アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:殺しが静かにやって来る

 初めて見たときから漠然と感じているのだが、例のコルブッチの傑作『殺しが静かにやって来る』(1968)は『86.3人目のセルジオ』の項で述べたセルジオ・ソリーマの2作目『血斗のジャンゴ』をベースにしているのではないだろうか。知名度から見たら『殺しが静かにやって来る』のほうが格段に上なので、一瞬ソリーマがコルブッチを参考にしたのかと思うが制作も公開も『血斗のジャンゴ』のほうが一年も早いから、どちらかがどちらかをベースにしたとすればパクったのはコルブッチのほうでしかあり得ない。「ベースにしたとすれば」と書いたが、この類似を偶然というのはあまりにも似すぎているし、マカロニウエスタン独特の相互引用ぶりを考えても(『78.「体系」とは何か』の項参照)、ここは「したに違いない」と言ってもいいのではないだろうか。

 『殺しが静かにやって来る』はさすがに有名映画なので皆ストーリーを知っているだろうから(どういう「皆」ですか?)省くが、『血斗のジャンゴ』は、いかにもソリーマらしい心理学的・社会的なプロットで、次のようなものである。

 ボストンの大学で歴史学を教えている教授(ジャン・マリア・ヴォロンテ)が肺を病んで療養のため南部、てか西部にやって来る。ところが途中で逮捕された強盗団のボス(トマス・ミリアン)が逃亡する際の人質にされてしまい、しばらく彼と留まることになる。

 その間に教授は暴力や絶対的な権力に対して妙な魅力を感じ始め、しまいにはミリアンの仲間、というより片腕になってしまうのだが、無法者ミリアンの胸の中には逆に今まで眠っていた良心・理性といったのものが胎動し始める。

 政府はミリアンの率いる無法者の集まりをなんとか撲滅しようと前々から画策していたが、あるときピンカートン探偵事務所(いわば当時のCIA)の職員(ウィリアム・ベルガー)をスパイとしてミリアンの強盗団のなかに潜入させる。ミリアンを逮捕する機会をつくるためである。

 そのベルガーが画策してミリアンは捕えられ、さる町の牢屋にぶち込まれるのだが、町の有力者はこの機会にミリアンだけでなく無法者の集団も一気に全員殲滅しようとして討伐隊を組織し、ベルガーにその隊長をやってくれと打診するが、ベルガーは「俺の任務はミリアンの逮捕を助けるということで終わりだ。理性を失った討伐隊だろなんだろの統制など出来ないしする気もない」と断って本部に帰ろうとする。ところが同じ留置所に前から捉えられていた盗賊団の一人が金でつられて仲間を皆裏切り、アジトの場所をバラしたばかりか、自ら討伐隊の先頭に立ってかつての仲間を虐殺しに出かけたと知ってミリアンが必死で脱獄したため、「彼が逃げたとあればそれは俺の仕事だ」といって討伐隊のあとを追う。

 逃げたミリアンは仲間の隠れ場所に駆けつけるが、すでに大半の者は「正義・法」の名にかこつけて犯罪者狩りをした市民の手で殺されていた。女子供もなかにはいた。彼らの大半は食うに困って仕方なく家族を連れて無法者の中に身を投じた者たちなのである。生き残った人々は砂漠を横切って逃げようとするが、血に飢えた「正義の討伐隊」が彼らに迫り、女子供もろとも始末しようとする。ミリアンとヴォロンテが討伐隊(50人くらいいた)と最終的対決をすべく砂漠の岩に隠れてライフルを構えたところで追いついたベルガーがやって来る。こいつまで来やがったかとミリアンがベルガーに銃を向けて構えた瞬間ベルガーは討伐隊に向かって叫ぶ。
 「やめろ、あいつを逮捕するのは俺の仕事だ。お前達のやっていることには何の正統性もない。家に帰れ、手を出すな」

 「楽しみ」を邪魔された男たちは今度はベルガーに発砲するが、彼が隊長ともう一人を射殺したので、元々烏合の衆だったその他の者は動揺し引き返す。弾を食らったベルガーはその怪我をしたまま足を引きずりながらヴォロンテとミリアンの前に堂々と立ち、「お前を逮捕する」と(ややかすれ声で)言う。その体で何が逮捕だこの馬鹿とばかりヴォロンテの銃が火を噴きベルガーは2発目を食らうが、ミリアンのほうは「俺は投降する、法に従う」と言って立ち上がる。ヴォロンテは驚いて、何を血迷っているんだ、こんな男これで終わりだとベルガーにとどめをさそうとした瞬間、ミリアンの銃がヴォロンテに向かって火を噴く。

 ベルガーは一瞬状況を把握できないでいたようだが(すでに死を覚悟していたのだ)、やがてヨロヨロ立ち上がると死んでいるヴォロンテの顔面に弾をバシバシ撃ち込んで顔をめちゃくちゃにし、「顔がわからなければ皆この死体はお前のものだと思うだろう。他のものには俺がそういっておく。さあ、さっさと行け」とミリアンを逃がす。

 繰り返しになるが、この映画の原題はFaccia a faccia(face to face )というもので、結構含蓄のある題名だ。私はこれを「自分の内部にある別の自分と対面した」という意味なのだと解釈していることは以前にも書いた。最後に死体の顔を破壊したのも「顔」ということでタイトルと結びついている。

