アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:フランス

 最近はめぼしい特売がないのであまり行かなくなったが、以前よく新聞にさるスーパーマーケットの広告が挟まっていることがあって、それを頼りにときどき豚肉を買いに行った。ちょっと遠いところで、市電で5駅の距離の隣町にある。でもそこで電車に乗って運賃を使ってしまったらせっかくの特売も水の泡、節約にならないからいつも歩いて行った。
 川を渡るのだが、その川というのが、目黒川のようなケチな川ではなくて(ローカルな話をするな)、泣く子も黙るライン川だ。めざすスーパーも隣町どころか隣の州にある。

 ライン川といえば普通ローレライとかあの辺を思い浮かべる人が多いだろうが、この町のあたりは無粋・退屈なことこの上ない。岸はコンクリートで固められ、周りに立っている建物も灰色の倉庫だろサビの出たクレーンだろばかりだ。笹本駿二氏の『ライン川物語』でも少し上流のストラスブールと、少し下流のマインツあたりについては延々と情に満ちた記述が続くのにその中間、つまりこのあたりのライン川については冷たく「M,Lなど大工業都市に近づくとラインは殺風景なタンカー船隊を浮かべる不興げな流れに変わってしまう。」というたった2行で済まされている。つまりこのあたりの景色はお墨付きのつまらなさなのだ。
 そのつまらないラインだが、橋を渡っているとよく足の下を船が通る。外国船籍の船が多く、その中でもオランダの旗を立てているのを一番頻繁に見かけるが、スイス船籍もときどき見た。船籍の違う2隻の船がすれ違うこともある。オランダ船はネッカー川の方でも頻繁に見かける。こういう芸当は目黒川にはとてもできまい。

 そもそもここM市自体は人口はたった30万人ばかり、隣のL市と合計してもせいぜい45万人ほど。笹本氏の「大工業都市」という言い方は大袈裟すぎると思う。東京の区部を「町」とすればこんなの「村」を通り越して「集落」のレベルなのだが、その集落がナマイキにやたらと国際的である。
 
 まずうちの最寄り駅の切符の自動販売機を見る。鉄道の駅でなく単なる市電、路面電車の駅だからそれに対応して自動販売機もショボいものだ。日本で言うなら例えば山手線の五反田駅で小銭専用、千円札以上は使えない販売機の前に立っていると想像してもらいたい。そこで買える切符もまさか名古屋とか仙台とかはありえない。土浦だって怪しい。せいぜい柏とか取手までだろう。
 ところがこちらそういうレベルの小銭自動販売機の行き先にLauterbourgという怖い地名が見える。なぜこの地名が怖いかというとドイツ語ならLauterburgとなるべき綴りにoが挟まっているからだ。つまりドイツ語の地名を無理矢理フランス語にしたことが一目瞭然。そう、ここはもうフランス領なのである。実際駅名の後ろに小さく(France)と括弧でくくって書いてある。Frankreich(フランクライヒ)とドイツ語で書かずにFranceとフランス語で表示してあるあたり、さらに怖さ倍増。駅の読み方もラウターブルクでなくローテブールとかいうはずだ。

 その市電でM市の鉄道の中央駅へ行く。新宿とか東京駅はおろか横浜・川崎にだってとても対抗できる規模ではない。乗り入れ路線数は多いのだが、一日の乗降人員はたったの10万人くらいだそうだ。新橋や田町にさえ遥かに及ばない。ちょうど地下鉄の赤坂見附駅の一日の乗降客がこのくらいだ。しかしそのローカルな駅でもフランス、スイス、オーストリアなど外国の列車がジャンジャン行き来している。行き先のプレートにZürich(チューリヒ)あるいはParis-Est(パリ東駅)などと書いてある電車がよく駅に止まっている。新橋に「ウラジオストック行き」と書かれた電車が待機しているようなものだ。
 
 もうかれこれ30年前、まだ東西ドイツがあったころ、この町の大学の夏期講習に参加したとき、講習が終わって皆が帰っていく際に、クラスメートのポーランド人(確かパシコフスカさんという名前だった)を駅に見送りに行ったことがある。ウッジという町に帰るということだったが、そのとき駅のホームに入って来た列車の行き先に「ワルシャワ」と書いてあったので島国気質の抜けていなかった私は妙に感動したのを覚えている。
 一ヶ月ほど前、駅で電車を一本逃してしまい、次が来るまでやることがないからホームの時刻表を眺めていたらそんなことをふと思い出したので、そういえばあのワルシャワ行きはまだあるかなと思って探してみた。さすがにストレートに「ワルシャワ行き」という路線はなかったが、そのかわりMoskva Belorusskaja行きという列車が見つかった。ブレスト経由とある。このブレストというベラルーシの駅はもともとワルシャワ・モスクワ路線の重要中間地点だったところだからつまりこの路線はワルシャワを通るはずだと思った。
 ところがこのあいだまた見たら表示が「ミンスク経由」に変わっている。路線が変更になったのか、それとも単なる表現の差に過ぎないのか。気になったので調べてみたらミンスク経由でちゃんとブレストもワルシャワも通る。それより驚いたのがこの路線の始発がパリだったということだ。するとあのパシコフスカさんが帰って行った路線もパリから来ていたのだろうか。とにかくこの路線の主要停車駅は現在こんな感じになる。

パリ東駅→メッス・ヴィル→フォルバック→(ここからドイツ)マンハイム・中央駅→フランクフルト・アム・マイン・南駅→フルダ→ハノーバー・メッセ・ラーツェン→ベルリン・中央駅→フランクフルト・アン・デア・オーダー→(ここからポーランド)ジェピン-ポズナニ・中央駅→ワルシャワ・中央駅→ワルシャワ・東駅→ウクフ→テレスポル→(ここからベラルーシ)ブレスト・中央駅→ミンスク→オルシャ(ヴォルシャ)・中央駅→(ここからロシア)スモレンスク→ヴャジマ→モスクワ・ベラルーシ駅

5カ国を通り抜けるわけだ。万事こういう調子だから駅の時刻表なども独・仏・英の3言語が基本。私は直接経験していないが、私より前の時代にドイツに住んでいた人は「列車のコンパートメント等には仏・独・西・伊・ポーランド語で表示があった。英語表示はなかった。なぜなら英語は大陸ヨーロッパの言語ではないからである」と報告している。

