アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ヒッタイト語

機種によってレイアウトが崩れまくるので前に書いた記事の図表を画像に変更しました。ついでに鬼のように誤植があったので直しました。この調子だとまだありそうです誤植…

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 私と誕生日が一日違いの(『26.その一日が死を招く』参照)言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの名は言語学外でも広く知られている。その「代表作」Cours de linguistique générale『一般言語学講義』以来、氏が記号学の祖となったからでもあろう。ラング、パロール、シニフィアン、シニフィエ云々の用語を得意げに(失礼)使っている人も多い。オシャレに響くからだろう。私も得意げに使っているので、大きな事はいえないが。
 が、これもよく知られていることだがその『一般言語学講義』はド・ソシュール自身が書いたものではない。ド・ソシュールの講義を受けたセシュエやバイイなどの学生が自分たちのノートを基にしてまとめたものである。あまり知られていないのが Cours de linguistique générale が世界で最初に外国語に翻訳されたのは日本語が最初であることだ。1928年小林英夫氏の訳である。私はこれを聞いた当時日本人の言語学への先見の明・関心が高かったためかと思って「さすが日本人」と言いそうになったが、これは完全に私の思慮が浅かった。Cours が他の国でそんなにすぐ翻訳されなかったのは、当時のヨーロッパではその必要がなかったからである。つまりフランス語などまともな教養を持っている者なら誰でも読めたからだ。現に当時の言語学の論文の相当数がフランス語で書かれている(下に述べる Kuryłowicz クリウォヴィチの論文もフランス語である)。これは今でもそうで、例えば大学で論文を書くときドイツ語・英語・フランス語の引用文は訳さなくていい、という暗黙の了解がある。論文ではないがトーマス・マンの『魔の山』(『71.トーマス・マンとポラーブ語』参照)にも何ページもベッタリフランス語で書いてある部分がある。つまり Cours が真っ先に日本語に訳されたのは日本人が言語学に熱心だったからではなくて単に日本人の一般的語学力が低かったからに過ぎない。ずっと遅れはしたが日本語の次に Cours が翻訳された言語が英語だったことを考えるとさらに納得がいく。現在のヨーロッパの国ではイギリスがダントツに「外国語が最もできない国民」である、というアンケートの結果を見たことがあるのだ。

 その、ド・ソシュールの手によるものでない『一般言語学講義』が言語学外でもやたらと知られている一方、まぎれもなく氏本人の手による『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚書』Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes という論文はあまり騒がれてもらえていない。言語学者としてのド・ソシュールの名前を不動のものとしたのはむしろ Mémoire のほう、俗に印欧語のソナント理論、後に喉音理論と呼ばれるようになった理論の方ではないかと思うのだが。ド・ソシュールが1879年に21歳で発表した印欧比較言語学の論文である。

 印欧語はご存知のように俗に言う屈折語で、語中音、特に母音が交代して語の意味や品詞、またシンタクス上の機能を変える。例えば「死ぬ」というドイツ語動詞の不定形は sterben で e という母音が来るが、現在形3人称単数は stirbt と i になり、過去形3人称単数は starb で a、接続法2式は stürbe で ü 分詞で gestorben と母音は o になる。子音は変わらない。祖語の時代からそうだったことは明らかで、19世紀の後半からメラー Møller など何人もの言語学者がセム語族と印欧語族とのつながりを主張していたのもなるほど確かにと思う。
 さてその印欧比較言語学の最も重要な課題の一つが印欧祖語の再建であったことは『92.君子エスペラントに近寄らず』の項でも書いたとおりである。基本的には印欧祖語の母音はa, e, i, o, u の5母音とその長音形 ā、ī、ō、ē、ū と「印欧語のシュワー」と呼ばれる ə というあいまい母音と見なされている。最初から研究が進んでいた印欧語族、現在の印欧語や古典ギリシャ語、サンスクリットなどのデータを詳細に調べて導き出されたのだが、印欧祖語の母音組織についてはいまだに諸説あり最終的な結論は出ていない。i と u はむしろ半母音、つまりソナント(下記参照)、そして ī と ū は ei、oi、eu、ou などの二重母音の弱まった形だとされることもあるが、ā、ō、ē の3つの長母音は印欧祖語本来のものとみなすのが普通であった。これらの母音が上述のように語中で交代して意味や文法機能を変える。その母音交代現象(Ablaut、アプラウト)は祖語時点ですでに共時的に行なっていたのが、祖語がバラけるにつれて通時的にも母音が変化したから、交代のパターンをきっちり確定するのが難しくなっているわけである。
 様々な母音交代パターンがあるが、大きく分けると量的母音交代(quantitativer Ablaut、またはAbstufung)と質的母音交代(qualitativer Ablaut または Abtönung)の2群に分けられる。後者については印欧祖語には e 対 o または ō 対 ē の交代があったと思われ、例えば古典ギリシア語の patera (「父」、単数対格)対 apatora(「父のいない」、単数対格)、patēr(「父」、単数主格)対 apatōr(「父のいない」、単数主格)がこれを引き継いでいる。クラーエ Krahe という人はさらに a と o の交代現象に言及しているがこちらのほうは「非常にまれにしか見出せない」と述べているし、私の調べた限りではその他の学者は全員「印欧祖語の qualitativer Ablaut」として e 対 o しか挙げていなかった。母音交代ではゼロ(ø)形も存在する。サンスクリットの as-mi(「~である」、一人称単数現在)、s-anti(同三人称複数現在)はそれぞれ *es-mi 、*s-enti という形に遡ると考えられるが、ここの語頭で e と ø が交代しているのがわかる。
 前者の quantitativer Ablaut は短母音とそれに対応する長母音、または短母音と二重母音間の交代である。e 対 ē のようなわかりやすい対応ばかりでなく、ā、ō、ē 対 ə、ei 対 i、 eu 対 u のような複雑なものまでいろいろな形で現れる。ラテン語 tegō(「覆う」、一人称単数現在)対 tēxī(一人称単数完了)に見られるわかりやすい e・ē 交代の他、古典ギリシア語の leipō(「そのままにする、去る」、一人称単数現在)対 elipon(同一人称単数アオリスト)もまたこの quantitativer Ablaut である。この動詞の一人称単数完了形は leloipa だから、母音交代は ei 対 oi 対 i かと思うとこれは実は e~o~ø。つまり一見様々な量的母音交代は割と簡単な規則に還元できるんじゃないかと思わせるのである。ド・ソシュールがつついたのはここであった。

