アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:動作様態(アクチオンスアルト)

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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 実は私は黒澤明の映画で、TVやリバイバルでなく劇場公開時に見たのは『デルス・ウザーラ』だけである。黒澤の映画は世界的に有名だが、黒澤以前にもソ連でアルメニア人の監督アガシー・ババヤンБабаян, Агаси が1961年に一度映画化している。原作は帝政ロシアの軍人ウラジーミル・アルセーニエフ(1872-19230)の探検記 По Уссурийскому краю(「ウスリー地方探検記」、1921)と Дерсу Узала(「デルス・ウザーラ」、1923)で、ババヤンの方は知らないが黒澤はこの両方を参照している。探検自体は出版よりずっと早い時期、1906年から始まっていて、原作ではデルスは「ゴリド人」と呼ばれている。現在で言うナーナイ人だが、スィソーエフ Сысоев, Всеволод (1911-2011) というハバロフスクの作家はこれに疑問を持ち、デルスはナーナイ人ではなくウデへ人のはずだ、と主張したそうだ。まずナーナイ人は魚をとって定住している民族で、獣を追って森のなかを歩き回ったりしない、さらにデルスがアルセーニエフに教えたという言葉はナーナイ語でなくウデへ語だというのである。しかし、ウデへ人とナーナイ人は言語も民族も非常に近く、アルセーニエフの資料からどちらかにキッパリ決めるのは難しいそうだ。デルスはゴリド人(ナーナイ人)ということでいいのではなかろうか。

ババヤンの『デルス・ウザーラ』のアルセーニエフとデルス。https://dibit.ru/p/films/1628から。
1126-3
1126-4
アルセーニエフの原作(=本物)のデルス。ババヤンのデルスの容貌のほうが黒澤のよりむしろ現実に近い。
ウィキペディアから。
Dersuuzala

 そのデルスの話す言葉、ナーナイ語だが幸いトゥングース諸語の一つである。なぜ「幸い」なのかというとトゥングース諸語はさすが大言語の満州語を要するだけあって、古くからロシア人や中国人の興味を引き、比較的研究が進んでいるからだ。研究ばかりではない、文字や書き言葉を発達させ、歴史的な資料も豊富な満州語は文化語としても中国語と並んでかの地の文化生活をひっぱっていた。ソ連の論文でトゥングース・満州諸語 тунгусо-маньчжурские языки と呼んでいるのを見かけたが、いかに満州語の重みが高いかわかる。それともこの名称で「満州語は中国の、トゥングース語はソ連の領域」という政治的分割でも暗示されているのだろうか。まあそれもありうる(下記参照)。
 ナーナイ語の話者はウスリー江沿岸(アルセーニエフが探検した地域だ)と、あとアムール川の周りにもいる。ソ連(ロシア)側と中国側合わせてナーナイ人の人口は1万人強ということだが、この数字があまり正確でない上にロマニ語と同じく民族に属してはいてもナーナイ語を話せない人も多く(『154.そして誰もいなくなった』参照)、言葉そのものの話者はわずか1000人から2000人くらいという報告もある。しかも全員がロシア語あるいは中国語とのバイリンガルで、日常生活に使っているのはむしろそちらの方であり、ナーナイ語を完全に流暢に話せるのは皆50から60歳以上だそうだ。とにかく非常な危機言語である。

 ナーナイ語を文字化する試みはすでに19世紀後半に正教の教会が行っている。布教のためだろう。1928年にはロシア語とラテン語アルファベットを用いた正書法が考案されたが、これが「統一北方アルファベット」Единый северный алфавит(ЕСА)の土台となった。「統一北方アルファベット」というのはソ連国内の北方少数民族の言語を共通のアルファベットで記述し、書き言葉化を推進するため考案された文字体系である。ラテン文字が基本になっている。どうもあまり普及はしなかったらしく、1933年ごろに改良されたЕСАでナーナイ語は再文字化されたりはしたのだが、1930年代後半にはナーナイ側のイニシアチブによりまたロシア文字をもとにしたナーナイ正書法になってしまったそうだ。確かに私が1980年代で見たナーナイ語の出版物でも皆ラテン文字でなくキリル文字が使ってあった。

1941年出版のナーナイ語で書かれた物語。キリル文字が使用されている。
https://e-lib.nsu.ru/reader/bookView.html?params=UmVzb3VyY2UtNjk0NQ/MDAwMDEから。

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内表紙はナーナイ語とロシア語併記。
nanai2-bearbeitet

