アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:死語

 私はリアルタイムで覚えている(とかバラすと年がバレる)のだが昔『子連れ狼』という劇画があった。水鴎流の達人拝一刀の陰惨な復讐劇だが、最終回でその一刀が深手を負ったまま宿敵柳生烈堂と対決し、とうとう力尽きて倒れたあと、三歳の息子大五郎が脇に落ちていた槍をとって烈堂に突進し、腹に一突き入れる。烈堂はそれを避けることなく両手を広げて自分の腹を突かせ、あまっさえそこで大五郎を槍ごと抱きしめて切先をさらに深く自分の体に突き入れるのである。その際烈堂は大五郎に向かって「我が孫よ」というのだが、この意味については二通りの解釈がある。一つ目は「大五郎は実は烈堂の孫だった」というもので、一刀の妻薊が烈堂の娘ということになるが、私は個人的にちょっと無理がありすぎると思っている。そうだとすると烈堂が自分の娘を惨殺させたということになるからだ。もちろん「草」と呼ばれる柳生配下の忍びの者のその後の行動をみれば自分の子を殺すくらいやるだろうとは思うが、一方で烈堂は自分の子供たちはそれなりに皆可愛がっており、臨月の実の娘の斬殺までやるかというと疑問が残る。宿敵拝一刀などの所に嫁いだ罰だというのなら、じゃあなぜそもそも娘をそんなところに嫁にやったのか解せない。念のためこの際原作28巻をすべて読んでみたが、「薊は烈堂の娘」などとは暗示さえする場面もない。この解釈はどうも根拠がないと思う。もう一つの解釈は不倶戴天の敵同士とはいえ一刀と烈堂は腕でも根性でも同等なので、烈堂は一刀を自分の息子と見なし、その子大五郎を孫と呼んだというもの。大雑把にはしょると「敵ながらあっぱれ」という烈堂から死んだ一刀に向けてのメッセージだ。私は自然にこちらの解釈をとった。もっとも技量と精神力は同等かもしれないが、その行動・目的にブレなく心に曇りなく、生き方もストイックな点で人間としては一刀のほうが上だろう。ひょっとしたら烈堂もその点で敗北を感じたから自分の腹に槍を突きさせたのかもしれない。
 その一刀は片手に大五郎を抱いてキメたポーズが有名だが、その際常に左手で子を抱いているのがさすがだ。そういえば野球のピッチャーも子供を抱き上げるときは必ず球を投げないほう、つまり利き腕ではないほうで抱いたそうだが、それと同じだろう。剣を持たないほうの手で子を抱くのである。

拝一刀と言えば何といってもこのポーズ。必ず左手で子供を抱く。
小池一夫・小島剛夕、1972~1976年、『子連れ狼』、第8巻、66ページ、東京:双葉社

8-66

同第13巻、92ページ
13-92

『子連れ狼』の最終回を読んでいる時読者はほとんど全員こういう気持ちでいたに違いない。
同第28巻、151ページ
28-151
 もうひとつ「我が孫よ」で気になるのはそこで使われている不変化詞「よ」である。前に日本語の格は13あると書いたが(『152.Noとしか言えない見本』参照)、実はその時不変化詞「よ」を付加して表される「ブルータスよ」などの形を「呼格」として一つの格と見るべき、つまり「よ」を格助詞とみるべきなのではないかと迷った。事実17世紀のロドリゲスの『日本語小文典』では日本語の格としてまさに「よ」をマーカーとした呼格を認めている。一方ロドリゲスは日本語の格を論ずるのに主格、属格、与格、対格、呼格、奪格の6つを区別、つまりラテン語の文法をそのまま持ち込んでいたのが気にもなったので、最終的には呼格否定の方に傾いたのだが、完全にズバッと却下できたわけではない。この機会にちょっと見直してみたい。
 まず「よ」も他の格助詞も頻繁に省略はされる。されるのだがされた際のニュアンスに大きな違いがある。例えば

山田さん来た!
山田さん来た!

あるいは

もうその本読みましたか?
もうその本読みましたか?

のどちらがそれぞれ「正しいか」と聞けば皆最初の方だと答えるだろう。二番目の文では本来あるべきものが省略されていることを明確に感じるのだ、それに対し

ブルータス、お前もか。
ブルータス、お前もか。

のどちらの文が「正しいか」という質問に最初の文の方が正しいと答える人はあまりいまい。「どちらも正しい」「この二つの文はそもそもニュアンスが違うから正しい正しくないなどとは決められない」などという答えが返ってくると思う。ではどんな「ニュアンスの差」かというとこれも割と簡単で、「よ」は明らかに文語調である。だから「烈堂よ、お主も老いたな」とは言えるが「山田さんよ、あなたも年を取りましたね」とは言えない。また下でも述べるように口語の「おいおいお前よぉ」の「よぉ」とこの疑似呼格「よ」とは別単語であると私は思っている。
 そういえば『子連れ狼』は当時萬屋錦之介主演でTVシリーズ化されたが、その最終回での烈堂のセリフは「おお、我が孫よ」といって感嘆詞がついていた。この感嘆詞はあくまで「おお」であって「おう」ではない。「おお」と「おう」では発音は全く同じだが、ニュアンス的に明確な差があり「おお」の方が格調が高い。だから「おう、我が孫よ」だとおかしいし、逆に「おお、この桜吹雪が見えねえか」は文体的にギクシャクしている。「おう、この桜吹雪が見えねえか」でないと座りが悪い。

 この、名詞につく「よ」は文語的というのが第一の注意点だが、口語文法では時々終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」を分けている。「我が孫よ」の「よ」は間投助詞だ。辞書によっては終助詞の「よ」でも間投助詞の「よ」でも「文末の種々の語に付く」と全く同じ説明がしてあってイライラする。終助詞は動詞形容詞の終止形、間投助詞は名詞につくとズバリと言いきっていけないことはないと思うが(中に間投助詞の例として 「君だよ、そこの君。」という文をあげているのがあった。こういうRight Dislocationを持ち出すのは反則だろうし、そもそも「君だよ」の「よ」はコピュラの終止形についているから終助詞ではないのか)、とにかく「よ」ではNPに付くのとCP(またはS)レベルにつくのを区別する。いわゆる体言止めの文でもCPと見なす。たとえば次の文ではそれぞれ二番目の文で動詞に「の」がついて文全体が名詞化されているのでウルサク言えば名詞に接続しているはずだが間投助詞ではなく終助詞とみなす。

昨日東京に行ったよ。
昨日東京に行ったよ。

山田さんは馬鹿だよ。
山田さんは馬鹿なよ。

ここで「山田さんは馬鹿よ」という場合は「馬鹿」の品詞が違う。「馬鹿なのよ」馬鹿はナ形容詞だが、「馬鹿よ」の馬鹿は「馬鹿者」という意味の名詞である。「馬鹿だよ」についてはナ形容詞、名詞の二通りの解釈が可能だ。
 つまり間投助詞は文語時代には普通に使われていたが口語では廃れてしまい、それを使った表現はいわば有標、それに対して終助詞の「よ」は完全に口語体系内に根を下ろしているということになる。それが証拠に終助詞の「よ」を使うと間投助詞の「よ」と逆に格調が下がるのだ。

間投助詞
ブルータス、お前もか。
終助詞
ブルータス、お前もか

だから「ブルータスよ、そなたもか」とは言えるが「ブルータス、そなたもかよ」とは言えない。「ブルータスよ、お前もかよ」は「よ」が二回ついてウザいという以前に二つの「よ」が文体的に相反して互いに排斥しあうのでやはりNGである。
 終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」はシンタクスの面でも機能の面でも異なり、しかも相互排除しあうという点で、完全に別単語だ。さらに「ブルータスよぅ、お前もか」の「よぅ」はそもそも助詞ではなく感嘆詞だろう。「よぅ、ブルータス」の「よぅ」が後置されたものだと思う。文の品が急降下するが「ブルータスよぅ、お前もかよ」という文は問題なく成り立つ。感嘆詞の「よぅ」と間投助詞の「よ」が文体レベルで同類項だからだ。ここでは最後の「よ」は助詞だが、「ブルータスよぅ、お前もかよぅ」だと最後の「よぅ」は感嘆詞で、シンタクス構造が違う。とにかく終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」、感嘆詞の「よ(ぅ)」は別単語であろう。

 さて上述のように文語では間投助詞の「よ」が普通に(つまり無標表現として)使われていたのなら、では文語には「格としての呼格」があったと見なすべきだろうか。例えばロシア語で oh my god を боже мой というが、この боже という形は「神」бог の呼格形だ。ロシア語では語形変化のパラダイムとしての呼格は失われてしまったが、昔あった呼格の名残がまだそこここに残っているのであるわけだ。現代日本語の「よ」もそんな感じなのだろうか。だがこればかりはネイティブを捕まえてその言語感覚にたよるほかはない。つぎの文のどちらが「正しい」と感ずるか、昔の人に聞いてみるしかないのである。

少納言。直衣着たりつらんは、いづら。
少納言、直衣着たりつらんは、いづら。

そこで相手が最初の文が本来正しいと答えたら呼格の存在が濃厚、単なるニュアンスの差と答えたら「よ」は単なる間投助詞ということになろうが、何といっても文語のネイティブはとっくに死に絶えているから調査のしようがない。私はどうも昔の人も今と同様「ニュアンスの差」と答えるような気がするのだが、それはあくまで私の勝手なフィーリングである。
  そのようなわけで私は口語でも文語でも、つまり日本語には呼格という格はない、という見解に傾いてはいるのだが、一つ引っかかる点がある、文語には「よ」という正真正銘の格助詞が存在したということだ。現在の「より」と同じく奪格を表していたが、上代では具格も引き受けていた。今でいう「で」である。

浅小竹原腰なづむ空は行かず足行くな

奪格や具格と呼格では機能が違いすぎるし、いくら形が同じだからと言って間投助詞の「よ」と格助詞の「よ」を同単語あるいは同起源と見るのは乱暴すぎるだろう。第一呼格が吸収される場合は(少なくとも印欧語に限っては)例外なく主格が呼格を飲み込む。対格や奪格、具格などの斜格が呼格を吸収した例はない。斜格が呼格の機能を担うようになるなど前代未聞である。しかし奪格・具格の「よ」とは完全に別単語ならそれでもいいから、間投助詞の「よ」のほうもほうとしてひょっとして太古の昔は何らかの格意識を担っていたりはしなかったのかな、という想いが心の隅の隅でまだしつこく燻っている。もっともそれを言い出すと格とは何ぞや、日本語にそもそも格はあるのかという大問題に発展しそうで私の手に負えなくなるだろうから、あまりこれ以上つつかずにそのまま燻っていて貰うほうが無難だが。

