アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ロシア映画

 私が今まで見た中で最も衝撃を受けた映画はなんと言ってもタルコフスキーの『惑星ソラリス』だ。私が見たのは恥ずかしながらつい10年くらい前のことだが、いや仰天したのなんのって。主役の俳優が一目瞭然リトアニア語の名前なので見る前からすでに「おっと」と思ったのだが、映画そのものでの驚きは「おっと」どころではなかった。
 
 映画の冒頭で主人公の宇宙飛行士が車を運転して街中をかけていく。この記事を読んで下さっている皆さんはここのシーンしっかり見ただろうか?私はここで死ぬほど驚いたのである。通り抜けるトンネルも、高速道路も、そして前方に見えてくる建物も全部私のよく知っているもの。つまりあそこは東京で撮影されたのだ。
 中央線が山手線を突っ切って走っていく部分で高速道路と平行しているところがあるが、そこの高速道路を主人公が走る。しばらくすると赤坂見附の東急プラザホテルが見えてくる。つまり車は青山方面から赤坂見附を通って皇居方向に走る高速道路を走っているのだ。『惑星ソラリス』が作られた1970年代は私は高校生で、まさにその赤坂見附にあるさる都立高校に通っていたのだ(『46.都立日比谷高校の思ひ出』参照)。撮影そのものは私の高校時代よりちょっとだけ早いが、そこらへんの建物とかビルとか全部見覚えがある。
 また小学生の時は四谷大塚進学教室とかに通っていて、会場になっていた上智大学とか水道橋にあったどこかの大学とかに日曜日ごとに行っていたから、山手線の輪の中にある中央線沿線の景色の主だったものは頭に入っている。中学・高校では予備校が代々木ゼミナールだったし、時間があるとあの辺の安映画館に入り浸っていた。見間違えようにも見間違えるわけがない。
 あと、都心から五反田と目黒の間に抜けてくる高速道路も小学校のころから遠足・修学旅行となるといつも通ったのだが、そこを走っているんじゃないかと思われるシーンがあった。でもこちらは何せ小学生の時何回か通った、というだけだから、周りの高層ビルとかも変わっていて赤坂見附ほど確実には見分けられなかった。

 では何か?私が進学教室で居眠りしたり赤坂でギンナンを売ったり(再び『46.都立日比谷高校の思ひ出』参照)青山や皇居付近をうろついたりしていた頭の上をタルコフスキーが俳優を連れて通っていたわけか。

 もともと私は出身地だろ住んでいる町が新聞に載ったりTVに出るたびに「オレの出身地だ!」とか大仰に騒ぎ立てたり、「県人会」とかいうものを形成してツルんだりするのは見苦しいと思っていた。身近にもそういう者がいて、自分の育ったドイツの田舎町の名がニュースに出てきたり、道でそこのナンバーの車を見かけたりするとすぐ大騒ぎするのでいい加減ウザくなった私は、「たかが出身地がTVに出たくらいでいちいち騒いでたら私なんて毎日絶叫してるわ。だから嫌なのよね田舎者は」と言い放ってそれこそ嫌な顔をされていたのだが、その直後にこの映画を見て自分が大絶叫してしまった。まさに顔面ブーメランだ。
 これを劇場公開当時、高校生のときに見ていたら私の絶叫のボリュームはこんなものではなかったはずだ。TVのニュースや新聞の片隅ならともかく、天下のタルコフスキー映画に見知った建物が写っているのである。
 先日ロシア人の家庭に招かれた際もついこの話をしてしまったら、やはり驚かれ早速ビデオを持ち出して来られて(さすがロシア人。主だったソ連映画は全部持っていたのだった)そのシーンを解説することとなった。ついでにグーグルマップで赤坂見附辺を示しドサクサに紛れて日比谷高校も見せてあげた。卒業生の皆さん、だからあの高校はいまや国際的に知られています。
 さらにこの惑星ソラリスの撮影地の話はアメリカの映画データベースIMDbにも出ている。何を隠そう、IMDbにこの情報をタレ込んだのは他でもないこの私だからだ。ここは情報を受けてデータベースに載せる前に事実確認をするから私の話がウソではないことは保証されている。

 さてこの『惑星ソラリス』も『2001年宇宙の旅』もそうだが、これらを「SF映画ではない」と言っていた者がいる。「じゃあ何映画だ」と聞いたら「哲学・宗教映画だ」という答えが返ってきた。そうかも知れない。
 例のスター・トレックでもクルーが時々「生命とは何か」とか「医者としての倫理」といった凄い会話を展開しているが、これはさすがに誰が見てもSFだろう。テーマが単純ないわゆる勧善懲悪ものとは違うからか、大人のファンも多い。スター・トレックのファンはトレッキーと呼ばれているが、番組そのものよりこのトレッキーのほうに結構有名人がいるのが面白い。アイザック・アシモフもトレッキーだったようだが、氏に劣らぬ大物トレッキーといえばヨルダンの現国王アブドゥッラー二世だろう。国王は1996年、まだ王子だった時にスタートレックの『ヴォイジャー』第36話Investigationsの冒頭に6秒ほど端役でゲスト出演しているそうだ。最初この話を聞いたとき私はてっきり聞き違いか空耳かと思った。欧州の貴族王族ならともかくイスラム教国の国王陛下たる者がそんな下賎なマネをするとは信じられなかったのである。ところがこれは本当だった。びっくり。

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これが『スター・トレック』出演のヨルダン国王アブドゥッラー二世。当時はまだ王子だった。ヨルダン国防軍の制服姿よりこちらのほうがキマっている…

 さらに聞くところによるとこのアブドゥッラー二世は時々変装してお忍びで国内を歩き、国民の直の声を聞こうと勤めているそうだ。もっとも時々その「お忍び」がバレているという。
 「お忍びで民の中に入って行き直接声を聞こうとした政治家」として私が知っている例にはこのアブドゥッラー二世と水戸黄門のほかに元ノルウェー首相のストルテンベルク氏がいる。ドイツの新聞に載っていた。首相はタクシーの運転手に変装し、乗せた客に話しかけて市民の声を直接聞こうとしたそうだ。もっともその際かつらをかぶるとか付け髭をして変装したわけではなく、単にそのままの姿でタクシーを運転しただけだから大抵すぐバレたそうである。しかしバレたらバレたで客も首相相手に意見を述べてくれたとのことだ。また、氏はタクシー料金は受け取らなかったが、乗客は口を揃えて「首相は車の運転が下手だった」と証言しているという。ストルテンベルク氏はノルウェーで極右によるテロ事件が起きた時見せた危機管理の腕を買われて現在NATOの事務総長をしている。残念ながらトレッキーかどうかはわからない。


