アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:日本語

 うちに古いロシア語の教科書が何冊かあるのだが、その一つを何気なくまた覗いてみたら例文がレトロで感激した。ドイツのLangenscheit(ランゲンシャイト)社発行で、初版が1965年、私の手元にあるのは1992発行の第9刷である。そこの例文にこういうのがある。

Товарищ Щукин – рабочий. Сейчас он работает. Он работает хорошо, очень хорошо.

同志シチューキンは労働者です。彼は今働いています。彼はよく働きます、とてもよく働きます。

なんという感動的な文だろう。そう、この教科書が書かれた頃はソビエト連邦真っ盛りだったのだ。もう一冊、ドイツ発行でなくソ連で印刷された教科書(1991年発行)にはこういう会話例がのっている。

– Скажите, пожалуйста, коллега, когда был открыт Московский  университет?  – спрашивает Эдвард.
– В 1755 году, его основал великий русский учёный Михаил Васильевич Ломоносов.
– А сколько студентов учится в университете?
– Около 30 тысяч. И здесь работает почти 8 тысяч профессоров и преподавателей, среди них 126 академиков.

「教えてください、同僚の方、モスクワ大学はいつ開かれたのですか?」とエドワルドが尋ねる。
「1755年に偉大なるロシアの学者ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフが創立しました。」
「ではどれだけの学生がこの大学で勉強しているのですか?」
「3万人くらいです。さらに、ここではほぼ8千人の教授と講師が働いています。そのうち126人がアカデミー会員です。」


こういうのを「シビれる会話」というのではないだろうか。「同僚の方」という呼びかけといい、「偉大なる」という形容詞といい、「ロモノソフ」と苗字だけ言えば済むところをわざわざ「ミハイル・ワシリエビッチ・ロモノソフ」とフルネームを持ち出すところといい、「126人のアカデミー会員」とか妙に正確な数字といい(単に「100人以上」とか言えば十分ではないか)、そしてそもそも会話の内容が完全にプロパガンダっているところといい、もうソ連の香気が充満していてゾクゾクする。

 もっとも言語学の専門論文にも面白い例文は多い。妙に時代を反映しているのだ。1960年代に書かれた論文の例文には「ケネディ」や「フルシチョフ」が時々使ってあったし、1990年ごろは「クリントン」が登場した。Enric VallduvíとElisabet  Engdahlと言う学者が1996年に共同執筆した論文にはGorbatschow ist verhaftet worden(ゴルバチョフが逮捕された)という例文が見える。

 日本人で例文の面白い言語学者というと、ハーバード大の久野暲教授ではないだろうか。私のお奨めはこれだ。以下の2文を比較せよ。

a. 強盗僕の家に入った。 その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。

b. 強盗とコソ泥僕の家に入った。強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。コソ泥黙って、カメラを取って家から出て行った。

これはマサチューセッツ工科大学が発行している言語学の専門雑誌Linguistic Inquiryで1977年に発表されたものだ。だから原文は英語、そして日本語はローマ字で表記してある。ほとんどダーティ・ハリーの世界だが、後にSenko Maynardという学者が別の論文でこの例文をさらに次のようにバージョンアップしている。

強盗僕の家に入った。
その強盗僕にピストルをつきつけて、金を出せと言った。
その時友達の山中さん部屋に入ってきた。
山中さんドアのそばにあったライフルをつかむと、あたり構わず撃ち出した。

これも英語論文だが、論文本体はどちらも談話を分析、あるいはセンテンスの情報構造を論じている、理詰め理詰めの非常に堅い内容。その本体の堅さと例文のダーティ・ハリーぶりとの間に落差がありすぎて読んでいると脳が悶えだす。考えると学者というのは本論のデータ分析にギリギリの根をつめないといけないし、そこでは実証のできない単なる思弁や想像が許されない、つまり芸術性を発揮できる機会が少ないから、例文作成にここぞとばかり創造力をつぎ込むのではないだろうか。

 あと、外国人のための日本語の教科書にも次のような例文を見つけた。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『七人の 侍』です。 古いですが、とても おもしろい 映画です。

たしかにその通りなのだが、『七人の侍』では当たり前すぎてちょっとインパクトに欠けるきらいがありはしないか。私が日本語教師だったらこうやってやる。

A: きのう 映画を見ました。
B: どんな 映画ですか。
A: 『続・荒野の用心棒』です。 エグいですが、とても おもしろい 映画です。

『続・荒野の用心棒』の代わりに『修羅雪姫』でもよかったかもしれない。これなら一応日本映画だし。


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 前回の続きです。

 more にあたる語がplūs かmagis かという他にもう一点気になることがある。スラブ語にはちょっとお休みをいただいてロマンス語派とゲルマン語派の主なものだけもう一度見てみよう。
Tabelle1-N30
 問題は more の位置だ。ほとんど総ての言語で more にあたる語が dollars の後に来ているのに本国ポルドガル語のみ、more が a few dollars の前に来ている。ちょっとこの点を考えてみたい。なおここでは「本国」と「ブラジル」と分けてはあるが、別にブラジルでは本国形を使わない、あるいはその逆というわけではなく、要は「どちらでもいい」らしい。スペイン語もそうで、本国では南米形を使わないという意味ではない。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)や ein paar (a few)が Dollar の前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for + a few + dollars + more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここで mehr (more) を Dollar の前に持ってきた構造

?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけての NG 宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のように mehr (more)を ein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの * 印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more books あるいは some more books という語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員 For a few more dollars はOKだと言った。For a few dollars more のほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱり NG 宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でも más(more)は dólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

