アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:同格

 日本語には関係代名詞というものがないので、文が名詞を修飾する場合は動詞や助動詞の連体形をとらせて名詞の前に付加する。形容詞と同じだ。機能的には英語やドイツ語の関係文とだいたい同じだが、被修飾語の前に来て動詞の連体形という付加語に特有な形をとるので、「付加語文」とでも呼んだ方がいいかもしれない。確かにドイツ語や英語でも分詞を使えば似たような構造にはなる。「エサを食べるそのアヒル」、「その映画を見ている人」ならそれぞれ

die Futter fressende Ente
the + feed + eating + duck

ein den Film guckender Mensch
a + the + moovie + watching + man

となるが、そもそもこういう構造がやや堅苦しいのに加えてシンタクス上でも大きな制限があるので日本語の「エサを食べるアヒル」、「その映画を見ている人」とは比べ物にならない。
 まず「エサを食べるアヒル」は被修飾語名詞の「アヒル」が修飾文「エサを食べる」の主語、つまりアヒルは文の主格に対応する。「アヒルがエサを食べる」である。二番目の例も同じで被修飾語は修飾文の主語だ。「人がその映画を見る」だ。これらの構造を関係代名詞を使って書き換えてみればさらにはっきりする。

Die Ente, die Futter frisst
the +  duck + who(that) + feed + eats

ein Mensch, der den Film guckt
a + man + who + the + moovie + watches

太字にした die、der が関係代名詞で、それぞれ女性単数主格、男性単数主格である。要するに主格だ。
 これに対して被修飾名詞が修飾文の主語でない場合、例えば直接目的語(対格)の場合はもとの文は同じ(それぞれ「アヒルがエサを食べる」、「人がその映画を見る」)でも分詞を使った構造は不可能になる。

* die Ente essendes Futter
the + duck + eating +  feed

* der ein Mensch guckende Film
the + a  + man + watching + moovie

この場合は関係代名詞を使わないといけない。

Futter, das die Ente frisst
feed + that + the + duck eats

der Film, den ein Mensch guckt.
the + moovie + that + a +  man + wathes

日本語なら関係代名詞なんてもんは使わずにそのままススッと修飾文を先行させればいい。「そのアヒルが食べるエサ」「人が見るその映画」で問題ない。
 主格や対格ばかりではない、基本的には被修飾語名詞は修飾文のあらゆる格に対応できる。

与格
田中さんが鈴木さんにプレゼントをあげる
→田中さんがプレゼントをあげる鈴木さん

存在処格
田中さんが町に住んでいる
→田中さんが住んでいる町

活動処格
田中さんが公園で野球をする
→田中さんが野球をする公園

向格
田中さんが町へ行く
→田中さんが行く町

具格
田中さんが地下鉄で東京へ行く
→田中さんが東京へ行く地下鉄

共格
田中さんが会社の人と会う
→田中さんが会う会社の人

キリがないので具格の例だけ見るが、英語やドイツ語ではこれを表すのに関係代名詞だけでなく前置詞を持ってこなければいけない。

Die U-Bahn, mit der Herr Tanaka nach Tokio fährt
the + subway + with + that + Mr. Tanaka + to + Tokyo + goes

修飾文を被修飾語の前に置くことなど絶対に不可能だ。

* die Herr Tanaka nach Tokio fahrende U-Bahn
the + Mr. Tanaka + to + Tokyo + going + subway 

このように日本語の具格はドイツ語では前置詞表現になるわけだが、日本語ですでに前置詞(日本語では前置詞ではなく後置詞だが)を使う表現でまでシンタクス関係が表示されないからさらにわかりにくくなる。例えば「田中さんが話していた映画」という構造で修飾語と被修飾語の関係は~ニツイテである。つまり元の文はこうなる。

