アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ロシア文学

 私は昔から「文学」というものが苦手だった(「嫌い」というのとは全然違う、念のため)。文学論・評論の類は書いてあることがまったく理解できない、詩は全然意味がとれない、高校生でも読んでいる日本の有名作家など実は名前さえ知らないことが多かった。
 1965年にノーベル文学賞をとったソ連の作家ミハイル・ショーロホフの短編『他人の血』は、その文学音痴の私が何回となく読んだ数少ない文学作品の一つだ。 一人息子を赤軍に殺されたコサックの農夫が瀕死の重傷を負った若い赤軍兵士(つまり本来敵側の兵士)の命を助け、彼を死んだ息子の代わりにいとおしむようになるが、結局兵士はもと来た所に帰って行かねばならない、という話である。
 以下はまだ意識を取り戻さない兵士を老コサックのガヴリーラがベッドの脇で見守るシーン。昭和35年(51年に第36版が出ている)に角川文庫から発行された『人間の運命・他4篇』からとったもの。「漆原隆子・米川正夫訳」となっているが実際に訳したのは漆原氏だということだ。

 『東風がドンの沿岸から吹き寄せて、黒くなった空を濁らせ、村の上空に低く冷たい黒雲を敷く長い冬の夜々、ガヴリーラは負傷者の横に坐り、頭を両の手にもたせて、彼がうわ言をいい、聞きなれぬ北方の発音で、とりとめもなく何事か物語るのに、聴きいるのだった。』

 次は兵士が去っていくラスト・シーン。

『「帰って来いよう!....」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。 「帰っちゃ来まい!....」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。 最後に、懐かしい薄あま色の頭が、曲がり角のはずれでちらりと見えた。』

 私がこれを読んだのは中学生か高校生になりたての頃だったと思うが、ずっと心に残っていてその後20年くらいたってから、原典をドイツのM大学で見つけた。せっかくだからここで引用するが、上の部分は原語ではそれぞれ以下の通りだ。

『В длинные зимние ночи,когда восточный ветер, налетая с Обдонья, мутил почерневшее небо и низко над станицей стлал холодные тучи, сиживал Гаврила возле раненого, уронив голову на руки, вслушиваясь, как бредил тот, незнакомым окающим говорком несвязно о чем-то рассказывая;』

『-Ворочайся! - цепляясь за арбу, кричал Гаврила. -Не вернется!... - рыдало в груди невыплаканное слово. В последний раз мелькнула за поворотом родная белокурая голова, (...)』

美しいロシア語だ。中でも特に二ヶ所、触れずにはいられない部分がある。翻訳者の鋭敏な言語感覚が現れているところだ。

 まず『聞きなれぬ北方の発音で』の原語はнезнакомым окающим говорком。これは直訳すれば「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音される聞きなれない方言で」。ロシア語をやった者ならすぐ通じると思うが、標準ロシア語では母音oがアクセントのない位置に来た場合「お」でなく軽い「あ」と発音される。テキストにoと書いてあってもaと読まなければいけない。ベラルーシ語だとアクセントのないoは正書法でも発音通りaと書くが、ロシア語は違う。これをそのままoと読むのは非標準語の方言である。この、アクセントのないoを「お」と発音する地域と「あ」と発音する地域の境界線はだいたいモスクワのすぐ北あたりを東西に走っている。つまりモスクワ以北は基本的にo方言ということだ。この短編の主人公はロシア南部のドン・コサックだから完全にa方言区域、oはそれこそ聞いたこともない方言だったに違いない。

 しかしこれをそのまま馬鹿正直に「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音されて」などと訳していたら文学性が消えてしまう。ロシア語の言語地理学を専攻にしている人などは喜ぶかも知れないが、普通の読者はワケがわからず、その場で本を投げているのだろう。「北方の方言」、本当にセンスのいい翻訳だと思う。
 ちなみにロシア語の先生から聞いた話によると、エカテリーナ二世の時代から毛皮などを求めてシベリアに渡っていったロシア人にはこのo方言の話者が多かったそうだ。そういえば『北嵯聞略』にも記録されているようだが、例の大黒屋光太夫がカムチャットカで「鍋」というロシア語котёлを「コチョウ」と聞き取っている。しかしこの単語のアクセントはёにある、つまりoにはアクセントがないからこれは本来「カチョウ」または「カチョール」と聞こえるはずだ。してみるとここで光太夫が会ったロシア人もこの「北方のo方言」の話者だったのかもしれない。

 もう一点。『薄あま色』という表現はбелокурая(ベラクーラヤ)の訳。これは普通に訳せば「金髪・ブロンド」だ。でも「金髪」とか「ブロンド」という言葉はちょっとチャラい感じでハリウッドのセクシー女優などにはちょうどいいかもしれないが、革命に燃える若き赤軍兵士にはどうもピッタリ来ない。男性ばかりでなく、赤軍兵士が女性であっても使いにくいだろう。「薄あま色」とやれば軽さは消えて、孤児として育ち瀕死の重傷を負ってもまだ理想を捨てない若者の髪の色を形容するのにふさわしくなる。逆に(名前を出して悪いが)マリリン・モンローやパメラ・アンダーソンにはこの「薄あま色」という言葉は使えないと思うがいかがだろうか?


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 ロシア文学というと私は6の項で前にも書いたショーロホフの『他人の血』(Чужая кровь)のほかにフセヴォロド・ガルシンの短編も繰り返して読んだ。若くして亡くなった19世紀後半の作家である。
 ガルシンは短編『あかい花』(Красный Цветок)が何といっても有名だが、私は『信号』(Сигнал)も好きだ。そこには足るを知った人間の美しさが描かれていると思う。

 主人公の一人は鉄道の線路番のおじさんだ。この人は人生でさんざん辛酸をなめて来て、世の中に対して愚痴や恨み言のひとつやふたつ出ても全くおかしくない境遇なのだが、そういう言葉が全然出ず、つてで線路番の仕事につけることになり、住む家もできたと大喜びして、一生懸命仕事に励んでいる。法律で決められている(はず)の15ルーブルでなく12ルーブルしか給料を貰わなくても「食うに困る訳じゃなし」と文句も言わない。
 もうひとりの主人公、若い線路番は若くて正義感と社会への恨みに燃えている。彼は給料のピンはねを許さない。お偉いさんがやたらといばっていて貧乏人を搾取するのに反抗し、「世直し」を唱える。
 この若いほうは、訴えても訴えても不正が直らないのに業を煮やし、とうとう鉄道の線路のレールを細工して汽車を脱線させ、世間の奴等に目にもの見せてやろうとする。
 老線路番がそれを目撃してしまう。彼は、何の罪も無い乗客が犠牲になると想像するだに絶えられず、ほとんど自分の命を犠牲にしてまで汽車に合図して止めようとする。
 それを見ていた若い線路番は、血まみれになって倒れた老線路番に代わってとうとう自ら汽車に合図をして脱線を止める。そして汽車から降りて来た人々にむかって「私がレールを細工した。私を逮捕してくれ」と自分から告げる。

