アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ソ連軍

 「ホームシック」をドイツ語でHeimweh(ハイムヴェー)というが、Heimは英語のhome、wehがsoreness(「痛み」)に当たるので構造的に英語とよく対応している。ところがドイツ語にはさらにこれと対になったFernweh(フェルンヴェー)という言葉がある。Fernは英語のfarだから、これは「郷愁・故郷が恋しい」の反対で、「遠くが恋しい」つまり「どこか遠くの知らない土地に行って見たくてたまらない衝動」という意味だ。

 私はこのFernwehというのは実は人間の本質的な衝動なのではないかと思う。これがなかったら、人類が全員生まれた土地から一歩も出ずにそこで死にたがるメンタリティだったら、いくらやむを得ない事情があったとしても私たちの祖先はアフリカから出て行っていただろうか?生まれ故郷を出て行く理由は「仕事が欲しい」、「エサが欲しい」、「金がほしい」、それだけだろうか?人は本能的に山を見れば越えたくなる、海を見れば渡りたくなるものなのではなかろうか。

 私も子供の頃この気持ちに駆られたことを覚えている。近所のビルの屋上から東京湾の海が見えたので、「海は広いねえ、あの向こうはアメリカなんだねえ」と私にしては珍しくロマンチックなことを言ったら一緒にいた仲間に「馬鹿、東京湾の向こうは千葉県だろ」とあっさり冷たく返され、幼い私のFernwehはグシャグシャになってしまった。
 しかしさすが人類一般に内在する衝動だけあって、千葉県に邪魔されたくらいではなくならない。引き続いて私の心に存在し続け、高校生になった時、第二外国語としてドイツ語をとる気にさせた。当時入学した都立高校には選択科目として第二外国語があったのだ。

 それでも私が初めて実際に外国に行ったのはやっと就職してからで、その「生まれて初めて見たよその土地」はソ連(当時)のハバロフスクだった。いわゆるパック旅行でドイツへ行く途中で燃料補給に立ち寄ったのだ。
 見渡す限り続く地平線といい、土の色、空の広さといい、日本みたいなみみっちい島国では絶対お目にかかれない景色に感動した。飛行場の建物の入り口にカラシニコフを持って立っていたシケたおっさん兵士についクラクラ来そうになった程だ。飛行場のローカルぶりさえポジティブな印象となって残っている。その印象が強すぎて肝心のドイツ旅行の記憶はほとんど残っていない。

 ところで当時まことしやかに流布していた噂がある。

 「アエロフロートソ連航空のパイロットの腕は世界一だ。なぜならここはふだん、ミグだろスホーイだろの戦闘機に乗っているスゴ腕軍人が本職の片手間に旅客機を操縦しているからだ。しかもアエロフロートの旅客機はボロなので取り扱いに細心の注意を払わないとすぐ墜落して命が危ない。これを落とさずに操縦できるのは世界でもソ連のエリート航空兵だけだ。」

 これを「何を馬鹿な」とあながち一笑に付せなかったところが怖い。

 次にモスクワ空港でも途中下車したのだが(せめて「トランジット」と言ってくれ)、そこを警備していた赤軍兵士が誰も彼も紅顔の美青年だったので驚愕した。そう思ったのは私だけではない。その旅行に参加していた同行の女性陣も結構、みな陰でヒソヒソ大騒ぎしていたから。それ以外にも旅行記などで複数の女性が、ソ連、特にモスクワの赤軍兵士はみな若くてハンサム、今の言葉で言えばイケメンだったと証言している。
 そういえば、日本で誰かが「ソ連では国家の威信を示すためモスクワ空港やレーニン廟など外国人の目につきやすい場所には選りすぐった容姿端麗な赤軍兵士を配置した」と教えてくれたことがあるが、本当だろうか? でもそれを言うなら赤の広場で手を振っていた政府の要人の方がよほど外国人の目につきやすい位置にいたと思うのだが。モスクワ空港やレーニン廟にハベらせるために全ソ連からイケメンをかき集めているヒマがあったら、あのレオニード・ブレジネフ書記長のゲジゲジ眉毛をどうにかしたほうがよかったのではないか、とは思った。

 いずれにせよ、ソ連が崩壊してからは兵士の見てくれも崩壊してしまった。まことに遺憾である。


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 若い人はもう覚えていない、と言うよりまだ生まれていないだろうが、むかしソ連からベレンコ中尉という人がミグ25(MiG25)という戦闘機に乗って日本にやってきて、そこからさらにアメリカに亡命申請する、という事件があった。日本中大騒ぎだったが、この事件はよく考えるととても面白い。

 まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
 そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
 次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
 グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
 さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
 
 つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。 

 そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
 ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
 
 ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。

 ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
 ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。

 さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。

 自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。


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警告:この記事には下ネタが含まれています。紳士・淑女の方は読まないで下さい。自己責任で読んでしまってから「下品な記事を書くな!」と苦情を言われても一切受け付けられません。

