非人称文といったらいいか不特定主語文といったらいいか、動作主体をボカす表現がある。例の英語のThey say that he is stupid.というタイプのセンテンスだ。ドイツ語にもロシア語にもこの手のものがあるが、私にはこれが非常に難しい。文構造の上では主語が現れているのに意味の上では「ない」からである。
英語のThey say that...などは主語が複数表現だから動詞sayも複数形、これに相当するドイツ語のMan sagt, dass...(One says that...)ではsagtは単数3人称形だ。日本語だといちいちtheyだろmanだろ主語を持ち出さなくてもセンテンスとして成り立つので「彼は馬鹿だと言っている」で済むし、そもそも動詞に複数・単数の区別がない。ロシア語ではthey say thatは複数形でговорят, что(ガヴァリャート・シュト)とやるのが普通だ。говорятが動詞「言う」の複数3人称形、чтоがthatである。主語を特に書く必要がない、つまりsay thatまたはsagt, dassと主語抜きで言えるのが一見日本語と似ているようだが、数と人称は動詞の変化形でしっかりと表現されているので、始めからそういうものが存在しない日本語とは根本的に違うのである。またロシア語ではときどき単数形も使われる。ただし英語もドイツ語も主語(they, oneあるいはman)が人間であることを想起させるのに対しロシア語の単数非人称表現の方は動詞が中性形になる、つまり主語は非生物なのだ。その意味では構造的にはit says thatと対応している感じ。
たとえば、
Рабочий пробил стену.
という文では主語はРабочий(ラボーチイ、「労働者」)という男性名詞の単数主格形、пробил(プラビール) が「孔を開けた」という意味の動詞の過去形で主語に呼応して単数男性形、стену(スチェヌー)が「壁」という女性名詞の単数対格形だから、この文は「労働者が壁に孔を開けた」という意味だ。
これをを非人称文にして単に「壁に孔を開けた」と言いたい場合、上で述べたように2通りのやりかたがある。
1.Пробили стену.
2.Пробило стену.
1はいわば(They) drilled through the wall、2が(It) drilled through the wall。どちらも主語それ自体は表されていない(これを仮に「ゼロ主語」と呼んでおこう)が、動詞Пробили (プラビーリ)とПробило(プラビーロ、正確にはプラビーラ)のほうがそれぞれ複数と単数中性形になっているので必要ないからだ。
問題はここからなのである。
1のほうは動詞が複数形であることによってすでにゼロ主語が複数の動作主、つまり人間、少なくとも意志を持った主体(これを[+ human]あるいは[+ animate]と表しておこう)であることが暗示されているから、ここにさらに「によって」という斜格で動作主を表示できないことはすぐわかる。具体的に言うと(They) drilled through the wall by themというセンテンスは成り立たない。動作主がダブってしまうからだ。
でも2の方はどうか。ここではゼロ主語は中性だからつまり[- human] あるいは[- animate]、属性が違うから理屈の上では動作主を斜格で上乗せできるんじゃないか、という疑問が浮かんでしまった。いわばIt drilled through the wall by themだ。ここで主格のitと斜格のthemは指示対象が同一ではないのだからダブらないのではないか。
この英語のセンテンスが成り立つか成り立たないかはひとまずおいておいて(成り立たない!下記参照)、ロシア語の方の考察を続けると、ちょっと不自然なロシア語かもしれないが次のような受動態をつい類推してしまう。受動形も上のゼロ主語センテンスも「注意の焦点を動作主である主語から孔をあけられた壁のほうに向かわせる」ことが目的なのだから。
3.Стена была пробита бомбой.
4.Стена была пробита рабочим.
Стена(スチェナー)が「壁」の主格形、была пробита(ブィラ・プロビータ)が「孔をあける」の受動形で「孔をあけられた」。「によって」をロシア語では名詞の造格という格で表し、3のбомбой(ボーンバイ)、4のрабочим(ラボーチム)がそれぞれ「爆弾」、「労働者」の造格形。主格形はそれぞれбомба(ボーンバ), рабочий(ラボーチイ)である。だからギンギンに直訳すると3が「壁が爆弾によって孔をあけられた」、4が「壁が労働者によって孔をあけられた」。
実際「爆弾」の造格形を上の1と2の文に付加して、
5.Пробили стену бомбой.