 正書法と同時に言語の研究そのものも進められた。ロシア・ソ連で研究論文もたくさん出ている。よく引用されるのが1959年に出たアヴローリン Аврорин, Валентин Александрович による文法書で、ナーナイ語関係の論文には頻繁にこの本が参考文献に掲げてある。言語的には上述のように満州語と近いのに、満州語は中国で、ナーナイ語はロシア・ソ連でとそれぞれ研究地が割れてしまっている感じなのは残念だが政治的には仕方のないことなのだろうか。とにかくちょっとナーナイ語と他のトゥングース語との「近さ」を見てみよう。トゥングース諸語はいわゆる膠着語で名詞の後ろに格マーカーがつく。日本語の「てにをは」と同じだ。格が語形変化のパラダイム自体にはなっていないわけだから格の数も学者によってばらつきが出るが、アヴローリンは主格、対格、具格、与格、処格、向格、奪格を区別している。偶然手元にあった1983年の『月刊言語』にエウェンキ語、ウイルタ語、満州語の資料が載っているので比べてみよう。ナーナイ語だけ単語が違っていて申し訳ない。
Tabelle1N
エウェンキ、ウイルタ、満州語のmooは「木」という意味である。ナーナイ語の ogda と giol はそれぞれ「ボート」と「オール」。キリル文字をラテン文字に直しておいた。格の数にも違いがあり、満州語には処格、向格がない。その代わり属格がある(ここには出していない)。エウェンキ、ウイルタ語にはさらにたくさんの格があるが(例えばウイルタ語には共格がある)、ここではナーナイ語にある格だけ比較した。それでも相似性は一目瞭然だ。主格は全言語でゼロマーカーとなっており、対格マーカーのそれぞれの-wa、-woo、-bə、 -wa 始め与格、処格など形態素がそっくりだ。またナーナイ語も含めたトゥングース語には母音調和、つまり母音間の共起制限があるため、例えば対格マーカーの-wa は単語によっては -we、与格の -du は -do、処格の -la は -lo で現れる。
 さらに上の「活用表」はいわば「単純系」で、これら格語尾の後ろにさらに人称語尾が付くことがあるそうだ。エウェンキ語では一人称単数-w、二人称単数 -s、三人称単数 -n、二人称複数 -sun、三人称複数 -tin、ウイルタ語では一人称単数 -bi、二人称単数 -si、三人称単数 -ni、二人称複数 -su、三人称複数 -či、満州語にはこの現象がないとのことだ。これを頭に置いてアヴローリンの挙げているナーナイ語の「ボート」と「オール」の主格の例を見てみよう。
Tabelle2N
「ボート」の主格が -i になるのが残念(?)だが、他はなんとウイルタ語そのものである。実際ウイルタ語はトゥングース諸語の中でナーナイ語と同じグループに属し、別グループのエウェンキ語、満州語より近いのだ。さてここで一人称複数をすっ飛ばしたのには理由がある。エウェンキ語ではここで除外形と包括形(『22.消された一人』参照)を区別するのだ:除外形 -wun, 包括形 -t。ウイルタ語にはこの区別がなく-puだけ。ナーナイ語も一人称複数は一つだけだが、これがまたウイルタ語とそっくりで、ogda-pu と giol-pu。またウイルタ語では単複ともに一人称では斜格で別形をとり、一人称単数 -wwee、一人称複数 -ppoo。これがナーナイ語ではそれぞれ-iwa、-powaとなるようで、「オール」で見ると一人称単数主格が giol-bi(上述)、 具格が giol-di-iwa、処格が giol-dola-iwaだ。一人称複数だと主格 giol-pu(上述)、具格 giol-di-powa、処格 giol-dola-powaで図式通り。時々音が変わったり削除されたりすることがあるが、まあそれは仕方がないだろう。「オール」の対格は giol-ba-iwa ではなく、giol-b-iwaである。
 二人称、三人称は主格と斜格の区別がないので、「ボート」、「オール」の二人称単数主格がそれぞれogda-si 、giol-si(上述)、対格は ogda-wa-si、giol-ba-si で人称表現の形態素が主格も斜格も同じになる。
 これらは名詞につく人称表現の形態素なので、人称代名詞と形が完全にイコールではなく、例えば名詞では人称表現をしない満州語も人称代名詞そのものはしっかり持っている。エウェンキ語の人称代名詞に除外と包括の区別があるのは上の事から推してもなるほどと思うが、名詞では人称を区別しない満州語も代名詞にはこの区別がある。名詞で区別しないウイルタ語やナーナイ語は代名詞にもこの区別がないが、まあそれはそうだろう。

 膠着語ということは名詞ばかりでなく動詞にも後ろにベタベタ助動詞や人称表現がくっ付く。例えば過去形は -xa(n)/-xə(n)/-ki(n)/-či(n) という形態素を動詞の後に付加して表わす。やたらと形の幅が広いのは上述のように母音の共起制限がある上、その母音に引っ張られて子音価が変わったり、後続する形態素の影響を受けたりするからである。

Mi  ǯok-či  ǯi-ǯu-j-či-jə-wə,  ama jama-wa tuliə-du xulə-xə-ni.
we + home-向 + arrive-再起-非過去-向-1単斜, father + pit-対 + yard-与 + dig-過去-3単

この例も以下の例もオスコリスカヤ Софья Алексеевна Оскольская という学者が挙げていたものだが、上で述べた人称形態素が現れているのがわかる(下線)。動詞をで示したがまあよくもここまでいろいろくっつくものだと感心する。でも日本語の動詞だって外からはこんな風に見えるにちがいない。-xəが過去マーカーだが(太字)、この文はアスペクト上ニュートラルで、不完了体・完了体のどちらにも解釈できるそうだ。

1.私が家に着いたら、父が(ちょうどその時)庭に穴を掘っていた。不完了体
2.私が家に着いて、父が(その後)庭に穴を掘った。       完了体

動作様相でいえば、前者が進行相、後者が起動相である。副文の動詞が非過去形になっているのが面白い。その非過去形は形態素 -j/-ri/-ǯi/-či を付加して表わすが(太字)、これも動詞によっては完了体・不完了体の両方のアスペクト解釈を許す。下の例では動詞に下線を引いておいた。

(母親がケータイで娘に「今何処にいるの?」と聞いたのに答えて)
 Mi škola-či ənə-j-i.
1単 + school-向 + go-非過去-1単
学校に行くとこよ!     不完了体(進行相)

ələə ələə ǯukə ənə-j
soon + soon + grandpa + go-非過去
今おじいさんが行くよ!   完了体(起動相)

いわゆる瞬間動詞の非過去形では完了体以外の解釈が非常にしにくいのはナーナイ語も日本語もロシア語も同じらしい。

Sagǯi daan’a bu-ǯi-ni.
old + grandma + die-非過去-3単

この文は「年取った祖母が直に死ぬ、今死ぬところだ」という完了体(起動相)解釈しか成り立たず、「年取った祖母が今死亡中」、つまり不完了体(進行相)のと受け取るのは不可能だ。
 解釈だけでなく、形の上でアスペクトを表わす形態素もいろいろある。機能的に日本語の助動詞「~いる」のようなものか。例えば -či/-so ~ -su/-si は不完了体表現。

Alosemǯi klass-či ii-wuči-ə-ni nuči guru-səl ele-se-xa-či.
teacher + class-与 + enter-分詞接続法2-斜-3単 + small + people-複 + stand-不完-過去-3複
先生が教室に入ったら、子供たちが立っていた。

Alosemǯi klass-či ii-wuči-ə-ni nuči guru-səl ele-xa-či.
teacher + class-与 + enter-分詞接続法2-斜-3単 + small + people-複 + stand-過去-3複
先生が教室に入ったら、子供たちが立った。

前者と後者の違いは動詞部に-seという形態素があるかないかだけだが、前者を「子供たちが立ち上がった」、後者を「子供たちは立っていた」と解釈することはできない。
 また -psin/-psiŋ という形態素は完了体(起動相)を表わす。

Ag-bi ičə-rə n’oani mora-psiŋ-ki-ni «Baače-go-a-pu».
elder brother-再帰単数 + see-分詞・同時 + she + shout-起動-過去-3単 + „Hello“
自分の兄を見て、彼女は「あら元気?!」と」叫んだ。

この起動相マーカーがないと進行形・不完了体の意味にしかならない。

Mi komnata-či ii-wuči-jə,
əjkə-i ak-či-jə mora-xa-ni.
I + room-向 + enter- 分詞接続法2,
elder sister-1単 + elder brother-与-再帰単数 + shout- 過去-3単


