アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ベラルーシ語

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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 何気なく17世紀の初頭に書かれたロドリゲスの『日本語小文典』(もちろん翻訳をだ。そんな古い、しかもポルトガル語の原本なんか読めるわけがない)を見ていたら、ちょっと面白いことに気付いた。「お」と「を」を区別せずにどちらも vo、「う」を単に v と、v を使って表記してあるのだ。 例えば「織物」を vorimono、「己」を vonore、丁寧語の「御」が vo、「馬」が vma、「訴え」が vttaeだ。
 これは日本語の音が当時そうなっていたというより、単なる表記の仕方の問題だろうが、東スラブ諸語では実際に v 音が語頭に付加される(これを prothetic v 、「語頭音添加の v 」という)から面白い。これが本当の「サインはV」だ。(今時「サインはV」などというギャグを飛ばすと年がバレる、といいたいところだが、年がバレるも何もそもそももう誰もこんなTVシリーズなど知らないだろうから単に素通りされる可能性のほうが高いと思う)。

 例えばロシア語の川の名前 Волга(Volga)はもともとスカンジナヴィア系の Олга(Olga)という名前だったのに в (v) が語頭付加されたものだ、と聞いたことがある。また、トゥルゲーネフのНесчастливая(『不しあわせな女』)という小説に вотчим(votčim、「義父」)という単語が出てくるが、これは辞書に出ている普通の形は отчим(otčim)。これなど明らかに prothetic v だろう。

 ベラルーシ語などはこの prothesis(「語頭音付加」)の現れ方が体系的で、語頭の後舌円唇母音にアクセントがあった場合は в (v) が規則的に付加される。例を挙げると
Tabelle1-33
ベラルーシ語では対応するロシア語の単語に対して語頭に в (v) が立っていることがわかるだろう。なお、око (oko、目)という語はロシア語では古語化していて現代語で普通に目を意味するときはглаза(glaza)という語を使う。もっとも歌の文句などちょっと文学的なニュアンスにしたいときは古語のоко を使うことがある。例えば『バルカンの星の下で』という歌があったが、その第一行目が

Где ж вы, где ж вы, очи карие
あなたはいずこ、あなたはいずこ、茶色の瞳(の人)よ

という歌詞だった。очи(oči)というのは око(oko)の複数形である。

 後舌円唇母音が語頭にたってもアクセントがなければ в (v) が付加されないのが本来なのだが例外的にアクセントのない語頭の円唇母音にprothesic v が現れることがある。
 例えばベラルーシ語の вусаты (vusaty、「髭の(ある)」)という形容詞ではアクセントのある母音は а (a) であって у (u) ではないから、本当は в が添加されずに усаты(usaty)になるはずだ。それなのになぜここで в が付加されているのか。この形容詞の語幹となった名詞の вус(vus「髭」、ロシア語の ус (us) に対応)にすでに в が付着している、つまり元の語がすでに в 付きなので、そこから派生した語から今更 в を取り払うことができないからだ。
 
 さらにロシア語に対するベラルーシ語の特徴として次のようなものがある。ロシア語では r 音に口蓋音・非口蓋音、俗に言う軟音・硬音の2種類あるが、ベラルーシ語では r に口蓋・非口蓋の弁別的対立が失われて硬音の r しかない。だからロシア語では口蓋化している р(r)で発音する音(r’ または rjで表わす)がベラルーシ語では対応する非口蓋化音になる。日本語表記も加えてみる。

ロシア語
Я говорю. (ja govorju、ヤー・ガヴァリュー、「私は話す」)

ベラルーシ語
Я гавару. (ja gavaru 、ヤー・ハヴァルー

ロシア語の有声軟口蓋閉鎖音、つまり г  (g) はベラルーシ語では有声軟口蓋摩擦音、国際音声字母IPAで [γ] になると教わったが、実際の発音を聞かせてもらった限りでは無声軟口蓋摩擦音 [x]、あるいは無声喉頭摩擦音 [h] にしか聞こえなかった。内心「あれ?」と思っていたら、いつだったかオリンピックでベラルーシの選手にOlhaという名前の人を見た。これは明らかにロシア語のОльга(Ol’ga)だ。ロシア語のgがベラルーシ語の英語表記ではhになっている、ということはつまりベラルーシ語の г は英語話者にも h に聞こえるということで特に私の耳が悪いからでもないと思う。