 このゼロ交代現象で重要な意味を持ってくるのが音韻環境によって母音にもなり子音にもなるソナントと呼ばれる一連の音で、この観念を確立したのがブルクマン Brugmann という印欧語学者である。例えば、英語の sing~sang~sung、ドイツ語の werden~ward(古語、現在の wurde)~ geworden は祖語では *sengh-~*songh-~*sn̩gh-、*wert-~*wort-~*wr̩t-という形、つまり e~o~ø に還元できるが、そのゼロ形語幹ではそれぞれ n、r が母音化してシラブルの核となっている。こういう、母音機能もになえる子音をソナントと呼ぶが、印欧祖語には r̩、l̩、m̩、n̩(とその長母音形)、w、y(半母音)というソナントが存在したと思われる。「母音の r̩ や l̩」はサンスクリットに実際に現れるが m̩ と n̩ についてはまだ実例が見つかっていないそうだ。ここで私が変な口を出して悪いがクロアチア語も「母音の r」を持っている。言い換えるとクロアチア語には母音の r と子音の r の、二つの r がある。rad (「作品」)の r は子音、trg(「市場」)の r は母音である。
 さらに上述の古典ギリシャ語 leipō~elipon の語根だが、祖語では *lejkw-~*likw- となり前者では i が子音、半母音の j (英語式表記だと y )だったのが後者では母音化し、i となってシラブルを支えているのがわかる。同様に u についても、半母音・ソナントの w が母音化したものとみることができる。円唇の k が p に変わっているのは p ケルトと同様だ(『39.専門家に脱帽』参照)。

 さて、話を上述の印欧祖語のシュワーに戻すが、ブルグマン学派ではこの ə をれっきとした(?)母音の一つと認め、ā、ō、ē と交代するとした。サンスクリットではこの印欧語のシュワーが i、古典ギリシャ語とラテン語では a で現れる。だから次のようなデータを印欧祖語に還元すると様々なアプラウトのパターンが現れる。それぞれ一番下が再現形(太字):
Tabelle1-115
3番目の例は松本克己氏からの引用だが、氏はサンスクリットの「与える」反射態として a-di-ta という形を挙げていた。その形の確認ができなかったので私の勝手な自己判断で adiṣṭa にしておいた。とにかくサンスクリットでは原母音の ā、ō、ē が全て ā で現れているのがわかる。最後の二つは2音節語幹だが、とにかく母音交代のパターンも語幹の構造もバラバラだ。ド・ソシュールはこれらを一本化したのである。
 ブルグマンらによれば印欧祖語のソナント r̩、l̩、m̩、n̩ はサンスクリットでは a となるから、サンスクリットの語幹が tan- 対 ta- と母音交代していたらそれは印欧祖語の *ten-~*tn̩- に帰するはずである。ド・ソシュールは上のような長母音対短母音の交代もシュワーでなくこのソナントの観念を使って説明できると考えた。
 そこでまず印欧祖語に coéfficient sonantique「ソナント的機能音」という音を設定し、それには二つのものがあるとしてそれぞれ A、O(本来 O の下にˇという印のついた字だが、活字にないので単なるOで代用)で表した。その際ド・ソシュール自身はそれらはどういう音であったかについては一切言及せず、あくまで架空の音として仮にこういう記号で表すという姿勢を貫いた。
 この二つの「ソナント的機能音」が短母音を長母音化し、さらにその色合いを変化させるため、e+A=ē または ā、e+O=ō, o+A=ō, o+O=ō の式が成り立つ、いや成り立たせることにする。いわゆるゼロ形ではA、Oは単独で立っているわけである。例えば上のラテン語 stā-re~sta-tus は *stā-~*stə でなく *steA-~*stA-、古典ギリシャ語 di-dō-mi~do-tos は *dō-~*də- でなく *deO-~*dO となる。これはブルクマンが元々唱えていた *sengh-~*sn gh-(上述)、さらに leipō~elipon の *lejkw-~*likw-(これも上記)と基本的なパターンが全く同じ、CeC- の e~ø 交代となる。最終的にはド・ソシュールは母音としては e のみを印欧祖語に認めた。
 このド・ソシュールの「式」のほうがブルグマンより説明力が高い例として松本克己氏は bhavi-tum~bhū-tas(上述)の取り扱い方を挙げている。ド・ソシュールの説ではこれも *bhewA-~*bhwA- という単純な e~ø 交代に還元でき、*bhewA- ではソナントAが w と t に挟まれた子音間という環境で母音化して祖語の ə つまりサンスクリットの i (上述)となり、*bhwA- ではソナント(半母音)w が bh と Aに挟まれた、これも子音間という環境で母音化して u になる。さらにこれがソナントAの影響によって長母音化して最終的にはūになるのである。見事につじつまが取れている。それに対してシュワーの ə を使うときれいな CeC- 解釈ができない。この交代は *bhewə-~*bhwə- と見なさざるを得ず、後者の *bhwə- が「印欧祖語の ə はサンスクリットの i」という公式に従って bhvi- で現れるはずであり、bhū- という実際の形の説明がつかない。といって ū- をそのまま印欧祖語の母音とみるやり方には異論がなくないことは上でも述べた。

