アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:文法格

 変な言い方だが、言語にはどれもそれぞれ「売り」というものがある。日本語の売りは何と言っても主題・トピックを明確に表す形態素が存在するということだろう。ロシア語ならアスペクトが動詞のカテゴリーになっていること、タガログ語なら「焦点」をこれもまた形態素で表すこと、アルバニア語なら意外法 admirative の存在(『100.アドリア海の向こう側』参照)、ケルト語群ならVSO,そしてバスク語、タバサラン語、グルジア語なら能格、とまあいろいろある。さらに小泉保氏によればタバサラン語は62もの格があるそうだ。これも相当な売りである。
 スペイン語の売りはコピュラが二つあることなのではないだろうか。AはBである、A is B というのに場合によって ser というコピュラとestar というコピュラを使い分けるのである。どういう場合にどちらを使うかはさるネイティブが言っていたように「極めて微妙で使っているネイティブ本人にも説明できないことがあるから、外国人にはマスターするの無理だろ」。確かにその通りだろうがそれを言っちゃあオシマイという気がする。文法書にも「無理だ」などとは書かれておらず、凡そのガイドラインというか基本的な使い方は説明してあるし、無理だとわかってはいてもここに言語学的なアプローチをかける非ネイティブも大勢いる。

 ごく大雑把に言うとA=Bという構文で、BがAの本質的あるいは恒常的な性質を表す場合は ser、一時的または偶発的な性質・状態を描写する場合は estar を使う。このニュアンスの違いが最も明確に現れるのは述部が形容詞の場合だろう。

La vita es difícil.
the + life + ser.3.sg. + hard
人生はつらい

La vita está difícil (en astos días).
the + life + estar.3.sg. + hard) (in those days)
(ここのところ)生活がキツイ

Miguel es muy orgulloso.
Michael + ser.3.sg + very + proud
ミゲルは誇り高い人だ

Miguel está muy orgulloso de su éxito.
Michael + estar.3.sg + very + proud (of his success)
ミゲルは自分の成功を誇りにしている

Ese truco es sucio.
this + trick + ser.3.sg + dirty
このトリックは汚い

Ese coche está sucio.
this + car + estar.3.sg + dirty
この車は汚い

El señor Garrote es moreno
the + Mr. Garrote + ser.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は目と髪が黒い

El señor Garrote está moreno.
the + Mr. Garrote + estar.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は日焼けしている

Sus ojos son rojos.
his + eyes + ser.3.pl. + red
彼の目は赤い色だ。(ウサギとか)

Sus ojos están rojos.
his + eyes + estar.3.pl. + red
彼の目は充血している。

Eres joven
ser.2.sg. + young
あなたは若い。

Estás joven
estar.2.sg. + young
あなたは若く見える。

つまりバーのホステスなどがなじみの客に「あ~ら、社長さん若いわね~」と言う場合には estar を使うわけだ。文法を知らないとおちおち水商売もできない。

 これらの例はまだなるほどと思うが、

es nuevo
ser.3.sg + new 
新品だ。

está nuevo
estar.3.sg + new        
新品価格だ。

とかいう例を見せられるとそろそろ「微妙すぎて外国人にはマスターできない」というネイティブ氏の言葉が頭をよぎるようになる。さらに英語の how is she?、クロアチア語(『60.家庭内の言語』も参照)の Kako su? (3.sg.) にあたる表現にも

¿Cómo es Isabel? 
how + ser.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな人だ?

¿Cómo está Isabel?
how + estar.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな具合だ?

の2バージョンが可能であり、前者には

(Ella) es muy simpática.
(she) + ser.3.sg + very + kind
とても親切な人だ。

後者には

(Ella) está muy simpática últimamente.
(she) + estar.3.sg + very + kind + lately
最近とても親切だよ

あるいは

(Ella) está muy bien.
(she) + estar.3.sg + very + well
とても元気だよ

などと答える。本にはこれより微妙な例が並んでいるがどうせ私には理解できないのでもうやめる。

 さて、この ser か estar かの話になると比較として頻繁に持ち出されるのがロシア語である。似たような区別があるからだ。ただしこちらはコピュラそのものはひとつで述部の形容詞のほうが形を変える。
 ロシア語には形容詞の変化パラダイムが短形、長形の二種あり、後者は付加語としても文の述部としても、つまり A=B の Bの部分としても使えるが、前者は述部としてしか使われない。言い換えると形としては主格しかないのだ。その述部としての短形対長形のニュアンスの差は当該事象が「一時的」か「恒常的」か、あるいは「状態」か「性質」かの違いであると文法書などでは定義してある。例えば、

Мальчик здоров.
boy + (is) + healthy-.m.sg.
Мальчик здоровый.
boy + (is) + healthy-.m.sg.

では、上の短形は今現在、対話の時点で健康だという意味なのに対し、下の長形を使うとこの少年は滅多に病気をしないタイプということになる。コピュラがないじゃないかとお思いになるかもしれないが、ロシア語は現在時称ではゼロコピュラを許す、というよりゼロがデフォだからだ。コピュラが必須になるのは過去形かと未来形のみである。さらにニュアンスというより意味そのものが短形・長形で違ってくることがあって

Он жив.
he + (is) + living-.m.sg. -> alive
Он живой.
he + (is) + living-.m.sg. -> lively

では短形は「彼は生きている」だが、長形は「彼は生き生きとしている」である。また

Китайский язык труден.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.
Китайский язык трудный.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.

だと短形は「自分には難しすぎて中国語ワカンネ」だが、長形は「中国は難しい」という一般的な意味だ。

 この短長二つの形の意味の差が「状態」か「本質」か、あるいは「一時的」か「恒常的」かの対立に帰されることはスペイン語の ser 対 estar と似ているが、Ljudmila Geist という言語学者がこの二つの対立は必ずしもイコールではないことを指摘している。例えば

Пространство бесконечно.
universe +  (is) + endless-.n.sg.
宇宙は無限だ。

で短形を使うのは、これが一時的なことだからではなく、恒常的ではあるが「状態」であるからだそうだ。このように細かく見ていくと違いはあるが、基本的にはロシア語の短形・長形のニュアンスの違いがスペイン語の ser 対 estar と似ているのがわかる。

 ロシア語にはさらに形容詞の長形が述部に立つと、主格をとる場合と造格をとる場合がある。主格しかない短形と違う点だ。ただし長形造格が述部になれるのは過去時称と未来時称。あるいは接続法の場合のみで現在時称では使えない。つまりゼロコピュラと長形造格の組み合わせは不可能なのである。その代わりというと変だが、述語で造核になれるのは形容詞ばかりではなく、名詞も造格に立てる。

名詞による述語
Анна была учительница.
Anna + was + teacher-.sg.
Анна была учительницей.
Anna + was + teacher-.sg.
アンナは教師だった。

形容詞による述語
Ирина была добрая.
Irina + was + good-natured-.f.sg
Ирина была доброй.
Irina + was + good-natured-.f.sg
イリーナはいい奴だった。

