アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:筑波大学

 前に故M.ジャクソンがドイツにコンサートに来た際、本屋に自分の伝記のドイツ語訳が『Die Jacksons』というタイトルで並んでるのを見て「俺を殺す気か?!」と勘違いして怒った、という話を聞いたことがある。ジャクソン氏がその後本当に十分若いまま亡くなってしまったのでこの話はあまり笑えないのだが、Dieは「死ぬ」という英語ではなくドイツ語定冠詞の複数主格形である。だから『Die Jacksons』は「死ね、ジャクソンめら」などではなくて単にドイツ語でThe Jacksons、つまり「ジャクソン・ファミリー」という意味に過ぎない。

 ところで、ドイツ語には女性の名前にUschiというのがある。発音も字の通り「ウシー」。私だと、あの、モウモウ鳴いていまひとつ動作がノロい例の角つき動物を思い浮かべて「こんな名前はつけられたくない」と思ってしまう。 アクセントの位置が違うのでむしろ「齲歯」(うし)、つまり虫歯と解釈した方がいいのかも知れないが、そのほうがよけい悪い。ロシア語でもヒドい事になっていて、Uschiはуши(ウシー)、つまり「両耳」という意味になり、初めてドイツ女性にこう自己紹介されたときは思わず耳を見てしまった、とさるロシア語の先生が言っていた。
 その先生がさらに続けてくれた話によると、Bianca(ビアンカ)という名前はпьянка(ピヤンカ)としか聞えないんだそうだ。そのпьянка(ピヤンカ)とは「酒盛り」または「ベロベロに酔った状態」。こういう名の女性はつまり「酒飲み女、酔っ払い女」ということだ。

 女性の名前ばかりではない。ドイツの男性の名前にGeroというのがある。Gerは古高ドイツ語の「槍」から来ており、転じて「槍を持つ人」という意味、ドイツ語の男性の名前Gerhard(ゲルハルト)フランス語のGérard(ジェラール)、英語のGarret(ギャレット)という名前の中のGerまたはGarもこれだそうだ。ロシア語の普通名詞герой(ゲローイ)「英雄」もこれかと思ったらどうもこちらの方はギリシア語ήρως((h)eros)「英雄」からの借用語らしく古高ドイツ語のGerとは関係がないようだ。むしろ英語のheroのほうがгеройと同源らしい。GermanあるいはGermanyのGerも「槍」だろ「英雄」だろだと思っているドイツ人がいたが、GermanのGerはおそらくケルト語の由来で、古アイルランド語garim「騒がしい」か、またはgair「隣人」と同源、つまり「槍」と「ゲルマン」ではゲルはゲルでもゲルが違い、別に「ドイツ人は勇壮だからゲルマンという名前」というわけではないのだ。それでもドイツ語ネイティブにはGeroという名前が「勇壮で非常に男らしく」響くということだが、いくら男らしかろうが金持ちだろうがハンサムだろうが、こういう名前の男性と結婚したがる日本女性はいないと思う。現に私など気遅れがしてここでこの名前にルビを振ることが出来ない。

 ギリシア語のへロスがロシア語ではゲローイになる、と聞いて思い出した。そういえばプーシキンの散文作品「スペードの女王」の主人公がゲルマンという名前のドイツ人だが、私はこれを相当永い間「ドイツ人だからゲルマンという名前」なのかと思い込み、プーシキンにしては名前のつけ方が安直だと思っていた。ところが安直だったのは私の方だった。日本語やドイツ語のhをロシア語ではgで写し取るのだ。だから「ヨコハマ」はロシア語では「ヨコガマ」、「ハンブルク」は「ガンブルク」になる。なのでロシア語の「ゲルマン」は本来のドイツ語ではHermann(ヘルマン)、日本の「あきら」とか「まさお」のように、ドイツでは極めてありふれた男性名だ。

 まだある。昔授業で読まされていたロシア語のテキストにСветлана(スヴェトラーナ)という名の女性が出てきたことがあるのだが、この女性が時々愛称のСвета(スヴェータ)で呼ばれていた。私としては美人という設定のこの女性とこの名前の組み合わせに違和感を感じた。「スベタ」じゃあねえ…

 こういうことが続くと自分の名前もどこかの言語ではヤバいことになっているのではないかと気になって、おちおち安心して自己紹介も出来ない感じになってくる。現に「勝男さん」はイタリア語では相当悲惨なことになっているそうではないか。またあの、日本人にとっては聖なる名前の「富士」はドイツ人にはfutsch(フッチ)と聞こえるそうだ。これは「おジャン」とか「イカれた」とか「ポシャッた」とか「ダメになっちゃった」とかいう意味。つまり「富士山」は「ヘタレ山」か。

 もっともこれらは母語の音韻構造をつい外国語のそれに投影してしまっただけだからまあ、仕方がないと言えば仕方がない。母語でさえ名前を誤解釈してしまうことがあるのだから。何を隠そう私は昔、東京から利根川を越えて行ったところにある、さる荒野の大学にいたことがあるのだが、下見がてらにはるばる東京から願書を出しに行った際、バスが行けども行けども畑の中を走り続け、いいかげん不安になり始めたころやっと町らしい景色になってきたと思ってホッとしたはいいがそこの通りが「東大通り」という名前だったので驚いた。一瞬「どうしてこんなところに東京大学があるんだ。ここは筑波大学(あ、大学名バラしちゃった)じゃないのか?!」といぶかしく思ったものだ。その後大学在学中も、卒業してからでさえも周りに聞いてみたのだが、いまだにこの名前を一発で「ひがしおおどおり」と読めたという人に会ったことがない。 なおこの大学の北の方には「北大通り」というのが走っているが、これも別に北海道大学のことではなく、「きたおおどおり」と読むのが正しい。


