アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:コピュラ

 日本語に「弾よけ」という言葉がある。非戦闘員(兵士でもいいが)が配置の具合で戦場の矢面に立ってしまったりして、無防備で敵の攻撃に曝された場合、「これではまるで弾よけだ」と表現する。 そういう場所に立たされた非戦闘員の方も「俺達を弾よけにするつもりか?!」と言って怒る。
 ドイツ語ではこの「弾よけ」をKanonenfutter(カノーネンフッター)、つまり「大砲のエサ」と言う。この言い方、ヒドくないだろうか?日本語の「弾よけ」なら一応理屈としては後方部隊の役に立ったというニュアンスがあるが、「エサ」だと単に犬死しただけだ。さらに「弾よけ」は無生物にも使え、たとえばクリント・イーストウッドが『荒野の用心棒』のラストで胸からぶら下げていた自作の鉄板も「弾よけ」だが、「エサ」は生物に対してのみ使用可で妙にナマナマしい色合い。
 独和辞典ではこのKanonenfutterを「弾丸の餌食」と訳してある。Kanoneは本来は「弾丸」でなく「大砲」という意味だから、ウルサク言えば「大砲の餌食」となるところで、「弾・弾丸」なら本当はKugelなのだが、「大砲」か「弾丸」かの違いはこの際どちらでもいいと思う。引っかかるのはむしろ「餌食」という言い回しのほうだ。これでは語感が離れすぎてて誤訳に近い感じ。「弾丸の餌食」という言葉はたとえば、兵士が壁の厚さ50cmのトーチカの中にいたのに運悪く狭い覗き穴から入ってきた弾に額をぶち抜かれて即死した場合にも使える。「彼はトーチカの中にいたのに弾丸の餌食になった」とか表現できる。が、ドイツ語のKanonenfutterはそういう時には使えない。これが使えるのは「弾の飛び交う戦場のど真ん中を無防備でビービー走り回り、当ててくださいと言わんばかりの人」に対してだけだ。 あくまでエサなのだから向こうが食べやすいようこちらから出向いて行かなければいけない。

 ちなみに手元の独露辞典を引いてみたらKanonenfutterはпушечное мясо(プーシェチノエ・ミャーサ)というそうだ。直訳すると「大砲用の肉」だ。「エサ」よりさらにナマナマしい。話は飛ぶが、пушечноеというのは「大砲の」という形容詞だが、これの元になる「大砲」という言葉はпушка(プーシカ)で、ここから『8.ツグミヶ原』の項で述べた造語メカニズムによって作られた苗字が例のПушкин(プーシキン)である。

 さて、実はドイツ語には意味的には「弾よけ」に近いmenschlicher Schutzschild(メンシュリッヒャー・シュッツシルト)という言葉があることはある。でもこれは日本語で「人間の盾」と訳されているように堅い専門用語的ニュアンスが強く、戦闘の悲惨さ、残酷さ、あるいは司令官の道徳性の欠如といった深刻な意味合いが前面に出ていて「弾よけ」あるいはKanonenfutterのような自虐的なユーモア性は全くない。
 この「語感」というのは相当の曲者で、私は未だに「指示対象、つまり意味としては合っているのだが、ニュアンスが違いすぎる語」を知らずに使って大笑いされるか、座をシーンと静まり返らせてしまう(こっちの方がずっと危険だ)ことが頻繁にある。会話で使ってしまうならまだしも、ときどき変な言葉をちゃんとした文章で書いてしまったりするから危ない。この辺の語選択はやっぱりネイティブでないと駄目だ。

 もう1つ気にかかっている言い回しにes handelt sich bei A um B というのがある。handeltは英語のhandles(動詞の3人称単数)、sichは再帰代名詞だからいわば英語のitself、umは「を巡って」という意味、beiは「において」とか「のところで」という意味のそれぞれ前置詞なので、無理矢理英語に直訳するとit handles itself by A around Bだ。そのままでは何の事だかわかりにくいが辞書を引くと、手元の独和辞典にはbei Aのないes handelt sich um Bという形しか出ておらず、意味として「Bの事が扱われている、Bが問題(重要・話題)である。Bに関係している」とある。こう 出られれば普通の神経の者ならbei A 付きのes handelt sich bei A um Bの意味は「AにおいてはBが問題となっている」「AのところではBが扱われている」という意味だと思うだろう。ところがこれがそうではないのだ。bei Aが付くと意味がガラリと変わり、es handelt sich bei A um Bはずばり「AはBである」、つまりこの形は機能としてはコピュラ(繋辞)なのである。たとえば以下の例はアイザック・アシモフ氏のThe Relativity of Wrong(1988)のドイツ語訳にあったものだが、ちょっと見てほしい。2つ目のセンテンスがこのes handelt sich bei A um Bのパターンである。

Der Benzolring besteht aus sechs ringförmig angeordneten Kohlenstoffatomen, wobei an jeden Kohlenstoffatom ein Wasserstoffatom hängt. Es handelt sich dabei um eine sehr stabile Atomgruppe, die im Körper sehr wahrscheinlich nicht zerstört wird.

dabeiはda + beiで、daは本来「ここ」という場所的な意味だから辞書を鵜呑みにすると、次のように訳さざるを得ない。太字の部分を見てみてほしい。

ベンゾール環は輪状をなした6つの炭素原子からなっているが、そこの炭素原子の一つ一つにそれぞれ水素原子が一つついている。ここでは、体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群が問題になっている。

 これで文の意味が通じるだろうか?少なくとも私には最初のセンテンスと2つ目のセンテンスの意味が全然つながらない。ここの2つ目のセンテンスはコピュラ(繋辞)構造として「これは体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群である」と訳さないと意味が通じない。daは「ここ」ではなくて「これ」となるわけである。実は私もドイツ語を習い始めのころ、独和辞典を鵜呑みにしてしまったせいでこの文を上のように解釈し、今ひとつ理解できなくて往生した。ところがその後もこのbei A付き構造は学術的な文章はもちろん、普通の新聞の論説などでも頻繁に見かけたため、さすがの私も文脈から推して、これは擬似コピュラなのだと思い至った。ある意味ではこちらのbei Aのある形のほうがずっと重要なのに辞書にはまったく出ていない。これはドイツ語学習者はbei Aなしのes handelt sich um Bの意味、つまり「Bが問題である」からbei A付きの「AはBである」を誰でもたやすく推論できるはずだということか?私にはできないのだが。

 ずっと後になってから独英辞典を引いてみたら、sich um A handelnは確かにto be a matter of A, to concern A とあったが、

es handelt sich bei diesen angeblichen UFOs um optische Täuschungen

というbei A付きのほうはちゃんと私が予想したように、

these alleged UFOs are simply optical illusions

としっかりコピュラで言い換えてある。しかもこのbei A付き構造の重要性を強調すべく、このほかにもいくつもいくつも例文を載せてそのすべてをA=Bで言い換えて見せ、この構文が機能的にはコピュラだということが学習者の頭にしっかり刻み込まれるよう配慮してある。たまたま私の持っていた独和辞典に出ていないだけなのかと思って家にある独和辞典を4冊調べてみたが、どれにも載っていなかった。辞書が古いせいかもしれない。最新の独和辞典にはこの擬似コピュラは説明されているのだろうか。