この主格と造格の違いもスペイン語の ser 対 estar、ロシア語形容詞の短形対長形の里似ていて、主格だと「アンナは生きている間教師をしていた」「イリーナはいい人でしたねえ」だが、造格では「(今はそうじゃないけど)アンナって昔教師だったんだよね」「(昔は)イリーナもいい奴だったんだけどねえ」である。一時的か恒常的かの差に帰せそうだ。だから時間を区切る表現が文内に来ると主格は使えない。それで * をつける。

* Он несколько лет был директор.
he + several years + was + director-
Он несколько лет был директором.
he + several years + was + director-
彼は何年間か所長だった。

ところが「時間の制限がない」ことを明確に表した場合、主・造どちらもOKになることがあるから、この二つの差は単純に時間制限の有無だけから来るのではないことがわかる。

Пушкин всегда был великий поэт.
Pushkin + was + always +great- + poet-主
Пушкин всегда был великим поэтом.
Pushkin + was + always +great- + poet-造
プーシキンは常に偉大な詩人だった。

その次に主格・造格の差を「本質的なもの」か「偶発的なもの」かと見るやり方がある。例えば上のアンナは「教師だった」という文の場合、主格は「生涯教師」というよりも「アンナは人格から見ても教師にうってつけ。教師こそライフワーク」、つまり教師ということがアンナの本質と見るのに対し、造格だとアンナがいわゆるデモシカ教師ということになる。これもなるほどと思うがやはり説明できない例がある。

Анна была дочерью врача.
Anna +  was + daughter-+ doctor’s
アンナは医者の娘だった。

確かにこれを「子供は両親を選べない。全てのものは流転する、パンタ・レイ」という意味で「偶発的な事象」と無理やり解釈できないこともないが、誰の子供か、どういう生まれか、ということはやはりその人物にとって本質的なことだろう。

 Geist 氏はこの他にも主格造格の意味の差を定義する様々な説をあげ、ひとつひとつそれらについての例外現象を挙げていく。そしてこの二つの違いの本質を詳細に分析しているのだが、まずコピュラ文そのものを二つのタイプに分類して

1.[быть + NP造]はシチュエーション内での対象の特性を描写する(特性は恒常的なものでも一時的なものでもありうる)
2.[быть + NP主]は対象の特性をシチュエーションに関連させずに描写する。
(人食いアヒルの子注:быть というのがロシア語コピュラの不定形である)

と定義している。つまり描かれる対象が特定の状況に結びついているか具体的な状況と結びつかずに漂っているかということで、私などは『95.シェーン、カムバック!』で述べた動詞アスペクトの意味の違いの定義と平行性を明確に感じる。
 語学の文法書だったらこの定義で十分なのだろうが、著者は言語学者なのでここからさらにしつこく分析を続け(『34.言語学と語学の違い』参照)、そのニュアンスの違いがなぜ発生するかをコピュラбытьのシンタクス構造内での違いとして説明している。быть には実は2種あり、シンタクス上の基本位置が違うというのである。

1.造格補語を取る быть-1 は語彙上の動詞で、基本の位置はVPである
(быть-lex)
2.主格補語をとる быть-2 は機能カテゴリーで、基本の位置はTPである。
(быть-ftk)

余計なお世話だが TP というのは Tense Phrase のことで生成文法のXバー・セオリー以降から登場するカテゴリーだ(とおぼろげに記憶している)。前にも言ったように私は生成文法にはせいぜい標準拡大理論レベルまでしか追いついていけていないのでいきなりこんな説明をされてもわからない。まさに短形の труден(私にはワカンネ)である。

 このようにロシア語内部のコピュラ構造を論理学、意味論、シンタクスと全てのレベルで分析・解析するというのも面白いが、これを言語間で比較してみるとさらにスリルが増すだろうと思う。ロシア語では Пространство бесконечно という言い回しが許されるがスペイン語で universo está infinito とかなんとかは可能か(多分不可)、とかそういうツッコミである。またロシア語のこういったコピュラ構造がスペイン語にはどう訳されているか、またはその逆を調べてみたら翻訳学としても有意義な研究になると思う。泉井久之助氏もその著書『ヨーロッパの言語』211ページから212ページにかけて通時的な視点からも露・西のコピュラ構造に言及しているが、氏はこの二つの意味の区別そのものは露・西語に留まらない言語ユニバーサルな現象と考えているようである。そういう意味でもツッコミ甲斐があるのではないだろうか。

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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 インドの遥か東、というよりミャンマーのすぐ南にあるアンダマン・ニコバル諸島は第二次世界大戦中に2年間ほど日本領だったところである。特に占領期の後半に地元の住民をイギリスのスパイ嫌疑で拘束拷問し、しばしば死に至らせたり、食料調達と称して住民から一切合財強奪して餓死させたりした罪に問われてシンガポール裁判で何人も刑を受けた。私がちょっと見てみたのはインドで発行された報告だが、しっかり日本兵向けのComfort Homeについての記述もあった。日本軍はやってきたとき支配目的でさっそく地元の住民の人口調査なども行なっているが、問題はこの「地元の住民」、インド側でいうlocal poepleというのがどういう人たちかである。
 ニコバル諸島はちょっと置いておいてここではアンダマン諸島に限って話をするが、ここは主要島として北アンダマン島、中アンダマン島、南アンダマン島の3島があり、これらから少し離れてさらに南に小アンダマン島がある。もちろんこのほかにバラバラと無数の離島が存在する。
Andaman_Islands
ウィキペディアから

ビルマ寄りの北・中・南アンダマン島は昔からビルマやインド、果てはイギリスなどから人々が移住してきた。インド各地から来た住民は出身地ごとにかたまってコミュニティーを造り、ビルマ人はビルマ人、イギリス人はイギリス人でコミュニティーを作ったが、これらコミュニティー間では争いもあまりなく、まあ平和に暮らしていたそうである。アンダマン島生まれのインド人など本国よりアンダマン人としてのアイデンティティーの方が強いそうだ。現在人口役20万人強。この多民族な住民が日本軍が来た時のlocal poepleだろうが、問題はアンダマン島にはオーストラリアやアメリカ、さらに日本の北海道のようにもともとそこに住んでいた原住民がいたということである。それらの人々はもちろん固有の言語を持っていた。アンダマン諸語である。そのアンダマン諸語はまず大きく分けて東アンダマン諸語と西アンダマン諸語に分けられるが、東アンダマングループに属する言語はもともと10あり、1800年時点では北・中・南アンダマン島全体にわたって話されていた。
Andamanese_comparative_distribution
これもウィキペディアから

 その後上述のように外からの移住があり、原住民もヒンディー語に言語転換したり、10あった部族間での婚姻が進み、現在残っているアンダマン語は2言語のみ、しかもその二言語も純粋な形では残っておらず、人々の話しているのは事実上元のアンダマン諸語の混交形で、「大アンダマン語」という一言語と言った方が適切だそうだ。Abbiというインドの言語学者はこれをPresent-day Great Andamanese、現代大アンダマン語と呼んでいる。しかもその話者というのが2013年時点で56人(!!)。アンダマン島本島ではなく、その周りの小さな小さな離島の一つStrait Islandというところにコミュニティを作って暮らしている。
 イギリス人は19世紀からこのアンダマン諸語の研究を開始しており、結構文献や研究書なども出てはいる。現在もインドの学者が言語調査をし記録に残そうと必死の努力をしている。が、そもそもイギリス人やインド人など文明国の人が入ってきさえしなければ記録しようという努力そのものが無用だったろう。アンダマン諸語は孤立した島でそのまま話され続けていたはずだからである。自分たちが侵入してきたおかげで消えそうになっている言語を今度は必死に記録して残そうとする、ある意味ではマッチポンプである。しかし一方では外から人が来なかったせいで記録されることもなく自然消滅してしまった言語や、逆に人間の移住により新たに生じた言語だってある。後から来たほうが常に一方的に悪いとも言い切れまい。まさに歴史の悲劇としかいいようがない。

