アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ポルトガル語

 セルジオ・レオーネ監督の第二作(『ロード島の要塞』を入れれば第三作目)『夕陽のガンマン』の英語タイトルは For a few Dollars more(あともう少しのドルのために)というが、これは現ロマンス諸語のDVDのタイトルなどでは以下のようになっている。
Tabelle1-N29
カタロニア語以外の言語では実際にこういう名前でDVDが出ていたりウィキペディアに項があったりするが、カタロニア語のはちょっと参考のために他の言語のタイトルを翻訳してみたもので、実際にこういうタイトルでDVDがあるわけではない。カタロニア人はスペイン語バージョンを観賞すればいいらしくカタロニア語への具着替えなどはないと見える。

 さてこうして並べて眺めてみるとロマンス語派の言語が二つグループに分けられることがわかる:英語の more にあたる語がイタリア語、フランス語、ルーマニア語ではそれぞれ più, plus, plu と p- で始まり、スペイン語、ポルトガル語、カタロニア語では m- が頭についている(それぞれ más, mais, més)。つまりいわば m- グループと p- グループに別れているのだ。
 調べてみるとまず più, plus, plu はラテン語の plūs から来ているそうだ。これは形容詞 multus「たくさんの、多くの」の比較級。以下に主格形のみ示す。
Tabelle2-N29
比較級は単数形では性の区別を失い、男・女・中すべて plūs に統一されている。原級と比較級・最上級との形が違いすぎるからこれはいわゆる補充形パラダイムという現象だろうと思って調べてみたらまず原級 multus の印欧祖語形は *ml̥tós(「くずれた」「崩壊した」)(!)と推定されている。動詞の分詞だが、その大元の動詞というのが *mel- とされ、これは「心配する」「遅れる」だそうだ。うーん、印欧語祖語というのはジグムント・フロイトの精神分析と同じくらいスリルがある。イタリック祖語まで下るとだと *moltos(「たくさんの」)になるそうだ。
 対して比較級の plūs はイタリック祖語の推定形 *plēōs(「より多く」)で、印欧語祖語に遡ると*pleh₁-yōs。これは分詞ではなく動詞語幹の *pleh₁- に *-yōs という形がくっついたもので、前者は動詞、後者は意味を強める形態素だそうだ。動詞の *pleh₁- は「満たす」。時代を下りに下ったゲルマン語派、古期英語の feolo あるいは fiolu、ドイツ語の viel、オランダ語の veel(「たくさんの」)など皆同源である。この、p から f への音韻推移、印欧語の無声閉鎖音がゲルマン語派で調音点を同じくする無声摩擦音に移行した過程はグリムの法則あるいは第一次音韻推移と呼ばれ、ドイツ語学習者は必ず覚えさせられる(そしてたいていすぐ忘れる。ごめんなさい)。
 ついでに *pleh₁- はサンスクリットでは pṝ-、サルディニア語で prus で、なんと l が r になっているではないか。これでは「 lと r の区別ができない」といって日本人をあざ笑えない。

 この plūs 形に対してスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語の mais、más、més 等はラテン語の magis が語源。これは形容詞 magnus「大きい」の比較級からさらに派生された副詞だそうだ。まず元の形容詞 magnus だが、次のように変化する。
Tabelle3-N29
こちらのパラダイムは補充形ではないが、比較級だけ別のタイプの語形変化を見せている。原級と最上級が同じパターンの語形変化というのは上の補充形 multus も同じで、原級と multus と最上級 plūrimusは本来別語であるにもかかわらず、変化のタイプだけは同じだ。そしてそこでも比較級 plūs だけが変な(?)変化をしていて、しかもそれがここの比較級 māior と同じパターンなのがわかる。原級 magnus、比較級 māior のイタリック祖語形はそれぞれ *magnos、*magjōs で、それらをさらに印欧祖語にまでさかのぼるとそれぞれ *m̥ǵh₂nós と *méǵh₂yōs。どちらも「大きい」という意味の形容詞 *meǵh₂- からの派生だが比較級の方はさらに *meǵh₂-  +‎ *-yōs に分解できる。後者は上でお馴染みになった程度を強める形態素だ。
 上で述べたラテン語の magis という形はイタリック祖語でも *magis。比較級 *magjōs の短形、ということはやはり印欧祖語の *meǵh₂-  に遡る。この比較級の中性形が副詞的な使われ方をするようになったものだとのことだ。*magis はイタリック祖語の時代にすでにラテン語 plūs と同じく、単数形に性の区別がなかったと見られ、ラテン語では副詞、つまり不変化詞になっていた。これはあくまで私の考えだが、「男性・女性・中性の形の区別がなくなった」というのは要するに単数中性形だけが残って男性女性を吸収し、さらにそれが副詞として固定したという意味ではないだろうか。ちょっと飛び火するが、「形容詞の(短形)中性単数形が副詞化する」という現象は現在のロシア語でも頻繁に見られるのだ。その際アクセントの位置がよく変わるので困るが。たとえば「良い」という意味の形容詞の長形・短形はこんな感じになる。
Tabelle4-N29
アクセントのあるシラブルは太字で示した。中性単数の хорошо は副詞として機能し、Я говорю хорошо по-русски は「私はロシア語をよく話します」つまり「私はロシア語が上手い」(ウソつけ)。上のplūsもある意味ではこの単・中 → 副詞という移行のパターンを踏襲しているとみなしていいのではないだろうか、文法性の差を失ってしまっている、ということはつまり「中性で統一」ということではないだろうか。と思ったのでplūs の表をそんな感じにしておいた。

さてこの、more にあたる単語が p- で始まるか m- で始まるか、言い換えると plūs 系か magis 系かは『17.言語の股裂き』の項でも述べた複数形の形成方法とともにロマンス語派を下位区分する際重要な基準のようだ。plūs 組はイタリア語、フランス語、のほかにロマンシュ語(pli)、サルディニア語(上述。prus または pius)、イタリア語ピエモント方言(pi)など。同リグリア方言の ciù もこれに含まれるという。magis 組はスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語以外にはアルマニア語(ma)、ガリシア語(máis)、オクシタン語(mai)。
 フランス語が plūs 組なのにオクシタン語が magis 組だったりするところが面白いとは思うのだが、実はこの区別はあくまでどちらの形が優勢かということで、形自体は p- も m- もどちらも持っている。つまり plūs 組言語には magis 系の単語が存在しないというわけではないらしい。
 例えばルーマニア語だが、映画のタイトルは上のように plūs 系語が使われている。またそこら辺の翻訳機械で Per qualche dollaro in più を訳させるとタイトル通りPentru câțiva dolari în plus と出てくる。しかし more だけ入れると mai mult と magis 系が出る。どっちなんだと思って別の翻訳機械にかけてみたら Pentru câțiva dolari în plus が出たその下に選択肢として Pentru câțiva dolari mai mult が登場する。上述の分類リストにはリーマニア語が magis 組のほうに載っていた。つまりどっちもアリなんじゃん。
 ポルトガル語でも中世 p- 系の chus という語も使われていたそうだ。chus が p- 形と聞くと意外な気がするが、上記のイタリア語リグリア方言 ciù が p- 起源だそうだから chus が実は P形であってもおかしくない。とにかく最終的には m- 形の mais が優勢になったらしい

 「両方ある」という点では厳密に言えばイタリア語、フランス語もそう。フランス語の mais(「けれど」)はこの magis 起源だそうだ。さらにイタリア語でたとえば nessuno ... mai(「誰も…ない」)、non ... mai(「決して…ない」)、mai più(「もう決して…ない」)などの言い回しで使う、否定の意味を強める mai の元もこれ。最後の例では p- 形と m- 形がかち合っている。mai はさらに疑問の意味も強めることができ、come mai non vieti? は「何だって君は来ないんだ?!」。相当機能変化を起こしてはいるが単語自体はあるのだ。フランス語の mais にあたるイタリア語 ma(「けれど」)も当然同源である。

