日本語に「弾よけ」という言葉がある。非戦闘員(兵士でもいいが)が配置の具合で戦場の矢面に立ってしまったりして、無防備で敵の攻撃に曝された場合、「これではまるで弾よけだ」と表現する。 そういう場所に立たされた非戦闘員の方も「俺達を弾よけにするつもりか?!」と言って怒る。
ドイツ語ではこの「弾よけ」をKanonenfutter(カノーネンフッター)、つまり「大砲のエサ」と言う。この言い方、ヒドくないだろうか?日本語の「弾よけ」なら一応理屈としては後方部隊の役に立ったというニュアンスがあるが、「エサ」だと単に犬死しただけだ。さらに「弾よけ」は無生物にも使え、たとえばクリント・イーストウッドが『荒野の用心棒』のラストで胸からぶら下げていた自作の鉄板も「弾よけ」だが、「エサ」は生物に対してのみ使用可で妙にナマナマしい色合い。
独和辞典ではこのKanonenfutterを「弾丸の餌食」と訳してある。Kanoneは本来は「弾丸」でなく「大砲」という意味だから、ウルサク言えば「大砲の餌食」となるところで、「弾・弾丸」なら本当はKugelなのだが、「大砲」か「弾丸」かの違いはこの際どちらでもいいと思う。引っかかるのはむしろ「餌食」という言い回しのほうだ。これでは語感が離れすぎてて誤訳に近い感じ。「弾丸の餌食」という言葉はたとえば、兵士が壁の厚さ50cmのトーチカの中にいたのに運悪く狭い覗き穴から入ってきた弾に額をぶち抜かれて即死した場合にも使える。「彼はトーチカの中にいたのに弾丸の餌食になった」とか表現できる。が、ドイツ語のKanonenfutterはそういう時には使えない。これが使えるのは「弾の飛び交う戦場のど真ん中を無防備でビービー走り回り、当ててくださいと言わんばかりの人」に対してだけだ。 あくまでエサなのだから向こうが食べやすいようこちらから出向いて行かなければいけない。
ちなみに手元の独露辞典を引いてみたらKanonenfutterはпушечное мясо(プーシェチノエ・ミャーサ)というそうだ。直訳すると「大砲用の肉」だ。「エサ」よりさらにナマナマしい。話は飛ぶが、пушечноеというのは「大砲の」という形容詞だが、これの元になる「大砲」という言葉はпушка(プーシカ)で、ここから『8.ツグミヶ原』の項で述べた造語メカニズムによって作られた苗字が例のПушкин(プーシキン)である。
さて、実はドイツ語には意味的には「弾よけ」に近いmenschlicher Schutzschild(メンシュリッヒャー・シュッツシルト)という言葉があることはある。でもこれは日本語で「人間の盾」と訳されているように堅い専門用語的ニュアンスが強く、戦闘の悲惨さ、残酷さ、あるいは司令官の道徳性の欠如といった深刻な意味合いが前面に出ていて「弾よけ」あるいはKanonenfutterのような自虐的なユーモア性は全くない。
この「語感」というのは相当の曲者で、私は未だに「指示対象、つまり意味としては合っているのだが、ニュアンスが違いすぎる語」を知らずに使って大笑いされるか、座をシーンと静まり返らせてしまう(こっちの方がずっと危険だ)ことが頻繁にある。会話で使ってしまうならまだしも、ときどき変な言葉をちゃんとした文章で書いてしまったりするから危ない。この辺の語選択はやっぱりネイティブでないと駄目だ。
もう1つ気にかかっている言い回しにes handelt sich bei A um B というのがある。handeltは英語のhandles(動詞の3人称単数)、sichは再帰代名詞だからいわば英語のitself、umは「を巡って」という意味、beiは「において」とか「のところで」という意味のそれぞれ前置詞なので、無理矢理英語に直訳するとit handles itself by A around Bだ。そのままでは何の事だかわかりにくいが辞書を引くと、手元の独和辞典にはbei Aのないes handelt sich um Bという形しか出ておらず、意味として「Bの事が扱われている、Bが問題(重要・話題)である。Bに関係している」とある。こう 出られれば普通の神経の者ならbei A 付きのes handelt sich bei A um Bの意味は「AにおいてはBが問題となっている」「AのところではBが扱われている」という意味だと思うだろう。ところがこれがそうではないのだ。bei Aが付くと意味がガラリと変わり、es handelt sich bei A um Bはずばり「AはBである」、つまりこの形は機能としてはコピュラ(繋辞)なのである。たとえば以下の例はアイザック・アシモフ氏のThe Relativity of Wrong(1988)のドイツ語訳にあったものだが、ちょっと見てほしい。2つ目のセンテンスがこのes handelt sich bei A um Bのパターンである。
Der Benzolring besteht aus sechs ringförmig angeordneten Kohlenstoffatomen, wobei an jeden Kohlenstoffatom ein Wasserstoffatom hängt. Es handelt sich dabei um eine sehr stabile Atomgruppe, die im Körper sehr wahrscheinlich nicht zerstört wird.