ここでは動詞(下線)に psiŋがついていないので、起動の意味にはならず、

私が部屋に入ったら、姉が兄に何か叫んでいた。(不完了体、進行相)

であって、

私が部屋に入ったら、姉が兄に何か叫んだ。叫び出した。(完了体、起動相)

とは受け取れない。
 これらの他にもアスペクトまたは動作様相を表わすマーカーがいろいろあるが、動詞の側にも特定のアスペクトマーカーをつけないと語としては成り立たないものがあるそうだ。反対に特定のアスペクトマーカーを付加できない動詞もある。

 こうしてみると形としてはいろいろな解釈を許すニュートラルな動詞にしてもマーカーにしても、それらが表わすのは「アスペクト」というより動作様相といったほうがいいかもしれないが、それをさらに抽象して完了・不完了の二項対立に持って行っているのがいかにもロシアの学者らしくて面白かった。それをふむふむ言いながら読んでいるうち本論とは別に語彙面でも面白いことに気づいた。ナーナイ語では日本語と同じくelder brotherや elder sisterを英独露語のようにバラさずに一つの単語で表わせるようだ。オスコリスカヤ氏の挙げた例の中に、əjkə (elder sister) 、ag (elder brother) (上述)、nəu (younger brother) などの語が見える。それぞれ日本語の「姉」「兄」「弟」みたいだ。英語やドイツ語で「兄」と「弟」が同単語になっていることに常々ムカついていたのでこれは本当に嬉しかった。「妹」はどういうのかと気になってアヴローリンの本を覗いてみたら younger brother が нэку- とある。オスコリスカヤ氏の nəu だが、そこに括弧で younger brother (sister) と注が入れてある。ということは自分より年が若いと性で区別しない、つまり「弟」と「妹」の区別がないということだろうか。
 もう一つ、ロシア語からの借用語が多いことに目がとまる。上述の例だけみてもすでに
jama(「穴、堀」)、 škola(「学校」)、 klass(「クラス、教室」)などの単語が見つかる。一目瞭然それぞれロシア語のяма、школа、класс からの借用だ。この調子だとロシア語からの借用語は相当多そうだ。中国領のナーナイ人は中国語からいろいろ取り入れているに違いない。

 最後に『デルス・ウザーラ』の原作者アルセーニエフのことに戻るが、その後夫人(黒澤の映画で描かれていた人だ)と離婚し、1919年にその「原因」となった女性と再婚した。ただし元の夫人や息子(これも映画に出てきた)の生活費・養育費などはきちんと払い続けている。アルセーニエフの死後、二番目の夫人は大粛清の煽りを受け反革命分子として1938年に銃殺された。1920年に生まれた娘も収容所に送られたり大変な目に遭ったらしい。アルセーニエフ自身の親戚たちも既に大粛清以前に革命のごたごたでほとんど命を落としている。時代の波を被って破滅したのはデルス・ウザーラだけではなかったのだ。


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以前書いた記事の図表が機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、これから時々前の記事の図表を画像に変更していきます。ついでに本文のほうも見直しています。今回「も」本文があまりにも舌足らずだったので大幅に変更・加筆しました。ほとんど別記事になったので再投稿します。

内容はこの記事と同じです。元の本文ではありません。

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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 「~ている」という助動詞がアスペクト表現であることは知られている。私は今まで大雑把に次のような説明をしていた:「~ている」は正反対のアスペクトを表わす。現在進行体 progressiver Aspekt と完了体 perfektiver Aspekt で、「基本的には」継続動詞、事象が「読む」とか「見る」など当該事象が時間の幅を持つ事象を表わす動詞に「~ている」がついたら現在進行体、瞬間、つまり「死ぬ」「結婚する」など、始まったとたんにすぐ終了するような事象を表わす動詞についたら完了体だと。ただもちろん「その本はもう読んでいます」など、継続動詞でも実は完了体になるので、本当はそうきっぱりとは行かないことは言っておく。さらにうるさく言えば「現在進行体」はアスペクトではなく動作様相Aktionsart なのでロシア語をやっている人から突っ込まれそうだが(下記)、それについては黙っておく。
 しかししばらく以前からこれは安易すぎるのではないかと自分でも不安になってきていたため、先日寺村秀夫氏の『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』を借りだして確認してみた。本来とっくに読んでいなければいけないはずの古典を今頃読んですみません。著者の寺村氏には直接お目にかかっている。大学時代に先生の授業をとっていたのだ。微妙に関西訛のあるダンディな先生で授業も面白かった。

 そもそもアスペクトというのは何なのか?コムリー Comrie という言語学者は「ある事態の内部的な時間構成のいろいろな見方」と定義しているそうだ。それが継続しているのか、完了しているのかいないのか、一回きりのものか繰り返されるのものか、そういった相の違いということで寺村氏も基本的にはこの見方を踏襲し、テンスが事象を点として見るなら、アスペクトは事象は幅として見るものだとしている。プロセスの中の時間のどういう位置にあるのかを表わそうとするものであると。もっともロシア語学者のイサチェンコはこういう違いはあくまで動作様相であってアスペクトではないと強調している。英語や日本語はロシア語のようにきっちり二分割でパラダイム化しテンスと独立したアスペクト体系がないので、アスペクトの観念の把握にいろいろ「不純物」が混入しやすいのかもしれない。でもライヘンバッハ Reichenbach というこれも有名な学者(三たびすみません。まだ原本読んでいません)の図式などはとてもクリアで日本語の説明にも使えそうだ。Reichenbach もテンスとアスペクトをいっしょにして論じているが、その際 Speech time、 Event time、 Reference time を基準として設定している。Speech time は発言が行われた時点、 Event time は当該事象が起こった時点で、この二つはわかりやすいが、これらとReference time を分けたのが非常な慧眼だ。これは当該事象が言語化された時点、観察された時点である。Speech time、 Event time、 Reference time をそれぞれS、E、Rとし、英語のSimple Past、Present Perfect の時系列を図示するとこうなる。< という印は閉じたほうにある事象が開いているほうより時間的に先行するという意味である。

