アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:ウクライナ語

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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 ドイツは1998年にEUのヨーロッパ地方言語・少数言語憲章を批准・署名しているので、国内の少数言語を保護する義務があり、低地ザクセン語、デンマーク語、フリ―スランド語、ロマ二語、ソルブ語が少数言語として正式に認められている。特にソルブ語は、公式に法廷言語として承認されている。裁判所構成法(Gerichtsverfassungsgesetz)第184条にこうある。

Die Gerichtssprache ist deutsch. Das Recht der Sorben, in den Heimatkreisen der sorbischen Bevölkerung vor Gericht sorbisch zu sprechen, ist gewährleistet.

法廷言語はドイツ語とする。ソルブ人の住民にはその居住する郡の法廷においてソルブ語を使用する権利が保障される。

 法廷言語は公用語とイコールではないが、ソルブ人はやろうと思えばもとから自分達の住んでいる地域で自分達の言葉を使って裁判ができるのだからこれは準公用語的ステータスではないだろうか。日本のどこかにアイヌ語で裁判をする権利が認められている地方があるだろうか? さらに、現在ザクセン州の知事をしているのはドイツ人ではなく、ソルブ人のスタニスラフ・ティリッヒという政治家だ。「スタニスラフ」という名前は典型的に非ドイツ語形。これを日本で言うと、北海道の一部でアイヌ語で裁判が行え、アイヌ語名の仮名表記で戸籍に登録でき、例えば「ゲンダーヌ」という名前のまま立候補したアイヌ人が北海道の知事になったようなものだ。
 ソルブ語はドイツ語とは全く違う西スラブ語系統の言葉でポーランド語に近い。さらに厳密に言うとソルブ語は一つの言語というより下ソルブ語と上ソルブ語の2言語だ。

 これはあくまで自己反省だが、大学でドイツ語、ドイツ文化、あるいはドイツの政治や歴史を勉強しましたといいながらこのソルブ語の存在を知らない人がいる。「ソルブ語なんてドイツ語・ドイツ文化はもちろんドイツの歴史とは関係ないんだからいいじゃないか」と言うかも知れないが、私はそうは思わない。
 「私は日本のことを大学で勉強しました」と言っている外国人がアイヌの存在を知らなかったら、その人の「日本学専攻者」としての知識・能力に対して一抹の不安を抱くのではないだろうか。「ドイツの言葉や文化・歴史を勉強しました。でもソルブ語って何ですか?」と聞く人はそれと同じレベルだと思う。繰り返すがこれは自己反省である。私もソルブ語のことを教わったのはスラブ語学の千野栄一氏の本でなのだから。そもそもいまだに西スラブ語が一言語も出来ない私がエラそうなことを言えた義理ではないのだ。

 そのソルブ語のことをそれこそお義理にちょっと(だけ)調べてみた。
 
 まず「窓」という単語。上下ソルブ語共に wokno である。『33.サインはV』の項に書いたベラルーシ語と同様「語頭音添加の v 」(prothetic v、 ソルブ語では w、ベラルーシ語では в と綴る) が現れているではないか。これはロシア語では окно(okno) だ。そう知るとベラルーシ語以外の東スラブ語、要するにウクライナ語が気になりだした。いくつか単語を検索してみたので比べてみて欲しい。左がロシア語、真ん中がベラルーシ語、右がウクライナ語だ。
Tabelle1-37
ベラルーシ語とウクライナ語では prothetic v の現れ方が微妙に違っている。「秋」と「目」に対して「火」と「窓」を比べてみると、v の現れ方がベラルーシ語とウクライナ語でそれぞれちょうど逆になっているのがわかる。 「8」、「耳」、「髭」では両言語仲良く(?)語頭音に v がついている。「8」に至ってはロシア語までいっしょになって v つきだ。
 
 しかしその、全東スラブ諸語共通で v が語頭添加されている「8」も南スラブ語のクロアチア語では v が現れない。
 Tabelle2-37
「窓」「髭」はクロアチア語は別系統の語を使うようだが、「火」、「8」、「耳」、「目」に v が転化されていないのが見て取れる(太字)。なお。クロアチア語の j は英語の j ではなくドイツ語の j、英語で言うなら y  なので、jesen は「イェセン」である。下記のポーランド語もそう。

 さてそういえば上のウクライナ語に対して対ロシア語・ベラルーシ語では「8」と「窓」という単語でそれぞれ  i 対 o と音韻交替している(下線部)。もっともベラルーシ語はアーカニエ(『6.他人の血』参照)を文字化するので a になっている。これに呼応してハルキウ(Харкiв)というウクライナの都市のロシア語名はハリコフ (Харьков) だ。

 西スラブ諸語にもどるが、ソルブ語とポーランド語を比較してみた。西スラブ語の正書法では ch は英語でなくいわばドイツ語読みなので発音は「チ」でなく「ハヒフヘホ」、[ç] または [x] である。
Tabelle3-37
「秋」は上下ソルブ語とも別系統の語だ。zyma はロシア語の зима (zima) 「冬」だろうからつまりソルブ語では秋のことを「冬に向かう季節」と表現するらしい。「髭」は下ソルブ語で borda と言って上述のクロアチア語と同系統の語、上ソルブ語と語彙そのものが違うように見えるが実は borda 系の単語は上ソルブ語でも使うそうだ。つまり wusy か borda かは言語の違いというより髭の種類の違いのようで、前者は顎鬚を指し髭全般を意味するのはむしろ後者らしい。だからもしかしたらクロアチア語にも下ソルブ語にも borda と並んで ус (us)、 вус  (vus) あるいは wusy (vusy) 系統の単語が存在するのかもしれないが小さな辞書には出ていなかった。
 いずれにせよ、prothetic v を売り物にする(していない)ベラルーシ語よりむしろソルブ語の方がきれいに v  が現れている。

