アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:アラビア語

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 これまでに何度か口にしたダイグロシアという言葉だが、これは1959年に社会言語学者のチャールズ・ファーガソンCharles A. Fergusonがその名もズバリDiglossiaという論文で提唱してから広まった。ダイグロシアという言葉そのものはファーガソンの発明ではないが、学術用語としてこれを定着させたのである。時期的にチョムスキーのSyntactic Structuresが出たころと重なっているのがおもしろい。生成文法のような派手さはなかったがダイグロシアのほうもいわゆる思想の多産性があり、60年代から90年代に至るまで相当流行した。
 事の発端はアラビア語圏、ハイチ、現代のギリシャ、ドイツ語圏スイスの言語状況である。これらの地域では書き言葉と話し言葉が著しく乖離していて、文体の差というより異なる二つの言語とみなせることにファーガソンは気づいた。書き言葉と話し言葉というより書き言語と話し言語である。アラビア語圏での書き言葉は古典アラビア語から来たフスハーで『53.アラビア語の宝石』『137.マルタの墓』でも述べたように実際に話されているアラビア語とは発音から文法から語彙からすべて違い、とても同じ言語とは言えない。ハイチでは書かれる言葉はフランス語だが、話しているのはフランス語クレオールでフランス語とは全く違う。ギリシャも実際にギリシャ人が言っているのを聞いたことがあるが、「古典ギリシャ語?ありゃあ完全に外国語だよ」。しかしその「完全に外国語」で書く伝統が長かったため今でもその外国語を放棄してすんなり口語を文章語にすることが出来ず、実際に会話に使われているバージョン、デモティキDimotiki(δημοτική)と古典ギリシャ語の系統を引く文章語カサレヴサKatharevousa(Καθαρεύουσα)を併用している。デモティキは1976年に公用語化されたが、いまだに文章語としての機能は完全に果たせていない。アラビア語と似た状態だ。なお念のため強調しておくが上でフスハーを「古典アラビア語から来た」、カサレヴサを「古典ギリシャ語の系統を引く」とまどろっこくしく書いたのは、どちらも古典語をもとにしてはいるがいろいろ改良が加えられたり変化を受けたりしていて完全に古典言語とイコールではないからである。ある意味人工的な言語で、話す言葉と著しく乖離しているという点が共通している。スイスのドイツ語も有名でドイツではたいていスイス人の発言には字幕がでる(『106.字幕の刑』参照)。話されると理解できないが書かれているのは標準ドイツ語だから下手をするとドイツ人はスイス旅行の際筆談に頼らなければならないことになる。もっともスイス人の方は標準ドイツ語が理解できるのでドイツ人が発した質問はわかる。しかしそれに対してスイス・ドイツ語で答えるのでドイツ人に通じないわけだ。最近は話す方も標準ドイツ語でできるスイス人が大半だからまさか筆談などしなくてもいいだろうが、スイス人同士の会話はさすがのドイツ人にもついていくのがキツイのではないだろうか。
 これらの言語状況をファーガソンはダイグロシアと名付けた。ダイグロシア内での二つの言語バリアントはLバリアント、Hバリアントと名付けられたがこれは本来それぞれLowと Highを意味し、Lは日常生活で口にされている言葉、Hがいわゆる文章語である。しかしLow、Highという言い回しは価値観を想起させるということで単にLバリアント、Hバリアントと起源をぼかす表現が使われるようになった。チョムスキーのD構造、S構造もそうで、本来のDeep structure、Surface structureという語は誤解を招くというワケで頭だけ取ってDとSになったのである。

ダイグロシア論争の発端となった1959年のファーガソンの論文から。ドイツ語圏スイス、アラビア語圏、ハイチ、ギリシャが例としてあげられている。
ferguson1

 ただ、この言いだしっぺ論文がトゥルベツコイのВавилонская башня и смѣшніе языковъ『バベルの塔と言語の混交』(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)にも似てどちらかというとエッセイに近い論文で、何をもってダイグロシアとなすかということがあまりきちんと定義されていなかったため、後にこの観念がいろいろ拡大解釈されたり誤解釈されたりしてダイグロシアという言葉自体がインフレーションを起こしてしまった感がある(後述)。なので話を進める前にちょっと私なりにファーガソンの言わんとした処を整理してみる。
 まず、書き言葉と話し言葉の乖離が典型的なダイグロシアだからと言って単純にHは文語、Lは口語と定義することはできない。Hバリアントが書かれることなく延々と口伝えで継承されることがあるからである。宗教などの儀式語がそうだが、誰もその言語を日常生活で使っていないから事実上母語者のいない外国語で、二次的にきちんと教えてもらわないと意味が分からない。重要なのはHとLがそれぞれどういう領域で使われているかということ自体でなく、その使用領域がkomplementäre Distribution相補分布をなしているということだ。どういうことかというと、Hが使用される場面では絶対にLが使われることがなく、逆にLを使う場面ではHは使われない。HとL,この二つが双方あって初めて一つの言語としての機能を果たすのである。例えばHが書き言葉として機能している場合、正式文書や文学などを口語で著すことがない。また日常生活では当然口語で生活し、誰も書き言葉で話したりしない。宗教儀式にHが使われている社会では、そのHを一部の人しかわからない状態で使い続け、普通にしゃべっている口語に置き換えたりは絶対しない。これがバイリンガルの言語共同体とは決定的に違う点である。バイリンガルは違う。バイリンガルでは言語Aで話して書いた後、言語Bに転換してそこでまた話したり書いたりする、つまりAもBもそれぞれ言語としての機能を全て満たしているのだ。
 この相補分布のためダイグロシアは非常に安定した言語状態で、1000年くらいは平気で持続する。それに対してバイリンガルは『154.そして誰もいなくなった』で述べたように不安定な状態でどちらかの言語が一方を駆逐してしまう危険性が常にある。さらにその相補分布のためその言語共同体内の人はHとLが実は別言語であるということに気付かない。別の言語だという感覚がないからHをLに、あるいはLをHに翻訳しようという発想が起こらない。このこともダイグロシアの安定性を強化している。
 さて、HとLの言語的関係についてはファーガソン自身は明確には述べていないが、挙げている例を見ても氏がHとLは親族関係にある言語であることが基本と考えていたことがわかる。フランス語⇔仏語クレオール、スイス・ドイツ語⇔本国ドイツ語、フスハー⇔口語アラビア語、カサレヴサ⇔デモティキと双方の言語が親戚関係にある例ばかりである。後者の二つは通時的な親戚、前者は共時的な親戚だ。この、HとLが下手に似ているというのもまた「別言語性」に気付かない要因の一つになっている。