 「我が孫よ」の考察が一段落したところで本題の『子連れ狼』に戻るが、この作品が漫画アクションに連載されていたのは1970年から1976年まで。日本映画界が崩壊し、黒澤明が自殺未遂にまで追い込まれ、そこからまた立ち直って『デルス・ウザーラ』を撮った時期と重なる。
 黒澤監督は漫画を嫌い「手塚治虫以外の漫画は子供には読ますな。特に少女漫画はいけない」と言っていたそうだ(当時の分類に従えば『子連れ狼』は「漫画」ではなく「劇画」だが)。またテレビへの対抗処置として手っ取り早く観客をおびき寄せるため「性と暴力」路線に墜ちてかえって崩壊の速度を高めた当時の映画界とは「断固戦う」とまで言明していたくらいだから、監督が『子連れ狼』の原作を読んでいたということはないだろう。いわんや監督がこの作品の「ファン」だったなどとは絶対あり得ないと思っている。一方また監督も家でTVそのものは結構見ていたようだし、晩年はジブリのアニメなども好きだったらしいので、萬屋の『子連れ狼』のほうは見ていたかも、少なくともこの作品は知っていたかもしれない。
 なぜ私がここまで黒澤明が『子連れ狼』を見た見ないにこだわるかと言うと、実は私は『乱』の一文字秀虎を見てつい柳生烈堂を思い出してしまったからである。そりゃあ妄想がひどすぎると言われればまあそうかもしれないが、逆方向、黒澤から『子連れ狼』への影響のほうははっきりしている。例えば第11巻の十三弦というエピソードでは困窮して当然標準価格の一殺五百両など出せない百姓の頼みを一膳の飯で引き受ける。『七人の侍』そのものだ。この一刀というキャラは生きざまと言い、死にざまと言い、冷酷なようで実は非常に慈悲深い人格と言い、そもそも拝一刀などという名前と言い、文句のつけようがないまさに理想の侍ではないだろうか。『七人の侍』の久蔵をベースに『隠し砦の三悪人』の真壁六郎太を小さじ一杯ほど加え凄みを効かせたような感じ。ただ黒澤はその理想の侍を「刺客」という設定にすることは絶対あるまい。黒澤のヤクザ嫌い、無法者嫌いは有名だ。
 もうひとつ黒澤映画の侍たちと違うのはその死に方だろう。黒澤は理想の侍を銃で死なせた。監督自身「野武士との斬りあいなどで殺させたくはなかった。道端で惨めた死にざまを晒させたくなかった。バーンと撃たれて死んだ方が潔い」と言っていたそうだ。潔く花と散る散華の死に方をさせたかったと。子連れ狼・拝一刀の死に場所はさすがに「道端」などではなかったが延々と続く斬り合いで血を流し、いわばボロボロになりながらも最後まで倒れずに立ったまま死ぬ。確かに凄惨すぎて「花と散る」というイメージではない。一方これはあくまで私の個人的な考えだが、せっかく剣で鍛えたのに結局は飛び道具でイチコロという展開より侍は侍らしく剣で死ぬ方がむしろ散華と言えるのではないだろうか。自分が斬り殺されるわけではないから無責任なことを言って恐縮だが。
 とにかく『子連れ狼』を読んでいると他にも黒澤の時代劇のあの場面・この場面がチラチラする。例えば第3巻16話では千秋実と稲葉義男(『七人の侍』)と藤田進(『隠し砦の三悪人』)を合計して3で割ったような感じの侍が一刀に「刺客なんかを止めろ」と説く。もっともこれらは小池一夫(原作)あるいは小島剛夕(画)が意識的に借用したというより(上述の一膳の飯の場面だけは意識的だろうが)、時代劇を作ろうと思ったら黒澤映画を避けて通ることはできなかったといったほうがいいだろう。何をどう描写しようが黒澤時代劇の中に似たようなキャラが見つかってしまうのである。そういえば『子連れ狼』の連載が始まる前年、1969年には『七人の侍』などの黒澤作品が初めてTV放映もされているから劇場公開で見逃してこの時初めて見たという人も多かったに違いない。
 またこれは徹底的にどうでもいい話だが、小島剛夕は黒澤がただ一人「読むに足る漫画家」と認めた手塚治虫と誕生日が全く同じなんだそうだ。

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以前書いた記事の図表を画像に変更しました。その際今更気づいたのですが、トカラ語の「馬」とサンスクリットの「馬」ってさすが印欧語だけあって形がそっくりです。それで文章も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 世界中でどんどん使用地域を広げ他の言語を駆逐していっている印欧語だが、話されている地域が過去に大幅に後退したところがある。中央アジアの天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタリム盆地だ。
 現在はこのあたり、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの南部、中国領の新疆ウイグル自治区は言語が皆テュルク諸語、トルコ語の親戚だ。ロシア国内のタタール語もアゼルバイジャン語もこれである。しかし昔はここら辺はペルシャ帝国やその同盟国の領内で、言語も東イラニアン語派、つまりモロ印欧語だった。「モロ」というのはこのペルシャから中東にかけての言語が現在印欧語の代表者面をしているドイツ語やスペイン語よりむしろ本来の印欧語だからである。いわゆる西域、東トルケスタン(中国領新疆ウイグル自治区)をも含むタリム盆地・タクラマカン砂漠周辺も言語的文化的にはやはり印欧語・アーリア人の生活圏だった。当時の中国の記録では西域の住民のことを「深目・高鼻」と描写してあるそうだ。現在の住人のようなアジア顔とは明確に違っていたのだ。
 つまり中央アジアでは極めて大規模な言語転換、住民の入れ替えが起こっているのである。歴史学者の松田壽男氏はこれを「木に竹を継いだような歴史」と言っているが、転換前、かつて印欧語・アーリア人地域であった名残りは小規模ながら今もそこここに残っていて、中央アジアのタジク語、コーカサスのオセチア語は東イラニアン語派の印欧語だ。オセチア語についてはスキタイ語の末裔だという説を見かけたが、このスキタイ語も結局印欧語。他にタジキスタンで使われているヤグノブ語、新疆ウイグル自治区他で話されているワハン語などの小言語も東イラニアン。テュルク語に駆逐された印欧語が全滅を逃れてわずかに生き残ったのだ。

タクラマカン砂漠という大砂漠があるタリム盆地。ウィキペディアから。
taklamakan

 先史時代のことはひとまず置いておくが、今の東西トルケスタンは遅くとも紀元前550年のアケメネス朝ペルシャの頃は印欧語の地域になっていた。『160.火の三つの形』でも述べたように拝火教のアーリア人だ。その頃サマルカンドやブハラを中心にソグディアナという国(中国語で粟特)があって、のちにペルシャの直轄領になったが、この言語ソグド語ももちろんイラニアン語派の印欧語である。
 その後紀元前334年に例のアレクサンドロス大王が攻め込んで来てアケメネス朝は滅亡、さらにバクトリア地方がギリシャ化し、イラン・ペルシャとインドの間に言語的にクサビが打ち込まれることになった。そのバクトリアの地に紀元前250年ごろギリシャ人が独立王国を建てていたそうだ。高校の世界史で習った、漢の武帝の命令で張騫が派遣された大月氏国というのはこのバクトリアにあったらしい。ただしギリシャ人のバクトリア王国そのものはすでに滅んでいたそうだ。
 さらにこれもやはり紀元前250年ごろ元のアケメネス朝の地にパルティア人がアルサク帝国を建てた。これが中国人の呼ぶ安息である。このパルティア人もイラニアン語派の印欧語を話していたと見られる。最初ヘレニズム文化であったのが、しばらくするうちにそこから離れてペルシャ文化に戻ってしまった。クテシフォンという都市を築いたのもこの国で、これはササン朝ペルシャの首都として引き継がれた。こうして「ペルシャ戻り・イラニアン戻り」をしたササン朝がローマや北のテュルク勢力と拮抗しつつ、3世紀から7世紀まで、つまり中国の唐の時代まで存続する。この言語が中世ペルシャ語だ。アケメネス朝の言葉は古代ペルシャ語(『160.火の三つの形』参照)である。
 このころの中央アジアのタリム盆地のあたりがどんな様子になっていたかについては幸い中国側の資料がたくさん残っている。例えば漢が設立した西域都護府が前60年に行なった報告によるとタリム盆地には多数のオアシス国家が存在していたそうだ。さらに晋の僧法顕(4~5世紀)が『仏国記』で当地の砂漠の凄まじさを描写し、7世紀に完成した北周書異域伝にはそのころの西域のオアシス都市アールシイ(下記)では仏教の他に拝火教も行われていたことが記録されている。7世紀には唐僧玄奘の報告もある。アールシイ(阿耆尼または焉耆、カラシャフルとも呼ばれる)、クチイ(屈支または亀茲)、クスタナ(コータン、瞿薩旦那または于闐)といったオアシス国家の生活文化を描写しているが、その際コータンの言語が他国と異なっていると告げている。また文字はインドの文字を改良したものであると述べている。これは19世紀の終わりから20世紀にかけてスヴェン・ヘディンやオーレル・スタインなどが発掘した遺跡から出てきた死語の資料を解読して得られた結果と一致している:タクラマカン砂漠には3つの言語群があった。中心となるオアシス都市の名をとってアールシイ語、クチイ語、コータン語と名付けることができるが、アールシイとクチイは天山南道、つまりタクラマカン砂漠の北側にある。ところがコータンは崑崙山脈の北、タクラマカン砂漠の南端だ。前の二つは互いに似通った言語だが、コータンは砂漠を隔てていただけあって前者とは明確に違った言葉が話されていた。もっとも上の玄奘のいうコータン語が違っているという「他国」がアールシイなどを指しているとは限らない。玄奘がアールシイ、クチャについて記述しているのは『大唐西域記』の第一巻、コータンについての話は遠く離れた第一二巻だから、コータン語が周りのソグド語か中世ペルシャ語と違っているという意味かもしれないからだ。とにかく現在はアールシイの言語はトカラ語A,クチイはトカラ語Bと呼ばれる。
 トカラ語が印欧語族であることは1907年にはすでに判明していた。ギリシャ語やアルバニア語同様印欧語族の独立した一派で東イラニアン語派のコータン語とは語派が違う。上記の松田教授はアールシイとクチイの言葉を印欧語でイタロ・ケルティックに近い言語としているが、実はこれは間違いではない。現在では否定されているが前は本当にそういう説があったのだ。ギリシャ語やバルト語派・スラブ語派との関係が云々されたこともあった。Adamsという学者は言語の親近度を語彙などで測定して、ゲルマン語派と近いという結果を出している。ケルト語にせよゲルマン語にせよ、つまり言語的には印欧語の北西グループの特徴を示しイラニアン語派とは全く異質ということだ。