 ドイツ語にAuslautverhärtungという言葉がある。「語末音硬化」とでも訳せるだろうか。語末で有声子音が対応する無声子音に変化する現象である。例えば「子供」はkindと書き、語末の音は深層では書いてある通り d、有声歯茎閉鎖音なのだが、ここではそれが語末に来ているため対応する有声歯茎閉鎖音、つまり t となり、「キント」と発音される。複数形はKinderといって d が語末に来ないから本来の通り有声になって「キンダー」。
 私は個人的にこのAuslautverhärtungという言葉か嫌いだ。ドイツ語学の外に一歩出ると通じないからである。「硬化」というが無声音のどこが有声音より硬いんだろう。辞書を引くとVerwandlung eines stimmhaften auslautenden Konsonanten in einen stimmlosen(「語末に来る有声子音が無声のものに変化する現象」)と定義してあってさすがに「硬化」などという非科学的な記述よりはきちんと理解できるが、実はこれでもまだ不正確だ。この現象の本質は単にさる有声子音がさる無声子音に変化するのではなく、調音点・調音方法はそのままで有声性だけが変化する、言い換えると本来弁別的区別をもつ [+ voiced] 対 [- voiced] の素性(そせい)の差が語末では機能しなくなる、ということだからだ。で、人にはいちいちNeutralisierung der Stimmhaftigtigkeit im Auslaut(「語末での有声性の中和」)と言え、と訂正してその度にうるさがられている。
 それと同じ理由でロシア語の「硬音」「軟音」という用語も嫌いだ。ロシア語ではこれを使わないとそもそも語学の学習が出来ないから仕方なく使っているが、本来「非口蓋化音」「口蓋化音」というべきだろう。さらにいうと日本語の「清音」「濁音」「半濁音」という言い方も見るたびに背中がゾワゾワする。
 その、ドイツ語でシモの有声音が中和される現象だが、ドイツ人はこれが深く染み付いていて英語のsentとsend、(生放送という意味の)liveとlifeが発音し分けられない人がたくさんいる。それぞれどちらもセント、ライフになってしまい、「センド」「ライヴ」が言えないのだ。
 同じ西ゲルマン語なのに英語にはこのシモの現象がない。調べてみたら北ゲルマン語のスウェーデン語にもない。だからスウェーデン語でland(「国」)はドイツ語のように「ラント」にはならないが、その代わり d がそり舌化して [ɖ] となるとのことで「ランド」ともいえない。実際に発音を聞いてみたらそもそも語末音が全然聞こえなかった。西ゲルマン語で英語とドイツ語の中間にあるオランダ語にはこの現象がある。聞いてみたらlandはきれいに(?)「ラント」であった。さらにスラブ諸語はこの有声音の中和現象が著しく、ロシア語などは半母音さえ中和されて [j] が [ç] となるばかりか、ソナントの [r] まで語末で無声になっているのを耳にする。特に口蓋化の [r] は無声化しやすいのか、царь (ツァーリ、「皇帝」)の「リ」は [rj ̊] になることが多いようだ。
 またドイツ語では反対に無声歯茎摩擦音、具体的に言うと s が語頭や母音間では必ず有声化して z になるため、「相撲」がいえず「ズーモ」、「大阪」が「オザーカー」、「鈴木」に至っては「ズツーキ」になってしまう。頭突きをやるのは鈴木でなくジダンだろう(などと今頃言っても誰ももうあの事件を覚えていないか)。
 
 しかしこの「有声音と対応する無声音の区別が怪しくなる」というのは中国語や韓国語など、大陸アジアの言葉が母語の人にも時々現れる。それらの言葉では有声無声の対立が弁別的機能を持っていないことがあって、かわりに帯気・無気が弁別的に働くからだ。で、うっかりすると「ねえやは十五で嫁に行き」が「ねえやは中古で嫁に行き」となってしまうそうだ。
 でも昔の日本は武士階級ならともかく、庶民では女性にすでに性体験があっても別に嫁に行く際それほどマイナスにはならなかったと何かの本で読んだことがあるから(現に「夜這い」とかいう習慣があったではないか)、中古でも新品でもあまり関係ないのではないだろうか。そもそも日本語は歴史的に見れば本来有声子音(いわゆる濁音)と無声子音(清音)に弁別的差がなかったそうだし。アイヌ語などは現在に至るもこれらを音韻的に区別しないと聞いた。

 それでさらに思い出したことがある。私がドイツに住み始めた頃はうちの住所はまだ西ドイツと言ったが、その頃、まだ東ドイツもソ連も存在していた頃に「ソ連赤軍合唱団」のCDを近くの本屋さんで買ったことがある。ソ連崩壊の直前、当地の経済状態が壊滅状態で、市民を救おうとチャリティ目的のCDだろなんだろが店頭にドッと並んだのである。チャリティでなくてもとにかく一時旧東欧圏の製品がたくさん流れて来た時期があったのだ。
 もっとも以前からソ連赤軍合唱団の歌は好きでよく聴いたものだった。聴いてみてまず気づくのは、ソロ歌手でもその他歌手でも高い声がきれいだという事だ。以来どうして赤軍合唱団は高音部がきれいなのかずっと疑問に思っていたのだが、あるとき次のような話を複数の人から同時に聞いて疑問が氷解した。真偽の程は定かではない:

「ソ連の戦車は西側諸国の装甲の厚い戦車に対し、被弾率を下げ機動力で対抗するために比較的小型軽量に作られてきた。そのため車内の居住性が悪く被弾経始がキツいので狭い車内で不自然な姿勢で操縦することになる。そこで気をつけて大砲を撃たないと反動で後退してきた砲尾が股間を直撃し睾丸を潰してしまう。そういう女性化した戦車兵が続出するため、高音が出やすくなって、結果として赤軍合唱団のファルセットは世界一なのである」

いいではないか。イタリアでは結構最近まで教会コーラスのボーイ・ソプラノを維持するため、早いうちに男性歌手を組織的に去勢していたそうだし、こういう比べ方もナンだが、ブタも去勢してない雄ブタは肉が臭くて食べられないそうだ。私としてはこういうファルセットがもっと聴けるようになるのは大歓迎、ドンドンヘンな姿勢で大砲を撃って遠慮なくツブれて欲しい感じ。去勢すると攻撃性が減るそうだから、ひょっとしたらそういう兵士は戦闘員には向かなくなって強制的に「合唱専門部隊」にまわされるのかもしれない。

 もっともペットを去勢したところホルモンのバランスが崩れたためか手術の直後一時期かえって攻撃性が増した、という話もきいたことがある。するとツブれた赤軍兵もその直後は一時攻撃性が増して狂ったように撃ちまくったりしたのだろうか。もしかするとその超人的な砲撃のおかげでソ連はドイツに勝ったのか?


