アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:スペイン語

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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 『13ウォーリアーズ』(The 13th warrior)というアントニオ・バンデラス主演の映画がある。原作はマイケル・クライトンの小説だそうで、10世紀のアラブの旅行家アハマド・イブン・ファドラーンの旅行記とベオウルフをくっ付けた話がベースになっている。一言でいうとアラブの文人が、旅行の途中で謎の戦闘民族に襲われて困っていたノルド人だかスカンジナビア人だかの未開部族の者と会い、彼らの要請でその土地まで出かけて行ってその部族を助けて敵と戦う、という筋なのだが、原作マイケル・クライトン、主演にバンデラスとあと助演にオマー・シャリフ、音楽はジェリー・ゴールドスミスという結構豪華な面子の割には、今ひとつプログラムピクチャーの域を出ていない感じだった。もっとも、映画という映画に全部タルコフスキーとかアラン・レネのような芸術性を発揮されてしまったら、映画一本見るのにもいちいち気合を入れねばならず、それはそれで大変だ。私はこういう、力で(だけ)は勝っているが頭では今ひとつ見劣りのする輩を知性と教養でねじ伏せるタイプの男性主人公(傲慢なのは嫌だが)が好きだし、単純に楽しめた。
 が、一箇所考えさせられてしまったシーンがひとつ。

 遠くアラビアからやってきた主人公はもちろん始めスカンジナビア蛮族の言葉が全く理解できないのだが、一日中彼らといて、彼らの言葉を聴いているうちたちまちその言葉をマスターしてしまい、夜になる頃にはしゃべり出す。蛮族は文人の頭の良さに感心する。
  映画では「一日のうちに」とも取れる描写だったが、これは「その部族の者と出会った地点から、彼らが住んでいる土地に行くまで何日も何日も旅行する間」をシンボル的に表していたのだろう。いずれにせよ、バンデラス演じるアラブの文人はその間受動的に言語を聞いていただけで、一言話してみて通じるかどうか試すとか、どうしてもわからない意味をちょっと聞くとかいうことはしていない。蛮族民はそのアラブ人は全く彼らの言語がわからないと思って好き勝手に彼をからかったところ、突然アラブの文人が彼らの言葉で反論してきたので、大いに驚き、「どうして俺たちの言葉がわかるんだ」と聞く。そこでアラブの文人は「ずっと君達のしゃべるのを聞いていたからね」と涼しい顔で応える。カッコいいぞ、バンデラス!

 確かにバンデラスはカッコいいが、そう簡単に問屋が卸すものだろうか。

 この蛮族の言語を習得する過程の描写自体はうまいと思った。「人間には生得的に言語獲得のメカニズムが脳内に備わっており、幼児は外から入ってくる言語情報、つまり周りで話されている言語を聞いて、それらのインプット情報が質的にも量的にも不完全であるにも関わらず、その言語の文法メカニズムを正確に獲得する。その証拠に幼児はある一定の時期(生後18ヶ月前後だそうだ)になると突然言葉を話し出す。言語獲得が脳神経の発達、つまり身体的な発達と密接に関わっているとしか考えられない」、という「言語の跳躍」がうまく表現されてはいた。監督自身が勉強していたのかスタッフに心理言語学の専門家でもついていたのか、映画製作というのは本当にいろいろな知識がいるものだと感心した。
 問題はこの言語獲得過程は母語についてだということだ。このアラブの文人氏はすでに大人で母語が固定してしまっていたから、彼にとっては蛮族の言葉は少なくとも第二言語、たぶん第三、第四言語以降の言語であったはず。そういう言語が母語と同じ獲得過程をたどるとは思えないのだが。事実、言語学者たちにも「遅くとも思春期までには子供は無意識で自然な母語獲得能力を失う」と言っている人がいる。脳が固まってしまったあとでは「インプットをもとにして言語の内部に備わっているメカニズムを自分で組み立てる」ことはできないのだ。そもそもその「自然な」母語だって組み立てるには、生まれたばかりの新品の脳をフル回転させても何年も何年もかかる。外から入ってくる言語音声を聞いて言語に内在する法則を自ら発見し自分の内部にシステムを構築する、という信じられないほど困難な作業だからだ。言語運用レベルまで勘定に入れれば、思春期以降になっても完全に言語を獲得するまでにはならないだろう。
 母語が固まってから言語をマスターする過程ではその最も肝心な部分、つまり「言語に内在する構造の発見」を自分ですることができないので、人から教えてもらわないといけない、つまりネイティブに説明して貰うか(話せはするがまともな説明は全くできないネイティブなど大勢いるから困るが)、言語学者が身を削るようにして記述した文法書に頼るしかない。ある意味では出来合いを鵜呑みにするわけだから時間は短くて済むだろうが、それでもその言語の内部メカニズムをすべて駆使できるようになるまでどんなに必死にやっても数ヶ月はかかる。いや数ヶ月でマスターできればもう表彰もの、私みたいに頭が悪いと何年いや何十年経っても四六時中文法だろ単語だろを間違える。
 この主人公のように、大人が何日かそばに座って言語音を聞いていただけで知らない言語をマスターするなんてあり得ないと思うのだが。チンパンジーレベルのヨーヘイホー言語だって覚えるの何週間もかかるのではないだろうか。

 前に語学の本の前書きに「外国語は誰にでも覚えられる。程度の差はあっても誰でもマスターできる。その証拠にあなたは日本語ができるだろう。だから他の言葉だってできるようになるのだ。」と書いてあるのを見て強い違和感を持ったことを覚えている。そもそもその「程度の差」というのが大問題で、まったく同じ勉強をし、まったく同じ時間をかけても、できるようになる者とそれこそ物にならない者との差が非常に大きく、これを一くくりにして「誰でも語学はできるようになる」と言い切っていいのかどうか疑問なのだが、この際それは不問にすることにしても、見逃せないのが「あなたは母語ができるだろう、だから外国語だってできるはずだ」というロジックである。これは少し乱暴すぎやしないか。なぜなら母語(私たちにとっては日本語)と外国語では習得・獲得のメカニズムが違うからである。
 その昔源義経だったか誰かが(義仲だったかもしれない)、どこかの合戦の際敵の裏側の断崖から攻め入ろうとすると、崖が急すぎて馬には降りられないと部下から抗議が上がった。すると大将は崖の上から鹿を走り下ろさせ、鹿が全部無事崖を降りきったのを見とどけて「鹿も四つ足、馬も四つ足、よって鹿にできることが馬にできないわけがない」といって作戦を強行した、という話を聞いてなんというアブナイ大将なのだろうと思ったのだが、上のロジックもちょっとこれと似ているような気がする。この合戦では幸い奇襲作戦が成功したからいいようなものの、馬が全部転げ落ちで足を折ったりしていたら、この逸話が「馬鹿」という言葉の語源かとカン違いしていたところだ。(上述の語学発言を「馬鹿な」といっているのではない。念のため)