 話がそれるが、イタリア語の più がフランス語で plus になっているのが私にはとても興味深い。ロシア語に同じような音韻現象があるからだ。
 まず、più の p は後続の母音iに引っ張られて口蓋化しているはずだ。この、本来「口蓋化した p」に円唇母音(つまり u)が続くとフランス語では p と u の間に唇音 l が現れる。ロシア語では例えば「買う」の完了体動詞(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)の不定形は купить(ローマ字では kup'it' と表すが、この「'」が「口蓋化した子音」という意味)だが、これの一人称単数未来形は、理屈では купью(kup'ju)になるはずなのに実際の形は куплю(kuplju)と、どこからともなく l が介入する。対応する有声子音 b の場合も同様で、「愛する」という動詞 любить (ljubit')の一人称単数現在形は、なるはずの形 любью(ljub'ju)にならずに люблю(ljublju)という形をとる。

 というわけでロマンス語派のタイトルは plūs と magi のそれこそ決闘が見られて血沸き肉躍るのに比べゲルマン語派はバリエーションがないので退屈だ。
Tabelle5-N29
デンマーク語、アイスランド語は翻訳機にかけた結果だが、同語源なのは一目瞭然。これらは皆 magis  のところでお馴染みになった印欧祖語形 *méǵh₂s の子孫である。

 ついでにスラブ語もみてみよう。
Tabelle6-N29
クロアチア語ではなぜか a few がスッポ抜けているが、とにかくスラブ語派はゲルマン語派より割れ始めた日が浅いのに more に2グループあることが見て取れる。ロシア語、ウクライナ語、つまり東スラブ語派では b(б)で始まるのに対し、その他の南・西スラブ語派言語は皆 v(в)だ。チェコ語、ブルガリア語、マケドニア語のの more、それぞれ navíc、повече、повеќе の頭についている na- や po-(по-)は、元来前置詞、いわばイタリア語などの de あるいは in に相当するから無視していい。本体はそれぞれ víc、вече、веќе、つまり v 組である。
 分離したのが古いため元の語の原形がわかりにくかったロマンス語派と違ってスラブ語派は語源が一目瞭然だ。瞭然過ぎて決闘という感じがしないためややスリルに欠けるが、ロシア語の больше は「大きい」という形容詞 большой の比較級である。主格形だけ見てみよう。
Tabelle7-N29Tabelle7-N29
この「ボリショイ」という言葉はひょっとしたら最も有名なロシア語の一つかもしれないが、非常に厄介なイレギュラー単語である。まず原級の短形が存在せず別語を持ってきて補充形パラダイムを作る。さらに比較級の長形を持つという稀有な存在。普通はもう比較級を分析的なやり方、英語の more beautiful のように形容詞の原級の前に более をつけて表す。さらに最上級の形成に原級形ではなく比較級の長形を使っている、普通は原級である。「普通の」形容詞、「美しい」と比較するとイレギュラーぶりがよくわかる。
Tabelle8-N29
ウクライナ語も同じメカニズム、「大きい」という形容詞の比較級短形を使うという方法を踏襲しているのは明らかだ。
 次に他のスラブ諸語が使っている  v 系語だが、これも先のロマンス語のように語自体はロシア語にも存在する。выше という語で、これは「高い」という形容詞 высокий の比較級だ。
Tabelle9-N29
最上級に2種あるが、二つ目の形は「大きい」の比較級に対応している。これは本来比較級だったのが最上級に昇格したのか、逆にこれも本来最上級だったのに上の「大きい」では比較級に降格されたのかどちらかだろう。南・西スラブ語では「より大きい」でなく「より高い」を more として使っているわけだ。
 せっかくだから両形容詞の語源を調べたら、「大きい」はスラブ祖語再建形が *velьjь(「大きい」)、印欧祖語形 *welh₁- 。「選ぶ」とか「欲する」とかいう意味だそうだ。本当かよ。「高い」はスラブ祖語の「高度」*vysь から。印欧祖語では *h₃ewps- と推定されるそうだ。うーん…
 とにかくロマンス諸語でもゲルマン諸語でもスラブ諸語でも、どの形容詞から引っ張って来たかという点には差があるが、形容詞の比較級形を持ち出してきて「もっと」の表現に当てているという基本戦略は同じだということになる。

 さて、最初に言ったようにこの映画の日本語タイトルは『夕陽のガンマン』で、印欧祖語もラテン語も比較級もへったくれもなくなっているのが残念だ。ジャンルファンはよく単に「ドル2」とも言っている。セルジオ・レオーネがイーストウッドで撮った3つの作品が「ドル三部作」と呼ばれているからで、一作目(邦題『荒野の用心棒』)と二作目(『夕陽のガンマン』)の原題、それぞれ Per un pugno di dollari と Per qualche dollaro in più に「ドル」という言葉が入っているためである。三番目の『続・夕陽のガンマン』Il buono, il brutto, il cattivo は全然違ったタイトルなのだが、勢いで(?)「ドル3」と呼ばれたりしている。

この項続きます

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 前回の続きです。

 more にあたる語がplūs かmagis かという他にもう一点気になることがある。スラブ語にはちょっとお休みをいただいてロマンス語派とゲルマン語派の主なものだけもう一度見てみよう。
Tabelle1-N30
 問題は more の位置だ。ほとんど総ての言語で more にあたる語が dollars の後に来ているのに本国ポルドガル語のみ、more が a few dollars の前に来ている。ちょっとこの点を考えてみたい。なおここでは「本国」と「ブラジル」と分けてはあるが、別にブラジルでは本国形を使わない、あるいはその逆というわけではなく、要は「どちらでもいい」らしい。スペイン語もそうで、本国では南米形を使わないという意味ではない。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)や ein paar (a few)が Dollar の前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for + a few + dollars + more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここで mehr (more) を Dollar の前に持ってきた構造

?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけての NG 宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のように mehr (more)を ein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの * 印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more books あるいは some more books という語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員 For a few more dollars はOKだと言った。For a few dollars more のほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱり NG 宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でも más(more)は dólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

*Por unos cuantos más dólares と*Por más unos cuantos dólares の許容度に差があるかどうかは残念ながら聞きそびれてしまった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 次にいわゆる p- 組のフランス語ではスペイン語と同じく、more が名詞の前、ましてや a few の前には出られない。a few more books がフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some + books + of + more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques plus dollars
*Pour plus quelques dollars

の二つはどちらも却下した。
 同じくp-組のイタリア語では più (more) が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a + few + more + of + books

残念ながらネイティブが見つからなかったので Per qualche più dollaro とかなんとか more が dollars の前に出る構造が可能かどうかは未確認である。
 もっともロマンス語を見ると純粋に more にあたる語の位置に加えて前置詞の使い方がポイントになってくるようなので、ちょっと私の質問の仕方が悪かったかもしれない。またネイティブに聞いたといっても偶然そこに居合わせた人に(しかも一人だけ)よもやま話で持ちかけただけなのでとても「調査」などと言えるようなシロモノではない。いつか詳しく知りたいものだ。

 それでもここまでの結果を見てみると問題は実は「more にあたる語が dollars の前に出られるか否か」というよりむしろ「more (にあたる語)が a few (にあたる語)の前に出られるか否か」であることがわかる。言い換えると more (にあたる語。面倒くさいので以下単に括弧にいれて「more」と呼びます )は数量表現の前には出られないのである。シンタクス的には 「more」は数量表現を支配していると解釈できるから、支配要素が非支配要素の数量表現の後に来ていることになる。「支配・非支配」というのはちょっと専門的な用語になるが、いわゆる修飾語は被修飾語に支配されている関係と思っていい。a cute duck という句なら修飾語の cute は非修飾語の duck に支配されている。ついでに a は限定辞 deterniner として cute duck を支配する。
 とにかく「more 」は数量表演を支配するが、その際何を持って数量表現ととするかという点に言語による違いがあるらしい。通貨単位を含めた「a few dollars 」全体を数量表現と見なす、見なせるというのは全言語共通だが、英語はそこからさらに a few を切り離してこれを単独で数量表現とみなせるということだ。ドイツ語も実はそうなのだろう。上で述べたように Für ein paar mehr Dollar の否定に時間がかかったのはそのせいだと思う。その a few more dollars という構造だが、ここでは more は数量表現を支配する一方、後続の普通名詞 dollars  に支配されている、more が dollars  を修飾していることがわかる。違いを図で書くとこんな感じになりそうだ。

for [ [a few dollars] more] N
for [ [ [a few] more]N1 dollars]N2

つまりmore はある意味名詞なわけで、a few more dollars では名詞が別の名詞を修飾している状態、日本語の「母さんアヒル」と同じ構造だ。悔しいことに辞書を見たら more の項にしっかり「名詞」と載っていた。なぜ悔しいのかと言うと「わーい more って名詞じゃん!」というのは私が自分で発見した新事実だと思っていたからである。ちぇっ、もう皆知っていたのか…