 『殺しが静かにやって来る』とモティーフが重なっていることは瞭然である。

 已むなく無法者となった社会の弱者を正義の名を借りて血に飢えた人間狩りをする賞金稼ぎ・討伐隊。登場人物にも平行性がある。まずウィリアム・ベルガーの役と『殺しが静かにやって来る』のクラウス・キンスキーの役が重なって見える。どちらも無法者の群れを追う、という設定だからだ。
 しかもベルガーもキンスキーも金髪でちょっと角ばった顔つきをしていて容貌の基本が同じだし(ただ顔の造作そのものは全く違う)、最初登場してくる際どちらも襟元がなんとなくワヤワヤした服装をしているのも共通項。そして双方雰囲気が陰気で、これも双方「Wanted」のチラシというかポスターというか、紙切れをビラビラ自慢げに見せびらかす。

双方襟元がワヤワヤした衣装でどちらも陰気にご登場。上がベルガー、下がキンスキー
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そしてご両人とも「Wanted」の紙切れをひけらかす。
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 ベルガーは笑うと普通にしているより顔が陰気になるというジュリアーノ・ジェンマなんかとは全く逆のタイプで、その不遜な笑い顔がトレードマークと化している感があるが、その陰気な笑い方をして見せてもまあ普通のおっちゃんである(もっとも私はイイ男だと思うが)。対してキンスキーは別に笑わないで普通にしていてもサイコパスにしか見えない。こりゃああの真面目なソリーマ監督には使いにくいだろう。

これも上がベルガー、下がキンスキー
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 『殺しが静かにやって来る』のもう一人の主人公、ジャン・ルイ・トランティニャン演じるサイレンスという人物は服装から見てコルブッチの前作『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロを引き継いだことは明白だが、フランク・ヴォルフがやった保安官。この登場人物は『血斗のジャンゴ』のベルガーと重なる。ヴォルフ保安官も本来無法者たちを追う立場なのに彼らに対して理解を示すのだ。
 面白いことにクラウス・キンスキーはドイツ人、フランク・ヴォルフはアメリカ人ではあるが名前を見てもわかるようにドイツ系で、ドイツ語が少し話せたそうだ。ウィリアム・ベルガーも本名ヴィルヘルムというオーストリア人である。バーガーと呼んでいる人が大半だが私はドイツ語に義理立てしていつもベルガーと言っている。だからこの3人は役を離れても妙につながっているのだ。

 つまり『血斗のジャンゴ』でベルガーがやっていた一人のキャラクターをコルブッチは二人に分けたということだ。ソリーマでは最初無法者を追う方であったベルガーが最後は彼らに理解を示して逃がしてやるが、コルブッチではこの二つの要素、あくまで追うほうと助けるようとするほうが最初から二つにキッパリ分れ、交じり合うことがない。そしてコルブッチでは最後には善役でなく悪役が勝つ。言い換えるとソリーマでは道徳が法より優先するが、コルブッチでは法が道徳に勝つのである。

 このように元の映画の設定をこれみよがしに逆にする、というのはコルブッチの得意ワザだ。だから『続・荒野の用心棒』ではレオーネではカラカラの砂塵だった部分がドロドロの泥濘に化けたし、『殺しが静かにやってくる』ではソリーマの暑い砂漠がいかにも寒そうな雪景色と化した。『血斗のジャンゴ』でベルガーが初登場するとき森をぬけてくるシーンと、『殺しが静かにやってくる』のタイトル画面の構図がそっくりであるが、前者では普通の森であったのが後者では雪景色になっている。
 なお、話はそれるがラストでベルガーに撃ち殺される卑怯な裏切り者の役をやったのは相変わらずというかまたかよというか、アルド・サンブレルである。

