アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:少数言語

 セルジオ・レオーネ監督の代表作に Il Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されて The good, the bad and the ugly というタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜか Zwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zwei にして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。
 さらに日本でも I quattro dell’ Ave Maria、「アヴェ・マリアの4人」というタイトルの映画が『荒野の三悪党』になって一人タイトルから消えている。無視されたのは黒人のブロック・ピータースだろうか。だとすると人種差別問題だ。ドイツ語では原題直訳で Vier für ein Ave Maria。

 もっともタイトル上で無視されただけならまだマシかもしれない。映画そのものから消された人もいるからだ。レオーネと同じようにセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品 La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここで人が一人削除されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来なくなっているらしい。「らしい」というのは私が見たのはドイツの劇場公開版ではなく、完全版のDVDだからだ(下記)。劇場版では登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていた。ドイツ語のタイトルは Der Gehetzte der Sierra Madre でちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないが完全版のDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分である。件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。つまり劇場版では全く吹き替えされていない、ということは出てきていないということだ。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 ちょっと話が急カーブしすぎかもしれないがやはり「一人足りない」例に、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれたのがロシア語の мы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳すると we with you なのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でも you and I と訳す。同様にこの友達100人も「私と君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言う inclusive(包括的あるいは包含的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現は exclusive(排除的あるいは除外的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞 we にあたる表現に際して包含的なものと除外的なものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類の we を体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語の方言にもこの区別があるらしい。「少なからず」どころか実はこの区別を持つ言語は世界中に広がっているのだ。南北アメリカやアジアだけでなく環太平洋地域、南インドやアフリカ南部の言語にも見られる。さらに足元琉球語の方言にもある。印欧諸語やセム語にはないが、話者数でなく言語の数でみると包含・除外の区別は決して「珍しい」現象ではない。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左が inclusive、右が exclusiveの「我々」だ。
Tabelle1-22
あちこちの資料から雑多に集めてきたのでちょっと統一がとれていないが、とにかくアフリカ南部からアジア、アメリカ大陸に広がっていることがわかる。ざっと見るだけで結構面白い。
 ジューホアン語というのが見慣れないが、これがアフリカ南部、ナミビアあたりで話されている言葉だ。
 中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的に inclusive、exclusive 両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特に inclusive として用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群のエヴェンキ語にもこの対立がある。満州語とエヴェンキ語は inclusive と exclusive がそれぞれmusə と mit、bə と bū だから形まで近い。
 問題はハワイ語やジューホアン語の双数・複数という分類だ。これらは安易にウィキペディアから持ってきた例だが、双数と言うのはつまり私が一人、あなたも一人の合計二人、複数ではこちら側かあちら側かにさらにもう一人いて3人以上、つまり複数なのかと思うとどうも事情は常にそう簡単ではないらしい。言語によっては双数とやらは実は単数あるいは非複数と解釈するべきで、それを「双数」などと言い出したのは、1.文法には数、人称というカテゴリーがあり、2.人称は一人称、二人称、三人称のきっちり三つであるという思考枠から出られない印欧語頭の犯した誤解釈だというのである。これは松本克己教授の指摘だが(もちろん氏は「印欧語頭」などという下品な言い回しは使っていない)、そもそも「一人称複数で包含と除外を区別」という言い方自体に問題があるそうだ。包含形に単・複両形を持つ言語は消して珍しくない。たとえば松本氏の挙げるニブフ語(ギリヤーク語)の人称代名詞は以下のような体系をなしている。
Tabelle2-22
人称は3つだけではないと考えさえすれば極めてすっきりした体系なのに、パンフィーロフ Панфилов В. З というソ連の学者は「1人称でも2人称でも3人称でもない人称」を見抜くことができず、話し手と聞き手が含まれているのだから単数とは見なせないと考えて、全くニブフ語の言語感覚を逸脱した「双数」という概念を藪から棒に一人称にだけ設定して次のように記述した。思い切りわかりにくくなっている。
Tabelle3-22
包含形を一人称複数の一種とせずに独立した一つの人称カテゴリー(包含人称あるいは一人称+二人称)とみなさざるを得ないのはアイマラ語も同じだ。アイマラ語は数のカテゴリーがないが、後に特殊な形態素を付けて増幅形をつくることができる。
Tabelle4-22
上のように hiwasa と naya-naka を比べても唐突すぎてよくわからないが、こうすれば体系をなしているのがよくわかる。さらに南太平洋のトク・ピシンも同じパターンなのが面白い。
Tabelle5-22
トク・ピシンというのは乱暴に言えばメラネシアの現地語の枠組みの上に英語が被さってできた言語だ。mi というのは英語の me、yu は you である。yumi で包含人称を表わすというのはまことに理にかなっている。トク・ピシンには本当に一人称双数形があるが、パンフィーロフ氏はこれをどうやって図式化するのだろう。不可能としか言いようがない。
 それではこれらの言語での包含人称とやらの本質は何なのか。例えばアイヌ語の(いわゆる)一人称複数包含形には1.一人称の間接表現(引用の一人称)、2.2人称の敬称、3.不特定人称の3つの機能があるそうだ。3番目がポイントで、他の言語とも共通している。つまり包含人称は1・2・3人称の枠から独立したいわば第4の人称なのである。「不特定人称」「汎人称」、これが包含形の本質だ。アメリカの言語学では初め inclusive の代わりに indefinite plural または general plural と呼んでいたそうだ。plural が余計なのではないかとも思うが、とにかく多くの言語で(そうでない言語もあるだろうが)包含対除外の単純な二項対立にはなっていないのである。
 そもそも一口に人称代名詞と言っても独立形か所有形(つまりある意味「語」でなく形態素)か、形の違いは語形変化によるのか膠着かによっても機能・意味合いに差が出てくるからまだまだ議論分析の余地が大ありという事だろう。
 
