アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ケルト語

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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 ポーランド語で「本」を księga(クションガ)と言うと知って驚いた。これはロシア語の книга (kniga、クニーガ)にあたるはず。この語の語源自体はどうも印欧語起源ではないようだが、南スラブ語のクロアチア語でも knjiga(クニーガ)だし、確かバルト語のリトアニア語も kniga だったはずだ(多分スラブ語からの借用だろう)。下ソルブ語か上ソルブ語かわからないが、とにかくソルブ語では kniha。つまりポーランド語は他のスラブ語の n を s で対応させているわけか。

 一瞬ギョッとする音韻対応というのは結構見かけるが、これは初耳だ。
 例えばケルト諸語をいわゆる p- ケルトと q- ケルトのグループに分ける p 対 k の音韻対立など最初ワケがわからなかった。「4」を古アイルランド語では cethir と k で発音したが、古ウェールズ語では petquar、ブルトン語では pevar で、この k と p は昔同じ音だったのだ。k と p が同じ音だったなんて馬鹿なことがあるか、全然違う音じゃないかと思ったら、この元の音というのが唇の丸めを伴う k、「くゎ」だったのだそうで、「4」はもと *kwetwer-(または *kwetur, *kwetṛ)。q- ケルトグループではこの唇の丸めがとれて単なる k になってしまったのに対し、p- ケルトでは唇の丸めのほうがどんどん強化されてついに調音点そのものが唇にうつってしまったというわけだ。完全につじつまが取れているのでまた驚いた。
 またアルバニア語をゲグ方言とトスク方言という2大グループに分ける r 対 n という対立もある。アルバニア語の祖語で *-n だった音がゲグ方言では -n のまま残った一方、アルバニア語の標準語となったトスク方言ではロータシズムを起こして -r となった。で、トスク方言の emër(名前)、dimër(冬)はゲグ方言ではそれぞれ êmën と dimën

 n 対 s というのも相当なツワ者ではなかろうか。
 他の印欧語内でこういう音韻対立がみられる言語はあるのかどうかちょっと調べて見たのだが、どの本を見ても「印欧語の n は非常に安定した音であり、大抵の言語でそのまま保たれている」とある。保たれていないではないか。
 さらにこれが「本」だけの現象でない証拠に、ロシア語の князь(knjaz'、クニャージ、「公爵」)、さらにその語源のスラブ祖語 kъnędzь に対応するポーランド語もしっかり ksiądz(司祭)と s が現れている。 
  ちなみにこのポーランド語の ksiądz はロシア語で ксёндз(ksendz)という語として借用され、「カトリック神父」の意味で使われている。つまりロシア語には元々 kъnędzь という同一言語から発生した語に対して東スラブ語経由と西スラブ語経由の二単語が並存しているのだ。『5.類似言語の恐怖』の項で述べたポーランド語の miasto、mejsce と同じような感じである。
 さらに聞いて驚くなという話になるが、 「巣」、ロシア語の гнездо(gnezdo)は私の計算としてはポーランド語では gzązdo になるはずなのに(ですよね?先行する子音が有声だから同化を起こして s に対応する有声子音、つまり z になるはず)実際に現れる形は素直に gniezdo で、なぜか n がしっかり保たれている。ここの音声環境の違いは先行する子音が [+ voiced] か [- voiced] かだけだ。

 なぜだ。

 そして実はポーランド語もその他のところでは「印欧語の n は安定している」の原則を保持している。ロシア語の н (n) とポーランド語の n が対応しているのが見えるだろう。
Tabelle-39
面白いことに zginać の完了体動詞は zgiąć で、鼻音子音 n 自体は消失して [+ nasal] という素性を後続母音に残している。ą は鼻母音だ。この z は本来接頭辞だから、zgiąć は形としてはむしろロシア語の согнуть の方に対応しているのだろうか。さらに ą は [a] でなく [ɔ] の鼻音だから、ロシア語の u 対古教会スラブ語の õ、例えば мудрость (ロシア語、「賢さ」) 対  mõdrosti (古教会スラブ語、「賢さ」) の対応と完全に平行している(『38.トム・プライスの死』参照)。

 ついでに「雪」は

снег (ロシア語) - śnieg (ポーランド語)

だから、ポーランド語で [n] は先行子音の上に同化現象を誘発して s を [+ palatal] とさせ、ś に変化させているわけだ。

 本来ことほど左様に力の強い鼻音歯茎閉鎖音が kn の時に限って、しかもポーランド語に限って ks となるのは何故なのだろうか? 気になって仕方がなかったのでポーランド語の音韻に関する本を借りてきて見た。Zdzisław Stieber という人の "A historical phonology of the Polish language" という本で、1973にハイデルベルクで出版されたものだが、モロ命中したのでちょっと紹介させてほしい。ここの50~51ページに次のような説明がある。 時々字の上についている「'」という印はその音が口蓋化されている、という意味でわざとついているのであって印刷のシミなどではない。

1.12世紀か13世紀にかけて古ポーランド語で kn' が kś に変化した。ただし *kъnęzь 及び *kъnęga の2単語に限られる。kъnęga(古教会スラブ語では kъn'iga)の ę が鼻母音になっているのはおそらく kъnęzь からの類推。 

2.1204年にトシェブニッツァ(Trzebnica、ドイツ語では Trebnitz、トレブニッツ)で書かれた文書ではまだ Knegnich という地名が見える(現代ポーランド語では Księgnica)。

3.1232年の資料では Cnegkenits と記録されていた地名が1234年には Gzenze、1298年には Xenze、1325から27年にも Xenze。これは現ポーランドの Książ Wielki である。

4.この音韻推移は古カシューブ語も被っていたことが、ksic(神父)という語に認められる(その単数属格形は ksëza で、ポーランド語の ę との対応がカシューブ語に特徴的)。

5.ポーランド語、カシューブ語以外では kn' → kś という音韻推移は確認されていない。

6.一方ポーランド語内部でさえもこの推移が完全には浸透しなかったことが、1953年の「古ポーランド語辞典」に knieja(森の一部)、kniat(マリーゴールドの一種)などの語が報告されていることからもわかる。前者は14世紀の終わり、後者は15世紀に記録されたものである。

7.カシューブ語の方も knižka,、knëg、knéga、 kniga という形が最近になるまで残っていた。

8.kn' が kś に代わった原因は無声音 k の後で n' が無声化し、それに伴って音価が弱まったためであろう。ポーランド語では無声の r、m (m')、n、n'、l、l' は発音が弱まるからである。