 しかしド・ソシュールのこのアプローチは言語学で広く認められることとはならなかった。このような優れた点はあってもまだ説明できない点や欠点を残していたことと、当時のデータ集積段階ではブルグマンの母音方式で大半の説明がついてしまったからである。もっとも数は少なかったがド・ソシュールと同じような考え方をする言語学者もいた。例えば上述のメラー Møller は既に1879年に印欧祖語の ā、ō、ē は実は e+x から発生したものだと考えていたし、フランスのキュニー Cuny もこの、「印欧祖語には記録に残る以前に消えてしまった何らかの音があったに違いない」というド・ソシュール、メラーの説を踏襲して、それらの音をド・ソシュールの A、Oでなく、代わりに ə1、 ə2、 ə3 という記号で表した。その際これらの音は一種の喉音であると考えた。キュニーはこれを1912年の論文で発表したが、基本的な考えそのものはそれ以前、1906年ごろから抱いていたらしい。さらにド・ソシュール本人も1890年代にはAを一種の h 音と考えていたそうである。

 情勢がはっきり変わり、この「喉音理論」が言語学一般に認められるようになったのは1917年にフロズニー Hrozný によってヒッタイト語が解読され、印欧語の一つだと判明してからである。
 ヒッタイト語には ḫ または ḫḫ で表される音があるが、これを印欧祖語の子音が二次的に変化して生じたものと解釈したのでは説明がつかなかった。結局「この音は印欧祖語に元からあった音」とする以外になくなったのだが、この説を確立したのが上でも名前を出したポーランドの Kuryłowicz クリウォヴィチである。1927年のことだ。その時クリウォヴィチはこの ḫ がまさにド・ソシュールの仮定した Aであることを実証してみせたのである。ただし彼もキュニーと同じく ə1、 ə2、 ə3 の3つの記号の方を使い、e+ ə1= ē、 e+ə2= ā、 e+ə3=ō という式を立てた。つまり ə2 がド・ソシュールのAに対応する。
 例えば次のようなヒッタイト語の単語とその対応関係をみてほしい。左がヒッタイト語、右が他の印欧語。「ラ」とあるのはラテン語、「サ」がサンスクリット、「ギ」が古典ギリシャ語、右下に出したのがシュワーを用いた印欧祖語再建形である:
Tabelle2-15
最初の3例では a+ḫ=ā という式が成り立つことがわかる。そしてヒッタイト語の a を印欧祖語の e と見なせば、この a+ḫ=ā はまさにド・ソシュールの e+A=ā 、クリウォヴィチの e+ə2= ā、つまりド・ソシュールが音価を特定せずに計算式(違)で導き出した「ソナント」または「ある種の喉音」が本当に存在したことが示されているのである。一番下の例ではこのソナントが子音の後という音韻環境で母音化してブルクマンらのいうシュワーとなり、サンスクリットで公式どおり i で現れているのだ。
 さらにクリウォヴィチはすべての印欧祖語の単語はもともと語頭に喉音があった、つまり CV- だったが、後の印欧語ではほとんど消滅して母音だけが残ったとした。ただ、アルバニア語にはこの異常に古い語頭の喉音の痕跡がまだ残っている、と泉井久之助氏の本で読んだことがある。

 もちろんこの喉音理論もクリウォヴィチが一発で完璧に理論化したわけではなく、議論はまだ続いている。同じ頃に発表されたバンヴニストの研究など、他の優れた業績も無視するわけにはいかない。そもそもその喉音とやらが何種類あったのかについても1つだったという人あり、10個くらい設定する説ありで決定的な解決は出ていない。それでもこういう音の存在を60年も前に看破していたド・ソシュールの慧眼には驚かざるを得ない。私はオシャレなラング・パロールなんかよりむしろこちらの方が「ソシュールの言語学」なのだと思っている。高津春繁氏は1939年に発表した喉音理論に関する論文を次の文章で終えている。

F.de Saussureの数学的頭脳によって帰結された天才的発見が六十年後の今日に到って漸く認められるに到った事は、彼の叡智を證して余りあるものであって、私は未だ壮年にして逝った彼に今二三十年の生を与へて、ヒッタイト語の発見・解読を経験せしめ、若き日の理論の確証と発展とを自らなすを得さしめたかったと思ふのである。彼の恐るべき推理力はCours de linguistique généraleにも明らかであるが、その本領はMémoireに於ける母音研究にあり、彼の此の問題に対する画期的貢献を顧りみて、今更の様に此の偉大なる印欧比較文法学者への追悼の念の切なるを覚える。

なるほど、あくまで「Cours de linguistique générale にも」なのであって「Cours de linguistique générale」や「Mémoire にも」ではないのだ。

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 長い間気にかかっているのに改めていろいろ調べるのはおっくうだということで放置している事柄というのは誰にでもあるのではないだろうか。例えば私は森鴎外のエリスという名前がそうだった(『131.エリスという名前』参照)が、他にもある。
 ロシア語で「火」をогонь(アゴーニ)というと聞いて驚いた。実ははるか昔にサンスクリットというのをほんの短期間だけ勉強したが内容そのものはほぼ完全に忘れ、残っているのは当時買った教科書だけという状態である。なぜ「ほぼ」かというと単語がわずかに3つだけ記憶に残っているからであるが、その3つの単語の中に「火」があって、アグニというのだ。「火」というより火の神様の名前である。これとロシア語の形があまり似ているので驚いたのだ。もっともあまりにも似すぎているのでこれは偶然か借用かもしれないとも思った。しかしその後ラテン語で「火」を ignisということを知った。英語の ignition の冒頭部もこれで、中世フランス語を通して入ってきたものだ。微妙に母音が違っていたりするあたり、むしろこっちの方がサンスクリットのアグニと同源っぽい。そこで最近になってやっと調べてみたらこの3つ、サンスクリットのアグニ agní、ロシア語の огонь、ラテン語の ignisは本当に同じ単語から派生してきたものだった。印欧祖語の再現形では*hxn̥gʷnis あるいは*h₁n̥gʷnis (資料によって再現形に差がある)といい、ラテン語、ロシア語、サンスクリットの他にリトアニア語の ignis、ラトビア語の uguns もこれである。ロシア語の形が「似すぎている」のはスラブ祖語から音韻変化してくる際に母音の音価がいわば元に戻ったからで、古教会スラブ語では ognĭ、つまり母音は o だった。だからこそロシア語でも綴りがогоньとなっているわけで、アーカニエ(『6.他人の血』『26.その一日が死を招く』参照)のため a にはなっているが、音韻レベルでは o なのだ。アクセントが後ろに移動している点も(『56.背水の陣』参照)東スラブ語の図式通りである。
 これらに対してドイツ語では「火」をFeuer といって、もちろん英語の fire、オランダ語の vuur と同源だ。中高ドイツ語では viur、viwer、viuwer、fiur などと書いていた。v とは書いても無声子音だったようだ。古典ギリシャ語の πῦρ (pûr)も一緒で、印欧祖語形は*péh₂ur̥ 。第一時音韻推移で祖語の閉鎖音*p がゲルマン語派では調音点はそのままで摩擦音 f になっているわけである。アルメニア語の հուր (hur)、ヒッタイト語の paḫḫur、古プロイセン語の panno、ラテン語の兄弟ウンブリア語の pir、トカラ語Aの por、トカラ語Bの puwar もこの語が起源である。さすがアルメニア語の音韻推移だけは他と離れてアサッテの方を向いている。バルト語派、スラブ語派は上述のように*h₁n̥gʷnis(あるいは*hxn̥gʷnis。上記参照)形が基本だが、チェコ語に*péh₂ur̥ 起源の pýř という語があり「灰」である。「火」そのものはチェコ語でも oheňと*hxn̥gʷnis 形だ。

