名前である。もっともそんなものに入門を許されても何の自慢にもならないが。そのヴォルフはレオーネの『ウエスタン』の冒頭にも出てきてすぐ殺された。マカロニウエスタンの最高峰作品の一つ、セルジオ・コルブッチの『殺しが静かにやって来る』にも出ている。サンブレルのほうもやたらとマカロニウエスタンに出ちゃあ撃ち殺されているので名前は知らなくとも顔だけは知っている人も多いだろう。上述の『群盗荒野を裂く』にも出てきてやっぱり撃ち殺されていた。
 さてさらに『戦うパンチョ・ビラ』の製作メンバーを見ていくと、脚本をサム・ペキンパーが担当している。マカロニウエスタンが逆にアメリカの西部劇に影響を与えたことは有名な話、いや話を聞かなくても当時のアメリカ西部劇をみれば一目瞭然であるが(現在でもタランティーノ映画を見ればわかる)、そういう話になると必ずといっていいほど例として名を出される『ワイルド・バンチ』の監督である。
 
 驚いたショックでさらに思い出してしまったのがエリア・カザンのメキシコ革命もの『革命児サパタ』だが、これは製作が1952年だから時期的に古すぎる。マカロニウエスタンと直接のつながりはないだろう。たぶん。
 

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 先日日本で言うならNHKにあたる国営放送局が夜中の1時15分からダミアーノ・ダミアーニ監督の『群盗荒野を裂く』(原題Quién sabe?)を流してくれた。寝るべきか見るべきか悩んだのだが、この映画は一回しか見てないし、DVDも持ってないので見ることにした。
 これは1966年製作だが、すでにこの辺からマカロニウェスタンが後の時期に進んでいく方向、つまりメキシコ革命路線の萌芽が見える(『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』の項参照)。この『群盗荒野を裂く』とあとソリーマの『復讐のガンマン』あたりがパイオニアだろう。
 『群盗荒野を裂く』は当時とてもヒットした映画で、作品の質的にもマカロニウェスタンのベスト10に入るのではないだろうか。事実『86.3人目のセルジオ』の項であげた非レオーネ西部劇ランキングでも6位に入っている。レオーネのいわゆるドル三部作と4作目『ウエスタン』を加えても、つまりマカロニウエスタン全体でのランキングをつけても6+4=で10位には入賞する勘定だ(『夕陽のギャングたち』は勘定にいれなかった)。ライナー・ファスビンダー監督もこの映画が非常にお気に入りで彼のLiebe ist kälter als der Todという作品はここからインスピレーションを受けているそうだ。

 『78.「体系」とは何か』の項でも述べたが、マカロニウエスタンと言うのはジャンル内部での相互引用が激しく、しかもそれを全く隠さないから「ああ、あのシーンはあの映画から持ってきたんだな」とか「この登場人物はあの映画のあの登場人物の焼き直しだな」とかモロにわかるため、一つ作品を見たら最後、その引用元の映画もつい見たくなってしまい、そしてその元の映画というのもさらに別の映画からの引用シーンが明らかだから、そちらもまた見たくなるというわけで、「そういえばあれもこれも」と芋蔓式に延々とマカロニウェスタンばかり見続けるハメになる。一旦落ちると絶対に抜けられなくなるアリ地獄のようなものだ。
 この『群盗荒野を裂く』も私のような素人目にさえわかるほどジャンル内の他の作品とのつながりぶりがすごかった。1966年と言えばマカロニウエスタンが発生してからまだ日の浅い頃、つまりこれは初期の作品だから、この映画が他の作品とつながっているというより他の作品がこの映画とつながっているというべきだろうが。とにかくあのジャンル独特の閉鎖空間のなかにある作品ではある。どこかで見たシーン、デジャヴ満載だった。例えば:

1.しょっぱなにアルド・サンブレル(『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』の項参照)が出てきたと思ったら定式どおりすぐ撃ち殺された。しかも撃ったのがジャン・マリア・ヴォロンテで、あまりにもパターン通りの面子なので感心した。ただ、サンブレルが珍しくチンピラ役でなくメキシコ軍の将校、というまともな役だったので「おっ」と思った。