 ついでに隣のバルト語派のリトアニア語は以下の通りだ。 さすがバルト語派。スラブ語派と形が近いが基本的に prothetic v  は現れない。

上下ソルブ語と同様「秋」が別単語だが、ソルブ語と違って「冬に向かう季節」でもない。「冬」はリトアニア語で žiema、スラブ諸語とそっくりだ。リトアニア語の「秋」ruduo はrùdas、「茶色」から来ているそうだ。
Tabelle4-37
 ちょっとネイティブ・スピーカーに聞いてみたら、「髭」には他に barzda という borda 系の言葉もあるらしい。ちなみに「火」というリトアニア語ugnis は、oganj(クロアチア語)、wogeń(下ソルブ語)、ogień(ポーランド語)、 огонь (ogon’)(ロシア語)などとともに、ラテン語の ignis と同源だ。「8」の aštuoni という形は t が入っているのでスラブ語派とは関係ないだろうと思うと、実は両者ともにしっかり同語源、印欧祖語の oḱtṓw から来ている。ラテン語の octō を見てもわかる通り、本来は t があったのだ。それを抜いてしまったスラブ諸語のほうがむしろ文字通り抜けているのである。
 こうして見てみるとリトアニア語も非常に面白そうな言語だが、この言語はアクセント体系が地獄的に難しいと聞いたので今生ではパスすることにして、次回生まれ変わった時にでも勉強しようと思う。


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 子供の頃、英語で「私には姉がいる」をI have a sisterというと聞いて驚愕したことをまだ覚えている。まず「姉」と「妹」を区別しないのに驚いたが、この文脈で「持つ」という動詞を使うのがまた意外だった。日本語ならここで英語のbe、ドイツ語のseinにあたる「ある・いる」という動詞で表現する。
この、「ある」か「持つ」か、つまりbeかhaveかという区別はよく議論されるテーマだそうで、そもそもの言いだしっぺはA・メイエとその弟子のE・バンヴェニストあたりらしい。「be言語」「have言語」という言葉も聞くが、実は私はいままであまり深く考えもせずにテキトーに(またかよ)これらの言葉を使っていた。私が理解していたのはだいたい次のようなことだ。
 大まかにいって現在のヨーロッパにおける印欧諸語がhave言語なのに対し、ヨーロッパでも非印欧語は、フィンランド語やハンガリー語などはbe言語である。 さらにロシア語を含む東スラブ諸語は日本語と同じくbeを使う、つまり「私には姉がいる」タイプだが、南スラブ諸語・西スラブ諸語は「私は姉を持っている」である。

 ところが実際はどうもそう単純に片付けられる問題ではないらしい。まず第一にヨーロッパ外の印欧語でもhaveを使うものや逆にヨーロッパの印欧語でもbeを使う例があるし、第二にそもそもhaveもbeも両方使う言語が多いので、これはhave言語、あれはbe言語とギッチリきれいに線引きすることはできない。ちょっと調べてみた。

 まずヨーロッパの非印欧語トルコ語は図式通りにbe言語で、そもそもhaveにあたる動詞がないそうだ。「ある」または「ない」にあたるvarとyokを使う。

bir ev-im var
一軒の + 家が-私の + ある
→ 私には家が一軒ある。(= 私は家を一軒持っている)

 
telefon-um yok
電話-私の + ない
→ 私には電話がない。(= 私は電話を持っていない)

ちなみにhaveをトルコ語辞書で引くとsahip olmakと出てくる。sahipが「所有者」(しかもアラビア語からの外来語)、olmakが「ある」だから、「○○の所有者である」と表現するしかないらしい。日本語ではここで「トルコ語にはhaveにあたる動詞がない」と「トルコ語はhaveにあたる動詞を持たない」の両方の表現が可能だから、それに比べてもトルコ語は相当ハードなbe言語だ。

 古モンゴル語もbe言語だったそうだが、トルコ語と違って「私」は属格でなく与格(処格)になる。

nadur morin buy
私に + 一匹の馬が + いる・ある
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)


 古グルジア語もbe。

ara ars čuen tana uprojs xut xueza puri
ある +(否定)+ 我々に + と共に + より多い + より + 5 + パンが
→ 我々には5個以上のパンがない。
(= 我々は5個以上のパンを持っていない)


 ところがこれと平行した構造は印欧語の古典ギリシア語でも成り立つそうだ。つまり古典ギリシア語はヨーロッパの印欧語のくせにbeも許すのだ。

ούχ εισίν ημιν πλειον ή πέντε άρτοι
(否定) + ある + 我々に + より + 多い + より + 5 +  パンが(複数主格)
→ 我々には5個以上のパンがない。

しかし古典ギリシャ語はその一方でhave構造も使うから油断できない。

Οὐκ ἔχω ἄνδρα
(否定) + 持つ(一人称単数)+ 夫を
→ 私は夫を持っていない (= 「私には夫がいない」)

 胸焼けがして来そうだが、ついでにヒッタイト語もbeを使ったそうだ。

tuqqa UL kuitki ešzi

このULというのは何なのかよくわからないのだが、とにかくtuqqaが「君に」、kuitkiがnothing、ešziが「ある・いる」で、全体としては「君には何もない」。ちなみにこのヒッタイト語というのはこれでも一応印欧語である。俄かには信じられないがそれでもešziというコピュラにちょっと印欧語らしさがのぞく。
 現代モンゴル語、現代グルジア語、現代ギリシャ語がどうなっているのか気にはなったのだが調べるのがメンド臭かったので(またかよ)先を続ける。

 さらなるヨーロッパ外の印欧語クルド語もbeを使うそうで、

min hespek heye
私に + 一匹の馬が + いる
→ 私には馬が一匹いる。(= 私は馬を一匹持っている)

これに対してお隣の印欧語ペルシャ語はhaveを使うそうだ。人から聞いたところでは
man khahar daram
私(主格)+ 妹または姉 + 持つ(一人称・単数)
→ 私は姉(妹)を持っている (=私には姉(妹)がいる)

  
 もっとも、特に古典語はhaveを使った例があるからといって他方のbe(あるいはその逆)を使わなかったという証明にはならないところが辛い。構造としては許されているが、たまたま使用例が残っていなかっただけかもしれないのだ。言語問題と言うのは結局ネイティブスピーカーを捕まえて聞いてみるしかないのだが、古典語はそれができない。クルド語・ペルシャ語もちょっとネイティブスピーカーがつかまらなかったのでもう一方のバージョンが完全にNGなのかどうか確認はしていない。

「ヨーロッパの印欧語」ではロシア語が結構キッパリbe言語だと名付けられるので有名だ。「私には子供がいます」という時ロシア語でも「いる」を使うと聞いて「おお、日本語と同じじゃないか」と感動したのは私だけではないはずだ。

У меня есть ребёнок
のところに + 私の + いる・ある + 子供が
→ 私には子供がいる。

(日本語で「私は子供を持っている」は成り立たない)

南スラブ語のクロアチア語はhaveだ。ロシア語の「子供がいる形構造」に狂喜していた私はクロアチア語がhave言語ときいてガッカリしたものだ。

imam kuću
持つ(一人称単数) + 家を
→ 私は家を持っている。

(日本語では「私には家がある」も可能)