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 子供の頃、英語で「私には姉がいる」をI have a sisterというと聞いて驚愕したことをまだ覚えている。まず「姉」と「妹」を区別しないのに驚いたが、この文脈で「持つ」という動詞を使うのがまた意外だった。日本語ならここで英語のbe、ドイツ語のseinにあたる「ある・いる」という動詞で表現する。
この、「ある」か「持つ」か、つまりbeかhaveかという区別はよく議論されるテーマだそうで、そもそもの言いだしっぺはA・メイエとその弟子のE・バンヴェニストあたりらしい。「be言語」「have言語」という言葉も聞くが、実は私はいままであまり深く考えもせずにテキトーに(またかよ)これらの言葉を使っていた。私が理解していたのはだいたい次のようなことだ。
 大まかにいって現在のヨーロッパにおける印欧諸語がhave言語なのに対し、ヨーロッパでも非印欧語は、フィンランド語やハンガリー語などはbe言語である。 さらにロシア語を含む東スラブ諸語は日本語と同じくbeを使う、つまり「私には姉がいる」タイプだが、南スラブ諸語・西スラブ諸語は「私は姉を持っている」である。

 ところが実際はどうもそう単純に片付けられる問題ではないらしい。まず第一にヨーロッパ外の印欧語でもhaveを使うものや逆にヨーロッパの印欧語でもbeを使う例があるし、第二にそもそもhaveもbeも両方使う言語が多いので、これはhave言語、あれはbe言語とギッチリきれいに線引きすることはできない。ちょっと調べてみた。

 まずヨーロッパの非印欧語トルコ語は図式通りにbe言語で、そもそもhaveにあたる動詞がないそうだ。「ある」または「ない」にあたるvarとyokを使う。

bir ev-im var
一軒の + 家が-私の + ある
→ 私には家が一軒ある。(= 私は家を一軒持っている)

 
telefon-um yok
電話-私の + ない
→ 私には電話がない。(= 私は電話を持っていない)

ちなみにhaveをトルコ語辞書で引くとsahip olmakと出てくる。sahipが「所有者」(しかもアラビア語からの外来語)、olmakが「ある」だから、「○○の所有者である」と表現するしかないらしい。日本語ではここで「トルコ語にはhaveにあたる動詞がない」と「トルコ語はhaveにあたる動詞を持たない」の両方の表現が可能だから、それに比べてもトルコ語は相当ハードなbe言語だ。

 古モンゴル語もbe言語だったそうだが、トルコ語と違って「私」は属格でなく与格(処格)になる。

nadur morin buy
私に + 一匹の馬が + いる・ある
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)


 古グルジア語もbe。

ara ars čuen tana uprojs xut xueza puri
ある +(否定)+ 我々に + と共に + より多い + より + 5 + パンが
→ 我々には5個以上のパンがない。
(= 我々は5個以上のパンを持っていない)


 ところがこれと平行した構造は印欧語の古典ギリシア語でも成り立つそうだ。つまり古典ギリシア語はヨーロッパの印欧語のくせにbeも許すのだ。

ούχ εισίν ημιν πλειον ή πέντε άρτοι
(否定) + ある + 我々に + より + 多い + より + 5 +  パンが(複数主格)
→ 我々には5個以上のパンがない。

しかし古典ギリシャ語はその一方でhave構造も使うから油断できない。

Οὐκ ἔχω ἄνδρα
(否定) + 持つ(一人称単数)+ 夫を
→ 私は夫を持っていない (= 「私には夫がいない」)

 胸焼けがして来そうだが、ついでにヒッタイト語もbeを使ったそうだ。

tuqqa UL kuitki ešzi

このULというのは何なのかよくわからないのだが、とにかくtuqqaが「君に」、kuitkiがnothing、ešziが「ある・いる」で、全体としては「君には何もない」。ちなみにこのヒッタイト語というのはこれでも一応印欧語である。俄かには信じられないがそれでもešziというコピュラにちょっと印欧語らしさがのぞく。
 現代モンゴル語、現代グルジア語、現代ギリシャ語がどうなっているのか気にはなったのだが調べるのがメンド臭かったので(またかよ)先を続ける。

 さらなるヨーロッパ外の印欧語クルド語もbeを使うそうで、

min hespek heye
私に + 一匹の馬が + いる
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)

これに対してお隣の印欧語ペルシャ語はhaveを使うそうだ。人から聞いたところでは
man khahar daram
私(主格)+ 妹または姉 + 持つ(一人称・単数)
→ 私は姉(妹)を持っている (=私には姉(妹)がいる)

  
 もっとも、特に古典語はhaveを使った例があるからといって他方のbe(あるいはその逆)を使わなかったという証明にはならないところが辛い。構造としては許されているが、たまたま使用例が残っていなかっただけかもしれないのだ。言語問題と言うのは結局ネイティブスピーカーを捕まえて聞いてみるしかないのだが、古典語はそれができない。クルド語・ペルシャ語もちょっとネイティブスピーカーがつかまらなかったのでもう一方のバージョンが完全にNGなのかどうか確認はしていない。

「ヨーロッパの印欧語」ではロシア語が結構キッパリbe言語だと名付けられるので有名だ。「私には子供がいます」という時ロシア語でも「いる」を使うと聞いて「おお、日本語と同じじゃないか」と感動したのは私だけではないはずだ。

У меня есть ребёнок
のところに + 私の + いる・ある + 子供が
→ 私には子供がいる。

(日本語で「私は子供を持っている」は成り立たない)

南スラブ語のクロアチア語はhaveだ。ロシア語の「子供がいる形構造」に狂喜していた私はクロアチア語がhave言語ときいてガッカリしたものだ。

imam kuću
持つ(一人称単数) + 家を
→ 私は家を持っている。

(日本語では「私には家がある」も可能)

クロアチア語にはさらにhaveが非人称表現を作り、英語で言えばthere is Xをit has Xと表現するのだ。ima Xで、「Xがない、いない」だが、このimaというのは動詞「持つ」(不定形はimati)の3人称単数形である。ドイツ語もここで非人称表現を使ってes gibt X(it gives X)というから動詞は違っているが(geben=give)発想はそっくり。例えば授業の始めに出席を取るとき、「Aさんはいますか?」と聞くとき「ima li A?」といい、いるかどうか聞かれた学生は「ima!」(「いますよ!」)と言って手を挙げる。
 このように南スラブ諸語、あと基本的に西スラブ諸語もhave言語と言っていいが、ポーランド語は例外で両方OKらしい。

mam samochód
持つ(一人称単数)+ 自動車を
→ 私は自動車を持っている。

u jednego był długi muszkiet
~のところに + 一人の人の + あった + 長い + マスケットが
→ ある人のところに長いマスケット銃があった。


どうしてここで突然マスケット銃が出てくるのか面食らう例文だが、これは日本語では「持つ」を使って「ある人が長いマスケット銃を持っていた」と言ったほうが自然ではないか。(「長いマスケット銃」とわざわざ言っている、ということは「短いマスケット銃」というのもあるのか?)
 
 ウクライナ語も両方許されるそうで、

Я маю машину.
私 が + 持つ + 車を
→ 私は車を持っている。

У мене є машина.
~のところに + 私 + ある + 車が
→ 私には車がある。


はどちらもOK。ベラルーシ語も同じだそうだ。

 遡って古教会スラブ語ではhave構造が散見されるだが、面白いことにギリシア語のhave(έχειν)は必ずといっていいほど古教会スラブ語でもhave(imĕti)を使って訳してあるとのことだ。古教会スラブ語は南スラブ語だから、その子孫が現在を使っているのもうなずける。さらに実際はbe言語の(はずの)ロシア語も古いテキストではhaveを使っているのが見られるという。

 フランス語にも実は一見「~に~がある」に対応する構造est à moiがあるが、意味と言うか機能に少し差があるから注意を要する。ラテン語のest mihi liber(私には本がある)とhabeō librum(私は本を持っている)が同じ意味になるのとは違うのだ。be (être à)は定冠詞を取らないといけないし、have (avoir)は不定冠詞と使ったほうがずっと許容度が高いそうだ。

Ce livre est à moi.
* Un livre est à moi.

