アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:殺しが静かにやって来る

 今はもうなくなってしまったのだが、以前、近くに地下一階地上二階のちょっと大きなドラッグ・ストアがあって、二階のフロアがまるまるCDとDVDの売り場になっていた。近くのスーパーに買い物に行こうと思ってうちを出ると、どうもつい途中でここについ寄り道をしてしまうことが多かった。

 ある時また例によって覗き見してみたらセルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』がなんと7.99ユーロで山積みされていたのである。もちろんその場で買ったはいいが、もともと食料品だけを買うつもりで家を出てきたものだから、小銭レベルのお金しか持っておらず、DVDを買うと有り金がほとんどなくなってしまい、食料品は買わずに手ブラで帰るハメになった。また出直すのも面倒だったので、昼は台所に落ちていた食料を適当に食べた。

 ところでこの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』には年齢制限があり、16歳以下は制限されている。ドイツは映画やゲームの年齢制限がちょっと細かくて、無制限、6歳以下は制限、12歳以下制限、16歳以下制限、そして最終的に18禁の5等級に分かれている。18禁とはつまり成人指定だが、日本とは重点が少し違っていて「成人指定」といってもいわゆるアダルト映画、つまり性描写の露骨な映画とは限らないのだ。現に『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』では一箇所かなり生々しい性描写があるのに成人指定にはなっていない。性描写に劣らず厳しくチェックされるのは暴力描写で、どぎつい残酷シーンがある映画が成人指定になるのは当然だが、実際に血しぶきが飛ばなくても内容的に暴力を礼賛し暴力による問題解決を奨励しているようなストーリーのものは、女性のヌードなど全く出てこなくても成人指定となる。
 それでブルース・リーの空手アクション『燃えよドラゴン』は成人指定。暴力を礼賛していると見なされるからだ。つまり「アダルト」というのは日本人がすぐ連想するように単に下半身が機能する人のことではなくて、自分の攻撃性をきちんと自分でコントロールできるかどうかのほうが大事、そしてそれができない子供には、暴力に訴えるのが正当な手段だなどと思わせてしまうような内容のほうが性描写などより害になるというわけだ。人をモノとしか思わないような人間になってもらっては困る、というところ。言い換えると「アダルト」とは体でなく頭の成熟度だという理屈。一理あると思う。
 日本では無害扱いされているアクション映画なども人が銃で撃たれるシーンなどはTV放映時にはカットされることが多い。アーノルド・シュワルツェネッガーの『ターミネーター』もしっかり鋏が入っていた。

 これはあくまで私の想像だが、『必殺仕置人』のようなTVシリーズはこちらでは普通のお茶の間用の時間帯では放映できないのではないだろうか。ドイツ語でいうSelbstjustiz(ゼルプストユスティーツ)、暴力による自己裁判を奨励しているからだ。もっともこれは日本でも放映は「お茶の間」より少し遅い夜の10時からだったが。『子連れ狼』も微妙なところで、こちらは放映は9時と子供でも見られる時間帯だった。しかしどちらも後に昼間再放送されたと記憶している。現に私は『子連れ狼』をしっかり全部見ている。ドイツだったら駄目かもしれない。
 同じ理由で、話合いや法による解決を一切試みないですぐ銃に訴えるというやり方を礼賛しているマカロニウエスタンの相当数が成人指定。マカロニウエスタンのガンマンが皆討論を始めてしまったら映画にならないではないか、などという甘い理屈はドイツ人には通用しない。驚くなかれ、私の世代の女性には今日のレオナルド・ディカプリオ(すでにこの人も譬えとしては古いが)と同じくらい人気のあったあのソフトなジュリアーノ・ジェンマの『続・荒野の1ドル銀貨』もこちらでは成人映画だ。これのどこをどう解釈すれば子供の害になると判断されてしまうのか教えてほしい気がするが、この程度で成人指定を食らうのだから、耳が血まみれで切り取られる シーンのある『続・荒野の用心棒』、貧しい人々が人間扱いされず「ゴミ」として虫けらのように殺され、いわんや最後には悪が暴力によって善に勝つというトンでもないストーリーの『殺しが静かにやって来る』などが成人指定と聞いても全く驚かない。むしろセルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』が16歳指定で済んでいるのが不思議なくらいだ。
 ファンの間で「最も強烈なマカロニウェスタン」とお墨付きを貰っている『情け無用のジャンゴ』などは成人指定は言わずもがな、ドイツ製のDVDというものが見つからず、街なかの普通の店などにはとても置かれていないのはもちろん、ネットで買おうとしても(するな)イギリスからの輸入品か、セカンドハンドしかない。しかもそれが中古品のくせに50ユーロもするほど需要と供給のバランスが崩れているのは、ドイツ国内では「危険映画」として販売が自主規制でもされているのか?
 実は私は『続・荒野の用心棒』など小学生頃から平気で見ていた。日本では無制限だったからである。しかしそういえば小学校時代から大学を卒業して後も「人間性に問題がある」の「性格が歪んでいる」のと頻繁に言われたものだ。ひょっとしたらこの映画を小学生のころ見てしまったのも一因なのかもしれない。やはり子供に見せる映画は少し考えたほうがいい。『続・荒野の用心棒』だったからまだ性格が歪む程度で済んだが、『殺しが静かにやって来る』など当時見てしまっていたら完全にトラウマになっていただろう。私がこの映画を見たのはもういい大人になってから、つまりドイツに来てからであるが、ストーリーをすでに知っていたにも関わらずあの凍るようなラストを3日くらい引きずってしまったから。

 とにかく、18歳以下禁止の指定をされてしまった映画だと買うのにちょっと苦労することは事実だ。「あなたはどうやっても18歳未満には見えないから関係ないだろう」というと、それは違う。18禁モノというのは大抵ビデオ屋さんの暗い隅の方にまとめて置かれていて、危なそうなおじさんが日本で言う成人映画、つまりいわゆるピンク映画をいじっていたり、全身刺青の恐そうなお兄さんがホラー映画にじーっと見入っていたりするので、私のような小心者には恐くてとても入って行ける世界ではない。相当気合がいるのだ。
 勇気を出して刺青のお兄さんの横をすり抜け、えいっとばかり目当てのDVDを取り、やっとの思いでレジまで持って行ったら行ったで、パッケージにデカデカと「18禁」とシールが張ってあるものだから、レジの人が「やだわ、この東洋人のおばさん、成人映画なんて買うの?!」とでもいいたげな、うさんくさそうな顔をして私のことをジロジロと見る。たかがジュリアーノ・ジェンマの映画を買うのにここまで苦労しなければいけないなんて本当に暮らしにくい国だ。