 さらについ先日、今度は逆に少し駅に早く着いてしまったら、私がホームに来た時は2本前の列車がまだ止まっていたのだが、それがなんとフランスの誇る特急列車TGVの「パリ東駅」行きだった。ウワサに聞いていた通り、連結部分に車輪が集めてあって揺れを防ぎ、脱線した時被害が最小限になるようなデザイン。車両には誇らしげにSNCFの文字。ドアがまだ開いていたのでちょっと中を覗いてみると壁にはフランスの地図がはってあり、乗客の会話は皆フランス語、ついでに駅のアナウンスもその時だけフランス語に切り替わった。カッコ良すぎてこんなショボイドイツの田舎駅には完全に場違いだった。

 最近はこういう感じが身に付いてしまい、日本に行ったときなど「飛行機に乗るか船に乗らないとここを抜け出せない」「海を越えないと外国に行けない・帰って来られない」と思うと反対に怖くなってしまうようになった。何と言ったらいいか、閉所恐怖症みたいな気がしてくるのだ。パリからモスクワならその気になれば歩いていけるが、新潟からウラジオストックだといくらその気になっても泳ぎ切ることは難しい。船なり飛行機なりの交通機関を利用しないと命が危なかろう。
 「島国」というのを「守られている」と見るか「閉じ込められている」と見るかは人によって違うだろうが、私はどうやら後者のタイプのようだ。もっとも最近は武器でもなんでもボタン一押しで飛んでくるから海なんて全然防壁になっていない反面、中にいる人はミサイルが飛んできても外に逃げられないから「閉じ込められている」方の要素が強くなってきているのではないだろうか。


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 用事でGという町まで電車で行った時、途中の「鬼門」L中央駅(『28.私のせいじゃありません』参照)につく前の車内アナウンス、「降車口は左側です」というのがフランス語で入ったことがある。 
 英語のアナウンスなんかはしょっちゅうなので何とも思わない、というよりいつも「こんな田舎の電車で英語アナウンスなんてしたって仕方ないでしょに、カッコつけんなって」とせせら笑いながら聞いているのだが、フランス語というのは初めてだったので内心「おっ」と思った。たしかにここはフランスから遠くないが、あくまで「遠くない」であって、決して「すぐ近く」とはいえない距離だからだ。それから何駅かしばらくの間シーンと聞き耳を立てていたが、とうとう二度とフランス語はやってくれなかった。
 それがきっかけというわけではないが、その後しばらくしてちょっとフランスまで行ってみた。その路線を目的のG駅で降りずにそのまま進むとフランスに突っ込むのである。当時はG駅までの一日乗車券とその先のほうにあるLauterbourg(ロテルブール、ドイツ語ではラウターブルク)というフランスの町がギリチョンで射程内に入る一日券とが同じ値段だった(往復キップになると後者の方が高かった)ので、またG駅まで行く用ができた際少し余分に出して一日乗車券を買い、Lauterbourgまで行ってみたのだ。一人で行くのは心細かったのでフランス語のできる(はずの)ドイツ語ネイティブを連れて行った。
 まずGで用を済ませた後、さらにもと来た路線にのって先に進むとWörth(ヴェルト)という駅に着くのだが、こことLauterbourgとの間のたった5駅ばかりを往復している路線があるのでそれに乗り換える。

Bahnstrecke_Wörth–Strasbourg
ヴェルト-ストラスブール間の路線図。ロテルブールの前の小さな丸はBerg(ベルク)という駅でこれが「ドイツ最後の駅」である。そことロテルブールとの間に国境線が走っているのが見える。

毎日毎日たった5駅を行ったり来たりしているというのも筑波大の学内バスより空しい感じだが、ここの「次の停車駅は○○です。降り口は向かって右側です」さらに「次の○○が終点です、○○路線をご利用ありがとうございました」とかいうアナウンスが全てドイツ語とフランス語の二ヶ国語になっていた。もしかしたら私が以前にL中央駅で聞いたフランス語アナウンスは、運転手がボタンを押し間違えてうっかりフランス語を流してしまったためかもしれない。録音の声が全くおなじだった。この段階ですでに外国感爆発だったが、目的地Lauterbourgに実際に行って見てまた驚いた。

1.駅の表示、「何番線」とか「出口・入り口」などが全部フランス語。

2.時刻表、「月曜日から金曜日」「土曜のみ」とかいう指示も全部フランス語。おまけに時刻表はドイツのみたいにダサい白黒でなくオシャレなカラー印刷。ただテキストが読めないのがキツイ。

3.時刻表を見ていたら隣にいたおっちゃんがフランス語で話しかけてきたのでビビリまくり。

4.町をちょっと散歩したら、通りの名前とか行き先案内から何から全部フランス語。

5.バスの停留所とかに貼ってある広告も全部フランス語。

6.そこら辺に止まっていた水道屋さんのらしいバンにかいてある多分「電話一本で迅速工事」とかいう意味らしき宣伝文句が全部フランス語。

7.そこに書いてあったメールのドメインが○○.fr!

8.肉屋さんとか美容室の看板も全部フランス語。

9.極めつけは、道でボールけって遊んでいたガキンチョどもの会話が全部フランス語!

10.町の名所・旧跡とかにはフランス語とドイツ語で説明があったが、そのドイツ語に何気に誤植がある。

もう最後には向こうから人が来るたびに「話しかけられたらどうしよう」という恐怖のあまり冷や汗が出てきた。連れの「通訳」も「○○通り」とか「入り口・出口」「本屋」くらいは読めたようだが、あんまり私がいちいち「これ何てかいてあるの」「これ何これ」と聞くのでしまいには「そう毎回聞かれたって困る。俺だってわかんないんだ!」とヒステリーを起こした。 
 この調子だと一旦道に迷ったらもう一生ドイツに帰れなくなりそうなので、あまり深入りせずにチョチョッと通りをひとつ散歩してそそくさと帰ってきてしまった。以前「アルザス・ロレーヌは表示とか全部バイリンガルだし、皆ドイツ語を話してますよ」とか言っていた学生がいたので鵜呑みにしていたが、ウソではないか。