 目のいい人はさらにお気づきになったかもしれないが、ベラルーシ語はいわゆる аканье(アーカニエ、『26.その一日が死を招く』の項参照)を律儀に文字化する。アーカニエとはロシア語でアクセントのない o が a と発音される現象のことだが、発音は a でも文字では o と表記する。上のロシア語 говорю が、「ゴヴォリュー」でなく「ガヴァリュー」と発音されるのはそのせいだ。もっとも o が弱化して出来た「ア」はロシア語ではクリアな [a] とは発音せず、強勢のあるシラブルの直前では [ʌ]、それ以外では [ə] となるのに対しベラルーシ語ではきちんと [a] で発音されると聞いた。ただし自分の耳で確認はしていない。

 とにかくベラルーシ語ではアクセントのない o は発音どおり a と書く。だから上の гавару (gavaru) では母音が発音どおり а と書いてあるのだ。вока (voka) 「目」とか вуха (vucha、ch は [x]、「耳」) とかいう綴りはロシア語だと間違いだが、ベラルーシ語では正書法通りである。書き間違いではない。まあ、覚えやすいと言えばこちらの方が覚えやすいが、私は「ここは а だったっけか、о だったっけか」と年中わからなくなる学習者泣かせのロシア語の綴りの方が味があると思う。 

 またベラルーシ語では ŭ(英語の w) と l の交代が見られる。 ロシア語と比べてみるとさらに面白い。ベラルーシ語の ŭ はロシア語の l だけでなく v、v'、u とも交代するのだ。まさに七変化だ。下に例を挙げるが「ベ」がベラルーシ語、「ロ」がロシア語だ。
Tabelle2-33
Tabelle3-33
 ベラルーシ語ではロシア語の前置詞 в (v) は基本 у (u) になる(下から3番目の例 паехаў ён у чыстае полеと一番下の例 поехол Илья в Киевの下線部を比較)。ところが、この前置詞が母音の後に来る場合は ў (ŭ ) になるのだ(下から二番目の例文と比較。Iлля は Illja で、最後の音が母音)。

 そういえばもう20年近く前、ドイツ語の授業で「人食いアヒルの子さんの als は aus に聞こえる」と発音を直されたことがあって、l と u という組み合わせに意外な気がしたのを覚えている。l と u は他の言語でも交代しやすいのかもしれない。
 もっとも l は o とも交替しやすそうだ。セルビアの首都は Beograd とも Belgrad とも言う。さらにロシア語の был (byl、「~だった」、男性単数形)はセルビア語(あるいはクロアチア語)では bio で、ここでも l と o が対応している。

 実は面白いことにベラルーシ語には prothetic i (「語頭音添加の i 」)がある。トルコ語などにもこれがある。イスタンブールの「イ」は後から付加された母音で、これは本来「スタンブル」だったそうだ。 ロシア語と比べてみよう。
Tabelle4-33
 さて、アザレンカというテニスの選手がいるが、この人はベラルーシ出身だ。ウィキペディアにあるこの名前の原語ベラルーシ語バージョンとロシア語バージョンを比べてみると次のようになるが、この短い名前の中に今まで述べてきたロシア語とベラルーシ語の重要な音韻対応のうち3つもを見ることが出来る。下の太字の部分を比べてみてほしい。 j は英語の j ではなく、ドイツ語読みの j、つまり英語なら y である。

ベラルーシ語
Вікторыя Фёдараўна Азаранка
Viktoryja Fёdarna Azaranka
ロシア語
Виктория Фёдоровна Азаренко
Viktorija Fёdorovna Azarenko

 1.ロシア語の歯と下唇による有声摩擦音 в (v) がベラルーシ語では特定の環境では摩擦性が弱まり半母音ў (w)となる。それでベラルーシ語のФёдараўна(フョードラナ)はロシア語ではФёдоровна(フョードロナ、o が上述のようにアーカニエを起こすので正確にはフョードヴナ)。