 どうしてそんなに離れたところにそんな印欧語があるのか。Adamsはギリシャ語やゲルマン語派との親近性はトカラ語がゲルマン・ギリシャ語とズバリ同系だからではなく、トカラ人が元いた場所から移動してタクラマカン砂漠に至る際、ギリシャ語やゲルマン語と接触し影響を受けたからだとしている。つまりトカラ人はヨーロッパから移住してきた(半)遊牧民ということになる。別の説ではトカラ人はヒッタイト人級に古く印欧祖語から分岐したものだという。ヒッタイト語は印欧語ではなく「印欧祖語の兄弟言語」という見方もあるくらいだから、つまりヒッタイト語、印欧(祖)語、トカラ語がさらに共通の祖語から分かれたという見解だ。
 どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかは考古学の領域に入ってしまうのでここではパスするが、東イラニアン語派が中央アジアに入ってきたときにはすでにトカラ語の話者がそこにいたらしい。トカラ語祖語の時代は紀元前千年以前などという議論も行われているそうだが、発掘されたトカラ語の文書は紀元5世紀から8世紀(別の資料では紀元4世紀から12世紀)ごろの新しいものしかないので実証が難しい。しかしトカラ語の単語を他の、(話されていた時代がわかっている)印欧語と比べて音韻対応を検討すればある程度言語の歴史はわかる。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)の成り行きもそうやって言語学的に解明されたのだ。
 このトカラ語がAとBに分かれているのはダテではなく、両者は互いに通じなかったのではないかと思われるほど差があるそうだ。さらにトカラ語Aはアールシイの、Bはクチャで話されていた言語と単純にも行かないらしい。第一にタリム盆地は古くから交易の地で人の移動が激しく、文書が発見されたからと言ってそこの住民がその言語を話していたということにはならない。これは下で述べる敦煌でもそうだ。第二にAが見つかった処ではBも見つかっている上にB文書の数の方がずっと多い。ここからBが実際の話し言語で、Aはその時点ですでに死語、宗教儀式や詩などの限られたコンテクストでのみ使われて日常では用いられていなかったのではないかという疑いも起こる。
 面白いことにトカラ語では印欧祖語より名詞格が増えて10(呼格をいれれば11)の格を区別する。しかしそのパラダイムを見れば、トカラ語では印欧語としてのもとの語形が一旦減少し、しかる後に膠着語的接尾辞を付加して格変化させるやり方が発達したことが見て取れる。ロマニ語(『65.主格と対格は特別扱い』参照)や非印欧語のダゲスタンのアグール語と同じパターンだ。トカラ語をぐるりと囲む膠着タイプの諸言語の影響なのだろうか。ちょっと「馬」という語形変化をみてみよう。
Tabelle-165
いかにもサンスクリットの「馬」aśva- とつながっていそうな語だ。 トカラ語Bの複数通格は yakwentsa ではなく yakweṃtsa になるはずではないのかと思うが確認できなかった。とにかくAには因格形がなくBには具格がない。またBでは呼格を区別することがある。例えばこの「馬」は yakwa という単数呼格形を持っているそうだ。さらによく見ると印欧語的な「曲用」によって造られるのは主格、属格、斜格の3つだけで、具格以下は斜格形をベースにしてその後ろに接尾辞(太字)をつけるというロマニ語そっくりのパターンで形成されているのが見て取れる。単数を見るとすでに属格でこのパターンを踏襲しているようにも見えるが、Bで「父」の単数主・属・斜格をそれぞれpācer、pātri、pātärといい、立派に語形変化しているのがわかる。この2層になった語形変化をGruppenflexion「グループ活用」というドイツ語で呼んでいる。
 タリム盆地の北クチャやアールシイのトカラ語ABの他に、紀元前から紀元3世紀ごろまで砂漠の南側で栄えたクロライナ王国(中国語で楼蘭)の言語もトカラ語だったのではないかという説がある。紀元前77年に漢に押されて王国としては滅んだが、都市としてはそのあと何百年も存続した。すでに1937年にBurrowという人がその可能性に言及し、その後もこれをトカラ語Cとする学説が時々流れたが実証には至っていない。最近でも2018年にKlaus T. Schmidtがクロライナ語=トカラ語C説を唱えたが、他のトカラ語学者からコテンパンに論破されたそうだ。考古学的にもこの説には無理があるらしく、発掘品から見てクチャとアールシイは同じ文化圏に属していたが、クロライナからの発掘品はそれとは違う、つまりABとC(というものがあれば)では話者の民族が違うらしい。しかし一方完全にC説が否定されたわけではないので、今後の研究待ちということだ。

いわゆるトカラ語Cの存在はまだ実証はされていないので注意。
1920px-Tocharian_languages.svg

 トカラ語ほどは一般人のロマンを掻き立てないが、コータン語やソグド語を無視するわけにはいかない。
 ソグド語は古い形をよく保ち(言語自体が古いので当然か)、特に名詞の変化パラダイムはほとんど保持していた。紀元1~2世紀から文献が残っており(ソグド人の存在自体については紀元前6~4世紀にはすでに記録がある)、敦煌の西でも4世紀に書かれた手紙が残っている。敦煌はさすが漢が紀元前1世紀に建てた都市だけあって発掘された文書は中国語が多いが、中国の重要な関所となってから西域から人や物が集まってきていたので中国語の他、コータン語やクチイ語、ソグド語、サンスクリット、西夏語、チベット語、果てはヘブライ語の文書まで見つかったそうだ。特にソグド商人の隊商活動がさかんだったらしい。敦煌付近には5世紀前後から大規模なソグド人の植民地というか居住地があった。7世紀ごろもソグド人についての中国の記録がたくさん残っているが、非常に利にさとかったそうで上述の松田教授によると玄奘などもずっと西のスイアブのあたりでテュルクの支配を受けていたオアシス群には西方の国からやってきた商人が雑居し、住人は意気地なしで薄情で、詐欺と貪欲の塊であり、親子で銭勘定にあけくれていると書いているとのことだ。敦煌だけでなくそもそもタリム盆地全体に植民地を築いていたので、トルケスタンでも事実上の商業言語はソグド語だったらしい。トルファン周辺にも5世紀前後からソグド人が大勢住んでいたそうだ(下記)。
 そういえば則天武后の下で秘密警察を取り仕切り住民を恐怖に陥れた索元礼という拷問の専門家も「胡人」だった。唐の時代には胡人という言葉はペルシャ人を指していたはずだが、この「ペルシャ人」というのはつまり「イラン系の人」の意味、言い換えるとソグド人もその中に入っていたということはないのだろうか?索元礼もペルシャ人ではなくソグド人だったということは考えられないのだろうか。実際6世紀にアルタイ・テュルク系の阿史那氏に中国(西魏)の使者として使わされてのはブハラの商人だったそうだ。ブハラもソグディアナの都市である。
 ソグド語はソグド文字という独自の文字を持っていた(まれにブラーフミー文字で書かれた文献もある)が、これはアラム文字から造られたのだそうだ。そのソグド文字からさらにウイグル文字が作り出された。中央アジアの大言語だったのだが、11世紀ごろの文献を最後に交易言語としての地位を失っていった。ペルシャ語、アラビア語、テュルク語、中国語に押されてしまったのだ(下記)。上記のヤグノブ語はソグド語の子孫。
 ソグド語同様コータン語(上記)も古い形をよく残しているが、名詞格は6つであった。近くのトムシュクで発見された言語とコータン語をいっしょにしてサカ語と呼ばれることもある。スキタイ人の言語が関連付けられている。上記のワハン語はコータン語の生き残りである。

敦煌で発見されたソグド語の文書。https://sogdians.si.edu/sidebars/sogdian-language/から
N4-9-Ancient-Letter-2-BLI24_OR8212_95R1_ST_L-963x1600

 そうやって唐の時代までタリム盆地は印欧語の世界だった。ソグド語、コータン語、トカラ語などの文献は5世紀ごろまでは多くがカロシュティー文字で、以降はブラーフミー文字で書かれていたし、内容的にも仏教関係の文書が多い。拝火教も行われていたそうだから、要するにインド・イランの文化圏だったのである。
 唐以降この状況がひっくり返る。もともとは天山山脈の裏側のステップ地域にいたアルタイ・テュルク(中国語で突厥)が6世紀半ばに力を伸ばし、タリム盆地を支配しだしたからである。テュルク支配下でも最初は住民そのものはアーリア人であり、少なくとも唐の間はシルクロードは文化的にはイラニアン系だったが、徐々に住民レベルでもテュルク人が優勢になっていった。ただその時点でもテュルクはまだイスラム化してはいなかった。
 イスラムが入ってきたのは西から、イランからである。イラン化されたイスラム勢力のウマイヤ朝、後アッバース朝が西からタリム盆地に来て、そこでテュルク民族とぶつかったとき、イスラム側(=イラン人側)には強力なテュルクと全面的に武力衝突するか、テュルクを懐柔・改宗させて自分たちの仲間にしてしまうかの選択に迫られ、後者を選んだのだ。懐柔したはいいが、11世紀になってからイスラム化してさらに強力になったセルジューク・トルコ(後オスマン・トルコ)が本国のイランの支配権をもぎ取ってしまったのは皮肉なことであった。とにかくタリム盆地を支配したテュルクは最初からイスラム教ではなかった。こんにちの眼で見るとテュルク=イスラムとつい安直に結びつけてしまいがちだが、テュルク化とイスラム化とは分けて考えなければいけないということだろう。ついでに民族と人間そのものも必ずしもイコールではないところが面白い。テュルク民族は本来私たちと同じ顔をしたアジア人である。事実民族の発祥の地に近い中央アジアではテュルク語話者はアジア顔だ。カザフ人、ウイグル人、タタール人など日本人だと言われても通じる。自慢ではないが私も一度カザフ人と間違えられた事がある。ところが現在のトルコの人々は全然アジア顔をしていない。顔貌的にはイランのあたり、まさに中国人から「深目・高鼻」と言われそうな容貌だ。カザフ人と民族的にはごく近いのに、人間そのものは全く異なるのである。
 
 この中央アジアでの人間の入れ替わりのプロセスについてはステップの反対側でも記録に残っている。ロシアであるが、ここは歴史上少なくとも8回は東からやってきた異民族に国土を荒らされた。最初に来たのがスキタイ人で、ギリシャ人の記録に残っている。紀元前7世紀ごろのことだが、上にも書いたようにこのスキタイ人は印欧語系の遊牧民である。2番目に来たサルマティア人というのもおそらく印欧語を話す民族だったと思われる。次がフン族で、紀元5世紀ごろ。このフン族については所説あるが、とにかく言語が印欧語ではなかったことは確実らしく、また「フン族」と一括りにはしがたいほど諸民族混成軍隊だったと思われる。その次、6世紀にアヴァール人というのが来たが、これはテュルク系の言葉を話していたらしい。このアヴァール人は現在コーカサスにいるアヴァール人とは別の人たちとみられる。その後にハザール人(ユダヤ教に改宗したことで有名)、続いてペチェネーグ人、さらに続いてポロヴェツ人がやってきた。11世紀のことである。ロシア文学史上燦然と輝く叙事詩『イーゴリ軍記』はこのポロヴェツ人とロシア人との戦いを描いたものだ。最後にダメ押しで侵攻してきたのが13世紀のモンゴル人だが、支配層はモンゴル人でも実際に兵士として押しかけて来たのはテュルク人であったことは明らかで、それだからこそこれを「タタールのくびき」というのだ。現在ロシアに残っているタタール語、アゼルバイジャン語などは皆テュルク系。またモンゴル帝国の支配者ティムールは全然モンゴル人などではなく、サマルカンドの近く出身のテュルク人である。しかし肖像画から判断するとティムールはアジア顔であり、上でも述べたように現在のトルコ人とは違っている。
 とにかくロシア側から見ても中央アジアのステップの支配民族は最初アーリア人(印欧語属の話者)だったのが、比較的短い期間にテュルクと入れ替わっているのがわかる。

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前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので)。ついでに文章も一部直しました。ドイツ領では過去スラブ語、バルト語が広く話されていたということを知らない、あるいは認めたがらないドイツ人は多いです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 ローマ時代に消滅したエトルリア語(『123.死して皮を留め、名を残す』参照)のほかにもその存在と消滅が記録に残っている言語はもちろんたくさんある。北ヨーロッパでかつて話されていた古プロイセン語も有名だ。「プロイセン」あるいは「プロシア」という名称を後になってドイツ人が転用してしまったため(下記参照)、ゲルマン語の一種、果てはドイツ語の方言かと思っている人もいるようだがこの古プロイセン語はゲルマン語とは全く違うバルト語派の言語である。現在のリトアニア語やラトビア語の親戚だ。

 13世紀にドイツ騎士団がポーランドの公爵から許可されてバルト海沿岸に進出というかバルト海沿岸を侵略してというかとにかくそこに領土を形成していったとき当地で話されていた言語が古プロイセン語である。ポメサニアPomesanien、サンビア半島Samlandと呼ばれている地域だ。
 プロイセンという名前が最初に文献に出てくるのは9世紀で、バイエルンの地理学者がBruziというバルト海沿岸の民族について言及している。これらの人々はまたPruzziあるいはPrūsai(プロイセン人本人は自分たちをこう呼んでいた)とも呼ばれたがやがてPreußenというドイツ語名が定着し、さらに民族でなく地域を表すようになってドイツの一地方の名称として使われるようになったのだ。