*Por unos cuantos más dólares と*Por más unos cuantos dólares の許容度に差があるかどうかは残念ながら聞きそびれてしまった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 次にいわゆる p- 組のフランス語ではスペイン語と同じく、more が名詞の前、ましてや a few の前には出られない。a few more books がフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some + books + of + more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques plus dollars
*Pour plus quelques dollars

の二つはどちらも却下した。
 同じくp-組のイタリア語では più (more) が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a + few + more + of + books

残念ながらネイティブが見つからなかったので Per qualche più dollaro とかなんとか more が dollars の前に出る構造が可能かどうかは未確認である。
 もっともロマンス語を見ると純粋に more にあたる語の位置に加えて前置詞の使い方がポイントになってくるようなので、ちょっと私の質問の仕方が悪かったかもしれない。またネイティブに聞いたといっても偶然そこに居合わせた人に(しかも一人だけ)よもやま話で持ちかけただけなのでとても「調査」などと言えるようなシロモノではない。いつか詳しく知りたいものだ。

 それでもここまでの結果を見てみると問題は実は「more にあたる語が dollars の前に出られるか否か」というよりむしろ「more (にあたる語)が a few (にあたる語)の前に出られるか否か」であることがわかる。言い換えると more (にあたる語。面倒くさいので以下単に括弧にいれて「more」と呼びます )は数量表現の前には出られないのである。シンタクス的には 「more」は数量表現を支配していると解釈できるから、支配要素が非支配要素の数量表現の後に来ていることになる。「支配・非支配」というのはちょっと専門的な用語になるが、いわゆる修飾語は被修飾語に支配されている関係と思っていい。a cute duck という句なら修飾語の cute は非修飾語の duck に支配されている。ついでに a は限定辞 deterniner として cute duck を支配する。
 とにかく「more 」は数量表演を支配するが、その際何を持って数量表現ととするかという点に言語による違いがあるらしい。通貨単位を含めた「a few dollars 」全体を数量表現と見なす、見なせるというのは全言語共通だが、英語はそこからさらに a few を切り離してこれを単独で数量表現とみなせるということだ。ドイツ語も実はそうなのだろう。上で述べたように Für ein paar mehr Dollar の否定に時間がかかったのはそのせいだと思う。その a few more dollars という構造だが、ここでは more は数量表現を支配する一方、後続の普通名詞 dollars  に支配されている、more が dollars  を修飾していることがわかる。違いを図で書くとこんな感じになりそうだ。

for [ [a few dollars] more] N
for [ [ [a few] more]N1 dollars]N2

つまりmore はある意味名詞なわけで、a few more dollars では名詞が別の名詞を修飾している状態、日本語の「母さんアヒル」と同じ構造だ。悔しいことに辞書を見たら more の項にしっかり「名詞」と載っていた。なぜ悔しいのかと言うと「わーい more って名詞じゃん!」というのは私が自分で発見した新事実だと思っていたからである。ちぇっ、もう皆知っていたのか…

 しかし実は「支配する要素は支配される要素の後ろに来なければいけない」という必然性はない。例えばフランス語では形容詞(支配される要素)が名詞(支配する要素)の後ろに来る。「more」が「a few」の前に出られないのか前者が後者をシンタクス上支配しているから、という理屈は成り立たないのである。では「more」はなぜ「a few」の前にでられないのか。私が(ない頭を必死にひねって)考えつく理由はたった一つ。「more」が数量表現の前に来ると「more than」(ドイツ語では mehr als)と紛らわしくなって意味が変わってしまう危険性が高すぎるからではないかなということだ。For more a few dollars あるいは Für mehr ein paar Dollar とやったら For more than a few dollars(Für mehr als ein paar Dollar)かと思われ、しかも more や als が欠けているから意味が違う上に文法的にも間違いということになり、意図した意味と乖離しすぎる。
 そういえばドイツ語には Für ein paar Dollar mehr の他にもう一つ「あともう少しのドルのために」を表す方法がある。副詞の noch を使うやり方だ。これは英語でいえば still とか in addition 、つまり「その上さらに」という副詞だが、als とツルんで「~以上」という意味になったり、他の句を支配したりなどと言う器用なことはできない。混同される虞が全くないので名詞句の前に立てる。

Für noch ein paar Dollar

しかし名詞を支配できないから数量表現と名詞の間に割って入って橋渡しすることができない。

* Für ein paar noch Dollar

またこれが文末、あるいは句の最後尾に来ると何かが大幅に省略されている感じで、そもそも意味が取れないそうだ。

* Für ein paar Dollar noch

では Für noch ein paar Dollar とFür ein paar Dollar mehr は完全に同じ機能かというと「含意が違う。後者の方が言外の意味が広い」そうだ。まず前者だが、含意としては当該人物が例えばすでに100ドル持っている、あるいは賞金稼ぎで100ドルのお尋ね者をゲットした。しかしさらに金が欲しいから働く。その「さらに」は5ドルかもしれないし、110ドルかもしれない。要は元金(?)100にいくらか上乗せされればいいのだ。これが基本の意味で、後者もその意味で解釈していい。しかし後者ではもう一つの意味解釈ができる。前回100ドルの懸賞金を得た当該人物がさらに今度は100ドル以上の賞金のついたお尋ね者を狙う、つまり懸賞金のグレードアップというニュアンスの解釈が可能だそうだ。「これは明らかにレオーネの前作 Per un pugno di dollari (「一握りのドルのために」、邦題『荒野の用心棒』)への暗示だ。」いやネイティブというのは言うことが細かい細かい。

