アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:発音

 私は昔から「文学」というものが苦手だった(「嫌い」というのとは全然違う、念のため)。文学論・評論の類は書いてあることがまったく理解できない、詩は全然意味がとれない、高校生でも読んでいる日本の有名作家など実は名前さえ知らないことが多かった。
 1965年にノーベル文学賞をとったソ連の作家ミハイル・ショーロホフの短編『他人の血』は、その文学音痴の私が何回となく読んだ数少ない文学作品の一つだ。 一人息子を赤軍に殺されたコサックの農夫が瀕死の重傷を負った若い赤軍兵士(つまり本来敵側の兵士)の命を助け、彼を死んだ息子の代わりにいとおしむようになるが、結局兵士はもと来た所に帰って行かねばならない、という話である。
 以下はまだ意識を取り戻さない兵士を老コサックのガヴリーラがベッドの脇で見守るシーン。昭和35年(51年に第36版が出ている)に角川文庫から発行された『人間の運命・他4篇』からとったもの。「漆原隆子・米川正夫訳」となっているが実際に訳したのは漆原氏だということだ。

 『東風がドンの沿岸から吹き寄せて、黒くなった空を濁らせ、村の上空に低く冷たい黒雲を敷く長い冬の夜々、ガヴリーラは負傷者の横に坐り、頭を両の手にもたせて、彼がうわ言をいい、聞きなれぬ北方の発音で、とりとめもなく何事か物語るのに、聴きいるのだった。』

 次は兵士が去っていくラスト・シーン。

『「帰って来いよう!....」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。 「帰っちゃ来まい!....」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。 最後に、懐かしい薄あま色の頭が、曲がり角のはずれでちらりと見えた。』

 私がこれを読んだのは中学生か高校生になりたての頃だったと思うが、ずっと心に残っていてその後20年くらいたってから、原典をドイツのM大学で見つけた。せっかくだからここで引用するが、上の部分は原語ではそれぞれ以下の通りだ。

『В длинные зимние ночи,когда восточный ветер, налетая с Обдонья, мутил почерневшее небо и низко над станицей стлал холодные тучи, сиживал Гаврила возле раненого, уронив голову на руки, вслушиваясь, как бредил тот, незнакомым окающим говорком несвязно о чем-то рассказывая;』

『-Ворочайся! - цепляясь за арбу, кричал Гаврила. -Не вернется!... - рыдало в груди невыплаканное слово. В последний раз мелькнула за поворотом родная белокурая голова, (...)』

美しいロシア語だ。中でも特に二ヶ所、触れずにはいられない部分がある。翻訳者の鋭敏な言語感覚が現れているところだ。

 まず『聞きなれぬ北方の発音で』の原語はнезнакомым окающим говорком。これは直訳すれば「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音される聞きなれない方言で」。ロシア語をやった者ならすぐ通じると思うが、標準ロシア語では母音oがアクセントのない位置に来た場合「お」でなく軽い「あ」と発音される。テキストにoと書いてあってもaと読まなければいけない。ベラルーシ語だとアクセントのないoは正書法でも発音通りaと書くが、ロシア語は違う。これをそのままoと読むのは非標準語の方言である。この、アクセントのないoを「お」と発音する地域と「あ」と発音する地域の境界線はだいたいモスクワのすぐ北あたりを東西に走っている。つまりモスクワ以北は基本的にo方言ということだ。この短編の主人公はロシア南部のドン・コサックだから完全にa方言区域、oはそれこそ聞いたこともない方言だったに違いない。

 しかしこれをそのまま馬鹿正直に「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音されて」などと訳していたら文学性が消えてしまう。ロシア語の言語地理学を専攻にしている人などは喜ぶかも知れないが、普通の読者はワケがわからず、その場で本を投げているのだろう。「北方の方言」、本当にセンスのいい翻訳だと思う。
 ちなみにロシア語の先生から聞いた話によると、エカテリーナ二世の時代から毛皮などを求めてシベリアに渡っていったロシア人にはこのo方言の話者が多かったそうだ。そういえば『北嵯聞略』にも記録されているようだが、例の大黒屋光太夫がカムチャットカで「鍋」というロシア語котёлを「コチョウ」と聞き取っている。しかしこの単語のアクセントはёにある、つまりoにはアクセントがないからこれは本来「カチョウ」または「カチョール」と聞こえるはずだ。してみるとここで光太夫が会ったロシア人もこの「北方のo方言」の話者だったのかもしれない。

 もう一点。『薄あま色』という表現はбелокурая(ベラクーラヤ)の訳。これは普通に訳せば「金髪・ブロンド」だ。でも「金髪」とか「ブロンド」という言葉はちょっとチャラい感じでハリウッドのセクシー女優などにはちょうどいいかもしれないが、革命に燃える若き赤軍兵士にはどうもピッタリ来ない。男性ばかりでなく、赤軍兵士が女性であっても使いにくいだろう。「薄あま色」とやれば軽さは消えて、孤児として育ち瀕死の重傷を負ってもまだ理想を捨てない若者の髪の色を形容するのにふさわしくなる。逆に(名前を出して悪いが)マリリン・モンローやパメラ・アンダーソンにはこの「薄あま色」という言葉は使えないと思うがいかがだろうか?