 この老線路番を「問題意識が足りない」とか、「そういう卑屈な奴がいるから社会悪がなくならないんだ」と非難できるだろうか?私には、むしろ一見皆のための世直しに燃えているように見える若い線路番のほうが、その実自分の欲望・自分の個人的恨みを「正義」という美しいオブラートで包んでいただけ、つまり憎しみが原動力となっていただけなのではないかとも思えるのだが。
 またこの老線路番は、若いほうがレールを細工しているのを見つけた際も、「何をするんだこの野郎!」などとののしったりはしない。「お願いだからレールを元に戻してくれよう!」と懇願するのだ。どこまでいい人なんだろう。
 その彼が、若いほうにしみじみ言ってきかせた言葉がある。

 От добра добра не ищут.

「善から善を求めるな」、つまり「得た物を大切にしてそれ以上これでもかと欲しがるな」ということわざだが、実はロシア語には他にも似た意味の、

 Без денег сон крепче.

という格言がある。「お金がないほうが眠りは深い」、つまり「下手に財産を持っていると心配事も増える」という意味なのだが、これを聞いたとき驚いた。以前、メソポタミアで紀元前3千年ごろ話されていたシュメール語に同じようなことわざがあると聞いていたからだ。

 銀をたくさん持っている者は幸せだろう。
 麦をたくさん持っている物は嬉しいだろう。
 だが、何も持っていない者は眠れるだろう。

それでこのロシア語の格言が何処から来たのかちょっと調べてみたら、どうもユダヤの聖典タルムードのミシュナーから来ているようだ。ユダヤの精神文化にはメソポタミアから引き継がれている部分が少なからずあるそうだから、バビロニアの昔にシュメール文化の遺産も引き継いでいたのだろうか。ユダヤ人はもともと中東の民、そしてメソポタミア文明も中東が発祥地だから、紀元前3千年の格言をタルムード経由でロシア語が引き継いでいる、というのはありえない話ではない。そうだとすると本当にスケールの大きい格言だ。そこでさらに偶然家に落ちていた本を調べてみたが、まとめるとだいたい以下のようになる。

1.シュメール語は紀元前3700年からメソポタミアで話され、文字で書かれた最初の言語だが、紀元前2800年に当地がアッカド語を話すアッシリアの支配下に入った後でも書き言葉として使われ、アッカド語・シュメール語のダイグロシア状態であった。アッカド語はセム語族、シュメール語の系統は不明である。

2.アッカド語は紀元前1950年に南部のバビロニア語と北部のアッシリア語に分裂。アッシリア語は紀元前600年ごろに消滅したが、バビロニア語は紀元ごろまで保持された。アッカド語は当時アッカド人以外の中東・メソポタミア周辺の民族にも広くリングア・フランカとして使われていた。

3.同じくセム語族のヘブライ語はその存在が紀元前1200年ごろから知られ、紀元前4世紀ごろにはミシュナーが編纂されたが、紀元後2世紀にはもう話し言葉としては使われなくなっていき、書き言葉として継承されるのみとなった。

4.ミシュナーのヘブライ語にはアラム語(セム語族)の影響が顕著である。

5.アラム語は紀元前12世紀ごろにシリア・メソポタミアで話されていた。紀元前8世紀にはアッカド語(バビロニア語とアッシリア語)やカナーン語を駆逐して中東全域に広まっていたが、その後アラビア語に取って代わられた。

つまり時間的にも地理的にもシュメール語→アッカド語→アラム語→ヘブライ語という流れが理論的にはミッシング・リンクなしで可能である。可能なのだが、もっと詳しく資料を調べて証拠を出せといわれると私の言語能力では完全にお手上げだ。語学が出来ないと人生本当に不便でしかたがない。

 語学はできないくせに私はヘソ曲がりなのでそこでこんなことも考えてしまった: いわゆる格言・ことわざというものには純粋に民衆の知恵からきたものばかりでなく、為政者が下々の者からあまり文句が出ないように考案して標語・道徳として押し付けたものも混ざっている。また、民衆の知恵だとしても下々の者自身が「考えるだけ無駄」と、諦めの極意として自らを抑圧するため心に刻んだものだ、との解釈も成り立たないことはない。
 しかし仮にこの格言が「為政者が下々に押し付けたマニュアル」だとしても、シュメールの時代からこれらの言葉を胸に刻んで黙々と自分に与えられた人生を受け入れ、富とか権力などとは全く無縁に営々と歩み続け、存在の痕跡さえ残さずにやがて完全に消えていった人たちのこと、私と全く同じような人たちのこと、こういう人生そのもののの重さ、生きることそのものの重みを思うと襟を正さずにはいられない。

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なんと『あかい花』と『信号』がまとめられている単行本があった。しかもタイトル画には線路番が脱線を阻止しようとして列車に旗で合図している『信号』のラストシーンが使われている。


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 アンドレイ・プラトーノフ(1899-1951)というソ連の作家に『名も知らぬ花』(Неизвестный цветок)という短篇がある。このプラトーノフという人は当時の国家御用同盟のソ連作家同盟と合わず、しまいには同盟から除名され、名をリストから抹殺され、作品の発表も禁止されて不遇のまま一生を終えた。この短篇に描かれている荒れ地にたった一輪咲いた小さな花が、彼の分身であることは明らかだ。
 ドイツ語の翻訳ではこの作品のタイトルをDie unbekannte Blumeと訳している。これもやはり「名も知らぬ花」だから、意味の上ではまったく問題はない。

 でもこの翻訳には重大な欠陥がある。

 ロシア語の「花」(цветок、ツヴェトーク)は男性名詞だ。だから、この花が作家の分身だということは誰でもわかる。プラトーノフは男性なのだから。事実、話の中でダーシャという女の子とその花が友達になり、ダーシャが一年後その場所に来てみたらもうその花自身は生えていず、二代目の花を見つけるが、その二代目の花は「父のように生き生きとして我慢強く、父よりもさらに力強いのでした」、とある。
 ロシア文学の安井亮平氏も次のように言っている。

「『名も知らぬ花』の、父たちの復活としての子の生、知と意志による死の克服、花と子供の兄弟関係の創造という考えは、プラトーノフの全作品に顕著なイデーです。プラトーノフは、死を予感して、この小さな作品の中で、おのれの思想と真情を吐露したのでしょう。」