 ここまで来れば皆思い当たるだろう。そう、言文一致以前の日本語もダイグロシア状態であったと私は思っている。本にもそう書いておいた(またまたどさくさに紛れて自己宣伝してすみません)。言文一致でそのダイグロシアが崩壊しH(文語)の機能をL(口語)が吸収した、というのが大筋だと思っているが、細かい部分でいろいろ検討すべき部分がある。
 まず口語と文語は明治になるまで本当に相補分布をなしていたのか、言い換えると日本は本当にダイグロシア状態であったのかということだ。というのは特に江戸期、さらにそれ以前にも口語で書かれた文章があったからである。江戸期の文学など登場人物の会話などモロに当時の話し言葉で表わされてそれが貴重な資料となっていることも多い。ではそれを持って文語と口語の使用領域が完全に被っていたと言えるのだろうか。私の考えはNoである。例えば会話が口語で書いてある式亭三馬や十返舎一九の作品を見てみるといい。会話部分は口語だが、地のテキストは文語である。言い換えるとそれらは口語「で」書かれていたのではなく口語「を」書いたのだ。実はこのパターンは明治時代に言文一致でドタバタしている時にも頻繁に見られる。地と会話部分のパターンは理論的に1.地が口語・会話が口語、2.地が文語・会話が文語、3、地が文語・会話が口語、4、地が口語・会話が文語の4通りが考えられるが、初期は2や3のパターンが専らで、1が登場するのは時期的にも遅く、数の上でも少ない。もちろん私の調べた文章などほんの少しだが、その少しの中でも4のパターンは皆無だった。文語と口語は機能的に同等ではない、相補分布をなしていたといっていいと私は思っている。
 次に言文一致以前の日本をダイグロシア社会と見なしているのは別に私だけではない、割といろいろな人がそう言っているのだが、海外の研究者に「中国語と日本語のダイグロシア状態であった」と言っている人を見かけたことがある。全く系統の違う2言語によるダイグロシアという見解自体はファーガソン以後広く認められるようになったので(下記参照)いいのだが、日本の言語社会を「中国語とのダイグロシア」などと言い出すのは文字に引っ張られた誤解と言わざるを得ない。漢文が日本では日本語で読まれている、つまり漢文は日本語であるという事実を知らなかったか理解できなかったのかもしれない。山青花欲然 は「やまあおくしてはなもえんとほっす」である。誰もshān・qīng・huā・yù・ránとか「さんせいかよくぜん」などとは読まない。日本をダイグロシアというのなら現在のフスハー対アラビア語に似て、あくまでに文語と文語の対立である。
 さて、上でも述べたがHの特徴の一つに「人工性」というのがある。二次的に構築された言語、当該言語共同体内でそれを母語としてしゃべっている人がいないいわば架空の言語なのだ。もちろん人工と言ってもいわゆる人工言語(『92.君子エスペラントに近寄らず』参照)というのとは全く違い、あくまで自然言語を二次的に加工したものである。母語者がいないというのも当該言語共同体内での話であって、ドイツ語標準語は隣国ドイツでは皆(でもないが)母語としてしゃべっているし、日本語の文語だって当時は実際に話されていた形をもとにしている。この人工性は「規範性」と分かちがたく結びついていて、ダイグロシアを崩壊させるにはLがこの架空性や特に「規範性」をも担えるようにならなければいけない。これが実は言文一致のまさにネックで、運動推進者の当事者までがよく言っているように具体性の強い口語を単に書いただけ、「話すままに書いただけ」ではそういう機能を得ることができない。Lの構造の枠内でそういう(書き言葉っぽい)文体や規範を設けないといけないのだ。相当キツイ作業である。そもそも「構造の枠内で」と言うが、まずその構造を分析して文法を制定したり語彙をある程度法典化しなければいけない。CodifyされているのはHだけだからである。
 書き言葉的言い回し、日本語では特に書き言葉的な終止形を何もないところから作り出すわけには行かない。そんなことをしたら「Lの構造の枠内」ではなくなってしまうからである。法典化されないままそこここに存在していたLの言い回しの中から適当なものを選び出すしかない。ロシア語の口語を文学言語に格上げしたプーシキンもいろいろなロシア語の方言的言い回し、文法表現、語彙などを選び出してそれを磨き上げたし、日本の言文一致でもそれをやった。例えば口語の書き言葉的語尾「~である」であるが(ダジャレを言ったつもりはない)、~であるという言い方自体は既に江戸時代から存在していた。オランダ語辞典ドゥーフ・ハルマでオランダ語の例文を訳すのに使われている。他の口語語尾「です」「だ」は江戸文学の会話部分で頻繁に現れる。これらの表現に新しい機能を持たせ、新しい使用領域を定めていわば文章語に格上げする、言い換えるとL言語の体系内での機能構成を再構築するわけで、よく言われているように、単に話すように書けばいいというものではない。
 面白いことに口語による文章語構築には二葉亭四迷のロシア語からの翻訳は大きな貢献をしたし、文語でなく「である」という文末形を使い、さらに時々長崎方言なども駆使して、後に口語が文章語になり得るきっかけを開いたドゥーフ・ハルマも通時たちによるオランダ語からの翻訳である。どちらも外国語との接触が一枚絡んでいる。さらに馬場辰猪による最初の口語文法は英語で書いてあった。まあ外国人向けだったから英語で書いたのだろうが、文法書のような硬い学術文体は19世紀中葉の当時はまだ口語では書けなかったのではないだろうか。だからと言ってじゃあ文語でというのも言文一致の立場が許さない。外国語で書くのが実は一番楽だったのかもしれない。

 話をファーガソンに戻すが、この論文のあと、ジョシュア・フィッシュマンJoshua A. Fishmanなどがダイグロシアの観念を、全く系統の違う2言語を使う言語共同体にも応用した。例えばボリビアのスペイン語・グアラニ語がダイグロシアをなしているという。さらに社会言語学者のハインツ・クロスHeinz Klossは系統の同じ言語によるダイグロシアを「内ダイグロシア」、系統の異なる言語によるダイグロシア(スペイン語・グアラニ語など)を「外ダイグロシア」と名付けた(『137.マルタの墓』参照)。
 もう一人ボリス・ウスペンスキーБорис А. Успенскийというロシア語学者が横っちょから出てきて(失礼)、HとLとの関係はバイリンガルでのような等価対立äquipolente Oppositionではなくて欠如的対立privative Oppositionとし(『128.敵の敵は友だちか』参照)、Hを有標、Lを無標バリアントとした。ウスペンスキーはプーシキン以前、古い時代のロシア語の言語共同体がロシア語(東スラブ語)と教会スラブ語(南スラブ語)のダイグロシアであったと主張したのだが、その際双方の言語の「欠如的対立性」を主張している。いかにもトゥルベツコイからヤコブソンにかけてのロシアの構造主義の香りがして面白い。またウスペンスキーはファーガソンの考えをむしろ忠実に踏襲し、あまり理論枠を広げたりはしていない。ただ氏の「ロシア語・教会スラブ語ダイグロシア説」にはいろいろ批判もあるようだ。

