アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:歴史・政治

 ドイツでは国歌を斉唱したりすることがあまりない。もちろん学校行事で歌うことなどないしそもそも「学校行事」などというものがほとんどない。国旗を掲げたりもあまりしない。ベルリンの国会議事堂なんかにはかろうじて国旗が揚がっているが、地方裁判所になると立ててあるのは州旗である。
 昔フライブルク・バーゼル経由でチューリヒに行こうとして電車に乗っていたところ、パスポートのコントロール(当時はまだ東西ドイツがあったし、EUでなくECだったのでスイスとの国境でパスポートのチェックがあったのだ)に来た警察官のおじさんが雑談を始めて、「スイスに行くんですか。でもシュバルツバルトも見ていくといい。フライブルク、チューリヒ、あとミュンヘンやオーストリアの住人って一つの民族なんですよね。言葉も同じ、文化も同じ、一つの民族なんだ」と言っていた。つまりこの南ドイツの警察官のおじさんにとってはオーストリア・スイスのほうが北ドイツ人より心情的に「同国人」なのだ。一方北ドイツ人も負けていない。「フランクフルトから南はもうドイツ人じゃない。半分イタリア人だ」「バイエルン訛よりはオランダ語の方がまだわかる」などといっている人に遭ったことがある。かてて加えてドイツ国内にはデーン人やソルブ人などの先住民族がいる。後者は非ゲルマン民族だ。こういうバラバラな状態だから国旗なんかより先に州旗が立つのだ。ドイツでいい年の大人が国歌を歌ったり国旗を振り回したりするのはサッカーの選手権のときくらいではないだろうか。時々これでよく一つの国にまとまっていると不思議になるが、国歌斉唱などしなくてもドイツという国自体は非常に堅固である。

 日本では時々小学校、ひどい時には大学で国歌を斉唱させるさせないの議論になっているが、そんなことが国家の安定とどういう関係があるのかいまひとつよく理解できない。理解できないだけならまだいいのだが、小学校の式で国歌を歌わせる際、教師や生徒が君が代を本当に歌っているかどうかを校長がチェックするべきだ云々という報道を見たことがあり、これにはさすがに寒気がした。中年のおじさん教師が10歳くらいの子供の口元をじいっと見つめている光景を想像して気分が悪くなったのである。
 子供たちもこういうキモいことをされたら意地でも歌ってやりたくなくなるだろうが、相手は生殺与奪権を持つ大人である。せいぜい口パクで抵抗するしかない。しかしこの「口パク」というのは結局、実際に音が出ないというだけで頭の中では歌っているわけだから相手に屈したことになる。それではシャクだろうからいっそ君が代を歌っていないことがバレない替え歌を歌うという対抗手段をとってみてはいかがだろうか。

 まず、「バレない替え歌の歌詞」の条件とは何か、ちょっと考えてみよう。

 第一に「母音が本歌と揃っている」ということだ。特に日本語のように母音の数が比較的少ないと、アゴの開口度が外から見て瞭然、母音が違うとすぐ違う歌詞なのがわかってしまう。
 もう一つ。両唇音を揃える、というのが重要条件だ。摩擦音か破裂音かにかかわらず、本歌で両唇音で歌われている部分は替え歌でも両唇音でないといけない。両唇音は外から調音点が見えてしまうからだ。具体的にいうと本歌で m、b、p だったら替え歌でも m、b、p になっていないとバレる。ただしこれは円唇接近音でも代用が利く。円唇の接近音は外から見ると両唇音と唇の動きが似ているからだ。で、m、b、p は w で代用可能。逆も真なりで本歌の w を m、b、p と替え歌で代用してもバレない。
 あと、これはそもそも替え歌の「条件」、というより「こうありたい」希望事項だが、母音は揃えても子音は全て変えてみせるのが作詞者の腕の見せ所だ。音があまりにも本歌と重なっていたら、替え歌とはいえないだろう。少なくともあまり面白くない。

 これらの条件を考慮しつつ、私なりに「バレない君が代」の歌詞を作ってみたらこうなった。

チビなら相場。ひとり貸し置き。鼻毛記事をヒマほど再生。俺をぶつワケ?

君が代の歌詞を知らない人・忘れた人、念のため本歌の歌詞は次のようなものだ。比べてみて欲しい。母音が揃っているだろう。

君がぁ代ぉは 千代に八千代に さざれ石の巌となりてぇ 苔のむすまで

4点ほど解説がいると思う。

1.本歌では「きみがぁよぉわぁ」と「が」を伸ばして2モーラとして歌っている部分を替え歌の方では「なら」と2モーラにした。もちろん母音はそろえてある。

2.同様に本歌で「よぉ」と2モーラに引き伸ばしてあるところを「そう」と2モーラにした。「そう」の発音は[sou]でなく[so:]だからこれでOKだと思う。

3.「再生」の「生」は実際の発音も「せー」、つまり [sei] でなく [se:] だから本歌の「て」の代わりになる。

4.ここではやらなかったが、「再生」、つまり本歌の「なりて」の部分は「かんで」でも代用できる。ここの/n/(正確には/N/)の発音の際は後続の「え」に引っ張られて渡り音として鼻母音化した[ɪ] (IPAでは ɪ の上に ˜ という記号を付加して表す)が現われ、外から見ると非円唇狭母音「い」と同じように見えるからだ。「再生」より「噛んで」の方がワザとしては高度だと思ったのだが、「ヒマほど噛んで」では全く日本語になっておらず、ただでさえ意味不明の歌詞がさらにメチャクチャになりそうなので諦めた。

 こんな意味不明の歌詞では歌えない、というご意見もおありだろうが、文語の歌詞なんて意味がとれないまま歌っている子供だって多いのだから、このくらいのシュールさは許されるのではなかろうか?私だって子供の頃「ふるさと」の歌詞を相当長い間「ウサギは美味しい」と思っていたのだから。
 そんなことより大きな欠陥がこの替え歌にはある。児童が全員これを歌ってしまったら結局バレてしまうということだ。その場合は、「先生、私はちゃんと君が代の歌詞を歌っていましたが周りが皆変な歌詞を斉唱していました。」と誤魔化せばいい。