 しかし実は「支配する要素は支配される要素の後ろに来なければいけない」という必然性はない。例えばフランス語では形容詞(支配される要素)が名詞(支配する要素)の後ろに来る。「more」が「a few」の前に出られないのか前者が後者をシンタクス上支配しているから、という理屈は成り立たないのである。では「more」はなぜ「a few」の前にでられないのか。私が(ない頭を必死にひねって)考えつく理由はたった一つ。「more」が数量表現の前に来ると「more than」(ドイツ語では mehr als)と紛らわしくなって意味が変わってしまう危険性が高すぎるからではないかなということだ。For more a few dollars あるいは Für mehr ein paar Dollar とやったら For more than a few dollars(Für mehr als ein paar Dollar)かと思われ、しかも more や als が欠けているから意味が違う上に文法的にも間違いということになり、意図した意味と乖離しすぎる。
 そういえばドイツ語には Für ein paar Dollar mehr の他にもう一つ「あともう少しのドルのために」を表す方法がある。副詞の noch を使うやり方だ。これは英語でいえば still とか in addition 、つまり「その上さらに」という副詞だが、als とツルんで「~以上」という意味になったり、他の句を支配したりなどと言う器用なことはできない。混同される虞が全くないので名詞句の前に立てる。

Für noch ein paar Dollar

しかし名詞を支配できないから数量表現と名詞の間に割って入って橋渡しすることができない。

* Für ein paar noch Dollar

またこれが文末、あるいは句の最後尾に来ると何かが大幅に省略されている感じで、そもそも意味が取れないそうだ。

* Für ein paar Dollar noch

では Für noch ein paar Dollar とFür ein paar Dollar mehr は完全に同じ機能かというと「含意が違う。後者の方が言外の意味が広い」そうだ。まず前者だが、含意としては当該人物が例えばすでに100ドル持っている、あるいは賞金稼ぎで100ドルのお尋ね者をゲットした。しかしさらに金が欲しいから働く。その「さらに」は5ドルかもしれないし、110ドルかもしれない。要は元金(?)100にいくらか上乗せされればいいのだ。これが基本の意味で、後者もその意味で解釈していい。しかし後者ではもう一つの意味解釈ができる。前回100ドルの懸賞金を得た当該人物がさらに今度は100ドル以上の賞金のついたお尋ね者を狙う、つまり懸賞金のグレードアップというニュアンスの解釈が可能だそうだ。「これは明らかにレオーネの前作 Per un pugno di dollari (「一握りのドルのために」、邦題『荒野の用心棒』)への暗示だ。」いやネイティブというのは言うことが細かい細かい。

 さて、ではその間違えやすい For more than a few dollars の方は上にあげた言語ではどういうのか、自動翻訳するとこうなった。これを思いついたときは周りにネイティブがいなかったので仕方なくディープ L 先生に頼ってしまったのである。「本国」と「南米」の区別は出来なかったのでスペイン語とポルトガル語の単なるバリエーションということにした。
Tabelle2-N30
 さて、ポルトガル語には mais(more)が数量表現の前に来ても「more than と誤解されない何か」があるのだろうか。他のロマンス語と何か決定的に違う点はあるのだろうか。For more than a few dollarsの意味ではポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順、「more」が「a few」の前に出るという下のようなウルトラCが可能だ(下記太字)。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかは未調査)

上の表をざっと見るとたった一つ思いつくことがある。他のロマンス諸語と違ってポルトガル語には「more than」の「than」を1語でなく do que と2語で表す方法があるということだ。1語しかないとわざと抜かしたのか聞きそびれたのかわからない、つまり more than なのか単なる more なのか紛らわしいが、さすがに2語抜けるとわざとであることが明確、つまり単なる more であることがはっきりするからOKとか。でも一方ポルトガル語にはスペイン語と全く閉口する形、Por mais de alguns dólares という「more」を1語で表す形もあるではないか。そのオトシマエはどうつけたらいいのだろう。無理やり解釈すれば、たとえ mais de という短い形があっても mais do que という存在が背後にあるので「than」をつけないのは意図的と解釈されやすく、短い de のほうを消してもわざとなのかうっかりなのかが混同されにくいとか。しかしそりゃあまりにも禅問答化しすぎなので、方向を変えて mais do que と mais de のどちらが古い形なのかちょっと考えてみた。
 まず、イタリア語の di、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の de は同語源、皆ラテン語の前置詞 dē(of, from)から来たものだ。ポルトガル語の do の方はしかしもともとは2語、de  + o で、後者は the である。つまりこの語はポルトガル語内で発生した比較的新しい語だということだ。だから他のロマンス語と並行するポルトガル語形 Por mais de alguns dólares は古い形、やや廃れつつある形なのではないだろうか。もう一つ、スペイン語にもポルトガル語にも「than」に que を使う構造がある。この que はラテン語の quid(that, what)だが、スペイン語の por más que unos pocos dólares が文句なく For more than a few dollars であるのに対し、ポルトガル語の Por mais que alguns dólares は文句大ありの形である。なぜスペイン語に文句がないのかと言うと、この形を英語やドイツ語、果てはフランス語などの逆翻訳すると例外なく For more than a few dollars にあたる形が出て来るからだ。一方ポルトガル語の方は逆翻訳すると英語でもドイツ語でも意味が違って出てくる。どうもこの que だけ使うポルトガル語表現はマージナルなのではないだろうか。これらを要するに、ポルトガル語では「than」に2語使う Por mais do que alguns dólares がメインであるために「more than」と「more」の区別がつきやすく、mais がalguns dólares(a few dollars)の前に出て For a few dollars more の意味を担うことを許したのではないだろうか。
 でもなぜいくら条件が許したからと言って mais は大人しく最後尾に引っこんでいないで前にしゃしゃり出る気になったのか。別に誰も「おい、mais、前に出ろ」とは言っていないのだ。これもわからないのだが、たった一つ私に考えつくのは上でもチョロッと述べたようにロマンス語は本来支配要素が非支配要素の前に立つのが基本だということだ。最後尾に甘んじてはいても実はスペイン語の más もイタリア語の più も以前から前に出たくて出たくてしかたなかったのかもしれない。そうやっていたところポルドガル語で条件が整ったのでヒャッホーとばかり名詞句の前に出たとか。
 もしそうだとするとそのポルトガル語ヒャッホー形は新しい「more than」表現 mais do que よりさらに下った時代のイノベーションということになるが、この記事の冒頭や前回述べたように Por uns dólares a mais がブラジルポルトガル語、Por mais alguns dólares が本国ポルトガル語とされていることが実に興味深い。言語学には波動説というものがあり、「周辺部の形は当該言語の古形を表す」という現象が知られているからだ。例えばいつかオランダ語のネイティブが言っていたが、アフリカーンス語(『89.白いアフリカ人』参照)はとても古風なオランダ語に見えるそうだ。アフリカーンスはいわばオランダ語の周辺バリエーションだから古い形を保持している。この図式をポルトガル語に当てはめるとブラジル・ポルトガル語は「より古い形が残っている」ことになり、Por mais alguns dólares はポルトガル語の比較的新しいイノベーションという見方にマッチする。