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 おおまだこんな物が本棚にあったのかと、ふと学生時代に使った「言語学入門」の教科書(Studienbuch Linguistik)をめくって見る、内心「ふふん、入門書か」という感じでエラそうに高をくくって覗いたつもりが、改めて読み始めてみると「ふふん」どころではない、面白い、というか何を隠そう本当に勉強になってしまう。「そうか、あれはこういうことだったのか!」などといまさら感動する。こういうことをいまだにやっている私がいつまでたっても専門家になれないのは当たり前か。

 しかし以前にも誰か「入門書というのはド素人が読むものではありません。ある程度専門知識をつけた人が、自分の知識に穴がないか、自分の立場は全体からみるとどういう所にいるのか、他の人は大体どういうことをやっているのか確認するために読むものです」と言っていたが、当時は「まーたまた先生、逆説的ないい方してカッコつけちゃって」とか鼻であしらってしまった。私が浅はかだった。ほんとうにその通りかもしれない。
 しかしそうなるとその「ド素人」はどうやって勉強したらいいのだろう?地道に専門論文を読んでいくしかないのだろう。最初(まあそれが最初だけですめばいいのだが。私はいまだにこれだ)何を言ってるのか全くワケがわからない、蚊が石を刺している思いなのを、人に聞いたりしながらいくつも論文を読み進み、次第に専門書が理解できるようになっていく。これしかないのだ、きっと。
 そういえば昔筑○大学で受けた「音韻論概説」という授業がこんな感じだった。「概説」とは名ばかりで、教授はチョムスキー直下の生成音韻論の専門家だったが、カイザーという人とキパルスキーという人が共著で当時MITから発表したばかりの湯気のたっているガチな論文を学生に読ませたのである。この著者は有名な学者なので生成文法をやった人なら知っているのではないだろうか。「オートセグメンタル音韻論」とかを展開していた人たちである。まあ英語学専攻者なら他の授業でも生成文法をやってもらっていたからまだいいだろうが、私はそもそも英語そのものがあやしい「元美系」(『11.早く人間になりたい』の項参照)である。タイトルがすでにちんぷんかんぷんだったが、もちろん内容も見事なまでに理解できなかった。20ページか30ページのペーパーだったから、慣れた人なら1時間もあれば内容がスースー把握できただろうが、私は毎晩何時間もかけて2ページくらいづつ亀の歩みで読んでいくしかなかった。1ページ読み進むと前に書いてあったことを忘れて話が見えなくなるのでしょっちゅう逆戻りしたから、亀というより自分の尻尾を咥えていつまでも同じところを回っている蛇の心境だ。仕方がないから前を忘れないように余白に「あらすじ」をメモしつつノロノロすすむ。その学期では精神エネルギーを全部カイザー&キパルスキーに吸い取られて他の授業の勉強が全然できなかった。
 え、なぜそこまでしてそんなもんに付き合ったのかって?仕方ないだろう、最後に期末試験があったし、その単位は必須だったんだから。逃げが利かなかったのである。
 その期末試験の設問の一つを今でも覚えている。「キパルスキーは/ts/を二つの音素と見なしているか破擦音として一つの音素と見なしているか、その論拠も書きなさい」というものだった。ペーパーでは英語の音をそれそれウルサく細かく機械で音声解析した図表だのグラフだのを総動員して英語の音韻構造を考察していっていたが、英語のtsは破擦音として一音素とみなすべきである、というあまりスリルのない結論に達していた。その結論に至るまでの論旨をかいつまんで回答したのを覚えている。ただし覚えているのは「答えを書いたということ」だけであって、答えに何を書いたかは完全に忘れた。「忘れた」というよりはなから自分でも自分の書いている事がわかっていなかったのだ。ほとんど夢遊病者である。

 さて上にあげたこの「入門書」だが、何もない所からいきなりこういうことを言われて(143~144ページ)そもそも理解できる人、まして「そういうことか、これは面白い!こんなに面白いものならば私は是非言語学がやりたい!」などと思う人がいるのだろうか(いるかも知れない。世界は広いから):

「『完全解釈可能の原則』とは、表出された言葉はLFまたはPFにおいて完全に解釈できなければならない、つまり音声的にも、意味的にも解釈不可能ないかなる素性(そせい)をも示してはいけない、という意味である。さらに『素性(そせい)照合』で句内の素性がそれぞれの機能ヘッド(3.3.2章と比較せよ)と照合され、それらが一致すればハズされる(チェックされる)。解釈不可能な素性(そせい)が照合で消去されてしまうので、もう解釈の邪魔ができない。もし素性照合で付き合わされた要素間を『一致』(Agree)が支配しない場合はその素性を消去することができない。」

原文はこれだ。何も私がワザと理解しがたい訳をつけているのではないことがわかって貰えると思う。

Das Prinzip der vollen Interpretierbarkeit besagt, dass ein sprachlicher Ausdruck auf LF und PF voll interpretierbar sein muss, d.h. dass er keine phonetisch oder semantisch uninterpretierbaren Merkmale aufweisen darf. Bei der Merkmalüberprüfung werden nun die Merkmale der Phrase mit den Merkmalen des jeweiligen funktionalen Kopfs (vgl.3.2.2) verglichen und – falls sie übereinstimmen – ‚abgehakt’(gecheckt). Die uninterpretierbaren Merkmale werden beim Checken gelöscht und können so die Interpretation nicht mehr ‚stören’. Falls bei der Merkmalüberprüfung keine Übereinstimmung (Agree) zwischen den Merkmalen herrscht, kann das Merkmal nicht gelöscht werden.