ウスペンスキーの著書(のコピー)。ダイグロシアを有標のH、無標のLによる欠如的対立と見なしている。黄色いマーカーは当時私が引いたもの。
uspensky


 考えてみれば中世以前のヨーロッパもラテン語と各地の言語とのダイグロシア、少なくともそれに近い状態だったのではないだろうか。特にスペイン以外のロマンス語圏では「内ダイグロシア」だったろう(スペインを除外したのは当地では中世以前はフスハーも書き言語だったはずだからである。そうなると「外ダイグロシア」だ)。その後各々の民族言語が法典化され文法も整備されてラテン語は書き言語としての機能をそれらに譲ってしまった上、元々母語者のいない言語で普通の会話には用いられていなかったから現在ラテン語を読み書き(「書き」のほうは完全に稀)できるのは、単位とりに汲々としている高校生か、仕事でラテン語が必要な人たちだけだろう。そういえばちょっとダイグロシアから話はズレるが、昔テレビで『コンバット』というシリーズがあった。そこでこういうシーンがあった。米兵がヨーロッパでフランス人だったかドイツ人だったか(フランス人とドイツ人では立場が全然違うじゃないか。どっちなんだ)を捕虜にしたが、米兵はドイツ語もフランス語もできない、捕虜の方は英語ができない。困っていたがそのうち米兵の一人が捕虜と会話を始め、そばに立っていた米兵の一人が「なんだなんだ、こりゃ何語だ?!」と驚いたのを見て、もう一人の米軍兵士がボソッと「ラテン語だ」とその米兵に教えてやっていた。話しかけた米兵も捕虜も神学を勉強していたのである。ラテン語、少なくともそれがラテン語であると知っていた兵士の顔に浮かんだ尊敬の念と、ラテン語の何たるかさえ知らない兵士の無教養そうな表情が対照的だったので覚えている。H言語独特の高尚感がよく現れている。この「高尚性」もHの特徴としてファーガソンは重視している。

 再び話を戻して、とにかく論文の中でダイグロシアという用語を持ち出せば専門的なアプローチっぽくなった感があるが(私もやってしまいました)、私が追った限りでは「この言語社会はダイグロシアと言えるか言えないか」という部分に議論のエネルギーの相当部が行ってしまっていたようだ。あるいは当該言語共同体がどのようなダイグロシアになっているか描写する。しかし上述のようにダイグロシアという観念自体があまり明確に定義されておらず、各自拡大解釈が可能なのだから、「この言語共同体はダイグロシアである」と結論してみたところであまり新しい発見はないのではないだろうか。下手をするとダイグロシアでない言語社会の方が珍しいことにもなりかねないからだ。もっともバイリンガルとの明確な違いなどもあるので、ダイグロシアという用語自体を放棄することはできまい。
 だんだん議論が白熱、あるいは議論の収集が着かなくなってきたのでファーガソン本人が1991年にまたDiglossia revisitedという論文を発表して用語や観念の再考を促した。

ファーガソンの第二弾の論文のコピーもいまだに持っている。
ferguson2

 実は私はダイグロシアで一番スリルがあるのはその崩壊過程だと思っている。長い間安定し持続してきたダイグロシアが崩壊するきっかけは何か?外国語との接触自体は崩壊の直接のきっかけにはならない。他に政治的、歴史的な要因も大きい。そしてダイグロシアは一旦崩壊し始めると一気に行く。何百年も続いてきた日本のダイグロシアは明治のたかが数十年の間に崩壊してしまった。それ以前、江戸の文学など私は活字にしてもらっても(変体仮名、合略仮名など論外)読みづらくて全然楽しめない。それが明治時代から文学が突然読めるようになる。ロシアでも「プーシキンから突然文学が読めるようになる」と誰かが言っていたのを見たことがある。そのプーシキン以後、例えばトゥルゲーネフなどの原語のほうが十返舎一九なんかより私はよっぽどよくわかる。隣でドイツ人が17世紀の古典文学なんかを「ちょっと古臭いドイツ語だな。綴りも変だし」とか文句をいいつつもスコンスコン読んでいるのとはエライ違いだ。日本人が普通にスコンスコン読めるのはやはり20世紀初頭の文学からではないだろうか。

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 地中海のマルタの言語(『137.マルタの墓』参照)は(話しているネイティブ本人も含めた)そうと知らない人、あるいはそう思いたくない人の意に反して「実はアラビア語」だが、インド洋のアラビア海にあるソコトラ島の言語は逆に「実はアラビア語ではない」。
 ソコトラ島またはソコトラ諸島はソコトラ本島、アブド・アル・クリ島 、サマハ島、ダルサハ島の4島からなる。現在痛ましい内戦の続いているイエメン領だ。統一前までは南イエメンに属していた。アラビア半島本土から350キロ、アフリカの角から230キロほど距離があり、地形や生態系が独特であるためインド洋のガラパゴスと呼ばれている。本家ガラパゴスのように陸から千キロは離れていないが、その代わりこちらは政治的な事情から住民の孤立度が高かった。

ソコトラ(諸)島の場所はここ。ウィキペディアから。
By edited by User:Telim tor - Own work, based on PD map, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8798839

Socotra_Archipelago
本島及び3つの島から成る。ウィキペディアから。
By Oona Räisänen (Mysid) - Self-made in Inkscape.Place names based on a public domain CIA map from 1976 (http://www.lib.utexas.edu/maps/islands_oceans_poles/socotra_76.jpg).Boundaries and opography based on Shuttle Radar Topography Mission data.Bathymetry from NGDC ETOPO2.Roads are from the Open Street Map, by Open Street Map contributors., CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4078428
Topographic_map_of_Socotra-en.svg
 日本では安直に「住民はアラブ人」などという言い方をされているようだが、これはアバウト過ぎる。どうも日本人は(私も含めて)民族とか言語問題には極めて鈍感なようだ。「アラブ人」というのは「アラビア語を母語とする人」ではないのか?しかしソコトラ島の言語はいくらセム語とは言ってもアラビア語ではないのだからそこの住民をアラブ人呼ばわりするのは問題があるのではないだろうか。
 ソコトラ語はまたソコトリとも呼ばれるが、現代南アラビア語(Modern South Arabian、MSA)の一つ。ソコトリの他にメフリ Mehri、シェフリ Shehri(または ジッバーリ Jibbali)、ハルスーシ Harsusi、バトハリ Bathari、ホビョート Hobyot の合わせて6言語がこのグループに属す。ソコトリ以外はイエメン本土や一部オマーンでも話されている。