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 ドイツはイギリスあるいはアメリカと違って議会政党の選択肢が二つ以上ある。民主党か共和党のどちらか、労働党か保守党のどちらかという二項対立ではないのだ。もちろん二者選択が基本となっている国だって別に政党は二つまでと決められているわけではない。二大政党以外の党や無党派の比重が前者に比べて極端に低く、事実上二者選択となっているだけだ。
 二大政党そのものはドイツにもある。CDU(とその姉妹党CSU)(それぞれ「ドイツキリスト教民主党」と「ドイツキリスト教社会党」)とSPD(「ドイツ社会民主党」)で、前者が保守、後者が革新である。しかしその他にも強力な政党があり政治を左右する。昔はどちらかの大政党が単独で議席の過半数を取るのが基本だったらしいが、少なくとも私が選挙権を取った頃にはすでに「単独過半数は政党の夢」となっていた。大政党といえども他のどれかの党と連立しなければ過半数は取れないことが普通になっていたのである。
 保守CDUが通常連帯するのがネオリベのFDP(「自由民主党」)、そしてSPDはBundnis90/ DieGrünen(「同盟90・緑の党」)とくっつくのが基本である。その他にDie Linke(「左翼党」)という共産系の党がある。東独から引き継がれてきた党で、投票者も大半は旧東独住民、その意味では「地域限定の党」だ。その他極右や(こういっちゃ何だが)よくわからない泡沫政党が時々急に浮上して議会に参加することがあるが、ドイツの主な政党はCDU/CSU、SPD,FDP,Die Grünenの四つといっていい。
 これらの政党にはシンボルとなる色が決まっている。CDUは黒、SPDは赤、FDPは黄色、Die Grünenは文字通り緑である(もっとも弱小政党もシンボル色を決めてくることが多い。一時議会に顔を見せたが、今はほとんど見かけない「海賊党」は橙色、極右のAfD(「ドイツのもう一つの道」)は青、そしてDie Linkeは「濃い赤」ということでやや紫がかった赤で表される。なぜかピンク色になっていることもある)
 そのため連立政権は色の名を使って呼ばれることが多い。CDUFDP連立の保守政権は黒黄連立政権(schwarz-gelbe Koalition)、SPDDie Grünenだと赤緑連立(rot-grüne Koalition)だ。上でも述べたようにこの二つの組み合わせが基本形というか「基本のコンビ色」である。
 しかし時々二大政党がどちらも票を落とし、いつもの相棒と組んでも過半数に達しないことがある。あるいは相棒のほうが壊滅して大政党が立ち往生してしまったり。そういう時は二大政党が連立を組んだりもする。このCDUSPD連立は黒赤連立と呼ばれないこともないが、大抵は大連合(große Koalition、略して groko)という。
 実はこの大連合は「最後の手段」なのである。もともと政策や政治理念の反対な党が連立するわけだから、足並みがそろわないことが多い。いろいろ調整しなければならないことが出てきて党内部でも意見が分裂したり、妥協妥協の連続で法案が骨抜きになったりする。だから票が取れなかったときは大連合は避けて、いつもの相棒に加えてさらに向こう側の相棒を引っ張り込んで三党連立という手をとることもまれではない。それら「非大政党」、つまりFDPにしろDie Grünenにしろ別にCDUやSPDと組まなければいけないと法律や契約で決まっているわけではないから、政権を取れるとなればいつもの相棒に義理だてなどしない。大政党が選挙で第一党になりながら、連立相手に断られて過半数が取れず、第二党・第三党・第四党が連立を組んで政権をとることさえある。とにかくドイツは選挙のあとの連立作戦が面白く、選挙そのものよりよほどスリルがある。この楽しみのないアングロ・サクソン系の国の選挙はさぞ退屈だろうと思うくらいだ。
 
 その三党連立であるが、こういう事態はいわばイレギュラーなのでインパクトが強いためかその呼び方がまた面白い。単純に色では呼ばないのである。例えばSPDFDPDie Grünenの連立は赤・黄色・緑で信号連立(Ampel-Koalition)。でもこれなんかはまだ平凡な命名だ。
 
 CDUFDPDie Grünenの三党連立は黒・黄・緑で、前は黒信号連立(schwarze Ampel 、シュヴァルツェ・アンペル、略してシュヴァンペルSchwampel)と呼ばれていたが誰かがこれをジャマイカ連立と命名して以来、この名前が主となった。この色の組み合わせをジャマイカの国旗に見立てたのである。
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 先のザクセン・アンハルト州選挙ではCDUSPDDie Grünenが連立を組んだが、これはケニア連立と呼ばれる。
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 またCDUSPDFDPが連立すればドイツ連立だと誰かが言っていたが、実際にこういう連立になっているのを見たことがない。声はすれども姿は見えずといったところか。しかもドイツの国旗の一番下は本当は黄色でなく金色なのだから、この命名は不適切ではないのか。むしろベルギー連立と呼んだほうがいいだろう。
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左がドイツ、右がベルギーの国旗だが、ドイツの一番下の色は黄色でなくて実は金色(のはず)である。

 実は上の信号連立にも国旗に例えた名前がある。まさか「呼び名が面白くないから」という理由でもないだろうがセネガル連立またはアフリカ連立という言い方もあるそうだ。私は知らなかった。後者はこの三色を国旗に使っている国がアフリカに多いからだろう。

 私の住んでいるバーデン・ヴュルテンベルク州では前回の選挙でなんと緑の党が第一党になり(私はここに入れた)同時に大政党のSPDのほうが壊滅したため、緑の党CDUと連立を組んだ。三党連立ではないが、緑と黒の二色連立、しかも前者が第一党というのは極めてまれな現象だったのでさらに話題性が強く、通常のように色では呼ばれず、キウイ連立という名称が考え出された。果物のほうのキウイである。全体が緑色の実の中にポチポチと黒いタネがあるからだ。