田中さんが(その)映画について話していた。

 そういえば例の「雨が降る前」と「雨が降らない前」との違いも修飾文と被修飾名詞の格関係の違いに還元できるのではないだろうか。 「雨が降る前」では被修飾語「前」は修飾文「雨が降る」の比較格、「雨が降らない前」では「前」は「雨が降る」の存在処格では?言い換えると前者は「雨が降るより前」、後者は「(その)前に(は)雨が降らない」である。もちろんこの解釈には欠点があって、前者は「田中さんが読んだ本」→「田中さんが本を読んだ」のようにストレートに「元の文」が構築できないし、後者も少し加工しないと同じ意味にならない。また同じく時間関係を表すのに「~間」だと存在処格としか解釈できず、「~後」では比較格しかあり得ないのはなぜかという問題が残る:
「雨が降る間」は「(その)間に雨が降る」であり、「雨が降らない間」は「(その)間に(は)雨が降らない」なので、意味が逆になる。比較格解釈は不可能だ。それは被修飾語の「間」という意味のせいで、意味的に比較格解釈を許さないからだという理屈は確かに成り立つ。「間」は程度を表さないからだ。「私が思ったより馬鹿」はOKだが、「私が思ったより学生」はNGなのと同じ理屈だ。それに対して「~後」は「前」と同じくある意味程度を表しているので比較格解釈ができる。しかし「後」は逆に存在処格の解釈ができない。「雨が降る後」はどうやっても「雨が降るより後」であって、「(その)後に雨が降る」という解釈はできない。これはなぜか、無理やり屁理屈をこねれば「終わりがわかっている時間には存在処格が成り立つが始めだけあって終わりがない時間表現には処格解釈は不可能」という説明も可能だ。「~前」は当該事象が生じることによってその時間・状態は終わりになるが「~後」では事象が起こることによって当該時間。状態が生じる。終わりは見えない。しかしこれはあくまでも屁理屈であって、「どうしてですか?」と聞かれたらイチコロだ。どうもさらなる研究が必要なようだ(自分でやれよ)。

 また日本語では修飾文の直接構成要素ではない語まで被修飾語になれるのでさらにシンタクス関係が再構成しにくくなる。言葉で定義するとわかりにくいが例えばこういう構造だ。日本語ネイティブなら誰でも問題なく理解できるだろう。

田中さんが面白いと言っていた映画。
田中さんが読むなと言っていた本
田中さんが私より有能だと思った人
田中さんが自分より有能だと思った人

これらの被修飾語「映画」、「本」、「人」は元の文では主文の構成要素ではなく、主文の動詞の目的語、英語で言えば that節でつまり発言や思考の内容である。元の文はそれぞれこうなる。

田中さんがその映画が面白いと言っていた。
田中さんがその本を読むなと言っていた。
田中さんが(その)人(のこと)を私より有能だと思った。
田中さんが(その)人(のこと)を自分より有能だと思った。

3番目の文では「その人」は話者より有能、4番目では田中さんより有能という意味になる。全部やるとタルいので最初の文だけ構造分析してみよう。周りを色で囲んだのが主文の直接構成要素、文字の色自体を変えたのが主文の目的語の構成要素、言い換えると主文の構成要素のそのまた構成要素である。

田中さんが その映画が面白い 言っていた

黄色が主語、緑が動詞の目的語、赤が動詞または形容詞だ。主文目的語もそれ自体文になっているからその構成要素は文字の色を変えて表してある。「その映画が」は主語、「面白い」が形容詞、つまり動詞と同じく述部の核である。つまり「映画」が主文の構成要素ではなく、緑色の構成要素に埋め込まれているのだ。これの名詞表現を色分けするとこうなる。

田中さんが面白い言っていた 映画

下線部が修飾文だが、つまり主文の目的語が分断されてその中の一要素が被修飾語としてしゃしゃり出て来ているわけで、英文法では「ノードを飛び越えた」と名付ける構造だ。これを上の「田中さんが鈴木さんにプレゼントをあげる」→「田中さんがプレゼントをあげる鈴木さん」と比べてみるとノードの飛び越えがはっきりする。

田中さんが 鈴木さんに プレゼントを あげる

田中さんがプレゼントをあげる 鈴木さん 

青はいわゆる間接目的語、与格目的語だが、ここでは主文の構成要素は分断されていない。被修飾名詞のシンタクス位置はあくまで主文内にあるからだ。
 主文の直接構成要素にしてもノードジャンプでのし上って来たにしても被修飾名詞と修飾文との核関係は表現されない点は同じだ。前者ならまだどうにかなるが、後者のように被修飾名詞にジャンプされるとややこしい。主文レベルでは対格目的語(の一部)だが、同時に埋め込み文の主格主語でもあるからだ。学習者も大変だが、説明するほうも下手をするとチョムスキーの樹形図などと持ち出さねばならず結構疲れる。もっとも中国語や韓国語は基本日本語と同じようなものだとのことで、確かにこれらが母語の人は単語の意味が分かればそこから解釈してこのようなシンタクス構造もすぐ理解できるが、関係代名詞の助けに頼る癖のついた印欧語母語者はたとえ単語の意味が全部わかっていても文が理解できない。この「語の意味は全部知っているのに文になるとわからない」と言う感覚は日本人だって外国語をやる際頻繁に経験する感覚ではないだろうか。

