若い人はもう覚えていない、と言うよりまだ生まれていないだろうが、むかしソ連からベレンコ中尉という人がミグ25(MiG25)という戦闘機に乗って日本にやってきて、そこからさらにアメリカに亡命申請する、という事件があった。日本中大騒ぎだったが、この事件はよく考えるととても面白い。
まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。
そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。
ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。
さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。
自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
人気ブログランキングへ
まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。
そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。
ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。
さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。
自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
人気ブログランキングへ