dabeiはda + beiで、daは本来「ここ」という場所的な意味だから辞書を鵜呑みにすると、次のように訳さざるを得ない。太字の部分を見てみてほしい。
ベンゾール環は輪状をなした6つの炭素原子からなっているが、そこの炭素原子の一つ一つにそれぞれ水素原子が一つついている。ここでは、体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群が問題になっている。
これで文の意味が通じるだろうか?少なくとも私には最初のセンテンスと2つ目のセンテンスの意味が全然つながらない。ここの2つ目のセンテンスはコピュラ(繋辞)構造として「これは体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群である」と訳さないと意味が通じない。daは「ここ」ではなくて「これ」となるわけである。実は私もドイツ語を習い始めのころ、独和辞典を鵜呑みにしてしまったせいでこの文を上のように解釈し、今ひとつ理解できなくて往生した。ところがその後もこのbei A付き構造は学術的な文章はもちろん、普通の新聞の論説などでも頻繁に見かけたため、さすがの私も文脈から推して、これは擬似コピュラなのだと思い至った。ある意味ではこちらのbei Aのある形のほうがずっと重要なのに辞書にはまったく出ていない。これはドイツ語学習者はbei Aなしのes handelt sich um Bの意味、つまり「Bが問題である」からbei A付きの「AはBである」を誰でもたやすく推論できるはずだということか?私にはできないのだが。
ずっと後になってから独英辞典を引いてみたら、sich um A handelnは確かにto be a matter of A, to concern A とあったが、
es handelt sich bei diesen angeblichen UFOs um optische Täuschungen
というbei A付きのほうはちゃんと私が予想したように、
these alleged UFOs are simply optical illusions
としっかりコピュラで言い換えてある。しかもこのbei A付き構造の重要性を強調すべく、このほかにもいくつもいくつも例文を載せてそのすべてをA=Bで言い換えて見せ、この構文が機能的にはコピュラだということが学習者の頭にしっかり刻み込まれるよう配慮してある。たまたま私の持っていた独和辞典に出ていないだけなのかと思って家にある独和辞典を4冊調べてみたが、どれにも載っていなかった。辞書が古いせいかもしれない。最新の独和辞典にはこの擬似コピュラは説明されているのだろうか。
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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ドイツ語ではこの「弾よけ」をKanonenfutter(カノーネンフッター)、つまり「大砲のエサ」と言う。この言い方、ヒドくないだろうか?日本語の「弾よけ」なら一応理屈としては後方部隊の役に立ったというニュアンスがあるが、「エサ」だと単に犬死しただけだ。さらに「弾よけ」は無生物にも使え、たとえばクリント・イーストウッドが『荒野の用心棒』のラストで胸からぶら下げていた自作の鉄板も「弾よけ」だが、「エサ」は生物に対してのみ使用可で妙にナマナマしい色合い。
独和辞典ではこのKanonenfutterを「弾丸の餌食」と訳してある。Kanoneは本来は「弾丸」でなく「大砲」という意味だから、ウルサク言えば「大砲の餌食」となるところで、「弾・弾丸」なら本当はKugelなのだが、「大砲」か「弾丸」かの違いはこの際どちらでもいいと思う。引っかかるのはむしろ「餌食」という言い回しのほうだ。これでは語感が離れすぎてて誤訳に近い感じ。「弾丸の餌食」という言葉はたとえば、兵士が壁の厚さ50cmのトーチカの中にいたのに運悪く狭い覗き穴から入ってきた弾に額をぶち抜かれて即死した場合にも使える。「彼はトーチカの中にいたのに弾丸の餌食になった」とか表現できる。が、ドイツ語のKanonenfutterはそういう時には使えない。これが使えるのは「弾の飛び交う戦場のど真ん中を無防備でビービー走り回り、当ててくださいと言わんばかりの人」に対してだけだ。 あくまでエサなのだから向こうが食べやすいようこちらから出向いて行かなければいけない。
ちなみに手元の独露辞典を引いてみたらKanonenfutterはпушечное мясо(プーシェチノエ・ミャーサ)というそうだ。直訳すると「大砲用の肉」だ。「エサ」よりさらにナマナマしい。話は飛ぶが、пушечноеというのは「大砲の」という形容詞だが、これの元になる「大砲」という言葉はпушка(プーシカ)で、ここから『8.ツグミヶ原』の項で述べた造語メカニズムによって作られた苗字が例のПушкин(プーシキン)である。
さて、実はドイツ語には意味的には「弾よけ」に近いmenschlicher Schutzschild(メンシュリッヒャー・シュッツシルト)という言葉があることはある。でもこれは日本語で「人間の盾」と訳されているように堅い専門用語的ニュアンスが強く、戦闘の悲惨さ、残酷さ、あるいは司令官の道徳性の欠如といった深刻な意味合いが前面に出ていて「弾よけ」あるいはKanonenfutterのような自虐的なユーモア性は全くない。