 理屈から言えばこの映画のストーリーとしては、1.主人公氏は最後まで蛮族の言葉をしゃべらず、ジェスチャーだけ、せいぜい超ブロークンな単語の断片のみによるコミュニケーションを押し通す、2.主人公は蛮族の地にやって来る以前に当該言語の文法を一通りやり終えていた、という設定にする、の二通りしかあり得ないのでは?
 しかし一方、このシーンは映画のターニングポイントとして極めて重要。それまで「奇声をあげて棍棒をぶん回すのが男の価値」だと思っていた単細胞どもが「知は力なり」という事実に目覚める出発点なのだから、そこで主人公が実はすでにこっそり文法をやってズルをしてしまっていたりしたらドッチラケではないか。
 まあ、プロデューサーのほうも、そこまで突っ込んでくるような物好きもいまいと判断したか、バンデラスにずっとジェスチャーばかりやらせておくわけにもいかないと思ったか、そのターニング・ポイントまではラテン語や古ノルド語(実際に映画で使われていたのは現代ノルウェー語のブークモールだそうだ)などが飛び交っていたのにそこからは英語の会話(私が見たのはドイツ語吹き替えだが)でストーリーが進んでいく。ついでに言わせて貰うとバンデラスが最後に妙にまともないわゆる「戦士」になってしまい、結局は棍棒タイプ、剣を持って戦えるタイプの男性像が称賛される形になってしまっているのは残念だ。主人公には最後まで軟弱な学者タイプを貫いてほしかったが、まあそれだと映画になるまい。

 だから私もそういう疑問点には目をつぶることにしたのだが、ただアラブの文人の役をスペイン人のバンデラスがやったのは意味深長だと思った。スペイン語は1492年に解放されるまで600年もの間アラビア語の波を被っていて、単語や言い回しにも地名にもアラビア語起源のものが相当ある。映画『ターミネーター』で使われて以来国際語と化している感の「アスタ・ラ・ビスタ」(Hasta la vista)の「アスタ」ももとは「○○まで」を意味するアラビア語の前置詞hattaだそうだ。つまりこのキャストで製作者は「スペイン人はアラブ人といっしょ」と暗示したかったのか。まさか。
 でもそういえば以前、誰かスペイン語学の学者が、スペイン語をきちんとやるにはアラビア語の知識は不可欠、と言っていたのを覚えている。そんな異次元の言語まで動員しなくてはまともに勉強できないなんてスペイン語学習者も大変だ。それと比べるとドイツ語やロシア語はまだ楽なのではないだろうか。ドイツ語学ならラテン語ができればもうオンの字、ロシア語には古教会スラブ語があれば十分間に合うし、そもそもラテン語も古教会スラブ語も印欧語だから勝手が違って困ることもないだろう。

 ちなみに、映画では「知性の価値」に目覚めた蛮族の頭領が主人公に「音の絵が描けるか?」と聞く場面がある。これは「字が書けるのか?」という意味だ。主人公が砂にすらすらアラビア文字を書いて見せ、発音してやると統領は感心する。つまりこの人も他のノルマン人と同様文盲で無教養なのだが、上で述べたようにバンデラスに自分たちの言葉をしゃべられて周りの者がやったポカーンと口をあけた馬鹿面とはやや趣が違う。さすが統領だけに「知」というものに興味を示しているからだ。私はこの周りがやった顔のほう、「初めて知に遭遇した無教養人の馬鹿面」を見るのが辛かった。実は私も人の話がわからなくてこういう顔をしてしまうことがしょっちゅうだからだ。「私はいま凄い馬鹿面をしているな」と自分でも気づいているのにそういうポカーンとした表情しかやりようがない。完全に自分の鏡を見ているようで身につまされすぎた。


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 セルジオ・レオーネ監督の第二作(『ロード島の要塞』を入れれば第三作目)『夕陽のガンマン』の英語タイトルは For a few Dollars more(あともう少しのドルのために)というが、これは現ロマンス諸語のDVDのタイトルなどでは以下のようになっている。
Tabelle1-N29
カタロニア語以外の言語では実際にこういう名前でDVDが出ていたりウィキペディアに項があったりするが、カタロニア語のはちょっと参考のために他の言語のタイトルを翻訳してみたもので、実際にこういうタイトルでDVDがあるわけではない。カタロニア人はスペイン語バージョンを観賞すればいいらしくカタロニア語への具着替えなどはないと見える。

 さてこうして並べて眺めてみるとロマンス語派の言語が二つグループに分けられることがわかる:英語の more にあたる語がイタリア語、フランス語、ルーマニア語ではそれぞれ più, plus, plu と p- で始まり、スペイン語、ポルトガル語、カタロニア語では m- が頭についている(それぞれ más, mais, més)。つまりいわば m- グループと p- グループに別れているのだ。
 調べてみるとまず più, plus, plu はラテン語の plūs から来ているそうだ。これは形容詞 multus「たくさんの、多くの」の比較級。以下に主格形のみ示す。
Tabelle2-N29
比較級は単数形では性の区別を失い、男・女・中すべて plūs に統一されている。原級と比較級・最上級との形が違いすぎるからこれはいわゆる補充形パラダイムという現象だろうと思って調べてみたらまず原級 multus の印欧祖語形は *ml̥tós(「くずれた」「崩壊した」)(!)と推定されている。動詞の分詞だが、その大元の動詞というのが *mel- とされ、これは「心配する」「遅れる」だそうだ。うーん、印欧語祖語というのはジグムント・フロイトの精神分析と同じくらいスリルがある。イタリック祖語まで下るとだと *moltos(「たくさんの」)になるそうだ。
 対して比較級の plūs はイタリック祖語の推定形 *plēōs(「より多く」)で、印欧語祖語に遡ると*pleh₁-yōs。これは分詞ではなく動詞語幹の *pleh₁- に *-yōs という形がくっついたもので、前者は動詞、後者は意味を強める形態素だそうだ。動詞の *pleh₁- は「満たす」。時代を下りに下ったゲルマン語派、古期英語の feolo あるいは fiolu、ドイツ語の viel、オランダ語の veel(「たくさんの」)など皆同源である。この、p から f への音韻推移、印欧語の無声閉鎖音がゲルマン語派で調音点を同じくする無声摩擦音に移行した過程はグリムの法則あるいは第一次音韻推移と呼ばれ、ドイツ語学習者は必ず覚えさせられる(そしてたいていすぐ忘れる。ごめんなさい)。
 ついでに *pleh₁- はサンスクリットでは pṝ-、サルディニア語で prus で、なんと l が r になっているではないか。これでは「 lと r の区別ができない」といって日本人をあざ笑えない。