 それにしてもなぜ「火」などという基本単語がこのように祖語形から単語自体が真っ二つに割れているのだろう。普通印欧語内では「水」とか「母」「父」などのありふれた言葉はもともとの形は同じ一つの単語であることが多い。だからこそ音韻対応の規則が容易(でもないが)に見つけられたのだ。不思議に思って調べてみたら、*hxn̥gʷnis と*péh₂ur̥ とは火は火でも意味合いが違い、前者は男性名詞で人格化された火、いわば行動主体としての火で、サンスクリットのagní が火というより「火の神様」を表しているのもうなずける。現在のインドの言葉は皆この agní を受け継いでいて(プラークリットで agg)、ベンガル語 agun、ヒンディー語の āɡ、パンジャブ語の ag は当然この直系だが、ロヒンジャの言葉 ooin もこれ起源だそうだ。ロマニ語の jag も同源である。さらにこの言葉は近隣の非印欧語にも借用されていて、タミル語の akkiṉi、テルグ語の agni、タイ語の àk-ká-nii などあちこちに飛び火している。さらに本来 *péh₂ur̥ 系のヒッタイト語にも ak-ni-iš という形があるが、これはヴェーダの火の神様のことのみを指すあくまで固有名詞で、普通名詞としての機能はなかったらしい。この男性名詞の*hxn̥gʷnis に対し、*péh₂ur̥ は中性名詞、単なる自然現象、人格化などされていない物質あるいはモノとしての火だ。上でも述べたようにインド語派とロマンス語派以外の印欧語は基本的にこちらを使っている。
 『122.死して皮を留め、名を残す』でもちょっと名前をだしたBonfante はこの二つの形に言語地理学的なアプローチをして*péh₂ur̥ は「中央的」*hxn̥gʷnis は「周辺的」な分布を示す、つまり*hxn̥gʷnis の方が古い形であると見た。最初印欧(祖)語では「火」は*hxn̥gʷnis 形だけであった。しかしその後新しい形*péh₂ur̥ が文化的中心部に発生し、それが古形にとって代わっていったと。いわゆる波動説に従ったのである。斬新的な新しい形はまず文化の中心地に現れ次第に周辺部に広がっていくから中央部ではすでに新しい形が使われている時期でもまだ周辺部では古形が残っている場合が多い、という考えかただ(『105.茶飲み話』参照)。このボンファンテの説に対してはMalloryと Adamsが異を唱えている。まずヒッタイト語が*péh₂ur̥ である理由がわからない。このほとんど最古の印欧語がすでに新しい単語を使っている一方で、古いは古いがそれよりちょっと時代の下っているサンスクリットだろラテン語だろが「それより古い」形を使っているのはなぜか。さらにトカラ語などのどう見ても周辺言語が文化的中央語の*péh₂ur̥ である説明もつかない。もう一つ、各言語での*péh₂ur̥ 起源の語の活用のパラダイムなどを見てみると、こちらの方がむしろ古い印欧祖語の形を保持していて、*hxn̥gʷnis は形態素的に新しいタイプの語である。しかしそこまで言っておきながらマロリー&アダムズは「*péh₂ur̥ のほうが古い」という結論にまでは持って行っていない。私には「なるほど、じゃあ*péh₂ur̥ のほうが古いんじゃん」としか思えないのだが、M&Aによれば両方とも印欧祖語にもともとあった語で、印欧祖語民族は生物または魂を持つ実体と単なる物質としての火を言語上で区別していた、それが印欧祖語がいろいろな言語に分離してくる際、どちらか一方がもう一方を押しのける形で一つの単語に固定してしまったと。
 確かに古い印欧語は生物非生物の区別に敏感だったらしく、その形跡が今でもところどころに残っている。現にロシア語では生物非生物によって対格の形が違うし、ヒンディー語やヒッタイト語に見られる能格構造も元をただせばそのせいといえそうだ。たとえばアナトリア語派(ヒッタイト語もこれ)では中性名詞が他動詞の主語に立つときは主格とは異なる*-enti という語尾をとるようになった。これは本来中性のn-語幹名詞の奪格・具格形だったもので、非生物を表す中性名詞が生物のように主語に立つと居心地が悪い感じがしたからだ。現在の英語だったらThe fire burned the house と言っても何の差支えもないが、ヒッタイト人は引っかかったと見えて非生物が主語に立つ場合は奪格・具格を取っていわば (It) burned the house with fire 的な表現をした。これが固定して能格が生じたのである。日本語も非生物が主語に立つと非常に座りが悪い。「火が家を燃やした」とは普通の日本人ならいわないだろう。ヒッタイト語では*-enti は -anza として現れ、「火」の能格は paḫḫuenanza である。現在のヒンディー語にも能格があるが、これはまず動詞の形が変わり、そのバレンツに引っ張られて死体を別の格で表すようになったのが固定したそうで、アナトリア語派とはメカニズムが違うが、どちらも二次的に発生した能格である。

