アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

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 前にも出したダイグロシアという言葉がファーガソンの造語と思われがちなのに実はそうではないのに対し、今流行の(?)メリトクラシーという言葉は巷で思われている通り社会学者のマイケル・ヤング Michael Young の造語である。1958年に出版された the rise of the meritocracy というエッセイで登場した。ファーガソンのエッセイ的論文 Diglossia が出たのが1959年、チョムスキーの Syntactic structures が1957年出版だから、まさかヤングがわざと言語学と連動したとは思えないが、とにかく1960年直前から前半にかけてはエポックメーキングな時期だったようだ。ついでに『荒野の用心棒』もこの時期の制作である。
 ファーガソンの Diglossia も論文と言うよりエッセイに近かったが(『162.書き言語と話し言語』参照)、ヤングの the rise of the meritocracy は本当にエッセイである。しかも2033年にそれまでの社会の歩みを追うという設定だからからエッセイと言うよりはSF小説・未来小説のようで、内容は硬いのに「面白い」という言葉がぴったりだった。しかも最後にオチというかどんでん返しまでついている。ファーガソンやトゥルベツコイのエッセイ(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)はここまでスリルはない。提起される問題・議論が「人類社会は何処に行くのか」と「印欧語とは何か」「バイリンガルとは何か」では重みとしてはやはり前者の圧勝だ。印欧語の何たるかなどという問題は実際の生活に全然関わってこないからだ。

 メリトクラシーというのは「業績主義」「能力主義」ということだが、ヤングはこのメリトクラシーをそれまで英国で続いてきた世襲に変わる新しい階級社会として描き出している。「階級社会である」という軸はぶれていないのだ。だからいわゆる社会主義者が唱える「人は皆平等」という考えかたは、「センチメンタル」「ポピュリスト的」として洟もひっかけない。人類皆平等などというのは幻想というわけだ。念のため言っておくと、ヤングはそう主張しているのではなくわざとそういうことを言って問題提起しているだけだからあまりここで落ち込まないことだ。この先さらに描写が過酷になるから心の準備が必要だ。

 以前の英国では世襲的階級社会で、貴族、上流階級、労働者階級という風に枠ができていて、どの枠の中に生まれるかで大方職業や人生が決まってしまっていた。その際各々の階級内にはそれぞれ様々な知能の人がいた。頭のいい貴族もいたが、今の義務教育さえクリアできそうもないバカもいた(「バカ」などという差別用語を使ってしまって申し訳ないがヤングは本当に stupid、moron などの言葉を使っているので失礼)。しかし貴族に生まれればどんなバカでも国の要職につくことができたし金にも困らなかった。逆に下層階級にも天才的な頭脳の人がいたが、生まれが生まれなために社会の階段を這い上がれず、一生単純労働者として自分よりずっと頭の悪い周りの人に混じってトンカチをふるうしかなかった。
 国際間の競争が激しくなってきた昨今、こんなことをやっていたのでは生産性が上がらず国が衰退する。優秀な人を下層階級からドンドン這い上がらせてエリート教育し要職につかせるべきだというので様々な対策が立てられることになる。

 まず教育だ。選抜教育に力を入れるべきで、小学校中学校まで皆同じなんてやり方はアホ。小さい頃から頭の出来に応じて学校は分けるべき。グラマースクールその他の学校格差を廃止して機会均等とやらのために一律の総合学校なんかを設置するのは害にしかならない。頭が悪い生徒といっしょになんかさせておいたら、馬鹿が感染してしまい(とまで露骨な言い方をヤングはしていないが)子供の発達が障害される。できるだけ早い時期に頭のいい子だけでまとめ、エリート教育を開始すべきだ。エリート、つまり国や企業を引っ張っていく力のある人間というのは単に頭の回転が早いだけではだめ、それ相応の教養・立ち居振る舞いを身に着ける必要があるが、そういうのは付け焼刃で身につくものではない。特に下層階級の子供は才能があると分かった時点で上流階級の子供以上にできるだけ早く周りの馬鹿から引き離し自分と同等のIQの子供たちと(だけ)接触させるべき。でないと長年染みついてきた下賤さが振り落とせない。下層階級からIQの高い子供を引っ張り上げてエリートにするのは国益である。
 ヤングはアメリカの教育制度についてもちょっと触れ、馬鹿も利口も一律にエレメンタリ→ジュニア・ハイ→シニア・ハイと進む「平等」な教育をコキ下ろしている。もっとも幸いアメリカには大学間にレベルの差があって、そこで生徒が競争でき、頭の出来によって、いい大学・馬鹿大学というランク分けできるからまだいいが、実は17歳18歳になってからやっとIQによる選抜が始まるのでは遅いのだ。本来小学校に入る以前からしっかり知能検査して振り分けるべき。そして能力のない子供は下手に高等教育に進学させたりしないで中学程度で教育を終わらせ、さっさと働かせなさい。進学させたってどうせついていけないのだから。

 能力のある子供が下層階級だった場合逆の問題が出てくることがある。階級にふさわしく両親の人生観も下賤なことが多く、「知」の価値がわかっていない。せっかく自分の子供が知能的に高等教育の資格を持っていても「大学なんかに行く金が無駄。それよりさっさと就職しろ」と教育を中断させたりする。そういう下賤な親を黙らせるためにグラマースクールに行けた生徒には給料を出したらどうだろう。下手な労働者より多く出してやれば利口な子供の邪魔をする馬鹿な親も黙るだろう。
 もっとも能力のある下層階級の子供を「吸い上げる」のはそれでもまあ比較的簡単だ。やっかいなのは上流階級の子供が馬鹿だった場合である。親は自分たちは上流だと思っているし金もあるから子供にどうしても高等教育を受けさせたがる。さらに自分の所有している会社の幹部にしたがったりする。しかし能力・知能もない奴に大学に来られたりしたら周りの利口な学生の足を引っ張るから社会の迷惑だ。また頭の悪い奴が経営している企業が増えたら国益が損なわれる。同族経営、コネ進学などを不可能にするような制度が必要だ。例えば国民全員のIQリストを国が管理するというのはどうだろう。まあ日本のマイナンバーに「IQ」という項目があるようなものだ。