 さて、ではその間違えやすい For more than a few dollars の方は上にあげた言語ではどういうのか、自動翻訳するとこうなった。これを思いついたときは周りにネイティブがいなかったので仕方なくディープ L 先生に頼ってしまったのである。「本国」と「南米」の区別は出来なかったのでスペイン語とポルトガル語の単なるバリエーションということにした。
Tabelle2-N30
 さて、ポルトガル語には mais(more)が数量表現の前に来ても「more than と誤解されない何か」があるのだろうか。他のロマンス語と何か決定的に違う点はあるのだろうか。For more than a few dollarsの意味ではポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順、「more」が「a few」の前に出るという下のようなウルトラCが可能だ(下記太字)。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかは未調査)

上の表をざっと見るとたった一つ思いつくことがある。他のロマンス諸語と違ってポルトガル語には「more than」の「than」を1語でなく do que と2語で表す方法があるということだ。1語しかないとわざと抜かしたのか聞きそびれたのかわからない、つまり more than なのか単なる more なのか紛らわしいが、さすがに2語抜けるとわざとであることが明確、つまり単なる more であることがはっきりするからOKとか。でも一方ポルトガル語にはスペイン語と全く閉口する形、Por mais de alguns dólares という「more」を1語で表す形もあるではないか。そのオトシマエはどうつけたらいいのだろう。無理やり解釈すれば、たとえ mais de という短い形があっても mais do que という存在が背後にあるので「than」をつけないのは意図的と解釈されやすく、短い de のほうを消してもわざとなのかうっかりなのかが混同されにくいとか。しかしそりゃあまりにも禅問答化しすぎなので、方向を変えて mais do que と mais de のどちらが古い形なのかちょっと考えてみた。
 まず、イタリア語の di、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の de は同語源、皆ラテン語の前置詞 dē(of, from)から来たものだ。ポルトガル語の do の方はしかしもともとは2語、de  + o で、後者は the である。つまりこの語はポルトガル語内で発生した比較的新しい語だということだ。だから他のロマンス語と並行するポルトガル語形 Por mais de alguns dólares は古い形、やや廃れつつある形なのではないだろうか。もう一つ、スペイン語にもポルトガル語にも「than」に que を使う構造がある。この que はラテン語の quid(that, what)だが、スペイン語の por más que unos pocos dólares が文句なく For more than a few dollars であるのに対し、ポルトガル語の Por mais que alguns dólares は文句大ありの形である。なぜスペイン語に文句がないのかと言うと、この形を英語やドイツ語、果てはフランス語などの逆翻訳すると例外なく For more than a few dollars にあたる形が出て来るからだ。一方ポルトガル語の方は逆翻訳すると英語でもドイツ語でも意味が違って出てくる。どうもこの que だけ使うポルトガル語表現はマージナルなのではないだろうか。これらを要するに、ポルトガル語では「than」に2語使う Por mais do que alguns dólares がメインであるために「more than」と「more」の区別がつきやすく、mais がalguns dólares(a few dollars)の前に出て For a few dollars more の意味を担うことを許したのではないだろうか。
 でもなぜいくら条件が許したからと言って mais は大人しく最後尾に引っこんでいないで前にしゃしゃり出る気になったのか。別に誰も「おい、mais、前に出ろ」とは言っていないのだ。これもわからないのだが、たった一つ私に考えつくのは上でもチョロッと述べたようにロマンス語は本来支配要素が非支配要素の前に立つのが基本だということだ。最後尾に甘んじてはいても実はスペイン語の más もイタリア語の più も以前から前に出たくて出たくてしかたなかったのかもしれない。そうやっていたところポルドガル語で条件が整ったのでヒャッホーとばかり名詞句の前に出たとか。
 もしそうだとするとそのポルトガル語ヒャッホー形は新しい「more than」表現 mais do que よりさらに下った時代のイノベーションということになるが、この記事の冒頭や前回述べたように Por uns dólares a mais がブラジルポルトガル語、Por mais alguns dólares が本国ポルトガル語とされていることが実に興味深い。言語学には波動説というものがあり、「周辺部の形は当該言語の古形を表す」という現象が知られているからだ。例えばいつかオランダ語のネイティブが言っていたが、アフリカーンス語(『89.白いアフリカ人』参照)はとても古風なオランダ語に見えるそうだ。アフリカーンスはいわばオランダ語の周辺バリエーションだから古い形を保持している。この図式をポルトガル語に当てはめるとブラジル・ポルトガル語は「より古い形が残っている」ことになり、Por mais alguns dólares はポルトガル語の比較的新しいイノベーションという見方にマッチする。

 以上が私の考えだが、繰り返すようにこれは超テキトー&穴だらけなネイティブ「調査」に端を発し、あげくはディープL先生のおっしゃったことを鵜呑みにして無理やり出した結論だから、アサッテの方角にトンチンカン砲を放っている虞大ありだ。何か知っている方がいらっしゃったら教えていただけるとありがたい。

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 一般言語学の教授が一度国粋主義・民族主義を嫌悪してこんなことを言っていたことがある。

「ナチスがヨーロッパのユダヤ人やロマを「浄化」したが、彼らの母語イディッシュ語やロマニ語がどんなに言語融合現象の研究やドイツ語学にとって重要な言語だったか彼らにはわかっているのか(わかってなかっただろう)。そんな貴重な言語のネイティブ・スピーカーをほとんど全滅させてしまった。惜しんでも惜しみきれない損害。」