執筆者は abgehakt や stören などの「普通の」言葉を使ったりして、一応素人にもわかるような説明をしようとしている様子は見て取れるのだが、むしろそれが裏目に出ている感じ。こんなのだと読むほうは、「ああ、ここまで一生懸命気を使ってもらっているのにそれでもわからない自分はなんて才能がないのだろう」と自信喪失して専攻を変えてしまうんじゃないか?

 この本は複数の学者が共同で書いた教科書の中の「生成文法」についての記述だが、同じ分野でも英語の入門書は次のような言い回しで説明している。わかりやすさで有名な A.Radfordという人の書いたSyntax:A minimalist introductionから(120ページ)。

「ここの私たちの議論から出てくるのは、定形動詞が強い呼応素性(そせい)を持つか弱い呼応素性をもつかという点に関して言語間でパラメーターに違いがあるということ、そしてそれらの素性の相対的な強さが助動詞以外の動詞がINFLまで上昇することができるかどうか、またゼロ主語が許されるかどうかを決めるということだ。けれど、それなら動詞に強い呼応素性のある初期近代英語のような言語でなぜ動詞がVからIに上昇できるのか、という疑問がわく。これに対しての答えの一つをチェック理論で出すことができる:ムーブメントが他の場合ならチェックされないで残る強い素性をチェックする、と仮定してみよう。」

What our discussion here suggests is that there is parametric variation across language in respect of whether finite verbs carry strong or weak agreement-features, and that the relative strength of these features determines whether nonauxiliary verbs can raise to INFL, and whether null subjects are permitted or not. However, this still poses the question of why finite verbs should raise out of V into I in language like EME  where they carry strong agreement-features. One answer to this question is provided by checking theory: let us suppose that movement checks strong features which would otherwise remain unchecked.

単語や内容が難しいのはドイツ語の入門書も英語の入門書もドッコイドッコイなのだが、英語のほうは読むほうが話しかけられている、つまり相手にされている雰囲気が伝わって来る。「です・ます体」で訳したくなるくらいだ。この著者は別の箇所で「ちょっと進み方が速すぎたかもしれない。もう一度前の例に戻って…」というような言い回しを使っているほか、時々本当に冗談を言うので「普通の読み物」として通用するのではないだろうか。

 実は他の場合でもドイツ語圏と英語圏との「入門書」には温度差というか態度というかに違いがある。ドイツ語の入門書からは上にも挙げたような、「ホレこれを読め」的な突き放したニュアンスを時々感じるのだが、英語の教科書は素人にも優しい。ただ、上のドイツ語の著者は学生ばかりでなくチョムスキーをさえ突き放していて、読むべき文献としてチョムスキーの名を挙げる際(147ページ)、

Chomsky: Immer noch richtungsweisend (und immer noch schwer lesbar) sind die Arbeiten von Chomsky (1992, 1995a und b, 2001, 2003).

チョムスキー: 今だに指導的な役割は失っていない(そして今だに読みにくい)のがチョムスキーの著書(1992, 1995a und b, 2001, 2003).

と堂々と書いている。つまり上で暗に示したかったのは「生成文法がわからないのはわざと難しい言い方をしているからです。わからなくても結構です。何もこれだけが言語学じゃありませんから。ふふん」ということか。どうもそういう気がする。そういえば上の箇所で stören などの普通の言葉を専門用語と並立してあるのも、「こいつらはやたらと難しい特殊な単語を使ってますが、ナーニ大したことはない、要は単にこういう意味ですよ」と、わかりにくいことをわかりにくい言葉でわかりにくく表現する生成文法系の用語の特殊性をおちょくっているのかもしれない。ドイツ人のユーモアと言うのはちょっと屈折していてついていくのが大変だ。


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 私が学生だった頃、とても怖い英語学の教授がいた。この先生は初日に開口一番、こういう口調でこういうことを言った。

「お前ら、大学で知識が身につくとか大それたこと思うなよ。大学は何のためにあるか知ってるか?「学問の世界」というのがどういうものか社会に出る前に垣間見ていけるようにあるんだ。どうせお前らは真面目に研究者になる気なんかなくて出たら就職とかするんだろ?それでいい、ただ、学問をナメることだけはするな」

その口調があまりにも怖かったことと(この先生は本当に学生を怒鳴りつけた)、英語学は必須単位ではなかったこととで、その一日だけで怖気づき、単位を放棄してしまった。

 それから20年以上もたってから、今度はドイツで怖い教授に遭遇した。ロシア文学の女性教授だった。後ろで学生がおしゃべりをしているとつかつかとそこまで行って、机の上に5マルク(当時)硬貨をバンと叩き付け、「授業に参加するのでなくおしゃべりをしに来ているのでしたら、ここは場違いです。カフェテリアに行ってやって下さい。コーヒー代にこの5マルクは寄付します。」とかいう超怖い先生だった。私はこの先生の下でドストエフスキーの『悪霊』をやった。この単位は必須だったので取らないわけにはいかなかったのだ。
 もう時効だろうからここで告白すると、そのゼミが開講される前の学期に掲示板に「来学期に開講される「悪霊」は、事前にこの作品をロシア語で全部読みおわっていることを参加条件とする」という指示が張り出されていたのたが、『悪霊』を原語で読破なんてしていた日には何年かかるかわからないから当然全部翻訳、しかも日本語で読み、原文はコピーだけしていかにも「ロシア語で読みました」という顔をして参加した。 単位のためのペーパーでは引用した箇所だけロシア語の文を書き移して、まるでロシア語で読んだかのような体裁を取り繕って提出した。
 そんな風に学期中は毎週この授業に出る度にギンギンに緊張して心労がたまっていた上、たかが30ページくらいのペーパーを書くのに学期休み中ずっと死ぬ思いをしたので提出した後は一週間ほど病気になった。まさに「悪霊」である。