6.Пробило стену бомбой.
というセンテンスが成り立つ。どちらも「爆弾によって壁に孔を開けた」という表現である。5では動詞が複数形(Пробили、プラビーリ)、6では単数中性形(Пробило、プラビーロ)であることに注目。上で検討した理由により5から類推した
7.Пробили стену рабочим.
という構造は成り立たないだろうが、6から類推した、2に動作主を造格で付加したセンテンス、
8.Пробило стену рабочим.
は、成り立つのではないか。
そこまで考えた私が、自らのセンテンス分析能力に自己陶酔さえしながらチョムスキー気取りで最後列から手を上げて「先生! Пробило стену рабочимとは言えないんですか?」と、デカい声で質問したとたん、地獄のような笑いの竜巻が教室中を吹き荒れた。「爆笑」などという生やさしいものではなかった。
私は何をやってしまったのか。
英語でもドイツ語でも受動態文で動作主と手段を表すにはそれぞれby (ドイツ語ではvon)とwith (ドイツ語ではmit)と別の前置詞を使い分けるが、上述のようにロシア語はどちらも名詞の造格形で表す。で、私はここで「労働者で壁に孔を開けた」と言ってしまったのである。
つまりドリルの先っぽに作業員を一人はめ込んで人間孔搾機として使用した訳だ。そんなことをしたらヘルメットは割れ頭蓋骨は砕け、飛び散る脳髄であたりは血まみれのほとんどホラー映画の世界になること請け合いだ。あのスターリンだってそこまではやらなかっただろう。
結局、属性の如何にかかわりなく一センテンス内では深層格(deep cases)あるいは意味役割(semantic roles。最近の若い人はθ役割とかワケのわからない名で呼んでいるようだが)はダブれないというとっくに言われていることをいまさら思い知っただけというつまらないオチで終わってしまった。
それはこういうことだ。ここでは文構造内にすでに「動作主格(Agent)」という深層格、あるいはθ役割がすでに形式上の主格(ここではゼロ代名詞)で現れているわけだからそこにまた具格(スラブ語では「造格」)を上乗せしたら、その具格で表される深層格はすでに主格で場所がふさがっている動作主格ではなく「その他・残り」、つまり道具格でしかありえなくなる。上で挙げた英語It drilled through the wall by themが成り立たないのも、一つの文構造の中にitとthemで動作主格が2度現れてしまうからだろう。わかりやすく言えばこれは指示対象云々でなく純粋に文構造内部の問題だということか。全然わかりやすくなっていないが。
さらに今さら思い当たったのだが、1、2のような能動態の非人称文のそもそもの役割は「動作主体をボカす」ということなのだから、一方でこの構造をとって動作主体をボカそうとしておきながら、他方でわざわざ造格の動作主体をつけ加えたりしたらやっていることが自己矛盾というか精神分裂というか、θ役割など持ち出さなくてもちょっと考えれば成り立たないことはわかりそうなものだった。
しかしそうやって笑いものになるのは私だけではない。
英語でもドイツ語でも「○○で」、つまり手段と、「○○といっしょに」、つまり同伴はどちらもwith やmitで表すが、ロシア語だと前者は上記の通り名詞の造格で、後者は造格に前置詞 с(ス)を付加して、と表現し分ける。そこでドイツ人には「壁に爆弾で孔を開けた」と言おうとして、
Пробили стену с бомбой.