クロアチア語にはさらにhaveが非人称表現を作り、英語で言えばthere is Xをit has Xと表現するのだ。ima Xで、「Xがない、いない」だが、このimaというのは動詞「持つ」(不定形はimati)の3人称単数形である。ドイツ語もここで非人称表現を使ってes gibt X(it gives X)というから動詞は違っているが(geben=give)発想はそっくり。例えば授業の始めに出席を取るとき、「Aさんはいますか?」と聞くとき「ima li A?」といい、いるかどうか聞かれた学生は「ima!」(「いますよ!」)と言って手を挙げる。
 このように南スラブ諸語、あと基本的に西スラブ諸語もhave言語と言っていいが、ポーランド語は例外で両方OKらしい。

mam samochód
持つ(一人称単数)+ 自動車を
→ 私は自動車を持っている。

u jednego był długi muszkiet
~のところに + 一人の人の + あった + 長い + マスケットが
→ ある人のところに長いマスケット銃があった。


どうしてここで突然マスケット銃が出てくるのか面食らう例文だが、これは日本語では「持つ」を使って「ある人が長いマスケット銃を持っていた」と言ったほうが自然ではないか。(「長いマスケット銃」とわざわざ言っている、ということは「短いマスケット銃」というのもあるのか?)
 
 ウクライナ語も両方許されるそうで、

Я маю машину.
私 が + 持つ + 車を
→ 私は車を持っている。

У мене є машина.
~のところに + 私 + ある + 車が
→ 私には車がある。


はどちらもOK。ベラルーシ語も同じだそうだ。

 遡って古教会スラブ語ではhave構造が散見されるだが、面白いことにギリシア語のhave(έχειν)は必ずといっていいほど古教会スラブ語でもhave(imĕti)を使って訳してあるとのことだ。古教会スラブ語は南スラブ語だから、その子孫が現在を使っているのもうなずける。さらに実際はbe言語の(はずの)ロシア語も古いテキストではhaveを使っているのが見られるという。

 フランス語にも実は一見「~に~がある」に対応する構造est à moiがあるが、意味と言うか機能に少し差があるから注意を要する。ラテン語のest mihi liber(私には本がある)とhabeō librum(私は本を持っている)が同じ意味になるのとは違うのだ。be (être à)は定冠詞を取らないといけないし、have (avoir)は不定冠詞と使ったほうがずっと許容度が高いそうだ。

Ce livre est à moi.
* Un livre est à moi.

J’ai un livre.
? J’ai ce livre

 バンヴェニストは一般的に所有関係の表現はbeからhaveへ移行していくのであって、その逆ではない、という見解を述べている。古教会スラブ語とロシア語を比べて見るとちょっと待ったと言いたくなるが、長い目で見るとやっぱり全体的にはhaveへ移行中なのだろうか。日本語も昔は「会議がありました」以外考えられなかったのに最近は「会議が持たれました」という言い回しも聞くし、そのうち「私は子供を持っています」のほうが普通になるかもしれない。


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 クロアチア語は発音でえらく苦労した。

 例えばクロアチア語には /i/ という前舌狭母音、つまりロシア語でいう и しかないのに n という子音そのものには口蓋音・非口蓋音(硬音・軟音)の区別があるのだ。クロアチア語ではそれぞれ n、nj と書いてそれぞれロシア語の н と нь に対応するのだが、その後に /i/ が来たときの区別、つまり ni と nji の発音の区別が結局最後までできなかった。日本語ではどちらも「ニ」としか書きようがないのだが、ni をロシア語式に ни (ニ)と言うと「それでは nji に聞こえます」と怒られ、それではと ны (ヌィ)と言うと「なんで母音のiをそんな変な風に発音するんですか?」と拒否される。「先生、ni と nji の区別が出来ません」と泣きつくと、「仕方がありませんねえ、では私がゆっくり発音してあげますからよく聞いてください」と親切に何度も両音を交互に発音してくれるのだが、私には全く同じに聞こえる。 
 さらにクロアチア語にはロシア語でいう ч に硬音と軟音の区別がある、つまり ч と чь を弁別的に区別する。これも日本語ではどちらも「チ」としか言いようがない。ロシア語では ч は口蓋音、いわゆる軟音しかないからまあ「チ」と言っていればなんとなく済むのだが、クロアチア語だと「チ」が二つあって発音し間違えると意味が変わってくるからやっかいだ。ロシア語をやった人なら、「馬鹿な、もともと軟音の ч をさらに軟音にするなんて出来るわけがないじゃないか」と言うだろうがそういう音韻組織になっているのだから仕方がない。č が ч、ć が чь だ。
 私はこの区別もとうとうできるようにならなかった。例えば Ivić というクロアチア語の苗字を発音しようとすると、講師からある時は「あなたの発音では Ivič に聞こえます。それではいけません。」と訂正され、またある時は「おお、今の発音はきれいな Ivić でした」と褒められる。でも私は全然発音し分けたつもりはないのだ。何がなんだかわからない、しまいには自分がナニしゃべっているのかさえわからなくなって来る。

 反対にクロアチア人の学生でとうとうロシア語の мы (ムィ、「私たち」)が言えずに専攻を変えてしまった人がいる。南スラブ語と東スラブ語間では皆いろいろ苦労が絶えないようだ。

 ところで、古教会スラブ語は「スラブ祖語」だと思っている人もいるが、これは違う。サンスクリットを印欧祖語と混同してはいけないのと同じ。古教会スラブ語はれっきとした南スラブ語族の言語で、ロシア語とは系統が異なる。ただ、古教会スラブ語の時代というのがスラブ諸語が分離してからあまり時間がたってない時期だったので、これをスラブ祖語とみなしてもまああまり支障は出ないが。
 東スラブ語は過去2回この南スラブ語から大波を受けた。第一回目が例のキリロス・メトディオスのころ、そして2回目がタタールのくびきが除かれて中世セルビア王国あたりからドッと文化が入ってきたときだ。
 なので、ロシア語には未だに南スラブ語起源の単語や文法組織などが、土着の東スラブ語形式と並存している。日本語内に大和言葉と漢語が並存しているようなものだ。
 さらに、南スラブ語は常に文化の進んだ先進地域の言語であったため、この南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり、意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする。例えば合成語の形態素として使われるのも南スラブ語起源のことが多い。日本語でも新語を形成するときは漢語を使う事が多いのと同じようなものだ。
 