さらにいわせて貰えばプラーグ学派の構造主義言語学が壊滅してしまったのもトゥルベツコイが早く亡くなったのもヒトラーやスターリンのせいである。ネイティブスピーカーばかりでなく研究者までいなくなっては研究は成り立たない。それまでは世界の言語学の中心はヨーロッパだったが以後は優秀な学者が亡命してしまったためと、国土が荒廃して言語学どころではなくなったため、中心がアメリカに移ってしまった。

 そもそもナチスがやたらと連発した「アーリア人」という名称は実は元々純粋に言語学の専門用語で、人種の民族のとは本来関係ないのである。「アーリア人」という用語を提唱したフリードリヒ・ミュラーという言語学者本人が1888年にはっきりと述べているそうだ。

「私がアーリア人という場合、血や骨や髪や頭蓋のことなど考えているのではないと、何度も繰り返してはっきりと言ってきた。私はただ、アーリア語系の言語を話す人々のことを言っているにすぎないのだ。アーリア人種とか、アーリアの血、アーリアの眼、アーリアの髪などという民俗学者は、私には、短頭の文法などという言語学者とまったく同じ罪人のように思われる。」

だからもしアメリカ生まれの日本人が英語を母語として育てば立派なアーリア人だし、そもそもロマはドイツ人なんかよりよっぽど由緒あるアーリア人である。
 上で述べた教授も、「ナチスのせいで本来中立な言語学の用語であった「アーリア語族」という用語が悲劇的な連想を誘発するようになってしまい、使えなくなった」と嘆いていた。だいたい「印欧語」という折衷的な名称は(ドイツで以前使われていた「インド・ゲルマン語族」は論外)不正確な上誤解を招くのでできることなら使わないほうがいいのだ。これだと「インド」と「ヨーロッパ」との間に一線画せるような間違った印象を抱かせる上、インドで話されているのは印欧語だけではないからこの名称は本来全く意味をなさない。普通の神経を持っている者ならヒッタイト語やトカラ語を「インド・ヨーロッパ語族」などとは呼びたくないだろう。「アーリア語族」という名称が使えれば全て丸く収まるのである。
 その、本来最適であった中立的名称を使えなくしてしまったのは言語学ドシロートの国粋主義者である。もっとも「母語」、「民族」、「国籍」という全く別の事象を分けて考えられない人は結構いるのではないだろうか。

 さて言語学者が嫌うのは特定の言語話者を低く見ることばかりではない。その逆、特定の言語を他言語より優れたものと見なして自己陶酔する民族主義者も嫌悪する。
 時々、安易に「日本語は世界でも特殊な言語だ」とか「優れた言語だ」と言って喜んでいる人がいる。不思議なことにそういう、「日本語の特殊性」と無闇に言いだす人に限ってなぜか比較対照にすべき外国語をロクに知らなかったり、ひどい場合は日本語を英語くらいとしか比較していない、いやそもそも全く外国語と比較すらしていない場合が多い。難しいの珍しいのなどといえるのは日本語を少なくとも何十もの言語と比べてみてからではないのか?日本語しか知らないでどうやって日本語が「特殊」だとわかるのだろう。例えば日本語を英語と比べてみて違っている部分を並べ立てればそりゃ日本語は「特殊」の連続だろうが、裏を返せば英語のほうだって日本語と比べて特殊ということになるのではないだろうか。そもそも特殊でない言語なんてあるのだろうか。
 以前筑波大学の教授だったK先生が、この手のわかってもいないのに得意げに専門用語を振り回す者(例えば私のような者とか)に厳しかった。私は直接授業は受けたことはないが、書いたものを読んだことがある。どこの馬の骨ともわからない者の書いたエッセイ(例えばこのブログとか)とか評論、時によると小説などを鵜呑みにして「日本語は特殊で世界でも珍しい言語だ」とかすぐ言い出す人々を先生は、Japan-is-unique-syndromeと揶揄、つまりビョーキ扱いしていた。いったい日本語のどこが珍しいのかね? 母音は5つ、世界で最もありふれたパターンだ。主格・対格の平凡きわまる格シスム。「珍しい」と自称するなら能格くらいは持っていてから威張ってほしいものだ。

 確かにこれら言語学者たちの言葉はヒューマニストのものとして響く。そこに共通しているのは人間を肌の色や民族で差別することに対する怒りだからだ。しかし私はこれを「ヒューマニズム」と呼んでいいのか、と聞かれると無条件で是とは答え得ないのである。意地の悪い見方をすれば上の教授が痛恨がったのは言語の消滅であって人間の消滅ではないからだ。
 たしかに実際問題として言語はネイティブスピーカーという人間なしでは存在しえないし、「言語」は人間として本質的なものだ。「人類は言語によって他の動物から区別される」「言語がなかったら文明も文化も、つまり人類の創造物はすべて存在し得なかった」と本に書いてあるのを何回も見た。だから言語と人間は不可分なわけで、その意味では上の言語学者は結果としてヒューマニストである。その怒りは事実上人間を差別したり、自分たちを特殊な存在と考えたりすることへの嫌悪なのだが、いわゆるヒューマニズムとは完全にはイコールでないような気がしてならない。