 SPDFDPの連立というも見たことがないし、今後も起こりそうにないがこれはなんと呼んだらいいのか。マケドニア連立とでも呼びたいところだが、「マケドニア」という国名を使うことをEU仲間のギリシアが頑強に反対しているので旧ユーゴスラビア・マケドニア連立と呼んでやらないとまずそうだ。これでは長すぎるので中国連立あたりにしておいたほうがいいかもしれない。
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左がマケドニア、右が中国。SPDとFDPとの連立ならば多分SPDが第一党になるだろうから赤字に黄色が少し、という意味で「中国連立」と命名したほうがいいかもしれない。


 中国・マケドニア連立よりさらにあり得ないのはFDPDie Grünenとの連立である。でもひょっとしたらバーデン・ヴュルテンベルク州でそのうち本当に実現するかもしれない。万が一こういう連立が誕生してしまったら菜の花連立あるいはたんぽぽ連立とでも名付けるしかない。まあ春らしくて明るいイメージの政権ではある。

 なお、上で述べたザクセン・アンハルト州では選挙の直後連立問題が非常にモメ、一時CDUDie Linkeが連立するという噂が立ったことがあった。保守の側ではこれを密かにハラキリ連立と呼んで反対する党員が多かったそうだ。幸い、といっていいのかどうかこのハラキリは成立せず、めでたくケニアになったのであった。

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 外国語をやっていると、時々日本語の感覚では全く別の観念が一つの単語としていっしょになっているので驚くことが多い。例えばpoorという語に「貧しい」と「かわいそうな」という意味があると聞いて「そんな馬鹿な。貧しいとかわいそうじゃ意味が全然違うじゃないか」と戸惑ったのは私だけだろうか。この二つは英語だけでなくドイツ語でもロシア語でも同単語になっている。前者がarm(アルム)、後者はбедный(ベードヌィ)である。だからドストエフスキーの小説の題名は「貧しき人々」とも「哀れな人々」とも訳せるわけだ。
 また、ショーロホフの『静かなドン』の原題はтихий Донだが、ここで「静かな」と訳されているтихий(チーヒィ)は「ゆっくりとした」という意味もあるからこれは「ゆっくりと流れるドン」あるいは「たゆとうドン」とでも訳してもよかったのではないだろうか。もっともドイツ語でも「静かなドン」(Stille Don)と訳してあるが。それにしても「ゆっくり」と「静か」がいっしょになっているロシア語に驚く。
 が、こんなことで驚いていたらロシア語はやっていられない。なんと「夢」と「眠り」が区別されずに一つの単語になっているのだ。Сон(ソーン)という言葉がそれである。実はロシア語ばかりでなくスペイン語でも眠りと夢はいっしょで、sueñoである。ではロシア語やスペイン語で「夢のない眠り」はどう表現したらいいのか気になって仕方がない。
 もっともロシア語のсонが表す「夢」はあくまで寝ているときにみる夢であって「将来の夢」という場合の夢はмечта(メチター)とまったく違う言葉を使う。日本語では両方とも「夢」で表すと聞いたらきっとロシア人は「そんな馬鹿な。Сонとмечтаじゃ意味が全然違うじゃないか」と怒り出すに違いない。スペイン語のsueñoは睡眠中の夢も希望の夢も意味する。この点では日本語をいっしょだ。ドイツ語は睡眠Schlaf(シュラーフ)と夢Traum(トラウム)が別単語な上、後者が寝ている時の夢も希望も表すから日本語といっしょである。