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 アンドレイ・プラトーノフ(1899-1951)というソ連の作家に『名も知らぬ花』(Неизвестный цветок)という短篇がある。このプラトーノフという人は当時の国家御用同盟のソ連作家同盟と合わず、しまいには同盟から除名され、名をリストから抹殺され、作品の発表も禁止されて不遇のまま一生を終えた。この短篇に描かれている荒れ地にたった一輪咲いた小さな花が、彼の分身であることは明らかだ。
 ドイツ語の翻訳ではこの作品のタイトルをDie unbekannte Blumeと訳している。これもやはり「名も知らぬ花」だから、意味の上ではまったく問題はない。

 でもこの翻訳には重大な欠陥がある。

 ロシア語の「花」(цветок、ツヴェトーク)は男性名詞だ。だから、この花が作家の分身だということは誰でもわかる。プラトーノフは男性なのだから。事実、話の中でダーシャという女の子とその花が友達になり、ダーシャが一年後その場所に来てみたらもうその花自身は生えていず、二代目の花を見つけるが、その二代目の花は「父のように生き生きとして我慢強く、父よりもさらに力強いのでした」、とある。
 ロシア文学の安井亮平氏も次のように言っている。

「『名も知らぬ花』の、父たちの復活としての子の生、知と意志による死の克服、花と子供の兄弟関係の創造という考えは、プラトーノフの全作品に顕著なイデーです。プラトーノフは、死を予感して、この小さな作品の中で、おのれの思想と真情を吐露したのでしょう。」

しかるにドイツ語の「花」(Blume)は女性名詞なのだ。なので上述の「父のように…」のくだりはドイツ語訳では、「母のように生き生きとして我慢強く、母よりもさらに力強いのでした」と訳されている。そんな馬鹿な。ここでこのように勝手に性転換されてしまったら、この作品の最も重要なモチーフ、「作家が血を吐く思いで吐露した自画像」が跡形もなく消えてしまうではないか。

 『10.お金がなければ眠りは深い』の項で述べたガルシンの『あかい花』(Красный цветок、クラースヌィ・ツヴェトーク)もDie rote Blumeと性転換訳されているが、この場合はストーリー上男性・女性どっちでもいいし、その花は「けしの花」だと原作でも言っているから、イザとなったらDer rote Mohn(あかいけし)というタイトルにでもしてやれば、男性名詞としての整合性をとることも可能だが、「名も知らぬ花」にその手は使えない。なぜなら「けし」とか「桜」とか名前を言ってしまったら「名も知らぬ花」でなく「名を知っている花」になってしまうからだ。

 ではどうしたらいいのか?ドイツ語のネイティブに聞いてみたら「コメントを入れてロシア語では花が男性であることを明記するしかないだろ」との答えが返ってきた。文学の翻訳でコメント・注釈というのは「最後の手段」である。いわば敗北宣言だ。私がそう言い、ネイティブのくせに白旗を挙げる気かと突っ込んだら、「仕方ないだろ、できないものはできないんだ。」とあまりにも簡単に降参されてしまった。

 もうひとつ、似たような事例としてIl grande Silenzioというタイトルのイタリア映画がある。文字通り訳せば「偉大なる沈黙」または「大いなる静寂」で、事実英語ではGreat Silenceというタイトルになっているが、以前これをチェコ語でVeliký klid (偉大なる静寂)と訳しているのを見て感心した。
 このklid(静寂)という単語だが、スラブ語としてはちょっと見かけない言葉だ。 たとえば西スラブ語のポーランド語では「沈黙」はmilczenie、「静けさ」はciszaだ。 クロアチア語もそれぞれšutnja、tišinaで形が近い。 ロシア語もМолчание とТишинаでそっくり。 さらにチェコ語でも実は本来これらに対応する語を持っているのだ。mlčeníとtišinaだ。
 ではなぜここで「静寂」を素直にtišinaとかmlčeníではなくklidで表わしているのか?
 答えは簡単だ。原題の「サイレンス」もしくは「シレンツィオ」というのが男性主人公のあだ名だからだ。なのにチェコ語のtišinaは女性名詞、mlčeníが中性名詞なので、男性の名前にはなれない。どうしても男性名詞のklidを持って来なくてはいけないのだ。イタリア語のsilenzioはうまい具合に男性名詞だからOK、英語に至ってはそもそも男性名詞も女性名詞もないから気を使う必要がないが、チェコ語では文法性と自然性の統一ということを考慮しないといけない。

 チェコ語では「沈黙」を意味する男性名詞があるからいいが、困るのはドイツ語だ。対応するドイツ語の単語Stille(静けさ)、Schweigen(沈黙)はそれぞれ女性名詞、中性名詞なので、やはりここで直訳はできない上、意味の近い男性名詞が存在しない。そこでこの映画のタイトルはまったく意味を変換させてLeichen pflastern seinen Weg(彼の道は死体で舗装される→彼の行く道は死体で埋まる)というオドロオドロしいものになっている。日本語も「沈黙」などという抽象概念を人の名前にする、という発想に違和感があるためか、やはり直訳しないで『殺しが静かにやって来る』。私個人としてはこの邦題は秀逸だと思う。ついでに言うと主演はフランス人のジャン・ルイ・トランティニャンである。

 「言葉の壁」というと普通「その言葉ができないために社会に溶け込めない」という意味だが、私は本当の「言葉の壁」とはこういうのを言うのだと思う。つまり、言語運用論レベルでなく言語に内在する構造そのものに起因する壁だ。

