アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ダイグロシア

 以前にもちょっと述べたが、ドイツの土着言語はドイツ語だけではない。国レベルの公用語はたしかにドイツ語だけだが、ヨーロッパ地方言語・少数言語憲章(『130.サルタナがやって来た』『37.ソルブ語のV』『50.ヨーロッパ最大の少数言語』参照)に従って正式に少数民族の言語と認められ保護されている言語が4言語ある。つまりドイツでは5言語が正規言語だ。
 言語事情が特に複雑なのはドイツの最北シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州で、フリースラント語(ドイツ語でFriesisch、フリースラント語でFriisk)、低地ドイツ語(ドイツ語でNiederdeutsch、低地ドイツ語でPlattdüütsch)、デンマーク語(ドイツ語でDänisch、デンマーク語でDansk)、そしてもちろんドイツ語が正規言語であるがロマニ語話者も住んでいるから、つまりソルブ語以外の少数言語をすべて同州が網羅しているわけだ。扱いが難しいのはフリースラント語で、それ自体が小言語であるうえ内部での差が激しく、一言語として安易に一括りするには問題があるそうだ。スイスのレト・ロマン語もそんな感じらしいが、有力な「フリースランド標準語」的な方言がない。話されている地域もシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州ばかりでなく、ニーダーザクセン州にも話者がいる。そこでfriesische Sprachen、フリースラント諸語という複数名称が使われることがよくある。大きく分けて北フリースラント語、西フリースラント語、ザターラント語(または東フリースラント語)に区別されるがそのグループ内でもいろいろ差があり、例えば北フリースラント語についてはちょっと昔のことになるが1975年にNils Århammarというまさに北ゲルマン語的な苗字の学者がシュレスヴィヒ・ホルシュタイン州の言語状況の報告をしている。

北フリースラント(諸)語の状況。
Århammar, Nils. 1975. Historisch-soziolinguistische Aspekte der Nordfriesischen Mehrsprachigkeit: p.130から

nordfriesisch

 さて、デンマーク語はドイツの少数民族でただ一つ「本国」のある民族の言語だが、この言語の保護政策はうまくいっているようだ。まず欧州言語憲章の批准国はどういう保護政策を行ったか、その政策がどのような効果を挙げているか定期的に委員会に報告しなければいけない。批准して「はいそれまでよ」としらばっくれることができず、本当になにがしかの保護措置が求められるのだが、ドイツも結構その「なにがしか」をきちんとやっているらしい。例えば前にデンマークとの国境都市フレンスブルクから来た大学生が高校の第二外国語でデンマーク語をやったと言っていた。こちらの高校の第二外国語といえばフランス語やスペイン語などの大言語をやるのが普通だが、当地ではデンマーク語の授業が提供されているわけである。
 さらに欧州言語憲章のずっと以前、1955年にすでにいわゆる独・丁政府間で交わされた「ボン・コペンハーゲン宣言」Bonn-Kopenhagener Erklärungenというステートメントによってドイツ国内にはデンマーク人が、デンマーク国内にはドイツ人がそれぞれ少数民族として存在すること、両政府はそれらの少数民族のアイデンティティを尊重して無理やり多数民族に同化させないこと、という取り決めをしている。シュレスヴィヒのデンマーク人は国籍はドイツのまま安心してデンマーク人としての文化やアイデンティティを保っていけるのだ。
 シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州には第二次大戦後すぐ作られた南シュレスヴィヒ選挙人同盟という政党(ドイツ語でSüdschleswigscher Wählerverband、デンマーク語でSydslesvigsk Vælgerforening、北フリースラント語でSöödschlaswiksche Wäälerferbånd、略称SSW)があるが、この政党も「ボン・コペンハーゲン宣言」によって特権を与えられた。ドイツでは1953年以来政治政党は選挙時に5%以上の票を取らないと州議会にも連邦議会にも入れないという「5パーセント枠」が設けられているのだが、SSWはその制限を免除されて得票率5%以下でも州議会に参入できることになったのである。