 もちろん能力検査のやりかたは心理学者や脳神経学者が研究を重ねて、能力のある人を捕りこぼさないようにしていかなければいけない。またIQ検査も受験者が当日たまたま風邪を引いていたり心の悩みを抱えていたりして低く出る可能性もあるし、そもそもスロースターターで知能の高さがある程度の年齢になってからジワジワ現れてくる人もいるからIQ検査は定期的に何度でも受け直せてアップデートできるようにする必要がある。

 つまり目ざすべき社会では学歴と能力・実力が完全に一致していて、学歴を見れば実力がすぐわかる社会、能力がある者だけがのし上がれ、貴族だろうが親が金持ちだろうが馬鹿だったら下に甘んじてもらうという、ある意味非常に厳しい階級社会なのである。いわゆる社内教育にもヤングは否定的。企業がグラマースクールや大学の真似事をして偉ぶりたい気持ちはわかるが、そんなものは「正規の学歴」の代わりにはならないというわけである。
 学者が粋を集めた能力検査は非常に精密なので無能な人がいいスコアを出してしまったり、能力のある人を捕りこぼしたりはしないようになっている上、上で述べたように繰り返しがきく。グラマースクールの生徒には給料が出る。そこまでしてやっても這い上がれない労働者階級と言うのは要するに能力がないということ。運が悪いの金がないからだのという慰めは通用しない(「彼らは劣等感を持っているのではない、実際に劣等なのだ」という表現が出てくる)。「勉強だけデキテモー」とか「頭デッカチ」と能力上流階級を罵ることもできない。IQの高い者にはその「社会の実力」も身につけさせるからである。救いようがない厳しさだ。その厳しい階級制度を維持するにはいろいろ解決すべき課題が生じる。
 まず、能力的に下層階級の人をどうするか。彼らが嫉妬や絶望のあまり外で暴れたり人生に希望を失って自暴自棄になったりしないよう懐柔しないといけない。その1は彼らにスポーツをさせることだ。頭で誇れない代わりに筋肉自慢をさせて得意になっていて貰えばいい。その2は、自分は下層でもいつか頭の良い子供や孫が生まれるかもしれないと、次の世代に希望を持たせ、自分は一生下層階級という人生に甘んじてもらうことだ。その3は「何もしない」ことだ。能力が下層の人にはそもそも組織的な抗議運動を起こしたり、政治の場に代表を送り込んだりできる頭はないから譬え多少暴れてもそれは単発に終わり、社会不安にまではならないだろう。
 さらにこれもある意味懐柔策だが、職業名称などをマイルドにしてあまり下層感を持たせないように変更する。だから例えば rat-catcher の代わりに rodent officer、lavatory cleaner の代わりに amenities attendant、 worker でなく technician と呼ぶ。Labour PartyはTechnicians Partyという名前に変更だ。こういうリップサービスをしておけば彼らもまあ自分が高級になったような気になってくれるだろう。

 ここまでですでに背筋が寒くなるが、まだ先がある。もう鬱病になりそうだ。

 さて、馬鹿が劣等感に駆られて暴れないように懐柔策を練ることに成功はしたとする。しかしそこでさらに大きな問題が起こる。IQ上流階級の人がドンドン社会を合理化し生産性が上がるにつれてIQの低い人たちにできる仕事が減っていくのである。単純作業などは皆機械がやるからだ。彼らに居場所を提供してやらないと社会が不安定になる。解決策としてIQの低い人たちには高い人たちの召使になってもらうというのはどうだろう。生産性の高い人がその能力を全て社会のために発揮できるよう、部屋の掃除やスーパーでの買い物などという下賤な仕事から解放してやり、そういう些末な作業はそれにふさわしいIQの人たちにやってもらえばいい。そうすれば能力的下層階級の人も失業しないで済む。
 
 ここでお花畑の社会主義者からクレームがつく。人間の価値とは何か?学歴・能力・IQだけが人間の価値なのか?それに対する答えはこうだ。人間の価値、美徳の基準などというものは世につれて変わる。昔槍をもって戦争していたころは力が強く人殺しの上手いのが美徳だった。封建制の頃は忍従の美徳、自分を捨ててご主君様に追従するのが美徳とされた。今の社会では生産性が美徳なのである。今の時代は学歴IQの高いものは低学歴よりも人間としての価値があるのだ。時代や社会に全く影響されないユニバーサルな「人間の価値」などというものは社会主義者のお花畑脳の産物だ。
 そもそも馬鹿も利口も選挙で同じ一票が入れられるというのは不合理だ。IQ値の高い人の一票は馬鹿の何倍かの重みを与えたほうがいい。

 しかしメリトクラシー社会を内部から不安定にしそうな要素は馬鹿の暴走ばかりではない。実は議会制・民主主義が危なくなる危険性があるのだ。今述べた「学歴によって一票の重みに差をつける」というのも相当危ないが、例えば労働者を代表する党を考えてみて欲しい。党員になるのはつまり労働者、知的下層階級である。そういう知能平均の党とそれよりずっと知能の高い大学教授や企業主を代表とする党はそもそも議会で話合う事さえできない。言語能力、教育程度が違いすぎるからだ。議会の権限を弱めて立法機能の一部を行政側に移行する手もあるがそれでは議会が単なる飾りになってしまう危険がある。それだと民主主義そのものがヤバくなるので(上述のように馬鹿の一票を軽くしたりすればすでに十分ヤバくなると思うが)、「下層階級の声を代表する」党が幹部や党員を当該階級でなく、ヨソのもっとIQの高い職業層から引っ張って来るしかない。どちらにしてもIQが下と見なされる職業層は政治に自分たちの声を送り込めなくなるのだ。これをどうするかが課題となる。

