アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ノーベル賞

 私は昔から「文学」というものが苦手だった(「嫌い」というのとは全然違う、念のため)。文学論・評論の類は書いてあることがまったく理解できない、詩は全然意味がとれない、高校生でも読んでいる日本の有名作家など実は名前さえ知らないことが多かった。
 1965年にノーベル文学賞をとったソ連の作家ミハイル・ショーロホフの短編『他人の血』は、その文学音痴の私が何回となく読んだ数少ない文学作品の一つだ。 一人息子を赤軍に殺されたコサックの農夫が瀕死の重傷を負った若い赤軍兵士(つまり本来敵側の兵士)の命を助け、彼を死んだ息子の代わりにいとおしむようになるが、結局兵士はもと来た所に帰って行かねばならない、という話である。
 以下はまだ意識を取り戻さない兵士を老コサックのガヴリーラがベッドの脇で見守るシーン。昭和35年(51年に第36版が出ている)に角川文庫から発行された『人間の運命・他4篇』からとったもの。「漆原隆子・米川正夫訳」となっているが実際に訳したのは漆原氏だということだ。

 『東風がドンの沿岸から吹き寄せて、黒くなった空を濁らせ、村の上空に低く冷たい黒雲を敷く長い冬の夜々、ガヴリーラは負傷者の横に坐り、頭を両の手にもたせて、彼がうわ言をいい、聞きなれぬ北方の発音で、とりとめもなく何事か物語るのに、聴きいるのだった。』

 次は兵士が去っていくラスト・シーン。

『「帰って来いよう!....」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。 「帰っちゃ来まい!....」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。 最後に、懐かしい薄あま色の頭が、曲がり角のはずれでちらりと見えた。』

 私がこれを読んだのは中学生か高校生になりたての頃だったと思うが、ずっと心に残っていてその後20年くらいたってから、原典をドイツのM大学で見つけた。せっかくだからここで引用するが、上の部分は原語ではそれぞれ以下の通りだ。

『В длинные зимние ночи,когда восточный ветер, налетая с Обдонья, мутил почерневшее небо и низко над станицей стлал холодные тучи, сиживал Гаврила возле раненого, уронив голову на руки, вслушиваясь, как бредил тот, незнакомым окающим говорком несвязно о чем-то рассказывая;』

『-Ворочайся! - цепляясь за арбу, кричал Гаврила. -Не вернется!... - рыдало в груди невыплаканное слово. В последний раз мелькнула за поворотом родная белокурая голова, (...)』

美しいロシア語だ。中でも特に二ヶ所、触れずにはいられない部分がある。翻訳者の鋭敏な言語感覚が現れているところだ。

 まず『聞きなれぬ北方の発音で』の原語はнезнакомым окающим говорком。これは直訳すれば「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音される聞きなれない方言で」。ロシア語をやった者ならすぐ通じると思うが、標準ロシア語では母音oがアクセントのない位置に来た場合「お」でなく軽い「あ」と発音される。テキストにoと書いてあってもaと読まなければいけない。ベラルーシ語だとアクセントのないoは正書法でも発音通りaと書くが、ロシア語は違う。これをそのままoと読むのは非標準語の方言である。この、アクセントのないoを「お」と発音する地域と「あ」と発音する地域の境界線はだいたいモスクワのすぐ北あたりを東西に走っている。つまりモスクワ以北は基本的にo方言ということだ。この短編の主人公はロシア南部のドン・コサックだから完全にa方言区域、oはそれこそ聞いたこともない方言だったに違いない。

 しかしこれをそのまま馬鹿正直に「アクセントのないoがaとならずにoのまま発音されて」などと訳していたら文学性が消えてしまう。ロシア語の言語地理学を専攻にしている人などは喜ぶかも知れないが、普通の読者はワケがわからず、その場で本を投げているのだろう。「北方の方言」、本当にセンスのいい翻訳だと思う。
 ちなみにロシア語の先生から聞いた話によると、エカテリーナ二世の時代から毛皮などを求めてシベリアに渡っていったロシア人にはこのo方言の話者が多かったそうだ。そういえば『北嵯聞略』にも記録されているようだが、例の大黒屋光太夫がカムチャットカで「鍋」というロシア語котёлを「コチョウ」と聞き取っている。しかしこの単語のアクセントはёにある、つまりoにはアクセントがないからこれは本来「カチョウ」または「カチョール」と聞こえるはずだ。してみるとここで光太夫が会ったロシア人もこの「北方のo方言」の話者だったのかもしれない。

 もう一点。『薄あま色』という表現はбелокурая(ベラクーラヤ)の訳。これは普通に訳せば「金髪・ブロンド」だ。でも「金髪」とか「ブロンド」という言葉はちょっとチャラい感じでハリウッドのセクシー女優などにはちょうどいいかもしれないが、革命に燃える若き赤軍兵士にはどうもピッタリ来ない。男性ばかりでなく、赤軍兵士が女性であっても使いにくいだろう。「薄あま色」とやれば軽さは消えて、孤児として育ち瀕死の重傷を負ってもまだ理想を捨てない若者の髪の色を形容するのにふさわしくなる。逆に(名前を出して悪いが)マリリン・モンローやパメラ・アンダーソンにはこの「薄あま色」という言葉は使えないと思うがいかがだろうか?


