アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:クロアチア語・セルビア語

 クロアチア語は発音でえらく苦労した。

 例えばクロアチア語には /i/ という前舌狭母音、つまりロシア語でいう и しかないのに n という子音そのものには口蓋音・非口蓋音(硬音・軟音)の区別があるのだ。クロアチア語ではそれぞれ n、nj と書いてそれぞれロシア語の н と нь に対応するのだが、その後に /i/ が来たときの区別、つまり ni と nji の発音の区別が結局最後までできなかった。日本語ではどちらも「ニ」としか書きようがないのだが、ni をロシア語式に ни (ニ)と言うと「それでは nji に聞こえます」と怒られ、それではと ны (ヌィ)と言うと「なんで母音のiをそんな変な風に発音するんですか?」と拒否される。「先生、ni と nji の区別が出来ません」と泣きつくと、「仕方がありませんねえ、では私がゆっくり発音してあげますからよく聞いてください」と親切に何度も両音を交互に発音してくれるのだが、私には全く同じに聞こえる。 
 さらにクロアチア語にはロシア語でいう ч に硬音と軟音の区別がある、つまり ч と чь を弁別的に区別する。これも日本語ではどちらも「チ」としか言いようがない。ロシア語では ч は口蓋音、いわゆる軟音しかないからまあ「チ」と言っていればなんとなく済むのだが、クロアチア語だと「チ」が二つあって発音し間違えると意味が変わってくるからやっかいだ。ロシア語をやった人なら、「馬鹿な、もともと軟音の ч をさらに軟音にするなんて出来るわけがないじゃないか」と言うだろうがそういう音韻組織になっているのだから仕方がない。č が ч、ć が чь だ。
 私はこの区別もとうとうできるようにならなかった。例えば Ivić というクロアチア語の苗字を発音しようとすると、講師からある時は「あなたの発音では Ivič に聞こえます。それではいけません。」と訂正され、またある時は「おお、今の発音はきれいな Ivić でした」と褒められる。でも私は全然発音し分けたつもりはないのだ。何がなんだかわからない、しまいには自分がナニしゃべっているのかさえわからなくなって来る。

 反対にクロアチア人の学生でとうとうロシア語の мы (ムィ、「私たち」)が言えずに専攻を変えてしまった人がいる。南スラブ語と東スラブ語間では皆いろいろ苦労が絶えないようだ。

 ところで、古教会スラブ語は「スラブ祖語」だと思っている人もいるが、これは違う。サンスクリットを印欧祖語と混同してはいけないのと同じ。古教会スラブ語はれっきとした南スラブ語族の言語で、ロシア語とは系統が異なる。ただ、古教会スラブ語の時代というのがスラブ諸語が分離してからあまり時間がたってない時期だったので、これをスラブ祖語とみなしてもまああまり支障は出ないが。
 東スラブ語は過去2回この南スラブ語から大波を受けた。第一回目が例のキリロス・メトディオスのころ、そして2回目がタタールのくびきが除かれて中世セルビア王国あたりからドッと文化が入ってきたときだ。
 なので、ロシア語には未だに南スラブ語起源の単語や文法組織などが、土着の東スラブ語形式と並存している。日本語内に大和言葉と漢語が並存しているようなものだ。
 さらに、南スラブ語は常に文化の進んだ先進地域の言語であったため、この南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり、意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする。例えば合成語の形態素として使われるのも南スラブ語起源のことが多い。日本語でも新語を形成するときは漢語を使う事が多いのと同じようなものだ。
 
 ちょっと下の例を比べてみて欲しい。оло (olo) という音連続は典型的な東スラブ語、ла(la) はそれに対応する南スラブ語要素だが、語源的には同じ語がロシア語には南スラブ語バージョンのものと東スラブ語バージョンのものが並存し、しかもその際微妙に意味が違ったり合成語に南スラブ語要素が使われているのがわかると思う。
Tabelle1-56
 さらにいえば、ウクライナ語は昔キエフ公国の時代に東スラブ語文化の中心地だったためか、ロシア語よりも南スラブ語に対する東スラブとしての抵抗力があったと見え、ロシア語よりも典型的な東スラブ語の音韻を保持している部分がある。例えばロシア語の名前Владимир(ヴラジーミル)は南スラブ語からの外来名だ。この愛称形をВолодя(バロージャ)というがここでも上で述べた南スラブ対東スラブ語の典型的音韻対応 ла (la) 対 оло  (olo)が現れているのが見て取れるだろう。この、ロシア語ではВладимирとなっている名前はウクライナ語ではВолодимир (ヴォロジーミル)といって正式な名前のほうでも оло  という典型的東スラブ語の形を保持している。
 この、南スラブ語の la や ra がそれぞれ olo や oro になる現象をполногласие (ポルノグラーシエ、正確にはパルナグラーシエ、「充音現象」)と言って、東スラブ語の特徴である。「難しくてオロオロしてしまいそうだ」とかギャグを飛ばそうかと思ったが馬鹿にされそうなのでやめた。いずれにせよполногласие の л (l) をр (r) と間違えないことだ。

 古教会スラブ語のアクセント体系がどうなっていたかはもちろん直接記録はされていないが、現在の南スラブ語を見てみればある程度予想はつく。以下は南スラブ語の一つクロアチア語とロシア語の対応語だが、これを見ればおつむにアクセントのある上品な南スラブ語が東スラブ語ではアクセント位置がお尻に移動しているのがわかる。アクセントのあるシラブルは太字で表す。 さらに比較を容易にするため、ロシア語もローマ字で示してみた。
Tabelle2-56
 この、「おつむアクセントは上品、お尻アクセントは俗語的」という感覚は人名の発音にも見られるそうだ。例えばイヴァノフ (Иванов)という名前は ва にアクセントが来る「イヴァーノフ」と но に来る「イヴァノーフ」という二種類の発音の仕方があるのだが、「イヴァーノフ」の方が上品で古風、つまりなんとなく由緒あり気な感じがするという。
 それを知ってか知らずか、神西清氏はガルシンの小説『四日間』(Четыре дня)の主人公を「イヴァーノフの旦那」と訳している。貴族の出身という設定だったので、由緒ありげな「イヴァーノフ」のほうにしたのかもしれない。「イヴァノーフ」では百姓になってしまい、「旦那」という言葉と折り合わなかったのか。
 この苗字の元になった名前「イヴァーン」(Иван)のアクセントは ва (ヴァ)にあるのだから、最初は苗字のほうもイヴァーノフだったはずだ。その後ロシア語の言語体系内でアクセントの位置がドンドン後方にずれていったので、イヴァノーフという発音が「普通」になってしまった。さらにウルサイことを言えば、この名前の南スラブ語バージョン Ivo (イーヴォ)はアクセントが「イ」に来るし、セルビア語・クロアチア語でも Ivan を I にアクセントを置いた形でイーヴァンと発音する。つまりそもそものИванという名前からしてロシア語ではすでにアクセントが後ろにずれているのだ。Ивановではその、ただでさえずれているアクセントをさらにまた後方に横流ししたわけか。もうこれ以上は退却できない最終シラブルにまで下がってきている。いわば背水の陣だ。