Simple Past
I saw John
E = R < S

Present Perfect
I have seen John.
E < R = S

つまり Simple Past では当該現象が発生時点と同時に観察され、しかる後に発話されているのに対し、Present Perfect だと事象発生の後に観察・言語化されそれと同時に発話されていること、言い換えると完了体の本質は E < R ということだ。S の位置は問わない。この差と対応するドイツ語の構造、Ich sah Hans と Ich habe Hans gesehen はこの微妙な差をほとんど失ってしまい、単なるスタイルの差、あるいは方言差になってしまった。単純過去は「古風な響きで会話にはあまり使わない。それでも北ドイツの方では時々会話でも使っている」とのことである。だからということもないのだろうが、英語のSimple Past と Present Perfect の差が「いくら説明してもらってもよく呑み込めない」と言っていたドイツ人がいた。さてこの図式で現在進行形を表わすと

Sam is working.
E = R = S

で、三つがすべて同時である。では Sam was working はどうなるのか?私は上でも白状したようにReichenbach も Comrie も読んでいないので、勝手に自分で好きなように図式化させてもらうが、これは E = R < S としかやりようがなく、Simple Past といっしょになってしまう。これを防ぐには Simple Past の R をニュートラルにする、つまりSimple Past では Reference time は問わないとして、E (= R) < S とR を括弧にでもいれることだ。問わないわけだから状況によっては Simple Pastで E < (R =) S と事実上 Present Perfect と同じ時系列パターンを表わせることになる。
 これを日本語に当てはめてみると、

太郎に会った。E (= R) < S
太郎に会っている。E < R = S

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

となり、過去形(た形)と「~ている形」の違いが一応それらしく図式化できる。さらに面白いことに「た」が E < (R =) S のほうも表わせることを寺村氏は指摘している。この例は金田一春彦氏も引用しているが、

1.もう昼飯を食べたか。
2.きのう昼飯を食べたか。

の「た」を比べると前者は完了体アスペクト、前者が単純過去である。それが証拠にこの二つの質問に否定で答える場合、形が異なる。

1への答え;いや(まだ)食べていない/食べない。
2への答え:いや、食べなかった。

1に対しては皆本能的に完了アスペクト表現をとり、1の質問に「いや、食べなかった」で答えるとおかしい。もう一つ、

3.彼の話はよくわかったか?
4.私のいいたいのはこれこれだ。どうだ、いい加減にもうわかったか?

では、3に対しては「いや、よくわからなかった」と過去形で答え、4には「いや、まだわからない」と現在形で答えるのが普通だ。皆アスペクトの違いがよくわかっているのだ。図示すると

1と4:E (= R) < S
2と3:E < (R =) S

ということになろう。ここで R の括弧を外したい場合、つまりR を明確に可視化したい場合に「~ている」などの動詞を付加して完了体アスペクト表現をとる。
 その完了体としての「~ている」だが、瞬間動詞だけが完了体になるのではない。継続動詞に「~ている」をつけて完了体を表わすなど皆普通にやっている。

手紙はもう書いている。
その映画は以前見ている。
あの人はロシア語を勉強しているからキリル文字がスラスラ読めるんだよ。

など、いくらでも言える。その際、主語でなく目的語のほうに視点が行くと「~てある」も使える。

手紙はもう書いてある。
宿題はやってあるから、遊びに行っていいでしょ?

だから瞬間動詞であろうが継続動詞であろうが自動詞の完了体表現には「~てある」は使えない。

邪魔者は消している。
邪魔者は消してある。
邪魔者は消えている。
*邪魔者は消えてある。

さて、ここではトピックマーカーを使ってあるので不明瞭になってしまっているが、この「邪魔者」の格はなんだろうか?「~ている」の文では明らかに対格だ。上の「ロシア語を勉強しているから云々」の例でもわかる。他の二つも格構造的には「手紙をもう書いている」、「その映画を以前見ている」だ。対して「~である」の場合は主・対どちらの解釈も成り立つ。

邪魔者が消してある。
邪魔者を消してある。

これは多分シンタクス構造の差で、生成文法もどきにオシャレな図示をするとそれぞれ

NP{邪魔者が}  VP [ V1{消して} V2 {ある}]。
NP {ZERO} VP [VP1 [NP {邪魔者を} V {消して}] VP2{ある}]。

とかなんとかとなる。つまり主格だと「邪魔者」が「消してある」という複合動詞全体にかかり、対格だと邪魔者はまず「消して」のみにかかり、それから両者いっしょに「ある」にかかるということだろう。「寿司が食べたい」と「寿司を食べたい」の差もこれだと私は思っている。ただこの「~てある」では主語にゼロ以外立つことができない。「~たい」では「私が寿司を食べたい」と普通の名詞が主語に立てるのと大きな違いだ。
 また場合によっては目的語に焦点をあてた「~ある」でないと非常に座りの悪い文になる。比較のため目的語を対格にそろえるが、後者は少し変だ。

戸を開けてある。
戸を開けている。

なぜ後者はおかしいのだろう。これは完了体というアスペクトの本質的な意味と関わってくるようだ。またロシア語を引っ張り出すが、ボンダルコという学者によるとロシア語の完了体アスペクトの動詞が共通に持っている意味は「新しい状況の出現」だそうだ。寺村氏も日本語のアスペクト表現を検討してそれに近いことを言っている。「戸を開けてある」では焦点の戸にとって確かに「開いている」という新しい事態が出現している。対して「戸を開けている」だと焦点の主語(ここではゼロ主語になっているので仮に「私」としておこう)にとっては何も新しい事態が発生していない。「手紙を書く」ならまだある意味業績が一つ加わったと解釈もできようが、戸を開けたからといって誰も感心などしてくれない。この点が「私はロシア語をやっている」との違いである。そこでは「私」の語学能力が増している。「私はロシア語をやってある」はどうか。新しい事態は「私」でなくむしろロシア語の方に起こる。ロシア語が「私ができる言語リスト」あるいは「今日やったことのリスト」に付け加わったのだ。

 せっかく引っ張り出したのでもう少しロシア語との比較を続けるが、ロシア語の不完了体動詞にはちょっと面白い機能がある。「結果の取り消し」だ。例えば次の文はどちらも「私は窓を開けた」だが、

Я открыл окно.
I + opened-完了体+ window

Я открывал окно.
I + opened-不完了体 + window

完了体では窓は今開いているニュアンスだが、不完了体だと一度開けた窓が今はまた閉まっている、つまり「開ける」の結果を取り消す意味合いになる。狭い意味の結果ではないが、効果が取り消される、つまり当該行為が無に帰してしまった場合も不完了体を使う。

Утром мы открывали окно, но сейчас в комнате опять душно.
朝窓を開けたが、もう今部屋の中がムンムンする。