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 何気なく17世紀の初頭に書かれたロドリゲスの『日本語小文典』(もちろん翻訳をだ。そんな古い、しかもポルトガル語の原本なんか読めるわけがない)を見ていたら、ちょっと面白いことに気付いた。「お」と「を」を区別せずにどちらも vo、「う」を単に v と、v を使って表記してあるのだ。 例えば「織物」を vorimono、「己」を vonore、丁寧語の「御」が vo、「馬」が vma、「訴え」が vttaeだ。
 これは日本語の音が当時そうなっていたというより、単なる表記の仕方の問題だろうが、東スラブ諸語では実際に v 音が語頭に付加される(これを prothetic v 、「語頭音添加の v 」という)から面白い。これが本当の「サインはV」だ。(今時「サインはV」などというギャグを飛ばすと年がバレる、といいたいところだが、年がバレるも何もそもそももう誰もこんなTVシリーズなど知らないだろうから単に素通りされる可能性のほうが高いと思う)。

 例えばロシア語の川の名前 Волга(Volga)はもともとスカンジナヴィア系の Олга(Olga)という名前だったのに в (v) が語頭付加されたものだ、と聞いたことがある。また、トゥルゲーネフのНесчастливая(『不しあわせな女』)という小説に вотчим(votčim、「義父」)という単語が出てくるが、これは辞書に出ている普通の形は отчим(otčim)。これなど明らかに prothetic v だろう。

 ベラルーシ語などはこの prothesis(「語頭音付加」)の現れ方が体系的で、語頭の後舌円唇母音にアクセントがあった場合は в (v) が規則的に付加される。例を挙げると
Tabelle1-33
ベラルーシ語では対応するロシア語の単語に対して語頭に в (v) が立っていることがわかるだろう。なお、око (oko、目)という語はロシア語では古語化していて現代語で普通に目を意味するときはглаза(glaza)という語を使う。もっとも歌の文句などちょっと文学的なニュアンスにしたいときは古語のоко を使うことがある。例えば『バルカンの星の下で』という歌があったが、その第一行目が

Где ж вы, где ж вы, очи карие
あなたはいずこ、あなたはいずこ、茶色の瞳(の人)よ

という歌詞だった。очи(oči)というのは око(oko)の複数形である。

 後舌円唇母音が語頭にたってもアクセントがなければ в (v) が付加されないのが本来なのだが例外的にアクセントのない語頭の円唇母音にprothesic v が現れることがある。
 例えばベラルーシ語の вусаты (vusaty、「髭の(ある)」)という形容詞ではアクセントのある母音は а (a) であって у (u) ではないから、本当は в が添加されずに усаты(usaty)になるはずだ。それなのになぜここで в が付加されているのか。この形容詞の語幹となった名詞の вус(vus「髭」、ロシア語の ус (us) に対応)にすでに в が付着している、つまり元の語がすでに в 付きなので、そこから派生した語から今更 в を取り払うことができないからだ。
 
 さらにロシア語に対するベラルーシ語の特徴として次のようなものがある。ロシア語では r 音に口蓋音・非口蓋音、俗に言う軟音・硬音の2種類あるが、ベラルーシ語では r に口蓋・非口蓋の弁別的対立が失われて硬音の r しかない。だからロシア語では口蓋化している р(r)で発音する音(r’ または rjで表わす)がベラルーシ語では対応する非口蓋化音になる。日本語表記も加えてみる。

ロシア語
Я говорю. (ja govorju、ヤー・ガヴァリュー、「私は話す」)

ベラルーシ語
Я гавару. (ja gavaru 、ヤー・ハヴァルー

ロシア語の有声軟口蓋閉鎖音、つまり г  (g) はベラルーシ語では有声軟口蓋摩擦音、国際音声字母IPAで [γ] になると教わったが、実際の発音を聞かせてもらった限りでは無声軟口蓋摩擦音 [x]、あるいは無声喉頭摩擦音 [h] にしか聞こえなかった。内心「あれ?」と思っていたら、いつだったかオリンピックでベラルーシの選手にOlhaという名前の人を見た。これは明らかにロシア語のОльга(Ol’ga)だ。ロシア語のgがベラルーシ語の英語表記ではhになっている、ということはつまりベラルーシ語の г は英語話者にも h に聞こえるということで特に私の耳が悪いからでもないと思う。

 目のいい人はさらにお気づきになったかもしれないが、ベラルーシ語はいわゆる аканье(アーカニエ、『26.その一日が死を招く』の項参照)を律儀に文字化する。アーカニエとはロシア語でアクセントのない o が a と発音される現象のことだが、発音は a でも文字では o と表記する。上のロシア語 говорю が、「ゴヴォリュー」でなく「ガヴァリュー」と発音されるのはそのせいだ。もっとも o が弱化して出来た「ア」はロシア語ではクリアな [a] とは発音せず、強勢のあるシラブルの直前では [ʌ]、それ以外では [ə] となるのに対しベラルーシ語ではきちんと [a] で発音されると聞いた。ただし自分の耳で確認はしていない。

 とにかくベラルーシ語ではアクセントのない o は発音どおり a と書く。だから上の гавару (gavaru) では母音が発音どおり а と書いてあるのだ。вока (voka) 「目」とか вуха (vucha、ch は [x]、「耳」) とかいう綴りはロシア語だと間違いだが、ベラルーシ語では正書法通りである。書き間違いではない。まあ、覚えやすいと言えばこちらの方が覚えやすいが、私は「ここは а だったっけか、о だったっけか」と年中わからなくなる学習者泣かせのロシア語の綴りの方が味があると思う。 