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 どれか一つ戦争映画を紹介してくれと言われたら私はエレム・クリモフ監督のソ連映画『Иди и смотри (「Come and see」)』(1985)を勧める。第二次世界大戦時のベラルーシにおけるパルチザン対ドイツ軍の戦いを描いたもので、ソビエト・ロシアの芸術の伝統をそのまま引き継いだような大変美しい映像の映画である。ストーリーにもわざとらしい勇敢なヒーローは出てこない。使用言語の点でもロシア語のほかにベラルーシ語を聞くことができるから面白いだろう。

 タイトルの『Иди и смотри』だが、Иди(イジー)とсмотри(スマトリー)はそれぞれидти (イッチー、「行く」)、смотреть (スマトレーチ、「見る」)という動詞の単数命令形だ。どちらも不完了体の動詞なので(『16.一寸の虫にも五分の魂』の項参照)ロシア語をやった人はひっかかるだろう。
 普通「なんか外がうるさいわね。ちょっと行って見て来てよ」という場合は完了体動詞の命令形を使い、「пойди и посмотри」(パイチー イ パスマトリー)とかなんとか言うはずだ。授業でも「通常命令形は完了体を使う」と教わる。 なぜここでは対応する不完了体動詞が使われているのか。

 不完了体の動詞の命令形の用法の一つに、「相手が躊躇していたり、遠慮していたりするのを強く促す」あるいは「一度中断した行為の再開を促す」という働きがあるのだ。つまり命令・要求の度合いが強く、「何をグズグズしてるんだ? 早く作業に取り掛かれ!」「途中で止めるな、続けろ」というニュアンスだ。以下の例では最初のget upが普通に完了体動詞、二つ目が強い要求の不完了体命令形となっている。

Встань, ну вставай же!
起きる (完了体・命令) + さあ + 起きる(不完了体・命令) + 強調
起きろ、やい、さっさと起きろってば!

 前にも取り上げたショーロホフの『他人の血』にも不完了体の命令文が使われる場面がある。革命時の内戦で赤軍と戦うために出かけていった一人息子が帰ってくるのをコサックの老夫婦が首を長くして待っているが、何の知らせもない。いや、風の噂は届いていた。息子の部隊はクリミア半島で全滅した、と。ある日息子といっしょに同じ村から出征して同じ部隊にいた知り合いが帰って来る。その知り合いが老夫婦を訪ね、息子が戦死した模様を伝えるのである。父親のほうは感情を押し殺してその報告に耳を傾け続けるが、母親のほうは堪えられない。途中で叫びを上げて泣き出してしまう。その母親を父親は「黙れ」と怒鳴りつけ、ひるんで黙ってしまった知り合いに対して「さあ、しまいまで言ってくれ」とうながすのである。まさにそこで不完了体動詞の命令形が使われているのだ。

Ну, кончай!
さあ + 終える・最後までやる(不完了体・命令)

これが単なる「しまいまで言え」だと完了体を使うから

Кончи!
終える・最後までやる(完了体・命令)

となる。息子の死を告げかねて言いよどむ訪問者をこの父親が促す場面が他にもあるが、そこでもやはり動詞は不完了体だった。
 
 また不完了体動詞の命令形には「ずっとその行為をやり続けろ」というニュアンスを帯びることがある

смотрите всё время в эту сторону!
見る(不完了体・命令形・複数) + すべて + 時間 + ~の中に + この + 側
ずーっとこっちの側を見てなさい!

さらに「繰り返してその行為をやりなさい」という時にも不完了体動詞で命令する。

Учите новые слова регулярно!
覚える(不完了体・命令) + 新しい + 単語 + 規則的に
規則的に新しい単語を覚えなさい!

いずれにせよ、不完了体動詞の命令形には「普通以上の」意味あいがあるのだ。

 だから『иди и смотри 』はcome and seeと訳して間違いではないが(「行く」がcomeになっていることはここでは不問にする)、単に「行って、そして見ろ」ではなくて、目を背けたくなるようなドイツ軍の蛮行、女・子供まで、いや「劣等人種ロシア人をこれ以上増やさないように」優先的に女子供を虐殺していったドイツ軍の、とても正視出来ないような狂気をその目で見るがいい、見続けるがいい」という非常に強い重いニュアンスだと私は解釈している。
 それあるにこの映画の邦題は『炎628』という全く意味不明なものになっているのだ。628というのは当時ドイツ軍に焼き払われたベラルーシの村の数だが、いきなりそんな数字をタイトルに持って来たって観客に判るわけがないではないか。こんな邦題をつけた責任者には「ワースト邦題賞」でも授与してやるといい。これからも映画の芸術性を隠蔽し、客足を遠のかせるような立派なタイトルをドンドン付けていってほしいものだ。

 もっとも論文などで「○○参照」という時もсм.、つまり不完了体のсмотритеを使う。これは皆私のように「注」を読むのをめんどくさがって大抵すっ飛ばすので「見ることを強く要求」されていると解釈することもできるが、当該行為を「抽象的に指示」するときは不完了体を使うから、まあこれは別に「横着しないで注もちゃんと読みやがれ」と怒られているわけではないようだ。ほっ。

 さて、肯定の命令形では今まで述べたように完了体動詞がデフォ(言語学用語では「無標」)で、強いニュアンスを伴う不完了体動詞が有標だが、これが「~するな」という否定の命令になると逆に不完了体動詞のほうがデフォ、完了体動詞が有標となるから怖い。
 完了体の否定命令を使うと、警告の意味がある、つまりその行為が本当に行なわれてしまいそうな実際的な危険性がある、というニュアンスになるのだ。たとえば普通に「その本をなくすなよ」と言いたい場合は不完了体を使って

Не теряй эту книгу!
否定 + 失くす(不完了体・命令) + この本を
この本失くさないで!

