アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:コピュラ

前に書いた記事のレイアウトがどうも不安だったので変更しました。いわゆるコピュラ文、A = B、this is a pen という一見簡単な構造ってよく考えるとすごく難しいと思います。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 変な言い方だが、言語にはどれもそれぞれ「売り」というものがある。日本語の売りは何と言っても主題・トピックを明確に表す形態素が存在するということだろう。ロシア語ならアスペクトが動詞のカテゴリーになっていること、タガログ語なら「焦点」をこれもまた形態素で表すこと、アルバニア語なら意外法 admirative の存在(『100.アドリア海の向こう側』参照)、ケルト語群ならVSO,そしてバスク語、タバサラン語、グルジア語なら能格、とまあいろいろある。さらに小泉保氏によればタバサラン語は62もの格があるそうだ。これも相当な売りである。
 スペイン語の売りはコピュラが二つあることなのではないだろうか。AはBである、A is B というのに場合によって ser というコピュラとestar というコピュラを使い分けるのである。どういう場合にどちらを使うかはさるネイティブが言っていたように「極めて微妙で使っているネイティブ本人にも説明できないことがあるから、外国人にはマスターするの無理だろ」。確かにその通りだろうがそれを言っちゃあオシマイという気がする。文法書にも「無理だ」などとは書かれておらず、凡そのガイドラインというか基本的な使い方は説明してあるし、無理だとわかってはいてもここに言語学的なアプローチをかける非ネイティブも大勢いる。

 ごく大雑把に言うとA=Bという構文で、BがAの本質的あるいは恒常的な性質を表す場合は ser、一時的または偶発的な性質・状態を描写する場合は estar を使う。このニュアンスの違いが最も明確に現れるのは述部が形容詞の場合だろう。

La vita es difícil.
the + life + ser.3.sg. + hard
人生はつらい

La vita está difícil (en astos días).
the + life + estar.3.sg. + hard) (in those days)
(ここのところ)生活がキツイ

Miguel es muy orgulloso.
Michael + ser.3.sg + very + proud
ミゲルは誇り高い人だ

Miguel está muy orgulloso de su éxito.
Michael + estar.3.sg + very + proud (of his success)
ミゲルは自分の成功を誇りにしている

Ese truco es sucio.
this + trick + ser.3.sg + dirty
このトリックは汚い

Ese coche está sucio.
this + car + estar.3.sg + dirty
この車は汚い

El señor Garrote es moreno
the + Mr. Garrote + ser.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は目と髪が黒い

El señor Garrote está moreno.
the + Mr. Garrote + estar.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は日焼けしている

Sus ojos son rojos.
his + eyes + ser.3.pl. + red
彼の目は赤い色だ。(ウサギとか)

Sus ojos están rojos.
his + eyes + estar.3.pl. + red
彼の目は充血している。

Eres joven
ser.2.sg. + young
あなたは若い。

Estás joven
estar.2.sg. + young
あなたは若く見える。

つまりバーのホステスなどがなじみの客に「あ~ら、社長さん若いわね~」と言う場合には estar を使うわけだ。文法を知らないとおちおち水商売もできない。

 これらの例はまだなるほどと思うが、

es nuevo
ser.3.sg + new 
新品だ。

está nuevo
estar.3.sg + new        
新品価格だ。

とかいう例を見せられるとそろそろ「微妙すぎて外国人にはマスターできない」というネイティブ氏の言葉が頭をよぎるようになる。さらに英語の how is she?、クロアチア語(『60.家庭内の言語』も参照)の Kako su? (3.sg.) にあたる表現にも

¿Cómo es Isabel? 
how + ser.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな人だ?

¿Cómo está Isabel?
how + estar.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな具合だ?

の2バージョンが可能であり、前者には

(Ella) es muy simpática.
(she) + ser.3.sg + very + kind
とても親切な人だ。

後者には

(Ella) está muy simpática últimamente.
(she) + estar.3.sg + very + kind + lately
最近とても親切だよ

あるいは

(Ella) está muy bien.
(she) + estar.3.sg + very + well
とても元気だよ

などと答える。本にはこれより微妙な例が並んでいるがどうせ私には理解できないのでもうやめる。

 さて、この ser か estar かの話になると比較として頻繁に持ち出されるのがロシア語である。似たような区別があるからだ。ただしこちらはコピュラそのものはひとつで述部の形容詞のほうが形を変える。
 ロシア語には形容詞の変化パラダイムが短形、長形の二種あり、後者は付加語としても文の述部としても、つまり A=B の Bの部分としても使えるが、前者は述部としてしか使われない。言い換えると形としては主格しかないのだ。その述部としての短形対長形のニュアンスの差は当該事象が「一時的」か「恒常的」か、あるいは「状態」か「性質」かの違いであると文法書などでは定義してある。例えば、

Мальчик здоров.
boy + (is) + healthy-.m.sg.
Мальчик здоровый.
boy + (is) + healthy-.m.sg.

では、上の短形は今現在、対話の時点で健康だという意味なのに対し、下の長形を使うとこの少年は滅多に病気をしないタイプということになる。コピュラがないじゃないかとお思いになるかもしれないが、ロシア語は現在時称ではゼロコピュラを許す、というよりゼロがデフォだからだ。コピュラが必須になるのは過去形かと未来形のみである。さらにニュアンスというより意味そのものが短形・長形で違ってくることがあって

Он жив.
he + (is) + living-.m.sg. -> alive
Он живой.
he + (is) + living-.m.sg. -> lively

では短形は「彼は生きている」だが、長形は「彼は生き生きとしている」である。また

Китайский язык труден.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.
Китайский язык трудный.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.

だと短形は「自分には難しすぎて中国語ワカンネ」だが、長形は「中国は難しい」という一般的な意味だ。

 この短長二つの形の意味の差が「状態」か「本質」か、あるいは「一時的」か「恒常的」かの対立に帰されることはスペイン語の ser 対 estar と似ているが、Ljudmila Geist という言語学者がこの二つの対立は必ずしもイコールではないことを指摘している。例えば

Пространство бесконечно.
universe +  (is) + endless-.n.sg.
宇宙は無限だ。

で短形を使うのは、これが一時的なことだからではなく、恒常的ではあるが「状態」であるからだそうだ。このように細かく見ていくと違いはあるが、基本的にはロシア語の短形・長形のニュアンスの違いがスペイン語の ser 対 estar と似ているのがわかる。

 ロシア語にはさらに形容詞の長形が述部に立つと、主格をとる場合と造格をとる場合がある。主格しかない短形と違う点だ。ただし長形造格が述部になれるのは過去時称と未来時称。あるいは接続法の場合のみで現在時称では使えない。つまりゼロコピュラと長形造格の組み合わせは不可能なのである。その代わりというと変だが、述語で造核になれるのは形容詞ばかりではなく、名詞も造格に立てる。

名詞による述語
Анна была учительница.
Anna + was + teacher-.sg.
Анна была учительницей.
Anna + was + teacher-.sg.
アンナは教師だった。

形容詞による述語
Ирина была добрая.
Irina + was + good-natured-.f.sg
Ирина была доброй.
Irina + was + good-natured-.f.sg
イリーナはいい奴だった。

この主格と造格の違いもスペイン語の ser 対 estar、ロシア語形容詞の短形対長形の里似ていて、主格だと「アンナは生きている間教師をしていた」「イリーナはいい人でしたねえ」だが、造格では「(今はそうじゃないけど)アンナって昔教師だったんだよね」「(昔は)イリーナもいい奴だったんだけどねえ」である。一時的か恒常的かの差に帰せそうだ。だから時間を区切る表現が文内に来ると主格は使えない。それで * をつける。