 しかしだからといってドイツ語に気を許してはいけない。上で述べたarmのほかにも落とし穴があるからだ。
 以前なんとかいう長官が「自衛隊は暴力装置」と言ったとか言わなかったとか、その通りだとかそれは間違いだとかが議論になったことがあるが、その議論の中で「マックス・ウェーバーも警察や軍隊を暴力装置と呼んでいる」と引き合いに出している人がかなりいた。しかしウェーバーが「暴力装置」などと言ったはずはないのだ。なぜならばウェーバーは日本語などできなかったからである。というのは揚げ足取りにすぎるが、問題はここで「暴力」と訳されているGewalt(ゲヴァルト)というドイツ語である。このGewaltは「暴力」などよりもずっと意味が広く、「権力」あるいは「権力行使」という観念も表す。というよりむしろそういうやや抽象的な意味のほうがメインで、gesetzgebende Gewalt(「法律をつくるゲヴァルト」)は「立法権」、richterliche Gewalt(「裁判官のゲヴァルト」)は「司法権」、vollziehende Gewalt(執行するゲヴァルト))は「行政権」、Gewaltentrennung (「それぞれのゲヴァルトの分離」)で「三権分立」、さらにelterliche Gewalt(「親のゲヴァルト」)は「親権」で、親が子供に往復ビンタを食らわしたりすることではない。
 さらに日本語の「暴力」には「暴力団」という言葉があることからもわかるように「犯罪」「悪いこと」というニュアンスがある。ここから派生した「暴力的」という形容詞にもはっきりとネガティブな色合いが感じられ、こういう人は「頭や言葉では相手に勝てないと思うとすぐに手が出る未熟な男(女にもいるが)」である。
 Gewaltにはこのニュアンスがない。「権力」「強制権」の意味も無色に表しているが、この言葉にはその他にも「通常の程度を遥かに超えるもの」、「非常に強力なもの」という意味があって、Naturgewaltで「自然の威力」、höhere Gewaltは言葉どおりに訳せば「より高いゲヴァルト」で日本語の「暴力」という観念にしがみ付いていたら理解できないが、これは「不可抗力」という意味である。また「ゲヴァルト=暴力」という図式だとWiderstand gegen die Staatsgewaltは「国家の暴力に対する抵抗」とでも訳さねばならず、まるで圧政に対して立ち上がる革命活動のようだが、これは単なる「公務執行妨害」。ついでにドイツ語ネイティブに「神のゲヴァルト」、göttliche Gewaltという言い方は成り立つかどうか聞いてみたところ間髪をいれずOKが出た。Gewaltから発生した形容詞gewaltig(ゲヴァルティッヒ)は「暴力的」などではなく「すさまじい」。つまりドイツ語のGewaltには日本語の「暴力」のようなケチくさい意味あいはないのである。
 だからマックス・ウェーバーの暴力装置神話もちょっと気をつけないといけない。氏が軍隊を暴力装置と呼んでいる、と言っている人はひょっとしたらPolitik als Beruf(「職業としての政治」)で出てくるHauptinstrument der Staatsgewaltという言葉を「国家暴力の主要な装置」と読み取ったのではないだろうか。これはむしろ「国家権力施行のための主要な道具組織」であろう。またウェーバーは「装置」にあたる意味ではInstrumentよりApparatという言葉のほうを頻繁に使い、その際国家のプロパガンダ機構など、つまり言葉どおりの意味での「暴力」を施行しない組織も念頭においているではないか。さらに私は「軍隊・警察はGewaltの道具組織(そもそもInstrumentまたはApparatをこの文脈で「装置」と訳すのは不適切だと思う)である」とキッパリ定義してある箇所をみつけることができなかった。もちろん、ウェーバーがそう考えていることはそこここで明らかにはなっている。しかし「軍隊・警察は権力の道具となる組織」というのはむしろ単なる言葉の意味の範囲にすぎず、ウェーバーがわざわざ言い出したことではない、というのが原文をザッと見た限りでの私の印象である。念のため再びネイティブに「Instrument der Staatsgewaltってなあに?」と無知を装って(装わなくても無知だが)質問してみたところ、「警察とかそういうものだろ」という答えが帰ってきた。このネイティブはウェーバーなど読んだことがない。「軍や警察は権力施行のために働く機構である」などということは当たり前すぎてわざわざ大仰に定義する必要などないのだ。
 私はドイツ国籍を取ったとき、何か宣誓書のようなものにサインした。そのときいかにも私らしく内容なんてロクに読まずにホイホイサインしてしまったのだが、その項目の一つに「私はドイツのStaatsgewaltを受け入れます」というのがあったこと(だけ)は覚えている。これは決してお巡りさんや兵隊さんに殴られても文句を言うなということではない。国が私に対して強制権を施行してくるのを認めます、という意味だ。「税金なんて払うの嫌です」とかいって払わないでいれば国は権力を施行して私を罪に問う。私が人を殺せば国は私を刑務所に送り込む。国がそういうことをするのを認めよ、という意味である。

 と、いうわけでこのGewaltに関してはドイツ語のほうが意味が広いわけだが、日本語の単語のほうが守備範囲が広いこともある。「青」という語が有名で、「青葉」「青リンゴ」「青信号」という言葉でもわかるように日本語「青」にはやや波長の長い緑色まで含まれる。ドイツ語のblau(ブラウ、「青」)には緑は入らないから木の葉やリンゴ、信号などは緑としかいえない。もちろん、だからといって日本人が青と緑を識別できないわけではない。子供に絵をかかせれば花の茎や木の葉は皆きちんと緑色に塗っている。
 それで思い出したが、ある時物理学者が信号無視で捕まり、警官に「あまりスピードを出しすぎたため信号の光がドップラー効果を起こし、赤が青(つまり「緑」)に見えてしまった」と言い訳したそうだ。何十億光年も先にあるクエーサーが赤方偏移を起こしたという話は聞くが、信号機が青方偏移したなんて聞いたことがない。どんだけ超スピードの乗用車なんだか。そんなんじゃ仮に信号無視は見逃してもらえたとしてもそのかわりスピード違反でやっぱり罰金は免れまい。

『職業としての政治』の全文はこちら



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 実は私は高校生のころずっとと大学に行ってもちょっとの間続けていたので剣道三段を持っている。だから、というとあまりにも理由になっていない理由で申し訳ないが、どうもあのフェンシングというスポーツが嫌いだ。なんか後ろに変な電気コード引きずった選手が一次元の線上をピョコピョコ飛び跳ねながらすぐヘナヘナしなうような軟弱な剣でチョンチョンつつきあいしてるのをみるとイライラしてくるのだが(ごめんなさい)。
 もちろん向こうもこちらに同じ事を言ってくるに違いない。妙なスカートを履いた(多分袴なんて外の人から見たらスカートの出来損ないにしか見えないだろう)選手が、打ち込むたびに断末魔のネアンデルタール人みたいな奇声をあげる、当たったか当たらなかったかを電気信号などの客観的な方法で決めないで横っちょにエラそうに立ってる審判が旗振って決める、フェンシング選手が見たらなんじゃいありゃと思うだろうからまあおあいこだ。

 さて、2016年のオリンピックほど見なかった大会は初めてである。もちろんTVでニュース映像が報道されたからといって目をそむけたりTVを消したりはしなかったが、とにかく実況は全く見なかった。別にわざわざボイコットしたわけではない、見る気がしなかったのだ。すでに前々回の2008年ごろから開始前にいろいろ胡散臭い問題や疑惑が湧いてくるようになってシラケムードが濃厚になってきてはいたのだが、今回はあまりにもヒド過ぎた。