 その壊滅状態の東アンダマン諸語と比べて西アンダマングループはまだ100人単位の話者が存在する。西グループを別名アンガン(またはオンガン)グループといい、さらに二つの下位グループに分類される。中央アンガンと南アンガングループで、前者にはジャラワ語、後者にはオンゲ語とセンティネル語が属す。ジャラワ語は元々南アンダマン島で話されていたが、現在では中および南アンダマン島西部がその地域である。話者はタップリいて(?)300人。オンゲ語は小アンダマン語で100人によって使われている。センティネル語は南アンダマン島の西方にあるやはり離島のセンティネル島で話されている。話者数は全くの未知である。というのは、ここの島の住民は外から人が来ると無差別に攻撃し、時として死に至らせるので言語調査ができないからである。それで現代大アンダマン語、ジャラワ語、オンゲ語には文法書があるがセンティネル語文法はまだない。

 上述のように日本軍は侵略して来たときアンダマン島で「国勢調査」をしているが、そこで1945年7月現在の南アンダマン島の人口は17349人、そのうち女性5638人、男性が11713となっている。男性が女性の倍もいるのは多分当時そこにインド解放軍というか英国からの独立を目指す兵士らがたくさんいたからだろうが、そこにさらに注がついていて、この統計は「受刑者とaboriginal race(Jarawa)は除く」となっている。受刑者が多いのはアンダマン島がイギリスに対するオーストラリアのごとく流刑地として使われていたからであるが、ジャラワが人口勘定に入れてもらえていないのは、人間扱いされていなかったというより、ジャラワ人がいったい何人くらいいるのかわからなかったからだと思う。センティネル人ほどではないにしろ、ジャラワ人もいまだに外部との接触を嫌っているそうだ。日本軍が来る前のインド政府というかイギリス政府というか、とにかく現地の政府にも統計が取れていなかったのではないだろうか。
 大アンダマン語を壊滅させてしまった反省からか、下手に「文明」を教示しようとしてアボリジニやネイティブ・アメリカンの文化を破壊しアイデンティティを奪って精神的にも民族を壊滅させ2級市民に転落させたオーストラリアやアメリカ、ついでにアイヌを崩壊させた日本の例を見ていたためか、インド政府は生き残ったアンダマン民族をできるだけそっとしておき、同化政策などは取らない方針をとっているそうだ。それでも島にはインド人などが住んでいるのだから時々ニアミスが起こるらしい。最近新聞でちょっと読んだ話では、ジャラワ族の女性が外部の者に強姦される事件が何件かあったそうだ。その場合は犯人はこちら、というかインド側の者なのだから捕まえて罰すればいい。だが逆にジャラワ族が、強姦された結果生まれた子供の皮膚の色が白かったというので子供を殺す儀式を行なっていたことが報告されたりしている事件もある。これは立派な殺人行為だ。放って置かれているとはいえそこはインド領である。こういう殺人行為を見て見ぬ振りをしていていいのか、という問題提起もあり、いろいろ難しいらしい。

 さて、その「現代大アンダマン語」であるが、そり舌音があり、帯気と無気に弁別機能があるあたり、孤立言語とはいえヒンディー語始めインドの言語と何気なく共通項がある。もちろん文法構造は全く違い、能格言語だそうだ。以下は上述のAbbi氏が挙げている例。絶というのが絶対格、能が能格である。

billi-bi bith-om
ship- + sink-非過去
The ship is sinking.


thire-bi bas khuttral beno-k-o
child- + bus + inside + sleep-遠過去
The child slept in the bus.


a-∫yam-e bas kuttar-al kona-bi it-beliŋo.
CL1-Shayam- + bus + indide-処 + tendu(果物の名前)- + 3目的語-cut-遠過去
Shyam cut the tendu fruit in the bus.

thire-bi ŋol-om
child-絶 + cry-非過去
The child cries.

つまり-e というのが能格マーカー、-biが絶対格マーカーである。 これが基本だが動作主が代名詞だったり複数だったりすると能格マーカーがつかないこともある。上の4番目の例と比べてみてほしい。

thire-nu-ø ŋol-om
child-複 + cry-非過去
The children cry.

絶対格マーカーも時として現れないことがあるそうだ。またどういうわけか他動詞の主語と目的語の双方が絶対格になっている例もAbbiは報告し、正直に理由はわからないと述べている。
 能格言語であるという事自体ですでにアンダマン語は十分面白いのだが、その能格性をさえ背景に押しやってしまうくらいさらに面白い現象がこの言語にはある。上の3番目の例のCL1という記号がそれだ。これはa-という形態素(Abbi はこれらはcliticである、としている)がClass 1を表すマーカーであるという意味だが、アンダマン語では名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもマーカーがついてそれらの単語の意味がどのクラスに属するかはっきりとさせ、微妙なニュアンスの差を表現するのだ。その「クラス」は7つあるのだが、それらは何を基準にしてクラス分けされているのか? 当該観念あるいは事象のinalienability(譲渡不可能性、移動不可能性)の度合いと種類を基準にしてクラス分けしているのだ。クラス1、クラス2、クラス3、クラス4、クラス5、クラス6、クラス7のマーカーはそれぞれa-, εr-, oŋ-, ut-, e-, ara-, o-(あるいはɔ-)だが、これらは元々人体の一部を示すものであったらしい。a- は口およびそこから拡張された意味、εr-は主だった外部の人体部分、 oŋ-は指先やつま先など最も先端にある人体部分, ut-は人体から作り出されたものあるいは全体と部分という関係を表し, e-は内臓器官、ara-が生殖器や丸い人体器官 、o-が足や足と関連する器官である。

 え、何を言っているのかさっぱりわからない?私もだ。文法執筆者のAbbi氏はそりゃ大アンダマン語が出来るからいいが、氏がひとりで面白がっているのを見て私だって「ちょっと待ってくれ、何なんだよそのinalienabilityってのは?!」とヒステリーを起こしてしまった。

 大雑把に言うと大アンダマン人は言語で表現されている事象が自分と、あるいは「AのB」という所有表現などの場合BがAとどれくらい分離しがたいかを常に言語化するのである。これがinalienabilityである。何まだわからない?では例を示そう。「血」は大アンダマン語でteiだが、この単語が裸でつかわれることはほとんどなくクラスマーカーが付加されるのが普通だが、その際どの「不可分性クラス」に分けられるかによって名詞の意味が変わってくる。

e-tei   (CL5-血)   体の内部の血
ot-tei  (CL4-血)   体の外の血(出血した場合)
oŋ-tei (CL3-血)   指の血または指から出血した血
εr-tei  (CL2-血)   頭から出血した血

