アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:バイリンガル

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 これまでに何度か口にしたダイグロシアという言葉だが、これは1959年に社会言語学者のチャールズ・ファーガソンCharles A. Fergusonがその名もズバリDiglossiaという論文で提唱してから広まった。ダイグロシアという言葉そのものはファーガソンの発明ではないが、学術用語としてこれを定着させたのである。時期的にチョムスキーのSyntactic Structuresが出たころと重なっているのがおもしろい。生成文法のような派手さはなかったがダイグロシアのほうもいわゆる思想の多産性があり、60年代から90年代に至るまで相当流行した。
 事の発端はアラビア語圏、ハイチ、現代のギリシャ、ドイツ語圏スイスの言語状況である。これらの地域では書き言葉と話し言葉が著しく乖離していて、文体の差というより異なる二つの言語とみなせることにファーガソンは気づいた。書き言葉と話し言葉というより書き言語と話し言語である。アラビア語圏での書き言葉は古典アラビア語から来たフスハーで『53.アラビア語の宝石』『137.マルタの墓』でも述べたように実際に話されているアラビア語とは発音から文法から語彙からすべて違い、とても同じ言語とは言えない。ハイチでは書かれる言葉はフランス語だが、話しているのはフランス語クレオールでフランス語とは全く違う。ギリシャも実際にギリシャ人が言っているのを聞いたことがあるが、「古典ギリシャ語?ありゃあ完全に外国語だよ」。しかしその「完全に外国語」で書く伝統が長かったため今でもその外国語を放棄してすんなり口語を文章語にすることが出来ず、実際に会話に使われているバージョン、デモティキDimotiki(δημοτική)と古典ギリシャ語の系統を引く文章語カサレヴサKatharevousa(Καθαρεύουσα)を併用している。デモティキは1976年に公用語化されたが、いまだに文章語としての機能は完全に果たせていない。アラビア語と似た状態だ。なお念のため強調しておくが上でフスハーを「古典アラビア語から来た」、カサレヴサを「古典ギリシャ語の系統を引く」とまどろっこくしく書いたのは、どちらも古典語をもとにしてはいるがいろいろ改良が加えられたり変化を受けたりしていて完全に古典言語とイコールではないからである。ある意味人工的な言語で、話す言葉と著しく乖離しているという点が共通している。スイスのドイツ語も有名でドイツではたいていスイス人の発言には字幕がでる(『106.字幕の刑』参照)。話されると理解できないが書かれているのは標準ドイツ語だから下手をするとドイツ人はスイス旅行の際筆談に頼らなければならないことになる。もっともスイス人の方は標準ドイツ語が理解できるのでドイツ人が発した質問はわかる。しかしそれに対してスイス・ドイツ語で答えるのでドイツ人に通じないわけだ。最近は話す方も標準ドイツ語でできるスイス人が大半だからまさか筆談などしなくてもいいだろうが、スイス人同士の会話はさすがのドイツ人にもついていくのがキツイのではないだろうか。
 これらの言語状況をファーガソンはダイグロシアと名付けた。ダイグロシア内での二つの言語バリアントはLバリアント、Hバリアントと名付けられたがこれは本来それぞれLowと Highを意味し、Lは日常生活で口にされている言葉、Hがいわゆる文章語である。しかしLow、Highという言い回しは価値観を想起させるということで単にLバリアント、Hバリアントと起源をぼかす表現が使われるようになった。チョムスキーのD構造、S構造もそうで、本来のDeep structure、Surface structureという語は誤解を招くというワケで頭だけ取ってDとSになったのである。

ダイグロシア論争の発端となった1959年のファーガソンの論文から。ドイツ語圏スイス、アラビア語圏、ハイチ、ギリシャが例としてあげられている。
ferguson1

 ただ、この言いだしっぺ論文がトゥルベツコイのВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)にも似てどちらかというとエッセイに近い論文で、何をもってダイグロシアとなすかということがあまりきちんと定義されていなかったため、後にこの観念がいろいろ拡大解釈されたり誤解釈されたりしてダイグロシアという言葉自体がインフレーションを起こしてしまった感がある(後述)。なので話を進める前にちょっと私なりにファーガソンの言わんとした処を整理してみる。
 まず、書き言葉と話し言葉の乖離が典型的なダイグロシアだからと言って単純にHは文語、Lは口語と定義することはできない。Hバリアントが書かれることなく延々と口伝えで継承されることがあるからである。宗教などの儀式語がそうだが、誰もその言語を日常生活で使っていないから事実上母語者のいない外国語で、二次的にきちんと教えてもらわないと意味が分からない。重要なのはHとLがそれぞれどういう領域で使われているかということ自体でなく、その使用領域がkomplementäre Distribution相補分布をなしているということだ。どういうことかというと、Hが使用される場面では絶対にLが使われることがなく、逆にLを使う場面ではHは使われない。HとL,この二つが双方あって初めて一つの言語としての機能を果たすのである。例えばHが書き言葉として機能している場合、正式文書や文学などを口語で著すことがない。また日常生活では当然口語で生活し、誰も書き言葉で話したりしない。宗教儀式にHが使われている社会では、そのHを一部の人しかわからない状態で使い続け、普通にしゃべっている口語に置き換えたりは絶対しない。これがバイリンガルの言語共同体とは決定的に違う点である。バイリンガルは違う。バイリンガルでは言語Aで話して書いた後、言語Bに転換してそこでまた話したり書いたりする、つまりAもBもそれぞれ言語としての機能を全て満たしているのだ。
 この相補分布のためダイグロシアは非常に安定した言語状態で、1000年くらいは平気で持続する。それに対してバイリンガルは『154.そして誰もいなくなった』で述べたように不安定な状態でどちらかの言語が一方を駆逐してしまう危険性が常にある。さらにその相補分布のためその言語共同体内の人はHとLが実は別言語であるということに気付かない。別の言語だという感覚がないからHをLに、あるいはLをHに翻訳しようという発想が起こらない。このこともダイグロシアの安定性を強化している。
 さて、HとLの言語的関係についてはファーガソン自身は明確には述べていないが、挙げている例を見ても氏がHとLは親族関係にある言語であることが基本と考えていたことがわかる。フランス語⇔仏語クレオール、スイス・ドイツ語⇔本国ドイツ語、フスハー⇔口語アラビア語、カサレヴサ⇔デモティキと双方の言語が親戚関係にある例ばかりである。後者の二つは通時的な親戚、前者は共時的な親戚だ。この、HとLが下手に似ているというのもまた「別言語性」に気付かない要因の一つになっている。