 もう一つ、that 節で思い出したが「田中さんと明日会う約束」というような場合修飾文と被修飾語とのシンタクス関係をどう解釈したらいいのだろう。被修飾語は「約束」、修飾文は「(私が)田中さんと明日会う」である。修飾文の中には被修飾語の場所がない。だから当然格も特定できない。私の考えだが、ここで修飾文と被修飾語は同格関係にあると思う。「同格」という格じゃないかと言われるかもしれないが、これは日本語の訳のせいだ。同格は Apposition といい、本来の「格」Kasus または case とは別物だ。この同格とは一つの指示対象を別の表現で言い換え、それを並べた構造のこと、言い換えると同格と言う格ではなくて格が同じという意味である。よく使われる例は Ich habe Herrn Schmidt, den Freund meiner Schwester, getroffen(I have meet Mr. Schmidt, my sister’s boyfriend)などというもので、「シュミットさん」と「妹の恋人 」は同一人物である。「田中さんと明日会う約束」の場合は「約束」の具体的内容が「山田さんと会う」、つまり同じ指示対象を別の言葉で表している。また日本語では同格である印として「という」というフレーズを差し挟むことができる。「山田さんと明日会うという約束」である。他にも「あさって東京へ行く予定」は「あさって東京へいくという予定」、「なんでも自分でやるつもり」は「なんでも自分でやるというつもり」、「山田さんが帰ってくる噂」は「山田さんが帰ってくるという噂」とそれぞれ言い換えられる。最後の例などは同格マーカー「~という」がついていた方が座りがいい。
 英語やドイツ語ではこういう場合いわゆるコンプレメンタイザーの dass(that)を使う。

Die/eine Veranredung, dass ich morgen Herren Yamada treffe
the /a + appointment + that + I + tommorow + Mr. Yamada + meet

もちろん不定詞でもいい。

Die/meine  Verabredung, morgen Herrn Tanaka zu treffen 
the/my + appointment + tommorow + Mr. Yamada + to + meet

次のような文ではいわゆる形式主語の it と that 節は同格である。文法書などでは「同格」という言葉は使われていないが。

It is well known that ducks can swimm well.

形式主語の代わりに普通名詞が来ることもある。

The fact that ducks can swimm well is well kown.

日本語ではもちろんそれぞれこうなる。

アヒルがじょうずに泳ぐことはよく知られている。
アヒルがじょうずに泳ぐ事実はよく知られている。

日本語には形式主語がないので、「こと」という普通名詞を使う。上の同格の例と同じく「泳ぐ」と「こと」あるいは「事実」の間に「~という」というフレーズが入れる。冒頭で述べたように動詞の分詞を使って付加語とする場合被修飾語は主語以外の文法格には立てないのはもちろんだが、同格の修飾文をthat なしで付加語にするのはさらに不可能。直訳すれば

The ducks well swimm canning fact is well known

となり、英語が完全に崩壊している。そもそも can の現在分詞などすでに死語になっているからさらに崩壊感が増す。

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前に書いた記事の内容に大分補足を加えました。属格、つまり名詞が別の名詞を修飾する構造はとにかく昔から解釈や説明がいろいろ難しいです。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者、あるいは佐藤さんがいつも言っているパン屋、つまり属格解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。またここでは8も9も上の6と同じく属格解釈ができる、8は「おじさんがいつもかかっている医者」、9は「その医者にはおじさんがいる」である。つまりN2が固有名詞だと属格解釈ができないということだ。