だが、相手が本当に失くしそうな奴だったりしてこちらに一抹の心配があり、特にクギを指しておきたい場合は完了体で命令するのだ。

Не потеряй эту книгу, она из библиотеки.
否定 + 失くす(完了体・命令) + この + 本を + それ + ~から + 図書館
この本失くすんじゃないぞ、図書館から借りたんだから。

 このように肯定の命令では完了体動詞がデフォ、否定の命令では不完了体がデフォなわけだが、これが以前に『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べた「歴史的現在と過去形」と共にいわゆるアスペクトのペアを決める際の助けになっている。同じ事象をニュアンスなしで肯定と否定の命令で言わせ、肯定命令で使われた動詞と否定命令で使われた動詞をペアと見なすのである。
 このアスペクトのペアというのはロシア語文法の最重要項目のひとつであり、大学では大抵語学そのものと平行して特に動詞アスペクトだけをみっちり仕込まれる授業をうけさせられる。必須単位である。これがわからないとロシア語の文章を正しく理解することができないからだ。文の意義だけ取れても意味が取れなければ特に文学のテキストを解釈するには致命的だろうし、日常会話でもいわゆる空気が読めずに困るだろう。


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 1984年にミハイル・ショーロホフが亡くなったとき日本の新聞でも結構大きく報道されていたのを覚えているが、ノーベル賞をもたらしたその代表作『静かなドン』についてはとにかくいろいろと議論があった。特にその剽窃問題についてである。
 発端の一つとなったのがソ連体制、またショーロホフも含めた体制内作家を蛇蝎のように嫌っていたソルジェニーツインが1974年にニューヨークタイムズに発表した、『静かなドン』の真の作者はフョードル・クリューコフ Фёдор Крюков というコサックであるという主張である。これはソルジェニーツィンが藪から棒に考えついたわけではない。他にもショーロホフの剽窃を疑っている研究者はいた。その1人、歴史家のイリーナ・メドヴェージェヴァ=トマシェフスカヤ Ирина Медведева-Томашевская とはソルジェニーツィンも連絡を取っているが、メドヴェージェヴァ氏はソルジェニーツィンが件の記事を公にする前、1973年に亡くなっている。ソ氏はこれで世界中にセンセーションを起こしショーロホフ、ひいてはソ連の作家同盟の信憑性に大打撃を食らわせるとふんでいたが、ソ連側がそれを徹底的にシカトする作戦にでたので話があまり大きくならず、いわば爆弾は不発に終わった。ただ文学研究者など専門家の間では議論が続き、1977年にノルウェーの Geir Kjetsaa(何と読むのかよくわからないがゲイル・ヒェツォとかいう感じになるらしい)という学者がクリューコフとショーロホフの文章をコンピューター解析にかけて、この二人は文体から言って別人であるという結果を出したりしている。しかし確かに「原作はクリューコフではない」かもしれないが、ショーロホフが他のところからも剽窃していないという証明にはならない。『静かなドン』の元の原稿や資料などは革命戦争や大粛清、また第二次世界単線などで消失してしまい、剽窃にせよ自筆にせよ証明ができないのである。証明はできないが、当時の友人知人などの証言や細々と残る資料などから推してショーロホフが様々な源泉からその文章を持ってきたことは確実だ。
 実は『静かなドン』が発表された1929年当時にすでに剽窃問題が持ち上がっている。ショーロホフはそれ以前にはドン・コサックをテーマとするいくつかの短編しか書いておらず、作家としてまだ発展途上であった。それらの短編のあと中間をすっ飛ばしていきなり『戦争と平和』と比べられる長さの超大作を、年齢もまだ20台初めの若者が書けるものなのだろうかという疑いが浮上したのだ。調査団が組織されて調査にあたったが、そこでは一応『静かなドン』は確かにショーロホフの手によるものという結果がでた。これについてはいくつか考慮しておきたい点がある。まず、当時のソ連の著作権法では作家が別の著者の文章を使ってもそれが当該作家自身の芸術の完全な構成部分として全体構成に寄与していれば剽窃と見なされなかった。『静かなドン』は大量の資料をもとにして書かれた小説だが、多少原本資料と小説の文章が似すぎていても、それがしっかり小説の構成部分になっていれば元の資料の著者がその作家を剽窃で訴えても勝ち目はなかったのである。そういえば、ちょっと連想が飛躍するが山崎豊子も自分の体験よりも資料に頼って作品を書くタイプで、何度か盗作で訴えられている。それではショーロホフはその資料を何処から入手したのか。これは氏が小説を書くために自分から「取材」したのではなく、革命戦争のどさくさで資料の方から偶然によって氏の手に落ちてきたものである。敗走する白衛軍コサックたちが残していったのだ。ショーロホフはその資料を見て、自分がこれを残さなかったらこれらの文章は全く日の目を見ずに霧散してしまう、コサックの姿が誰にも知られず歴史の影に埋もれてしまうという危機感から、それを小説として書き残そうとしたという説もある。
 ショーロホフにコサックに対する特別な思い入れがあったことは事実のようだ。氏は南ロシアのコサック地域居住地にあった(公式発表によれば)クルジンスコエという村に生まれた。父(実は養父)は色々な仕事についたり農業も営んだりして特に裕福ではないにせよ生活苦にあえいでいる層ではなかった。母はコサックの血は引いていたそうだが家庭そのものはコサックには属していない。それでも周りのコサック、というよりその人々も含めて自分の生まれて育った土地というものに非常に愛着を持っていたらしい。後にソ連で立派な「上級国民」、裕福層になってからも他の作家と違ってモスクワには住まず、生涯生まれ故郷のビョーシキ Вёшки に住み続けた。地元の人たちのためにいろいろ貢献もしている。
 『静かなドン』がスターリンの気に入られ、その保護を受け特権を与えられてまあ物質的にはのうのうと暮らしていたので誤解されるが、ショーロホフは決して「スターリンの犬」ではなかった。1932年から33年にかけてショーロホフの地元、現在のウクライナやコーカサス地方で農民の強制集団化により農業が壊滅して百万の単位で人が餓死していったとき、氏は自分のネームバリューを利用してスターリンに直訴し、中央から送られてきて餓死寸前の農民からさらに穀物を没収していく冷血役人の行為を止めさせ、さらに農民への援助物資を送らせている。大粛清時にも言われなく逮捕された知り合いや、自分の名前を頼って助けを求めてきた地元の人たちに手を差し伸べている。もちろんいくらショーロホフでも無罪にはできなかった。でも少なくとも逮捕されたそれらの人たちの消息を調べて家族に伝えてやったり、裁判をやり直しするように取り計らったり精いっぱいの助力はしたのである。例えばプラトーノフ(『31.言葉の壁』『159.プラトーノフと硬音記号』参照)の15歳の息子が突然行方不明になり消息が全くわからなくなったときも、その子が秘密警察に逮捕されたことを調べだして伝えてやったりしている。
 大粛清の際ライバルに命を狙われたこともある。その時は「ショーロホフを消せ」と命令を受けたその人がショーロホフにチクり、モスクワに逃がしてやった。モスクワで氏はスターリンに直接訴えてライバルのほうを左遷させた。
 それにしてもショーロホフはなぜ昔の仲間でも容赦なく粛清したスターリンに最後まで粛清されなかったのか。これは氏が上手く立ち回ったというより、逆にあまり上手く立ち回ろうとしなかった、できなかったかららしい。一度側近からショーロホフは危ないと耳打ちされた時「あいつは政治については全くの子供で無害だ」と言って話に乗らなかったそうだ。つまりショーロホフは自分の地位を脅かせるような人物ではない、人畜無害と判断されていたのである。中央に出たがらないでド田舎のビョーシキに生涯引っ込んでいることも幸いしたのだろう。
 とはいえ周りの者が次々に消えていき、油断すると自分もいつ何時という恐怖を抱えて生活するのは精神衛生に破壊的作用をもたらすことは容易に想像できる。1930年代に『静かなドン』の挿絵をかきその後アメリカに移住したセルゲイ・コロリコフ Сергей Корольков というイラストレーターも、ショーロホフは大粛清の間に人間が変わってしまったと回想していたそうだ。また自分が正しいと思っている共産主義政府の蛮行(ホロドモール)を目の当たりにしてその無謬性に一抹の疑問も抱く。抱くが当時すでにその体制の中で特権階級として根を下ろしてしまった自分はそういう疑問を全て抑圧するしかない。もちろん人の心の中など外からは絶対わからないが、とにかくショーロホフが1930年ごろからすでに酒浸りになっていたのは事実である。そのアル中ぶりについては守護神スターリンもやや持て余しており、氏が後にノーベル賞を受けたりして外国に出ざるを得なかった際は、アル中とバレないように立ち居振る舞いの監視役をつけていたそうだ。
 さらに作家活動のほうも停滞した。『静かなドン』とそれに平行して書いた『開かれた処女地』で一躍政府公認の国民的作家となったはいいが、その後が全然続いていない。その『静かなドン』ですら15年もかけてやっとのことで仕上げたのだ。仕上げた後もスターリンの顔色をうかがって何回も文章や内容を修正している。大粛清の後の第二次世界大戦・独ソ戦の際は大祖国戦争を題材にして『静かなドン』級、いやトルストイの『戦争と平和』に匹敵するような大小説を書くようスターリンに要求され、書く書くと返事しながらついに果たせなかった。従軍記者として戦場の軍人などの取材もし、ある程度資料はたまったはずだが、「国民的作家」ショーロホフに何かあったらと直接弾の飛び交う戦線には行かせて貰えなかったらしい。でも理由はそれだけだろうか。トルストイだって実際にはナポレオン戦争を経験していない。「なぜショーロホフは書かないのだ。ひょっとして実は書ないのか?」という周りの暗黙の疑問・プレッシャーに本人が気付かないわけがない。それがさらに氏を酒に走らせた。
 どうも徐々にスターリンの寵は衰えだしてはいたようだが、それが決定的にならないうちにスターリンが死んだ(もっともスターリンがさらに長生きしていたらショーロホフは没落したかというとそうも思えない。そのまま国民的作家としての生活は保てたろう)。次のフルシチョフは徹底的に反スターリンだったが、上手く取り入った。いや、「取り入った」というのは正しくない。すでに氏の知名度が高すぎて今更消しにくかった上、氏は基本ノンポリ無害で別に消す必要もなかったと言った方がいいかもしれない。