 しかし町は全体として隣接するドイツのよりこぎれいで、いかにもフランスの政府からお金を貰ってそうだった。そもそもこんな辺鄙なところにストラスブールまで電車路線が引いてあること自体、フランス政府がアルザス・ロレーヌに力を入れているのを垣間見た気がしたのだが、アルザスには原発が多いからひょっとしたらそんなことで潤っていたのかもしれない。今は原発の未来がちょっと危うくなって来たがあの町はどうなっているのだろう。あと、他に見るところもないから道に立っている家の表札を見て歩いたのだがJean-Luc Scholzなどという苗字はドイツ語名前はフランス語というパターンが大半だったのが印象に残っている。
 さらに思い出すと、信号機がドイツとは全く違う形でこれも無骨なドイツのと違ってしゃれたデザインだった。

 帰りも帰りで電車を待っていた時、例によって駅のアナウンスがフランス語で(当たり前だ)入ったが、それを聞いた通訳が「あっ、俺たちの電車のことだ」とか言うので私が「その俺たちの電車がどうしたのよ」と聞いたら「そこまではわからない」とかこきやがった。肝心の情報内容が聞き取れなかったらどうしようもないだろうがこの野郎。
 この調子でうっかり乗る電車の方向を間違えてストラスブールまで連れて行かれたらエライことになるので、さらに「ちょっとそこの人にこの電車が本当にWörthに行くのかどうか聞いてみてよ」と頼んだ。「ちょっとお尋ねしますが、この電車はドイツに行くんですか?」くらいのフランス語を話してくれるかと思いきや、たった二語(しかもドイツ語で)「Nach Wörth?(to Wörth?)」。そんなんだったら私にも出来るわ。

 実は私はこれが人生で2度目のフランス訪問である。最初はもうかれこれ28年も前、日本からドイツへ行くのにスケジュールの合う便がなくて、パリまで飛んでそこから電車でドイツに入ったのだ。夜にシャルル・ドゴール空港についたがもう不安で死ぬかと思った。そこから「パリ北駅」まで何らかの交通機関を使って行かなければならなかったのだが、道に迷ったらもう最後だ。人に聞くことができないからだ。いや、仮に聞けたとしても答えが理解できないから聞けないのと同じことだ。今思い出すと自分でもどうやってそんなことができたのかわからないが、飛行機の中で一生懸命発音練習しておいたAllemagne とGare du Nordを連発して切り抜けた。とにかく目的の電車に乗ってベルギーを通り抜けドイツにたどり着けたのである。夜行だったので窓外は真っ暗で何も見えなかったが、どうせ車内でビンビンに緊張したままずっと前を向いていたから外の景色など見えたところで楽しむ余裕などなかったろう。朝方「アーヘン」というドイツの駅名を見たときは地球に帰還したジェーンウェイ艦長の気分、というと大袈裟すぎるがホッとするあまり緊張の糸が切れて一気に年をとった気がした。

 私は言葉の通じない国に行くのが怖い。が、「怖いもの見たさ」というのは私にもある。


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 うちではARTEというストラスブールに本拠がある独・仏二ヶ国語のTV放送局の番組が入るのだが、そこでJ.L.トランティニャンについてのドキュメンタリー番組を流してくれたことがある。私にとってはちょっと夜遅い時間だった。
 最初「年取ったなあ、この人も」とか思いながら眠い眼をこすりこすり見ていたのだが、氏が「パリの俳優養成所に進学したが、いつまでも南フランスのアクセントがとれなかったこともあって最初教官からは常に見込みがないという評価を受けていた」というフレーズでパッチリ目が覚めてしまった。つまりこの人の母語は俗に言う(正式にもそういう)オクシタン語(またはオック語)ということか、フランス語はL2だったのか、と気になったからだ。
 調べてみたら、トランティニャンはVaucluse県のPiolencという町の生まれで、学校時代は同県南部のAvignonで過ごし、パリに出てきたのはやっと20歳、つまり母語が完全に固まってからである。 
地図を見るとわかるが、トランティニャン氏はオクシタン語地域で生まれ育っている。
Vaucluse県:(ウィキペディアから)
svg

オクシタン語地域:(これもウィキペディアから)
Occitania_blanck_map

 このオクシタン語はすでにダンテが「フランス語とは全く別言語」であることを見抜いている。フランス政府はこの言語がフランス語でないことを(まだ)公式に認めてはいないが、カタロニアでは公式言語、イタリアでは公式に少数言語として認められているそうだ。
 私が日本で学生だった頃は「フランス人(移民とか後から来た人ではなく土着のフランス国民)でフランス語を母語としない者は全体の25%」といわれていたが、先日ちょっと言語学事典でしらべてみたら、オクシタン語を自由に話せる者は300万人ほど、1200万人ほどがPassiveな話者、つまり「聞いて理解できる」そうだ。相当減ってきている。しかし20世紀の初頭までは結構普通に話されていたそうだから、1930年生まれのトランティニャンはこの言語で育ったのかもしれない。ただ当地でも公用語はフランス語だから、もちろんバイリンガルではあったのだろうが。それともオクシタン語の方が優勢言語だったのか?職業上の言語が完全にフランス語になったあとも日常ではオクシタン語を話していたのか?そういうことを番組で報道してくれなかったのが残念だ。
 トランティニャンはそのL2フランス語で俳優業だけでなく、詩の朗読などの文化活動もしているそうだ。ジャック・プレヴェールの詩を朗読している姿が映されていた。文学・文化音痴の私だが、ジャック・プレヴェールの名前だけはかろうじてというか偶然知っていた。一つ彼の詩を覚えている:一人の男が恋人に送るために花市場でバラを買い、金物市場で重い鎖を買った。というストーリー(?)だった。なぜ「重い鎖」なんだ?と私がいぶかっていたらラストが

「それから奴隷の市場に行きました。恋人よ、君を探しに。でも君は見つからなかった」

というものでドキリとした。原文はこれだ。

Pour toi, mon amour

Je suis allé au marché aux oiseaux
Et j'ai acheté des oiseaux
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché aux fleurs
Et j'ai acheté des fleurs
Pour toi
Mon amour

Je suis allé au marché à la ferraille
Et j'ai acheté des chaînes
De lourdes chaînes
Pour toi
Mon amour

Et je suis allé au marché aux esclaves
Et je t'ai cherchée
Mais je ne t'ai pas trouvée
Mon amour

(Jacques Prévert, Paroles, Éditions Gallimard, 1949, p. 41から引用)