名詞ばかりでなく、動詞もクラスわけされる。

ut-∫ile  (CL4-狙う)→  上から狙う
e-∫ile   (CL5-狙う)→  突き通そうと狙う

ara-pho (CL6-切る)→  切り落とす、(木を)切り倒す
εr-pho   (CL2-切る)→ (前方から)棒で叩く 
ut-pho     (CL4-切る)  → (ココナツなどを)上から切り落とす、叩き落す

同じセンテンス内の文要素がそれぞれ別のクラスに分けられることもある。

a-kɔbo εr-tɔlɔbɔŋ (be)
CL1-Kobo + CL2-背が高い + コピュラ
コボ(人の名)は背が高い


a-loka er-biŋoi be ara-kata
CL1-Loka + CL2-太っている + コピュラ + CL6-背が低い
ロカ(人の名)は太っていて(太っているが)背が低い。


「デブ」と「チビ」では不可分性のクラスが違っているのが面白い。

副詞もこの調子でクラス分けされるが、その際微妙にダイクシス関係などが変わってくるそうだ。
 これらの例を見てもわかるようにこのクラス分け形態素は確かに元々は体の部分と意味がつながっていたものが、やがて文法化されて本来の身体的意味はほとんど感じ取れなくなって来ているということである。Abbiはその辺を親切にわかりやすい表にして説明してくれている(「関係する身体部分」の項は上述)。

クラス1 マーカー:a-, ta-
          本来関連する身体部分: 口およびそこから意味的に派生するもの
           動詞につくと: 口と関連する行動、起源、人間の名前
           形容詞につくと: 口と関連する人物の属性
           副詞につくと: 前または後というダイクシス関係、
              ある行為・作用が時間的に前であること

クラス2   マーカー:εr-, tεr-,
           本来関連する身体部分: 主だった外部の身体部分
           動詞につくと: 体の前面部が関わってくる行動
           形容詞につくと: 大きさについての表現、外側の美しさ
           副詞につくと: 隣接または前というダイクシス関係、
             制御不可の行動・感情

クラス3 マーカー:oŋ-, toŋ-
           本来関連する身体部分: 指先やつま先など最も先端にある部分
           動詞につくと: 手と関連する行動、体の先端に関する行動
           形容詞につくと: 手足に関連する属性
           副詞につくと: 急いでいること、急いで行なった活動

クラス4 マーカー:ut-, tut-,
           本来関連する身体部分: 人体から作り出されたものや部分対全体の関係
           動詞につくと: 方向的に自分から離れていくこと、経験されたこと
           形容詞につくと: その一部が切り取られた、短縮されたという属性
           副詞につくと: 何かから現われ出ること、そのものに向かうという
                                             ダイクシス関係

クラス5 マーカー: e-, te-
           本来関連する身体部分: 内部器官
           動詞につくと: 「吸収」の意味合い、行動の影響が対象に及んでいたり、
                                             それが経験されたものであった場合、「内在化」の意味合い
           形容詞につくと: 本来備わっている属性
           副詞につくと: 真ん中、内部というダイクシス関係、
                                           「ゆっくり」という意味合い

クラス6 マーカー:ar-, ara-, tara-
           本来関連する身体部分: 生殖器、丸い形をした中央の人体部分
           動詞につくと: 体の中央または横の部分と関連した行動
           形容詞につくと: 大きさに関する属性、腹に関連すること
         副詞につくと: そのものに触れていたり周辺部であったりという
                                             ダイクシス関係

クラス7  マーカー: o- ~ɔ-, to-,
           本来関連する身体部分: 足とそれに関連する部分
           動詞につくと: はっきりした結果の出た行動
            (丸い対象物の場合は結果が明確でなくとも可)
           形容詞につくと: 手触り、形など外部の属性
           副詞につくと:「日の出」に関連する時間的なダイクシス、 
                                             縦方向のダイクシス

 言語環境によっては別にこれらの意味を付加するわけでもないのにとにかくクラスマーカーをつけること、例えばこういう文法構造の文では形容詞、あるいは動詞をしかじかのクラスでマークしなければいけないという規則になっている場合もあるそうだ。つまりこのクラス分けというのは一部文法化しているのである。
 大アンダマン語の西方で話されているセンティネル語はまだ調査記述が全く出来ていないそうだが(上述)、この言語もこんなに難しいものなのだろうか。私など矢を射掛けられるまでもなく、言語を見せられただけで心臓麻痺を起こして即死しそうだ。
   
大アンダマン語インフォーマントと言語学者のAbbiさん(中央)
Abbi, Anvita.2013. A grammar of the Great Andamanese Languege. Leidenから。下の写真も。

Strait Island 2005

その他のストレイト島アンダマン語コミュニティのメンバー。何人か上の写真と同じ顔が見える。
Some members of the community


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 英語かドイツ語が母語の人が日本語を勉強していて、「今日は寒くなる」とか「部屋がきれいになりました」と言えずに「今日は寒いなるでしょう」、「部屋がきれいなりました」あるいは「部屋がきれいだなりました」とやっているのを見たことがないだろうか。それぞれ heute wird kalt 、das Zimmer wurde sauber あるいは it will be cold today、the room became clean といった母語での言い方が干渉したのであろう。ドイツ語・英語では「~になる」という文ではコピュラ構造の場合と同じく、述部に形容詞の辞書形がそのまま来るからだ。ウルサイことを言えば例えば「寒い」という形容詞は kalt あるいは cold と等価ではなく、be cold とか kalt sein とかコピュラ付きでいうべきだろう。が一方日本語にはコピュラという動詞がない。「です」だろ「だ」だろは動詞ではなくセンテンスの当該部分にくっ付いてそれがpredicate nounまたはcomplement(ドイツ語でPrädikatsnomen)であることを示す単なるマーカーである。そのPräkatsnomenは格に関しては基本的に中立だから、「です」がつくと格マーカーが削除されることが多い。特に主格マーカーは必ず削除される。「山田さんは先生です」であって絶対「山田さんは先生がです」にはならない。しかしドイツ語のクセを出してこの「です」をコピュラとみなしてしまうと自動的にPräkatsnomenを主格と解釈してしまうことになる。現にドイツ語母語者には「山田さんは今アメリカです」という極簡単なセンテンスが理解できない者がいる。「アメリカ」が処格であることがわからないからだ。ついでに言えば主題の「は」も格は中立だから、主格グセがつくと「その本は昨日読みました」「山田さんは先週お嬢さんに赤ちゃんが生まれました」がわからない。