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 1961年にノーベル文学賞を受けたユーゴスラビア(当時)の作家I・アンドリッチの代表作に『ドリナ川の橋』という長編小説があるが、この原題はセルビア・クロアチア語(それともボスニア語というべきか)でNa Drini ćuprija(ナ・ドリーニ・チュープリヤ)という。Drinaというのは川の名前、naは前置詞で英語のon。Ćuprijaは「橋」の単数主格。分析すれば以下のようになる。

Na Drini ćuprija
~の上+ Drina(処格)+ 橋(単数・主格)
→ ドリナ川の上(にかかる)橋

私はこのタイトルを見たとき衝撃を受けた。何が衝撃かというとこの語順だ。前置詞句が名詞の前に来ている!例えば英語でThe over Rio Grande bridgeとか言えるだろうか?The bridge over Rio Grandeしかありえないのではないか。

 英語と比べると、ドイツ語やロシア語では動詞の分詞が入った場合、前置詞句が名詞の前に立つことはできる。例えば、

Die über Rio Grande hängende Brücke
the + over + R.G + hanging + bridge
→ リオグランデの上にかかる橋

Die dafür nicht geeignete Waffe
the + for it + not + suitable + weapon
→ それには適さない武器

летящая над нашим домом утка
flying + over + our + house + duck
→ 私たちの家の上を飛ぶアヒ

さらにその際ロシア語はドイツ語と違って前置詞句が分詞の後に来られるが、とにかく分詞、つまり動詞のない構造で前置詞句が名詞の前に来る例はドイツ語でもロシア語でも見たことがない。それとも皆実は裏でこっそりそういう構造を作っているのか?まさか。

 ボスニア語ではこの語順が普通に許されるのだろうか。それともこれは何か特殊な文学的表現なのか。あまり不思議だったのでこの語順で問題はないのか隣に坐っていたネイティブに聞いてみたらあっさり「これのどこが不思議なのよ?普通じゃん」と返された。興奮しているのは私だけだ。
 そういえば、あそこら辺の言語の中ではトルコ語がこういう語順を許す。というよりこういう語順しかありえない。もちろんトルコ語では前置詞でなく後置詞を使うので、前置詞句内の「前置詞」が名詞の後ろに来て「後置詞」となっている点がボスニア語Na Drini ćuprijaと違うが。

iş yüzünden bulunmazlik
仕事 + ~による・~の理由での + 欠席
→ 仕事上の理由による欠席

kullanma yoluyla aşinma
使用 + ~による + 消耗
→ 使用による消耗

 英語やドイツ語・ロシア語では後続の名詞を支配する前置詞(そもそもそれだから「前置詞」という名前なのだ)がトルコ語では先行する名詞にくっ付いて意味を成していることがわかるだろう。
 ボスニアがかつてトルコに何百年も支配されていた地域であることを鑑みると、私としては「この語順は全くトルコ語とは関係ない」とは考えにくいのだが。そもそもćuprijaという単語自体トルコ語からの借用で、事実上ボスニア語と同言語といっていいクロアチア語やセルビア語では「橋」はスラブ語本来の語most(モスト)である。

 最近はセルビア語、クロアチア語、さらにボスニア語は分けて考えるが、以前はこれらの言語をセルボ・クロアチア語と一括して一言語扱いしていた。構造的にも非常に近いので、ボスニア語で書かれたテキストでも「クロアチア語」の辞書を引けば読める。というより言語的に近すぎてこれはボスニア語なのかセルビア語なのか聞かれるとどちらかに決められなくて答えに困る。なので「セルビア・クロアチア語」または「セルビア語あるいはクロアチア語」と苦しい名称が使われることも多い。私の持っている教科書はまだ「セルボ・クロアチア語」という名称が許されているころの発行だが、その巻末にリーダー練習用としてこの作品の冒頭部が載っていた。

Većim delom svoga toka reka Drina protiče kroz tesne gudure između strmih planina ili kroz duboke kanjone okomito odsečenih obala. Samo na nekoliko mesta rečnog toka njene se obale proširuju u otvorene doline i stvaraju, bilo na jednoj bilo na obe strane reke, župne, delimično ravne, delimično talasaste predele, podesne za obrađivanje i naselja. Takvo jedno proširenje nastaje i ovde, kod Višegrada, na mestu gde Drina izbija u naglom zavoju iz dubokog i uskog tesnaca koji stvaraju Butkove Stijene i Uzavničke planine.

これはセルビア語・クロアチア語の「e方言」という方言で書かれているが、クロアチア語の辞書に載っている標準形は「ije方言形」という別の形なので、そのままe方言形では出ていない。頭の中でije方言形に変換してから辞書にあたらないといけないので注意を要する。
 例えば上の例の二語目のdelom(デーロム)はロシア語から類推して見て取れるように造格形だが、del-というのは「e形」だから、標準「ije形」に直す。つまりdelomは辞書ではdijelom(ディイェロム)になる。ところが、ここでさらに活用・曲用パラダイムでlとoが交代するので実際に辞書に載っている主格形はdio(ディオ、「部分・一部」)。同じことが一行目にある形容詞tesne(テスネ)にも言える。この形容詞の男性単数の基本形はtesan(テサン)だが、これをさらに「ije形」に直してtijesan(ティイェサン、「狭い」)で辞書を引かないといけない。Delimično(デリミチノ)もまずdjelimično(ディイェリミチノ)に直すが、これは中性単数形だから、さらに男性形に直し、djelimičan(ディイェリミチャン、「部分的の、一部の」)で引く、という具合だ。
 と、いうわけで慣れるまでちょっとまごつくのだが、そこをなんとか切りぬけて家にあった独・ク辞典を引き引き上の文章を訳してみると次のようになる。

「その流れの大部分を、ドリナ川は険しい山々の間の狭い峡谷か、両岸が垂直に切り立った深い谷を通っている。ただ何ヶ所か、川の流れているところで岸が広くなっていて、あるいは川の片側にあるいは両側に、肥沃な、平坦だったり起伏があったりするがとにかく農作や居住にうってつけな地形を造っている。そういった拓けた土地の一つがここヴィシェグラートのあたりにも広がっているのだが、ここはドリナ川が急カーブを描いて、ブトコフ岩とウザヴニチク山が形作っている深くて狭い谷間から突然その姿を見せる場所だ。」