では次に

10.アメリカ人の友だち

はどうか。「友だち」は固有名詞ではないから属格解釈ができる。「アメリカ人のそのまた友だち」だ。しかしまあ同格と見る方が自然だろう。つまり同じ指示対象を別の言葉で言い換えてあるということ。「アメリカ人である友だち」、言い換えれば「そのアメリカ人=友だち」、ドイツ語で言えば

mein Freund, der Amerikaner ist
my + friend + who + American + is

となる。「アメリカの国」も同じ理屈で「アメリカ」と「国」は同格である。上の4と同じだ。面白いことにこういうとき英語の of が同格を表すことがある。the state of California はまさに「カリフォルニアという州」「その州=カリフォルニア」という同格だ。英語の of に対応するドイツ語の von は英語ほどは同格表現の力がないらしく、同格は文字通り名詞を並立させて表す。ドイツ語の学習者にはここで修飾語を属格にしてしまう者が跡を絶たない。例えば「ドイツ連邦共和国」をBundesrepublik Deutschland でなく Bundesrepublik Deutschlands とやってしまうのだ。私も以前「シュレーダー政権」と言おうとして Regierung Schröders  とやったら先生にまたかという顔をされ、「多いですねぇ、そう間違う人。これはその政権の名前がシュレーダーだという意味でシュレーダーの所有する政権じゃありません。だから属格にしちゃダメです。Regierung Schröder です」と諭された。そう言われて考えてみると、英語もアポストロフィとs で表す属格では同格を表現できない。the state of California は California’s state ではない。

 もうちょっと見てみよう。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

11.ドイツの国

はいいが

12.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

13.筑波の大学

とは言えず、

14.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 それに対して英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞、上で述べた of を使って同格構造が形成できる。

15.Federal Republic of Germany
16.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成している各名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば次のような例だ。

17.裁判官おばさん
18.おばさん裁判官

18は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、17は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

19.Muttertier
            mother + animal
20.Tiermutter
            animalmother

19は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが20は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

21.山田さんの知り合いの任天堂の社員
22.任天堂の社員の山田さんの知り合い

「山田さん」をNP1、「知り合い」をNP2、「任天堂」をNP3、「社員」をNP4とすると21は事実上{NP1(属格)+NP2} = {NP3(属格)+NP4}、言い換えるとNP1とNP2が一つの単位、NP3とNP4がまた別の単位、つまり「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、名詞の順番を変えた22では21に対応する構造 {NP3(属格)+NP4} = {NP1(属格)+NP2}、「任天堂の社員=山田さんの知り合い」の他に {NP3(属格)+NP4= NP1(属格)} +{NP2} と言う解釈、つまり「任天堂の社員である山田さんのそのまた知り合い」という解釈もなりたってしまう。中括弧の位置が変わっているのが見えるだろうか。これは「山田さん」が固有名詞、意味が非常に限られている名詞なので、意味がより一般的な名詞句、ここでは「任天堂の社員」が先行した場合その名詞句全体をまとめて自分の同格と解釈させる力を持っているということだろう。やはり名詞の意味を完全に排除してシンタクスだけで言語構造を論じるのは無理があるようだ。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。

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 『84.後ろか前か』で同格についてちょっと触れ、同格名詞(NP1+NP2)はあくまで全体として一つの名詞であってNP1とNP2間にはシンタクスやテクストレベルと違い「NP2が意味的にNP1より包括的でないとうまく機能しないというレヴィンソンの規則は適用されない」と安直に述べてしまったが、その後よく考えてみると「適用されない、はいオシマイ」では終わらせられないことに気がついた。
 まず助詞の「の」を使う同格表現であるが、

太郎の馬鹿野郎
馬鹿野郎の太郎

を比べてみると私の感覚では最初のほうが遥かに座りがいい。まさに同格という感じがする。それに比べて後者の方はNP1がNP2の修飾語であるという感じがぬぐい切れない。この修飾語感覚はNP1が「な形容詞」にもなりうる語だと益々はっきりする。