2.クラウス・キンスキーが相変わらずサイコパススレスレの人物役で登場。しかも一度聖職者姿になる。主役の一人がルー・カステルだから、見ているほうは『殺して祈れ』(『12.ミスター・ノーボディ』参照)あたりが背後にちらついて仕方がない。ただし製作年は『殺して祈れ』(1967)の方があとだから、ひょっとしたらこちらのほうが『群盗荒野を裂く』からインスピレーションを受けたのかもしれない。聖職者姿といえば、1971年にも『風来坊 II/ザ・アウトロー』でテレンス・ヒルとバッド・スペンサーのコンビが(『79.カルロ・ペデルソーリのこと』参照)やっぱり僧服を着て登場する。そんなことを思い出すので、この二つの映画までもう一度見たくなってくる。ちなみに、この映画ではキンスキーはあくまで「スレスレ」であって、完全なサイコパスであった他の映画群よりまあまともな人物ではあった。彼も定式どおり最後には撃ち殺された。

3.ジャン・マリア・ヴォロンテとクラウス・キンスキーが兄弟という設定。この、「どう見ても兄弟には見えない兄弟」というのもマカロニウェスタンの定番で、上に述べたテレンス・ヒルとバッド・スペンサーのコンビが典型だろう。確かジョージ・ヒルトンとフランコ・ネロが兄弟役をやった映画があったが、なんと言っても「無理がありすぎる兄弟設定」の最たるものは『夕陽のガンマン』だろう。ジャン・マリア・ヴォロンテに殺されたあの美女がリー・バン・クリーフの妹(姉か?)などという設定は無理すぎる。クリント・イーストウッドが最後のほうで女性の写真を見ながらバン・クリーフにいう「その写真、あんたによく似ているのは偶然かい?」というセリフを聞いてのけぞったのは私だけではないはずだ。

4.音楽が一部『続・荒野の用心棒』に使われたのと全く同じ。メキシコ正規軍が出てくるたんびに同じ曲を流されるとしまいにはいったいどっちの映画を見ているのかわからなくなってくる。確かにクレジットには「音楽ルイス・エンリケス・バカロフ」とあるから、自作の曲のリサイクルも許されるだろうが、できれば全部新曲でやってほしかった。なお、クレジットにはモリコーネの名も見える。ということはつまり共同であたったのか?そういわれてみるとちょっと音楽が不統一な感じだった。この「別の映画のテーマ曲をそっくり使う」というのは『情け無用のジャンゴ』でもそうだった。音楽が別の映画と全く同じことにはすぐ気づいたのだが、それがどの映画だったのかが思い出せない。今まで見たことのあるマカロニウェスタンを始めからまた全部見直してみたくなって困った。

5.この映画でも機関銃が重大な役割を演じる。おまけに上でも述べたようにその背後に流れる音楽がエンリケス・バカロフだから、これはほとんど『続・荒野の用心棒』そのものだ。ただしここでの機関銃は『続・荒野の用心棒』でフランコ・ネロがぶっ放したのとはモデルが違い、弾がヒキガエルの卵みたいにベロベロつながったベルト状になっていないで、原始的なカートリッジ方式。普通のライフルの弾をそこにはめ込めばそれで撃てる、つまりわざわざ専用の弾丸を用意する必要がない、とヴォロンテの革命軍の一味の者が自慢げに説明していた。ネロのガトリング砲と比べてバージョンが上がっているのか下がっているのか、火器の知識が全くない私にはわからない。
 ガトリング砲といえば他のマカロニウェスタンで手回しオルガンならぬ手回し砲をみたことがある。砲手がうしろでクランクをぐるぐる回して撃つ方式だった。ついでに私は長い間「ヴァルカン砲」という言葉を普通名詞だと思っていたのだが、この名称は「セロテープ」と同じくある特定の会社の製品を意味するのだそうだ。だからヴァルカン砲のことも「ガトリング砲」と呼んでいい、と聞いたが本当だろうか?
 なお『続・荒野の用心棒』は本国イタリア公開が1966年の4月、『群盗荒野を裂く』が同年12月である。ダミアーニ監督が前者からインスピレーションを受けた可能性もあるが、一方この監督はコルブッチと違ってパクリを売り物にしてはいないから私の気のせいかもしれない。