しかるにドイツ語の「花」(Blume)は女性名詞なのだ。なので上述の「父のように…」のくだりはドイツ語訳では、「母のように生き生きとして我慢強く、母よりもさらに力強いのでした」と訳されている。そんな馬鹿な。ここでこのように勝手に性転換されてしまったら、この作品の最も重要なモチーフ、「作家が血を吐く思いで吐露した自画像」が跡形もなく消えてしまうではないか。

 『10.お金がなければ眠りは深い』の項で述べたガルシンの『あかい花』(Красный цветок、クラースヌィ・ツヴェトーク)もDie rote Blumeと性転換訳されているが、この場合はストーリー上男性・女性どっちでもいいし、その花は「けしの花」だと原作でも言っているから、イザとなったらDer rote Mohn(あかいけし)というタイトルにでもしてやれば、男性名詞としての整合性をとることも可能だが、「名も知らぬ花」にその手は使えない。なぜなら「けし」とか「桜」とか名前を言ってしまったら「名も知らぬ花」でなく「名を知っている花」になってしまうからだ。

 ではどうしたらいいのか?ドイツ語のネイティブに聞いてみたら「コメントを入れてロシア語では花が男性であることを明記するしかないだろ」との答えが返ってきた。文学の翻訳でコメント・注釈というのは「最後の手段」である。いわば敗北宣言だ。私がそう言い、ネイティブのくせに白旗を挙げる気かと突っ込んだら、「仕方ないだろ、できないものはできないんだ。」とあまりにも簡単に降参されてしまった。

 もうひとつ、似たような事例としてIl grande Silenzioというタイトルのイタリア映画がある。文字通り訳せば「偉大なる沈黙」または「大いなる静寂」で、事実英語ではGreat Silenceというタイトルになっているが、以前これをチェコ語でVeliký klid (偉大なる静寂)と訳しているのを見て感心した。
 このklid(静寂)という単語だが、スラブ語としてはちょっと見かけない言葉だ。 たとえば西スラブ語のポーランド語では「沈黙」はmilczenie、「静けさ」はciszaだ。 クロアチア語もそれぞれšutnja、tišinaで形が近い。 ロシア語もМолчание とТишинаでそっくり。 さらにチェコ語でも実は本来これらに対応する語を持っているのだ。mlčeníとtišinaだ。
 ではなぜここで「静寂」を素直にtišinaとかmlčeníではなくklidで表わしているのか?
 答えは簡単だ。原題の「サイレンス」もしくは「シレンツィオ」というのが男性主人公のあだ名だからだ。なのにチェコ語のtišinaは女性名詞、mlčeníが中性名詞なので、男性の名前にはなれない。どうしても男性名詞のklidを持って来なくてはいけないのだ。イタリア語のsilenzioはうまい具合に男性名詞だからOK、英語に至ってはそもそも男性名詞も女性名詞もないから気を使う必要がないが、チェコ語では文法性と自然性の統一ということを考慮しないといけない。

 チェコ語では「沈黙」を意味する男性名詞があるからいいが、困るのはドイツ語だ。対応するドイツ語の単語Stille(静けさ)、Schweigen(沈黙)はそれぞれ女性名詞、中性名詞なので、やはりここで直訳はできない上、意味の近い男性名詞が存在しない。そこでこの映画のタイトルはまったく意味を変換させてLeichen pflastern seinen Weg(彼の道は死体で舗装される→彼の行く道は死体で埋まる)というオドロオドロしいものになっている。日本語も「沈黙」などという抽象概念を人の名前にする、という発想に違和感があるためか、やはり直訳しないで『殺しが静かにやって来る』。私個人としてはこの邦題は秀逸だと思う。ついでに言うと主演はフランス人のジャン・ルイ・トランティニャンである。

 「言葉の壁」というと普通「その言葉ができないために社会に溶け込めない」という意味だが、私は本当の「言葉の壁」とはこういうのを言うのだと思う。つまり、言語運用論レベルでなく言語に内在する構造そのものに起因する壁だ。

PlatonovVoronez
プラトーノフは現在では名誉回復されて生まれ故郷のヴォロネジに像も立っている。


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 ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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 森鴎外の短編『舞姫』を知らないという人はさすがに日本にはいまい。読んでいない人はいるかもしれないが。鴎外のドイツ留学での経験をもとにしているといわれている作品で女主人公がエリスという名前だった。確か高校の現国でこれを読まされたが、私は当時高校で第二外国語としてドイツ語をやっていたので(『46.都立日比谷高校の思ひ出』参照)、エリスというのが全然ドイツ語の名前などではないことに気づいた。が、文学作品にそこまでつじつまを要求するのもアレだろうと思って見過ごした。
 するとそのあと、日本に帰った鴎外を追いかけてきたドイツ人の女性がいて、その人の名がエリーゼ・ヴィーゲルトElise Wiegertという事実が明らかになったと新聞で大きく報道された。そのためさらにエリスはエリーゼである、という解釈が定着してしまった。さらに私の見かけた資料によれば小金井喜美子までが随筆でその婦人の名前はエリスと言っているそうだ。確かにこの二つの名前は似ているので一瞬エリスはエリーゼの短縮形か愛称かと思うが、すでに私の中でモヤモヤしていたように、普通エリーゼの愛称として使われている形に「エリス」というものはない。言い換えるといくらエリーゼを変換してもエリスにはならないのである。エリーゼの愛称ならば、リースとかリーザとか「エ」が消えるはずだ。アクセントが「リー」にあるからである。ところが「エリス」はアクセントが「エ」にある。しかも「リー」の長母音が勝手に短縮されている。どうもおかしい、合わない、と感じてはいた。感じてはいたが私の考えすぎだろうとそれきり忘れてしまった。
 
 ところが、何十年もたってドイツでさる本を書いていた時(『お知らせ:本を出しました』参照。どさくさに紛れて自己宣伝失礼)、突然「エリスはエリーゼじゃない」という証拠を見つけたのである。このことは本の400ページから403ページにかけて書いておいた。一瞬論文にでもしてどこかの専門誌に投稿しようかと思ったくらいだ。しかし一方私は救いがたい文学音痴で、特に日本文学などは長い間島崎藤村を「ふじむらとうそん」と間違えて記憶していたし、二葉亭四迷も二葉・亭四迷かと思っていたくらいの馬鹿なのである。そんな馬鹿が気づくことくらいもうとっくに決着済みに違いない、今更大仰に論文なんて書いたら審査員の物笑いの種になりそうだという気がしたので特に発表することはしないで本の隅でチョチョっと言及するだけにしておいた。日本では誰でもわかっているのかもしれなくても、ドイツだったらさすがに「こんな既知のことをいまさら言うか」と嘲笑される確率は低かろうと思ったからである。それでもまあ全く発表しないのも惜しいなという気が最近してきたので、この場を借りて書くことにする。どうせこんなお笑いブログだし。