と前置詞つきで言ってしまう者が後を絶たない。上の5と比較してほしい。これだと「爆弾といっしょに壁に孔を開けた」、つまり「作業員と爆弾はお友達で、仲良く工事作業にいそしんだ」という意味になってしまい、やっぱりロシア人から鬼のように笑われる。人の事を笑えた立場か。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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英語のThey say that...などは主語が複数表現だから動詞sayも複数形、これに相当するドイツ語のMan sagt, dass...(One says that...)ではsagtは単数3人称形だ。日本語だといちいちtheyだろmanだろ主語を持ち出さなくてもセンテンスとして成り立つので「彼は馬鹿だと言っている」で済むし、そもそも動詞に複数・単数の区別がない。ロシア語ではthey say thatは複数形でговорят, что(ガヴァリャート・シュト)とやるのが普通だ。говорятが動詞「言う」の複数3人称形、чтоがthatである。主語を特に書く必要がない、つまりsay thatまたはsagt, dassと主語抜きで言えるのが一見日本語と似ているようだが、数と人称は動詞の変化形でしっかりと表現されているので、始めからそういうものが存在しない日本語とは根本的に違うのである。またロシア語ではときどき単数形も使われる。ただし英語もドイツ語も主語(they, oneあるいはman)が人間であることを想起させるのに対しロシア語の単数非人称表現の方は動詞が中性形になる、つまり主語は非生物なのだ。その意味では構造的にはit says thatと対応している感じ。
たとえば、
Рабочий пробил стену.
という文では主語はРабочий(ラボーチイ、「労働者」)という男性名詞の単数主格形、пробил(プラビール) が「孔を開けた」という意味の動詞の過去形で主語に呼応して単数男性形、стену(スチェヌー)が「壁」という女性名詞の単数対格形だから、この文は「労働者が壁に孔を開けた」という意味だ。
これをを非人称文にして単に「壁に孔を開けた」と言いたい場合、上で述べたように2通りのやりかたがある。
1.Пробили стену.
2.Пробило стену.
1はいわば(They) drilled through the wall、2が(It) drilled through the wall。どちらも主語それ自体は表されていない(これを仮に「ゼロ主語」と呼んでおこう)が、動詞Пробили (プラビーリ)とПробило(プラビーロ、正確にはプラビーラ)のほうがそれぞれ複数と単数中性形になっているので必要ないからだ。
問題はここからなのである。
1のほうは動詞が複数形であることによってすでにゼロ主語が複数の動作主、つまり人間、少なくとも意志を持った主体(これを[+ human]あるいは[+ animate]と表しておこう)であることが暗示されているから、ここにさらに「によって」という斜格で動作主を表示できないことはすぐわかる。具体的に言うと(They) drilled through the wall by themというセンテンスは成り立たない。動作主がダブってしまうからだ。
でも2の方はどうか。ここではゼロ主語は中性だからつまり[- human] あるいは[- animate]、属性が違うから理屈の上では動作主を斜格で上乗せできるんじゃないか、という疑問が浮かんでしまった。いわばIt drilled through the wall by themだ。ここで主格のitと斜格のthemは指示対象が同一ではないのだからダブらないのではないか。
この英語のセンテンスが成り立つか成り立たないかはひとまずおいておいて(成り立たない!下記参照)、ロシア語の方の考察を続けると、ちょっと不自然なロシア語かもしれないが次のような受動態をつい類推してしまう。受動形も上のゼロ主語センテンスも「注意の焦点を動作主である主語から孔をあけられた壁のほうに向かわせる」ことが目的なのだから。
3.Стена была пробита бомбой.
4.Стена была пробита рабочим.
Стена(スチェナー)が「壁」の主格形、была пробита(ブィラ・プロビータ)が「孔をあける」の受動形で「孔をあけられた」。「によって」をロシア語では名詞の造格という格で表し、3のбомбой(ボーンバイ)、4のрабочим(ラボーチム)がそれぞれ「爆弾」、「労働者」の造格形。主格形はそれぞれбомба(ボーンバ), рабочий(ラボーチイ)である。だからギンギンに直訳すると3が「壁が爆弾によって孔をあけられた」、4が「壁が労働者によって孔をあけられた」。
実際「爆弾」の造格形を上の1と2の文に付加して、
5.Пробили стену бомбой.
6.Пробило стену бомбой.
というセンテンスが成り立つ。どちらも「爆弾によって壁に孔を開けた」という表現である。5では動詞が複数形(Пробили、プラビーリ)、6では単数中性形(Пробило、プラビーロ)であることに注目。上で検討した理由により5から類推した
7.Пробили стену рабочим.