6.ストーリーにちょっとソリーマの『血斗のジャンゴ』を想起させる点がある。『群盗荒野を裂く』でルー・カステルのやった役は政府側の回し者で、まず敵の一味に仲間として侵入するが、その際ボスの信用を得るためにちょいと一人二人人を殺して見せて仲間にしてもらう。もちろんこういう展開はそこら中の映画で見かけるから特にマカロニウエスタンの内輪引用と言い切ることはできないだろうが、ルー・カステルも『血斗のジャンゴ』で対応する役をやったウィリアム・ベルガーも金髪でちょっと共通点があるとは思った。しかもどちらの映画ででもジャン・マリア・ヴォロンテを相手にしている。だからここのカステルはベルガーを経由してさらに『殺しが静かにやって来る』のクラウス・キンスキーともつながって来るのである。
 さらにクレジットをよく見てみたらこの『群盗荒野を裂く』は脚本がフランコ・ソリナスだった。ソリナスは『復讐のガンマン』でも『血斗のジャンゴ』(ただしこれらではクレジットにはソリナスの名は出ていない)でもアイデアを提供したそうだから、本当につながっているのかもしれない。製作は『血斗のジャンゴ』(1967)のほうが一年もあとである。また、『群盗荒野を裂く』では最後にジャン・マリア・ヴォロンテがルー・カステルを撃ち殺すが、『血斗のジャンゴ』ではヴォロンテはウィリアム・ベルガーを撃ち殺そうとして逆にトマス・ミリアンに撃ち殺される。
 『血斗のジャンゴ』でも『群盗荒野を裂く』でも時の権力者に対する反感と庶民と言うか弱いものに対する共感が明確だが、これはマカロニウェスタンの監督、というかそもそもイタリアの監督・知識人はほとんど「左派」、ソリーマに至ってはファシスト政権下で共産党員だったことがあって仲間が秘密警察に拷問されて殺されたそうだから、まあ当然といえば当然だろう。モリコーネも穏健左派だそうだ。

 さらにこれも以前に書いたが、マカロニウエスタンというのは俳優や監督がいつも同じような面子であるばかりではなく、出演俳優や監督の相当部が「マカロニウエスタンでしか見られない顔と名前」であることが、独特の閉鎖性を強めている。フランコ・ネロやジャン・マリア・ヴォロンテなどの大物俳優はさすがにマカロニウエスタン衰退後も他のジャンルで名をなした、言い換えるとマカロニウエスタンから脱出できたが、外に出られなかった者のほうが圧倒的に多い。トマス・ミリアンやウィリアム・ベルガーなど、その後別に俳優業をやめたわけではなく、他のジャンル映画にもちゃんと出演しているのだがあくまで他の映画にも出ているのである。フランコ・ネロにしても私などは名前を聞くと真っ先に思い浮かんでくるのがジャンゴだ。マカロニウエスタンの前にすでに十分有名だったジャン・ルイ・トランティニャンやクラウス・キンスキーがマカロニウエスタンにも出ているのと逆だ。監督ついてもそうで、例えばセルジオ・コルブッチ、エンツォ・カステラーリという名前を聞いてマカロニウエスタン以外の作品が思い浮かんで来るだろうか?でも実際にはカステラーリもコルブッチも他の映画も撮っているのだ。