 鴎外が『舞姫』を出したのは1890年だが、同じ年の半年後にトゥルゲーネフの短編を翻訳して発表している。その短編の主人公の名がエリスなのだ。ロシア語の原題はПризраки(「幻」)というものだが、鴎外はこれをレクラム文庫のドイツ語翻訳から重訳。ドイツ語タイトルVisionen(「幻」)を『羅馬』として文語に訳している。その『羅馬』、Visionen/Призракиはストーリーというかモティーフが『舞姫』と微妙に並行しているのである。
 主人公(「私」)が女主人公とめぐり合って短い期間人生が交差するが、「私」の女主人公の人生に与えた影響のほうが女主人公が「私」の人生に与えた影響より格段に重い。「私」がもう取り返しがつかない後になってから女主人公との出会いを回想して悲しむというラストなど、舞姫を髣髴とさせる。
 もちろんこのころの女性描写というのは日本でもロシアでもこういう方向のものが多いし、モチーフがちょっとくらい似ているのをもって『舞姫』はトゥルゲーネフのパクリであるなど言い出すのはいくら何でも乱暴すぎることではある。私はただ『舞姫』の元を鴎外のドイツ留学中の実際の経験だけに求めるとピントがずれる可能性もあると言いたいだけだ。少なくともエリスという名前はドイツ人の知り合いの名前などではなくトゥルゲーネフから頂戴したことは確実だと思う。たしかに発表されたのは『羅馬』のほうが数か月遅いが、翻訳にかかる前に「ドイツ語の」原作 Visionenはすでに読んでいたはずだから、時間的にも矛盾しない。
 もっとも『舞姫』のストーリーが鴎外自身の経験に基づくとしている声が全部ではなく、鴎外はむしろ当時の日本からの留学生や政治家などに下半身の行儀が悪い人たちが目立ち、あちこちで現地妻を作ったりしているのを見て義憤を感じ同胞男性をネタにしてやった、という説があった。その手の素行の日本男性自身は当然反省などしておらず、鴎外はそれに抗議する意味で『舞姫』の主人公にはきちんと自分の素行について自省させたのであると。そうだとするとまさにその肝心な部分、鴎外が「文学的に」付け加えた部分がトゥルゲーネフとダブっていることになる。

 さてエリスという名前を原作では「英語の名前」と言っている。以下がその箇所である。

── Как тебя зовут ── или звали по крайней мере?
── Зови меия Эллис.
── Эллис! Это английское имя! Ты англичанка? Ты знала меня прежде?
── Нет.

「お名前は何というんですか? というよりせめて何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


これを鴎外当時のドイツ語のレクラム文庫ではこう訳してある。

„Wie heißest du? ── oder wie hast du einstmals geheißen?“
„Nenne mich Ellis.“
„Ellis! Das ist ein englischer Name. Bist du eine Engländerin? Hast du mich schon früher gekannt?“
„Nein“

「お名前は何というんですか? というより昔は何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


上の日本語訳ほとんどがそのまま使えるほどロシア語に忠実だ。それに対し、鴎外のほうはここをどう訳しているのかという質問自体が成り立たない。短編とはいえ、40ページ以上ある作品を鴎外はたった4ページで訳しているからである。当然この部分も完全にスッポぬけている。
 原文にしてもこの「英語」という説明は実は正しくない。エリスは英語あるいはイギリスの名前ではなくて本来ウェールズ、つまりケルト語の名前だからである。トゥルゲーネフにとってはイギリスもウェールズも要は大ブリテン島ということでどちらも同じ、つまり「英国の」という意味だったのかもしれない。さらにうがった見方をすれば最後の「いいえ」は「あなたは私を前から知っていたのか」という質問に対してではなく、「エリスは英語の名前じゃないですか!」に対して向けられていたのかもしれない。いずれにせよその、少なくとも「英語あるいは英国の」と断ってある名前をドイツ人の名前ということにした鴎外はイギリスとウェールズどころか、ドイツ語と英語の区別さえついていなかったということになる。形が一見似ているし、「西欧の名前」ということでドイツだろうがイギリスだろうが同じことだと思ったのか。でもEllisとlがダブっているのは決してダテではない、言語を決めるうえで非常に重要なポイントなのだが。
 面白いことに当のイギリス人はエリスを英語の名前と言われて黙ってはいなかった。ロシア文学の英語翻訳で有名なガーネットConstance Garnettは、この作品を英語訳するとき、Эллис を「アリス」Aliceと訂正している。

'What is your name, or, at least, what was it?'
' Call me Alice.'
' Alice ! That 's an English name ! Are you an Englishwoman ? Did you know me in
former days ?'
' No.'

Эллис がアリスでないことくらいガーネット氏だってわかっていたはずだ。確かに英語の[æ]はロシア語で э として写し取られることが多いが、それなら上でも述べたようにアリスは Элис になってlが一つであるはずだ。現にドイツの作家のハインリヒ・ベルHeinrich Böllはロシア語ではГенрих Бёлльでちゃんと原語通りlが二つある。さらに(しつこくてすみません)「不思議の国のアリス」はАлиса в Стране чудесであって、AがЭになっていない上にlが一つである。トゥルゲーネフがAliceをЭллис として写し取った可能性は低く、ガーネット氏の意図的な操作としか思えない。これを例えるに、どこかの人が書いた小説で「サンニョアイヌ」を「日本人の名前」としてあったのを日本人の翻訳家が「三田」あるいは「三村」に変えるようなものか。

  さて、鴎外の「翻訳」であるが、そもそも翻訳になっていないそのテキストにも珍しく原文が特定できる箇所がある。しかしそこでも以下のような意図不明のはしょりが見られる。まずロシア語の原作の部分が

Я задумался.
── Divus Cajus Julius Caesar!… ── воскликнул я вдруг, ── Divus Cajus Julius Caesar!  ── повторил я протяжно.  ── Caesar!

私は考え込んだ。
── ディヴス カユス ユリウス カエサル!… そして突然叫んだ、── ディヴス カユス ユリウス カエサル! それからゆっくりと繰り返した。── カエサル!

ドイツ語訳では忠実にこうなっている。

Ich überlegte einen Augenblick, dann rief ich: Divus Cajus Julius Cäsar! Divus Cajus Julius Cäsar! Wiederholte ich, den Ton dehnend.  Cäsar!