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 近所の古本屋でイサク・バーベリ Исаак Бабель の翻訳を見つけた。レクラム版でしかも100ページ足らずの薄い本だったから1€だった。タダみたいなものだ。ところがその後何気なくネット検索してみたらまさにそのレクラム版が39€で売られていたので驚いた。繰り返すが100ページ足らずのレクラム版である。これはいくら何でもボり過ぎではないかと思っていたら数日後7€ほどになった。古本と言うのは値段の上がり下がりが激しいようだ。しかし7€でも高すぎてまだ解せない。
 
私はこれを1€で買った。
Reklam-Babel-bearbeitet
 イサク・バーベリは1894年生まれのロシア・ソ連の作家である。オデッサのユダヤ人の家系だ。代表作に『オデッサ物語』Одесские рассказы(ソ連での出版は1931だが、それ以前、1920年代から個々のエピソードは発表されていた)や『騎兵隊』Конармия(1926年)などがあり、ロシア語の読本などにも取り上げられることがあるので私も『騎兵隊』の中の「塩」Сольというエピソードを露・独二か国語対訳で読んだ。コサックや当地の方言、イディッシュ語などが混じる独特のロシア語だ。
 例えば「七日前に(の)」がсемь дён тому назад となっている。дён は「日」день の複数属格のはずだ。(外国人が習う)ロシア語標準語では дней である。ついでにウクライナ語を調べてみたら複数属格はднів だそうだ。
 複数属格と言えば、生物は対格と属格が同形になるが、на жен наших と書いてあった。「我々の妻たちの方を」で、「妻」が対格だが、標準ロシア語だと жён である。標準形じゃないかと思うかもしれないが、この本は学習者用のリーダーなのでアクセントが入れてあり、普通のテキストでは区別しない е と ё が律儀に書き分けてある。だからこれは標準語のように「ジョーン」と発音せず「ジェーン」になるわけで、やはり方言発音だろう。さらに「ロシア」の対格形が Расею と、アーカニエが思い切り文字化されている。ベラルーシ語の影響でも受けたのかもしれない。ロシア語標準語では Россию だ。それから「あなたの」という所有代名詞の単数対格形が ващу とある。標準系では вашу で、形が似ているから最初誤植かと思ったが、  ващу は2度出てくる。これも本当に当地の発音の癖なのかもしれない。
 また「腕に乳飲み子をかかえて」が  с грудным детём на руках。ということは  детём は「子供」の単数造格だ。標準ロシア語では「子供」の単数(主格)は ребёнок、複数のдети と単語そのものが違う。ребёнок には形としてはребята という複数形があるが、意味が異なり「子供たち」にはならない。дети は形としての単数形そのものがほぼ消滅してしまった。「ほぼ」というのは、古語として、あるいはノン・スタンダードな方言形に дитя あるいは  дитё という形が見られないことはないからである。クロアチア語などの南スラブ語では「子供」の単数形はこれが標準で dete または dijete。дитё の複数造格形 дитями という形も登場するが、これは標準ロシア語では детьми となる。
 もう一つ。с вострой шашкой というのがある。「鋭いサーベルで」だが、形容詞「鋭い」の女性形(「サーベル」は女性名詞)造格は標準語では острой である。つまり prothetic v(「語頭音添加の v 」、『33.サインはV』『37.ソルブ語のV』参照)が現れているのだ。トゥルゲーネフにも見られることは前にも書いたが、この вострый(男性主格)という形は大きな辞書には「地域限定形」として載っている。

 『騎兵隊』(だけでなくバーベリの作品はどれもそうなのだが)は言葉だけでなく構成も独特で、一つ一つの章、エピソードは非常に短い。「塩」もたったの5ページだった。上の1ユーロ本に載っていた『騎兵隊』からの抜粋も皆そのくらいの長さ、中には3ページのエピソードもある。その小さなエピソードを緻密に積み重ねて全体が構成されるが、一つ一つのエピソードに直接のつながりがない。だからこそそのいくつかだけを抜粋して翻訳本にまとめられたのだろうが、とにかくストーリーが「展開していく」という感じがしない。変な譬えだが、一時期のピカソやジョルジュ・ブラックが展開していたキュービズムの絵を見るようだ。一見バラバラな一つ一つのモチーフが全体としては一つの絵になっている。
 上の「塩」は革命兵士が闇で塩を売買しようとした女を撃ち殺す話だが、翻訳のほうにはこんなエピソードもある。「ドルグーショフの死」という題である:主人公が戦場で木の脇に座っている味方の兵を見つける。腹に穴が開いて腸が膝の上に流れ出していた。その兵士は「おい同志、オレのためにちょっと弾を一発使ってくれ。敵が来たらどんな慰み者にされるかわかったもんじゃない。ほれ、ここにオレの書類もあるから持ってってくれ。母に手紙を出してオレがどうやって死んだか報せてやってくれ」と頼むが、主人公にはそれができない。断っていこうとすると瀕死の兵士は「卑怯者、逃げるのか」と呻く。するとそこに退却してきた主人公の知り合いのコサック兵が通りかかる。主人公がその兵士を示すと、コサック兵は一言二言彼と言葉を交わし、手渡されたその軍隊手帳をしまい、その口の中に弾丸を放つ。そして主人公に向かって憎々しげに「失せろ、でないと貴様を殺してやる。貴様には仲間に対する同情というものがないのか」と叫ぶ。戦場での「同情」とはこういうものなのだ。暗然とする主人公に一部始終を見ていた兵士が「まあこれでも食いな」といって林檎を差し出す。