 1で述べられている「司祭」と「本」の2例を全く人の手を借りずに最初から自分で思いついた私はひょっとして言語学のセンスがあるのではないかと一瞬思いそうになったが、せっかくその例を思いついておきながらこれを単純にも n 対 s という音韻推移だと解釈したことで、そもそものスタートからハズれていたことがわかり、むしろ才能がないことが暴露された感じ。これは n 対 s の対応ではなくて  kn'  対 ks'、つまり口蓋化された n から口蓋化された s への推移だったのだ。もしこれが口蓋化されていない普通の n だったらこの推移は起こらなかったかもしれない。というのは(才能もないくせに)そこで唐突に思いついたことがあるのだ。ロシア語ではドイツ語と同じく語末の有声子音は無声となるが、時々ソナントの r まで無声化するのを聞いたことがある。しかし気を付けてみると無声化するのはもっぱら口蓋化された r、つまり рь で「普通の」 r はしない。試しに自分で発音してみると царь 「皇帝」の рь は楽勝で無声化発音できるが、директор「支配人」だとできない。口蓋化音は無声になりやすいのかもしれない。
 この本の著者は8で私が上でわからないわからないと大仰に騒ぎ立てた gniezdo の謎も一発で説明してくれていて、やはり専門家は違うと脱帽したのだが、それによるとポーランド語では非口蓋のソナントまで無声化するらしい。言語事実は私の発音能力を完全に凌駕している。語末の r 以外の無声のソナントというのはちょっと想像を絶する(どうやって発音するんだ?)。脱帽するのはポーランド語という言語そのものにもだ。


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 森鴎外の短編『舞姫』を知らないという人はさすがに日本にはいまい。読んでいない人はいるかもしれないが。鴎外のドイツ留学での経験をもとにしているといわれている作品で女主人公がエリスという名前だった。確か高校の現国でこれを読まされたが、私は当時高校で第二外国語としてドイツ語をやっていたので(『46.都立日比谷高校の思ひ出』参照)、エリスというのが全然ドイツ語の名前などではないことに気づいた。が、文学作品にそこまでつじつまを要求するのもアレだろうと思って見過ごした。
 するとそのあと、日本に帰った鴎外を追いかけてきたドイツ人の女性がいて、その人の名がエリーゼ・ヴィーゲルトElise Wiegertという事実が明らかになったと新聞で大きく報道された。そのためさらにエリスはエリーゼである、という解釈が定着してしまった。さらに私の見かけた資料によれば小金井喜美子までが随筆でその婦人の名前はエリスと言っているそうだ。確かにこの二つの名前は似ているので一瞬エリスはエリーゼの短縮形か愛称かと思うが、すでに私の中でモヤモヤしていたように、普通エリーゼの愛称として使われている形に「エリス」というものはない。言い換えるといくらエリーゼを変換してもエリスにはならないのである。エリーゼの愛称ならば、リースとかリーザとか「エ」が消えるはずだ。アクセントが「リー」にあるからである。ところが「エリス」はアクセントが「エ」にある。しかも「リー」の長母音が勝手に短縮されている。どうもおかしい、合わない、と感じてはいた。感じてはいたが私の考えすぎだろうとそれきり忘れてしまった。
 
 ところが、何十年もたってドイツでさる本を書いていた時(『お知らせ:本を出しました』参照。どさくさに紛れて自己宣伝失礼)、突然「エリスはエリーゼじゃない」という証拠を見つけたのである。このことは本の400ページから403ページにかけて書いておいた。一瞬論文にでもしてどこかの専門誌に投稿しようかと思ったくらいだ。しかし一方私は救いがたい文学音痴で、特に日本文学などは長い間島崎藤村を「ふじむらとうそん」と間違えて記憶していたし、二葉亭四迷も二葉・亭四迷かと思っていたくらいの馬鹿なのである。そんな馬鹿が気づくことくらいもうとっくに決着済みに違いない、今更大仰に論文なんて書いたら審査員の物笑いの種になりそうだという気がしたので特に発表することはしないで本の隅でチョチョっと言及するだけにしておいた。日本では誰でもわかっているのかもしれなくても、ドイツだったらさすがに「こんな既知のことをいまさら言うか」と嘲笑される確率は低かろうと思ったからである。それでもまあ全く発表しないのも惜しいなという気が最近してきたので、この場を借りて書くことにする。どうせこんなお笑いブログだし。

 鴎外が『舞姫』を出したのは1890年だが、同じ年の半年後にトゥルゲーネフの短編を翻訳して発表している。その短編の主人公の名がエリスなのだ。ロシア語の原題はПризраки(「幻」)というものだが、鴎外はこれをレクラム文庫のドイツ語翻訳から重訳。ドイツ語タイトルVisionen(「幻」)を『羅馬』として文語に訳している。その『羅馬』、Visionen/Призракиはストーリーというかモティーフが『舞姫』と微妙に並行しているのである。
 主人公(「私」)が女主人公とめぐり合って短い期間人生が交差するが、「私」の女主人公の人生に与えた影響のほうが女主人公が「私」の人生に与えた影響より格段に重い。「私」がもう取り返しがつかない後になってから女主人公との出会いを回想して悲しむというラストなど、舞姫を髣髴とさせる。
 もちろんこのころの女性描写というのは日本でもロシアでもこういう方向のものが多いし、モチーフがちょっとくらい似ているのをもって『舞姫』はトゥルゲーネフのパクリであるなど言い出すのはいくら何でも乱暴すぎることではある。私はただ『舞姫』の元を鴎外のドイツ留学中の実際の経験だけに求めるとピントがずれる可能性もあると言いたいだけだ。少なくともエリスという名前はドイツ人の知り合いの名前などではなくトゥルゲーネフから頂戴したことは確実だと思う。たしかに発表されたのは『羅馬』のほうが数か月遅いが、翻訳にかかる前に「ドイツ語の」原作 Visionenはすでに読んでいたはずだから、時間的にも矛盾しない。
 もっとも『舞姫』のストーリーが鴎外自身の経験に基づくとしている声が全部ではなく、鴎外はむしろ当時の日本からの留学生や政治家などに下半身の行儀が悪い人たちが目立ち、あちこちで現地妻を作ったりしているのを見て義憤を感じ同胞男性をネタにしてやった、という説があった。その手の素行の日本男性自身は当然反省などしておらず、鴎外はそれに抗議する意味で『舞姫』の主人公にはきちんと自分の素行について自省させたのであると。そうだとするとまさにその肝心な部分、鴎外が「文学的に」付け加えた部分がトゥルゲーネフとダブっていることになる。

 さてエリスという名前を原作では「英語の名前」と言っている。以下がその箇所である。

── Как тебя зовут ── или звали по крайней мере?
── Зови меия Эллис.
── Эллис! Это английское имя! Ты англичанка? Ты знала меня прежде?
── Нет.

「お名前は何というんですか? というよりせめて何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


これを鴎外当時のドイツ語のレクラム文庫ではこう訳してある。

„Wie heißest du? ── oder wie hast du einstmals geheißen?“
„Nenne mich Ellis.“
„Ellis! Das ist ein englischer Name. Bist du eine Engländerin? Hast du mich schon früher gekannt?“
„Nein“

「お名前は何というんですか? というより昔は何といったんですか?」
「エリスと呼んでください」
「エリス!英語の名前じゃないですか!イギリス人なの?私の事を前から知っていたんですか?」
「いいえ」