 言語学者にあるのは、未知の現象と遭遇しえた喜び、あるいは話には聞いていた・理論としては知っていたが実際には見たことがなかった現象(言語)を実際にこの眼で目撃しえたという純粋な喜びだ。確かにこういう純度の高い喜びの前では国籍の民族の肌の色の眼の色のなどという形而下の区別など意味をなさないだろう。
 実は私もさる言語学の教授を狂喜させたことがある。私の母語が日本語だとわかると、教授は開口一番、「おおっ、では無声両唇摩擦音をちょっと発音してみてくれませんか?」と私に聞いてきた。そんなのお安い御用だから「ふたつ、ふたり、ふじさん」と「ふ」のつく単語を連発してみせたら、「うーん、さすがだ。やっぱりネイティブは違う」と感動された。後にも先にもこの時ほど人様が喜んてくれたことはない。
 でもこれを「ヒューマニズムの発露」と受け取っていいかというと大変迷うところだ。

 しかし一方ヒューマニズムという観念自体定義が難しいし、「やらぬ善よりやる偽善」という言葉もあるように「結果としてヒューマニズム」「事実上のヒューマニズム」というのもアリなのではないかとは思う。最初に抽象度の高いヒューマニズムという観念が与えられて各自がそれを実行・実現する、という方向とは逆に、最初に各自それぞれ人間という存在に何かしら具体的な尊厳を感じ取って守る。言語学者は言語がそれだが、他の人はまた人間の別の要素に犯しがたい崇高なものを感じ取る、そういう、各自バラバラに感じ取った神聖不可侵感をまとめあげ積みかさねていったものが「ヒューマニズム」という観念として一般化・抽象化される、そういう方向もアリだと。


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 ドイツでは国歌を斉唱したりすることがあまりない。もちろん学校行事で歌うことなどないしそもそも「学校行事」などというものがほとんどない。国旗を掲げたりもあまりしない。ベルリンの国会議事堂なんかにはかろうじて国旗が揚がっているが、地方裁判所になると立ててあるのは州旗である。
 昔フライブルク・バーゼル経由でチューリヒに行こうとして電車に乗っていたところ、パスポートのコントロール(当時はまだ東西ドイツがあったし、EUでなくECだったのでスイスとの国境でパスポートのチェックがあったのだ)に来た警察官のおじさんが雑談を始めて、「スイスに行くんですか。でもシュバルツバルトも見ていくといい。フライブルク、チューリヒ、あとミュンヘンやオーストリアの住人って一つの民族なんですよね。言葉も同じ、文化も同じ、一つの民族なんだ」と言っていた。つまりこの南ドイツの警察官のおじさんにとってはオーストリア・スイスのほうが北ドイツ人より心情的に「同国人」なのだ。一方北ドイツ人も負けていない。「フランクフルトから南はもうドイツ人じゃない。半分イタリア人だ」「バイエルン訛よりはオランダ語の方がまだわかる」などといっている人に遭ったことがある。かてて加えてドイツ国内にはデーン人やソルブ人などの先住民族がいる。後者は非ゲルマン民族だ。こういうバラバラな状態だから国旗なんかより先に州旗が立つのだ。ドイツでいい年の大人が国歌を歌ったり国旗を振り回したりするのはサッカーの選手権のときくらいではないだろうか。時々これでよく一つの国にまとまっていると不思議になるが、国歌斉唱などしなくてもドイツという国自体は非常に堅固である。

 日本では時々小学校、ひどい時には大学で国歌を斉唱させるさせないの議論になっているが、そんなことが国家の安定とどういう関係があるのかいまひとつよく理解できない。理解できないだけならまだいいのだが、小学校の式で国歌を歌わせる際、教師や生徒が君が代を本当に歌っているかどうかを校長がチェックするべきだ云々という報道を見たことがあり、これにはさすがに寒気がした。中年のおじさん教師が10歳くらいの子供の口元をじいっと見つめている光景を想像して気分が悪くなったのである。
 子供たちもこういうキモいことをされたら意地でも歌ってやりたくなくなるだろうが、相手は生殺与奪権を持つ大人である。せいぜい口パクで抵抗するしかない。しかしこの「口パク」というのは結局、実際に音が出ないというだけで頭の中では歌っているわけだから相手に屈したことになる。それではシャクだろうからいっそ君が代を歌っていないことがバレない替え歌を歌うという対抗手段をとってみてはいかがだろうか。

 まず、「バレない替え歌の歌詞」の条件とは何か、ちょっと考えてみよう。

 第一に「母音が本歌と揃っている」ということだ。特に日本語のように母音の数が比較的少ないと、アゴの開口度が外から見て瞭然、母音が違うとすぐ違う歌詞なのがわかってしまう。
 もう一つ。両唇音を揃える、というのが重要条件だ。摩擦音か破裂音かにかかわらず、本歌で両唇音で歌われている部分は替え歌でも両唇音でないといけない。両唇音は外から調音点が見えてしまうからだ。具体的にいうと本歌で m、b、p だったら替え歌でも m、b、p になっていないとバレる。ただしこれは円唇接近音でも代用が利く。円唇の接近音は外から見ると両唇音と唇の動きが似ているからだ。で、m、b、p は w で代用可能。逆も真なりで本歌の w を m、b、p と替え歌で代用してもバレない。
 あと、これはそもそも替え歌の「条件」、というより「こうありたい」希望事項だが、母音は揃えても子音は全て変えてみせるのが作詞者の腕の見せ所だ。音があまりにも本歌と重なっていたら、替え歌とはいえないだろう。少なくともあまり面白くない。

 これらの条件を考慮しつつ、私なりに「バレない君が代」の歌詞を作ってみたらこうなった。

チビなら相場。ひとり貸し置き。鼻毛記事をヒマほど再生。俺をぶつワケ?