 ところで私の感覚だと、日本語の「私たち」と「私ども」の間にちょっとこの包含対除外のニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまり exclusive 寄りの意味が強いのではないだろうか。実はこの点を松本教授も指摘していて、それを読んだとき私は「おおっ、著名な言語学者を同じことを考えてたぞ私!」と万歳三唱してしまった。これは私だけの考えだが、この「私たち」と「私ども」の差は直接 inclusive 対 exclusive の対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えると inclusive 対 exclusive の対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれない。
 また上述のロシア語 мы с тобой 、つまりある意味では包含表現は単純に ты и я(you and me)やмы(we)というより暖かい響きがあるそうだ。 まどみちおさんも実は一人抜かしたのではなくて、むしろ暖かい友だち感を強調したかったのかも知れない。登場人物を映画やタイトルでぶった切るのとは逆である。
 さらに驚くべきことには安井稔氏が英語にも実は inclusive と exclusive を表現し分ける場合があることを指摘している:
Let's go.
Let us go.
という例だが、前者は単に後者を短く言ったものではない。意味と言うか会話上の機能が違う。前者は Shall we go?(さあ行きましょう)、後者は Let us be free! (私たちを行かせてください、自由にしてください)と同じ、つまり Let's の us は相手が含まれる inclusiv、Let us の us は相手が含まれない exclusive の we である。
 
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 『007・ロシアより愛をこめて』という映画がある。映画のデータベースサイトIMDBには映画での使用言語も細かく記載されているが、それによればこの映画では、英語、ロシア語、トルコ語、ロマニ語が使われているそうだ。ロマニ語というのはヨーロッパの有力な少数民族ロマ(いわゆるジプシー)の言語である。確かにジプシーという設定の人たちが出て来る。
 が、ちょっと待ってほしい。そのロマの一人の男性が主役のS.コネリーに向かって

Hvala lepa!  (フヴァーラ・レーパ)

と言う場面があるのを見落とすとでも思っているのか?始まってから45分くらいのところだ。これはセルビア語またはクロアチア語e方言で、「どうもありがとう」。ロマニ語ではない。
 標準クロアチア語だと『15.衝撃のタイトル』の項で書いた通りeがijeになるから

Hvala lijepa  (フヴァーラ・リイェーパ)
thank + pretty/great

となって、文字通りにはpretty/great thank、つまり「ありがとう」の強調だ。lepaあるいはlijepaは形容詞lijepあるいはlep(「美しい」)の女性単数形でHvala(「感謝」)にかかる、つまり形容詞が後置されているのだ。これを最上級でいうこともできて、

Najljepša hvala! (ナイリェプシャ・フヴァーラ) または
Najlepša hvala! (ナイレプシャ・フヴァーラ)
prettiest/greatest + thank

で「本当にどうもありがとう」、ドイツ語ならHvala lijepa!はschönen Dank!、Najljepša hvala!はschönsten Dank!とでも訳したらいいのか。

 この「ありがとう」をロマの男性が、戦闘中に撃たれかかっていたところを援護射撃してくれたジェームス・ボンドに対して言うのだが、そのあと状況が落ち着いた際、男性は改めてまたHvala lepaを繰り返して言う。私が聞き取ったのは

Hvala lepa, što ste mi podarili moj život.
thanks + pretty/great, + that + (you) have + (to) me + presented + my + life.
→ 私に命を授けてくれて(私の命を救ってくれて)本当にありがとう

Vi ste sada moj sin.
You + are + now + my + son
→ あなたは今から私の息子だ。


という会話だが、これも混じりけなしのセルビア語だ。ロマニ語ではない。

 ちなみにこのšto ste mi podarili moj životという言い方にちょっとひっかかった人もいるだろう。そう、このšto(シュト)はロシア語のчто(シュト)と対応する語で、英語のthat、ドイツ語のdassだが、普通外国人がクロアチア語・セルビア語のthatとして教わるのはdaという接続詞である。で、上の文は私などだったら

Hvala lepa, da ste mi podarili moj život.

と書くところだ。念のため辞書を引いてみたらやっぱりštoよりdaのほうが普通のようだが、

oprostite što smetam!
excuse + that + (I) disturb
→ お邪魔してすみません(ちょっとお尋ねしますが)


という言い方もできるそうなので、この二つは機能的に重なる部分があるということだろう。セルビア語はクロアチア語より東の言語だから、ロシア語などの東スラブ語とつながっている部分があるのかもしれない

 映画のこのシーンは場所設定がセルビアだったのでセルビア語が出てくるのは当たり前といえば当たり前だが、この男性はロマである。ロマニ語を話すのではないのか?それとも英語のオリジナルではここが本当にロマニ語になっているのか。私の見たのはドイツ語吹き替えバージョンだった。でも英語をドイツ語に吹き替えたバージョンなら、そこにロマニ語が出てきたら普通それもドイツ語に吹き替えるか、そのままロマニ語にしておくのではなかろうか。英語版ではロマニ語だった部分をドイツ語バージョンでわざわざセルビア語にする、というのはどうも考えにくいから、やっぱりこの部分は英語バージョンでもセルビア語だったのだと思う。ご存知の人がいたら英語バージョンのほうはどうなっているのか教えていただけると嬉しい。
 ロマニ語ネイティブスピーカーは全員住んでいる国の言葉とのバイリンガルだから、件の男性も実際にここで言語転換、いわゆるコードスイッチしたのかもしれない。セルビア語を話す、ということはこの男性はカルデラシュというロマのグループだったのだろうか。
 
 実は私の家の近所にも以前、ロマの人が結構たくさん住んでいたのだが、こちらには全てドイツ語で話しかけてきた。ただ、お互いの間では全く別の言語でしゃべっていたのを覚えている。多分彼らはシンティ(ドイツ、オーストリア、北イタリアなどにいるロマの一グループ)だったのだと思うが、一度少し離れた公園で別のグループのロマの人たちを見かけたことがあり、聞いてみたら、ルーマニアから来たと言っていた。つまりこの人たちはシンティではなくてヴラフ・ロマ(Vlach-Roma)と呼ばれるグループかあるいはバルカン・ロマだったのか。こちらも意思の疎通はドイツ語で全く支障がなかった。皆いつの間にか見かけなくなってしまったので少し寂しい。あの人たちは今どこにいるのだろう。 
 このロマニ語は1800年代の後半にスロベニア人の言語学者(国籍は当時のオーストリア)ミクロシッチが広汎な研究をしているが、それ以前にも単語の記述などはされていたし、ロマニ語がインド・イラニアン起源らしいということは18世紀からすでに言語学者の間で言われていたそうだ。現在も研究者は多い。ロマニ語はインド・イラン語派の古い形を保持している一方、あちこちでいろいろな言語に接触しているから、クラシックな印欧語学にも、言語接触、二言語併用など今をときめく分野にも資料を提供できる。社会言語学・応用言語学の対象としても申し分がない。いわば「これ一つやれば歴史言語学から応用言語学まで、言語学がすべてわかります」的な貴重な言語だと思う。ドイツ語なんかより(あら失礼)ロマニ語のほうがよっぽど魅力的な言語だと思うのだが。