 ここまで来れば皆思い当たるだろう。そう、言文一致以前の日本語もダイグロシア状態であったと私は思っている。本にもそう書いておいた(またまたどさくさに紛れて自己宣伝してすみません)。言文一致でそのダイグロシアが崩壊しH(文語)の機能をL(口語)が吸収した、というのが大筋だと思っているが、細かい部分でいろいろ検討すべき部分がある。
 まず口語と文語は明治になるまで本当に相補分布をなしていたのか、言い換えると日本は本当にダイグロシア状態であったのかということだ。というのは特に江戸期、さらにそれ以前にも口語で書かれた文章があったからである。江戸期の文学など登場人物の会話などモロに当時の話し言葉で表わされてそれが貴重な資料となっていることも多い。ではそれを持って文語と口語の使用領域が完全に被っていたと言えるのだろうか。私の考えはNoである。例えば会話が口語で書いてある式亭三馬や十返舎一九の作品を見てみるといい。会話部分は口語だが、地のテキストは文語である。言い換えるとそれらは口語「で」書かれていたのではなく口語「を」書いたのだ。実はこのパターンは明治時代に言文一致でドタバタしている時にも頻繁に見られる。地と会話部分のパターンは理論的に1.地が口語・会話が口語、2.地が文語・会話が文語、3、地が文語・会話が口語、4、地が口語・会話が文語の4通りが考えられるが、初期は2や3のパターンが専らで、1が登場するのは時期的にも遅く、数の上でも少ない。もちろん私の調べた文章などほんの少しだが、その少しの中でも4のパターンは皆無だった。文語と口語は機能的に同等ではない、相補分布をなしていたといっていいと私は思っている。
 次に言文一致以前の日本をダイグロシア社会と見なしているのは別に私だけではない、割といろいろな人がそう言っているのだが、海外の研究者に「中国語と日本語のダイグロシア状態であった」と言っている人を見かけたことがある。全く系統の違う2言語によるダイグロシアという見解自体はファーガソン以後広く認められるようになったので(下記参照)いいのだが、日本の言語社会を「中国語とのダイグロシア」などと言い出すのは文字に引っ張られた誤解と言わざるを得ない。漢文が日本では日本語で読まれている、つまり漢文は日本語であるという事実を知らなかったか理解できなかったのかもしれない。山青花欲然 は「やまあおくしてはなもえんとほっす」である。誰もshān・qīng・huā・yù・ránとか「さんせいかよくぜん」などとは読まない。日本をダイグロシアというのなら現在のフスハー対アラビア語に似て、あくまでに文語と文語の対立である。
 さて、上でも述べたがHの特徴の一つに「人工性」というのがある。二次的に構築された言語、当該言語共同体内でそれを母語としてしゃべっている人がいないいわば架空の言語なのだ。もちろん人工と言ってもいわゆる人工言語(『92.君子エスペラントに近寄らず』参照)というのとは全く違い、あくまで自然言語を二次的に加工したものである。母語者がいないというのも当該言語共同体内での話であって、ドイツ語標準語は隣国ドイツでは皆(でもないが)母語としてしゃべっているし、日本語の文語だって当時は実際に話されていた形をもとにしている。この人工性は「規範性」と分かちがたく結びついていて、ダイグロシアを崩壊させるにはLがこの架空性や特に「規範性」をも担えるようにならなければいけない。これが実は言文一致のまさにネックで、運動推進者の当事者までがよく言っているように具体性の強い口語を単に書いただけ、「話すままに書いただけ」ではそういう機能を得ることができない。Lの構造の枠内でそういう(書き言葉っぽい)文体や規範を設けないといけないのだ。相当キツイ作業である。そもそも「構造の枠内で」と言うが、まずその構造を分析して文法を制定したり語彙をある程度法典化しなければいけない。CodifyされているのはHだけだからである。
 書き言葉的言い回し、日本語では特に書き言葉的な終止形を何もないところから作り出すわけには行かない。そんなことをしたら「Lの構造の枠内」ではなくなってしまうからである。法典化されないままそこここに存在していたLの言い回しの中から適当なものを選び出すしかない。ロシア語の口語を文学言語に格上げしたプーシキンもいろいろなロシア語の方言的言い回し、文法表現、語彙などを選び出してそれを磨き上げたし、日本の言文一致でもそれをやった。例えば口語の書き言葉的語尾「~である」であるが(ダジャレを言ったつもりはない)、~であるという言い方自体は既に江戸時代から存在していた。オランダ語辞典ドゥーフ・ハルマでオランダ語の例文を訳すのに使われている。他の口語語尾「です」「だ」は江戸文学の会話部分で頻繁に現れる。これらの表現に新しい機能を持たせ、新しい使用領域を定めていわば文章語に格上げする、言い換えるとL言語の体系内での機能構成を再構築するわけで、よく言われているように、単に話すように書けばいいというものではない。
 面白いことに口語による文章語構築には二葉亭四迷のロシア語からの翻訳は大きな貢献をしたし、文語でなく「である」という文末形を使い、さらに時々長崎方言なども駆使して、後に口語が文章語になり得るきっかけを開いたドゥーフ・ハルマも通時たちによるオランダ語からの翻訳である。どちらも外国語との接触が一枚絡んでいる。さらに馬場辰猪による最初の口語文法は英語で書いてあった。まあ外国人向けだったから英語で書いたのだろうが、文法書のような硬い学術文体は19世紀中葉の当時はまだ口語では書けなかったのではないだろうか。だからと言ってじゃあ文語でというのも言文一致の立場が許さない。外国語で書くのが実は一番楽だったのかもしれない。

 話をファーガソンに戻すが、この論文のあと、ジョシュア・フィッシュマンJoshua A. Fishmanなどがダイグロシアの観念を、全く系統の違う2言語を使う言語共同体にも応用した。例えばボリビアのスペイン語・グアラニ語がダイグロシアをなしているという。さらに社会言語学者のハインツ・クロスHeinz Klossは系統の同じ言語によるダイグロシアを「内ダイグロシア」、系統の異なる言語によるダイグロシア(スペイン語・グアラニ語など)を「外ダイグロシア」と名付けた(『137.マルタの墓』参照)。
 もう一人ボリス・ウスペンスキーБорис А. Успенскийというロシア語学者が横っちょから出てきて(失礼)、HとLとの関係はバイリンガルでのような等価対立äquipolente Oppositionではなくて欠如的対立privative Oppositionとし(『128.敵の敵は友だちか』参照)、Hを有標、Lを無標バリアントとした。ウスペンスキーはプーシキン以前、古い時代のロシア語の言語共同体がロシア語(東スラブ語)と教会スラブ語(南スラブ語)のダイグロシアであったと主張したのだが、その際双方の言語の「欠如的対立性」を主張している。いかにもトゥルベツコイからヤコブソンにかけてのロシアの構造主義の香りがして面白い。またウスペンスキーはファーガソンの考えをむしろ忠実に踏襲し、あまり理論枠を広げたりはしていない。ただ氏の「ロシア語・教会スラブ語ダイグロシア説」にはいろいろ批判もあるようだ。

ウスペンスキーの著書(のコピー)。ダイグロシアを有標のH、無標のLによる欠如的対立と見なしている。黄色いマーカーは当時私が引いたもの。
uspensky


 考えてみれば中世以前のヨーロッパもラテン語と各地の言語とのダイグロシア、少なくともそれに近い状態だったのではないだろうか。特にスペイン以外のロマンス語圏では「内ダイグロシア」だったろう(スペインを除外したのは当地では中世以前はフスハーも書き言語だったはずだからである。そうなると「外ダイグロシア」だ)。その後各々の民族言語が法典化され文法も整備されてラテン語は書き言語としての機能をそれらに譲ってしまった上、元々母語者のいない言語で普通の会話には用いられていなかったから現在ラテン語を読み書き(「書き」のほうは完全に稀)できるのは、単位とりに汲々としている高校生か、仕事でラテン語が必要な人たちだけだろう。そういえばちょっとダイグロシアから話はズレるが、昔テレビで『コンバット』というシリーズがあった。そこでこういうシーンがあった。米兵がヨーロッパでフランス人だったかドイツ人だったか(フランス人とドイツ人では立場が全然違うじゃないか。どっちなんだ)を捕虜にしたが、米兵はドイツ語もフランス語もできない、捕虜の方は英語ができない。困っていたがそのうち米兵の一人が捕虜と会話を始め、そばに立っていた米兵の一人が「なんだなんだ、こりゃ何語だ?!」と驚いたのを見て、もう一人の米軍兵士がボソッと「ラテン語だ」とその米兵に教えてやっていた。話しかけた米兵も捕虜も神学を勉強していたのである。ラテン語、少なくともそれがラテン語であると知っていた兵士の顔に浮かんだ尊敬の念と、ラテン語の何たるかさえ知らない兵士の無教養そうな表情が対照的だったので覚えている。H言語独特の高尚感がよく現れている。この「高尚性」もHの特徴としてファーガソンは重視している。