上の日本語訳ほとんどがそのまま使えるほどロシア語に忠実だ。それに対し、鴎外のほうはここをどう訳しているのかという質問自体が成り立たない。短編とはいえ、40ページ以上ある作品を鴎外はたった4ページで訳しているからである。当然この部分も完全にスッポぬけている。
 原文にしてもこの「英語」という説明は実は正しくない。エリスは英語あるいはイギリスの名前ではなくて本来ウェールズ、つまりケルト語の名前だからである。トゥルゲーネフにとってはイギリスもウェールズも要は大ブリテン島ということでどちらも同じ、つまり「英国の」という意味だったのかもしれない。さらにうがった見方をすれば最後の「いいえ」は「あなたは私を前から知っていたのか」という質問に対してではなく、「エリスは英語の名前じゃないですか!」に対して向けられていたのかもしれない。いずれにせよその、少なくとも「英語あるいは英国の」と断ってある名前をドイツ人の名前ということにした鴎外はイギリスとウェールズどころか、ドイツ語と英語の区別さえついていなかったということになる。形が一見似ているし、「西欧の名前」ということでドイツだろうがイギリスだろうが同じことだと思ったのか。でもEllisとlがダブっているのは決してダテではない、言語を決めるうえで非常に重要なポイントなのだが。
 面白いことに当のイギリス人はエリスを英語の名前と言われて黙ってはいなかった。ロシア文学の英語翻訳で有名なガーネットConstance Garnettは、この作品を英語訳するとき、Эллис を「アリス」Aliceと訂正している。

'What is your name, or, at least, what was it?'
' Call me Alice.'
' Alice ! That 's an English name ! Are you an Englishwoman ? Did you know me in
former days ?'
' No.'

Эллис がアリスでないことくらいガーネット氏だってわかっていたはずだ。確かに英語の[æ]はロシア語で э として写し取られることが多いが、それなら上でも述べたようにアリスは Элис になってlが一つであるはずだ。現にドイツの作家のハインリヒ・ベルHeinrich Böllはロシア語ではГенрих Бёлльでちゃんと原語通りlが二つある。さらに(しつこくてすみません)「不思議の国のアリス」はАлиса в Стране чудесであって、AがЭになっていない上にlが一つである。トゥルゲーネフがAliceをЭллис として写し取った可能性は低く、ガーネット氏の意図的な操作としか思えない。これを例えるに、どこかの人が書いた小説で「サンニョアイヌ」を「日本人の名前」としてあったのを日本人の翻訳家が「三田」あるいは「三村」に変えるようなものか。

  さて、鴎外の「翻訳」であるが、そもそも翻訳になっていないそのテキストにも珍しく原文が特定できる箇所がある。しかしそこでも以下のような意図不明のはしょりが見られる。まずロシア語の原作の部分が

Я задумался.
── Divus Cajus Julius Caesar!… ── воскликнул я вдруг, ── Divus Cajus Julius Caesar!  ── повторил я протяжно.  ── Caesar!

私は考え込んだ。
── ディヴス カユス ユリウス カエサル!… そして突然叫んだ、── ディヴス カユス ユリウス カエサル! それからゆっくりと繰り返した。── カエサル!

ドイツ語訳では忠実にこうなっている。

Ich überlegte einen Augenblick, dann rief ich: Divus Cajus Julius Cäsar! Divus Cajus Julius Cäsar! Wiederholte ich, den Ton dehnend.  Cäsar!

しかし鴎外はこれを勝手に足し算してこう訳している。

余はしばいたゆたひしが、声高くヂウス カユス ユリウス チエザルと三たびまで叫びぬ。

呼ばれた名前の発音表記はここでは不問にするが、この訳だと内容が原文と違ってくる。なぜなら主人公が3回叫んだのはカエサルだけでその他の部分ディウス カユス ユリウスは2回しか口に出していないからだ。そういえばこの手の「勝手な足し算」は『23.日本文学のロシア語訳』で述べた井上靖のロシア語訳にも見られる。まあ鴎外のこの翻訳は40ページを4ページに切り詰めたわけだから、この程度のチョン切り方は不思議でないが。

 とにかく鴎外を追いかけてきたエリーゼと『舞姫』のエリスとは名前の上では結びつかない。実は苗字のほうがよほど怪しい(?)。舞姫エリスの苗字「ワイゲルト」(Weigertと書くのだろう)と追っかけてきたエリーゼの苗字ヴィーゲルトWiegertは i と e を並べ替えただけの違いだからである。ではその追っかけエリーゼとは誰なのか。その人となりを鴎外の義弟(歳はこちらのほうが上だったが)の小金井良精が「ちっとも悪気のないまったくの善人。むしろ少し足りないくらいに思われる」と描写している。いわゆるナイーブで世間知らずな人だったようで、留学生たちが冗談で鴎外を追って日本に行けとそそのかしたらしい。それをマに受けて日本で手芸などで身を立てるつもりで来てしまったようだ。問題はその旅行費の出所で、良精の孫の星新一は「手芸や踊りで貯められる額ではない。鴎外がドイツで手切れ金を手渡していたのではないか。その際これは手切れ金であることを向こうに通じていなかったのでは」と推測している。
 このこととエリーゼという名前を踏まえて鴎外の『独逸日記』をみてみると候補者が二人見つかる。その一人だが、明治18年8月13日に鴎外はフォーゲルさんといううちの晩さん会に招かれるがそこで赤い服を着た女の子に会う。その子のことを鴎外は「性はなはだ温和なり。」と描写している。フォーゲル家に行儀見習いで住み込んでいたのだという。その次、9月12日にまたフォーゲル家に言ったとき家の者からその女の子が鴎外がまた来るのを楽しみにしてましたよと告げられる。この女の子の名前が「リイスヘン」Lieschenといって、これは代表的なエリーゼの愛称形の一つだ。ただ鴎外自身は名前を覚えておらず、「リイスヘンが待っていたんだよ」と言われて初めて誰かいなと思ってみてみたら先の赤い服の少女であったという。さらにその次の12月の24日にまたフォーゲル家に行ったらそのリイスヘンが「ドクターが来た!」と歓声をあげて喜んだ。この鴎外の描写をみた限りでは、鴎外のほうはリイスヘンを別に何とも思っていなかったようだ。もちろんその後もフォーゲルさんちに遊びにいった際リースヘンに会っていただろうが、単なる知り合いのレベルを超えたとは思えない。やはり日本の留学生が無責任にあることないこと吹き込んだのだろう。また渡航費の出所も別にエリーゼ自身が貯めたり鴎外から貰ったりしたのではなく、娘に大甘な裕福なパパが出してくれたのかもしれない。当時のフォーゲル家にはリイスヘンの他にも見習いや家事手伝いで富商の子供が住み込んでいたのだ。
 私はこの女の子がエリーゼ・ヴィーゲルトの第一候補だと思っているが、もう一人リイゼLiseという名前が出てくる。これもエリーゼの愛称形だ。明治19年10月31日に「家主シャウムベルヒSchaumbergの子オットオ、リイゼOtto、Lise等を伴ひて「パノプチイクム」Panoputicumを観る。蠟偶の見せ物なり」とある。 Schaumbergをシャウムベルヒと発音するのはベルリン訛だが、それよりこの名前は『舞姫』に出てくる狒狒爺、といっては言いすぎだがエリスを囲い者にしようとする座長の名前である。さらにオットーという名前を鴎外は自分の息子につけているくらいだから、リイゼのほうも鴎外にとっては重要な人だったのかな、と思えないこともない。このリイゼが第二候補である。