 もう一つの代表作『オデッサ物語』は戦場の話ではないがやはり冷厳な現実描写である。『騎兵隊』もそうだが、バーベリの作品では「ユダヤ人であること」、作者のユダヤ人としてのアイデンティティが色濃く反映されている。『オデッサ物語』も当地のユダヤ人社会の様子が描いたものだ。その一話как это делалось в Одессе(「オデッサの出来事」)はベーニャ・クリークというユダヤ人(裏)社会のドンがいかにして「王様」といわれるまでにのし上がったかが描かれている:
 ベーニャはさるマフィア団のボスのところへ行って自分を売り込む。ボスは「入団試験」としてベーニャにタルタコフスキイという人物の店に強盗に入れと命じる。そのタルタコフスキイには「一人半ユダヤ人」というあだ名がついているのだ。人一倍態度がデカく、誰よりも金持ちで、最も背の高いお巡りよりさらに頭二つ分背が高いからである。縦ばかりでなく横にもデカい。ボスの一味は今までに9回「一人半ユダヤ人」の経営する店に押し入ったことがある。その10回目の押し込み強盗を組織しろと言うのだが、これは新入社員(?)にとっては決して易しい課題ではない。
 ベーニャはその任務を遂行して名を上げるが、押し込みの際、決して殺す気はなかったその店の店員を死に至らせる。ベーニャは嘆き悲しむ年その老いた母親の家へ行き、「おばさん、オレが立派な葬式を出してやる。オデッサ中の者が今までに見たこともないような立派な葬式をあげてやるから堪忍しろ」といって自分の裁量で大葬儀をしてやるのである。以来ベーニャは「王様」と呼ばれるようになる。
 押し込み強盗をする方もされる方も結局皆知り合いというパラレル社会ぶりに驚くが、一人半ユダヤ人のタルタコフスキイは9回(今回で10回)強盗された他に身代金目当てで2回ほど誘拐もされ、さらには「埋葬」されたことさえある。感動するのはその埋葬エピソードだ。原語ではこうなっている。

Слободские громилы били тогда евреев на Большой Арнаутской. Тартаковский убежал от них и встретил похоронную процессию с певчими на Софийской. Он спросил:
- Кого это хоронят с певчими?
  Прохожие ответили, что это хоронят Тартаковского. Процессия дошла до Слободского кладбища. Тогда наши вынули из гроба пулемет и начали сыпать по слободским громилам. Но «полтора жида» этого е предвидел. «Полтора жида» испугался до смерти. И какой хозяин не  испугался бы на его места?

その時スロボダの暴徒がポグロムやって大アルナウタ通りのユダヤ人を襲ったんだよ。タルタコフスキイはそいつらから逃げてな、そいでソフィー通りで歌い手を連れた葬式の行列にでくわした。そこで聞いたのさ;
「歌い手まで連れてこりゃ誰の葬式だい」
行列の者たちはタルタコフスキイの葬式だって答えたのさ。で、行列がスロボダの墓地の入口まで来たと。そこでこっちは棺桶から機関銃を引っ張り出してポグロムに来やがったスロボダの奴らめがけて当たり構わずぶっ放し始めたのよ。「一人半ユダヤ人」もこの展開は予想外でな。死ぬほどぶったまげておった。だがまあそこでたまげない商売人なんていないわな。
(訳:人食いアヒルの子)


死ぬほどたまげたのは一人半ユダヤ人ばかりではない。日本人の私も驚いた。この展開は『続・荒野の用心棒』そのものではないか。偶然にしてはあまりにも共通点が多すぎるし、そもそも「棺桶から機関銃」などという展開はそうそう人がやたらと思いつく代物ではない。映画にはさらに別の箇所で酒場女がフランコ・ネロ演ずるジャンゴの棺桶を見とがめて「誰か中に入ってるの?」と聞く場面がある。主人公はそこで「ジャンゴって奴さ」と自分の名前をいうのだが、このシーンも考えようによれば妙にバーベリのこの部分と平行している。すると何か?映画史上超有名なあのシーンはロシア文学から来ているのか?

世界映画史上あまりにも有名なフランコ・ネロの「棺桶砲」。射撃開始の音より人が倒れだすほうが一瞬早めなところがさすがマカロニウエスタン。
 

実は私は以前の記事でこの武器を安直に「ガトリング砲」または「機関銃」と呼んでしまったが、詳しい知り合いの話によるとそれは間違いだそうだ。ここでフランコ・ネロがぶっ放したのは実は機関銃でもガトリング砲でもない。外見から行けばガトリング砲の前段階である(狭義の)ミトライユーズというタイプだが、それなら撃ち手はハンドルを回して撃つはずなのにそういう撃ち方はしていない。しかもヒキガエルの卵のような弾帯がベロベロくっついていてこれもミトライユーズではありえない。ではガトリング砲なのかというとそうでもない。初期のガトリング砲なら外からでも束ねた銃身が複数確認できるはずだからだ。そしてやはり手回しする。では1880年以降に開発された本当の意味の「機関銃」(マキシム砲)なのかというとこれもあり得ない。だったらああいう風に先っちょにいくつもブサイクな穴が開いているわけがない。機関銃ならば引き金を引けばその間自動的に連続して同じ穴から発射するからだ。
 つまりこれはマカロニウエスタン特有の、実際には存在しないファンタジー砲である。
 原作(?)の『オデッサ物語』のほうは描かれている「オデッサのポグロム」が1905年の出来事だから、ここで棺桶から引っ張り出したのは本当に機関銃 пулемет のはずだ。上述のマキシムかそのコピーの PM1905 に違いない。当時ロシアはマキシムは大量に輸入していたし、ライセンスを取ってから相当手間取った後マキシムそのままの PM1905 重機関銃の自国生産に乗り出したのが奇しくもこの1905年である。