SSWの得票率。なるほど5%に届くことはまれなようだ。ウィキペディアから
SSW_Landtagswahlergebnisse.svg

 こうやって少数言語・少数民族政策がある程度成功していることは基本的に歓迎すべき状況なので、まさにこの成功自体に重大な問題点が潜んでいるなどという発想は普通浮かばないが、Elin Fredstedという人がまさにその点をついている。
 独・丁双方から保護されているのはあくまで標準デンマーク語だ。しかしシュレスヴィヒの本当の土着言語は標準語ではなく、南ユトランド語(ドイツ語でSüdjütisch、デンマーク語でSønderjysk)なのである。このことは上述のÅrhammarもはっきり書いていて、氏はこの地(北フリースラント)で話されている言語は、フリースラント語、低地ドイツ語、デンマーク語南ユトランド方言で、その上に二つの標準語、標準ドイツ語と標準デンマークが書き言葉としてかぶさっている、と描写している。書き言葉のない南ユトランド語と標準デンマーク語とのダイグロシア状態だ、と。言い変えれば標準デンマーク語はあくまで「外から来た」言語なのである。この強力な外来言語に押されて本来の民族言語南ユトランド語が消滅の危機に瀕している、とFredstedは2003年の論文で指摘している。この人は南ユトランド語のネイティブ・スピーカーだ。

 南ユトランド語は13世紀から14世紀の中世デンマーク語から発展してきたもので、波動説の定式通り、中央では失われてしまった古い言語要素を保持している部分があるそうだ。あくまで話し言葉であるが、標準デンマーク語と比べてみるといろいろ面白い違いがある。下の表を見てほしい。まず、標準語でstødと呼ばれる特有の声門閉鎖音が入るところが南ユトランド語では現れない(最初の4例)。また l と n が対応している例もある(最後の1例):
Tabelle-132
 もちろん形態素やシンタクスの面でも差があって、南ユトランド語は語形変化の語尾が消失してしまったおかげで、例えば単数・複数の違いが語尾で表せなくなったため、そのかわりに語幹の音調を変化させて示すようになったりしているそうだ。語彙では低地ドイツ語からの借用が多い。長い間接触していたからである。

 中世、12世紀ごろに当地に成立したシュレスヴィヒ公国の書き言葉は最初(当然)ラテン語だったが、1400年ごろから低地ドイツ語(ハンザ同盟のころだ)になり、さらに1600年ごろからは高地ドイツ語を書き言葉として使い始めた。その間も話し言葉のほうは南ユトランド語だった。これに対してデンマーク王国のほうでは標準語化されたデンマーク語が書き言葉であったため、実際に話されていた方言は吸収されて消えて行ってしまったそうだ。『114.沖縄独立シミュレーション』でも述べたように「似た言語がかぶさると吸収・消滅する危険性が高い」というパターンそのものである。シュレスヴィヒ公国ではかぶさった言語が異質であったため、南ユトランド語は話し言葉として残ったのだ。公国北部ではこれが、公国南部では低地ドイツ語が話されていたという。低地ドイツ語がジワジワと南ユトランド語を浸食していってはいたようだが、19世紀まではまあこの状況はあまり変化がなかった。
 1848年から1864年にかけていわゆるデンマーク戦争の結果、シュレスヴィヒはドイツ(プロイセン)領になった。書き言葉が高地ドイツ語に統一されたわけだが、その時点では住民の多数がバイリンガルであった。例えば上のFredsted氏の祖母は1882年生まれで高等教育は受けていない農民だったというが、母語は南ユトランド語で、家庭内ではこれを使い、学校では高地ドイツ語で授業を受けた。さらに話された低地ドイツ語もよく分かったし、標準デンマーク語でも読み書きができたそうだ。
 第一世界大戦の後、1920年に国民投票が行われ住民の意思で北シュレスヴィヒはデンマークに、南シュレスヴィヒはドイツに帰属することになった。その結果北シュレスヴィヒにはドイツ語話者が、南シュレスヴィヒにはデンマーク語話者がそれぞれ少数民族として残ることになったのである。デンマーク系ドイツ人は約5万人(別の調べでは10万人)、ドイツ系デンマーク人は1万5千人から2万人とのことである。

 南シュレスヴィヒがドイツに帰属して間もないころ、1924の時点ではそこの(デンマーク系の)住民の書いたデンマーク語の文書には南ユトランド語やドイツ語の要素が散見されるが1930年以降になるとこれが混じりけのない標準デンマーク語になっている。南ユトランド語や低地ドイツ語はまだ話されてはいたと思われるが、もう優勢言語ではなくなってしまっていたのである。
 これは本国デンマークからの支援のおかげもあるが、社会構造が変わって、もう閉ざされた言語共同体というものが存続しにくくなってしまったのも大きな原因だ。特に第二次大戦後は東欧からドイツ系の住民が本国、例えばフレンスブルクあたりにもどんどん流れ込んできて人口構成そのものが変化した。南ユトランド語も低地ドイツ語もコミュニケーション機能を失い、「話し言葉」として役に立たなくなったのである。現在はシュレスヴィヒ南東部に50人から70人くらいのわずかな南ユトランド語の話者集団がいるに過ぎない。