J’ai un livre.
? J’ai ce livre

 バンヴェニストは一般的に所有関係の表現はbeからhaveへ移行していくのであって、その逆ではない、という見解を述べている。古教会スラブ語とロシア語を比べて見るとちょっと待ったと言いたくなるが、長い目で見るとやっぱり全体的にはhaveへ移行中なのだろうか。日本語も昔は「会議がありました」以外考えられなかったのに最近は「会議が持たれました」という言い回しも聞くし、そのうち「私は子供を持っています」のほうが普通になるかもしれない。


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 もう大分前の本ではあるが、今でも時々別宮貞徳氏や河野一郎氏などの翻訳批評をパラパラめくり読みする。しかし実は私にとってこれらは面白いとばかりは言いきれないのである。別宮氏に「こんな英語のレベルは中学生。大学の学部どころか高校入試試験も通るまい」などとボロクソ言われている誤訳例の相当部が私だったら絶対やってしまいそうなものなので、読んでいて冷や汗の嵐だからだ。私は今まで自分の英語力は高校一年生レベルくらいはあるだろうと自惚れていたが、最近怪しくなってきた。実は中学生レベルなんじゃないのか?
 例えば別宮氏だったと思うが、下の英語を訳した翻訳者をケチョンケチョンにけなし、「よくこれで翻訳をやろうなんて気になるものだ」とまで罵倒しているのだが、ハイ、私もやってしまいました。

invasion ... from the Adriatic coast to the north

これを私はこの(駄目)訳者と同じく、しっかり「アドリア海沿岸から北へ向かった侵略」だと解釈してしまった。ところがこれは「こんなものは中学一年で皆習う」もので、

on the north of
in the north of

と同じく

to the north of

も「北方の、北にある」という意味だから、ここは「北方のアドリア海沿岸から(南方に向かった)侵略経路」とのことだ。つまり私の語学は中学レベルか。これを誤訳したヘボ訳者と私の違いは、私が自分は英語は(英語も)苦手である、と少なくとも自覚だけはしていることくらいだ。
 さて、こういう風に話題をそらすと自分のヘボ英語に対する負け惜しみのようで恐縮だが、このtoの話は非常に興味深いと思った。英語のtoに対応するドイツ語の前置詞zuにも「移動の方向・目的地」のほかに「いる場所」の意味があるからだ。

例えば

Ich fliege zu den USA.
飛行機でアメリカに行く

ではzuは目的地を示すが、

Universität zu Köln
ケルン(にある)大学

は存在の場所である。ただしネイティブによるとドイツ語では東西南北にzuは使えず

* Die Stadt ist zum Norden Mannheims
この町はマンハイムの北にある

は非文で、この場合はinを使って

Die Stadt ist im Norden Mannheims

と言わなければいけない。でもそういえば日本語では助詞の「に」は「東京に行く」と「東京にいる」の両方に使えるではないか。

 まあかように私は英語が出来ないのだが、逆方向、日本語のトンデモ英語訳の例のほうにはそのさすがの私でも笑えるものがたくさんある。どこで聞いたか忘れたが「あなたは癌です」を

You are cancer.

といったツワ者がいるそうだ。「お前は日本の癌だ」などという意味ならまあこれでいいかもしれないが、いくらなんでもこれは普通の人なら

You have cancer.

くらいはいうのではないだろうか。これがロシア語では『42.「いる」か「持つ」か』の項でも述べた通りゼロ動詞を使って

У меня рак.
by + me (生格) + cancer
私には癌がある → 私は癌です。

である。ついでにI am cancerはゼロコピュラで

Я - рак
I(主格)+ cancer

となる。それでさらに思い出したが、「春はあけぼの」という日本語を

Spring is dawn.

と直訳した人がいるそうだ。その調子で行ったらレストランで「私はステーキだ」と注文する時

I am a steak

とでも言う気か。レストランに行って自分のほうが食われてしまうなんてほとんど『注文の多い料理店』の世界ではないか。「春はあけぼの」は

In spring it is the dawn that is most beautiful.

と訳さないといけない。英語は印欧語特有の美しい形態素パラダイムをほとんど失っているので、こういう長ったらしい言い方しか出来ないのだ。本当に印欧語の風上にもおけない奴だ。ところがロシア語だとこれが

Весною рассвет
spring(単数造格) + dawn(単数主格)

とスッキリ二語で表せてしまう。私みたいな語学音痴だとうっかりどちらも主格を使って

Весна рассвет
spring(単数主格) + dawn(単数主格)

とかやってしまいそうで怖いが(I am cancerを笑えない)、それにしてもこのシンタクスの美しさはどうだろう。印欧語特有の上品さを完全に保持している。英語にはロシア語の爪の垢でも煎じて飲んで欲しいものだ。

 さらにロシア語では日本語の「私には○○と思われる」を日本語と同じく動詞「思う」を使って

Мне думается, что...
me(与格) + think(3人称現在単数)-再帰代名詞 + that

と言えるのである。英語やドイツ語だとここでthink(ドイツ語ではdenken)ではなく、「見える」とか「現れる」、seem、erscheinen、vorkommenを使うだろう。ここで動詞の後ろにくっ付いている-ся(母音の後だと-сь)というのは再起表現で大まかに言うと英語の-self、ドイツ語のsichに当たるのだが、ロシア語ではこの形態素が英独の再帰代名詞よりずっと機能範囲が広く、受動体や、この例のように自発的意味も受け持つのである。例えば;

受身のся
能動態
Опытный шофёр управляет машину.
experienced  + driver(単数主格)+ steers + machine(単数対格)
→ 経験のある運転手が自動車を操縦する

受動体
Машина управляется опытным шофёром.
machine(単数主格)+ steers itself + experienced + driver(単数造格)
→ 自動車が経験のある運転手に操縦される

可能のся
平叙文
Больной не спит.
patient(単数主格)+ not + sleep
→病人は眠らない

可能表現
Больному не спится.
patient(単数与格)+ not + sleep himself
→病人は眠れない

自発のся
平叙文
Я хочу спать
I(単数主格)+ want + to sleep
→私は眠りたい

自発表現
Мне хочется спать.
me(単数与格)+ want itself + to sleep
→私は眠い

 
上述のдумается(不定形はдуматься)もこの自発タイプと見ていいと思う。これら3つの用法、つまり受身、可能、自発の表現が日本語の「れる・られる」といっしょなのが面白い。

受身の「れる・られる」
能動態
議論する
受動体
議論される

可能の「れる・られる」
平叙文
よく眠る
可能表現
よく眠られる

自発の「れる・られる」
平叙文
昔の事を思い出す
自発表現
昔の事が思い出される

と、いうわけで私はロシア語はシンタクスが特に好きである。なのにいつだったか、よりによってロシア語のネイティブが日本語の「私には~と思われた」をIch dachte, dass...(I thought that...)と誤解釈しているのを見たことがあり、せっかく母語にМне думается, что...という素晴らしい表現があるのにこりゃ灯台下暗しじゃないかと思った。