* Он несколько лет был директор.
he + several years + was + director-
Он несколько лет был директором.
he + several years + was + director-
彼は何年間か所長だった。

ところが「時間の制限がない」ことを明確に表した場合、主・造どちらもOKになることがあるから、この二つの差は単純に時間制限の有無だけから来るのではないことがわかる。

Пушкин всегда был великий поэт.
Pushkin + was + always +great- + poet-主
Пушкин всегда был великим поэтом.
Pushkin + was + always +great- + poet-造
プーシキンは常に偉大な詩人だった。

その次に主格・造格の差を「本質的なもの」か「偶発的なもの」かと見るやり方がある。例えば上のアンナは「教師だった」という文の場合、主格は「生涯教師」というよりも「アンナは人格から見ても教師にうってつけ。教師こそライフワーク」、つまり教師ということがアンナの本質と見るのに対し、造格だとアンナがいわゆるデモシカ教師ということになる。これもなるほどと思うがやはり説明できない例がある。

Анна была дочерью врача.
Anna +  was + daughter-+ doctor’s
アンナは医者の娘だった。

確かにこれを「子供は両親を選べない。全てのものは流転する、パンタ・レイ」という意味で「偶発的な事象」と無理やり解釈できないこともないが、誰の子供か、どういう生まれか、ということはやはりその人物にとって本質的なことだろう。

 Geist 氏はこの他にも主格造格の意味の差を定義する様々な説をあげ、ひとつひとつそれらについての例外現象を挙げていく。そしてこの二つの違いの本質を詳細に分析しているのだが、まずコピュラ文そのものを二つのタイプに分類して

1.[быть + NP造]はシチュエーション内での対象の特性を描写する(特性は恒常的なものでも一時的なものでもありうる)
2.[быть + NP主]は対象の特性をシチュエーションに関連させずに描写する。
(人食いアヒルの子注:быть というのがロシア語コピュラの不定形である)

と定義している。つまり描かれる対象が特定の状況に結びついているか具体的な状況と結びつかずに漂っているかということで、私などは『95.シェーン、カムバック!』で述べた動詞アスペクトの意味の違いの定義と平行性を明確に感じる。
 語学の文法書だったらこの定義で十分なのだろうが、著者は言語学者なのでここからさらにしつこく分析を続け(『34.言語学と語学の違い』参照)、そのニュアンスの違いがなぜ発生するかをコピュラбытьのシンタクス構造内での違いとして説明している。быть には実は2種あり、シンタクス上の基本位置が違うというのである。

1.造格補語を取る быть-1 は語彙上の動詞で、基本の位置はVPである
(быть-lex)
2.主格補語をとる быть-2 は機能カテゴリーで、基本の位置はTPである。
(быть-ftk)

余計なお世話だが TP というのは Tense Phrase のことで生成文法のXバー・セオリー以降から登場するカテゴリーだ(とおぼろげに記憶している)。前にも言ったように私は生成文法にはせいぜい標準拡大理論レベルまでしか追いついていけていないのでいきなりこんな説明をされてもわからない。まさに短形の труден(私にはワカンネ)である。

 このようにロシア語内部のコピュラ構造を論理学、意味論、シンタクスと全てのレベルで分析・解析するというのも面白いが、これを言語間で比較してみるとさらにスリルが増すだろうと思う。ロシア語では Пространство бесконечно という言い回しが許されるがスペイン語で universo está infinito とかなんとかは可能か(多分不可)、とかそういうツッコミである。またロシア語のこういったコピュラ構造がスペイン語にはどう訳されているか、またはその逆を調べてみたら翻訳学としても有意義な研究になると思う。泉井久之助氏もその著書『ヨーロッパの言語』211ページから212ページにかけて通時的な視点からも露・西のコピュラ構造に言及しているが、氏はこの二つの意味の区別そのものは露・西語に留まらない言語ユニバーサルな現象と考えているようである。そういう意味でもツッコミ甲斐があるのではないだろうか。