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 『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも述べたように私はアイザック・アシモフの自伝がとても面白いと思っている。例えば氏の家庭内言語についての述べられている箇所。氏のご両親はロシアの出身だったが、母語はイディッシュ語だったそうだ。ロシア語も出来たはずだとアシモフ氏は言っているが、自分では両親がロシア語を話すのを一度も見た、というか聞いたことがないと書いている。
 アシモフ氏自身は3歳の時にアメリカに渡り、言語は英語とイディッシュ語のバイリンガルだが、優勢言語は英語だった。面白いのはここからで、氏の妹さんはイディッシュ語はわずかに理解することは出来るが話せなかった、9歳下の弟さんに至っては完全に英語のモノリンガルでイディッシュ語を理解することさえ出来ないそうだ。つまり家庭内レベルでイディッシュ語から英語への言語変換が起こっているわけだ。
 移民の家庭などはこのパターンが多く、子供たちはたいてい現地の言語が優勢言語なのでそれがあまりできない両親に通訳や文法チェックプログラムや辞書代わりにコキ使われたりしている。もっとも「WORDの文法チェック代わり・グーグル翻訳代わりに子供をコキ使う」というのは親のほうもある程度現地の言語を習得していないとできない。元の文章がなければチェックして貰うもなにもないからだ。実際何年もその国に住んでいるのにほとんどその言語が話せないという人は決して珍しくない。こうなると子供は通訳というより「手足」あるいは「眼と耳」であり、子供同伴でないと医者にもいけないし、近所の人と立ち話もできないし、それよりTVで映画を見ることができないだろう。本国映画だって現地の言語に吹きかえられているのだから。それともDVDでしか映画を見ないのか?不便だろうなとは思う。

 言語学者のグロータース氏も家庭内言語事情が複雑だったらしい。氏はベルギー出身で家族の全員がフランス語(ワロン語)とオランダ語(フラマン語)のバイリンガルだったそうだが、優勢言語が一人一人微妙に違い、オランダ語優勢のお姉さんにうっかりフランス語でしゃべりかけたりするとムッとされる、また、フランス語が優勢の妹さんでも配偶者がオランダ語話者の人に優勢言語のフランス語で話しかけたりすると、自分の夫がないがしろにされたような気を起こされてやっぱりムッとされる。言語選択には非常に気を使ったそうだ。こういう日常生活を生まれた時から送っていれば、言語というものに敏感にもなるだろう。家庭内どころか、学校でも役所でも一言語だけで用が足りる日本人にはとても太刀打ち出来るような相手ではない。
 このグロータース氏は1980年代だったと思うが、一度専門雑誌の「月刊言語」にインタヴュー記事が載っていたのを覚えている。日本語で聞かれ、日本語での受け答えだったが、氏の発言が全部片仮名で書かれていた。私はなぜ月刊言語ともあろうものがこんなことをするのかわからなかった。普通に平仮名で氏の発言を書けばいいではないか。それとも外国人の話す日本語と日本人の話す日本語を区別したかったのか、氏の発言が日本語であったことを強調するつもりであったのか、いずれにせよベッタリ片仮名で書かれた記事はとても読みにくかった。
 私の知っている教授も、母語はクロアチア語だったがあるとき研究室で話をしていた際、ちょうど娘さんから電話がかかって来たことがある。「電話」である。当時はケータイなどというものはまだなかった。するといままで私とドイツ語でロシア語の話をしていた先生は受話器をとるとやにわにオランダ語で対応を始めたのである。ドイツに来る前はオランダで長く教鞭をとっていたため、お子さんの母語はオランダ語なんだそうだ。溜息が出た。

 もちろんヨーロッパにだってモノリンガルの立派な語学音痴はたくさんいるから「ヨーロッパ人は語学が得意」と一般化することなどできないが、バイリンガルが日本より格段に多いのは事実だ。移民の子供たちも両親の母語がまったくできなくなってしまうのはさすがにまれで、たいていバイリンガルになる。その際優勢言語が個々人で微妙に違っているのは当然だが、本国の言語そのものも両親のと微妙に違ってきてしまうことがある。現地の言語の影響を受けるからだ。私がリアルタイムで見聞きしたそういう例の一つがクロアチア語の「どうしてる、元気かい?」という挨拶だ。本国クロアチア語ではこれを

Kako si?    あるいは
Kako ste?

という。kakoは英語やドイツ語のそれぞれhowとwie、siはコピュラの2人称単数、steは本来2人称複数だが、ドイツ語やフランス語のように敬称である。ロシア語と同じくクロアチア語もコピュラや動詞がしっかりと人称変化するので人称代名詞は省いていい、というより人称代名詞をいちいち入れるとウザくなってむしろ不自然になる。だからこのセンテンスは英語のHow are you?と完全に平行しているのである。
 ところが、ドイツ生まれのクロアチア人にはその「元気かい?」を

Kako ti ide?

という人が非常に多い。これは明らかにドイツ語の「元気かい?」

Wie geht es dir?
how + goes + it + to you/for you

を直訳したもので、tiは人称代名詞tiの与格tebi(ドイツ語のdir、英語の to you)の短縮形(短縮形になると主格と同じ形になるから注意が必要)、 ideは「行く」という意味の動詞 ićiの現在形3人称単数である。ここでもシンタクス上の主語it(ドイツ語のes)は現れないが、構造的に完全にドイツ語と一致しているのである。この表現には両親の世代、いや年が若くても本国クロアチア語しか知らない人、いやそもそもバイリンガルの中にも違和感を持つ人がいる。私のクロアチア語の先生も「最近はね、Kako ti ide?とかいう変なクロアチア語をしゃべる人が多くて嫌になりますが、皆さんはきちんとKako si?と言ってくださいね」とボヤいていた。
 日本語の「会議が持たれます」の類の言い回しにも違和感を持つ人が大分いる。これは英語からの影響だろう。