 デンマークに帰属した北シュレスヴィヒはもともと住民の大半がこの言語を話していたわけだからドイツ側よりは話者がいて、現在およそ10万から15万人が南ユトランド語を話すという。しかし上でもちょっと述べたように、デンマークは特に17世紀ごろからコペンハーゲンの言語を基礎にしている標準デンマーク語を強力に推進、というか強制する言語政策をとっているため南ユトランド語の未来は明るくない。Fredsted氏も学校で「妙な百姓言葉を学校で使うことは認めない。そういう方言を話しているから標準デンマーク語の読み書き能力が発達しないんだ」とまで言い渡されたそうだ。生徒のほうは外では標準デンマーク語だけ使い、南ユトランド語は家でこっそりしゃべるか、もしくはもう後者を放棄して標準語に完全に言語転換するかしか選択肢がない。南ユトランド語に対するこのネガティブな見方は、この地がデンマーク領となるのがコペンハーゲン周りより遅かったのも一因らしい。そういう地域の言語は「ドイツ語その他に汚染された不純物まじりのデンマーク語」とみなされたりするのだという。つまりナショナリストから「お前本当にデンマーク人か?」とつまはじきされるのである。そうやってここ60年か70年の間に南ユトランド語が著しく衰退してしまった。
 かてて加えてドイツ政府までもが「少数言語の保護」と称して標準デンマーク語を支援するからもうどうしようもない。

 が、その南ユトランド語を堂々としゃべっても文句を言われない集団がデンマーク内に存在する。それは皮肉なことに北シュレスヴィヒの少数民族、つまりドイツ系デンマーク人だ。彼らは民族意識は確かにドイツ人だが、第一言語は南ユトランド語である人が相当数いる。少なくともドイツ語・南ユトランド語のバイリンガルである。彼らの書き言葉はドイツ語なので、話し言葉の南ユトランドが吸収される危険性が低い上、少数民族なので南ユトランド語をしゃべっても許される。「デンマーク人ならデンマーク人らしくまともに標準語をしゃべれ」という命令が成り立たないからだ。また、ボン・コペンハーゲン宣言に加えて2000年に欧州言語憲章を批准し2001年から実施しているデンマークはここでもドイツ人を正式な少数民族として認知しているから、「ここはデンマークだ、郷に入っては郷に従ってデンマーク人のようにふるまえ」と押し付けることもできない。ネイティブ・デンマーク人のFredsted氏はこれらドイツ系デンマーク人たちも貴重なデンマーク語方言を保持していってくれるのではないかと希望を持っているらしい。
 惜しむらくはデンマークで少数言語として認められているのがドイツ語の標準語ということである。独・丁で互いに標準語(だけ)を強化しあっているようなのが残念だ。

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 米国ペンシルベニアでドイツ語が話されていることは知られているが、私が今までちょっと見かけた限りではこのペンシルベニア・ドイツ語は英語学あるいはアメリカ学の守備範囲のようで、これを研究しているドイツ語学者というのはあまり見たことがない。ペンシルベニア・ドイツ語はまたペンシルベニア・ダッチ、略してペン・ダッチとも呼ぶが、これをオランダ語とカン違いしている人がいた。Dutchという語はドイツ語という意味のドイツ語Deutschと同じで、昔はオランダもドイツも意味していたのである。むしろ私は英語でオランダ語のことをDutchということの方がそもそもおかしいと思うのだが。彼らにはオランダとドイツの区別もつかなかったのか? ついでにこのDutchあるいはDeutschは、ペン・ダッチではDeitschとなる。