 しかし監督・俳優などの制作側よりもさらに閉鎖された空間に住んでいるのがそのジャンルファンたちだ。それなくてもジャンルファンというのは今のアニメファンを見てもわかるように部外者から見るとちょっと近寄りたくないような雰囲気(ごめんなさい)を醸し出しているものだが、アニメならまずファン層が広いことに加え、次々に新作が出来上がって来るから常に新鮮な空気が吸えてまだ雰囲気が明るい。それに対してマカロニウエスタンは新作というものがもう出てこないから、畢竟古い作品を何度も何度もためつすがめつして重箱の隅をほじくるしか能がない。空気が完全によどんでいるのだ。また、例えばミュージシャンや小説家の取り巻きというか熱狂的ファンというのは、その音楽なり小説なりが芸術的に素晴らしいと思っている、少なくともその作品が自分の生活にプラスの影響を与えてくれていると思うから応援するのである。マカロニウエスタンのファンはそういうこともない。あんなものが生活のプラスになるとは誰も思っていないのだ。皆あれらの映画がごく一部を除けばB級C級映画だとわかっている。わかっているのになぜか見だすと止まらないのである。さらに、「閉ざされた集団」ということで言えば、メンサの会とか富豪でつくる何とかクラブとかは、閉ざされているがゆえにそのメンバーであることがステータスシンボルになる。もしできるものなら入会したい、というのが一般人の本音だろう。マカロニウエスタンのフリーク集団なんかに属していても誰も尊敬などしてくれない。
 要するにマカロニウエスタンのジャンルファンというのは、「私たちはなんでこんなことをやっているんだろう」と自分でも疑問に思いながら出口のない小宇宙を形成しているわけだ。救いようのない集団である。
 どうやったらこのアリ地獄から這い上がれるのか。そもそも上に這い上がることなどできるのか。いやそもそも這い上がってここから出て行く必要があるのか。Quién sabe? - who knows?


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 マカロニウエスタンのベスト監督は3人のセルジオ、レオーネ、コルブッチ、ソリーマとトニーノ・ヴァレリだと言っても猛反対はされないだろう。「猛」と注を入れたのはバルボーニを入れろという人がちょっと反対するかもしれないと思ったからである。ヴァレリの『ミスター・ノーボディ』については前にもふれたが、他の作品にはあまり言及していなかったので、この機会(どの機会よ)にちょっとまとめてみたい。

 『ミスター・ノーボディ』はレオーネが制作を担当したし、『ウエスタン』のパロディだということもあってヴァレリの作品の中ではジャンルファン外でも有名、「これ以降は記すべきジャンル作品が出ていない」という意味で「最後のマカロニウエスタン」と名付けられているほどだ。当然「ベストマカロニウエスタン」のリストなどには入らないことがないが、もう一つ必ずと言ってベストリストに顔を出すのが『怒りの荒野』である。その生まれのために町中の人から軽蔑されていたジュリアーノ・ジェンマ演ずるスコットという若者がリー・ヴァン・クリーフの中年ガンマンに憧れて修業し、いっぱしの早撃ちに成長していく(もっとも最後にはその師匠と対決する)話だが、そこでリー・ヴァン・クリーフがジェンマに訓示する「ガンマン十か条」とやらを全部暗記している人が私の周りには何人もいた。そんなものを覚えてどうするんだ、絶対共通一次試験(今は「センター入試」とかいうそうですが)には出ないぞ。まあこの映画はそれほど人気があるということだ。人気の理由の一つは何といってもキャストがドンピシャリにキマっていたことだろう。ドスの効いたリー・ヴァン・クリーフとソフトではあるが軟弱ではない若者ジェンマのコンビが絶妙。他の俳優だったらどんなに名優でもこの味は出まい。この二人を見ていれば誰でもつい十か条を暗記したくなってくるほどのキマリぶりである。もう一つがリズ・オルトラーニのクソかっこいいスコア。一足先に『世界残酷物語』ですでに世界的な名声を得ていたオルトラーニはモリコーネとはまた違った独自のスタイルを押し出している。実に堂々としたスコアで私も大好きだ。実は私は子供のころオルトラーニは名前がエリザベスというのかと思っていたが、この「リズ」は Riz で、イタリア語の立派な男性名リジェーロ Riziero の略である。