MSAが話されている地域。ウィキペディアから。
By ArnoldPlaton - Own work, based on this map, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22196014

800px-Modern_South_Arabian_Languages.svg
 この 現代南アラビア語MSA という名称がそもそも非常に誤解を招きやすい。まるでアラビア語の一方言か死語である古代南アラビア諸語 (Old South Arabian, OSA) の直系の子孫でもあるかのように見えるからだ。しかしMSAはそのどちらとも系統を異にする。セム語はまず西セム語と東セム語に別れる。後者にはアッカド語などが含まれる。前者のほうはさらに現代南アラビア諸語、エチオピア諸語、中央セム諸語に別れ、中央セム諸語からアラビア語、古代南アラビア語、北西セム諸語が分離する。北西セム諸語はさらにいくつかに分岐し、その中に死語ウガリト語とカナーン諸語があり、後者を構成する言語の一つがヘブライ語だ。
 そこへ持ってきて、エチオピア諸語とMSAに共通でアラビア語も含む中央セム諸語は違っている共通項があるという。例えば中央セム諸語が持っている直説法形が(yaqtuluという形だそうだ)エチオピア諸語とMSAにはない。逆にエチオピア諸語とMSAは持っている非完了形のパターンが(yVqattVlと表わされるそうだ。セム語学の専門家の方がいたら説明していただけると嬉しい)中央セム諸語では新しい形に置き換わっている。これを譬えるとMSAの娘ソコトラ語と中央セム諸語が親のアラビア語は従妹に過ぎず、しかも双方の親は仲が悪いということだ。

MSA(赤)とアラビア語は直接のつながりがない。一方アラビア語とマルタ語(ともに青)は直系である。Aaron D. Rubin. 2008. The Subgrouping of the Semitic Languages. p.80から
SemitischeSprache
ではそのMSA内部の言語関係はどうなっているのかと言うとメフリ、ハルスーシ、バトハリ、ホビョートが西MSAとしてまとまり、ジッバーリとソコトリが東グループということになるらしい。後者二言語は特定の動詞形で前綴りの t- が消失し、女性形を作るのに -i をよく使うという共通の特色がある。
 もちろんこれらの「系図」は暫定的なもので、どんな等語線にどういう重みを置くかによって違ってくる上、等語線でくくられている特徴が同じ祖語から来たためか、言語接触によるのか、はたまた単なる偶然かよほど慎重に検討しないと危ないから生物のDNA検査のようにはビシッといかない。それでも上の系図はそれほど間違っているとは思えない。
 
 面白いからちょっとセム語族全体を比べてみよう。ルビンAaron Rubinという人はセム語族の諸言語の人称代名詞(自立形)の3人称単数形を比べている。
Tabelle1-elsas172
サバ語は古代南アラビア諸語の一つである。ルビンはソコトリの例を挙げていないが、幸いナウムキンВиталий Наумкинというソ連・ロシアの学者(下記)が次のような調査報告をしてくれている。
Tabelle2-elsas172
MSAでは女性形と男性形間で語頭の子音が違っている(太字)。セム語祖語は所詮再構した形なのでふれないでおくが、他の言語は皆この部分が同じ子音である。これはセム諸語を分ける際の重要な等語線のひとつだそうだ。
 一方アラビア語などと共通した部分もある。アラビア語はBroken Pluralまたはinternal pluralと呼ばれる複数形が非常にさかんだ。これはドイツ語のVogel(単数)→ Vögel(複数)のように語内部の母音交代によって複数形を作るやり方で、他のセム語にも散見される。コーガン Леонид Коган (同名のバイオリニストがいるがそれとは別人)という研究者が挙げているソコトリの例をいくつか見てみよう。比較のためにアラビア語の語を並べておいたが、これは私が勝手に同源っぽいと判断した語を列挙してみただけで、いろいろハズしているかもしれない。本当に言語学的な意味での「比較」にはなっていないから話のタネ程度の軽い参照にとどめてほしい。いい加減ですみません。さらに自分で挙げておきながら「いくらなんでもこれは違うだろ」と自分でも思う(じゃあ出すなよ)ものについては?マークをつけておいた。
Tabelle-3-elsas172
しかしこれら「アラビア語と似ているっぽい」単語はそもそも少数で、大多数の他の語は全く形が違う。多分アラビア語と同源の語は意味が大幅にズレてしまっていて私には見つけられなかったのだと思うが、それにしてもソコトリとアラビア語との距離をヒシヒシと感じた。音韻組織にしてもソコトリの母音音素がa、e、o、i、u の5つ(長短に弁別機能はない)なのに対しアラビア語は3音素である(e や o はアロフォン)。
 この「折れた複数形」はアッカド語など東セム語にもないことはないが、頻度から見て西セム語の特徴といえるそうだ、母音交代にはいろいろなパターンがあり、ラトクリフ Robert Ratcliffe などによる詳しい研究がある。broken plural があるのならブロークンでない複数形があるだろうと思ったら案の定で sound plural または external plural(「完全な(健全な?)複数形」または「外部複数形」)という複数形がそれで、膠着語のように後綴りをつけて作る。例えばアラビア語の ʾaʿjamī(「非アラブ人=外人」)の複数形には ʾaʿjamiyyīn‎ と ʾaʿājim の両形あるが、前者が「健全形」、後者が「折れた形」である。健全形では母音交代がない。なるほど external plural である。上のソコトリの例、「父」、「兄弟姉妹」は健全形なのではないかと思うがラトクリフは「折れた複数形の n-拡張パターン」としているそうだ。「耳」、「目」、「舌」も後綴りが来ているがこれらのほうは内部でしっかり母音交代を起こしているので「拡張型ブロークン」だと素人でも納得が行く。
 