 この plūs 形に対してスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語の mais、más、més 等はラテン語の magis が語源。これは形容詞 magnus「大きい」の比較級からさらに派生された副詞だそうだ。まず元の形容詞 magnus だが、次のように変化する。
Tabelle3-N29
こちらのパラダイムは補充形ではないが、比較級だけ別のタイプの語形変化を見せている。原級と最上級が同じパターンの語形変化というのは上の補充形 multus も同じで、原級と multus と最上級 plūrimusは本来別語であるにもかかわらず、変化のタイプだけは同じだ。そしてそこでも比較級 plūs だけが変な(?)変化をしていて、しかもそれがここの比較級 māior と同じパターンなのがわかる。原級 magnus、比較級 māior のイタリック祖語形はそれぞれ *magnos、*magjōs で、それらをさらに印欧祖語にまでさかのぼるとそれぞれ *m̥ǵh₂nós と *méǵh₂yōs。どちらも「大きい」という意味の形容詞 *meǵh₂- からの派生だが比較級の方はさらに *meǵh₂-  +‎ *-yōs に分解できる。後者は上でお馴染みになった程度を強める形態素だ。
 上で述べたラテン語の magis という形はイタリック祖語でも *magis。比較級 *magjōs の短形、ということはやはり印欧祖語の *meǵh₂-  に遡る。この比較級の中性形が副詞的な使われ方をするようになったものだとのことだ。*magis はイタリック祖語の時代にすでにラテン語 plūs と同じく、単数形に性の区別がなかったと見られ、ラテン語では副詞、つまり不変化詞になっていた。これはあくまで私の考えだが、「男性・女性・中性の形の区別がなくなった」というのは要するに単数中性形だけが残って男性女性を吸収し、さらにそれが副詞として固定したという意味ではないだろうか。ちょっと飛び火するが、「形容詞の(短形)中性単数形が副詞化する」という現象は現在のロシア語でも頻繁に見られるのだ。その際アクセントの位置がよく変わるので困るが。たとえば「良い」という意味の形容詞の長形・短形はこんな感じになる。
Tabelle4-N29
アクセントのあるシラブルは太字で示した。中性単数の хорошо は副詞として機能し、Я говорю хорошо по-русски は「私はロシア語をよく話します」つまり「私はロシア語が上手い」(ウソつけ)。上のplūsもある意味ではこの単・中 → 副詞という移行のパターンを踏襲しているとみなしていいのではないだろうか、文法性の差を失ってしまっている、ということはつまり「中性で統一」ということではないだろうか。と思ったのでplūs の表をそんな感じにしておいた。

さてこの、more にあたる単語が p- で始まるか m- で始まるか、言い換えると plūs 系か magis 系かは『17.言語の股裂き』の項でも述べた複数形の形成方法とともにロマンス語派を下位区分する際重要な基準のようだ。plūs 組はイタリア語、フランス語、のほかにロマンシュ語(pli)、サルディニア語(上述。prus または pius)、イタリア語ピエモント方言(pi)など。同リグリア方言の ciù もこれに含まれるという。magis 組はスペイン語、ポルトガル語、カタロニア語以外にはアルマニア語(ma)、ガリシア語(máis)、オクシタン語(mai)。
 フランス語が plūs 組なのにオクシタン語が magis 組だったりするところが面白いとは思うのだが、実はこの区別はあくまでどちらの形が優勢かということで、形自体は p- も m- もどちらも持っている。つまり plūs 組言語には magis 系の単語が存在しないというわけではないらしい。
 例えばルーマニア語だが、映画のタイトルは上のように plūs 系語が使われている。またそこら辺の翻訳機械で Per qualche dollaro in più を訳させるとタイトル通りPentru câțiva dolari în plus と出てくる。しかし more だけ入れると mai mult と magis 系が出る。どっちなんだと思って別の翻訳機械にかけてみたら Pentru câțiva dolari în plus が出たその下に選択肢として Pentru câțiva dolari mai mult が登場する。上述の分類リストにはリーマニア語が magis 組のほうに載っていた。つまりどっちもアリなんじゃん。
 ポルトガル語でも中世 p- 系の chus という語も使われていたそうだ。chus が p- 形と聞くと意外な気がするが、上記のイタリア語リグリア方言 ciù が p- 起源だそうだから chus が実は P形であってもおかしくない。とにかく最終的には m- 形の mais が優勢になったらしい

 「両方ある」という点では厳密に言えばイタリア語、フランス語もそう。フランス語の mais(「けれど」)はこの magis 起源だそうだ。さらにイタリア語でたとえば nessuno ... mai(「誰も…ない」)、non ... mai(「決して…ない」)、mai più(「もう決して…ない」)などの言い回しで使う、否定の意味を強める mai の元もこれ。最後の例では p- 形と m- 形がかち合っている。mai はさらに疑問の意味も強めることができ、come mai non vieti? は「何だって君は来ないんだ?!」。相当機能変化を起こしてはいるが単語自体はあるのだ。フランス語の mais にあたるイタリア語 ma(「けれど」)も当然同源である。

 話がそれるが、イタリア語の più がフランス語で plus になっているのが私にはとても興味深い。ロシア語に同じような音韻現象があるからだ。
 まず、più の p は後続の母音iに引っ張られて口蓋化しているはずだ。この、本来「口蓋化した p」に円唇母音(つまり u)が続くとフランス語では p と u の間に唇音 l が現れる。ロシア語では例えば「買う」の完了体動詞(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)の不定形は купить(ローマ字では kup'it' と表すが、この「'」が「口蓋化した子音」という意味)だが、これの一人称単数未来形は、理屈では купью(kup'ju)になるはずなのに実際の形は куплю(kuplju)と、どこからともなく l が介入する。対応する有声子音 b の場合も同様で、「愛する」という動詞 любить (ljubit')の一人称単数現在形は、なるはずの形 любью(ljub'ju)にならずに люблю(ljublju)という形をとる。