 ところで、ドイツ語で「やりたくない、する気が起こらない」という意味の、

Ich habe keinen Bock darauf.
I + have + no + „Bock“ + on it

という表現がある。このBockという単語が曲者で、辞書には「雄のヤギ」という意味しか載っていない。私の持っている和独辞典にもその「雄のヤギ」の項目に「慣用句」としてこのIch habe einen Bock darauf(○○をする気がある)と出ている。ところがこの語は本来雄ヤギのBockとは全く関係がない別単語で、ロマニ語のbokh(khは帯気音のk)という言葉からドイツ語に借用されたもの、という説がある。このロマニ語は「食欲」とか「~したい気持ち」という意味だそうだから、完全につじつまが取れているのだ。ただ、意味は合っているがこのkeinen Bock darauf という言い回しが広まり始めたのは1970年ごろだそうで、なぜそのころになって急にロマニ語が借用されたのか、という点に問題が残る。もしロマニ語起源ならもっと前から借用例がみつかりそうなものだからだ。意味は合っているが時期が合わないのでBock=bokh説はまだ全体には受け入れられていない。
 
 ちなみに現在ヨーロッパではマケドニア、コソボ、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、フィンランド、ノルウェー、スロベニア、ハンガリー、ルーマニアなどがロマニ語を正式に「少数言語」として承認しており、欧州会議の議員にも時々ロマ出身者がいる。ただ、ロマに対する偏見・差別は悲しいことにまだなくなっていない。
 旧ソ連も1920年代に一時、非常にリベラルな言語政策をとっていたことがあって、ロマニ語を正規に認め、ロマニ語による学校授業、出版などが許されていたそうだ。プーシキンのロマニ語訳なども出版されていたという。欧州議会が正式にロマニ語を保護しだしたのは1990年代だからそれに70年も先んじている。旧ユーゴスラビアでもそんな感じの言語政策だったらしい。残念なことにソ連ではその後ロマニ語保護政策が撤回されてしまったとのことだが。

 『ロシアより愛を込めて』で、ソ連のスパイとの丁々発止がユーゴスラビアで展開され、そこにセルビア語を話すロマが登場する、というストーリーは意味深長だと思った。おかげでセルビア語のシーン以外はほとんど何も覚えていない。ごめんなさい。


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 ドイツは1998年にEUのヨーロッパ地方言語・少数言語憲章を批准・署名しているので、国内の少数言語を保護する義務があり、低地ザクセン語、デンマーク語、フリ―スランド語、ロマ二語、ソルブ語が少数言語として正式に認められている。特にソルブ語は、公式に法廷言語として承認されている。裁判所構成法(Gerichtsverfassungsgesetz)第184条にこうある。

Die Gerichtssprache ist deutsch. Das Recht der Sorben, in den Heimatkreisen der sorbischen Bevölkerung vor Gericht sorbisch zu sprechen, ist gewährleistet.

法廷言語はドイツ語とする。ソルブ人の住民にはその居住する郡の法廷においてソルブ語を使用する権利が保障される。

 法廷言語は公用語とイコールではないが、ソルブ人はやろうと思えばもとから自分達の住んでいる地域で自分達の言葉を使って裁判ができるのだからこれは準公用語的ステータスではないだろうか。日本のどこかにアイヌ語で裁判をする権利が認められている地方があるだろうか? さらに、現在ザクセン州の知事をしているのはドイツ人ではなく、ソルブ人のスタニスラフ・ティリッヒという政治家だ。「スタニスラフ」という名前は典型的に非ドイツ語形。これを日本で言うと、北海道の一部でアイヌ語で裁判が行え、アイヌ語名の仮名表記で戸籍に登録でき、例えば「ゲンダーヌ」という名前のまま立候補したアイヌ人が北海道の知事になったようなものだ。
 ソルブ語はドイツ語とは全く違う西スラブ語系統の言葉でポーランド語に近い。さらに厳密に言うとソルブ語は一つの言語というより下ソルブ語と上ソルブ語の2言語だ。

 これはあくまで自己反省だが、大学でドイツ語、ドイツ文化、あるいはドイツの政治や歴史を勉強しましたといいながらこのソルブ語の存在を知らない人がいる。「ソルブ語なんてドイツ語・ドイツ文化はもちろんドイツの歴史とは関係ないんだからいいじゃないか」と言うかも知れないが、私はそうは思わない。
 「私は日本のことを大学で勉強しました」と言っている外国人がアイヌの存在を知らなかったら、その人の「日本学専攻者」としての知識・能力に対して一抹の不安を抱くのではないだろうか。「ドイツの言葉や文化・歴史を勉強しました。でもソルブ語って何ですか?」と聞く人はそれと同じレベルだと思う。繰り返すがこれは自己反省である。私もソルブ語のことを教わったのはスラブ語学の千野栄一氏の本でなのだから。そもそもいまだに西スラブ語が一言語も出来ない私がエラそうなことを言えた義理ではないのだ。

 そのソルブ語のことをそれこそお義理にちょっと(だけ)調べてみた。
 
 まず「窓」という単語。上下ソルブ語共に wokno である。『33.サインはV』の項に書いたベラルーシ語と同様「語頭音添加の v 」(prothetic v、 ソルブ語では w、ベラルーシ語では в と綴る) が現れているではないか。これはロシア語では окно(okno) だ。そう知るとベラルーシ語以外の東スラブ語、要するにウクライナ語が気になりだした。いくつか単語を検索してみたので比べてみて欲しい。左がロシア語、真ん中がベラルーシ語、右がウクライナ語だ。
Tabelle1-37
ベラルーシ語とウクライナ語では prothetic v の現れ方が微妙に違っている。「秋」と「目」に対して「火」と「窓」を比べてみると、v の現れ方がベラルーシ語とウクライナ語でそれぞれちょうど逆になっているのがわかる。 「8」、「耳」、「髭」では両言語仲良く(?)語頭音に v がついている。「8」に至ってはロシア語までいっしょになって v つきだ。
 