 バイリンガルといえば、モノリンガルより語学が得意な人が多いというのが私の印象だが(きちんと統計を取ったり調査したりはしてはいない単なる「印象」である。念のため)、これは何故なのか時々考える。以前どこかで誰かが「あなたは記憶力がいいから語学をやれといつも薦めている」という趣旨のアドバイスをしているのを見て「こりゃダメだ」と思った。語学で一番大切なのは記憶力ではない、「母語を一旦忘れる能力、母語から自由になれる能力」である。いったん覚えたことがいつまでも頭から離れない人はずっと日本語に捕らわれて自由になれないから、生涯子音のあとに余計な母音を入れ続け、日本語をそのまま意味不明の英語にし続けるだろう。そういう人はむしろ語学に向いていないのである。母語を通さずに当該外国語の構造をそれ自体として受け入れるという発想ができにくいからだ。
 もちろんバイリンガルも母語にしがみつく人が大半という点では語学音痴のモノリンガルと同じである。が、バイリンガルには母語が二つあり、一方の言語を話しているときはもう一方の言語から自由になっている。言語というものはそれぞれ互いに独立した別構造体系である、ということを身にしみて知っている。だから異言語間の飛躍がうまいのではないか、とそんなことを考えてみたりしている。繰り返すが、これは披験者の脳波を調べて証拠を握ったりしたわけではない、単なる想像だ。

 ところで、こちらで外国人に「どこから来たんですか?」という聞き方する人には教養的に今ひとつな場合がある。気の利いた人は皆「あなたの母語は何ですか?」と聞いてくることが多い。例えば私など見た目は完璧に日中韓だが、旧ソ連かアメリカ出身で母語はロシア語か英語である可能性もなくはないからだ。またクルド人に出身国を聞いてもあまり意味がないし、ベルギーに数万人ほど住んでいるドイツ民族の人を「ベルギー人」と言い切るのも無理がある。教養があって見聞の広い人は「母語」、「所属民族」、「国籍」が本来バラバラであることを実感として知っているが、そうでない人はこの3つを自動的に一緒にしてしまうことが多いわけだ。逆にそれなら人にすぐ出身国を聞いてくる人は皆言葉については無教養とかというと、もちろんそんなことは絶対ないが、私は教養ある人に見せかけたいがために「どこから来たのですか?」という聞き方はせずにいつも母語を訊ねている。が、時々「リンガラ語です」とか「アルーマニア語とアルバニア語のバイリンガルです」とか答えられて、「は?それはどこで話されているんですか?」と結局国を聞いてしまったりしているからまあ私の見せかけの教養程度など所詮そのレベルだということだ。何をいまさらだが。


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 印欧語本来の名詞変化パラダイムをすっかり失って廃墟と化した英語は別として、印欧語族の言語では名詞が格変化して形を変えるのが普通である。もっともドイツ語も相当廃墟状態で4つの格しか残っていない、しかもその際名詞自体は形をあまり変えずに冠詞に肩代わりさせるというズルイ言語になり下がってしまっているが、本来の印欧語は少なくとも8つの格を区別していた。
 サンスクリットは主格、呼格、対格、具格、与格(または「為格」)、奪格、属格、処格の8格を区別するが、a-語幹の名詞(男性名詞と中性名詞の場合がある) aśva-(「馬」)のパラダイムは以下のようになっている。この文法書では単数主格、双数属・処格、複数主・呼・具・与・奪格の語尾が s になっているが、別の教科書ではこれが h の下に点のついたḥ、いわゆるヴィサルガという音になっている。
Tabelle1-90
i-語幹には男性・女性・中性すべての文法性がありうるが、例えばこのグループの男性名詞のkavi-(「詩人」)は次のように語形変化する。
Tabelle2-90
a-語幹と違って単数で奪格と属格が溶け合って同じ形になってしまっているが、この手の融合現象は特に双数形で著しい。双数では主・呼・対格と、具・与格、奪・属・処格がそれぞれ同形、つまり形が3つしかないのが基本である。さらに「友人」sakhi-はちょっと特殊な変化をするそうだ。
Tabelle3-90
私が面白いと思うのは「呼格」というやつだ(太字)。廃墟言語の英語やドイツ語くらいしか知らない人は John is stupid.のように John がセンテンスの主語になる場合も Hi, John! と呼びかける場合もどちらも同形を使って平然としているが、本来の印欧語では「ちょっとそこの人!」と呼びかける場合と「そこの人が私の友人です」と文の主語にする場合とでは「そこの人」の形が違ったのである。前者が呼格、後者が主格だ。ラテン語も単数で呼格を区別するから知っている人も多かろう。「友人」amīcus の変化は以下の通り。サンスクリットとは格の順番が違っているが、格の順番が言葉によって文法書でバラバラなのは不便だ。サンスクリットタイプで統一すればいいのにとも思うが、欧州ではインドとは別にもうラテン語タイプが慣用になってしまっているので無理なのかもしれない。大坂と東京の電源周波数が今更統一できないのと同じようなものか。
Tabelle4-90
サンスクリットに比べてラテン語は語形変化が格段に簡単になっているのがわかる。まず双数がないし、格も6つに減っている。かてて加えて単数でも複数でもあちこちで格が融合してしまっている。しかも実は呼格も退化していて普通は主格と同形。この-usで終わる男性名詞だけが形として呼格をもっている例外なのである。その呼格も形としては単数形にしか現れない。それでも「ブルータス、お前もか」という場合、Brutusとは言わないでBruteと語形変化させないと殺されるのだ。させてもカエサルは殺されたが。