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 今さらこんなことを言うと当たり前すぎてかえって不思議がられそうだが日本語の形容詞は「用言」である。つまり動詞の仲間なのだ。「そんなこと決まってるだろバカ」と私を罵るのはまだ早い、実はこれが印欧語と決定的に違う割と重要なポイントで、確か松本克己教授もこの点を強調していた。なぜ形容詞が用言かというと日本語ではコピュラという動詞がなく、その機能を形容詞そのものが請け負うからだ。たとえば「アヒルはかわいい」という文の直接構成要素は「アヒル」という名詞と「かわいい」という形容詞だけでコピュラなどというつなぎはいらない。丁寧語バージョン「アヒルはかわいいです」では「です」がコピュラと言えないこともないがこの「です」は下記の「だ」と共にせいぜい「助動詞」であり、機能の点でも形の点でも動詞と比べて非常に範囲が限られていて完全に別の品詞だ。早い話が「です」や「だ」じゃあ印欧語のように be ambitious と形容詞にくっついて命令形を作ったり「~こと」と付加して to be ambitious のような不定形表現ができず、本チャン動詞を引っ張り出して助けを借りるしかない。それで命令形は「野心的であれ」「かわいくあれ」となるが、これらの表現はすでにやや文語的で普通の会話では使わない。不定形のほうも「野心的であること」「かわいくあること」と動詞を動員するワザとらしいというか不自然と言うかとにかくこんな言葉使いで会話をする人などいないだろう。動詞なしの「野心的なこと」「かわいいこと」では前者のナ形容詞では「な」はコピュラ「だ」の連体形だとも解釈できるからかろうじて存在を確認できるがイ形容詞では形容詞の連体形があるだけでコピュラなんてものは影も形もない。さらに「だ」なら上記のように何とか命令も不定形もできるが、「です」ではどちらも不可能である。「野心的ですあれ」「かわいいですあれ」は非文だし、「野心的ですこと」「かわいいですこと」は後ろに「おほほ」でもつけてお上品ぶった嫌みな女の発言にしかなり得ない。「野心的なこと」「かわいいこと」とは意味が全然違う。
 要するに「美しい」「おもしろい」「新しい」などのイ形容詞は厳密に言えばそれぞれ beautiful、interesting、new ではなくて be beautiful、be interesting、be new である(ナ形容詞については下記)。イ・ナ共に語形パラダイムの名前も「未然」「連用」「連体」「終止」など動詞とそっくり。さらに動詞に付くのと全く同じ助動詞、例えば「~すぎる」などを付加できる。「美しすぎる」「馬鹿すぎる」「食べすぎる」では最初がイ形容詞、二番目がナ、最後の例が動詞だ。もちろん語形自体は大分違うしパラダイムにしても命令形がなく未然も連用も形が二つに分かれていないなど動詞活用の観念をそのまま持ち込むわけにはいかないが、とにかく動詞の仲間だ。
 ナ形容詞は上で見たようにコピュラ動詞の助けがいるから、明確に用言であるイ形容詞より品詞としては名詞性を帯びる。訳すとしたらコピュラに括弧をつけて「きれい」→ (be) pretty、「馬鹿」→ (be) stupid、「静か」→ (be) silent とでもするべきだろう。理不尽なことにこの名詞に近い形容詞を学校文法では「形容動詞」などと呼んでいる。動詞なのはむしろイ形容詞の方だろう。この「形容動詞」という名称には異を唱える人も昔から多く、私個人も今まで「ナ形容詞」「イ形容詞」という呼び名しか使ったことがない。イとナは活用形も全く違うのでこれらを「形容詞」という一つの品詞としてくくるのは無理がありすぎるという配慮で「形容動詞」という別品詞を掲げたのかもしれないが、それだったら逆にイを「形容動詞」、ナを「形容名詞」とでも呼んだ方が適切なのではないだろうか。「形容名詞」(ナ形容詞)と名詞の差は、それらがそれぞれ別の名詞の付加語になるとき、名詞は属格マーカー「の」をとるのに対して形容名詞にはコピュラ助動詞の連体形「な」がくっつく点だけであって、その他はいろいろ共通する部分が多い。名詞・形容名詞(ナ形容詞)の二品詞にまたがる語もある。例えば「病気」だ。この語は基本的には名詞で a sick man は「病気の人」だが、「病気な人」という表現もできる。後者はむしろカタカナで「ビョーキな人」と書いた方がいいかもしれないがニュートラルに「病人」のことではなく「人格に問題のある人」という隠語だ。全然隠れていないが。逆に「馬鹿」は普通はナ形容詞に分類されるが両品詞にまたがっており、「馬鹿なことを言うな」の馬鹿はナ形容詞だが、「馬鹿は時々真を突くから怖い」「馬鹿のいう事など聞いていられない」の馬鹿は「馬鹿な人」という意味の名詞である。要するにナ形容詞は機能的にも文法的にも名詞とダブる点が多い。これが「形容動詞」などと呼ばれているのはおかしいと言えばおかしい。それともこの名称は「私は馬鹿だ」の「だ」という助動詞を動詞と見なして「(助)動詞を使う形容詞」「(助)動詞によって名詞が形容詞化したもの」ということなのか。しかしよく見てみると実はナの方が形容詞本家なのではないかという思われる節がある。外国語の形容詞を借用する際はナ形容詞になるのが基本だ。「イノセントな」「モダンな」であって、「イノセントい」「モダンい」などという形になることはない。「ナウい」という言葉は now という語が一旦「ナウな」というナ形容詞として日本語に定着した後、わざとギャグ的意味でイ形容詞に変換されたものだ。「挙動不審な」が「キョドい」になるのと同じである。
 いろいろ考え出すとあちらを立てればこちらが立たず的にどうも話が面倒くさくなってくるのでやはりナ形容詞・イ形容詞という名称を使うのが一番無難だと思う。それにナ形容詞にしても語幹そのものは名詞寄りかもしれないが、シンタクス機能の点では動詞に近い。例えば自分自身のバレンツ要素が取れる。「私はアヒルが好きだ」という文では「私」は主文の主語で「アヒル」は形容詞の主語、つまり形容詞に支配されている要素である。その主語もろとも「アヒルが好きだ」全体が形容詞。「私は頭が悪い」だともっとはっきりする。「頭が」は形容詞の支配下、つまり「頭が悪い」全体で形容詞の機能だ。形容詞が主文の主語とは異なる主語を取る構造など日本語では日常茶飯事で、「あいつは手が早い」「老人は朝が早い」「山田さんは字がきれいだ」などいくらでもできる。独自の主語を主格のままで取るなどという芸当は体言には無理だ。その点でも日本語の形容詞は動詞の仲間なのである。
 さて、その主語つき形容詞では主語はつまり形容詞の一部ということだ。だから主文とは別個にまた主語を取ることができるわけ。上の文と同じロジック内容の文をトピックなしの構造にしてみるとよくわかる:「お前、本当に手が早いな」→「おれじゃないよ、あいつだよ、あいつ、あいつが手が早いんだよ。」、「老人が朝が早いのはまあ仕方がないよ」、「この手紙を誰かに清書してもらいたいんだが、誰がいいかな」→「山田さんが字がきれいですよ」。太線は主文の主語、下線部は形容詞の主語で、シンタクスの位置が全然違うのだが、こういうダブル主格を見てヒステリーを起こした印欧語ネイティブがいる。

 印欧語では形容詞は名詞の仲間だ。だから名詞の語形変化と形容詞の語形変化をまとめて「曲用」Deklination という。格・数・文法性によって変化する。動詞の語形変化は「活用」Konjugation といい、時制や法などを表す。日本語の形容詞はどう見ても「活用」だ。動詞を仲介せずに形容詞に直接時制や法のマーカー(下線部)がつく。

きれいだ→きれいだった(時制)、きれいなら(ば)(法)

かわいい→かわいかった(時制)、かわいければ(法)

しかもこのマーカーは動詞につくのと同じマーカーである。上で述べた「~すぎる」もそうだが、動詞と形容詞には基本同じ助動詞がつくのだ。

読む→読ん(時制)、読め、読んだら(ば)(法)

 さらにいわゆる「て形」もそうだ。一つのセンテンスが複数の動詞を含む場合、最後のものだけが時制や法などの最終情報を担う。終止形だ。いわば最後の動詞だけが印欧語でいう定型 finite Form になるわけで、先行する他の動詞は「文はまだ終わっていない」とシグナルを出す「て形」をとる。印欧語だと複数の動詞からなる文で動詞の順番を変えられるが、日本語ではできない。動詞を二つ含む文内の動詞(とその支配要素)をそれぞれ色分けしてみよう。動詞そのものは太字にする。

Ich lese das Buch, schreibe einen Brief.

この本を読んで手紙を書く

二つの動詞句の間にはコンマでなく und(「そして」)という接続が入るのが普通だろうが、比較を簡単にするためコンマでつないだ。ドイツ語だと動詞句を入れ替えても動詞の形は変わらない。もちろん文の意味は変わるが文法的にはOKだ。

Ich schreibe einen Brief, lese das Buch.

日本語はそうはいかない。単に動詞句の位置を入れ変えただけでは非文になる。コンマを入れてもなお不可能、というより余計変になる。

手紙を書くこの本を読んで

青い動詞を終止形、黄色を「て形」にしないと文としては成り立たない。

手紙を書いてこの本を読む

この、最後の語が最終的な機能情報を担うというのは形容詞もいっしょで、最後の形容詞だけが終止形、先行形容詞は「て形」になる。今度は und でつないでみた。

Herr Yamada ist klug und lustig.
山田さんは頭がよくておもしろい

水色と黄色を入れ替える。ドイツ語はそのままでOKだが日本語は形容詞の語形を変化させないと非文。

Herr Yamada ist lustig und klug.
*山田さんはおもしろい頭がよくて
山田さんはおもしろくて頭がいい

上で日本語の形容詞は一つ一つがコピュラ付きと考えるべきだ、と言ったがこれがなかなか呑み込めなかった人がいる。「山田さんは頭がよくておもしろい」の形容詞の順番を入れ替えてみろといったら「山田さんは頭がおもしろくていい」と答えたのだ。ドイツ語の母語者だったが、これはドイツ語では主動詞コピュラが両方の形容詞を支配するので、その勢いで「頭が」が形容詞を二つとも支配すると思ってしまったのだ。さらに「形容詞はそれぞれ独自の主語をとれる」ので、「頭が」は「いい」のみの主語だということがよく理解できていなかったのである。双方の形容詞に主語がついていたらどう答えていたか実験(人体実験かよ)してみたいところだ。

山田さんは目がきれいで顔がかわいい

「きれい」はナ形容詞なのでイ形容詞の「かわいい」とは形が違うが、終止形対「て形」
という原則は変わらない。

山田さんは顔がかわいくて目がきれいだ
*山田さんは顔がかわいい目がきれいで

 もう一つ。これは「形容詞は用言」ということと直接関連性はないだろうが日本語の形容詞は比較級・最上級がなく、形としては原級あるのみ。比較級や最上級は形容詞そのものでなくその性質を帯びている名詞のほうにマーカーをつけて表す。例えばその性質を帯びている度合いが低い名詞に「より」というマーカーをつける。