 以上が私の考えだが、繰り返すようにこれは超テキトー&穴だらけなネイティブ「調査」に端を発し、あげくはディープL先生のおっしゃったことを鵜呑みにして無理やり出した結論だから、アサッテの方角にトンチンカン砲を放っている虞大ありだ。何か知っている方がいらっしゃったら教えていただけるとありがたい。

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 「二重否定」または「多重否定」という言葉を語学の授業ではよく聞くが、私は今までこの「多重否定」というのをちょっと広すぎる意味でボーっと理解していた。 

 否定の言葉をセンテンス内で2度使うという同じ構造がまったく反対の機能をもつようになることがある。一つは否定が否定されて結局肯定の意味になるもの。日本語の「ないものはない」が「すべてある」、「なくはない」が「ある」の意味になるのがこの例だ。マイナスにマイナスをかけるとプラスになるようなもの。ドイツ語だと、

Er ist nicht untalentiert.
He + is + not + untalented
→ 彼は才能がなくない = 彼は才能がある

オランダ語にも例があって、

Jan heeft niet niemand gebeld
Jan + has + not + nobody + called
→  ‘Jan didn’t call nobody’ = ‘Jan called somebody’


しかしこれとは反対に否定を重ねてもやっぱり否定の意味になるものがある。いやそれどころか重ねることで否定がパワーアップされることさえある。有名なのがロシア語で、否定詞を重ねるのが義務で、うっかり一方を忘れると「ちゃんと最後まで否定しろ!」と怒られる。 例えば

Я не пойду никуда.

という文ではне が英語のnot、никуда がnowhereだから直訳するとI don’t go nowhere。でもこれは「行かないところはない」という肯定的意味ではなくて「私はどこにも行かない」だ。同様に

Я не знаю никаких лингвистов.

も、直訳するとI don’t know no linguistsで、少ししつこい感じだが、ロシア語ではこれは正規の否定形だ。「私には言語学者の知り合いがいない」。
 私はいままでこういうのも「二重否定」と呼んでいたのだが、こちらの方はnegative concord(「否定の呼応」)と呼んで「二重否定」とは区別しないといけないそうだ。でもまあ、研究者にもdouble negativeに否定の呼応を含める人も「いないことはない」から、私だけが特にいい加減な理解をしていたわけでもないらしい。
 ロシア語以外のスラブ諸語でも否定形は基本的にこの呼応タイプが標準だそうだ。例を挙げると:

チェコ語
Milan nikomu nevolá
Milan + nobody + not-calls
→ ミランは誰にも電話しない。(ne と ni が否定の形態素)

ポーランド語
Janek nie pomaga nikomu Polish
Janek + not +  helps + nobody
→ ヤネクは誰のことも助けない。(nie と ni が否定の形態素)

セルビア語・クロアチア語
Milan ne vidi nista.
Milan + not + see + nothing
→ ミランには何も見えない。
(ne と ni が否定の形態素)

 英語では基本的には否定が重なると肯定、つまり「ないものはない」タイプの二重否定だが、実際には否定の呼応も使われている。日常会話では次のような言い回しも使われるそうだ。
 
I don't feel nothin’.  → 私は何も感じない。
We don't need no water.  → 私たちには水は要らない。
I can't get no sleep.  → 私は眠れない。

ATTIKA7とかいうメタルバンドのアルバムBlood of My Enemiesに収められているCrackermanというソングにも

I don’t need no reason. → 俺には分別などいらない。

という歌詞が見つかる。

なお、古期英語や中期英語では否定の呼応が普通に使われていたそうだ。
 
 同様にしてドイツ語でも作家が時々否定の呼応を使っている例がある。クリスティアン・モルゲンシュテルンの『3羽のすずめ』という詩に、

So warm wie der Hans hat's niemand nicht.
so + warm + like/as + that Hans + has it + nobody + not
→ ハンスほど暖かい者は誰もいない 


という例がある。なおここの「暖かい」というのは心が温かいということではなくて、体が暖かだという意味だ。3羽の真ん中にいるハンスという名前のすずめは冷たい風に当たらないから一番暖かいと言っているに過ぎない。
 さらに中高ドイツ語で書かれたハルトマン・フォン・アウエの『エーレク』88行目が次のような文である。

ir ensît niht wîse liute,
you + not-are + not + wise/clever + people
→ そなたは賢き人にあらず。(en と niht が否定の形態素)


方言や日常生活では否定の呼応がゴロゴロ現れる。例えば低地ドイツ語で、

Dat will ick för keen Geld nich.
that + will + I + for + no + money + not
→ お金を貰ってもそれはやらない

私もドイツ人が

Du hast keine Ahnung von Nichts.
you + have + no + idea + of + nothing
→ 君は全く何もわかっていない。


とかいう言い回しを使っているのを聞いたことがある。でも一方でこの言い方を「受け入れがたいドイツ語」と拒否するドイツ人もいるから、言葉には揺れがあるのがわかる。
 
 ラテン語では二重否定は「肯定を強める」そうで、non nescire(not + no-know)は「とてもよく知っている」という意味だ。だがその子孫のロマンス諸語ではちゃっかり「否定の呼応」が現れる。現れるは現れるが、シンタクスの構造によっては否定が呼応してはいけない場合があるそうだ。* がついているのは非文である。

イタリア語
Non ha telefonato nessuno.
not +  has + called + nobody
→ 誰も電話して来なかった。


* Nessuno non ha telefonato. (この場合にはnonをとらないといけない)

スペイン語
No vino nadie.
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


* Nadie no vino.  (noをとる)

ポルトガル語
Não veio ninguém.
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


* Ninguém não veio. (nãoをとる)

ルーマニア語だと

Nu suna nimeni
not + calls + nobody
→ 誰も電話しない


という形がOKなのは上の伊・西・葡語と同様だが、さらにそこではボツを食らった構造

Nimeni nu suna

が許されるそうだ。ルーマニア語ネイティブの確認を取ったからその通りなのだろう。伊・西・葡語と違ってここでnu (not) をとらなくてもいいのだ。

 カタロニア語とフランス語は普通の一重否定でもすでに ne と pas の二つの語で挟むから、話がややこしくなるが、否定が呼応することがあるのがわかる。カタロニア語の pas はオプション。

カタロニア語
No functiona (pas) res
not + works + (not) + nothing
→ 何も機能しない。

フランス語
Jean ne dit rien à personne
Jean + not + says + nothing + to + anybody
→ ジャンは誰にも何も言わない。


ギリシア語では古典でも現代でも「否定詞が重複して用いられた場合、相殺して肯定の意味になる時と、これと反対にむしろ否定の意味が強められる場合とがある」とのことだ。両刀使いだ。

否定+否定=肯定 (古典ギリシア語)
ουδείς ουκ επασχε τι
nobody + not +  was suffering + something
→ 何か(ひどい目に)遭わない人は一人もいなかった。
→ 全員何かしらひどい目に遭っていた。


否定の呼応 (古典ギリシア語)
μή θορυβήση μηδείς
do not let +  raise an uproar + nobody/nothing
→ 誰にも騒ぎを起こさせるな


否定の呼応 (現代ギリシア語)
δεν ήρθε κανένας
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


 現代ギリシア語も上のルーマニア語と同様 nobody (κανένας)が文頭に来ても not (δεν)はそのまま居残っていい。伊・西・葡語と違う点だ。 

κανένας δεν ήρθε
→ 誰も来なかった。

前にも一度述べたように、ルーマニア語は現代ギリシア語、ブルガリア語(およびマケドニア語)、アルバニア語と言語構造に顕著な類似性を示し、「バルカン現象」と呼ばれているが(『18.バルカン言語連合』の項参照)、これもひょっとしたらその一環かもしれない。