 再び話を戻して、とにかく論文の中でダイグロシアという用語を持ち出せば専門的なアプローチっぽくなった感があるが(私もやってしまいました)、私が追った限りでは「この言語社会はダイグロシアと言えるか言えないか」という部分に議論のエネルギーの相当部が行ってしまっていたようだ。あるいは当該言語共同体がどのようなダイグロシアになっているか描写する。しかし上述のようにダイグロシアという観念自体があまり明確に定義されておらず、各自拡大解釈が可能なのだから、「この言語共同体はダイグロシアである」と結論してみたところであまり新しい発見はないのではないだろうか。下手をするとダイグロシアでない言語社会の方が珍しいことにもなりかねないからだ。もっともバイリンガルとの明確な違いなどもあるので、ダイグロシアという用語自体を放棄することはできまい。
 だんだん議論が白熱、あるいは議論の収集が着かなくなってきたのでファーガソン本人が1991年にまたDiglossia revisitedという論文を発表して用語や観念の再考を促した。

ファーガソンの第二弾の論文のコピーもいまだに持っている。
ferguson2

 実は私はダイグロシアで一番スリルがあるのはその崩壊過程だと思っている。長い間安定し持続してきたダイグロシアが崩壊するきっかけは何か?外国語との接触自体は崩壊の直接のきっかけにはならない。他に政治的、歴史的な要因も大きい。そしてダイグロシアは一旦崩壊し始めると一気に行く。何百年も続いてきた日本のダイグロシアは明治のたかが数十年の間に崩壊してしまった。それ以前、江戸の文学など私は活字にしてもらっても(変体仮名、合略仮名など論外)読みづらくて全然楽しめない。それが明治時代から文学が突然読めるようになる。ロシアでも「プーシキンから突然文学が読めるようになる」と誰かが言っていたのを見たことがある。そのプーシキン以後、例えばトゥルゲーネフなどの原語のほうが十返舎一九なんかより私はよっぽどよくわかる。隣でドイツ人が17世紀の古典文学なんかを「ちょっと古臭いドイツ語だな。綴りも変だし」とか文句をいいつつもスコンスコン読んでいるのとはエライ違いだ。日本人が普通にスコンスコン読めるのはやはり20世紀初頭の文学からではないだろうか。

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 地中海のマルタの言語(『137.マルタの墓』参照)は(話しているネイティブ本人も含めた)そうと知らない人、あるいはそう思いたくない人の意に反して「実はアラビア語」だが、インド洋のアラビア海にあるソコトラ島の言語は逆に「実はアラビア語ではない」。
 ソコトラ島またはソコトラ諸島はソコトラ本島、アブド・アル・クリ島 、サマハ島、ダルサハ島の4島からなる。現在痛ましい内戦の続いているイエメン領だ。統一前までは南イエメンに属していた。アラビア半島本土から350キロ、アフリカの角から230キロほど距離があり、地形や生態系が独特であるためインド洋のガラパゴスと呼ばれている。本家ガラパゴスのように陸から千キロは離れていないが、その代わりこちらは政治的な事情から住民の孤立度が高かった。

ソコトラ(諸)島の場所はここ。ウィキペディアから。
By edited by User:Telim tor - Own work, based on PD map, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8798839

Socotra_Archipelago
本島及び3つの島から成る。ウィキペディアから。
By Oona Räisänen (Mysid) - Self-made in Inkscape.Place names based on a public domain CIA map from 1976 (http://www.lib.utexas.edu/maps/islands_oceans_poles/socotra_76.jpg).Boundaries and opography based on Shuttle Radar Topography Mission data.Bathymetry from NGDC ETOPO2.Roads are from the Open Street Map, by Open Street Map contributors., CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4078428
Topographic_map_of_Socotra-en.svg
 日本では安直に「住民はアラブ人」などという言い方をされているようだが、これはアバウト過ぎる。どうも日本人は(私も含めて)民族とか言語問題には極めて鈍感なようだ。「アラブ人」というのは「アラビア語を母語とする人」ではないのか?しかしソコトラ島の言語はいくらセム語とは言ってもアラビア語ではないのだからそこの住民をアラブ人呼ばわりするのは問題があるのではないだろうか。
 ソコトラ語はまたソコトリとも呼ばれるが、現代南アラビア語(Modern South Arabian、MSA)の一つ。ソコトリの他にメフリ Mehri、シェフリ Shehri(または ジッバーリ Jibbali)、ハルスーシ Harsusi、バトハリ Bathari、ホビョート Hobyot の合わせて6言語がこのグループに属す。ソコトリ以外はイエメン本土や一部オマーンでも話されている。

MSAが話されている地域。ウィキペディアから。
By ArnoldPlaton - Own work, based on this map, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22196014

800px-Modern_South_Arabian_Languages.svg
 この 現代南アラビア語MSA という名称がそもそも非常に誤解を招きやすい。まるでアラビア語の一方言か死語である古代南アラビア諸語 (Old South Arabian, OSA) の直系の子孫でもあるかのように見えるからだ。しかしMSAはそのどちらとも系統を異にする。セム語はまず西セム語と東セム語に別れる。後者にはアッカド語などが含まれる。前者のほうはさらに現代南アラビア諸語、エチオピア諸語、中央セム諸語に別れ、中央セム諸語からアラビア語、古代南アラビア語、北西セム諸語が分離する。北西セム諸語はさらにいくつかに分岐し、その中に死語ウガリト語とカナーン諸語があり、後者を構成する言語の一つがヘブライ語だ。
 そこへ持ってきて、エチオピア諸語とMSAに共通でアラビア語も含む中央セム諸語は違っている共通項があるという。例えば中央セム諸語が持っている直説法形が(yaqtuluという形だそうだ)エチオピア諸語とMSAにはない。逆にエチオピア諸語とMSAは持っている非完了形のパターンが(yVqattVlと表わされるそうだ。セム語学の専門家の方がいたら説明していただけると嬉しい)中央セム諸語では新しい形に置き換わっている。これを譬えるとMSAの娘ソコトラ語と中央セム諸語が親のアラビア語は従妹に過ぎず、しかも双方の親は仲が悪いということだ。

MSA(赤)とアラビア語は直接のつながりがない。一方アラビア語とマルタ語(ともに青)は直系である。Aaron D. Rubin. 2008. The Subgrouping of the Semitic Languages. p.80から
SemitischeSprache
ではそのMSA内部の言語関係はどうなっているのかと言うとメフリ、ハルスーシ、バトハリ、ホビョートが西MSAとしてまとまり、ジッバーリとソコトリが東グループということになるらしい。後者二言語は特定の動詞形で前綴りの t- が消失し、女性形を作るのに -i をよく使うという共通の特色がある。
 もちろんこれらの「系図」は暫定的なもので、どんな等語線にどういう重みを置くかによって違ってくる上、等語線でくくられている特徴が同じ祖語から来たためか、言語接触によるのか、はたまた単なる偶然かよほど慎重に検討しないと危ないから生物のDNA検査のようにはビシッといかない。それでも上の系図はそれほど間違っているとは思えない。
 