トランティニャンがこれを朗読したのかどうかは知らないが。

 話を戻すが、上述のようにフランスは中央権威主義的な言語政策をとっていることで有名で、国内の土着の少数言語の保護に余り熱心ではなく、例のヨーロッパ言語憲章にも批准はおろか署名さえしていない。アカデミー・フランセーズはすでに1635年に創立されているから、フランスの中央集権的な言語政策は長い伝統があるのだ。一方だからといって積極的に少数言語の撲滅を図ったりしているわけではないから、土着の民族に英語を押し付け、うっかり自分たちの言葉を話した者の口に石鹸を押し込んだり(オーストラリア政府はアボリジニに対してこれをやった)、その土地の言葉をしゃべった生徒の首に方言札をかけて晒し者にしたり(日本人が沖縄の人に対してやった)、民族の言葉を口にしたらスパイと見なしてシベリアに送ったり(スターリンがボルガ・ドイツ人をそう言って威した。『44.母語の重み』参照)した国なんかとは同列に論じることはできない。
 もっともソ連にしても、スターリンの言動とは別に表向きの言語政策そのものは少数民族の言語にむしろ寛容だったと聞いている。特にソ連邦の初期、1920年代には、国歌にもあるようにДружба народов(ドゥルージバ・ナローダフ、「民族間の友情」)を旗印に(だけは)していたから、ロマニ語さえ保護の対象になっていたようだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』参照)。フランスと同様、その中央主義的な言語政策の目的は国家言語を「押し付ける」ことではなくあくまで「普及させる」ことにあったようだ。土着の言語の撲滅ではなく、バイリンガルを目的としていたのだろう。

 外国人の語学学習者からすると、この中央主義的あるいは権威主義的な言語政策はむしろありがたい面もあるのだ。規範ががっちり決まっているからである。そういえば私がこちらでロシア語を学んだ時は教師から教科書からまだソビエト連邦の残滓が完全に残っていたが、まず文法だろなんだろに入る前に発音練習をさせられた。特にアクセントのない o を[ʌ]または[ə]で発音するように(『6.他人の血』『33.サインはV』参照)徹底的に仕込まれた。これはモスクワの発音である。これに対してドイツ語は地方分散性が強いから、学習者が舌先の[r]を口蓋垂の[ʀ]に矯正させられたりはしない。方言にも寛容で、TVのインタビューなどでも堂々と丸出し言葉をしゃべっているドイツ人を見かける。時とするとその、ドイツ人がしゃべっているドイツ語に標準ドイツ語の字幕がつく。実は私の住んでいる町で一度全国放送のドキュメンタリー番組が撮られたことがあるのだが、番組に登場する地元の人たちの発話にはすべて字幕がつけられていた。うちは皆ヨソ者なのでまあ標準ドイツ語話者だが、一瞬「げっ、これは恥かしい」と思ってしまった。しかし自分の話す言葉に標準語の字幕をつけられると恥かしい、という発想そのものが言語権威主義に染まっているいい証拠かもしれない、考えてみれば恥かしいことなど何もないのだとも思うが、ドイツ人の知り合いにこの話をしたらその人もやっぱり開口一番「うえー、それは恥ずかしい」と絶叫していたからまあ私だけが特に権威主義思想に侵されているわけでもないらしい。スイスのドイツ語だと字幕では間に合わず、吹き替えされることがある。フランス語などではこういうことはあまりないのではないだろうか。
 実はドイツ語にドイツ語の字幕をつけられるのは方言の話者ばかりではない。外国人が「字幕の刑」に処せられることもある。これもいつかTVで見た光景だが、さるアジア人の男性がインタビューに答えてドイツ語で受け答えしていたが、その発音があまりに悲惨だったためか、局のほうで「これはドイツ語としては通じまい」と判断されたらしく、字幕を出されていた。男性本人はドイツ語のつもりでしゃべっていたのだろうが、その得意げな(失礼)表情と字幕という現実との間の差に、見ているこちらのほうがいたたまれなくなった。局側としては、向こうが気持ちよく話しているのをやめさせては気の毒だから、それがドイツ人に通じるように手助けしたつもりなのだろうが、外国人・非母語者に対しては何か他にやりようがあるのではないだろうか。ネイティブ・スピーカーが字幕をつけられたのは見ても笑っていられるが、外国人が対象だと全然笑えない。


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 時々「言語汚染」とか「言葉の乱れ」という言い回しを耳にするが、もちろん正規の言葉ではない。そんなものはない、と言い切る人もいる。水質汚染のようにどんな基準を満たしたら汚染とみなすかがはっきりしていない、いわば感情論から出た観念だからだ。大雑把に言って「言語汚染」は外部の言語の要素の流入に対して、そして「言葉の乱れ(崩れ)」は当該言語内部での変化に対して向けられたものという違いはあるがどちらも規範的な考え方の人が言語の変化に対して抱くネガティブな感情である。「大雑把に言って」と言ったのはグレーゾーンがあるからだ。
 外来語、特にカタカナ語が連発されるのは言語汚染、いわゆるら抜き言葉は言葉の乱れの範疇内だろうが、例えば「会議が持たれました」的な、本来日本語にはなかった文構造が外国語の影響で使われるようになった場合は言語汚染なのか言葉の乱れなのか解釈が分かれるだろう。言語汚染などというものはないと考える人にとっては汚染か乱れかなどという議論そのものが不毛だろうが、中立な価値観に立つ言葉に置き換えてみるとこれは外来要素として扱うべきかあくまで当該言語内部の変化とみるかという問題でまあ議論の価値はあるとは思う。翻訳論(『119.ちょっと拝借』参照)にもかかわってくるからである。私個人は今の段階の日本語での「会議が持たれます」は外来要素とみなしてもいいと思っている。
 しかしこの外来要素というのが実はそれ自体曲者で、何をもって外部の言語とするかという問題自体がそもそも難しく、『111.方言か独立言語か』の項で述べた通りスッパリとは決められない。ユーゴスラビア内戦の爪痕がまだ生々しかったころ「クロアチア語によるセルビア語の汚染」とか「ボスニア語からセルビア語の借用語を排除すべきだ」などという議論を時々耳にしたが、この3言語は語彙の大部分を共有しており、この語はクロアチア語、これはセルビア語とホイホイ区分けなどできるものではない。それでも無理やり見ればボスニア語にはトルコ語からの借用語が多いといえるが、そのボスニア語はボスニア内のクロアチア人が母語なのである。こういう状況で「言語汚染」とか「言語浄化」とか「外来語」などと目くじらを立ててみても始まらないのではなかろうか。
 「外来語」を共時的に定義するのが難しいばかりではない、さらに通時的な視点からみると「外部の言語の要素」と「外来語」が完全にイコールではないことがわかる。日本も明治時代まで、いやある意味では第二次世界大戦の終わりまでそうだったが、書き言葉と話し言葉が非常に離れていてそれぞれ別言語とみなすのが適当であるような言語社会が世界にはたくさんある。いわゆるダイグロシア(『137.マルタの墓』参照)と呼ばれる状態であるが、その規範でがんじがらめになった書き言葉でも書いているうちにどうしても話し言葉の要素が食い込んでくる。これは汚染なのか言葉の乱れなのか。前者にとって後者はある意味立派な「外部の言語」なのだが、当該言語の使い手自身は書き言葉と話し言葉は一つの言語のつもりでいるから、これは乱れと見る人が多いだろう。でも見方によってはこれは汚染である。ところがなぜか逆方向、つまり話し言葉に書き言葉が紛れ込んできてしまった場合、例えば「これは私の若日の写真ですよ」などと言ってしまった場合には「話し言葉が書き言葉に汚染された」とは言わない。理不尽な話だ。