 このペン・ダッチの話者はヨーロッパ人が新大陸に移住を始めたそもそもの最初からアメリカに住んでいた人たちである。例えばベンジャミン・フランクリンも1751年にペンシルベニアにはドイツ人が英国系の人たちとは異質の社会を形作っていると報告している。フィラデルフィア周辺もドイツ語圏だったらしい。当時の首都である。英語話者の側ではこのドイツ人たちは自分たち英語話者らの側について英国にちゃんと反旗を翻してくれるのかそれともヨーロッパの旧勢力側につくのか、今ひとつ疑惑の目で見る向きもあったようだ。
 18世紀の中葉のペンシルベニア南部の人口、20万人から30万人のうちドイツ系は6万人から10万人だったというから相当な割合だ。別の資料では1710年から1775年の間にドイツから新大陸に移住してきた人は約81000人。さらに別の資料によると南北戦争直後のドイツ語話者は60万人いたそうだ。いわゆる「アメリカ文化」とされるものの結構な部分は英国起源でなくドイツの文化だそうだ。

 現在ではペン・ダッチは専らアーミッシュやメノナイト派などの宗教コミュニティで使われており、コミュニティのある地域はペンシルベニアばかりでなく米国の30州以上に及んでいる。カナダにもペン・ダッチのコミュニティがある。資料によってズレがあるが、使用人口は30万人強。私の記憶では昔ハリソン・フォード主演の『刑事ジョン・ブック:目撃者』という映画でケリー・マクギリス演ずるアーミッシュの女性がペン・ダッチらしき言葉をもらしていた。確かHochmut(「高慢」)とか何とかいう単語だったと思うが、これはペン・ダッチでなく標準ドイツ語だ(下記参照)。『目撃者』でもアーミッシュの社会の特殊性あるいは閉鎖性が描かれていたが、実はこの閉ざされた世界ゆえにペン・ダッチは今日にいたるまで生き残ったのである。
 ペン・ダッチが独自言語としての道を歩み始めたのは1750年から1775年にかけてだが、当時の話者は決して特定宗派に限られてはいなかった。どの宗派も、そして世俗的な人たちも皆このドイツ語を話していたのだ。上で述べたドイツからの初期の移住者81000人のうち、宗派関係者は3200人に過ぎなかった。その過半数がアーミッシュとメノナイト派だった。しかし宗派以外の人たちは時間が経過するに連れて元住んでいた農村から都会に出て行ったり、他宗教の人との婚姻が進み、大多数が英語に言語転換してしまった。現在のアーミッシュもバイリンガルで、ペン・ダッチは内輪で使うだけ。それでも子供たちにはペン・ダッチを伝え続けているため第一言語はペン・ダッチだそうだ。

 さてこのペン・ダッチについて私が個人的に面白い、というかおぞましいと思うのは、このペン・ダッチの核となったドイツ語地域、ドイツからアメリカへ最初に移住していった人々の故郷がよりによってモロ私の住んでいる地域だということである。うちはよそ者なので家庭内言語は当然標準ドイツ語だが、家の中で時々ここの方言のまねをして遊んだりおちょくったりすることがある(ごめんなさいね)。町の人たちも外で知らない人としゃべったりする時は、明らかにナマってはいるとはいえまあ標準ドイツ語を使うが、内輪でガチに会話を始めると凄いことになる。凄すぎてドイツのTV局に字幕をつけられたことは以前にも書いた通りだ(『106.字幕の刑』)。これがアメリカで話されている、と聞いて私は一瞬「げっ、ここで聞いているだけで十分恥かしいのにアメリカにまでいって恥を曝さないでくれ」と思ってしまった。ヨソ者の分際で申し訳ない。

 ペン・ダッチにはここラインラント・プファルツ方言の他にも上ラインやスイス、シュヴァーベンや一部ヘッセン州の方言なども混じっているそうだが、うちの周りの方言が中心となっていることには変わりがない。さらにおぞましいことにアメリカ発行の資料にペン・ダッチの起源について次のような記述がある。

... PG (= Pennsylvania German) is most similar to Palatine German. Later work  …  narrowed the dialectal origins even further to the (south)eastern Palatinate (Vorderpfalz in German), especially to dialects spoken in and around the city of Ma**h**m.
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 81から

なんと住んでいる町が名指しされていたのである。これを読んだときの気持ちをどう表現したものか。ネットで自分の名前が曝されているのを見て勘弁してくれと思う、あの感覚だ。とにかくまあこの町で一日乗車券でも買ってのんびり市電に乗り、ずっと乗客の会話を聞いていてみるといい。気分はもうペンシルベニアである。

うちの周りばかりでなく、一部スイスやヘッセンの方言もペン・ダッチには混ざっているが、中心となるのはよりによってモロ私の住んでいる町である。やめてほしい感爆発だ。
Bronner, Simon j. 2017. Pennsylvania Germans.Baltimore : p. 24からpenn_deutsch_bearbeitet