 ちょっと下の例を比べてみて欲しい。оло (olo) という音連続は典型的な東スラブ語、ла(la) はそれに対応する南スラブ語要素だが、語源的には同じ語がロシア語には南スラブ語バージョンのものと東スラブ語バージョンのものが並存し、しかもその際微妙に意味が違ったり合成語に南スラブ語要素が使われているのがわかると思う。
Tabelle1-56
 さらにいえば、ウクライナ語は昔キエフ公国の時代に東スラブ語文化の中心地だったためか、ロシア語よりも南スラブ語に対する東スラブとしての抵抗力があったと見え、ロシア語よりも典型的な東スラブ語の音韻を保持している部分がある。例えばロシア語の名前Владимир(ヴラジーミル)は南スラブ語からの外来名だ。この愛称形をВолодя(バロージャ)というがここでも上で述べた南スラブ対東スラブ語の典型的音韻対応 ла (la) 対 оло  (olo)が現れているのが見て取れるだろう。この、ロシア語ではВладимирとなっている名前はウクライナ語ではВолодимир (ヴォロジーミル)といって正式な名前のほうでも оло  という典型的東スラブ語の形を保持している。
 この、南スラブ語の la や ra がそれぞれ olo や oro になる現象をполногласие (ポルノグラーシエ、正確にはパルナグラーシエ、「充音現象」)と言って、東スラブ語の特徴である。「難しくてオロオロしてしまいそうだ」とかギャグを飛ばそうかと思ったが馬鹿にされそうなのでやめた。いずれにせよполногласие の л (l) をр (r) と間違えないことだ。

 古教会スラブ語のアクセント体系がどうなっていたかはもちろん直接記録はされていないが、現在の南スラブ語を見てみればある程度予想はつく。以下は南スラブ語の一つクロアチア語とロシア語の対応語だが、これを見ればおつむにアクセントのある上品な南スラブ語が東スラブ語ではアクセント位置がお尻に移動しているのがわかる。アクセントのあるシラブルは太字で表す。 さらに比較を容易にするため、ロシア語もローマ字で示してみた。
Tabelle2-56
 この、「おつむアクセントは上品、お尻アクセントは俗語的」という感覚は人名の発音にも見られるそうだ。例えばイヴァノフ (Иванов)という名前は ва にアクセントが来る「イヴァーノフ」と но に来る「イヴァノーフ」という二種類の発音の仕方があるのだが、「イヴァーノフ」の方が上品で古風、つまりなんとなく由緒あり気な感じがするという。
 それを知ってか知らずか、神西清氏はガルシンの小説『四日間』(Четыре дня)の主人公を「イヴァーノフの旦那」と訳している。貴族の出身という設定だったので、由緒ありげな「イヴァーノフ」のほうにしたのかもしれない。「イヴァノーフ」では百姓になってしまい、「旦那」という言葉と折り合わなかったのか。
 この苗字の元になった名前「イヴァーン」(Иван)のアクセントは ва (ヴァ)にあるのだから、最初は苗字のほうもイヴァーノフだったはずだ。その後ロシア語の言語体系内でアクセントの位置がドンドン後方にずれていったので、イヴァノーフという発音が「普通」になってしまった。さらにウルサイことを言えば、この名前の南スラブ語バージョン Ivo (イーヴォ)はアクセントが「イ」に来るし、セルビア語・クロアチア語でも Ivan を I にアクセントを置いた形でイーヴァンと発音する。つまりそもそものИванという名前からしてロシア語ではすでにアクセントが後ろにずれているのだ。Ивановではその、ただでさえずれているアクセントをさらにまた後方に横流ししたわけか。もうこれ以上は退却できない最終シラブルにまで下がってきている。いわば背水の陣だ。


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 琥珀のことをドイツ語で Bernstein というが、この Bern- は本来 brenn-つまり現代標準ドイツ語のbrennen 「燃える」、言い換えると Bernstein の本来の形は Brennstein「燃える石」だ。古高ドイツ語では実際にそう呼んでいた。この brennen という動詞は元々は二つの違った動詞であったのが新高ドイツ語期になって合体してひとつになったものだそうだ:その一つは「燃える」という強変化の自動詞で8世紀の古高ドイツ語、ゴート語で brinnan、古ノルド語で  brinna、中高ドイツ語で brinnen、もう一つは「燃やす」という弱変化の他動詞で古高ドイツ語、中高ドイツ語で brennen、古ノルド語で brenna、ゴート語で gabrannjan といった。ところがそのうち中期低地ドイツ語、中期オランダ語にbernen(自動詞・他動詞共)、古期英語に beornan(自動詞)、 bœrnan(他動詞)(この二つは後に burn という一つの動詞に融合した)という形が現れた。それで13世紀の中期低地ドイツ語では琥珀を bernestēn。barnstēn、börnstēn などと言っていた。現在の Bernstein はこれらの低地ドイツ語形が新高ドイツ語に取り入れられて18世紀に定着したものだ。
 この二つを比べると(英語も含めた)低地ドイツ語と高地ドイツ語では母音と子音 r の順番がひっくり返っているのがわかるが、こういった現象を「音位転換」Metathese といい、いろいろな言語で極めて頻繁に観察される現象である。日本語にもある。例えば「新しい」は本来「あらたし」であったのが、r と t の位置が転換してそのまま固定してしまった。言い間違えで音韻転換してしまうこともよくある。一度「かいつぶり」を「かいつびる」と言った子供を見たが、これも u と i のメタテーゼだ。