 話を戻すが、そこで「なる」と「です」では全くセンテンスの構造が違い、前者は動詞、後者はマーカーで、動詞「なる」のほうはその補語に形容詞がそのまま来ないで副詞化した形で置かれる、と説明してもドイツ語母語者相手だとまだ十分でないことがある。英語だと簡単だ。日本語では it became beautiful でなくit became beautifullyというんですよと言えばいいが、ドイツ語は形容詞がそのまま副詞になるからだ。Sie ist schön のschön は形容詞で「彼女は美しい」だが、Sie singt schön は「彼女は美しく歌う」でschönが副詞なのに形は全く同じである。gut(形)→ gutØ(副)、schön(形) → schönØ(副)といういわばゼロ付加だ。対して英語には -ly という目に見えるマーカーがつく(beautiful → beautifully )。英語ではさらにゼロマーカーも使うし(cold → coldØ)、語そのものを変換してしまうことがある(good → well)が、ともかく -ly という副詞形成の形態素が存在しているからいい。ドイツ語のように一つの形がいわゆる形容詞と副詞の2つの品詞にまたがっていると、頭ではわかっても気を抜くとすぐ区別が怪しくなる。
 そもそも副詞というカテゴリーに入れられているメンバーは形容詞崩れあり前置詞起源のものあり種々雑多で、副詞というのを一つの独立した品詞とみなしていいのかという議論さえあるくらいだ。「つまり動詞でも名詞でも形容詞でもない単語が消去法で副詞として扱われるのだ」と主張する言語学者も少なくないそうだ。カルツェフスキーあたりもそんなことを言っていたらしい。特に形容詞との境界線があいまいで、ヘルマン・パウルでさえこんなことを言っている;

Die formelle Scheidung des Adjektivums vom dem Adv. beruht auf der Flexionsfähigkeit des ersteren und der dadurch ermöglichten Kongruenz mit dem Subst. Wo dies formelle Kriterium entfällt, da kann auch die Scheidung  von dem Sprachgefühl nicht mehr strikt aufrecht erhalten werden. ... Wir haben eigentlich kein Recht mehr gut in Sätzen wie er ist gut gekleidet, er spricht gut und gut in Sätzen er ist gut, man hält ihn für gut einander als Adv. und Adj. gegenüberzustellen.

形容詞は副詞と形式上分離させられるが、それは前者が語形変化して名詞と呼応できるという点に基づいている。この基準が満たされなかったりすると言語感覚からしてこの二つをきっちり分ける必要性があまり感じられなくなる。… 本来 er ist gut gekleidet (「彼は良く着飾っている」)、er spricht gut (「彼は上手く話す」)の gut とer ist gut(「彼はいい(人だ)」)、man hält ihn für gut(「皆彼をいい(人だ)と思っている」)という文の gut を副詞対形容詞として対立させて考えなければならない理由はないのだ。

現代ドイツ語文法の権威Dudenでは gut は品詞としては形容詞だが、形容詞には付加語的用法(attributiver Gebrauch)、述語的用法(prädikativer Gebrauch)、副詞的用法(adverbialer Gebrauch)があるとしている。つまり品詞という言語範疇そのものとその機能を分けて考えているわけで、近代言語学的というか説明力が強い。このように機能と形を観念的に区別すると例えば副詞の形容詞的用法というのも成り立つわけで、die Zeitung heute ist interessantという言い回しの副詞 heute がまさにそれであろう。heute は品詞としては副詞だが、ここでは動詞でなく名詞(それともDPとか何とか呼ぶべきか)の die Zeitung(「新聞」)にかかっており、この文は「今日の新聞は面白い」である。
 言い換えると品詞そのものが移行するのでなく機能が移行するのである。上述の見方だとgut(形)→ gut(副)はゼロ付加による品詞の転換だが、機能と形を分けるこの考えかただとer singt gut (「彼は上手に歌う」)の gut は形容詞の「転用」と見なせる。日本語ではこれが形容詞の活用として文法化されているのである(いい → よく、寒い → 寒く、きれい → きれいに)。

 ロシア語でも形容詞を副詞にするのは一定の形態素の付加による「造語」あるいは「派生」とみなされているようだが、転用、さらには活用と接触する点があって面白い。
 文法書をみると形容詞の項に「性質を表す形容詞(Qualitätsadjektiveまたはqualitative Adjektive)からは語尾を -o、-e にすることによって規則的に性質を表す副詞(qualitative Adverbienまたはdeterminative Adverbien)が作られる」とあるし、反対側の副詞の項には「形容詞の語幹から性質を表す副詞を形成するのはロシア語でもドイツ語でもさかんに行なわれている方法である。」と同じことを言っている。詳しくいうと:

1.語幹が硬音子音(非口蓋化音)で終わっている性質形容詞 качественные прилагательные には –о、軟音(口蓋化音)なら –е をつける。
2.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっている性質形容詞語幹には -и をつける。
3.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっていても関係形容詞относительные прилагательныеならさらに前に по- をつけ、後ろの -и とで挟む。性質形容詞にもこの型で副詞をつくるものがある。
4.形容詞の女性対格形に в-、за- の前置詞をつける。
5.前置詞に古い短形活用のパラダイムを継続させる。с-、из-、до-+短形生格、 на-、за-+短形対格、по-+短形与格、в-、на-+短形前置詞格を後続させる。

それぞれ次のような例が挙げられる。左に示した形容詞は男性単数主格形、下線部が語幹である。
1.
быстрый → быстро(速い → 速く)、красивый → красиво(美しい → 美しく)
односторонний → односторонне(一面的な → 一面的に)、
крайний → крайне(極端な → 極端に)

2.
творческий → творчески(創造的な → 創造的に)、
дружеский → дружески(親しげな → 親しげに)

3.
русский → по-русски(ロシアの → ロシア風に・ロシア語で)

4.
крутой → вкрутую(堅い → 堅く)(卵の茹で方に関してのみ)、
частый → зачастую(頻繁な → 頻繁に)(частоという1のパターンの造語も可)

5.
новый → снова(新しい → 新しく・もう一度始めから)、
далёкий → издалека(遠い → 遠くから)、сытый → досыта(満腹な → 満腹に)、
скорый → наскоро(速やかな → 速やかに)、 новый → заново(新しい → 新しく)、
пустой → попусту(空しい・無駄な → 空しく・無駄に)、
далёкий → вдалеке(遠い → 遠くへ)、 лёгкий → налегке(軽装の → 軽装で)