 もう一つの課題は女性問題である。基本的にはIQの高い女性にはドシドシ上昇してもらって馬鹿な男がのさばったりしないようにするのが国益だ。制度を整備してそういうことにならないようにすべきだが、現在の社会時点では実際問題として結婚すると女性の負担が増え、能力を上手く生かせないことが頻繁だ。そこで女性は結婚生活と仕事と力を半々に分散させるか、あるいは家事なんかはIQの低い召使に全部任せるか、さらにあるいは自分のIQを犠牲にして家庭生活を選ぶかということになるが、子供が生まれると頭だけでなく体にも負担が出るのでたとえ召使を使っても女性のIQの損失を賄いきれない。またIQの高い女性は当然子供も少なくとも自分と同等のIQを持ち自分より下の階級に落ちないように望むから、その確率を上げるため(頭のいい両親に馬鹿が生まれることだってある)できるだけIQ値の高い配偶者を探すようになる。
 だが考えてみて欲しい。結婚すると自分のIQが無駄になるのは確実、譬え高知能の配偶者を選んでも自分の子供が下に転落する危険性があるとなれば、馬鹿でもない限り(これらの女性は文字通り馬鹿ではない)結婚なんてヤーメタとなるだろう。子供も下手に自分で産んで転落のリスクを犯すより出来合い、つまり労働者階級の親から生まれた高IQ値の子供を養子として持ってきた方が確実だ。それで「養子仲介業」が盛んになる。下層階級の人はすぐ金のことを考えるので養子受け入れ側の女性が親にたんまり金を出せばすべて丸く収まる。この人身売買があまりにも横行したため、ついに政府は養子制限令を出すに至る。でないと一旦能力の上流階級に属してしまうとそれが世襲する危険が生じるからだ。
 そうこうするうち能力検査のやりかたも脳神経学者たちの努力の結果非常に確実さを増し、子供が生まれた時点、いや生まれる前にすでに将来のIQがわかるようになる。これも養子獲得競争が熾烈化した原因だ。

  以上がヤングの2034年以前の英国社会のシミュレーションである。昔は生まれた家柄で人生や職業が決まってしまっていたが、それが生まれたときのIQでその後の人生がすべて決まるようになるのだ。もっともヤング自身も描き出しているように実際は様々な問題が噴出してきてそうすんなりとは行かない。それからどうなるのか、人類社会はどこに行くのかという問題提起がエッセイの趣旨だ。

 ヤングのこのシミュレーションは舞台が英国社会に限られている。英国が台頭してきたアメリカ、ソ連、アジア諸国と生産性競争で勝ち抜くにはどういう社会を目ざすべきかというシミュレーションである。このエッセイが書かれたのは1958年だからまだ現在のようにはグローバル化が進んでいなかった頃なので、その点では視点が狭い。ちょっとこれを世界規模にまで敷衍して思考ゲームをして見よう。

 今までは生まれた国で一生を過ごすのが基本であった。国にはもちろん馬鹿から天才まで幅広い知能、幅広い能力の人がいた。イギリスの閉ざされた階級社会のようなものだ。このカースト、国籍だの民族の壁が取り払われて頭のいい人はジャンジャン自分の生まれた国を出てもっといい国に移動するべき、出身階級・出身国になんてこだわっていないで「上流国」に渡ってそこで自分の能力を十分発揮するのが人類全体の発展のためという国際社会の社会意識や価値観、コンセンサスが確立されたとする。というよりすでにそれがある程度コンセンサスだが。すると文明文化・技術の進んだ国にはガンガン世界から頭のいい高学歴の人が集まってくる。頭のいい人は語学だって得意だから言葉の壁なんて屁のようなものだ。そうやって住民の50%がIQ150以上である国が出てくる一方、国民の1%くらいしかIQ150がいない(むしろそっちのほうが普通だろよ)国も生じる。IQ100以下などめったにいない国とIQが80くらいの人が10%以上もいる(これもそっちが普通)国ができる。150と80ではお互い意思の相通が困難になるほどだから、国連総会なんて存在意義がなくなる。そもそも国民総低IQになったら政治ができないから国が成り立たない。ヤングのシミュレーションした英国の労働党ではないが、自党のメンバーでは組織を維持できないから頭のいい人を外国から引っ張ってきて行政をやってもらうしかない。
 では高IQ国が万々歳かというとそうはいかない。その国にふさわしくないような頭の悪い自国民をどうすべきかという問題が生ずる。馬鹿に国内に居残られたら自国民・移民を問わず頭のいい人たちの足を引っ張るからである。それに国内にはそういう人たちが就ける仕事も能力の高い人の召使くらいしかない。やはり定期的に国民にIQ検査をして一定のスコアを取れなかった人は等級の低い国に移住してもらおう。国民引き取り代として向こうの国に金を払えば喜んで馬鹿を受け入れてくれるに違いない。こちらも別の意味で言葉の壁の心配などいらない。引受先にはどうせサバイバル程度の語学で足りる仕事しかないからだ。
 現在の調子だとそういうことを本当にやる国が出てきそうで怖い。