 しかしその、全東スラブ諸語共通で v が語頭添加されている「8」も南スラブ語のクロアチア語では v が現れない。
 Tabelle2-37
「窓」「髭」はクロアチア語は別系統の語を使うようだが、「火」、「8」、「耳」、「目」に v が転化されていないのが見て取れる(太字)。なお。クロアチア語の j は英語の j ではなくドイツ語の j、英語で言うなら y  なので、jesen は「イェセン」である。下記のポーランド語もそう。

 さてそういえば上のウクライナ語に対して対ロシア語・ベラルーシ語では「8」と「窓」という単語でそれぞれ  i 対 o と音韻交替している(下線部)。もっともベラルーシ語はアーカニエ(『6.他人の血』参照)を文字化するので a になっている。これに呼応してハルキウ(Харкiв)というウクライナの都市のロシア語名はハリコフ (Харьков) だ。

 西スラブ諸語にもどるが、ソルブ語とポーランド語を比較してみた。西スラブ語の正書法では ch は英語でなくいわばドイツ語読みなので発音は「チ」でなく「ハヒフヘホ」、[ç] または [x] である。
Tabelle3-37
「秋」は上下ソルブ語とも別系統の語だ。zyma はロシア語の зима (zima) 「冬」だろうからつまりソルブ語では秋のことを「冬に向かう季節」と表現するらしい。「髭」は下ソルブ語で borda と言って上述のクロアチア語と同系統の語、上ソルブ語と語彙そのものが違うように見えるが実は borda 系の単語は上ソルブ語でも使うそうだ。つまり wusy か borda かは言語の違いというより髭の種類の違いのようで、前者は顎鬚を指し髭全般を意味するのはむしろ後者らしい。だからもしかしたらクロアチア語にも下ソルブ語にも borda と並んで ус (us)、 вус  (vus) あるいは wusy (vusy) 系統の単語が存在するのかもしれないが小さな辞書には出ていなかった。
 いずれにせよ、prothetic v を売り物にする(していない)ベラルーシ語よりむしろソルブ語の方がきれいに v  が現れている。

 ついでに隣のバルト語派のリトアニア語は以下の通りだ。 さすがバルト語派。スラブ語派と形が近いが基本的に prothetic v  は現れない。

上下ソルブ語と同様「秋」が別単語だが、ソルブ語と違って「冬に向かう季節」でもない。「冬」はリトアニア語で žiema、スラブ諸語とそっくりだ。リトアニア語の「秋」ruduo はrùdas、「茶色」から来ているそうだ。
Tabelle4-37
 ちょっとネイティブ・スピーカーに聞いてみたら、「髭」には他に barzda という borda 系の言葉もあるらしい。ちなみに「火」というリトアニア語ugnis は、oganj(クロアチア語)、wogeń(下ソルブ語)、ogień(ポーランド語)、 огонь (ogon’)(ロシア語)などとともに、ラテン語の ignis と同源だ。「8」の aštuoni という形は t が入っているのでスラブ語派とは関係ないだろうと思うと、実は両者ともにしっかり同語源、印欧祖語の oḱtṓw から来ている。ラテン語の octō を見てもわかる通り、本来は t があったのだ。それを抜いてしまったスラブ諸語のほうがむしろ文字通り抜けているのである。
 こうして見てみるとリトアニア語も非常に面白そうな言語だが、この言語はアクセント体系が地獄的に難しいと聞いたので今生ではパスすることにして、次回生まれ変わった時にでも勉強しようと思う。


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 しばらく前に何かのドキュメンタリー番組でドイツのお巡りさんが一人紹介されていた。このお巡りさんは子供の頃両親に連れられてペルーから移住してきたので、ドイツ語とスペイン語のバイリンガルだそうだ。
 ある晩、同僚と二人組みでフランクフルトの中央駅周辺をパトロールしていたら、不案内そうな外国人が(たどたどしい)ドイツ語で道を尋ねて来た。そのお巡りさんは即座にそのドイツ語がスペイン語訛であることを見抜いてすぐスペイン語に切り替え、

「お客さん(違)、ひょっとしてスペイン語話すんじゃないですか?」

突然ドイツのお巡りさんから母語でそう話しかけられた時のその外国人の嬉しそうな顔といったら!
 その後の会話はスペイン語だったのでTVではドイツ語字幕が入った。

「そそそ、そうですよ。お巡りさん、スペイン語話すんですか?」
「話すも何も、母語ですよ。私はもともとペルーの出でね。そちらは?」
「えーっ、ラテンアメリカなの?! 私エクアドルですよー」
「えーっ、じゃあ、隣りじゃないですか」

ここで二人はポンポン肩を叩き合う。

「すごいなあ、ペルーから来てドイツ人になって公職に付く事なんて出来るんですか。」
「んなものは、出来ますよ、普通にやってれば。ところでここら辺は危ないし、道違うから早くあっちに行った方がいいですよ。」

その外国人が後ろを振り返り振り返り向こうに行ってしまうと、お巡りさんは隣の同僚と普通にドイツ語で話始めた。スペイン出身だとか親がスペイン人だからドイツ語とのバイリンガル、という人は時々見かけるが、ペルーからの移民というのはたしかにちょっと珍しい。

 そういえば、姉が中国現代文学の翻訳をしているのだが、その姉が以前送ってくれた雑誌に載っていた中国の短編の一つがこういう話だった: 中国吉林省出身の若者、つまり朝鮮民族の中国人が韓国に出稼ぎに来て休日に「とても気さくで親切な」老人と会い、話がはずんだ。老人の韓国語にどうも訛があるな、と思ったら韓国に住んでいる日本人だった。老人の方も老人の方で、この人の韓国語はどうも韓国の韓国人と違うな、と思っていたら中国出身だった。

 こういうちょっとした話が私は好きだ。

 ところで、「バイリンガル」という言葉をやたらと安直に使う人がいるが、実は何をもってバイリンガルと定義するか、というのは結構むずかしいのだ。「母語が二つある人」、つまり両方の言語を言語獲得年齢期にものにした人、と把握されることが多いが、大抵どちらかの言語が優勢で、完全にバランスの取れたバイリンガルというのはむしろ稀だ。たとえ子供のころにある言語を第一言語として獲得してもその後失ってしまった場合、その人はバイリンガルなのかモノリンガルなのか。いずれにせよ、単に「二言語話せる」程度の人などとてもバイリンガルではない。「俺は学校で英語を習ってしゃべれるからバイリンガル」と言っていた人がいるが、どんなにペラペラでも母語が固まってから学校などで習った言語は母語ではないからこの人は立派なモノリンガルなのではないか。
 私は簡単に「バイリンガル」という言葉を使われると強烈な違和感を感じるのだが、これは私だけの感覚ではない。知り合いにも生涯の半分(以上)を外国で過ごし、日常生活をすべて非日本語で送り、お子さんたちとも母語が違う人が結構いるが、その方たちも口を揃えて「私はバイリンガルとは程遠い」と言う。これが正常な言語感覚だと思うのだが。