 否定の呼応が結構いろいろな言語に見られるのにも驚いたが、それよりびっくりしたのが、このテーマを扱っている論文の多さだ。何気なく検索してみたら出るわ出るわ、何千も論文があるし、否定の呼応について丸々一冊本を出している人、博士論文を書いている人、つまりこれをライフワークにしている言語学者がウジャウジャいる。しかもその際ハードコアな論理学・生成文法系のアプローチがガンガン出てきて難しくて難しくてとても私なんぞの手に負える代物ではない。せっかくだからそのうちの一つ、古教会スラブ語から現代チェコ語に至る否定の呼応状況を調査した論文を一本紹介するが、私は読んでいない。たらい回しのようで申し訳ない。
Dočekal, Mojmír. 2009. "Negative Concord: from Old Church Slavonic to Contemporary Czech". In: Wiener Slawistischer Almanach Linguistische Reihe Sonderband 74: 29-41


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 何年か前、オーストラリアのラジオ局の軽はずみな冗談が人を一人死なせたことがあった。

 当時第一子出産のためにケート妃が入院していた病院にDJが二人して英王室の者を装ってイタズラ電話をかけ、中の様子を聞きだそうとした。電話対応に慣れているいつもの職員がその時たまたま電話を取らず、看護婦さんの一人が電話をとったが、有名人に対してマスコミがよくやる低俗な突撃レポート的な攻勢に慣れておらず、電話をを真に受け、「わかりました、ちょっとお待ちください」と丁寧にとりついで内部の者につないだ。つながれた人は別の職員だったが、王室の者だと最初の看護婦さんがつげたため、内部の様子をいろいろ話してしまった。そのやり取りをオーストラリアのDJたちはラジオで曝し、DJは自分のツイートで「あそこまで簡単に引っかかる人も珍しい」とか何とか騙された看護婦さんを嘲笑った。ところがその看護婦さんは恥ずかしさと責任感から自殺してしまったのである。あとには夫と子供たちが残された。
 その直後はさすがにDJ二人もラジオ局も一応の誠意は見せて神妙に謝罪したが、さらにその後DJの一人がオーストラリアで何かの賞をとったと記憶している。視聴率、というか視なしの聴率を稼いだからだ。本当に後味の悪い事件だったが、これはこういうことを企画したラジオ局やそれをやったDJだけを責めてすむ問題ではないと思う。人が引っ掛けられたりかつがれたりするの見るのが面白いと感じる人が世の中にいる限りこの手の番組は製作され続けるだろう。ある意味では私たち視聴者がこの真面目な看護婦さんを死に追いやったのである。

 さて、そうやって亡くなられた看護婦さんはJacintha Saldanhaという名前のインド人だった。この苗字だが、-nh-という綴りが入っていて明らかにポルトガル語ではないか。hをnの後ろにつけると口蓋化のn、つまりニャ・ニュ・ニョとなるはずだ。名前のJacinthaのほうも見るからにヨーロッパ系で、調べてみたらギリシャ語の「ヒヤシンス」と同源だそうだ。この名前の別バージョンとしてcinthaという形もある。英語のCinthiaあるいはCynthiaと似ているがこちらのほうは全く別語源である。
 どうしてインド人がこういう名前なのか気になってさらに調べてみたら、ヴァスコ・ダ・ガマの時代からインド(の一部)では途切れることなくポルトガル語が母語として話されているらしい。ゴアは1947年にインドがイギリスから独立した時も、香港やマカオと同じく本国のインドには属さず、当時のサラザール政権はインドの度重なる返還要求にも首を縦に振らなかった。シビレを切らしたインド政府が強硬手段に出てゴアを占領し、ここを事実上インド領にしたのはやっとつい最近(でもないが)の1961年のことだ。さらにそれをポルトガル政府が承認したのはサラザールの死後、1974年のことである。故人はMangaloreというゴアの近くの町の出身だったが、ゴア周りばかりでなくインド南東部にもポルトガル語地域がある。そういえば「カースト」という言葉はもともとポルトガル語だったはずだ。
 確かに現在では英語やヒンディー語に押されていってはいるが、年配の人にはポルトガル語を母語とする人がまだいるそうだ。

Map_of_Portuguese_India
インドのポルトガル語地域。Mangaloreという地名ににしっかりマルがついている。(ウィキペディアから)

 知っている人にたまたまタミール・ナドゥから来ている人がいたのでちょっと聞いてみたことがあるが、「はい、ポルトガル人の子孫はタミール・ナドゥに結構います。私の知り合いにもポルトガルが母語の人がいます。全員タミル語とのバイリンガルですが。ポルトガル語話者は北インドにもいます。あと、フランス人話者もいて、彼らには出生と同時に自動的にフランス国籍が与えられるので、成長するとフランスに「帰る」ことが多いです。」とのことだった。上の図を見ると確かにインドの北西部には小さなポルトガル語地域が見えるし、さらに調べてみるとタミール・ナドゥには本当にフランス語地域がある。

French_India_1815
これはちょっと古い時代のフランス語地域だが、なるほどこれなら今でもフランス語話者がいるだろう。(これもウィキペディア)

 ポルトガル語といえば自動的にブラジルが思い浮かぶが、実はアフリカにもポルトガル地域が結構ある。アフリカ西岸の島国、カーボヴェルデやギニアビサウ、果ては南アフリカでもちゃっかりポルトガル語が使われているが、アフリカで最も重要なポルトガル語国はなんと言ってもアンゴラとモザンビークだろう。ここでは西岸の島国と違ってポルトガル語ベースのクレオールではなく、狭い意味での「ポルトガル語」が話され、公用語にもなっている。住民の大多数がポルトガル語を話せるし、2013年現在でこの両国で合わせて4500万人ほどのポルトガル語話者がいるそうだ。2億人のブラジルほどではないが本国の人口は1000万人くらいだからその4倍だ。その他のアフリカの国々のポルトガル語人口も全部合わせると8000万人から一億人にもなるという。そういえばサッカーのポルトガルチームに時々黒人選手が混じっているのを見かけるが、アンゴラかモザンビークの出身なのかもしれない。だとすると言葉には全く困らないはずだ。前にTVでアフリカのこのあたりの地域のドキュメンタリーをやっていたが、現地の人、つまり黒人がポルトガル語の名前だったし、ポルトガル語をしゃべっていた。

 アジアではインドのほかにマカオと東チモールが旧ポルトガル領として有名だが、マカオでは最後までポルトガル語があまり浸透せずに終わった。東チモールでは1975年にここを軍事併合したインドネシアが1981年以来ポルトガル語を一切公式の場から追放したため、今では住民の1割くらいしかポルトガル語ができないそうだ。2002年インドネシアが撤退して東チモールが独立した時、再びポルトガル語に公用語の地位が与えられた。
 以前さる日本の方から聞いた話だが、その人の母方に東ティモール出身のインドネシア人の友人がいたそうで、祖母の代までポルトガル語を話していたといっていたそうだ。それにしてもインドのゴアにしろ、東チモールにしろポルトガル話者は年配の人ばかりのようで気になる。アフリカや南アメリカと違ってアジアでは周辺にヒンディー語、中国語、インドネシア語などの強力な現地語があったから、ポルトガル語は容易には浸透しなかったらしい。亡くなられた看護婦さんも名前は確かにポルトガル語だが、もしかすると言葉自体は話せなかったのかもしれない。現在アジアでのポルトガル人口は広い地域に散らばっているにも関わらず総計でも1万人に遥かに満たないという。アジアのポルトガル語は消滅していくかもしれない。今後が気になるところだ。