 こういうのが人類の幸福か。「冗談じゃない」というのが私の気持ちであるが、ではこういう暴走をふせぐために逆にガッチガチに民族・国籍で国を囲ってしまい、ちょっと外国人が来たくらいでパニックを起こし、自国民が出ていくと裏切者だのもう帰って来るななどの罵声を浴びせる国ならいいのかというと、それも「勘弁してくれ」だ。「外人来るな」はむしろ実行が簡単だろうが、能力のある自国民の流出を食い止めるのは難しい。頭のいい人は国を出る能力もあるからだ。その力のある自国民を引き留めるのがどんなにむずかしいかは、旧ソ連や東ドイツを見ればわかる。壁を作り情報を統制し国民を監視するには膨大な費用がかかる。この国際競争時代にそんなムダ金を使っていたら国は衰退するばかりだ。物質・経済面ばかりではない、壁を作ってしまったら中の国民は精神的にもガラパゴス化し、知識をアップデートできないから周りの発展についていけない、搾りカスのような国民国家になること請け合いである。

 つまりメリトクラシー全開の国とガラパゴス単一民族国家間の選択は「冗談じゃない」か「勘弁してくれ」かの選択ということになる。ドイツ語ではこういう状態を表わすのに「ペストかコレラかのどちらかを選べ」という言葉がある。まさに救いようのない選択肢だ。

the rise of the meritocracy の表紙。表紙のイラストはちょっと可愛いが中身は過酷。
rise-of-meritocracy

本の内容はこちら。表紙が上とちょっと違いますが…

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 米国製西部劇と比べるとマカロニウエスタンにはメキシコ人が登場する割合が高いが、これはイタリアやスペインにはそのまま地でメキシコ人が演じられる、というかメキシコ人にしか見えない俳優がワンサといたからだろう。逆にアメリカ人、ということは西部劇の舞台になった当時「アメリカ人」の大部分を占めていた北方ヨーロッパ系のアメリカ人に見える人材の方はやや不足気味で、米国からの輸入(?)に頼るしかなかった。「誰でもいいからアメリカ人を連れてこい」というのが当地での合言葉だったそうだ。ウィリアム・ベルガーなども「アメリカ人に見える」という理由(だけ)でオファ―が来たとか来ないとかいう噂をきいたことがある。それでも「ヨーロッパ系アメリカ人」ならまだフランコ・ネロやテレンス・ヒルなど、少数派とはいえイタリア本国にもやれる俳優はいた。いなかったのがアフリカ系アメリカ人をやれる俳優である。今でこそドイツにもイタリアにもアフリカ系の国民が結構いるが、映画が作られた当時は自国民では絶対に賄えなかった。当時アフリカ系アメリカ人を演じた俳優はほとんどアメリカ市民である。
 一番の大物はウディ・ストロードだろう。レオーネの『ウエスタン』ではちょっと顔を出しただけなのに皆の記憶に残る存在感を示している。コリッツィの La collina degli stivaliとバルボーニのデビュー作 Ciakmull については『173.後出しコメディ』の項で述べたが、この他にも何本もマカロニウエスタンに出ていてほとんど常連の感がある。もう一人の大物はこれもコリッツィのI quattro dell'Ave Maria (1968)(『荒野の三悪党』)で曲芸師のトーマスを演じたブロック・ピータース。『アラバマ物語』で(あらぬ罪であることが明確な)婦女暴行罪の容疑者を演じていた人だ。他にも『復讐のダラス』でジェンマの友人を演じたレイ・サンダース(Rai Saunders または Rai Sanders)などがいる。さらに思い出したが、ずっと時が下ってからのマカロニ・ウエスタン、ルチオ・フルチの『荒野の処刑』I quattro dell'apocalisse (1975)(『155.不幸の黄色いサンダル』参照)にもハリー・バイアド Harry Biardが演じたアフリカ系のキャラがいた。バイアドは例外的にアメリカ人ではなく旧英領ギアナ(現ガイアナ)生まれの英国俳優である。調べて行けばもちろんもっといるが、すぐに思いつく顔といえばこういった名前であろう。

 これらは男性だが、アフリカ系女性陣も負けてはいない。真っ先に思い浮かぶのは何といってもジャンル最高峰の一つである『殺しが静かにやって来る』のポーリーン。夫の敵をトランティニャン演じる殺し屋サイレンスに依頼する寡婦だ。その殺し屋を愛するようになり、あくまでも目的の仇(サイコパスのクラウス・キンスキー)と対決しようとする彼に「もういいから放っておいて。命を粗末にしないで」的なことまで言い出すが、結局二人ともサイコなキンスキーに殺されるという、モリコーネのゾッとするような美しいスコアといい、凍るような雪景色といい、見たら最後、鬱病になりそうな陰気な映画だ。そのポーリーンを演じたヴォネッタ・マッギーはこれがデビュー作だそうで、タイトル部でそう謳ってある。マッギーはその後『アイガー・サンクション』でイーストウッドと共演したりしている。

ヴォネッタ・マッギーはこれ映画初出演。イントロにも書いてある。
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夫の敵討ちを殺し屋サイレンスに依頼
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サイレンスとポーリーンの関係を知らず、無邪気に間に割り込むフランク・ヴォルフ。
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 もう一人思い出すアフリカ系女性は上述の『復讐のダラス』でレイ・サンダースがやったジェンマの親友の妹である。役の名前をアニー・ゴダールと言ったが、その兄、サンダースの役はジャック・ドノヴァンで、苗字が違うのはなぜだろう。既婚と言う設定だったのかもしれないが、夫の話は全く出てこない。アニーを演じたのはノーマ・ジョーダン Norma Jordan というアメリカ生まれの歌手兼女優だが、その後もすっとイタリア生活のようだ。『復讐のダラス』はまず兄のジャックが悪徳保安官に拷問される場面で始まり、そこへやって来た妹のアニーも保安官は乱暴に外に放り出す。それを見かねたアントニオ・カサスが助け起こし、保安官に「善良な市民に何という扱いをするんだ」と抗議するが、これがその後の展開の暗示。このカサス(ジェンマの父)も兄のサンダースも保安官一味に殺される。兄は大統領殺害の犯人に仕立て上げられるのだが、正規の裁判には連邦政府から来た役人が目を光らせているためでっち上げがバレる惧れがあるというのでその前に始末されるのである。そういえば映画ではジョーダンが酒場で歌とダンスをご披露する場面もあるが、むしろこちらの歌の方が本職だ。
 なお1971年にアフリカ系アメリカ人の女優とそのイタリア人の恋人が殺される事件があり、ジョーダンも証人として召喚された。被害者の女優がジョーダンの元ルームメイトだったからだ。殺された女優はティファニー・ホイヴェルドTiffany Hoyveld で、なんと上述のコリッツィの『荒野の三悪党』で、ブロック・ピータースの妻を演じていた人である。