 実は一語だけ辞書をいくつか引いても意味のわからない言葉があったので、ドイツ語の翻訳を盗み見してしまった。župne(ジュプネ)という単語なのだが、ここの文脈で見ればžupneという単語は後のpredele(「景色」「土地」)という男性名詞・複数・対格形(単数主格はpredioまたはpredjel)にかかる形容詞で、その単数・男性形、つまり辞書形はžupan(ジュパン)でしかありえない。ところが辞書を見るとžupanは名詞、しかも「馬車を引く2頭以上の馬」とか「地方議会」とか辞書によってバラバラの意味が書いてあって引く前よりさらに意味がわからなくなった。困っていたらドイツ語翻訳ではこれを「肥沃な」という形容詞として訳していたのでこれをいただいた。邦訳も出ているが、ドイツ語からの重訳だそうだ。

 教科書に乗っていたのは一ページ足らずであったが、私はすでにこのタイトルで引っかかり、さらに冒頭のžupneがわからなくて一ページどころか数行で諦めてしまった。ずっと経ってから、ドイツ語の翻訳を読もうとしたのだが、さすがにクロアチア語原語よりは進んだはいいが、橋の建設をサボタージュした労働者が串刺しの刑にされる場面があり、さすがノーベル賞級の文章力だけあって、その彼が苦しみながら死んで行く様子を強制的に見させられた町の住民の重苦しい空気の描写があまりにも見事なので、気が沈んで先を読み進むことができなくなった。下手に筆の力があるのも考え物だ。私の読んだのは翻訳だったからまだいいが、この陰惨さを原語で味わってしまった人は大丈夫だったのだろうか。


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 もう何年か前の夏、今ほどテロの危険が差し迫っておらずEUが比較的牧歌的だったときのことだ。うちの真ん前で爆弾騒ぎが起こったことがある。地元の新聞にもしっかり載った。
 私がちょっと散歩に出て帰ってきてみたら道にロープが張られていて通行止めになっていたため、住んでいるアパートの入り口まで行くことができない。しかも警官がワンサといる。通ろうとするとお巡りさんにストップをかけられた。「すいません、私ここに住んでいるものでちょっと通してください」といって通してもらい、家に入ったはいいが、しばらくするとアパートの玄関先からお巡りさんが「ここの住民の方、速やかに避難してしてください」とメガフォンで告げるではないか。
 うちのすぐ向かいの建物の前で「不審物」(つまり爆弾の疑いがある、ということだ)が見つかり、周辺の住民は皆避難させているとのことだった。爆弾処理の専門家をわざわざシュツットガルトから呼ばねばならないので彼らがここに到着するまで何時間もかかるから、その間住民は外に「避難」させられたわけだ。うちのアパートばかりでなく、通りの住民は全員そとに出させられた。
 しかしまあ、私が帰って来たとき、荷物を調べられたりしなくてよかった。実は近所の土産物屋というか贈答品屋というか、きれいな花瓶や絵葉書などちょっとしたプレゼントを売っている店で子供がよく風呂に浮かべて遊ぶような小さな黄色いゴムのアヒルを買ってきていたのだ。もちろん自分用にだ。パソコンの脇に置こうと思ったのである。こんなもんをいい大人がビニール袋に入れてぶら下げているのを見つかるほうが爆弾を隠し持っているのよりよっぽど怪しいのではなかろうか。

 で、皆ゾロゾロ前の通りに出たのだが、以下は避難させられている間、アパートの住民間で無責任に交わされていた会話である。

「なんではるばるシュツットガルトなんかから処理班呼ばなきゃいけないんだ?ここにはアメリカ軍の基地があるんだからそいつらの方が得意だろうに。彼らに頼めばいいじゃんかよ」

「爆弾ってわざわざ避難する程の規模なんですかね? ヒロシマ爆弾じゃあるまいし。こうやって外に出てたりしたら破片とか飛んでくるだろうし、家の中に居た方がよっぽど安全と違いますか?」

「これがロシアだったらさ、住民の安全もクソもなくさっさと不審物にバズーカ発砲して『処理』していたところだな」

「もし爆弾が破裂しても崩壊するとしたら向こう側の建物で、私たちんとこは大丈夫だろう。 あっちでまあ良かったわ」

 もっともこういうことでもないと同じアパートの住人ともあまり顔合わす機会がないのも事実だ。そのうち「そういや○○さんは出てきませんね」とかいう方向に話が進み、ほとんど町内会の様相を呈して来た。 エンタテインメントか?
 さらにここは市電の走る一応大通りなのでひっきりなしに通行人が通り、通行止めになってしかも警官がウヨウヨしているのを見て「どうしたんですか?」と聞いてくる。そういう質問に対応するのが住民の仕事と化してしまった。ほとんどスポークスマンだ。
 中には私が「不審物が見つかったそうで爆弾かも知れないそうですよ」と説明すると「爆弾?この暑いのにナニを馬鹿な」とか意味不明なことをいって笑い出す人までいた。笑っている場合か。私のせいじゃないんだからこちらを嘲らないでほしい。

 結局(思っていた通り)「不審物」は爆弾などではなく、晩の8時ごろ町内会は解散となった。そのブツがせめて花火かなんかで「プスン」とか何とか音でも立ててくれればまだスリルがあったのだが、何事もなくて、まあ良かったというべきか、つまらなかったというべきか。
 しかし住民の誰一人として真面目に避難している者がいなかった。事故が起こると「事前に察知できなかった」とか「注意喚起が足りなかった」といって、後から警察だろ内務省を責める人がいるが、当事者の住民がこれでは絶対人のことなど言えない。警察のほうが一生懸命避難を呼びかけているのに当の住民が「この暑いのに何を馬鹿な」と鼻であしらっていて爆死した場合、非は警察にはない。