 というわけでロマンス語派のタイトルは plūs と magi のそれこそ決闘が見られて血沸き肉躍るのに比べゲルマン語派はバリエーションがないので退屈だ。
Tabelle5-N29
デンマーク語、アイスランド語は翻訳機にかけた結果だが、同語源なのは一目瞭然。これらは皆 magis  のところでお馴染みになった印欧祖語形 *méǵh₂s の子孫である。

 ついでにスラブ語もみてみよう。
Tabelle6-N29
クロアチア語ではなぜか a few がスッポ抜けているが、とにかくスラブ語派はゲルマン語派より割れ始めた日が浅いのに more に2グループあることが見て取れる。ロシア語、ウクライナ語、つまり東スラブ語派では b(б)で始まるのに対し、その他の南・西スラブ語派言語は皆 v(в)だ。チェコ語、ブルガリア語、マケドニア語のの more、それぞれ navíc、повече、повеќе の頭についている na- や po-(по-)は、元来前置詞、いわばイタリア語などの de あるいは in に相当するから無視していい。本体はそれぞれ víc、вече、веќе、つまり v 組である。
 分離したのが古いため元の語の原形がわかりにくかったロマンス語派と違ってスラブ語派は語源が一目瞭然だ。瞭然過ぎて決闘という感じがしないためややスリルに欠けるが、ロシア語の больше は「大きい」という形容詞 большой の比較級である。主格形だけ見てみよう。
Tabelle7-N29Tabelle7-N29
この「ボリショイ」という言葉はひょっとしたら最も有名なロシア語の一つかもしれないが、非常に厄介なイレギュラー単語である。まず原級の短形が存在せず別語を持ってきて補充形パラダイムを作る。さらに比較級の長形を持つという稀有な存在。普通はもう比較級を分析的なやり方、英語の more beautiful のように形容詞の原級の前に более をつけて表す。さらに最上級の形成に原級形ではなく比較級の長形を使っている、普通は原級である。「普通の」形容詞、「美しい」と比較するとイレギュラーぶりがよくわかる。
Tabelle8-N29
ウクライナ語も同じメカニズム、「大きい」という形容詞の比較級短形を使うという方法を踏襲しているのは明らかだ。
 次に他のスラブ諸語が使っている  v 系語だが、これも先のロマンス語のように語自体はロシア語にも存在する。выше という語で、これは「高い」という形容詞 высокий の比較級だ。
Tabelle9-N29
最上級に2種あるが、二つ目の形は「大きい」の比較級に対応している。これは本来比較級だったのが最上級に昇格したのか、逆にこれも本来最上級だったのに上の「大きい」では比較級に降格されたのかどちらかだろう。南・西スラブ語では「より大きい」でなく「より高い」を more として使っているわけだ。
 せっかくだから両形容詞の語源を調べたら、「大きい」はスラブ祖語再建形が *velьjь(「大きい」)、印欧祖語形 *welh₁- 。「選ぶ」とか「欲する」とかいう意味だそうだ。本当かよ。「高い」はスラブ祖語の「高度」*vysь から。印欧祖語では *h₃ewps- と推定されるそうだ。うーん…
 とにかくロマンス諸語でもゲルマン諸語でもスラブ諸語でも、どの形容詞から引っ張って来たかという点には差があるが、形容詞の比較級形を持ち出してきて「もっと」の表現に当てているという基本戦略は同じだということになる。

 さて、最初に言ったようにこの映画の日本語タイトルは『夕陽のガンマン』で、印欧祖語もラテン語も比較級もへったくれもなくなっているのが残念だ。ジャンルファンはよく単に「ドル2」とも言っている。セルジオ・レオーネがイーストウッドで撮った3つの作品が「ドル三部作」と呼ばれているからで、一作目(邦題『荒野の用心棒』)と二作目(『夕陽のガンマン』)の原題、それぞれ Per un pugno di dollari と Per qualche dollaro in più に「ドル」という言葉が入っているためである。三番目の『続・夕陽のガンマン』Il buono, il brutto, il cattivo は全然違ったタイトルなのだが、勢いで(?)「ドル3」と呼ばれたりしている。

この項続きます

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 前回の続きです。

 more にあたる語がplūs かmagis かという他にもう一点気になることがある。スラブ語にはちょっとお休みをいただいてロマンス語派とゲルマン語派の主なものだけもう一度見てみよう。
Tabelle1-N30
 問題は more の位置だ。ほとんど総ての言語で more にあたる語が dollars の後に来ているのに本国ポルドガル語のみ、more が a few dollars の前に来ている。ちょっとこの点を考えてみたい。なおここでは「本国」と「ブラジル」と分けてはあるが、別にブラジルでは本国形を使わない、あるいはその逆というわけではなく、要は「どちらでもいい」らしい。スペイン語もそうで、本国では南米形を使わないという意味ではない。
 
 まずドイツ語だが、ネイティブスピーカーのインフォーマントを調査してみたところ、mehr (more)や ein paar (a few)が Dollar の前に来ることはできないそうだ。まず基本の

Für ein paar Dollar mehr
for + a few + dollars + more

だが、英語と語順がまったく一致している。ここで mehr (more) を Dollar の前に持ってきた構造

?? Für ein paar mehr Dollar

は、「うーん、受け入れられないなあ。」と少し時間をかけての NG 宣言だったのに対し、

*Für mehr ein paar Dollar

のように mehr (more)を ein paar (a few)のさらに前に出すと「あっ、駄目駄目。それは完全に駄目」と一刀両断にされた。言語学の論文でも使うが、ここの * 印は「駄目駄目絶対駄目」、??は「うーん駄目だな」という意味である。
 ところが英語ではドイツ語では「うーん駄目だな」な構造が許されている。 a few more books あるいは some more books という語順が実際に使われているし、文法書や辞書にも「moreは数量表現とくっ付くことが出来る」とはっきり書いてあるのものがある。 つまり、

For a few dollars more
For a few more dollars

は両方可能らしい。念のため英語ネイティブに何人か聞いてみたら、全員 For a few more dollars はOKだと言った。For a few dollars more のほうがいい、という声が多かったが、一人「For a few more dollars のほうがむしろ自然、For a few dollars more は書き言葉的」と言っていたのがとても興味深い。いずれも

*For more a few dollars

にはきっぱり NG 宣言を下した。ドイツ語の許容度情況とほぼ対応している。

 次にちょっとそこら辺のスペイン語ネイティブを一人つかまえて聞いてみたら、スペイン語でも más(more)は dólares (dollars)の前には出られないそうだ。ドイツ語と全く平行している。

Por unos cuantos dólares más
*Por unos cuantos más dólares
*Por más unos cuantos dólares