 とにかくこういうシーンをロシア文学から持ち込む可能性のある人が当時『続・荒野の用心棒』のスタッフにいたのかどうか気になったので脚本は誰が書いたか改めて確認してみた。私の記憶では監督セルジオ・コルブッチの弟のブルーノの脚本のはずである。『77.マカロニウエスタンとメキシコ革命』にも書いたようにマカロニウエスタン当時のイタリアの映画界には左側通行の人が多かったからセルジオかブルーノ自身がロシア・ソ連文学を読んでいたのかもしれないと思って確かめてみたら、この映画は共同脚本でコルブッチ兄弟の他にもさらに何人もの人たちが携わっている。フランコ・ロセッティ Franco Rossetti、ホセ・グテッレス・マエッソ José Gutiérrez Maesso、ピエロ・ヴィヴァレッリ Piero Vivarelli、フェリナンド・ディ・レオ Fernando Di Leoなどだが、その中で一番怪しかった(?)のがヴィヴァレッリだ。この人は1949年から1990年までイタリア共産党の党員で、その後なぜかキューバ共産党に鞍替えした。『オデッサ物語』は1946年にイタリア語に翻訳されているから共産党員のヴィヴァレッリがこれを読んでいたかもしれない。
 ピエロの弟はロベルト・ヴィヴァレッリ Roberto Vivarelli といい、ファシズム研究で有名な歴史家として各国の大学教授を務めた人である。そのロベルトが2000年になって著した自伝の中にピエロの話も出てくるが、驚いたことにヴィヴァレッリ兄弟は第二次大戦の終わりにはバドリオ側ではなくイタリア社会共和国側、つまりナチの傀儡政権側の兵士として戦っている。兄弟の父がファシストだったのでそういう教育を受けていたそうだ。しかし1943年当時ピエロは16歳、ロベルトは14歳であるから、これを「黒歴史」扱いすることはできまい。ただ、ロベルトはその自伝の中でイタリア社会共和国を正当化するような発言もしているそうで、一部からは歴史修正主義者と見られているそうだ。それまではロベルトは左派の知識人と見られていたのである。
 残念ながら自伝は翻訳が出ていないので(研究書のほうは英語とドイツ語訳がある)、兄のピエロについてさらに詳しい記述があるかどうか自分で調べることができない。上の引用はドイツ語ウィキペデイアからの孫引きである。ピエロがバーベリの作品を読んでいたのかについても証拠がない。だからあくまで推測の枠は出ないが、家族にインテリ(ロベルト)がいること、自身は共産党員であったことなどから推して、ピエロが棺桶から機関銃シーンをロシア文学の『オデッサ物語』から『続・荒野の用心棒』に持ち込んだ可能性はあると思う。誰かイタリア語のできる西洋史専攻の方がいらっしゃるだろうか。ちょっとロベルトの自伝を覗いてみて何かわかったら報せてほしい。La fine di una stagione という原題である。

 さて話をバーベリに戻すが、1939年3月15日、つまり例の大粛清のときに逮捕され、公式には1941年3月17日に亡くなった(ことになっている)。が、本当にこの日に亡くなったのか疑問だ。おそらく銃殺されたと思われるが、どうやって死んだのかも実はわからない。