 さて、*hxn̥gʷnis のほうが新しい、という仮定をちょっと続けてみよう。この新語はどうやって生じたのか。印欧語を話す人々がインド亜大陸に入ってきたとき、すでに当地には先住民族がいた。おそらくドラヴィダ語を話す民族だったと考えられる。古代インド語がここから「火の神様」という語を借用したのか。しかしその後はドラヴィダ語のほうがサンスクリット、パーリ語などのインド語派に押されて影響を受け、上にも書いたように現在のドラヴィダ語群の「火」はサンスクリット語からの借用であることが明白だ。だから昔インド語の方がドラヴィダ語から取り入れたと考えたいのなら、ドラヴィダ語の「火」という単語の原本(違)は一旦消滅し、サンスクリットがそれを保持していたのを後からまた取り入れたということでなければならない。どうもこりゃ考えにくい。やはり印欧語が北からインドに入ってきたときはすでに印欧語側に*hxn̥gʷnis という単語があったとしか考えられない。
 その「北」、今のチグリス・ユーフラテス川の北には紀元前1600年ごろミタンニ王国というのがあった。そこに元々住んでいたのはフルリ人という非印欧語民族だったが、後からきた印欧語民族に支配され、紀元前1360年ごろヒッタイト人に滅ぼされた。そこでその言語についてのヒッタイト人の記録が残っている。それによればヴェーダやヒンドゥー教の神々の名前が被っているそうだ。火を神として崇める宗教自体も北の現地人たら取り入れたのだろうか。その地域も含めたインドの西北、現在のイラク、イランのあたりには火を神聖なものとして崇める宗教が広まっていた。ゾロアスター教などその典型だ。その当時当地にはフルリ人だけでなく非印欧語を話す民族がいろいろいたことはシュメール語、エラム語、アッカド語などの記録を見ても明らかだ。先住民がすでに持っていた拝火思想が後から来た印欧語民族に伝わり、ついでに「火の神様」「人格化・神格化された火」という単語*hxn̥gʷnis が印欧(祖)語に取り入れられたのかもしれないと最初考えた。だからサンスクリットで「火」が神様と結びついているのだと。一方拝火思想の影響を受けなかったヒッタイト語など「古い周辺層」には借用語の*hxn̥gʷnis が広まらず、本来の*péh₂ur̥ が残ったのだと。
 しかしこの解釈にも大きな問題がある。ゾロアスター教の経典言語アヴェスタ語とヴェーダの言語(サンスクリット)とでは「火」の形が全然違うのである。 第三の火だ。アヴェスタ語の「火」はātarš と言って印欧祖語では*h₂ehxtr̥ と再建されている。アヴェスタ語は紀元前二千年目の後半、つまり紀元前1500年から1000年くらい、リグ・ヴェーダのサンスクリットは紀元前二千年目の終わりごろ、紀元前1200年とかそのくらいの時期の言語で、時期的にほぼ同じであるばかりでなく言語的にも非常に近く、ちょっと音韻を変換すれば相互に転換できるそうだ。そのくらい近い言語なのに「火」が語源からして全く違う語になっているのはなぜだろう。
 アヴェスタ語は当時に書かれた原本というのが存在せず、儀式用の言語として口承されていたのがやっとササン朝ペルシャになってから文字化された。つまり紀元後3世紀から7世紀である。もちろんそのころはアヴェスタ語はとっくに死語になっていたからいろいろ伝承の間違いがある。しかもその最古のササン朝期の記録の原本というのが残っていない。現存する最古のテキストはそのコピペのコピペのさらにそのまたコピペの1288年のものである。これでは当時の言語が正確に伝わっているのかどうか心もとない。またアヴェスタ語より少し時代の下った古代ペルシャ語、これは例のベヒストゥン碑文にエラム語、アッカド語とともに使われていた言語だが、それを記録している楔形文字があまり正確にはその音韻状況を伝えていないらしい。そもそもアヴェスタ語も古代ペルシャ語も資料の量が少なく比較の材料をふんだんに提供しているとは言えない。そこで私の第二の妄想である。アヴェスタ語の「火」って本当にātarš だったの?実は途中のコピペで変な風に伝わっちゃっただけで本当は「アグニ」とかそういう形だったんじゃないの?ということだ。例えば古代ペルシャ語には「煉瓦」という意味のāğgur という語があったとみられているが考えようによれば「煉瓦」というのはその意味素に「火」を含んでおり、しかもこの形はなんかこう、アグニとアータルシュを足して二で割ったような感じである。気のせいか。
 しかしこれにも大きな問題がある(どうも問題発言(?)ばかりですみません)。*h₂ehxtr̥ 起源の言葉があちこちの印欧語に残っているのだ。しかも古い言語にたくさん残っている。またそれだからこそ*h₂ehxtr̥ という形を再建できたのである。アナトリア語派のパラー語に ḫa-a または ḫā, hā という「熱いこと」「熱いもの」を表す言葉があり、これは*h₂ehxtr̥ だそうだ。アナトリア語派にまであるということは*h₂ehxtr̥ は印欧語に元からあったとしか考えられない古さである。当然イラン語派ではこの形の「火」が使われていて、バクトリア語 aš、ソグド語 ātar、スキタイ語の再現形*āθr などは皆これ起源、現在でもパシュトゥー語の or「火」にこの形は残っている。さらにケルト語派にもこれ起源の語が広く使われている。アイルランド語の áith、ウェールズ語の odyn などだが、意味が変化していて皆「かまど」とか「炉」などを表す語だそうだ。イタリック語派にもある。ウンブリア語にatru という語があるがこれはモロ「火」である。さらにラテン語にも*h₂ehxtr̥ 起源の āter という語がある。「黒」という意味だが、火が燃えた後の色から来たのだろう。もし*h₂ehxtr̥ と*hxn̥gʷnisがもとは一つの単語だとしたらこれはありえない。ややこしいことに先のウンブリア語は「火」に2系あり、一つは上で述べた*h₂ehxtr̥ 起源の atru、もう一つが*péh₂ur̥ 起源の pir という語。ラテン語の火が*hxn̥gʷnisだからイタリック語派には3つの形が全部そろっている。これはやっぱりどれが新しいとかそういう問題ではなく、もともと印欧祖語には「火」に3形あったとしか思えない。そのうちの一つがだんだん他の形をおしのけて「火」として固定し、他は周辺部の意味に回されたと考えられるが、イタリック語派を見ると、これらの言語が一つにまとまっていたころ、つまりラテン語やウンブリア語に分化しかかることにはまだ3つが「火」の意味で共存していたということなのだろうか。