PlatonovVoronez
プラトーノフは現在では名誉回復されて生まれ故郷のヴォロネジに像も立っている。


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 フランスの名優ロベール・オッセンが監督した『傷だらけの用心棒』とイタリアのカルト監督セルジオ・コルブッチの『殺しが静かにやって来る』は、ストーリーが似ているだけにフランスとイタリアの国民性の違いが直接感じられるようで比べて見ると面白い。

 『傷だらけの用心棒』は私の知る限りでは日本では劇場未公開で、あまり知られていない。スタッフもキャストもほぼ全員フランス人(脚本はイタリア人のダリオ・アルジェント。普通の映画ファンならホラー映画を思い浮かべるだろう)だから、これをマカロニウエスタンと呼んでいいのかどうか迷うところだ。フランスではこのほかにも結構当時西部劇が製作されていて、ルイ・マルなんかも西部劇を撮っている。『ラッキー・ルーク』と言うフランス製アニメ西部劇などはドイツでも人気がある。ルイ・マルの西部劇はブリジット・バルドーやジャンヌ・モローが主人公でイタリアのマッチョ西部劇とは完全に雰囲気が違うから確かにマカロニウエスタン扱いされないが、この『傷だらけの用心棒』はモティーフや雰囲気から言ってまあマカロニウエスタンと見なしていいと思う。

 『傷だらけの用心棒』も『殺しが静かにやって来る』も夫を殺された寡婦が、殺し屋を雇って復讐しようとするが、結局女も男も相手に殺される、という陰鬱な話である点は共通しているが、フランス側の『傷だらけの用心棒』はストーリー展開にも無理がなく、登場人物にもあまり極端な性格なのは出てこない。主人公に「復讐は結局何も解決はしない」とボソっと言葉で言わせるあたり、文学の香りさえ漂っている感じ。
 もともとフランス映画には「宮廷モノ」とでも名付けたくなるような一連の映画群があって、ルイ何世とかアンリ何世とかの時代の華やかな宮廷ドラマを題材にしたものが得意ワザだが(三銃士とかゾロとかもここに含めていいだろう)、このオッセンもそういった宮廷モノのシリーズ映画『アンジェリク』で人気を博していたのだ。一連のアンジェリク映画で常にオッセンの相手役を務めていたミシェル・メルシエをこの『傷だらけの用心棒』でも起用している。
 あと、この映画には時々シーケンスがちょっとガキガキ飛んで一部繋がりが切れそうになるところがあるが、こんなのを見ているとジャン・リュック・ゴダールの例の『勝手にしやがれ』とかを思い出して仕方がない。私の考え過ぎかもしれないが。
 とにかくいろいろ「フランス性」を感じる映画なのだ。

 その代わり『傷だらけの用心棒』にはイタリア映画の『殺しが静かにやってくる』がもつ凄みに欠けるきらいがある。後者は映画全体がもうドスの効いたシーンの連続。登場人物もフランク・ヴォルフ演ずる保安官以外は全員多かれ少なかれ異常人格。ストーリーも現実味が薄く非常にシュールだ。
 こちらのTV雑誌の「一口情報」には両者が次のように紹介されていた。

『傷だらけの用心棒』:    見るものを捕らえて離さない暗い演出の復讐劇
『殺しが静かにやって来る』:無情。凍てついた地獄を通る。

なるほどこれは真をついた紹介である。

 さらに両者の違いを感じさせるのは、フランス側の主人公が最後に女に殺される、という点だ(は?)。殺されかた自体にも違いがある。フランス側はバーンと銃声が響いて主人公がバッタリ倒れる、という定式どおりのあっさりしたものになっているが、イタリア側は主人公が額を撃ち抜かれて倒れていくスローモーション映像をモリコーネのゾクゾクするような美しい音楽が伴奏する。

 いつだったか、ドイツの新聞でモリコーネの音楽をhypnotisch、つまり「人を催眠術にかけてしまうような」と描写していたが、私に関してはまさにその通りだ。小学校の時初めてモリコーネの『さすらいの口笛』を聴いて金縛り状態になってしまった。以来その催眠術から覚めることができない。『殺しが静かにやって来る』のテーマ曲も相当催眠術効果が強い。モリコーネのメロディはなんと言っても聴覚だけでなく視覚にも訴えて来るところが凄い。

 対して『傷だらけの用心棒』のテーマ曲はアンドレ・オッセンというフランスの作曲家だが、これはロベールの父である。私なんかは「アンドレ・オッセンは俳優ロベール・オッセンの父」と言った方が通りがいいが、本来「ロベール・オッセンは音楽家のアンドレ・オッセンの息子」というのが正しいのだそうだ。文化界ではアンドレ・オッセン氏の方が名が上らしい。
 アンドレ・オッセンの曲はこの『傷だらけの用心棒』の主題曲しか知らないのだが、これに限って言えばohrwürmigと形容できる。このohrwürmigという形容詞はもちろん「Ohrwurm的な」という意味だが、その元になったOhrwurm(「耳にわく虫」)というのは「一度聴くと耳にこびりついて離れない音楽」のことである。あるメロディがなぜかいつまでも耳もとに残っている、という経験は誰でも持っていると思うが、そういうときドイツ人はOhrwurmと表現するのである。この言葉は頻繁に使われるのだが、独日辞典を引いてみたらよりによってこの意味が載ってなかったので呆れた。Ohrwurmの項には「昆虫学:ハサミムシ」と「古・俗:おべっか使い」というはっきり言ってトンチンカンな二つの意味しか書かれていない。なんだこの辞書は。
 もっともこのOhrwurmは必ずしもいいメロディの曲に対してだけではなく、うるさく耳にこびりついて離れない邪魔な駄曲に対しても使われることがあるので注意が必要だ。『傷だらけの用心棒』のテーマ曲はあくまでポジティブな意味でのOhrwurmである。

 さて主役のロベール・オッセンだが、私がよく映画で見かけたころはまだ子供だったから(私の方がだ)「ろべーる・おっせん」と日本語でしか名前を知らなかったので、ずっと後でRobert Hosseinという名前を見ても私の知っているオッセンと結びつかず、一瞬「誰だこれは。サダムの親戚か?」と思ってしまった。
 さらに氏の本名がRobert Hosseinoffと、オフで終わっていると知って「ロシア語みたいな名前だな」と感じた。