『復讐のダラス』の冒頭、道端に放り出されるノーマ・ジョーダン。左からアントニオ・カサスが手を差しのべて助け起こす。
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映画終盤。兄が殺されたと知ってショックを受ける。
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 ノーマ・ジョーダンも歌が本職だったが、もう一人、女優業に駆り出された歌手がローラ・ファラナ。ヴォネッタ・マッギーもノーマ・ジョーダンも脇役だったが、ファラナはなんと Lola Colt (1967)というマカロニウエスタンで堂々と単独主役を務めている。大したものだ。さすがのウディ・ストロードでさえ単独主役という偉業は達していない。
 Lola Colt のドイツ語タイトルは Lola Colt… sie spuckt dem Teufel ins Gesicht(ローラ・コルト、悪魔の顔に唾を吐く)。「悪魔」というのは敵役の悪漢のあだ名が El Diablo、つまり「悪魔」だからである。この作品はアフリカ系の女性を主役にしたレアなマカロニウエスタンだが、映画そのものは言っては悪いが完璧なまでのBムービー、黒人女性が主役という希少価値がなかったらとっくに忘却の淵に沈んでいたはずだ。もともとの長さは83分のはずだが、私が見たのはその短いのをさらに短縮した77分版。普通は短縮されると作品が損なわれるものだが、この映画にかぎっては何の損害も受けていない、むしろ少しくらいカットしてくれた方が助かったという気がするくらいBである。また普通は映画のストーリーを紹介する場合あまり露骨にネタバレしないように気を付けるものだが、この映画にはそんな気遣いは無用。バレて困るようなネタがないからである。まあとにかくB級映画だ。

 西部のさる町に旅回りの芸人団がやってくる。団員の一人が病気になり、医者にかからせないといけなくなったからだ。この一座の看板娘がローラである。町の人たち、特に気取ったさぁます奥様達は「芸人風情」にいい顔をせず、医者のいる何マイルも先の町へ行けと追い払おうとするが、一人の子供が「昔医学生だった人ならいるよ」と正直にリークしたため、一行は滞在することになる。医学生のほうも一生懸命病人の治療をする。
 病人の看病をしながら留まるうち、ローラはこの町がエル・ディアブロというあだ名の悪漢牧場主に牛耳られていることを知る。「どうして皆で対抗しないのか」との問いには「無理だ。我慢するしかない」という答えが返ってくるのみ。
 その医学生には婚約者がいたがローラの方に靡き、ローラもまた彼を愛するようになる。あまりにも安直かつ予想通りの展開だ。
 そのうち上述の親切な子供がエル・ディアブロの一味に撃ち殺される。ここに至ってローラは町の男どもを前に「あんたがたが弱虫なおかげでこの子は死んだのだ。エル・ディアブロを倒そう」とハッパをかける。住人は奮い立ち、ローラを先頭にエル・ディアブロの屋敷を襲撃し、そこに閉じ込められていた人質を解放する。民衆を率いるローラはまるでジャンヌ・ダルクかドラクロアの自由の女神だが、実際にエル・ディアブロと決闘して殺すのはローラでなく医学生。
 かくて町には平和が戻り、ローラ一行は住民の歓呼を浴びながら去っていく。最初ローラたちを白い目で見たざぁます奥様達も「私たちが間違っていました」と謝罪する。婚約を破棄した医学生はローラを追って一行に合流する。「見知らぬ主人公がどこからともなく町を訪れ、紛争を解決してまたフラリと去っていく」というマカロニウエスタンの定式を一応は踏襲しているが、最後がいくらなんでもメデタシメデタシすぎやしないか。

町に旅芸人が到着。その看板娘ローラ。
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男たちを引きつれて敵の屋敷を襲撃する褐色のジャンヌ・ダルク。
LolaColt3
LolaColt5
病人を診察に来た医学生とローラ。
Lola-und-Student2
 Lola Colt のファラナも『復讐のダラスの』ジョーダンもむしろ歌が本業だったため、映画でもそういうキャラ設定で、酒場で歌を披露する場面がある。それに対してマッギーは専業女優でしかも『殺しが静かにやってくる』がデビュー作だったから歌や踊りとは関係のない堅気(といっては失礼だが)の寡婦。しかしストーリーというかキャラ的にはファラナのローラはむしろこちらの方と共通点が多い。Lola Colt では医学生とは敵対していたエル・ディアブロがローラは見染めて言い寄るが、これは『殺しが静かにやってくる』のポーリーンも同様で、キンスキーとツルんでいる町の有力者ポリカット(演じるのはルイジ・ピスティリ)は前々からポーリーンに気があり、弱みにつけこんで意のままにしようとする。ローラはやんわりと、ポーリーンは手酷くという違いはあるが、どちらもこれを拒否する展開は同じだ。もっとも「金と権力をチラつかせて言い寄る嫌みな男に肘鉄を食らわせて貧しく権力もない若者に靡く女性」というのは古今東西頻繁に繰り返されてきたモチーフだから、これを持ってLola Colt と『殺しが静かにやってくる』との共通点、と言い切ることはできまい。だがもう一つオーバーラップする点がある。白人男性と恋仲になるという点だ。これがアフリカ系男性陣とは違う展開で、私の知る限りアフリカ系のキャラクターが白人の女性の恋人になる展開のマカロニウエスタンは見たことがない。俳優としての格は男性陣の方が上なのにである。上述のように男性陣はストロード始め、すでに本国で名をなしていたスターが多い。それに対して女性の方はイタリアに来てからそこでキャリアを開始した人ばかりである。それなのにというかそれだからというか、アフリカ系男性が白人の女性をモノにする(品のない言葉ですみません)展開は皆無なのである。どうもここら辺に隠れた性差(別)あるいは人種差(別)を感じるのだが…