しかし鴎外はこれを勝手に足し算してこう訳している。

余はしばいたゆたひしが、声高くヂウス カユス ユリウス チエザルと三たびまで叫びぬ。

呼ばれた名前の発音表記はここでは不問にするが、この訳だと内容が原文と違ってくる。なぜなら主人公が3回叫んだのはカエサルだけでその他の部分ディウス カユス ユリウスは2回しか口に出していないからだ。そういえばこの手の「勝手な足し算」は『23.日本文学のロシア語訳』で述べた井上靖のロシア語訳にも見られる。まあ鴎外のこの翻訳は40ページを4ページに切り詰めたわけだから、この程度のチョン切り方は不思議でないが。

 とにかく鴎外を追いかけてきたエリーゼと『舞姫』のエリスとは名前の上では結びつかない。実は苗字のほうがよほど怪しい(?)。舞姫エリスの苗字「ワイゲルト」(Weigertと書くのだろう)と追っかけてきたエリーゼの苗字ヴィーゲルトWiegertは i と e を並べ替えただけの違いだからである。ではその追っかけエリーゼとは誰なのか。その人となりを鴎外の義弟(歳はこちらのほうが上だったが)の小金井良精が「ちっとも悪気のないまったくの善人。むしろ少し足りないくらいに思われる」と描写している。いわゆるナイーブで世間知らずな人だったようで、留学生たちが冗談で鴎外を追って日本に行けとそそのかしたらしい。それをマに受けて日本で手芸などで身を立てるつもりで来てしまったようだ。問題はその旅行費の出所で、良精の孫の星新一は「手芸や踊りで貯められる額ではない。鴎外がドイツで手切れ金を手渡していたのではないか。その際これは手切れ金であることを向こうに通じていなかったのでは」と推測している。
 このこととエリーゼという名前を踏まえて鴎外の『独逸日記』をみてみると候補者が二人見つかる。その一人だが、明治18年8月13日に鴎外はフォーゲルさんといううちの晩さん会に招かれるがそこで赤い服を着た女の子に会う。その子のことを鴎外は「性はなはだ温和なり。」と描写している。フォーゲル家に行儀見習いで住み込んでいたのだという。その次、9月12日にまたフォーゲル家に言ったとき家の者からその女の子が鴎外がまた来るのを楽しみにしてましたよと告げられる。この女の子の名前が「リイスヘン」Lieschenといって、これは代表的なエリーゼの愛称形の一つだ。ただ鴎外自身は名前を覚えておらず、「リイスヘンが待っていたんだよ」と言われて初めて誰かいなと思ってみてみたら先の赤い服の少女であったという。さらにその次の12月の24日にまたフォーゲル家に行ったらそのリイスヘンが「ドクターが来た!」と歓声をあげて喜んだ。この鴎外の描写をみた限りでは、鴎外のほうはリイスヘンを別に何とも思っていなかったようだ。もちろんその後もフォーゲルさんちに遊びにいった際リースヘンに会っていただろうが、単なる知り合いのレベルを超えたとは思えない。やはり日本の留学生が無責任にあることないこと吹き込んだのだろう。また渡航費の出所も別にエリーゼ自身が貯めたり鴎外から貰ったりしたのではなく、娘に大甘な裕福なパパが出してくれたのかもしれない。当時のフォーゲル家にはリイスヘンの他にも見習いや家事手伝いで富商の子供が住み込んでいたのだ。
 私はこの女の子がエリーゼ・ヴィーゲルトの第一候補だと思っているが、もう一人リイゼLiseという名前が出てくる。これもエリーゼの愛称形だ。明治19年10月31日に「家主シャウムベルヒSchaumbergの子オットオ、リイゼOtto、Lise等を伴ひて「パノプチイクム」Panoputicumを観る。蠟偶の見せ物なり」とある。 Schaumbergをシャウムベルヒと発音するのはベルリン訛だが、それよりこの名前は『舞姫』に出てくる狒狒爺、といっては言いすぎだがエリスを囲い者にしようとする座長の名前である。さらにオットーという名前を鴎外は自分の息子につけているくらいだから、リイゼのほうも鴎外にとっては重要な人だったのかな、と思えないこともない。このリイゼが第二候補である。

 いろいろ気になっていたのでこのエリスという名前の出所や鴎外へのトゥルゲーネフの影響について言及している研究論文でもあるかと思って検索してみたのだが見つからなかった。トゥルゲーネフについては鴎外自身、上述の『独逸日記』での明治20年5月28日にカフェでたむろしていた玄人筋の女性の一人が「魯人ツルゲエネフ」の小説を知っていたので驚いた、と書いている。鴎外がある意味トゥルゲーネフに私淑していたことがわかるし、ロシア文学は明治時代の日本文学に絶大な影響を与えたのだから鴎外に影響しないはずはないのにその辺が無視されているのはなぜなのか。
 天下の森鴎外・舞姫である。百の単位でいそうな研究者がこれだけ長い間研究し続けてきた中で鴎外が訳したトゥルゲーネフ作品にエリスという人物がいることに誰一人気づかなかったとなどということは100%ありえないのでその可能性は除外すると、『舞姫』とトゥルゲーネフとの文学的関連性について積極的に扱った著作が見つからなかった原因として考えられるのは次の3つである。可能性の高い順に並べてみる。
1.私の探し方が悪かった。
2.エリスの名がロシア文学から来ていることなど皆とっくに知っているので当たり前すぎてわざわざ言い立てる必要がなかった。
3.あくまでエリスはエリーゼであって鴎外の文学活動はトゥルゲーネフには影響されていないとすでに確認されていた。

2と3はまとめることができて、要するに「日本文学研究者の間では『舞姫』へのトゥルゲーネフの影響というテーマには研究する価値がないというコンセンサスがあった」ということだ。その価値なし・決着済みのテーマを何も知らない二葉・亭四迷なアホ部外者がほじくり返してしまった、ということなのだろうか。知っている人がいたらちょっと教えてほしい。

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 今はあまり見かけなくなってしまったが1990年代の終わりごろは町の本屋にロシア語の本がよく並んでいた。読む読まない、読める読めないは二の次で「とりあえずロシア語」感覚でバコバコ買ったはいいが、結局いまだに本棚の肥やし状態で鎮座している本が何冊もある。最近その中の一冊、190ページほどの小説を何気なく手に取って読んで見た。そしてロシア文学の傑作に触れたことを知った。私のロシア語だから辞書を引きまくり、時には文法書まで動員して何か月もかかってチンタラチンタラしか進めなかったのも関わらず、その作品は最後まで私を惹きつけ、読ませ続けたのだ。私の持っているのは1995年にフランスで発行されたペーパーバック版。М. Агеев(M.アゲーエフ)という作家によるРоман с кокаином(「コカインの小説」)という作品である。本にはこの小説ともう一作、Паршивый народ(「ろくでなし民族」)という10ページほどの短編が収められている。