マカロニウエスタンはやはりこの面構えでないといけない(下記クレイグ・ヒルと比較せよ)。
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 この2作ですでに文句なしのベスト監督入りだが、ヴァレリは他にも3作、合計で5本西部劇を撮っている。映画監督としてのキャリアは『夕陽のガンマン』でレオーネのアシスタントを務めたことで開始した。そこら辺の事情を本人がさるインタビューで語っている。ヴァレリはもともとジョリー・フィルムで、映画製作後の管理、吹き替えなどの後処理を監督と言うか監視していた。レオーネが本来別の映画のためだった余剰の予算で(『69.ピエール・ブリース追悼』『130.サルタナがやって来た』参照)『荒野の用心棒』を撮っている時もスペインからの報告は逐一真っ先にヴァレリのところへきたそうだ。「レオーネが何か凄い映画を撮ってるぞ」とすぐ見抜いたのに周りの者には無視された。それが大ヒットして吹き替えやら宣伝やらでてんやわんやの騒ぎになったが、それでレオーネとさらに近づきにもなり、向こうが『夕陽のガンマン』のアシスタントをやってみないかと持ちかけて来たそうだ。「喜んで引き受けました」。
 その後さる制作担当者が「ちょっと西部劇を作りたいのだが、ヴァレリはどうだろう、西部劇を撮れる力があると思うか」とレオーネに打診して来た。そこでレオーネが「問題ない、彼にはできる」と答えたので廻って来た仕事が、ヴァレリの監督デビュー作『さすらいの一匹狼』Per il gusto di uccidereである。英語のタイトルは Taste of Killing または Lanky Fellow、ドイツ語のタイトルは Lanky Fellow – Der einsame Rächer(「ひとりぼっちの復讐者」)。これが成功して次の『怒りの荒野』に続く。
 私が『さすらいの一匹狼』を見たのは最近だが、テーマ曲がよくマカトラ選集に入っていて耳にすることが多い結構有名な作品である。なるほどおもしろかった。主役はアメリカ人のクレイグ・ヒルだが、本来この人ではなくロバート・ブレイクにオファーがいっていたそうだ。それでブレークはローマにやってきたはいいが、完全にラリっており、さっそくホテルからブレークが薬をやり過ぎてぶっ倒れたから引き取りに来てくれとヴァレリに連絡が来た。そしてそのまま入院とあいなった。主役がいなくなってしまい、困っていたらヴァレリの友人が Whirlybirds というTVシリーズに出ていた知り合いの俳優が今ちょうどローマにいるといって紹介してくれた。会ってみたら想定していた主人公より少し年がいっていた。でもいい俳優だし好人物でもあったのでこの人にしたそうだ。撮影が終わってしまってから今度はブレークのほうからクランクインはいつか聞いてきた。クランクインどころかもうその映画は別の主役で撮影終了していると知ってブレークは泣き出した。ヴァレリは対応に困って「私は君で撮ろうとしていた。オジャンにしたのはそっちじゃないか」と慰めた(慰めてんのかこれ?)そうだ。
 『さすらいの一匹狼』の主人公は定番の賞金稼ぎで、賞金より弟の敵討ちを狙って獲物(?)を追う。ひょっとしたら『夕陽のガンマン』のリー・ヴァン・クリーフがヴァレリの頭にあったのかもしれない。こちらも妹の敵討ちが目的で賞金は最後に皆イーストウッドに譲る。もっともこの主人公は「金はいくらあっても困るもんじゃない」というセリフとは裏腹にそもそもの始めからどうもあまり金にガッツいている感じがしない。マカロニウエスタンにしてはちょっと端正というか上品すぎる気がする。書類を示されて「賞金の額しか読めないからこんなもの出されてもわからん」というシーンもあるが、そこまで学のない人とは思えない。後にテレンス・ヒルが別の映画で同じようなことを言い出したときは本当に「銃を撃つしか能がない無学もの」の雰囲気が漂ったものだがクレイグだとあまり噛み合っていない印象。しかし一方いわゆる「マカロニ面(づら)」ばかり見ていても胸やけがしてくるので私はこのキャラ設定はむしろ好きだ。そういえばこの映画にはマカロニウエスタンによくあるというか不可欠というか、ヒーローが拷問されるシーンがない。『さすらいの一匹狼』はこの人にとって二本目のマカロニウエスタンだったが(だから当時ローマにいたのだろう)この後も何本ものマカロニウエスタンに出演している。そのうちの一本、Lo voglio morto (1968、パオロ・ビアンキ―ニ Paolo Bianchini 監督)では定式通り薄汚い格好で出て来てきちんと拷問されて血だらけになるがむしろワンパターンでおもしろくなかった。Lo voglio morto のドイツ語タイトルは Django, ich will ihn tot「ジャンゴ、こいつを死なせてやりたい」だが、これもドイツ特有のジャンゴ化現象で、主人公の名は本来クレイトンである。
 クレイグ・ヒルは前述のように出身はアメリカだが、カタロニアに根を下ろしてそこで亡くなっている。ちょっと調べてみたらなんと『イヴの全て』に端役で登場していたので驚いた。