 その他にもいろいろ怖い先生に会ったが、そこには共通した点があることに気がついた。先生たちが厳しいのはいわゆる知ったかぶりをする者に対してで、馬鹿学生が素直に無知をさらけ出した場合には案外寛容だったことである。
 もっともその英語学の先生の授業には一日しかいなかったので、ひょっとしたらあの学期間に能無しの学生が怒鳴られたりしていたのかも知れないが、ロシア文学の先生の授業では一度こんなことがあった:さる素朴な学生が堂々と「ゴーゴリの『外套』?知りません」と言い放ったのである。周りの者は今にも雷が落ちるのではないかと首をすくめたが、なんと先生は笑いだしてしまった。私も一度、ニヒリズムを定義してある文章の意味が全然わからず、自分のレポート発表で自分のレジュメにも掲げてあるその文章を読み上げた後、正直に「私本人はこれを理解することが出来ませんでした」といったら、教室の者と共に先生も笑い出し、ゆっくりと噛んで含めるように説明を始めてくれたものだ。

 同じような話を以前アメリカに留学していた人の書いたエッセイで読んだことがある。とにかく英語が聞き取れない、講義がわからない。とうとう自己嫌悪に堪えられなくなってガバと立ち上がり、「先生、一言も理解できません!」と叫んでしまった。それを聞いた教授が言ったそうだ。「○○、心配するな。他のアメリカ人だってわかってないんだから」

 さて、その「知ったかぶり」であるが、これには二種あると私は思っている。第一は「開陳型知ったかぶり」であって、よく知ってもいないことについて延々とウンチクをたれ出すこと、またはたれ出す人のことである。(本当は持ってなどいない)知識を開陳すること自体が目的なので目的と形が一致していて構造自体は単純だから、「単純性知ったかぶり」と名付けてもいいかもしれない。普通私たちが「知ったかぶり」として理解しているのはこの型の知ったかぶりである。やられた方はこの単純性知ったかぶりは無視、スルーすればいいだけだからまあ対処法も単純だ。
 もう一つの知ったかぶりは私が「質問型知ったかぶり」と名付けているもので、相手に対する質問の形をとって現れてくる。知ったかぶり者がいろいろゴチャゴチャ聞いてくるのだが、その質問の内容があまりにも抽象的だったりあいまいだったりで結局何が知りたいのかわからない上に、質問のそこここに聞きかじった学者の名前、ロクに理解もしていないそれらしき学術用語などを挿入してくるのが特徴だ。これは決して具体的に何かを知りたいのではなく、単に相手にかまってもらいたいのである。だから私はこの手の「教えてクン」はいわゆる「かまってチャン」の亜種であると考えている。
 また、質問という形式を取られるので相手もスルーするわけにはいかず、なにがしかの応答をせねばならないためそこに擬似会話が発生してしまう。「擬似会話」といったのはこれは真の意味での会話ではないからだが、とにかくこの「詳しい相手と会話できた」と錯覚することによって自分まで当該事項に詳しくなったような気になれる、つまりある種の自己欺瞞もこの質問型知ったかぶりの目的である。
 つまり質問型では目的(「相手にかまってもらうこと」と「専門家になったような気を味わうこと」)と形式(「質問」)が一致していない。「複雑性知ったかぶり」とでも名付けられるだろうか。この複雑性知ったかぶりへの対応は開陳型と違って一筋縄ではいかない。一応質問なので少なくとも一回目は対応せざるを得ないため、「最初からスルー」という手が効かないからである。何度か対応してしまってから、「もうこの話はやめましょう」と質問者から無礼者と思われるのを覚悟で会話を打ち切るか、「他の人の方が詳しいですからそっちに聞いてください」とたらい回しするか(これを私は「質問型知ったかぶりへの避雷針作戦」と名付けている)、さらには無知を装って相手が専門用語を連発したら「その言葉は知りません。どういう意味ですか?」とカウンター質問するか。とにかく回避するのに相当の心理的エネルギーを必要とする。もっとも最後のやり方は危険だ。なぜなら質問型知ったかぶりをさらに増長させ、開陳型知ったかぶりに移行させてしまうおそれがあるからである。いずれにせよ「途中からスルー」は「最初からスルー」よりも要するエネルギーは遥かに大きい。