 さて、ソコトリは文字のない言語である。しかし文字はなくても豊かな口承の文学があった。詩歌が発達し、住民はことあるごとにそれらを口ずさみながら生活していたそうだ。羊を追いながら歌い、家事をしながら歌い、意中の人には歌でその意を伝えた。日本でも昔はいちいち歌詠みをして意中の人と「会話」したが、ソコトリでは伝承文学を単に引用したり歌を詠んだりするのではなくそれに曲を付けて歌ったらしい。
 1970年半ばごろからソ連の学者ナウムキン(上述)を中心とする研究グループがソコトラ島の言語を記録収集したが、その資料の分析成果がやっと2012年に発表されたりしている。そんなに時間がかかった理由の一つが、伝承文学を口ずさんでいるネイティブ本人にもその解釈が困難だったことだ。これはつまり口承文学の言葉が日常のそれと乖離していたということではないか。言い換えると文字はなくてもソコトリ言語社会はダイグロシアの態をなしていたのであろう。ダイグロシア社会でのHバリアントが必ずしも文字言語であるとは限らないことはファーガソン自身も指摘している(『162.書き言語と話し言語』参照)。しかしこのソコトリHバリアントはやや機能領域が限られていたようで、言語社会全体に共通するコイネーとして働ける機能はなかった。
 そこにアラビア語が入り、ソコトリダイグロシア社会にはスッポリ欠けていた文字言語と共通語の機能を担うことになった。ではソコトリ社会はアラビア語とソコトリの外ダイグロシアなのか?否である。第一にソコトラ人はアラビア語を明確に「自分たちのとは違う言語」と意識しているし、第二に文語と同時にアラビア語の口語も入ってきた、つまり言語生活の全機能をアラビア語で賄える状態になったからである。つまりアラビア語とソコトリの関係はダイグロシアではない、バイリンガルだ。このバイリンガルになると一方の言語がもう一方に押し切られてしまう危険が発生する(『154.そして誰もいなくなった』参照)。心配になって調べてみたら危惧した通りソコトリはUNESCOの危機言語のカテゴリーに入っていた。
 
 さて、上で名前を出しているナウムキンだが、他の言語学者とともに1983年から1987にかけて「ソ連・イエメン学術調査」を組織して大掛かりなソコトリの言語調査を行っている。どうしてソコトラ島に急にソ連が出てくるのか一瞬首をかしげたが、当時のソコトラ島は南イエメン領、つまり社会主義国の領土で当然ソ連の「保護」を受けていたから学術交流もさかんだったのだろう。
 そのナウムキンがソコトリのフォルクローレテキストを調査して色彩名称について報告してくれているが、面白いのが šaẓ̂riher という色称だ。男性単数 šaẓ̂riher、女性単数 šaẓ̂rihir、男性双数 šiẓ̂rēri、女性双数 šiẓ̂rīri 、男性複数 šiẓ̂rírhon、女性複数 šiẓ̂rárhir という変化をするが(しっかり双数がある…)、まず山地で山羊や羊を飼って生活している山地のネイティブはこの語の意味を「赤」「レンガ色(つまり赤の一種)」と説明した。家畜の毛の色を形容するのに使う語だそうだ。日本で犬を「しろ」などと名付けるのと同じ感覚か。さらにソコトリでは「赤」と「黄色」を厳密に区別しないらしい。他にこの語を「ダークグレイ」というネイティブもいたが、この語を主に山羊や羊の毛の色を形容するのに使っているという点は変わらない。「赤」「黄」「ダークグレイ」が一緒になっているのですでに驚くが、1938年に出た W. Leslau という人の語彙集では、この語の意味を「緑」「水色」と定義してある。レスローによればソコトリでは緑と水色、つまり青を区別しないそうで非常に興味深いが(『166.青と緑』参照)、「赤」と「緑」が一つの単語でくくられているというのが強烈すぎて青緑問題をそれ以上詮索しよう気が失せる。レスローはさらにそこでこのソコトリの語 šaẓ̂riher をメフリの ḫad̮or 「緑」、アラビア語の ʼaḫḍar「緑」、 ヘブライ語の  ḫåṣīr「草」と比べている。ナウムキンはそこにさらに他の学者の挙げたハルスーシの hezor「黄、青、緑」、アッカド語の ḫasa 「草木」、後期バビロニア語の ḫaṣaštu「鼻汁の色、つまり緑」に言及している。
 ということでこの語は元々のセム語としては「緑」(「黄」もだそうだ)を表わしていたようだが、実はソコトリでも山地でなく海岸沿いの住民は šaẓ̂riher を「緑」だと言っているそうだ。これらの住民は家畜は飼っていない。従って šaẓ̂riher を毛皮の色の形容には使わない。
 そこでアラビア語の ʼaḫḍar を派生させた語根 ḫḍr を見てみよう。この語根からは多くの単語が派生されるそうだが、元々の意味は3つ、「緑色」、「暗さ、黒さ」、「美しさ、快適さ」である。二番目の意味は「黒」や「ダークグレイ」という意味で駱駝や馬の毛皮の色を形容するのに使われている。アラビア語以外のアフロ・アジア諸語でも「緑」と「黒」が一緒になっている例が散見されるそうだ。
 第三の「美」だが、アラビア語(現在ばかりでなく古典時代からからすでにそうだった)では草木の色「緑」や空と水の色が「美しい」という観念と結びついていた。それはそうだろう。乾ききった大地のど真ん中で水をたたえ、草木を茂らせているオアシスの色は砂漠の民にとっては「美しい」以外の何物でもなかろう。それに対してロシア語では「赤」が「美」と結びついている。後期バビロニア語(上述)で「緑」と「美」が今一つ結びついていないのは東セム語ではこの語が純粋に色だけ表わし、「美」という連想は主に西セム語が発達させたからだろうか。そういえばアッカド人もバビロニア人もチグリス・ユーフラテス周辺の肥沃な土地が本拠で砂漠の民ではない。
 つまり色彩名称というのは単に色のスペクトラムを表わすだけでなく、その色から誘発されるイメージ、連想も意味に含んでいるということだ。連想「も」というより、むしろそちらの方が物理的なスペクトラムを押しのけて意味の前面に出てくることもある。アラビア語の ḫḍr やそれに対応するセム語の単語にはポジティブイメージがあるが、山地のソコトラ人が赤っぽい毛の家畜の色を šaẓ̂riher という時、そこには何かポジティブなイメージがあるのかも知れない。

 ソコトリはアラビア語とも他のアフロ・アジア諸語とも「妙に」繋がっている。だが、このつながりが共通祖語から直接引き継いだものか言語接触によって得られたものかはもっと詳細にデータを調べて見なければわからない。