 またベラルーシ語では ŭ(英語の w) と l の交代が見られる。 ロシア語と比べてみるとさらに面白い。ベラルーシ語の ŭ はロシア語の l だけでなく v、v'、u とも交代するのだ。まさに七変化だ。下に例を挙げるが「ベ」がベラルーシ語、「ロ」がロシア語だ。
Tabelle2-33
Tabelle3-33
 ベラルーシ語ではロシア語の前置詞 в (v) は基本 у (u) になる(下から3番目の例 паехаў ён у чыстае полеと一番下の例 поехол Илья в Киевの下線部を比較)。ところが、この前置詞が母音の後に来る場合は ў (ŭ ) になるのだ(下から二番目の例文と比較。Iлля は Illja で、最後の音が母音)。

 そういえばもう20年近く前、ドイツ語の授業で「人食いアヒルの子さんの als は aus に聞こえる」と発音を直されたことがあって、l と u という組み合わせに意外な気がしたのを覚えている。l と u は他の言語でも交代しやすいのかもしれない。
 もっとも l は o とも交替しやすそうだ。セルビアの首都は Beograd とも Belgrad とも言う。さらにロシア語の был (byl、「~だった」、男性単数形)はセルビア語(あるいはクロアチア語)では bio で、ここでも l と o が対応している。

 実は面白いことにベラルーシ語には prothetic i (「語頭音添加の i 」)がある。トルコ語などにもこれがある。イスタンブールの「イ」は後から付加された母音で、これは本来「スタンブル」だったそうだ。 ロシア語と比べてみよう。
Tabelle4-33
 さて、アザレンカというテニスの選手がいるが、この人はベラルーシ出身だ。ウィキペディアにあるこの名前の原語ベラルーシ語バージョンとロシア語バージョンを比べてみると次のようになるが、この短い名前の中に今まで述べてきたロシア語とベラルーシ語の重要な音韻対応のうち3つもを見ることが出来る。下の太字の部分を比べてみてほしい。 j は英語の j ではなく、ドイツ語読みの j、つまり英語なら y である。

ベラルーシ語
Вікторыя Фёдараўна Азаранка
Viktoryja Fёdarna Azaranka
ロシア語
Виктория Фёдоровна Азаренко
Viktorija Fёdorovna Azarenko

 1.ロシア語の歯と下唇による有声摩擦音 в (v) がベラルーシ語では特定の環境では摩擦性が弱まり半母音ў (w)となる。それでベラルーシ語のФёдараўна(フョードラナ)はロシア語ではФёдоровна(フョードロナ、o が上述のようにアーカニエを起こすので正確にはフョードヴナ)。

2.ベラルーシ語ではロシア語と違い р (r) に口蓋・非口蓋の音韻対立がないのでロシア語では ри (ri) と ры (ry) を区別するところがどちらも  ры (ry) となる。ロシア語バージョンの ре (re) がベラルーシ語で ра (ra) と書いてあるが、 е の前に立つ р (r) は口蓋音と決まっているので р (r) に口蓋音がないベラルーシ語では r の後に е が来られない。そこで e の代わりに先行音を口蓋化しない母音の a が来ている。実はベラルーシ語にもロシア語にも「先行音を口蓋化しない e」というのがあるのだが(э (ė) がそれ)、 どうして ė  でなく a になっているのかは正直よくわからない。まあ言語とはそういうものなのだろう(なんといういい加減な)。

3.ベラルーシ語ではアーカニエを文字化するのでФёдараўна Азаранкаと、ロシア語ではアクセントのない母音 o が来ているところがが全部 a で書いてある。

 こういう風に教科書など話にだけしか聞いたことのなかった事柄の実際例に遭遇すると嬉しくなってしまうのは私だけではあるまい。


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警告:この記事には下ネタが含まれています。紳士・淑女の方は読まないで下さい。自己責任で読んでしまってから「下品な記事を書くな!」と苦情を言われても一切受け付けられません。

 ドイツ語にAuslautverhärtungという言葉がある。「語末音硬化」とでも訳せるだろうか。語末で有声子音が対応する無声子音に変化する現象である。例えば「子供」はkindと書き、語末の音は深層では書いてある通り d、有声歯茎閉鎖音なのだが、ここではそれが語末に来ているため対応する有声歯茎閉鎖音、つまり t となり、「キント」と発音される。複数形はKinderといって d が語末に来ないから本来の通り有声になって「キンダー」。
 私は個人的にこのAuslautverhärtungという言葉か嫌いだ。ドイツ語学の外に一歩出ると通じないからである。「硬化」というが無声音のどこが有声音より硬いんだろう。辞書を引くとVerwandlung eines stimmhaften auslautenden Konsonanten in einen stimmlosen(「語末に来る有声子音が無声のものに変化する現象」)と定義してあってさすがに「硬化」などという非科学的な記述よりはきちんと理解できるが、実はこれでもまだ不正確だ。この現象の本質は単にさる有声子音がさる無声子音に変化するのではなく、調音点・調音方法はそのままで有声性だけが変化する、言い換えると本来弁別的区別をもつ [+ voiced] 対 [- voiced] の素性(そせい)の差が語末では機能しなくなる、ということだからだ。で、人にはいちいちNeutralisierung der Stimmhaftigtigkeit im Auslaut(「語末での有声性の中和」)と言え、と訂正してその度にうるさがられている。
 それと同じ理由でロシア語の「硬音」「軟音」という用語も嫌いだ。ロシア語ではこれを使わないとそもそも語学の学習が出来ないから仕方なく使っているが、本来「非口蓋化音」「口蓋化音」というべきだろう。さらにいうと日本語の「清音」「濁音」「半濁音」という言い方も見るたびに背中がゾワゾワする。
 その、ドイツ語でシモの有声音が中和される現象だが、ドイツ人はこれが深く染み付いていて英語のsentとsend、(生放送という意味の)liveとlifeが発音し分けられない人がたくさんいる。それぞれどちらもセント、ライフになってしまい、「センド」「ライヴ」が言えないのだ。
 同じ西ゲルマン語なのに英語にはこのシモの現象がない。調べてみたら北ゲルマン語のスウェーデン語にもない。だからスウェーデン語でland(「国」)はドイツ語のように「ラント」にはならないが、その代わり d がそり舌化して [ɖ] となるとのことで「ランド」ともいえない。実際に発音を聞いてみたらそもそも語末音が全然聞こえなかった。西ゲルマン語で英語とドイツ語の中間にあるオランダ語にはこの現象がある。聞いてみたらlandはきれいに(?)「ラント」であった。さらにスラブ諸語はこの有声音の中和現象が著しく、ロシア語などは半母音さえ中和されて [j] が [ç] となるばかりか、ソナントの [r] まで語末で無声になっているのを耳にする。特に口蓋化の [r] は無声化しやすいのか、царь (ツァーリ、「皇帝」)の「リ」は [rj ̊] になることが多いようだ。
 またドイツ語では反対に無声歯茎摩擦音、具体的に言うと s が語頭や母音間では必ず有声化して z になるため、「相撲」がいえず「ズーモ」、「大阪」が「オザーカー」、「鈴木」に至っては「ズツーキ」になってしまう。頭突きをやるのは鈴木でなくジダンだろう(などと今頃言っても誰ももうあの事件を覚えていないか)。
 