 だが、その「やめてくれよ感」を抱いたのは私だけではないと見える。プファルツからアメリカへ行った最初のドイツ人は大抵農家だったが、それよりやや遅れてやはりドイツからアメリカへ渡った第二波は北ドイツや都市部の人で標準ドイツ語の話者だったが、それらの同胞からもこのペン・ダッチの使い手は「まともなドイツ語をしゃべれ」と揶揄されたそうだ。彼らの方でも自分たちをDeitsche(「ドイツ人」、上記参照)、後続のドイツ人たちをDeitschlennerといって区別した。Deitschlennerは標準ドイツ語でDeutschländer(「ドイツの国の人」)である。ただ、Deitschlennerたちがペン・ダッチを蔑んで呼ぶ「田舎者のドイツ語と英語のまぜこぜ」という言い方は正しくないそうだ。ペン・ダッチは言われるほど英語に侵食されていない。英語からの借用語は10%から15%に過ぎないという。語形変化のパラダイムも保持されている。

 そのペン・ダッチを話すDeitscheも、書き言葉としては大抵標準ドイツ語を使っていたという。一種のダイグロシア状態だったわけである。今日でもアーミッシュの聖書は標準ドイツ語で書いてあるそうだ。
 一方「大抵」というのはつまり例外も少なくないということで、ペン・ダッチで書かれたテキストは結構ある。18世紀に一定のまとまりのある言語として確立した後、19世紀初頭からこの言語は発展期を迎えた。宗派の人も世俗の人もペンシルベニアから全米に広がっていったのはこの時期である。標準ドイツ語からの借用も行なわれた。ペン・ダッチによる文学活動もさかんになった。また、非ペン・ダッチ話者、事実上英語話者だがそれらのアウトサイダー側にもこの言語を研究する人が現れた。ペン・ダッチは独立言語としての歩みを始めたのである。上のおちょくり発言と矛盾するようだが、私はこれには賛成である。せっかくアメリカに行ってまで標準ドイツ語に義理立てする必要などない、独立言語として文章語を確立し、アフリカーンスより新しい一つのゲルマン語が誕生すればそれは素晴らしいことではないだろうか。

 しかし残念ながらそう簡単には行かなかったようだ。19世紀の発展期はまた、宗派と世俗の人たちがはっきりわかれ、両者のコンタクトが薄れていった時期でもあるが、そういう状態になっていたところに20世紀を迎えたが、これが転換期となった。20世紀の初頭に産業化の波が押し寄せたからである。
 仕事を求めて生まれ故郷を出て行くのが普通になり、外部の社会との交流も重要性を増した。小さな社会で安定していることが出来なくなったのである。ここでペン・ダッチ話者の人口構成に大きな変化が起きた。19世紀を通じて宗派の人たちはペン・ダッチ話者のごく一部をなしているに過ぎなかった。1890年現在では北米全体のペン・ダッチ話者は約75万人と推定されるが、それに比べてオハイオ、インディアナ、ペンシルベニアのそれぞれ最大のアーミッシュコミュニティの人口の合計が3700人だったそうだ。しかし世俗社会でのペン・ダッチが、英語社会とのコンタクトが急速に強まったおかげでほぼ消滅してしまった。英語社会との接触を最小限に抑え、通婚も閉ざされた社会内で行い続けた宗派のペン・ダッチだけが生き残ったのである。こんにちでは事実上アーミッシュやメノナイト派コミュニティでのみペン・ダッチが使われていることは上でも書いた通りである。
 1920年から1930年にかけてがターニング・ポイントで、それ以降は世俗社会でのペン・ダッチ話者は次の世代にこの言語を伝えなくなってしまった。つまり彼らの子供たちは英語しか話せなくなってしまったのである。そうして1940年以降はペン・ダッチは世俗社会では会話言語として機能しなくなった。1920年代に生まれた人たちがペン・ダッチを普通に話せる最後の世代となったのである。
 もちろん、その消え行くペン・ダッチを復活させ、次代に伝えようという動きはある。すでに1930年代にペン・ダッチ復興運動が存在したそうだが、今でも言語学者がネイティブを探し出して記述したり、言葉は話せなくてもペンシルベニア・ドイツ人としてのアイデンティティを持った子孫達がいろいろな催しを開催したり、文化の保持に努めている。今でもペン・ダッチを話せるアーミッシュもいる。ペン・ダッチはそう簡単には滅ぶまい。滅ばないでほしい。