 いろいろ気になっていたのでこのエリスという名前の出所や鴎外へのトゥルゲーネフの影響について言及している研究論文でもあるかと思って検索してみたのだが見つからなかった。トゥルゲーネフについては鴎外自身、上述の『独逸日記』での明治20年5月28日にカフェでたむろしていた玄人筋の女性の一人が「魯人ツルゲエネフ」の小説を知っていたので驚いた、と書いている。鴎外がある意味トゥルゲーネフに私淑していたことがわかるし、ロシア文学は明治時代の日本文学に絶大な影響を与えたのだから鴎外に影響しないはずはないのにその辺が無視されているのはなぜなのか。
 天下の森鴎外・舞姫である。百の単位でいそうな研究者がこれだけ長い間研究し続けてきた中で鴎外が訳したトゥルゲーネフ作品にエリスという人物がいることに誰一人気づかなかったとなどということは100%ありえないのでその可能性は除外すると、『舞姫』とトゥルゲーネフとの文学的関連性について積極的に扱った著作が見つからなかった原因として考えられるのは次の3つである。可能性の高い順に並べてみる。
1.私の探し方が悪かった。
2.エリスの名がロシア文学から来ていることなど皆とっくに知っているので当たり前すぎてわざわざ言い立てる必要がなかった。
3.あくまでエリスはエリーゼであって鴎外の文学活動はトゥルゲーネフには影響されていないとすでに確認されていた。

2と3はまとめることができて、要するに「日本文学研究者の間では『舞姫』へのトゥルゲーネフの影響というテーマには研究する価値がないというコンセンサスがあった」ということだ。その価値なし・決着済みのテーマを何も知らない二葉・亭四迷なアホ部外者がほじくり返してしまった、ということなのだろうか。知っている人がいたらちょっと教えてほしい。

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(こちらはコロナウイルスで大変なことになってしまい、毎日ジョンズ・ホプキンズ大のサイトに張り付いているうちに気がついたら前回の更新から一ヵ月もたっていました…)

 地球に生息する生物についてIUCN国際自然保護連合がレッドリストを作って絶滅の危険の度合いをExtinct (EX) 「絶滅」、Extinct in the Wild (EW)「野生絶滅」、Critically Endangered (CR) 「深刻な危機」、Endangered (EN) 「危機」、Vulnerable (VU) 「危急」、Near Threatened (NT) 「準絶滅危惧」、Least Concern (LC) 「低懸念」に7つの段階に分けているが、それと同じようにUNESCOが消滅危機言語というリストを作っている。使用人口が少なく、話者が誰もいなくなってしまいそうな言語が世界にはたくさんあり、こちらはその危機の度合いを6段階に分けている。Extinct「消滅」、Critically Endangered「深刻な危険」、Severely Endangered「重大な危険」、Definitely Endangered「明らかな危険 」、Vulnerable「脆弱」、Safe「安全」の6つだ。生物の場合とほとんど同じような段階分けをしているが、まず「絶滅」という言葉は言語には使えないのでExtinct という英語では同じになる単語が生物では「絶滅」、言語だと「消滅」となる。もう一つ、言語に関しては当然Extinct とExtinct in the Wild がないので一つ減って6段階だ。
 ここで話題にしたことがある言語もしっかりこのリストに載っている。例えばネズ・パース語は「深刻な危険」、ロマニ語、ソルブ語、南ユトランド語は「明らかな危険 」、フリースランド諸語は「重大な危険」。それに対して心配していたセルビア語トルラク方言(『18.バルカン言語連合』参照)は「脆弱」で済んでいる。ブルシャスキー語もバスク語も「脆弱」。アンダマン語やヘレロの言葉はリストに見当たらない。特にアンダマン語などは相当な危機にあるはず(下記参照)だが、データが不足で評価できないということなのだろうか。ヘレロも決して話者は多くないはずだが、まさか「安全圏」ということなのだろうか?カタロニア語がリストには入ってこないのは「安全」とみなされているからだろうとは思うが。日本の言語ではアイヌ語がまだ「深刻な危機」で止まっている。ということはかろうじて話者がいるのだろうが、これを「消滅」まで進ませないのが文化国家日本の義務だと思う。また琉球語の国頭方言、宮古方言、沖縄方言が「明らかな危険」、八重山方言、与那国方言が「重大な危険」状態にある。
 
 生物の場合と用語が重なっているところが印欧比較言語学、つまり一般言語学の誕生のプロセスを髣髴とさせる。サンスクリットやヒッタイト語とラテン語・ギリシャ語などの類似が見つかって「印欧語」という観念が生まれそれが言語学に発展していった当時、ダーウィンの進化論に強く影響されたからだ。「系統」、「種」という概念である。そもそも当時の印欧語学の目標が「種の起原」ならぬ「印欧祖語」の姿を知ることであった。そこで赤線を超えて優劣を言い出す人が一部にいたのは前に述べたとおりである。印欧語のような屈折語は日本語のような膠着語に比べて「進化した」言語であるという類の主張をする人たちだ。言語を話者から全く切り離して生命体の一種とみなしたり、「祖語」という言葉が本来比喩であることを忘れて本気で言語と生物を同一視しだすといろいろ誤解を引き起こす。見えるものも見えなくなる懼れがある。例えば「絶滅」と「消滅」の決定的違いである。生物種が絶滅するというのはその種に属する個体が物理的に全くいなくなるということだが、言語の消滅の方はそうズバリとはいかない。まず「当該言語の話者・ネイティブ・スピーカー」そのものに段階があるからだ。