それと対応するかのように、日本語でも結果を取り消すような表現が「~ている」の後に続くと少しおかしい。

窓を開けたが、外の音がうるさいんでまたすぐ閉めた。
窓を開けてあるが、外の音がうるさいんでまたすぐ閉めた。
朝窓を開けているが、もう今部屋の中がムンムンする。

さらに

彼は結婚したがすぐ離婚した。
彼は結婚しているがすぐ離婚した。

という比較でも後者、完了体アスペクトを使うと変だ。

上でも述べたように「た」でも完了体を表わせないことはない。ないがここでの「た」は「わかったか→わからない」と違って完了体と解釈することはできない。しかし完了体の助動詞を過去形にしていわば過去完了的意味にすると一応結果が取り消せる。

窓を開けてあったが、外の音がうるさいんで閉めた。
彼は結婚していたが離婚した。

これは結果として生じた状態、「開いている」と「結婚している」が既に過ぎ去ったことなので、取り消しが割り込める隙が生じる。しかしその際ある程度の時間的距離が必要で上でやったように「すぐ」という副詞を使うと許容度が減少する。

窓を開けてあったが、外の音がうるさいんですぐ閉めた。
彼は結婚していたがすぐ離婚した。

 これもロシア語だが、不完了体による結果の取り消し機能の例としてこんな文があった。本がソ連時代のものなので「同志」である。

Товарищ заходил ко мне, но меня не было дома.
comrade + called on-不完了体  + to + me, bur + me + not + was + at home
同志が私の家に立ち寄った。でも私は家にいなかった。

Ко мне зашёл товарищ, и мы смотрели с ним телевизор.
to + me + called on-完了体 + comrade, and + we + watched + with+ him + television
同志が私の家に立ち寄った。それでいっしょにテレビを見た。

不完了体動詞の заходил(不定形は заходить)では立ち寄ったという行為が無駄になり、完了体 зашёл (不定形 зайти)では同志が首尾よく私に会えている。

 私は最初、というよりここでこうやって改めて日本語と比べてみるまでロシア語不完了体動詞の取り消し機能はロシア語のカテゴリー体系、全動詞が完了か不完了かにきれいに2分割されているからだと思っていた。動詞は必ずどちらかに属するのだからこれは欠如的対立(『128.敵の敵は友だちか』参照)ということで、不完了体の本質は「完了体ではない」ところにある。事実ロシア語学者には完了体は有標、不完了体は無標とズバリ定義している人が何人もいる。つまり行為の結果が残っている場合は完了体を使うのだから、そこで敢えて完了体を使わず不完了体を使うということはまさに完了体ではない、とわざわざ表明したいということ、言い換えると完了体ではない→結果が出ていないという暗示だ。不完了体は本来なら別に結果を否定したりしない。「どっちでもいい」はずである。その「どっちでもいい」動詞に取り消しのニュアンスを生じさせたのはロシア語の欠如的対立カテゴリーであると。
 しかし今上で見たように動詞が全然2分割などされていない日本語でも「完了体アスペクトであることが明確でない動詞形は結果の取り消しと親和性が高い」となるとこれは動詞カテゴリーだけが原因でもないようだ。
 実は私は30年くらい前からロシア語不完了体の取り消し機能はロシア語動詞が欠如的対立をなしているからだという主張をどこかのスラブ語学の専門雑誌にでも投稿しようかと思っていたのをどうも面倒くさいので放っておいたのだが、ひょっとしたら私はとんでもなく間違っていたのかもしれない。放っておいてよかった。それにしてもここはだんだんその種の、生まれるに至らなかったいわば「水子論文」の供養ブログと化しつつある。

 (この項まだ続きます。続きはこちら

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前回の続きです)

 完了体アスペクトにはこの「新しい状況の出現」の他に temporal definiteness「時間的に(あるいは時間軸に)固定されている」(『95.シェーン、カムバック!』参照)という要素がある。Dickey という学者が強調していたそうだが、ちょっとDickey を離れてこちらで勝手にこの「時間軸に固定」という観念をいじってみよう。私はこれは R(eference time) の位置がはっきりしているという意味に解釈できると思う。前の例を繰り返すが、

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

では、単純過去で Reference time が括弧に入っている。つまり明示されていない、いろいろな解釈を許すということで、要は「特に固定されていない」、言い換えると definite の反対で temporally indefinite なのではないだろうか。ロシア語不完了体と同じだ。「~ている」の方はReference time がはっきりしていて、ロシア語完了体に対応する。
 これも前に名前を出したイサチェンコはロシア語の完了体・不完了体の差を次のように説明している:不完了体動詞では話者の視点が当該事象のただ中にあるから、始まりも見えなければ終わりも見えない。それに対して完了体動詞では話者は当該事象を外からみているから始まりも終わりも、そしてその事象が今どういう過程にあるのかもよく見える。イサチェンコはさらにこれを何かのパレードに譬えて、不完了体はパレードに参加して行進している人の視点だが(だから全体が見えない)、完了体ではパレードを観客席から観察しているようなもので、全体が見渡せる。行進の始まりも終わりも見えるし、次の行進、前の行進も見える、と描写している。それを図示してくれているのでさらにわかりやすいが、ちょっとそのイサチェンコの図示をさらにこちらで解釈してみよう。

イサチェンコの図
Isachenko
事象の外に出ている視点というのを R と解釈して時間軸の上に置いてみるとこうなる。どうも稚拙な図ですみません。
perfekt-iperfekt
不完了体ではRが事象の内部にあるから、その脇を通る時間軸と結びつきようがなく、軸に固定できない。これが temporally indefinite である。完了体は R を錨にして当該事象が軸に結わえ付けられるからtemporally definiteとなる。つまりライヘンバッハ、ディッキー、イサチェンコは実は同じことを互いに独立に主張しているのではないだろうか。

 この完了体アスペクトはある意味わかりやすく、ロシア語、日本語、英語間で(ドイツ語では先にも述べたようにアスペクトの観念がないがしろにされているからボツ)共通する部分が多いが、現在進行体アスペクトが問題だ。日本語では普通は継続動詞に「~ている」をつけて作る。完了体形成と同じ助動詞なのでややこしい。

田中さんは今本を読んでいる。

わかりやすい Mr. Tanaka is reading a book now である。ロシア語ではこういう場合、不完了体動詞を使う。

Он сейчас читает книгу.
he + now + read-不完了体・現在 + book
今彼は本を読んでいる。

しかしよく見てみると瞬間動詞も現在進行体アスペクトになりうることがわかる。寺村氏も似たような例を挙げているが、同じ行為が繰り返される場合である。

毎日何万人もの人が戦争で死んでいる。

複数の主語が次々に死んでいく場合で、一人一人は死ぬのが一回きりで「完了」したとしても「死ぬ」という事象自体は繰り返される。ロシア語でもこういう場合「死ぬ」の不完了体バージョン умирать を使う。