 こうやって堂々巡りをしたあげく、「印欧祖語には火という単語が少なくとも3つあった」という出だしに戻ってきてしまった。私のそもそもの疑問「なぜ火などという大事な基本概念がいろいろの単語に割れているのか」というのが全然解決していない。もうこうなったら勝手に想像するしか手がないので考えたのだが、これは「大事な概念なのに」ではなく「大事な概念だから」語が細分化していたのではないだろうか。日本語でも、英語やドイツ語なら rice あるいは Reis 一語で表されている事象が「稲」「米」「飯」などやたらと細分化している。逆に日本語だと「牛」ひとつがドイツ語や英語では性別や去勢されているかいないかによって全く別の単語に分かれている。イヌイット語には「雪」という統一的な言葉がなく、降っている雪と積もったばかりの雪、積もって固くなった雪など多くに言葉に分かれているそうだ。そんな感じで印欧祖語を話していた民族にとって火が宗教上も生活上も非常に大切なものだったので単語が細分化していたのではないだろうか。時代が下るにしたがって拝火の習慣が薄れ、それにしたがって火が一つの単語で足りるようになり、そのうちの一つが他を押しのけて固定していったのかもしれない。が、印欧祖語の時代の*hxn̥gʷnis(*h₁n̥gʷnis)、*h₂ehxtr̥ 、*péh₂ur̥ 間に本来どういう意味の差があったのかはさすがに考えてみただけではわからない。


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 私と誕生日が一日違いの(『26.その一日が死を招く』参照)言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの名は言語学外でも広く知られている。その「代表作」Cours de linguistique générale『一般言語学講義』以来、氏が記号学の祖となったからでもあろう。ラング、パロール、シニフィアン、シニフィエ云々の用語を得意げに(失礼)使っている人も多い。オシャレに響くからだろう。私も得意げに使っているので、大きな事はいえないが。
 が、これもよく知られていることだがその『一般言語学講義』はド・ソシュール自身が書いたものではない。ド・ソシュールの講義を受けたセシュエやバイイなどの学生が自分たちのノートを基にしてまとめたものである。あまり知られていないのが Cours de linguistique générale が世界で最初に外国語に翻訳されたのは日本語が最初であることだ。1928年小林英夫氏の訳である。私はこれを聞いた当時日本人の言語学への先見の明・関心が高かったためかと思って「さすが日本人」と言いそうになったが、これは完全に私の思慮が浅かった。Cours が他の国でそんなにすぐ翻訳されなかったのは、当時のヨーロッパではその必要がなかったからである。つまりフランス語などまともな教養を持っている者なら誰でも読めたからだ。現に当時の言語学の論文の相当数がフランス語で書かれている(下に述べる Kuryłowicz クリウォヴィチの論文もフランス語である)。これは今でもそうで、例えば大学で論文を書くときドイツ語・英語・フランス語の引用文は訳さなくていい、という暗黙の了解がある。論文ではないがトーマス・マンの『魔の山』(『71.トーマス・マンとポラーブ語』参照)にも何ページもベッタリフランス語で書いてある部分がある。つまり Cours が真っ先に日本語に訳されたのは日本人が言語学に熱心だったからではなくて単に日本人の一般的語学力が低かったからに過ぎない。ずっと遅れはしたが日本語の次に Cours が翻訳された言語が英語だったことを考えるとさらに納得がいく。現在のヨーロッパの国ではイギリスがダントツに「外国語が最もできない国民」である、というアンケートの結果を見たことがあるのだ。

 その、ド・ソシュールの手によるものでない『一般言語学講義』が言語学外でもやたらと知られている一方、まぎれもなく氏本人の手による『インド・ヨーロッパ諸語における母音の原初体系に関する覚書』Mémoire sur le système primitif des voyelles dans les langues indo-européennes という論文はあまり騒がれてもらえていない。言語学者としてのド・ソシュールの名前を不動のものとしたのはむしろ Mémoire のほう、俗に印欧語のソナント理論、後に喉音理論と呼ばれるようになった理論の方ではないかと思うのだが。ド・ソシュールが1879年に21歳で発表した印欧比較言語学の論文である。