2.ベラルーシ語ではロシア語と違い р (r) に口蓋・非口蓋の音韻対立がないのでロシア語では ри (ri) と ры (ry) を区別するところがどちらも  ры (ry) となる。ロシア語バージョンの ре (re) がベラルーシ語で ра (ra) と書いてあるが、 е の前に立つ р (r) は口蓋音と決まっているので р (r) に口蓋音がないベラルーシ語では r の後に е が来られない。そこで e の代わりに先行音を口蓋化しない母音の a が来ている。実はベラルーシ語にもロシア語にも「先行音を口蓋化しない e」というのがあるのだが(э (ė) がそれ)、 どうして ė  でなく a になっているのかは正直よくわからない。まあ言語とはそういうものなのだろう(なんといういい加減な)。

3.ベラルーシ語ではアーカニエを文字化するのでФёдараўна Азаранкаと、ロシア語ではアクセントのない母音 o が来ているところがが全部 a で書いてある。

 こういう風に教科書など話にだけしか聞いたことのなかった事柄の実際例に遭遇すると嬉しくなってしまうのは私だけではあるまい。


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 ドイツは1998年にEUのヨーロッパ地方言語・少数言語憲章を批准・署名しているので、国内の少数言語を保護する義務があり、低地ザクセン語、デンマーク語、フリ―スランド語、ロマ二語、ソルブ語が少数言語として正式に認められている。特にソルブ語は、公式に法廷言語として承認されている。裁判所構成法(Gerichtsverfassungsgesetz)第184条にこうある。

Die Gerichtssprache ist deutsch. Das Recht der Sorben, in den Heimatkreisen der sorbischen Bevölkerung vor Gericht sorbisch zu sprechen, ist gewährleistet.

法廷言語はドイツ語とする。ソルブ人の住民にはその居住する郡の法廷においてソルブ語を使用する権利が保障される。

 法廷言語は公用語とイコールではないが、ソルブ人はやろうと思えばもとから自分達の住んでいる地域で自分達の言葉を使って裁判ができるのだからこれは準公用語的ステータスではないだろうか。日本のどこかにアイヌ語で裁判をする権利が認められている地方があるだろうか? さらに、現在ザクセン州の知事をしているのはドイツ人ではなく、ソルブ人のスタニスラフ・ティリッヒという政治家だ。「スタニスラフ」という名前は典型的に非ドイツ語形。これを日本で言うと、北海道の一部でアイヌ語で裁判が行え、アイヌ語名の仮名表記で戸籍に登録でき、例えば「ゲンダーヌ」という名前のまま立候補したアイヌ人が北海道の知事になったようなものだ。
 ソルブ語はドイツ語とは全く違う西スラブ語系統の言葉でポーランド語に近い。さらに厳密に言うとソルブ語は一つの言語というより下ソルブ語と上ソルブ語の2言語だ。

 これはあくまで自己反省だが、大学でドイツ語、ドイツ文化、あるいはドイツの政治や歴史を勉強しましたといいながらこのソルブ語の存在を知らない人がいる。「ソルブ語なんてドイツ語・ドイツ文化はもちろんドイツの歴史とは関係ないんだからいいじゃないか」と言うかも知れないが、私はそうは思わない。
 「私は日本のことを大学で勉強しました」と言っている外国人がアイヌの存在を知らなかったら、その人の「日本学専攻者」としての知識・能力に対して一抹の不安を抱くのではないだろうか。「ドイツの言葉や文化・歴史を勉強しました。でもソルブ語って何ですか?」と聞く人はそれと同じレベルだと思う。繰り返すがこれは自己反省である。私もソルブ語のことを教わったのはスラブ語学の千野栄一氏の本でなのだから。そもそもいまだに西スラブ語が一言語も出来ない私がエラそうなことを言えた義理ではないのだ。

 そのソルブ語のことをそれこそお義理にちょっと(だけ)調べてみた。
 
 まず「窓」という単語。上下ソルブ語共に wokno である。『33.サインはV』の項に書いたベラルーシ語と同様「語頭音添加の v 」(prothetic v、 ソルブ語では w、ベラルーシ語では в と綴る) が現れているではないか。これはロシア語では окно(okno) だ。そう知るとベラルーシ語以外の東スラブ語、要するにウクライナ語が気になりだした。いくつか単語を検索してみたので比べてみて欲しい。左がロシア語、真ん中がベラルーシ語、右がウクライナ語だ。
Tabelle1-37
ベラルーシ語とウクライナ語では prothetic v の現れ方が微妙に違っている。「秋」と「目」に対して「火」と「窓」を比べてみると、v の現れ方がベラルーシ語とウクライナ語でそれぞれちょうど逆になっているのがわかる。 「8」、「耳」、「髭」では両言語仲良く(?)語頭音に v がついている。「8」に至ってはロシア語までいっしょになって v つきだ。
 