木の間に埋もれて乗馬姿の主人公が見分けにくいが、画面の構図がそっくりである。上が『血斗のジャンゴ』、下が『殺しが静かにやって来る』

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構図が非常に美しい『血斗のジャンゴ』のラストシーンでのジャン・マリア・ヴォロンテとウィリアム・ベルガー(肩の傷を押さえてうずくまっているほう)
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 この際だから年をバラすが(何を今更)、小学校の頃だからもう半世紀近く前にもなろうというのに、モリコーネの『さすらいの口笛』を初めて耳にした時の驚きをまだ覚えている。
 私は本来音楽の感覚や素養というのものが全くない。例えばマドンナとかいう歌手の名前と顔はかろうじて知っているが曲はひとつも知らない。その他のミュージシャンについては推して知るべしで、名前は聞いたことがあっても顔も曲もわからない。ロッド・スチュアートとジャッキー・スチュアートの区別がつかない(この二人顔が似ていないだろうか?)。最近のミュージシャンで顔も曲もある程度心得ているのはABBAだけである。それも全く「最近の」歌手でないところが悲しい。
 前にも書いたとおり(『11.早く人間になりたい』参照)、私は視覚人間である。小中学校のころ、クラスメートがどこかの歌手のコンサートに行ったりレコード(その頃はまだレコードだった)を買ったりしているとき、私は専ら小遣いを美術館通いに使っていた。上野の近代西洋美術館にはよく行ったし銀座の画廊などにも時々行った。銀座の東京セントラル美術館が開催したデ・キリコ展は2回も足を運んだ。俗に言うこましゃくれたガキだったのである。音楽を鑑賞する能力のないこましゃくれたそのガキが、なぜモリコーネだけは聴いて驚いたかというと曲が直接視覚に訴えてきたからだ。私には『さすらいの口笛』を聴いた瞬間、夜になって暗く涼しくなった砂漠を風が吹いている光景がはっきりと見えた。この「視覚に訴える」というのはたとえば例のEcstasy of Goldでもいえることで、コンサートなどではやらないことが多いが、サントラだと曲の最後の部分に金箔が宙を舞っているような「音響効果」がはいる。私はこの部分が一番好きだ。また『殺しが静かにやってくる』では雪片が空を漂っているのが目の前に浮かび上がってくるし、『復讐のガンマン』(『86.3人目のセルジオ』参照)では遠くにシエラ・マドレの山脈がかすんでいるのがわかる。それも映画のシーンとは無関係に曲自体が引き起こす視覚効果として作用するのだ。
 だから私は映画を見たら音楽が素晴らしかった、というのではなく逆にモリコーネの音楽を聞いて度肝を抜かれたのでマカロニウエスタンを見だした口である。マカロニウエスタンの後期作品、『夕陽のギャングたち』とか『ミスター・ノーボディ』あたりになると、音楽を音楽として鑑賞する能力のない私にはキツくなってくる。しかしモリコーネがヨーロッパを越えて世界的に評価され出したのはそこから、私にはキツくなってからだ。だから他のモリコーネのファンの話についていけなくて悲しくなることがある。まともなファンなら音楽の素養があるのが普通だから、『ミッション』や『海の上のピアニスト』、『ニュー・シネマ・パラダイス』を論じはじめたりするので私には理解することができないからである。私がモリコーネの曲を半世紀以上聴き続けているのに自分で「モリコニアン」だと自称できないのはそれが原因だ。その資格がないような気がするのだ。私にとっての心のモリコーネはいまだに『さすらいの口笛』だからだ。
 ただ、前に新聞の文芸欄で、ということはちゃんと鑑賞能力のあるコラムニストが書いていたということだが、そこでモリコーネの音楽を評して「催眠術効果」と言っていた(『48.傷だらけの用心棒と殺しが静かにやって来る』参照)。確かChi maiをそう評していたと記憶しているが、なるほど私は小学生の頃まさにその催眠術にかけられて以来いまだに覚めていないわけだ。Chi maiもそうだが、『血斗のジャンゴ』のテーマ曲の催眠術効果も相当だと思っている。
 
 さて、そうやって小学生の頃から音楽というとモリコーネとあとせいぜいソ連赤軍合唱団くらいしか聴かない私は周りから「典型的な馬鹿の一つ覚え。ここまで音楽の素養のないのも珍しい」と常に揶揄され続けてきた。私自身もこのまま音楽鑑賞の能力ゼロのまま、馬鹿のままで死ぬことになるだろうと覚悟していたのだが、運命の神様がそれを哀れんででもくださったか、よりによって私の住んでいるドイツのこのクソ田舎の町にモリコーネがコンサートにやってきたのである。家の者が街角でポスターを見たと言って知らせてくれたのが半年ほど前だが、最初私はてっきりまたからかわれたのだと思って、「いいかげんにもうよしてちょうだい!」と情報提供者を怒鳴りつけてしまった。それが本当だと知ったときの驚き。気が動転してチケットを買うのが2・3日遅れた。金欠病なので一番遠くて安い席を買ったが、販売所のおねえさんが私が最初くださいと言った席を見て、そこだと確かに少し近いが角度が悪いのでこっちにしたほうがよく見えますよと同じ値段の別の場所を薦めてくれた。それをきっかけに雑談になったが、なんとこの人は日本に観光旅行にいったことがあるそうだ。そうやって受け取ったチケットに印刷してあるEnnio Morriconeという名前を見たらもう頭に血が上り、次の瞬間上った血が一気に下降して貧血を起こしそうになった。家では「半年も先で大丈夫なのか。」と言われた。「大丈夫」って何がだ?
 でも私自身最後の最後まで半信半疑だったのは事実である。『さすらいの口笛』を日本で聴いてから半世紀近く経って、さほど大きくもないドイツの町でその作曲家に遭遇できるなんて話が出来すぎだと誰でも思うだろう。そういえばコンサートの一週間ほど前にイタリアン・レストランに行く機会があったが、そこの従業員がイタリア人だったので(ドイツ語に特有の訛があったのですぐわかった)、勘定を済ませた後おもむろに「あのう、質問があるんですが。エンニオ・モリコーネって知ってますか?」と聞いてみたら「知っているどころじゃない、スパゲティウエスタンは私の一番好きな映画ですよ」といいだして話がバキバキに盛り上がってしまい、私の同行者たちは茫然としていた。ただこの人はモリコーネがこの町にやって来るということは知らなかったので、教えてあげたついでにチケットを買ったんだと自慢してやった。私自身が半信半疑なのを吹き飛ばしたかったのである。