 印欧語はご存知のように俗に言う屈折語で、語中音、特に母音が交代して語の意味や品詞、またシンタクス上の機能を変える。例えば「死ぬ」というドイツ語動詞の不定形は sterben で e という母音が来るが、現在形3人称単数は stirbt と i になり、過去形3人称単数は starb で a、接続法2式は stürbe で ü 分詞で gestorben と母音は o になる。子音は変わらない。祖語の時代からそうだったことは明らかで、19世紀の後半からメラー Møller など何人もの言語学者がセム語族と印欧語族とのつながりを主張していたのもなるほど確かにと思う。
 さてその印欧比較言語学の最も重要な課題の一つが印欧祖語の再建であったことは『92.君子エスペラントに近寄らず』の項でも書いたとおりである。基本的には印欧祖語の母音はa, e, i, o, u の5母音とその長音形 ā、ī、ō、ē、ū と「印欧語のシュワー」と呼ばれる ə というあいまい母音と見なされている。最初から研究が進んでいた印欧語族、現在の印欧語や古典ギリシャ語、サンスクリットなどのデータを詳細に調べて導き出されたのだが、印欧祖語の母音組織についてはいまだに諸説あり最終的な結論は出ていない。i と u はむしろ半母音、つまりソナント(下記参照)、そして ī と ū は ei、oi、eu、ou などの二重母音の弱まった形だとされることもあるが、ā、ō、ē の3つの長母音は印欧祖語本来のものとみなすのが普通であった。これらの母音が上述のように語中で交代して意味や文法機能を変える。その母音交代現象(Ablaut、アプラウト)は祖語時点ですでに共時的に行なっていたのが、祖語がバラけるにつれて通時的にも母音が変化したから、交代のパターンをきっちり確定するのが難しくなっているわけである。
 様々な母音交代パターンがあるが、大きく分けると量的母音交代(quantitativer Ablaut、またはAbstufung)と質的母音交代(qualitativer Ablaut または Abtönung)の2群に分けられる。後者については印欧祖語には e 対 o または ō 対 ē の交代があったと思われ、例えば古典ギリシア語の patera (「父」、単数対格)対 apatora(「父のいない」、単数対格)、patēr(「父」、単数主格)対 apatōr(「父のいない」、単数主格)がこれを引き継いでいる。クラーエ Krahe という人はさらに a と o の交代現象に言及しているがこちらのほうは「非常にまれにしか見出せない」と述べているし、私の調べた限りではその他の学者は全員「印欧祖語の qualitativer Ablaut」として e 対 o しか挙げていなかった。母音交代ではゼロ(ø)形も存在する。サンスクリットの as-mi(「~である」、一人称単数現在)、s-anti(同三人称複数現在)はそれぞれ *es-mi 、*s-enti という形に遡ると考えられるが、ここの語頭で e と ø が交代しているのがわかる。
 前者の quantitativer Ablaut は短母音とそれに対応する長母音、または短母音と二重母音間の交代である。e 対 ē のようなわかりやすい対応ばかりでなく、ā、ō、ē 対 ə、ei 対 i、 eu 対 u のような複雑なものまでいろいろな形で現れる。ラテン語 tegō(「覆う」、一人称単数現在)対 tēxī(一人称単数完了)に見られるわかりやすい e・ē 交代の他、古典ギリシア語の leipō(「そのままにする、去る」、一人称単数現在)対 elipon(同一人称単数アオリスト)もまたこの quantitativer Ablaut である。この動詞の一人称単数完了形は leloipa だから、母音交代は ei 対 oi 対 i かと思うとこれは実は e~o~ø。つまり一見様々な量的母音交代は割と簡単な規則に還元できるんじゃないかと思わせるのである。ド・ソシュールがつついたのはここであった。

 このゼロ交代現象で重要な意味を持ってくるのが音韻環境によって母音にもなり子音にもなるソナントと呼ばれる一連の音で、この観念を確立したのがブルクマン Brugmann という印欧語学者である。例えば、英語の sing~sang~sung、ドイツ語の werden~ward(古語、現在の wurde)~ geworden は祖語では *sengh-~*songh-~*sn̩gh-、*wert-~*wort-~*wr̩t-という形、つまり e~o~ø に還元できるが、そのゼロ形語幹ではそれぞれ n、r が母音化してシラブルの核となっている。こういう、母音機能もになえる子音をソナントと呼ぶが、印欧祖語には r̩、l̩、m̩、n̩(とその長母音形)、w、y(半母音)というソナントが存在したと思われる。「母音の r̩ や l̩」はサンスクリットに実際に現れるが m̩ と n̩ についてはまだ実例が見つかっていないそうだ。ここで私が変な口を出して悪いがクロアチア語も「母音の r」を持っている。言い換えるとクロアチア語には母音の r と子音の r の、二つの r がある。rad (「作品」)の r は子音、trg(「市場」)の r は母音である。
 さらに上述の古典ギリシャ語 leipō~elipon の語根だが、祖語では *lejkw-~*likw- となり前者では i が子音、半母音の j (英語式表記だと y )だったのが後者では母音化し、i となってシラブルを支えているのがわかる。同様に u についても、半母音・ソナントの w が母音化したものとみることができる。円唇の k が p に変わっているのは p ケルトと同様だ(『39.専門家に脱帽』参照)。

 さて、話を上述の印欧祖語のシュワーに戻すが、ブルグマン学派ではこの ə をれっきとした(?)母音の一つと認め、ā、ō、ē と交代するとした。サンスクリットではこの印欧語のシュワーが i、古典ギリシャ語とラテン語では a で現れる。だから次のようなデータを印欧祖語に還元すると様々なアプラウトのパターンが現れる。それぞれ一番下が再現形(太字):
Tabelle1-115
3番目の例は松本克己氏からの引用だが、氏はサンスクリットの「与える」反射態として a-di-ta という形を挙げていた。その形の確認ができなかったので私の勝手な自己判断で adiṣṭa にしておいた。とにかくサンスクリットでは原母音の ā、ō、ē が全て ā で現れているのがわかる。最後の二つは2音節語幹だが、とにかく母音交代のパターンも語幹の構造もバラバラだ。ド・ソシュールはこれらを一本化したのである。
 ブルグマンらによれば印欧祖語のソナント r̩、l̩、m̩、n̩ はサンスクリットでは a となるから、サンスクリットの語幹が tan- 対 ta- と母音交代していたらそれは印欧祖語の *ten-~*tn̩- に帰するはずである。ド・ソシュールは上のような長母音対短母音の交代もシュワーでなくこのソナントの観念を使って説明できると考えた。
 そこでまず印欧祖語に coéfficient sonantique「ソナント的機能音」という音を設定し、それには二つのものがあるとしてそれぞれ A、O(本来 O の下にˇという印のついた字だが、活字にないので単なるOで代用)で表した。その際ド・ソシュール自身はそれらはどういう音であったかについては一切言及せず、あくまで架空の音として仮にこういう記号で表すという姿勢を貫いた。
 この二つの「ソナント的機能音」が短母音を長母音化し、さらにその色合いを変化させるため、e+A=ē または ā、e+O=ō, o+A=ō, o+O=ō の式が成り立つ、いや成り立たせることにする。いわゆるゼロ形ではA、Oは単独で立っているわけである。例えば上のラテン語 stā-re~sta-tus は *stā-~*stə でなく *steA-~*stA-、古典ギリシャ語 di-dō-mi~do-tos は *dō-~*də- でなく *deO-~*dO となる。これはブルクマンが元々唱えていた *sengh-~*sn gh-(上述)、さらに leipō~elipon の *lejkw-~*likw-(これも上記)と基本的なパターンが全く同じ、CeC- の e~ø 交代となる。最終的にはド・ソシュールは母音としては e のみを印欧祖語に認めた。
 このド・ソシュールの「式」のほうがブルグマンより説明力が高い例として松本克己氏は bhavi-tum~bhū-tas(上述)の取り扱い方を挙げている。ド・ソシュールの説ではこれも *bhewA-~*bhwA- という単純な e~ø 交代に還元でき、*bhewA- ではソナントAが w と t に挟まれた子音間という環境で母音化して祖語の ə つまりサンスクリットの i (上述)となり、*bhwA- ではソナント(半母音)w が bh と Aに挟まれた、これも子音間という環境で母音化して u になる。さらにこれがソナントAの影響によって長母音化して最終的にはūになるのである。見事につじつまが取れている。それに対してシュワーの ə を使うときれいな CeC- 解釈ができない。この交代は *bhewə-~*bhwə- と見なさざるを得ず、後者の *bhwə- が「印欧祖語の ə はサンスクリットの i」という公式に従って bhvi- で現れるはずであり、bhū- という実際の形の説明がつかない。といって ū- をそのまま印欧祖語の母音とみるやり方には異論がなくないことは上でも述べた。