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.
in + world + every +  day + dies.不完了体 + about + 150000 + man
世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。

ここで動詞が умирает と単数三人称 になっているのは、名詞に5以上の数詞がかかると動詞が中性単数になるというロシア語の決まりのためである。事実上は主語は複数だ。この умирать は「ただいま死亡中」という意味にはならない。日本語の「田中さんは死んでいる」も「田中さんは故人」という解釈しかできない。そこを何とかと言われればいろいろ補助をくっつけて「田中さんは今死んでいっている」など無理やり現在進行体アスペクトに出来ないことはないが、ちょっと無理がある表現ではないだろうか。

 ここまでで結論すれば日本語の「~ている」はロシア語の完了体と不完了体どちらの意味も表現することができる、いわば一粒で二度おいしい(古い昭和ギャグを出すな)機能を持っているように見えるがちょっと考えてみよう。次の文だがロシア語だったらどちらも不完了体動詞の管轄で下手をすると同じセンテンスになってしまう。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。

 Он изучает русский язык по воскресеньям.
he + learns/ is learning + Russian + language + during + Sundays
彼は日曜日にロシア語を勉強します/しています。

さらに既出の文

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.

も、日本語では実は二通りに訳せる。

世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。(上記)
世界で毎日およそ十万五千人の人が死ぬ。

もちろんロシア語でもやろうと思えば文のシンタクス構造を変えたり別の単語を使ってこの違いを表わすことはできるが日本語のようにストレートにはいかない。そもそもこの違いはどこにあるのか?前者は繰り返し、後者は一般的な事実、というか習慣だ。では「繰り返し」と「習慣」の違いは何か?私は前者が時間軸に結びついている、temporally definite であるのに対し、後者は時間軸上に接点がない、temporally indefinite なのだと解釈している。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています。→ E = R = S
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。→ E = S

前者は明らかに具体性が高い。会話が行われている現時点で田中さんが実際にロシア語の学習を繰り返している、つまり definiteness をはっきりと感じる。後者にはそれがない。むしろ田中さんという人の人物描写で、汎時間的とでも言おうか。言い換えると日本語の「田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています」や英語の Mr. Tanaka is reading a book とロシア語のそれぞれ Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям あるいは Господин Танака читает книгу はアスペクト的にイコールではない

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています → E = R = S
Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям  → E = S

Mr. Tanaka is reading a book  → E = R = S
Господин Танака читает книгу → E = S

ロシア語は E = R = S を表わすことができないのだ。だから不完了体 E (= R) = Sで暗に示すしかない。しかしこれはあくまで代用である。では不完了体がダメなら完了体の現在形を使えばいいのではと思うとこれが無理。なぜなら完了体には現在形が存在しないからである。たとえば不完了体の現在形

Он читает кнгу.

完了体

Он прочитает книгу.

では動詞の変化形パラダイムが同じなので(下線部参照)完了体も現在形のような気がするが、実はこれは未来形で「彼は読むだろう、今から読む」だ。つまり下のようなパラダイムになる(三人称単数のみ表示)。
Tabelle-elsas183
現在形がないから R が時間軸に結びついた「~ている」をストレートに表わせない。RがEに先行するか後続するなら大丈夫だが、E = Rだけはできないのだ。

過去
Он прочитал книгу.  E <  R = S
彼は本を読んだ/その本を読んでいる。

未来
Он прочитает книгу. (上述)E > R = S
彼は本を読むところだ。読もうとしている。

私はこのことにまさにこのブログ記事を書いていて気付いたのだが自分でも驚いた。

 逆にロシア語ではストレートに表わせるが日本語ではいろいろ芸を施さないと表わせないアスペクトニュアンスというのもある。前回の記事で日本語の「た」には単純過去と完了体アスペクトの両方の機能があると書いたが、「両方できる」ということはつまり形の上ではキッチリ分けられていないということだ。現日本語の「た」は古い日本語ではそれぞれアスペクトの違いを表わしていた複数の助詞「たり」「つ」「ぬ」「り」などが消滅してその機能を一身に請け負わされる羽目に陥ったわけだから、もともとの助詞がそれぞれ持っていたアスペクトの意味がおんぶお化けというか背後霊のように付着しているのはある意味当然と言える。
 ロシア語では過去に起こった繰り返し事象を完了体でも不完了体でも表わせるが、両者間には明確にニュアンス、つまりアスペクトの違いがある。日本語ではこれらの差が非常にあいまい、というより表わすことができない。

Ученик написал трудное слово несколько раз, чтобы запомнить его.
pupil + wrote-完了体 + difficult + word + several + times, + so that + to remember + it
覚えるために生徒は難しい単語を何回も書いた

Я несколько раз писал ему, чтобы он прислал фотографию своих детей.
I + several + times + wrote-不完了体 + to him, + so that + he + send + picture + of his + children
私はお子さんたちの写真を送ってくれるよう彼に何回か手紙を書いた

前者が完了体、後者が不完了体で、ロシア人は明確にこれらの文脈で完了・不完了を使い分けるが、日本語ではどちらも「書いた」である。前者は完了体なのだからといって「~ている」を入れて「生徒は…書いている」とすると不自然な文になってしまう。同じ繰り返しでも前者はその繰り返しの総体があるまとまりを持った一つの事象だ。「単語を覚えた」という新しい事態も出現している。対して後者は相手が写真を送ってくれたかどうかは問わず、とにかくこちらが何回か手紙を出したという繰り返しの事実を描写しているに過ぎない。前者で不完了体を使い、後者を完了体にするとロシア人は違和感を感ずるのだ。この繊細なアスペクト感覚には日本人もドイツ人も対抗できまい。さらにこういう例もある。

Он перечитал письмо несколько раз.
he + read through完了体 + letter + several + times
彼は手紙を何回も読み通した

Я перечитывал роман «Война и мир».
I + read through不完了体 + novel + „War and Peace“
私は小説「戦争と平和」を何回か読み通した

ここでも前者は繰り返しの総体が一つの事象というニュアンスだ。事象は一応終了して話者は手紙の内容が飲み込めた。後者はタイムスパンには触れられていない。今後もまた「戦争と平和」を読むかもしれない。とにかくなぜここでは完了体または不完了体になっているのかを後から説明して貰えればまあわからないこともないが、ロシア語作文などでこちらが自分でこの違いを表現し分けろと言われたら非母語者にはお手上げだ。