チケットを手にしてもまだ信じられなかった。情けないことに一番安い席である。
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 しかしその日3月9日マエストロは本当にやってきた。随分年を取っていた。もっとも世の中には年を取ると若い頃の顔の原型をとどめないほど容貌が変わってしまう人がいるが、そういう意味ではマエストロは本当に変わっていなかった。
 話に聞いていた通り立ち居振る舞いに仰々しいところが全くない人だった。ミュージシャンだろ指揮者だろがよくやるように、観客に投げキッスをしたり手を振ったり、果ては頭の上で手を打って見せて暗に観客に拍手を要請したりという芝居じみた真似は一切しない。普通に歩いてきて壇上に上がり、黙々と指揮をして一曲済むたびにゆっくりと壇から降りて聴衆に丁寧なお辞儀をする。そしてさっさとまた指揮に戻る。終わると普通に歩いて退場する。それだけだ。指揮の仕方も静かなもんだ。髪を振り乱したりブンブン手を振り回したりしない。とにかく大袈裟なことを全くしない。感動して大歓声を挙げる観客とのコントラストが凄い。
 次の日の記事にも書いてあったが映画音楽を演奏する際は壇上のスクリーンにその映画のシーンを映し出したりすることが多い。私の記憶によればジョン・ウィリアムズのコンサートにはクローン戦士だろダースベイダーだろのコスプレ部隊が登場して座を盛り上げていた。マエストロはそういうことも一切させない。スクリーンには舞台が大写しにされるだけ。間を持たせる司会者さえいない。つまりコンサートを子供じみた「ショウ」や「アトラクション」にしないのだ。いろいろと盛りだくさんにとってつけて姑息に座を盛り上げる必要など全くない。あえて言えばそういうことをやる人とは格が違う感じ。

 さて、コンサートでは『続・夕陽のガンマン』『ウエスタン』、『夕陽のギャングたち』をメドレーでやってくれた。『ミッション』で〆てプログラムを終了したが当然のことに拍手が鳴り止まず、アンコール三回。本プログラムにもあったEcstasy of Goldをもう一度やってくれた。私としてはさらにもう一度これを聴きたかったところだ。とにかく拍手をしすぎてその翌日は一日中掌と手首の関節が痛かった。また、席が遠いため双眼鏡を持っていってずっと覗いていたため目も疲れて翌日は視界がずっとボケていた。やれやれ、こちらももう若くはないのだ。

 コンサートの詳しい経過などはネットや新聞にいくらでも記事があるので今更ここでは述べないが、一つ書いておきたい。アンコールの3曲目にかかる直前、マエストロが壇上に楽譜を開いてから、突然「あれ、これでよかったかな皆さん?」とでも言いたげに観客の方を振り返ったのである。観客席からは笑いが起こった。それは「ひょうきん」とか「気さく」とかいうのとはまた違った、何ともいえない暖かみのある動作だった。小さなことだが非常に印象に残っている。
 このやりとりを私はこう考えている。モリコーネのコンサートでは曲の選択の如何にかかわらず、必ずといっていいほど後から「あの曲をやってほしかった」とか「この曲が聴きたかった」というクレームをつける人が現れる。まあ500もレパートリーがあるのだからそれも仕方がないかもしれないが、私は自分の知っている曲だけ聴きたいのだったらコンサートなんかに来ないで家でCDでも聴いていればいいのにと思う。好きな曲をやってくれなかったからといってスネるなんてまるでおやすみの前にママにお気に入りのご本を読んでくれとせがむ幼稚園児ではないか。それを世界のマエストロ相手にやってどうするんだ。少なくとも私は自分のお気に入りの曲を聴くために行ったのではない、モリコーネを見にいったのだ。そこで自分の知らない曲をやってくれたほうがむしろ世界が広がっていいではないか。
 そういう選曲についてのクレームというかイチャモンにモリコーネ氏は慣れっこになっていたに違いない。それで「これでよかったかな」的なポーズをとって見せたのではないだろうか。そして数の上から言えば私のような「モリコーネの音楽そのもの」を鑑賞しに来る観客の方が圧倒的に多いだろうから、「ははは、いますよねそういう人って。どうか何でも演奏して下さい、マエストロ」という意味合いで笑いが起こったのではないだろうか。