 さらに言語汚染・言葉の乱れという言葉とペアで使われるのがいわゆる「言語浄化」という言い回し。真っ先に思い浮かぶのは第二次世界大戦中に日本がやった敵性語の廃止という措置だろうが、これも理不尽なことに排除されたのは英語からの借用語だけで、英語と同様外国語でありしかも戦争をしていた国の言語、中国語からの借用語はノータッチだった。中国語をとり除いてしまったら日本語での言語生活が成り立たなくなるからだろう。理不尽というよりご都合主義である。もっともこの手の浄化運動は日本人だけでなくほとんどあらゆる民族がやっている。韓国では戦後日本語排斥運動が盛んになったそうだし、こちらではフランスの言語政策が有名で現在でも英語の侵略に対する処置なのか例えばコンピューターをordinateurと言わせるなど、言語を計画的に規制している。他の言語ではたいていcomputerという英語からの借用語を使っているところだ。日本語の「計算機」にあたる翻訳語を使うこともあるが(例えばドイツ語のRechner、クロアチア語のračunaloなど)、あくまで「コンピューター」と併用だ。フランス語ではordinateurのみで、しかもこれは翻訳ですらない。意識的な造語という色が濃い。またカタロニアもスペイン語の侵略を食い止めようといろいろやっているらしい。方言に牙が向けられることもある。日本人が沖縄でやった悪名高い方言札などはその最たるもの。共通語の中に方言を持ち込むと共通語が汚されるというわけだ。上述のフランスもやっぱりというか方言に冷たく言語の多様性を守ることには消極的だ。プロヴァンス語やブルトン語をパトワといって排除しようとした。ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章にもまだ批准していない。「言葉の乱れ」のほうも浄化対象になる。「本当は〇〇というのが正しい。最近の若者は言葉の使い方がなっとらん」、こういう発言がなされなかった言語社会は人類発生以来一つもないのではないだろうか。
 しかし言葉を純粋に保つことなどできるのだろうか?そもそも純粋言語というものがあるのだろうか?そもそも現在世界最強言語のひとつ、英語というのがフランス語とドイツ語の混合言語である。そのフランス語自身も元をただせばラテン語とケルト語の混交だ。こういうことを言い出すと全くキリがない。どこの民族だって他の民族と接触し混交しながら発展してきたのだ。純粋な言語など理屈からしてありえない。また仮にホモサピエンス発生以来全く孤立し、他と全く交流しないで来た集団があったとしよう。そこの言語は全く変化せずに何万年も前と同じ状態を保持できるか?これはRudi Kellerという人がその名もズバリなSprachwandel(「言語の変遷」)という著書でNoと言っている。私も同じ考えだ。百年もたてばどんなに孤立した言語でも変化する。言語は必ず内部変化を起こす。止めることはできない。