ビョーシキのショーロホフ宅を訪問したフルシチョフ。フルシチョフの服のダサさが目を射る。
https://тихий-дон.com/news/media/2019/8/30/istoricheskaya-data-hruschyov-v-gostyah-u-sholohova/から
Scholochov-und-chruschtschev
 フルシチョフの下でショーロホフは『人間の運命』(1956)という短編を発表した。同作品は『6.他人の血』でも紹介した日本語の翻訳集に収められている。革命戦争を描いた他の短編と違い独ソ戦が舞台でドイツ軍の捕虜になりあらゆる辛酸を舐めながらソ連に生還した兵士の姿を描いたものだ。自分は生還しても家族はすべて失い(つまり全員ドイツ人に殺され)絶望の淵に立つが、偶然会ったみなし児を引き取って育てることに人生の意義を見いだす。失った息子の代わりに他人の子供に愛情を向けるというパターンが『他人の血』を想起させる。ショービニズムとかわざとらしいというのでは決してないが、私はこの作品が(他の短編と違って)何かの型に従っている、言い換えるとこの作品は何かの意図、文学作品をそのもの以外の目的で書かれたのではないかという印象を受けた。作品の成立事情をみていくとやはり明確な目的があったようだ。
 事の起こりはワシリー・クダーシェフ Василий Кудашев というショーロホフの親しい友人が独ソ戦の初期に志願していってしまったこと。その後部隊が全滅し、クダ―シェフの生死もわからくなっていた。そういう折に従軍記者をしていたショーロフはヤコフ・ジノヴィエヴィッチ・フェリドマン Яков Зиновьевич Фельдман(?)という、ドイツ軍に囚われて脱走してきた一士官の話を耳にした。自分の友人に照らし合わせてその捕虜の話が鮮明に記憶に残ったのである。さらに戦争が終わった後、クダ―シェフの妻が「クダ―シェフは1941年に戦死したのではなく、ドイツ軍に捉えられて強制収容された」という内容の手紙を受け取っていたと聞いた。それ以上の情報は全くなく、クダ―シェフも帰ってこなかった。ショーロホフの脳裏には捕虜を英雄として描いた作品を書こうという望みがよぎったが、その時点ではそれは不可能だったのである。
 スターリン下のソ連では敵の捕虜になった兵士は裏切者の烙印を押され、おめおめとソ連に帰ってきたりすれば収容所行きか銃殺、家族まで「スパイの仲間」の烙印を捺されて様々な嫌がらせを受けたそうだ。「生きて俘虜の辱めを受けず」はソ連の方が徹底している。その裏切り者を英雄視などする作品を書いたら作家まで危ない。
 その流れが変わり、捕虜の名誉回復が行われたのはフルシチョフになってからである。1956年、ジューコフ元帥の要求に従ってスターリン時代に裏切者扱いされていた捕虜を名誉回復するための委員会が設置され、ヒトラーの捕虜収容所生活を勇敢に耐え抜いた捕虜が英雄として扱われることになった。ショーロホフはそれを聞いてすぐに『人間の運命』を書き上げた。スターリンにやいのやいの催促されていた独ソ戦一大ページェントはとうとう仕上げ(られ)なかったのに比べてあまりにも露骨なスピード差だ。しかし、いざそれを発表しようとしたらどこの出版社でも二の足を踏まれた。ジューコフ元帥の委員会があってもまだまだ巷にはスターリン下の雰囲気が一掃できておらず、また『人間の運命』の主人公が捕虜生活で故国の家族に想いを馳せるのはソ連兵士のストーリーとして女々しすぎると思われたらしい。
 そこでショーロホフはフルシチョフに直訴して出版許可を願い出た。その場ではフルシチョフと馬が合ったらしい。双方ツンと上品ぶった「インテリ」が嫌いで、あまり上品ではないギャグや小話を飲み食いしながら楽しむタイプだったそうだ。氏が『人間の運命』の概要を説明しはじめるとフルシチョフは速攻でOKを出し鶴の一声で出版を取り計らってくれた。やはりこの作品には「(自分の個人的な友人も含めた)捕虜の名誉回復」というはっきりした目的があったのだ。その目的が史実を覆い隠してしまったようで、小説でソ連に帰還した主人公は丁重に扱われているのは事実と違う、ドイツ軍の捕虜になったのなら処罰されたはずだ、と出版後に批判も受けた。