山田さんは田中さんより親切だ。

という文では田中さんは親切の度合いが低いことになる。この「より」だが、これを格の一つとみなし主格の「が」、対格の「を」と同様、「私より」という「比較格」を提唱している人もいるが、考えてみると「より」は名詞のお尻ばかりでなく、「より少ない」「より美しい」など形容詞の頭にくっ付くことができる。それとも「山田さんより」の「より」と「より美しい」の「より」は別単語と見なすべきなのだろうか。そういえば「より美しい」は「美しい度合いが高い」という意味で「山田さんより」とは逆である。対して「私より山田さんに言ってよ」の「より」はさすがに「私よりきれい」の「より」と別単語とは考えにくい。機能も形容詞の場合と同じ(当該事象に相応しい程度が低い名詞につく)だからこれを格の一つと考えるのはある程度納得が行くのだが、ちょっと他の格マーカーと違った振る舞いをするので私個人は今のところ保留している(『152.Noとしか言えない見本』参照)。

 さて、さらに比較表現では当該特徴の度合いが高いほうの名詞に「~のほう」というマーカーが付くこともある。

山田さんのほうが田中さんより親切だ。

しかしこの「高い度合いマーカー」は必須ではなく、文脈からの比較級判断となることも日常茶飯事だ。

A:山田さんと田中さんとどちらが親切?
B1:山田さんのほうが親切よ。
B2:山田さんが親切よ。

A:鏡よ鏡、白雪姫と私とどちらがきれい?
B1:白雪姫のほうがきれいです。
B2:白雪姫がきれいです。

そもそもこの「のほう」というマーカーは単に当該名詞への指示を強調するのが働きで、本来比較級云々とは関係がない。省略可能なのは当然だろう。そこが「より」とは違う点だ。例えば次の文では「~のほう」は比較などではない。

ちょっと、私のほうを見て!
ちょっと、私を見て!

 比較級がないのだから形としての最上級もなく、最上級を表すには「いちばん」「最も」などの副詞を使う。これらは「より」のように格マーカー(?)でも「~のほう」のような後置詞でもなく、明確に副詞だ。つまり比較級や最上級的意味を表す品詞がバラバラな上省略されることも多いわけで、日本語の形容詞には原級しかないと見ざるをない。表そうと思えば表せるというだけで、単数・複数の場合と同じく文法カテゴリーとしては存在しない。

A:鏡よ鏡、この世で誰が一番きれい?
B1:白雪姫がいちばんきれいです。
B2:白雪姫がきれいです。

カテゴリーとして存在しないからまさに複数・単数の場合と同様、日本語からドイツ語などに訳す際は気をつけないといけない。日本語には単複の区別がないから英語のネイティブなら本能的に複数を使う文脈、たとえば「あなたの趣味はなんですか?」と聞こうとして hobby と単数を使ったりするがそれと同様「この中でどれがいいと思う?」という日本語をドイツ語に訳す際、うっかりすると was meinst du? Welches ist gut? とか原級を使ってしまう。Welches ist am besten と最上級にしないといけない。二つの選択肢を前にして「私はこれがきれいだと思うわ」というなら ich finde dies schön(原級)でなくich finde dies schöner(比較級)だ。

 確かに英語も3シラブル以上の形容詞の比較級・最上級はそれぞれ more と most という副詞をつけて表し、形容詞そのものは変化しない。さらに当該要素の少ない方の名詞に thanという前置詞というか副詞をつけるので、シンタクスの外見上日本語と似ているが(more も than も日本語の「より」に対応するから、This book is more interesting than that one はうるさく訳せば「この本はあの本よりより面白い」であろう)、これは本来から存在していた文法カテゴリーを別の方法で代理させると言う点が、カテゴリーそのものが最初から存在しない日本語との決定的な違いだろう。形としての比較級・最上級はきちんと保っているロシア語でもそれと並行して英語式の比較級・最上級も使われている。後者の方が簡単だ。

 面白いことにコーカサスのナフ・ダゲスタン語群(『169.ダゲスタンの言語』参照)にはナフ語の他は形容詞に原級しかなく、比較表現は名詞の方の格で表すそうだ。日本語みたいだ。クリモフという学者がクリツ語 Kryts language の次のような例をあげている。

Pari Aḥmad-war buduw
パーリはアハマードより年上だ。

bu- が形容詞で「大きい、年上の」、-d- がクラス(=文法性)マーカー、-uw がコピュラの現在形。形容詞は原級である。アハマードの後ろにくっついている -war という形態素が日本語の「より」で、クリモフはこれを「比較格」と名付けている。パーリの方の格の説明はないが、これは絶対格のはずである。わかりきっているからわざわざ言わなかったのだろう。
 クリツ語では比較格を取るが、他のダゲスタン語群 ではこういう時名詞が奪格をとる言語もあるそうだ。英語の from である。そういえば日本語の「より」も「ここより土足禁止」など、奪格めいた意味を持つことが多い。やっぱり日本語のも格の一つと見て保留を解いたほうがいいのか。

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 非ネイティブが日本語を学習する場合、日本語基本文法の最後を飾るのが敬語だろう。実はここに日本語の勉強を途中でやめることの危険性がある。動詞の変化形や日常会話の言い回しなどを変に知った段階でやめてしまい、敬語を全く入れずに(まあ「ですます」は使えるが)話される日本語と言うのが一番神経に触るから、いわば完全に「子供の日本語」だからだ。しかし教える方でもこの「子供状態」を肯定するような発言をしている人を見たことがある。外国人に「敬語ができなくてもニコニコして丁寧な態度を取っていれば相手に伝わる」とブレーキをかけていた。ここだけの話だが、そう言われるとマに受けて「じゃあ敬語は使いたい人、使える人だけ使えばいいんだな。私は覚えられないからずっと笑って誤魔化そう」と解釈する人がいる。そういえばアクセントについても「覚えなくていい、無視していい」と言い放つ講師がいたそうだ(『138.悲しきパンダ』参照)。私個人はいくら話者が外国人だからと言って無茶苦茶なアクセント、敬語なしのタメ口日本語に付き合うなんて真っ平だ。一度やっぱり「敬語使用はオプション」と思っていていま一つ覚えようとする熱意に乏しかった人に「敬語なしの日本語なんていい大人が使う日本語じゃないんですが、いつまでも小学生みたいな言葉で話したいというのなら、まあ敬語を覚えるのは止めときましょう」とつい言ってしまった。
 もっとも教科書によっては敬語の説明の仕方がわかりにくいのも事実だ。文法体系としての敬語と、それを構築する形態素と各々の形の使い方(言語運用面での問題)がゴッチャになっていてどうもわかりにくい。例えば「丁寧語」と「美化語」を分ける人もいるが、私はこれは不必要、どちらも要は「発話状況に対する敬意」という同じ一つの機能ということでいいと思う。だいたいカテゴリーなどというものはできるだけ少ない数でまとめたほうが覚えやすいのではないだろうか。またカテゴリーの基準はできるだけ明快でないといけない。その辺が玉虫色だと収拾がつかなくなる虞がある。私は文法体系としての敬語の種類は「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3つ、その他の細かい意味合いは言語運用に属するからカテゴリー化の基準にすべきではないと思う。そして日本語の敬語体系を次のように説明している。いわゆる日本語教師文法からは少し外れていることは自覚している。