この「語感」というのは相当の曲者で、私は未だに「指示対象、つまり意味としては合っているのだが、ニュアンスが違いすぎる語」を知らずに使って大笑いされるか、座をシーンと静まり返らせてしまう(こっちの方がずっと危険だ)ことが頻繁にある。会話で使ってしまうならまだしも、ときどき変な言葉をちゃんとした文章で書いてしまったりするから危ない。この辺の語選択はやっぱりネイティブでないと駄目だ。
もう1つ気にかかっている言い回しにes handelt sich bei A um B というのがある。handeltは英語のhandles(動詞の3人称単数)、sichは再帰代名詞だからいわば英語のitself、umは「を巡って」という意味、beiは「において」とか「のところで」という意味のそれぞれ前置詞なので、無理矢理英語に直訳するとit handles itself by A around Bだ。そのままでは何の事だかわかりにくいが辞書を引くと、手元の独和辞典にはbei Aのないes handelt sich um Bという形しか出ておらず、意味として「Bの事が扱われている、Bが問題(重要・話題)である。Bに関係している」とある。こう 出られれば普通の神経の者ならbei A 付きのes handelt sich bei A um Bの意味は「AにおいてはBが問題となっている」「AのところではBが扱われている」という意味だと思うだろう。ところがこれがそうではないのだ。bei Aが付くと意味がガラリと変わり、es handelt sich bei A um Bはずばり「AはBである」、つまりこの形は機能としてはコピュラ(繋辞)なのである。たとえば以下の例はアイザック・アシモフ氏のThe Relativity of Wrong(1988)のドイツ語訳にあったものだが、ちょっと見てほしい。2つ目のセンテンスがこのes handelt sich bei A um Bのパターンである。
Der Benzolring besteht aus sechs ringförmig angeordneten Kohlenstoffatomen, wobei an jeden Kohlenstoffatom ein Wasserstoffatom hängt. Es handelt sich dabei um eine sehr stabile Atomgruppe, die im Körper sehr wahrscheinlich nicht zerstört wird.
dabeiはda + beiで、daは本来「ここ」という場所的な意味だから辞書を鵜呑みにすると、次のように訳さざるを得ない。太字の部分を見てみてほしい。
ベンゾール環は輪状をなした6つの炭素原子からなっているが、そこの炭素原子の一つ一つにそれぞれ水素原子が一つついている。ここでは、体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群が問題になっている。
これで文の意味が通じるだろうか?少なくとも私には最初のセンテンスと2つ目のセンテンスの意味が全然つながらない。ここの2つ目のセンテンスはコピュラ(繋辞)構造として「これは体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群である」と訳さないと意味が通じない。daは「ここ」ではなくて「これ」となるわけである。実は私もドイツ語を習い始めのころ、独和辞典を鵜呑みにしてしまったせいでこの文を上のように解釈し、今ひとつ理解できなくて往生した。ところがその後もこのbei A付き構造は学術的な文章はもちろん、普通の新聞の論説などでも頻繁に見かけたため、さすがの私も文脈から推して、これは擬似コピュラなのだと思い至った。ある意味ではこちらのbei Aのある形のほうがずっと重要なのに辞書にはまったく出ていない。これはドイツ語学習者はbei Aなしのes handelt sich um Bの意味、つまり「Bが問題である」からbei A付きの「AはBである」を誰でもたやすく推論できるはずだということか?私にはできないのだが。
ずっと後になってから独英辞典を引いてみたら、sich um A handelnは確かにto be a matter of A, to concern A とあったが、
es handelt sich bei diesen angeblichen UFOs um optische Täuschungen
というbei A付きのほうはちゃんと私が予想したように、
these alleged UFOs are simply optical illusions
としっかりコピュラで言い換えてある。しかもこのbei A付き構造の重要性を強調すべく、このほかにもいくつもいくつも例文を載せてそのすべてをA=Bで言い換えて見せ、この構文が機能的にはコピュラだということが学習者の頭にしっかり刻み込まれるよう配慮してある。たまたま私の持っていた独和辞典に出ていないだけなのかと思って家にある独和辞典を4冊調べてみたが、どれにも載っていなかった。辞書が古いせいかもしれない。最新の独和辞典にはこの擬似コピュラは説明されているのだろうか。
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