 それにしても『殺しが静かにやってくる』の、主役女性にアフリカ系を持ってくるというアイデアは何処から来たのか。コルブッチはそのためにわざわざ新人女優をデビューさせてさえいるのだ。まさかとは思うが、Lola Colt からヒントを得たとか。映画の出来自体は比べようがないほどの差があるが、製作は Lola Colt のほうが1年早いのである。前にもちょっと出した「棺桶から機関銃」もそうだが、コルブッチの意表を突くアイデアの出所についてはまだいろいろ検討の余地がありそうだ。

 
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 人間の手の指の数を元にしているからだろうと思うが、アラビア数字など数の体系は十進法である。数そのものは10進法なのに数詞の方は10進法でないことが多々あり、いろいろ悶着が起きることは『81.泣くしかない数詞』でも書いた通りだ。12進法の名残が残っている言語も多い。3でも4でも割れるから本来12進法の方が便利なんじゃないかとも思うがまあ小数点や分数を使えば済むことだから別に10進法に反旗を翻す必要もあるまい。
 現代日本語の数詞は10進法とよくマッチしていて10まで数詞を暗記すれば99まで言える。11は10+1,12は10+2と1の位を10の後に言って順々に進み、20まで来たら今度は2の方を10の前につければいいからだ。英語の eleven、twelve などのように変な単語は出て来ないし、10は常に「じゅう」、2はいつも「に」で thirteen のように10が間延びしたり、twenty のように2が化けたりしない。10が10個あると「じゅうじゅう」とはならないで「ひゃく」という新しい単位になるが、これはそうやって時々更新せずにいつまでも10までの数詞で表現すると数が大きくなるにつれて収集がつかなくなり、コミュニケーションに支障がでるからだろう。「じゅうじゅう」くらいならまだいいが、1000になると「じゅうじゅうじゅう」、10000は「じゅうじゅうじゅうじゅう」で、言うのも大変だが聞く方も「じゅう」が何回出たかきちんと勘定していなければならない。「じゅう」を一回でも聞き違ったり言い違ったりすれば桁が違ってくるから常に緊張していなければならないから、本当に油断も隙もない。何桁目かで新しい数詞を入れて一息つける場所はどうしても必要だ。それで「ひゃく」という言葉が出れば200は20と同じメカニズム、100の前に2と言って表すから100という言葉を覚えれば999まで言うのに何の問題もない。100が10あると再び「じゅうひゃく」とはならず新しい「せん」という単位になる。その千が10あると「じゅうせん」でなく万となり、その後は4桁ごとに新しくなる。
 実は母語が英語やドイツ語の人に日本語の数詞を教えるとこの「1000からは4桁ごとに」という部分で躓く人が結構いる。英独語では1000からは3桁ごとに更新されるからだ。最初に「日本語では10×1000が新しい単位になる」と釘を刺し、4桁システムを図に書いて念を押してやっても、13000と書いて「これを日本語で言ってみろ」というと「じゅうさんせん」と答える輩が必ずいる。「じゅうせんという言葉はありません。10000は万というんですってば」というと3分くらい考えてから「じゅうさんまん」と答えたりする。「じゅう」という言葉が頭の中にこびりついて離れないのである。一種の言語干渉だ。そこで10000+3000と分け、「この2つの部分をバラバラに言ってみろ」と言ってやっても「じゅうまんさんぜん」などと外す人がいる。目の前に図がかいてあるのにである。そこでシビレを切らせて「いちまんさんぜんだろがよこのバカタレ」と怒鳴りつけると(嘘)、「そうなんだ!」とクイナの新種を発見したかのように感動される。たかが一万でこの調子だから十万、百万、千万、果ては億の単位になるとスリルが倍増する。しかもこれは数字を書いてそれを読ませているだけだからまだラクチンで、グレードアップして数字をドイツ語でいい、例えば「zwei und achzig Millionen(two and eighty millions、ドイツ語では一の位を十の位の前に言う)と日本語で言え」と言われてソラで答えられる人は少数派だ。大抵自動的に「はちじゅうに…」と直訳しだす。「安直に直訳すんな田吾作」と怒鳴ると(怒鳴らない)、そばの紙切れに数字を書いてゼロを勘定しだす。それでもまだ数え間違えて「はちおくにひゃくまん」と言ったり「はちまんにじゅうまん」と日本語がゲシュタルト崩壊したりいやもう面白いのなんの。自分は暗算が苦手と言う日頃のコンプレックスも吹っ飛ぶ面白さだ。中国人は桁取りが日本語と同じ(というより日本語が中国語と同じ)だから数字を見て日本語でいう分には楽勝なのだが、数字をドイツ語でいうとそのドイツ語のほうの数詞を把握するのに手間取る。これは私もそうだったから気持ちはよくわかる。私もミリオンとか言われても今一つ感覚がつかめなくて戸惑った。やはり「百万」と言ってもらわないと気分が出ない。
 