 現在見つかっている最も古い古プロイセン語の文献は13世紀後半か14世紀初頭のもので、バルト語派全体でも最古のものである。リトアニア語もラトビア語も16世紀までしか遡れないからだ。
 その最古の文献の一つがエルビング(ポーランドではエルブロング)の語彙集Elbinger Vokabularとよばれるドイツ語-古プロイセン語の辞書で、古プロイセン語のポメサニア方言の単語が802収められている。単語がアルファベット順でなく「食事」「服装」などのテーマ別に配置されている、いわば旅行者用の言語案内書である。古プロイセン語ばかりでなくドイツ語の貴重な資料ともなっている。13世紀から14世紀にかけてドイツ騎士団領で話されていた当時のドイツ語が記されているからだ。現在のドイツ語ではもう失われてしまっている古い形が散見される。
 1545年にはルターが1529年に発表した小教理問答書の翻訳が二冊出た。その二冊目は一冊目の改訂版である。訳者はわかっていない。1561年にはこれもルターの大教理問答書が訳されたが、こちらは訳者がわかっている。Abel Willという牧師がプロイセン人のPaul Megottの助けを借りて訳したものだ。この3冊とも出版地はケーニヒスベルクであった。小教理問答はポメサニア方言、大教理問答ではサンビア半島方言で書かれている。両方言間には音韻対応も確認されている。例えばポメサニア方言の ō がサンビア半島のā に対応している:tōwis (ポ)対tāws(サ)(「父」)など。また大教理問答書はテキストが量的に多いというばかりでなく、古プロイセン語のアクセントやイントネーションなどが反映されていて貴重な手がかりになっている。
 この教理問答書の直前、1517年から1526年ごろにかけてSimon Grunauという僧が編纂した辞書は「グルナウの辞書」として知られている。これらのほかにも断片的なテキストや碑などがいろいろあるし、ドイツ語-古プロイセン語ばかりでなくポーランド語の辞書も存在するとのことだ。
 しかし語彙に関してはそういった貴重な資料が提供されている一方、シンタクス面では鵜呑みにできかねる点があるらしい。得に教理問答書がドイツ語の原本にあまりに忠実な訳をとったため、硬直したセンテンス構成となっていて語順などは実際の古プロイセン語からは乖離しているからだそうだ。いわゆる直訳体が通常使われている言葉とはとかけ離れている、というのは日本語でもその通りである。また所々誤訳も見つかっている。ドイツ語の名詞Reich 「帝国・領域」と形容詞reich「豊かな」を取り違えたりしている部分があるとのことだ。もっとも多少の誤訳は翻訳にはまあつきものだし、誤訳だと判明しているそのこと自体が古プロイセン語がきちんと解読されている証拠ではある。

 エトルリア語と違って古プロイセン語は一目見た瞬間からすでにバルト語の一つであることが明らかだった。語彙の面でも文法構造の点でもリトアニア語やラトビア語との相似が著しかったからだ。もちろん微妙に違っている部分もいろいろあるので、リトアニア語、ラトビア語は「東バルト語派」、古プロイセン語は「西バルト語派」と分けている。だから現在生き残っているのは東バルト語のみだ。

バルト語派の系統図。
Arkadiev, Peter (et.al) (ed.).2015. Contemporary Approaches to Baltic Linguistics. Berlin:De Gruyterから
Baltisch_bearbeitet

 不便なことに古プロイセン語は言語比較の際必ずと言っていいほど持ち出される基数が1、3、10、1000しかわかっていない。序数は10まできれいにわかっている。教理問答の「十戒」が10番目まであるからだ。その序数を東バルト語派の両言語と比べてみると下のようになる。
Tabelle-125
古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語との間には地域差ばかりでなく時代差があるので気をつけないといけないが、それでもこの三言語が非常に似ていることがわかる。さらに「第3」、「第6」、「第9」の語頭音を見れば古プロイセン語とリトアニア語・ラトビア語、つまり東西バルト語派の間に境界線を引けることがわかる:古プロイセン語ではそれぞれ、tir- (tîr-)、 Øus- (Øuš-,vuš-)、nev- がリトアニア語、ラトビア語ではそれぞれtrẽ- (tre-)、šẽš- (ses-)、dev- で、明瞭な差があるからだ。東バルト語派の「第六」、šẽštasとsestaisは古プロイセン語のustsとはそもそも語源が違い、単純に音韻対応での比較をすることはできないそうだ。šẽštas・sestaisは一目瞭然に他の印欧語と同じ。古プロイセン語だけ変な形になっている。この3つは古プロイセン語の中での方言差を示しているがその一つがwuschts となっていて、prothetisches V (『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのが面白い。実は基数の1は古プロイセン語ではains なのだが、これがリトアニア語ではvíenas、ラトビア語ではviênsでprothetisches V が現れる。V の等語線が東バルト語から西バルト語側にちょっとはみ出している感じなのか。さらに古プロイセン語のains は印欧祖語の*oinos 直系でゴート語のains やラテン語のūnusと同じだが、リトアニア語。ラトビア語のvíenas・ viêns は*eino- という形を通しており、古教会スラブ語のjedinъの -ino- と共通している。上の「第3」、「第6」、「第9」にしても東バルト語派はスラブ語と共通している。古プロイセン語だけがスラブ語と違うということで、バルト語派とスラブ語派はもともとはもっと離れていたのが、時代が下るにつれて近づいていったのではないかという説もある(下記参照)所以である。
 このほか古プロイセン語の「この」(the、 this)が stas なのに対してリトアニア語、ラトビア語は tàs 、tas というのも「東西の頭の差」の例だろうが、もう一つ、古プロイセン語の「雪」はsnaygis で、リトアニア語の sniẽgas、ラトビア語の sniegs とは複母音の方向が逆になっている。後者はロシア語と共通。またリトアニア語の「雪片」という言葉には古形の -ay-  が保持されていてsnaigẽ 。ついでにこの印欧祖語形は *snóygʷʰos である。
 音韻上ばかりでなく、東西バルト語派間には構造上の違いがいろいろある。その一つが古プロイセン語は文法カテゴリーとして中性名詞を保持していることだ。特にエルビングの語彙集ではそれが顕著である。対して東バルト語派には男性・女性の二性しかない(リトアニア語には僅かながら中性の残滓が残っている)。中性名詞は男性名詞に吸収されてしまった。もっとも古プロイセン語でも子音語幹の中性名詞は男性化傾向が見られ、例えば小教理問答では「名前」をemmens といって本来 n-語幹であったのに男性名詞的な語尾 –s が付加されている。 対応するロシア語 имя もラテン語 nōmen も中性。u-語幹の中性名詞は比較的明瞭に「中性性」が保たれ、「蜂蜜」は meddo(-o で終わっていても u-語幹)、「蜂蜜酒」は alu。リトアニア語・ラトビア語ではこれらはそれぞれ medús・medus、alùs・alusというどれも男性名詞である。ただし「蜂蜜酒」のほうは現在では「ビール」の意味になっている。
 さらに外来語が中性名詞として借用された例もある。mestan 「都市」がそれで、リトアニア語ではmiẽstas で男性名詞。ポーランド語miastoからの借用である。『5.類似言語の恐怖』でも述べたようにこれは本来「場所」という意味で、スラブ祖語の*mě̀sto、ロシア語のместо と同源だ。ラトビア語の「都市」はpilsēta で別単語になっているが、これは女性名詞。

 さて、頻繁に議論の対象になるのがバルト語派とスラブ語派の関係である。この二つの語派は地理的にも近いし似ている点も多いので、もともとは一つの語派だったのではないかとする人も多く、以前は「バルト・スラブ語派」といった。今でも時々この名称を聞く。しかし研究が進むにつれてバルト語派とスラブ語派には言語構造、特に動詞の形態素構造に本質的な違いがあることがわかってきて今ではバルト語派とスラブ語派は分けて考えることが多い。
 もっともこの、バルト語派とスラブ語派は一つの語派から別れたものだという考え方にはすでにアントワーヌ・メイエが疑問を提示している。両語派は元から別語派で、平行して発展してきたというのがメイエの主張であった。そこからさらに発展して、バルト語派とスラブ語派間の共通性は「言語連合」(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』参照)によるものだと唱える人たちも現れたが、バルト語派・スラブ語派間の類似性は、古典的な言語連合、例えばバルカン半島の諸言語の場合とは質的な違いがあり、一般に受け入れられるには到っていない。
 
 その動詞の変化パラダイムを比較していくと、スラブ語派は東部の印欧諸語と共通性があり、バルト語派はゲルマン語派、ケルト語はやイタリック語派とともに西ヨーロッパの印欧語に所属させたほうがいいと思わせるそうだ。ただし印欧諸語を単純に西と東に分けること自体に問題があるから、バルト・スラブ間に東西印欧諸語の境界線が走っていると主張することはできない。
 そのバルト語・スラブ語間の形態素の違いについていろいろと指摘できる点はあるそうだが、ガチの印欧比較言語学理論は残念ながら私には理解できないから(どうもすみません)、個人的に面白いと思った点を勝手に列挙させていただくことにする。
 まず、バルト語派の動詞には3人称に単数・複数の区別がない。この点でゲルマン語派ともスラブ語派とも大きく違っている。ゲルマン語でもスラブ語でも助動詞で例えば一人称単数と3人称単数が同形になったり(ドイツ語のich magとer mag < mögen 「~が好きだ」)、一人称単数と3人称複数が同形になったり(クロアチア語の ja mogu とoni mogu < moći「~ができる」。クロアチア語で一人称単数と3人称複数が同じになるのはこの助動詞だけ)することは稀にあるが、3人称の単複同形というのは特殊である。
 また未来系を助動詞の付加でなく(analytic future)動詞の語形変化そのものによって作る(synthetic future)。s-未来と呼ばれ、古プロイセン語のpostāsei(「~になるだろう」2人称単数)がそれ。対応するリトアニア語はpastōsi。さらにリトアニア語の「坐っている」sėdėti の未来形は sedesiu (一人称単数)、 sedesi (二人称単数)、 sedes (三人称単・複)、sedesime(一人称複数)、 sedesite (二人称複数)となる。ラトビア語の「話す」runāt はrunāšu (一人称単数)、 runāsi(二人称単数)、  runās (三人称単・複)、runāsim (一人称複数)、  runāsit/runāsiet (二人称複数)。スラブ語派は助動詞で作る未来形 analytic future しかない。ドイツ語英語も印欧語本来のsynthetic future を失ってしまった。ただし古プロイセン語の小教理問答には動詞の能動態過去分詞にwīrst あるいは wīrstai を付加して作るanalytic future が見られる。もちろんドイツ語の影響である。
 上述のラトビア語の「話す」もそうだが、ちょっとバラバラと動詞を見ていくと語そのものがスラブ語と全く違っているものが目立つ。スラブ諸語は『38.トム・プライスの死』でも書いたように基本の語彙が似ているというより「共通」なので新聞の見出しなど類推で意味がわかってしまうことが多いが、バルト語派相手だとこの手が全然効かない。リトアニア語の「話す」はkalbėtiで、さらに別単語となっているがスラブ語とはやはり遠い。「話す」のほか、たとえばリトアニア語の「書く」はrašyti、「聞く」がgirdė́ti。pjautiは「飲む」か「歌う」かと思うとそうではなくて「切る・刈る」。
 もちろんバルト・スラブ語派というものが取りざたされるほどだから確かに似た形の単語もある。上の「坐っている」がそう。ロシア語の сидеть とそっくりだ。他にも「与える」の古プロイセン語一人称単数が dam 、古リトアニア語が dúomi、現リトアニア語 dúodu (不定形 duoti)、ラトビア語 dodu(不定形dot)古教会スラブ語 damь(不定形 дати)、ロシア語 дам (不定形дать)。リトアニア語を見るとバルト語派内で –m から –du の転換があったようだが、とにかく似ている。しかし一方この語はバルト語派とスラブ語派だけが似ているのではなくて他の印欧語もいっしょなのである。古典ギリシャ語がdidōmi、サンスクリットでdadāmi、ラテン語のdō もこれ。まさにみんなで渡れば怖くないだ。
 また「住む、生きる」の古プロシア語三人称複数形は giwammai でリトアニア語でのgyvẽname あるいはgyvẽnam と同源。ロシア語の живём と子音が違うようだが、これがラトビア語になると dzīvojam でロシア語やクロアチア語の živimo と立派につながっている。印欧祖語では*gʷeyh₃-だそうだ。つまり「与える」も「生きる」もバルト語派とスラブ語派が近いから似ているというより両方とも印欧語だから似ているだけの話なのである。