『さすらいの一匹狼』のオープニング。まさにさすらいの一匹狼という言葉がぴったり。珍しくまともな邦題だ。
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主役クレイグ・ヒル。このキャラはマカロニウエスタンには上品すぎか。
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 『さすらいの一匹狼』の出来が良かったので上述の『怒りの荒野』を任され、それがまた大成功して一躍有名になった後再びジュリアーノ・ジェンマで撮ったのが Il prezzo del potere (『復讐のダラス』あるいは『怒りの用心棒』、ドイツ語タイトルは Blutiges Blei「血まみれの鉛」という悪趣味なもの)だ。舞台は南北戦争直後という設定だが、プロットはジョン・F・ケネディの暗殺事件をもとにしている。興行成績は『怒りの荒野』ほどはよくなかった。日本でも劇場では未公開である。ケネディ暗殺からさほど経っていない時期にこの大事件をマカロニウエスタンというジャンルの中で扱うのは荷が重過ぎたのかもしれない。反対派の声も聞いて政治統一を重視する大統領を頑強に認めず、何がなんでも消そうとする(当然人種差別も凄い)極右テロリストとジェンマを始めとするいわば中道右派・中道左派との戦いだが、黒人をリンチする南部の極右の醜さを外国人に映画化されたらアメリカ人もあまりいい気がしなかろう。それに忖度して日本では劇場公開しなかったとか…。丁寧に作られた映画の割には興行的に伸びなかったのはその辺に原因があるのかもしれない。もう一つ難を言えばジュリアーノ・ジェンマがモラルの点でも早撃ちの点でもあまりにもヒーローすぎて、陰影という点で『怒りの荒野』には劣るということか。
 でもルイス・バカロフのスコアはすごくいい、哀愁を帯びたそのメロディは私は『続・荒野の用心棒』より好きなくらいだ。『群盗荒野を裂く』Quién sabe? もバカロフのスコアだが、『続・荒野の用心棒』のをそのまま使ってしまっている。もちろんまさかあのロッキー・ロバーツの主題メロディが流れたりはしなかったが、副スコアというかメキシコ軍が走るシーンで同じメロディが流れていたのでのけぞった。こういうのってアリなんだろうかと思うが、Il prezzo del potere ではそんなことはなく、全部新品だった。そのついでに思い出したが、下で述べる『ダーティ・セブン』 Una ragione per vivere e una per morire で、オルトラーニ氏までが自作の『怒りの荒野』をリサイクルというかリユーズしている。
 またこれはヴァレリばかりでなくマカロニウエスタン全般に言えることだが、この作品にもアントニオ・カサス始めスペインの有名俳優が何人も出演している。「松葉杖銃」のニックを演じたのもマヌエル・サルソ Manuel Zarzo というスペイン人だ。『怒りの荒野』のヴァルター・リラやそもそも『荒野の用心棒』のジークハルト・ルップなども、アメリカ人が知らないだけでヨーロッパ本国では知られた顔だ(『98.この人を見よ』参照)。