1.太郎の馬鹿  NP1 + NP2
2.馬鹿の太郎  NP2 + NP1  
3.馬鹿な太郎  Adj. + NP1

1が一番同格性が強く、3は完全にNPが一つ、つまり単なる普通のNPで、2がその中間、NPが他のNPの修飾語になっている、まあ特殊な構造である。「特殊」と言ったのはNPというのはシンタクス上で普通修飾語としては働かず、基本的にはされる側だからである。2ではNP1の方が意味が狭くなっている。「意味」というよりreferential status指示性のステータスが高いといったほうがいいかもしれないが。言い換えると指示対象物を同定できる度合いが強いということだ。とにかく太郎という一個人のほうが馬鹿という人間のカテゴリーより意味が狭くて指示対象がはっきりしている。これは前に述べたレヴィンソンの規則では、NP1とNP2の指示対象が同じものだとは考えにくくなるパターンだ。逆にそれだからこそ、先に来たNP2のほうをNP1の修飾語と考えないとNP1とNP2がバラバラになってしまう。1ではレヴィンソンの言う通り、後続のNP2の方が意味が広いからすんなりとNP1=NP2と解釈することができる。要するにここではしっかりレヴィンソンの図式が当てはまっているようだ。次に

4.ハイデルベルクの町 NP1 + NP2
5.町のハイデルベルク NP2 + NP1

を比べてみよう。ここでも同格と見なしうる4では「太郎の馬鹿」と同じくNP2の方が意味範囲が広い。5はNP2は明らかにNP1「ハイデルベルク」の修飾語・限定語でNP1の意味を狭めている。例えば会話の場(でなくてもいいが)にハイデルベルクさんという人がいて、ハイデルベルク市の話をしているのかハイデルベルク氏について話しているのかはっきりさせたい場合は「町の(ほうの)ハイデルベルク」というだろう。氏は「人のハイデルベルク」である。ここでもレヴィンソンの図式が当てはまる。
 しかしその「NP1とNP2の意味範囲の法則」が名詞句内で当てはまるのはそこまでで、NP2が職業名だとなぜかこの図式が適用できない。

6.佐藤さんのパン屋 NP1 + NP2
7.パン屋の佐藤さん NP2 + NP1

では、同格とみなせるのは7、意味的に狭いほう、指示対象を特定できる度合いが強いほうが後に来ている。図式と逆である。またこの場合の「パン屋の佐藤さん」は「町のハイデルベルク」と違ってそばに会社員の佐藤さんがいなくても、つまり佐藤さんの意味を特に狭める必要がなくても使える。言い換えると普通に同格なのである。6はNP1(佐藤さん)がNP2(パン屋)の所有者、あるいは佐藤さんがいつも言っているパン屋、つまり属格解釈しか成り立たない。さらに

8.おじさんの医者 NP2 + NP1
9.医者のおじさん NP1 + NP2

を比べてみよう。同格とみなせるのは9の方である。その際9では「おじさん」の意味が「両親の兄弟」つまり話者の親戚かよく知っている近所の(でなくてもいいが)中年男性となる。これに反して8では「おじさん」が単なる「中年男性」の解釈となる。話者の知り合いでもなんでもない、カテゴリーとしての中年男性という意味になるから、NP2(「おじさん」)はNP1(「医者」)の修飾語である。つまりここでもNP2の方が指示対象を特定できる度合いが強い構造のほうが同格なのだ。またここでは8も9も上の6と同じく属格解釈ができる、8は「おじさんがいつもかかっている医者」、9は「その医者にはおじさんがいる」である。つまりN2が固有名詞だと属格解釈ができないということだ。

では次に

10.アメリカ人の友だち

はどうか。「友だち」は固有名詞ではないから属格解釈ができる。「アメリカ人のそのまた友だち」だ。しかしまあ同格と見る方が自然だろう。つまり同じ指示対象を別の言葉で言い換えてあるということ。「アメリカ人である友だち」、言い換えれば「そのアメリカ人=友だち」、ドイツ語で言えば

mein Freund, der Amerikaner ist
my + friend + who + American + is

となる。「アメリカの国」も同じ理屈で「アメリカ」と「国」は同格である。上の4と同じだ。面白いことにこういうとき英語の of が同格を表すことがある。the state of California はまさに「カリフォルニアという州」「その州=カリフォルニア」という同格だ。英語の of に対応するドイツ語の von は英語ほどは同格表現の力がないらしく、同格は文字通り名詞を並立させて表す。ドイツ語の学習者にはここで修飾語を属格にしてしまう者が跡を絶たない。例えば「ドイツ連邦共和国」をBundesrepublik Deutschland でなく Bundesrepublik Deutschlands とやってしまうのだ。私も以前「シュレーダー政権」と言おうとして Regierung Schröders  とやったら先生にまたかという顔をされ、「多いですねぇ、そう間違う人。これはその政権の名前がシュレーダーだという意味でシュレーダーの所有する政権じゃありません。だから属格にしちゃダメです。Regierung Schröder です」と諭された。そう言われて考えてみると、英語もアポストロフィとs で表す属格では同格を表現できない。the state of California は California’s state ではない。