 面白いからちょっとセム語族全体を比べてみよう。ルビンAaron Rubinという人はセム語族の諸言語の人称代名詞(自立形)の3人称単数形を比べている。
Tabelle1-elsas172
サバ語は古代南アラビア諸語の一つである。ルビンはソコトリの例を挙げていないが、幸いナウムキンВиталий Наумкинというソ連・ロシアの学者(下記)が次のような調査報告をしてくれている。
Tabelle2-elsas172
MSAでは女性形と男性形間で語頭の子音が違っている(太字)。セム語祖語は所詮再構した形なのでふれないでおくが、他の言語は皆この部分が同じ子音である。これはセム諸語を分ける際の重要な等語線のひとつだそうだ。
 一方アラビア語などと共通した部分もある。アラビア語はBroken Pluralまたはinternal pluralと呼ばれる複数形が非常にさかんだ。これはドイツ語のVogel(単数)→ Vögel(複数)のように語内部の母音交代によって複数形を作るやり方で、他のセム語にも散見される。コーガン Леонид Коган (同名のバイオリニストがいるがそれとは別人)という研究者が挙げているソコトリの例をいくつか見てみよう。比較のためにアラビア語の語を並べておいたが、これは私が勝手に同源っぽいと判断した語を列挙してみただけで、いろいろハズしているかもしれない。本当に言語学的な意味での「比較」にはなっていないから話のタネ程度の軽い参照にとどめてほしい。いい加減ですみません。さらに自分で挙げておきながら「いくらなんでもこれは違うだろ」と自分でも思う(じゃあ出すなよ)ものについては?マークをつけておいた。
Tabelle-3-elsas172
しかしこれら「アラビア語と似ているっぽい」単語はそもそも少数で、大多数の他の語は全く形が違う。多分アラビア語と同源の語は意味が大幅にズレてしまっていて私には見つけられなかったのだと思うが、それにしてもソコトリとアラビア語との距離をヒシヒシと感じた。音韻組織にしてもソコトリの母音音素がa、e、o、i、u の5つ(長短に弁別機能はない)なのに対しアラビア語は3音素である(e や o はアロフォン)。
 この「折れた複数形」はアッカド語など東セム語にもないことはないが、頻度から見て西セム語の特徴といえるそうだ、母音交代にはいろいろなパターンがあり、ラトクリフ Robert Ratcliffe などによる詳しい研究がある。broken plural があるのならブロークンでない複数形があるだろうと思ったら案の定で sound plural または external plural(「完全な(健全な?)複数形」または「外部複数形」)という複数形がそれで、膠着語のように後綴りをつけて作る。例えばアラビア語の ʾaʿjamī(「非アラブ人=外人」)の複数形には ʾaʿjamiyyīn‎ と ʾaʿājim の両形あるが、前者が「健全形」、後者が「折れた形」である。健全形では母音交代がない。なるほど external plural である。上のソコトリの例、「父」、「兄弟姉妹」は健全形なのではないかと思うがラトクリフは「折れた複数形の n-拡張パターン」としているそうだ。「耳」、「目」、「舌」も後綴りが来ているがこれらのほうは内部でしっかり母音交代を起こしているので「拡張型ブロークン」だと素人でも納得が行く。
 
 さて、ソコトリは文字のない言語である。しかし文字はなくても豊かな口承の文学があった。詩歌が発達し、住民はことあるごとにそれらを口ずさみながら生活していたそうだ。羊を追いながら歌い、家事をしながら歌い、意中の人には歌でその意を伝えた。日本でも昔はいちいち歌詠みをして意中の人と「会話」したが、ソコトリでは伝承文学を単に引用したり歌を詠んだりするのではなくそれに曲を付けて歌ったらしい。
 1970年半ばごろからソ連の学者ナウムキン(上述)を中心とする研究グループがソコトラ島の言語を記録収集したが、その資料の分析成果がやっと2012年に発表されたりしている。そんなに時間がかかった理由の一つが、伝承文学を口ずさんでいるネイティブ本人にもその解釈が困難だったことだ。これはつまり口承文学の言葉が日常のそれと乖離していたということではないか。言い換えると文字はなくてもソコトリ言語社会はダイグロシアの態をなしていたのであろう。ダイグロシア社会でのHバリアントが必ずしも文字言語であるとは限らないことはファーガソン自身も指摘している(『162.書き言語と話し言語』参照)。しかしこのソコトリHバリアントはやや機能領域が限られていたようで、言語社会全体に共通するコイネーとして働ける機能はなかった。
 そこにアラビア語が入り、ソコトリダイグロシア社会にはスッポリ欠けていた文字言語と共通語の機能を担うことになった。ではソコトリ社会はアラビア語とソコトリの外ダイグロシアなのか?否である。第一にソコトラ人はアラビア語を明確に「自分たちのとは違う言語」と意識しているし、第二に文語と同時にアラビア語の口語も入ってきた、つまり言語生活の全機能をアラビア語で賄える状態になったからである。つまりアラビア語とソコトリの関係はダイグロシアではない、バイリンガルだ。このバイリンガルになると一方の言語がもう一方に押し切られてしまう危険が発生する(『154.そして誰もいなくなった』参照)。心配になって調べてみたら危惧した通りソコトリはUNESCOの危機言語のカテゴリーに入っていた。
 
 さて、上で名前を出しているナウムキンだが、他の言語学者とともに1983年から1987にかけて「ソ連・イエメン学術調査」を組織して大掛かりなソコトリの言語調査を行っている。どうしてソコトラ島に急にソ連が出てくるのか一瞬首をかしげたが、当時のソコトラ島は南イエメン領、つまり社会主義国の領土で当然ソ連の「保護」を受けていたから学術交流もさかんだったのだろう。
 そのナウムキンがソコトリのフォルクローレテキストを調査して色彩名称について報告してくれているが、面白いのが šaẓ̂riher という色称だ。男性単数 šaẓ̂riher、女性単数 šaẓ̂rihir、男性双数 šiẓ̂rēri、女性双数 šiẓ̂rīri 、男性複数 šiẓ̂rírhon、女性複数 šiẓ̂rárhir という変化をするが(しっかり双数がある…)、まず山地で山羊や羊を飼って生活している山地のネイティブはこの語の意味を「赤」「レンガ色(つまり赤の一種)」と説明した。家畜の毛の色を形容するのに使う語だそうだ。日本で犬を「しろ」などと名付けるのと同じ感覚か。さらにソコトリでは「赤」と「黄色」を厳密に区別しないらしい。他にこの語を「ダークグレイ」というネイティブもいたが、この語を主に山羊や羊の毛の色を形容するのに使っているという点は変わらない。「赤」「黄」「ダークグレイ」が一緒になっているのですでに驚くが、1938年に出た W. Leslau という人の語彙集では、この語の意味を「緑」「水色」と定義してある。レスローによればソコトリでは緑と水色、つまり青を区別しないそうで非常に興味深いが(『166.青と緑』参照)、「赤」と「緑」が一つの単語でくくられているというのが強烈すぎて青緑問題をそれ以上詮索しよう気が失せる。レスローはさらにそこでこのソコトリの語 šaẓ̂riher をメフリの ḫad̮or 「緑」、アラビア語の ʼaḫḍar「緑」、 ヘブライ語の  ḫåṣīr「草」と比べている。ナウムキンはそこにさらに他の学者の挙げたハルスーシの hezor「黄、青、緑」、アッカド語の ḫasa 「草木」、後期バビロニア語の ḫaṣaštu「鼻汁の色、つまり緑」に言及している。
 ということでこの語は元々のセム語としては「緑」(「黄」もだそうだ)を表わしていたようだが、実はソコトリでも山地でなく海岸沿いの住民は šaẓ̂riher を「緑」だと言っているそうだ。これらの住民は家畜は飼っていない。従って šaẓ̂riher を毛皮の色の形容には使わない。
 そこでアラビア語の ʼaḫḍar を派生させた語根 ḫḍr を見てみよう。この語根からは多くの単語が派生されるそうだが、元々の意味は3つ、「緑色」、「暗さ、黒さ」、「美しさ、快適さ」である。二番目の意味は「黒」や「ダークグレイ」という意味で駱駝や馬の毛皮の色を形容するのに使われている。アラビア語以外のアフロ・アジア諸語でも「緑」と「黒」が一緒になっている例が散見されるそうだ。
 第三の「美」だが、アラビア語(現在ばかりでなく古典時代からからすでにそうだった)では草木の色「緑」や空と水の色が「美しい」という観念と結びついていた。それはそうだろう。乾ききった大地のど真ん中で水をたたえ、草木を茂らせているオアシスの色は砂漠の民にとっては「美しい」以外の何物でもなかろう。それに対してロシア語では「赤」が「美」と結びついている。後期バビロニア語(上述)で「緑」と「美」が今一つ結びついていないのは東セム語ではこの語が純粋に色だけ表わし、「美」という連想は主に西セム語が発達させたからだろうか。そういえばアッカド人もバビロニア人もチグリス・ユーフラテス周辺の肥沃な土地が本拠で砂漠の民ではない。
 つまり色彩名称というのは単に色のスペクトラムを表わすだけでなく、その色から誘発されるイメージ、連想も意味に含んでいるということだ。連想「も」というより、むしろそちらの方が物理的なスペクトラムを押しのけて意味の前面に出てくることもある。アラビア語の ḫḍr やそれに対応するセム語の単語にはポジティブイメージがあるが、山地のソコトラ人が赤っぽい毛の家畜の色を šaẓ̂riher という時、そこには何かポジティブなイメージがあるのかも知れない。