 そもそも「何語が母語か」「何語を話すか」という問い自体が本当はすごく重いはずだ。例えばカタロニア語を母語とする人はスペイン語とのバイリンガルである場合がほとんどだが、「母語はスペイン語でなくあくまでカタロニア語」というアイデンティティを守りたがる人を見かける。以前もドイツのTV局の報道番組でバルセロナの人がインタビューされていたのだが、「スペイン語を使うくらいならドイツ語で話そう」といってレポーターに対して頑強にタドタドしいドイツ語で押し通していた。その人はスペイン語も母語なのにだ。
 かなり前の話になるが、私も大学のドイツ語クラスでバルセロナから来た学生といっしょになったことがあるが、この人は「どこから来たのか」という質問に唯の一度も「スペインです」とは答えず、常に「バルセロナです」と応答していた。「ああスペインですね」といわれると「いいえ、バルセロナです」と訂正さえしていたほどだ。
 さらに私が昔ロシア語を習った先生の一人がボルガ・ドイツ人で、ロシア語とドイツ語のバイリンガルだったが、「スターリン時代はドイツ語話者は徹底的に弾圧された。『一言でもドイツ語をしゃべってみろ、強制収容所に送ってやる』と脅された」と言っていた。スターリンなら本当にそういうことをやっていたのではないだろうか。
 つまり「バイリンガルであること」が命にかかわってくることだってあるのだ。

 言語というのは本来そのくらい重いものだと私は思っている。安易に「私は○○弁と共通語のバイリンガル」などとヘラヘラふざけている人を見ると正直ちょっと待てと思う。「方言」か「別言語」かは政治や民族のアイデンティティに関わってくる極めてデリケートな問題だからだ。逆にすぐ「○○語は××語の方言」という類のことをいいだすのも危険だ。
 これもまたカタロニア語がらみの話だが、あるとき授業中に「カタロニア語?スペイン語の方言じゃないんですか?」と堂々と言い放ったドイツ人の学生がいて、周り中に失笑が沸いた。ところが運悪く教室内にカタロニアから来た学生(上の人とは別の人である)がいたからたまらない。自分の誇り高い母語をノー天気な外部者に方言呼ばわりされたその人はものすごい顔をして発言者を睨みつけた。一瞬のことだったが、私は見てしまったのである。

 別に私はカタロニア語の回し者ではないが、やはり「スペイン語」という名称は不適当だと思っている。自分でも「スペイン語」という通称を使ってはいるが、これは本来「カスティーリャ語」というべきだろう。さらに、「カシューブ語はポーランド語の方言」、「アフリカーンス語はオランダ語の一変種」とかいわれると、全く自分とは関係がないことなのに腹が立つ。もちろん私如きにムカつかれても痛くも痒くもないだろうが、そういう人はいちどバルセロナの人に「カタロニア語はスペイン語の方言」、ベオグラードのど真ん中で「セルビア語はクロアチア語の方言」と大声で言ってみるといい。いいキモ試しになるのではないだろうか。


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 何年か前にこちらで結構大騒ぎになったニュースがある。ギリシアのロマ居住区で両親とは全く似ていない金髪の少女がみつかったため、親だと自称するロマ夫婦にほとんど自動的に「誘拐・人身売買の手先」の疑いがかかり、少女は保護された、という事件である。
 そのロマ夫婦は最初から、知り合いのブルガリアのロマが、産んだはいいが経済的に自分達では育てられないからと言ってこちらに預けてきたのだ、と主張し続けていたが、当局はそれを信用せず、行方不明となっている子供のリストなどを大掛かりに検索して徹底的に調査した。しかしそのロマの夫婦があっさりと「そんなに疑うのだったらその預け元のブルガリアの知り合いの携帯番号があるからそっちにあたってくれ」と主張するので、調べたらそのロマは始めから本当のことを言っていたのである。
 この事件で心ある人の議論になっていたのは、ロマとみると誘拐の犯罪のとすぐ連想するヨーロッパ社会の暗部であった。ギリシアにもロマ出身の政治家がいて(私の知る限りでは1990年代にスペイン国籍のロマのEU議員がいたし、現在でもハンガリー国籍のEU議員がいる)、真っ先にそのことを問題にしていた。
 期を同じくしてアイルランドでもロマの家庭に金髪の少女がいるのが見つかり、当局はその少女を保護したが、DNA鑑定をしてみたら本当にそのロマの子供だったのだ。そのロマはきちんと社会に溶け込んで仕事もしている普通の市民だった。

ヨーロッパ社会もまだまだだ。

 ロマの言語を「ロマニ語」というが、この「ロマニ」(romani)というのは「ロマの」という形容詞の単数女性主格である。なぜかというとこれはもともと romani čhib(「ロマの言語」)という言葉からとったもので、čhib というのが「言語」という意味の女性名詞なので、それに呼応して形容詞のほうも女性単数になっているからである。この形容詞の男性形は romano で、男性名詞 kher(「家」)にかかると romano kher(「ロマの家」)。私の家の近くに州のロマの本部、というか文化・情報センターがあるが、ここの名称が romano kher となっている。
 そのロマニ語の話者はヨーロッパ全体で推定1000万人という。リトアニア語・スウェーデン語など下手な国家言語より規模の大きい大言語である。もっともこの1000万というのがあまり正確な数字ではない。ロマニ語がもう話せなくなっているロマがいる一方でロマ出身ということを隠しておきたいがために実はロマニ語を話せるのに話せないことにしている人などもいて正確な統計が出せないからだ。しかしこの1000万と言う数字が本当ならばロマニ語はカタロニア語を抜いてヨーロッパ最大の少数言語ということになる。以前は最大の少数言語はカタロニア語だったが、ルーマニア・ブルガリア始めバルカン諸国がEUに加わったためロマニ語話者の人口が一気に増大し、カタロニア語はその地位を奪われたわけだ。