 まず会場都市のリオ・デ・ジャネイロに反対者が大勢いたのにお上がごり押しした。オリンピックなんかやってもIOCに金を吸い取られるだけで開催都市にはほとんど経済効果はないということはロス・アンゼルスやアテネ以降、知らない者はいないから反対したのである。「そんな金があるんだったら、社会に回せ」。まさに正論だ。さらにどんなに開催都市が借金まみれになってもIOCは損をしない仕組みになっているばかりか、リオでの大会後オリンピックの宣伝のためにOlympic Channelとかいう特別なTV局を設置し、それに6億ドルだかの費用をかけることにした、と聞けばその一部でもいいからリオに回してやればよかったのにという考えが頭をよぎる。貧乏人が借金まみれになっているのを尻目に自分たちはこれ見よがしに湯水のように金をつかう、これではまるで悪徳商人・吸血鬼ではないか。開催地の住民は踏んだり蹴ったり。ドッチラケである。
 さらにドッチラケたのが、ドーピング問題に対するIOCの態度だ。ロシアが国を挙げてドーピングしているという話自体には何を今更感があったが、世界陸上委員会がロシアを追及して破門(違)にしたのを見て、おおここはそれなりに改善する気があるんだなと感心していたらIOCがそれを骨抜きにした。こちらの新聞でも批判されていたが、その際勇気を持って自国のドーピング事情を告発したユリア・スチェパノヴァ選手が出場できなかった一方、限りなく疑惑のある(そして、スチェパノヴァ選手と違って告発する勇気はもたない)選手たちは何だかんだとIOCが弁護して出場させた。まさかプーチン氏から金でも貰ったわけではないだろうが、利潤・客寄せ第一のIOCの面目躍如、極めて後味が悪かった。いや開始前だから、「前味」か。
 繰り返すが、私がシラケたのはドーピングそのものよりそれに対するIOC側の態度である。こういうことをいうと私が人間性を疑われそうだが、勝ちたい一心で選手が自らヤクを打つにしろ勝たせたい一心で国が秘密裏に選手をヤク付けにするにしろ、私が健康を害するワケじゃなし、心の隅には薬漬けでもなんでもいいから一度100mを5秒で走る人間というものを見てみたいという気持ちもある。見つかれば罰を受けるのだし、見つからなければ早死にする、ということで当事者はある意味では体を張っているのであるから素人の私が外からヤイヤイいっても仕方がない。だがそれを監視すべき立場のものが、職業倫理より金を優先させたとなると話は全く別だ。
  
 もっともドーピングと言われて思い出す、というより強制的に思い出させられるのがロシアより旧東ドイツの選手たちである。1970~80年代に東独が国を挙げてやっていたドーピングも相当なものだった。ただ社会主義が崩壊した後、現ロシアと違って西ドイツに吸収されて組織や体制が完全に入れ代わったため、いろいろなことが明るみに出たのである。
 1985に東ドイツのマリータ・コッホという選手が47秒60というウソのような世界記録を出し、それがいまだに破られていないので、今でも陸上世界選手権やオリンピックの女子400mになるとその「世界記録」がテロップに出てくる。これが出るたびにドイツ人は恥しくなるそうだ。薬まみれの生産物であることが確実だからである。1991年にハイデルベルクの癌研究所の生物学の教授ヴェルナー・フランケらが詳細にデータを検証して東ドイツでは組織的にドーピングをしていたこと、コッホももちろんそうであったことを明らかにした。しかし、あらゆる検証からして確実なことでもその大会でコッホが本当にヤクを打っていたという直接の証拠がないから引っ込められないんだそうだ。それでこのテロップをみると過去の罪を毎回強制的に思い出させられているように感じるらしい。

 しかし国によっては自国の選手をドーピングする手間さえ惜しんで手っ取り早く外国から出来合いの選手を輸入し、国籍を与えてユニフォームを着せ、メダル稼ぎのマシンとして利用するところがある。これはカタールとかがすごい。この間のオリンピックなどでもブルガリア人の重量挙げの選手、イランのレスリングの選手、エチオピア(それともケニアだったかな)のマラソン選手などがなぜか皆カタール人として出場していた。そのわりにメダルは取れていなかったようだが。ケニアの選手がトルコから出てきたのも見たことがある。
 この傭兵の中にはマリーン・オッティなどの大物もいる。故郷はジャマイカだが、そこの陸連と齟齬をおこしたため、つてを頼ってスロヴェニアに移住し、スロヴェニア代表として出場した。
 面白いのがヨーロッパの卓球選手権で、一度女子個人戦のデンマーク対スウェーデンだか何かをTVで見かけたことがあるが、どちらも中国人の選手だった。1998年以降の中国人の女子個人優勝者を見てみると次のようなあんばいである。

1998年エインドホーヴェン(オランダ)大会
ニ・シアリャン Ni Xialian (ルクセンブルク)

2000年ブレーメン(ドイツ)大会
キャンホン・ゴッシュ Qianhong Gotsch (ドイツ)

2002年ザグレブ(クロアチア)大会
ニ・シアリャン Ni Xialian (ルクセンブルク)

2005年アールフス(デンマーク)大会
リュー・ジャ Liu Jia (オーストラリア)

2007年ベオグラード(セルビア)大会
リ・ジアオ Li Jiao (オランダ)

2009年シュツットガルト(ドイツ)大会
ウー・ジアドゥオ Wu Jiaduo (ドイツ)

2011年グダンスク(ポーランド)大会
リ・ジアオ Li Jiao (オランダ)

2013年シュヴェヒャート(オーストリア)大会
リ・フェン Li Fen (スウェーデン)

名前が漢字でなくローマ字表記だけで書かれてはいるが、これのどこがヨーロッパ選手権なんだと思う。もっともこの現象は女子だけで、男子の個人優勝者は皆ヨーロッパ系の名前であるところをみると、つまりこの選手たちは欧米人と結婚した中国人女性と思われる。もともと欧米人と結婚する東洋人女性は逆より数倍多いのだ。