 まず今述べたように日本語の敬語には「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の3種がある。尊敬語では動詞の主語に対して話者が敬意を表し、謙譲語は動詞の主語を話者が卑下する。そして丁寧語は現行の言語文脈、発話の場に対する話者の敬意を表すものだ。そしてこれら敬語形を形造るにはそれぞれ3つの方法がある。一つは対応する別語で置き換えるやり方。二つ目が専用の形態素を付加するやり方、そして3つ目が動詞変化による作り方である。だから計算上は次の3×3=9つの敬語形が考えられる。

1.対応する別語での置き換えによる尊敬語形
2.語の付加による尊敬語形
3.動詞変化による尊敬語形
4.対応する別語での置き換えによる謙譲語形
5.語の付加による謙譲語形
6.動詞変化による謙譲語形
7.対応する別語での置き換えによる丁寧語形
8.形態素の付加による丁寧語形
9.動詞変化による丁寧語形

「動詞変化」という言葉を使ったが、これは助動詞の付加のことである。日本語のような膠着語的言語は印欧語より単語と形態素の間に一線を引くのが難しいから助動詞付加をある種の語形変化とみなすことにする。「語の付加」のタイプには助動詞ではなく他の動詞や接頭辞などがベタベタくっ付く点で「動詞変化」と違っている。これらの違いを下のように表にしてみるとさらにすっきりする。横段が敬語の種類、縦が形成方法である。
Tabelle1-223
まずこのように鳥瞰してから一つ一つのパターンを説明していけば楽勝とまでは行かなくとも混沌とした五里霧中状態は避けられるのではないだろうか。しかもこれはあくまで計算上だから中には存在しないパターンもある。例えば6のパターンは存在しない。順番に見て行こう。
 まず1だが、特定の動詞には意味自体は同じだが尊敬の念を表す別の動詞とペアになっているものがある。ロシア語のアスペクトペアみたいなものだが、ロシア語ではほとんどの動詞がパートナー持ちであるのに対し、日本語の方はあくまで「特定動詞」であるところが決定的に違う。対応語で置き換えて尊敬形を作れる動詞は非常に数が限られているのだ。以下の動詞がその代表的。それぞれ左が中立動詞、右が対応する尊敬語動詞である。

来る→いらっしゃる
行く→いらっしゃる
いる→いらっしゃる
食べる→召し上がる
飲む→召し上がる
言う→おっしゃる
する→なさる
やる→なさる
くれる→くださる

「山田さんは今日うちにいる」と「山田さんは今日うちにいらっしゃる」とは同じ意味である。またこれは尊敬語全体に言えることだが、自分に対しては絶対に使ってははいけない。
 続いて2のタイプは次のように形成する。

接頭辞「お」+動詞マス語幹+与格マーカー「に」+動詞「なる」

私は子音語幹動詞(日本語教師の言う第一グル―プ、『215.終止形か連体形か』参照)の「読ん」と「読み」を「連用形」と一つにまとめるのには反対なので「マス語幹」と言っている。「読みます」からマスを引いた語幹だ。「お読みになる」「お食べになる」などがこのパターンだが、1と違って理論上は全ての動詞から作れる。しかし理論上は可能でも言語運用上の理由で受け入れ難いものもある。例えば「する」から作られた「おしになる」は受け入れがたい。「聾」あるいは「死に」を連想させるからであろう。だからdoを言いたい場合は「する」という動詞を使わず「やる」で代用し、「おやりになる」を使う。また「お来になる」もダメ。これはどうも響きが悪い上に「着る」と混同されやすいからだと思う。理論上は可能なのに存在しない形というのはどの言語にもあって、言語学者はこういう現象が大好きである。
 なお、「する」という動詞自体はこのパターンは不可能だが「する」を付加して作られる合成動詞、「帰宅する」「研究する」「勉強する」などでは頭の名詞部分を取ってこのパターンが可能だ。ただし接頭辞は「お」でなく「ご」になるのが普通。これらの名詞部が漢語だからである。

帰宅する→ご帰宅になる
勉強する→ご勉強になる
研究する→ご研究になる

「ご勉強になる」は私の感覚では「お」でもよく、「お勉強になる」でもまあOKだ。OKなのだがそもそも「ご勉強になる」という言い回し自体あまり使われないとは思う。「ご覧になる」もこれだろう。2の亜種として以下のように図式化できる。

接頭辞「ご」+名詞+与格マーカー「に」+動詞「なる」

同じ意味の「やる」という動詞はこの合成語を作ることができないので、亜種も存在しない。
 次の3はもちろん動詞のナイ語幹に助動詞レル(子音語幹動詞と「する」)、またはラレル(母音語幹動詞と「来る」)を付加するやり方だが、「ナイ語幹」といっても「する」は母音変化を起こすからナイを取った「し」でなく「さ」という形になる。だから尊敬形は「される」だ。このレル・ラレルは「できる」という意味で使われた場合、母音語幹動詞でラが抜ける傾向が顕著で「ら抜き言葉」と言われて教師から罵られているが、同じ助動詞でも尊敬の意味で使われるとラが抜けない。「読まれる」「食べられる」「行かれる」「来られる」などこのやり方も理論上はあらゆる動詞に使える。2のタイプより制限も少ないが、惜しいかなこの助動詞が尊敬の他に可能、受け身、自発表現という他の機能も担っているため文脈によっては誤解されやすい。
 これら1、2、3のどれを使っても尊敬になる、言い換えると「いらっしゃる」「お行きになる」「行かれる」、あるいは「召し上がる」「お食べになる」「食べられる」はそれぞれ同機能である。どれを使うかは個人裁量だ。私の感覚では1のやり方が可能な動詞は素直に1でやるのが一番自然な感じがするが、「いらっしゃる」の代わりに「お行きになる」あるいは「行かれる」と言っても完全にOKである。ただ上で述べた「おしになる」「お来になる」のように使えない形もあるので、その場合は他のパターンを取らないといけないということだ。1または3を使って「なさる」「される」、あるいは「いらっしゃる」「来られる」と言わねばいけない。さらに上で述べたように「する」は様々な名詞と共に合成動詞を形成するが、その場合も例えば「お研究しになる」(これは完全にNG)でなく2でも亜種を使って「ご研究になる」と動詞そのものは抜かすか、パターン1を使って動詞を入れ替え「研究なさる」とする、あるいはパターン3で助動詞レルを使って「する」を語形変化させ、「研究される」としないと日本語にならない。
 次に謙譲語だが、尊敬語と同様特定動詞には対応する謙遜語動詞がある。表のパターン4だ。上で「ペア構造」と言ったが正確には中立・尊敬・謙譲動詞という三角関係と言った方がいいだろう。主なものを表にしてみよう。比較のために上で出した尊敬形も繰り返す。
Tabelle2-223
 尊敬のほうが穴が多いが、その代わり作成方法が充実している。別語による置き換え表現の他に動詞変化と形態素付加、パターン2と3の二つの方法があるから隙間は埋まる。「貰う」なら「お貰いになる」(パターン2)「貰われる」(パターン3)、「見る」なら「ご覧になる」(パターン2)、「見られる」(パターン3)である。しかし謙譲語には専用の助動詞がないから隙間を埋めるには次の5のパターン、形態素付加によるしかない。