明確に「造語」と言い切れる英語と違って、ロシア語の形 → 副変換はむしろ文法の範疇に入ることが一見して明らかだ:前綴りとしてあげられている по- や с- などはれっきとした前置詞、つまり独立単語だし、特に4と5で顕著だがその前置詞がきちんと格支配までしている。しかも前置詞が本来の意味を保持している。だから同じдалёкий(「遠い」)という形容詞に из(「~から」)がつくと「遠くから」、в(「~へ」)がつくと「遠くへ」になるのだ。さらにこの形容詞には当然1のパターンのдалекоという副詞もありこれが「遠いところにある」。だからこれらは品詞としての副詞というよりむしろシンタクス上の単位、れっきとした前置詞句PPである。
 では1と2はどうか。быстро、 крайнеなど -o、-e で終わる形は形容詞の活用形の一つ短形活用の単数中性形と同じだ。実は私は今までこの быстрый → быстро タイプの副詞化は形容詞の短形中性単数が「転用」されたのものだと思っていた。ところが文法書ではこれが「造語」扱いされているのでむしろ驚いたのである。
 ロシア語の形容詞の活用には長形と短形の二つのパラダイムがあり、上でも述べたように形容詞の代表形として挙げてあるのは長形活用の男性単数主格だが、この長形活用形は形容詞一つにつき単数男性、単数中性、単数女性、複数形の4つにそれぞれ主・生・与・対・造・前置の6格あるから理論的には4×6=24形を区別する。「理論的には」と書いたのは複数生格と複数前置格など、同形のものがあるので実際には24より少なくなるからだ。なお、20世紀の初頭までに書かれたロシア語には複数男性・中性と複数女性形を区別しているものがある。前者は語尾が -ые、後者は -ыя となる。例えばкрасивый(「美しい」、男性単数)の主格形は красивая(女性単数)、красивое(中性単数)、красивые(複数)の4つだが、一方男性単数ではкрасивый(主格)、красивого(生格)、красивому(与格)、красивый/красивого(対格)、красивым(造格)、красивом(前置格)という6つの格変化形があるが、中性単数と男性単数は主格と対格以外同形である。上の4で出してある形は女性単数対格である。
 対して短形活用のほうは現在では主格形しかないし、形容詞によっては短形を作らないものがある。「美しい」の短形単数男性はкрасив、単数女性がкрасива、単数中性красиво、複数形がкрасивы。語幹が口蓋化音で終わると女性、中性、複数形がそれぞれ-я、-е、-и で終わる。しかし上で「現在では」と但し書きをつけたように、昔はこの短形が長形と同じくフルバージョンで活用し、名詞と全く同じ活用語尾をとった。上の5を見てもらいたい。形容詞が短形中性単数形の格変化形を完全に供えているのがわかる。1の -o、-e も中性単数の活用語尾ではないのか。英語の -ly とは違って造語・派生形態素ではなく活用語尾、形 → 副の転換は形容詞の一つの活用形をシステマティックに転用したもの、という気がしてならない。さらにこれらは中性単数主格なのではなく実は対格なのではないかと私は疑っている。
 問題は2、3のタイプ、-ский などで終わる形容詞で、これらに -и がつくのはどうしてかちょっと調べてみたがわからなかった。落ちこぼれロシア語学習者で申し訳ないが、落ちこぼれなりに考えてみると、このタイプの形容詞は名詞から派生してきたもの、つまり形容詞としては新参者が多い。だから5と違って形容詞が中性名詞的に働くことが出来ず、付加語としての陰を引きずっているのかもしれない。言い換えると昔は後ろに「様式」とか「やり方」を表す名詞がくっついていたのかもしれないとも思ったがこれがあまり上手く行かない:現在は「やり方」はобразという男性名詞で、形容詞を無理やり短形パラダイムにすると「創造的に」はпо творческу образу となるはずで -и  が出てこないからだ。では昔はобраз という意味の女性名詞があったのかと解釈しても、与格支配の по とは合わない。では少なくとも2は複数対格かあるいは女性単数生格か複数対格起源だとして逃げようとしても3の例が残るので逃げ切れない。やっぱり -и となる理由が考えつかないまま堂々巡りである。
 やはり素直に-o、-e、-и は派生の形態素とみるしかないのか。

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 『107.二つのコピュラ』の項でちょっと述べたように、ロシア語には形容詞の変化パラダイムとして短形と長形との二つがある。長形は性・数・格にしたがって思い切り語形変化するもので、ロシア語学習者が泣きながら暗記させられるのもこちらである。辞書の見出しとして載っているのもこの長形の主格形だ。たとえばдобрый(「よい」)の長形の変化形は以下のようになる。男性名詞の対格形が二通りあるのは生物と無生物を区別するからだ(『88.生物と無生物のあいだ』参照)。
Tabelle1-133 
それに比べて短形のほうは主格しかなく、文の述部、つまり「AはBである」のBの部分としてしか現れない、言い換えると付加語としての機能がないので形を覚える苦労はあまりない。アクセントが変わるのがウザいが、まあ4つだけしか形がないからいい。
Tabelle2-133
困るのはどういう場合にこの短形を使ったらいいのかよくわからない点だ。というのは長形の主格も述部になれるからである。例えば He is sick には長短二つの表現が可能だ。

短形 
Он болен
(he-主格 + (is=Ø) + sick-短形単数主格)

長形
Он больной
(he-主格 + (is=Ø) + sick-長形単数主格)

この場合は、боленなら目下風邪をひいているというニュアンス、больнойだと彼は病気がちの人物、体が弱いという理解になる。が、では短形は描写された性質が時間的に限られた今現在の偶発的な状態、長形は持続的な状態と一般化していいかというとそうでもない。レールモントフの『現代の英雄』の一話に次のような例がある。ある少年の目が白く濁っているのを見て主人公は彼が盲目であると知るがその描写。

Он был слепой, совершенно слепой от рождения.
彼は盲目だった、生まれつき全くの盲目だったのだ。

太字にした слепойというのが「盲目の」という形容詞の長形単数主格系である。ここまでは上述の規則通りであるが、そのあと主人公はこの盲目の少年がまるで目が見えるかのように自由に歩き回るのでこう言っている。

В голове моей родилось подозрение, что этот слепой не так слеп, как оно кажется.
私の頭には、この盲目の者は実は見かけほど盲目ではないのではないかという疑いが起こった。

二番目の「盲目」、太字で下線を引いた слепというのは短形である。このような発言はしても主人公はこの少年が「生まれつきの」盲目であるということは重々わかっているのだ。二番目の「盲目」は決して偶発的でも時間がたてば解消する性質でもない。
 つまり形容詞の長短形の選択には話者の主観、個人的な視点が決定的な役割を果たしていることがわかる。話者がその性質を具体的な対象に対して、具体的な文脈で描写している場合は短形、その性質なり状態なりを対象に内在した不変特性として表現したい場合は長形を使う。前にも出したが、

китайский язык очень труден. (短形)
китайский язык очень трудный.(長形)

は、どちらも「中国語はとても難しい」である。が、短形は「私にとって中国語はとても難しい」という話者の価値判断のニュアンスが生じるのに対し、長形は「中国語はとても難しい言語だ」、つまり中国語が難しいというのは話者個人の判断の如何にかかわらず客観的な事実であるという雰囲気が漂うのである。短形を使うと中国語というものがいわば具体性を帯びてくるのだ。
 また形容詞によっては術語としては長形しか使えないものがあったり、短形しか許されないセンテンス内の位置などもある。『58.語学書は強姦魔』でも名前を出したイサチェンコというスラブ語学者がそこら辺の長短形の意味の違いや使いどころについて詳しく説明してくれているが、それを読むと今までにこの二つのニュアンスの違いをスパッと説明してくれたネイティブがなく、「ここは長形と短形とどちらを使ったらいいですか?またそれはどうしてですか?」と質問すると大抵は「どっちでもいいよ」とか「理由はわかりませんがとにかくここでは短形を使いなさい」とかうっちゃりを食らわせられてきた理由がわかる。単にネイティブというだけではこの微妙なニュアンスが説明できるとは限らないのだ。やはり言語学者というのは頼りになるときは頼りになるものだ。