 しかしこの「有声音と対応する無声音の区別が怪しくなる」というのは中国語や韓国語など、大陸アジアの言葉が母語の人にも時々現れる。それらの言葉では有声無声の対立が弁別的機能を持っていないことがあって、かわりに帯気・無気が弁別的に働くからだ。で、うっかりすると「ねえやは十五で嫁に行き」が「ねえやは中古で嫁に行き」となってしまうそうだ。
 でも昔の日本は武士階級ならともかく、庶民では女性にすでに性体験があっても別に嫁に行く際それほどマイナスにはならなかったと何かの本で読んだことがあるから(現に「夜這い」とかいう習慣があったではないか)、中古でも新品でもあまり関係ないのではないだろうか。そもそも日本語は歴史的に見れば本来有声子音(いわゆる濁音)と無声子音(清音)に弁別的差がなかったそうだし。アイヌ語などは現在に至るもこれらを音韻的に区別しないと聞いた。

 それでさらに思い出したことがある。私がドイツに住み始めた頃はうちの住所はまだ西ドイツと言ったが、その頃、まだ東ドイツもソ連も存在していた頃に「ソ連赤軍合唱団」のCDを近くの本屋さんで買ったことがある。ソ連崩壊の直前、当地の経済状態が壊滅状態で、市民を救おうとチャリティ目的のCDだろなんだろが店頭にドッと並んだのである。チャリティでなくてもとにかく一時旧東欧圏の製品がたくさん流れて来た時期があったのだ。
 もっとも以前からソ連赤軍合唱団の歌は好きでよく聴いたものだった。聴いてみてまず気づくのは、ソロ歌手でもその他歌手でも高い声がきれいだという事だ。以来どうして赤軍合唱団は高音部がきれいなのかずっと疑問に思っていたのだが、あるとき次のような話を複数の人から同時に聞いて疑問が氷解した。真偽の程は定かではない:

「ソ連の戦車は西側諸国の装甲の厚い戦車に対し、被弾率を下げ機動力で対抗するために比較的小型軽量に作られてきた。そのため車内の居住性が悪く被弾経始がキツいので狭い車内で不自然な姿勢で操縦することになる。そこで気をつけて大砲を撃たないと反動で後退してきた砲尾が股間を直撃し睾丸を潰してしまう。そういう女性化した戦車兵が続出するため、高音が出やすくなって、結果として赤軍合唱団のファルセットは世界一なのである」

いいではないか。イタリアでは結構最近まで教会コーラスのボーイ・ソプラノを維持するため、早いうちに男性歌手を組織的に去勢していたそうだし、こういう比べ方もナンだが、ブタも去勢してない雄ブタは肉が臭くて食べられないそうだ。私としてはこういうファルセットがもっと聴けるようになるのは大歓迎、ドンドンヘンな姿勢で大砲を撃って遠慮なくツブれて欲しい感じ。去勢すると攻撃性が減るそうだから、ひょっとしたらそういう兵士は戦闘員には向かなくなって強制的に「合唱専門部隊」にまわされるのかもしれない。

 もっともペットを去勢したところホルモンのバランスが崩れたためか手術の直後一時期かえって攻撃性が増した、という話もきいたことがある。するとツブれた赤軍兵もその直後は一時攻撃性が増して狂ったように撃ちまくったりしたのだろうか。もしかするとその超人的な砲撃のおかげでソ連はドイツに勝ったのか?