Por unos pocos dólares más
*Por unos pocos más dólares
 *Por más unos pocos dólares

*Por unos cuantos más dólares と*Por más unos cuantos dólares の許容度に差があるかどうかは残念ながら聞きそびれてしまった。そのうち機会があったら誰かに聞いてみようと思ってはいる。

 次にいわゆる p- 組のフランス語ではスペイン語と同じく、more が名詞の前、ましてや a few の前には出られない。a few more books がフランス語ではわざわざ語順を変えて

quelques livres de plus
some + books + of + more

と訳してあったし、実際ちょっとフランス人を捉まえて聞いてみたら、

*Pour quelques plus dollars
*Pour plus quelques dollars

の二つはどちらも却下した。
 同じくp-組のイタリア語では più (more) が名詞の前に出られる場合があるようだ。辞書でこういう言い回しをみつけた。

un po' più di libri
a + few + more + of + books

残念ながらネイティブが見つからなかったので Per qualche più dollaro とかなんとか more が dollars の前に出る構造が可能かどうかは未確認である。
 もっともロマンス語を見ると純粋に more にあたる語の位置に加えて前置詞の使い方がポイントになってくるようなので、ちょっと私の質問の仕方が悪かったかもしれない。またネイティブに聞いたといっても偶然そこに居合わせた人に(しかも一人だけ)よもやま話で持ちかけただけなのでとても「調査」などと言えるようなシロモノではない。いつか詳しく知りたいものだ。

 それでもここまでの結果を見てみると問題は実は「more にあたる語が dollars の前に出られるか否か」というよりむしろ「more (にあたる語)が a few (にあたる語)の前に出られるか否か」であることがわかる。言い換えると more (にあたる語。面倒くさいので以下単に括弧にいれて「more」と呼びます )は数量表現の前には出られないのである。シンタクス的には 「more」は数量表現を支配していると解釈できるから、支配要素が非支配要素の数量表現の後に来ていることになる。「支配・非支配」というのはちょっと専門的な用語になるが、いわゆる修飾語は被修飾語に支配されている関係と思っていい。a cute duck という句なら修飾語の cute は非修飾語の duck に支配されている。ついでに a は限定辞 deterniner として cute duck を支配する。
 とにかく「more 」は数量表演を支配するが、その際何を持って数量表現ととするかという点に言語による違いがあるらしい。通貨単位を含めた「a few dollars 」全体を数量表現と見なす、見なせるというのは全言語共通だが、英語はそこからさらに a few を切り離してこれを単独で数量表現とみなせるということだ。ドイツ語も実はそうなのだろう。上で述べたように Für ein paar mehr Dollar の否定に時間がかかったのはそのせいだと思う。その a few more dollars という構造だが、ここでは more は数量表現を支配する一方、後続の普通名詞 dollars  に支配されている、more が dollars  を修飾していることがわかる。違いを図で書くとこんな感じになりそうだ。

for [ [a few dollars] more] N
for [ [ [a few] more]N1 dollars]N2

つまりmore はある意味名詞なわけで、a few more dollars では名詞が別の名詞を修飾している状態、日本語の「母さんアヒル」と同じ構造だ。悔しいことに辞書を見たら more の項にしっかり「名詞」と載っていた。なぜ悔しいのかと言うと「わーい more って名詞じゃん!」というのは私が自分で発見した新事実だと思っていたからである。ちぇっ、もう皆知っていたのか…

 しかし実は「支配する要素は支配される要素の後ろに来なければいけない」という必然性はない。例えばフランス語では形容詞(支配される要素)が名詞(支配する要素)の後ろに来る。「more」が「a few」の前に出られないのか前者が後者をシンタクス上支配しているから、という理屈は成り立たないのである。では「more」はなぜ「a few」の前にでられないのか。私が(ない頭を必死にひねって)考えつく理由はたった一つ。「more」が数量表現の前に来ると「more than」(ドイツ語では mehr als)と紛らわしくなって意味が変わってしまう危険性が高すぎるからではないかなということだ。For more a few dollars あるいは Für mehr ein paar Dollar とやったら For more than a few dollars(Für mehr als ein paar Dollar)かと思われ、しかも more や als が欠けているから意味が違う上に文法的にも間違いということになり、意図した意味と乖離しすぎる。
 そういえばドイツ語には Für ein paar Dollar mehr の他にもう一つ「あともう少しのドルのために」を表す方法がある。副詞の noch を使うやり方だ。これは英語でいえば still とか in addition 、つまり「その上さらに」という副詞だが、als とツルんで「~以上」という意味になったり、他の句を支配したりなどと言う器用なことはできない。混同される虞が全くないので名詞句の前に立てる。

Für noch ein paar Dollar

しかし名詞を支配できないから数量表現と名詞の間に割って入って橋渡しすることができない。

* Für ein paar noch Dollar

またこれが文末、あるいは句の最後尾に来ると何かが大幅に省略されている感じで、そもそも意味が取れないそうだ。

* Für ein paar Dollar noch

では Für noch ein paar Dollar とFür ein paar Dollar mehr は完全に同じ機能かというと「含意が違う。後者の方が言外の意味が広い」そうだ。まず前者だが、含意としては当該人物が例えばすでに100ドル持っている、あるいは賞金稼ぎで100ドルのお尋ね者をゲットした。しかしさらに金が欲しいから働く。その「さらに」は5ドルかもしれないし、110ドルかもしれない。要は元金(?)100にいくらか上乗せされればいいのだ。これが基本の意味で、後者もその意味で解釈していい。しかし後者ではもう一つの意味解釈ができる。前回100ドルの懸賞金を得た当該人物がさらに今度は100ドル以上の賞金のついたお尋ね者を狙う、つまり懸賞金のグレードアップというニュアンスの解釈が可能だそうだ。「これは明らかにレオーネの前作 Per un pugno di dollari (「一握りのドルのために」、邦題『荒野の用心棒』)への暗示だ。」いやネイティブというのは言うことが細かい細かい。

 さて、ではその間違えやすい For more than a few dollars の方は上にあげた言語ではどういうのか、自動翻訳するとこうなった。これを思いついたときは周りにネイティブがいなかったので仕方なくディープ L 先生に頼ってしまったのである。「本国」と「南米」の区別は出来なかったのでスペイン語とポルトガル語の単なるバリエーションということにした。
Tabelle2-N30
 さて、ポルトガル語には mais(more)が数量表現の前に来ても「more than と誤解されない何か」があるのだろうか。他のロマンス語と何か決定的に違う点はあるのだろうか。For more than a few dollarsの意味ではポルトガル語では英語でもドイツ語でもスペイン語でも「駄目駄目絶対に駄目」の語順、「more」が「a few」の前に出るという下のようなウルトラCが可能だ(下記太字)。もちろん他の言語でもそういう語順が「まあなんとか許される」ことがあるのかも知れないが、少なくともこの語順がDVDのタイトルになっているのは本国ポルトガル語だけだ。