 『人間の運命』は1959年にセルゲイ・ボンダルチュクが映画化した。陰影の濃いすばらしい名作だ。原作に忠実だが一カ所原作にはない部分があった。主人公ソコロフ兵士が他のソ連兵と共に捕虜となったとき、「怪我人はいないか」と同胞の間を聞いて回る軍医がいてソコロフも肩が脱臼していたのを直してもらう。捕虜になってまでも仲間の心配をする、これこそ軍医だと感激するのだが、原作ではその軍医のエピソードはそこで終わりだ。その後ドイツ軍が捕虜を整列させて何人かを全く無作為に選び出し、「ユダヤ人だろう」と決めつけて銃殺する場面があるが、映画ではその軍医が殺された中に入っている。これはショーロホフでなくボンダルチュクあるいは脚本ユーリー・ルキンの筆だ。

「怪我をしているのか、同志?」。主人公ソコロフ(左)はやはり捕虜になっていた軍医に肩の脱臼を治してもらう。
AreYouWounded
「ユダヤ人だな?」ドイツ軍の将校は全く無作為にその軍医を選び出す。
AreYouJew
軍医は逍遥として銃殺される。
Erschiessen
 その『人間の運命』を最後に、亡くなるまでショーロホフはまとまった作品を発表していない。スターリンとの約束した戦争小説は晩年に断片は書いて出版社に持ち込んだが拒否された。政治的な配慮ではなくて作品そのものが出版に耐えるレベルに達していなかったらしい。アル中の方も死ぬまで治らなかった。
 ではショーロホフはお上の注文に応じてお望みの作品を全部ゴーストライターに注文して書かせるか他人の文章をコピペするしか能のない三文作家だったのか?そんな作家にうっかりノーベル賞を与えてしまったスウェーデン人はいい面の皮だったのか?インゴルト Felix Philipp Ingold というスイスの作家などはそもそも作家としてのショーロホフは存在しないとまで主張している。あれはソ連政府がプロパガンダのため文才も教養もないそこら辺のアル中労働者(ショーロホフ)に白羽の矢を立て、その人が書いたことにしてクリューコフからブルガーコフから果てはプラトーノフまで、あちこち集めてきた文をつぎはぎして出版させ「プロレタリアートのトルストイ」という存在をでっち上げたのだと。『静かなドン』ばかりではない、それ以前に書いた初期作品まで氏の手によるものではないと。つまり、ショーロホフはマリオネット、体制が作り上げた幻影である。この主張はさすがにそこまで言うかと思うのだが、例えば私の手元にある「肖像画付きロシア作家事典」Russische Autoren in Einzelportraits にはアイトマートフやアナトリー・キムまで載っているのにショーロホフもファジェーエフも名前が出ていない。
 一方でアメリカの歴史学者バック Brian J. Boeck は剽窃行為は指摘しながらも氏の文才は否定していない。私の意見もこちらに近い。全く文才がなかったらあちこちの文章をつぎはぎして1人の主人公をめぐるストーリーとして小説にまとめ上げることさえできないからだ。私にいくらドーピングしたところで100mを10秒で走ることなど永久にできないのと同じだ。スターリン体制下でショーロホフは自分が本来持っていたその才能を十分に開花させることができなかった。上述のように大粛清や戦争中は大半のエネルギーを「生き残ること」、「友人知人を生き残らせること」に費やし創作にエネルギーを回せなかったからだ。またソ連のお囲い作家になってしまった以上プラトーノフのように野に下ることもできなかった。やればできないことはなかったろうが、ショーロホフは体制側につきその地位名声を利用して自分の身の周り、自分の近所の人たちを擁護する道を選んだ。事実ビョーシキ地方の人たちはひっきりなしに氏を頼って押しかけて来たそうだ。
 それにこれも上述のようにショーロホフはスターリンや政府に盲目的に媚びへつらっていただけではない。単純に飼い殺しの運命に身をゆだねていたわけではないのだ。自らの作品路線を貫こうとしたはしたのである。例えば『静かなドン』には敵側のコサックの軍人をポジティブに描きすぎているという批判が起きた。白衛軍の将校を勇敢で道徳的な人物として描くのは何事かと。その時氏は「その勇敢な白衛軍を打ち破った赤軍はそれ以上に勇敢で道徳的だという意味だ」と理屈をこねて承知させた。コサックに対する自分の愛着を貫いたのだ。『人間の運命』については上述の通りである。書けと言われた「一大戦争ロマン」を仕上げられなかったのも、捕虜を勇敢な兵士扱いしないようなストーリーにはできなかったかもしれない。それがやっと名誉回復できた時には自分の才能の方が枯渇していて短編にしかならなかったのだろうか。
 ショーロホフ自身も自分が書けなくなっていることを気に病んではいたようだ。上述のバックは自著のショーロホフの伝記 Stalin’s scribe でこんなエピソードを紹介している:1967年、ソ連の若い作家たちの集会の席でショーロホフが突然「皆さん、私は実際にいい作家なんですよ」と言い出した。ソ連政府に名を守られた国民的大作家としてのショーロホフしか知らない世代の人たちがそんな当たり前のことを言われて面喰いつつも、それを請け合うと氏は言ったそうだ。「いや君らはわかってない。私は『るり色のステップ』Лазоревая степь を本当に自分で書いたんだよ」。『るり色のステップ』は上述の『他人の血』と共に1926年の短編集に収められている作品である。どうしてそこで『静かなドン』でなく『るり色のステップ』を持ち出したのか本当のところはもちろんわからない。その初期の才能を正しい方向に持っていけなかった自分自身への嘆きなのか。
 バックはその箇所で『るり色のステップ』とはいったい何なのかについてわざわざ説明を入れ、手腕よく構成された短編だが「今はもう忘れられている」 Now it was forgotten. (p. 306) と書いている。ちょっと待て、ショーロホフと言えば『静かなドン』でも『開かれた処女地』でもなく、初期の短編が一番好きでいまだに時々読んでいる私をどうしてくれるんだとは思った。