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 「お茶」のことをドイツ語でTee、英語でteaといい、語頭が t 、つまり歯茎閉鎖音になっているが、ロシア語だとчай [tɕæj] または[tʃaj]で日本語と同じく破擦音である。ロシア語ばかりではない、ペルシャ語やアラビア語、中央アジア・シベリアの言語でも「茶」は破擦音だ:トルコ語çay、ペルシャ語chāy、キルギス語чай、エベンキ語чаj、ネギダル語чаj、満州語cai、モンゴル語цай。これはどうしてなのかについては学生時代に(つまり大昔に)次のように聞いていた。
 橋本萬太郎氏によれば中国語の「茶」の語頭音は紀元前後には*dra、七世紀にはそり舌閉鎖音*ɖa、十世紀のころに破擦音[ʈʂa]となった。別の資料によれば「茶」の呉音は「ダ」、漢音「タ」、唐音「サ」だから、これが「チャ」と破擦音で発音されたのは漢音の閉鎖音が唐音の摩擦音に移行するまでの期間、紀元後3世紀から7世紀の間ということになり、7世紀にはそり舌ではあるが閉鎖音のɖだったという上の記述より300年ほど時代がずれるようだが、これは当時の日本語の音韻体系のせいである。つまり当時の「ち」「つ」という文字は現代日本語のような破擦音でなく閉鎖音、それぞれti、tuという発音であった。だから「ちゃ」は今の仮名でかくと「テャ」のような発音だったのである。そのころの日本語は今よりもずっと語頭の有声音を嫌った、というより有声・無声を区別しなかったと考えると*ɖaは確かに「テャ」、当時の表記では「ちゃ」と聞こえたと思われる。また「さ」の文字も当時の日本語では破擦音で、今の「さ」よりも「ちゃ」と読んだと思われるそうだから中国語では10世紀に「ちゃ」と破擦音になった、という説明と時期的に合致している。
 茶という植物は前漢の時代から知られていたらしいが、本格的に広まり出したのは唐からで、「茶」の字が定着したのも唐代だそうだ。日本には奈良時代に伝わった。中央アジアへも遅くとも宋の時代には伝播していたらしい。ヨーロッパ人が茶を知ったのはやっと18世紀である。

 この事実を踏まえて言語変化というものがどのように起こるかを考えてみよう。言語内に新しい形が生じた場合、それは当該言語内にいっぺんにどっと広まるのではない。その形が最初に生じた地点からしだいに回りに広まっていくのである。ちょうど池に石を投げ入れると石が落下した点を中心にして波が広がっていくような按配だから、これを「波動説」と呼んでいる。そして石を投げ込んだ地点から波がこちらの足元まで来るのにちょっと時間がかかるように、新しい言語形が周辺部にまで浸透するには随分かかり、周辺部にやっとその形が到達した時にはすでに中心部では別の形が生じていることが多い。また「周辺部」というのは純粋に物理的な距離のせいばかりでなく、間に山があったり川があったりして人が行きにくい辺鄙なところだと、距離的には近くとも新しい形が伝わるのに時間がかかる。人里はなれた周辺部の方言に当該言語の古形が残っていることが多いのはそのためである。
 例えば琉球語の方言には例えば八重山方言など日本語で「は」というところを「ぱ」でいうものがある。花をぱなというのだ。「はひふへほ」は江戸時代まで両唇摩擦音の[ɸ]、ファフィフフェフォだったことは実証されているが、さらに時代を遡って奈良時代以前には「パピプペポ」だったのではないかという説の根拠もここにある。『17.言語の股裂き』で述べた「西ロマンス諸語の-sによる複数主格は古い本来の形でによる複数主格はギリシア語からのイノベーションではないのか」という私の考えというか妄想もこの波動説の考えをもとにしたものである。

 中国語でもアモイ周辺など南部の方言には古い時代の閉鎖音が破擦音化せずに(そり舌性がなくなった上無声音化はしたが)まだ閉鎖音、即ちtで発音されているものがある。そういった方言形ををまずオランダ人が受け取り、そこからまたイギリス人などの欧米人に t の発音が横流しされたため、西ヨーロッパ中でtea だろTeeだろと言うのである。それに対してアジア大陸の人々はきちんと首都の発音を取り入れたから「チャイ」だろ「チャー」というのだ。ちゃんと首都に来て言葉を習え。もっともポルトガル語だけは例外でcháというチャ形をしているが、これはポルトガル人がオランダ人より早い時期に首都まで来て中国人と接したためか、またはゴアで一旦ヒンディー語を通したかのどちらかだろう。多分前者だとは思うが。というのはやはりその頃中国人と接したヴェネチアの商人にも茶をchiaiと伝えている者がいるからである。

 さて、橋本氏はここで、これだけの話だったら何も言語学者がしゃしゃり出るまでもないが、と断って話を続けている。つまりこんな話は誰でもわかっているということか。ここまでで十分面白い話だと思ってしまったドシロートの私は赤面である。
 
 橋本氏はじめ言語学者たちはここでロシア語чайやペルシャ語چایで[tʃaj]と語末に接近音(あるいは「半母音」)の [ j ] がついて、茶という語が「チャイ」というCVC構造になっていることに注目している。この語末の [ j ] がどこから来たのかについての議論がまた面白い。
 まず、村山七郎氏によるとロシア語のチャイは13世紀以降にモンゴル語の「茶葉」cha-yeを取り入れたもの、つまり「イ」は「葉」が退化した形だそうだ。ロシア語がモンゴル語から借用したことを証明する文献も残っている。このモンゴル語形が中央アジアにも広がったため「イ」のついた形になった。
 それに対して小松格氏は、これは中国の「茶」がペルシャ語に借用された際、[tʃa] だったものがペルシャ語の音韻体系に合うように後ろに j がくっついたためと反論している。ペルシャ語がCV型一音節の単語を極端に嫌うためで、本来nā(「竹」)がnāy、pā(「足」)がpāyになったのもこのためである。そしてこのペルシャ語形を通して「茶」という語がロシア語やその他の中央アジアの言葉に広がったためチャがチャイになった、という。
その反論に対して村山氏はさらに反論。pāy の y は付け加えられた接尾辞ではなく、もともとの語幹に帰するもの(*pād > pāy > på(y))、言い換えると変化の方向はpā→pāyではなくてむしろpāy →pāであり、「ペルシャ語でi(またはy)が加えられた」という説は成り立たない。しかもペルシャ語で「チャ」と並んで「チャイ」が現れるのはやっと17世紀になってからであり、時期的にも当てはまらない。さらにペルシア語で15世紀ごろには茶をčayehあるいは čayah とも記していて、これは「茶葉」である。
 この二説間の議論に上述の橋本氏がさらにコメントし、どちらの説にも説明できない部分があることを指摘した:村山説では9世紀にアラビア語ですでにshakhïと言っていた事実を説明できないし(現代では shāī)、小松説だとペルシャよりずっと中国に近くにいる民族の言葉で軒並み i がついていることが説明しにくい。上で述べた言語のほかにウイグル語の早期借用形 tʃaj、カザフ語 хаy、ネネツ語 сяйなどの例が挙げられる。橋本氏はそこで、「チャイ」の「イ」はもともとの中国語の「茶」の古い発音が反映されたもの、そのころは中国語の「茶」の音節がCVCであった証拠であるとした。実際「茶」と同じ韻を持つ単語には様々な方言で-iとして現れるものが多いということである。