Por uns dólares a mais
Por mais alguns dólares
(Por alguns mais dólares が可能かどうかは未調査)

上の表をざっと見るとたった一つ思いつくことがある。他のロマンス諸語と違ってポルトガル語には「more than」の「than」を1語でなく do que と2語で表す方法があるということだ。1語しかないとわざと抜かしたのか聞きそびれたのかわからない、つまり more than なのか単なる more なのか紛らわしいが、さすがに2語抜けるとわざとであることが明確、つまり単なる more であることがはっきりするからOKとか。でも一方ポルトガル語にはスペイン語と全く閉口する形、Por mais de alguns dólares という「more」を1語で表す形もあるではないか。そのオトシマエはどうつけたらいいのだろう。無理やり解釈すれば、たとえ mais de という短い形があっても mais do que という存在が背後にあるので「than」をつけないのは意図的と解釈されやすく、短い de のほうを消してもわざとなのかうっかりなのかが混同されにくいとか。しかしそりゃあまりにも禅問答化しすぎなので、方向を変えて mais do que と mais de のどちらが古い形なのかちょっと考えてみた。
 まず、イタリア語の di、フランス語、ポルトガル語、スペイン語の de は同語源、皆ラテン語の前置詞 dē(of, from)から来たものだ。ポルトガル語の do の方はしかしもともとは2語、de  + o で、後者は the である。つまりこの語はポルトガル語内で発生した比較的新しい語だということだ。だから他のロマンス語と並行するポルトガル語形 Por mais de alguns dólares は古い形、やや廃れつつある形なのではないだろうか。もう一つ、スペイン語にもポルトガル語にも「than」に que を使う構造がある。この que はラテン語の quid(that, what)だが、スペイン語の por más que unos pocos dólares が文句なく For more than a few dollars であるのに対し、ポルトガル語の Por mais que alguns dólares は文句大ありの形である。なぜスペイン語に文句がないのかと言うと、この形を英語やドイツ語、果てはフランス語などの逆翻訳すると例外なく For more than a few dollars にあたる形が出て来るからだ。一方ポルトガル語の方は逆翻訳すると英語でもドイツ語でも意味が違って出てくる。どうもこの que だけ使うポルトガル語表現はマージナルなのではないだろうか。これらを要するに、ポルトガル語では「than」に2語使う Por mais do que alguns dólares がメインであるために「more than」と「more」の区別がつきやすく、mais がalguns dólares(a few dollars)の前に出て For a few dollars more の意味を担うことを許したのではないだろうか。
 でもなぜいくら条件が許したからと言って mais は大人しく最後尾に引っこんでいないで前にしゃしゃり出る気になったのか。別に誰も「おい、mais、前に出ろ」とは言っていないのだ。これもわからないのだが、たった一つ私に考えつくのは上でもチョロッと述べたようにロマンス語は本来支配要素が非支配要素の前に立つのが基本だということだ。最後尾に甘んじてはいても実はスペイン語の más もイタリア語の più も以前から前に出たくて出たくてしかたなかったのかもしれない。そうやっていたところポルドガル語で条件が整ったのでヒャッホーとばかり名詞句の前に出たとか。
 もしそうだとするとそのポルトガル語ヒャッホー形は新しい「more than」表現 mais do que よりさらに下った時代のイノベーションということになるが、この記事の冒頭や前回述べたように Por uns dólares a mais がブラジルポルトガル語、Por mais alguns dólares が本国ポルトガル語とされていることが実に興味深い。言語学には波動説というものがあり、「周辺部の形は当該言語の古形を表す」という現象が知られているからだ。例えばいつかオランダ語のネイティブが言っていたが、アフリカーンス語(『89.白いアフリカ人』参照)はとても古風なオランダ語に見えるそうだ。アフリカーンスはいわばオランダ語の周辺バリエーションだから古い形を保持している。この図式をポルトガル語に当てはめるとブラジル・ポルトガル語は「より古い形が残っている」ことになり、Por mais alguns dólares はポルトガル語の比較的新しいイノベーションという見方にマッチする。

 以上が私の考えだが、繰り返すようにこれは超テキトー&穴だらけなネイティブ「調査」に端を発し、あげくはディープL先生のおっしゃったことを鵜呑みにして無理やり出した結論だから、アサッテの方角にトンチンカン砲を放っている虞大ありだ。何か知っている方がいらっしゃったら教えていただけるとありがたい。

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 「二重否定」または「多重否定」という言葉を語学の授業ではよく聞くが、私は今までこの「多重否定」というのをちょっと広すぎる意味でボーっと理解していた。 

 否定の言葉をセンテンス内で2度使うという同じ構造がまったく反対の機能をもつようになることがある。一つは否定が否定されて結局肯定の意味になるもの。日本語の「ないものはない」が「すべてある」、「なくはない」が「ある」の意味になるのがこの例だ。マイナスにマイナスをかけるとプラスになるようなもの。ドイツ語だと、

Er ist nicht untalentiert.
He + is + not + untalented
→ 彼は才能がなくない = 彼は才能がある

オランダ語にも例があって、

Jan heeft niet niemand gebeld
Jan + has + not + nobody + called
→  ‘Jan didn’t call nobody’ = ‘Jan called somebody’


しかしこれとは反対に否定を重ねてもやっぱり否定の意味になるものがある。いやそれどころか重ねることで否定がパワーアップされることさえある。有名なのがロシア語で、否定詞を重ねるのが義務で、うっかり一方を忘れると「ちゃんと最後まで否定しろ!」と怒られる。 例えば

Я не пойду никуда.

という文ではне が英語のnot、никуда がnowhereだから直訳するとI don’t go nowhere。でもこれは「行かないところはない」という肯定的意味ではなくて「私はどこにも行かない」だ。同様に

Я не знаю никаких лингвистов.