 「琥珀」の Brennstein→Bernsteinで見られるような母音と流音の音位転換を特にLiquidametathese(liquid metathesis)「流音音位転換」(発音しにくい言葉だなあ)というが、スラブ語がこれで有名なので liquid metathesis という本来一般的な言葉が「スラブ語流音音位転換 」Slavic liquid metathesis の意味で使われることがある。スラブ祖語では母音+流音であったのが南スラブ諸語では流音+母音と順序が逆転し(つまり音位転換を起こし)、東スラブ諸語では「充音現象」 полногласие (『56.背水の陣』参照)として現れる音韻変化で、ロシア語学習者は以下の呪文のような図式を覚えさせられる。
Tabelle1-145
Tというのは「任意の子音」という意味。だから TorTは「子音 - o - r - 子音」という音韻連続の図式化である。スラブ祖語で子音 - 母音 o - 流音(r または l)という順番だったのが南スラブ語では子音 - 流音 - 母音と音位転換を起こし、しかも母音が o から a に代わっているのがわかる(太字部)。ロシア語ではここが母音が添加された полногласиеとなっている。母音が e の場合も基本的に南スラブ語は音位転換、東スラブ語は充音というパターンだが、南スラブ語では祖語の e が ije と e の2通りある。これが『15.衝撃のタイトル』で述べたセルビア語・クロアチア語の je-方言、e-方言の違いである(太字に下線)。ブルガリア語も e だ。また東スラブ語では祖語の e が o となり、流音 l での両母音の区別が失われている。これだけでは抽象的すぎるので例をあげよう。
Tabelle2-145
BSKというのはブルガリア語、セルビア語、クロアチア語のことだ。*gordъ の意味が括弧にいれてあるのはこの語が各言語で意味の分化を起こしているからで、クロアチア語の grad、ロシア語の гóрод は「町」、西スラブ語の両言語、それぞれ gród と hrad は「城塞」、ウクライナ語の горóд は「庭」だが元の言葉は一つで「柵で囲まれたところ」という意味だった。さらにウクライナ語の г はロシア語と違って閉鎖音ではなく摩擦音である。ベラルーシ語でもそうだが(『33.サインはV』参照)実際に聞くと h に聞こえることがあり、チェコ語と対応している。*bergъについては南スラブ語だけ他と意味が違っていて(下線部)「丘」となる。
 実は南スラブ語にはBSKの他にも、というよりBSKよりも大物の言語が属している。古教会スラブ語である。『56.背水の陣』にも書いたが、ロシアではこの古教会スラブ語が最初の、そして17世紀から18世紀にかけてロシア語の文章語が成立するまで事実上唯一の文章語だった。10世紀にキリスト教とともに教会スラブ語が伝わってからずっとこれで書いている間にジワジワ土着のロシア語要素が文章語の中に浸入していたのだが、タタールのくびきから解放されて当時のスラブ文化の中心地であった南とのつながりが再開し、セルビア・ブルガリアから再び人や文化が押し寄せたため南スラブ語からの第二の波をかぶった。だからロシア語には今でも南スラブ的要素が目立つ。同じ単語の語形変化や派生語のパターン内で、東スラブ語と南スラブ語系の形が交代する場合が多いほかに、スラブ祖語では一つの単語であった東スラブ語形と南スラブ語形のものがダブって2語になっていることがある。さらに両単語が微妙に意味の細分化を起こしている。上述の記事でもいくつか例を挙げておいたがその他にも次のような例がある。とにかくロシア語ではこういう例が探すとゴロゴロ出てくる。それぞれ*で表してあるのが祖語形、上が東スラブ語(充音を起こしている)、下が南スラブ語(音位転換がみられる)である。

*vold-
волость 領地 行政区
власть (国家)権力

*norvъ 
норов 習慣(古)、頑固さ(口語)
нрав 気質、習慣
(この2語については『24.ベレンコ中尉亡命事件』も参照)

*storn-
сторона 方角、わき、国・地方(口語)
страна 国、地方

*chormъ
хоромы 木造の家(方言または古語)、大きな家(口語)
храм 神殿、殿堂

『56.背水の陣』で述べた「南スラブ語系統の単語や形態素は土着の東スラブ語形にくらべて、高級で上品な語感を持っていたり意味的にも機能的にも一段抽象度が高かったりする」という基本路線が踏襲されていることがわかるだろう。これらは意味が分化したまさにそのために東南双方の語が生き残った例だが、意味の違いが十分でなかったせいで一方が消えてしまったのもある。例えば「若い」は今は東形の молодой しか使われないがちょっと前まではこれと並行した南系の младой という形があった(祖語形は *mold-)。意味的には違わなくとも後者には文語的で高級なニュアンスがあったそうだが衰退した。もっとも原級形では消えたが最上級では南スラブ語系の младший が生き残っている。文法的に高度な要素になると南スラブ語要素の割合が高くなるのが面白い。その「ニュアンスの差」さえないとやはり一方が完全消滅してしまうようだ。例えば11世紀前半ごろからノヴゴロドやキエフで書き始められた年代記には власъ(< *vols-)、 врата(< *volta)という形が見られる。今のволос(「髪」)、ворота(「門」)だが、現在ではこれらの南スラブ語形は跡形もない。また град という、今のロシア語では合成語や派生語にしか見られない(これも前項参照)形、これがネストルの『過ぎし年月の物語』のラヴレンチ―写本では「町」という単独の語として使われている。そこではград と対応する東スラブ語形 город とが併用されているが、Gerta Hüttel-Folter という学者によるとград はコンスタンチノープルなどビザンチンの都市を、 город はロシアの町を表していることが多いそうだ。他にも微妙なニュアンスの差などがあったらしい。なお、非常に余計なお世話だが Hüttel-Folter 氏の名前、Gerta は Greta(グレタ)が音位転換したものではない。Gerta は本来 Gerda で、比較的最近ノルマン語の女性名 Gerðr から借用されたものだが、Greta のほうは Margareta(英語のMargaret)の前綴りと g の後の母音が消失してできた形である。さらに前者は Gertrud ゲルトルートなどの名前に含まれる形態素 Gerd-とは関係がなく、ゲルトルートのゲルは古高ドイツ語の gēr(「槍」)が起源だそうだ。形がちょっと似ているからと言ってすぐ他とくっつけるのは危険である。

『過ぎし年月の物語』では南スラブ語系のград(点線)と東スラブ語系の  город (実線)が並行して使われている。
Hüttel-Folter, Gerta. 1983.Die trat/torot-Lexeme in den altrussischen Chroniken. Wien: p.142から