 さて、このようにパラダイムが二つ生じたのには歴史的理由がある。スラブ祖語の時期に形容詞の主格形の後ろに時々指示代名詞がくっつくようになったのだ。* jь、ja、 jeがそれぞれ男性、女性、中性代名詞で、それぞれドイツ語の定冠詞der 、die、 dasに似た機能を示した。 それらが形容詞の後ろについて一体となり*dobrъ + jь = добрый、* dobra + ja =  добрая、*dobro + je =  доброеとなって長形が生じた。代名詞が「後置されている」ところにもゾクゾクするが、形容詞そのもの(太字)は短形変化を取っているのがわかる(上記参照)。この形容詞短形変化はもともと名詞と同じパラダイムで、ラテン語などもそうである。対して長形のほうはお尻に代名詞がくっついてきたわけだから、変化のパラダイムもそれに従って代名詞型となる。
 また語尾が語源的に指示代名詞ということで長形は本来定形definiteの表現であった。つまりдобр человекと短形の付加語にすればa kind man、 добрый человекと長形ならthe kind manだったのだ。本来は。現在のロシア語ではこのニュアンスは失われてしまった。短形は付加語にはなれないからである。

 ところがクロアチア語ではこの定形・不定形という機能差がそのまま残っている。だから文法では長形短形と言わずに「定形・不定形」と呼ぶ。また長・短形とも完全なパラダイムを保持している。例えば「よい」dobarという形容詞だが、定形(長形)は次のようになる。複数形でも主格と対格に文法性が残っているのに注目。また女性単数具格がロシア語とははっきりと異なる。
Tabelle3-133
続いて短形「不定形」。上記のようにロシア語では主格にしか残っていないがクロアチア語ではパラダイムが完全保存されている。
Tabelle4-133
使い方も普通の文法書・学習書で比較的クリアに説明されていて、まず文の述部に立てるのは短形主格のみ。

Ovaj automobil je nov.
(this + car + is + new-)

* Ovaj automobil je novi.
*(this + car + is + new-)

付加語としてはa とthe の区別に従ってもちろん両形立てるわけである。対象物がディスコースに初登場する場合は形容詞が短形となる。

On ima nov i star automobil.
(he + has + a new + and + an old + car)

この「彼」は2台車をもっているわけだが、ロシア語ではこの文脈で「自動車」が複数形になっているのを見た。上の文をさらに続けると

Novi automobil je crven, a stari je bijel.
(the new + car + is + black + and + the old (one) + is + white)

話の対象になっている2台の車はすでに舞台に上がっているから、付加語は定形となる。その定形自動車を描写する「黒い」と「白い」(下線)は文の述部だから不定形、短形でなくてはいけない。非常にクリアだ。なおクロアチア語では辞書の見出しがロシア語と反対に短形の主格だが、むしろこれが本来の姿だろう。圧倒的に学習者の多いロシア語で長形のほうが主流になっているためこちらがもとの形で短形のほうはその寸詰まりバージョンかと思ってしまうが、実は短形が本来の姿で長形はその水増しなのである。

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 日本語のいわゆる格助詞は基本的に使い方がドイツ語などの格体系と並行しているから実は説明しやすい。「が」が主格、「の」が属格、「に」は与格、「を」は対格、「で」が処格あるいは具格という具合に割とスース―説明できる。もちろんこれはあくまで「ドイツ人用の語学の説明」であって、日本語の記述や構造研究、つまり日本語言語学にこういうラテン語の用語をそのまま持ち込むことはできないし、語学にしても細かな補足説明は常に必要になってくる。例えばドイツ語では処格などは名詞や冠詞のパラダイムとしては形を失っているので前置詞を使わないと表現できないものがある。さらにその際付加される名詞の格によって意味が違ってきたりする。典型的なものはin、auf、 an、überなどの対格と与格の両方を支配する前置詞で、対格をとると行為の方向、与格をとれば純粋な処格、つまりその行為が行われる場所を示す。例えばan die Tafel schreiben(「黒板に書く」)ならば対格の die Tafel(「黒板」。最近はホワイトボードというのもあるが)はschreiben(「書く」)という行為が黒板に向かっているという意味、an der Tafel stehen(「黒板に書いてある」)と与格をとれば書いてある場所が黒板ということである。同様にin das Haus gehen と対格ならば「家の中に行く」、in dem Haus lesenと与格ならば「家で読書する」。この与格対格の違い、方向か場所かの違いは日本語だと基本的に「に」対「で」で表せるのだが、「に」が純粋に処格を意味する場合があるからややこしい。上の「黒板に書いてある」もそうだが動詞が本当の意味での行為を現さず、単に「ある」とか「いる」などの存在を表現するもの、言い換えると動詞自身の意味内容が希薄で場所のほうに焦点が置かれている場合は「に」を使うのである。2番目の例も動詞が「読書する」でなく「いる」になると助詞は「に」になって「家にいる」。「家でいる」とは言えない。この「に」と「で」を使い分けられないドイツ人はかなりいる。ドイツ語ではこういう区別がないからである。しかし逆もあってドイツ語ではすんなり表せるが、日本語だとズバリとは表現できない違いもある。例えばeine Ente fliegt über den See(対格)とeine Ente fliegt über dem See(与格)はどちらも「アヒルが一羽湖の上を飛ぶ」(アヒルは飛べないから「カモ」と訳すべきかもしれない、と寒いギャグを言ってみる)だが、対格ではアヒルは湖の上空を通過して渡って行っているのに対し、与格だとアヒルが湖の上空を旋回していることになる。この違いは日本語の格助詞では表せない。
 このようにドイツ語では方向と場所の違いが対格対与格の差になっているが、ロシア語やクロアチア語だとこの違いは対格対前置格あるいは処格の差となる(ロシア語で前置格と呼ばれているものは事実上処格のことである)。アヒルが旋回する場合「湖」が与格でなく処格になるのだ。スラブ諸語は名詞の格を6つあるいは7つ保持している一方、ドイツ語では4つしか残っておらず処格の機能を与格が吸収してしまったからだ。つまり旋回アヒルの湖は処格をとるのが本来の姿なのである。

 いわゆる印欧祖語には8つの名詞格を区別したと思われる。実際に例えばサンスクリットでは主格nominative、呼格vocative、対格accusative、具格instrumental、与格(あるいは為格)dative、奪格ablative、属格genitive、処格locativeと語尾変化する。それが時代が下るにしたがって格が融合し、スラブ語派では奪格と属格が、イタリック語派では奪格と具格が、ドイツ語などのゲルマン語派では奪格、処格、具格が融合してしまった。細かく言えばロシア語はそこからさらに形としての呼格を失い、ラテン語では処格形が消失した。それでロシア語は現在名詞のパラダイムとしては主格・属格(あるいは生格)・与格・対格・具格・前置格(処格)6つとなっているわけだ。クロアチア語がこれに加えていまだに呼格形を保持している、つまり7格あることは『90.ちょっと、そこの人!』で述べたとおりである。ラテン語も6格ではあるが内容が違っていて、主格・属格・与格・対格・奪格・呼格となっている。このうち呼格は o-語幹の男性名詞単数にしか残っていない。8格保持しているサンスクリットでも単数では奪格と属格が、複数では奪格と与格(為格)が融合してしまっていた。両数ではさらに格融合が進んでいる。余談だが、現在私たちが一般に使っている格の順番、主→属→与→対→その他というのはラテン語文法から来ているので、サンスクリットなどではこの順番が違う(上記参照)。学習以前にすでにこれで戸惑った人もいるのではないだろうか。
 形としての格が失われてしまうと、何らかの措置を外から施して本来名詞の語尾変化形が受け持っていた機能を明確にしてやる必要が出てくる。例えばあちこちで他の格と併合の憂き目にあっている奪格。これは起点を表す格であるが、パラダイムとしての語尾形が消失してしまったのでそれを埋め合わせるため前置詞が使われるようになった。奪格と具格の区別がなくなってしまったラテン語では奪格という形だけでは起点を表すことができなくなり、ab、ex、de などの前置詞を奪格名詞の前に付加するようになったのだ。具格を表したいときは cum+奪格。現在のドイツ語や英語などは前置詞なしではもうどうにもならない。後者では起点はvon、aus (英語のfrom)という前置詞を与格名詞の前に置いて表現する。

 日本語で奪格を表す助詞は「から」であろうが、よく見てみると上述の与格・処格助詞「に」も奪格として作用することがある。例えば:

1.私はその人に本をあげました。
2.私はその人に本をもらいました。

では、1の「その人に」は意味の上でも与格である。ドイツ語でも

Ich gab dem Mann ein Buch.