も、直訳するとI don’t know no linguistsで、少ししつこい感じだが、ロシア語ではこれは正規の否定形だ。「私には言語学者の知り合いがいない」。
 私はいままでこういうのも「二重否定」と呼んでいたのだが、こちらの方はnegative concord(「否定の呼応」)と呼んで「二重否定」とは区別しないといけないそうだ。でもまあ、研究者にもdouble negativeに否定の呼応を含める人も「いないことはない」から、私だけが特にいい加減な理解をしていたわけでもないらしい。
 ロシア語以外のスラブ諸語でも否定形は基本的にこの呼応タイプが標準だそうだ。例を挙げると:

チェコ語
Milan nikomu nevolá
Milan + nobody + not-calls
→ ミランは誰にも電話しない。(ne と ni が否定の形態素)

ポーランド語
Janek nie pomaga nikomu Polish
Janek + not +  helps + nobody
→ ヤネクは誰のことも助けない。(nie と ni が否定の形態素)

セルビア語・クロアチア語
Milan ne vidi nista.
Milan + not + see + nothing
→ ミランには何も見えない。
(ne と ni が否定の形態素)

 英語では基本的には否定が重なると肯定、つまり「ないものはない」タイプの二重否定だが、実際には否定の呼応も使われている。日常会話では次のような言い回しも使われるそうだ。
 
I don't feel nothin’.  → 私は何も感じない。
We don't need no water.  → 私たちには水は要らない。
I can't get no sleep.  → 私は眠れない。

ATTIKA7とかいうメタルバンドのアルバムBlood of My Enemiesに収められているCrackermanというソングにも

I don’t need no reason. → 俺には分別などいらない。

という歌詞が見つかる。

なお、古期英語や中期英語では否定の呼応が普通に使われていたそうだ。
 
 同様にしてドイツ語でも作家が時々否定の呼応を使っている例がある。クリスティアン・モルゲンシュテルンの『3羽のすずめ』という詩に、

So warm wie der Hans hat's niemand nicht.
so + warm + like/as + that Hans + has it + nobody + not
→ ハンスほど暖かい者は誰もいない 


という例がある。なおここの「暖かい」というのは心が温かいということではなくて、体が暖かだという意味だ。3羽の真ん中にいるハンスという名前のすずめは冷たい風に当たらないから一番暖かいと言っているに過ぎない。
 さらに中高ドイツ語で書かれたハルトマン・フォン・アウエの『エーレク』88行目が次のような文である。

ir ensît niht wîse liute,
you + not-are + not + wise/clever + people
→ そなたは賢き人にあらず。(en と niht が否定の形態素)


方言や日常生活では否定の呼応がゴロゴロ現れる。例えば低地ドイツ語で、

Dat will ick för keen Geld nich.
that + will + I + for + no + money + not
→ お金を貰ってもそれはやらない

私もドイツ人が

Du hast keine Ahnung von Nichts.
you + have + no + idea + of + nothing
→ 君は全く何もわかっていない。


とかいう言い回しを使っているのを聞いたことがある。でも一方でこの言い方を「受け入れがたいドイツ語」と拒否するドイツ人もいるから、言葉には揺れがあるのがわかる。
 
 ラテン語では二重否定は「肯定を強める」そうで、non nescire(not + no-know)は「とてもよく知っている」という意味だ。だがその子孫のロマンス諸語ではちゃっかり「否定の呼応」が現れる。現れるは現れるが、シンタクスの構造によっては否定が呼応してはいけない場合があるそうだ。* がついているのは非文である。

イタリア語
Non ha telefonato nessuno.
not +  has + called + nobody
→ 誰も電話して来なかった。


* Nessuno non ha telefonato. (この場合にはnonをとらないといけない)

スペイン語
No vino nadie.
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


* Nadie no vino.  (noをとる)

ポルトガル語
Não veio ninguém.
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


* Ninguém não veio. (nãoをとる)

ルーマニア語だと

Nu suna nimeni
not + calls + nobody
→ 誰も電話しない


という形がOKなのは上の伊・西・葡語と同様だが、さらにそこではボツを食らった構造

Nimeni nu suna

が許されるそうだ。ルーマニア語ネイティブの確認を取ったからその通りなのだろう。伊・西・葡語と違ってここでnu (not) をとらなくてもいいのだ。

 カタロニア語とフランス語は普通の一重否定でもすでに ne と pas の二つの語で挟むから、話がややこしくなるが、否定が呼応することがあるのがわかる。カタロニア語の pas はオプション。

カタロニア語
No functiona (pas) res
not + works + (not) + nothing
→ 何も機能しない。

フランス語
Jean ne dit rien à personne
Jean + not + says + nothing + to + anybody
→ ジャンは誰にも何も言わない。


ギリシア語では古典でも現代でも「否定詞が重複して用いられた場合、相殺して肯定の意味になる時と、これと反対にむしろ否定の意味が強められる場合とがある」とのことだ。両刀使いだ。

否定+否定=肯定 (古典ギリシア語)
ουδείς ουκ επασχε τι
nobody + not +  was suffering + something
→ 何か(ひどい目に)遭わない人は一人もいなかった。
→ 全員何かしらひどい目に遭っていた。


否定の呼応 (古典ギリシア語)
μή θορυβήση μηδείς
do not let +  raise an uproar + nobody/nothing
→ 誰にも騒ぎを起こさせるな


否定の呼応 (現代ギリシア語)
δεν ήρθε κανένας
not + came + nobody
→ 誰も来なかった。


 現代ギリシア語も上のルーマニア語と同様 nobody (κανένας)が文頭に来ても not (δεν)はそのまま居残っていい。伊・西・葡語と違う点だ。 

κανένας δεν ήρθε
→ 誰も来なかった。

前にも一度述べたように、ルーマニア語は現代ギリシア語、ブルガリア語(およびマケドニア語)、アルバニア語と言語構造に顕著な類似性を示し、「バルカン現象」と呼ばれているが(『18.バルカン言語連合』の項参照)、これもひょっとしたらその一環かもしれない。

 否定の呼応が結構いろいろな言語に見られるのにも驚いたが、それよりびっくりしたのが、このテーマを扱っている論文の多さだ。何気なく検索してみたら出るわ出るわ、何千も論文があるし、否定の呼応について丸々一冊本を出している人、博士論文を書いている人、つまりこれをライフワークにしている言語学者がウジャウジャいる。しかもその際ハードコアな論理学・生成文法系のアプローチがガンガン出てきて難しくて難しくてとても私なんぞの手に負える代物ではない。せっかくだからそのうちの一つ、古教会スラブ語から現代チェコ語に至る否定の呼応状況を調査した論文を一本紹介するが、私は読んでいない。たらい回しのようで申し訳ない。
Dočekal, Mojmír. 2009. "Negative Concord: from Old Church Slavonic to Contemporary Czech". In: Wiener Slawistischer Almanach Linguistische Reihe Sonderband 74: 29-41