 本などにはいたるところに「ロマは北インド起源」と書いてある。でもそれを証明する歴史的文献などは存在しない。彼らがインド起源であるというのは純粋に比較言語学上で証明されたものだ。19世紀にヨーロッパで比較言語学が発展してすぐに関心をロマニ語に向けた学者もいた。バルカン言語学で有名なミクロシッチもその一人であるが、この人の名前は教科書などには普通フランツ・ミクロシッチと書いてある。が、彼はスロベニア人であって、当時そこがオーストリア領であったため本来「フラーニョ」という名前をドイツ語風にして名乗っていたのだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』の項参照)。ついでに言うと例のイヴ・モンタンもトリエステ生まれで、スラブ系の「イヴォ」が本名である。
 話が逸れたが、そのミクロシッチ、サンドフェルド(本国デンマーク語ではサンフェルというのだろうか)などの当時の大言語学者達が印欧諸語に対する膨大な知識を駆使して来る日も来る日も詳細に比較していった結果ロマニ語の起源がわかったのだ。
 ロマは元の元の大元は中部インドにいたものが、一旦北インドに移住してそこにしばらく住み、9世紀ごろにアルメニアとかあそこら辺のルートを通って、遅くとも11世紀にはビザンチンに入り、そこでタップリギリシャ語の影響を受けた後、14世紀ごろにヨーロッパ各地に散り始めたというが、本にはしごくあっさり書いてあるそういうことも歴史文献などに出ていたのではなく、すべて比較言語学で理論上出された結果である。例えばロマニ語にはアラビア語起源の借用語が非常に少ない、ということから民族移動のルートがアラビア語の話されている地域とあまり接触しない北の方を通った、と推定されるのだ。
 ドイツには15世紀からロマが住んでいたらしい。ドイツにロマが住んでいたことを述べている最初の文献は1408年にヒルデスハイムという町で書かれた文書だそうだ。

 以下にインド・イラニアン語派の言語とロマニ語で1から10までと100をなんというか挙げてみたが、互いによく似ている。「ドマリ語」というのは中近東に住んでいる同民族の言語である。
Tabelle1-50
(ここでxというのはあくまで [x]、つまり軟口蓋で出す摩擦音のことで「クス」とか「エックス」ではない)

 しかし実は別にミクロシッチほどの専門家でない、私のような素人目にもロマニ語はインドあたりの起源なのではないかと薄々感じることができる。この言語は音韻上、無気音と帯気音を弁別するからだ。これらは今のヨーロッパ内の印欧語ではアロフォンだ。帯気音は子音の後ろに h をつけて表すが例えばロマニ語には次のようなミニマル・ペアがある。
Tabelle2-50
また日本の印欧語学者泉井久之助氏は

Dadeske hi newi gili

というロマニ語の例を挙げているが、dadeske は「父」の与格、hi が英語の is、newi が「新しい」、gili が「歌」で、「父には新しい歌がある」。だからロマニ語は『42.「いる」か「持つ」か』の項で述べたようないわゆるbe言語なのである。

 さらに、件のギリシャのロマ夫婦の知り合いがブルガリアのロマだった、ということも考えてみると含蓄がある。ギリシアとブルガリアのロマはいわゆる「バルカングループ」という方言グループを形成しているから、ギリシャとブルガリアのロマは話が通じたのだろう。ルーマニア、セルビアのロマとなると「ヴラフ・ロマ」という別の方言グループに属しているから、相互理解はそれほどすんなり行かなかったのではないだろうか。ハンガリーと一部のオーストリアのロマは「中央グループ」という方言、ドイツのシンティ、フランスのマヌシュは「北方言群」に属すそうだ。

 ことほど左様な大言語なのに、その割にはロマニ語学習者が少ない、というか「ほとんどいない」のには原因がある。一つは上でも述べたように「方言差が大きく、中心となる言語ヴァリアントがない」ことがロマニ語の保護、特に文書化を妨げているからだ。特に強力な中央方言がないためにラテン文字で書くにしてもドイツ語風にするのかフランス語読みにするのか、クロアチア語表記で書くのか統一することができない。語彙や文法でも差が激しいので「ロマニ語文法」として一つにまとめるのが非常に難しい。さらにドイツのシンティなどは文書化・文法書の発刊そのものに反対している(下記参照)。
 理由の二つ目はロマニ語を話す人々に対する偏見。事実ナチの時代にはロマは「劣等民族」として虐殺された。
 三つ目の理由は、ロマ自身がその言語を外部のものに教えたがらないからだ。当然だ。何世紀もの間、周り中から敵意ある目で見られ(その被抑圧ぶりはユダヤ人の比ではない)、あろうことか組織的に虐殺されたりしたら、絶対に周りに対してオープンになどなれない。ナチスの時代には「言語調査」と称してロマのところへやってきて、収容所送りにする下準備したりした御用学者もいたそうだから。
 私自身一度どこかのネットサイトでシンティ、つまりドイツのロマが「ロマニ語を教わりたい」というドイツ人の書き込みに対して「やめてくれよ。ロマはよそ者に言語を漏らしたりしないよ。言語は私たちが誰からも奪われることがなかった唯一のものなんだ。」とレスしているのを目撃したことがある。もっともそれに対して別のロマが「そういう心の狭いことを言うからいつまでも差別されるんだ」と反論していたが。

 そういった事情にもかかわらず、ロマニ語の文法書なども細々と出てはいる。多くはドイツのロマニ語ではなく、抑圧経験がそれほど強烈ではなかったため、比較的オープンなカルデラシュというセルビアのロマグループの言語を基礎にしたものだそうだ。
 その文法書などにも、そして他の研究書などにも「ロマは『あまりにも理解できる理由によって』自分達の言語が記述されることには否定的である」と書かれている。この『あまりにも理解できる理由によって』という言い方に、こんなに魅力的な研究対象に対して手を出すことが許されない、しかもそれは自分達のせいなのだ、というヨーロッパの言語学者の自責の念をヒシヒシと感じるのだが。うめき声が聞こえてくるようだ。

 私は「語学をやる」というのは基本的にこういうこと、相手の最も繊細な部分に土足で突っ込んでいくことだと思っている。だから手軽な学習書を買い集め、「こんにちは」とか「さようなら」とかしゃべって見せて外国人に通じたと言って悦に入る、すぐに「○○語が出来ます」とかエラそうに言い出す、こういうチャライ態度にはちょっと抵抗を感じる。