 しかしド・ソシュールのこのアプローチは言語学で広く認められることとはならなかった。このような優れた点はあってもまだ説明できない点や欠点を残していたことと、当時のデータ集積段階ではブルグマンの母音方式で大半の説明がついてしまったからである。もっとも数は少なかったがド・ソシュールと同じような考え方をする言語学者もいた。例えば上述のメラー Møller は既に1879年に印欧祖語の ā、ō、ē は実は e+x から発生したものだと考えていたし、フランスのキュニー Cuny もこの、「印欧祖語には記録に残る以前に消えてしまった何らかの音があったに違いない」というド・ソシュール、メラーの説を踏襲して、それらの音をド・ソシュールの A、Oでなく、代わりに ə1、 ə2、 ə3 という記号で表した。その際これらの音は一種の喉音であると考えた。キュニーはこれを1912年の論文で発表したが、基本的な考えそのものはそれ以前、1906年ごろから抱いていたらしい。さらにド・ソシュール本人も1890年代にはAを一種の h 音と考えていたそうである。

 情勢がはっきり変わり、この「喉音理論」が言語学一般に認められるようになったのは1917年にフロズニー Hrozný によってヒッタイト語が解読され、印欧語の一つだと判明してからである。
 ヒッタイト語には ḫ または ḫḫ で表される音があるが、これを印欧祖語の子音が二次的に変化して生じたものと解釈したのでは説明がつかなかった。結局「この音は印欧祖語に元からあった音」とする以外になくなったのだが、この説を確立したのが上でも名前を出したポーランドの Kuryłowicz クリウォヴィチである。1927年のことだ。その時クリウォヴィチはこの ḫ がまさにド・ソシュールの仮定した Aであることを実証してみせたのである。ただし彼もキュニーと同じく ə1、 ə2、 ə3 の3つの記号の方を使い、e+ ə1= ē、 e+ə2= ā、 e+ə3=ō という式を立てた。つまり ə2 がド・ソシュールのAに対応する。
 例えば次のようなヒッタイト語の単語とその対応関係をみてほしい。左がヒッタイト語、右が他の印欧語。「ラ」とあるのはラテン語、「サ」がサンスクリット、「ギ」が古典ギリシャ語、右下に出したのがシュワーを用いた印欧祖語再建形である:
Tabelle2-15
最初の3例では a+ḫ=ā という式が成り立つことがわかる。そしてヒッタイト語の a を印欧祖語の e と見なせば、この a+ḫ=ā はまさにド・ソシュールの e+A=ā 、クリウォヴィチの e+ə2= ā、つまりド・ソシュールが音価を特定せずに計算式(違)で導き出した「ソナント」または「ある種の喉音」が本当に存在したことが示されているのである。一番下の例ではこのソナントが子音の後という音韻環境で母音化してブルクマンらのいうシュワーとなり、サンスクリットで公式どおり i で現れているのだ。
 さらにクリウォヴィチはすべての印欧祖語の単語はもともと語頭に喉音があった、つまり CV- だったが、後の印欧語ではほとんど消滅して母音だけが残ったとした。ただ、アルバニア語にはこの異常に古い語頭の喉音の痕跡がまだ残っている、と泉井久之助氏の本で読んだことがある。

 もちろんこの喉音理論もクリウォヴィチが一発で完璧に理論化したわけではなく、議論はまだ続いている。同じ頃に発表されたバンヴニストの研究など、他の優れた業績も無視するわけにはいかない。そもそもその喉音とやらが何種類あったのかについても1つだったという人あり、10個くらい設定する説ありで決定的な解決は出ていない。それでもこういう音の存在を60年も前に看破していたド・ソシュールの慧眼には驚かざるを得ない。私はオシャレなラング・パロールなんかよりむしろこちらの方が「ソシュールの言語学」なのだと思っている。高津春繁氏は1939年に発表した喉音理論に関する論文を次の文章で終えている。

F.de Saussureの数学的頭脳によって帰結された天才的発見が六十年後の今日に到って漸く認められるに到った事は、彼の叡智を證して余りあるものであって、私は未だ壮年にして逝った彼に今二三十年の生を与へて、ヒッタイト語の発見・解読を経験せしめ、若き日の理論の確証と発展とを自らなすを得さしめたかったと思ふのである。彼の恐るべき推理力はCours de linguistique généraleにも明らかであるが、その本領はMémoireに於ける母音研究にあり、彼の此の問題に対する画期的貢献を顧りみて、今更の様に此の偉大なる印欧比較文法学者への追悼の念の切なるを覚える。

なるほど、あくまで「Cours de linguistique générale にも」なのであって「Cours de linguistique générale」や「Mémoire にも」ではないのだ。

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