君が代の歌詞を知らない人・忘れた人、念のため本歌の歌詞は次のようなものだ。比べてみて欲しい。母音が揃っているだろう。

君がぁ代ぉは 千代に八千代に さざれ石の巌となりてぇ 苔のむすまで

4点ほど解説がいると思う。

1.本歌では「きみがぁよぉわぁ」と「が」を伸ばして2モーラとして歌っている部分を替え歌の方では「なら」と2モーラにした。もちろん母音はそろえてある。

2.同様に本歌で「よぉ」と2モーラに引き伸ばしてあるところを「そう」と2モーラにした。「そう」の発音は[sou]でなく[so:]だからこれでOKだと思う。

3.「再生」の「生」は実際の発音も「せー」、つまり [sei] でなく [se:] だから本歌の「て」の代わりになる。

4.ここではやらなかったが、「再生」、つまり本歌の「なりて」の部分は「かんで」でも代用できる。ここの/n/(正確には/N/)の発音の際は後続の「え」に引っ張られて渡り音として鼻母音化した[ɪ] (IPAでは ɪ の上に ˜ という記号を付加して表す)が現われ、外から見ると非円唇狭母音「い」と同じように見えるからだ。「再生」より「噛んで」の方がワザとしては高度だと思ったのだが、「ヒマほど噛んで」では全く日本語になっておらず、ただでさえ意味不明の歌詞がさらにメチャクチャになりそうなので諦めた。

 こんな意味不明の歌詞では歌えない、というご意見もおありだろうが、文語の歌詞なんて意味がとれないまま歌っている子供だって多いのだから、このくらいのシュールさは許されるのではなかろうか?私だって子供の頃「ふるさと」の歌詞を相当長い間「ウサギは美味しい」と思っていたのだから。
 そんなことより大きな欠陥がこの替え歌にはある。児童が全員これを歌ってしまったら結局バレてしまうということだ。その場合は、「先生、私はちゃんと君が代の歌詞を歌っていましたが周りが皆変な歌詞を斉唱していました。」と誤魔化せばいい。


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 『17.言語の股裂き』の項で、西ロマンス諸語はラテン語の複数対格を複数形全般の形として取り入れ、東ロマンス語はラテン語の複数主格をもって複数形としたと言われていることを話題にした。私自身はこの説にはちょっと疑問があるのだが、それとは別に対格か主格かという議論自体は非常に面白いと思っている。他の言語でもこの二格が他の格に比べて特別なステータスを持っている事例が散見されるからだ。

 ロシア語は数詞と名詞の組み合わせが複雑な上(『58.語学書は強姦魔』の項参照)しかも数詞そのものまで語形変化するという勘弁してほしい言語だが、1より大きい数、つまり英語やドイツ語で言う複数の場合その他の格(生格・与格・造格・前置格)では数詞とその披修飾名詞の格が一致するのに主格と対格ではそれらが別の形になる。
Tabelle1-65
どの場合も数詞名詞共に格変化を起こしているが、生格・与格・造格・前置格では名詞と数詞は同じ格である。例えば「二つの机」の与格では数詞двумも名詞столам(ただし複数形)も与格で形が似ているのがわかる。同様に「三ルーブリ」造格ではтремя(「3」)もрублями(「ルーブリ」)も造格、「50冊の本」の前置格でもпятидесяти(「50」)、книгах(「本」)共に前置格形である。
 ところが「2つの机」「3ルーブリ」の主格・対格では数詞自体は主格・対格だが披修飾名詞が一見単数生格で一致していない。「一見」と書いたのはもちろんこれが文法書によく説明してあるような単数生格でなく実は双数主・対格(再び『58.語学書は強姦魔』参照)であることを考慮したからだ。その意味では4までは数詞と披修飾名詞の格は一致しているといえるだろうが、他の格は披修飾名詞が皆複数形となっているのに主・対格だけは双数形になっているわけだから、やはり主格・対格は特殊と言っていいと思う。5以上ではこれがさらにはっきりしていて、「50冊の本」の主格・対格は数詞が主格あるいは対格だが名詞は明確に複数生格である。これを本物の(?)生格пятидесяти книгと比べてみると面白くて、ここでは数詞がきちんと生格になっているため披修飾名詞の生格と一致している。つまり主・生・対格の3格で披修飾名詞が生格になっているのだ。さらに面白いのは数詞がつかない場合、例えば単にbooksと言いたい場合は「本」が複数形のкнигиという形になることだ。これは主格・対格同形である。

 日本語でも主格つまり「○○が」と対格「○○を」は特別なステータスを持っているのではないかと感じることがある。主題の助詞「は」と組み合わせた場合、この2格のマーカーが必ず削除されるからだ。

鳴く
→ 鳥がは鳴く
→ 鳥(が)は鳴く
→ 鳥Øは鳴く
→ 鳥鳴く

殺さない
→ 人をは殺さない
→ 人(を)は殺さない
→ 人Øは殺さない
→ 人殺さない

これに対してその他の格マーカーは「は」をつけても消されることがない。

処格: 東京行かない → 東京には行かない
奪格: お前から言われたくない → お前からは言われたくない

「に」は消せることがあるが、「から」は消せない:

東京は行かない
*お前は言われたくない

つまり斜格マーカーには「共存できない」どころか共存しないと文がおかしくなるものさえあるのだ。

「は」の他に主格・対格は「も」とも共存ができない。

田中さん来た 
→ *田中さんがも来た。
→ 田中さん来た、

その本読んだ
→ ??その本をも読んだ
→ その本読んだ

ただ私の感覚では対格のほうはギリギリで「も」と共存できる。「その本をも読んだ」は文語的表現で話し言葉としては非常に不自然だが、許せないこともない。ないが他の格マーカーと比べると許容度が格段に低い。