 また、単なる無知と知ったかぶりとではバレた時の反応に本質的な差がある。単なる無知なら相手が専門家であるとか自分より詳しいとか、あるいは実は自分はよくわかっていなかったと判明した時点で「それは知りませんでした」とか何とか言いつつ顔を真っ赤にして(しなくてもいいが)退散する。ところが知ったかぶりには相手に比べて自分がドシロートであるとわかっていてもまだ専門家に向かってウンチクを垂れたりトンチンカンな質問をするのをやめない人がいる。相手がいくら答えてやっても間違いを訂正してやってもモノともせずに同じ内容を延々と繰り返すか、相手のちょっとした言葉尻を捉えてその言葉からまた新たに知ったかぶり・カウンターウンチクを展開しだすのである。私は前者を「壊れたレコード戦法」、後者を「出来損ないのガムテープ戦法」と呼んでいる。後者はいくら剥がしても剥がしても剥がされるたびに今度は全く別の箇所にベタッと張り付いてきて次はどこに粘着されるか予想できないからであるが、レコードにしろガムテープにしろ無理矢理「会話」の形式を保とうとするのだ。張り付かれたほうはいい迷惑だ。こういう知ったかぶり者はひょっとすると「相手がしていることに興味を持ったふりをして見せるのが人間関係の潤滑油」とでも思い込んでいるのかもしれないが、最初から話しかけないほうがよっぽど潤滑油なのではないだろうか。 

 なぜ私がこんなに知ったかぶりの心の機微を知っているかというとズバリ自分も身に覚えがあるからだ。生半可に口を出して無知がバレ、大恥をかいて退散したり、お世辞をいうつもりが逆に相手の気を悪くしてしまったことが数限りなくある。あのレポート発表の時も、わかってもいないニヒリズムの定義をエラそうに読みあげていたら、あの先生から「その定義をもうちょっと詳しく解説してください」とか突っ込まれていたかもしれない。今考えると冷や汗が出る。


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 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者、あるいは佐藤さんがいつも言っているパン屋、つまり属格解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。またここでは8も9も上の6と同じく属格解釈ができる、8は「おじさんがいつもかかっている医者」、9は「その医者にはおじさんがいる」である。つまりN2が固有名詞だと属格解釈ができないということだ。

では次に

10.アメリカ人の友だち

はどうか。「友だち」は固有名詞ではないから属格解釈ができる。「アメリカ人のそのまた友だち」だ。しかしまあ同格と見る方が自然だろう。つまり同じ指示対象を別の言葉で言い換えてあるということ。「アメリカ人である友だち」、言い換えれば「そのアメリカ人=友だち」、ドイツ語で言えば

mein Freund, der Amerikaner ist
my + friend + who + American + is

となる。「アメリカの国」も同じ理屈で「アメリカ」と「国」は同格である。上の4と同じだ。面白いことにこういうとき英語の of が同格を表すことがある。the state of California はまさに「カリフォルニアという州」「その州=カリフォルニア」という同格だ。英語の of に対応するドイツ語の von は英語ほどは同格表現の力がないらしく、同格は文字通り名詞を並立させて表す。ドイツ語の学習者にはここで修飾語を属格にしてしまう者が跡を絶たない。例えば「ドイツ連邦共和国」をBundesrepublik Deutschland でなく Bundesrepublik Deutschlands とやってしまうのだ。私も以前「シュレーダー政権」と言おうとして Regierung Schröders  とやったら先生にまたかという顔をされ、「多いですねぇ、そう間違う人。これはその政権の名前がシュレーダーだという意味でシュレーダーの所有する政権じゃありません。だから属格にしちゃダメです。Regierung Schröder です」と諭された。そう言われて考えてみると、英語もアポストロフィとs で表す属格では同格を表現できない。the state of California は California’s state ではない。

 もうちょっと見てみよう。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

11.ドイツの国

はいいが

12.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

13.筑波の大学

とは言えず、

14.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 それに対して英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞、上で述べた of を使って同格構造が形成できる。

15.Federal Republic of Germany
16.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成している各名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば次のような例だ。

17.裁判官おばさん
18.おばさん裁判官

18は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、17は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

19.Muttertier
            mother + animal
20.Tiermutter
            animalmother

19は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが20は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

21.山田さんの知り合いの任天堂の社員
22.任天堂の社員の山田さんの知り合い

「山田さん」をNP1、「知り合い」をNP2、「任天堂」をNP3、「社員」をNP4とすると21は事実上{NP1(属格)+NP2} = {NP3(属格)+NP4}、言い換えるとNP1とNP2が一つの単位、NP3とNP4がまた別の単位、つまり「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、名詞の順番を変えた22では21に対応する構造 {NP3(属格)+NP4} = {NP1(属格)+NP2}、「任天堂の社員=山田さんの知り合い」の他に {NP3(属格)+NP4= NP1(属格)} +{NP2} と言う解釈、つまり「任天堂の社員である山田さんのそのまた知り合い」という解釈もなりたってしまう。中括弧の位置が変わっているのが見えるだろうか。これは「山田さん」が固有名詞、意味が非常に限られている名詞なので、意味がより一般的な名詞句、ここでは「任天堂の社員」が先行した場合その名詞句全体をまとめて自分の同格と解釈させる力を持っているということだろう。やはり名詞の意味を完全に排除してシンタクスだけで言語構造を論じるのは無理があるようだ。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。

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前に書いた記事の内容に大分補足を加えました。属格、つまり名詞が別の名詞を修飾する構造はとにかく昔から解釈や説明がいろいろ難しいです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者、あるいは佐藤さんがいつも言っているパン屋、つまり属格解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。またここでは8も9も上の6と同じく属格解釈ができる、8は「おじさんがいつもかかっている医者」、9は「その医者にはおじさんがいる」である。つまりN2が固有名詞だと属格解釈ができないということだ。