Printed in Franceのペーパーバック版の表紙と目次。ロシア語の本は目次が最後に来るのが普通だ。
titel1

inhaltverzeichnis

 「傑作」と上で言ったのは決して私が勝手に主張しているのではなくてロシア文学研究者などがそう呼んでいるのだ。Роман с кокаиномはアゲーエフのデビュー作で、1934年代にパリで発行されていたロシア語の文芸誌のいくつかで発表された。当時のパリにはソ連からの亡命者や移住者が大勢おり、ロシア語による文化活動も盛んだったのだ。確かソルジェニーツインも第一作をパリで発行しているはずだ。文芸評論家たちはРоман с кокаиномのレベルの高さに呆然としたが、アゲーエフ某などという名前は誰も知らなかった。そこで原稿の送り元の住所が(当時の)コンスタンチノープルになっていたので、ご苦労にも人を派遣して調べさせた結果、この作家の本名はМ.Леви(M.レーヴィ)であることが判明した。判明はしたがアゲーエフにしろレーヴィにしろ全く無名であることは変わらないので「こんな傑作を全く無名の素人作家がいきなりデビュー作で書けるわけがない。このアゲーエフは誰か有名作家の匿名に違いない、レーヴィなどという人物は存在しない」という噂がささやかれることになった。
 1980年代になってフランス語訳が出た。訳者は Lydia Chweitzerリディア・シュヴァイツァーというロシア系のフランス人で(しかも名前から判断するとユダヤ系である)、ある日偶然古本屋でどうも見覚えのあるロシア語の本を見かけ、その本を30年代に既に読んで強烈な印象を受けていたのを思い出した。それで仏語に訳すことにしたそうだ。訳が出ると「アゲーエフの正体」に対する騒ぎがパワーアップして再燃した。特に「このアゲーエフは実はウラジーミル・ナボコフである」と執拗な囁きが消えないので、しまいにはナボコフの未亡人が口をだし「夫はアゲーエフなどというペンネームを使ったことはない。またコカインの経験もない。さらにモスクワに行ったこともなく、そのアゲーエフやらと違ってサンクト・ペテルブルクのロシア語で書いていた」とキッパリNoを突き付けた。確かにРоман с кокаиномの舞台はモスクワで、そこに描かれているのはコカインで身を亡ぼす若い男性の姿だ(下記参照)。それでようやく文芸評論家たちも別の可能性に気が付いた。アゲーエフというのは本当にレーヴィとかいう人物、つまりM.レーヴィは実在の人物なのではないかということだ。そこでロシア文学研究家たちが血眼になって調査した結果、現在はこれがМарк Лазаревич Леви(マルク・ラザレヴィッチ・レーヴィ)というユダヤ系のロシア人であったことがわかっている。
 レーヴィは1898年7月27日(今の暦では8月8日)にモスクワで生まれた。家は毛皮商会に務める裕福な家庭だったが、1904年に父が死ぬと破産状態になった。それでも1912年から1916年までギムナジウムに通い、卒業後モスクワ大学の法学部に入学したが1919年に学業は放棄した。ギムナジウム卒業と同時にプロテスタントとして洗礼を受けている。
 Роман с кокаиномの舞台はまさにこれで、主人公はギムナジウムの学生、1916年の少し前から物語が始まり、ギムナジウムを卒業して大学で法律を学び始めたはいいが、コカインを知って身を亡ぼすのが1919年となっている。また、下でも述べるがクラスメートは皆裕福で何不自由ない生活を謳歌しているのに自分の家だけ経済的に苦しい、けれどそれを表に出すわけにはいかない、畢竟その苦しさは低賃金の仕事をして必死に家計を支えている母親への嫌悪となって吹き出してくる。主人公の母親に対する冷酷さ、憎しみの描写は日本人がロシア語で読んでも心に重くのしかかってくるほどだ。さらにギムナジウム卒業寸前に学校所属の司祭が役割を担ってくるのも作者の洗礼と無関係ではあるまい。
 1923年からAll Russian Cooperative Society Limited という会社で翻訳者として働いた。何語の翻訳かちょっと出ていなかったのだが、ドイツ語ではなかったか。小説にもギムナジウムでドイツ語を学ぶ様子が描かれているし、レーヴィはその後1924年にドイツ(ドイツ帝国)に移住して、働きながらライプツィヒ大学を卒業しているからである(1928年)。また後に見つかったソ連外務省の資料によるとレーヴィはそこで、もうソ連に帰る気はなく国籍もパラグアイ国籍に変えたという。どうしてドイツにいて唐突にパラグアイが出てくるのか全く分からないのだが、とにかくその後語学学校のベルリッツで外国語(ロシア語か?)を教え、1933年にはパリに行ってそこで教鞭を取った。ということはフランス語もできたわけだ。私の個人的なステレオタイプ把握「ユダヤ人=語学の天才」という図式が完全に当てはまってしまっている。
 1930年代の半ばにフランスからトルコに移住した。そこでもやはり外国語(何語だ?)を教えたりフランスの会社で翻訳の仕事をしていたが、1942年、トルコのドイツ大使フォン・パーペンに対する暗殺未遂事件に関与したとしてトルコ政府から「好ましからざる外国人」とみなされ国外退去となる。ソ連国籍者としてソ連に退去させられたのだが、パラグアイ国籍の(はずの)レーヴィがいつどうやってソ連市民に戻ったのかはわかっていない。
 ソ連に戻ったと言っても生まれ育ったモスクワには戻してもらえないでソ連内のアルメニア共和国の首都エレバンしか居住許可が出ず、1973年8月5日に亡くなるまでそこにいた。そこで結婚もし、大学でドイツ語を教えたりして家族以外の外部とはあまり接触のない生活を送ったが、そういう静かな、普通に働き趣味で映画を見たり音楽を聴いたりする生活にも自分のそれまでの人生にも満足していたようで、「人生何でもやってみるもんだよ」と常日頃言っていたという。
 毎年少なくとも一回はエレバンからモスクワを訪問していたそうだが、誰に会いに行っていたのかはわからない。親戚・家族の者はレーヴィがかつて文学作品を発表したことがあるのを知らなかったそうだ。確かにアゲーエフはこの2篇しか作品を発表していない。世の中には知れば知るほどわからなくなる人物がいるものだがこの人はその典型だろう。

本の裏表紙には文学研究者が必死に見つけ出した作者の写真が掲げてある。
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 その謎の人物レーヴィが書いた謎の小説Роман с кокаиномは、一言で言えば、将来に夢が持てずコカインにおぼれて自分の周辺も自分自身も破壊させる学生の話である。4章からなる、一人称語りの小説だ。