 私個人はこの傭兵は構わないと思っている。偏狭な民族主義者・純血主義者は反対するかもしれないが、傭兵の側と国の側が双方合意しているのだから、互いの利益が一致してまことに結構。倫理にも反していないし、第一代表選手がカラフルになって見ているほうも楽しいではないか。
 問題は双方に合意がない場合、例えばその国の代表なんかになりたくない選手に国が無理矢理国旗を押し付けて走らせたりする場合であろう。そう、ここで私の頭にあるのは孫基禎選手のことだ。
 今のIOCなら金に敏感にもなったついでに人権とか国家倫理とかにも一応敏感になっているので、宗主国が植民地を独立国と認めていなくとも国あるいは独立チームとして認めるのが普通だ。だから台湾という「国」のチームが出てくるのである。そもそも今日の国際社会なら日本の朝鮮併合は承認されないだろう。だから今だったら孫選手は最悪でも「日本領コレア」または「日本領朝鮮」、多分「日本領」なんて前置きなしでズバリ「コレア」あるいは「朝鮮」の代表選手と見なされ、氏の世界記録や金メダルは「朝鮮」のものとなるはずだ。しかし孫選手が活躍したのは民族国家という幻想が世界を席巻していたころであり、しかも金メダルを取ったのはナチスドイツの主催したベルリンオリンピックである。条件が悪すぎたとしか言いようがない。
 この間ドイツのTVでこの孫選手のドキュメンタリー番組を流していたので驚いたが、私はオリンピック史などの話になったとき、孫選手の国籍が「日本」となっているのを見るたびに上述のマリータ・コッホの記録を見せられたドイツ人と同じような気持ちになって恥かしくて仕方がない。もちろん当時は韓国も北朝鮮もなかったが、今からでもせめて「朝鮮」という国籍に直して上げられないのかと思うのだが、これも薬によるイカサマ記録と同じで一旦書き込んだら変更できないんだそうだ。理不尽である。

 オリンピックが終わってみるとドイツも日本もメダルを結構取ったようだし、ネットなどで皆が楽しそうに話をしているのでさすがにちょっとは見れば良かったかなとは思った。しかし一方でスポーツとはあまり関係ない子供じみた仰々しい開催式、開催都市を借金まみれにさせても自分たちは肥え太る悪徳商人じみた経営、あまりにも不透明な運営ぶり、IOCがこの先もこういう路線で行くようだと東京大会も全く見ないで終わりそうな気がする。

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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下のインタビュー記事は『国が金を出し、私経済が懐に入れる』というタイトルで2016年10月21日の南ドイツ新聞にのったものですが、長いので2回に分けました。

言語学者で資本主義批判者のノーム・チョムスキーを存命している世界の頭脳の中では最重要の一人と見なす人は多いが、そのチョムスキー氏がタダ乗り企業、国に作られた携帯電話、国民を馬鹿に保っておこうとする政府の企てなどについて語る。

インタヴュアー:
クラウス・フルバーシャイト
カトリン・ヴェルナー


人が自分を自由主義的な社会主義者と呼ぼうがズバリ無政府主義者と呼ぼうが、チョムスキー氏自身にとってはどうでもいいことだ - この、現在87歳、名門マサチューセッツ工科大学(MIT)の名誉教授はかなり前からすでに他人の目など気にかけていない。氏は両親が20世紀の初頭ウクライナからアメリカ合衆国に移住してきたのだが、存命している世界の頭脳の中では最重要の人物と見なされている。言語の習得は学習過程よりもむしろ先天的な言語能力によるものだというその理論は言語学に革命を起こした。さらにアメリカの国際政治、資本主義、ロビー活動に対する急進的な批判者、またマスコミ批判者としても一般に広く知られている。MITの研究室でインタヴューを受けてもらった。氏は高齢にも関わらず今でもほぼ毎日そこに通ってくる。

南ドイツ新聞
チョムスキー教授、お金の話をしましょう。教授の新刊は『誰が世界を支配しているか?』というタイトルになっています。でも答えはもう何百年も前に出ていると思ったのですが。

ノーム・チョムスキー
金が世界を支配する、というわけですか?いや、そう簡単には行きませんよ。権力と経済力との関係は多くの人が思っているより複雑なんです。ちょっと100年前のことを考えてみてください:アメリカの経済力はイギリス、フランス、ドイツを合わせたより強かったんですよ。でも政治的な権力ということからするとヨーロッパに比べてこの国は問題になりませんでした。

では一体何が世界を支配するのでしょうか?

アメリカの例をさらに見てみましょう。1945年には世界全体の経済の半分をアメリカ合衆国が握っていました。そして戦争で破壊されたヨーロッパの国が追いつた。後にはアジアの国々が台頭して来ました。今日のアメリカのシェアは22%でしかない。でも我が国はそれだけ権力がなくなりましたか?

いえ、逆です。

でしょう。けれどこの数字というのがそもそも誤解の元なんです。30年ちょっと前に新自由主義の時代が始まってから、国際敵に活動している大コンツェルンが国境なんかとは無関係にコンツェルンそれ自体の経済的小宇宙を形成してしまいましたからね。あと銀行とかも見て御覧なさい。50年代60年代の長い経済成長期の間は全体経済から見て金融機関の役割などほとんどありませんでした。市民から貯金を集めてそれを例えば自動車が買いたがっている人に貸す、とそれだけ。その後レーガンとクリントン大統領の政権下で巨大な自由化の波が押し寄せて、銀行が突然利潤全体の40%を懐に入れてるようになった。その結果が2008年の経済危機ですね。

それは逆に言うとこういう意味ですか?国が規制を緩めて税金を下げ、銀行やコンツェルンにその場を任せたりしなかったら、私たちは今頃もっといい世界に住んでいただろう、と?

そう言い切るつもりはありません。影響を持ってくる要因が他にたくさんありすぎますからね。経済現象を100%確実に予測できるのは経済学者だけでしょう。

1対0で言語学者の勝ちですね。

新自由主義だって見方によれば役に立ったことがたくさんあります。おかげで企業の利益は飛躍的に増えたし、そのことによってまた比較的長期間経済が安定していたし。でも圧倒的多数の単純労働者にとっては悪い時代でした。素晴らしい経済成長率にも関わらずその2007年の実質賃金は1979年より低い。

でも新自由主義で枷が外れたおかげで可能になった投資もあるのでは?規制が緩和されなかったらできなかったような投資です。

例えば情報テクノロジーのことですか?