北海道へも行った。
佐藤さんとも話した。
外国にも住んだことがある。
地下鉄でも赤坂見附まで行ける。
ここでも野球ができるよ。

これらは全部無条件でOK.だ。共格「と」、具格「で」、同じく処格の「で」などは上の「は」の場合と同じく、格マーカーが居残らないとむしろ非文になる。
 格マーカーにはどうも微妙な階級がありそうだ。いずれにせよ主格と対格は特別といえるのではないだろうか。

ロマニ語もその意味でちょっとスリルのある構造になっているようだ。ギリシアとトルコのロマニ語では「ロマ」(夫・男)という男性名詞の変化パラダイムが以下のようになっている。
Tabelle2-65
ロマニ語は地域差が激しいのでロシアやオーストリア、セルビアなどのロマニ語では微妙に形が違っているが、はっきりと共通していることがある。それは名詞の変化パラダイムが2層になっているということだ。
 まず主格と対格(このグループのように呼格が残っている場合は呼格も)の形の違いは古いインドの祖語から引き継いだもので「語形変化」と呼んでいい。ここでは -és がついているが、語によってはゼロ形態素だったりするし(kher(主格)-kher(対格)、「家」)、女性名詞では -ja が付加される(phen(主格)- phen-já(対格)、「sister」)。
 ところが主・対格以外の斜格は対格をベースにしてそこにさらに膠着語的な接尾辞を加えて作っている。対格というよりはむしろ「一般斜格」と呼んだほうがよさそうだ。つまりロマニ語は主格と対格以外では本来の変化形が一旦失われ、後からあらためて膠着語的な格表現を使ってパラダイムを復活させたということだ。これらの形態素は発生が新しいから元の語の文法性や変化タイプに関わりなく共通である。例えば上で言及した女性名詞 phen- phen-já も主格・対格以外は男性名詞の rom と同じメカニズムで斜格をつくる。上の例と比べてみてほしい。
Tabelle3-65
 どうしていろいろな言語で主格と対格が他の斜格に比べて強いのか。もちろんこれは単なる私の想像だがやはりこの二つが他動詞の必須要素であり、シンタクスの面でも意味の面でも対立性がはっきりしている上使用頻度が高いからではないだろうか。能格言語で能・絶対格と他の斜格(能格言語でも「斜格」と呼んでいいのか?)との関係がどうなっているのか興味のあるところだ。興味はあるのだが調べる気力がない。知っている人、調べた人がいたらメッセージでもいただけると嬉しい。


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 外国語をやっていると、時々日本語の感覚では全く別の観念が一つの単語としていっしょになっているので驚くことが多い。例えばpoorという語に「貧しい」と「かわいそうな」という意味があると聞いて「そんな馬鹿な。貧しいとかわいそうじゃ意味が全然違うじゃないか」と戸惑ったのは私だけだろうか。この二つは英語だけでなくドイツ語でもロシア語でも同単語になっている。前者がarm(アルム)、後者はбедный(ベードヌィ)である。だからドストエフスキーの小説の題名は「貧しき人々」とも「哀れな人々」とも訳せるわけだ。
 また、ショーロホフの『静かなドン』の原題はтихий Донだが、ここで「静かな」と訳されているтихий(チーヒィ)は「ゆっくりとした」という意味もあるからこれは「ゆっくりと流れるドン」あるいは「たゆとうドン」とでも訳してもよかったのではないだろうか。もっともドイツ語でも「静かなドン」(Stille Don)と訳してあるが。それにしても「ゆっくり」と「静か」がいっしょになっているロシア語に驚く。
 が、こんなことで驚いていたらロシア語はやっていられない。なんと「夢」と「眠り」が区別されずに一つの単語になっているのだ。Сон(ソーン)という言葉がそれである。実はロシア語ばかりでなくスペイン語でも眠りと夢はいっしょで、sueñoである。ではロシア語やスペイン語で「夢のない眠り」はどう表現したらいいのか気になって仕方がない。
 もっともロシア語のсонが表す「夢」はあくまで寝ているときにみる夢であって「将来の夢」という場合の夢はмечта(メチター)とまったく違う言葉を使う。日本語では両方とも「夢」で表すと聞いたらきっとロシア人は「そんな馬鹿な。Сонとмечтаじゃ意味が全然違うじゃないか」と怒り出すに違いない。スペイン語のsueñoは睡眠中の夢も希望の夢も意味する。この点では日本語をいっしょだ。ドイツ語は睡眠Schlaf(シュラーフ)と夢Traum(トラウム)が別単語な上、後者が寝ている時の夢も希望も表すから日本語といっしょである。