 しかしその、全東スラブ諸語共通で v が語頭添加されている「8」も南スラブ語のクロアチア語では v が現れない。
 Tabelle2-37
「窓」「髭」はクロアチア語は別系統の語を使うようだが、「火」、「8」、「耳」、「目」に v が転化されていないのが見て取れる(太字)。なお。クロアチア語の j は英語の j ではなくドイツ語の j、英語で言うなら y  なので、jesen は「イェセン」である。下記のポーランド語もそう。

 さてそういえば上のウクライナ語に対して対ロシア語・ベラルーシ語では「8」と「窓」という単語でそれぞれ  i 対 o と音韻交替している(下線部)。もっともベラルーシ語はアーカニエ(『6.他人の血』参照)を文字化するので a になっている。これに呼応してハルキウ(Харкiв)というウクライナの都市のロシア語名はハリコフ (Харьков) だ。

 西スラブ諸語にもどるが、ソルブ語とポーランド語を比較してみた。西スラブ語の正書法では ch は英語でなくいわばドイツ語読みなので発音は「チ」でなく「ハヒフヘホ」、[ç] または [x] である。
Tabelle3-37
「秋」は上下ソルブ語とも別系統の語だ。zyma はロシア語の зима (zima) 「冬」だろうからつまりソルブ語では秋のことを「冬に向かう季節」と表現するらしい。「髭」は下ソルブ語で borda と言って上述のクロアチア語と同系統の語、上ソルブ語と語彙そのものが違うように見えるが実は borda 系の単語は上ソルブ語でも使うそうだ。つまり wusy か borda かは言語の違いというより髭の種類の違いのようで、前者は顎鬚を指し髭全般を意味するのはむしろ後者らしい。だからもしかしたらクロアチア語にも下ソルブ語にも borda と並んで ус (us)、 вус  (vus) あるいは wusy (vusy) 系統の単語が存在するのかもしれないが小さな辞書には出ていなかった。
 いずれにせよ、prothetic v を売り物にする(していない)ベラルーシ語よりむしろソルブ語の方がきれいに v  が現れている。

 ついでに隣のバルト語派のリトアニア語は以下の通りだ。 さすがバルト語派。スラブ語派と形が近いが基本的に prothetic v  は現れない。

上下ソルブ語と同様「秋」が別単語だが、ソルブ語と違って「冬に向かう季節」でもない。「冬」はリトアニア語で žiema、スラブ諸語とそっくりだ。リトアニア語の「秋」ruduo はrùdas、「茶色」から来ているそうだ。
Tabelle4-37
 ちょっとネイティブ・スピーカーに聞いてみたら、「髭」には他に barzda という borda 系の言葉もあるらしい。ちなみに「火」というリトアニア語ugnis は、oganj(クロアチア語)、wogeń(下ソルブ語)、ogień(ポーランド語)、 огонь (ogon’)(ロシア語)などとともに、ラテン語の ignis と同源だ。「8」の aštuoni という形は t が入っているのでスラブ語派とは関係ないだろうと思うと、実は両者ともにしっかり同語源、印欧祖語の oḱtṓw から来ている。ラテン語の octō を見てもわかる通り、本来は t があったのだ。それを抜いてしまったスラブ諸語のほうがむしろ文字通り抜けているのである。
 こうして見てみるとリトアニア語も非常に面白そうな言語だが、この言語はアクセント体系が地獄的に難しいと聞いたので今生ではパスすることにして、次回生まれ変わった時にでも勉強しようと思う。