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 『172.デルス・ウザーラの言語』で述べたが1975年の黒澤明以前、1961年にソ連の監督アガシ・ババヤンが『デルス・ウザーラ』を映画化している。この2本を比べてみると結構面白い。
 まず単純に長さだが、黒澤のが2時間21分、ババヤンのが1時間26分で前者が一時間近く長い。これは黒澤版が二部構成になっているからだ。
 黒澤映画ではデルスがアルセーニエフの探検に二度同行する。最初の探検の後アルセーニエフは一旦デルスと分かれ、5年後に再びウスリー江領域を訪れて再会を果たす。再会のシーンが感動的だ。その2回目の探検の後アルセーニエフは少し年を取って体も衰えていたデルスをハバロフスクの自宅に引き取るがデルスは町の生活になじめず結局タイガに帰っていく。この二度目の別れの後アルセーニエフに電報が来て、森で死んでいたゴリド人が名刺を持っていたから人物確認してくれと言ってくるのだ。ラストシーンは呆然として埋葬されたデルスの脇にたたずむアルセーニエフの悲痛な姿である。デルスの死後再びその地を訪れたが墓の場所が見つからず、それをまた悼む姿がファーストシーン。1910年とテロップに出る。
 ババヤンでは探検は一回のみ。だから再会シーンがない。構成も一重で、1908年にアルセーニエフのところに使いが来て、死んだ人が名刺をもっていましたと言って見せる。それが自分がかつてデルスに渡した名刺と気づき、デルスを回想し始める。ラストは日本海岸に出て目的に達した探検隊とデルスの別れで、アルセーニエフはそこでいつでも気が向いたとき訪ねてきてほしいといって名刺に住所を書いてデルスに渡す。つまりハバロフスクのシーンはババヤンにはない。
 まとめてみると黒澤の映画が「死を回想→出会い→別れ→再会→二度目の別れ→死の知らせ→追悼」という構成なのに対し、ババヤンでは「死の知らせ→出会い→別れ」と単純なものになっている。さらにうるさく言えば回想の対象も両者では異なっていて、黒澤映画で回想されるのは「死」(死んだデルス)である一方ババヤンのアルセーニエフが想いを馳せるのは「生」(生前のデルス)である。双方デルスとの別れがラストではあるのだが、ババヤンのデルスはアルセーニエフと別れる時もちろんまだ生きている。対して黒澤のラストは永遠の別れで、デルスはもうこの世にはいない。映画製作当時、ババヤンは40歳、黒澤は65歳。40歳といえば黒澤のほうは『七人の侍』映画を撮っていた頃でまさに壮年期だ。さらに『デルス・ウザーラ』を作った時の65歳というのもただの65歳ではない。自殺未遂の直後である。この辺を考えると黒澤は死に想いを馳せ、ババヤンは生を描いたという差がわかる気がする。

ババヤンの『デルス・ウザーラ』の冒頭。使いが知らせを持ってくる。
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黒澤明の『デルス・ウザーラ』の冒頭で友の墓の場所がわからず、悲嘆にくれるアルセーニエフ。
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ババヤンのラストシーン。デルスとの別れ。デルスは(まだ)生きている。
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黒澤では「永遠の別れ」がラスト。デルスはもうこの世にいない。
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 構成もだが描かれるエピソードもかなり異なっている。原作は同じでもそこから取捨選択し、あるいは付け加え、どう再構成するかに監督の個性や思想が出るのだからこれはまあ当たり前と言えば当たり前だろう。それでも両者に共通するシーンがいくつかあって非常に比べ甲斐(?)がある。
 まずデルス登場の場面だ。兵士らが「熊か」と構えるところにデルスが「撃つな、人間だ。」といいながら近づいてくる。画面の構図はよく似ているしそこで交わされる会話もほとんど同じだ。違うのは邂逅場面にいたるまでの経過で、黒澤はとにかくあらゆるシーンにじっくりと時間をかけて自然を描写し、アルセーニエフの心情を描き出して「準備」を整える。ババヤンはそこでアルセーニエフ一行が探検している地方の「地図」を画面に出すのだ。史実は確かにわかりやすくなるが、自然の神秘性そのもの、あるいは脅威感は薄れ、人間が自然を克服した感が前面に出る。全体的にババヤンの映画は自然描写・心情描写よりもエピソードの描写が主になっている感じだ。出来事の説明である。だから地図も出す。アルセーニエフがデルスと出会う前に実はすでに別の人物が案内役として雇われていたがデルスの登場と前後して道がわからないから家族のところへ帰りたいと言い出し、アルセーニエフがガイド料を半分やって(旅はまだ始まったばかりでこの人は半分の仕事さえしていないんじゃないかと思うが)引き取らせる。そこでデルスに案内を頼むことになるのだが、ババヤンではこういうエピソード語りが「準備」である。また下でも述べるがババヤンには黒澤に比べて自然開発ということへのポジティブ感が漂う。

ガイドが辞めたいというので、アルセーニエフは料金の半額をやって帰らせる。
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 同行の兵士の一人が現れたデルスにいろいろ質問するが、ババヤンではその兵士はトルトィーギンといい、旅の間中デルスをちょっと上から目線で扱う。ここでも質問の仕方がまるで尋問だ。黒澤ではこれがずっと若い兵士で、口調は馴れ馴れしいが見下げている感じはない。ロシア人とは毛色の違ったデルスに興味津々だ。この兵士はオレンチエフといってトルトィーギンではない。上でも述べたように黒澤では探検は2度行われるが、トルトィーギンなる人物は第二回目の探検に参加しているメンバーなので、この最初の旅には出てこないのだ。ババヤンでは複数の旅が一回にまとめられているのでトルトィーギンが最初から登場しているのである。

胡散臭げにデルスを見ながら話しかけるババヤンのトルトィーギン
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黒澤映画では一回目の旅で最初デルスに話しかけるのはトルトィーギンでなくオレンチエフという若い兵士(右)。
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 もう一つ気づいた点はデルス登場の際アルセーニエフが名前を聞くシーンで、黒澤ではアルセーニエフは最初に「私はアルセーニエフと言う名前だ」と名乗ってからデルスに名を尋ねる。ババヤンのアルセーニエフはこの自己紹介をしない。もちろんアルセーニエフのその後のデルスに対する感服ぶりを見れば、別にこれは上から目線なのでも何でもなくちょっとした脚本の違いに過ぎないことは明白だが考えてみると結構意味深い。

ババヤンのデルス登場シーン。ちょっと暗くて見にくいが真ん中でデルスが「撃つな」と手を振っている。
Babayan-auftrittDerusu
黒澤での登場シーン
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 他の箇所でもそうだが、黒澤の描く自然は美しさと共に怖さや冷酷さが鮮明だ。ババヤンもそれはある。ババヤンだっていやしくも Заслуженный артист Российской Федерации(「ロシア連邦功労芸術家賞」)を受けたりした手腕のある監督だ。氏の『デルス・ウザーラ』も IMDB での評価は低くないし、決してツーリスト会社の宣伝ビデオみたいな甘い自然描写にはなっていない。黒澤との違いはババヤンがその冷酷で恐ろしい自然と戦って打ち勝つ人間の勇敢さが前面に出ている点だろう。黒澤からは「人間は決して自然に打ち勝つことなどできない」というメッセージが透けて見える。