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 変な言い方だが、言語にはどれもそれぞれ「売り」というものがある。日本語の売りは何と言っても主題・トピックを明確に表す形態素が存在するということだろう。ロシア語ならアスペクトが動詞のカテゴリーになっていること、タガログ語なら「焦点」をこれもまた形態素で表すこと、アルバニア語なら意外法 admirative の存在(『100.アドリア海の向こう側』参照)、ケルト語群ならVSO,そしてバスク語、タバサラン語、グルジア語なら能格、とまあいろいろある。さらに小泉保氏によればタバサラン語は62もの格があるそうだ。これも相当な売りである。
 スペイン語の売りはコピュラが二つあることなのではないだろうか。AはBである、A is B というのに場合によって ser というコピュラとestar というコピュラを使い分けるのである。どういう場合にどちらを使うかはさるネイティブが言っていたように「極めて微妙で使っているネイティブ本人にも説明できないことがあるから、外国人にはマスターするの無理だろ」。確かにその通りだろうがそれを言っちゃあオシマイという気がする。文法書にも「無理だ」などとは書かれておらず、凡そのガイドラインというか基本的な使い方は説明してあるし、無理だとわかってはいてもここに言語学的なアプローチをかける非ネイティブも大勢いる。

 ごく大雑把に言うとA=Bという構文で、BがAの本質的あるいは恒常的な性質を表す場合は ser、一時的または偶発的な性質・状態を描写する場合は estar を使う。このニュアンスの違いが最も明確に現れるのは述部が形容詞の場合だろう。

La vita es difícil.
the + life + ser.3.sg. + hard
人生はつらい

La vita está difícil (en astos días).
the + life + estar.3.sg. + hard) (in those days)
(ここのところ)生活がキツイ

Miguel es muy orgulloso.
Michael + ser.3.sg + very + proud
ミゲルは誇り高い人だ

Miguel está muy orgulloso de su éxito.
Michael + estar.3.sg + very + proud (of his success)
ミゲルは自分の成功を誇りにしている

Ese truco es sucio.
this + trick + ser.3.sg + dirty
このトリックは汚い

Ese coche está sucio.
this + car + estar.3.sg + dirty
この車は汚い

El señor Garrote es moreno
the + Mr. Garrote + ser.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は目と髪が黒い

El señor Garrote está moreno.
the + Mr. Garrote + estar.3.sg + brown, dark
ガローテ氏は日焼けしている

Sus ojos son rojos.
his + eyes + ser.3.pl. + red
彼の目は赤い色だ。(ウサギとか)

Sus ojos están rojos.
his + eyes + estar.3.pl. + red
彼の目は充血している。

Eres joven
ser.2.sg. + young
あなたは若い。

Estás joven
estar.2.sg. + young
あなたは若く見える。

つまりバーのホステスなどがなじみの客に「あ~ら、社長さん若いわね~」と言う場合には estar を使うわけだ。文法を知らないとおちおち水商売もできない。

 これらの例はまだなるほどと思うが、

es nuevo
ser.3.sg + new 
新品だ。

está nuevo
estar.3.sg + new        
新品価格だ。

とかいう例を見せられるとそろそろ「微妙すぎて外国人にはマスターできない」というネイティブ氏の言葉が頭をよぎるようになる。さらに英語の how is she?、クロアチア語(『60.家庭内の言語』も参照)の Kako su? (3.sg.) にあたる表現にも

¿Cómo es Isabel? 
how + ser.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな人だ?

¿Cómo está Isabel?
how + estar.3.sg + Isabel?
イサベルはどんな具合だ?

の2バージョンが可能であり、前者には

(Ella) es muy simpática.
(she) + ser.3.sg + very + kind
とても親切な人だ。

後者には

(Ella) está muy simpática últimamente.
(she) + estar.3.sg + very + kind + lately
最近とても親切だよ

あるいは

(Ella) está muy bien.
(she) + estar.3.sg + very + well
とても元気だよ

などと答える。本にはこれより微妙な例が並んでいるがどうせ私には理解できないのでもうやめる。

 さて、この ser か estar かの話になると比較として頻繁に持ち出されるのがロシア語である。似たような区別があるからだ。ただしこちらはコピュラそのものはひとつで述部の形容詞のほうが形を変える。
 ロシア語には形容詞の変化パラダイムが短形、長形の二種あり、後者は付加語としても文の述部としても、つまり A=B の Bの部分としても使えるが、前者は述部としてしか使われない。言い換えると形としては主格しかないのだ。その述部としての短形対長形のニュアンスの差は当該事象が「一時的」か「恒常的」か、あるいは「状態」か「性質」かの違いであると文法書などでは定義してある。例えば、

Мальчик здоров.
boy + (is) + healthy-.m.sg.
Мальчик здоровый.
boy + (is) + healthy-.m.sg.

では、上の短形は今現在、対話の時点で健康だという意味なのに対し、下の長形を使うとこの少年は滅多に病気をしないタイプということになる。コピュラがないじゃないかとお思いになるかもしれないが、ロシア語は現在時称ではゼロコピュラを許す、というよりゼロがデフォだからだ。コピュラが必須になるのは過去形かと未来形のみである。さらにニュアンスというより意味そのものが短形・長形で違ってくることがあって

Он жив.
he + (is) + living-.m.sg. -> alive
Он живой.
he + (is) + living-.m.sg. -> lively

では短形は「彼は生きている」だが、長形は「彼は生き生きとしている」である。また

Китайский язык труден.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.
Китайский язык трудный.
Chinese + language + (is) + hard-m.sg.

だと短形は「自分には難しすぎて中国語ワカンネ」だが、長形は「中国は難しい」という一般的な意味だ。

 この短長二つの形の意味の差が「状態」か「本質」か、あるいは「一時的」か「恒常的」かの対立に帰されることはスペイン語の ser 対 estar と似ているが、Ljudmila Geist という言語学者がこの二つの対立は必ずしもイコールではないことを指摘している。例えば

Пространство бесконечно.
universe +  (is) + endless-.n.sg.
宇宙は無限だ。

で短形を使うのは、これが一時的なことだからではなく、恒常的ではあるが「状態」であるからだそうだ。このように細かく見ていくと違いはあるが、基本的にはロシア語の短形・長形のニュアンスの違いがスペイン語の ser 対 estar と似ているのがわかる。

 ロシア語にはさらに形容詞の長形が述部に立つと、主格をとる場合と造格をとる場合がある。主格しかない短形と違う点だ。ただし長形造格が述部になれるのは過去時称と未来時称。あるいは接続法の場合のみで現在時称では使えない。つまりゼロコピュラと長形造格の組み合わせは不可能なのである。その代わりというと変だが、述語で造核になれるのは形容詞ばかりではなく、名詞も造格に立てる。

名詞による述語
Анна была учительница.
Anna + was + teacher-.sg.
Анна была учительницей.
Anna + was + teacher-.sg.
アンナは教師だった。

形容詞による述語
Ирина была добрая.
Irina + was + good-natured-.f.sg
Ирина была доброй.
Irina + was + good-natured-.f.sg
イリーナはいい奴だった。

この主格と造格の違いもスペイン語の ser 対 estar、ロシア語形容詞の短形対長形の里似ていて、主格だと「アンナは生きている間教師をしていた」「イリーナはいい人でしたねえ」だが、造格では「(今はそうじゃないけど)アンナって昔教師だったんだよね」「(昔は)イリーナもいい奴だったんだけどねえ」である。一時的か恒常的かの差に帰せそうだ。だから時間を区切る表現が文内に来ると主格は使えない。それで * をつける。