第一章:ギムナジウムГимназия
 タイトル通り主人公ヴァジム・マスレニコフの学校生活が語られるが、まず母親に対する冷酷さが凄い。女手一つで息子を金持ち学校に行かせている母親なのに、主人公はその「年寄りでいつもボロを来ている」母親に対して嫌悪しか感じない。「人に知られると恥ずかしいから外で会っても自分に話しかけるな」とまで言う。また早熟で性病にかかったりする。そのうえ自分の性病をわざと人にうつしてやろうと、モスクワの町で罪もない女の子を「ひっかける」。
 次にギムナジウムの生活がエゴロフ、シュテイン、ブルケヴィッツという3人のクラスメートを中心に描かれる。裕福なユダヤ系の子弟が多い。最初エゴロフ、シュテイン、主人公で「成績優秀生徒グループ」を形成していたが、あるときドイツ語の授業でちょっとした出来事が起こる。ブルケヴィッツが皆の前でついクシャミをしたがハンカチを出すのが間に合わず、洟を飛ばしてしまうのだ。ドイツ語教師もクラスメートもそれをからかう。ブルケヴィッツは以来クラスの誰とも全く口をきかなくなり、完全に自分の世界に閉じこもる。そして黙々と一人で努力し、学年の最後にはそれまで学校一優秀な生徒とみなされていたエゴロフを抜いて、最優秀の評判を勝ち取る。それでもブルケヴィッツはクラスメートと話をしない。
 卒業も間近になったある時、その最優秀成績のブルケヴィッツが校内医ならぬ校内司祭にたてつくという大事件を起こす。時は第一次世界大戦。司祭が生徒の間に国への奉仕義務を説教したところ、ブルケヴィッツは堂々と「人を殺せというのがキリスト教徒の義務なのか。そうやって銃後で人に死にに行け、人を殺して来いという自分はいったい国家のために何をしたんだ」と食って掛かる。さあ大変だ。聖職者に異を唱えたりしたら素行点はゼロになる。大学への入学資格も失う。人生そのものがフイになるのだ。主人公は、言うだけ言って外へ飛び出したブルケヴィッツの後を追う。探してみるとブルケヴィッツは隅に座り込み、頭を抱えていた。主人公は慰めるように肩に手を置くのだが、その行為が「純粋な同情だけから出たものではなく、奥底には自分の血の出るような努力を一瞬のうちにフイにしてしまった人間に対する興味の心があった」。
 さらに主人公はすでに階段を上っていた司祭を追って走る。これも「ブルケヴィッツをとりなそうという気はなかった。とにかく条件反射で走ってしまったのだ」。しかし、司祭は血相変えて自分を追ってきた主人公の意図を前者に解釈し、「大丈夫だ。学長に言いつけたりはしない」と保証する。そして自分は息子を戦死させていることを告げる。

第二章:ソーニャСоня
 ギムナジウム卒業から大学入学までの休み期間、金持ちのエゴロフのお相伴をして遊んでいたとき、ひょんなことからソーニャ・ミンツという年上の女性と知り合い、恋に落ちて舞い上がる。ソーニャに会うのが嬉しくて、道行く人々、世界中の人々を抱きしめたいような幸せな気持ちを味わう。しかしそれと同時に母親への冷酷さは度合いを増し、母にはそれ以上のお金は出せないと分かっているのに、「とにかく金が要るんだ、出せ!」と怒鳴りつける。出せないのならそのブローチを売れという。父の形見のブローチで、母が何よりも大切にしているのを知りながら言うのである。ソーニャとのデート代のためだ。見かねた家のお手伝いさんというか乳母がそんなにお母さんを苦しめちゃいけない、ほらこれを持って行きなさいといってお金をくれる。それは乳母が老後のためにと必死で貯めたお金であることを知りながら、乳母の手からむしり取る。
 主人公のソーニャへの愛は激しいものであるがゆえに中々最後の一線を越えることができない。ソーニャと付き合いながら売春婦を買ったりする。それでもソーニャに対して何の罪の呵責も感じない。世界の女性の中で愛するソーニャだけが「人間」で、他は所詮女に過ぎないからだ。しかし女性であるソーニャにとっては世界の男性は皆自分にとって人間であるにすぎず、愛する男性のみが「男」なのだ。主人公にもそれがわかっている。ついにある日、友人エゴロフに部屋を提供してもらってそこにソーニャを誘い、最後の一線を越えようとするが、なぜか体の方は拒否反応を起こし、吐いてしまう。
 ソーニャは耐えがたい侮辱を感じる。それはまるで「キリスト教者がライ病患者に口づけをするときの気持ちにも似て、内心は嫌なのに無理に自分の気持ちを押し殺してやる偽善行為」だからだ。この言葉は章の最後で紹介されるソーニャから主人公へあてた別れの手紙に書いてあることだが、その手紙で、ソーニャが既婚者であったことがわかる。ソーニャの夫はある意味では無神経で鈍感なタイプで、主人公と知り合いになると全く疑いもせずに招待して自分たちの家を案内して回る。そこで自分たちの寝室を見せるのだが、そこで主人公には嫉妬の心が芽生え、それと同時にソーニャに対する官能的な愛というか「劣情」も呼び起こされた。性交渉もするようになったが、同時に愛情も薄くなってしまった。薄れていく愛情を再燃させようと、官能愛にのめりこめばのめりこむほど、愛は薄れていった。最終的にソーニャは「これは愛じゃない、恥辱だ」といって夫のところに帰っていく。この夫もソーニャは愛しておらず、一時は主人公のために捨てようかと考えていたほどなのである。

第三章:コカインКокаин
 相変わらず裕福な友人のお相伴で生活を謳歌していた主人公は大学の仲間からコカインを吸うことを教わる。好奇心で一回だけ吸ったのが依存症になってしまうのだが、その最初の一歩の描写があまりにも見事で微に入り細に入り、作者のレーヴィは少なくとも一回は本当にコカインをやったことがあるのではないかと思わざるを得ない。それともごく身近に常習者がいたのか。例えばコカインの粉は非常に軽いため、主人公は最初息を止めていたはずなのにうっかり鼻息で飛ばしてしまう。コカインに慣れた知り合いがそこで助言していうには、「コカインは軽い粉だから息を止めただけじゃだめだ。あらかじめ肺から息を出し切って吐きたくても息が出ないくらいにしておけ」。
 薬による幸福感。主人公はそれがもっと欲しくなって、夜中に母の寝室に忍び込み、ブローチを盗み出して売人に渡し、さらに薬を求める。大切なブローチをなくして母が浮上に悲しむだろうと考えると、主人公はかえって母に愛情さえ感じる。夜中さんざん吸って朝になってから家に帰ると母親が青い顔をして声を震わせながら「泥棒」と主人公を罵る。主人公は母の顔をぶん殴って家を飛び出し、行くところがなくて友人のエゴロフのところに転がり込む。エゴロフはちょうどこれから恋人といっしょに南ロシアに何か月か旅行に行こうとしていた矢先で、主人公にいくばくか金さえ渡し、自分の家で好きなだけくらしていいと主人公を導きいれる。以後主人公はこの友人の家で、ほとんど外に出ることもなく昼となく夜となくコカインを吸って過ごすのである。