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 ある意味ではマカロニウエスタンの元の元の大元は黒澤映画、つまり日本の侍映画である。だがこれを模倣してジャンルを確立したセルジオ・レオーネの作品自体からはストーリー以外には特に日本映画の影響は感じ取れない。言い換えるとジャンルを作り出したのはあくまでレオーネの業績で、実際後続のマカロニウエスタンの作品から見て取れるのは顔の極度のアップとか長いカットなどレオーネのスタイルの影響である。
 しかし一方で『荒野の用心棒』の原作が黒沢の『用心棒』であることは皆わかっていたわけだし、『羅生門』がベネチアでグランプリをとるなど日本映画が当時のイタリア映画界には知られていたということで日本映画・東洋映画が完全に無視もされていなかったようだ。レオーネの第二作『夕陽のガンマン』に中国人が出てくるのは私には作品をパクリ扱いされて(まあ実際そうなのだが)裁判まで起こされたレオーネが「あっそ。じゃあ日本の侍ではなくて中国人ならいいだろ」とある種の皮肉を込めて登場させたような気がしてならないのだが(考えすぎ)、その他に東洋人が出てくるマカロニウエスタンは結構ある。セルジオ・ソリーマの『血斗のジャンゴ』(何度も言うが、Faccia a facciaというタイトルのまじめなこの映画にこんな邦題つけやがった奴は前に出ろ!)にも東洋人の女性が出てくる。1969年にもドン・テイラーとイタロ・ツィンガレッリ監督の『5人の軍隊』Un esercito di 5 uominiというマカロニウエスタンに丹波哲郎がズバリサムライ役で出演しているが、それよりトニーノ・チェルヴィの『野獣暁に死す』のほうが有名なのではないだろうか。黒沢の『用心棒』に出ていた仲代達也を準主役に起用している。もっとも起用はしているが日本人役ではなく、民族不明な設定で名前もジェームス・エルフィーゴという、アメリカ人のつもりなのかメキシコ人ということなのかそれとも先住民系なのかよくわからないが、とにかく完全に向こう風である。仲代氏は俗に言うソース顔で容貌がちょっと日本人の平均からは離れているからまあメキシコ人ということにもできたのかもしれない。稲葉義男やビートたけしでは無理だったのではなかろうか(ごめんなさい)。氏を素直に日本人という設定にしなかったのはマカロニウエスタンに日本人が出てきたりするとストーリー上無理がありすぎたからだろう。あの時代のアメリカに早々日本人がいるわけがないからだ(だからテレンス・ヤングの『レッド・サン』など私は違和感しか感じなかった)。まあその無理を丹波の『5人の軍隊』ではやってしまっているが、『野獣暁に死す』にしてもチェルヴィは「サムライ」は意識していたようでエルフィーゴがマチェットをぶん回すシーンでのマチェットの構え方が完全に日本刀だった。私はこれを見たとき「これじゃまるで日本人だ。全然「エルフィーゴ」という感じがしない。どうして監督はこんな構え方を直さなかったんだろう」と思ったのだが、実はトニーノ・チェルヴィ監督がサムライを意識して特に日本刀みたいにやらせたのだそうだ。そういわれてみるとそのストーリー、主人公が目的のために名うてのガンマンの人集めをしていくという部分に『七人の侍』との共通性が感じられないこともない。

マチェットを構えるジェームス・エルフィーゴこと仲代達也。構え方がどう見ても日本刀。

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 さて、この『野獣暁に死す』は制作年が1967年、劇場公開日が1968年3月28日で意外にも『殺しが静かにやって来る』の前である。後者は制作が1968年、公開が同年11月19日だ。「意外にも」と書いたのは、前にもちょっと書いたように(『78.「体系」とは何か』参照)主人公や脇役の容貌などに『殺しが静かにやって来る』を想起させるものが多く、私は最初前者が後者をパクったのかと思ったからだ。作品や監督の有名度から言ったら『殺しが静かにやって来る』のほうがずっと上だったせいもある。まあジャンルファンに限って言えば「セルジオ・コルブッチの名を知らない者はない」と言ってもいいだろう。「マカロニウエスタンが好きです。でもコルブッチって誰ですか?」と言っている人がいたらその人はモグリである。それに対して『野獣暁に死す』を撮ったトニーノ・チェルヴィは西部劇はこれ一本しかとっていないし、活動分野もむしろプロデュース業の方で監督は副業だったから知名度もあまり高くない。1959年にはコルブッチの映画の制作もしているし、その後1962年にフェリーニ、デ・シーカ、ヴィスコンティ、モニチェリで共同監督した『ボッカチオ70』(カルロ・ポンティと共同制作)、1964年にもアントニオーニの『赤い砂漠』などの大物映画を手掛けてはいるがそもそもプロデューサーの名というのははあまり外には出て来ない。「チェルヴィって誰ですか?」と聞いても別にモグリ扱いはされるまい。
 さてその『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』だが、比べてみるとまずそれぞれブレット・ハルゼイとジャン・ルイ・トランティニャン演じる主人公たちがどちらもちょっとメランコリックな顔つきで黒装束で雰囲気がそっくりだ。

左が『野獣暁に死す』のブレット・ハルゼイ、右が『殺しが静かにやって来る』のジャン・ルイ・トランティニャン
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このハルゼイという俳優は一度TVシリーズの『刑事コロンボ』でも見かけたことがある。1975年のDeath Lends a Hand『指輪の爪あと』という話で、レイ・ミランドも出ていた。ちょっと繊細な雰囲気で割と女性にウケそうなルックスだ。
 主人公ばかりではない、『殺しが静かにやって来る』でクラウス・キンスキーが演じた敵役と『野獣暁に死す』のフランシス・モランことウィリアム・ベルガーがどちらも金髪で共通だ。『87.血斗のジャンゴと殺しが静かにやって来る』で『血斗のジャンゴ』のベルガーと『殺しが静かにやって来る』のキンスキーが顔の作りそのものは全く違うのに似た雰囲気だと書いたが『野獣暁に死す』のベルガーを見ていると実はこの二人は顔も意外に似ているようだ。少なくとも双方ちょっと角ばった顎をしていて、顔の輪郭が同じである。