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 しばらく前に何かのドキュメンタリー番組でドイツのお巡りさんが一人紹介されていた。このお巡りさんは子供の頃両親に連れられてペルーから移住してきたので、ドイツ語とスペイン語のバイリンガルだそうだ。
 ある晩、同僚と二人組みでフランクフルトの中央駅周辺をパトロールしていたら、不案内そうな外国人が(たどたどしい)ドイツ語で道を尋ねて来た。そのお巡りさんは即座にそのドイツ語がスペイン語訛であることを見抜いてすぐスペイン語に切り替え、

「お客さん(違)、ひょっとしてスペイン語話すんじゃないですか?」

突然ドイツのお巡りさんから母語でそう話しかけられた時のその外国人の嬉しそうな顔といったら!
 その後の会話はスペイン語だったのでTVではドイツ語字幕が入った。

「そそそ、そうですよ。お巡りさん、スペイン語話すんですか?」
「話すも何も、母語ですよ。私はもともとペルーの出でね。そちらは?」
「えーっ、ラテンアメリカなの?! 私エクアドルですよー」
「えーっ、じゃあ、隣りじゃないですか」

ここで二人はポンポン肩を叩き合う。

「すごいなあ、ペルーから来てドイツ人になって公職に付く事なんて出来るんですか。」
「んなものは、出来ますよ、普通にやってれば。ところでここら辺は危ないし、道違うから早くあっちに行った方がいいですよ。」

その外国人が後ろを振り返り振り返り向こうに行ってしまうと、お巡りさんは隣の同僚と普通にドイツ語で話始めた。スペイン出身だとか親がスペイン人だからドイツ語とのバイリンガル、という人は時々見かけるが、ペルーからの移民というのはたしかにちょっと珍しい。

 そういえば、姉が中国現代文学の翻訳をしているのだが、その姉が以前送ってくれた雑誌に載っていた中国の短編の一つがこういう話だった: 中国吉林省出身の若者、つまり朝鮮民族の中国人が韓国に出稼ぎに来て休日に「とても気さくで親切な」老人と会い、話がはずんだ。老人の韓国語にどうも訛があるな、と思ったら韓国に住んでいる日本人だった。老人の方も老人の方で、この人の韓国語はどうも韓国の韓国人と違うな、と思っていたら中国出身だった。

 こういうちょっとした話が私は好きだ。

 ところで、「バイリンガル」という言葉をやたらと安直に使う人がいるが、実は何をもってバイリンガルと定義するか、というのは結構むずかしいのだ。「母語が二つある人」、つまり両方の言語を言語獲得年齢期にものにした人、と把握されることが多いが、大抵どちらかの言語が優勢で、完全にバランスの取れたバイリンガルというのはむしろ稀だ。たとえ子供のころにある言語を第一言語として獲得してもその後失ってしまった場合、その人はバイリンガルなのかモノリンガルなのか。いずれにせよ、単に「二言語話せる」程度の人などとてもバイリンガルではない。「俺は学校で英語を習ってしゃべれるからバイリンガル」と言っていた人がいるが、どんなにペラペラでも母語が固まってから学校などで習った言語は母語ではないからこの人は立派なモノリンガルなのではないか。
 私は簡単に「バイリンガル」という言葉を使われると強烈な違和感を感じるのだが、これは私だけの感覚ではない。知り合いにも生涯の半分(以上)を外国で過ごし、日常生活をすべて非日本語で送り、お子さんたちとも母語が違う人が結構いるが、その方たちも口を揃えて「私はバイリンガルとは程遠い」と言う。これが正常な言語感覚だと思うのだが。

 そもそも「何語が母語か」「何語を話すか」という問い自体が本当はすごく重いはずだ。例えばカタロニア語を母語とする人はスペイン語とのバイリンガルである場合がほとんどだが、「母語はスペイン語でなくあくまでカタロニア語」というアイデンティティを守りたがる人を見かける。以前もドイツのTV局の報道番組でバルセロナの人がインタビューされていたのだが、「スペイン語を使うくらいならドイツ語で話そう」といってレポーターに対して頑強にタドタドしいドイツ語で押し通していた。その人はスペイン語も母語なのにだ。
 かなり前の話になるが、私も大学のドイツ語クラスでバルセロナから来た学生といっしょになったことがあるが、この人は「どこから来たのか」という質問に唯の一度も「スペインです」とは答えず、常に「バルセロナです」と応答していた。「ああスペインですね」といわれると「いいえ、バルセロナです」と訂正さえしていたほどだ。
 さらに私が昔ロシア語を習った先生の一人がボルガ・ドイツ人で、ロシア語とドイツ語のバイリンガルだったが、「スターリン時代はドイツ語話者は徹底的に弾圧された。『一言でもドイツ語をしゃべってみろ、強制収容所に送ってやる』と脅された」と言っていた。スターリンなら本当にそういうことをやっていたのではないだろうか。
 つまり「バイリンガルであること」が命にかかわってくることだってあるのだ。

 言語というのは本来そのくらい重いものだと私は思っている。安易に「私は○○弁と共通語のバイリンガル」などとヘラヘラふざけている人を見ると正直ちょっと待てと思う。「方言」か「別言語」かは政治や民族のアイデンティティに関わってくる極めてデリケートな問題だからだ。逆にすぐ「○○語は××語の方言」という類のことをいいだすのも危険だ。
 これもまたカタロニア語がらみの話だが、あるとき授業中に「カタロニア語?スペイン語の方言じゃないんですか?」と堂々と言い放ったドイツ人の学生がいて、周り中に失笑が沸いた。ところが運悪く教室内にカタロニアから来た学生(上の人とは別の人である)がいたからたまらない。自分の誇り高い母語をノー天気な外部者に方言呼ばわりされたその人はものすごい顔をして発言者を睨みつけた。一瞬のことだったが、私は見てしまったのである。

 別に私はカタロニア語の回し者ではないが、やはり「スペイン語」という名称は不適当だと思っている。自分でも「スペイン語」という通称を使ってはいるが、これは本来「カスティーリャ語」というべきだろう。さらに、「カシューブ語はポーランド語の方言」、「アフリカーンス語はオランダ語の一変種」とかいわれると、全く自分とは関係がないことなのに腹が立つ。もちろん私如きにムカつかれても痛くも痒くもないだろうが、そういう人はいちどバルセロナの人に「カタロニア語はスペイン語の方言」、ベオグラードのど真ん中で「セルビア語はクロアチア語の方言」と大声で言ってみるといい。いいキモ試しになるのではないだろうか。


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