黒澤明の凄まじいまでの自然描写。
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 もう一つ共通なのが、デルスがパイプを失くして探しに戻った際虎の足跡に気付いて自分たちが跡をつけられていることを知り、虎に対して「自分たちはお前の邪魔をする気はないからあっちへ行け」と話しかける場面だ。ババヤンではここで虎がちゃんと(?)姿を現す。黒澤では出てこない。周りには濃い霧がかかり、虎の姿は見えない。しかしデルスには虎がどこにいるかはっきりと察知して霧の中のその方向に呼びかけるのである。闇もそうだが、霧も人間にとっては怖い。これのおかげで遭難や難破して命を落とした人間は数えきれない。人間は「目を見えなくするもの」が怖いのである。デルスはその闇や霧を怖がらない。それらと共存しているからである。そういう、いわば霧中や闇夜でも目が見えるデルスと比べると、ちゃんと足跡があるのにそれを見逃し嵐になるぞと風が大声で報せてくれているのに気付かない兵士など(もちろん私などもその最たるものだ)イチコロだ。現にデルスも兵士たちの目の節穴ぶりに呆れて「それじゃ一日だってタイガではやっていけないぞ」と溜息をつく。ごもっとも。
 そのデルスが闇を怖がるようになる。探検隊が森の中で新年を迎えるシーンだ。このシーンは双方にあるが、黒澤とババヤンではまったく取り上げ方が違っている。黒澤ではこの夜デルスは虎の幻影を見る。虎が自分を殺しに来るという恐怖に怯える。デルスが森を怖がり、闇を怖がったのはこれが初めてだ。そしてアルセーニエフとハバロフスクに行くことを承知、というより懇願するのである。デルスの悲劇の始まりだ。これには伏線があって、その前にデルスは不本意にも虎に発砲してしまい「虎を殺せば森の神が怒る。そして自分が死ぬまで虎を送ってよこす」と信じこむ(これがデルスの宗教だ。アニミズムである)。恐れに囚われるようになり「デルスは変わってしまった。ゴリド人の魂に何がおきたのか」とまでアルセーニエフに言わせている。虎への発砲シーンでは本当の虎が登場するが、評論家の白井芳夫の話によると最初ソ連側はそのためにサーカスの虎を連れて来たそうだ。すると黒澤は「こんな飼育された虎じゃダメだ、野生の虎を連れてこい」と言い出した。そうしたらソ連側は本当に探検隊を組織してマジに野生の虎を捕まえて来たというから驚く。しかしそこでソ連のさる監督が「オレが鹿を十頭捕まえてくれと頼んだときは無視したくせになんで黒澤にだけは虎なんだ」と怒った。それに対し当時のモスフィルムの所長ニコライ・シゾフ氏はあわてず騒がず、「あんたも黒澤くらいの映画を撮ってみなさい。そうすれば鹿なんて100頭でも捕まえてやるぞ」と言い放ったという。その怒ったソ連の監督とは誰なのかが気になる。まさかババヤンではないと思うが。
 話が逸れたが、ババヤンでは探検記をつけていたアルセ―ニエフがその夜が一月一日である事に気づき、兵士の一人が「じゃあ今日は祝日だ」という。原始林の中で祝日も何もないもんだが、デルスはロシアではその日が祝日なと聞いて「では」とばかりに「特別食」を作って兵士に提供する。しかし兵士の一人は疲労困憊の極致に陥っており、探検の続行を拒否しようとする。その折も折、別の兵士が暗い空をカモメが飛んでいるのを見つける。カモメがいる、ということは海が近いのだ。探検はその目的地に達したということである。こうしてギリギリのところで救われたのだが、ここで私はつい旧約聖書にあるノアの箱舟の話を思い出してしまった。いつまでも水が引かないので絶望しかけていた最後の瞬間、放っておいた鳩がオリーブの小枝をくわえて戻って来たというアレだ。唐突な連想のようだが、私がここで聖書を想起したのには訳がある。ババヤンの『デルス・ウザーラ』にはそれまでにいくつもキリスト教のモチーフが登場していたのだ。
 これもどちらの映画にも出てくるが、一行が森小屋をみつけるシーン。デルスが小屋を修繕し後から来る(かもしれない)者のために米と塩とマッチを残していく。「会ったこともなく、今後も会うことはないであろう見知らぬ人のため」に当たり前に見せるデルスの思いやりにアルセーニエフは感銘を受ける。ここは両者に共通だが、ババヤンではその直前に同行のトルトィーギンが「心のいい人物だが神を信じていない。キリスト教徒ではないから魂がない。」と言い切り「オレはれっきとしたクリスチャンだが奴は何だ」と威張る。トルトィーギンの周りに座っていた兵士らもあまりその発言に同調していなさそうな雰囲気だが、デルスの見知らぬ人への献身を見たアルセーニエフは明確にトルトィーギンの姿勢に根本的な疑問を抱く。しかしそのトルトィーギンも最後の最後、別れていくとき自分がいつも首にかけていた十字架をデルスに渡すのだ。あなたをクリスチャンと少なくとも同等の者と見なすという意味だろう。いいシーンだとは思うが結局「キリスト教徒」というのが人間として最上の存在という発想から抜け切れてはいない。
 念のため繰り返すが、この森小屋のエピソードは一回目の探検のときであり、黒澤ではトルトィーギンはまだいない。二回目の旅では黒澤でもトルトィーギンというキャラが登場するが外見は似ていても少し印象が違い、デルスといっしょに写真を撮ってもらう際自分の帽子を相手にかぶせておどけるなどずっと気さくそうな感じだ。十字を切ったりクリスチャン宣言する宗教的な場面は一切ない。

「キリスト教ではないから魂がない」と主張するトルトィーギン(左端)。周りの兵士はあまり同調していない感じ。
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気さくそうな黒澤のトルトィーギン。
Kurosawa-Tortygin
 しかし実はこのトルトィーギンばかりではない、ババヤンではそもそもの冒頭、上で述べたようにアルセーニエフのところに来た使いも「タイガで殺された иноверец が見つかりましたが、閣下の名刺を持っておりました」と伝えるのだ。иноверец というのは「異教徒」「非キリスト教」という意味で、つまり非クリスチャンが撃たれて死んでいたということ。黒澤のラストで死体の発見を使える電報には異教徒などといっしょくたにされることなく、きちんとゴリド人と民族名が書いてある。