 今までそうやって「はっせんにひゃくまん」がスッと出ない人を見て己の暗算コンプを解消して嬉しがっていたら、バチが当たったらしくコンプの鉄槌が今度は私の頭上にやってきた。
 世の中には20進数を基本にして桁取りする言語も結構ある。両手両足の指の数である。有名なのがフランス語で、60までは正常(?)だが、70になると突然20進法が顔を出し、70は60+1、71は60+11、76は60+16、77になると17という一語がないので60+10+7。80はさらに露骨で4×20、81は4×20+1、90は4×20+10、91が4×20+11と言うので一瞬電卓に手が伸びかけるが、所詮それも100までだから一瞬伸びた手はすぐ引っ込む。1000を過ぎれば3桁ごとに新しくなり、1000で mille、10000が million、つまり英語ドイツ語と全く同じである。100までの数詞に少しくらい20進法が出てくるくらい可愛いもんだ。問題は100を過ぎても延々と20進数を貫くスゲー言語があることで、これはさすがに電卓か計算用メモ帳が必要になって来る。

 たとえばナワトル語だ。ナワトル語には百という言葉がない。 5×20という。120は 6×20、200は10×20である。20×20の400になってやっと新しい単位になる。それでは20
までは全部違う名称で丸覚えかというと、そうではなく5、10、15で一息つけるようになっている。これは何も学習者が小休止できるようにサービスしているわけではなくて片手片足の指の数だろうが正直余計混乱する。20進法なら20進法でいいから全てそれでやってくれよもう。
 まず20まで見てみよう。
Tabelle1-211
基本的に5ごとにベースが変わり、6は5+1、7は5+2、11が10+1、12は10+2、15はそれ自体一つの単語だから16から19までは15+1、15+2、… 15+4という構造になっているのがわかる。「基本的に」といったのは5については数詞は mācuīlli、合成数詞を作る形態素のほうは chiuc と違う形をしているからだ。だが原則は変わらない。11から14、16から19までの1の位についている接頭辞 on- または om- は and  という意味である。
 なお、ここで使ったナワトル語の表記は広く流布している正書法より音韻記述が正確で長母音・短母音の違いがしっかり表示されているが、その元になっているのは17世紀にスペインの宣教師 (生まれはフィレンツェ)オラシオ・カロチ Horacio Carochi が著した文法書で、ローマ字を英語読みしてはいけない。ce、ci はそれぞれ se、si だし、co、ca、cu は ko、ka、ku、つまり c という同じ文字が違う子音を表すのである。では sa、su、so はどうなるのかというと z を使い za、zu、zo と書く。英語読み病にかかっていると z を有声音にしてざぜぞと読んでしまいそうになるが z は無声子音、英語のs である。だからs という字は使わない。では英語の z のような有声歯茎摩擦音はどうするんだと言うと心配はいらない。ナワトル語にはソナント以外の有声子音は存在しない、つまり英語の z の音はないからである。ke と ki はそれぞれ que、qui と表記する。またナワトル語に円唇子音 [ kʷ] があるがこれに母音が続く場合は c に u を続けて表す:cua、cue、cui。母音u と o は母音自体がすでに円唇音だからか、子音と両方円唇化するのは難しいのだろう、cuu、cuo は普通のcu、co となる。また円唇子音が子音の前か語末に来る場合は uc と書く。上述の chiuc の最後の子音がこれ。6で chicuacē とu とc  の位置が入れ替わっているのはここでは円唇子音に母音 a が後続するからだ。また ch は破擦音の[tʃ]、まあ英語の ch である。x は ks でなく[ʃ ]、英語の sh だ。hua、hui、hue は wa、wi、we。接近音の w が子音の前や語末に来ると先程の [ kʷ] のように u と h の位置を変えて uh とする。また ll などの重子音はスペイン語のように音価を変えずに律儀に [l:] と発音。さらに『200.繰り返しの文法 その1』でも少し述べたように tl は t と l のような子音連続ではない。二字使っているのはあくまで仕方なしにであって、これは ch と同じく一つの破擦音、流音と同時に舌で上あごの横っちょの隙間をこするである。文で説明すると難しそうだが発音自体は決して難しくはない。この流音破擦が l に続くと擦る部分が消えて単なる l になる:l+tl=ll。だから5 mācuīlli、15 caxtōlli、20 cempōhualli の最後尾についている lli という形態素は本当は ltli。tliというのは絶対格(能格対絶対格の絶対格とは意味が違うので注意)のマーカーで語幹につく。これらの単語は語幹が l で終わっているためマーカーが li になっているが、語幹が c でおわる10 màtlāctli では絶対格マーカーが本来通りtli で現れている。à と逆向きのアクセント記号がついているのか当該母音の後に声門閉鎖音が続くという意味なので à は [a?] だ。
 では発音がわかったところで被修飾語の名詞と数詞の順番についてだが、基本的には名詞の前に来る(太字)。

Ni-qu-itta ēyi cuahuitl
1.sg-3.sg-see + 3 + tree
I see three trees

さらに名詞に定冠詞がついていると数詞は動詞の前にさえ立てる。

Ēyi ni-qu-itta in cuahuitl
3 + 1.sg-3.sg-see + the + tree
I see the three trees

ナワトル語の数詞はシンタクス的には floating numeral quantifier 的(『158.アヒルが一羽二羽三羽』参照)なのかもしれないが、合成数詞(11~14と16~19)はなんと名詞を中に挟むことができる。