* Он несколько лет был директор.
he + several years + was + director-
Он несколько лет был директором.
he + several years + was + director-
彼は何年間か所長だった。

ところが「時間の制限がない」ことを明確に表した場合、主・造どちらもOKになることがあるから、この二つの差は単純に時間制限の有無だけから来るのではないことがわかる。

Пушкин всегда был великий поэт.
Pushkin + was + always +great- + poet-主
Пушкин всегда был великим поэтом.
Pushkin + was + always +great- + poet-造
プーシキンは常に偉大な詩人だった。

その次に主格・造格の差を「本質的なもの」か「偶発的なもの」かと見るやり方がある。例えば上のアンナは「教師だった」という文の場合、主格は「生涯教師」というよりも「アンナは人格から見ても教師にうってつけ。教師こそライフワーク」、つまり教師ということがアンナの本質と見るのに対し、造格だとアンナがいわゆるデモシカ教師ということになる。これもなるほどと思うがやはり説明できない例がある。

Анна была дочерью врача.
Anna +  was + daughter-+ doctor’s
アンナは医者の娘だった。

確かにこれを「子供は両親を選べない。全てのものは流転する、パンタ・レイ」という意味で「偶発的な事象」と無理やり解釈できないこともないが、誰の子供か、どういう生まれか、ということはやはりその人物にとって本質的なことだろう。

 Geist 氏はこの他にも主格造格の意味の差を定義する様々な説をあげ、ひとつひとつそれらについての例外現象を挙げていく。そしてこの二つの違いの本質を詳細に分析しているのだが、まずコピュラ文そのものを二つのタイプに分類して

1.[быть + NP造]はシチュエーション内での対象の特性を描写する(特性は恒常的なものでも一時的なものでもありうる)
2.[быть + NP主]は対象の特性をシチュエーションに関連させずに描写する。
(人食いアヒルの子注:быть というのがロシア語コピュラの不定形である)

と定義している。つまり描かれる対象が特定の状況に結びついているか具体的な状況と結びつかずに漂っているかということで、私などは『95.シェーン、カムバック!』で述べた動詞アスペクトの意味の違いの定義と平行性を明確に感じる。
 語学の文法書だったらこの定義で十分なのだろうが、著者は言語学者なのでここからさらにしつこく分析を続け(『34.言語学と語学の違い』参照)、そのニュアンスの違いがなぜ発生するかをコピュラбытьのシンタクス構造内での違いとして説明している。быть には実は2種あり、シンタクス上の基本位置が違うというのである。

1.造格補語を取る быть-1 は語彙上の動詞で、基本の位置はVPである
(быть-lex)
2.主格補語をとる быть-2 は機能カテゴリーで、基本の位置はTPである。
(быть-ftk)

余計なお世話だが TP というのは Tense Phrase のことで生成文法のXバー・セオリー以降から登場するカテゴリーだ(とおぼろげに記憶している)。前にも言ったように私は生成文法にはせいぜい標準拡大理論レベルまでしか追いついていけていないのでいきなりこんな説明をされてもわからない。まさに短形の труден(私にはワカンネ)である。

 このようにロシア語内部のコピュラ構造を論理学、意味論、シンタクスと全てのレベルで分析・解析するというのも面白いが、これを言語間で比較してみるとさらにスリルが増すだろうと思う。ロシア語では Пространство бесконечно という言い回しが許されるがスペイン語で universo está infinito とかなんとかは可能か(多分不可)、とかそういうツッコミである。またロシア語のこういったコピュラ構造がスペイン語にはどう訳されているか、またはその逆を調べてみたら翻訳学としても有意義な研究になると思う。泉井久之助氏もその著書『ヨーロッパの言語』211ページから212ページにかけて通時的な視点からも露・西のコピュラ構造に言及しているが、氏はこの二つの意味の区別そのものは露・西語に留まらない言語ユニバーサルな現象と考えているようである。そういう意味でもツッコミ甲斐があるのではないだろうか。

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 英語かドイツ語が母語の人が日本語を勉強していて、「今日は寒くなる」とか「部屋がきれいになりました」と言えずに「今日は寒いなるでしょう」、「部屋がきれいなりました」あるいは「部屋がきれいだなりました」とやっているのを見たことがないだろうか。それぞれ heute wird kalt 、das Zimmer wurde sauber あるいは it will be cold today、the room became clean といった母語での言い方が干渉したのであろう。ドイツ語・英語では「~になる」という文ではコピュラ構造の場合と同じく、述部に形容詞の辞書形がそのまま来るからだ。ウルサイことを言えば例えば「寒い」という形容詞は kalt あるいは cold と等価ではなく、be cold とか kalt sein とかコピュラ付きでいうべきだろう。が一方日本語にはコピュラという動詞がない。「です」だの「だ」だのは動詞ではなくセンテンスの当該部分にくっ付いてそれが predicate noun または complement(ドイツ語で Prädikatsnomen)であることを示す単なるマーカーである。その Präkatsnomen は格に関しては基本的に中立だから、「です」がつくと格マーカーが削除されることが多い。特に主格マーカーは必ず削除される。「山田さんは先生です」であって絶対「山田さんは先生がです」にはならない。しかしドイツ語のクセを出してこの「です」をコピュラとみなしてしまうと自動的に Präkatsnomen を主格と解釈してしまうことになる。現にドイツ語母語者には「山田さんは今アメリカです」という極簡単なセンテンスが理解できない者がいる。「アメリカ」が処格であることがわからないからだ。ついでに言えば主題の「は」も格は中立だから、主格グセがつくと「その本は昨日読みました」「山田さんは先週お嬢さんに赤ちゃんが生まれました」がわからない。

 話を戻すが、そこで「なる」と「です」では全くセンテンスの構造が違い、前者は動詞、後者はマーカーで、動詞「なる」のほうはその補語に形容詞がそのまま来ないで副詞化した形で置かれる、と説明してもドイツ語母語者相手だとまだ十分でないことがある。英語だと簡単だ。日本語では it became beautiful でなくit became beautifully というんですよと言えばいいが、ドイツ語は形容詞がそのまま副詞になるからだ。Sie ist schön の schön は形容詞で「彼女は美しい」だが、Sie singt schön は「彼女は美しく歌う」で schön が副詞なのに形は全く同じである。gut(形)→ gutØ(副)、schön(形) → schönØ(副)といういわばゼロ付加だ。対して英語には -ly という目に見えるマーカーがつく(beautiful → beautifully )。英語ではさらにゼロマーカーも使うし(cold → coldØ)、語そのものを変換してしまうことがある(good → well)が、ともかく -ly という副詞形成の形態素が存在しているからいい。ドイツ語のように一つの形がいわゆる形容詞と副詞の2つの品詞にまたがっていると、頭ではわかっても気を抜くとすぐ区別が怪しくなる。
 そもそも副詞というカテゴリーに入れられているメンバーは形容詞崩れあり前置詞起源のものあり種々雑多で、副詞というのを一つの独立した品詞とみなしていいのかという議論さえあるくらいだ。「つまり動詞でも名詞でも形容詞でもない単語が消去法で副詞として扱われるのだ」と主張する言語学者も少なくないそうだ。カルツェフスキーあたりもそんなことを言っていたらしい。特に形容詞との境界線があいまいで、ヘルマン・パウルでさえこんなことを言っている;

Die formelle Scheidung des Adjektivums vom dem Adv. beruht auf der Flexionsfähigkeit des ersteren und der dadurch ermöglichten Kongruenz mit dem Subst. Wo dies formelle Kriterium entfällt, da kann auch die Scheidung  von dem Sprachgefühl nicht mehr strikt aufrecht erhalten werden. ... Wir haben eigentlich kein Recht mehr gut in Sätzen wie er ist gut gekleidet, er spricht gut und gut in Sätzen er ist gut, man hält ihn für gut einander als Adv. und Adj. gegenüberzustellen.