左が『野獣暁に死す』のウィリアム・ベルガー、右が『殺しが静かにやって来る』のクラウス・キンスキー
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ということで、最初チェルヴィが『殺しが静かにやって来る』からパクったのかと思っていたら実は前者の方が先に制作されたと知って驚いた。『血斗のジャンゴ』と『殺しが静かにやって来る』を比べたりするときもうっかりすると前者が後者から引用したようにとってしまいかねないが、これも後者の方が制作が後である。それではハルゼイの演じた人物の原型はどこから来たのかというと、やはり『続・荒野の用心棒』のジャンゴ以外にはなかろう(再び『78.「体系」とは何か』参照)。黒装束でどこかメランコリックという、以降の何十何百ものマカロニウエスタンの主人公の原型となったキャラクターである。その意味ではレオーネよりコルブッチのほうが影響力が強烈だったといえるのではないだろうか。つまり『殺しが静かにやって来る』→『野獣暁に死す』という流れではなくて『続・荒野の用心棒』→『野獣暁に死す』、『続・荒野の用心棒』→『殺しが静かにやって来る』という二つの流れがあって『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』の主人公のキャラクターが似ているのは間接的なつながりに過ぎないということか。『続・荒野の用心棒』と『殺しが静かにやって来る』はどちらもセルジオ・コルブッチが監督だから自己引用というかリサイクルというか、とにかく「パクリ」ではない。
 
上段左が『野獣暁に死す』のハルゼイ、右が『殺しが静かにやって来る』のトランティニャン、下段が元祖『続・荒野の用心棒』のフランコ・ネロ
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 上でも述べたようにチェルヴィは本来制作畑の人らしいが、この映画は危なげなく出来上がっていると思う。プログラムピクチャーの域は出ていないがこのジャンルの平均水準(レオーネやソリーマは平均的マカロニウエスタンなどではない。上の上の部類である)を明らかに超えている。脚本にダリオ・アルジェントを持ってきたせいか、ラストの森の中のシーンなどはちょっと背筋の体温が下がりそうな、ある種怪しい美しさがあるほどだ。現にいまだに新しくDVDが出たりしている。買う人がいるからだろう。
 この作品にとって不幸だったのは、バッド・スペンサーが出演していたことだ。誰が見てもちょっと陰気な復讐映画なのに、コメディ映画・ギャグ映画として紹介されてしまったからである。特にドイツでの偏向宣伝ぶりがひどい。バッド・スペンサーがテレンス・ヒルと組んでドタバタコメディを量産し始めたのはこの後のことで、『野獣暁に死す』の製作当時はスペンサーはまだ普通の役でマカロニウエスタンに出ていた。この映画でもスペンサーはあくまで頼りになるガンマン役である。ラスト近くには仲代に撃たれた挙句マチェットで切りつけられて大怪我をするしごくまじめで大変な役で、ハルゼイのメランコリックぶりといい、ベルガーの陰気さといい、とにかく笑えるシーンなど一つもない。それなのにスペンサーが出ているというだけで、劇場公開当時はきちんと「今日は俺、明日はお前」Heute ich… morgen Du!という復讐劇を想起するまともなタイトルであったのが、その後「このデブ、ブレーキが利かないぞ」Der Dicke ist nicht zu bremsenという誹謗中傷もののタイトルに変更され、スペンサーのドタバタ西部劇として売り出されたのである。カバーの絵もハルゼイや仲代は完全に無視されてスペンサーが大口を開けて笑っているものだ。ここまで不自然な歪曲も珍しい。笑うつもりでこのDVDを買って強姦シーンやアルジェント的な首つりシーンを見せられ、騙されたと感じた客から抗議でもあったのか最新のDVDには「なんとあのスペンサーがまじめな役!」という注意喚起的な謳い文句がつけてある。そんな後出しをするくらいなら始めからタイトル変更などせず、スペンサーの名も絵も前面に出さずに、ハルゼイと仲代の暗そうな顔でも使えばよかったのだ。さらに上記の『5人の軍隊』のほうもスペンサーが出ていたため、後にタイトルが歪曲されてDicker, lass die Fetzen fliegen「おいデブ、コテンパンにのしてやれ」となっている。面白いことに(面白くないが)『5人の軍隊』も脚本がアルジェントだ。この調子だと仮に『殺しが静かにやって来る』でフランク・ヴォルフがやった保安官役をスペンサーがやっていたらこれもドタバタコメディ扱いされていたに違いない。そりゃ完全に詐欺であろう。でもそういえば『殺しが静かにやってくる』には見たとたんに全身脱力症に襲われて二度と立ち上がれなくなるハッピーエンドバージョンがあるが、あれなら確かにスペンサーが保安官の方が合っていたかもしれない。