Ni-qu-itta màtlāctli omōme cuahuitl
1.sg-3.sg-see + 12 + tree

Ni-qu-itta màtlāctli cuahuitl omōme
1.sg-3.sg-see + 10 + tree + and-2

どちらも I see 12 trees である。

 さてこれからが本題である。20 cempōhualli は実は cem-pōhualli と形態素分析でき、cem- はcē、つまりcempōhualli は1×20である。21は上の11、16とメカニズムが同じで20+1、cempōhualli oncē、25は  cempōhualli ommācuīlli、26  cempōhualli onchicuacē でまあ日本語やドイツ語と同じだが、30は1×20+10、cempōhualli ommàtlāctli なのでそろそろ注意が必要になってくる。31は1×20+10+1だからcempōhualli ommàtlāctli oncē かと思うとそうではなくて、プラスが複数並列する場合は on あるいは om を連続させることを避けて二番目のプラスに īpan または īhuān を使い、cempōhualli ommàtlāctli īpan cē となる。38は1×20+15+3、 cempōhualli oncaxtōlli īpan ēyi。40は2×20で、以後20進法で次のように続く。
Tabelle2-211
だんだん20 pōhualli という単語を見るとゲップがでそうになってきたが、この調子で50は2×20+10、ōmpōhualli ommàtlāctli、75が3×20+15、ēpōhualli oncaxtōlli、125が6×20+5、chicuacempōhualli ommācuīlli。この辺はまだいい。220は(10+1)×20、màtlāctli omcempōhualli、340は(15+2)×20、caxtōlli omōmpōhualli だが、この220や340も11や17などの合成数詞が入っているからそれをバラしてそれぞれ10×20+1×20、màtlācpōhualli īpan cempōhualli、15×20+2×20、caxtōlpōhualli īpan ōmpōhualli ということもできる。これらは20で割り切れるからいいが端数の出る数字はややこしさが増し、330は(15+1)×20+10、caxtōlli oncempōhualli īpan màtlāctli、333が(15+1)×20+(10+3)、caxtōlli oncempōhualli īpan màtlāctli omēyi だ。ここで10+3をわざわざ括弧に入れたのはなぜ上の38と違って on- または om- の複数使用が許されるのかをはっきりさせたかったからで、プラスが階層構造になっていて単なる並列ではないという意味だ。
 この後やっと400、20×20になってtzontli という新しい単位となる。そしてそれがまた20倍になると20×(20×20)、8000 xiquipilli という単位になる。上の20と同じく、400と言う時も頭に1とつけて1×400と表現するから centzontli になる。以下ちょっと見てみよう。
Tabelle3-211
4800は màtlāctzontli īpan(または īhuān)ōntzontli ということもできる。実は参照した Michel Launey の入門書(Christopher Mackay 翻訳編集)には  màtlāctzontli īpan omōntzontli とあったが、これは誤植だと思う。4000×X+400×X、あるいは400×X+20×X という場合のプラス部は om-/on- でなく īpan を使うため500は centzontli  īpan nāuhpōhualli (1×400)+(5×20)、日本語だと「せん」の一語ですむ1000は2×400+10×20、ōntzontli īpan màtlācpōhualli と複雑なのに2000になると突然簡単になって5×20、mācuīltzontli。どうも調子が狂う。5000は再び20進法の本領発揮で(10+2)×400+10×20、màtlāctli omōntzontli īpan màtlācpōhualli。1482のように細かくなると3×400+(10+4)×20+2、ētzontli īpan màtlāctli onnāuhpōhualli īpan ōme、1519が3×400+15×20+(15+4)、ētzontli īpan caxtōlpōhualli īpan caxtōlli onnāhui、たかが736が1×400+(15+1)×20+(15+1)、centzontli īpan caxtōlli oncempōhualli īpan caxtōlli oncē という騒ぎ。おい電卓を持ってこい。
 おお、電卓が来たか。では少し先を見てみよう。上で述べた通り400の次に新しい単位になるのはそれがまた20倍になってから、つまり8000 cenxiquipilli あるいは cēxiquipilli になるまでお預けだ。28000は3×8000+10×400、ēxiquipilli īpan màtlāctzontli、141927は(15+2)×8000+(10+4)×400+(15+1)×20+7、caxtōlli omōnxiquipilli īpan màtlāctli onnāuhtzontli īpan caxtōlli oncempōhualli īpan chicōme。
 理屈から行けば8000の20倍、160000でまた新しい単位になりそうなもんだが、残念ながらというか幸いというか、そのまま8000 xiquipilli が使われ続け、(1×20)×8000、 cenpōhualxiquipilli になるらしい。3200000なら(1×400)×8000、 centzonxiquipilli である。

 ナワトル語の20進法ぶりのことは数学者の遠山啓氏も『数学入門』で言及しているが(ただしそこではナワトル語と言わずにアズテック(語)と呼んでいる)、遠山氏によるとマヤ語もこの方式なんだそうだ。もっともなにも太平洋を越えるまでもなくアイヌ語も20進法である。
 アイヌ語の数詞を見てみよう。アイヌ語はローマ字読みでいい。ナワトル語と違って「5」が登場してくることはないが、その代わり6から9までは10を基準にした引き算になっている。
Tabelle4-211
6の i- は ine と同じで4と言う意味。つまり6は10−4。同様に7の ar-  は3 re、つまり10−3。8 tup-e-san の tup は tu、e-san は「足りない」だから8は「二つ足りない」、同様に9は「一つ足りない」である。こりゃあナワトル語よりさらに油断がならない。11~19についている  ikashma は「余り」で、11、12はそれぞれ「とおあまりひとつ」「とおあまりふたつ」だが、一の位を十の位より先に言う点がドイツ語といっしょである。以下100まで見ていくとこうなる。
Tabelle5-211
30、50、70、90では−10の部分が先に来るので正確には−10+(x×20) だろう。そこの -e- という形態素(太字)は「で以って」「があれば」という接辞だそうで、30はつまり「あと10あれば40」という意味だ。参照した資料には残念ながら100までしか載っていなかったのだが、400や8000はアイヌ語ではどうなるか気になったのでちょっとネットを見てみたら、方言によって違いがあったり使用例が少なすぎたりしてどうもナワトル語のようにスカッと行かない。それでも200は10×20、wan hotne、400で新しい単位になり、600は(−10×20)+2×400と記している記事があった。8000はわからない。アイヌはメキシコ先住民のようには大きな数字を駆使して暦を作ったりしなかったから単位は400までで足りたのかもしれない。

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