 ソコトリはアラビア語とも他のアフロ・アジア諸語とも「妙に」繋がっている。だが、このつながりが共通祖語から直接引き継いだものか言語接触によって得られたものかはもっと詳細にデータを調べて見なければわからない。


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 欧州で少なからぬ話者人口を持つロマニ語は文字を持たない言語である。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』で書いたように最近では文字化の試みも行われているがあまりうまく行っていない。いわゆる標準言語化も困難だ。だからロマ出身の作家はロマニ語でなく、住んでいる国の言語で作品を著す。
 そういう有名なロマの作家の一人にマテオ・マクシモフMatéo Maximoff(1917 – 1999)という人がいる。バルセロナ生まれだ(という)が、当地には出生記録が残っていない。マクシモフの時代にはロマは周りの社会とは別の独自の部族社会で生き、国境を無視して放浪生活をしていた人が多かったので(今でも一部はそうだ)、出生届を現地の役所に提出したりはしなかったからだ。
 マクシモフの母はフランスのマヌシュと言われるロマでサーカスの綱渡りアーチストとして有名だった。父はルーマニアの南部から来たカルデラシュという、銅細工で生計を立てているロマのグループの属していたが、祖先にはロシアで生活しているグループもいたそうでなるほど苗字がロシア語っぽい。11の言語が話せたそうだ。マテオの言語の才能は父譲りなのだろう。父方の祖父と祖母はそれそれハンガリーとルーマニアのロマだった。
 ここで唐突に思い出したのだが、マテオが生まれたのはまさにバルセロナではアントニ・ガウディがサグラダ・ファミリアの建設に従事していたころだ。そしてガウディもまた銅細工師の家系である。先祖はフランスに住んでいたがバルセロナに移住してきた。この銅細工というのはロマの典型的な職業の一つだが、逆は真ではなく、銅細工師ならロマかというとそうではない。ガウディは完全にバルセロナの社会の中で生涯を送ったカタロニア人である。パラレル社会で生きていたロマとは全く違う。ただ職業家系の点でマクシモフとガウディが接触するのは非常に面白い。
 マテオの一族はガウディと逆にバルセロナからフランスにやってきて住みついた。マテオがまだ子供の頃だ。だから後のマテオの作品の言語はフランス語である。

 さてマクシモフが作家活動に入ったきっかけというのが非常に面白く、まさに「運命」という言葉が思い浮かぶ。
 1938年夏、中部フランスでロマの部族同士が争いを起こし、怪我人や死者が出た。きっかけはマクシモフの部族の少女が他の部族に連れ去られたことだった。抗争はロマの規律にのっとったもので死者が出てもロマにとっては犯罪ではなかった。が、ここはフランスである。当然フランスの法律に従って裁判が行われ、傷害殺人として当事者のロマたちが刑を受けた。その中にマクシモフもいたのである。しかし最年少のマクシモフは直接手を下してはおらず、偵察と見張りを受け持っていただけとわかり、比較的軽い刑ですんだ(それでも殺人幇助だ)。その際マクシモフの弁護を務めたジャック・イソルニJacques Isorni がマクシモフの文才を見抜き、服役中に何か書いてみるように勧めたのである。このイソルニという人は後1945年の戦犯裁判時ペタン元帥の弁護を受け持った。そのあとは政治に転向し死刑廃止にも尽力した人である。人の才能を見抜けるわけだから当然自分自身も文才があったようで自伝も残している。
 そのイソルニに勧められて書いた物が「一囚人が暇つぶしに著した書き物」のレベルを遥かに超えていた。何年か後に出版され大成功を収めた。それがマクシモフの処女作『ウルジトリ』である。ロマの生活を題材にした小説だ。マクシモフはその後も続いて文学作品を書き続け、1985年にはフランス政府から芸術文化勲章Chevalier des Arts et des Lettres を授与されている。1999年にロマンヴィルで亡くなった。
 小説で有名になってもマクシモフはロマとしての生活を変えず、一族と共にロマの部落で銅細工師として生き、作品は夜仕事が終わってから書いた。原稿が出来上がると必ず部落の長の所へ行き、何か不適当なことを書いてはいないか、ロマ以外に知られてはいけないことを漏らしたりしてはいないかチェックを受けたという。妻のTira Parni (この名前の女性が処女作『ウルジトリ』に登場する。下記参照)と二人の子供と同じ部屋で暮らしていた。

マテオ・マクシモフ(中央)
https://www.romarchive.eu/rom/collection/a-delegation-of-the-comite-international-rom-from-paris/から
0eb1df9bb5e36122cedda520af92cd95
 私の読んだ『ウルジトリ』はスイスの出版社刊のドイツ語訳だったが、ちょっとネットでレビューを見てみたら「読み出したら止められなくなって一気に最後まで読んでしまった」と書いている人がいた。本当にそんな感じだった。