で、その人が与格形になっている。対して2の「その人」は格の意味としては奪格である。現にこの「その人」を「その人から」と入れ替えて「私はその人から本をもらいました」としても文の意味が変わらない。さらに

3.私はパステルナークさんロシア語を習いました。
4.私はパステルナークさんからロシア語を習いました。

は意味が同じだ。ここの「に」は奪格である。つまり全く方向性が逆の事象を同じ助詞が表しているわけだ。この奪格の「に」もドイツ人は理解するのに手間取る人が多い。そこで私は勇気づけのために「いや~、本当に日本語って意地が悪いですね。与格と奪格をいっしょの後置詞で表すんですから。なんなんだこれは、と思う気持ちよくわかります。」と自虐的な冗談を飛ばしていたのだが、最近これと似た、全く同じ形で与格と奪格という正反対な方向を表す意地の悪い構造がドイツ語にもあることに気づいた。日本語だけが性格の悪い言語ではなかったのである。例えば次のようなセンテンスを新聞で見ておやと思ったのだが、

5.Die Hoffnung auf einen klaren Sieg entsprang jedoch Wunschdenken.
はっきりと勝ちたいという希望が「だといいな」という考えから湧き出てきた。

ここでは、Wunschdenken「だといいなという考え」は与格であるが、「から」をつけて奪格としてしか訳せない。つまりこの名詞は形としては与格だが機能的には奪格なのだ。
これをきっかけにしてさらに思いめぐらしてみると思いつくわ思いつくわ。

6.Dieser Aussage ist zu entnehmen, dass …
この発言から次のようなことが読み取れる、すなわち…

ここでも「この発言」(太字)は形は与格だが、意味は奪格である。もっともこれら2例では動詞にent- という前綴りがついていることを理由にして「これは動詞のバレンツとして与格が要求されるから与格が来ているのであって、与格形そのものが奪格の意味を持っているのではない。つまり動詞の支配の問題に過ぎない」という説明も成り立つが、さらにこういう文も思いついてしまった。

7.Ich nahm dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを取った。

8.Ich stahl dem Mann seine Ente.
私はその人からアヒルを盗んだ。

「もうちょっとどうにかした例文を考えつかないのか」とネイティブに文句を食らったが、2文とも文法的には正しい。この文で「その人から」dem Mann(太字)は与格形である。ここで奪格性を明確にするため前置詞を付加してそれぞれ

9.Ich nahm von dem Mann seine Ente.

10.Ich stahl von dem Mann seine Ente.

ということもできるが「そういう文はエレガントじゃない」というのが先のネイティブの言であった。なくても意味が分かるような前置詞を無駄・余計に加えるのは「ダサい」そうである。これらの動詞「取る」(不定形nehmen)、「盗む」(不定形stehlen)はどちらもバレンツとしては与格を要求しない。そんなもんがなくても対格目的語と主格主語だけあれば完全な文として成立する。つまりこの与格名詞は奪格機能を持っているのだ。そういうことを考えているとさらに以下のような文を新聞で見つけた。

11.Dass … dem Verein Sponsoren abspringen.
その協会からスポンサーが手を引くということ。

この与格名詞dem Verein(「その協会から」)も意味的には奪格である。面白いことに独和辞書には(von + 3) abspringenという使い方しか載っていない。von という前置詞を名詞に付加せよということだから、つまり上の7~10の例とパターンがいっしょではないか。

 そこでこれらの奪格機能を持った与格形を文法書ではどう説明しているのか調べてみた。まず日本語のドイツ語広文典では与格の用法として「つぎのような意味の他動詞は対格の事物目的語の他に与格の人物目的語を支配する」として geben(「与える」)などの動詞とともにまさに上で出したnehmen、stehlenなどの動詞も例として掲げている。しかし7と8のような文の中の与格名詞を「目的語」と名付けるのは非常に疑問だったので念のためドイツ語のDuden を参照してみたら疑問はさらに拡大してこの著者は与格に奪格的な機能があることそのこと自体をまったく無視しているか、まさかのまさかだが思い至らなかったのではないかと疑うに至った。Duden では与格の人物目的語の一つとして以下のように説明されている。

Eine Person, … zu deren Vorteil oder Nachteil etwas geschieht. Mann spricht hier von einem Dativus commodi und incommodi.
何かその人にとってメリットあるいはデメリットになるようなことが起こる人物。それぞれcommodi の与格(メリット)及び incommodi の与格(デメリット)という。

一瞬このincommodi の与格というのが私の言う奪格の与格かと思うが、挙げてある例を見るとそういう意味ではないことがわかる。

12.Sie hat mir den Teller zerbrochen.
彼女は私に対して皿を割った→彼女は私の皿を割った

「私」が与格となっているが(太字)、これがいわゆるincommodi の与格というものだろうが、与格名詞のデメリットになっているとは言え、行為の方向はやっぱり私のほうを向いている。奪格ではない。さらに例として

13・Er hat ihr (für sie) einen Apfel gestohlen.
彼は彼女に(彼女のために)林檎を盗んだ。

という文が掲げてある。括弧内の (für sie)(「彼女のために」)というのは原文ですでに入っている。私が付け加えたのではない。だからこの文の意味は、「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」ということだ。これも方向は明確に与格の「彼女」(太字)を向いている。
 するとこの構造Er hat ihr einen Apfel gestohlen.は多義的ということ、日本語の「山田さんあげる」と「山田さん貰う」に似て同じ形が正反対の方向性を示していることになる。「彼は林檎を盗んで彼女にあげた」(意味としての与格)と「彼は彼女から林檎を盗んだ」(意味としては奪格)である。ネイティブに聞いてみたら与格の意味の方、「盗んだ林檎を彼女にあげた」ほうは文学的・古風なニュアンスで「日常会話にはあまり使わないだろ」とのことである。
 いずれにせよ、似ている点はあってもincommodi の与格は奪格の与格と完全には一致しない。上のドイツ語広文典で「与格の人物目的語」ではこの「デメリットの与格」さえ言及されていないのとすると著者は「彼女のために」という意味しか念頭に置いていなかったのだろうか。
 私には融合の憂き目を見た奪格の機能が与格にくっついて細々と生き残っているように見えてならない。
 

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 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。
Tabelle1-144
「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出した。例えば Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。
Tabelle2-144
フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。
Tabelle3-144
 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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