形容詞は副詞と形式上分離させられるが、それは前者が語形変化して名詞と呼応できるという点に基づいている。この基準が満たされなかったりすると言語感覚からしてこの二つをきっちり分ける必要性があまり感じられなくなる。… 本来 er ist gut gekleidet (「彼は良く着飾っている」)、er spricht gut (「彼は上手く話す」)の gut とer ist gut(「彼はいい(人だ)」)、man hält ihn für gut(「皆彼をいい(人だ)と思っている」)という文の gut を副詞対形容詞として対立させて考えなければならない理由はないのだ。

現代ドイツ語文法の権威Dudenでは gut は品詞としては形容詞だが、形容詞には付加語的用法(attributiver Gebrauch)、述語的用法(prädikativer Gebrauch)、副詞的用法(adverbialer Gebrauch)があるとしている。つまり品詞という言語範疇そのものとその機能を分けて考えているわけで、近代言語学的というか説明力が強い。このように機能と形を観念的に区別すると例えば副詞の形容詞的用法というのも成り立つわけで、die Zeitung heute ist interessant という言い回しの副詞 heute がまさにそれであろう。heute は品詞としては副詞だが、ここでは動詞でなく名詞(それともDPとか何とか呼ぶべきか)の die Zeitung(「新聞」)にかかっており、この文は「今日の新聞は面白い」である。
 言い換えると品詞そのものが移行するのでなく機能が移行するのである。上述の見方だとgut(形)→ gut(副)はゼロ付加による品詞の転換だが、機能と形を分けるこの考えかただと er singt gut(「彼は上手に歌う」)の gut は形容詞の「転用」と見なせる。日本語ではこれが形容詞の活用として文法化されているのである(いい → よく、寒い → 寒く、きれい → きれいに)。

 ロシア語でも形容詞を副詞にするのは一定の形態素の付加による「造語」あるいは「派生」とみなされているようだが、転用、さらには活用と接触する点があって面白い。
 文法書をみると形容詞の項に「性質を表す形容詞(Qualitätsadjektive または qualitative Adjektive)からは語尾を -o、-e にすることによって規則的に性質を表す副詞(qualitative Adverbien または determinative Adverbien)が作られる」とあるし、反対側の副詞の項には「形容詞の語幹から性質を表す副詞を形成するのはロシア語でもドイツ語でもさかんに行なわれている方法である。」と同じことを言っている。詳しくいうと:

1.語幹が硬音子音(非口蓋化音)で終わっている性質形容詞 качественные прилагательные には –о、軟音(口蓋化音)なら –е をつける。
2.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっている性質形容詞語幹には -и をつける。
3.-ский、-ской、–цкий、-цкойで終わっていても関係形容詞относительные прилагательныеならさらに前に по- をつけ、後ろの -и とで挟む。性質形容詞にもこの型で副詞をつくるものがある。
4.形容詞の女性対格形に в-、за- の前置詞をつける。
5.前置詞に古い短形活用のパラダイムを継続させる。с-、из-、до-+短形生格、 на-、за-+短形対格、по-+短形与格、в-、на-+短形前置詞格を後続させる。

それぞれ次のような例が挙げられる。左に示した形容詞は男性単数主格形、下線部が語幹である。
1.
быстрый → быстро(速い → 速く)
красивый → красиво(美しい → 美しく)
односторонний → односторонне(一面的な → 一面的に)
крайний → крайне(極端な → 極端に)

2.
творческий → творчески(創造的な → 創造的に)
дружеский → дружески(親しげな → 親しげに)

3.
русский → по-русски(ロシアの → ロシア風に・ロシア語で)

4.
крутой → вкрутую(堅い → 堅く)(卵の茹で方に関してのみ)
частый → зачастую(頻繁な → 頻繁に)(частоという1のパターンの造語も可)

5.
новый → снова(新しい → 新しく・もう一度始めから)
далёкий → издалека(遠い → 遠くから)
сытый → досыта(満腹な → 満腹に)
скорый → наскоро(速やかな → 速やかに)
новый → заново(新しい → 新しく)
пустой → попусту(空しい・無駄な → 空しく・無駄に)
далёкий → вдалеке(遠い → 遠くへ)
лёгкий → налегке(軽装の → 軽装で)

明確に「造語」と言い切れる英語と違って、ロシア語の形 → 副変換はむしろ文法の範疇に入ることが一見して明らかだ:前綴りとしてあげられている по- や с- などはれっきとした前置詞、つまり独立単語だし、特に4と5で顕著だがその前置詞がきちんと格支配までしている。しかも前置詞が本来の意味を保持している。だから同じ далёкий(「遠い」)という形容詞に из(「~から」)がつくと「遠くから」、в(「~へ」)がつくと「遠くへ」になるのだ。さらにこの形容詞には当然1のパターンのдалекоという副詞もありこれが「遠いところにある」。だからこれらは品詞としての副詞というよりむしろシンタクス上の単位、れっきとした前置詞句PPである。
 では1と2はどうか。быстро、 крайне など -o、-e で終わる形は形容詞の活用形の一つ短形活用の単数中性形と同じだ。実は私は今までこの быстрый → быстро タイプの副詞化は形容詞の短形中性単数が「転用」されたのものだと思っていた。ところが文法書ではこれが「造語」扱いされているのでむしろ驚いたのである。
 ロシア語の形容詞の活用には長形と短形の二つのパラダイムがあり、上でも述べたように形容詞の代表形として挙げてあるのは長形活用の男性単数主格だが、この長形活用形は形容詞一つにつき単数男性、単数中性、単数女性、複数形の4つにそれぞれ主・生・与・対・造・前置の6格あるから理論的には4×6=24形を区別する。「理論的には」と書いたのは複数生格と複数前置格など、同形のものがあるので実際には24より少なくなるからだ。なお、20世紀の初頭までに書かれたロシア語には複数男性・中性と複数女性形を区別しているものがある。前者は語尾が -ые、後者は -ыя となる。例えばкрасивый(「美しい」、男性単数)の主格形は красивая(女性単数)、красивое(中性単数)、красивые(複数)の4つだが、一方男性単数ではкрасивый(主格)、красивого(生格)、красивому(与格)、красивый/красивого(対格)、красивым(造格)、красивом(前置格)という6つの格変化形があるが、中性単数と男性単数は主格と対格以外同形である。上の4で出してある形は女性単数対格である。
 対して短形活用のほうは現在では主格形しかないし、形容詞によっては短形を作らないものがある。「美しい」の短形単数男性はкрасив、単数女性がкрасива、単数中性красиво、複数形がкрасивы。語幹が口蓋化音で終わると女性、中性、複数形がそれぞれ-я、-е、-и で終わる。しかし上で「現在では」と但し書きをつけたように、昔はこの短形が長形と同じくフルバージョンで活用し、名詞と全く同じ活用語尾をとった。上の5を見てもらいたい。形容詞が短形中性単数形の格変化形を完全に供えているのがわかる。1の -o、-e も中性単数の活用語尾ではないのか。英語の -ly とは違って造語・派生形態素ではなく活用語尾、形 → 副の転換は形容詞の一つの活用形をシステマティックに転用したもの、という気がしてならない。さらにこれらは中性単数主格なのではなく実は対格なのではないかと私は疑っている。
 問題は2、3のタイプ、-ский などで終わる形容詞で、これらに -и がつくのはどうしてかちょっと調べてみたがわからなかった。落ちこぼれロシア語学習者で申し訳ないが、落ちこぼれなりに考えてみると、このタイプの形容詞は名詞から派生してきたもの、つまり形容詞としては新参者が多い。だから5と違って形容詞が中性名詞的に働くことが出来ず、付加語としての陰を引きずっているのかもしれない。言い換えると昔は後ろに「様式」とか「やり方」を表す名詞がくっついていたのかもしれないとも思ったがこれがあまり上手く行かない:現在は「やり方」は образ という男性名詞で、形容詞を無理やり短形パラダイムにすると「創造的に」は по творческу образу となるはずで -и  が出てこないからだ。では昔は образ という意味の女性名詞があったのかと解釈しても、与格支配の по とは合わない。では少なくとも2は複数対格かあるいは女性単数生格か複数対格起源だとして逃げようとしても3の例が残るので逃げ切れない。やっぱり -и となる理由が考えつかないまま堂々巡りである。
 やはり素直に-o、-e、-и は派生の形態素とみるしかないのか。