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表が多すぎて機種やブラウザによって、特にスマホではグチャグチャになるので(私自身は今時スマホを持っていないので自分のブログをスマホでは見たことがない)、図表を画像に変更しました。データがやたらとあるので再確認して、文章も少し直しました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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 1492年は受験生泣かせの年で(誰が泣くか)世界史で重要な出来事が3つも起こった。その一はコロンブスのアメリカ大陸到着(一部には新大陸発見などという名称も使われているようだが、いくら何でも先住民に失礼すぎやしないか)、その二がレコンキスタの完成(グラナダ王国の滅亡)、その三がアントニオ・デ・ネブリハによる『カスティーリャ語文法』Gramática de la lengua castellana の出版である。
 ネブリハの『カスティーリャ語文法』は長い間ヨーロッパで唯一の書き言葉・文化語であったラテン語の位置が各国言語、つまり口語にとって変わられていく重要な一歩となった。その序文でネブリハはこの本を大国となったカスティーリャの女王イザベラに捧げ、新たにその支配下にはいった(カスティーリャ語を母語としない)民がこの素晴らしい支配者の言語が使えるようになるための手助けになろうと言っている。またそこで述べられているネブリハの言語観は今でも通じる近代的なもので、この文法書は 今から見ると言語学史上の金字塔であった。
 私はその『カスティーリャ語文法』について大きく誤解していた点が二つある。まず、私はこれがあたかも1957年に出版されたチョムスキーの Syntactic Structures のごとく出版と同時にセンセーションを巻き起こしたのかと思っていた。ところが実はそうではなかったらしく、ネブリハの生存中当書はほとんど人の目を引かず、やっと18世紀になってから第二版が出たそうだ。ダイグロシア崩壊期によくある「下品な口語なんかに文法もクソもあるか」というお決まりの批判にも晒された。そもそもネブリハはラテン語の専門家で、直前の1486年に『ラテン語入門』Introductiones latinae という本を出版している。こちらの方は売れに売れて16世紀だけで59版刷られたそうだ。「金字塔」という評価はずっと後になってからなされたのである。
 二つ目の誤解は、「新たに女王の支配下に入った民」と聞いてアメリカ大陸の先住民が思い浮かんでしまい、植民地の支配を容易にするためにカスティーリャ語を押し付ける手助けにこの文法書を捧げたのかと思っていたことだ。こちらの誤解の方がずっと程度が馬鹿で我ながら赤面に堪えない。ちょっと考えてみればわかりそうなものだった。
 『カスティーリャ語文法』が出版されたのは1492年8月18日である。その直前、やっと8月3日にコロンブスが航海に出発したのだから、当然その時点では植民地もアステカ人やインカ帝国への虐殺・支配はまだ影も形もない。コロンブスのバハマ到着が10月12日、その地でいろいろ探検して、スペインに帰って女王に航海の結果を報告したのは翌年1493年3月である。しかもコロンブス本人は死ぬまで自分の行った地はインドか中国だと思っていたのだし、ネブリハも確かに文法書の出版は1492年だが原稿そのものはそのずっと以前から着手していただろうから、「女王支配下の新住民」がアメリカ大陸の先住民を指していたはずはない。
 この「新たに支配下に下った住民」というのはイベリア半島の住民のことである。ロマンス語を母語としない住民、つまりアラブ人とユダヤ人のこと以外あり得ない。グラナダ王国が陥落したのは文法書が出る前の1492年6月2日だがそれ以前にイスラム側はジワジワと領土を失っていっていた。しかし領土が失われ支配者が入れ替わっても住民まで入れ替わったわけではない。早とちりな誤解への反省の意味を込めてちょっとイスラム支配下のスペインの歴史や言語構成、住民構成はどうなっていたのか見直してみた。

 本題に入る前に確認しておきたいことが何点かある。第一点が「レコンキスタ」、「再征服」という命名にそもそも問題があることだ。複数の歴史家がそう言っている。この言葉から連想されるのはキリスト教徒が団結してムスリム支配のイベリア半島を北からジワジワ取り戻していったという図である。しかし実情は全然違う。領土の奪回を狙ったイベリア半島のキリスト教領主は別に「キリスト教の地」を回復しようなどという意図はなく、単に自分の領土、自分の勢力を拡張したかっただけで宗教の事など頭になかった。現に隣のキリスト教領主の領地を奪い取るために仲良しの(?)イスラム教領主の助けを借りたり同盟を結んだりする、またはその逆が日常茶飯事だったそうだ。当地ではキリスト教徒とイスラム教徒は小競り合いはあってもきちんと共存していたである。
 「レコンキスタ」という言葉に暗示される「キリスト教対イスラム教」という間違った対立図式を無理やりイベリア半島にまで当てはめようとしたのは13世紀の初頭エルサレムを取り戻せと十字軍にハッパをかけたローマ教皇インノケンティウス3世あたりらしいが、とにかく「レコンキスタ」という用語は後から人為的にイベリア半島に投影された観念なので不適切だそうだ。
 もっとも十字軍などキリスト教側が狂信化していった時期にはイベリア半島のほうもアラブ人でなくベルベル人の支配下にあって、このベルベル人はアラブ人より宗教的寛容度がずっと低かったようだ(下記)。それで対立図式が当てはまりやすい状況ではあったらしい。

 第二の確認事項は、アラビア文化とイスラム教は区別して考えないといけないことだ。言い換えると「アラブ化」は「イスラム化」とイコールではないということである。イベリア半島にイスラム教徒がやってきたのは711年、イスラム教が起こった622年から100年も経っていない。軍の大部分を構成するベルベル人を率いていたアラブ人が携えてきた文化は「イスラム文化」ではなく「アラブ文化」である。アラブ人が武力だけでなく文化の面でも世界最高のレベルに達したのは確かにイスラム教をかすがいとして諸部族が統一され、領土がアラビア半島外に広がってから、ウマイヤ朝がダマスクスに、アッバース朝がバグダッドに中心を定めてからだろう。そこでインド、古代ギリシア、メソポタミアなどの知の遺産に触れて高度な文化を築き上げた。だがそれ以前、イスラム帝国がまだアラビア半島から出ない頃にすでにアラブ人たちは詩などの言語の文化を発達させていた。酒を愛し、愛の歓び悲しみを歌う高度な言語文化、そういう下地があったからこそ他の文化に触れて自然科学や数学・哲学を自分たちのものとして消化し、自らの文化をドッと開花させられたのだ。野蛮人だったら(差別発言失礼)そこで相手の高度な文化に飲み込まれて自分たちの文化のほうは消滅させてしまうのがオチだ。イベリア半島に伝わったのはこういうアラブの豪族文化であって必ずしもイスラム文化ではない。だからこそイベリア半島には「アラブ人化したキリスト教」が大量にいたのである(下記)。