 しかし不真面目なのは爆弾騒ぎの時ばかりではない。

 実は私はノーベル賞を貰っている。嘘ではない。2012年のノーベル平和賞はEU市民に授与されたが、私はまさにそのEU国籍だ。授賞式には出させてもらえなかったのが残念だ。
 が、その肝心の受賞者、つまりEU市民が受賞の話を聞いて「第二次大戦以来、もう戦争はすまいと堅く心に誓って歯を食いしばって戦後処理をし、犬猿の仲だったフランスとの関係をここまで良好にしたドイツの努力がやっと認められた」とジーンとくるかと思いきや、聞いたドイツ人の第一声は「で、金は誰が受け取るんだ? シュルツか?」。シュルツとはドイツ人の政治家でEU議会の議長マルティン・シュルツ氏のことである。当時務めていた大学でも巡回メールが来て、「賞金は一人当たりだいたい0.2セントくらい」。そう、賞金をEU市民五億人で山分けするから一人当たりの取り分は雀の涙を通り越して限りなくゼロに近いのだ。それにしても皆お金のことしか考えていない。EU内にもこの「EUに平和賞」に批判の声が上がっていたが、むべなるかな。こんなに不真面目な市民にノーベル賞など与えてよかったのか?
 
 しかし一方私は今までいわゆる「賞」の類とは全く無縁のヘタレ・底辺人生を送ってきた。「賞」といえるものをとったのは小学校の時通わされていた四谷大塚進学教室とやらの模擬試験で一度理科の満点賞をとったのと、大学を卒業して働いていたとき社内のボーリング大会でブービー賞を貰ったのとの2度だけである。だから一度くらいはまた何らかの賞が取れて嬉しいとは思う。この際理由はなんでもいい、くれるものは貰う。国籍をこっちに移しておいてよかった。日本人のままでいたら私なんて絶対ノーベル賞なんかとは一生無縁のまま死んでいただろう。私の知り合いにやっぱりドイツ国籍を取った日本人がいるが、取得が数ヶ月遅かったので平和賞授与時点ではまだ日本国籍だったため賞は逃した。またクロアチア人の知り合いも、クロアチアのEU参入がノーベル賞の後だったのでやっぱり賞には間に合わなかった。ノーベル平和賞は早いもの勝ちである。
 しかし「これで履歴書の「資格・特技」の欄に「ノーベル平和賞」と記入できる!」と思いきや、考えたらこちら回り中ノーベル賞受賞者だらけだから全くインパクトがない。あまり得にもなっていないのが悔しいところだ。

下の写真は町の新聞Mannheimer Morgen紙が当時そのウェブサイトで提供していたものである。石作りの私たちのアパートは写っているが、私は幸い写っていない。
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 本棚をいじっていたら黒澤明氏の自伝『蝦蟇の油』が出てきたのでちょっと拾い読みしてしまった。私は生まれて育った地域が黒澤氏とモロ重なっていて、自伝に出てくる地名そのほか多くが私が小学校の頃縄張りだったところである。
 黒澤監督のお兄さんは小学校時代から府内(都内)で一番を取ったくらいの秀才だったが、府立一中、現日比谷高校の受験になぜか失敗し、厭世観をつのらせて「それ以後は性格が変わってしまった」そうだ。27歳で自殺なさってしまったとのこと。黒澤監督の令兄のような例は時々耳にする。才能や学力の点では誰が見ても文句のつけようがないのに、試験とか何かの賞を取る、ということに関してはなぜかうまくいかない人たちのことを。

 何を隠そう私はその日比谷高校出身なのだが、私の頃は例の悪名高い「群制度」まっさかりだった。当時の受験制度では日比谷高校、九段高校、三田高校が11群という群を組んでいて、合格者はどこの高校に回されるか自分で決められなかったのである。だから当時都立を敬遠する人が結構いた記憶がある。私が日比谷に回されたのは運だ。実は私は都立は滑り止めで、本命はさる国立大学の付属高校だったのだが、そういう「都立は第二志望」という人も多かった。
 しかし今ではこの高校に行ってよかったと思っている。いろいろと面白い学校だった。
 
 以前にも書いたが、当時の日比谷高校では選択科目として「第二外国語」があって、そこでドイツ語をとった。私が現在でも抱いている「外国語というとすぐ英語を連想する人」に対する違和感はここで培われてしまったらしい。しかも受験の英語をほったらかしてドイツ語をやって遊んでしまったので未だに英語が苦手で、完全に人生にマイナス作用しているのだが、その代わり現在ドイツに住んでいるのは日比谷高校のドイツ語のおかげだろう。
 また次のようなことを覚えている。

 上にも書いたように、私は生まれ育ったのが、五反田・目黒・品川・高輪台のあたり、つまり品川区の最北端から港区南部にかけてなのだが、「○○じゃん」という言い回しを日常的に使っていた。ところが高校に来てみたら、私よりほんの少し北から来た人、港区北部や千代田区育ちの人は「じゃん」をまったく使っていなかったのである。つまり私の縄張りのあたりが「じゃん」の北限、言い換えると「じゃん」の等語線は私の家のあたりを走っていたらしい。 
 それまで私は「じゃん」は東京方言だと思っていたのだが、高校で初めてこれは横浜あるいは京浜方言であると知ったわけだ。もちろん当時は「等語線」などという言葉は知らなかったが、おもしろいなあとは思った。そのあと、芸術家を落ちこぼれて言語学に寝返った発端は案外このあたりがきっかけかもしれない。