 お手上げだから撤退して日本語の「~ている」に戻るが、これの機能はロシア語のようにアスペクトを表わすというよりアスペクトを「強調すること」にあるのではないだろうか。それについてまた寺村氏が鋭い指摘をしている。

葛西善蔵は芥川自殺の翌年、昭和3年7月に死んでいる

という文の「~ている」は「この金魚は死んでいる」という単純な現状説明ではなく、過去の事実を今改めて確認し、現在の文脈の中でその意義を問う「回想的用法」であるとしている。EとRとの間に距離感がある。この距離感は「~ている」の持つ「アスペクト強調機能」からの派生ではないだろうか。

 前項の最初で述べた日本語のアスペクトというテーマのそもそもの出だしに戻るが、私の今までしていた大雑把な説明、「~ている」は完了体と現在進行体という正反対のアスペクトを表わす、つまり同じ形式が正反対の意味を持つという説明の仕方を実は著書の中で寺村氏に叱られたので反省のあまりこんな記事を2回にもわたって書いてしまったのであった:寺村氏はある形式にこのようにいろいろな意味があるとただ列挙するだけでは文法的な説明とはいえない、問題は多義にわたる用法、異なる意味をどう統一的に説明するかということだと言っている。いやしくも同じ形で表わされているのだから共通する意味の核があるはずだ、それを見つけないでただこの形式にはあれこれの意味がありますとゴチャゴチャ並べて終わりにするのは素人だということだ。そう言われてガーンと来たので、必死にここで私なりに考えてみて出た結論は、「~ている」には Reference time を可視化し、さらにそれを強調する機能があるということである。進行体だの完了体だのはそこから派生されて来た二次的な機能だ。
 アスペクトの強調という機能は「~てしまう」という助動詞も持っているが、こちらの方が強調の度合いが強い。さらに「~ている」と違って「~てしまう」は単にRの存在を可視化するのではなくて、さらにS < R を強調する。だから「不可逆性」「取り返しがつかない」「完全に一件落着」などのニュアンスが生ずるのではないだろうか。面白いことにロシア語の完了体動詞と似て「~てしまう」には現在形がない。つまりS = R を表わすことができない。

全部食べてしまった。

と助動詞が過去形の場合は E < R < S だが、

全部食べてしまう

は「全部食べている」のように E < R = S ではなく、形としては現在形だが意味的には「これから全部食べる」、つまり未来形 S < E < R だ。ロシア語の

Съем всё.
eat 完了体+ all
全部食べてやる/これから全部食べる(ぞ!)

とそっくりだ。


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 ロシア語のアスペクトペア(『16.一寸の虫にも五分の魂』『95.シェーン、カムバック!』参照)には完了体動詞のほうに純粋なアスペクトの意味だけでなく、動作様態の意味合いが加わることがある。動作様態はアクチオンスアルトとドイツ語からの借用語がそのまま使われることがあるが、語彙的アスペクト Lexical aspect とも呼ばれていることを(やっと)先日知った。手元の言語学事典には英語で manner of action だと出ている。ロシア語ではアクチオンスアルトとアスペクトは明確に区別するが、他の言語ではどうもこの二つの観念がごっちゃにされやすいようだ。ロシア語ではそれぞれспособ дейсгвия、вид глагола である。
 ではそのアクチオンスアルトとは何なのかというと、これも人によって定義がバラバラで困るのだが、まあ(なんだよその「まあ」というのは?)わかりやすく言うと当該事象をどういうものとして動詞化するか、そのやり方をいくつかのグループにカテゴリー化したものだ。全然わかりやすくないが、例えばドイツ語の entflammen(「燃え上がる」)、einschlafen(「寝入る」)、losrennen(「走り出す」)という動詞を見てほしい。これらはそれぞれ flammen(「燃える」)、schlafen(「眠る」)、rennen(「走る」)という事象が開始されたことを表している。この「開始」という意味的部分がアクチオンスアルトである。接頭辞がつかない動詞でもアクチオンスアルトを表すことがある。例えば sterben(「死ぬ」)は「瞬間的」というアクチオンスアルトだ。
 他にどのようなアクチオンスアルトがあるかというと、これもまた学者によって違いがあり、例えばロシア語学ではイサチェンコという学者もロシア語アカデミー文法でも20以上のアクチオンスアルトを区別し、それらのアクチオンスアルトがさらにいくつかのグループに分類されたり逆にグループにまとめられたりしている。命名の仕方にもグループ分けにも両者には細かな差があって律儀に全部検討していくとキリがないので、まあ代表的なものだけ見てみよう。

 まず上で述べた起動態(ingressive または inchoative Aktionsart 、ロシア語では начинательный способ дейсгвия)には次のような例があるが、1.異なった接頭辞が起動相を形成できること、2.起動相を帯びた動詞は完了体動詞、帯びない動詞のほうは不完了体であることに注目。
Tabelle1-194

 次に限定態(delimitative A.、ограничительный с.д.)。当該事象が限られた範囲内で遂行される、あるいは起こることを表す。「ちょっとだけよ」のイメージだ。
Tabelle2-194
限定態の「ちょっと」は時間的な「ちょっと」だが、事象や行為そのものが弱まる、つまり「ちょっと」になるのが弱化態(attenuative A.、смягчительный с. д.)である。イサチェンコはもとの動詞がすでに完了体である場合のみ弱化態と呼んでいるが、アカデミー文法ではイサチェンコが限定態に分類している動詞をこちらの弱化態に入れている。当然派生元は不完了体動詞だ(表の下部分)。学者によって揺れがあるいい例である。
Tabelle3-194

 続いて終了態(terminative A.、терминативный с. д.)は、事象の終了を表す。
Tabelle4-194

 持続限界態(perdurative A.、длительно-ограничительный с. д.)。特定の長さの時間持続した事象の終了を示す。そろそろアクチオンスアルトつきの動詞の意味が微妙すぎて翻訳がキツくなって来た。
Tabelle5-194

 有限態(finitive A.、финитивный または окончательный с.  д.)。行為が最後まで遂行されて打ち切られる。
Tabelle6-194
終了、持続限界、有限態など(「など」と書いたのは上述のように本来さらに数多くのアクチオンスアルトがあるからだ)がイサチェンコでは結果態(resultative A.)というアクチオンスアルトの亜種としてまとめられている。確かにこれらは皆事象あるいは行動が終わるという意味だからだ。違うのは終わり方、あるいは当該事象が終わるまでどんな経過をとったかという点だ。イサチェンコはそこで「真正結果態」として次のような例を挙げている。さすがに意味の差が微妙過ぎて双方の動詞を同じ訳にするしかないが、ということは両動詞の意味差がアスペクトの差に近いということである(下記参照)。
Tabelle7-194