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 米国製西部劇と比べるとマカロニウエスタンにはメキシコ人が登場する割合が高いが、これはイタリアやスペインにはそのまま地でメキシコ人が演じられる、というかメキシコ人にしか見えない俳優がワンサといたからだろう。逆にアメリカ人、ということは西部劇の舞台になった当時「アメリカ人」の大部分を占めていた北方ヨーロッパ系のアメリカ人に見える人材の方はやや不足気味で、米国からの輸入(?)に頼るしかなかった。「誰でもいいからアメリカ人を連れてこい」というのが当地での合言葉だったそうだ。ウィリアム・ベルガーなども「アメリカ人に見える」という理由(だけ)でオファ―が来たとか来ないとかいう噂をきいたことがある。それでも「ヨーロッパ系アメリカ人」ならまだフランコ・ネロやテレンス・ヒルなど、少数派とはいえイタリア本国にもやれる俳優はいた。いなかったのがアフリカ系アメリカ人をやれる俳優である。今でこそドイツにもイタリアにもアフリカ系の国民が結構いるが、映画が作られた当時は自国民では絶対に賄えなかった。当時アフリカ系アメリカ人を演じた俳優はほとんどアメリカ市民である。
 一番の大物はウディ・ストロードだろう。レオーネの『ウエスタン』ではちょっと顔を出しただけなのに皆の記憶に残る存在感を示している。コリッツィの La collina degli stivaliとバルボーニのデビュー作 Ciakmull については『173.後出しコメディ』の項で述べたが、この他にも何本もマカロニウエスタンに出ていてほとんど常連の感がある。もう一人の大物はこれもコリッツィのI quattro dell'Ave Maria (1968)(『荒野の三悪党』)で曲芸師のトーマスを演じたブロック・ピータース。『アラバマ物語』で(あらぬ罪であることが明確な)婦女暴行罪の容疑者を演じていた人だ。他にも『復讐のダラス』でジェンマの友人を演じたレイ・サンダース(Rai Saunders または Rai Sanders)などがいる。さらに思い出したが、ずっと時が下ってからのマカロニ・ウエスタン、ルチオ・フルチの『荒野の処刑』I quattro dell'apocalisse (1975)(『155.不幸の黄色いサンダル』参照)にもハリー・バイアド Harry Biardが演じたアフリカ系のキャラがいた。バイアドは例外的にアメリカ人ではなく旧英領ギアナ(現ガイアナ)生まれの英国俳優である。調べて行けばもちろんもっといるが、すぐに思いつく顔といえばこういった名前であろう。

 これらは男性だが、アフリカ系女性陣も負けてはいない。真っ先に思い浮かぶのは何といってもジャンル最高峰の一つである『殺しが静かにやって来る』のポーリーン。夫の敵をトランティニャン演じる殺し屋サイレンスに依頼する寡婦だ。その殺し屋を愛するようになり、あくまでも目的の仇(サイコパスのクラウス・キンスキー)と対決しようとする彼に「もういいから放っておいて。命を粗末にしないで」的なことまで言い出すが、結局二人ともサイコなキンスキーに殺されるという、モリコーネのゾッとするような美しいスコアといい、凍るような雪景色といい、見たら最後、鬱病になりそうな陰気な映画だ。そのポーリーンを演じたヴォネッタ・マッギーはこれがデビュー作だそうで、タイトル部でそう謳ってある。マッギーはその後『アイガー・サンクション』でイーストウッドと共演したりしている。

ヴォネッタ・マッギーはこれ映画初出演。イントロにも書いてある。
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夫の敵討ちを殺し屋サイレンスに依頼
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サイレンスとポーリーンの関係を知らず、無邪気に間に割り込むフランク・ヴォルフ。
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 もう一人思い出すアフリカ系女性は上述の『復讐のダラス』でレイ・サンダースがやったジェンマの親友の妹である。役の名前をアニー・ゴダールと言ったが、その兄、サンダースの役はジャック・ドノヴァンで、苗字が違うのはなぜだろう。既婚と言う設定だったのかもしれないが、夫の話は全く出てこない。アニーを演じたのはノーマ・ジョーダン Norma Jordan というアメリカ生まれの歌手兼女優だが、その後もすっとイタリア生活のようだ。『復讐のダラス』はまず兄のジャックが悪徳保安官に拷問される場面で始まり、そこへやって来た妹のアニーも保安官は乱暴に外に放り出す。それを見かねたアントニオ・カサスが助け起こし、保安官に「善良な市民に何という扱いをするんだ」と抗議するが、これがその後の展開の暗示。このカサス(ジェンマの父)も兄のサンダースも保安官一味に殺される。兄は大統領殺害の犯人に仕立て上げられるのだが、正規の裁判には連邦政府から来た役人が目を光らせているためでっち上げがバレる惧れがあるというのでその前に始末されるのである。そういえば映画ではジョーダンが酒場で歌とダンスをご披露する場面もあるが、むしろこちらの歌の方が本職だ。
 なお1971年にアフリカ系アメリカ人の女優とそのイタリア人の恋人が殺される事件があり、ジョーダンも証人として召喚された。被害者の女優がジョーダンの元ルームメイトだったからだ。殺された女優はティファニー・ホイヴェルドTiffany Hoyveld で、なんと上述のコリッツィの『荒野の三悪党』で、ブロック・ピータースの妻を演じていた人である。

『復讐のダラス』の冒頭、道端に放り出されるノーマ・ジョーダン。左からアントニオ・カサスが手を差しのべて助け起こす。
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映画終盤。兄が殺されたと知ってショックを受ける。
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 ノーマ・ジョーダンも歌が本職だったが、もう一人、女優業に駆り出された歌手がローラ・ファラナ。ヴォネッタ・マッギーもノーマ・ジョーダンも脇役だったが、ファラナはなんと Lola Colt (1967)というマカロニウエスタンで堂々と単独主役を務めている。大したものだ。さすがのウディ・ストロードでさえ単独主役という偉業は達していない。
 Lola Colt のドイツ語タイトルは Lola Colt… sie spuckt dem Teufel ins Gesicht(ローラ・コルト、悪魔の顔に唾を吐く)。「悪魔」というのは敵役の悪漢のあだ名が El Diablo、つまり「悪魔」だからである。この作品はアフリカ系の女性を主役にしたレアなマカロニウエスタンだが、映画そのものは言っては悪いが完璧なまでのBムービー、黒人女性が主役という希少価値がなかったらとっくに忘却の淵に沈んでいたはずだ。もともとの長さは83分のはずだが、私が見たのはその短いのをさらに短縮した77分版。普通は短縮されると作品が損なわれるものだが、この映画にかぎっては何の損害も受けていない、むしろ少しくらいカットしてくれた方が助かったという気がするくらいBである。また普通は映画のストーリーを紹介する場合あまり露骨にネタバレしないように気を付けるものだが、この映画にはそんな気遣いは無用。バレて困るようなネタがないからである。まあとにかくB級映画だ。