 ちなみに日比谷高校のすぐ隣はメキシコ大使館だった(今もか?)が、そのメキシコ大使館と高校の間に遅刻坂と呼ばれる超急坂があった。私はその名前の由来を、「始業のチャイムがなりだしているので急ごうと思うのだが、坂があまりにも急なので、教室も校門も距離的にはすぐそこなのに一定時間内に走りきれず、惜しくも遅刻する」から、つまり「生徒を遅刻させる坂だから」だと聞いていたが、この間ネットをみたら、単に「遅刻しそうになってそこを走っていく学生さんの姿をよく見かける」ので遅刻坂と呼ばれるようになったと説明してあった。私の聞いている説の方がロジカルではないだろうか。単に「遅刻しそうになって焦って走る生徒の姿をみかける」くらいなら別に坂でなくてもよかろう。
 最寄り駅は地下鉄の赤坂見附だったが、ここで降りると必ず遅刻坂を通らないといけない。二番目に近い駅がやっぱり地下鉄の永田町だったが、ここで降りれば坂を上らずに登校できるため、坂を上りたくないがために遠回りして永田町から通ってくる若いくせに老人並みの軟弱者もいた。
 もっとも高校生ならこの坂を一気に歩ききれるのが普通だが(走って登りきることが出来た者はまれ)、教師だと途中で一回休みを入れないと上まで登りきれない。途中で3回休みを入れないとこの坂がこなせないようになったらに定年間近といわれていた。

 そういえば、ウソか本当か私は知らないが、その隣のメキシコ大使館から「あんたんとこの学校の窓から時々消しゴムだろ鉛筆だろ丸めたテストの回答なんかがウチの庭に落ちてきて困る」とクレームがついたことがあるそうだ。まあ、メキシコ大使館だったからまだよかったのではないだろうか。これがソ連大使館だったら大使館内に消しゴム一つでも着地した時点で即ミグ戦闘機あたりが飛んできて高校の建物が爆撃されていたかもしれない。くわばらくわばら。

 さらに私はそこで剣道部だったのだが、この道場というのがボロくて修理しようにも予算が出ない、ということであるとき顧問の先生が率先して部員全員で商売したことがある。この顧問の先生というのが東京教育大出身、つまり後に私が飛んでいったさる荒野の大学の前身だから、なんかこう、あまりにも世界が狭すぎて閉所恐怖症になりそうだ。
 で、その「商売」だが、剣道部全員で何をしたかというとこういうことだ。

 日比谷高校の校庭に大きなイチョウの木があった、校歌にも歌われたそれはそれは立派な木だ。そのイチョウのギンナンを皆で拾ってあの臭い果肉を洗い落として加工し、放課後すぐ近くにある赤坂の料亭を回って売り歩いたのである。
 料亭の裏口から入っていって、「ギンナン買ってくれませんか?」と訊いてまわったら、その料亭の一つが「ウチは料理の材料は原則としてきちんとした信用のあるところからしか買わないんだが、見れば日比谷高校の学生さんだし、先生までついている。それに免じて買ってあげよう」と言って本当に校庭のギンナンを買ってくれたのだ!どうだすごいだろう。
 ここの卒業者名簿を見ると小林秀雄だろ利根川進だろがいるが、小林秀雄なんかには「赤坂の料亭でギンナンの行商」などという高貴な所業はとても出来まい。やれるもんならやってみろ。利根川博士などが「えーまいどー、実は私は先日ノーベル賞取った者ですが、このギンナン買ってくれませんか?」とか料亭で言ったらドツかれるのではないか。
 しかしその後別に道場がきれいになった記憶がないのだが、あのお金はどこに消えたのだろう。どうやらコンパ代にでもなったしまったらしい。

 それにしてギンナンの加工というのは臭いしネチャネチャしているしで商売としてはどうも割に合わない。いっそ前にカンを置いて道端で歌を歌うとか 外国人観光客相手に柔道・剣道のデモンストレーションしてみせて金をとるとかした方が儲かりそうだ。何しろ場所が永田町、国会議事堂のすぐ近くだからタイム誌とかニューズウィーク誌あたりが写真に載せてくれたかもしれない。そうなれば恥を世界に曝せる絶好のチャンスだったろうに。