という構造は成り立たないだろうが、6から類推した、2に動作主を造格で付加したセンテンス、
8.Пробило стену рабочим.
は、成り立つのではないか。
そこまで考えた私が、自らのセンテンス分析能力に自己陶酔さえしながらチョムスキー気取りで最後列から手を上げて「先生! Пробило стену рабочимとは言えないんですか?」と、デカい声で質問したとたん、地獄のような笑いの竜巻が教室中を吹き荒れた。「爆笑」などという生やさしいものではなかった。
私は何をやってしまったのか。
英語でもドイツ語でも受動態文で動作主と手段を表すにはそれぞれby (ドイツ語ではvon)とwith (ドイツ語ではmit)と別の前置詞を使い分けるが、上述のようにロシア語はどちらも名詞の造格形で表す。で、私はここで「労働者で壁に孔を開けた」と言ってしまったのである。
つまりドリルの先っぽに作業員を一人はめ込んで人間孔搾機として使用した訳だ。そんなことをしたらヘルメットは割れ頭蓋骨は砕け、飛び散る脳髄であたりは血まみれのほとんどホラー映画の世界になること請け合いだ。あのスターリンだってそこまではやらなかっただろう。
結局、属性の如何にかかわりなく一センテンス内では深層格(deep cases)あるいは意味役割(semantic roles。最近の若い人はθ役割とかワケのわからない名で呼んでいるようだが)はダブれないというとっくに言われていることをいまさら思い知っただけというつまらないオチで終わってしまった。
それはこういうことだ。ここでは文構造内にすでに「動作主格(Agent)」という深層格、あるいはθ役割がすでに形式上の主格(ここではゼロ代名詞)で現れているわけだからそこにまた具格(スラブ語では「造格」)を上乗せしたら、その具格で表される深層格はすでに主格で場所がふさがっている動作主格ではなく「その他・残り」、つまり道具格でしかありえなくなる。上で挙げた英語It drilled through the wall by themが成り立たないのも、一つの文構造の中にitとthemで動作主格が2度現れてしまうからだろう。わかりやすく言えばこれは指示対象云々でなく純粋に文構造内部の問題だということか。全然わかりやすくなっていないが。
さらに今さら思い当たったのだが、1、2のような能動態の非人称文のそもそもの役割は「動作主体をボカす」ということなのだから、一方でこの構造をとって動作主体をボカそうとしておきながら、他方でわざわざ造格の動作主体をつけ加えたりしたらやっていることが自己矛盾というか精神分裂というか、θ役割など持ち出さなくてもちょっと考えれば成り立たないことはわかりそうなものだった。
しかしそうやって笑いものになるのは私だけではない。
英語でもドイツ語でも「○○で」、つまり手段と、「○○といっしょに」、つまり同伴はどちらもwith やmitで表すが、ロシア語だと前者は上記の通り名詞の造格で、後者は造格に前置詞 с(ス)を付加して、と表現し分ける。そこでドイツ人には「壁に爆弾で孔を開けた」と言おうとして、
Пробили стену с бомбой.
と前置詞つきで言ってしまう者が後を絶たない。上の5と比較してほしい。これだと「爆弾といっしょに壁に孔を開けた」、つまり「作業員と爆弾はお友達で、仲良く工事作業にいそしんだ」という意味になってしまい、やっぱりロシア人から鬼のように笑われる。人の事を笑えた立場か。
この「お友達爆弾」をドイツ人はよほど頻繁に爆発させてしまうと見え、с を入れられるたびにロシア人の先生はまたかという顔をして悲しそうに首を振る。まったく油断も隙もない。もっともドイツ人学生の名誉のために言っておくと、с で道具や手段を表すことも実際にはあるらしい。辞書には рассматривать с лупой (「ルーペで観察する」)という例が載っていた。これは外国語、フランス語などからの影響かなんかなのだろうか。手段を表すのに前置詞を使わないのがロシア語本来の形であることには変わりないとしても、ひょっとしたらそのうちこのお友達爆弾のほうも手段を表す形として許されるようになるかもしれない。
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