接頭辞「お」+動詞マス語幹+動詞「する」
接頭辞「ご」+名詞+動詞「する」

2番目は尊敬語の場合と同様、「する」を使った合成動詞に適用する亜種である。「読む」→「お読みする」、「書く」→「お書きする」、「同伴する」→「ご同伴する」などがこの例だが、謙譲語のパターン5は対応する尊敬語のパターン2と比べると使用範囲が明らかに狭い。尊敬語の1、2、3はまあほぼ同機能だが、5は4に比べて機能が明らかに弱いのである。
 まず5は意味が全くのニュートラルではない。「当該人物へのサービス」というニュアンスが伴う。例えばこんな場面を想像して欲しい:先生に何かの報告を読んでもらいたくて手渡そうとしたら先生は「今両手がふさがっているから誰か読んでくれないか」と言う。そこで私が「あ、私がお読みします」。これは何の問題もない。では次のような場面はどうか:先生が「今度本を出版した」と言う。そこで私が「是非今度お読みします」。これは最初のシーンと比べて明らかに引っかかる。なぜか。「お読みする」という言い回しに「相手へのサービス」、露骨に言うと「本当は興味はないんだが、先生への義理があるから読んでみるわ」というニュアンスが漂ってしまうからではないだろうか。もちろんその差は非常に微妙だし、最初の例の「読む」は「朗読」、2番目の「読む」は「黙読」で、動詞自体の意味が違ってくるから比較にはならないという反論もできよう。しかし「食べる」という動詞だとこのことがさらにはっきりする。例えば次のような状況:先生との会食の際に自分の注文はすぐ来たのに先生のがなかなか来ない。それを見て先生が言う、「あっ、先に食べなさい。冷めるとまずくなるし」。それへの反応として「では失礼して先にお食べします」とは絶対に言えない。「先にいただきます」である。
 つまり5には意味が上乗せされていて純粋な謙遜ではないのだ。では純粋な謙遜を表すにはどうするか。「食べる」ならパターン4が効くから言い換えられるが、「読む」のように対応する謙遜動詞を持たない。そういう場合は本動詞を使役形にした上に補助動詞として「もらう」の対応動詞「いただく」を加えればいい。「あっ、本を出版されたんですか!是非今度読ませていただきます」。「食べる」にもこの手は使える:「では失礼して先に食べさせていただきます」。「読む」の方はさらにマス語幹の独立性が高く「読み」が名詞として確立しているから(「君ぃ、そりゃ読みが浅いよ」など)、名詞+動詞「する」という合成動詞のパターンが効くので「お読みさせていただく」と謙譲語の上乗せが可能である。しかしこの「~ていただく」はあくまで非常手段というか代理表現であり、これを「形態素付加による謙譲語形成パターン」と見なすことはできない。なぜならこれのニュートラル形は使役形の入った「読ませてもらう」「食べさせてもらう」であり、「読む」「食べる」そのものではないからだ。
 つまり謙譲語は体系としては不完全と言えよう。

 次に丁寧語の8だが、尊敬語、謙遜語に比べて大きな違いがある。尊敬・謙遜では動詞を置き換えるのに対し、丁寧語では対応形を持っているのが代名詞とコピュラだということだ。日本語には品詞としても代名詞は指示代名詞と疑問代名詞しかないが、それらが中立形と丁寧形の二重構造になっている。左が中立、右が丁寧形。

ここ→こちら
そこ→そちら
あそこ→あちら
どこ→どちら
誰→どなた

形として丁寧な対応語を持っているのは本来場所を表す代名詞だけだが、その「場所の丁寧形代名詞」がそれぞれ「こ系」「そ系」「あ系」の他の代名詞も代用することができる。

この犬→こちらの犬
その車→そちらの車
あれは誰だ→あちらはどなたですか
誰の本?→どちらの本?

「どちら」は「誰」の代用もできる。「どなたの本?」と言ってももちろんいい。3番目の例で出したようにコピュラの「だ」の丁寧語の対応形が「です」である。気をつけなければいけないのは、この中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロ形で現れるからまるで「です」が付加されたように見えるが、実はこれはあくまでゼロ形コピュラの置き換えなのだということだ。私はそう解釈している。えっ、何を言っているかわからない?次のようなことだ。まず名詞+コピュラという文構造では中立コピュラ「だ」が表面に現れるから、「です」は「だ」の置き換えであることがはっきりしている。

私は日本人→私は日本人です

つぎにナ形容詞でも終止形に「だ」が来るから、「だ」→「です」と解釈できる。『215.終止形か連体形か』で出したようにナ形容詞の終止形の「だ」はコピュラなのか形容詞の語尾なのか解釈が割れるのだが、まあ「だ」→「です」という置き換えパターンは同じだからいいことにする(割といい加減)。

この花はきれい→この花はきれいです

これに対してイ形容詞は終止形で「だ」を取らないから「だ」が「です」に置き換えられたのではなく「です」が付加されたように見える。しかし「付加」と解釈してしまうと「対応する別語による置き換え」という7のパターンから外れてしまう。そこで整合性を取るため中立コピュラ「だ」はイ形容詞ではゼロで現れる、とすればいい。「です」はゼロを置き換えるのだと。

アヒルはかわいいØ→アヒルはかわいいです

(この項続きます

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前回の続きです。

 形態素を付加して丁寧語を作るのがパターン8だが、その機能を担うのは接頭辞の「お」または「ご」である。尊敬語と謙譲語でも、形態素を付加して作るパターン(それぞれ2と5)では動詞マス語幹や合成動詞の名詞部の前に「お」や「ご」が現れるが、私はこれと丁寧語の「お」、「ご」とは現れ方に決定的な違いがあると思っている。尊敬語、謙譲語では「お」(「ご」)のない形は許されない。「お読みになる」(尊敬)、「お読みする」(謙譲)のみ可能であって「*読みになる」、「*読みする」は非文だ。それに対して丁寧語の「お」はそれにない中立形が存在する。「お寿司食べる?」→「寿司食べる?」、「お水を頂戴」→「水を頂戴」、どれもOKである。言い換えると当該形態素が尊敬謙譲で動詞に、丁寧語には名詞に作用するということだ。さらに丁寧語の「お」は形容詞にもつく。「おきれい」「お忙しい」「お寒い」などだ。「お馬鹿」も本来は丁寧語である。『198.日本語の形容詞』でも述べたように形容詞はイ・ナ共に「用言」で動詞の仲間だ。それでもこのように名詞と同様丁寧語の接頭辞が付加され得るあたり、印欧語ほどではないがやはりちょっと名詞寄りである。
 さて、接頭辞が「お」になるか「ご」になるかはよく議論される話題だが、基本的に漢語は「ご」、和語は「お」を取る。もちろんこれはあくまで原則であって、例外もあるし、個人によって違いもある。「寿司」はさすがに「ご寿司」という人はいないだろうが、「誕生」は「お誕生」「ご誕生」のどちらも可能だし、「食事」は漢語のくせに普通は「お食事」だ、反対に「ゆっくり」は和語のくせに「ごゆっくり」となる。ただ『問題な日本語』という本によると「ご食事」や「おゆっくり」を使う人もそれぞれ1%ほどいるそうだ。「お」も「ご」も両方使うという人はもっといる。さらに私は専ら「お予算」といっていたが、これは全体の4%弱にすぎず、83%が「ご予算」を使うと知って驚いた。両方使う人が一応13%強いるそうなのでまあ救われたが。
 また言うまでもないことだが、漢語以外の外来語にはこのパターンは使えない。「おビール」などと発言する人は「ビール」が外来語であることを知らないか、パターン8の制限規則を知らないか、どちらにしても日本語能力に問題のある人だろう。もっとも和語にも「お」を取れない語は多い。「おさる」や「お馬」、「お空」はいいが、「おアヒル」「お雀」「お星」などはNGだ。そこら辺になると説明として本来使ってはいけない「ネイティブとしての言語感覚」を持ち出すしかない。ダメじゃないか私。
 最後に9、動詞変化による丁寧語形成だが、これは言わずと知れた助動詞「ます」のことである。動詞のマス語幹、学校文法でいう連用形にこの助動詞を付加する。「読む」→「読みます」、「食べる」→「食べます」などで、非ネイティブが最初に習う動詞の形がこの「マス形」である。会話で使うにはこの形が一番無難だからだ。使うのが無難というより使わないのは危険という感じだが。たとえ観光客でも「これいくら?」「わかった、ありがとう」「部屋ある?」で日本中押し通すのははっきり言って「旅の恥」だと思う。