では次に

10.アメリカ人の友だち

はどうか。「友だち」は固有名詞ではないから属格解釈ができる。「アメリカ人のそのまた友だち」だ。しかしまあ同格と見る方が自然だろう。つまり同じ指示対象を別の言葉で言い換えてあるということ。「アメリカ人である友だち」、言い換えれば「そのアメリカ人=友だち」、ドイツ語で言えば

mein Freund, der Amerikaner ist
my + friend + who + American + is

となる。「アメリカの国」も同じ理屈で「アメリカ」と「国」は同格である。上の4と同じだ。面白いことにこういうとき英語の of が同格を表すことがある。the state of California はまさに「カリフォルニアという州」「その州=カリフォルニア」という同格だ。英語の of に対応するドイツ語の von は英語ほどは同格表現の力がないらしく、同格は文字通り名詞を並立させて表す。ドイツ語の学習者にはここで修飾語を属格にしてしまう者が跡を絶たない。例えば「ドイツ連邦共和国」をBundesrepublik Deutschland でなく Bundesrepublik Deutschlands とやってしまうのだ。私も以前「シュレーダー政権」と言おうとして Regierung Schröders  とやったら先生にまたかという顔をされ、「多いですねぇ、そう間違う人。これはその政権の名前がシュレーダーだという意味でシュレーダーの所有する政権じゃありません。だから属格にしちゃダメです。Regierung Schröder です」と諭された。そう言われて考えてみると、英語もアポストロフィとs で表す属格では同格を表現できない。the state of California は California’s state ではない。

 もうちょっと見てみよう。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

11.ドイツの国

はいいが

12.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

13.筑波の大学

とは言えず、

14.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 それに対して英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞、上で述べた of を使って同格構造が形成できる。

15.Federal Republic of Germany
16.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成している各名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば次のような例だ。

17.裁判官おばさん
18.おばさん裁判官

18は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、17は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

19.Muttertier
            mother + animal
20.Tiermutter
            animalmother

19は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが20は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

21.山田さんの知り合いの任天堂の社員
22.任天堂の社員の山田さんの知り合い

「山田さん」をNP1、「知り合い」をNP2、「任天堂」をNP3、「社員」をNP4とすると21は事実上{NP1(属格)+NP2} = {NP3(属格)+NP4}、言い換えるとNP1とNP2が一つの単位、NP3とNP4がまた別の単位、つまり「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、名詞の順番を変えた22では21に対応する構造 {NP3(属格)+NP4} = {NP1(属格)+NP2}、「任天堂の社員=山田さんの知り合い」の他に {NP3(属格)+NP4= NP1(属格)} +{NP2} と言う解釈、つまり「任天堂の社員である山田さんのそのまた知り合い」という解釈もなりたってしまう。中括弧の位置が変わっているのが見えるだろうか。これは「山田さん」が固有名詞、意味が非常に限られている名詞なので、意味がより一般的な名詞句、ここでは「任天堂の社員」が先行した場合その名詞句全体をまとめて自分の同格と解釈させる力を持っているということだろう。やはり名詞の意味を完全に排除してシンタクスだけで言語構造を論じるのは無理があるようだ。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。

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 自他共に認めるデジタル音痴、今に至るもスマホの類いは一切持たず、全てデスクトップと固定回線電話で生活しているガラパゴス島の住民の私がVPNを使うことになってしまった。ガラパゴス島の私のパソコンにはロクにプログラムも入っていない。「インストール」という作業が怖く、ちょっと指示と違っていたりわからない画面が出てきたりするとすぐパニック状態になるので、ウィンドウズに追加して入れたのは Firefox とリブレオフィスとアクロバットリーダーくらい。あと、ウィルスバスターの無料版。実にスカスカである。その私にとってVPNのインストールなどというのはまさに世紀の大偉業であった。

 ことの起こりはすでに4年ほど前、2022年に Yahoo ニュースが欧州から見られなくなったことである。そのときVPNを勧められた。確かに Youtube でもマカロニウエスタンを見ようとすると「このビデオはあなたの居住地からは鑑賞できません」と真っ黒い画面に冷たく言われることもあり、これを突破できたらいいなとは思った。思ったが私はプログラムのインストールが怖い。「インストールの仕方」に従ってやると必ずどこかで躓いたりそこに書いてある作業のクリック場所がわからず右往左往するのが常だからだ。それに別に Yahoo ニュースなど見なくても死ぬようなこともないし、Youtubeではハネられるマカロニウエスタンはロシアのさるサイトにアップされていることも多いのであまり困らない。そこで、まあそのうちと思っているうちに4年の歳月が流れたのである。

欧州からYahooにいくとこうなる。
yahoo
 それでも去年の中ごろには意を決してSNSでVPNの話をしたら、何人もが筑波大学のVPN Gateなるものを紹介してくれた。そこでそのサイトに行ってみたところ、インストールや操作の仕方がクソ難しそうな言葉で書いてあるのでビビってしまい、「まあそのうち」に戻ってしまっていた。
 ところが先日、いつものようにライブドアブログのログイン画面に行こうとしたらロード中の表示がグルグル回るばかりで全く入っていけない。ログインできないどころか、自分の書いた記事を外から読むことさえできなくなっていた。他にも特にドメインが jp になっているサイトに入れないものがいくつもあった。よりによってどれも私が今まで問題なく読んだりログインしたりしてきたところばかりである。一瞬焦ったが、こういうことは時々あるので一日待ってみることにした。しかしそういえばその何日か前にさるSNSに(いつものように)ログインしようとしたら「セキュリティ上の問題が発生したためログインできませんでした。時間をおいてやり直してください」と言われ、少し時間を置いてもその日はできず、次の日に繰り越したことがあるのを思いだし、ちょっと嫌な予感がした。するとその嫌な予感の通り、翌日になっても全く入れない。ネットで検索して次のことを行った。