 舞台はまだ貴族がいたころのルーマニアである。ロマは馬車で放浪生活をしている。そういう部族の一つの中で暮らしているテレイナという若い女性は元々は別の部族の出だがこの部族の若者の所へ嫁いでいた。しかし花婿は結婚後まもなく死んでしまった。テレイナの母も娘と暮らしていたがこのドゥニチャは魔術使いなので部族の者、特に花婿の父はドゥニチャが息子を呪い殺したのだと想い、二人を憎んでいる。部族の長に嫌われた二人は訪れる人もない。花婿の義妹だけが親切で時々二人のテントにやって来た。
 テレイナは身ごもっていた。クリスマスを過ぎたある夜、母と二人だけで子供を産む。「ああ、あの人が生きていたら」とテレイナは嘆く。テレイナは死んでしまった夫を心から愛していたのである。母ドゥニチャはそれを聞いて秘密を告げる:子供が生まれて三日めの夜、精霊が3人やってきてその子の運命を決める。この精霊をウルジトリと呼ぶ。彼らは姿を現さない、その声が聞こえるだけだがそれを聞くことができるのは特定の人だけである。ドゥニチャもそういう能力を持っていた。ドゥニチャは花婿が生まれたときもそこにいてウルジトリの会話を聞き、花婿は結婚して6か月目に死ぬことを知っていたのだ。それならなぜ私と結婚なんかさせたのだと娘がなじると母は言う。お前は40歳になるまで生きられるがその条件として二十歳になる前に結婚し、21になるまでに子供を産まなければいけなかった。でないとと20歳で死ぬ運命だったのだ。お前が40まで生きられるよう、私は結婚させたのだと。
 そして今テレイナが産んだ子供の運命を決めるウルジトリの声を聞く。その夜ドゥニチャが薪としてくべた木は、その場所で死んだ人の魂がこもっている木から切ってきたものだった。死者を侮辱した罰としてその子はその薪が燃え尽きたとき死ぬだろう。それを聞いてドゥニチャは燃えさしの薪をかまどから抜き出し、火を消して娘に言う。この木切れが燃え尽きない限りこの子は死なない。この命の木切れを生涯守り抜けと。
 ドゥニチャは自分が直に死ぬことも知っていた。テレイナはそれを信じない。だってお母さんはこんなに元気じゃないの、ウルジトリが間違ったのよ。母はそれに答えて言う。そう、私は健康だ。だからこそ私は相当悲惨な死に方をするはずだ、と。
 ウルジトリは間違っていなかった。年が明けてすぐ、テレイナの死んだ夫の兄弟の妻、上で述べたテレイナたちに親切だった女性が急死した。元々テレイナたちを憎んでいた兄弟たちの父はこれもドゥニチャが呪い殺したと確信して、部族の者たちと共にドゥニチャを撲殺する。母を殺されたテレイナは自分の幌馬車で部落を逃げ出すが、途中猛吹雪に襲われて気を失う。
 凍死しかけていたテレイナを救ったのはさるルーマニア人の男爵であった。男爵は子供の頃重い病気にかかって死にかけ、医者も誰一人なすすべがなく手をこまねいていたとき、領内にいたジプシー女が術を使って病気を直してくれた。以来自分はジプシーには大きな借りがある。命の恩人であるその見知らぬ女性へのお礼に雪の中に倒れていたあなたを助けたのだと男爵は言う。その女性こそ母ドゥニチャであった。
 テレイナとその子(アルニコと名付けられた)はその後17年間、男爵の城で過ごすことになる。アルニコは男爵の召使として誠実に働き一度など男爵の命を救う。その令嬢のヘレナとはお互いに心の中で愛し合っているが、身分の違いから言い出すことができない。ある日領地の中にテレイナの一族が滞在していることを偶然知った二人は城を出て自分たちの部族に帰っていく。
 アルニコは部族でも尊敬される人物となるが、用事でブカレストに行ったとき、暴漢に襲われそうになっていた若い女性を救う。それがパルニというやはりロマであった。しかもパルニはテレイナの夫の部族に属し、ドゥニチャやテレイナの話も知っていた。パルニを見染め、その兄弟と友人になったアルニコは、部族間の「停戦」を提案しにパルニの部族の所に趣き、またそこでパルニとの結婚の許可も願い出る。部族の長はいまだにドゥニチャやテレイラ、またその息子のアルニコにはいい感情を持っていなかったが、特に反対する理由もないので停戦に応じようとしたとき、以前パルニの父が軽い気持ちで「娘をやろう」と約束していた部族の男が結婚に待ったをかける。アルニコは諦めて去っていくが、その相手の男を嫌悪していたパルニは愛するアルニコが行ってしまったのを見て自殺する。
 パルニの父も部族の男たちも、パルニが死んだのはアルニコのせいだとしてアルニコを殺そうとする。アルニコの部族の方が「戦力」としては圧倒的に優勢なのでまともに戦ったら勝ち目がないと、何人か刺客を送って殺害を企てるのである。しかし逆にアルニコに刺客を何人も殺され、一人は囚われて「さあ殺せ」と喚くが、アルニコの部族はその者を生かし、パルニの部族への使いを託す。
 それはロマの法に従ってアルニコの部族とパルニの部族のどちらに非があるか正式に決めてもらおうというのだ。裁判には当事者の部族の他に他の部族も呼び、ロマの習慣に従って公正な判断をする。そこで第三の部族も呼ばれるが、判決は「アルニコには全く非がない」というものだった。パルニやテレイナの夫の部族の「逆恨み」は不当であると正式に決まったわけで、これでドゥニチャの復讐も果たしたことになる。
 さてテレイナも40歳に近づき、死期が迫っている。死ぬ前に孫の顔が見たいと、アルニコを部族の長の娘オルカと結婚させ、一年後には子供も生まれる。いよいよ死ぬ間際になったとき、テレイナは嫁のオルカを呼び寄せ、命の薪を手渡してしっかり保管するように、アルニコが年を取って苦しむようだったら楽にしてやるように、またオルカ自身が先に死んでしまいそうな時はその子供に訳を話して薪を渡すように言いつける。女同士の信頼感だ。
 ところが実はアルニコは母の言いつけでオルカと結婚したものの、どうも自分の妻を愛することができないでいる。しかもある時ふと思い立って昔暮らした男爵の城に挨拶に行った際、さる侯爵と結婚させられそうになっていたヘレナと再開して愛を告白され、妻と息子を捨てる決心をし、住処を出ていく。
 アルニコを愛していた妻オルカは絶望し、相手の女を殺すかアルニコを殺すか思い詰めるが、ルーマニア人を殺したりしたらその法律が黙っていない。そこで薪を火にくべる。アルニコは城へ帰る途中、突然心臓に焼けるような痛みを感じ、苦しみながら息絶える。それは以前母テレイナと幼いアルニコが吹雪で倒れていた木の下であった。
 
スイスの出版社から出た『ウルジトリ』のドイツ語訳。小さな可愛い(?)本である。
ursitory-bearbeitet
 以上が大雑把なあらすじだが、その中でロマの生活習慣が生き生きと描かれている。舞台がルーマニアなのはマクシモフがその父から様々な話を聞かされていたからだろう。部族間で通婚が頻繁だった一方で殺し合いもすること、ロマと非ロマ(ガジョという)の区別が明確であることなどは著者の生活とダブる。ロマニ語も紹介されているので、そのうちのいくつかをちょっと手元のロマニ語事典で確認してみた。
 例えばロマの暮らすテントのことを chara とあるが、これは辞書によるとčerga となっている。カルデラシュの言葉だそうだ。またテレイナがドゥニチャに、アルニコがテレイナに「お母さん!」と呼びかけるとき dale! と言っている。これは daj (「母」)から来たのだろうがこの言葉はバルカン半島のロマが使っていた言葉だ。daleという形はその呼格形で、主にボスニアのロマに見られるもの。カルデラシュなら dejo! となるはず。つまり本人はカルデラシュのマクシモフも他のロマニ語バリアントも知っていて使っていたのだ。マクシモフの両親もそうだが、様々な部族が通婚しているのでそれぞれ自分の部族のバリアントを子供に伝えていたのだろう。
 面白いのでもうちょっと見ていくと「年上の男性に敬意を持って呼びかける」敬称が kaku だが、辞書によるとこれはカルデラシュや他の部族も広く使っている言葉で kak である。 上のdale! が呼格なのだからこれも呼格のはずだが、 呼格なら語尾に -u を取らない。普通男性名詞の呼格は -a になるはずだ。例えば manuš (「人間、夫」)の呼格は manuša。まれに不規則な形をとる呼格もあって、dad(「父」)は dade になったりするが、-u の例は見つからなかった。もしかするとカルデラシュでは kak の他に kaku という形もあって、主格と呼格が同形になるのかもしれない。さらにひょっとすると、-u の呼格形はセルビアあたりのロマから伝わったのかもしれない。セルビア語やクロアチア語では呼格で -u をとる男性名詞があるから(『90.ちょっと、そこの人!』参照)、それに影響されたのかも知れないが、とにかくこの資料だけではなんとも言えない。
 もう一つ drabarni という言葉が出てくる。上のあらすじ紹介で述べたがドゥニチャがこの drabarni で、「魔術使い、魔女」と本には説明してあった。辞書を引くと drabardi という単語が出ていて、これは同じ言葉だろう。 drabarni そのものも載っていて、カルデラシュの言葉だそうだ。しかしその意味は「占い師」とある。つまり未来を予言する力を持った者のことで、「魔女」とはちょっと違う。ストーリーからするとドゥニチャは「魔女」よりむしろこちらである。
 さらにバラバラの単語だけでなくロマニ語の文も出てくる。本には文全体の訳しか載っていなかったので(当たり前だ。これは小説で言語学の論文じゃないのだ)、これもちょっと文法書を調べて確認してみた。例えばアルニコがパルニに会った時、相手もロマだとすぐわかったので聞く。

Kaski shéi san?