Il prezzo del potere  でのスペインの名優アントニオ・カサス。マカロニウエスタンでも頻繁に見かける顔だ。
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松葉杖が実は銃。スペイン人のマヌエル・サルソManuel Zarzo。
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 Il prezzo del potere の次のUna ragione per vivere e una per morire(『ダーティ・セブン』、ドイツ語タイトルは Sie verkaufen den Tod「死を売っている」または「死の商人」。なんなんだこれは?)でも南北戦争をモティーフにしている。実は私はこれを見たことを忘れ、まだ見ていないつもりでこの記事を書くに当たって観賞しておこうと思って開けてみたらすでに知った映画だった。
 ジェームス・コバーンの演じる(元)北軍将校は戦わずして砦を南軍に明け渡して以来弱虫・裏切者扱いされているが、その砦を奪い返す使命、セカンド・チャンスを与えられ7人の死刑囚を工作要員にやとって件の砦に向かう。「もし生き残ったら恩赦、死んでもそれは名誉ある死」というエサで釣るのである。その死刑囚の一人がバッド・スペンサーで、最後にはこの人とコバーンだけが生き残る。激戦の上砦は奪い返し、コバーンは名誉挽回するのだが、それができるほど勇敢で有能ならばそもそもなぜ氏は前回あっさりと敵に砦を明け渡したのか。実は南軍側が氏の息子を誘拐して脅迫したからである。コバーンが明け渡したのにも関わらず、結局息子は殺された。この南軍の将校を演じるのがテリー・サバラスで、ラストに武器を放棄して投降するが、息子のことがあるからコバーンはサーベルで刺し殺す。今でいえばジュネーヴ条約違反である。
 『特攻大作戦』The Dirty Dozen という戦争映画と似たようなモティーフで、ヴァレリ自身も上述のインタビューでその作品が頭にあったと認めている。ヴァレリはさらにそこでコバーンはスター意識が強く非常に扱いにくかったと言っている。とにかく頻繁に悶着を起こしたそうだ。サバラスとスペンサーは全く問題がなく楽に仕事ができた。後の『ミスター・ノーボディ』で使ったヘンリー・フォンダはこの時68歳でヴァレリよりずっと年上、「普通年配の俳優は扱いにくいものだが、フォンダは違った。本当にすんなりいった」そうだ。またリー・ヴァン・クリーフについては、例えばジュリオ・ペトローニなどによれば気難しかった、ジェンマも「普段は好人物だが酒が入ると急に人が変わった」と言っているが、ヴァレリは「その前の『夕陽のガンマン』ですでに知っていたから、全く問題はなかった」そうだ。
 レオーネがコバーンとロッド・スタイガーで撮った『夕陽のギャングたち』Giù la testa はこの『ダーティ・セブン』より一年ほど早く作られているが、レオーネは後にスタイガーはやはりスター意識のため最初自分の指示に従わおうとしなかったので怒鳴りつけて大人しくさせたと語っている。コバーンとは上手くいったのかどうかは言っていなかったが、まあ黒澤明の言葉通り「監督業は猛獣使いのようなもの」なのかもしれない。
 なお、この映画もバッド・スペンサーが出てしまっているために(『79.カルロ・ペデルソーリのこと』『146.野獣暁に死すと殺しが静かにやって来る』『173.後出しコメディ』参照)ドイツではコメディに変更され、Der Dicke und das Warzenschwein「デブとイボイノシシ」という名のカットバージョンがでている。目を疑うタイトルだ。この名をつけた人の脳神経回路はどうなっているのか。

『ダーディ・セブン』のラストシーン。サバラスとコバーン。
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全く笑えるところなどない普通の役のバッド・スペンサー。
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 この映画を見てレオーネは自分がプロデュースした『ミスター・ノーボディ』の監督にヴァレリを据えた。「『ミスター・ノーボディ』は実はレオーネが撮ったのだ」という噂も時々巷に流れるが、そこら辺の事情をヴァレリが説明している:アメリカでの撮影が終わってスペインに帰ってきたとき、フォンダの衣装も入っている大事な荷物が一つ何日も遅れて届いた。その時点でフォンダは次の予定が迫っていて、間に合いそうになかったためレオーネと相談して、鉄道の線路際のフォンダの出るシーンをヴァレリ、テレンス・ヒルがダイナマイトを鞍のポケットにいれるシーンをレオーネと、分けて同時に撮ることにした。それだけだ。
 「監督が二人いて、一方が他方より有名だった場合、そっちがすべてやったように思われるのはいつものことですよ。レオーネも興行成績を上げるために意識して自分が大方監督したように話を持って行ったんだと思います。」とヴァレリは結論している。

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