1.ブラウザをプライベートモードにする。
2.アドブロックを一時解除する。
3.ブラウザのキャッシュを一掃する。
4.ルーターを再起動する。
5.プロンプト画面でOS自体のDNSキャッシュを消す。

どれも効果がなかった。特に5が恐怖で、あの黒い画面にコマンドを打ち込むなど私にとってはもう本当に恐ろしい以外の何物でもない。その怖いのを我慢して作業したのに全く無駄だった。それを別のSNSで相談すると知り合いが助言してくれて、次の事を行った。

6.DNSをパブリックのに変更する(Googleのを使った)。
7.TCP/IPv6を外す。

するとあら不思議、SNSの方には入れた。入れたが画面が変わるのに数分待ちという状態だ。しかし10分以上かかっても「しばらくこのサイトには来られない」と伝言だけはできたので、少し気が楽になった。ライブドアブログには入れないままだった。翌日になるとSNSの方にもまた入れなくなっていた。
 この状態になったのが月曜日、その週の日曜日についにライブドアブログのヘルプに連絡した。ブログには入れなかったがライブドアのメインサイトには入れたのでヘルプに飛べたのだ。
 すると月曜日には返事が来て、ライブドア側では何の問題も確認できないが、もっと詳しく状況を報せて欲しいと言ってきた。何回かやり取りをした後、家のパソコンからは Firefox でやっても Edge でやっても、はたまたもう一つのノートブックパソコンからも入れないが、家から出て全く別のところからアクセスするとできること、ライブドアばかりでなく他にも入れないサイトがあることなどから、「おそらくサーバー側の問題だから問いあわせて見て欲しい」と回答を貰い、さっそく近くにあるドイツテレコムのお客様センターに行った。ここからが「サービスの砂漠」と言われるドイツの本領発揮だ。人の話をロクに聞かないうちから「あっ、それはこちらの問題ではありませんが、何だったらホットラインに相談してください」。ホットラインに電話すると思った通りいつまでも録音音声や人を舐め切ったBGMが続くばかりで一向に繋がらない。しかたがないからドイツテレコムのサイトの「コミュニティ」というところにログインして相談スレを立ち上げた。ここはもちろんテレコムの社員が回答するのではなく、顧客同士のコミュである。そういうところに来る人と言うのは技術フリークが多く、そこにこんなガラパゴスが無知丸出しな質問をしたらもの笑いになるのではないかとは思ったが、もうそういう心配をしている余裕はない。ビクビクしていたらなんと何人かが親切に回答してくれた。それらをまとめると、やはり日本に本拠のあるゲームサイトに繋がらないと苦情を言っていた人がいる、その人たちもテレコム以外の回線では繋がると言っていたから、これはドイツテレコムが日本に繋ぎ損なっているのだと思われる、またVPNだと繋がると言っていたから試してみたらどうだろう、ということになった。
 
 こうなるとさすがのガラパゴスも腹を決めざるを得ない。筑波大学の VPN Gate のサイトに飛ぶと「この Web サイトの設置場所」として「筑波大学筑波キャンパス 〒305-8573 茨城県つくば市天王台 1 丁目 1 番地 1」とある。これを見て私は不覚にも懐かしさのあまり涙チョチョ切れてしまった(もっとも私のいたころは「茨城県新治郡桜村」と言ったが)。しかしそんなことでウルウルしている場合ではないので気を取り直して「接続方法」に行く。しかしこれはインストールしたプログラムの動かし方だから、そのインストールをどうやるかですでに立往生しているガラパゴスにとってはすでに情報が数歩先、手の届かないところに進んでいる上に次のような指示がある:「VPN 接続中は、Windows 上に仮想的な LAN カードが作成され、その仮想 LAN カードに「10.211.」で始まるプライベート IP アドレスが割当てられます。また、デフォルトゲートウェイが仮想 LAN カードに設定されます。このことを確認するためには、Windows のコマンドプロンプトから「ipconfig /all」コマンドを実行してみてください」。こりゃ私にとっては完全にナワトル語だ。何を言っているのか全く分からない。しかもそこには恐怖のプロンプト画面の画像まで開張り付けてある。早々に一旦退散して外のネット世界で検索しまくったところ、ありがたやこのプログラムのインストールの仕方を手取り足取り親切に解説してくれているYoutubeビデオがあった。そのビデオを2日に渡って繰り返し見て手順を頭に叩き込む。でないと操作の途中で何か事故でもあって心臓発作を起こしかねないからだ。

私のようなデジタル音痴はこういうことを言われてもわからない。
https://www.vpngate.net/ja/howto_softether.aspx#windowsから。