第四章:所感 Мысли
 すでに完全に薬物中毒となった主人公が頭に浮かぶ様々な想いを綴る。
 人が富や名声を求めるのは何のためだろう。幸福になるため、いや正確にいうと「幸福感を味わうため」である。言い換えると幸福は外部で実際に起こる事象によって引き起こされるのではない、それを受け取る人間の人間の心の中にあるのだ。だからもし外部の事象の助けを借りずに幸福(感)を引き起こすことができれば、富や名声など全く不必要ではないか。例外はその名声を得ようと努力する過程そのものが幸福をもたらす場合だが、自分にはそんなものはない。コカインがすでに心に幸福感をもたらしてくれるのだから、自分はもう富だろ社会地位などは必要ない。それで主人公は法律家になるという人生の目的を放棄する。
 人間の魂について。自己犠牲、正義感、同情、隣人愛、そういう崇高な人間性が呼び起こされると必ずそれと同じだけの強さで、真逆の邪悪な感情、残酷さ、冷酷さ、暴力性などがついてくる。この二つはコインの裏表のようなもので分けることができない。崇高な人間性が喚起されるとそれと同時に必ず獣性も浮かび上がる。犯罪の被害者への崇高な正義感・同情が発動されなければ、犯人への暴力性、殺せ殺せの大絶叫も発生しない。民衆の幸福を求めて発生した革命の裏では裏切者扱いされた人々の血が大量に流れる。獣性なしには人間は崇高になれない、獣性に出てこられたくなかったら、人間性を全く放棄しすべてのことに全く無関心でそれこそ動物のように自分のエサだけを考えて暮らしていくしかない。この考えが「ちょうどコカインが体の毒であるように、心の毒として」主人公をむしばんでいく。このモチーフは第二章でも描かれた、一方ではソーニャへの(崇高な)愛と喜び、他方では母親に対する獣性(冷酷さ)、第三章の相手に苦しみを与えるのが愛情であるという部分にもはっきり見て取れる。
 主人公はまた幻想にも襲われ、夢を見る。自分が命じて「家来」に母親を刺し殺させる夢だ。目が覚めると主人公はもう何か月も帰っていない自分(と母)の家に行く。帰ってみると誰もいない。母の寝室も真っ暗である。周りを見回してみるとそこで母が首をつって死んでいた。絶叫しながらも主人公は同時にまた今回も「目が覚める」のではないかという感じを捨てきれない(また読者の方もこれが事実だという明確な答えを与えられない)。またコカインの売人をそこに呼び寄せて吸い続ける。

 主人公の自筆による物語はここで終わり、この後主人公を収容した病院の医者の報告が4ページほど続く。それによると主人公は完全にコカインに犯されていてもう病院では手の施しようがなかったので、どこかのサナトリウムか療養所に行くしかない。しかしそこに入るにはなにがしか社会(=革命)に貢献している人物でないといけない。親戚はいないのか?と医者に聞かれて主人公は答える:母は死んだ。何くれとなく面倒を見てくれた乳母は今はもう自分が人の施しで生きている状態だ。友人のエゴロフは外国に行ってしまった。もう一人の友人ブルケヴィッツは今どこにいるのかわからない。
 すると医者は驚いて「ブルケヴィッツ同志なら現在医者として療養所に務めている。その推薦があれば療養所に入れる」。それを聞くと主人公は医者の「今日はもう遅いし寒いから明日行きなさい」という忠告を無視して外に飛び出していき、翌日の朝12時ごろ死体で発見されブルケヴィッツの病院に運び込まれる。
 所持品には(読者が今まで読んできた)手記があり、そこの最初のページに凍えたような字で「ブルケヴィッツ拒否す」と書かれていた。

 実は第一章のГимназияにはサブタイトルとしてБуркевиц отказал(「ブルケヴィッツ拒否す」)とあるのだが、読者には最後の瞬間までこの意味が分からない。私も「なんだこれは」と読んでいる間中気になっていた。最後の最後に一気に謎が解ける、といいたいところだが、これも母の縊死と同様ブルケヴィッツは本当に拒否したのか、それとも主人公の妄想であったのかわからないのである。

小説の最初のページ。Буркевиц отказалというサブタイトルに読者は最後まで引っかかる。
burkevits

 以上がストーリーだが、この小説はその他にもモスクワの凍てつくような冬の描写、登場人物の細かい観察など文体も優れている。その中でも特に心をえぐる文章は縊死した母親を主人公が暗闇で見つけるシーンだろう。

Постель была не раскрыта, пуста. Сразу исчез теплый запах спящего вблизи тела. Но я все-таки присел, повернул голову к шкафу, и вот тут-то, наконец, я увидел мать. Ее голова была высоко, у самой верхушки шкафа, там, где кончалась последняя виньетка. Но зачем же она туда взобралась и на чем она стоит. Но в то же мгновение как это возникло в моей голове, я уже ощутил отвратительную слабость испуга в ногах и в мочевом пузыре. Мать не стояла. Она висела — и прямо на меня глядела своей серой мордой удавленницы.

ベッドは覆いがかかったままだった。誰も寝ていない。そばでしていた眠っている者の体の暖かい臭いはすぐ消えてしまった。それでも僕はベッドに腰をおろして顔を戸棚の方に向けた。するとそこで初めて母が目に入った。顔はとても高いところにあった。戸棚の一番上のほうだった。彫ってある唐草模様の端のところだ。けれどどうしてそんなところによじ登ったのだろう。何の上に立っているのだろう。だがそういう考えが頭をかすめたその瞬間、僕はもう足と膀胱に驚愕が引き起こすむかむかするような脱力感を感じていた。そうだ、母は立っていたのではなかった。下がっていたのだった。そして縊死した者の灰色い面つきをしてまっすぐに僕を見つめていたのだ。
(翻訳:人食いアヒルの子)

 作者の身元詮索の騒ぎのほうが小説そのものをめぐる議論より大きくなってしまったのはある意味不幸なことであった。作者不詳ということで読者の興味を煽った出版社の売らんかな主義作戦というネガティブ評価もないではない。とにかく自分で読んで判断するしかなかろう。

縊死した母親の描写が出てくるのは小説の最後のほうである。
mat

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