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 フランシス・フォード・コッポラの代表作『ゴッドファーザー』3部作を通じて最も印象に残っているシーンは『パートⅠ』で、シチリアに高飛びしたアル・パチーノ演じるマイケル(ミケーレ)が現地で結婚した女性(シモネッタ・ステファネッリ)を形容して「イタリア人というよりギリシア人の容貌」と言う場面である。少なくともドイツ語版ではそういうセリフだった。日本語ではどうなっていたか忘れたが。

 シチリア全島、カラブリア、南アプーリアはローマ時代以前にギリシア人が大規模な植民地を作っていた地域で、そこここにギリシャの遺跡があり、地名などにもギリシャ語起源のものが目立つ。現にシチリアというのは本来ギリシア語のΣικελίαから来たものだし、上のミケーレのシチリア妻の名前もアポロニアという一目瞭然のギリシャ語だ。そもそも「ギリシャ」という名称自体がギリシャ本土で使われていた名前ではなく(それならばギリシャはヘラースである)、ローマ共和国あるいはローマ帝国内のギリシャ人が自分たちをグレコと呼んでいたのをラテン語に取り入れたものだ。これらの旧植民地の地域を総称して俗にMagna Graeciaというが、ここには遺跡や固有名詞がギリシャ時代の残滓として残っているばかりではない、いまだにギリシャ語を話す地域が散在している。

当時のMagna Graecia(マグナ・グラエキア)。赤い点がギリシャ人都市である。ウィキペディアから
MagnaGraecia

現在はカラブリアの先端とアプーリア(オトランド地方)の南、つまりイタリア半島のつま先と踵の部分でギリシャ語が話されている。
(これもウィキペディアから)

GrikoSpeakingCommunitiesTodayV4

 ここで話されているギリシャ語はもちろん本国の現代ギリシャ語とは大分違い、「グリコ語」(GrikoまたはGrico)という独自の名称が与えられている、イタリアは1992年のヨーロッパ地方言語・少数言語憲章に署名だけはしているから(批准はまだである。下記参照)、少数言語への関心も喚起されているらしく、アプーリアのグレチア・サレンティーサなどの村には本国との交流も行なわれてギリシャ語復興運動が行なわれているそうだ。
 しかし少数言語のご多分に漏れず話者人口は減り続けていて、グリコ語ネイティブは現在およそ2万人でほぼ全員が50歳以上、L2の話者を含めてもせいぜい4万人から5万人に過ぎないという。
 映画が製作された1970年代はEU自体が存在しておらず、少数言語の保護なども今ほど盛んではなかったはずだから、話者は急カーブで減少していっていたに違いない。話者の数が持ち直していくか、これからの保護運動に注目して行きたいところだ。

 そういえばしばらく前にうちでとっている「南ドイツ新聞」にレッジョ・ディ・カラブリアの周辺、つまりズバリ上述の地域のルポルタージュ記事が載っていた。レッジョはイタリア半島がシチリア島とほぼ接しているところである。しかも記事の内容はその地のマフィアについてだった。ここで勢力のあるいわゆる「ファミリー」は'Ndranghetaという。ドイツにまで進出していて時々銃撃戦をやったりし、しばしばこちらでも新聞にのるので覚えたくもないのに私までその名前を覚えてしまった有力なマフィアのファミリーである。その名称'Ndranghetaはギリシャ語のἀνδραγαθἰα(andrangathia、「勇敢」)から来ているという説がある。余計なお世話だが、古典ギリシア語にはἀνδρεία(「勇気」)、ἀνδρειος(「勇敢な」)、ἀνδρειος(「勇敢に」)という単語がある。同語幹であろう。
 またその記事ではマフィアのメンバーだった者とか家族がマフィアのメンバーに引っ張られてしまった人などがインタビューを受けていたが、「自分たちはギリシャ人の子孫である」という結構はっきりしたアイデンティティを持っていたりする。そんなこともあるから『ゴッドファーザー』のアポロニアのシーンは極めて意味深長だ。ジェームス・カーンが蜂の巣になったり眼鏡をかけたおっちゃんが片目に弾丸食らったりするシーンなんかより、このアポロニアを描写する場面のほうがよっぽど考察・分析するに値すると私は思っている。さらにゲスの勘繰りをすれば、イタリア政府が上述のヨーロッパ憲章に署名はしたがまだ批准はしていないのは、グリコ語を公認の少数言語にしてしまうとその言語話者や地域を保護しなければいけない義務が生じ、下手をするとマフィアまで保護してしまうことになりかねない、と躊躇しているのかもしれない。

 さて、この「南イタリアではギリシャ語が話されている」ということ自体は結構皆知っているのだが、面白いのはこのグリコ語の起源である。

 20世紀の始めまでは「グリコ語話者はローマ帝国が解体した後、9世紀から10世紀にかけてバシレイオス一世、レオ6世の時代にビザンチンからローマに移住してきたギリシア人の子孫」いうのが定説だった。つまり、ローマ国内のギリシア語話者は一旦完全にローマ・ラテン語の同化されて消滅し、中世になってから再び新しいギリシャ語の波が押し寄せた、ということである。これを唱えたのがG. モローシ(Giuseppe Morosi)で、1870年のStudi sui dialetti greci della Terra d'Otrando(「オトランド地方のギリシャ語方言研究」)という論文でそう主張している。1920年代になってドイツの言語学者G.Rohlfs(ゲルハルト・ロールフス)がこれを覆し、グリコ語はビザンチンのギリシャ語などではなく、ローマ時代、あるいはそれ以前からイタリアで連綿と話され続けてきた古代ギリシャ語の残滓である、と主張した。少なくとも紀元前8世紀、下手をすると紀元前1500年ごろから続いているギリシャ語だ、というわけだ。この説は1924年のGriechen und Romanen in Unteritalien. Ein Beitrag zur Geschichte der unteritalienischen Gräzität(「下イタリアにおけるギリシア語とロマンス語話者:下イタリアのギリシア文化の歴史についての一考察」)という論文で初めて発表されたが、ロールフスはその後の論文でも新しいデータを示したりして同説を主張しその根拠を述べている。