そうです。以前だったら絶対に銀行からクレジットなんて受けられなかったような企業が突然リスクのある融資を受けられるようになったではありませんか。ありていに言うとつまり、新自由主義がなかったらひょっとしてスマートフォンもなかった、と。

すみません、それはちょっと違います。テクノロジーに関心があったのは大抵国のほうです。軍事面から考えても産業政策上の点でもね。最初にいろいろたくさん研究し出したのはシリコンバレーじゃない。例えばまさにここMITとかが国防省から研究費を貰ってやったんです。携帯電話とかパソコンもそう。IBMがパソコンを生産し始めたのはその後ですよ。耳にするのはいつも同じ:国が金を出し、私経済が懐に入れるんです。

他にやり方があるとしたらどんな? 国が自分でスマートフォンを作って売るとか?

公共機関が開発の費用を出すのなら利益のほうも公共的に回収するべきなんです。でもその代わり私たちはいわゆる自由貿易協定というものを結んでいるわけです。そこで製薬、電機、メディアの大コンツェルンの私的な利益が国に保護さえされているという・・・

なぜ国が製薬会社になんらかの保護政策をしてはいけないのですか?よりよい新薬を開発して公共の利益になっているではありませんか。

企業は何も開発しないからです。自社の薬品の分子をちょっといくつか変え、その薬品を売り込むためにマーケティングに大金を投入する。それに対して本来の開発研究はここのような国の実験室でやっているんですよ。ノバルティスとかファイザーのような大製薬企業はそれをちょっと見て回っておいしいアイデアをくすね取るだけ。国がこれを自分でやっていればアメリカの保険費はもっと徹底的に下げられるでしょう。

それはむしろこういうことではないんでしょうか、確かに国は基礎研究の費用はだすが、研究内容の専門的な査定はできず、創造力にも欠けているから、その知識を市場に出せるような、また生活に役立つような製品に変えることが出来ない、と。

おっしゃる通りです。そういうことは大学の研究所がやる必要はない。けれどそのノウハウを民間コンツェルンにタダであげてやる代わりに公共の、市民社会から選ばれた代表者が取り仕切る企業が製品をつくればいいんですよ。そうすれば権力を少数の民間企業に握られないですむ、というメリットもあります。

でも教授が提案しておられるような社会主義的な国の経済はもうテスト済みなのでは?例えば東ドイツとか。悲惨な結果になりましたが。

東ドイツでやっていたことは、社会主義とは何の関係もありません。東ドイツは単なる全体主義国家です。労働者には何の権利もなく、世論もまったく影響力がなかった。西ドイツのほうが東ドイツより社会主義的でしたよ。あそこには少なくとも労働者が経営に参加できる、最低限の線があった。

労働者が資本主義の被害者ならば、どうしてアメリカでは労働者がドナルド・トランプを追いかけているのですか?氏はほとんど資本主義のカリカチュアではありませんか。

他にどんな選択肢があります?アメリカの労働者はもうかれこれ40年以上も両方から無視されているんです。だから今体制全体に背を向けていて、少なくとも自分たちのことを覚えてくれているかのごとく振舞うトランプのような人に従うんです。

現実には人間の生活は、例えば50年前に比べればずっと良くなっているのではないでしょうか?教授は新自由主義が起こる以前の黄金時代のようにおっしゃってますが?

どこからそんなお考えが出て来るんですか?実質賃金の変遷についてはもうお話ししたではありませんか。

実質賃金についてはおっしゃる通りです。でも現在は不動産とか資本収益とか相続遺産とか他の収入を持っている人が多いですよ。

もちろん石器時代に比べれば現在の人間の生活は良くなってますよ。19世紀とくらべたって良くなっているでしょう。それに、まあなんというか、今は車で行くから、馬糞が道に2メートルも積みあがっていたりしていないし。けれどそういうことを尺度にはしていません。尺度にしているのは、豊かさがもっと別な風に配分されていたらどうなりえていたか、ということです。最低賃金の例で考えて見ましょう:70年代の始めには最低賃金は生産が上がるのと平行して上がっていっていた。そのあと、この両者が互いに離れていってしまった。これが当時のように発展して行っていたら今頃最低賃金は7ドル25セントではなくて20ドルくらいあったはずです。

続きはこちら。


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「閑話休題」ならぬ「休題閑話」では人食いアヒルの子がネットなどで見つけた面白い記事を勝手に翻訳して紹介しています。下のインタビュー記事は『国が金を出し、私経済が懐に入れる』というタイトルで2016年10月21日の南ドイツ新聞にのったものですが、長いので2回に分けました。

前回の続きです。

南ドイツ新聞:
変革を望んで人は多く動かされるわけですが、変革というのは教授のような自称無政府主義者にとっても本来望むところであるはずですよね。それがトランプのようなポピュリストの利益にもなっていてもやっぱりそうですか?

ノーム・チョムスキー:
変革を望むのは理解できる、問題となるのは人に与えられている選択肢です。

昔からの制度風習はほとんどすべて信望を失ってしまったような気がするんですが - 政府も議会も政党も企業もメディアも、それから教会さえも。

これらは現在では本当に嫌われていますね。

この先どういうことになるんでしょうか?

私には言えません。あのね、私はまだよく覚えているんですが、子供の頃ラジオでヒトラーの演説を聞いたんです。その言葉は理解できませんでしたが、メッセージは伝わりました。こんにち例えばドイツやオーストリアでのアンケートの結果なんか見てみていると、でもまあ、こう言わざるを得ないでしょうねえ:勇気づけられるような感じではないな、と。

現在メディアも右からも左からも攻撃されています。メディアは「体制」に奉仕していてそこから外れる意見は全然言葉にしてくれないと言われてます。教授自身もこれらの批判者のお一人ですが。私たちメディアが一般に言われるようにひどいものなら、どうして私たちはここでこうやって教授とお話しているんですか?

あなた方がひどいとは私は言っていませんよ。間違っていることが多いということです。メディアが視聴者に伝えるニュースを選択するやり方とか。でもそれだからと言って私が毎朝重要な国の内外の新聞を読む妨げにはなりません。

メディアが、使用できる他のソースと比べるとそんなに悪くもないからではないですか?