アルセーニエフにところに来た「撃たれて死んでいたゴリド人が貴兄の名刺を持っていた」という電報。下記参照
Kurosawa-telegramm
 ソ連では宗教活動が禁止されていたはずなのにこの宗教色がでているのはババヤンがアルメニア人だからかなと一瞬考えもしたが、別にそんな深い理由があるわけでもなく単に「帝政ロシア時代の風物詩」として描写しただけかもしれない。いずれにせよ黒澤の映画のほうにはキリスト教色が全く感じられない。

 もう一つババヤンにあって黒澤にないのが上でも述べた「自然開発や国の発展へのポジティブ思考」である。探検隊が密猟者の罠を見つけてそこにかかった鹿を助け、他の罠も全部撤去するシーンがどちらの映画にもある。黒澤では誰がやったかについては「悪い中国人だ」というデルスの発言があるだけで、罠の撤去そのものはロシア兵たちが行う。ババヤンでは犯人の中国人が実際に画面に登場し(残念ながらロシア人の俳優らしくあまり中国人に見えない)、その一味に対してアルセーニエフが「2日以内にこれらの罠を全て撤去しろ」と厳しく言い渡す。アルセーニエフにはその権限があるからだ。ここはロシア領、皇帝配下の将校は支配者なのだ。黒澤にはこういう支配者の側に立った視点、国家権力というものをポジティブに描く視点はない。
 また、これはババヤンの映画にだけだが、大規模な山火事が発生しデルスがアルセーニエフを救う場面がある。そこで動けないアルセーニエフを一旦安全な場所に運んだデルスは、アルセーニエフがいつもそばに置いていた航海記というか探検の記録ノートを置いてきたことに気付いてもう一度火の中に戻っていく。探検の報告書というのはつまりロシア政府がウスリー江畔開発の下調査として命じたもの、つまり国家発展・自然開発の一環だ。デルスは命をかけてこれを守る。そういうデルスを描くその心は「少数民族ながら国の発展に貢献するのはあっぱれ」ということで、さらに突き詰めればロシア国家万歳である。まあ「万歳」というのは大げさすぎるにしてもこれが黒澤には一切ない。ロシアだけではない。黒澤は日本政府も一切万歳したことがない。黒澤が万歳するのはあくまで(正直で誠実に生きる)人間で、『デルス・ウザーラ』でも吹雪のハンカ湖でデルスが救うのはアルセーニエフというあくまで一個人である。

ババヤンのデルス・ウザーラはアルセーニエフを山火事から救い出す。
Babayan-Brand
黒澤ではアルセーニエフは凍死から救われる。
Kurosawa-Wind
 もう一つババヤンのほうだけにあるエピソードがある。アルセーニエフが石炭鉱を見つけて「石炭が出る。ここに町が作れるぞ。そして発展していくだろう」と喜ぶのを見てデルスが「何なんだその汚い黒い石は」とワケが分からなそうな顔をするシーンだ。アルセーニエフは歓びのあまり手帳の地図に感嘆符つきで уголь!「石炭!」と記入する。ここでもババヤンが、「発展・開発」というものを肯定的に見ていることがわかる。そもそも史実としてもアルセーニエフの探検の目的はウスリー江地域の開発の下調べなのだから。デルスのような純粋な魂の持ち主に住むことを許さない町、その人を死に追いやるだけでは飽き足らず、墓の場所をわからなくして静かに永眠することさえさせない「開発」とやらに対して否定的感情を隠さない黒澤との大きな相違点だと私は思っている。

アルセーニエフが石炭鉱を見つけて喜ぶ。
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歓びのあまり感嘆符付きで石炭の出る箇所を記入。
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 このようにいろいろ相違点はあるのだが、それでも双方ソ連映画だけあって、あまり「興行成績」や「採算」、もっと露骨に言えば「儲け」にカリカリしていない、独特の上品さが漂っていると思った。もちろんまったく金のことを念頭から外すなど不可能で、一応予算枠はあったそうだ。しかしその枠というのがユルく、多少オーバーしても「黒澤監督の芸術性を最優先する」ということでしかるべき理由があればホイホイ(でもないが)追加を認めてくれたらしい。さらに「金に換算できない部分が非常に大きかった」と当時日本から同行したプロデューサーの松江陽一が語っている。上で述べた虎捕獲などもそうだが、探検隊が引き連れている馬。これらは全部モスクワから運んで来たそうだ。その際馬一匹に各々一人ずつ世話をする赤軍兵士が同行していたというから、もしそれらの兵士に報酬を払ったりしていたら物凄い額になっていたはずである。
 松江氏はさらに続けて、言葉も習慣も政治体制も全く違う国でも同じ映画人同士、監督の意向はうまく現地のスタッフに伝わった、ソ連側は非常に協力的だったと述べている。もちろんそこへ行くまでの特に松江氏本人の苦労は並大抵ではなかったろうが、ソ連側のプロダクション・マネージャー(つまり「映画人」だ)など管理者側の役人の目を盗むために尽力してくれたりしたそうだ。言い換えるとソ連映画界には黒澤監督の創造・芸術的判断と意向を実現されてやれるだけの技術的下地があったということである。上で「上品」と言う言葉を使ったが、映画が上品であるためには質もいい作品でなければいけない。その上品な映画を作れる底力がソ連映画界にはあったのだ。まあエイゼンシュテインやタルコフスキイを生み出した国なのだから今さらそんな当たり前のことを言い立てるほうがおかしいか。変な言い方だが黒澤がいなくてもあれだけの『デルス・ウザーラ』を撮れる国だったのだ。ババヤンの映画を見ていてそう思った。
 さて第二の共通点は非常に些末な話なのだが、どちらも画面に出てくるロシア語が旧かな使いであることだ。『159.プラトーノフと硬音記号』で書いたように子音の後ろに律儀に硬音記号が入れてある。ババヤンでアルセーニエフが最後にデルスに渡す名刺をよく見ると自分の住所ハバロフスクがХабаровскъ と硬音記号つきの綴りになっている。ハバロフスクについては黒澤にもテロップが出るが、これにも硬音記号がついていて芸が細かい。現在なら Хабаровск となる。さらに上でも述べたが黒澤のアルセーニエフのところに届いた電報も硬音記号や і という文字が使われていて、それこそ「帝政ロシア時代の風物詩」だ。映画の電報の文面は

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となっているが(該当箇所を赤にした)、現代綴りではこうなる。I の代わりに И の字。

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V. K. あるせーにえふドノ
コロサレタごりどジンノ イタイカラ キケイノ
メイシ ミツカル イタイノ カクニンニ 
オコシ ネガイタシ ケイサツショ
カンカツ こるふぉふすかや

ババヤン(上)でも黒澤でも「ハバロフスク」が旧綴り。
babayan-unterschrift
Kurosawa-Chabarovsk


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