 もちろんある言語共同体に属している人間を一気に皆殺しにすれば言語も亡ぶ。そういうことは有史以前にはあっただろうし、20世紀に入ってもナチスドイツなどが試みた。それまではヨーロッパで強力な言語のひとつであったイディッシュ語が壊滅的な打撃を受けたのはナチスのホロコーストのせいである。
 しかし言語の消滅は話者をいきなり皆殺しにしなくても起こる。話者はいても言語は滅びうるからだ。いわゆる「言語転換」という現象である(下記)。この言語転換は決して一気には進まない。個人内部の言語転換もそうだが、言語共同体全体が言語転換してしまうにはさらに時間がかかる。長い間話者も存在し続けるから最初のうちは当該言語も話者の頭の中に潜在的に残る。しかし話者はもうその言語をアクティブに使うことができなくなる。パッシブな言語能力、つまり「聞いてわかる」能力は話す力より長く残ることが多いがやがて聞いても理解できなくなる。こうなると言語学者が当該言語を記述したくても(すでに話者とはいえない)話者が発話することができないので記録も何もできない。いわば言語が話者の中で死ぬのだ。
 もちろんこういう言語状態なら当該言語はまだ(わずかでも)覚えている人がいるということで「まだ消滅していない」と判断され、脳死というか「深刻な危険」の範疇にいれられる。そしてその最後の話者が亡くなった時点で正式に言語の消滅宣言をしたりする。実際今までに消滅してしまった言語で最後の話者の名前が記録に残っていることが少なくない。例えば『108.マッチポンプの悲劇』で言及した大アンダマン語だが、そのうちの方言の一つボ語は2010年に最後の話者Boa Srさんが亡くなって消滅したそうだ。『マッチポンプ』の項で参照した資料にはBoaSrさんとみられる人の写真も載っていたが、その後この言語がどうなったかについては説明がなかったので知らないでいた。本当に残念だ。
 またアイルランドと大ブリテン島の間にあるケルト語系のマン島語も最後のネイティブ・スピーカーとしてNed Maddrellという名前が記録されている。言語学者たちが1972年8月17日に氏をインフォーマントとしてマン島語の記述を行ったがその時氏は94歳だった。1973年にその言語学者の一人が再びMaddrell氏を訪れて調査しようとしたが、氏はすでに耳が聞こえず、調査が成り立たなかったという。1974年の12月27日に亡くなった。このMaddrell氏は完全に流暢なマン島語を話せた最後の人だったばかりではない、マン島語のモノリンガル状態を経験している(多分)唯一の人であった。他のマン島語話者は英語とのバイリンガル環境しか知らず、最初から英語が圧倒的に優勢言語である人ばかりだが、Maddrell氏は2歳か2歳半くらいのときほとんど英語の話せない年取ったおばさんのところに預けられて育っている。
 もう一人、Ewan Christianという話者の名前が記録されている。この人も1972年にインフォーマントとなったが、Maddrell氏とこのChristian氏がまだ母語が固まらないうちにマン島語に触れた最後の生き残りだ。ただし後者のマン島語はつっかえつっかえになることがあり、文法もあやしかったそうだ。5歳の時いっしょの通りに住んでいた二人のマン島語ネイティブから言葉を教わり、その後も周辺にいた話者から言語を吸収したが、生活言語は英語だったし、それにマン島語を教わったときすでに5歳だった。つまり習い方も不完全だったうえ使用する機会もあまりなかったため、セミ・スピーカーにとどまったのだ。Christian氏はMaddrell氏よりずっと若く、言語調査当時65歳、1978年に再びインフォーマントになっている。1985年初めに78歳で亡くなった。
 関係ないがここでマン島語調査をした「言語学者たち」の一人は『51.無視された大発見』『17.言語の股裂き』でも言及した私の学位取得時の口頭試問の試験官である。

 これらの例を見てもわかるように言語の消滅宣言は動物の場合の「当該種」にあたる「当該言語の母語者」に幅があるから難しい。例えばDresslerという学者は母語者に5段階あるとしている:1.健全な話者Healthy speakers、2.やや脆弱な話者Weaker speakers。名詞の語形変化などが簡略化の傾向、語彙も減少している。3.前最終段階の話者Preterminal speakers。語形パラダイムの縮小と一般化が起こる。4.最終段階前期の話者Better terminal speakers。縮小と一般化がさらに進む。5.最終段階後期の話者Worse terminal speakers。語彙は極めて減少し、語形の縮小も著しい。
 この最終段階の母語者が後からみつかったりすることもある。さらにマン島語の場合もそうだが、言語の記述や調査がある程度進んでいると母語者がいなくなっても再生の試みが可能である。そのためかマン島語はまだ絶滅宣言を受けていない。ステータスは「深刻な危険」である。上で「最後の話者が亡くなった時点で正式に言語の消滅宣言をしたりする」と変な書き方をしたのもそういうことを考慮したためだ。
 もう一つ「絶滅」と違う点は、話者全員がいっぺんに一人残らず死に絶える場合は別として(それなら確かに話者の「絶滅」である)、言語が「消滅」するときは通過点として必ず話者がバイリンガル状態になるということだ。生物は別に他の種に押されなくてもエサがなくなったり気候が変わったりすれば自分たちだけで勝手に(?)死に絶えることもあるが、言語が消滅するには必ず他の言語が入ってこなければいけない。人間はなにがしかの言語を話さずにはいられないからだ。言語が消滅はイコール言語転換と述べたのはそのためで、母語者が当該言語で上の5段階の階段を下るにつれ、もう一方の言語能力は逆に高まっていっているのである。
 構成員が全員モノリンガルだった当該言語共同体が別の言語共同体と接触する。双方の言語共同体の政治的、文化的、あるいは軍事的な力が拮抗し、人口にも特に差がなければ接触は一部の通訳・翻訳家を通じて行われるのでその他大勢はそれぞれの言語のモノリンガルで生活に何ら支障がない。そもそもその通訳にしてももう一方の言語は後から習っただけだから、モノリンガルであることには変わりがないのである。またバイリンガルになるにしてもどちらか一方の言語が圧倒的に優勢ということはない。もちろん個人レベルでは言語Aと言語BとのバイリンガルでAが優勢という人がいるだろうが、その代わりもう一方の言語共同体にはBが優勢のバイリンガルがいるのだから、全体としてはどちらの言語が優勢ということはなく、まあバランスがとれているわけだ。ところが一方の言語共同体がもう一方より圧倒的に強力だったり一方が他方を政治的に支配したりするとこのバランスが崩れだす。最初の段階として、言語Aの共同体には1.Aのモノリンガル、2.A・BのバイリンガルでAが優勢、3.A・Bの優勢無しバイリンガル、4.A・BのバイリンガルでBが優勢というグループがいる一方でB共同体には1にあたるBのモノリンガルがいなくなり、全員Aとのバイリンガルになる。次の段階は2にあたる構成員がBの共同体から消える。B言語の共同体にいるくせにBの方がAよりずっと楽に話せるという人がいなくなるのだ。さらに度が進むとBの共同体から3が消える。B共同体の構成員全体がBよりAが得意という状態だ。この辺になるとB共同体に「Aのモノリンガル」が発生しだす。そうなるとBはもう共同体のコミュニケーション言語としての機能は果たしにくい。社会生活は全部Aで済ますようになり、B言語の方は(一部の)構成員の頭の中に思い出というか痕跡として残っているだけで、しかも使わないからドンドン虫が食ったりさび付いてきたりする。そしてふと気づいてみると自分の他には誰もBを知っているものがいない。なぜ「ふと」かというと、コミュニケーションや社会生活はAのみで何の不都合もなく、Bなど使わないから言語Bがなくなったことなど普段目に入らないからだ。とにかく言語共同体の全員がバイリンガルになったら黄信号が灯ったとみていい。言語学者が当該言語のモノリンガル話者の存在を重要視するのはそういう理由である。
 ただ、念のため言っておくが、このバイリンガルというのは「母語」が二つあるということで(『44.母語の重み』参照)、学校で習った外国語などというのは全くこの範疇に入らない。その意味で日本人がいくら英語を勉強してもモノリンガルであることには変わりがないから、安心して外国語の学習をしていい。というより日本人はもうちょっと外国語をやったほうがいいのではないだろうか。時々バイリンガルという言葉をトンチンカンな意味に誤解している人がいるので蛇足とは思うが念のため。