 分配態(distributive A.、распределительный または дистрибутивный с. д.)。一つ一つの行為または事象が積み重なって最終的に特定量に達することを示す。またこの分配態はすでに接頭辞のついている動詞から形成される、つまり接頭辞がダブルになることがある(下の表の最後の例)。
Tabelle8-194
このアクチオンスアルトの動詞はセンテンス内で最終量(下線)が明示されるのが普通だ。動詞を並べただけではわかりにくいので使用例を挙げる。

Он позапирал все двери.
he + shut + all + doors
彼は次々の全てのドアを閉めた。

Она перебила всю посуду.
she + broke + all + crocketies
彼女は全ての食器を次々に割った。

Все сыновья переженились
all + sons + married
息子は皆次々に結婚した。


 さて、今まで見てきたのは接頭辞によるアクチオンスアルト形成だが、動詞のど真ん中に形態素をぶち込んで表すアクチオンスアルトもある。まず単発態(semelfaktive A.、одноактный с. д.)だが、事象や行為が一回だけスポンと起ることを示している。単発態の動詞は極めて例が多く、「瞬間動詞」Momentanverb と呼ばれることがあるがこの名称はちょっと誤解を招きやすい。例えば「死ぬ」は瞬間的に一回起る事象なのだから瞬間動詞かと思いそうになるが、ロシア語で言う瞬間動詞とはあくまで「単発態が特定の形態素によって明確にマークされている動詞」のことであって、意味を同じくする単発態を帯びない動詞、ニュートラルな動詞が同時に存在している。そしてここでもニュートラルな動詞は不完了体、単発態は完了体だ。
Tabelle9-194
最後の例では接頭辞使われている。
 残る大物アクチオンスアルトは反復態(iterative A.、многократный  с. д.)だ。このアクチオンスアルトも上の結果態のようにいくつかのサブカテゴリーに分類されることがある。比較的純粋な反復態動詞には次のような例があげられるが、ニュートラルなほうの動詞も反復態のほうも共に不完了体であることが特徴だ。
Tabelle10-194
反復態にはいろいろ亜種があるが、二つばかりみてみよう。まず弱化反復態(deminutiv-iterative A.、прерывисто-смягчительный с. д.)は事象または行為の反復が不規則で、その結果行為の程度そのものも弱まる。反復態と上述の弱化態が統合された感じで、形の点でも接頭辞とぶち込み形態素が両方同時に付加される。
Tabelle11-194

付随態(komitative A.、сопроводительный с. д.)。当該事象あるいは行為が他の行為や事象に付随して起ることを示す。
tabelle12-194
この付随態も上に分配態のように動詞だけではイメージが掴みにくい。例えば「その際話す」は次のような使用例がある。

Старик вил его и приговоривал.
old man +  hit + him + „and spoke“
老人は彼を殴りながら話をした


 最初に警告(?)した通り、これでアクチオンスアルトを全て網羅したわけではない。まだいろいろ種類があるが、すでにゲップが出そうなのでここら辺で羅列は止める。とにかくこういう微妙なニュアンスの差を一つの単語(動詞)で表せるロシア語動詞体系に驚く。しかし本題は実はこれからなのだ。アクチオンスアルトとアスペクトの関係という、学習者は絶対避けて通れないロシア語という言語の核心ポイントである。私がこのアスペクトをロシア語文法最大のセールスポイントを見なしていることは『107.二つのコピュラ』で書いたとおりだ。
 まず注意すべきは中立動詞が不完了体、そこから派生されたアクチオンスアルト動詞が完了体であるからといってこの二つをアスペクトのペアと混同してはいけないという点だ。種々の接頭辞を付加することによって一つの中立動詞から複数のアクチオンスアルト動詞が派生できるからだ。もっとも一つの動詞から上記で述べたアクチオンスアルトが全てもれなく派生できるわけではない。動詞が表している事象の性質上、理論的に付加できないアクチオンスアルトだってある。まず петь(「歌う」)という動詞の場合を見てみよう。

петь(不完了体)
запеть(完了体、起動態)
попеть(完了体、限定態)
пропеть(完了体、終了態)
спеть(完了体、単発態)
певать(不完了体、反復態)

反復態は不完了体だから当然ペアにはなれないのでひとまず置いておくが、接頭辞によって異なったアクチオンスアルト動詞が派生されるのがわかる。このうちの限られたアクチオンスアルトだけが(たいていは一つだけ。下記参照)『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べたアスペクトペア抽出作業によって петь のペアと見なされるのである。その完了体ペアを黄色で囲っておいたが、петь のペアは二人(二つ)、пропеть と спеть がある。配偶者が複数いる(ある)のは文の成分などの環境の違いによって二つのアクチオンスアルトが抽出テストを通るからだ。しかしこれはむしろ例外で配偶者は1人だけのことが多い。
 もう一つ писать(「書く」)という動詞の例。

писать(不完了体)
написать(完了体、真正結果態)
прописать(完了体、持続限界態)
дописать(完了体、完成態)
исписать(完了体、集積態)
пописать(完了体、限定態)

完成態と集積態というのは上では挙げなかったが、結果態の亜種である。ここでは配偶者は真正結果態一人だ。
 接頭辞によるアスペクトペア形成は非常にありふれたパターンで学習者は писать-написать(「書く」)、читать-прочитать(「読む」)、идти-поидти(「行く」)、делать-сделать(「する」)などのペアをお経のように丸暗記させられるが、厳密にいえばこれらは純粋なアスペクトのペアではないということになる。完了体動詞のほうが必ず何かしらのアクチオンスアルトを帯びていて、両者の意味差がアスペクトだけではない、言い換えるとアクチオンスアルトという「不純物」が混じっているからだ。純粋なアスペクトの違いとは話者の視点が当該事象の中にあるか外にあるかというだけの違いで(『178.日本語のアスペクト表現 その2』参照)、それ以上の意味が加わってはいけない。ここで参照したイサチェンコもアカデミー文法でも接頭辞によるアスペクトペアは本物のペアではないと明言している。そういえば同じスラブ語でも言語が違うと別の接頭辞を持った完了体動詞がペアになることがある、つまり結構揺れが大きいのもその「不純物」のせいだろう。


この項続きます


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