 そもそもこの丁寧語とは何なのかをもう一度確認しておきたい。上でも述べたように私は丁寧語というのは発話の場、言語状況そのものに対する敬意表現だと思っている。例えばある人が山田という人と親しい友達で、普段は「ねえ山ちゃん、わりいわりい、ちょっとこれコピーして来てくんない?」というような言葉使いで話していたとする。ではその人は何かの発表の場で外からの聴衆が大勢いる場でも山田さんにそう言うだろうか。普通言わないだろう、「あっ、山田さん、すみません、ちょっとこれコピーしてきてくれませんか?」と言うだろう。これは山田さんに敬意を払ったわけではない、「発話の場」そのものに対する敬意である。また普段は私と「ちょっとぉ、まずいじゃんこれ!」的な言葉で話している友人が、SNSなどの書き込みの場では私にちゃっかりデスマス体で書き込んでくる。これは書き込みの場が公開で、ある意味公式性を帯びているからである。特に女性が「お水」「お寿司」「お酒」などと8を持ち出しがちなのも、要は自分も含めた発話状況を見ているから、「発話者が女性である状況」を考慮しているからと解釈できよう。私が丁寧語と美化語を同一のものとみているのはこれが理由である。
 丁寧語は「発話状況に対する敬意」だから、尊敬語とも謙譲語とも組み合わせて使える。後者二つは言語の指示対象への敬意であって、次元が違うからだ。「山田さんがいらっしゃった」「昨日寿司をいただいた」はそれぞれ敬語だけ、謙譲だけの形だが(それぞれ1と4)、これに丁寧を加えると「山田さんがいらっしゃいました」(1+9)、「昨日寿司を頂きました」(1+9)または「昨日お寿司をいただきました」(1+8+9)となる。尊敬と謙譲は機能が矛盾するので共存できない。「*山田さんがうかがわれた」(3+4)、「*山田さんが寿司をおめしあがりした」(1+5)、「*山田さんが寿司をおいただきになった」(2+3)、「*山田さんが寿司をお食べされた」(3+5)などは皆同一文内で尊敬と謙譲がかち合ってしまっているから非文となる。
 では「尊敬語だけ」の文と「尊敬語+丁寧語」はどう使い分けたらいいのか。例えば「昨日山田さんがいらっしゃった」と「昨日山田さんがいらっしゃいました」の使い分けである。指示対象の山田氏に対する尊敬の念はどちらも同じだ。これも「丁寧語は発話場面への配慮」で説明できる。後者は人との会話、つまり他人の存在を考慮しなければいけない場面で使う。その他人も家族や「俺お前」的な親しい友人ではなく、普通に距離のある人とする。そういう人との会話は公式性を帯びるから配慮が必要だ。それで発話状況への敬意意識が働いて尊敬語に丁寧語がプラスされるのである。これに対して前者「昨日山田さんがいらっしゃった」は人目を気にする必要のない場面、発話状況への敬意が必要でない場合で使う。典型的なのが日記であろう。見ているのは自分だけで周りに配慮する必要などない。しかしたとえ一人でいる時でも山田さんには敬意を持っている。そういうときは尊敬語のみでいいのだ。

 このように丁寧語は尊敬、謙譲と共存できるが、上で述べたように尊敬と謙譲は共存できない。しかし尊敬同士、謙譲同士なら矛盾しないから重なることができる。「昨日山田さんがいらっしゃられた」は置き換えと動詞変化型の敬語がダブっているから1+3だ。1も3も敬語だから矛盾がない。「おめしあがりになった」は1+2。「おめしあがりになられた」は敬語が全員集合で1+2+3である。2と3の重複は常に可能だが、1の尊敬語動詞には2を作れないものもあるので(「*おいらっしゃいになる」は非文)注意が必要。上でも見たが尊敬動詞でない普通の動詞でも2が効かないものは結構ある。
 謙譲も理論的には上乗せができるが、尊敬語よりさらに制限が厳しい。いや、制限が厳しいというより形としては可能だが実際はNGという方が圧倒的に多い。理由は簡単だ。謙譲語をダブらせるには4+5という方法を取るしかないが、上で見たように5には意味の制限があるからである。「お参りする」は神社やお寺に行く時しか使えないし、「いる」という意味での「おおりする」はNG過ぎて日本語になっていない。「おいただきする」もダメ。結局私の感覚ですんなりダブれるのは「おうかがいする」だけである。「お申しする」「おさしあげする」も私はギリギリでOKだとは思うが、不自然でとても「すんなりダブれる」とはいえない。
 ではこの三原則、1.尊敬と謙譲はダブれない、2.丁寧は尊敬、謙譲とダブれる、3.尊敬、謙譲、丁寧はそれぞれ上乗せできるという原則を考慮して「田中さんが寿司を食べた」という中立文から生成できる敬語形を考えてみよう。理論的には次のような形が可能である。文の前にパターン番号を示した。わかりやすいように尊敬語は水色、謙譲語は黄色、丁寧語は緑色にした。理論上は可能だが実際にはNGな文には*をつけてある。

中立:田中さんが寿司を食べる。
1:田中さんが寿司を召し上がる。
2:田中さんが寿司をお食べになる。
3:田中さんが寿司を食べられる。
1+2:田中さんが寿司をお召し上がりになる。
1+3:田中さんが寿司を召し上がられる。
2+3:田中さんが寿司をお食べになられる。
1+2+3:田中さんが寿司をお召し上がりになられる。
9:田中さんが寿司を食べます。
1+9:田中さんが寿司を召し上がります。
2+9:田中さんが寿司をお食べになります。
3+9:田中さんが寿司を食べられます。
1+2+9:田中さんが寿司をお召し上がりになります。
1+3+9:田中さんが寿司を召し上がられます。
2+3+9:田中さんが寿司をお食べになられます。
1+2+3+9:田中さんが寿司をお召し上がりになられます。
8:田中さんがお寿司を食べる。
8+1:田中さんがお寿司を召し上がる。
8+2:田中さんがお寿司をお食べになる。
8+3:田中さんがお寿司を食べられる。
8+1+2:田中さんがお寿司をお召し上がりになる。
8+1+3:田中さんがお寿司を召し上がられる。
8+2+3:田中さんがお寿司をお食べになられる。
8+1+2+3:田中さんが寿司をお召し上がりになられる。
8+9:田中さんがお寿司を食べます。
8+1+9:田中さんがお寿司を召し上がります。
8+2+9:田中さんがお寿司をお食べになります。
8+3+9:田中さんがお寿司を食べられます。
8+1+2+9:田中さんがお寿司をお召し上がりになります。
8+1+3+9:田中さんがお寿司を召し上がられます。
8+2+3+9:田中さんがお寿司をお食べになられます。
8+1+2+3+9:田中さんが寿司をお召し上がりになられます。
4:田中(さん)が寿司をいただく。
5:田中(さん)が寿司をお食べする。
4+5:田中(さん)が寿司をおいただきする。
4+9:田中(さん)が寿司をいただきます。
5+9:田中(さん)が寿司をお食べします。
4+5+9:田中(さん)が寿司をおいただきします。
8+4:田中(さん)がお寿司をいただく。
8+5:田中(さん)がお寿司をお食べする。
8+4+5:田中(さん)がお寿司をおいただきする。
8+4+9:田中(さん)がお寿司をいただきます。
8+5+9:田中(さん)がお寿司をお食べします。
8+4+5+9:田中(さん)がお寿司をおいただきします。