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 1984年にミハイル・ショーロホフが亡くなったとき日本の新聞でも結構大きく報道されていたのを覚えているが、ノーベル賞をもたらしたその代表作『静かなドン』についてはとにかくいろいろと議論があった。特にその剽窃問題についてである。
 発端の一つとなったのがソ連体制、またショーロホフも含めた体制内作家を蛇蝎のように嫌っていたソルジェニーツインが1974年にニューヨークタイムズに発表した、『静かなドン』の真の作者はフョードル・クリューコフ Фёдор Крюков というコサックであるという主張である。これはソルジェニーツィンが藪から棒に考えついたわけではない。他にもショーロホフの剽窃を疑っている研究者はいた。その1人、歴史家のイリーナ・メドヴェージェヴァ=トマシェフスカヤ Ирина Медведева-Томашевская とはソルジェニーツィンも連絡を取っているが、メドヴェージェヴァ氏はソルジェニーツィンが件の記事を公にする前、1973年に亡くなっている。ソ氏はこれで世界中にセンセーションを起こしショーロホフ、ひいてはソ連の作家同盟の信憑性に大打撃を食らわせるとふんでいたが、ソ連側がそれを徹底的にシカトする作戦にでたので話があまり大きくならず、いわば爆弾は不発に終わった。ただ文学研究者など専門家の間では議論が続き、1977年にノルウェーの Geir Kjetsaa(何と読むのかよくわからないがゲイル・ヒェツォとかいう感じになるらしい)という学者がクリューコフとショーロホフの文章をコンピューター解析にかけて、この二人は文体から言って別人であるという結果を出したりしている。しかし確かに「原作はクリューコフではない」かもしれないが、ショーロホフが他のところからも剽窃していないという証明にはならない。『静かなドン』の元の原稿や資料などは革命戦争や大粛清、また第二次世界単線などで消失してしまい、剽窃にせよ自筆にせよ証明ができないのである。証明はできないが、当時の友人知人などの証言や細々と残る資料などから推してショーロホフが様々な源泉からその文章を持ってきたことは確実だ。
 実は『静かなドン』が発表された1929年当時にすでに剽窃問題が持ち上がっている。ショーロホフはそれ以前にはドン・コサックをテーマとするいくつかの短編しか書いておらず、作家としてまだ発展途上であった。それらの短編のあと中間をすっ飛ばしていきなり『戦争と平和』と比べられる長さの超大作を、年齢もまだ20台初めの若者が書けるものなのだろうかという疑いが浮上したのだ。調査団が組織されて調査にあたったが、そこでは一応『静かなドン』は確かにショーロホフの手によるものという結果がでた。これについてはいくつか考慮しておきたい点がある。まず、当時のソ連の著作権法では作家が別の著者の文章を使ってもそれが当該作家自身の芸術の完全な構成部分として全体構成に寄与していれば剽窃と見なされなかった。『静かなドン』は大量の資料をもとにして書かれた小説だが、多少原本資料と小説の文章が似すぎていても、それがしっかり小説の構成部分になっていれば元の資料の著者がその作家を剽窃で訴えても勝ち目はなかったのである。そういえば、ちょっと連想が飛躍するが山崎豊子も自分の体験よりも資料に頼って作品を書くタイプで、何度か盗作で訴えられている。それではショーロホフはその資料を何処から入手したのか。これは氏が小説を書くために自分から「取材」したのではなく、革命戦争のどさくさで資料の方から偶然によって氏の手に落ちてきたものである。敗走する白衛軍コサックたちが残していったのだ。ショーロホフはその資料を見て、自分がこれを残さなかったらこれらの文章は全く日の目を見ずに霧散してしまう、コサックの姿が誰にも知られず歴史の影に埋もれてしまうという危機感から、それを小説として書き残そうとしたという説もある。
 ショーロホフにコサックに対する特別な思い入れがあったことは事実のようだ。氏は南ロシアのコサック地域居住地にあった(公式発表によれば)クルジンスコエという村に生まれた。父(実は養父)は色々な仕事についたり農業も営んだりして特に裕福ではないにせよ生活苦にあえいでいる層ではなかった。母はコサックの血は引いていたそうだが家庭そのものはコサックには属していない。それでも周りのコサック、というよりその人々も含めて自分の生まれて育った土地というものに非常に愛着を持っていたらしい。後にソ連で立派な「上級国民」、裕福層になってからも他の作家と違ってモスクワには住まず、生涯生まれ故郷のビョーシキ Вёшки に住み続けた。地元の人たちのためにいろいろ貢献もしている。
 『静かなドン』がスターリンの気に入られ、その保護を受け特権を与えられてまあ物質的にはのうのうと暮らしていたので誤解されるが、ショーロホフは決して「スターリンの犬」ではなかった。1932年から33年にかけてショーロホフの地元、現在のウクライナやコーカサス地方で農民の強制集団化により農業が壊滅して百万の単位で人が餓死していったとき、氏は自分のネームバリューを利用してスターリンに直訴し、中央から送られてきて餓死寸前の農民からさらに穀物を没収していく冷血役人の行為を止めさせ、さらに農民への援助物資を送らせている。大粛清時にも言われなく逮捕された知り合いや、自分の名前を頼って助けを求めてきた地元の人たちに手を差し伸べている。もちろんいくらショーロホフでも無罪にはできなかった。でも少なくとも逮捕されたそれらの人たちの消息を調べて家族に伝えてやったり、裁判をやり直しするように取り計らったり精いっぱいの助力はしたのである。例えばプラトーノフ(『31.言葉の壁』『159.プラトーノフと硬音記号』参照)の15歳の息子が突然行方不明になり消息が全くわからなくなったときも、その子が秘密警察に逮捕されたことを調べだして伝えてやったりしている。
 大粛清の際ライバルに命を狙われたこともある。その時は「ショーロホフを消せ」と命令を受けたその人がショーロホフにチクり、モスクワに逃がしてやった。モスクワで氏はスターリンに直接訴えてライバルのほうを左遷させた。
 それにしてもショーロホフはなぜ昔の仲間でも容赦なく粛清したスターリンに最後まで粛清されなかったのか。これは氏が上手く立ち回ったというより、逆にあまり上手く立ち回ろうとしなかった、できなかったかららしい。一度側近からショーロホフは危ないと耳打ちされた時「あいつは政治については全くの子供で無害だ」と言って話に乗らなかったそうだ。つまりショーロホフは自分の地位を脅かせるような人物ではない、人畜無害と判断されていたのである。中央に出たがらないでド田舎のビョーシキに生涯引っ込んでいることも幸いしたのだろう。
 とはいえ周りの者が次々に消えていき、油断すると自分もいつ何時という恐怖を抱えて生活するのは精神衛生に破壊的作用をもたらすことは容易に想像できる。1930年代に『静かなドン』の挿絵をかきその後アメリカに移住したセルゲイ・コロリコフ Сергей Корольков というイラストレーターも、ショーロホフは大粛清の間に人間が変わってしまったと回想していたそうだ。また自分が正しいと思っている共産主義政府の蛮行(ホロドモール)を目の当たりにしてその無謬性に一抹の疑問も抱く。抱くが当時すでにその体制の中で特権階級として根を下ろしてしまった自分はそういう疑問を全て抑圧するしかない。もちろん人の心の中など外からは絶対わからないが、とにかくショーロホフが1930年ごろからすでに酒浸りになっていたのは事実である。そのアル中ぶりについては守護神スターリンもやや持て余しており、氏が後にノーベル賞を受けたりして外国に出ざるを得なかった際は、アル中とバレないように立ち居振る舞いの監視役をつけていたそうだ。
 さらに作家活動のほうも停滞した。『静かなドン』とそれに平行して書いた『開かれた処女地』で一躍政府公認の国民的作家となったはいいが、その後が全然続いていない。その『静かなドン』ですら15年もかけてやっとのことで仕上げたのだ。仕上げた後もスターリンの顔色をうかがって何回も文章や内容を修正している。大粛清の後の第二次世界大戦・独ソ戦の際は大祖国戦争を題材にして『静かなドン』級、いやトルストイの『戦争と平和』に匹敵するような大小説を書くようスターリンに要求され、書く書くと返事しながらついに果たせなかった。従軍記者として戦場の軍人などの取材もし、ある程度資料はたまったはずだが、「国民的作家」ショーロホフに何かあったらと直接弾の飛び交う戦線には行かせて貰えなかったらしい。でも理由はそれだけだろうか。トルストイだって実際にはナポレオン戦争を経験していない。「なぜショーロホフは書かないのだ。ひょっとして実は書ないのか?」という周りの暗黙の疑問・プレッシャーに本人が気付かないわけがない。それがさらに氏を酒に走らせた。
 どうも徐々にスターリンの寵は衰えだしてはいたようだが、それが決定的にならないうちにスターリンが死んだ(もっともスターリンがさらに長生きしていたらショーロホフは没落したかというとそうも思えない。そのまま国民的作家としての生活は保てたろう)。次のフルシチョフは徹底的に反スターリンだったが、上手く取り入った。いや、「取り入った」というのは正しくない。すでに氏の知名度が高すぎて今更消しにくかった上、氏は基本ノンポリ無害で別に消す必要もなかったと言った方がいいかもしれない。