 ここで私なんかがそれこそしゃしゃり出てコメントしたりすると言語学者から「顔を洗って出直して来い」といわれそうだが、ちょっと思いついたことを無責任に述べさせてもらいたい。学術的な根拠のない、単なる感想である。
 例えば上に挙げられていた言語のうち、シベリアの言語、エベンキ語やネギダル語、満州語などは距離的には中国に近くともあまり人の交流のない辺境地だったから、茶も古い時代に直接中国から伝わらずにやっとロシア帝国になってからロシア語を通したのではないかと一瞬思いそうになった。別の歴史の本などを読んでみると、唐代に最も中国人と接触のあったのはペルシャ人だそうで、長安にもたくさんペルシャ人が住んでいたらしい。だから「茶」という語が中間の言語をすっ飛ばしてまずペルシャ語に入り、そこを中継してテュルク諸語やモンゴル語に行き、さらにロシア語に入り、そこからシベリアに広まったというのは十分ありえることだ、と結論しそうになったが、ネネツ語сяйが摩擦音[sjaj] を示していて唸った。テュルク諸語の有力言語カザフ語も[x]であって音変化を起こしている。本当にロシア語もペルシャ語を通さず唐音を中国語から直接取り入れたのかもしれない。
でも仮に「イ」のついた「CVCのチャイ」が古い形を反映しているとしたらなぜ頭が閉鎖音ではなくて破擦音になっているのか疑問に思う向きのために橋本氏は先手を打って、茶という言葉の語頭子音が他の言語で破擦音で写し取れないような音であることは少なくとも中国語北方方言では一度もなかった、と主張している。つまりそり舌歯茎閉鎖音が他の言語の話者には破擦音あるいは摩擦音に聞こえた、ということになるのか。
 実は私はこの主張には思い当たることがある。ロシア語のть, дьである。これらは口蓋化された歯茎閉鎖音であるが、私には絶対「ティ」などではなくしっかり破擦音の「チ」に聞こえる。тя 、тю、тёも同様でそれぞれ「チャ、チュ、チョ」に聞こえる。私ばかりではない、そもそもть、дьのついたロシア語の単語を日本語に写し取る際は「チ」と書くではないか。それでговоритьと日本語で書くと「ガヴァリーチ」になる。さらにベラルーシ語ではロシア語の ть が実際に破擦音の ц になっていて、говоритьはベラルーシ語ではгаварыцьである。
 もちろんこれはあくまで「口蓋化閉鎖音」についてで、肝心の歯茎そり舌音の方は私には破擦音には聞こえない。それにいくら茶の古い時代の語頭子音が「破擦音として写し取れないような音ではなかった」としても、橋本氏があげている言語のうち、一つくらいは閉鎖音で表している言語があってもいいのではないだろうか。
 しかしそのまた一方で再現形の*ɖaというのはあくまでも文献や理論から導き出された音で誰も実際の音は聞いた事がない。そり舌が実際の音価だったという直接の証拠はないのである。もしかしたらその音はそり舌の上に口蓋化していたか、思い切り帯気音だったのかもしれない。
 もうひとつ私が思いつくのは、ひょっとしたら「茶」は結構時代が下った唐代になってもCVCだったのかもしれないということだ。上述のヴェネチア形でも後ろに i がついている。もっとも(自分で言い出しておいてすぐその後自分で否定するなら始めから黙っていたほうがよかったような気もするが)さすがにこれは可能性が薄いと思う。中国語学は豊富な文献、優れた研究者、学問重視の伝統に恵まれている。もし中古音時代にCVCだったりしたら誰かがとっくにそんなことは発見していたに違いない。

 と言うわけで「チャイ」の「イ」がどこから来たのかはわからないという結論だった。橋本氏も決して「チャイ」は中国語の古音を反映している、と確固として結論付けたわけではなく、一つの可能性として提案していたに過ぎない。

 この議論はすでに1980年代に交わされていた古いものだが、今現在はどういう結論になっているのだろうと思ってネットなどを見てみたらやっぱり「イ」の出所は不明となっていた。議論そのものはまだ続いているらしい。アモイ方言の閉鎖音はそもそも中国語の古形などではなくてチベット語から入ってきたものだ、という主張も見かけた。それにしてもたかがお茶一杯飲むたびにいちいちここまで深い話を展開していたらおちおちお茶も飲んでいられまい。もっとも日頃からあまりものを考えずチャラチャラ浅い生活している私のような者は猛省すべきだとは思った。


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古い記事ですがちょっと詰めが甘かったので(どうせいつも甘いじゃん)全面的に書き直しました。表も画像にしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 セルジオ・レオーネ監督の第二作(『ロード島の要塞』を入れれば第三作目)『夕陽のガンマン』の英語タイトルは For a few Dollars more(あともう少しのドルのために)というが、これは現ロマンス諸語のDVDのタイトルなどでは以下のようになっている。
Tabelle1-N29
カタロニア語以外の言語では実際にこういう名前でDVDが出ていたりウィキペディアに項があったりするが、カタロニア語のはちょっと参考のために他の言語のタイトルを翻訳してみたもので、実際にこういうタイトルでDVDがあるわけではない。カタロニア人はスペイン語バージョンを観賞すればいいらしくカタロニア語への具着替えなどはないと見える。

 さてこうして並べて眺めてみるとロマンス語派の言語が二つグループに分けられることがわかる:英語の more にあたる語がイタリア語、フランス語、ルーマニア語ではそれぞれ più, plus, plu と p- で始まり、スペイン語、ポルトガル語、カタロニア語では m- が頭についている(それぞれ más, mais, més)。つまりいわば m- グループと p- グループに別れているのだ。
 調べてみるとまず più, plus, plu はラテン語の plūs から来ているそうだ。これは形容詞 multus「たくさんの、多くの」の比較級。以下に主格形のみ示す。
Tabelle2-N29
比較級は単数形では性の区別を失い、男・女・中すべて plūs に統一されている。原級と比較級・最上級との形が違いすぎるからこれはいわゆる補充形パラダイムという現象だろうと思って調べてみたらまず原級 multus の印欧祖語形は *ml̥tós(「くずれた」「崩壊した」)(!)と推定されている。動詞の分詞だが、その大元の動詞というのが *mel- とされ、これは「心配する」「遅れる」だそうだ。うーん、印欧語祖語というのはジグムント・フロイトの精神分析と同じくらいスリルがある。イタリック祖語まで下るとだと *moltos(「たくさんの」)になるそうだ。
 対して比較級の plūs はイタリック祖語の推定形 *plēōs(「より多く」)で、印欧語祖語に遡ると*pleh₁-yōs。これは分詞ではなく動詞語幹の *pleh₁- に *-yōs という形がくっついたもので、前者は動詞、後者は意味を強める形態素だそうだ。動詞の *pleh₁- は「満たす」。時代を下りに下ったゲルマン語派、古期英語の feolo あるいは fiolu、ドイツ語の viel、オランダ語の veel(「たくさんの」)など皆同源である。この、p から f への音韻推移、印欧語の無声閉鎖音がゲルマン語派で調音点を同じくする無声摩擦音に移行した過程はグリムの法則あるいは第一次音韻推移と呼ばれ、ドイツ語学習者は必ず覚えさせられる(そしてたいていすぐ忘れる。ごめんなさい)。
 ついでに *pleh₁- はサンスクリットでは pṝ-、サルディニア語で prus で、なんと l が r になっているではないか。これでは「 lと r の区別ができない」といって日本人をあざ笑えない。

 この plūs 形に対してスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語の mais、más、més 等はラテン語の magis が語源。これは形容詞 magnus「大きい」の比較級からさらに派生された副詞だそうだ。まず元の形容詞 magnus だが、次のように変化する。
Tabelle3-N29
こちらのパラダイムは補充形ではないが、比較級だけ別のタイプの語形変化を見せている。原級と最上級が同じパターンの語形変化というのは上の補充形 multus も同じで、原級と multus と最上級 plūrimusは本来別語であるにもかかわらず、変化のタイプだけは同じだ。そしてそこでも比較級 plūs だけが変な(?)変化をしていて、しかもそれがここの比較級 māior と同じパターンなのがわかる。原級 magnus、比較級 māior のイタリック祖語形はそれぞれ *magnos、*magjōs で、それらをさらに印欧祖語にまでさかのぼるとそれぞれ *m̥ǵh₂nós と *méǵh₂yōs。どちらも「大きい」という意味の形容詞 *meǵh₂- からの派生だが比較級の方はさらに *meǵh₂-  +‎ *-yōs に分解できる。後者は上でお馴染みになった程度を強める形態素だ。
 上で述べたラテン語の magis という形はイタリック祖語でも *magis。比較級 *magjōs の短形、ということはやはり印欧祖語の *meǵh₂-  に遡る。この比較級の中性形が副詞的な使われ方をするようになったものだとのことだ。*magis はイタリック祖語の時代にすでにラテン語 plūs と同じく、単数形に性の区別がなかったと見られ、ラテン語では副詞、つまり不変化詞になっていた。これはあくまで私の考えだが、「男性・女性・中性の形の区別がなくなった」というのは要するに単数中性形だけが残って男性女性を吸収し、さらにそれが副詞として固定したという意味ではないだろうか。ちょっと飛び火するが、「形容詞の(短形)中性単数形が副詞化する」という現象は現在のロシア語でも頻繁に見られるのだ。その際アクセントの位置がよく変わるので困るが。たとえば「良い」という意味の形容詞の長形・短形はこんな感じになる。
Tabelle4-N29
アクセントのあるシラブルは太字で示した。中性単数の хорошо は副詞として機能し、Я говорю хорошо по-русски は「私はロシア語をよく話します」つまり「私はロシア語が上手い」(ウソつけ)。上のplūsもある意味ではこの単・中 → 副詞という移行のパターンを踏襲しているとみなしていいのではないだろうか、文法性の差を失ってしまっている、ということはつまり「中性で統一」ということではないだろうか。と思ったのでplūs の表をそんな感じにしておいた。