 ラテン語はもちろんサンスクリットでさえもすでにその傾向が見えるが、呼格は主格に吸収されることが多かったので今日びのドイツ語学習者などにはそもそも Mein Freund ist blöd (My friend is stupid)と Hey, Freund! とでは「友達」の格が違う、という意識すらない人がいる。が、スラブ諸語などにはいまだに呼格をモロに形として保持している言語があるので油断してはいけない。何を隠そう私の専攻したクロアチア語がそれである。例えば女性の名前「マリア」は呼格が「マリオ」になるので、「ちょっと、マリアさん!」は「ヘイマリオ!」である。男性名詞の「マリオ」は呼格もマリオなので、クロアチア語ではマリアさんとマリオ君を区別して呼びかけることができない。ちょっと不便だが、その代わり(?)o-で終わらない男性名詞は皆しっかり呼格と主格が違うので変化形を頭に叩き込んでおかないと、人に呼びかけることもできない。小学生が教室で「先生!」ということもできないのである。例えばprijatelj(「友人」)という単語は次のように語形変化する。
Tabelle5-90
格の順番がまたしてもラテン語やサンスクリットと違っているが、それを我慢して比べて見ると単数で主格と呼格が違った形になっているのがわかる。面白いことに単数呼格はなんと別の斜格、処格と同形だ。こういうのはちょっと珍しい。複数では定式どおり主・呼格が同形である。なお、単数属格と複数属格は字で書くと同形だが発音が少し違い、複数のほうは母音を伸ばして prijatēljā という風に言わないといけない。もう少し別の例を見てみよう。
Tabelle6-90
「友人」の場合と同じく複数属格の最後の-aは長いāである。単数の主格で k だった音が呼格では č と子音変化しているがこの k→č というのは典型的なスラブ語の音韻交代で、ロシア語にもみられる(下記参照)。同じ音が複数では c [ts] になっているが、これも教科書どおりのスラブ語的音韻交代である。
 ラテン語では上の amīcus などいわゆる第二活用(o-語幹)の名詞の一部でしか呼格を区別しないから第一活用(a-語幹)か第三活用(子音語幹やら i-語幹やら)をとる女性名詞は主格と呼格が常に同形ということになるが、クロアチア語ではラテン語の第一活用に対応する、-a で終わる女性名詞にも呼格がある。上でも述べたとおりだ。正書法には現れないが複数語尾の a(下線)は長母音。
Tabelle7-90
なるほど上の「友人」や「男の子」のようにここでも複数形では主格(対格も)と呼格が同形なんだな、と思うとこれが甘い。女性名詞では複数主格と複数呼格ではアクセントが違うのである。クロアチア語は強勢アクセントのあるシラブルでさらに高低の区別をするが、複数主格のženeでは最初のeが「短母音で上昇音調」、複数呼格ではこれが「短母音で下降音調」である。つまり主格では žene(ジェネ)を東京方言の「橋」のように、呼格だと「箸」のようなアクセントで発音するのだ。
 実は男性名詞の単数の主格と呼格の間にもアクセントの相違があるものがあって、例えば Franjo という名前の主格は a が「長母音で上昇音調」、呼格は「長母音で下降音調」だ。私の母語日本語東京方言には対応するアクセントパターンがないが、主格は「フラーニョ」の「フラ」を低くいい、「ー」で上げる。呼格は「ラ」の後で下げればいいだけだから、東京人が普通に「フラーニョ」という文字を見て読むように発音すればいい。で、上の「マリオ」も呼格と主格では音調が違うんじゃないかと思うが、ちょっと資料がみつからなかった。
 とにかくクロアチア語というのは余程勉強しておかないとおちおち呼びかけもできないのだ。スロベニア語に至ってはこれに加えて双数というカテゴリーをいまだに保持している。これらに比べればドイツ語の語形変化なんて屁のようなものではないか。

 あと、語学系の教師がすぐ「決まった言い方」と言い出す(『34.言語学と語学の違い』『58.語学書は強姦魔』の項参照)ロシア語の Боже мой(ボジェ・モイ、Oh my God!)という言い回し。この Боже は Бог(ボーク、「神」)の呼格形である。ロシア語はパラダイムとしての呼格は失ってしまったがそれでもそこここに古い痕跡を残しているのだ。この Бог  → Боже (bog → bože)という音韻変化はまさに上のクロアチア語の momak  →momče と平行するもの。前者が有声音、後者が無声音という違いがあるだけである。
 
 さらに私の知っている限りではクロアチア語の他にロマニ語が呼格を保持している。以下はトルコで話されている Sepečides(セペチデス)というロマのグループの例だが、男性名詞も女性名詞も単数・複数どちらにも呼格がパラダイムとして存在している。(『65.主格と対格は特別扱い』『88.生物と無生物のあいだ』の項も参照)
Tabelle8-90
単数呼格と複数主格とではアクセントの位置が違うので、誤解のないようにこの二つだけアクセント記号をつけておいた。女性名詞も呼格の区別ははっきりしている。
Tabelle9-90
ロマニ語も方言によっては使用がまれになってきているものもあるらしいが、まあ呼格がよく残されている言語といっていいだろう。

 さて日本語であるが、以前「日本語のトピックマーカー「は」は文法格に関しては中立である」ということを実感として味わってもらおうと、

私の友人は来ないで下さい。

という文をなるべくこの構造の通りにラテン語に訳してみろ、と言ってみたことがある。英語やドイツ語だと意訳して my friends may not ... とか Meine Freunde sollten nicht...とか話法の助動詞かなんかを使って「私の友人」を主格の主語にしてしまう危険性があるが、それでは構造の通りではない。なぜなら「来ないで下さい」は命令文だからである。しかも、私の意図としてはここで日本語不変化詞「は」はあくまでトピックマーカーであって主語だろ主格だろを表すものではないことを特に強調しておくことにあったので、Meine Freunde sollen とか Mein Freund soll とかやられてはこちらの意図が丸つぶれになってしまう。
 ここでの「私の友人」は呼格である。だから呼格であるかどうかわかっているかどうか、言い換えると「は」は斜格中の斜格である呼格にさえくっ付くことができると理解できたかどうかを確かめるためには呼格を区別する言語に訳させてみるのが一番。ラテン語ならギムナジウムで皆やってきているはずだから「来ないで下さい」は無理でも文頭の「(私の)友人」なら大丈夫だろうと思ったのである。念のため「ドイツのギムナジウムを終えた人に質問します」と前置きまでしておいた。
 ところが意に反してラテン語を履修していたドイツ人が一人もおらず、座が沈黙してしまった。良かれと思って前の晩から一生懸命こういうワザとらしい例文を考えて準備しておいたのに完全に裏目に出た感じ。いわゆる「間が持たない」という状況。漫才師だったら即クビになっているところだ。どうしようと思っていたら、イタリアの人が「ドイツのギムナジウムは出ていませんが、国でラテン語をやりました」と手を挙げた。やれやれありがたいと上の日本語を訳させてみたら(これもまた念のため、「単数形でやってみなさい」と指示した)、開口一番「Amīce…」と呼格で大正解。それさえ聞けばもう「来ないで下さい」なんてどうでもよろしい。さすがラテン語の本場、マカロニウエスタンの国の国民は教養があると感心した。
 後で私が「最近のドイツの若いもんって古典語やらないの?ヨーロッパ人のクセにラテン語できないとか、もうグロテスクじゃん」と外で愚痴ったら「日本語の説明にラテン語を持ち出すほうがよっぽどグロテスクだろ」と逆襲された。さらにこの例文は不自然だと指摘されたので、また一晩考えて

ブルータスさんはイタリアの方ですか?

という例文を、「ブルータスさんというのは第三者でなく、話し相手です」と発話状況を明確に限定した上でラテン語に訳させてみることにしている。しかしまだ上述のような Brute という形を出してきた者はいない。ドイツ語や英語だとこれが

Brutus, sind Sie Italiener?
Brutus, are you an Italian?