 もうちょっと見てみよう。NP1、つまり意味の広い方が漢語だと助詞の「の」で同格が作れない。同じ意味の和語では可能なことが漢語相手だとできないのである。だから

11.ドイツの国

はいいが

12.ドイツの連邦共和国

は同格にならない。この場合は「ドイツ連邦共和国」と「の」抜きの完全な合成語にしないといけない。これは大学の場合も同じで、

13.筑波の大学

とは言えず、

14.筑波大学

と言わなければいけない。「筑波の大学」だと「つくば市の大学」ということになり、あのデカイ国立大学だけとは限らず、私立のつくば国際大学も指示対象になりうる。ローカルな話になって恐縮である。
 さらに「ハイデルベルクの町」(上述)という同格構造は成り立つが、「ハイデルベルクの市」とは言えない。合成語にして「ハイデルベルク市」とするしかない。
 それに対して英語だと「共和国」とか「合衆国」とか「大学」いう固い言葉とでも「の」にあたる前置詞、上で述べた of を使って同格構造が形成できる。

15.Federal Republic of Germany
16.University of Tsukuba

日本語ではこれらはそれぞれ「ドイツ連邦共和国」、「筑波大学」という合成名詞でしか表現できない。しかし一方で合成名詞を構成している各名詞の関係は「の」のつく構造と必ずしも並行しないから一旦観察しだすと止まらなくなる。例えば次のような例だ。

17.裁判官おばさん
18.おばさん裁判官

18は「おばさんの裁判官」「おじさんの医者」などの「の」がつく構造と同じで中年女性の裁判官という意味になるが、17は「裁判官のおばさん」という意味にはならない。私の言語感覚では、すぐに「サイバンカーン」と絶叫するのを芸にしている中年女性のピン芸人(こういう絶叫が芸と呼べるかどうかはこの際不問にすることにして)などが「裁判官おばさん」である。
 このタイプの合成名詞はロシア語では各名詞をハイフンでつなぐが(『84.後ろか前か』参照)、ドイツ語では日本語と同じように名詞を裸でくっつける。そしてここでも名詞の順番によって同格になったりならなかったりする。

19.Muttertier
            mother + animal
20.Tiermutter
            animalmother

19は同格で「おかあさん動物」、例えば後ろにヒヨコを従えて横断歩道を渡る「おかあさんアヒル」である。そのまま合成名詞として日本語にできる構造だ。ところが20は同格にならないし、そもそもそのまま日本語に「動物おかあさん」「アヒルおかあさん」とは合成名詞変換できない。では「の」をつけて「動物のおかあさん」「アヒルのおかあさん」と翻訳できるかというとこれがそうではない。「アヒルのおかあさん」は「おかあさんアヒル」と同様自分自身もアヒルであるが、 Tiermutterではmother は人間で「怪我をした動物を家に連れてきて献身的に世話をする女性」というニュアンスで、とにかく動物の世話をしている(優しい)女性という解釈になる。これはネイティブ確認を取った。日本語の「アヒルのおかあさん」もそういう女性を表せないこともないが、同格になりうる度合いが遥かにドイツ語より強い。

 名詞と名詞が合体すると、シンタクス上の構造ばかりでなくその名詞自身の意味や、直接の意味内容には入っていないいわゆるニュアンスなどもかかわってくるから騒ぎが大きくなるようだ。さらに大騒ぎになるのが当該名詞が上述のように単なるNでなくそれ自身すでにNPである場合である。