「君は誰の娘だい?」という意味だが、kaski は疑問代名詞「誰の」(ドイツ語で wessen、英語の whose)の女性形単数だ(男性形は kasko )。続く単語「娘」が女性名詞なのでそれとの呼応である。その「娘」、shéi は辞書には čhej (ということは最初の破擦音は帯気音)で載っていてボスニアのロマの言葉だと説明されている。破擦音 čh はカルデラシュでは摩擦音 ś になるそうだからsh という表記はそのせいだろう。この「摩擦音化」は他にも見られる(下記参照)。san はコピュラ si の2人称現在形。文法構造としては非常にわかりやすい文だ。パルニが答えないのでアルニコは安心させようとして

Dikes ke rom sim.

と言う。dikes は本当は dikhes で、k は帯気音。動詞 dikhel (「見る、見える」)の2人称単数現在だが、この単語はロマニ語全般に広がっているいわば「ロマニ共通語」だ。ke はカルデラシュ語(?)で、接続詞。ドイツ語の dass、英語の that。次の rom は言わずと知れた「ロマ、ジプシー」で、最後の sim はコピュラの一人称単数。全体で「僕がロマだってことは見ればわかるじゃないか」という意味になる。
 もう一つ。全く違う場面で「引き返せ!、帰れ」を

Gia palpale!

と言っている。Palpale は副詞でロマニ語共通。英語の backwards 、ドイツ語の zurück だ。Gia は動詞「行く」の命令形だが、「行く」は普通 džal と書き、その命令形は dža!。この破擦音 dž がカルデラシュでは摩擦音 ź で現れる。だから命令形は本来  źa!。なおカルデラシュに見られるこれら口蓋化摩擦音 ś と ź はそれぞれ š、ž とははっきり音価が異なるそうだ。後者は非口蓋音。とにかくこの文は Go back! である。

 作品のタイトルともなったウルジトリ、子供が生まれたときその運命を決める3人の精霊という神話は実はバルカン半島に広く見られ、ギリシャ神話のモイラ、運命を決める3人の女神につながる。パルカとしてローマ神話に引き継がれた女神たちである。さらに燃える薪と人の命との連携する話がやはりギリシャ神話にある。英雄メレアグロスが生まれたときモイラたちが薪を炉にくべ、これが燃え尽きない限りメレアグロスは死なないよう魔法をかける。後にメレアグロスが母の兄弟を殺したとき、母は復讐のために命の薪を火にくべる。
 カール・リンダークネヒト Karl Rinderknecht という作家はロマが火というものに特別な魔力をみる世界観は彼らがインドから携えてきたのかもしれないと言っているが、ギリシアにも同じようなモチーフがあるところを見ると、これはインド起源と言うよりギリシャも含めた印欧語民族そのものの古い拝火の姿が今に伝わっているのではないだろうか。原始印欧祖語(の話者)は「火」を崇めていたのだ(『160.火の三つの形』『165.シルクロードの印欧語』参照)。

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前に書いた記事の図表を画像に変更しました(レイアウトが機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるようなので)。当然と言えば当然ですが、北ドイツにはデンマーク語の地域があります。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 以前にもちょっと述べたが、ドイツの土着言語はドイツ語だけではない。国レベルの公用語はたしかにドイツ語だけだが、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(『130.サルタナがやって来た』『37.ソルブ語のV』『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)に従って正式に少数民族の言語と認められ保護されている言語が4言語ある。つまりドイツでは5言語が正規言語だ。
 言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語であるがロマニ語話者も住んでいるから、つまりソルブ語以外の少数言語をすべて同州が網羅しているわけだ。扱いが難しいのはフリースラント語で、それ自体が小言語であるうえ内部での差が激しく、一言語として安易に一括りするには問題があるそうだ。スイスのレト・ロマン語もそんな感じらしいが、有力な「フリースランド標準語」的な方言がない。話されている地域もシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州ばかりでなく、ニーダーザクセン州にも話者がいる。そこでfriesische Sprachen、フリースラント諸語という複数名称が使われることがよくある。大きく分けて北フリースラント語、西フリースラント語、ザターラント語(または東フリースラント語)に区別されるがそのグループ内でもいろいろ差があり、例えば北フリースラント語についてはちょっと昔のことになるが1975年にNils Århammarというまさに北ゲルマン語的な苗字の学者がシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の言語状況の報告をしている。

北フリースラント(諸)語の状況。
Århammar, Nils. 1975. Historisch-soziolinguistische Aspekte der Nordfriesischen Mehrsprachigkeit: p.130から

nordfriesisch

 さて、デンマーク語はドイツの少数民族でただ一つ「本国」のある民族の言語だが、この言語の保護政策はうまくいっているようだ。まず欧州言語憲章の批准国はどういう保護政策を行ったか、その政策がどのような効果を挙げているか定期的に委員会に報告しなければいけない。批准して「はいそれまでよ」としらばっくれることができず、本当になにがしかの保護措置が求められるのだが、ドイツも結構その「なにがしか」をきちんとやっているらしい。例えば前にデンマークとの国境都市フレンスブルクから来た大学生が高校の第二外国語でデンマーク語をやったと言っていた。こちらの高校の第二外国語といえばフランス語やスペイン語などの大言語をやるのが普通だが、当地ではデンマーク語の授業が提供されているわけである。
 さらに欧州言語憲章のずっと以前、1955年にすでにいわゆる独・丁政府間で交わされた「ボン・コペンハーゲン宣言」Bonn-Kopenhagener Erklärungenというステートメントによってドイツ国内にはデンマーク人が、デンマーク国内にはドイツ人がそれぞれ少数民族として存在すること、両政府はそれらの少数民族のアイデンティティを尊重して無理やり多数民族に同化させないこと、という取り決めをしている。シュレスヴィヒのデンマーク人は国籍はドイツのまま安心してデンマーク人としての文化やアイデンティティを保っていけるのだ。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には第二次大戦後すぐ作られた南シュレスヴィヒ選挙人同盟という政党(ドイツ語でSüdschleswigscher Wählerverband、デンマーク語でSydslesvigsk Vælgerforening、北フリースラント語でSöödschlaswiksche Wäälerferbånd、略称SSW)があるが、この政党も「ボン・コペンハーゲン宣言」によって特権を与えられた。ドイツでは1953年以来政治政党は選挙時に5%以上の票を取らないと州議会にも連邦議会にも入れないという「5パーセント枠」が設けられているのだが、SSWはその制限を免除されて得票率5%以下でも州議会に参入できることになったのである。