 全体としてバルト諸語とスラブ諸語は確かにいっしょにされるのも一理あるはあるのだが、かといってでは問答無用で一括りにできるかというとそうでもない、いわばつかず離れず状態と言えよう。せっかくそうやってゲルマン諸語にもスラブ諸語にもベッタリになることなく上手く立ち回ってきた古プロイセン語だが、ドイツ語に押されて18世紀初頭にはすでに死滅してしまっていたと思われる。残念なことである。

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前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので)。ついでに文章も一部直しました。

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 人を魅了してやまないヨーロッパの言語といえばやはりバスク語(『103.新しい家』参照)とエトルリア語ではないだろうか。有史以前の古い時代からヨーロッパで話されていながらズブズブに印欧語化された周囲から完全に浮いている異質の言語。バスク語はヨーロッパ文明圏の周辺部で話されていた上その地も山がちで外部との交流があまりなかったせいかよく保持されて今でも話者がいるが、エトルリア語は文明が早く開花したイタリア半島のど真ん中、しかも交通の便のいい平原に位置していたので紀元一世紀ごろにはラテン語に吸収されて滅んでしまった。しかし一方生き残ったバスク語・バスク人のほうからはヨーロッパに与えた部分が小さいのに対し、死んでしまったエトルリア語・エトルリア人がヨーロッパ文化に与えた影響は大きい。「大きい」というよりヨーロッパ文化の基礎となった部分の相当部をエトルリア人が負っている。ローマがエトルリア文化を吸収しているため、エトルリア文化はある意味ではローマを通じて今日のヨーロッパ文化の基礎にもなっているといえるからだ。さらにローマがギリシャ文化を取り入れた際、文字などその相当部は直接ギリシャ人からではなくエトルリア人を通したからだ(下記参照)。ずっと時代が下ってから考案されたゲルマン民族のルーン文字にもエトルリア文字の影響が見られる。

 中央イタリア、現在トスカーナと呼ばれる地域には多くの碑を残すエトルリア語を話す人々の存在は既に古代ギリシャ人の注意を引いていた。ギリシャ人は彼らをティレニア人とも呼んだ。鉄器時代、紀元前1200年ごろから彼らはそこに住んでいたらしい。時代が下ったローマの文書にもエトルリア人に関する記述がある。どの記述を見ても彼らが洗練された高度な文化をもっていたことがわかる。ギリシャ人のように非常に早くから、紀元前8世紀頃にはすでに高度に発展した都市国家をいくつもイタリアの地に築いていた。一説によるとラテン語などの「エトルリア」という呼び名は turs- という語幹に遡れ、ギリシア語の tyrsis、ラテン語のtrurrisと同じ、つまり「塔」から来ているという。高度な文化を築いていた当時のエトルリア人の家々が(掘っ立て)小屋住まいのローマ人から見ると塔に見えたので「塔を立てる人々」の意味でTursciまたはTyrsenoiと呼ばれたのでは、ということだ。面白い説だが証拠はない。

エトルリア人はローマが勃興する以前にイタリアに多くの都市国家を築いていた。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 2 から

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 エトルリア語で書かれた文書は紀元前7世紀から紀元前一世紀にわたっているが、言語そのものはもちろん文字で表される前から当地で話されていただろうし、文字化も最古の碑が作られた時代より以前から始まっていたにちがいない。起源前7世紀か8世紀ごろにはすでに言語が文字化されていた、ということはラテン語の文字化、つまりローマ字の発生に先んずる。事実ローマ人がアルファベットを取り入れたのは直接ギリシャ人からではなくてギリシャ文字をいち早く改良して使っていたエトルリア人(つまりエトルリア文字)を通してだ。そのギリシャ文字ももともとはフェニキア文字を改良したもので、もちろん最初のころは表記が結構バラバラだった。エトルリア人が採用したのは「西ギリシャ文字」だが、それもギリシャ文字の非常に早い時期を反映しているそうだ。またギリシャ語の名前もエトルリア語を経由してからラテン語にはいったと思われる例が多い。たとえばギリシャの冥界の女神Περσεφόνη(ペルセポネー)がローマ神話ではプロセルピナProserpinaになっているのはそのエトルリア語バージョンPhersipnaiまたはPhersipneiを経由したからと思われる。ギリシャ語のφは紀元後何世紀かまではph、つまり帯気音の p だったから f で表されていないのである。ラテン語にはおそらくギリシア語から直輸入されたPersephoneという形もあるが、これはProserpinaより後のものではないだろうか。
 およそ13000もの文書や碑が出土しているが、有名なものをあげるとまずVetulonia 近くのMarsiliana d’Albegnaで見つかった碑というか象牙の文字盤。紀元前675年から650年ごろのもので、エトルリア・アルファベットの原型26文字が最も完全な形で保持されている。この原始エトルリア文字26のうち、文字化が進むにつれて使われなくなったものもあり、結局この中の22文字が残った一方、f を表す文字が新たに発明された。

エトルリア文字は少しバリエーションに幅がある。
Pfiffig, Ambros J.. 1969. “Die Etruskische Sprache”. Graz: p.19-20 から
Etrusk1#

Etrusk2#

 さらにPyrgiで1964年に金に刻まれた文書が3枚みつかったが、これはフェニキア語とエトルリア語のバイリンガル文書で、同じ出来事が両言語で記述してある。紀元前500年くらいのころのものと思われるのでまあポエニ戦争のずっと前だ。

エトルリア文字が刻まれた金版
ウィキペディアから
EtruscanLanguage2

あまりの金ピカぶりに目がくらんで読めないという人のために図版も用意されている。
Bonfante, Giuliano, 2002, „The Etruscan Language“. Manchester. p. 64 から
Etrusk4#

 しかしなんと言ってもスリルがあるのは現在クロアチアのザグレブに保管されているLiber linteus Zagrebiensisという布切れだろう。18世紀の中ごろにクロアチア人の旅行者がエジプトでミイラを手に入れたが、そのミイラを包んでいた包帯にエトルリア語が書いてあったのである。その亡くなったエジプト人(女性)の親族には新品の布を買うお金がなく、エトルリア人が捨てていった反古布を拾って使ったのだといわれている。なぜそんなところにエトルリア人がいたのかとも思うがローマ(含エトルリア)はアフリカ・エジプトと関係が密だったことを考えるとこれはそんなに不思議でもない。それよりその遺族が故人をミイラにするお金はあったのになぜ布代なんかをケチったとのかという方が私個人としてはよほど不思議だ。そんなに貧乏ならそもそもミイラ代も出せなかったのではないだろうか。とにかく謎だらけのこの布はおそらく紀元前150年から100年くらいの「作」。発見者の死後、1862にその布はザグレブに移されて今もそこの博物館にある。もちろん布ばかりでなくミイラそのものも安置されている。このテキストは今まで見つかったエトルリア語の中で最も長いそうだが、ミイラ本体より包帯の方に学問界の注目が行ってしまったというのも皮肉といえば皮肉である。

重要視されているのは中身のミイラよりその包帯のほう
ウィキペディアから
Lanena_knjiga_(Liber_linteus_Zagrebiensis)

 エトルリア語で書かれた文書だけでなく、ローマの歴史書などにもエトルリアについての記述がある。ローマの力がイタリア全土におよんだのはだいたい紀元前3世紀ごろだが、支配下に入った都市はその後も結構長い間自治都市であった。エトルリア人の都市国家も紀元前1世紀頃までは事実上独立した都市国家であったらしい。上でも述べたようにエトルリアはローマに先んじて洗練された文化を展開していたため、その影響はローマの貴族層、ハイソサエティ層に顕著だったようだ。例えばSpurinnaという、名前からみて明らかにエトルリア人と見られる占い師がカエサルに3月15日にヤバいことがおこるぞと警告していたそうだ。さらにあの、ネロの母親アグリッピナと4回目の結婚をしたばかりに最終的な人生のババを引いてしまったクラウディウス帝は歴史家リヴィウスといっしょにエトルリアの歴史を勉強して自分でも12巻の本を著したと言われている。またエトルリアの知的財産が忘れられることがないよう気を配ったとも。帝の最初の妻Plautina Urgulaniaはエトルリア人で、帝にその伝統・習慣などを伝授したものと思われる。
 しかしエトルリア語という言語そのものは当時すでに話されなくなってしまっていたとみられる。紀元前2世紀から言語転換が始まり、最後のエトルリア語文書が書かれたアウグストゥス(紀元前64~紀元14年)時代には話者はほとんどいなくなっていたそうだから、クラウディウスの時はその「ほとんど」さえ消失して事実上ゼロだったろう。ウルグラニアもエトルリア人の血をひいていはいてもエトルリア語は話せなかったのではなかろうか。ただ僅かに宗教儀式などに残った単語などは伝わっていたから言語についての片鱗は知っていた。だからこそリヴィウスもクラウディウスも失われていく文化への郷愁でエトルリア史を書き残そうとしたのかもしれない。

 またエトルリア語の文書は紀元前7世紀から紀元直前直後までの長いスパンにわたっているのでその間のエトルリア語の音韻変化を追うことさえ出来る。方言差があったこともわかっている。Fiora とPagliaという(小さな)川を境に南エトルリア語と北エトルリア語に分けられるそうだ。ラテン語への吸収は南エトルリア語が早く、北ではやや遅くまで言語が保持された。エトルリア人が自分たちをRasennaと呼んでいたことも伝わっている。また通時的にも初期エトルリア語と新エトルリア語を区別でき、前者はだいたい紀元前7世紀から6世紀にかけて、後者は紀元前5世紀から一世紀にかけての時期であった。分ける基準になっているのは母音変化で、初期の母音が次第に弱まって新エトルリア語では消失していたらしく、紀元前5世紀以降の碑では母音が記されなくなっている。上で述べた自称も最初Rasenna だったものが時代が下るとRasnaになった。消失するほかにもa が u と弱まっている例が見られる。
 文書の量の点でも、当時イタリア半島で話されていたラテン語以外のロマンス語、ウンブリア語、オスク語、ヴェネト語などとくらべるとエトルリア語の文書は格段に数が多い。上でも述べたように万の単位に達しているのだ。それに比べて例えばウンブリア語のはせいぜい数百に過ぎない。いかにエトルリア人が文明化されていたかわかるだろう。