grad-gorod-Fertig

 さて話題を本来の琥珀に戻すが、ロシア語では янтарь という。古いロシア語では ентарь だがこの語の起原がいろいろと謎だ。その点について泉井久之助氏が面白い指摘をしている。まず ентарь は昔からロシア語にあった言葉ではありえない。なぜならそうだとすれば古ロシア語では ен の部分が鼻母音の ę [ɛ̃] だったはずで、それなら現在では鼻母音がさらに口母音となり(『38.トム・プライスの死』参照)、ятарь という形をしていなければいけない。現に印欧祖語の *pénkʷe (「5」)はスラブ祖語で*pętь、古教会スラブ語で пѧть (pętĭ)、現在のロシア語で пять になっている。実際 ентарь という語は古教会スラブ語のテキストには出てこないそうだ。10世紀以降の借用語という可能性が高いと氏は述べている。別の資料にはそのころは「琥珀」を表すのに古典ギリシャ語の ἤλεκτρον(「琥珀」)から持ってきた илектр または илектрон という言葉を使っていたとある。ентарь が入って илектр を駆逐したのはそのさらに後のはず。資料によると ентарьが文献に登場したのはやっと1551年になってからだ。
 問題はこの語をどこから持ってきたのかということだが、ロシア語語源事典などにはリトアニア語のgintãras(ラトビア語では dzĩtars)からの借用とある。泉井氏によればこの gint-ãr-as は印欧祖語の *gʷet-  または *gʷn̩-(「樹脂」)という語幹から理論的に全く問題なく導き出すことができる、語根だけでなく、-ãr、-as などの形態素も印欧祖語からの派生とみなせるそうだ。しかしリトアニア語で gint-ãr-as と、アクセントが第二音節に移動しているのが引っかかる(私ではなく泉井氏に引っかかるのだ。私はいい加減だからそのくらいは妥協する)。というのはリトアニア語などバルト諸語はゲルマン諸語と同様アクセントが第一音節に落ちるのが基本だからだ。事実ラトビア語の dzĩtarsではそうなっている。アクセントが後方に移動するのはまさにロシア語の特徴だから(これも『56.背水の陣』参照)アクセントに限ってはリトアニア語がロシア語から借用したと考えたほうが都合がいいのだが、上述の通りロシア語の янтáрь は素直に印欧祖語から形を導けない。そのイレギュラーなロシア語から借用したのにリトアニア語では理論上印欧語のレギュラー形になっているわけで、これではまるで一度死んだのに墓から復活した吸血鬼である。ロシア語→リトアニア語という方向の借用は可能性が薄い。
 もっともリトアニア語 gint-ãr-as →ロシア語 ентáрь という方向についても、なぜロシア語で語頭の子音が消えているのか、もし gint-ãr-asを借用したのなら жентарь とか гентарь とか語頭に子音がついたはずではないか、気になることはなる。なるはなるが、まあ別に бентарьとか лентарь とか突拍子もない子音がくっ付いてきたわけでもなし、g や dž が j になることくらいはありそうな感じだからスルーすることにした。泉井氏はこの子音消失を随分気にされていたが。とにかくいったんロシア語に入ってしまってからは話が楽でそこからさらに他のスラブ諸語に広まった。ウクライナ語の янта́р、チェコ語の jantar、セルビア語・クロアチア語の jȁntȃr、スロベニア語の jȃntar はロシア語からの借用である。
 
 また gint-ãr-as は実は印欧語起原でなく、リトアニア語がヨソから(もちろんロシア語は除外)取り入れた言葉だという解釈もあるらしく、gint-ãr-as はフェニキア語の jainitar(「海の樹脂」)から来たという記述を見かけた。しかし正直これは都市伝説(違)としか思えない。フェニキア語はすでに紀元前一世紀には死語になっていたのだからリトアニア語が直接フェニキア語から取り入れたはずはなく、別の言語を仲介したのでなければいけない。つまりこの語は元のフェニキア語が滅んでから千年間も別の言語に居候した後やっとリトアニア語にやってきたということになる。ではその居候先はどこなのか。私にはラテン語、古代ギリシャ語、大陸ケルト語しか思いつかないのだが、ギリシャ語とラテン語は琥珀を表すのに別の単語を使っていたから(それぞれ上述の ἤλεκτρον とゲルマン語から借用した glēsum)除外すると残るは大陸ケルト語ということになる。大陸ケルト語は言語資料が非常に乏しいはずだが、「琥珀」という語の記録でもあったのか?とにかくフェニキア語説はミッシング・リンクがデカすぎるのではなかろうか。

 英語で「琥珀」は amber だが、これは中期フランス語を通して入ってきた言葉でイタリア語、スペイン語などもこれを使っている。もともとはアラビア語、そのさらに元はペルシャ語だそうだ。「琥珀」でなく「竜涎香」という意味だったそうだ。
 面白いのはハンガリー語の琥珀で borostyán といい、ドイツ語 Bernstein からの借用であるがその際ちゃっかり東スラブ語のような充音現象をおこし T-er-T が T-oro-T になっている。

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以前書いた記事の図表が機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、これから時々前の記事の図表を画像に変更していきます。ついでに本文のほうも見直しています。今回「も」本文があまりにも舌足らずだったので大幅に変更・加筆しました。ほとんど別記事になったので再投稿します。

内容はこの記事と同じです。元の本文ではありません。

 以前日本語茨城方言のインフォーマントの方からとても興味深い話を聞いた。 そこの方言では「行く」を「いんべ」、「居る」を「いっぺ」というそうだ。 なぜ「行く」が「ん」で、「居る」が「っ」になるのか、言い換えるとなぜ ik-u、つまり k は「ん」になり ir-u、つまり r は「っ」になるのか。普通に連用形あるいは「て形」の語尾から推せばむしろ「行く」のほうが「いっぺ」になりそうなものだ、逆ではないのかとも思ったのだが、一方「する」は「すっぺ」だそうで、ここでも r が「っ」になっているから「居る」がいっぺになるのは筋が通っている。音声学・音韻論や歴史言語学の面から細かく検討すれば説明がつくのだろうが、それより面白かったのはこのインフォーマント自身がこれを次のように説明していたことだ: 「行く」を「いっぺ」と言ってしまうと「居っぺ」と区別が付かなくなるので「いんべ」と言う。
 もしそうだとするとこれはたしか言語地理学者J.ジリエロンが1912年の著書で提唱した「同音衝突の回避」という現象の一種とみなしていいのではないだろうか。ある言語内で、歴史的音韻変化などによって本来別の単語が同じ発音になってしまう場合、その衝突を避けるため1.一方の単語がもう一方の単語に追われて言語内から消滅するか、2.片方の単語の形を無理矢理かえて両単語の形が同じにならないようにされる現象である。もちろん音が衝突したら必ず自動的に回避作用が起動すると決まっているわけではない。だからこそ同音異義語が存在するのだが、この同音衝突の回避という現象はとにかく頻繁に目にする。
 このインフォーマント氏はさらに「茨城方言はアクセントが弁別的機能を持たないので、そのままでは「駆ける」あるいは「書ける」と「欠ける」を区別する事ができず、「欠ける」を「おっかける」と接頭辞つきで言う」と報告しているが、これなどもそのメカニズムかと思うのだが。