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 子供の頃、英語で「私には姉がいる」をI have a sisterというと聞いて驚愕したことをまだ覚えている。まず「姉」と「妹」を区別しないのに驚いたが、この文脈で「持つ」という動詞を使うのがまた意外だった。日本語ならここで英語のbe、ドイツ語のseinにあたる「ある・いる」という動詞で表現する。
この、「ある」か「持つ」か、つまりbeかhaveかという区別はよく議論されるテーマだそうで、そもそもの言いだしっぺはA・メイエとその弟子のE・バンヴェニストあたりらしい。「be言語」「have言語」という言葉も聞くが、実は私はいままであまり深く考えもせずにテキトーに(またかよ)これらの言葉を使っていた。私が理解していたのはだいたい次のようなことだ。
 大まかにいって現在のヨーロッパにおける印欧諸語がhave言語なのに対し、ヨーロッパでも非印欧語は、フィンランド語やハンガリー語などはbe言語である。 さらにロシア語を含む東スラブ諸語は日本語と同じくbeを使う、つまり「私には姉がいる」タイプだが、南スラブ諸語・西スラブ諸語は「私は姉を持っている」である。

 ところが実際はどうもそう単純に片付けられる問題ではないらしい。まず第一にヨーロッパ外の印欧語でもhaveを使うものや逆にヨーロッパの印欧語でもbeを使う例があるし、第二にそもそもhaveもbeも両方使う言語が多いので、これはhave言語、あれはbe言語とギッチリきれいに線引きすることはできない。ちょっと調べてみた。

 まずヨーロッパの非印欧語トルコ語は図式通りにbe言語で、そもそもhaveにあたる動詞がないそうだ。「ある」または「ない」にあたるvarとyokを使う。

bir ev-im var
一軒の + 家が-私の + ある
→ 私には家が一軒ある。(= 私は家を一軒持っている)

 
telefon-um yok
電話-私の + ない
→ 私には電話がない。(= 私は電話を持っていない)

ちなみにhaveをトルコ語辞書で引くとsahip olmakと出てくる。sahipが「所有者」(しかもアラビア語からの外来語)、olmakが「ある」だから、「○○の所有者である」と表現するしかないらしい。日本語ではここで「トルコ語にはhaveにあたる動詞がない」と「トルコ語はhaveにあたる動詞を持たない」の両方の表現が可能だから、それに比べてもトルコ語は相当ハードなbe言語だ。

 古モンゴル語もbe言語だったそうだが、トルコ語と違って「私」は属格でなく与格(処格)になる。

nadur morin buy
私に + 一匹の馬が + いる・ある
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)


 古グルジア語もbe。

ara ars čuen tana uprojs xut xueza puri
ある +(否定)+ 我々に + と共に + より多い + より + 5 + パンが
→ 我々には5個以上のパンがない。
(= 我々は5個以上のパンを持っていない)


 ところがこれと平行した構造は印欧語の古典ギリシア語でも成り立つそうだ。つまり古典ギリシア語はヨーロッパの印欧語のくせにbeも許すのだ。

ούχ εισίν ημιν πλειον ή πέντε άρτοι
(否定) + ある + 我々に + より + 多い + より + 5 +  パンが(複数主格)
→ 我々には5個以上のパンがない。

しかし古典ギリシャ語はその一方でhave構造も使うから油断できない。

Οὐκ ἔχω ἄνδρα
(否定) + 持つ(一人称単数)+ 夫を
→ 私は夫を持っていない (= 「私には夫がいない」)

 胸焼けがして来そうだが、ついでにヒッタイト語もbeを使ったそうだ。

tuqqa UL kuitki ešzi

このULというのは何なのかよくわからないのだが、とにかくtuqqaが「君に」、kuitkiがnothing、ešziが「ある・いる」で、全体としては「君には何もない」。ちなみにこのヒッタイト語というのはこれでも一応印欧語である。俄かには信じられないがそれでもešziというコピュラにちょっと印欧語らしさがのぞく。
 現代モンゴル語、現代グルジア語、現代ギリシャ語がどうなっているのか気にはなったのだが調べるのがメンド臭かったので(またかよ)先を続ける。

 さらなるヨーロッパ外の印欧語クルド語もbeを使うそうで、

min hespek heye
私に + 一匹の馬が + いる
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)

これに対してお隣の印欧語ペルシャ語はhaveを使うそうだ。人から聞いたところでは
man khahar daram
私(主格)+ 妹または姉 + 持つ(一人称・単数)
→ 私は姉(妹)を持っている (=私には姉(妹)がいる)

  
 もっとも、特に古典語はhaveを使った例があるからといって他方のbe(あるいはその逆)を使わなかったという証明にはならないところが辛い。構造としては許されているが、たまたま使用例が残っていなかっただけかもしれないのだ。言語問題と言うのは結局ネイティブスピーカーを捕まえて聞いてみるしかないのだが、古典語はそれができない。クルド語・ペルシャ語もちょっとネイティブスピーカーがつかまらなかったのでもう一方のバージョンが完全にNGなのかどうか確認はしていない。