となってしまい、ブルータスが呼格であることがはっきり形に出ない。

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 ドイツ語をやると必ず覚えさせられるのがいわゆる Diminutiv(「縮小辞」)という形態素だ。普通名詞の後ろにくっついて「小さいもの」を表す縮小名詞を作る。明治時代には時々「メッチェン」などというトンでもないフリガナをふられていた Mädchen(メートヒェン、「少女」)が最も知られている例だろう。これは本来 Mägdchen だったが、新高ドイツ語の時代になって g がすっぽ抜けた。 Magd + chen で、-chen が縮小辞である。それに引っ張られて名詞がウムラウトを起こすため、Magd が Mägd という形になっている。だから Mädchen は「小さい Magd」。Magd は若い女性ばかりでなく女の召使い(昔は封建社会だったので)の意味もあったが、現在単独の語としてはほとんど使われなくなった。「古語」なのである。本体は消えて縮小辞つきの Mädchen の方だけ残ったわけだ。この -chen の他に -lein(単語や方言によっては -le、-li あるいは -el)という縮小辞もある。Mädchen の代わりに Mädle あるいは Mädel と言っても意味は同じ。ただニュアンスが少し違い、後者の二つは口語と言うか日常会話的。Fräulein(「お嬢さん」)の -lein も本来縮小辞なのだが、最近はFräulein という言葉自体があまり使われなくなってきているし、この単語も Frau+lein と分ける意識はなく、まあ全体で一つの単語だろう。
 他方この縮小辞は一つの単語として確立したものにだけに見られるのではなく、造語用の形態素としても日常会話で頻繁に使われている。例えば「ひよこ」を Küken(キューケン)あるいは Kücken(キュッケン)というが、私などはあのモフモフ感を強調するためこれに -chen をつけて Kückchen(キュックヒェン)と言わずにはいられない。「ひよこさん」である。アヒルに対しても単に Ente(エンテ)などと辞書どおりに呼ぶと無愛想すぎるのでいつも Entlein(エントライン)、Entchen(エントヒェン)である。いちどアヒルにつけるのは -chen がいいのか  –lein がいいのかネイティブに聞いてみたことがあるが、「好きにしろ」とのことだった。
 縮小辞をつけた単語は辞書に載っていないこともあるので、会話でこれを使うと「私は辞書に載っていない言葉を使っているぞ!」ということで、まるで自分のドイツ語が上手くなったような錯覚を起こせて気持ちがいいが、実はこの縮小形使用には気持ちのほかに実際的な利点があるのだ。
 ドイツ語の名詞には女性・中性・男性の三つの文法性があるが、これがロシア語のように名詞の形によっては決まらない。もちろんある程度形から推すことはできるが、Bericht(ベリヒト、「報告」)が男性、それと意味も形も近い Nachricht(ナーハリヒト、「報告」)が女性と来ては「何なんだこれは?!」と思う。ところが -chen であれ-lein であれ、この縮小辞がついた語は必ず中性になるのである。だから名詞の文法性が不確かな時はとにかく縮小辞をくっつけて名詞全体を中性にしてしまえばいい。日本語でも丁寧な言葉使いをしようとしてむやみやたらと「お」をつける人がいるが、それと似たようなものだ。日本語の「お」過剰がかえって下品になるように、ドイツ語でも縮小名詞を使いすぎるとちょっとベチャベチャして気持ちわるい言葉使いにはなるが、文法上の間違いだけは避けられる。
 ロシア語には -ик (-ik)、 -нок (-nok)、 -к (-k) といった縮小辞がある。たとえば
Tabelle-97
 この -ik についてはちょっと面白い話を聞いたことがある。ロシア語ばかりでなくロマニ語でもこの -ik が使われているが(pos「埃」→ pošik)、この縮小辞はアルメニア語からの借用だという説があるそうだ。クルド語にも kurrik (「少年」)、keçik(「少女」)などの例があるらしい。同じスラブ語のクロアチア語では男性名詞には -ić(komad 「塊」→ komad)、 -čić(kamen「石」→ kamenčić)、 -ak(cvijet「花」→ cvijetak)、女性名詞には -ica(kuća「家」→ kućica、 -čica(trava「草」→ travčica)、 -ka(slama「藁」→ slamka)、そして中性名詞だと -ce(brdo「山」→ brdašce)、 -če(momče 「少年」、元の言葉は消失している)を付加して縮小名詞を作るが、ロシア語 -ik とはちょっと音が違っている。この違いはどこからきたのか。考えられる可能性は3つである:1.ロシア語の -ik はアルメニア語からの借用。クロアチア語が本来のスラブ語の姿である。2.どちらの形もスラブ語祖語あるいは印欧祖語から発展してきたもの、つまり根は共通だが、ロシア語とクロアチア語ではそれぞれ異なった音変化を被った。3.ロシア語とクロアチア語の縮小辞は語源的に全くの別単語である。クロアチア語の -ak など見ると -k が現れているし、c や č は k とクロアチア語内の語変化パラダイムで規則的に交代するから、私は2が一番あり得るなとは思うのだが、きちんと文献を調べたわけではないので断言はできない。

 さて、縮小形の名詞は単に小さいものを指し示すというより、「可愛い」「愛しい」という話者の感情を表すことが多い。「○○ちゃん」である。上のひよこさんもアヒルさんも可愛いから縮小辞つきで言うのだ。そういえばいつだったか、私がベンチに坐って池の Entlein を眺めていたら(『93.バイコヌールへアヒルの飛翔』の項で話した池である)、いかにも柔和そうなおじいさんが明らかに孫と思われる女の子を連れてきて「ほら、アヒルさんがいるよ」と言うのに уточика(ウートチカ)と縮小辞を使っていた。ロシア人の家族だったのである。普通に「アヒル」なら утка(ウートカ)だ。
 そういえば前に話題にしたショーロホフの短編『他人の血』では老コサックが戦死した息子を悼んで сынок! (スィーノク)と叫ぶシーンがあった。縮小辞は死んだ息子に対する愛情の発露である。単に「息子」だけなら сын (スィン)だ。
 逆にあまり感情的な表現をしてはいけない場合、例えば国際会議などでアヒルやひよこの話をする時はきちんと Ente、Küken と言わないとおかしい。この縮小辞を本来強いもの、大きくなければいけないものにつけると一見軽蔑的な表現になる。「一見」といったのは実はそうでもないからだ。Mann (「男、夫」)のことを Männchen とか  Männlein というと「小男」「チビ」と馬鹿にしているようだが、Männchen などは妻が夫を「ねえあなた」を親しみを込めて呼ぶときにも使うから、ちょっと屈折してはいるが、やはり「可愛い」「愛しい」の一表現だろう。Männchen には動物の雄という中立的な意味もある。
 ロシア語の народишко(ナロージシコ)は народ(ナロート、「民衆・民族」)の縮小形だが、これは本当に馬鹿にするための言葉らしいが、ロシア語とドイツ語では縮小辞にちょっと機能差があるのだろうか。