 ではだからと言って言語はまったくいじらず、なるがままにまかせておけばいいのか?言語の変化を人工的に規制しようとするな、しても無駄だ、言語学者にはそういうことをいう人もいるがこれは言葉通りに取れない場合もある。『34.言語学と語学の違い』でも書いたように言語学者がそういうことを言う時、矛先を向けているのは言語いじりそのものでなくそれに伴う規範意識だからだ。どの言語・どの方言が優秀とか正しいかとか言った価値判断・優劣判断を否定しているだけで、いわゆるlanguage planning、言語計画の必要性を否定しているわけではない。それどころか言語計画を専門にして食べていっている学者だって多い。この言語プランニングという作業には、標準語の制定、母語者向け・非母語者向けの教科書作り、言語教育などがあるが、少数言語の保護、またまれには死語の復活などもまたプランニングに含まれる。いずれにせよその出発点にあるのは「記述」である。いい悪い、正しい正しくないなどということは一切言わないでまず当該言語を無心に記述する。そしてその言語共同体で最も理解者が多いか、他の理由で一番便利と判断されたバリアントを標準語あるいは公式言語ということにしましょうと取り決め、言葉の使い方や正書法を整備する、これがcodificationである。あくまで「便宜上こういう言語形を使うことにしようではありませんか」という提案・取り決めであって、他の形を使うなとかこの形が一番正しいとかいっているのではない。当該共同体での言語生活が潤滑に行くようにするための方便に過ぎない。ここを勘違いして優劣判断を持ちこむ者が後を絶たないのでそれに怒って上記のようにやや発言が過激になるのだ。
 取り決められた標準形は絶対の存在でも金科玉条でもない。外来語が入ってきたために元の単語が使われなくなったり、内部変化で文法が変わったり、言語は常に変化していくからそれに合わせて標準語も定期的にメンテしていかなければならない。よく言われることだが、外国人のほうが「正しい」言葉を使うことがあるのは、外国人の習う標準語がその時点で実際に使われている言語より時間的に一歩遅れているからである。例えばドイツ語の während(~の間に、~の時に)や statt(~の代わりに)という前置詞は前は属格支配だったが、現在ではほとんど与格を取るようになっている。つまり大抵の人は「第二次世界大戦中に」を während dem zweiten Weltkrieg という。これを während des zweiten Weltkriegs と意地になって属格を使っているのは私などの外国人くらいなものだ。「私の代わりに」はstatt mir が主流で statt meiner と言ったら笑われたことがある。人称代名詞の属格など「もう誰も使わない」そうだ。さらに statt mirさえそもそも「古く」、普通の人は für mich で済ます。しかし逆に古くて褒められることもある。昔何かの試験で verwerfen(「はねつける、いうことをきかない」)の命令形単数として verwirf と書いたら、年配の教授にムチャクチャ褒められて面くらった。他のドイツ人は皆ウムラウトなしの verwerfe という形を書いたそうだ。クラスメートは「母語者が全員間違って正しい形を書いたのは外国人だけ。恥を知りなさい」とまで言われていた。要するに同じことをやっても褒められたり笑われたりするのである。
 しかし逆に日本に来れば「恥を知りなさい、日本人」の例がいくらもある。例えば上でもちょっと述べたら抜き言葉であるが、私がここ何年間かネットの書き込みなどを注意して観察しているぶんには、すでに95%くらいが「見れる」「食べれる」「寝れる」を使っている。私のようにこれも意地になって「見られる」「食べられる」「寝られる」と言っているのは完全な少数派、それもそれこそ意地になってある程度気合を入れないとつい「見れる」「来れる」と言いそうになる。これに対して外国人の日本語学習者はいともすんなりと「見られる」「来られる」が出る。外国人はそれしか習っていないのだから当然といえば当然ともいえるのだが、ここで恥を知らなければいけないのは日本人であろう。
 このら抜きに関しては、いくら私が意地になっても将来これが標準形になると思う(それとももう標準形として承認されているのだろうか)。合理的な理由があるからだ。一つの助動詞、れる・られるが受動・自発・可能(『49.あなたは癌だと思われる』参照)・尊敬などとといくつも機能を持っていると非常に不便だということ。できれば一形態一機能に越したことはない。特に受動と可能などという全く関係のない機能を同じ助動詞で表せというのは無理がありすぎだ。第一グループ、俗にいう5段活用動詞にはすでに可能を表現するのにれる・られるを使わずに活用のパターンを変化させるやり方が存在する。読む→読める、書く→書けるという形のほうを可能に使い、本来可能を表せるはずの「読まれる」「書かれる」は受動など事実上可能以外の意味専用と化している。私個人は I can read 、I can write を「私はこの本が読まれます」「私は日本語が書かれます」とは絶対言わない。「私はこの本が読めます」「日本語が書けます」オンリーであって、れる形は「この本は広く読まれている」「あいつに悪口を書かれた」といった受動だけである。「眠る」や「行く」などはかろうじて「昨日はよく眠られませんでした」とか「明日なら行かれますが」ともいうことがあるが、「眠れませんでした」「行けますが」を出してしまうことのほうがずっと多い。つまり第一グループではすでに受動と可能が形の上で分かれているのだ。だから第二グループ、いわゆる上一段・下一段動詞でもこの二つは分けれたほうが統一が取れる。そこで「食べられる」は受動、「食べれる」は可能と決めてしまい、「人によっては可能表現に受動と同じ形を使う」と注をつければいい。第3グループの「来る」も「来れる」と「来られる」で分ける。もう一つの第3グループ動詞「する」は元から「できる」と「される」に分かれているのだから問題ない。
 問題はこれをどうやって文法記述するかだが、これがなかなかやっかいだ。手の一つに第一グループの「-る」、第二・第三グループの「-れる」を異形態素としてまとめ、「-れる」及び「-られる」とは別形態素ということにしてしまうという方法がある。さらに第一グループも第二グループも可能の助動詞は仮定形に接続するとする。第一グループの語幹「読め-」は実際に仮定形と同じだからOK,第二グループは動詞語幹を母音までとしてしまえばどんな助動詞が来ても語幹はどうせ変化しないことになるからこれを仮定形だと言い張る。だがこれはあくまで「読める」「書ける」方の形の歴史的な発達過程を無視しているわけだからどこかに無理がでる。「読めない」と「読まない」の対称でわかる通り否定の助動詞の「-ない」が未然形にも仮定形にも接続することになって、統一が崩れるのが痛い。それよりさらに無理があるのが(無理があると思っているなら最初から言うな)動詞のパラダイムを現在の未然・連用・終止・連体・仮定・命令の6つからさらに増やして未然・連用・終止・連体・仮定・命令・可能の7体系にし、「読め・る」を可能形とするやり方だ。しかしこれも「-ない」の接続が未然と可能の二つに許されるという問題は解決しないばかりか、-e が仮定・命令・可能の3機能を担うことになり、無駄にややこしくなる。ロシア語の数詞問題でもそうだったが(『58.語学書は強姦魔』)、通時面を全く無視して共時的視点だけで言語を記述しようとするとどこかにほころびがでるようだ。もっとも今の学校文法はむしろ逆に意地になって通時面にしがみつきすぎているような気もする。一つの語形としてまとめられている未然形、連用形にそれぞれ2形がある一方、事実上形に区別のない終止と連体、仮定と命令が二つに分かれている。外国語として教える日本語の文法と学校文法の乖離が大きいのも当然だ。やはりここらで学校文法も全面的にメンテしたほうがいいのではないだろうかとは思う。
 第二の方法は可能を表す方法が第一と第二グループ動詞では異なり、第一グループでは語形変化でなく「派生」により、第二グループでは助動詞「れる」を仮定形につけて行うとすることだ。そこで注として派生のしかたを説明しておく。つまり語幹(第一グループの動詞というのはつまり「子音語幹」だから)に-eruを付加して辞書形とし、助動詞は必要ないと。こちらの方が言語事実には合っていると思うが、これも説明が少しややこしいし、ここでもやはり第一グループと第二グループとの亀裂がさらに深まっている。実際はどうなっているのかと思ってちょっと現行の教科書を覗いてみたら、可能表現については第一グループは「読む→読める」のタイプ、第二グループは「食べる→食べられる」という風に(事実上完全に少数派でなっている)られる形をやらせているようだ。でももう「食べる→食べれる」に市民権を与えてもいいのではないだろうか。「可能表現は第一グループと第二グループで全く作り方が違い、前者は派生で、後者は語幹に「れる」を付加して作る(まれに「られる」を付加する場合もある)。受動形その他は第一グループは「れる」、第二は「られる」付加で形成する」と説明する。確かに第一と第二の亀裂は深まるが、その代わり可能と受動その他の亀裂も深まるからかえってすっきりするかもしれない。第三グループについてはどうせ2つしかメンバーがいないから、少数差別するわけではないがまあ「例外です」で済ませる。表現する変化を汚染だろ乱れだろと排除ばかりしていないで時期を見て正式に認めてやるといいと思う。それとももう言語学の方の(つまり語学ではない方の)日本語文法ではすでにそういう方向の記述になっているのだろうか。