 ところが父のアンドレについて調べたらどちらも本当だったのでまた驚いた。まず、アンドレ・オッセン(André Hossein)は本名Aminoulla Husseinoff(Аминулла Гусейнов)と言ってサマルカンド、つまりソ連領の生まれで母はイラン人、父はコーカサス出身のやはりイラン人なんだそうだ。なるほど、だからイスラム系というかアラビア語系の苗字になっているのである。旧ソ連の中央アジアの共和国出身には苗字をロシア語の語尾に加工して名乗っている人が非常に多い。
 なお私も以前にそのあたりから来た知り合いがいたが、ペルシャ語、アゼルバイジャン語のバイリンガルで、もちろんアラビア語の読み書きもできたが、名前は別にロシア語の語尾はついていなかった。現在は中央アジアの諸国は独立国になっているので、ロシア風に加工する必要などないのかもしれない。ロシア領コーカサスのイスラム教徒のほうにはまだロシア語式の語尾を持つ名前が普通のようだ。
 いずれにせよアンドレ・オッセン氏の苗字が「イスラム・アラビア語的名前でしかもロシア語語尾」なの理にかなっているのである。アンドレ氏はその後、ドイツで音楽教育を受けてからさらにフランスに渡り、フランス人として亡くなった。非常に国際的というかシブい経歴である。この父親ならば子供から「親を見りゃ俺の将来知れたもの」などという川柳で憎まれ口を叩かれたりはしまい。

 最後にこの映画の原題だが、une corde, un Colt(「ロープとコルト」)。両方の単語は頭韻を踏んでいる、というより音韻構造がほとんど同じである。前回の下ネタでも書いたように語末の音はそれぞれ d と t で、有声・無声の違いしかないからドイツ人には発音できないはずだ。まさかそのためでもなかろうが、ドイツ語のタイトルはFriedhof ohne Kreuze(「十字架のない墓場」)となっている。これはイタリア語のタイトルCimitero senza croci の訳。邦訳は配給会社の命令によるものか、それともこういうのが日本人の意地なのか、よく考え出された気の利いた原題がことさらに無視されて「見るな」といわんばかりのB級タイトルになっている。日本ではマカロニウエスタンの原題はたいていそうやってグチャグチャに破壊されるのが基本だから、その点では『傷だらけの用心棒』も典型的マカロニウエスタンといえるかもしれない。


これが『傷だらけの用心棒』のフランス語のポスター。イタリア映画『殺しが静かにやって来る』のほうはこのブログの筆者がちゃっかりタイトル画に使っている。
Cemetery-without-crosses



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 映画の脚本は絵で言うデッサン、建築で言う設計図のようなもので、普通はこれに合わせて配役が決められるのだろうが、時々逆に俳優に合わせて脚本が練られることがある。
 有名なのは『殺しが静かにやって来る』で、主役と決めたジャン・ルイ・トランティニャンが英語ができなかったため、唖という設定でセリフなしになった。もっとも「主役が言葉ができないから唖ということにする」という発想そのものは元々マルチェロ・マストロヤンニが言いだしっぺと聞いた。マストロヤンニがドゥッチョ・テッサリだかミケーレ・ルーポだかに「俺は英語ができないから唖ということにして西部劇の主役にしてくれないか」と話を持ちかけたのだそうだ。そのアイデアがどうしてトランティニャンとセルジオ・コルブッチに回ってきたのかわからないが、さすがマカロニウエスタン、ご都合主義の典型だ。
 コルブッチはこのご都合主義をさらに拡大させて、「なぜ主人公が唖になったのか」という設定にほとんど超自然的な理由をくっつけて論理的に破綻スレスレの脚本にしている。

「主人公は両親を無法者の賞金稼ぎたちに殺されたが、その際「顔を見られた」犯人達が、殺しの目撃者であるこの少年が将来証言することができないように声帯を切り取ってしまった。口封じである。」

 なんだこの無理のありすぎる設定は。第一に口封じしたかったら普通目撃者を殺すだろう。いくら口を利けなくしたって生かしておいて筆談でもされたら一巻の終わりではないか。第二に喉にナイフ入れられたら普通死ぬだろう。声帯は切り取るが死にはしない程度に正確に喉笛を切れるほどの技術があったら、賞金稼ぎなんてやっていないで外科医にでもなったほうが安定した人生が送れるというものだ。
 こんな無理のありすぎる理由をデッチ上げなくても「主人公は生まれたときから口がきけなかったが、そのおかげで両親が殺されるのを目撃した時も叫んだり声をあげたりすることができず、犯人に発見されずに生き残った」、これで十分だと思うのだが。
 その上そこまで無理矢理考え出した「口の利けない主人公」を監督・脚本のコルブッチは映画の中でおちょくっている。ちょっとこの映画を思い出して欲しい。主役のトランティニャンが雪の中で射撃練習に励むシーンがあるが、その音を聞きつけてフランク・ヴォルフ演ずる保安官が駆けつける。そしてトランティニャンに職務質問するが何を聞いても答えない。「そうやって頑強に黙っているつもりなら公務執行妨害で逮捕するぞ」とトランティニャンの襟首を摑んで脅すとヴォネッタ・マッギー演ずる寡婦が横から口を入れる。「保安官。彼は口が利けません。唖なんですよ」。そこでヴォルフ氏はトランティニャンになんと言ったか。「なんだ。それならそれで早く言ってくればよかったのに」。このセリフは完全にギャグである。私といっしょに見ていた者はここで全員ゲラゲラ笑った。