1.
まず、グリコ語地域周辺ばかりでなく、南イタリアのイタリア語全体にわたってギリシャ語からの影響が著しい。地名にもラテン語系のものはむしろ少数派であるのに加え、シチリアのイタリア語を見ても当地のイタリア語はむしろ新しい層であることがわかる。これらのデータから推して、起源1000年ごろまではカラブリアの南半分はほぼ完全にギリシャ語地域、南アプーリアにもギリシャ語話者が強力なマイノリティグループを形成しており、シチリア北東部は11世紀に入ってもギリシア語地域であったことは確実。ビザンチン以降の入植者と共にギリシャ語が入ってきたのなら言語地域はもっと限られ互いに孤立した言語島を形成するはずである。

2.
しかも、現在のギリシャ語・グリコ語地域は一方ではオトランド(南アプーリア)、一方は南カラブリアと遠く離れているのに共通性が著しい。元々広汎な地域で話され、ある程度の統一を保っていたギリシャ語が次第にラテン語・イタリア語に押されて後退したとしか考えられない。最初から言語島であれば二地域のギリシャ語はもっと明確に独自の発展を見せるはずである。

3.
6世紀から8世紀にかけてサルディニアに、540年から752年までラヴェンナに、871年から1071年にかけてバーリにビザンチンの植民地があったが、そこのイタリア語にはギリシャ語からの影響はほとんどみられない。グリコ語がビザンチンのギリシャ語だとすると当地のイタリア語がグリコ・ギリシャ語からあそこまで激しい影響を受けたことと話がかみ合わない。

ロールフスはさらにグリコ語内部の構造を詳細に調べ、そこには本国のギリシャ語がビザンチン時代にはすでに失ってしまっていた古い言語要素がグリコ語には保持されていることを突き止めた。もしグリコ語がビザンチンのギリシャ語から来たのなら見つかるはずのない要素である。グリコ語は三層構造をなしていて、1.古典ギリシャ語要素(ドーリア方言起源の要素)、2.やや新しいいわゆるコイネーΚοινή(このベースになったのはいわゆるアッティカ方言)期の要素、3.ビザンチン以降の最新要素からなる多層構造になっているそうだ。

 もっとも「最新の」ビザンチン・ギリシャ語にしても紀元前2500年前まで遡れるギリシャ語にとっては最近というだけで、日本語ごときから見たら9世紀の言語など立派に古語であろう。やや新しいアッティカ・コイネーにしても紀元前4世紀ごろから始まっている。日本などまだ弥生以前で、縄文人が棍棒を持って熊を追い回したり木の実を集めていたころである。その間にギリシア語もいろいろ言語変化を起こしているのは当然で、本国で発生した新形式がグリコ語はじめ周辺の方言には波及していないことなどもあって本国ギリシア語とグリコ語との間には様々な乖離がみられるわけだ。
 その中でも面白いのはグリコ語は動詞の不定法をまだ持っているということだ。現代ギリシア語は動詞の不定形が完全に退化していて、例えば

I want to watch TV

ということが出来ず、

I want that I watch TV

という言い方をする。つまり語学で言う「法」moodを表すのに常に定形動詞(直接法の場合と接続法の場合がある)を使うわけである。動詞不定形が衰退しだしたのは紀元1~2世紀、つまり新約聖書のころかららしい。だからコイネー期のギリシャ語ではまだ不定形が完全に消滅していなかった。その、不定形が衰退する萌芽が現れたころの形をグリコ語は保持しているそうである。本国ではその後不定形が完全に消滅してしまった。
 例えばボーヴァのグリコ語で「君たちは来たがっている」(ihr wollt kommen)は

θelite na ertite
you want + that + you come

とthat構文になるが(つまり動詞は定形)、本動詞(助動詞)が「できる」、「知っている、できる」、「聞こえる」、「させる」だと動詞の不定形を使う。なので、「君たちは来られる」は

sonnite erti
you can + to come

となる。以前に何度も書いたように(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)この現象は「バルカン言語連合現象」の一つであり、ルーマニア語、アルバニア語、ブルガリア語、セルビア語トルラク方言でも同じ現象に見舞われている。さらに面白いことにグリコ語内でも「揺れ」があって、助動詞がwantであってもまれにthat説でなく動詞不定形が現れることがあるそうだ。それで「彼は留まりたくない」は

e θθeli na mini (he doesn't want that he stays)
e θθeli mini       (he doesn't want to stay)

と両方の形が可能。動詞「留まる」がどちらもminiで一見同形のようだが、これら不規則動詞で、直説法(それとも接続法なのかこれは?まあとにかく定形だ)の3人称単数形と不定形が同じ形をしているらしく、パラダイム上では別の形である。
 この「定形・不定形どっちでも可」というのはバルカン言語現象の波を中途半端に被ったセルビア語と同じではないか。これは面白いとゾクゾクして続きを見たら、グリコ語は周りのイタリア語に影響を与え、同地のイタリア語方言では「君たちは来たがっている」をグリコ語の構文そのまんまのthat節構文を使って

voliti mu veniti
you want + that + you come

と表現するらしい。しかもスリル満点なことにこのmuというのは、ラテン語のquidの変化した形だそうだ。明らかにラテン語kwの両唇性が受け継がれた音韻変化で、ケルト語のpと同類(『39.専門家に脱帽』の項参照)。ただケルト語と違ってこのイタリア語方言では鼻音化までされてしまったらしい。

 この動詞の不定詞云々という指摘は非常に面白いところで、当時生まれたばかりのバルカン言語学の結果をロールフスはすでに考慮していることがわかる。事実1947年のGriechischer Sprachgeist in Süditalien(「南イタリアにおけるギリシャの言語精神」)という論文の冒頭でロールフスはデンマークのロマンス語・言語学者のKristian Sandfeld(1873-1942年)を追悼し、論文の中でもその研究成果に言及している。このSandfeldは私なんかは勝手にドイツ語読みでザントフェルトといっているが、デンマーク語で本来どう発音するのか実はいまだに知らない。とにかくこの人はバルカン言語学の創設者の一人で、「バルカン言語学」という名称をこの研究分野に与えて言語学の一分野として確立させたのはザントフェルトである。最初1926年にデンマーク語で、Balkanfilologien. En oversigt over dens resultater og problemer(「バルカン学:その成果と結果の概観」)という論文を発表し、3年後の1930年に同じ内容をLinguistique balkanique. Problèmes et résultats(「バルカン言語学;成果と問題点」)として世に出した。まあ歴史に残る言語学者である。

 それにしても『ゴッドファーザー』を見てザントフェルトに会えるとは思っていなかった。いやー、映画って本当にいいもんですね。



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