 この言語の消滅という現象が言語学の一分野として確立されたのは比較的最近だそうで、以前は単発に研究が行われていた。私の印象では1990年ごろから少数言語とか消滅言語とかの用語をさかんに聞くようになった感じだ(私にとっては1990年は立派に最近なのである)。
 例えばSasseという学者は以下の3つのタイプの要因をベースにして言語消滅の過程をモデル化した。
1.言語外状況External Setting(ES):言語共同体にプレッシャーを与えて当該言語を放棄させる方向に持って行く文化、社会、民族、経済的な要因。これが言語消滅への最初のきっかけを作る。
2.話者の言語行動パターンSpeech ehaviour (SB):言語共同体の中で話者がどの言語を使うか、またその言語で文体、どんな言葉使いを状況によって使い分けるのか、使い分けられるのか、ということ。
3.言語構造への影響 (Structural Conseqzuence (SC):言語の形自体が被る変化。語形変化が簡略化したり(simplication)、以前はできた表現が構造的にできなくなったりする(reduction)。変化は言語のあらゆるレベル、音韻、形態、シンタクス、語彙面で起こる。
 Sasseは、ESが最初のきっかけとなって両言語のバランスが崩れてSBが変わり、SBが変われば当該言語が使われる場面が減り(つまりその言語がAbandoned language AL「放棄言語」になり)、使う機会が減れば文法構造は単純化し語彙も減ってしまう、そして最終的に言語の死に至る、言い換えるとES→SB→SCの順に言語転換・ALの消滅が進むのが全体としての傾向だとしている。もちろんその途中に小さなフィードバック現象もある。表現の可能性が減れば益々その言語を使わなくなるというSC→SBという方向のプロセスなどだ。
 そうやって優勢言語が転換していく中で、まず人が生まれて最初に取得する言語Primary Language PLが当該言語ALからもう一方の言語にかわる。逆から言うともう一方の言語(Target language TL)は最初第二の母語secondary Language SLであったのがPLになる。そしてTLがドンドン優勢になっていき、ある時点で話者がALを後続世代に伝えなくなったらそこでアウトだ。残った母語者は誰ともALで話す機会がないから、その言語は母語者の中で死んでいく。事実、最後のネイティブ・スピーカーのマン島語にはすでにそれ以前に記録されたマン島語と比較して構造上の簡略化が見られたそうだ。伝えられたマン島語そのものがそこに来るまでにすでに弱まっていた、言語の内部崩壊はすでに始まっていたのだ。さらにそのMaddrell氏はマン島語モノリンガル生活を経験したといってもすでにそれ以前に英語には触れていた。PLは英語でマン島語はSLだったのだ。氏は調査の時言語学者に「昔英語と同じくらいよくマン島語をしゃべれた頃のことをまだ覚えています。でも外に出てってからは使う機会もなかったし、マン島語を聞くこともなかったからもう忘れてしまいました。でもこうやってみるとまた思い出してきたからできるだけ話してみますが、どうも思うようにはねえ…」とマン島語で語っていたそうだ。

 こうやって見ていくと、どの時点をもって当該言語の消滅というのかということ自体がすでに難しい課題であることがわかる。話者の死、つまり人間の死と言語の死が必ずしも一致していないからだ(『54.言語学者とヒューマニズム』参照)。ネイティブの話す当該言語が「健全」ではなくなった時点で消滅宣言か、それとも最後の母語者が亡くなったときか。一度コミュニケーションとして使われなくなった言語が復活する場合があるが(ヘブライ語など)、そういう場合死者が生き返ったと考えるべきか、当該言語は実は一度も死んでいなかったというべきか。独立言語と方言との区別同様(『111.方言か独立言語か』参照)、死語か死語でないかの区別も割とケース・バイ・ケースなのである。ただ上のSasseは、日常のコミュニケーションで使われなくなった時点でその言語は死語だとしている。しかしその「日常のコミュニケーション」という観念自体にまた段階というか幅があるからとにかくスッパリ何年何月何時何分に消滅、と宣言することはできない。

Broderickはマン島語の消滅を図式化するのにSasseのモデルを使っている。コピーのそのまたコピーですみません。(私の書き込みがある上ファイルの閉じ穴があいてますね…)
Broderick, George. 1999. Language death in the Isle of Man. Tübingen:p.11から

Sasse


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機種やブラウザによっては図表のレイアウトがグチャグチャになってしまうことがあるので、これから時々古い記事の表部分を画像に変更していきます(最初からそうしろよ)。図表を直すついでに本文も見直しました。原本の古い記事だけ密かに直そうかとも思ったのですが、せっかくなので再投稿します。

この記事と内容が全く同じですのでわざわざクリックするには及びません。(自分で言うな)

 カスティーリャ語(俗に言うスペイン語)とイタリア語は、フランス語、カタロニア語、ポルトガル語、レト・ロマン語、ルーマニア語と共にロマンス語の一派で大変よく似ているが、一つ大きな文法上の相違点がある。

 名詞の複数形を作る際、カスティーリャ語は -s を語尾に付け加えるのに、イタリア語はこれを-iまたは -e による母音交代によって行なうのだ。
Tabelle1-17
これはなぜなのか前から気になっている。語学書では時々こんな説明をみかけるが。

「俗ラテン語から現在のロマンス諸語が発展して来るに従い、複数名詞は格による変化形を失い、一つの形に統一されてしまったが、その際カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした。」

以下はラテン語の第一曲用、第二曲用の名詞変化だが、上と比べると、カスティーリャ語・イタリア語は確かに忠実にラテン語のそれぞれ対格・主格形をとり入れて名詞複数形を形成しているようだ。
Tabelle2-17
カスティーリャ語の他にフランス語、カタロニア語、ポルトガル語もラテン語対格系(-s)、イタリア語の他にはルーマニア語が母音交代による複数形成、つまりラテン語主格系だそうだ。

 しかしそもそもどうして一方は対格形で代表させ、他方は主格形をとるようになったのか。ちょっと検索してみたが直接こうだと言い切っているものはなかった。もっと語学書をきちんとあたればどこかで説明されていたのかもしれないので、これはあくまで現段階での私の勝手な発想だが、一つ思い当たることがある。現在、対格起源の複数形をとる言語の領域と、昔ローマ帝国の支配を受ける以前にケルト語が話されていた地域とが妙に重なっているのだ。

複数主格が -s になる地域と -i になる地域。境界線が北イタリアを横切っているのがわかる。この赤線は「ラ=スペツィア・リミニ線」と呼ばれているもの(下記参照)。ウィキペディアから。
By own work - La Spezia-Rimini LineGerhard Ernst - Romanische Sprachgeschichte[1][2][3], CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5221094
758px-Western_and_Eastern_Romania

これが昔ケルト人が住んでいた地域。北イタリアに走る居住地域の境界線が上の赤線と妙に重なっている。これもウィキペディアから。
Von QuartierLatin1968, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=638312
Celts_in_Europe
 面白いことに、北イタリアにはピエモント方言など複数を母音交代で作らず、-s で作る方言が散在するが、この北イタリアは、やはりローマ帝国以前、いやローマの支配が始まってからもラテン語でなく、ケルト語が話されていた地域である。現にMilanoという地名はイタリア語でもラテン語でもない。ケルト語だ。もともとMedio-lanum(中原)という大陸ケルト語であるとケルト語学の先生に教わった。話はそれるが、この先生は英国のマン島の言語が専門で、著作がいわゆる「言語事典」などにも重要参考文献として載っているほどの偉い先生だったのに、なんでよりによってドイツのM大などという地味な大学にいたのだろう。複数形の作り方なんかよりこっちの方がよほど不思議だ。