Prompt
 そして静かな日曜日の午前、いよいよSoftEther VPNとかいうプログラムをダウンロード&インストールした。ほぼビデオの通りの操作で良かったが、恐れていた通り知らない画面、知らない現象が現れてプチビビり状態にはなった。が、ガラパゴス君は頑張ったのである。まず躓きの第一歩は、ダウンロードした zip ファイルを展開する操作とクリック場所がビデオと少し違っていたことだ。次にビデオではインストール時の画像が全て日本語なのに、私んとこではそれが全て英語になっていたことである。多分こちらの IP アドレスがドイツなので自動的に英語バージョンがロードされたのに違いない。3番目はインストールの最中にビデオにはない質問項が現れたことだ。当然英語で質問されたので瞬間的に緊張した。「サーバ―提供をしますか?」というもので、全く白紙の状態でこれを聞かれたら意味がわからなかったかもしれないが、その前に筑波大のVPNがボランティアのサーバーの協力によるものだと知らされていたので無視して先に行った。その後は全くビデオで言われた通りで、手頃なサーバーを選んで繋いでみたらなんと本当に(当たり前だ)IPアドレスが日本になっていた。

 その間もライブドアブログなどにドイツテレコムを通っていこうとしたが、相変わらず足止めを喰らっていたのにIPを日本にしたらスポンと行けた。魔法みたいだ。面白くなってIPを日本にしたりドイツにしたり、切ったり繋げたりして半日遊んでしまった。する前は何年も躊躇していたのに、たまに一旦何かをインストールするとすぐはしゃぎだす、これも典型的なデジタル音痴の特徴である。
 さてVPNを入れて1・2日経つとドイツテレコムからも入れるようになった。この遅さはドイツ鉄道並みだ。遅い上に顧客に対するサービスがなっていない。トラブルシューティングを顧客側に丸投げするって何なんだろう。毎月金を払っているのはこっちなんだぞ?タダで利用しているライブドアブログの方がよっぽどまともな対応だった。
 と、ライブドアを褒めたらその翌日突然そのニュースサイトにいけなくなっていた。ブログでなくニュースサイトの方である。EEA、つまりEU+ノルウェー、アイスランドとさらにプラスで英国からのアクセスが不可能になった。上で述べたYahooニュースの後を追ったのである。理由はどちらのニュースサイトも明らかにしていないが、EUはIT企業に対しての規制が鬼のように厳しく、ちょっと注意を怠ると地雷を踏んでしこたま制裁金を取られる。触らぬ神に祟りなしでEUを避けたのだろうが、それにしても偶然その直前にVPNを入れていたのは何かの啓示だったのか。ライブドアのメインサイトにも行けないので、ヘルプに連絡することすらできない羽目になるところだった。間一髪だ。

ライブドアニュースも今は見られない。
livedoor
 ログイン問題が一応解決すると、今度は VPN Gate の口コミ評などが知りたくなって検索してみた。有料無料の VPN のメリットデメリットなどがあちこちのサイトで議論されているが、大まかに言ってVPN Gate は無料でしかも会員登録がいらず、そのうえ運営元が国立大学だから無料で誘って結局有料版に誘いこんだりといった阿漕なことはされる心配がないという大きなメリットがある代わりに、セキュリティや接続の安定性の面で他の有料VPNに比べて不安が残るということだ。VPNGateでは使用歴のログが一定期間残るからである。このプロジェクト自体が研究のためなのだから使用データが残るのはまあ当たり前である。さらにサーバー提供もボランティアに頼っているから誰が提供しているかわからない。悪徳サーバーが混じっていないという保証がない。また何千ものボランティアサーバーは何せ個人だから接続が悪い事もある。また何かトラブルがあっても「顧客サービス」というものがない。
 多くのサイトではこれらのメリットデメリットを天秤にかけて大体次のような結論に達していた:「ちょっとニュースを見たりちょっとしたビデオを見るのには VPN Gate でいい。何より無料で運営が国立大学という圧倒的な安心感がある。しかし匿名性を重視したかったり映画やTV番組を見ることが主体だったら有料のにしたほうがいい。とくにオンラインバンキングとかパスワードとかは VPN Gate を通さないほうがいい。要は上手に使い分けなさい。」つまり VPN Gate はまさに私のような「困ったときや非常時にだけちょっと別IPで入りたい」程度の利用者向きだという事だ。事実私と同程度のユーザーがその気軽さゆえにこれを勧めているのをよく見かけた。
 だが中には「VPN Gate は使うな」と明確に言い切っているのもあった。ちょっと注意して使いさえすればとても便利だと思うのに「使うな」とまで言うのはなぜか気になったので、さらにそういうサイトを見てみたらほぼ全部「そのかわりこちらがおススメ」などと言って有料サイトのリンクを張ったりして宣伝活動をしている。ひょっとしてVPN会社のやらせ記事か少なくともいくらか貰っているのかもしれない。こっちの方がよっぽど油断がならないと思った。
 VPN Gate を起動させるとスタンバイ中のサーバー一覧が出る。その中から好きなものを選んで接続するわけだが、それらをボーッと見ていて気付いたことがある。時々一人で10個、いや20個くらいサーバー提供しているところがあるのだ。考えたのだが、これは筑波大学の第三学群棟(昔は「第三学群」という名前だった)のコンピュータールームのパソコンを総動員してサーバーにしている、つまり研究室所持のパソコンか、教授のゼミの学生たちが教授に言われて自宅のパソコンを提供させられているかのどちらか、要は大学サイドの接続先なのではないだろうか。
 確かに日本から海外のサーバーに接続するのは誰が向こうにいるかわからない怖さがあるが、逆方向、海外から日本に接続する場合は安心感が一段上がる気がする。とにかく私は選んだ接続先に繋ぐ際には「ちょっと失礼します」、接続を外すときには「ありがとうございました」と声をかけている。脳が完全にアナログ思考なのである。
 なお、先に変更したDNSはそのままパブリックのにしてある。

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