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 外国語の教科書で「こんにちは」や発音練習といった舌の訓練のあと最初に出てくる構文は「A = B」のコピュラ文ではないだろうか。古い話だが中学の英語の教科書も最初の文は this is a pen だったし、ドイツ語でも Christoph ist Student(「クリストフは学生です」)とかそういうものだった記憶がある。これは学ぶべき外国語というのが大抵英語・フランス語・ドイツ語・スペイン語等の印欧語だった時代(今でもそうだが)の教科書構成をそのまま非印欧語にも持ち越したからではないだろうか。印欧語ではコピュラは動詞だからまずその最重要な動詞を覚え、次の段階で「読む」とか「見る」など頻繁に使われる動詞に進む。後者が先で不規則動詞のコピュラはその少し後という構成の教科書もあるが、極めて早い段階で I am a cat というタイプの文が出てくることには変わりない。コピュラ文はもっとも構造の単純な文だからである。
 それでもロシア語はちょっと注意を要する。現在形のコピュラが省略されて主語と Prädikatsnomen のみの文となるからだ。それで A is B は単に間にハイフンをいれたA – Bという形になる。「私はカモメ」は я  –  чайка で、я  が「私」、чайка が「カモメ」、どちらも主格である。ところが A is in B などもコピュラがないわけだから同様に主語と述部だけからの構成となり「彼はアメリカにいる」は он в Америки だが、そういう場合は述部に前置詞が現れる上、ハイフンをつけないのすぐわかる。またコピュラ動詞が「存在する」という意味で使われる場合もハイフンをつけない。例えば мне сто лет(「私は100歳です」←「私には100年ある」)では「私」が与格、「100年」が主格。さらに『107.二つのコピュラ』でも書いた通り過去形では Prädikatsnomen が造格になることもあるが、過去形だとコピュラを省略しないのでやはり区別がつく。注意は要するが文構造の解釈そのものは難しくない。
 なおここで Prädikatsnomen とわざわざドイツ語にしたのはキッチリした訳語がないからだ。「述部」あるいは「述語」と言ってしまうとコピュラ以外の動詞、例えば I read a book の read a book が当てはまり、これは他動詞と目的語だ。上の в Америки も「述部」である。コピュラ以外の動詞がカテゴリに入ってしまうことは「補語」という用語ともそうで、They call him Django の Django は「補語」だが Prädikatsnomen ではない。「コピュラ動詞が「存在する」の意味でなく使われている文の主語以外の部分」をビシッと表わせる語がない。「述詞」という語が一番ふさわしいかもしれないが、中国語にそういう言葉があり(当然)意味が違うので誤解を招く。Prädikatsnomen と呼ぶしかない

 さてその「A = B」は日本語でも最初に練習させられる。「私は学生です」「私は田中です」「あの方は佐藤さんです」などだ。持って行き方としては印欧語の教科書と並行していてある意味とっつきやすいのだが、実は重大な問題があると私は思っている。「私は田中です」は Ich bin Tanaka あるいは I am Tanaka ではないからだ。
 自己紹介や「あなたはどなたですか?」と聞かれたときの I am Tanaka は「私は田中です」でよろしい。そしてそれがまあスタンダードな発話状況だから「I am Tanaka = 私は田中です」という図式が印欧語の母語者にこびりついてしまう。しかし例えばこういう状況を想像して見てほしい:部屋に何人か人がいる。そのうちの一人が田中さんであることが私にはわかっている。しかしどの人だかわからないので聞く、「どなたが田中さんですか」または「田中さんはどなたですか?」。すると一人が手をあげて I am Tanaka と答える。これは「私田中です」ではない、「私田中です」だ(「私です。」「田中は私です」などの回答もありうるがここでは省く)。前者の「私」はトピック、後者は単なる主格である。つまり日本語では疑問代名詞で聞かれた要素、いわば変数に代入する定数はトピックにしてはいけない。別の言い方をすれば語用論でのサブジェクトと文法上のサブジェクトを日本語では明確に区別し、ここを間違えると会話が躓く。
 例えば「どなたが田中さんですか」と聞いたとき誰かが「私田中です」と言ったとしよう。これは厳密に見ると非常に失礼な発言である。まず第一に「誰が田中か」という質問に答えていない。答えに「誰」に代入できる情報がないからである。第二に相手の質問を無視したうえ、自分が新しいトピックを立ててしまっている。つまり「誰が田中かなんてことより私が自分について話します」というシグナルだからだ。もちろん「田中」という名前が共通しているから聞いた方も意味を汲んで、「あんたのことなど聞いてない」とは思わない。「私田中です」を「私田中です」と解釈し直して会話は修復できる。それでも修復作業は必要なわけで、とにかく一瞬会話の流れがモタつくことは確実だ。
 最初に「I am Tanaka =私は田中です」が定着してしまい、トピックを見るとパブロフの犬のように自動的に文の主語、つまり主格と解釈する癖がついてしまったりトンチンカンな所でいつも「は」をつけられたりするとモタつくのは一瞬では済まない。石ころだらけの道、バグまみれのプログラムのようで会話が途中でアベンド(なんて言葉をご存知の方まだいますか?)する。
 この辺は最初にガンと釘を刺しておいた方がいいのではないだろうか。『58.語学書は強姦魔』でだしたロシア語の先生ではないが、下手に事実を説明すると初心者が混乱するからと言って黙っていることはかえって不親切なのでは?「変数に代入する定数はトピックマークしてはいけない」「トピックは格については中立で自動的に主格解釈してはいけない」、この2点だけはなるべく早い時点ではっきりさせておくべきだと思う。第二点の「トピックは格について中立」についてはちょっと学習の進んだ時点で習うは習うが、やはり最初にいっておいたほうがいいのではないだろうか。でないと後になって「その本は昨日読みました」という文にぶつかったとき、頭で説明は理解できても最初にプリントされた「は=主語・主格」という呪縛から逃れきれないからだ。それこそ「初心者が混乱する」。始めからしつこく「トピックは格が表現されていないからトピックを見たら必ずセンテンス全体を見まわしてその格を再建しろ」と脅して(?)おくのはむしろ今後のためだ。例えば