 さて、その「書かれたペン・ダッチ」をいくつか見てみたい。上述のBronner氏の本から取ったものだが、音読してみるとまさにうちの町で市電に乗っている気分になれる。M市に住んでいない人のために標準ドイツ語の訳をつけてみた。所々わからなかったので標準語ネイティブに聞いたが、向こうも長い間「ウーン」と唸ったりしていたから解釈し間違っているところがあるかもしれない。

Den Marrige hab ich so iwwer allerhand noch geconsidert un bin so an’s Nausheiere kumme, un do hab ich gedenkt und gedenkt un hab des eefeldich Dinge schiegar nimmi los waerre kenne. Un weil ich’s Volksblatt als lees, un sie als iwwer allerlei Sache gschriwwe, so hab ich gedenkt: du gehscht yuscht so gut emol draa un schreibscht e schtick fer’s volksblatt, grad wege dem aus der Gmeeschaft Nausheiere.

標準ドイツ語
Den Morgen habe ich so über allerhand nachgeconsidert (= nachgedacht) und bin so an das Hinausheiraten gekommen, und da habe ich gedacht und gedacht und habe das einfältige Ding schier gar nie mehr loswerden können. Und weil ich das Volksblatt als (immer, ständig?) lese, und als (immer, ständig?) sie (ihnen?) über allerlei Sache geschrieben (habe), so habe ich gedacht: du gehst just so gut einmal dran und schreibst ein Stück fürs Volksblatt, gerade wegen dem Aus-der-Gemeinschaft-Hinausheiraten.

Consider(イタリック部参照)などの英語の単語が借用され、ドイツ語風に動詞変化していることがわかる。また標準ドイツ語の書き言葉の影響も見られる。太字で示したund がそれで、ほかの部分ではこれがきちんと(?)ペン・ダッチ形のunになっているのにここだけ標準形である。Als という超基本単語の使い方に関してもちょっとわからんちんな部分があったので辞書を引いたら古語として意味が載っていた(下線部)。なお資料ではこれに英語訳がついている。イタリック部は原文どおり、下線は私が引いたものである。

This morning I was reflecting about a number of things, including marrying outside the faith. I was thinking and thinking and just could not get this simple thing out of my head. Since I read the Volksblatt regularly, and have written them [sic] about different topics, I thought: you should just go ahead and write a piece for the Volksblatt about marrying outside of the faith.

もうちょっと他の例を出すと(下が標準ドイツ語):

Konsht du Deitsch shwetza?
Könntest du Deutsch schwätzen (= sprechen)?
ドイツ語を話せるかい?

Dunnerwedder noach a-mole!
Donnerwetter noch einmal!
まったくもう!

Nix kooma rous.
Nichts kommt raus.
どうにもならないぞ

Du dummer aisel!
Du dummer Esel!
このうすのろ!

最後の例のaisel(アイゼル)という言葉が気にかかった。これは標準ドイツ語のEsel(「ロバ」、エーゼル)だろうが、普通音韻対応は逆になるはずなのだ。標準ドイツ語の「アイ」が私の町の辺りでは「エー」になるのである。例えばzwei(ツヴァイ、「2」)を私んちのまわりでは「ツヴェー」、eine(アイネ、「一つの」)を「エーネ」という。そして私の家ではこの発音を真似して遊んでいる。町の人の方でもそれが方言だと心得ているから、「エーと言ってはいけない、アイと発音しないといけない」という意識があって、勢い余ってエーでいいところまでアイと言ってしまったのではないだろうか。つまりある種の過剰修正である(『94.千代の富士とヴェスパシアヌス』参照)。私の単なる妄想かもしれないが。

 最後にすこし話がワープするが、『シェーン』の原作者ジャック・シェーファーJack Schaeferも苗字を見れば歴然としている通りドイツ系である。出生地もオハイオ州のクリーブランドだからドイツ人が多く住んでいたところだ。さらに生まれた年が1907年で、ペン・ダッチを話す最後の世代、1920年代生まれよりずっと前。この人はペン・ダッチが話せたのかもしれない。それとも標準語ドイツ人、Deitschlennerの方に属していて、早々に言語転換してしまった組なのだろうか。
 
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