 この監督はいったい何を考えて映画を作っているのか、今ひとつわからない。

 もっともコルブッチばかりでなくセルジオ・レオーネにも「これは脚本のほうが後出しかな」と思える映画があった。『ウェスタン』だ。この映画は当時ヨーロッパで地獄のようにヒットした。レオーネ監督ばかりでなく、その前の『続・夕陽のガンマン』ですでにスター作曲家としての地位を確立していたエンニオ・モリコーネもこの主題曲で駄目押しと言ったらいいか「これでキマリ」といったらいいか、その名前を不動のものにした。『ウエスタン』のあのハーモニカのメロディは今でも四六時中TVなどから聞こえてくる。ギムナジウムの音楽の授業にこれを取り上げた例も知っている。演奏したのではなく、一つ一つは極めて単純なコンポネントを組み合わせて全体としては単なるコンポネントの総和以上の効果を上げている例、とかなんとかいう「話として」、つまり(もちろんギムナジウムのことだから初歩的・原始的なものであるが)音楽理論のテーマとして取り上げたそうだ。
 モリコーネ氏はちょっと前にシュツットガルトでコンサートを開いたが、そこのインタビューに答えて、あまりにあちこちでこの『ウエスタン』のメロディが流されるのでいいかげん聞き飽きているとボヤいたそうだ。作曲者自身が食傷するほど流されるメロディというのも珍しい。『続・夕陽のガンマン』のテーマ曲の方も有名で、以前やはりドイツの記者がインタビューしに出向く際、たまたま乗っていたタクシーの運転手にモリコーネと会うといったら運転手氏がやにわにそのテーマ曲をハミングし出したと記事に書いている。『続・夕陽のガンマン』はテーマ曲のほかにも最後のシーンで流れていたEcstasy of goldをメタリカがコンサートのオープニングに使っているのでこれも皆知っているだろう。映画ではソプラノで歌われていたあの美しい曲がどうやったらヘビメタになるのかと思ってメタリカのコンサート映像をちょっと覗いてみたことがあるが、ぴったりハマっていたので感心した。

 さてその『ウエスタン』だが、ここでクラウディア・カルディナーレ演ずる主人公がニュー・オーリーンズ出身という設定になっていた。どうしてそんな遠いところの地名を唐突に言い立てるのか一瞬あれ?と思ったが、これはひょっとしたらこの設定はカルディナーレに合わせたものではないだろうか。
 
 ニュー・オーリーンズが首都であるルイジアナ州は名前を見ても瞭然であるようにもともとフランス人の入植地で、日本人やアメリカ人が安直に「オーリーンズ」と発音している町は本来「オルレアン」というべきだ。今でもフランス語を使っている住民がいると聞いたが、西部開拓時代はこのフランス語地域がもっと広かったらしい。もしかしたらそのころは英語を話さない(話せない)フランス語住民も相当いたのではないだろうか。
 フランス語そのもののほかにフランス語系クレオール語も広く使われていたらしい。先日さるドキュメンタリー番組で、ルイジアナで最初の黒人と白人の結婚カップルとしてある老夫婦が紹介されていたが(奥さんの方が黒人)、いかに周りの偏見や揶揄と戦ってきたかを語っていく際、奥さんが「私の両親の母語はフランス語クレオールでした」と言っていた。アメリカの黒人にフランス語的な苗字や名前が目立つのも頷ける話だ。

18世紀のアメリカのフランス語地域。ルイジアナからケベックまでつながっている。(ウィキペディアから)
svg

現在(2011年ごろ)の状況。色のついている部分がフランス語(ケイジャンという特殊な方言も含めて)を話す住民がいる地域。ニューオーリーンズそのものはここでマークされていないところが興味深いといえば興味深い。(これもウィキペディア)
French_in_the_United_States

 クラウディア・カルディナーレはイタリア人だと思っている人が多いが、いや確かにイタリア人なのだが、実はチュニジア生まれで母語はフランス語とアラビア語だったそうだ。イタリア映画界に入ったときはロクにイタリア語がしゃべれなかったと聞いた。第一言語がアラビア語であるイタリア人の例は他にも時々耳にする。とにかくそのためかカルディナーレは確かにフランス映画に多く出演している。ジャック・ペランやアラン・ドロンなど、共演者もフランス人が多い。この人は語学が得意ですぐにその「しゃべれなかった」イタリア語も英語も覚えて国際女優にのし上がったが、もしかしたらその英語は聞く人が聞くとはっきりフランス語訛とわかったのかもしれない。それとの整合性をとるため、『ウェスタン』ではニュー・オーリーンズ出身ということにしたのではないか、と私は思っている。
 もし「ニューオーリーンズ出身」ということが最初から脚本にあり、映画の筋にも重要であればカルディナーレでなく本物の(?)フランス人女優を起用したはずである。ところがストーリー上この役は別にニューオーリーンズでなくとも、とにかく「どこか遠いところから来た女性」であれば十分であることに加え、レオーネ自身「他の俳優はアメリカ人にするにしても中心となるこの女性はイタリア人の女優にやらせたかった」と述べているから、「ニューオーリーンズ」はやはりカルディナーレのためにわざわざ考え出された設定と考えていいと思う。
 さらにひょっとすると、アメリカ人にとってもフランス語アクセントの英語はちょっと高級なヨーロッパの香りを漂わせていてむしろ歓迎だったのではないだろうか。カルディナーレのフランス語アクセントをむしろ強調したかったのかも知れない。そういえば『ウエスタン』のパロディ版ともいえるトニーノ・ヴァレリ監督の『ミスター・ノーボディ』では前者の主役俳優ヘンリー・フォンダを再び起用しているが、その役の苗字がボレガール(Beauregard)というフランス語の名前だった。


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 一年ほど前だが、ピエール・ブリース(Pierre Brice)というフランス人の俳優が亡くなった。1929年生まれというからモリコーネより一歳年下だ。本国フランスよりもドイツで国民的人気のあった俳優で、TVでも新聞でも大きく報道していた。ブリースを忘れられないスターにしたのは一連のドイツ製西部劇である。マカロニウェスタンの前哨となったジャンルだ。

 日本には「最初に非アメリカ製西部劇を作ったのはセルジオ・レオーネ」と思い込んでいる人がいるが、これは全くの誤りである。
 大陸ヨーロッパでは50年代からすでに結構西部劇が作られていたのだ。当時西ドイツやスペイン、フランスなどで作られた西部劇が結構あるし、イタリアでさえもレオーネより何年も前から西部劇はいくつも作られていた。第一『荒野の用心棒』からして、レオーネが企画を持ち込んだ時製作会社のジョリィ・フィルムはすでにGringo(ドイツ語タイトルDrei gegen sacramento、「三人組サクラメントに向かう」)という西部劇を作り終えていたところだったし、レオーネが来たときもちょうどLe pistole non discutono(ドイツ語タイトルDie letzten Zwei vom Rio Bravo、「リオ・ブラヴォーの最後の二人」)という西部劇を製作中だった。この映画の予算がちょっと余ったのでレオーネにも出せるということになり企画が実現したのだ。つまり『荒野の用心棒』レコードで言えばB面、いわば「残飯映画」なのである。