SSWの得票率。なるほど5%に届くことはまれなようだ。ウィキペディアから
SSW_Landtagswahlergebnisse.svg

 こうやって少数言語・少数民族政策がある程度成功していることは基本的に歓迎すべき状況なので、まさにこの成功自体に重大な問題点が潜んでいるなどという発想は普通浮かばないが、Elin Fredstedという人がまさにその点をついている。
 独・丁双方から保護されているのはあくまで標準デンマーク語だ。しかしシュレスヴィヒの本当の土着言語は標準語ではなく、南ユトランド語(ドイツ語でSüdjütisch、デンマーク語でSønderjysk)なのである。このことは上述のÅrhammarもはっきり書いていて、氏はこの地(北フリースラント)で話されている言語は、フリースラント語、低地ドイツ語、デンマーク語南ユトランド方言で、その上に二つの標準語、標準ドイツ語と標準デンマークが書き言葉としてかぶさっている、と描写している。書き言葉のない南ユトランド語と標準デンマーク語とのダイグロシア状態だ、と。言い変えれば標準デンマーク語はあくまで「外から来た」言語なのである。この強力な外来言語に押されて本来の民族言語南ユトランド語が消滅の危機に瀕している、とFredstedは2003年の論文で指摘している。この人は南ユトランド語のネイティブ・スピーカーだ。

 南ユトランド語は13世紀から14世紀の中世デンマーク語から発展してきたもので、波動説の定式通り、中央では失われてしまった古い言語要素を保持している部分があるそうだ。あくまで話し言葉であるが、標準デンマーク語と比べてみるといろいろ面白い違いがある。下の表を見てほしい。まず、標準語でstødと呼ばれる特有の声門閉鎖音が入るところが南ユトランド語では現れない(最初の4例)。また l と n が対応している例もある(最後の1例):
Tabelle-132
 もちろん形態素やシンタクスの面でも差があって、南ユトランド語は語形変化の語尾が消失してしまったおかげで、例えば単数・複数の違いが語尾で表せなくなったため、そのかわりに語幹の音調を変化させて示すようになったりしているそうだ。語彙では低地ドイツ語からの借用が多い。長い間接触していたからである。

 中世、12世紀ごろに当地に成立したシュレスヴィヒ公国の書き言葉は最初(当然)ラテン語だったが、1400年ごろから低地ドイツ語(ハンザ同盟のころだ)になり、さらに1600年ごろからは高地ドイツ語を書き言葉として使い始めた。その間も話し言葉のほうは南ユトランド語だった。これに対してデンマーク王国のほうでは標準語化されたデンマーク語が書き言葉であったため、実際に話されていた方言は吸収されて消えて行ってしまったそうだ。『114.沖縄独立シミュレーション』でも述べたように「似た言語がかぶさると吸収・消滅する危険性が高い」というパターンそのものである。シュレスヴィヒ公国ではかぶさった言語が異質であったため、南ユトランド語は話し言葉として残ったのだ。公国北部ではこれが、公国南部では低地ドイツ語が話されていたという。低地ドイツ語がジワジワと南ユトランド語を浸食していってはいたようだが、19世紀まではまあこの状況はあまり変化がなかった。
 1848年から1864年にかけていわゆるデンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒはドイツ(プロイセン)領になった。書き言葉が高地ドイツ語に統一されたわけだが、その時点では住民の多数がバイリンガルであった。例えば上のFredsted氏の祖母は1882年生まれで高等教育は受けていない農民だったというが、母語は南ユトランド語で、家庭内ではこれを使い、学校では高地ドイツ語で授業を受けた。さらに話された低地ドイツ語もよく分かったし、標準デンマーク語でも読み書きができたそうだ。
 第一世界大戦の後、1920年に国民投票が行われ住民の意思で北シュレスヴィヒはデンマークに、南シュレスヴィヒはドイツに帰属することになった。その結果北シュレスヴィヒにはドイツ語話者が、南シュレスヴィヒにはデンマーク語話者がそれぞれ少数民族として残ることになったのである。デンマーク系ドイツ人は約5万人(別の調べでは10万人)、ドイツ系デンマーク人は1万5千人から2万人とのことである。

 南シュレスヴィヒがドイツに帰属して間もないころ、1924の時点ではそこの(デンマーク系の)住民の書いたデンマーク語の文書には南ユトランド語やドイツ語の要素が散見されるが1930年以降になるとこれが混じりけのない標準デンマーク語になっている。南ユトランド語や低地ドイツ語はまだ話されてはいたと思われるが、もう優勢言語ではなくなってしまっていたのである。
 これは本国デンマークからの支援のおかげもあるが、社会構造が変わって、もう閉ざされた言語共同体というものが存続しにくくなってしまったのも大きな原因だ。特に第二次大戦後は東欧からドイツ系の住民が本国、例えばフレンスブルクあたりにもどんどん流れ込んできて人口構成そのものが変化した。南ユトランド語も低地ドイツ語もコミュニケーション機能を失い、「話し言葉」として役に立たなくなったのである。現在はシュレスヴィヒ南東部に50人から70人くらいのわずかな南ユトランド語の話者集団がいるに過ぎない。

 デンマークに帰属した北シュレスヴィヒはもともと住民の大半がこの言語を話していたわけだからドイツ側よりは話者がいて、現在およそ10万から15万人が南ユトランド語を話すという。しかし上でもちょっと述べたように、デンマークは特に17世紀ごろからコペンハーゲンの言語を基礎にしている標準デンマーク語を強力に推進、というか強制する言語政策をとっているため南ユトランド語の未来は明るくない。Fredsted氏も学校で「妙な百姓言葉を学校で使うことは認めない。そういう方言を話しているから標準デンマーク語の読み書き能力が発達しないんだ」とまで言い渡されたそうだ。生徒のほうは外では標準デンマーク語だけ使い、南ユトランド語は家でこっそりしゃべるか、もしくはもう後者を放棄して標準語に完全に言語転換するかしか選択肢がない。南ユトランド語に対するこのネガティブな見方は、この地がデンマーク領となるのがコペンハーゲン周りより遅かったのも一因らしい。そういう地域の言語は「ドイツ語その他に汚染された不純物まじりのデンマーク語」とみなされたりするのだという。つまりナショナリストから「お前本当にデンマーク人か?」とつまはじきされるのである。そうやってここ60年か70年の間に南ユトランド語が著しく衰退してしまった。
 かてて加えてドイツ政府までもが「少数言語の保護」と称して標準デンマーク語を支援するからもうどうしようもない。

 が、その南ユトランド語を堂々としゃべっても文句を言われない集団がデンマーク内に存在する。それは皮肉なことに北シュレスヴィヒの少数民族、つまりドイツ系デンマーク人だ。彼らは民族意識は確かにドイツ人だが、第一言語は南ユトランド語である人が相当数いる。少なくともドイツ語・南ユトランド語のバイリンガルである。彼らの書き言葉はドイツ語なので、話し言葉の南ユトランドが吸収される危険性が低い上、少数民族なので南ユトランド語をしゃべっても許される。「デンマーク人ならデンマーク人らしくまともに標準語をしゃべれ」という命令が成り立たないからだ。また、ボン・コペンハーゲン宣言に加えて2000年に欧州言語憲章を批准し2001年から実施しているデンマークはここでもドイツ人を正式な少数民族として認知しているから、「ここはデンマークだ、郷に入っては郷に従ってデンマーク人のようにふるまえ」と押し付けることもできない。ネイティブ・デンマーク人のFredsted氏はこれらドイツ系デンマーク人たちも貴重なデンマーク語方言を保持していってくれるのではないかと希望を持っているらしい。
 惜しむらくはデンマークで少数言語として認められているのがドイツ語の標準語ということである。独・丁で互いに標準語(だけ)を強化しあっているようなのが残念だ。

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