 西部のさる町に旅回りの芸人団がやってくる。団員の一人が病気になり、医者にかからせないといけなくなったからだ。この一座の看板娘がローラである。町の人たち、特に気取ったさぁます奥様達は「芸人風情」にいい顔をせず、医者のいる何マイルも先の町へ行けと追い払おうとするが、一人の子供が「昔医学生だった人ならいるよ」と正直にリークしたため、一行は滞在することになる。医学生のほうも一生懸命病人の治療をする。
 病人の看病をしながら留まるうち、ローラはこの町がエル・ディアブロというあだ名の悪漢牧場主に牛耳られていることを知る。「どうして皆で対抗しないのか」との問いには「無理だ。我慢するしかない」という答えが返ってくるのみ。
 その医学生には婚約者がいたがローラの方に靡き、ローラもまた彼を愛するようになる。あまりにも安直かつ予想通りの展開だ。
 そのうち上述の親切な子供がエル・ディアブロの一味に撃ち殺される。ここに至ってローラは町の男どもを前に「あんたがたが弱虫なおかげでこの子は死んだのだ。エル・ディアブロを倒そう」とハッパをかける。住人は奮い立ち、ローラを先頭にエル・ディアブロの屋敷を襲撃し、そこに閉じ込められていた人質を解放する。民衆を率いるローラはまるでジャンヌ・ダルクかドラクロアの自由の女神だが、実際にエル・ディアブロと決闘して殺すのはローラでなく医学生。
 かくて町には平和が戻り、ローラ一行は住民の歓呼を浴びながら去っていく。最初ローラたちを白い目で見たざぁます奥様達も「私たちが間違っていました」と謝罪する。婚約を破棄した医学生はローラを追って一行に合流する。「見知らぬ主人公がどこからともなく町を訪れ、紛争を解決してまたフラリと去っていく」というマカロニウエスタンの定式を一応は踏襲しているが、最後がいくらなんでもメデタシメデタシすぎやしないか。

町に旅芸人が到着。その看板娘ローラ。
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男たちを引きつれて敵の屋敷を襲撃する褐色のジャンヌ・ダルク。
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病人を診察に来た医学生とローラ。
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 Lola Colt のファラナも『復讐のダラスの』ジョーダンもむしろ歌が本業だったため、映画でもそういうキャラ設定で、酒場で歌を披露する場面がある。それに対してマッギーは専業女優でしかも『殺しが静かにやってくる』がデビュー作だったから歌や踊りとは関係のない堅気(といっては失礼だが)の寡婦。しかしストーリーというかキャラ的にはファラナのローラはむしろこちらの方と共通点が多い。Lola Colt では医学生とは敵対していたエル・ディアブロがローラは見染めて言い寄るが、これは『殺しが静かにやってくる』のポーリーンも同様で、キンスキーとツルんでいる町の有力者ポリカット(演じるのはルイジ・ピスティリ)は前々からポーリーンに気があり、弱みにつけこんで意のままにしようとする。ローラはやんわりと、ポーリーンは手酷くという違いはあるが、どちらもこれを拒否する展開は同じだ。もっとも「金と権力をチラつかせて言い寄る嫌みな男に肘鉄を食らわせて貧しく権力もない若者に靡く女性」というのは古今東西頻繁に繰り返されてきたモチーフだから、これを持ってLola Colt と『殺しが静かにやってくる』との共通点、と言い切ることはできまい。だがもう一つオーバーラップする点がある。白人男性と恋仲になるという点だ。これがアフリカ系男性陣とは違う展開で、私の知る限りアフリカ系のキャラクターが白人の女性の恋人になる展開のマカロニウエスタンは見たことがない。俳優としての格は男性陣の方が上なのにである。上述のように男性陣はストロード始め、すでに本国で名をなしていたスターが多い。それに対して女性の方はイタリアに来てからそこでキャリアを開始した人ばかりである。それなのにというかそれだからというか、アフリカ系男性が白人の女性をモノにする(品のない言葉ですみません)展開は皆無なのである。どうもここら辺に隠れた性差(別)あるいは人種差(別)を感じるのだが…

 それにしても『殺しが静かにやってくる』の、主役女性にアフリカ系を持ってくるというアイデアは何処から来たのか。コルブッチはそのためにわざわざ新人女優をデビューさせてさえいるのだ。まさかとは思うが、Lola Colt からヒントを得たとか。映画の出来自体は比べようがないほどの差があるが、製作は Lola Colt のほうが1年早いのである。前にもちょっと出した「棺桶から機関銃」もそうだが、コルブッチの意表を突くアイデアの出所についてはまだいろいろ検討の余地がありそうだ。

 
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