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 ドイツ鉄道がいかにスリル満点かは今までにも書いたが、先日またしても面白いことになった。私はさる路線で G(ゴキブリではない)という町に行っている。ところが先月の半ばから今月の半ばにかけての一ヵ月ほど、その路線のど真ん中がかなり長距離に渡って「通行止め」となった。線路の修理工事のためだそうだ。大井川の川止めかよ。その閉鎖された部分では代行のバスが走るそうだが、私はこれまでの経験からこの「ドイツ鉄道が用意するバス」の信用度には絶大に懐疑的だったので、遠回りにはなるが電車の別路線を使うことにした。
 普段の路線では住んでいる町から Gに行くのにまずライン川をわたって Lメイン駅を通る。この Lメイン駅の恐怖ぶりも今まで散々書いたとおりである(『189.恐怖のメインステーション』『28.私のせいじゃありません』参照)が、そこを通過してライン川の西側を南に下ると G につく。この路線がまた何かと悶着の起こる路線で、G までは正式には40分くらいしかかからないはずだが、その時間内についたことがない。15分遅れくらいがデフォ、一時間遅れもザラ、最高記録は6時間の遅延である。本来40分の距離でそんなことができるわけがないだろうと思われるだろうが、それができたのだ。私のところの町の駅構内で大送電線がブチ切れ、周り一帯の電車の運行が全てストップしたのである。あらゆる電車が出るも入るもできない。事故の原因がわからないから修理も大幅に手間取り、私など一度家に帰ってまた出てきたら、何時間か前に私が座っていた電車がまだ同じホームにいた。結局その電車もそのホームのシグナルが使えないとかで車庫に戻され、別のホームから別の電車が出ることになった。そのまた電車も路線の途中で突然ストップし、私たちは唐突に代行バスに乗せられた。まるで悟空の大冒険だ。このG からさらに先に進むとフランスに行けることは『59.フランス訪問記』で書いた通りであるが、出だしから電車がストップしたらフランスもク〇もない。 まず駅を出ろ。
 とにかくこの路線はLメイン駅ばかりでなく、そもそも路線全体が鬼門である。それで今回は路線が繋がるまでの間別の行き方をとることにした。
 代行路線では最初にライン川を渡らずに東側を南に下り、じゅうぶん南まで来た地点で別の電車に乗り換えライン川を渡って G に行く。乗換駅は G.N 駅と言い、電車の連結点である以外は何の取り柄もない不愛想な駅だ。それまで乗って来た路線は先に進んで K という大きな駅まで行く。私の家から直接 G まで行くのとこの G.N 駅まで行くのとでは距離がほぼ同じ、つまり私のとった代行路線では G.N 駅からGまでの走行分だけ長くかかるということである。この乗り換え路線は G.N が始発ではなく、B という駅から来ている。その B と私の家の駅とはさらに別の路線で直接つながっていて、私んちから乗るとBを通って最終的にはやっぱり K に着く。図に書くとこんな感じになる。
Line-S33
 ライン川は州境を成していて、東側、うちと G.N、 B 、K 駅は同じ州、図には出ていないが恐怖の Lメイン駅と目的地 G 駅はラインの西側にあって別の州だ。今までも薄々感じてはいたが、今回ラインの東側と西側では鉄道事情にエラい差があることを改めて実感した。東側州はベンツや SAP を擁する金持ち州、西側は工業よりワインなどの農作物で持っている、こう言っちゃナンだが割と貧乏な州である。G.N までいく路線も管理部が東側州にあるからか電車もオサレでモダンなスタイル、内部もそれに応じてピカピカだ。しかも信じられないことに遅滞も5分以内。走っていると隣を時々 ICE などが抜いていく。駅も沿線の町も大きなものが多い。とにかくいろいろにぎやかというか華やいでいるのだ。

お金持ち州の管理するピカピカ路線の車両。
https://images.tagesschau.de/image/e05d72a5-e598-4165-ba91-5f270a0d5280/AAABibuxrKw/AAABibBxqrQ/16x9-1280/swr-auch-die-landeseigene-verkehrsgesellschaft-sweg-wird-von-den-streiks-betroffen-sein-100.jpgから