 「マカロニウエスタン以前のユーロウエスタン」は興行的にもそこそこの成功を収めていたらしいが、このピエール・ブリースがインディアンの酋長を演じた一連の西部劇によって西ドイツでブレークした。
 これはカール・マイの冒険小説を映画化したもので、主人公はオールド・シャターハンドという白人だが、ヴィネトゥというアパッチの若い酋長と知り合い兄弟の契りを交わす。その二人の冒険談である。中でも有名なのが「ヴィネトゥ三部作」と呼ばれる映画シリーズで、三作とも監督はハラルト・ラインルだが、その他にも単発で「ヴィネトゥもの」が何作も同監督や別の監督でも作られた。そこでいつもヴィネトゥの役を演じたのがブリースだったのである。
 ブリースはフランスのブルターニュの生まれで、ドイツ語で言ういわゆる「南欧系」、つまりラテン系とギリシャ人をひっくるめていうカテゴリーに属し、ゲルマン・スラブの女性にムチャクチャもてるタイプの容貌をしていたこともあって、映画は非常にヒットした。主役は本来オールド・シャターハンドのほうだったが、そのうちのブリースのヴィネトゥのほうが人気が出だしたので三部作ではこのアパッチの酋長の名前のほうをタイトルに持ってきたわけだ。ストーリーは健全でいながらエピソードに富むという、まあカール・マイの小説そのもので休みにお父さん・お母さんが子供連れで見に出かける家族映画としては完璧。ディズニーがこれを手がけなかったのが惜しいくらいである。年配のドイツ人には子供の頃ヴィネトゥを夢中で見た思い出を懐かしそうに語る人がいまだに大勢いる。

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ヴィネトゥを演じたフランス人ピエール・ブリース。隣がレックス・バーカー演じるオールド・シャターハンド
www.spiegel.deから

 ただ、家族映画なだけに、マカロニウエスタンを見慣れた目でみると健全すぎて面白くない。絵の点でも例えば三部作での主人公オールド・シャターハンドの衣装は『シェーン』のアラン・ラッドの二番煎じ的だし、ネイティブ・アメリカンの描写もステレオタイプ過ぎて本物のアメリカ原住民の人が見たら怒るんじゃないかと思われるくらい。また、そこで部族の女性が何人か出てくるのだが、女優が皆ドイツ人の顔つきなところに無理矢理黒髪・お下げのカツラをかぶせて強引にインディアンにしたてあげているため、全然似合っていない。どう見てもネイティブ・アメリカンには見えないのである。
 最初のヴィネトゥ映画はDer Schatz im Silbersee(「シルバー・レイクの宝」)という単発映画だがこの公開は1962年12月14日、監督は三部作と同じくラインルである。さらに続いて単発ヴィネトゥ映画がバラバラと作られていったが、やがて上述の三部作が生まれた。第一作目が1963年12月11日、二作目1964年9月17日、第三作目は1965年10月14日の西ドイツ公開だから、二作目と三作目の間に『荒野の用心棒』が登場したことになる。『荒野の用心棒』は本国イタリアでは1964年9月12日公開なので2作目より早いが、西ドイツでは劇場公開が1965年3月5日なので「『荒野の用心棒』はヴィネトゥ二作目と三作目の間」といっていいだろう。1965年にはイタリアではすでにマカロニウエスタン旋風が吹き荒れていたはずだが、西ドイツではこの時点で観客の目はまだイーストウッドよりピエール・ブリースの方を向いていたのではないだろうか。

 この三部作の最後の作品のそのまた最後にヴィネトゥが死ぬ。オールド・シャターハンドと庇おうとして撃ち殺されるのである。本来ヴィネトゥ映画シリーズはここで一応の終わりを見るはずであった。しかし当時の西ドイツの観客が黙っていなかったそうだ。ブリースのヴィネトゥを生き帰させろと製作会社に抗議が殺到し暴動(?)が起こりそうになったため、製作会社が折れ、またブリースを主役にしたヴィネトゥ映画を作り続けて国民をなだめたそうだ。そういえば『殺しが静かにやって来る』でも映画のラストに抗議してローマで暴動が起きたという都市伝説を聞いたことがあるが、この噂のベースはもしかしたらこのヴィネトゥ映画かもしれない

 これらヴィネトゥ映画はじめ当時の西ドイツの西部劇は時期的にマカロニウエスタンの誕生と完全にダブっていただけではない、俳優の点でも重複している。ヴィネトゥものにはクラウス・キンスキーやマリオ・ジロッティ(テレンス・ヒルの本名)、ジークハルト・ルップ、ウォルター・バーンズ、ホルスト・フランクなどマカロニウエスタンでおなじみの俳優が顔を出しているし、1964年3月23日公開、つまり『荒野の用心棒』の直前に作られ公開された非ヴィネトゥの西ドイツ西部劇Der letzte Ritt nach Santa Cruz(「サンタ・クルースへの最後の旅」)にはマリアンネ・コッホ、キンスキー、ルップ、マリオ・アドルフなどが出ていて出演の面子だけみたら完全にマカロニウエスタンである。
 俳優ではないがヴィネトゥ単発もの、1964年4月30日公開のズバリOld Shutterhandというタイトルの映画の音楽を担当したのは聞いて驚くなリズ・オルトラーニだ。
 また、西ドイツに誘発されたのか対抗意識なのか、その後東ドイツでも結構盛んに西部劇というかインディアン映画が作られるようになった。主役はOld shatterhandにも出ていた(当時)ユーゴスラビアの俳優ゴイコ・ミティッチ(Gojko Mitić) が演ずることが多かった。「西のブリース、東のミティッチ」と言われたそうだ。東ドイツの西部劇は1965年くらいから作られ始め、1970年代を通じて1980年代くらいまでは時々製作されていたから時期的には完全にマカロニウエスタンと重なっているのである。