21.山田さんの知り合いの任天堂の社員
22.任天堂の社員の山田さんの知り合い

「山田さん」をNP1、「知り合い」をNP2、「任天堂」をNP3、「社員」をNP4とすると21は事実上{NP1(属格)+NP2} = {NP3(属格)+NP4}、言い換えるとNP1とNP2が一つの単位、NP3とNP4がまた別の単位、つまり「山田さんの知り合い=任天堂の社員」という同格解釈しか成り立たないが、名詞の順番を変えた22では21に対応する構造 {NP3(属格)+NP4} = {NP1(属格)+NP2}、「任天堂の社員=山田さんの知り合い」の他に {NP3(属格)+NP4= NP1(属格)} +{NP2} と言う解釈、つまり「任天堂の社員である山田さんのそのまた知り合い」という解釈もなりたってしまう。中括弧の位置が変わっているのが見えるだろうか。これは「山田さん」が固有名詞、意味が非常に限られている名詞なので、意味がより一般的な名詞句、ここでは「任天堂の社員」が先行した場合その名詞句全体をまとめて自分の同格と解釈させる力を持っているということだろう。やはり名詞の意味を完全に排除してシンタクスだけで言語構造を論じるのは無理があるようだ。

 だんだん収集がつかなくなってきたのでこの辺で止めさせてもらうが、昔生成文法でもごく最初の頃に名詞と名詞の結びつき、属格構造を導き出す変形をシンタクス上で説明しよう、つまり属格構造がD構造ではセンテンスであったと説明しようとしていて、直に放棄したようなおぼろげな記憶がある。

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 一応前置が基本ではあるが、ロシア語は形容詞が被修飾名詞の前後どちらにも付くことができる。それで例えば「愛しい友よ」は

милый друг
dear + friend
(my dear friend)


とも、

друг милый
friend + dear

とも言うこともできる。形容詞が後置されたдруг милый(ドゥルーク・ミィリィ)は感情のこもった言い方で、こう言われると本当に親しい、愛しい感じがするそうだ。

 ちょっと文法書を見てみたら形容詞が後置されるのは:1.被修飾名詞が人とか物・事など意味的にあまり実体がなく、主要な意味あい、伝えたい情報は形容詞の方が受け持つ場合、2.文学的・詩的な表現である場合など、とある。つまり後置形容詞はいわゆる「有標」表現なわけだ。
 特に1の説明は、「情報価の高い要素ほど右(後ろ)に来る」というプラーグ学派のcommunicative dynamism、いわゆるテーマ・レーマ理論を踏襲した極めて伝統的なスラブ語学の視点に立っている感じでいかにもロシア語の文法書らしい説明ではないだろうか。

 しかし私はこれをシンタクス的に別解釈することも可能だと思う。形容詞が後置される形は同格、つまり名詞句NPが二つ重なった構造であって、前置構造の場合と違って形容詞が名詞にかかる付加語ではない、という解釈も可能だと。 つまり、上の形容詞が前置されているмилый друг(ミィリィ・ドゥルーク)は

[NP [A {милый} ] [N {друг} ] ]

だが、друг милый(ドゥルーク・ミィリィ)はNP(A + N)ではなく

[NP [NP1 [N {друг} ] ]  [NP2 [A {милый} ]  [N {ZERO} ] ] ]

というダブル名詞句構造というわけ(ここでZEROとあるのは形としては表面に現われて来ない要素である。本チャンの生成文法では別の書き方をしていたような気がするが調べるのが面倒なのでここではこういう表記をしておく)。それが証拠に、というとおかしいが「イワン雷帝」、

Иван грозный
Ivan + terrible

は、英語ではterrible IvanでなくIvan the terribleと定冠詞をつけて同格風に訳す。

 つまり後置形容詞は統語上の位置が単なるNの附加語の地位からグレードアップしてNP1枠から脱獄(?)し、披修飾語NP1と同じ位置まで持ち上がって来るのだから(NP2)、形容詞の意味内容が重みを持って来る、つまり情報価が高くなることの説明もつく。言い換えると、後置形容詞は「情報価が高いから」後置されるのではなくて、むしろ逆に後置されることによって、つまりシンタクス上の位置が変わることによって情報価が高まるのではないだろうか。

 さて文法書などの「同格」(ロシア語でприложение、プリロジェーニエ)の項を見ると同格を、「修飾の特殊な形態。複数の名詞で表され、さらに詳しい情報を提供したり補足したりする」と定義されている。例として