 第三点。「スペイン人」、つまり「イベリア半島人」としてのアイデンティティはいつ生じたのか。ローマ帝国時代は自分たちをローマ人と思っていたろうが(もちろんバスク人などローマ以前からの先住民はいた)、帝国崩壊後、5世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の西ゴート人がやって来て支配者となる。だからスペイン語にはロドリゲス、ゴンザレス、エンリケス、アルバレスなど一目でゲルマン語だとわかる名前が多い。だがそのゴート人は上層部に限られ、当時300万人ほどとみられるヒスパノ・ロ―マ人に対してゴート人はたった15万人くらいで、しかも被支配者の文化に飲み込まれてキリスト教となり言語も速攻でロマンス語に転換してしまった。(ということはゴート人はさすがゲルマン人だけあって「蛮族」だったわけですかね)
 歴史家の意見が分かれるのはここからで、伝統的なスペイン史観では、西ゴート人支配下で「イベリア半島人」(原スペイン人)というアイデンティティが生じていたが、8世紀の初頭にアラビア人が「押し入ってきたので」住民は自分たちのアイデンティティを守るべく立ち上がってレコンキスタに持って行った、ということになる。この歴史観を取っている人には例えばサンチェス・アルボルノス Claudio Sánchez-Albornoz などがいる。もう一つは、西ゴート人支配の頃にはまだまだ「イベリア人または(原)スペイン人」としての一体感などなかった、それが生じたのはアラブ人の支配下でイベリア半島が統一されてから、特にああ懐かしや高校世界史で習ったアブド・アル・アフマーン一世下のウマイヤ朝がスペインをまとめてから、そこで初めて自分たちは同一民族であるという意識が生まれたのだという見解。つまりアラブ文化はイベリア半島人の血肉だということだ。近年はこちらの見解の方が優勢だそうで、カストロ Américo Castro などの学者が唱えている。
 
 四つ目の点は、上記の三点全部に関連することだが、イスラム教は本来他の宗教、キリスト教とユダヤ教に対して非常に寛容だったことだ。このこと自体ははさすがに現在の欧州では(まともな教養の人は)皆知っている。知っているは知っているが時とすると忘れそうになる人もいるので再確認しておく必要がある。イスラム教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」ahl al-kitāb と呼んで一目置き、支配地でも宗教の自由を完全に認め、種々の宗教儀式を遂行するのにイチャモンなどつけなかった。ただ他宗教の教徒は人頭税を払わないといけなかったようだ。
 ウマイヤ朝期に首都コルドバでさかんにムスリムをディスっていたキリスト教徒 Eulogius という人物でさえ「このクソ宗教への改宗を強要されたりはしていない」と言っている。後にイスラム教国のグラナダ王国が陥落したとき、キリスト教の支配者がその地に残っていたイスラム教徒に「改宗するかスペインから出ていくか」の二者選択を迫ったのとは対照的である。時代が下ってバルカン半島を支配していた時もイスラム教支配者は基本的に他宗教に寛容であった。そうでなかったらボスニア・ヘルツェゴビナ、シリア、果てはエジプトに現在でも大量のキリスト教徒が暮らしているわけがない。とっくに殲滅されていたはずである。特に成立して間もないイスラム教に支配されていたいイベリア半島にはこの「みんないっしょ」感覚があったらしい。それで上述のように「スペイン人としての一体感はイスラム支配下で発生した」と主張する歴史家もいるのだろう。

 この「イスラム支配下のスペイン」のことを「アル・アンダルス」という。歴史用語である。

 さてそれらの確認事項を踏まえてアラブ人の到来からネブリハの文法書出版に至るまでのイベリア半島の歴史をごくかいつまんで追ってみた。
 上述のようにイベリア半島はラテン語崩れのロマンス語を話すいわばヒスパノ・ローマ人を少数のゴート人の貴族が支配している状態だった。ガッチリ統一された国家でなく諸侯のバラバラ支配だったので結束が弱く、あっという間にアラブ人に入られたのである。711年、アラブ人の将軍ムーサー・イブン・ヌサイルの代理ターリク・イブン・ジヤードが7000人のアラブ人兵士と5000人のベルベル人の兵士を率いてやってきた。それでスペインの最南端が「ターリクの山」、ジャバル・アル・ターリクと呼ばれているのだ。もちろんこれがジブラルタルという名前の語源である。続いて将軍自身もさらに18000人ほどの増強兵力(その多くはベルベル人)を率いて上陸し、あっという間にイベリア半島を支配した。支配者アラブ人の人口は兵士や、後からやってきたその家族を入れても5万人ほどだったのではないかと思われる。それに対してヒスパノ・ロ―マ人は五百万人から六百万だったと、上述とは別の歴史家の推定している(やはり人によってばらつきがあるようだ)。
 ゴート人なんかの文化にはほとんど影響を受けなかったヒスパノ・ローマ人も、このアラブ人の文化は自分たちを遥かに凌駕していることに気づきたちまち影響された。ヒスパノ・ローマ人の四分の一が一世代内でイスラム教に改宗、10世紀には四分の三、後のグラナダ王国では住民の大半がイスラム教徒だったと推定される。この人たちは muladíes、ムラディと呼ばれた。また上述のようにイスラム教徒は他宗教に寛容だったのでキリスト教徒のままでいた住民も少ないとは言えなかった。これを mozárabes、モサラベという。「アラブ人のようになった人たち」という意味だ。モサラベはイスラム教は取り入れなかったが、アラブ文化には強烈に影響された。上述のように「イスラム化」には何世紀かかかっているが「アラブ化」は速攻だったようだ。すでに9世紀にコルドバのアルバロ Álvaro(名前からするとこの人はゴート人である)とかいうモサラベ人がボヤいている:「最近の若いもんはラテン語もよくできないくせにアラビア語の詩だの寓話だのをありがたがり、イスラムの哲学神学の本ばっか読みやがる。アラブ人の言語文学を勉強し過ぎてキリスト教のこと書くのにまでアラビア語の文章語を使いおって、ああ嘆かわしい」
 身近な者がどんどんアラブ化していくのに危機感を持ったのはアルバロばかりではなかったらしく、不満の矛先をイスラム教徒に向けて悶着をおこすこともあったらしい。居辛くなって9世紀ごろからまだアラブ人に支配されていないイベリア半島の北の方に移住する者もいた。もともと人のあまり住んでいなかったところで、支配しても得になりそうになかったのでアラブ人に無視されていたのである。後にここから「レコンキスタ」が始まった。