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 クロアチア語は発音でえらく苦労した。

 例えばクロアチア語には /i/ という前舌狭母音、つまりロシア語でいう и しかないのに n という子音そのものには口蓋音・非口蓋音(硬音・軟音)の区別があるのだ。クロアチア語ではそれぞれ n、nj と書いてそれぞれロシア語の н と нь に対応するのだが、その後に /i/ が来たときの区別、つまり ni と nji の発音の区別が結局最後までできなかった。日本語ではどちらも「ニ」としか書きようがないのだが、ni をロシア語式に ни (ニ)と言うと「それでは nji に聞こえます」と怒られ、それではと ны (ヌィ)と言うと「なんで母音のiをそんな変な風に発音するんですか?」と拒否される。「先生、ni と nji の区別が出来ません」と泣きつくと、「仕方がありませんねえ、では私がゆっくり発音してあげますからよく聞いてください」と親切に何度も両音を交互に発音してくれるのだが、私には全く同じに聞こえる。 
 さらにクロアチア語にはロシア語でいう ч に硬音と軟音の区別がある、つまり ч と чь を弁別的に区別する。これも日本語ではどちらも「チ」としか言いようがない。ロシア語では ч は口蓋音、いわゆる軟音しかないからまあ「チ」と言っていればなんとなく済むのだが、クロアチア語だと「チ」が二つあって発音し間違えると意味が変わってくるからやっかいだ。ロシア語をやった人なら、「馬鹿な、もともと軟音の ч をさらに軟音にするなんて出来るわけがないじゃないか」と言うだろうがそういう音韻組織になっているのだから仕方がない。č が ч、ć が чь だ。
 私はこの区別もとうとうできるようにならなかった。例えば Ivić というクロアチア語の苗字を発音しようとすると、講師からある時は「あなたの発音では Ivič に聞こえます。それではいけません。」と訂正され、またある時は「おお、今の発音はきれいな Ivić でした」と褒められる。でも私は全然発音し分けたつもりはないのだ。何がなんだかわからない、しまいには自分がナニしゃべっているのかさえわからなくなって来る。

 反対にクロアチア人の学生でとうとうロシア語の мы (ムィ、「私たち」)が言えずに専攻を変えてしまった人がいる。南スラブ語と東スラブ語間では皆いろいろ苦労が絶えないようだ。

 ところで、古教会スラブ語は「スラブ祖語」だと思っている人もいるが、これは違う。サンスクリットを印欧祖語と混同してはいけないのと同じ。古教会スラブ語はれっきとした南スラブ語族の言語で、ロシア語とは系統が異なる。ただ、古教会スラブ語の時代というのがスラブ諸語が分離してからあまり時間がたってない時期だったので、これをスラブ祖語とみなしてもまああまり支障は出ないが。
 東スラブ語は過去2回この南スラブ語から大波を受けた。第一回目が例のキリロス・メトディオスのころ、そして2回目がタタールのくびきが除かれて中世セルビア王国あたりからドッと文化が入ってきたときだ。
 なので、ロシア語には未だに南スラブ語起源の単語や文法組織などが、土着の東スラブ語形式と並存している。日本語内に大和言葉と漢語が並存しているようなものだ。
 さらに、南スラブ語は常に文化の進んだ先進地域の言語であったため、この南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり、意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする。例えば合成語の形態素として使われるのも南スラブ語起源のことが多い。日本語でも新語を形成するときは漢語を使う事が多いのと同じようなものだ。
 
 ちょっと下の例を比べてみて欲しい。оло (olo) という音連続は典型的な東スラブ語、ла(la) はそれに対応する南スラブ語要素だが、語源的には同じ語がロシア語には南スラブ語バージョンのものと東スラブ語バージョンのものが並存し、しかもその際微妙に意味が違ったり合成語に南スラブ語要素が使われているのがわかると思う。
Tabelle1-56
 さらにいえば、ウクライナ語は昔キエフ公国の時代に東スラブ語文化の中心地だったためか、ロシア語よりも南スラブ語に対する東スラブとしての抵抗力があったと見え、ロシア語よりも典型的な東スラブ語の音韻を保持している部分がある。例えばロシア語の名前Владимир(ヴラジーミル)は南スラブ語からの外来名だ。この愛称形をВолодя(バロージャ)というがここでも上で述べた南スラブ対東スラブ語の典型的音韻対応 ла (la) 対 оло  (olo)が現れているのが見て取れるだろう。この、ロシア語ではВладимирとなっている名前はウクライナ語ではВолодимир (ヴォロジーミル)といって正式な名前のほうでも оло  という典型的東スラブ語の形を保持している。
 この、南スラブ語の la や ra がそれぞれ olo や oro になる現象をполногласие (ポルノグラーシエ、正確にはパルナグラーシエ、「充音現象」)と言って、東スラブ語の特徴である。「難しくてオロオロしてしまいそうだ」とかギャグを飛ばそうかと思ったが馬鹿にされそうなのでやめた。いずれにせよполногласие の л (l) をр (r) と間違えないことだ。