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これが東ドイツのインディアン、ゴイコ・ミティッチ。https://mopo24.deから

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西のブリース、東のミティッチのダブル出演。これもhttps://mopo24.deから

 このカール・マイ西部劇はロケを当時のユーゴスラビアで行なったが、このロケ地をそのまま引き継いでイタリア製西部劇を作ったのがセルジオ・コルブッチ。1964年5月25日イタリア公開のMassacro al Grande Canyon(「グランド・キャニオンの大虐殺」)という映画がそれだ。『荒野の用心棒』より半年も早い。主役にロバート・ミッチャムの息子のジェームズ・ミッチャムを起用しているのだが、映画自体はアメリカ西部劇の劣化コピーのようであまり面白くなかった。

 ドイツ製西部劇がコルブッチに与えた影響はモティーフにも見て取れる。普通マカロニウエスタンにはあまりネイティブアメリカンが出てこないのだが、コルブッチはこの伝統を破っていわゆるインディアンを主人公に据えている。『さすらいのガンマン』(1966)である。しかもご丁寧に主役は本当にチェロキーインディアンの血を引くバート・レイノルズを持ってきている。その後トニーノ・チェルヴィが『野獣暁に死す』(1967)で仲代達也にネイティブ・アメリカン(それともメキシコ人だったか)という設定で登場させたが、こちらは悪役だし、主人公は仲代に復讐する側のガンマンだったから、コルブッチのほうがドイツ製西部劇に忠実だったと言えるだろう。
 ちなみにここの仲代もヴィネトゥ映画のインディアン女性に負けず劣らず無理があった。どうやってもネイティブアメリカンにもメキシコ人にも見えないのである。最初の登場シーンでチェルヴィは仲代にマチェットを振り回させたが、その持ち方がどう見ても日本刀。おかげで以降(少なくとも私には)日本人にしか見えなくなった。さらに映画の最後のほうでも刀を完全にサムライ風に持って立ち回りを演じたのでそのガンマン装束との間に違和感がありすぎた。仲代氏も仕事とはいいながら、黒澤明の時代劇では銃を撃つ一方西部劇では刀を振り回すという、まあ普通とは逆を行かされてご苦労様でしたとねぎらうほかはない。

 当時「ヨーロッパで西部劇を作る」のはすでに珍しいことでもなんでもなかったし、観客側にもそれを一つのジャンルとして受け入れる雰囲気はドイツを中心とした当時の大陸ヨーロッパに広がっていた。いわばお膳立てはすっかり出来上がっていたのだ。機は熟していた。レオーネはそれに点火したのだ。


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 この間電車の中で偶然以前の同僚に会った。その人は私と同世代で母語がスペイン語である。雑談をするうち、いつしか話は「最近の若い者は(出た、年寄りの愚痴!)ラテン語ができない」とかいう方向に進んで行った。
 一昔前はドイツのギムナジウムではラテン語をやるのが普通だった。その上さらに古典ギリシャ語もやらされるところもあった。それに加えて現代の外国語、当時は大抵フランス語を一つマスターさせられたのだ。ラテン語ができないものはそもそも文科系の大学に入学する資格がなかった。できなくてもよかったのは外国籍の学生だけで、「まあ外のものにドイツ人並の教養を要求するわけにもいかんだろ。けっ。」と甘やかされていたのである。そのアマちゃんの私でさえ、一度「ラテン語資格」を要求されそうになって青くなったことは『2.印欧語の逆襲』の項でも書いたとおりだ。

 ところが最近のギムナジウムではラテン語などやらないところがむしろ普通で、文科系の学部もラテン語なしで入学できてしまうそうだ。外国語学部・言語学部に入学してくる、つまり言語というもののプロになりたいと思っているものでさえラテン語ができない学生がいるのだから、あとは推して知るべし。「だから文法の用語とかも皆知らなくてさ、自動詞とか他動詞とかいう言葉の意味がわかんなくてポカーンとしてるから動詞のバレンツを書いてそこから説明してやったよ。これじゃ語学だって進歩しないだろ。説明が理解できないんだから。」他動詞・自動詞よりも「動詞のバレンツ」などという用語のほうが余計わかってもらえないんじゃないかとも思ったが、全くそういう理論武装なしで語学をやることは不可能だと私も思っている。理屈や堅い話なしで、「覚えましょう・覚えましょう」だけで言葉を覚えるのではそれこそ九官鳥やオウムの訓練所ではないか(『34.言語学と語学の違い』参照)。

 さて、この人は古典ギリシャ語もやったそうだが、続けて「ラテン語は語形変化のパラダイムが美しい」という。名詞や動詞の変化表をみるとその均整のとれた美しさに感動するのだそうだ。私もそれには異存がなかったので、「そうですね。特にo-語幹の名詞がいいですよね。呼格なんかもあるし」と話をあわせたが、さらに言えば私はラテン語だけでなく、いや印欧語だけでなく全ての言語体系は美しい、と思っている。言語の本質はその構造性・体系性にあると思っているのだ。その音韻体系、形態素体系、シンタクスの構造、これらが図式化してあるのを見るのが好きで、語学書などでも中身はすっ飛ばして真っ先に巻末の変化表に目が行ってしまう。ただ、パラダイム表をみるのは好きだが覚えるのは嫌い(いうより「できない」)なのが我ながら情けないところだが。

 この言語の構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう。現在の物理学の知識を駆使しても10m上空からアヒルの羽を一枚落としたときの落下地点をぴたりと当てることが出来ないのと似ている。しかもあらゆる言語がそういう構造を内在させている。現在存在している言語、過去に存在していた言語、これから生まれるであろう言語はすべて「決して人間程度の知力では完全に解析・解明することはできない」存在なわけだ。現在地球上にある言語だけで5000、今までに存在した言語なんて何万、いや何十万あったかわからない。それらはどれ一つとして同じ構造のものがない、すべてただ一回きりこの世に存在し、これからも決して生じることはない現象である。
 こういうことを考えるにつけ、たかが10や20言語のちょっとした挨拶や言い回しを覚えて九官鳥気取りで軽々しく「語学ができる」とか言い出す人にはちょっと反発を覚える。