「ヨーロッパの印欧語」ではロシア語が結構キッパリbe言語だと名付けられるので有名だ。「私には子供がいます」という時ロシア語でも「いる」を使うと聞いて「おお、日本語と同じじゃないか」と感動したのは私だけではないはずだ。

У меня есть ребёнок
のところに + 私の + いる・ある + 子供が
→ 私には子供がいる。

(日本語で「私は子供を持っている」は成り立たない)

南スラブ語のクロアチア語はhaveだ。ロシア語の「子供がいる形構造」に狂喜していた私はクロアチア語がhave言語ときいてガッカリしたものだ。

imam kuću
持つ(一人称単数) + 家を
→ 私は家を持っている。

(日本語では「私には家がある」も可能)

クロアチア語にはさらにhaveが非人称表現を作り、英語で言えばthere is Xをit has Xと表現するのだ。ima Xで、「Xがない、いない」だが、このimaというのは動詞「持つ」(不定形はimati)の3人称単数形である。ドイツ語もここで非人称表現を使ってes gibt X(it gives X)というから動詞は違っているが(geben=give)発想はそっくり。例えば授業の始めに出席を取るとき、「Aさんはいますか?」と聞くとき「ima li A?」といい、いるかどうか聞かれた学生は「ima!」(「いますよ!」)と言って手を挙げる。
 このように南スラブ諸語、あと基本的に西スラブ諸語もhave言語と言っていいが、ポーランド語は例外で両方OKらしい。

mam samochód
持つ(一人称単数)+ 自動車を
→ 私は自動車を持っている。

u jednego był długi muszkiet
~のところに + 一人の人の + あった + 長い + マスケットが
→ ある人のところに長いマスケット銃があった。


どうしてここで突然マスケット銃が出てくるのか面食らう例文だが、これは日本語では「持つ」を使って「ある人が長いマスケット銃を持っていた」と言ったほうが自然ではないか。(「長いマスケット銃」とわざわざ言っている、ということは「短いマスケット銃」というのもあるのか?)
 
 ウクライナ語も両方許されるそうで、

Я маю машину.
私 が + 持つ + 車を
→ 私は車を持っている。

У мене є машина.
~のところに + 私 + ある + 車が
→ 私には車がある。


はどちらもOK。ベラルーシ語も同じだそうだ。

 遡って古教会スラブ語ではhave構造が散見されるだが、面白いことにギリシア語のhave(έχειν)は必ずといっていいほど古教会スラブ語でもhave(imĕti)を使って訳してあるとのことだ。古教会スラブ語は南スラブ語だから、その子孫が現在を使っているのもうなずける。さらに実際はbe言語の(はずの)ロシア語も古いテキストではhaveを使っているのが見られるという。

 フランス語にも実は一見「~に~がある」に対応する構造est à moiがあるが、意味と言うか機能に少し差があるから注意を要する。ラテン語のest mihi liber(私には本がある)とhabeō librum(私は本を持っている)が同じ意味になるのとは違うのだ。be (être à)は定冠詞を取らないといけないし、have (avoir)は不定冠詞と使ったほうがずっと許容度が高いそうだ。

Ce livre est à moi.
* Un livre est à moi.

J’ai un livre.
? J’ai ce livre

 バンヴェニストは一般的に所有関係の表現はbeからhaveへ移行していくのであって、その逆ではない、という見解を述べている。古教会スラブ語とロシア語を比べて見るとちょっと待ったと言いたくなるが、長い目で見るとやっぱり全体的にはhaveへ移行中なのだろうか。日本語も昔は「会議がありました」以外考えられなかったのに最近は「会議が持たれました」という言い回しも聞くし、そのうち「私は子供を持っています」のほうが普通になるかもしれない。


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 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


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以前書いた記事の図表が機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、これから時々前の記事の図表を画像に変更していきます。ついでに本文のほうも見直しています。今回「も」本文があまりにも舌足らずだったので大幅に変更・加筆しました。ほとんど別記事になったので再投稿します。

内容はこの記事と同じです。元の本文ではありません。

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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