 古教会スラブ語のアクセント体系がどうなっていたかはもちろん直接記録はされていないが、現在の南スラブ語を見てみればある程度予想はつく。以下は南スラブ語の一つクロアチア語とロシア語の対応語だが、これを見ればおつむにアクセントのある上品な南スラブ語が東スラブ語ではアクセント位置がお尻に移動しているのがわかる。アクセントのあるシラブルは太字で表す。 さらに比較を容易にするため、ロシア語もローマ字で示してみた。
Tabelle2-56
 この、「おつむアクセントは上品、お尻アクセントは俗語的」という感覚は人名の発音にも見られるそうだ。例えばイヴァノフ (Иванов)という名前は ва にアクセントが来る「イヴァーノフ」と но に来る「イヴァノーフ」という二種類の発音の仕方があるのだが、「イヴァーノフ」の方が上品で古風、つまりなんとなく由緒あり気な感じがするという。
 それを知ってか知らずか、神西清氏はガルシンの小説『四日間』(Четыре дня)の主人公を「イヴァーノフの旦那」と訳している。貴族の出身という設定だったので、由緒ありげな「イヴァーノフ」のほうにしたのかもしれない。「イヴァノーフ」では百姓になってしまい、「旦那」という言葉と折り合わなかったのか。
 この苗字の元になった名前「イヴァーン」(Иван)のアクセントは ва (ヴァ)にあるのだから、最初は苗字のほうもイヴァーノフだったはずだ。その後ロシア語の言語体系内でアクセントの位置がドンドン後方にずれていったので、イヴァノーフという発音が「普通」になってしまった。さらにウルサイことを言えば、この名前の南スラブ語バージョン Ivo (イーヴォ)はアクセントが「イ」に来るし、セルビア語・クロアチア語でも Ivan を I にアクセントを置いた形でイーヴァンと発音する。つまりそもそものИванという名前からしてロシア語ではすでにアクセントが後ろにずれているのだ。Ивановではその、ただでさえずれているアクセントをさらにまた後方に横流ししたわけか。もうこれ以上は退却できない最終シラブルにまで下がってきている。いわば背水の陣だ。


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 ドイツでは国歌を斉唱したりすることがあまりない。もちろん学校行事で歌うことなどないしそもそも「学校行事」などというものがほとんどない。国旗を掲げたりもあまりしない。ベルリンの国会議事堂なんかにはかろうじて国旗が揚がっているが、地方裁判所になると立ててあるのは州旗である。
 昔フライブルク・バーゼル経由でチューリヒに行こうとして電車に乗っていたところ、パスポートのコントロール(当時はまだ東西ドイツがあったし、EUでなくECだったのでスイスとの国境でパスポートのチェックがあったのだ)に来た警察官のおじさんが雑談を始めて、「スイスに行くんですか。でもシュバルツバルトも見ていくといい。フライブルク、チューリヒ、あとミュンヘンやオーストリアの住人って一つの民族なんですよね。言葉も同じ、文化も同じ、一つの民族なんだ」と言っていた。つまりこの南ドイツの警察官のおじさんにとってはオーストリア・スイスのほうが北ドイツ人より心情的に「同国人」なのだ。一方北ドイツ人も負けていない。「フランクフルトから南はもうドイツ人じゃない。半分イタリア人だ」「バイエルン訛よりはオランダ語の方がまだわかる」などといっている人に遭ったことがある。かてて加えてドイツ国内にはデーン人やソルブ人などの先住民族がいる。後者は非ゲルマン民族だ。こういうバラバラな状態だから国旗なんかより先に州旗が立つのだ。ドイツでいい年の大人が国歌を歌ったり国旗を振り回したりするのはサッカーの選手権のときくらいではないだろうか。時々これでよく一つの国にまとまっていると不思議になるが、国歌斉唱などしなくてもドイツという国自体は非常に堅固である。

 日本では時々小学校、ひどい時には大学で国歌を斉唱させるさせないの議論になっているが、そんなことが国家の安定とどういう関係があるのかいまひとつよく理解できない。理解できないだけならまだいいのだが、小学校の式で国歌を歌わせる際、教師や生徒が君が代を本当に歌っているかどうかを校長がチェックするべきだ云々という報道を見たことがあり、これにはさすがに寒気がした。中年のおじさん教師が10歳くらいの子供の口元をじいっと見つめている光景を想像して気分が悪くなったのである。
 子供たちもこういうキモいことをされたら意地でも歌ってやりたくなくなるだろうが、相手は生殺与奪権を持つ大人である。せいぜい口パクで抵抗するしかない。しかしこの「口パク」というのは結局、実際に音が出ないというだけで頭の中では歌っているわけだから相手に屈したことになる。それではシャクだろうからいっそ君が代を歌っていないことがバレない替え歌を歌うという対抗手段をとってみてはいかがだろうか。

 まず、「バレない替え歌の歌詞」の条件とは何か、ちょっと考えてみよう。

 第一に「母音が本歌と揃っている」ということだ。特に日本語のように母音の数が比較的少ないと、アゴの開口度が外から見て瞭然、母音が違うとすぐ違う歌詞なのがわかってしまう。
 もう一つ。両唇音を揃える、というのが重要条件だ。摩擦音か破裂音かにかかわらず、本歌で両唇音で歌われている部分は替え歌でも両唇音でないといけない。両唇音は外から調音点が見えてしまうからだ。具体的にいうと本歌で m、b、p だったら替え歌でも m、b、p になっていないとバレる。ただしこれは円唇接近音でも代用が利く。円唇の接近音は外から見ると両唇音と唇の動きが似ているからだ。で、m、b、p は w で代用可能。逆も真なりで本歌の w を m、b、p と替え歌で代用してもバレない。
 あと、これはそもそも替え歌の「条件」、というより「こうありたい」希望事項だが、母音は揃えても子音は全て変えてみせるのが作詞者の腕の見せ所だ。音があまりにも本歌と重なっていたら、替え歌とはいえないだろう。少なくともあまり面白くない。

 これらの条件を考慮しつつ、私なりに「バレない君が代」の歌詞を作ってみたらこうなった。

チビなら相場。ひとり貸し置き。鼻毛記事をヒマほど再生。俺をぶつワケ?