 話を戻して、つまり対格起源の複数形を作るようになったのはラテン語が大陸ケルト語と接した地域、ということになる。ではどうしてケルト語と接触すると複数形が -s になるのか、古代(大陸)ケルト語の曲用パラダイムはどうなっているのか調べようとしたら、これがなかなか見つからない。やっと出くわしたさる資料によれば、古代ケルト語の曲用・活用パラダイムは文献が少ないため、相当な苦労をして一部類推・再構築するしかない、とのことだ。その苦心作によれば古代ケルト語は大部分の名詞の複数主格に -s がつく。a-語幹でさえ -sで複数主格を作る。しかも複数対格も、主格と同じではないがとにかく後ろに -s をつける。例外的に o-語幹名詞だけは複数主格を -i で作るが、これも複数対格は -s だ。例をあげる。
Tabelle3N-17
つまりケルト語は複数主格でラテン語より -s が立ちやすい。だからその -s まみれのケルト語と接触したから西ロマンス諸語では「複数は -s で作る」という姿勢が浸透し、ラテン語の主格でなく -s がついている対格のほうを複数主格にしてしまった、という推論が成り立たないことはないが、どうもおかしい。第一に古代ケルト語でも o-語幹名詞は i で複数主格を作るのだし、第二にラテン語のほうも o-語幹、a-語幹以外の名詞には -s で複数主格をつくるものが結構ある。つまり曲用状況はケルト語でもラテン語でもそれほど決定的な差があるわけではないのだ。
 しかもさらに調べてみたら、本来の印欧語の名詞曲用では o-語幹名詞でも a-語幹名詞でも複数主格を -s で形成し、ラテン語、ギリシア語、バルト・スラブ諸語に見られる -i による複数形は「印欧語の代名詞の曲用パラダイムを o-語幹名詞に転用したため」、さらにラテン語では「その転用パラダイムを a-語幹名詞にまで広めたため」と説明されている。つまり古代ケルト語の a-語幹にも見られるような -s による主格形成のほうがむしろ本来の印欧語の形を保持しているのであって、ラテン語の -i による複数形のほうが新参者なのである。ギリシャ語もこの -i だったと聞いて、この形は当時のローマ社会のエリートがカッコつけてギリシャ風の活用をラテン語の書き言葉にとりいれたためなんじゃないかという疑いが拭い切れなくなったのだが、私は性格が悪いのか?書かれた資料としては amici タイプの形ばかり目に付くが、文字に現われない部分、周辺部や日常会話ではずっと本来の -s で複数を作っていたんじゃないのかという気がするのだが、考えすぎなのか?

 言い換えると大陸ケルト語と接触した地域は「ケルト語の影響で -s になった」というよりも、印欧語本来の形をラテン語よりも維持していたケルト語が周りで話されていたため、つまりケルト語にいわば守られてギリシャ語起源のナウい -i 形が今ひとつ浸透しなかったためか、あるいは単にケルト語が話されていた地域がラテン語の言語的周辺部と重なっていただけなのか、とにかく「印欧語の古い主格形が保持されて残った」ということであり、「カスティーリャ語はラテン語の複数対格形を複数形の代表としてとりいれたのに対し、イタリア語はラテン語の主格をもって複数形とした」という言い方は不正確、というか話が逆なのではないか。西ロマンス諸語はラテン語対格から「形をとりいれた」のではない、ラテン語の新しい主格形を「とりいれなかった」のでは。また対格を複数形の代表として取り入れたにしても、主格と対格がどちらも -s で終っていたために主格対格形が混同されやすく、対格を取り入れたという自覚があまりなかった、つまり話者本人は主格を使っているつもりだったとか。-i という形が圧倒的に有力だったらそれを放棄してわざわざ対格の -s に乗り換えるというのは相当意識的な努力(?)が要ると思う。
 
 どうもそういう解釈したからといって一概に荒唐無稽とは言いきれない気がするのだが。というのは当時ラテン語の他にもイタリア半島ではロマンス語系の言語がいくつか話されていたが、それら、たとえばウンブリア語にしてもオスク語にしても男性複数主格は主に -s で作るのだ。これらの言語は「ラテン語から発達してきた言語」ではない、ラテン語の兄弟、つまりラテン語と同様にそのまた祖語から形成されてきた言語だ。主格の -s はラテン語の対格「から」発展してきた、という説明はこれらの言語に関しては成り立たない。
 ギリシア語古典の『オデュッセイア』をラテン語に訳したリヴィウスやラテン語の詩を確立したエンニウスなど初期のラテン文学のテキストを当たればそこら辺の事情がはっきりするかもしれない。

 スペイン語・イタリア語の語学の授業などではこういうところをどう教わっているのだろうか。

 いずれにせよ、この複数形の作り方の差は現在のロマンス諸語をグループ分けする際に決定的な基準の一つだそうだ。ロマンス諸語は、大きく分けて西ロマンス諸語と東ロマンス諸語に二分されるが、その際東西の境界線はイタリア語のただ中を通り、イタリア半島北部を横切ってラ=スペツィア(La Spezia)からリミニ(Rimini)に引かれる。この線から北、たとえばイタリア語のピエモント方言ではイタリア語標準語のように-iでなく-sで複数を作るのだ。
 つまり、標準イタリア語はサルディニア語、コルシカ語、ルーマニア語、ダルマチア語と共に東ロマンス語、一部の北イタリアの方言はカスティーリャ語、フランス語、レト・ロマン語、プロヴァンス語などといっしょに西ロマンス語に属するわけで、イタリア語はまあ言ってみれば股裂き状態と言える。

 こういう、技あり一本的な重要な等語線の話が私は好きだ。ドイツ語領域でも「ベンラート線」という有名な等語線がドイツを東西に横切っている。この線から北では第二次子音推移が起こっておらず、「私」を標準ドイツ語のように ich(イッヒ)でなくik(イック)と発音する。同様に「する・作る」は標準ドイツ語では machen(マッヘン)だがこの線から北では maken(マーケン)だ。これはドイツ語だけでなくゲルマン諸語レベルの現象で、ゲルマン語族であるオランダ語や英語で「作る」を k で発音するのはこれらの言語がベンラート線より北にあるからだ。

この赤線がドイツ語の股を裂くベンラート線(Machen-maken線)。https://de-academic.com/dic.nsf/dewiki/904533から
Ligne_de_Benrath



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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。誤打(あるある!)の訂正や文章の見直しもしています。ドイツでもウクライナからの難民は20万人を超えました。私の住んでいる町でも7000人ほどの難民を受け入れたそうです。一刻も早い戦争の終結を願います。

内容はこの記事と同じです。

 ポーランド語で「本」を księga(クションガ)と言うと知って驚いた。これはロシア語の книга (kniga、クニーガ)にあたるはず。この語の語源自体はどうも印欧語起源ではないようだが、南スラブ語のクロアチア語でも knjiga(クニーガ)だし、確かバルト語のリトアニア語も kniga だったはずだ(多分スラブ語からの借用だろう)。下ソルブ語か上ソルブ語かわからないが、とにかくソルブ語では kniha。つまりポーランド語は他のスラブ語の n を s で対応させているわけか。