そうです。読んでいて腹の立つようなこともたくさん書いてありますが、さしあたってはこれよりマシな出発点がありませんからね。私はまず日刊紙を読んでから他のソースにあたります。

教授のような左派の知識人がメディアを批判すると、されたくない側から拍手されたりしますが。右派から自分たちのプロパガンダの正しさを証明してくれる証人として持ち出されると嫌ではありませんか?

どういう風にメディアを批判するかによります。私がメディアを批判するのは例えばコンツェルンを保護するために結んだ条約を自由貿易条約を呼んだりすることです。でもそれでも「私はメディアが大嫌いだ」と言い切るほどではありません。

事実としては、右派と左派は大声で実は同じことを主張している、ということがあります。例えば民主党左派のバーニー・サンダースの信奉者には今はサンダースの党の同僚ヒラリー・クリントンを選ばずにトランプに票を入れようとしている人たちがいますね。

この人たちはクリントンが大嫌いなんですよ。問題はただ、だからクリントンが嫌いなんだというその要素はトランプも持っていて、こちらのほうがさらにひどいということですね。

トランプが勝ったら、世界にとってどういうことになるでしょうか?

私たち全員の生存に関わる二つの問題を見てみましょうか。気候変動と核兵器のことを。気候問題ではトランプは化石燃料に戻るという完全に間違った方向に向かって行進中です。方向転換のタイムリミットまでもうそんなに時間がないのにね。核兵器について言えばこういうことです:無知な上にすぐ感情的になるような誇大妄想狂の人物に地球をふっとばせるような権力を与えてしまっていいのか?

でも選挙戦ではこれらのテーマは二つともほとんど表に出てきませんでしたが。

ええ、メディアが内容そのものはそっちのけでトランプがミスコンテストの優勝者と悶着を起こしたとかそういうことばかりニュースにするからです。本当にこれは読者や視聴者への詐欺行為ですよ。

無政府主義者が世の中をよくするためにできる貢献とはどんなことでしょう?

権威に対してその正当性に疑問を突きつける、また異を唱える、ということです。あらゆる制度機構には正当性がないといけない。それがない制度機構は廃止されるべきです。

そんなにはっきりしていることなら、どうして皆教授のご提案に従いたいと思わないのですか?

誰が従いたくないと言っているんですか?誰もその可能性を与えてくれないんですよ。

革命の革命たる所以は人々が可能性を自分でつかむ、ということにあるのではないですか?

革命はそれをやりますよ、組織されて活動していれば - でも今はもうそうではなくなってしまいました:政治が社会をバラバラにしてしまいましたからね。人々は互いに孤立して生きているし、教会と大学以外は組織というものがほとんどない。意見交換の場がないから政治問題への理解を深められない。時々ボタンを押して候補者に一人票を入れる、それだけ。現在の政治システムではそれ以上することがありません。

その裏には意図的な計画があると?

もちろん。そのためにPR産業が開発されたんです。PR産業は人々の関心が表面的な生活のことにだけ向かうようにしむける。下手にコミットしないで消費だけしていろというわけですね。近代PR産業の創設者の一人、エドワード・バーネイズがズバリ言い切ってますよ:世間の人々ってのは問題だ。彼らは馬鹿で無知だから脇へどいててもらって責任感のある人間になんでも決めてもらうのが彼ら自身にとっても一番いいんだ、と。そのためにPR部門が最も自由な社会にも誕生したんです、つまりアメリカとイギリスにね。これらの社会では前世紀に市民が極めて広い自由を獲得して、権力施行によって人々をコントロールするのが難しくなった。だから人々の意見や行動のほうをコントロールしないといけないというわけです。

そういう陰謀があるとしたら、それに対して教授のような知識人ができることとはどんなことでしょうか?

皆がいろいろな問題点にもっとコミットしてもっとよく理解するように仕向けることができるでしょう。

問題はただ、知識人という集団もまた人々がもう信用していない、ということです。データが増えているのにそれらがそもそもデータとして認めてもらえないことも多い。

本当にそういう人はいます。その原因を理解するためにはアメリカについていくつかはっきりさせておかないといけない。1945年まではアメリカは経済的には世界で最も裕福な国でしたが、知性の点では遥かに劣っていた:学問をやりたかったらヨーロッパに行かなければいけなかったんです。知性ではこの国は後進国というのはいまだにあまり変わっていませんね。

そうお決めになる根拠はどんなことですか?

気候変動のことを考えてみましょう;人口の約40%が「この問題はもう扱う必要がない、だってまもなくキリストが地上に戻ってくるじゃないか」などと信じているようでは難しいでしょう。トランプ現象の大部分はこういうところから発生しているんです。私はたった今中西部のある夫婦についての記事を読んだところですが、さるキリスト教の共同社会で美しい生活を送っていた。庭には小さなチャペルが建ててあった。が、そこで突然そのチャペルで男同士・女同士でまで結婚させるよう、法律で義務付けられてしまった。これらの人々にとっては世界が崩れ落ちたんです - もちろん前近代的な世界ですが、世界は世界ですからね。

そういう後進性は嫌ですか?

それらの人々を責めるつもりはありません。見ていると私の祖父を思い出しますよ。祖父は100年前にアメリカに移住してきましたが、頭の中はまだ17世紀に住んでいました。ウクライナのさる村の生まれですが、アメリカでも超正統派の小さなユダヤ人共同社会の中で生活していて、この国の社会や近代社会とは別のところにいました。だから私にもこういう人たちへの共感がないわけではありません。彼らにだってそういう生活をする権利がある、と思っています。

それでもなお出来ることがあるとしたら?

教育が助けになる。これらの社会でも若い世代は変わりつつあります。

では最後の望みはまだ持っていらっしゃるんですね? 若い世代という。

希望はいつだってありますよ。

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念のため:私はこの新聞社の回し者ではありません。)


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