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 1984年にミハイル・ショーロホフが亡くなったとき日本の新聞でも結構大きく報道されていたのを覚えているが、ノーベル賞をもたらしたその代表作『静かなドン』についてはとにかくいろいろと議論があった。特にその剽窃問題についてである。
 発端の一つとなったのがソ連体制、またショーロホフも含めた体制内作家を蛇蝎のように嫌っていたソルジェニーツインが1974年にニューヨークタイムズに発表した、『静かなドン』の真の作者はフョードル・クリューコフ Фёдор Крюков というコサックであるという主張である。これはソルジェニーツィンが藪から棒に考えついたわけではない。他にもショーロホフの剽窃を疑っている研究者はいた。その1人、歴史家のイリーナ・メドヴェージェヴァ=トマシェフスカヤ Ирина Медведева-Томашевская とはソルジェニーツィンも連絡を取っているが、メドヴェージェヴァ氏はソルジェニーツィンが件の記事を公にする前、1973年に亡くなっている。ソ氏はこれで世界中にセンセーションを起こしショーロホフ、ひいてはソ連の作家同盟の信憑性に大打撃を食らわせるとふんでいたが、ソ連側がそれを徹底的にシカトする作戦にでたので話があまり大きくならず、いわば爆弾は不発に終わった。ただ文学研究者など専門家の間では議論が続き、1977年にノルウェーの Geir Kjetsaa(何と読むのかよくわからないがゲイル・ヒェツォとかいう感じになるらしい)という学者がクリューコフとショーロホフの文章をコンピューター解析にかけて、この二人は文体から言って別人であるという結果を出したりしている。しかし確かに「原作はクリューコフではない」かもしれないが、ショーロホフが他のところからも剽窃していないという証明にはならない。『静かなドン』の元の原稿や資料などは革命戦争や大粛清、また第二次世界単線などで消失してしまい、剽窃にせよ自筆にせよ証明ができないのである。証明はできないが、当時の友人知人などの証言や細々と残る資料などから推してショーロホフが様々な源泉からその文章を持ってきたことは確実だ。
 実は『静かなドン』が発表された1929年当時にすでに剽窃問題が持ち上がっている。ショーロホフはそれ以前にはドン・コサックをテーマとするいくつかの短編しか書いておらず、作家としてまだ発展途上であった。それらの短編のあと中間をすっ飛ばしていきなり『戦争と平和』と比べられる長さの超大作を、年齢もまだ20台初めの若者が書けるものなのだろうかという疑いが浮上したのだ。調査団が組織されて調査にあたったが、そこでは一応『静かなドン』は確かにショーロホフの手によるものという結果がでた。これについてはいくつか考慮しておきたい点がある。まず、当時のソ連の著作権法では作家が別の著者の文章を使ってもそれが当該作家自身の芸術の完全な構成部分として全体構成に寄与していれば剽窃と見なされなかった。『静かなドン』は大量の資料をもとにして書かれた小説だが、多少原本資料と小説の文章が似すぎていても、それがしっかり小説の構成部分になっていれば元の資料の著者がその作家を剽窃で訴えても勝ち目はなかったのである。そういえば、ちょっと連想が飛躍するが山崎豊子も自分の体験よりも資料に頼って作品を書くタイプで、何度か盗作で訴えられている。それではショーロホフはその資料を何処から入手したのか。これは氏が小説を書くために自分から「取材」したのではなく、革命戦争のどさくさで資料の方から偶然によって氏の手に落ちてきたものである。敗走する白衛軍コサックたちが残していったのだ。ショーロホフはその資料を見て、自分がこれを残さなかったらこれらの文章は全く日の目を見ずに霧散してしまう、コサックの姿が誰にも知られず歴史の影に埋もれてしまうという危機感から、それを小説として書き残そうとしたという説もある。
 ショーロホフにコサックに対する特別な思い入れがあったことは事実のようだ。氏は南ロシアのコサック地域居住地にあった(公式発表によれば)クルジンスコエという村に生まれた。父(実は養父)は色々な仕事についたり農業も営んだりして特に裕福ではないにせよ生活苦にあえいでいる層ではなかった。母はコサックの血は引いていたそうだが家庭そのものはコサックには属していない。それでも周りのコサック、というよりその人々も含めて自分の生まれて育った土地というものに非常に愛着を持っていたらしい。後にソ連で立派な「上級国民」、裕福層になってからも他の作家と違ってモスクワには住まず、生涯生まれ故郷のビョーシキ Вёшки に住み続けた。地元の人たちのためにいろいろ貢献もしている。
 『静かなドン』がスターリンの気に入られ、その保護を受け特権を与えられてまあ物質的にはのうのうと暮らしていたので誤解されるが、ショーロホフは決して「スターリンの犬」ではなかった。1932年から33年にかけてショーロホフの地元、現在のウクライナやコーカサス地方で農民の強制集団化により農業が壊滅して百万の単位で人が餓死していったとき、氏は自分のネームバリューを利用してスターリンに直訴し、中央から送られてきて餓死寸前の農民からさらに穀物を没収していく冷血役人の行為を止めさせ、さらに農民への援助物資を送らせている。大粛清時にも言われなく逮捕された知り合いや、自分の名前を頼って助けを求めてきた地元の人たちに手を差し伸べている。もちろんいくらショーロホフでも無罪にはできなかった。でも少なくとも逮捕されたそれらの人たちの消息を調べて家族に伝えてやったり、裁判をやり直しするように取り計らったり精いっぱいの助力はしたのである。例えばプラトーノフ(『31.言葉の壁』『159.プラトーノフと硬音記号』参照)の15歳の息子が突然行方不明になり消息が全くわからなくなったときも、その子が秘密警察に逮捕されたことを調べだして伝えてやったりしている。
 大粛清の際ライバルに命を狙われたこともある。その時は「ショーロホフを消せ」と命令を受けたその人がショーロホフにチクり、モスクワに逃がしてやった。モスクワで氏はスターリンに直接訴えてライバルのほうを左遷させた。
 それにしてもショーロホフはなぜ昔の仲間でも容赦なく粛清したスターリンに最後まで粛清されなかったのか。これは氏が上手く立ち回ったというより、逆にあまり上手く立ち回ろうとしなかった、できなかったかららしい。一度側近からショーロホフは危ないと耳打ちされた時「あいつは政治については全くの子供で無害だ」と言って話に乗らなかったそうだ。つまりショーロホフは自分の地位を脅かせるような人物ではない、人畜無害と判断されていたのである。中央に出たがらないでド田舎のビョーシキに生涯引っ込んでいることも幸いしたのだろう。
 とはいえ周りの者が次々に消えていき、油断すると自分もいつ何時という恐怖を抱えて生活するのは精神衛生に破壊的作用をもたらすことは容易に想像できる。1930年代に『静かなドン』の挿絵をかきその後アメリカに移住したセルゲイ・コロリコフ Сергей Корольков というイラストレーターも、ショーロホフは大粛清の間に人間が変わってしまったと回想していたそうだ。また自分が正しいと思っている共産主義政府の蛮行(ホロドモール)を目の当たりにしてその無謬性に一抹の疑問も抱く。抱くが当時すでにその体制の中で特権階級として根を下ろしてしまった自分はそういう疑問を全て抑圧するしかない。もちろん人の心の中など外からは絶対わからないが、とにかくショーロホフが1930年ごろからすでに酒浸りになっていたのは事実である。そのアル中ぶりについては守護神スターリンもやや持て余しており、氏が後にノーベル賞を受けたりして外国に出ざるを得なかった際は、アル中とバレないように立ち居振る舞いの監視役をつけていたそうだ。
 さらに作家活動のほうも停滞した。『静かなドン』とそれに平行して書いた『開かれた処女地』で一躍政府公認の国民的作家となったはいいが、その後が全然続いていない。その『静かなドン』ですら15年もかけてやっとのことで仕上げたのだ。仕上げた後もスターリンの顔色をうかがって何回も文章や内容を修正している。大粛清の後の第二次世界大戦・独ソ戦の際は大祖国戦争を題材にして『静かなドン』級、いやトルストイの『戦争と平和』に匹敵するような大小説を書くようスターリンに要求され、書く書くと返事しながらついに果たせなかった。従軍記者として戦場の軍人などの取材もし、ある程度資料はたまったはずだが、「国民的作家」ショーロホフに何かあったらと直接弾の飛び交う戦線には行かせて貰えなかったらしい。でも理由はそれだけだろうか。トルストイだって実際にはナポレオン戦争を経験していない。「なぜショーロホフは書かないのだ。ひょっとして実は書ないのか?」という周りの暗黙の疑問・プレッシャーに本人が気付かないわけがない。それがさらに氏を酒に走らせた。
 どうも徐々にスターリンの寵は衰えだしてはいたようだが、それが決定的にならないうちにスターリンが死んだ(もっともスターリンがさらに長生きしていたらショーロホフは没落したかというとそうも思えない。そのまま国民的作家としての生活は保てたろう)。次のフルシチョフは徹底的に反スターリンだったが、上手く取り入った。いや、「取り入った」というのは正しくない。すでに氏の知名度が高すぎて今更消しにくかった上、氏は基本ノンポリ無害で別に消す必要もなかったと言った方がいいかもしれない。