 縮小辞の反対が拡大辞 augumentative である。この形態素を名詞にくっつけると「大きなもの」の意味になる。ネットを見てみたらドイツ語の例として ur-(uralt 「とても古い」)、über-(Übermensch「超人」)、 aber- (abertausend「何千もの」)が例として挙げてあったが、これは不適切だろう。これらの形態素はむしろ「語」で、つまりそれぞれ語彙的な意味を持っているからだ。しかも -chen や -lein の縮小辞とちがって全部接頭辞である。単なる強調の表現と拡大辞を混同してはいけない。
 ロシア語には本当の拡大辞がある。-ище (-išče)、–ина (-ina)、–га (-ga) だ。縮小辞と同じく接尾辞だし、それ自体には語彙としての機能がない:дом (「家」)→ домище (ドーミッシェ、「大きな家」)またはдомина (ドミナ、「大きな家」)、 ветер(ヴェーチェル、「風」)→ ветрога(ヴェトローガ、「大風」)。クロアチア語には-ina、-etina、-urina という拡大辞があり、明らかにロシア語の –ина (-ina) と同源である:trbuh (「腹」)→trbušina (「ビール腹、太鼓腹」)、ruka(「手」)→ ručetina (「ごつい手」)、knjiga (「本」)→ knjižurina(「ぶ厚い本」)。この縮小形はそれぞれ trbuščić(「小さなお腹」)、ručica (「おてて」)、knjižica(「小さな本」)で、上で述べた縮小辞がついている。
 クロアチア語は縮小形名詞ばかりでなく、拡大形のほうも大抵辞書に載っているが、ロシア語には縮小形は書いてあるのに拡大形のでていない単語が大部ある、というよりそれが普通だ。辞書の編集者の方針の違いなのかもしれないが、もしかしたらロシア語では拡大辞による造語そのものが廃れてきているのかもしれない。クロアチア語ではこれがまださかんだということか。
 また、拡大形は縮小形よりネガティブなニュアンスを持つことが多いようだ。 上の「ビール腹」も「ごつい手」も純粋に大きさそのものより「美的でない」という面がむしろ第一である感じ。さらにクロアチア語には žena(「女」)の拡大形で ženetina という言葉があるが、物理的にデカイ女というより「おひきずり」とか「あま」という蔑称である。
 だからかもしれないが、さすがのクロアチア語辞書にも「アヒル」(patka)については縮小形の patkica しか載っていない。ロシア語も当然縮小形の「アヒルさん」(уточика)だけだ。この動物からはネガティブイメージが作りにくいのだろう。例の巨大なラバーダックも物理的に大きいことは大きいが、それでもやっぱり可愛らしい容貌をしている。


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 小学校の頃、ある種のお面(般若のお面だったと思う)が怖くて怖くて目にするたびにパニック状態になってしまう少女が主人公になっている物語というか短編を読んだことがある。その少女をあるときそのボーイフレンドが軽い気持ちでからかって、いきなり「ばあ」という風に般若のお面をつけて彼女の前に現れた。少女はパニックのあまりボーイフレンドを殴り、叫び声をあげながら自分の家に走って逃げて部屋に駆け込み鍵をかけ、何時間も出てこなかったというストーリー展開だったと記憶している。私は子供心にもこのボーイフレンドとやらの無神経ぶりに義憤を感じざるを得なかった。
 この少女のように本当の恐怖症でなくとも怖くて怖くて仕方がないというものがある人は多いが、その恐怖の対象を軽々しく人にバラしたりしない。悪用されたりしたらエライことになるからだ。いつだったかこちらのTVの軽い番組で、邪魔だと思っている人が蛇に対して病的な恐怖症を抱いている事を偶然知ったライバルが、その人が泳いでいるプールに蛇を投げ込んでパニック状態にさせ溺れ死を狙うというストーリーがあった。
 そういう、下手をすると命に関わる弱みを打ち明けるというのはその人を信頼しているからこそである。それあるにその信頼を逆手にとってわざわざからかいのネタにするとは何事か。どうしてこの少女はそんなゲスなボーイフレンドと付き合っているのか、と私は憤慨したのである。
 
 確かにこのボーイフレンドのように恐怖症あるいは不安障害に悩んでいる者を実際に知っているのにそれを真剣に受け止めず、ましてやその弱みをつつくというのはゲスであろうが、個人的に不安障害のある知り合いがいない場合今ひとつ真面目に取れないというのは結構あるのではないだろうか。
 例えば私は最近 Anatidaephobia という言葉を知った。ドイツ語では Anatidenphobie、「アヒル恐怖症」あるいは「ガン・カモ恐怖症」である。アヒルやガチョウそのものに対する病的な恐怖でなく、アヒルやガチョウ、あるいはカモやガンに見られている、観察されているのではないかという恐怖、つまり間接的・潜在的な恐怖だそうだ。「アヒル恐怖症」というより「アヒルの視線恐怖症」と言った方がよさそうだ。発作が起こると周りのどこかにアヒルがいるのではないかと、気になって気になって何度も振り返ざるを得ず、心臓は早打ちしだし冷や汗は出て、日常生活に支障さえきたすそうだが、これを聞いた時私は「なんでそこで急にアヒルが出てくるのよ。そんなものがあるわけないでしょ」と大笑いしてしまった。今でもどうも本当の話とは思えない。いろいろな恐怖症リストなどを見てもこのアヒル恐怖症は乗っていないし、第一この言葉を最初に使ったのは心理学者ではなくGary Larson という漫画家で、The far side という作品の中に出て来るそうだ。ちょっとネットを見ても「本当に患者がいるのかよ?!」「いるわけないだろ」というやりとりが目立つ。そのうちフェイスブック内で anatidaephobia sufferers society というコミュを見つけたがそのトップ画像といい、書き込み内容といい、どうも本当に苦しんでいるようには思えない。「本当にこんな不安障害者がいるのか?」という疑問を拭いきれないのだが、もし真剣に苦しんでいる患者さんがいたらまことに申し訳ない。考えを改めるから連絡してきてほしい。