 さてそのようにギリシャ人やローマ人によって注目され書きとめられ、文書も残っているならエトルリア語の解読など楽勝だろうと思うとこれが大きな間違い。古今から一流の言語学者がよってたかって研究しているのにいまだにこの言語は完全には解読されていない。言語の所属さえわかっていない。16世紀にPier Francesco Giambulariという学者がヘブライ語との親族関係を問うたのを皮切りに現在まで、ある時はフィン・ウゴール語、あるときはテュルク・タタール語と、ある時はコーカサスの言葉と結び付けられ、その間にもこれは実は印欧語であるという説がひっきりなしに浮上しては否定されるというルーチンができあがった。イタリック諸語、アルメニア語、ヒッタイト語などとの親族関係が取りざたされたのである。面白いことにヒッタイト語を解読したフロズニーHrozný(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)が1929年にEtruskisch und die „hethitischen“ Sprachen.「エトルリア語とヒッタイト語」という論文を書いて、エトルリア語の属格 –l (-al) とヒッタイト語の属格形態素 -l 、–il、 –alとを比べている。ただしフロズニーはこの共通性を以ってエトルリア語印欧語説は唱えていない。むしろはっきりとエトルリア語とヒッタイト語との相違、共通点の少なさを強調している。そう思っているのならなぜ共通っぽい部分をあげたのかと思うが、ヒッタイト語の第一人者としての手前何か結び付けなければ論文にならなかったからかもしれない。20世紀初頭まではそうやっていろいろ結論を急いだ感があったが、やがて所属関係はひとまず棚上げにしてとにかく地道にエトルリア人・エトルリア語を観察研究していこうということになった。目下は「孤立した言語で(おそらく)非印欧語」とされているが、ここに来るまでにいろいろな人が言いたい放題の説を唱えては消えていった様子を見ていると日本語の状況を彷彿とさせる。しかしこうなってしまったのには理由があるのだ。
 まず文書や碑が名前の羅列や宗教儀式の呪文ばかりで、同じフレーズの繰り返しが多く、13000もの文書がありながら出てくる単語は255くらいに過ぎない。だから基本単語なのにわからないものがある。例えば「妻」はわかっているが「夫」という言葉がみつかっていない。Brotherはわかるがsisterがわからない。またラテン語やフェニキア語とのバイリンガル文書にしても翻訳があまりにも意訳過ぎて、語レベルでの言語対応がつかみ切れないので解読できない単語も少なくない。つまり素材が少なすぎるのである。
 第二にあまりにも異質すぎて周りの言語とくらべようがない。林檎と梨なら比べようがあるが、バナナとブドウを出されて共通点をあげろといわれたら途方に暮れるだろう。基本単語をラテン語やギリシャ語などとちょっと比べてみただけでまさにバナナとブドウ状態なのがわかる。
Tabelle1-122
数詞は次のようになっている。
Tabelle2-122
もちろん印欧語内でだって細かい相違はあるが全体としてみると素人目にも共通性がわかるし、形が全く違っている場合はその原因がはっきりしていることが多い(例えばラテン語の「娘」は明らかに「息子」から派生されたから他の言語の「娘」と形が違うのである)。さらに今日の英語、ドイツ語、ロシア語などと比べてみてもよく似た言葉が容易にみつかる(サンスクリットのbrātāなど)。それに比べてエトルリア語のほうは取っ掛かりというものが全然感じられない。わずかに「7」と「9」を見て一瞬おっと思うが、そういうのに限って「?」マークがついている。
 単語だけではない。音韻組織の面でもエトルリア語は周りの言語からかけ離れている。まず母音は4つで、o がない。だからギリシャ語やラテン語から語を借用する際のo を u で転写している。ラテン語と同じイタリック語派のウンブリア語は文字をエトルリアから取り入れたため、o という字がないそうだ。音そのものはもちろんあったわけだから相当不便だったのではないだろうか。
 次に有声閉鎖音がない。g、d、b がないのである。初期にはこれらの文字そのものはあって、ギリシャ語やラテン語からの借用語に使われていたが、音がないのだからやがてこれらの文字は使われなくなった。さらに f という音がある。f の音なんて別にかけ離れていないじゃないかと思うとさにあらず。印欧語には本来この音がなかったのである。現在の印欧語にはこの音があるがこれは時代が下ってから二次的に生じてきたもの。古典ギリシャ語、サンスクリットなど古い時期の印欧語はこれを欠いている(古典ギリシャ語のφは現代ギリシャ語のような f ではなく帯気音の p だった)。当時のケルト語にもない。ラテン語にもローマ以前には存在せず、この音が生じたのはエトルリア語と接触したためと思われる。その意味で紀元前7~8世紀からすでに f を持っていたエトルリア語は周辺の言語と非常にかけ離れていたのだ。

 その別世界言語からラテン語に借用されそこからさらに現在の印欧語に受けつがれて現在まで使われている単語がある。例えばラテン語のpersona(「仮面」)、英語の personはエトルリア語のphersu から借用されたものといわれている。なるほどエトルリア語のほうには o がない。また「書くこと・書いたもの」というラテン語litterae、もちろん現在のletter、literature だが、これもギリシア語のdiphthera が一旦エトルリア語を経由してラテン語に入ったと思われる。元々の意味は「羊や山羊の皮」だった。その上に字が書かれたから意味が変遷して文学だろ字だろそのものを表すようになったのである。

 エトルリア人・エトルリア語は自身は死滅してしまったが、文化面でも言語の面でも後のヨーロッパに大きな遺産を残していった。まさに「虎は死して皮を留め、人は死して名を残す」である。

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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるそうなので(実は私自身は今時スマホがないので自分のブログをスマホでは見たことがないんですが)、図表を画像に変更していっています。本文も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 筒井康隆氏が30代半ばのときに一度読もうとしたが「かったるくて読めたもんではなかった」ため中断し、中年過ぎてから再び挑戦してやっと読破したら大変面白かったというトーマス・マンの『魔の山』に、ちょっと気になる登場人物がいる。「登場人物」といっていいのかどうか、主人公のハンス・カストルプが学校時代を回想して思い出す少年である。主人公はクラスの違うこの少年に非常に惹かれ、知り合いになりたいと長い間思っていて、ある日勇気を持って校庭で話しかけ、結構丁寧に対応してもらって痺れるように嬉しい思いをする、そんな出来事をずっと後になって思い出すのである。
 『6.他人の血』でも書いたように私は文学音痴なのでこの登場人物がストーリー上どのような役割を果たしているのか、何を暗示しているのかなどということはどうでもいいのだが(ごめんなさい)、この少年の描写で次の部分は素通りできなかった。

Der Knabe, mit dem Hans Castorp sprach, hieß Hippe, Vornamen Pribislav. Als Merkwürdigkeit kam hinzu, daß das r dieses Vornamens wie sch auszusprechen war: es hieß „Pschibislav“; ... Hippe, ... stammte aus Mecklenburg und war für seine Person offenbar das Produkt einer alten Rassenmischung, einer Versetzung germanischen Blutes mit wendischen-slawischen – oder auch umgekehrt.   

ハンス・カストルプが話をした少年はヒッペと言った。名前はプリビスラフだ。その上奇妙なことにこの名前は「ル」を「シ」のように発音した:プシビスラフと言ったのである。…ヒッペは…メクレンブルクの出で、その風貌からすると、ゲルマンの血にヴェンド・スラブの血が混じったか、あるいはその逆か、とにかく古い人種混交の産物であることは明らかだった。
(翻訳:人食いアヒルの子)

 ここで「あれ?」と思う人は多いだろう。私も思った。Wendisch、ヴェンド人あるいはヴェンド語というのはソルブ語・ソルブ人の別名である。こちらの言語事典にさえ、「Wendisch:ソルブ語と同義。現在では廃れた名称」と書いてある。さらに私がいつか聞いた話では上下ソルブ語でも特に下ソルブに対してこの名称が使われやすいそうで、先日たまたま見たTV番組では下ソルブ人のなかにはソルブ人とかソルブ語という名称を好まずWendischという名称のほうを使ってもらいたがっている人もいる、とのことだった。上ソルブといっしょにするな、ということなのだろうが、上にしろ下にしろとにかくこのWendischというのはソルブ人のことだ。ソルブ人の住んでいる地域はどこか思い出してほしい。ザクセン州ではないか。北ドイツのメクレンブルクにはソルブ人などいないはずである。
 さらに見れば『魔の山』の日本語訳にはここでヴェンド人あるいはヴェンデンという言葉について注がついている。しかしこれが「北ドイツのラウジッツ地方に住むスラブ人」と説明してある。確かにラウジッツにはソルブ人が居住していてソルブ語が公用語的ステータスを与えられているが(『37.ソルブ語のV』の項参照)ここはザクセン州で北ドイツなどではない。
 おかしいと思って調べてみるとWendenあるいはWendischという名称は元々はソルブ人ばかりでなく、以前はドイツの非常に広い範囲に住んでいた西スラブ語を話す人々全体を意味していたらしい。中世には北ドイツ全体ばかりでなく、結構南の地域もスラブ語地域だったとのこと。北ドイツや東ドイツには今でも「ベルリン」だの「ケムニッツ」だの「ロストク」だの明らかにスラブ語形とわかる地名が多いし、そもそもトーマス・マンの出身地リューベックからしてスラブ語起源、ロシア語のлюбовь(リューボフィ、「愛」)と同源だ。

 そういうわけでメクレンブルクや下ザクセンなども昔は西スラブ語が話されていたが、これらの人々は皆ヴェンド人と呼ばれていた。12世紀にメクレンブルクを支配していた人ももちろんスラブ人で名前がまさに Pribislav 公といったのである。北ドイツには他にも Pribislav という歴史上の人物が何人かいる。
 ポラーブ語など、彼らの話していた言語はその後ドイツ語に押されて消滅してしまった。ソルブ語だけが生き残った。だからこの文脈でヴェンド人を「ラウジッツに住むスラブ人」と説明するのは明らかに間違い。黙っていればいいものをわざわざ間違った注がついていることになる。
 ではここでラウジッツのソルブ語を持ち出すのが完全にトンチンカンかというと決してそうではない。上でも書いたようにポラーブ語始め滅んでしまったドイツの西スラブ語はソルブ語と非常に近いからだ。その点で Pribislavを「プシービスラフと発音した」というマンの記述は非常に重みがある。西スラブ語では口蓋化された r がそういう変な音(?)になる例がママあるからだ。
 有名なのがチェコ語の ř で、ロシア語なら簡単に r を口蓋化して「リ」といえばいいが、チェコ語だとここで舌先震え音の [r] と調音点が口蓋に近い摩擦音の [ʒ] (つまり「ジュ」)を同時に発音する。そんな音が発音できるわけないだろうと思い、実際の音を聞いてみたが私には [] という破擦音にしか聞こえなかった。[ʒ] は有声音で、この無声バージョンが [ʃ] だが、ドイツ人はこれらの区別が下手で、どちらもschと書き表してしまうのが普通だ。だから本当に「r が sch に聞こえる」のである。
 上ソルブ語ではチェコ語と同じく ř という文字を使うが、これがチェコ語のような信じられない音ではなくて素直に [ʃ]、つまりズバリ sch である。上ソルブ語では p、t、k の後に r が続くと sch になる、という説明を見かけた。p、k の後は必ず sch だが、t の後の r はschでなく s になることもあるそうだ。
 さらに下ソルブ語には上ソルブ語で r が o、a、u、つまり後舌母音の前で š(sch)になるとあった。
Tabelle-71
上ソルブ語の単語は皆 tr、kr、pr が続いているのに ř になっていないじゃないかと一瞬戸惑ったのだが、チェコ語のようにこのřは「口蓋化された r」が変化したものなのだろう。だから ř が現れるのは i と e の前だけなのに違いない。つまり ř は r が子音 p、t、k と母音 i、e に挟まれると現れるのではないかと予想し、ř のついている語の例をさらに探してみると案の定 předměst (「郊外」)だのkřesto(「十字架」)だの přihódny(「ふさわしい、適切な」)だの přisprawny (これも「適切な」)だの、後ろに i か e が来ているものばかりである。上の bratr や sotra にしてもこれに縮小辞がつくとそれぞれ bratřik、sotřičkaとなって i が後続すると r が ř に変化しているのがわかる。例外もあって、英語の away、gone にあたる副詞は preč で r だし、e ならぬ ě の前では r が現れるらしい。それで「あちら側に」とか「向こう側に」は prěki、「横切って」が naprěki。その一方でこの prěki が動詞の前綴りとして使われるときは překi となり、překipjeć で「向こう側に流れる」、つまり「あふれる・こぼれる」。さらに「三時」をtřochといって後続するのが i でも e でもないのに ř になっていたりするが、まあ p、t、k と i 、 e との間に挟まれると r が ř になるという原則は崩れまい。
 ただ、チェコ語では r の口蓋化バージョンは ř だけだが、上ソルブ語は r の口蓋化バージョンとしてもともとの音 rj  も保持されているのがわかる。つまりいわゆる軟音の r が二つに分かれているわけだ。下ソルブ語では口蓋音でもないのに r が š になっていてなんじゃらほいとは思うが、『39.専門家に脱帽』の項でも書いたようにポーランド語やカシューブ語ではソナントの n が無声化してやっぱり š になっていたりするから、まあ西スラブ語ならそれくらいはやりかねないだろうということで納得できるのではないだろうか。
 そういえばポーランド語でもチェコ語と同じく軟音の r は変な音一辺倒だが、rz と2文字で表す。二文字で表してあっても音素としては一つだ。発音は [ʃ] である。
 いずれにせよ、Pribislavという名前の中の r は西スラブ語では sch としか読みようがないのである。
 