その本もう読みました。

ではトピックの「本」は対格で「を」で代用しても文のロジックは変わらない。

その本もう読みました。

また「電車は遅れています」のトピック「電車」は主格で

電車遅れています。

と同じロジックである。『65.主格と対格は特別扱い』でも述べたが、主格と対格がトピックになる場合は必ず格マーカーが削除される。

基本構造:その本もう読みました
→ トピックマーク:*その本をはもう読みました
→ 格マーカー削除:その本(を)もう読みました
→ 出来上がり:その本もう読みました

変形生成文法の安物バージョンみたいな図式で恐縮だが、中間の「その本をはもう読みました」は非文である。主格も同様で、

基本構造:電車遅れています
→ トピックマーク: *電車がは遅れています
→ 格マーカー削除:電車(が)遅れています
→ 出来上がり:電車遅れています

主格対格以外の斜格ではトピックマーカーと格マーカーが共存できる。

田中さんには昨日会いました。
ハイデルベルクには昨日行きました。
地下鉄ではアメリカまで行けません。
ここでは煙草が吸えます。
ここにはスーパーができます。
田中さんとは明日話します。

トピックはそれぞれ与格、方向格、具格、動作処格、存在処格、共格である(『152.Noとしか言えない見本』参照)。私の感覚では共格はトピックと共存できるどころか、共存しないとおかしい。

田中さんは明日話します。

だと田中さんが主格なのか共格なのかわからない、というより主格解釈が強すぎて共格解釈が成り立ちにくい。呼格についても前に少し述べたが(『90.ちょっと、そこの人!』参照)、トピックの格中立性が飲み込めていないと

田中さんは日本人ですか?

という文が多義であることがわからない。主格解釈と呼格解釈が可能だからだ。つまり Is Mr. Tanaka a Japanese? と Mr. Tanaka, are you a Japanese? の違いである。言い換えるとトピックのある文は厳密には全て省略文なのである。コピュラ文に戻ると、「私田中です。」は素直に

I am Tanaka.

だが、「私田中です」は

About me, (I am ) Tanaka.

で、括弧内は言語そのものには表現されない聞き手による解釈・再構築で、つまり後から加えられた部分。語用論に属するもので言語の構造そのものには属していない。聞き手はいちいち言語状況によってこの部分を再構しないといけない。同様に「その本はもう読みました」は

About the book, (I) already read (the book) yesterday.

で括弧内は聞き手が付け加えたもの。さらに「田中さんは日本人ですか?」は

About Mr, Tabaka, (are you) a Japanese?

括弧内の再構に加えて指示対象の同定が出来ないといけない。つまり「田中さん」と「あなた」、ということは聞き手にとっての「私」が同一のシニフィエであることが理解できないといけない。これを普通

About Mr, Tabakai, (are youi) a Japanese?

と表し、名詞の後ろに小さくつけた i が i = i  という意味に同一指示対象であることを示している。

 とにかく「は」が出てきたら文の残りをよく見て格構造を再構しろというのが日本語の始めの一歩。これがわからないと全く先に進めない。はずなのである、本当は。
 
 もっともこの「トピックの格構造を再構しろ」という言い方も実はそれこそ「初心者を混乱させないように」簡単にはしょって説明する言い方で、理論的にはトピックと残りの文の間にはロジック関係、つまり格の関係すらもない。『99.憲法9条を考える』でも出した久野暲の例だが、

太郎は花子が家出した。

という文。普通の人なら非文解釈をするだろう。しかし太郎と花子が夫婦であると知っている人にとってはこの文はOKとなる。「太郎」と「花子が家出した」の関連性が見て取れるからだ。私はこれがトピック、「は」の本質であると思っている。トピックと残りの文を結び付けられるかは厳密には個々の状況、個々の話者にのみかかっていて、文法上の関連性はない。ただ、「結びつけやすさ」にいろいろな段階があるだけである。トピックが文の中の一要素、特に力の強い主格と解釈できる場合は誰にでも容易に意味がとれる。それで教科書の最初にも「私は田中です」が出てくるのだ。それが対格、与格と順位が落ちるに従って関連付けがしにくくなり、しまいには上の太郎と花子の例のように特定の知識がないと関連付けができなくなる。しかしそれはあくまで実際の言語運用上の問題であって、文法上の問題ではない。

 これは日本人にも関連付けが難しい例だが、三上章(だったと思う)の有名なセンテンス、「僕はうなぎだ」は普通の日本人なら背景知識がなくてもすぐにわかる(『49.あなたは癌だと思われる』参照)。レストランでメニューを決めるとき、一緒にいた人が「君は何にする?」と聞く。それに答えて「僕はウナギだ」「私はステーキよ」「俺はビールだ」。皆普通に言っている。上で述べたようなパブロフの犬にはこんな簡単な文がわからないから「君はウナギか、じゃあ出身地は浜名湖なのか」とか聞いてきかねない。ここの「僕、私、俺」は主格ではない。無理やり格を考えろと言われたらまあ「与格」とかの解釈もできないことはないが、これも久野暲の文と同じく、トピックは文の格構造の要素ではないと見たほうがいいだろう。(What) I (want to eat), is eel という省略文だ。このタイプの文は日本語にはゴロゴロあって、

春はあけぼの
(In) spring (it is) the dawn (that is most beautiful).

チョコレートは明治
(The best) chocolate is (made by) Meiji.

括弧の中は「聞き手の解釈」である。言い換えると「あとから付け加えられた部分」であって、もともと文の一部であったものが文構造内のノードをよじ登ってトピック・ポジションまで出てきたという生成文法系の人がやる解釈とは実は方向が逆なのではないだろうか。文の構成要素とは関係なく最初から与えられたトピックを受け取った聞き手が文の中を探し回り、該当する要素があればそれをトピックと解釈する、特に該当する要素がなければないで文全体の記述内容の意味となんとか結びつける。私はそれがトピックだと思っている。

 ここまでで普通の印欧語話者は十分キツイと思うが、さらにトピックばかりでなくコピュラ文のPrädikatsnomen の方も基本的に格に中立と強調しておかないと、

私は学生です
山田さんは今アメリカです。
試験は12月15日です。

と述部にウザい格マーカーをつける羽目になる。特に二番目の文は「山田さんは今アメリカです」正しく言われると理解できない人もいる。この文が Mr. Yamada is now (in the) US.と、述部の格(処格)が表現されない構造であることが心にしみ込んでいないからだ。アメリカならまだいいが、これが

山田さんは今福島です。

になると山田さんは今福島という名前になっているのかと勘違いしかねない。
 なお上で「基本的には」と書いたのは一部の斜格が強調表現として Prädikatsnomen に現れ得るからだが、

コンサートはハイデルベルクですよ。
東京に行ったのは飛行機です。
試験は12月15日に東京です。

などの文では、最初の文は最後に助詞の「よ」をつけたことでもわかるように、「他の町ではなくてハイデルベルク」「念を押しておきたいがハイデルベルク」という強調表現、二番目の文は名詞化の助詞「の」があるやはり強調表現、最後は Prädikatsnomen に異なった二つの格が現れるのでそれをはっきりさせるためで、安易な言い方で申し訳ないがいわゆる有標表現ではないだろうか。



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