さてこの、more にあたる単語が p- で始まるか m- で始まるか、言い換えると plūs 系か magis 系かは『17.言語の股裂き』の項でも述べた複数形の形成方法とともにロマンス語派を下位区分する際重要な基準のようだ。plūs 組はイタリア語、フランス語、のほかにロマンシュ語(pli)、サルディニア語(上述。prus または pius)、イタリア語ピエモント方言(pi)など。同リグリア方言の ciù もこれに含まれるという。magis 組はスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語以外にはアルマニア語(ma)、ガリシア語(máis)、オクシタン語(mai)。
 フランス語が plūs 組なのにオクシタン語が magis 組だったりするところが面白いとは思うのだが、実はこの区別はあくまでどちらの形が優勢かということで、形自体は p- も m- もどちらも持っている。つまり plūs 組言語には magis 系の単語が存在しないというわけではないらしい。
 例えばルーマニア語だが、映画のタイトルは上のように plūs 系語が使われている。またそこら辺の翻訳機械で Per qualche dollaro in più を訳させるとタイトル通りPentru câțiva dolari în plus と出てくる。しかし more だけ入れると mai mult と magis 系が出る。どっちなんだと思って別の翻訳機械にかけてみたら Pentru câțiva dolari în plus が出たその下に選択肢として Pentru câțiva dolari mai mult が登場する。上述の分類リストにはリーマニア語が magis 組のほうに載っていた。つまりどっちもアリなんじゃん。
 ポルトガル語でも中世 p- 系の chus という語も使われていたそうだ。chus が p- 形と聞くと意外な気がするが、上記のイタリア語リグリア方言 ciù が p- 起源だそうだから chus が実は P形であってもおかしくない。とにかく最終的には m- 形の mais が優勢になったらしい

 「両方ある」という点では厳密に言えばイタリア語、フランス語もそう。フランス語の mais(「けれど」)はこの magis 起源だそうだ。さらにイタリア語でたとえば nessuno ... mai(「誰も…ない」)、non ... mai(「決して…ない」)、mai più(「もう決して…ない」)などの言い回しで使う、否定の意味を強める mai の元もこれ。最後の例では p- 形と m- 形がかち合っている。mai はさらに疑問の意味も強めることができ、come mai non vieti? は「何だって君は来ないんだ?!」。相当機能変化を起こしてはいるが単語自体はあるのだ。フランス語の mais にあたるイタリア語 ma(「けれど」)も当然同源である。

 話がそれるが、イタリア語の più がフランス語で plus になっているのが私にはとても興味深い。ロシア語に同じような音韻現象があるからだ。
 まず、più の p は後続の母音iに引っ張られて口蓋化しているはずだ。この、本来「口蓋化した p」に円唇母音(つまり u)が続くとフランス語では p と u の間に唇音 l が現れる。ロシア語では例えば「買う」の完了体動詞(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)の不定形は купить(ローマ字では kup'it' と表すが、この「'」が「口蓋化した子音」という意味)だが、これの一人称単数未来形は、理屈では купью(kup'ju)になるはずなのに実際の形は куплю(kuplju)と、どこからともなく l が介入する。対応する有声子音 b の場合も同様で、「愛する」という動詞 любить (ljubit')の一人称単数現在形は、なるはずの形 любью(ljub'ju)にならずに люблю(ljublju)という形をとる。

 というわけでロマンス語派のタイトルは plūs と magi のそれこそ決闘が見られて血沸き肉躍るのに比べゲルマン語派はバリエーションがないので退屈だ。
Tabelle5-N29
デンマーク語、アイスランド語は翻訳機にかけた結果だが、同語源なのは一目瞭然。これらは皆 magis  のところでお馴染みになった印欧祖語形 *méǵh₂s の子孫である。

 ついでにスラブ語もみてみよう。
Tabelle6-N29
クロアチア語ではなぜか a few がスッポ抜けているが、とにかくスラブ語派はゲルマン語派より割れ始めた日が浅いのに more に2グループあることが見て取れる。ロシア語、ウクライナ語、つまり東スラブ語派では b(б)で始まるのに対し、その他の南・西スラブ語派言語は皆 v(в)だ。チェコ語、ブルガリア語、マケドニア語のの more、それぞれ navíc、повече、повеќе の頭についている na- や po-(по-)は、元来前置詞、いわばイタリア語などの de あるいは in に相当するから無視していい。本体はそれぞれ víc、вече、веќе、つまり v 組である。
 分離したのが古いため元の語の原形がわかりにくかったロマンス語派と違ってスラブ語派は語源が一目瞭然だ。瞭然過ぎて決闘という感じがしないためややスリルに欠けるが、ロシア語の больше は「大きい」という形容詞 большой の比較級である。主格形だけ見てみよう。
Tabelle7-N29Tabelle7-N29
この「ボリショイ」という言葉はひょっとしたら最も有名なロシア語の一つかもしれないが、非常に厄介なイレギュラー単語である。まず原級の短形が存在せず別語を持ってきて補充形パラダイムを作る。さらに比較級の長形を持つという稀有な存在。普通はもう比較級を分析的なやり方、英語の more beautiful のように形容詞の原級の前に более をつけて表す。さらに最上級の形成に原級形ではなく比較級の長形を使っている、普通は原級である。「普通の」形容詞、「美しい」と比較するとイレギュラーぶりがよくわかる。
Tabelle8-N29
ウクライナ語も同じメカニズム、「大きい」という形容詞の比較級短形を使うという方法を踏襲しているのは明らかだ。
 次に他のスラブ諸語が使っている  v 系語だが、これも先のロマンス語のように語自体はロシア語にも存在する。выше という語で、これは「高い」という形容詞 высокий の比較級だ。
Tabelle9-N29
最上級に2種あるが、二つ目の形は「大きい」の比較級に対応している。これは本来比較級だったのが最上級に昇格したのか、逆にこれも本来最上級だったのに上の「大きい」では比較級に降格されたのかどちらかだろう。南・西スラブ語では「より大きい」でなく「より高い」を more として使っているわけだ。
 せっかくだから両形容詞の語源を調べたら、「大きい」はスラブ祖語再建形が *velьjь(「大きい」)、印欧祖語形 *welh₁- 。「選ぶ」とか「欲する」とかいう意味だそうだ。本当かよ。「高い」はスラブ祖語の「高度」*vysь から。印欧祖語では *h₃ewps- と推定されるそうだ。うーん…
 とにかくロマンス諸語でもゲルマン諸語でもスラブ諸語でも、どの形容詞から引っ張って来たかという点には差があるが、形容詞の比較級形を持ち出してきて「もっと」の表現に当てているという基本戦略は同じだということになる。

 さて、最初に言ったようにこの映画の日本語タイトルは『夕陽のガンマン』で、印欧祖語もラテン語も比較級もへったくれもなくなっているのが残念だ。ジャンルファンはよく単に「ドル2」とも言っている。セルジオ・レオーネがイーストウッドで撮った3つの作品が「ドル三部作」と呼ばれているからで、一作目(邦題『荒野の用心棒』)と二作目(『夕陽のガンマン』)の原題、それぞれ Per un pugno di dollari と Per qualche dollaro in più に「ドル」という言葉が入っているためである。三番目の『続・夕陽のガンマン』Il buono, il brutto, il cattivo は全然違ったタイトルなのだが、勢いで(?)「ドル3」と呼ばれたりしている。

この項続きます

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