 この調子できっとポラーブ語の r も sch と発音したと思われるが、問題はどうしてトーマス・マンがそんなことを知っていたのか、ということである。ポラーブ語は18世紀の末にはもう滅んでいたから1875年生まれのトーマス・マンがこの言語を直接見聞きしていたはずはない。しかしこの言語の記録はドイツ人がよく保存していたから、マンはリューベックかどこかの大学か図書館でポラーブ語などの資料に触れていたか、メクレンブルクでは言葉は滅んでも地名人名に西スラブ語の発音が残っていたか、あるいはマンは現代のソルブ語かせめてポーランド語をよく知っていてそこからポラーブ語の発音を類推したかである。私はマンの作品はそれこそかったるくてきちんと読んだものがロクにないが、ひょっとして氏自身が自伝か何かでそこら辺のことに触れているかもしれない。それともこんなことはドイツ文学研究者の間ではとうに知れ渡っていることなのか?

 ところで上の箇所にはもう一つ「は?」と思った部分がある。太字にしておいたが、für seine Personという言い回しである。文脈から押してこの für は bezüglich (~に関して)と同じような意味のはずだ。私は「その風貌からすると」と訳しておいたが、実は前置詞 für (英語の for)がこんな使われ方をしているのを見たことがなかったのでネイティブに聞いてしまった。ところが聞かれたネイティブも「へ?」と言い出し、「こんな使い方見たことがない」と私と同じ事をつぶやきながら、辞書を持ち出してきて調べ始めた。Dudenには説明が見当たらず、とうとうヘルマン・パウルのドイツ語辞典まで参照したがドンピシャリなのが見つからない。
 「どんな」をドイツ語で was für ein(e)といい、そこでは前置詞が導く名詞がいわば「判断の枠組み」を示すから、この用法の一種とみていいのかなとは思うが、それならば名詞のほうには不定冠詞がつくはずであるのに、ここでは seine Person(「彼の風貌」)と定形になっているのが引っかかりまくる。さらにこの「彼の」が実はハンス・カストルプのことで「カストルプにとってはヒッペがヴェンド人の血を引いていることが明らかだった」という意味ならば素直に für ihn(「彼にとっては」)と書くはずでPerson(「人物・人となり・風貌」)などという言葉はいらない、と一人でブツブツ言っていたそのネイティブはついにもう一人のネイティブに本を見せて訊ねた。するとその二人目のネイティブは「こういう für は見たことがある」と自慢し出したのである。つまりこの für は「見たことがある」とネイティブがいばれるくらい稀な用法なのだ。
 結局「これは bezüglich だ」と結論するしかなかったが、それにしてもネイティブが二人して前置詞一つにあたふたしている姿は壮観でさえあった。トーマス・マンも罪なことをするものだが、それほど難しい部分が出版されている日本語訳ではいったいどうなっているのか気になって改めて見直してみたところ、なんとその für seine Person のフレーズはすっ飛ばされていた。ただ、

彼はメクレンブルクの生れで、明らかに古い時代の混血、つまりゲルマンの血にヴェンデン・スラブの(ここで上述の注が入っている)血が混ったか-またはその逆の混血の子孫にちがいなかった。

と訳されていたのである。力が抜けた。


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 世界中でどんどん使用地域を広げ他の言語を駆逐していっている印欧語だが、話されている地域が過去に大幅に後退したところがある。中央アジアの天山山脈と崑崙山脈に挟まれたタリム盆地だ。
 現在はこのあたり、トルクメニスタン、ウズベキスタン、キルギス、カザフスタンの南部、中国領の新疆ウイグル自治区は言語が皆テュルク諸語、トルコ語の親戚だ。ロシア国内のタタール語もアゼルバイジャン語もこれである。しかし昔はここら辺はペルシャ帝国やその同盟国の領内で、言語も東イラニアン語派、つまりモロ印欧語だった。「モロ」というのはこのペルシャから中東にかけての言語が現在印欧語の代表者面をしているドイツ語やスペイン語よりむしろ本来の印欧語だからである。いわゆる西域、東トルケスタン(中国領新疆ウイグル自治区)をも含むタリム盆地・タクラマカン砂漠周辺も言語的文化的にはやはり印欧語・アーリア人の生活圏だった。当時の中国の記録では西域の住民のことを「深目・高鼻」と描写してあるそうだ。現在の住人のようなアジア顔とは明確に違っていたのだ。
 つまり中央アジアでは極めて大規模な言語転換、住民の入れ替えが起こっているのである。歴史学者の松田壽男氏はこれを「木に竹を継いだような歴史」と言っているが、転換前、かつて印欧語・アーリア人地域であった名残りは小規模ながら今もそこここに残っていて、中央アジアのタジク語、コーカサスのオセチア語は東イラニアン語派の印欧語だ。オセチア語についてはスキタイ語の末裔だという説を見かけたが、このスキタイ語も結局印欧語。他にタジキスタンで使われているヤグノブ語、新疆ウイグル自治区他で話されているワハン語などの小言語も東イラニアン。テュルク語に駆逐された印欧語が全滅を逃れてわずかに生き残ったのだ。

タクラマカン砂漠という大砂漠があるタリム盆地。ウィキペディアから。
taklamakan

 先史時代のことはひとまず置いておくが、今の東西トルケスタンは遅くとも紀元前550年のアケメネス朝ペルシャの頃は印欧語の地域になっていた。『160.火の三つの形』でも述べたように拝火教のアーリア人だ。その頃サマルカンドやブハラを中心にソグディアナという国(中国語で粟特)があって、のちにペルシャの直轄領になったが、この言語ソグド語ももちろんイラニアン語派の印欧語である。
 その後紀元前334年に例のアレクサンドロス大王が攻め込んで来てアケメネス朝は滅亡、さらにバクトリア地方がギリシャ化し、イラン・ペルシャとインドの間に言語的にクサビが打ち込まれることになった。そのバクトリアの地に紀元前250年ごろギリシャ人が独立王国を建てていたそうだ。高校の世界史で習った、漢の武帝の命令で張騫が派遣された大月氏国というのはこのバクトリアにあったらしい。ただしギリシャ人のバクトリア王国そのものはすでに滅んでいたそうだ。
 さらにこれもやはり紀元前250年ごろ元のアケメネス朝の地にパルティア人がアルサク帝国を建てた。これが中国人の呼ぶ安息である。このパルティア人もイラニアン語派の印欧語を話していたと見られる。最初ヘレニズム文化であったのが、しばらくするうちにそこから離れてペルシャ文化に戻ってしまった。クテシフォンという都市を築いたのもこの国で、これはササン朝ペルシャの首都として引き継がれた。こうして「ペルシャ戻り・イラニアン戻り」をしたササン朝がローマや北のテュルク勢力と拮抗しつつ、3世紀から7世紀まで、つまり中国の唐の時代まで存続する。この言語が中世ペルシャ語だ。アケメネス朝の言葉は古代ペルシャ語(『160.火の三つの形』参照)である。
 このころの中央アジアのタリム盆地のあたりがどんな様子になっていたかについては幸い中国側の資料がたくさん残っている。例えば漢が設立した西域都護府が前60年に行なった報告によるとタリム盆地には多数のオアシス国家が存在していたそうだ。さらに晋の僧法顕(4~5世紀)が『仏国記』で当地の砂漠の凄まじさを描写し、7世紀に完成した北周書異域伝にはそのころの西域のオアシス都市アールシイ(下記)では仏教の他に拝火教も行われていたことが記録されている。7世紀には唐僧玄奘の報告もある。アールシイ(阿耆尼または焉耆、カラシャフルとも呼ばれる)、クチイ(屈支または亀茲)、クスタナ(コータン、瞿薩旦那または于闐)といったオアシス国家の生活文化を描写しているが、その際コータンの言語が他国と異なっていると告げている。また文字はインドの文字を改良したものであると述べている。これは19世紀の終わりから20世紀にかけてスヴェン・ヘディンやオーレル・スタインなどが発掘した遺跡から出てきた死語の資料を解読して得られた結果と一致している:タクラマカン砂漠には3つの言語群があった。中心となるオアシス都市の名をとってアールシイ語、クチイ語、コータン語と名付けることができるが、アールシイとクチイは天山南道、つまりタクラマカン砂漠の北側にある。ところがコータンは崑崙山脈の北、タクラマカン砂漠の南端だ。前の二つは互いに似通った言語だが、コータンは砂漠を隔てていただけあって前者とは明確に違った言葉が話されていた。もっとも上の玄奘のいうコータン語が違っているという「他国」がアールシイなどを指しているとは限らない。玄奘がアールシイ、クチャについて記述しているのは『大唐西域記』の第一巻、コータンについての話は遠く離れた第一二巻だから、コータン語が周りのソグド語か中世ペルシャ語と違っているという意味かもしれないからだ。とにかく現在はアールシイの言語はトカラ語A,クチイはトカラ語Bと呼ばれる。
 トカラ語が印欧語族であることは1907年にはすでに判明していた。ギリシャ語やアルバニア語同様印欧語族の独立した一派で東イラニアン語派のコータン語とは語派が違う。上記の松田教授はアールシイとクチイの言葉を印欧語でイタロ・ケルティックに近い言語としているが、実はこれは間違いではない。現在では否定されているが前は本当にそういう説があったのだ。ギリシャ語やバルト語派・スラブ語派との関係が云々されたこともあった。Adamsという学者は言語の親近度を語彙などで測定して、ゲルマン語派と近いという結果を出している。ケルト語にせよゲルマン語にせよ、つまり言語的には印欧語の北西グループの特徴を示しイラニアン語派とは全く異質ということだ。