 日本語にはさらにこんな例がある。昔は東北地方全体で「おし」も「母」も「アッパ」と言っていた時代があった。だがこの二つがいっしょなのは不便なので、多くの地域でどちらか一つのアッパが消滅した。岩手県・秋田県の南部より北ではアッパまたはアバは「母」であり、宮城県も北境、山形県の北村山・西村山郡より南ではアッパは「おし」だ。その間に中間地帯があるそうだが、要するに北ではおしのアッパ、南では母のアッパが消滅したのである。福島県では母を(アッパでなく)カガと言うがそれと並行して「アッカ」という形も使われている。これは昔はこの地でも「母」の意味で使われていたアッパが消える際「カガ」という形の上に痕跡を残していったからだ。これは昭和25年に小林好日という学者が唱えた説でちょっと古いから現在と言語状況が違っているかもしれないが、同音衝突回避のいい例ではある。福島県にはさらに「梨」と「茄子」が [nasɨ] としてカチあってしまったため、前者を[kɨnasɨ]、後者を [hatanasɨ] というようになった例があるそうだ。
 フランス語にも例がある。ガスコーニュ地方では「雄鶏」と「猫」をそれぞれ gallus、kattus と言ったが音韻が変化してどちらも gat になるところだった。ニアミスである。それではまずいので雄鶏の方は faisan や vicaire という単語にとって変わられた。そういえばフランス語では鴨の事を唐突にcanard というがこれも本来の「鴨」が何かと衝突したのかも知れない。

 これは単なる思い付きだが、実は私はしばらく前からロシア語の不完了体動詞 покупать(pokupat',「買う」)の形もこの同音衝突の回避から生じたのではないかと疑っている。『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも書いたようにロシア語は動詞がペア体系をなしているが、この不完了体動詞 покупать (pokupat') の完了体のパートナーは купить (kupat')だ。こういうペアの形はちょっと特殊で、あれっと思った。普通なら完了体動詞のほうが接頭辞つきの形をとっていてそれに対応する不完了体動詞のほうは丸腰という場合が多いからだ。例外的に不完了体動詞に接頭辞がついている場合はほぼ例外なく完了体のパートナーのほうにも同じ接頭辞がついている。不完了体・完了体どちらも丸腰のペアも多いが、ここでの покупать (pokupat') 対 купить (kupit')の例のように不完了体にだけ接頭辞がついているペアを私は他に知らない。理屈から言えば、不完了体 покупать(pokupat')は本来купать(kupat')とかいう形になるはずなのだ。なぜここで不完了体のくせに完了体を差し置いて唐突に頭に по- がつくのか。これはロシア語内にすでに不完了体の купать(kupat'「水浴する」)という別動詞が存在し、それと混同される恐れがあるからではないだろうか、 つまり同音衝突を避けるために「買う」のほうに接頭辞がついたのではないだろうか、と思ったので調べてみた。

 下の表が「買う」と「入浴・水浴び」がスラブ諸語ではどうなっているのかざっと見てみた結果だが、両者は形が絶妙にちょっとだけ違っていて同音になりそうでならない様子がよく分かる。 ペア表示してある左側が不完了体、右側が完了体動詞である。
tabelle-32
 上述のようにアスペクトのペアは普通不完了体のほうが基本形で、そこに接頭辞をつけたりして完了体動詞を形成するパターンが多い。例えば不完了体 писать(pisat'「書く」)対 完了体написать(napisat')など。しかしその逆、完了体のほうをもとにしてそこから不完了体形を導き出すことも決してまれではない。これを二次的不完了体形成という。なぜ「二次的」と呼ばれるかというと、不完了体動詞の派生元となる接頭辞付きの完了体動詞がすでに接頭辞なしの不完了体動詞から派生された形だからだ。つまり不完了体動詞+接頭辞⇒完了体動詞という完了体化でまず一次形成、そこからさらにその完了体動詞+形態素の付加⇒不完了体動詞ともう一度逆戻りするので「二次的」ということになる。もちろん大元の不完了体動詞Aに接頭辞BがついてAのペアとなった完了体動詞A+B=動詞Cは二次的不完了体化は起こさない。Cには既にAというペアがいるからだ。二次的不完了体を起こすのは元の不完了体動詞に接頭辞がついてアスペクトの他にさらに意味変化を起こした完了体動詞、言い変えるとまだ不完了体のアスペクトペアのいない独身動詞である(下記参照)。また、下の例でもわかるように完了体動詞に明確な接頭辞がついていないこともある。うるさく言えばそういう完了体動詞から不完了体を派生する過程は「二次的」ではないはずだが一絡げにそう呼ばれることも多い。
 この完了体→不完了体の流れでは完了体動詞の接頭辞を消したり付加したりして不完了体のパートナーを作るのではなく、動詞本体のほうの形を変える。それには3つやりかたがある。1. 動詞の語幹に-ва- (-va-)、-ова- (-ova-) 又は -ива- (-iva-) を挿入する、2.語幹の母音 и (i) を а (a) に変える、3.母音をaに変えた上さらに子音を変える、の3つだ。
 例えば完了体 признать(priznat') 対不完了体 признавать(priznavat')「承認する」が1の例、完了体 решить(rešit') 対不完了体 решать(rešat')「決める」が2、完了体 осветить(osvetit')対不完了体 освещать(osvešat')「明るくする」が3の例だ。

 とにかくそれらのことを踏まえて上のスラブ諸語をみると、「買う」では二次的不完了体形成方法が3種全部揃い踏みしているのがわかる(左側の太字部分)。完了体動詞の形は全言語で共通だからこちらが起点なのだろう。その完了体形から二次的に派生した不完了体動詞は言語ごとに少し形が違っているわけだ。クロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語の「買う」は方法の1、ベラルーシ語の「買う」が3、そしてロシア語の「買う」は本来2の例(のはず)だった。つまり東スラブ語内ではウクライナ語だけが少し離れ、ロシア語・ベラルーシ語がともに母音 -a- を挿入して不完了体を作っていることがわかる。しかしクロアチア語、ポーランド語、ウクライナ語までが同じでロシア語とベラルーシ語だけ違っているということは昔はどのスラブ語も -ova- を入れていたのではないだろうか。後者のやり方は新型モデルなのかもしれない。