 また、「体系」「構造」という言葉は一時日本でも流行ったのですでに日常語になっているが、では「体系って何ですか?」とあらためて聞かれるとその言葉を得意げに使っている本人も一瞬うっとつまってしまうことが多い。私は馬鹿なので一瞬でなく一分間くらいつまる。でも聞かれたからには答えなければならないのでいつもまあテキトーに(あのねぇ・・・)こんなことをいって誤魔化している。

「要素Aがそれ自体のものでなく他の要素、BとかCとかの関連において初めて意味を持ってくる、あるいは要素Aの本質はAの内部そのものにではなくBやCとの関係のなかにある、と考えるのが体系という観念です。」

つまり、ある文法カテゴリー、例えば過去形という奴をそれだけじいっと考察していてもあまり意味はないということだ。当該言語がどんな時制体系を持っているかによって意味も使用範囲も全く違ってくるからだ。現在-過去-未来しか持たない言語と過去完了、非完了、アオリストなどやたらとたくさんの時制形を持っている言語では「過去形」といっても全く別物なのである。
 語彙にしてもそうで、例えば「「てつだう」ってどういう意味ですか?」という類の質問をしてくるのは初期段階だけである。ちょっと学習が進むと必ず「手伝うと助けるはどう違うんですか?」というような質問をしてくるようになる。体系内での要素間の関係に目が行くようになるのだ。逆にいつまでも言語の体系性ということが実感として捉えられない人は語学のセンスがないのでせいぜい九官鳥と競争でもしていてほしい、とまでは言わないが(そんなことを言ったら私自身も相当長い間その口だったのだ。『25.なりそこなったチョムスキー』参照)、教師がいくら優秀でも途中で壁に突き当たる場合が多い。一生懸命勉強したはずの語学が使い物にならないのはどうしてなのかか自分でもわからず、結局教師の教え方が悪いからだ、と人のせいにしたりするのだ。

 話は少しワープするが、映画も一つ一つの作品を単発でバラバラ無作為に鑑賞したり紹介していてもどうにもならないことがある、と私は思っている。作品Aが当該体系内の作品Bとの関連で初めて意味を持ってくることもあると。ただ、映画では全体として統一の取れた体系というものをきちんと枠組みすることが難しい。いわゆる「ジャンル」というのは枠にはならない。映画芸術発生以来100年余り連綿と作られてきた、またこれからも作られていく映画をポンポンジャンルという箱の中に放り込んだところで収集も統一も取れていないばかりか、どのジャンルにいれたらいいのか人によって違う映画も多い上に(『タイタニック』は恋愛映画なのかアクション映画なのか?)、そもそもジャンルというもの自体、いったいどうやって定義したらいいのか曖昧なこともある(「ブロックバスター」というのは果たして一つのジャンルや否や)からだ。つまり映画のジャンルというものは雑多な映画のテキトーな集合に過ぎない。
 ところがそういう映画にも時々「擬似体系」とでも呼べそうな、全体的に一定のまとまりを示す作品群がある。どの映画がそこに所属するかも明確に決めることができて、枠組みがクリアな集合が。その一つがいわゆるマカロニウエスタンと呼ばれるジャンルというかグループで、これらの作品群は例えば「恋愛映画」などというふやけたジャンルと違ってまずモチーフ(西部劇)が一定している上、1.製作時期がはっきりと限定されている(1964年から1970年代の後半まで)、2.製作国(イタリア)が定義されている、2.監督、音楽、俳優、脚本などが極めて限られた面子である、ので内部の統一性が極めて高い。事実マカロニウエスタンの作品はジャンル内部での相互影響、露骨に言えばパクリ合いが非常に密で独特の小宇宙・閉ざされた空間を形成しているのである。
 また他のジャンルではいわゆる駄作というのは存在の意義が薄く、ガチなフリークならともかく、普通のレビューの網の目からは落ちこぼれることが多いが、内部作品が相互関連して全体の体系を形作っているマカロニウエスタンでは、駄作でも要素Bとして立派に要素Aの存在意義に関与しているのだ。わかり易く言えば、ジャンルの傑作の引き立て役として小宇宙内で重要な意味を持っているのである。そもそもマカロニウエスタンの9割以上は駄作凡作なのだから、体系というかジャンル全体として考察しなければどうにもならない。とにかくこのジャンルは明確に閉ざされた一つの小宇宙を形作っているので一旦ハマると抜けられなくなるのだ。

 あと、これはマカロニウエスタンのような「小宇宙ジャンル」に限ったことではないが、映画を論じる際、製作年を無視すると解釈を誤ると私は思っている。映画は製作と公開が時期的にかなりずれていることが多いのでドイツでの公開時、日本での公開時だけを基にして作品を云々しているとトンチンカンな解釈をしてしまう。少なくとも本国公開はいつだったのか押さえておかないとまずいだろう。本当は本国公開時でなく製作年の方をを考慮すべきなのだろうが残念ながら資料などには出ていないことが多い。
 たとえば私もやってしまったのだが、ブレット・ハルゼイBrett Halsey演ずる『野獣暁に死す』の主人公ビル・カイオワ。最初私はこれは『殺しが静かにやって来る』の主人公サイレンスのコピーかと思ってしまった。陰気な黒装束も同じだったし、顔もちょっと似た方向だったからである。でも調べてみたら前者のほうが制作も本国公開も早かった。つまりカイオワはサイレンスからのコピーではなくてむしろ『続・荒野の用心棒』のジャンゴから直接持ってきたのだとわかる。『野獣暁に死す』と『殺しが静かにやって来る』では後者のほうが圧倒的に名を知られているし評価も高いため、私は見誤ってしまったのである。
 なお、「閉ざされた小宇宙」と言ってもマカロニウエスタンは作品が500以上ある。『52.ジャンゴという名前』の項でも書いたが、その中で私の見た作品など、「見たかどうかよく覚えていない」ものまで無理矢理含めてもせいぜい90作品。あと410作品を見るなんてこの先一生かかっても無理だ。まさに上でも述べたように「構造・体系というのは決して完璧には解析されることがないだろう」と言える。


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