ビョーシキのショーロホフ宅を訪問したフルシチョフ。フルシチョフの服のダサさが目を射る。
https://тихий-дон.com/news/media/2019/8/30/istoricheskaya-data-hruschyov-v-gostyah-u-sholohova/から
Scholochov-und-chruschtschev
 フルシチョフの下でショーロホフは『人間の運命』(1956)という短編を発表した。同作品は『6.他人の血』でも紹介した日本語の翻訳集に収められている。革命戦争を描いた他の短編と違い独ソ戦が舞台でドイツ軍の捕虜になりあらゆる辛酸を舐めながらソ連に生還した兵士の姿を描いたものだ。自分は生還しても家族はすべて失い(つまり全員ドイツ人に殺され)絶望の淵に立つが、偶然会ったみなし児を引き取って育てることに人生の意義を見いだす。失った息子の代わりに他人の子供に愛情を向けるというパターンが『他人の血』を想起させる。ショービニズムとかわざとらしいというのでは決してないが、私はこの作品が(他の短編と違って)何かの型に従っている、言い換えるとこの作品は何かの意図、文学作品をそのもの以外の目的で書かれたのではないかという印象を受けた。作品の成立事情をみていくとやはり明確な目的があったようだ。
 事の起こりはワシリー・クダーシェフ Василий Кудашев というショーロホフの親しい友人が独ソ戦の初期に志願していってしまったこと。その後部隊が全滅し、クダ―シェフの生死もわからくなっていた。そういう折に従軍記者をしていたショーロフはヤコフ・ジノヴィエヴィッチ・フェリドマン Яков Зиновьевич Фельдман(?)という、ドイツ軍に囚われて脱走してきた一士官の話を耳にした。自分の友人に照らし合わせてその捕虜の話が鮮明に記憶に残ったのである。さらに戦争が終わった後、クダ―シェフの妻が「クダ―シェフは1941年に戦死したのではなく、ドイツ軍に捉えられて強制収容された」という内容の手紙を受け取っていたと聞いた。それ以上の情報は全くなく、クダ―シェフも帰ってこなかった。ショーロホフの脳裏には捕虜を英雄として描いた作品を書こうという望みがよぎったが、その時点ではそれは不可能だったのである。
 スターリン下のソ連では敵の捕虜になった兵士は裏切者の烙印を押され、おめおめとソ連に帰ってきたりすれば収容所行きか銃殺、家族まで「スパイの仲間」の烙印を捺されて様々な嫌がらせを受けたそうだ。「生きて俘虜の辱めを受けず」はソ連の方が徹底している。その裏切り者を英雄視などする作品を書いたら作家まで危ない。
 その流れが変わり、捕虜の名誉回復が行われたのはフルシチョフになってからである。1956年、ジューコフ元帥の要求に従ってスターリン時代に裏切者扱いされていた捕虜を名誉回復するための委員会が設置され、ヒトラーの捕虜収容所生活を勇敢に耐え抜いた捕虜が英雄として扱われることになった。ショーロホフはそれを聞いてすぐに『人間の運命』を書き上げた。スターリンにやいのやいの催促されていた独ソ戦一大ページェントはとうとう仕上げ(られ)なかったのに比べてあまりにも露骨なスピード差だ。しかし、いざそれを発表しようとしたらどこの出版社でも二の足を踏まれた。ジューコフ元帥の委員会があってもまだまだ巷にはスターリン下の雰囲気が一掃できておらず、また『人間の運命』の主人公が捕虜生活で故国の家族に想いを馳せるのはソ連兵士のストーリーとして女々しすぎると思われたらしい。
 そこでショーロホフはフルシチョフに直訴して出版許可を願い出た。その場ではフルシチョフと馬が合ったらしい。双方ツンと上品ぶった「インテリ」が嫌いで、あまり上品ではないギャグや小話を飲み食いしながら楽しむタイプだったそうだ。氏が『人間の運命』の概要を説明しはじめるとフルシチョフは速攻でOKを出し鶴の一声で出版を取り計らってくれた。やはりこの作品には「(自分の個人的な友人も含めた)捕虜の名誉回復」というはっきりした目的があったのだ。その目的が史実を覆い隠してしまったようで、小説でソ連に帰還した主人公は丁重に扱われているのは事実と違う、ドイツ軍の捕虜になったのなら処罰されたはずだ、と出版後に批判も受けた。