君が代の歌詞を知らない人・忘れた人、念のため本歌の歌詞は次のようなものだ。比べてみて欲しい。母音が揃っているだろう。

君がぁ代ぉは 千代に八千代に さざれ石の巌となりてぇ 苔のむすまで

4点ほど解説がいると思う。

1.本歌では「きみがぁよぉわぁ」と「が」を伸ばして2モーラとして歌っている部分を替え歌の方では「なら」と2モーラにした。もちろん母音はそろえてある。

2.同様に本歌で「よぉ」と2モーラに引き伸ばしてあるところを「そう」と2モーラにした。「そう」の発音は[sou]でなく[so:]だからこれでOKだと思う。

3.「再生」の「生」は実際の発音も「せー」、つまり [sei] でなく [se:] だから本歌の「て」の代わりになる。

4.ここではやらなかったが、「再生」、つまり本歌の「なりて」の部分は「かんで」でも代用できる。ここの/n/(正確には/N/)の発音の際は後続の「え」に引っ張られて渡り音として鼻母音化した[ɪ] (IPAでは ɪ の上に ˜ という記号を付加して表す)が現われ、外から見ると非円唇狭母音「い」と同じように見えるからだ。「再生」より「噛んで」の方がワザとしては高度だと思ったのだが、「ヒマほど噛んで」では全く日本語になっておらず、ただでさえ意味不明の歌詞がさらにメチャクチャになりそうなので諦めた。

 こんな意味不明の歌詞では歌えない、というご意見もおありだろうが、文語の歌詞なんて意味がとれないまま歌っている子供だって多いのだから、このくらいのシュールさは許されるのではなかろうか?私だって子供の頃「ふるさと」の歌詞を相当長い間「ウサギは美味しい」と思っていたのだから。
 そんなことより大きな欠陥がこの替え歌にはある。児童が全員これを歌ってしまったら結局バレてしまうということだ。その場合は、「先生、私はちゃんと君が代の歌詞を歌っていましたが周りが皆変な歌詞を斉唱していました。」と誤魔化せばいい。


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 2010年にアイスランドのEyjafjallajökullという火山が噴火し、大量の灰を空中に撒き散らしたため航空機の飛行が不可能になり、ヨーロッパ中で空の便が何日も麻痺して大混乱になった。しかし大混乱をおこしたのは空の便ばかりではなかった。テレビ局やラジオのアナウンサーなど報道陣もパニックに陥ったのである。誰もこの火山の名前が発音できなかったからだ。
 しまいには噴火そのものよりも名前が注目されて、この名前が言えなくてヒステリーを起こすアナウンサーの模様のほうがニュースになりさかんにTVで流された。
 この名前はIPAで書くと[╵ɛɪja.fjatla.jœkʏtl̥]。アイスランド語のアクセントは常に最初のシラブルにあるそうで、その点ではわかりやすいのだが、l を重ねて ll になると何処からか t が介入してくるあたり一筋縄ではいかない。かてて加えて語末の l は無声化するとのことだ。私にはここが単に声門閉鎖音にしか聞こえないことがあった。日本語ではエイヤフィヤトラヨークトルと読んでいる。なおアイスランド語は無気・帯気を弁別的に区別するそうだ。
 この名前の意味はEyjaが「島」の複数属格(単数はEy)、fiallaが「山」のやはり複数属格(単数はfiall)、jökullが「氷河」で、全体で「島の山の氷河」。これが火山の名前になっているのはその氷河の下から火山が火を噴くからだそうで、さすが「氷と火の国」と呼ばれていることだけのことはある。

 アイスランドといえば先日のサッカーユーロカップでイングランドを粉砕して一躍人気者になったが、ここでも真っ先に人目に止まったのが選手の名前である。まあちょっと見てほしい。
Hannes Þór Halldórsson
Ögmundur Kristinsson
Ingvar Jónsson
Birkir Már Sævarsson
Haukur Heiðar Hauksson
Hjörtur Hermannsson
Sverrir Ingi Ingason
Ragnar Sigurðsson
Theódór Elmar Bjarnason
Hörður Björgvin Magnússon
Arnór Ingvi Traustason
Ari Freyr Skúlason
Birkir Bjarnason
Gylfi Sigurðsson
Kári Árnason
Rúnar Már Sigurjónsson
Aron Gunnarsson
Emil Hallfreðsson
Jóhann Berg Guðmundsson
Kolbeinn Sigþórsson
Alfreð Finnbogason
Jón Daði Böðvarsson
Eiður Guðjohnsen

 たしかにその国に多い姓の語尾というものはある。例えばセルビア語・クロアチア語には-ić(イッチ)で終わるものが非常に多い。しかし多いと言っても例外を見つけるのにさほど困難はないのが普通だ。現にクロアチアの選手にSrnaという姓の人がいたし、私も知り合いにPečurというクロアチア人がいる。このアイスランド語のようにほぼ例外なく同じ語尾という場合はその名前が始めから決まっているのではなくて一定の規則に従って自動的に作り出される形とみていい。ロシア語の父称のようなものか。現に-sonというのは明らかに「~の息子」で、英語のson、ドイツ語のSohnである。
 そういうことを考えながら試合を見ていたら突然隣から「じゃあ、アイスランド人は男と女は姓が違うんだな。女は皆-dóttirだろ。これって「~の娘」(ドイツ語でTochter)だよな」とコメントが入った。私が驚いて「なんであんたアイスランド語なんて知ってるの?」と聞くと

「知ってんじゃないよ。考えればわかるんだ(悪かったな、そこまでは考えが至らなくて)。ビョークの姓がGuðmundsdóttirじゃん。ははん、このdóttirはTochterだな、と今sonの羅列をみて思いついた。」