swr
 それがG.Nで乗り換えて G へいく電車に乗ると一変する。G 行き路線もライン川を越えるまでは東側金持ち州を走っているはずだが、主な走行範囲が西側貧乏州だからか、ドイツ鉄道が直接管理しているためか、どうもないがしろにされている感じで車両のモデルも古くてダサく、乗っていて全然楽しくない。私の家から G までの直接路線のほうもこの車両だが、その時は比べるものがないからこんなものかと思っていた。しかし今回 G.N までの路線とG.Nからの路線の差を目の当たりにしてみると、その落差には驚愕せざるを得ない。しかも一時間に一本と言うローカルぶりだ。線路はその路線専用なんだし、そんなに運行時間が開いていれば前の便が引っかかったり他同じ線路を使っている他の路線の便がポイント故障を起こしたりしてスケジュールを滅茶滅茶にされる危険性がないわけだから、すんなり運行できるかと思いきや、平気で遅れる。今時単線だからだ。途中の Ph という駅でのんびり対向車が通過するのを待たなければいけない。直接路線も周りの景色などはローカル色満載だったが、いくらなんでもさすがに複線ではあった。G.N から G では単線と言うだけでなく周りの景色がさらに凄い。もちろん大きな町などはなく、そもそも人家そのものがまばらで、駅も圧倒的にショボい。こんなところで終電を逃したらどうなるんだろう。絶対夜はこの路線に乗りたくない。
 いちど途中の駅の線路わきを3羽のニワトリが闊歩しているのを見かけた。これは誰かが飼育しているのが散歩に出たのか、それとも野生のニワトリなのか?いずれにせよ、鳩ならともかく線路わきをニワトリに闊歩されたのははこれが初めてだ。
 もっともこの線はまだこの程度で済んでいるが、G 駅から G.N の方に曲がらずに南へ下る線はさらにグレードが下がる。人家はさらにまばらで、駅はますますショボく、それに反比例して通りぬける森や野原は立派になる。昼なお暗き原生林的な部分さえある。下手をしたらそれこそデルス・ウザーラの助けを借りなければ家に帰れなくなりそうだ。もし殺されでもしたら10年くらいは発見されないだろう。それでもこの路線だって南の方で細々と東側金持ち州の K 駅と繋がってはいるのだ(上図参照)。車両にもともと東州で市電として走っているのを引っ張り出してきた軽いモデルが使われている。その軽装備で原生林の中を通るから夜どころか昼でも怖い。
 どうもフランクフルトより南では(北の方はそんなことはない)ライン川の西側は東側の「日陰者」になってしまうようだ。とにかく差がありすぎる。何というか、古くなって時代にそぐわなくなってはいるが、一応まだ走ることは走るという電車が最後の御奉公をしている感じなのだ。どうせ本数もないからその程度のモデルで勤まるだろうというわけか。それで思い出したが、これも以前直接路線に乗っていたらいきなり「技術上の問題で時速50km以上のスピードが出せなくなりました」と車内アナウンスが流れたことがあった。これじゃイルカの水中速度と同じではないか。もっともその西側州も北を走る路線では上述のピカピカ電車も使われていて Lメイン駅でも時々見かける。ボロボロで赤さびだらけのLメイン駅の構内では完全に浮いていてほとんど掃きだめの鶴である。『189.恐怖のメインステーション』で到着するはずの電車に無視された話をしたが、そのときの電車もこのピカピカ電車だった。こんなバッチい駅に止まって汚れるのが嫌だったのかもしれない。その次にはピカピカと交互にダサい方のドイツ鉄道全国版が来るはずだったが、これが突然削除されたのもそこで書いた通りだ。ピカピカなら無視はされても(しないで欲しい)電車そのものは来るが、ダサ電の方は存在それ自体が削除されるという、まあ微妙にヒエラルキーの差を垣間見るようで面白いと言えば面白い。全然面白くないが。

ドイツ鉄道全国版のダサいモデル。止まっている場所は G 駅。
https://www.bahnbilder.de/1200/425-109-s-bahn-rhein-neckar-steht-1027872.jpgから

425-109-s-bahn
それより軽い市電モデルも走る。これで原生林横断は無理だ。
https://www.schwarzwaelder-bote.de/media.media.7dd5fe0a-06e7-4b36-8fdc-bbdcfad47536.original1920.jpgから

media.media

 しかし、昼なお暗き森やニワトリくらいで驚いてはいけない。ある時その孫悟空の天竺旅行から家に帰ってきたばかりのところで、「G 市で殺人罪で服役中の無期懲役の受刑者が逃亡しました」というニュースが流れた。帰ったところでいきなりこれだ。しかもその服役囚はすでに一日前に逃げている、ということはその日私が G にいる時、そこら辺を無期刑の殺人犯が歩いていたという事なのか。そもそも G なんて町は「東京都品川区東五反田」と同じくらいローカルで、本来とても全国ニュースで名前が出るような町ではない。のけぞったところにさらにダメ押し的に、脱走囚の住んでいる(「服役している」と言え)刑務所は上述の B 市にあり、たまたまその日に(もちろん監視付きで)G に出ていたとき逃亡したと伝えて来た。足につけられていた電子監視装置が G 市で見つかった。この人は2003年に一度人を殺して5年の刑を受け、刑期を務めあげて出所しているが、その後また殺人を犯して2012年からB市の刑務所にいたそうだ。前回の殺人は Totschlag だったが、今回の罪状は Totschlag でなく Mord で(『13.二種の殺人罪』参照)終身刑を受けていた。殺人のバージョンがアップしている。今回はベルトで絞殺した遺体を Lauterbourg に遺棄していたという。G、 B とまさに寄りによって人が乗る路線上の駅名に加えて以前ネタにした Lauterbourg まで登場し、しかも「期間を限定して」私が使っている路線の、まさにその限定時間内に殺人犯が逃げてニュースになる、これはいったい何の因果なのか。あの3羽のニワトリは何かの前兆だったのか。
 その服役囚がわざわざ G 市に来て何をしていたのかというと、私は知らなかったが G には大きな景色のいい池がありそこを散歩させられていたという。家族とも面会していたのだそうだ。外の日常生活からあまりにも乖離して現実世界との接点を失ってしまわないよう終身刑であっても服役囚は時々外に出して外界と接触させるのが規則だとのことだが、そういう処置自体には私も賛成である。事実この脱獄囚はそれまでにも何度も何度もそうやって外の空気を吸わせてもらい、何の問題を起こすこともなくまた刑務所に戻ってきていた。もちろん監視がいたから逃げられなかったのだろうが。それがなぜ G に来た時 に限って逃げ出したのかわからない。ひょっとしたら以前から機会は狙っていたのかもしれない。しかしそれでも私は服役囚から外界との接触を完全に断つのには反対である。ニュースを見たときはさすがにビビったが、怖いとはあまり思わなかった。「あの辺なら隠れるところはさぞたくさんあるだろうなあ」と妙な納得をしてしまったくらいである。警察署が声明を出して「この人を見かけたら絶対に自分では話しかけずに最寄りの交番に報せてください」といういつもの指示にさらに続けて、「非常に危険な人物ではありますが、逃亡中に新たに人を襲ったり犯罪を犯したりする可能性は低いです。今回の逃亡の目的はできるだけ長く自由でいるということですから、自分の居場所を特定されるような行動はしないと思われます」と言っていた。私もそう思う。せっかく出て来たのにわざわざ目立つようなことはしないだろう、向こうから私を避けるだろうと思うのである。
 それに脱獄をしてもそのせいで刑期が伸びるわけではない。脱獄そのものは罰則にはならないのだ。ただ、逃亡していた日数が加算されるだけ、例えば一週間刑務所の外にいたら、満期がきた時点でさらにあと一週間いさせられるだけだ。脱獄中に犯罪を犯したりしたらそうはいかない。ボーナスがたっぷり加算される。やはり脱獄中はできるだけ人目を避けて大人しくしているのが普通の神経だ。

 さて、逃亡から一週間以上たつがまだ犯人は捕まらない。ひょっとしたらフランスに逃げたのかもしれない。


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