 『人間の運命』は1959年にセルゲイ・ボンダルチュクが映画化した。陰影の濃いすばらしい名作だ。原作に忠実だが一カ所原作にはない部分があった。主人公ソコロフ兵士が他のソ連兵と共に捕虜となったとき、「怪我人はいないか」と同胞の間を聞いて回る軍医がいてソコロフも肩が脱臼していたのを直してもらう。捕虜になってまでも仲間の心配をする、これこそ軍医だと感激するのだが、原作ではその軍医のエピソードはそこで終わりだ。その後ドイツ軍が捕虜を整列させて何人かを全く無作為に選び出し、「ユダヤ人だろう」と決めつけて銃殺する場面があるが、映画ではその軍医が殺された中に入っている。これはショーロホフでなくボンダルチュクあるいは脚本ユーリー・ルキンの筆だ。

「怪我をしているのか、同志?」。主人公ソコロフ(左)はやはり捕虜になっていた軍医に肩の脱臼を治してもらう。
AreYouWounded
「ユダヤ人だな?」ドイツ軍の将校は全く無作為にその軍医を選び出す。
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軍医は逍遥として銃殺される。
Erschiessen
 その『人間の運命』を最後に、亡くなるまでショーロホフはまとまった作品を発表していない。スターリンとの約束した戦争小説は晩年に断片は書いて出版社に持ち込んだが拒否された。政治的な配慮ではなくて作品そのものが出版に耐えるレベルに達していなかったらしい。アル中の方も死ぬまで治らなかった。
 ではショーロホフはお上の注文に応じてお望みの作品を全部ゴーストライターに注文して書かせるか他人の文章をコピペするしか能のない三文作家だったのか?そんな作家にうっかりノーベル賞を与えてしまったスウェーデン人はいい面の皮だったのか?インゴルト Felix Philipp Ingold というスイスの作家などはそもそも作家としてのショーロホフは存在しないとまで主張している。あれはソ連政府がプロパガンダのため文才も教養もないそこら辺のアル中労働者(ショーロホフ)に白羽の矢を立て、その人が書いたことにしてクリューコフからブルガーコフから果てはプラトーノフまで、あちこち集めてきた文をつぎはぎして出版させ「プロレタリアートのトルストイ」という存在をでっち上げたのだと。『静かなドン』ばかりではない、それ以前に書いた初期作品まで氏の手によるものではないと。つまり、ショーロホフはマリオネット、体制が作り上げた幻影である。この主張はさすがにそこまで言うかと思うのだが、例えば私の手元にある「肖像画付きロシア作家事典」Russische Autoren in Einzelportraits にはアイトマートフやアナトリー・キムまで載っているのにショーロホフもファジェーエフも名前が出ていない。
 一方でアメリカの歴史学者バック Brian J. Boeck は剽窃行為は指摘しながらも氏の文才は否定していない。私の意見もこちらに近い。全く文才がなかったらあちこちの文章をつぎはぎして1人の主人公をめぐるストーリーとして小説にまとめ上げることさえできないからだ。私にいくらドーピングしたところで100mを10秒で走ることなど永久にできないのと同じだ。スターリン体制下でショーロホフは自分が本来持っていたその才能を十分に開花させることができなかった。上述のように大粛清や戦争中は大半のエネルギーを「生き残ること」、「友人知人を生き残らせること」に費やし創作にエネルギーを回せなかったからだ。またソ連のお囲い作家になってしまった以上プラトーノフのように野に下ることもできなかった。やればできないことはなかったろうが、ショーロホフは体制側につきその地位名声を利用して自分の身の周り、自分の近所の人たちを擁護する道を選んだ。事実ビョーシキ地方の人たちはひっきりなしに氏を頼って押しかけて来たそうだ。
 それにこれも上述のようにショーロホフはスターリンや政府に盲目的に媚びへつらっていただけではない。単純に飼い殺しの運命に身をゆだねていたわけではないのだ。自らの作品路線を貫こうとしたはしたのである。例えば『静かなドン』には敵側のコサックの軍人をポジティブに描きすぎているという批判が起きた。白衛軍の将校を勇敢で道徳的な人物として描くのは何事かと。その時氏は「その勇敢な白衛軍を打ち破った赤軍はそれ以上に勇敢で道徳的だという意味だ」と理屈をこねて承知させた。コサックに対する自分の愛着を貫いたのだ。『人間の運命』については上述の通りである。書けと言われた「一大戦争ロマン」を仕上げられなかったのも、捕虜を勇敢な兵士扱いしないようなストーリーにはできなかったかもしれない。それがやっと名誉回復できた時には自分の才能の方が枯渇していて短編にしかならなかったのだろうか。
 ショーロホフ自身も自分が書けなくなっていることを気に病んではいたようだ。上述のバックは自著のショーロホフの伝記 Stalin’s scribe でこんなエピソードを紹介している:1967年、ソ連の若い作家たちの集会の席でショーロホフが突然「皆さん、私は実際にいい作家なんですよ」と言い出した。ソ連政府に名を守られた国民的大作家としてのショーロホフしか知らない世代の人たちがそんな当たり前のことを言われて面喰いつつも、それを請け合うと氏は言ったそうだ。「いや君らはわかってない。私は『るり色のステップ』Лазоревая степь を本当に自分で書いたんだよ」。『るり色のステップ』は上述の『他人の血』と共に1926年の短編集に収められている作品である。どうしてそこで『静かなドン』でなく『るり色のステップ』を持ち出したのか本当のところはもちろんわからない。その初期の才能を正しい方向に持っていけなかった自分自身への嘆きなのか。
 バックはその箇所で『るり色のステップ』とはいったい何なのかについてわざわざ説明を入れ、手腕よく構成された短編だが「今はもう忘れられている」 Now it was forgotten. (p. 306) と書いている。ちょっと待て、ショーロホフと言えば『静かなドン』でも『開かれた処女地』でもなく、初期の短編が一番好きでいまだに時々読んでいる私をどうしてくれるんだとは思った。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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