 それに対して「入浴する」では逆方向、不完了体に接頭辞をつけて完了体を作るやりかただ(右側の太字部分)。つまり不完了体のほうが起点と考えていい。そしてこれも「買う」とは逆に不完了体のほうがどの言語も同じ形で、対応する完了体動詞についている接頭辞のほうが言語ごとにバラバラだ。そして形態素のバラバラ度は二次的不完了体よりこちら、接頭辞による完了体形成の方がずっと高い。不完了体作りの形態素は-ova-  と -a- の二種だけで、しかもそれらは動詞の意味を変えることはない、変えるのはアスペクトとせいぜい動作様相だけだが、完了体を作る接頭辞のほうは数がたくさんある上、アスペクトや動作様相だけでなく、動詞の意味そのものを変えることがあるからだ。種類が多いので、一つの不完了体動詞から複数の対応形が生じ、そのうちのどれがアスペクトのペアなのか決めにくい場合がある(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。
 実は上の表で「買う」、つまり二次的不完了体化のメカニズムをとる方はどちらかを辞書で引けばペア動詞もついでに明示されているので楽だったが、「水浴びする」のほうは一発ではペア検索ができない場合があった。ポーランド語、クロアチア語、ロシア語では不完了体動詞を引いたら接頭辞つきの完了体ペアも示してあったが、ベラルーシ語とウクライナ語ではそういう辞書が見つからなかったので、ロシア語辞書で「купать (kupat') のアスペクトペア」と明示してある выкупать(ся)、искупать(ся) をさらにベラルーシ、ウクライナ語に翻訳して探し出したのでズレているかもしれない。それでも基本傾向に違いはあるまい。全体としては「水浴びする」は不完了体→完了体方向、「買う」は完了体→不完了体方向の派生であることははっきりしている。
 大まかに言って南スラブ語のクロアチア語が o-、西スラブ語のポーランド語が s-、ベラルーシ語、ウクライナ語、そしてロシア語の東スラブ諸語は вы- (vy-) あるいは ви- (vi-) かなとまとめたくなるが、そうは問屋が下ろさない。事情は極めて複雑だ。例えばまず東スラブ語間にも細かい部分に違いがある。ロシア語は вы- (vy-) と ис- (is-) の2種の接頭辞が不完了体 купать (kupat') のペアと見なされるが、выкупать(ся)(vykupat'(sja))のほうはちょっと注意を要して、アクセントの位置が вы(vy-)に来るвыкупать(ся)  と-па-(-pa-)に来る выкупать(ся) は意味が全く違い、前者は「入浴」だが後者は「補償する」という別単語だ。ウクライナ語の викупати(ся) (vikupati(sja)) も同様で頭の ви (va-) にアクセントを置かないと意味が違ってきてしまう。
 もう一つ、ウクライナ語にもベラルーシ語にも「水浴びする」の完了体動詞としてよりによって接頭辞の по- を付けた形、それぞれ покупати(ся) 、пакупаць(-цца) という動詞が存在し、辞書によってはロシア語の выкупать(ся)(vykupat'(sja))と同じである、と説明している。つまり両言語ではこれら po- のついた形はロシア語の купать (kupat')「水浴びする」に対応する完了体のペアなのである。ところがロシア語では покупать (pokupat') は「買う」、купить (kupit') のほうの不完了体のペアだ。
 さらに複雑なことになんとロシア語にも実は「水浴び」から派生した покупать (pokupat') という完了体動詞が存在する。ベラルーシ語やウクライナ語と同じだ。違うのはロシア語の「水浴びパクパッチ」は купать (kupat') のアスペクトペアの形成はせず、動作様態(Aktionsart)が変わる点だ。いわゆるdelimitativ な動作様態、「ちょっとだけ水浴びする」という意味になるが、形としては出発点の不完了体動詞 купать (kupat') に接頭辞がつくので上の図式通り完了体となる。それに対して「買いものパクパッチ」のほうは完了体 купить (kupit') を二次的不完了化すると同時に頭に同音回避マーカーを付けたわけだから、両者は形成のメカニズムが異なるわけだ。
 でもどうしてここで「完了体水浴びパクパッチ」と「不完了体買い物パクパッチ」が同音衝突の回避を起こさなかったのだろう。この二つは「同音異義語」としてしっかり辞書にも載っている。考えられる理由は二つだ。第一に「完了体水浴びパクパッチ」は独身動詞、つまり不完了体ペアがいない独り者で使われる場面が限られている。第二に「水浴びパクパッチ」と「買い物パクパッチ」はそれぞれアスペクトが違う。使用場面が「限られている」どころかその上ある意味で相補分布までしており、交差してぶつかる可能性が非常に薄い。そんなところではないだろうか。

 それにしてもなぜロシア語でだけこんな騒ぎになったのか。まず「買う」の不完了体を他のスラブ諸語のように -ova- で作らなくなってしまったのが騒動の始まり。-a- を使いだしたので「水浴び」の不完了体と衝突する危険が生じた(ベラルーシ語はその際子音を変えたのでまだよかった)。
 さらにもう一つ重要なファクターがある。東スラブ諸語でも南スラブ語のクロアチア語でも現在は「水浴」の купать(kupat')あるいは kupati (kupati) でも「買う」の купить(kupit')あるいは kupiti (kupiti) でも第一シラブルの母音が u となっているが、ポーランド語でここが ą と書かれている、つまり鼻音の ǫ で現れている。ということは「買う」と「水浴びする」は実は本来母音が違っていたのだろう。「水浴」のほうは元は u でなく鼻母音の ǫ だったのではないだろうか。実際ロシア語の мудрость (mudrost'、「知恵」)はポーランド語で mądrość であり、ロシア語の口母音 u とポーランド語の鼻母音 ą がきれいに対応している。古教会スラブ語で「知恵」は現代ポーランド語と同じく鼻母音の ą (つまり ǫ )だった。そこで調べて見るとホレ案の定、「買う」kupit'、「水浴びする」kupat' のスラブ祖語再建形はそれぞれ *kupiti、*kǫpati とある。もしロシア語がこの母音の違いを保持していたら、たとえ -ova- の使用を止めたとしても「買う」の二次的不完了化形は kupat'、「水浴びする」の不完了体は kǫpat' とでもなり、混同されることはなかっただろう。

 いろいろ考えるところがあるのだが、ではどうして-ova- が廃業して -a- に席を譲ったのかとか、なぜ他にいくらも接頭辞があるのに特に po- を持ち出してきたのか(響きが可愛かったからかもしれない)、そういうことはいくら頭をめぐらしてみても私にはわからないからプーチン氏にでも聞いてほしい。
 それにしても「人生は蜘蛛の巣のようだ。どこに触れても全体が揺れる」という言葉があるが、これは言語についても言えそうだ。小さな音韻変化が全体に大騒ぎを起こすのである。



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