 どうしてそんなに離れたところにそんな印欧語があるのか。Adamsはギリシャ語やゲルマン語派との親近性はトカラ語がゲルマン・ギリシャ語とズバリ同系だからではなく、トカラ人が元いた場所から移動してタクラマカン砂漠に至る際、ギリシャ語やゲルマン語と接触し影響を受けたからだとしている。つまりトカラ人はヨーロッパから移住してきた(半)遊牧民ということになる。別の説ではトカラ人はヒッタイト人級に古く印欧祖語から分岐したものだという。ヒッタイト語は印欧語ではなく「印欧祖語の兄弟言語」という見方もあるくらいだから、つまりヒッタイト語、印欧(祖)語、トカラ語がさらに共通の祖語から分かれたという見解だ。
 どちらが正しいか、あるいはどちらも間違っているのかは考古学の領域に入ってしまうのでここではパスするが、東イラニアン語派が中央アジアに入ってきたときにはすでにトカラ語の話者がそこにいたらしい。トカラ語祖語の時代は紀元前千年以前などという議論も行われているそうだが、発掘されたトカラ語の文書は紀元5世紀から8世紀(別の資料では紀元4世紀から12世紀)ごろの新しいものしかないので実証が難しい。しかしトカラ語の単語を他の、(話されていた時代がわかっている)印欧語と比べて音韻対応を検討すればある程度言語の歴史はわかる。ロマニ語(『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)の成り行きもそうやって言語学的に解明されたのだ。
 このトカラ語がAとBに分かれているのはダテではなく、両者は互いに通じなかったのではないかと思われるほど差があるそうだ。さらにトカラ語Aはアールシイの、Bはクチャで話されていた言語と単純にも行かないらしい。第一にタリム盆地は古くから交易の地で人の移動が激しく、文書が発見されたからと言ってそこの住民がその言語を話していたということにはならない。これは下で述べる敦煌でもそうだ。第二にAが見つかった処ではBも見つかっている上にB文書の数の方がずっと多い。ここからBが実際の話し言語で、Aはその時点ですでに死語、宗教儀式や詩などの限られたコンテクストでのみ使われて日常では用いられていなかったのではないかという疑いも起こる。
 面白いことにトカラ語では印欧祖語より名詞格が増えて10(呼格をいれれば11)の格を区別する。しかしそのパラダイムを見れば、トカラ語では印欧語としてのもとの語形が一旦減少し、しかる後に膠着語的接尾辞を付加して格変化させるやり方が発達したことが見て取れる。ロマニ語(『65.主格と対格は特別扱い』参照)や非印欧語のダゲスタンのアグール語と同じパターンだ。トカラ語をぐるりと囲む膠着タイプの諸言語の影響なのだろうか。ちょっと「馬」という語形変化をみてみよう。
Tabelle-165
いかにもサンスクリットの「馬」aśva- とつながっていそうな語だ。 トカラ語Bの複数通格は yakwentsa ではなく yakweṃtsa になるはずではないのかと思うが確認できなかった。とにかくAには因格形がなくBには具格がない。またBでは呼格を区別することがある。例えばこの「馬」は yakwa という単数呼格形を持っているそうだ。さらによく見ると印欧語的な「曲用」によって造られるのは主格、属格、斜格の3つだけで、具格以下は斜格形をベースにしてその後ろに接尾辞(太字)をつけるというロマニ語そっくりのパターンで形成されているのが見て取れる。単数を見るとすでに属格でこのパターンを踏襲しているようにも見えるが、Bで「父」の単数主・属・斜格をそれぞれpācer、pātri、pātärといい、立派に語形変化しているのがわかる。この2層になった語形変化をGruppenflexion「グループ活用」というドイツ語で呼んでいる。
 タリム盆地の北クチャやアールシイのトカラ語ABの他に、紀元前から紀元3世紀ごろまで砂漠の南側で栄えたクロライナ王国(中国語で楼蘭)の言語もトカラ語だったのではないかという説がある。紀元前77年に漢に押されて王国としては滅んだが、都市としてはそのあと何百年も存続した。すでに1937年にBurrowという人がその可能性に言及し、その後もこれをトカラ語Cとする学説が時々流れたが実証には至っていない。最近でも2018年にKlaus T. Schmidtがクロライナ語=トカラ語C説を唱えたが、他のトカラ語学者からコテンパンに論破されたそうだ。考古学的にもこの説には無理があるらしく、発掘品から見てクチャとアールシイは同じ文化圏に属していたが、クロライナからの発掘品はそれとは違う、つまりABとC(というものがあれば)では話者の民族が違うらしい。しかし一方完全にC説が否定されたわけではないので、今後の研究待ちということだ。

いわゆるトカラ語Cの存在はまだ実証はされていないので注意。
1920px-Tocharian_languages.svg

 トカラ語ほどは一般人のロマンを掻き立てないが、コータン語やソグド語を無視するわけにはいかない。
 ソグド語は古い形をよく保ち(言語自体が古いので当然か)、特に名詞の変化パラダイムはほとんど保持していた。紀元1~2世紀から文献が残っており(ソグド人の存在自体については紀元前6~4世紀にはすでに記録がある)、敦煌の西でも4世紀に書かれた手紙が残っている。敦煌はさすが漢が紀元前1世紀に建てた都市だけあって発掘された文書は中国語が多いが、中国の重要な関所となってから西域から人や物が集まってきていたので中国語の他、コータン語やクチイ語、ソグド語、サンスクリット、西夏語、チベット語、果てはヘブライ語の文書まで見つかったそうだ。特にソグド商人の隊商活動がさかんだったらしい。敦煌付近には5世紀前後から大規模なソグド人の植民地というか居住地があった。7世紀ごろもソグド人についての中国の記録がたくさん残っているが、非常に利にさとかったそうで上述の松田教授によると玄奘などもずっと西のスイアブのあたりでテュルクの支配を受けていたオアシス群には西方の国からやってきた商人が雑居し、住人は意気地なしで薄情で、詐欺と貪欲の塊であり、親子で銭勘定にあけくれていると書いているとのことだ。敦煌だけでなくそもそもタリム盆地全体に植民地を築いていたので、トルケスタンでも事実上の商業言語はソグド語だったらしい。トルファン周辺にも5世紀前後からソグド人が大勢住んでいたそうだ(下記)。
 そういえば則天武后の下で秘密警察を取り仕切り住民を恐怖に陥れた索元礼という拷問の専門家も「胡人」だった。唐の時代には胡人という言葉はペルシャ人を指していたはずだが、この「ペルシャ人」というのはつまり「イラン系の人」の意味、言い換えるとソグド人もその中に入っていたということはないのだろうか?索元礼もペルシャ人ではなくソグド人だったということは考えられないのだろうか。実際6世紀にアルタイ・テュルク系の阿史那氏に中国(西魏)の使者として使わされてのはブハラの商人だったそうだ。ブハラもソグディアナの都市である。
 ソグド語はソグド文字という独自の文字を持っていた(まれにブラーフミー文字で書かれた文献もある)が、これはアラム文字から造られたのだそうだ。そのソグド文字からさらにウイグル文字が作り出された。中央アジアの大言語だったのだが、11世紀ごろの文献を最後に交易言語としての地位を失っていった。ペルシャ語、アラビア語、テュルク語、中国語に押されてしまったのだ(下記)。上記のヤグノブ語はソグド語の子孫。
 ソグド語同様コータン語(上記)も古い形をよく残しているが、名詞格は6つであった。近くのトムシュクで発見された言語とコータン語をいっしょにしてサカ語と呼ばれることもある。スキタイ人の言語が関連付けられている。上記のワハン語はコータン語の生き残りである。

敦煌で発見されたソグド語の文書。https://sogdians.si.edu/sidebars/sogdian-language/から
N4-9-Ancient-Letter-2-BLI24_OR8212_95R1_ST_L-963x1600

 そうやって唐の時代までタリム盆地は印欧語の世界だった。ソグド語、コータン語、トカラ語などの文献は5世紀ごろまでは多くがカロシュティー文字で、以降はブラーフミー文字で書かれていたし、内容的にも仏教関係の文書が多い。拝火教も行われていたそうだから、要するにインド・イランの文化圏だったのである。
 唐以降この状況がひっくり返る。もともとは天山山脈の裏側のステップ地域にいたアルタイ・テュルク(中国語で突厥)が6世紀半ばに力を伸ばし、タリム盆地を支配しだしたからである。テュルク支配下でも最初は住民そのものはアーリア人であり、少なくとも唐の間はシルクロードは文化的にはイラニアン系だったが、徐々に住民レベルでもテュルク人が優勢になっていった。ただその時点でもテュルクはまだイスラム化してはいなかった。
 イスラムが入ってきたのは西から、イランからである。イラン化されたイスラム勢力のウマイヤ朝、後アッバース朝が西からタリム盆地に来て、そこでテュルク民族とぶつかったとき、イスラム側(=イラン人側)には強力なテュルクと全面的に武力衝突するか、テュルクを懐柔・改宗させて自分たちの仲間にしてしまうかの選択に迫られ、後者を選んだのだ。懐柔したはいいが、11世紀になってからイスラム化してさらに強力になったセルジューク・トルコ(後オスマン・トルコ)が本国のイランの支配権をもぎ取ってしまったのは皮肉なことであった。とにかくタリム盆地を支配したテュルクは最初からイスラム教ではなかった。こんにちの眼で見るとテュルク=イスラムとつい安直に結びつけてしまいがちだが、テュルク化とイスラム化とは分けて考えなければいけないということだろう。ついでに民族と人間そのものも必ずしもイコールではないところが面白い。テュルク民族は本来私たちと同じ顔をしたアジア人である。事実民族の発祥の地に近い中央アジアではテュルク語話者はアジア顔だ。カザフ人、ウイグル人、タタール人など日本人だと言われても通じる。自慢ではないが私も一度カザフ人と間違えられた事がある。ところが現在のトルコの人々は全然アジア顔をしていない。顔貌的にはイランのあたり、まさに中国人から「深目・高鼻」と言われそうな容貌だ。カザフ人と民族的にはごく近いのに、人間そのものは全く異なるのである。
 
 この中央アジアでの人間の入れ替わりのプロセスについてはステップの反対側でも記録に残っている。ロシアであるが、ここは歴史上少なくとも8回は東からやってきた異民族に国土を荒らされた。最初に来たのがスキタイ人で、ギリシャ人の記録に残っている。紀元前7世紀ごろのことだが、上にも書いたようにこのスキタイ人は印欧語系の遊牧民である。2番目に来たサルマティア人というのもおそらく印欧語を話す民族だったと思われる。次がフン族で、紀元5世紀ごろ。このフン族については所説あるが、とにかく言語が印欧語ではなかったことは確実らしく、また「フン族」と一括りにはしがたいほど諸民族混成軍隊だったと思われる。その次、6世紀にアヴァール人というのが来たが、これはテュルク系の言葉を話していたらしい。このアヴァール人は現在コーカサスにいるアヴァール人とは別の人たちとみられる。その後にハザール人(ユダヤ教に改宗したことで有名)、続いてペチェネーグ人、さらに続いてポロヴェツ人がやってきた。11世紀のことである。ロシア文学史上燦然と輝く叙事詩『イーゴリ軍記』はこのポロヴェツ人とロシア人との戦いを描いたものだ。最後にダメ押しで侵攻してきたのが13世紀のモンゴル人だが、支配層はモンゴル人でも実際に兵士として押しかけて来たのはテュルク人であったことは明らかで、それだからこそこれを「タタールのくびき」というのだ。現在ロシアに残っているタタール語、アゼルバイジャン語などは皆テュルク系。またモンゴル帝国の支配者ティムールは全然モンゴル人などではなく、サマルカンドの近く出身のテュルク人である。しかし肖像画から判断するとティムールはアジア顔であり、上でも述べたように現在のトルコ人とは違っている。
 とにかくロシア側から見ても中央アジアのステップの支配民族は最初アーリア人(印欧語属の話者)だったのが、比較的短い期間にテュルクと入れ替わっているのがわかる。

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