ビョーシキのショーロホフ宅を訪問したフルシチョフ。フルシチョフの服のダサさが目を射る。
https://тихий-дон.com/news/media/2019/8/30/istoricheskaya-data-hruschyov-v-gostyah-u-sholohova/から
Scholochov-und-chruschtschev
 フルシチョフの下でショーロホフは『人間の運命』(1956)という短編を発表した。同作品は『6.他人の血』でも紹介した日本語の翻訳集に収められている。革命戦争を描いた他の短編と違い独ソ戦が舞台でドイツ軍の捕虜になりあらゆる辛酸を舐めながらソ連に生還した兵士の姿を描いたものだ。自分は生還しても家族はすべて失い(つまり全員ドイツ人に殺され)絶望の淵に立つが、偶然会ったみなし児を引き取って育てることに人生の意義を見いだす。失った息子の代わりに他人の子供に愛情を向けるというパターンが『他人の血』を想起させる。ショービニズムとかわざとらしいというのでは決してないが、私はこの作品が(他の短編と違って)何かの型に従っている、言い換えるとこの作品は何かの意図、文学作品をそのもの以外の目的で書かれたのではないかという印象を受けた。作品の成立事情をみていくとやはり明確な目的があったようだ。
 事の起こりはワシリー・クダーシェフ Василий Кудашев というショーロホフの親しい友人が独ソ戦の初期に志願していってしまったこと。その後部隊が全滅し、クダ―シェフの生死もわからくなっていた。そういう折に従軍記者をしていたショーロフはヤコフ・ジノヴィエヴィッチ・フェリドマン Яков Зиновьевич Фельдман(?)という、ドイツ軍に囚われて脱走してきた一士官の話を耳にした。自分の友人に照らし合わせてその捕虜の話が鮮明に記憶に残ったのである。さらに戦争が終わった後、クダ―シェフの妻が「クダ―シェフは1941年に戦死したのではなく、ドイツ軍に捉えられて強制収容された」という内容の手紙を受け取っていたと聞いた。それ以上の情報は全くなく、クダ―シェフも帰ってこなかった。ショーロホフの脳裏には捕虜を英雄として描いた作品を書こうという望みがよぎったが、その時点ではそれは不可能だったのである。
 スターリン下のソ連では敵の捕虜になった兵士は裏切者の烙印を押され、おめおめとソ連に帰ってきたりすれば収容所行きか銃殺、家族まで「スパイの仲間」の烙印を捺されて様々な嫌がらせを受けたそうだ。「生きて俘虜の辱めを受けず」はソ連の方が徹底している。その裏切り者を英雄視などする作品を書いたら作家まで危ない。
 その流れが変わり、捕虜の名誉回復が行われたのはフルシチョフになってからである。1956年、ジューコフ元帥の要求に従ってスターリン時代に裏切者扱いされていた捕虜を名誉回復するための委員会が設置され、ヒトラーの捕虜収容所生活を勇敢に耐え抜いた捕虜が英雄として扱われることになった。ショーロホフはそれを聞いてすぐに『人間の運命』を書き上げた。スターリンにやいのやいの催促されていた独ソ戦一大ページェントはとうとう仕上げ(られ)なかったのに比べてあまりにも露骨なスピード差だ。しかし、いざそれを発表しようとしたらどこの出版社でも二の足を踏まれた。ジューコフ元帥の委員会があってもまだまだ巷にはスターリン下の雰囲気が一掃できておらず、また『人間の運命』の主人公が捕虜生活で故国の家族に想いを馳せるのはソ連兵士のストーリーとして女々しすぎると思われたらしい。
 そこでショーロホフはフルシチョフに直訴して出版許可を願い出た。その場ではフルシチョフと馬が合ったらしい。双方ツンと上品ぶった「インテリ」が嫌いで、あまり上品ではないギャグや小話を飲み食いしながら楽しむタイプだったそうだ。氏が『人間の運命』の概要を説明しはじめるとフルシチョフは速攻でOKを出し鶴の一声で出版を取り計らってくれた。やはりこの作品には「(自分の個人的な友人も含めた)捕虜の名誉回復」というはっきりした目的があったのだ。その目的が史実を覆い隠してしまったようで、小説でソ連に帰還した主人公は丁重に扱われているのは事実と違う、ドイツ軍の捕虜になったのなら処罰されたはずだ、と出版後に批判も受けた。