 そういわれてみると昔やはり「名前が発音できない」と恐れられていたアイスランドの女性大統領がいたがVigdís Finnbogadóttirという名前だった。しかも上のアイスランドの選手にそれと対応するFinnbogasonというラストネームがあるではないか。
 そこでドイツ語の語源辞典でTochterを引いてみると、印欧祖語の*dhuktērに遡れ、古高・中高ドイツ語のtohter、中期低地ドイツ語と現在のオランダ語のdochter、もちろん英語のdaughter、古期英語のdohter、スウェーデン語のdotter、ゴート語のdauhtarが同源である。そして「古代ノルド語」ではdōttir。アイスランド語は北ゲルマン語派の中でも最も古い形、特に語形変化パラダイムをよく保持していて、事実上「古ノルウェー語」または「古スウェーデン語」であると教わったが、本当だ。

 すると翌日の新聞の第一面にアイスランド人の名前についての記事が載った。それによると上のナントカソンあるいはナントカドッティルというのは実は姓ではないとのことである。アイスランド人には姓がないのだ。だから電話帳などには名前がアルファベット順に並んでいる。ではこのナントカソンとは何なのかというと、名前だけでは誰だかわからなくなるため、あくまで補助として親の名前をとってつけるもの、つまり本当にロシア語の父称以上の何物でもない。姓ではないから、当然父親と息子、母親と娘はソンやドッティルが違う。例えばGuðmundur Sigþórssonという人の息子がAlfreðという名前だったらAlfreð Guðmundsson、Björkという名前の娘はBjörk Guðmundsdóttir。親と子ばかりでなく夫婦ももちろんソンとドッティルが違う。さらに事を複雑にするのが、「父親とつながるのが嫌な人、そもそも父親が誰なのかわからない人は母親の名前をとってもいい」という規則である。だから兄弟姉妹間ではソンとドッティルという語尾ばかりでなく、そもそもの語幹となる名前のほうも違うことがあるのだ。
 日本で時々夫婦別姓議論の際、親と子供の姓が違うと家族の絆が崩れるとか頑強に主張している人がいるが、そういう人は一度アイスランドに行って見て来るといい。

 さて、上の名前を見るとソンの部分の s がダブってssonとなっている場合と単にsonとなっている場合とがあるが、私は「語幹の名前が子音で終われば s がダブり、母音で終わればダブらない」という規則なのかと思った。しかしどうもそうではないようだ。語幹の名前は単数属格形なんだそうで、s はその属格マーカーなのであり、sonの s がダブっているのではない。さらにアイスランド語には単数属格を a で作る名詞があって、そういう名詞には当然sonだけつく、とこういうしくみらしい。
 
 こういう風に姓なしでやってきてはいたがそれでも19世紀ころまでは外国から姓が導入されたりしたことがあった。だから父称でない姓をもったアイスランド人が少数ながらいる。これは親から子供に引き継がれる。逆にこのアイスランド式の姓でないラストネームは(ああややこしい)1992年からデンマークの自治領フェロー諸島でも認められるようになったそうだ。もっともフェロー諸島には普通の意味での姓もちゃんとあって、Joensen、 Hansen 、Jacobsenの3つが最も多い姓とのことである。上のリストにも一人sonでなくsenで終わるラストネームを持っている人がいるが、この人については「外国起源の姓を引き継いだ」と説明されていた。この外国というのはひょっとしたらフェロー諸島のことかも知れない。

 この父称制度は上にも述べたようにロシア語にある。男だと父の名前に-ич(イッチ)、女だと –евна(エヴナ)を語尾につけて作る。ロシア語はその上にさらに姓が別にあるが、南スラブ語ではこのイッチの父称が姓として固定し、男女共に同じ形になってしまっている。上で述べたセルビア語・クロアチア語の名前はそれである。ゲルマン語圏でも-sonで終わる姓は英語やスウェーデン語にやたらと多い。ドイツではこれが-senとして現われるが、このナントカセンという名前は北ドイツに特有のもので、南ドイツやオーストリアには本来見られなかった。
 中世に現在のロシア、ボルガ川領域に最初の都市国家を作り、黒海沿岸にまで進出したのがバイキング、つまり北ゲルマン人であること(ロシア人は彼らの事をヴァリャーギ人と呼んでいる)、大ブリテン島や北ドイツなどバイキングが活躍した、というかその被害を被ったというが、とにかく彼らの足跡がついた地域にこの父称起源の姓が多い、というのも考えてみると面白いと思う。

 サッカーの話に戻ると、イングランドに対して2点目を入れたのはSigþórssonという選手でローマ字ではSigthorssonと表記するが、このラストネームをドイツ語で読むとSieg-tor-sonとなり、意味はズバリ「勝利のゴール・ソン」。話ができすぎていて下手なギャグとしか思えない。
 また、この試合で選手以上に人気を呼んだのが、アイスランドのTV解説者で、その絶叫ぶり、というより絶叫を通り越してほとんど阿鼻叫喚的な解説ぶりに、「この人の心臓が心配だから次は医者をわきに待機させろ」とまでネットに書き込まれたほどだ。ドイツの新聞では「まさに火山の噴火」と表現されていた。

1点目のゴール、2点目のゴールと試合終了時におけるアイスランドの解説者の絶叫ぶり。アイスランド語では「2」をtvöというらしいことだけは聞き取れる。さすがゲルマン語派だ。ドイツ語や英語と似ている。tvöは主格中性形で、男性形ならtveir、女性形はtværである。




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