старик-отец
old man + father
「老父」


とか
мать-старушка
mother + old woman
「老母」


などが上がっているだけで形容詞を使った言い回しは上がっていない。どこにも例としては載っていなかったが私がソ連旅行をした際(『3.噂の真相』の項参照)当時のレニングラートの駅にデカデカと立っていた看板город-герой(「英雄都市」)も同格表現と見ていいだろう。ちなみに上のмать-старушка(マーチ・スタルーシカ)の例を普通に形容詞を付加語的に使った構造で表現すると

старая мать
old + mother

である。
 一方どの文法書も「品詞間の移動」、「形容詞の名詞化」についてかなりページを割いているし、もともと印欧語は形容詞と名詞の移動が相当自由なので、次の例などは「形容詞の名詞化による同格表現」と解釈しても「そんな無茶な」とは言われないだろう(と思う)。

Что ж ты, милая, смотришь искоса?
what + on earth + you + dear + look at + askance
(What on earth do you, my dear, look at askance?)


それと同じく、旧ソ連の国歌の歌詞

Союз нерушимый республик свободных
union(対格) + not to be overthrown + republics(生格) + free

も、

The unoverthrowable Union of the free republics

とあっさり訳すより、同格っぽく

The union, our unoverthrowable union, of the republics, of our free nations

とかなんとかやった方が原文の感じがでると思う。もっともこれらは最初にあげたように単に「文学的な表現」としてあっさり片付けてしまえそうな気もするが。

 それで思い出したが、英語やドイツ語では同格表現でof(ドイツ語でvon)を使うことがある。

The united states of America

は、「アメリカの合衆国」ではなくて「アメリカという合衆国」という意味で、名前つまり詳しい付加情報を付加している同格構造である。もっとも日本語でも

глупый Иван
stupid + Ivan

は、「馬鹿なイワン」だが、形容詞後置の同格的表現

Иван глупый
Ivan the stupid

は、「イワンの馬鹿」とofにあたる「の」を使って表現できる。「太朗の馬鹿野郎」なども「太朗=馬鹿」という図式の同格表現であろう。

 あと、話はそれこそ前後するが、この同格は文法書では「名詞」の項ではなくてシンタクス現象として本のずっと後ろのほうにでてくるのが面白い。
 もう一つ面白いと思ったのは、上の「老父」と「老母」の例で双方の名詞の順序が逆になっているということだ。老父では「年寄り」という名詞が「父」の先に来ているが、「老母」では「母」が先で「年寄り」が後に来ている。つまり名詞句NPの順番はどっちでもいいということだ。こういうところからも同格構造は最終的に一つの名詞句である、つまりあくまで一つのシンタクス上の単位であることがわかる。これがセンテンスやテクストレベルになると、つまり二つの名詞句間になるととそうは行かないからだ。
 代名詞を使わずに名詞句で同一の指示対象を指し示すことがあるが、その場合、2番目の名詞句NP2が意味的に最初の名詞句NP1より包括的でないと、対象指示がうまく機能しないのだ。例えば、

フェリーが座礁した。はたちまち沈んでしまった。

というテクストではNP2の「船」はNP1の「フェリー」より意味が包括的だからこの「船」というのは最初に出てきたフェリーのこと、つまりNP1とNP2はco-referential、指示対象物が同一である。しかしここでNP1とNP2を入れ替えて

が座礁した。フェリーはたちまち沈んでしまった。

というとNP2の意味がNP1より狭くなるため、この二つがco-referentialであるという解釈が難しくなる。船が2隻沈んだ感じになるのである。これを「父」と「老人」に当てはめてみると、

が何十年ぶりに帰ってきた。でも老人には僕がわからなかった。



老人が何十年ぶりに帰ってきた。でもには僕がわからなかった。

になり、後者の例だと帰ってきた老人が父であることがわかりにくい。「父」のほうが指示対象の範囲が狭いからだ。これはレヴィンソンという言語学者が指摘している現象である。

 そういえば、話はそれるが以前ちょっと話に出たwendisch-slawischenという表現(『71.トーマス・マンとポラーブ語』の項参照)。これは名詞でなく形容詞のダブル構造なのでもちろん同格ではないが、この二つの形容詞の意味関係も考えてみると面白い。日本語の訳者はこれを明らかに「ヴェンド人というスラブ民族」と解釈しているが、トーマス・マンは「ヴェンド人、すなわちスラブ人」というつもりだったのではないだろうか。


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