 『人間の運命』は1959年にセルゲイ・ボンダルチュクが映画化した。陰影の濃いすばらしい名作だ。原作に忠実だが一カ所原作にはない部分があった。主人公ソコロフ兵士が他のソ連兵と共に捕虜となったとき、「怪我人はいないか」と同胞の間を聞いて回る軍医がいてソコロフも肩が脱臼していたのを直してもらう。捕虜になってまでも仲間の心配をする、これこそ軍医だと感激するのだが、原作ではその軍医のエピソードはそこで終わりだ。その後ドイツ軍が捕虜を整列させて何人かを全く無作為に選び出し、「ユダヤ人だろう」と決めつけて銃殺する場面があるが、映画ではその軍医が殺された中に入っている。これはショーロホフでなくボンダルチュクあるいは脚本ユーリー・ルキンの筆だ。

「怪我をしているのか、同志?」。主人公ソコロフ(左)はやはり捕虜になっていた軍医に肩の脱臼を治してもらう。
AreYouWounded
「ユダヤ人だな?」ドイツ軍の将校は全く無作為にその軍医を選び出す。
AreYouJew
軍医は逍遥として銃殺される。
Erschiessen
 その『人間の運命』を最後に、亡くなるまでショーロホフはまとまった作品を発表していない。スターリンとの約束した戦争小説は晩年に断片は書いて出版社に持ち込んだが拒否された。政治的な配慮ではなくて作品そのものが出版に耐えるレベルに達していなかったらしい。アル中の方も死ぬまで治らなかった。
 ではショーロホフはお上の注文に応じてお望みの作品を全部ゴーストライターに注文して書かせるか他人の文章をコピペするしか能のない三文作家だったのか?そんな作家にうっかりノーベル賞を与えてしまったスウェーデン人はいい面の皮だったのか?インゴルト Felix Philipp Ingold というスイスの作家などはそもそも作家としてのショーロホフは存在しないとまで主張している。あれはソ連政府がプロパガンダのため文才も教養もないそこら辺のアル中労働者(ショーロホフ)に白羽の矢を立て、その人が書いたことにしてクリューコフからブルガーコフから果てはプラトーノフまで、あちこち集めてきた文をつぎはぎして出版させ「プロレタリアートのトルストイ」という存在をでっち上げたのだと。『静かなドン』ばかりではない、それ以前に書いた初期作品まで氏の手によるものではないと。つまり、ショーロホフはマリオネット、体制が作り上げた幻影である。この主張はさすがにそこまで言うかと思うのだが、例えば私の手元にある「肖像画付きロシア作家事典」Russische Autoren in Einzelportraits にはアイトマートフやアナトリー・キムまで載っているのにショーロホフもファジェーエフも名前が出ていない。
 一方でアメリカの歴史学者バック Brian J. Boeck は剽窃行為は指摘しながらも氏の文才は否定していない。私の意見もこちらに近い。全く文才がなかったらあちこちの文章をつぎはぎして1人の主人公をめぐるストーリーとして小説にまとめ上げることさえできないからだ。私にいくらドーピングしたところで100mを10秒で走ることなど永久にできないのと同じだ。スターリン体制下でショーロホフは自分が本来持っていたその才能を十分に開花させることができなかった。上述のように大粛清や戦争中は大半のエネルギーを「生き残ること」、「友人知人を生き残らせること」に費やし創作にエネルギーを回せなかったからだ。またソ連のお囲い作家になってしまった以上プラトーノフのように野に下ることもできなかった。やればできないことはなかったろうが、ショーロホフは体制側につきその地位名声を利用して自分の身の周り、自分の近所の人たちを擁護する道を選んだ。事実ビョーシキ地方の人たちはひっきりなしに氏を頼って押しかけて来たそうだ。
 それにこれも上述のようにショーロホフはスターリンや政府に盲目的に媚びへつらっていただけではない。単純に飼い殺しの運命に身をゆだねていたわけではないのだ。自らの作品路線を貫こうとしたはしたのである。例えば『静かなドン』には敵側のコサックの軍人をポジティブに描きすぎているという批判が起きた。白衛軍の将校を勇敢で道徳的な人物として描くのは何事かと。その時氏は「その勇敢な白衛軍を打ち破った赤軍はそれ以上に勇敢で道徳的だという意味だ」と理屈をこねて承知させた。コサックに対する自分の愛着を貫いたのだ。『人間の運命』については上述の通りである。書けと言われた「一大戦争ロマン」を仕上げられなかったのも、捕虜を勇敢な兵士扱いしないようなストーリーにはできなかったかもしれない。それがやっと名誉回復できた時には自分の才能の方が枯渇していて短編にしかならなかったのだろうか。
 ショーロホフ自身も自分が書けなくなっていることを気に病んではいたようだ。上述のバックは自著のショーロホフの伝記 Stalin’s scribe でこんなエピソードを紹介している:1967年、ソ連の若い作家たちの集会の席でショーロホフが突然「皆さん、私は実際にいい作家なんですよ」と言い出した。ソ連政府に名を守られた国民的大作家としてのショーロホフしか知らない世代の人たちがそんな当たり前のことを言われて面喰いつつも、それを請け合うと氏は言ったそうだ。「いや君らはわかってない。私は『るり色のステップ』Лазоревая степь を本当に自分で書いたんだよ」。『るり色のステップ』は上述の『他人の血』と共に1926年の短編集に収められている作品である。どうしてそこで『静かなドン』でなく『るり色のステップ』を持ち出したのか本当のところはもちろんわからない。その初期の才能を正しい方向に持っていけなかった自分自身への嘆きなのか。
 バックはその箇所で『るり色のステップ』とはいったい何なのかについてわざわざ説明を入れ、手腕よく構成された短編だが「今はもう忘れられている」 Now it was forgotten. (p. 306) と書いている。ちょっと待て、ショーロホフと言えば『静かなドン』でも『開かれた処女地』でもなく、初期の短編が一番好きでいまだに時々読んでいる私をどうしてくれるんだとは思った。

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