謙譲語の主語には敬称がない方がいいので「さん」を括弧に入れた。この「敬称」だが、ここでは私は次の理由で体系としての敬語とは見なさなかった。第一に敬称は閉じた体系をなしていない。言い換えると文法ではなく語用論の範疇だ。日本語は人称表現もそうだが、一人称でも「私」「俺」「拙者」など理論的には無制限に選択肢があり、そのどれを使っても文法的に間違っているわけではない。会話で地雷を踏むだけである。なお「理論的に無制限」と書いたのは時々教養のない女性や子供が自分のことを名前で言うからだ。「私はこれが欲しい」と言う代わりに「由美子はこれが欲しい」と言ったりする。つまり理論的には人の名前の数だけ一人称表現があることになるからだ。話が逸れたが、第二の理由は敬称なんてものはあらゆる言語に存在していて日本語特有の現象でなく、そこまで言い出したら始まらないからだ。ご都合主義で恐縮だが。
 「*おいただきする」のように完全な非文ではないが「お食べする」もちょっと苦しいとは思った。でもこれを使える状況がないではないのでOKと見なした。例えば寿司が大嫌いで全く食べられない偉い先生が宴会で「私は寿司が食べられない。でも手つかずで下げさせるのは失礼すぎる。誰か食べてくれませんかこれ?」と言い出した。そこで私が部下の田中に命じて手伝わせることにし、先生に言う。「あ、では田中がお食べします」。やはりちょっと苦しいか。
 このように「田中さんが寿司を食べる」からは理論的に43の敬語表現、そこから不可能形を引いて39の敬語表現が生成できるが、パターン1とパターン4、置き換え作戦が効かない動詞の方がずっと多い。それだとありがたいことに生成可能な敬語の数がずっと少なくなる。「書く」を見てみよう。

中立:田中さんが手紙を書く。
2:田中さんが手紙をお書きになる。
3:田中さんが手紙を書かれる。
2+3:田中さんが手紙をお書きになられる。
9:田中さんが手紙を書きます。
2+9:田中さんが手紙をお書きになります。
3+9:田中さんが手紙を書かれます。
2+3+9:田中さんが手紙をお書きになられます。
8:田中さんがお手紙を書く。
8+2:田中さんがお手紙をお書きになる。
8+3:田中さんがお手紙を書かれる。
8+2+3:田中さんがお手紙をお書きになられる。
8+9:田中さんがお手紙を書きます。
8+2+9:田中さんがお手紙をお書きになります。
8+3+9:田中さんがお手紙を書かれます。
8+2+3+9:田中さんがお手紙をお書きになられます。
5:田中(さん)が手紙をお書きする。
5+9:田中(さん)が手紙をお書きします。
8+5:田中(さん)がお手紙をお書きする。
8+5+9:田中(さん)がお手紙をお書きします。

可能な尊敬語の形が一挙に19に減る。これが自動詞になると8が効かなくなるからさらに激減するが、その代わり上でもここでもパターン7を考察に入れなかったから、例えば「田中さんがあそこで寿司を食べた」などと言う文は敬語の数が43より激増するはずだ。考えただけで眩暈がするが、7を仲間外れにするのも可哀そうなので、自動詞を使った「田中さんがそこへ行く」という文から敬語を生成してみよう。

中立:田中さんがそこへ行く。
1:田中さんがそこへいらっしゃる。
2:田中さんがそこへお行きになる。
3:田中さんがそこへ行かれる。
1+2:田中さんがそこへおいらっしゃり(い)になる。
1+3:田中さんがそこへいらっしゃられる。
2+3:田中さんがそこへお行きになられる。
1+2+3:田中さんがそこへおいらっしゃり(い)になられる。
9:田中さんがそこへ行きます。
1+9:田中さんがそこへいらっしゃいます。
2+9:田中さんがそこへお行きになります。
3+9:田中さんがそこへ行かれます。
1+2+9:田中さんがそこへおいらっしゃり(い)になります。
1+3+9:田中さんがそこへいらっしゃられます。
2+3+9:田中さんがそこへお行きになられます。
1+2+3+9:田中さんがそこへおいらっしゃり(い)になられます。
7:田中さんがそちらへ行く。
7+1:田中さんがそちらへいらっしゃる。
7+2:田中さんがそちらへお行きになる。
7+3:田中さんがそちらへ行かれる。
7+1+2:田中さんがそちらへおいらっしゃり(い)になる。
7+1+3:田中さんがそちらへいらっしゃられる。
7+2+3:田中さんがそちらへお行きになられる。
7+1+2+3:田中さんがそちらへおいらっしゃり(い)になられる。
7+9:田中さんがそちらへ行きます。
7+1+9:田中さんがそちらへいらっしゃいます。
7+2+9:田中さんがそちらへお行きになります。
7+3+9:田中さんがそちらへ行かれます。
7+1+2+9:田中さんがそちらへおいらっしゃり(い)になります。
7+1+3+9:田中さんがそちらへいらっしゃられます。
7+2+3+9:田中さんがそちらへお行きになられます。。
7+1+2+3+9:田中さんがそちらへおいらっしゃり(い)になられます。
4:田中(さん)がそこに参る。
5:田中(さん)がそこにお行きする。
4+5:田中(さん)がそこにお参りする。
4+9:田中(さん)がそこに参ります。
5+9:田中(さん)がそこにお行きします。
4+5+9:田中(さん)がそこにお参りします。
7+4:田中(さん)がそちらに参る。
7+5:田中(さん)がそちらにお行きする。
7+4+5:田中(さん)がそちらにお参りする。
7+4+9:田中(さん)がそちらに参ります。
7+5+9:田中(さん)がそちらにお行きします。
7+4+5+9:田中(さん)がそちらにお参りします。

計算上は「田中さんが寿司を食べる」の場合と同じ数の敬語形、43形が生成され得るが、動詞「行く」ではパターン1と2の組み合わせが不可能なことと、上でも述べたような謙譲語での意味制限がより厳しくなるので、許容できるのは31個。さらにその中にも「激しく無理っぽい」形があり(?印をつけたのがそれ)、それを引けば残るのは27個だ。

 始めに言ったように敬語は確かに「楽勝」とは行かない。ネイティブの私さえ「めんどくさいなこりゃ」とゲンナリするほどだ。敬語の使いかたに失敗して無教養者扱いされる日本人がいるのも納得である。しかし繰り返すが、まず1から9までの敬語の種類&作り方対応表をしっかり頭に叩き込む、そうしておいて「組み合わせ方三原則」、敬語を謙譲は共存不可、丁寧は双方と共存可、同じ種類の敬語は上乗せ可ということを学習者に覚えさせれば少なくとも道に迷ってどうにもならなくなることは避けられる。わからなくなったらいつでも対応表と三原則を見直してみればいいからだ。

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