 さて、この anatiden あるいは anatidae というのは「カモの類」という意味の学術用語で、1811年にイギリスの昆虫学者 William Kirby の造語とのことである。学術用語だから(?)当然ラテン語だが、前半の anat-はラテン語の「カモ」でいいとして、後半の接尾辞 -idae は本来ギリシャ語の -ίδης (-ídēs) をラテン語風にしたものだ。「○の類」とか「○の一族」である。なお、ラテン語で「カモ」の単数主格は anas といって s で終わっているがそれ以外の格ではここが t になり、例えば単数属格はanatis、単数対格 anatem、複数では主格対格が同形で anatēs だから、「カモの類」もここから類推して anatidae と t 形を使っている。
 そのラテン語の anas は印欧祖語の *h₂énh₂ts または *h₂énh₂tis から派生したものだが、面白いことにこのアヒルあるいはカモという言葉は現在のロマンス語派でバラバラである。
 まず、イタリア語のアヒルは anatra と一目瞭然ラテン語の直系だが、フランス語では canard、スペイン語とポルトガル語では patoである。前者は cane という語幹に 性別を表すard という接尾辞がついたもので、語幹 cane は中世低地ドイツ語からの借用、「舟・ボート」という意味だそうだ。現在のドイツ語の Kahn(小船・はしけ)である。これは印欧祖語の *gan- あるいは *gand-(「舟」、「うつわ」あるいは「管状のもの」)に遡れるそうだ。スペイン語・ポルトガル語の pato はペルシャ語の bat がアラビア語を経由して借用されたもの。『20.カッコいいぞ、バンデラス!』にも書いたがスペイン語にはアラビア語起源の言葉がやたらと多い。
 しかしスペイン語、ポルトガル語には pato と平行してそれぞれ ánade、adem というアヒルを表す言葉が存在する。ラテン語からの派生である。面白いのはポルトガル語の adem で、明らかに単数対格形(上述)から来たもの。以前『17.言語の股裂き』で現在の西ロマンス諸語で複数主格形を作るのに付加される s は、一般に言われるように対格から来たのではなく古い形が残ったためではないか、と書いたがこれを見ると「おや、やっぱりあれらは対格起源なのかな」とも思う。専門家のご指摘を請いたい。

 もう一つの有力なロマンス語、ルーマニア語ではアヒルは rață である。似た形はバルカン半島に広まっていて、アルバニア語の rosë、クロアチア語の raca、ハンガリー語の réce、ロマニ語の ráca など、何か共通のサブストレータムをなしているのではないかということだが、この語の起源自体については正直に uncertain とあった。しかもこれにはちょっと注釈が必要で、例えばクロアチア語ではアヒルは普通 patka である。raca を使う地域は限定されているそうだ。さらにクロアチア語にはスラブ語本来、というより印欧語本来の utva(下記参照)という言葉もあり、カモの一種である「コガモ」を指す。ところがハンガリー語では逆に réce の方が「コガモ」で、アヒル・カモ一般は kasca だ。クロアチア語の正規の(?)アヒル、patkaはスラブ祖語では *pъtъka でロシア語の「鳥」птица と同源だそうだ。クロアチア語でも鳥は ptica。もちろん始祖鳥の学名アルケオプテルクス(この学名はラテン語でなくギリシャ語)のプテルクスと同語源である。
 さらにアルバニア語の rosë だが、このトスク方言(『39.専門家に脱帽』『100.アドリア海の向こう側』参照)の単語の古形を *roça と再現していた説明を見かけた、それによればこの語はアルバニア祖語では *(a)nātjā、そこからさらにラテン語同様印欧祖語の *h₂énh₂ts に遡れるということだ。トスク語がロータシズムを起こしてアルバニア祖語と n  対 r で対応しているあたり確かに理屈通りなのだが、そうすると他のルーマニア語だろなんだろもアヒルをこのアルバニア語、しかも新しいトスク方言から借用したことになる。なぜなら上記バルカン半島の他の印欧語のアヒルは *h₂énh₂ts とは直接結びつかないからだ。クロアチア語では音韻的に起源の証明された utva とダブっているし、そもそも言語間で形が似すぎているから、祖形からそれぞれ発展してきたものではありえない。さらに非印欧語のハンガリー語まで似た形が広まっているとあれば、借用語としか考えられないのである。
 しかし、アルバニア語というのはバルカン半島でそこまで勢力や影響力を持っていたことがない。むしろ他の言語からアルバニア語への借用のほうが圧倒的に多い。それともこの語はアルバニア祖語というかイリュリア語の時期にバルカン半島中に広まったのか。でもそうすると他の言語でロータシズムは起こしていないはずである。ということで rosë を *(a)nātjā に帰するのはちょっと無理があるような気がするのだが…
 現代ギリシア語のアヒルはさらに違っていてπάπια。オノマトペだそうだ。ロマニ語に上記の ráca のほかにアヒルを表す papin という単語があるが、これはギリシャ語からの借用であることが明白である。

 ゲルマン諸語ではロマンス諸語やバルカンの言語ほどアヒルがバラバラではなく(鳥肉業者かよ)、ドイツ語の Ente、オランダ語の eend、スウェーデン語の and などは皆ラテン語 anas と同起源で印欧祖語の *h₂énh₂ts または *h₂énh₂tis から。ゲルマン祖語では *anuðz または *anaþ となる。つまり英語だけが変な単語になっているわけだが、この duck は動詞の duck と同じ語源。つまり「潜る」と「ひょいと下げる」という意味から来たそうだ。ドイツ語にも ducken(「ひょいとかがめる」)という動詞があるし、「もぐる」の tauchen ともつながっているらしい。古期英語ではまだ他のゲルマン諸語といっしょでアヒルを *h₂énh₂ts 系の単語 ened で表していたが中期に語が入れ替わった。ついでに古高ドイツ語では ant、中高ドイツ語では anut だった。さらについでに言えばレオーネのマカロニウエスタン『夕陽のギャングたち』の英語タイトルは duck, you suckerだが、この duck はもちろんドナルドダックのダックではなく、動詞のほう、つまり「頭をかがめろ」である。原題は Giù la testa。
 ロシア語のアヒル утка も *h₂énh₂ts で、スラブ語祖語の *ǫty。スラブ祖語や古教会スラブ語の鼻母音 ǫ (ѫ)がロシア語の у (u) と対応することは前にも述べたが(『38.トム・プライスの死』『39.専門家に脱帽』)、ここでもきれいな対応になっている。

 アヒルから観察されるのは恐怖を感ずる人がいるかも知れないが、こうやってこちらの方からアヒルという語を観察していくのは面白く、それによってアヒルの視線への恐怖にも打ち勝てるのではないだろうか。攻撃は最大の防御である。