 一瞬ギョッとする音韻対応というのは結構見かけるが、これは初耳だ。
 例えばケルト諸語をいわゆる p- ケルトと q- ケルトのグループに分ける p 対 k の音韻対立など最初ワケがわからなかった。「4」を古アイルランド語では cethir と k で発音したが、古ウェールズ語では petquar、ブルトン語では pevar で、この k と p は昔同じ音だったのだ。k と p が同じ音だったなんて馬鹿なことがあるか、全然違う音じゃないかと思ったら、この元の音というのが唇の丸めを伴う k、「くゎ」だったのだそうで、「4」はもと *kwetwer-(または *kwetur, *kwetṛ)。q- ケルトグループではこの唇の丸めがとれて単なる k になってしまったのに対し、p- ケルトでは唇の丸めのほうがどんどん強化されてついに調音点そのものが唇にうつってしまったというわけだ。完全につじつまが取れているのでまた驚いた。
 またアルバニア語をゲグ方言とトスク方言という2大グループに分ける r 対 n という対立もある。アルバニア語の祖語で *-n だった音がゲグ方言では -n のまま残った一方、アルバニア語の標準語となったトスク方言ではロータシズムを起こして -r となった。で、トスク方言の emër(名前)、dimër(冬)はゲグ方言ではそれぞれ êmën と dimën

 n 対 s というのも相当なツワ者ではなかろうか。
 他の印欧語内でこういう音韻対立がみられる言語はあるのかどうかちょっと調べて見たのだが、どの本を見ても「印欧語の n は非常に安定した音であり、大抵の言語でそのまま保たれている」とある。保たれていないではないか。
 さらにこれが「本」だけの現象でない証拠に、ロシア語の князь(knjaz'、クニャージ、「公爵」)、さらにその語源のスラブ祖語 kъnędzь に対応するポーランド語もしっかり ksiądz(司祭)と s が現れている。 
  ちなみにこのポーランド語の ksiądz はロシア語で ксёндз(ksendz)という語として借用され、「カトリック神父」の意味で使われている。つまりロシア語には元々 kъnędzь という同一言語から発生した語に対して東スラブ語経由と西スラブ語経由の二単語が並存しているのだ。『5.類似言語の恐怖』の項で述べたポーランド語の miasto、mejsce と同じような感じである。
 さらに聞いて驚くなという話になるが、 「巣」、ロシア語の гнездо(gnezdo)は私の計算としてはポーランド語では gzązdo になるはずなのに(ですよね?先行する子音が有声だから同化を起こして s に対応する有声子音、つまり z になるはず)実際に現れる形は素直に gniezdo で、なぜか n がしっかり保たれている。ここの音声環境の違いは先行する子音が [+ voiced] か [- voiced] かだけだ。

 なぜだ。

 そして実はポーランド語もその他のところでは「印欧語の n は安定している」の原則を保持している。ロシア語の н (n) とポーランド語の n が対応しているのが見えるだろう。
Tabelle-39
面白いことに zginać の完了体動詞は zgiąć で、鼻音子音 n 自体は消失して [+ nasal] という素性を後続母音に残している。ą は鼻母音だ。この z は本来接頭辞だから、zgiąć は形としてはむしろロシア語の согнуть の方に対応しているのだろうか。さらに ą は [a] でなく [ɔ] の鼻音だから、ロシア語の u 対古教会スラブ語の õ、例えば мудрость (ロシア語、「賢さ」) 対  mõdrosti (古教会スラブ語、「賢さ」) の対応と完全に平行している(『38.トム・プライスの死』参照)。

 ついでに「雪」は

снег (ロシア語) - śnieg (ポーランド語)

だから、ポーランド語で [n] は先行子音の上に同化現象を誘発して s を [+ palatal] とさせ、ś に変化させているわけだ。

 本来ことほど左様に力の強い鼻音歯茎閉鎖音が kn の時に限って、しかもポーランド語に限って ks となるのは何故なのだろうか? 気になって仕方がなかったのでポーランド語の音韻に関する本を借りてきて見た。Zdzisław Stieber という人の "A historical phonology of the Polish language" という本で、1973にハイデルベルクで出版されたものだが、モロ命中したのでちょっと紹介させてほしい。ここの50~51ページに次のような説明がある。 時々字の上についている「'」という印はその音が口蓋化されている、という意味でわざとついているのであって印刷のシミなどではない。

1.12世紀か13世紀にかけて古ポーランド語で kn' が kś に変化した。ただし *kъnęzь 及び *kъnęga の2単語に限られる。kъnęga(古教会スラブ語では kъn'iga)の ę が鼻母音になっているのはおそらく kъnęzь からの類推。 

2.1204年にトシェブニッツァ(Trzebnica、ドイツ語では Trebnitz、トレブニッツ)で書かれた文書ではまだ Knegnich という地名が見える(現代ポーランド語では Księgnica)。

3.1232年の資料では Cnegkenits と記録されていた地名が1234年には Gzenze、1298年には Xenze、1325から27年にも Xenze。これは現ポーランドの Książ Wielki である。

4.この音韻推移は古カシューブ語も被っていたことが、ksic(神父)という語に認められる(その単数属格形は ksëza で、ポーランド語の ę との対応がカシューブ語に特徴的)。

5.ポーランド語、カシューブ語以外では kn' → kś という音韻推移は確認されていない。

6.一方ポーランド語内部でさえもこの推移が完全には浸透しなかったことが、1953年の「古ポーランド語辞典」に knieja(森の一部)、kniat(マリーゴールドの一種)などの語が報告されていることからもわかる。前者は14世紀の終わり、後者は15世紀に記録されたものである。

7.カシューブ語の方も knižka,、knëg、knéga、 kniga という形が最近になるまで残っていた。

8.kn' が kś に代わった原因は無声音 k の後で n' が無声化し、それに伴って音価が弱まったためであろう。ポーランド語では無声の r、m (m')、n、n'、l、l' は発音が弱まるからである。

 1で述べられている「司祭」と「本」の2例を全く人の手を借りずに最初から自分で思いついた私はひょっとして言語学のセンスがあるのではないかと一瞬思いそうになったが、せっかくその例を思いついておきながらこれを単純にも n 対 s という音韻推移だと解釈したことで、そもそものスタートからハズれていたことがわかり、むしろ才能がないことが暴露された感じ。これは n 対 s の対応ではなくて  kn'  対 ks'、つまり口蓋化された n から口蓋化された s への推移だったのだ。もしこれが口蓋化されていない普通の n だったらこの推移は起こらなかったかもしれない。というのは(才能もないくせに)そこで唐突に思いついたことがあるのだ。ロシア語ではドイツ語と同じく語末の有声子音は無声となるが、時々ソナントの r まで無声化するのを聞いたことがある。しかし気を付けてみると無声化するのはもっぱら口蓋化された r、つまり рь で「普通の」 r はしない。試しに自分で発音してみると царь 「皇帝」の рь は楽勝で無声化発音できるが、директор「支配人」だとできない。口蓋化音は無声になりやすいのかもしれない。
 この本の著者は8で私が上でわからないわからないと大仰に騒ぎ立てた gniezdo の謎も一発で説明してくれていて、やはり専門家は違うと脱帽したのだが、それによるとポーランド語では非口蓋のソナントまで無声化するらしい。言語事実は私の発音能力を完全に凌駕している。語末の r 以外の無声のソナントというのはちょっと想像を絶する(どうやって発音するんだ?)。脱帽するのはポーランド語という言語そのものにもだ。


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