 しかしだからといってドイツ語に気を許してはいけない。上で述べたarmのほかにも落とし穴があるからだ。
 以前なんとかいう長官が「自衛隊は暴力装置」と言ったとか言わなかったとか、その通りだとかそれは間違いだとかが議論になったことがあるが、その議論の中で「マックス・ウェーバーも警察や軍隊を暴力装置と呼んでいる」と引き合いに出している人がかなりいた。しかしウェーバーが「暴力装置」などと言ったはずはないのだ。なぜならばウェーバーは日本語などできなかったからである。というのは揚げ足取りにすぎるが、問題はここで「暴力」と訳されているGewalt(ゲヴァルト)というドイツ語である。このGewaltは「暴力」などよりもずっと意味が広く、「権力」あるいは「権力行使」という観念も表す。というよりむしろそういうやや抽象的な意味のほうがメインで、gesetzgebende Gewalt(「法律をつくるゲヴァルト」)は「立法権」、richterliche Gewalt(「裁判官のゲヴァルト」)は「司法権」、vollziehende Gewalt(執行するゲヴァルト))は「行政権」、Gewaltentrennung (「それぞれのゲヴァルトの分離」)で「三権分立」、さらにelterliche Gewalt(「親のゲヴァルト」)は「親権」で、親が子供に往復ビンタを食らわしたりすることではない。
 さらに日本語の「暴力」には「暴力団」という言葉があることからもわかるように「犯罪」「悪いこと」というニュアンスがある。ここから派生した「暴力的」という形容詞にもはっきりとネガティブな色合いが感じられ、こういう人は「頭や言葉では相手に勝てないと思うとすぐに手が出る未熟な男(女にもいるが)」である。
 Gewaltにはこのニュアンスがない。「権力」「強制権」の意味も無色に表しているが、この言葉にはその他にも「通常の程度を遥かに超えるもの」、「非常に強力なもの」という意味があって、Naturgewaltで「自然の威力」、höhere Gewaltは言葉どおりに訳せば「より高いゲヴァルト」で日本語の「暴力」という観念にしがみ付いていたら理解できないが、これは「不可抗力」という意味である。また「ゲヴァルト=暴力」という図式だとWiderstand gegen die Staatsgewaltは「国家の暴力に対する抵抗」とでも訳さねばならず、まるで圧政に対して立ち上がる革命活動のようだが、これは単なる「公務執行妨害」。ついでにドイツ語ネイティブに「神のゲヴァルト」、göttliche Gewaltという言い方は成り立つかどうか聞いてみたところ間髪をいれずOKが出た。Gewaltから発生した形容詞gewaltig(ゲヴァルティッヒ)は「暴力的」などではなく「すさまじい」。つまりドイツ語のGewaltには日本語の「暴力」のようなケチくさい意味あいはないのである。
 だからマックス・ウェーバーの暴力装置神話もちょっと気をつけないといけない。氏が軍隊を暴力装置と呼んでいる、と言っている人はひょっとしたらPolitik als Beruf(「職業としての政治」)で出てくるHauptinstrument der Staatsgewaltという言葉を「国家暴力の主要な装置」と読み取ったのではないだろうか。これはむしろ「国家権力施行のための主要な道具組織」であろう。またウェーバーは「装置」にあたる意味ではInstrumentよりApparatという言葉のほうを頻繁に使い、その際国家のプロパガンダ機構など、つまり言葉どおりの意味での「暴力」を施行しない組織も念頭においているではないか。さらに私は「軍隊・警察はGewaltの道具組織(そもそもInstrumentまたはApparatをこの文脈で「装置」と訳すのは不適切だと思う)である」とキッパリ定義してある箇所をみつけることができなかった。もちろん、ウェーバーがそう考えていることはそこここで明らかにはなっている。しかし「軍隊・警察は権力の道具となる組織」というのはむしろ単なる言葉の意味の範囲にすぎず、ウェーバーがわざわざ言い出したことではない、というのが原文をザッと見た限りでの私の印象である。念のため再びネイティブに「Instrument der Staatsgewaltってなあに?」と無知を装って(装わなくても無知だが)質問してみたところ、「警察とかそういうものだろ」という答えが帰ってきた。このネイティブはウェーバーなど読んだことがない。「軍や警察は権力施行のために働く機構である」などということは当たり前すぎてわざわざ大仰に定義する必要などないのだ。
 私はドイツ国籍を取ったとき、何か宣誓書のようなものにサインした。そのときいかにも私らしく内容なんてロクに読まずにホイホイサインしてしまったのだが、その項目の一つに「私はドイツのStaatsgewaltを受け入れます」というのがあったこと(だけ)は覚えている。これは決してお巡りさんや兵隊さんに殴られても文句を言うなということではない。国が私に対して強制権を施行してくるのを認めます、という意味だ。「税金なんて払うの嫌です」とかいって払わないでいれば国は権力を施行して私を罪に問う。私が人を殺せば国は私を刑務所に送り込む。国がそういうことをするのを認めよ、という意味である。

 と、いうわけでこのGewaltに関してはドイツ語のほうが意味が広いわけだが、日本語の単語のほうが守備範囲が広いこともある。「青」という語が有名で、「青葉」「青リンゴ」「青信号」という言葉でもわかるように日本語「青」にはやや波長の長い緑色まで含まれる。ドイツ語のblau(ブラウ、「青」)には緑は入らないから木の葉やリンゴ、信号などは緑としかいえない。もちろん、だからといって日本人が青と緑を識別できないわけではない。子供に絵をかかせれば花の茎や木の葉は皆きちんと緑色に塗っている。
 それで思い出したが、ある時物理学者が信号無視で捕まり、警官に「あまりスピードを出しすぎたため信号の光がドップラー効果を起こし、赤が青(つまり「緑」)に見えてしまった」と言い訳したそうだ。何十億光年も先にあるクエーサーが赤方偏移を起こしたという話は聞くが、信号機が青方偏移したなんて聞いたことがない。どんだけ超スピードの乗用車なんだか。そんなんじゃ仮に信号無視は見逃してもらえたとしてもそのかわりスピード違反でやっぱり罰金は免れまい。

『職業としての政治』の全文はこちら



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