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 この手のアンケートはよく見かけるが、ちょっと前にも「今習うとしたら何語がいいか」という趣旨の「重要言語ランキングリスト」とかをネットの記事で見かけたことがある。世界のいろいろな言語が英語でリストアップされていた。この手の記事は無責任とまではいえないがまあ罪のない記事だから、こちらも軽い気持ちでどれどれとリストを眺めてみた。そうしたら、リストそのものよりその記事についたコメントのほうが面白かった。
 面白いというとちょっと語弊があるが、いわゆる日本愛国者・中国嫌いの人たちであろうか、何人もが「中国語がない。やはり中国は重要度の低い国なんだ。日本とは違う」と自己陶酔していたのだ。眩暈がした。なぜならその「重要言語・将来性のある言語リスト」の第二位か三位あたりにはしっかりMandarinが上がっており、その二つくらい下にCantoneseとデカイ字で書いてあったからである。この両方をあわせたら英語に迫る勢い。日本語も確かにリストの下のほうに顔をだしてはいたが、これに太刀打ちできる重要度ではない。この愛国者達は目が見えないのかそれともMandarin, Cantoneseという言葉を知らないのか。そもそも中国語はChineseなどと一括りにしないでいくつかにバラして勘定することが多いことさえ知らないのか。
 中国語は特に発音面で方言差が激しく、互いに通じないこともあるので普通話と広東語はよく別勘定になっている。さらに福建語、客家語などがバラされることも多い。以前「北京大学で中国人の学生同士が英語で話していた、なぜなら出身地方が違うと同じ中国語でも互いに通じないからだ」という話を読んだことがある。さすがにこれは単なる伝説だろうと思っていたら、本当にパール・バックの小説にそんな描写があるそうだ。孫文や宋美齢の時代にはまだ共通語が普及しておらず、しかも当時の社会上層部は英語が出来たから英語のほうがよっぽどリングア・フランカとして機能したらしい。現在は普通話が普及しているので広東人と北京人は「中国語」で会話するのが普通だそうだ。「方言は消えていってます。父は方言しか話しませんでしたが、普通話も理解できました。私は普通話しか話せませんが方言も聞いてわかります。ホント全然違う言葉ですよあれは。」と中国人の知り合いが言っていた。

 当該言語が方言か独立言語かを決めるのは実は非常に難しい。数学のようにパッパと決められる言語学的基準はないといっていい。それで下ザクセンの言語とスイスの言語が「ドイツ語」という一つの言語と見なされる一方、ベラルーシ語とロシア語は別言語ということになっているのだ。言語学者の間でもこの言語が方言だいや独立言語とみなすべきだ、という喧嘩(?)がしょっちゅう起こる。そのいい例が琉球語である。琉球語は日本語と印欧語レベルの科学的な音韻対応が確認されて、はっきりと日本語の親戚と認められる世界唯一の言語だが、江戸時代に日本の領土となってしまったため、これを日本語の方言とする人もいる。私は琉球語は独立言語だと思っている。第一に日本語と違いが激しく、これをヨーロッパに持ってきたら文句なく独立言語であること、第二にその話者は歴史的に見て大和民族とは異なること、そして琉球語内部でも方言の分化が激しく、日本語大阪方言と東北方言程度の方言差は琉球語内部でみられることが理由だが、もちろんこれはあくまで私だけの(勝手な)考えである。自分たちの言語の地位を決めるのは基本的にその話者であり、外部の者があまりつべこべ言うべきではない、というのもまた私の考えである(『44.母語の重み』参照)。
 一方、ではそれだからと言って話者の自己申告に完全に任せていいかというとそれもできない。いくら話者が「これは○○語とは別言語だ」と言いはっても、言語的に近すぎ、また民族的にも当該言語と○○語の話者が近すぎて独立言語とは見なさない場合もある。例えばモルダビアで話されているのはモルダビア語でなく単なるルーマニア語である。
 方言と独立言語というのはかように微妙な区別なのだ。

 私は以前この手の言語論争をモロに被ったことがある(『15.衝撃のタイトル』参照)。副専攻がクロアチア語で、当時はユーゴスラビア紛争直後だったからだ。以前はこの言語を「セルボ・クロアチア語」と呼んでいたことからもわかるように、セルビア語とクロアチア語は事実上同じ言語といっても差し支えない。ただセルビアではキリル文字、クロアチアではラテン文字を使うという違いがあった。宗教もセルビア人はギリシア正教、クロアチア人はカトリックである。そのため事実上一言語であったものが、いや一言語であったからこそ、言語浄化政策が強化され違いが強調されるようになったからだ。私の使っていた全二巻の教科書も初版は『クロアチア語・セルビア語』Kroatisch-Serbischというタイトルだったが紛争後『クロアチア語』Kroatischというタイトルになった。私はなぜか一巻目を新しいKroatisch、2巻目を古いバージョンのKroatisch-Serbischでこの教科書を持っている。古いバージョンにはキリル文字のテキストも練習用に載っていたが、新バージョンではラテン文字だけ、つまりクロアチア語だけになってしまった。
 しかし戸惑ったのは教科書が変更されたことだけではない。言語浄化が授業にまで及んできて、ちょっと発音や言葉がずれると「それはセルビア語だ」と言われて直されたりした。また私が何か言うとセルビア人の学生からは「それはクロアチア語だ」と言われクロアチア人からはセルビア語と言われ、それにもかかわらず両方にちゃんと通じているということもしょっちゅうだった。しかしそこで「双方に通じているんだからどっちだっていいじゃないか」とかいう事は許されない。どうしたらいいんだ。とうとう自分のしゃべっているのがいったい何語なのかわからなくなった私が「○○という語はクロアチア語なのかセルビア語なのか」と聞くとクロアチア人からは「クロアチア語だ」と言われセルビア人からは「セルビア語だ」と言われてにっちもさっちもいかなくなったことがある。
 この場合言語は事実上同じだが使用者の民族が異なるため、ルーマニア語・モルダビア語の場合と違って言語的に近くてもムゲに「同言語」と言い切れないのだ。例えば日系人が言語を日本語から英吾に切り替えたのとは違って「クロアチア語あるいはセルビア語」はどちらの民族にとっても民族本来の言語だからである。またクロアチア人とセルビア人以外にもイスラム教徒のボスニア人がこの言語を使っている。「ボスニア語」である。この言語のテキストももちろん「クロアチア語辞書」を使えば読める。(再び『15.衝撃のタイトル』参照)

 では当時クロアチア人とセルビア人の学生同士の関係はどうであったか。ユーゴスラビア国内でなくドイツという外国であったためか、険悪な空気というのは感じたことがない。ただ気のせいか一度か二度ギクシャクした雰囲気を感じたことがあったが、これも「気のせいか」程度である。本当に私の気のせいだったのかもしれない。
 90年代の最後、紛争は一応解決していたがまだその爪あとが生々しかった頃一般言語学の授業でクロアチア、セルビア、ボスニアの学生が共同プレゼンをしたことがあった。そこで最初の学生が「セルビア人の○○です」と自己紹介した後、次の学生が「○○さんの不倶戴天の敵、クロアチアの△△です」、さらに第三の学生が「私なんてボスニア人の××ですからね~」とギャグを飛ばしていた。聞いている方は一瞬笑っていいのかどうか迷ったが、学生たち本人が肩をポンポン叩きあいながら笑いあっているのを見てこちらも安心しておもむろに笑い出した。ニュースなどを見ると今でも特にボスニアでは民族共存がこううまくは行っていないらしい。私のような外部者が口をはさむべきことではないのだろうが、この学生たちのように3民族が本当の意味で平和共存するようになる日を望んでやまない。


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