初期のアル・アンダルス。ウィキペディアから。
By Al-Andalus732.jpg:Q4767211492~commonswiki (talk · contribs)EmiratoDeCórdoba910.svg:rowanwindwhistler (talk · contribs)derivative work: rowanwindwhistler (talk) - Al-Andalus732.jpgEmiratoDeCórdoba910.svg, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59750789
Al-Andalus732.svg
 ウマイヤ朝に続くコルドバ・カリフ国の終わりごろ、11世紀の初頭から国が分裂しはじめ、小国相対するいわば戦国時代になった。これをターイファ tā’ifa 時代という。面白いことにこの、政治的に不安定だった時期に優れた詩人や思想家・芸術家が続出した。諸侯が権力を誇示するために武力をひけらかすばかりでなく、競って芸術の擁護者たろうとしたからである。セビーリャのアル・ムタミド・イブン・アッバード al-Mu'tamid ibn Abbad など自らが詩人である領主もいた。
 一方このターイファ諸侯が周りとの戦いのためアフリカからベルベル人の傭兵をさかんに呼び寄せたことから政治状況がさらに不安定になった。ベルベル人がアラブ人に取って代わってアル・アンダルスを支配するようになったからである。この時期にやってきたベルベル人は、ムーサー・イブン・ヌサイルやウマイヤ朝のアラブ人と共に来たベルベル人とは分けて考えないといけない。前者はイスラム教徒だったばかりでなくアラブ文化にも同化していたが、後者はアラブ化はせずイスラム教だけ取り入れた集団であったからだ。背景となったアラブ文化、その寛容さや享楽的な背景なしでイスラム教だけ取り入れたらどうなるかは簡単に想像がつく。彼らは今でいうイスラム原理主義だった。キリスト教に対するのと勝るとも劣らない批判の目をアル・アンダルスの「堕落した」イスラム教徒に向けた。例えばそこでよく詠まれていたペルシャのイスラム神学・哲学者アル・ガザーリー al Ghazālī の著書を焚書に処したりしている。またコルドバ・ウマイヤ朝やカリフ国がダマスクスやバグダッドの当時世界最高の文化と密接な交流があったのに対し、ベルベル人の臍の緒は常に北アフリカと繋がっていた。11世紀からアル・アンダルスを支配したベルベル人の王国アルモラヴィド朝もその後継者のアルモハード朝も首都はイベリア半島にでなく、モロッコのマラケシュにあったのだ。このベルベル人支配の下でキリスト教モサラベ人はコルドバ・カリフ国より格段に居辛くなった。「居辛く」というより追放令も出たそうだ。そのモサラベの脱出先、北の方も北の方で上述のように十字軍のころ、キリスト教側も狂信的になっていたころである。しかもピレネーの向こう側から助っ人がワンサとやってきた。ボソング Georg Bossong という史学者はこの状況を「ヨーロッパ化したキリスト教とアフリカ化したイスラム教、つまり十字軍とジハードの衝突」と言っている。この二者がアル・アンダルスを引き裂いたのである。
 言い換えると、もし「イスラム教がイベリア人のアイデンティティを分断した」とどうしても考えたいのなら、それはアラブ人のことではない、(第二波の)ベルベル人である。そして文明文化をもたらしたアラブ人は「イベリア人」の側なのだ。
  そういえば昔当時のスペインを題材にした(という)『エル・シド』という映画があったが、あれも注意しないと解釈を誤る。原作の叙事詩にすでに脚色があることに加え、映画も原作に忠実とは言い難く、しかもご丁寧にキリスト教スペクタクル映画の定番チャールトン・ヘストンが主役なので、どう見ても「イスラム教と戦ったレコンキスタのキリスト教英雄伝」にしか見えない。しかし実際のエル・シド、Rodrigo Díaz de Vivar あるいは Ruy Díaz de Bívar はむしろターイファの騎士で、カスティリアのキリスト教領主から、サラゴサのイスラム教領主へ転職し(これはあくまで「転職」であって裏切りとかそういうものではなかった。上述のようにアル・アンダルスではユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「みんないっしょ」だったからである)、その領主に何年も忠実に使えている。そして共にバレンシアに攻め入ってきたアルモラヴィド人(ベルベル人)と戦ったのである。この映画のラストをおぼろげに覚えているが、エル・シドの死体が馬に乗せられて戦場を駆け抜けるとき(あらネタバレ)、ターバンを巻いた兵士たちが畏怖の念に憑かれてサーッと引いていく。あれらの兵士はアラブ人ではない、北アフリカの「異民族」ベルベル人のはずだ。これを単純に「イスラム戦士」といっしょくたな解釈をしてはいけない。

アルモラヴィド朝の領土。首都はスペインでなくモロッコのマラケシュにあった。
https://historiek.net/al-andalus-het-spanje-der-moren/74627/から

Het-imperium-van-de-Almoraviden
 さてこのベルベル人は戦いでは勇敢、宗教的には生真面目だったが、政治の駆け引きや人民の統治能力がなく、どんどんその領土を失っていった。キリスト教徒の南進によって、その領土内には大量のイスラム教徒が居残ることになる。彼らは町の中心部からは立ち退かされたが、領内に住むこと自体は許され、宗教の自由も認められた。これらのイスラム教徒を mudéjares、ムデハルという。「居住を許された者」という意味だ。このムデハルも言語や文化の面でキリスト教側に大きな影響を及ぼした。
 13世紀半ばにはセビーリャがキリスト教徒の手に落ち、イベリア半島はほとんどキリスト教側の支配下に入った。その「ほとんど」を維持し、1492年まで200年に渡ってイスラム教の王国として持ちこたえ、高度な文化を維持したグラナダのナスル朝はアラブ人の国である。武力ではなく政治手腕で持ちこたえた国だったが、とうとうグラナダの陥落する時がやってきた。最後の王アブー・アブダラー Abū ʿAbdallāh はキリスト教側の降伏要求に応じて1492年1月2日宮殿の鍵を手渡したのである。王はグラナダから追われ最後に峠から町を一瞥して溜息をついた。その峠が現在 El Suspiro del Moro「ムーア人の溜息」と呼ばれる場所である。それを見て王の母が言ったそうだ:「何を女みたいにメソメソしているの?町を取られたってあなた、それを守り切れなかったのはあなたでしょ」。もちろんこれは単なる伝説である。
 細かい事を言えばアブー・アブダラーはアラブ人であってムーア人、つまりベルベル人ではなかったはずだが、グラナダ王国の時期には北から「居辛くなった」ムデハルが多数う移住してきてある程度均等な社会を構成しており、住民レベルではアラブ人とベルベル人の区別は薄れていたそうだ。
 溜息の後アブー・アブダラーは北アフリカに渡り、モロッコのフェズで不幸な生活を送りそこで死んだ。

(前置きだけで記事が終ってしまいました。この項続きます。)

「レコンキスタ」進行の様子。最後の砦グラナダ王国も1492年陥落した。
http://ferdidelange.blogspot.com/2018/05/reconquista-van-miquel-bulnes-is.htmlから

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 前回大まかに歴史背景を確認したが、イベリア半島の住民、バスク人、ゴート人、ユダヤ人、アラブ人、ベルベル人、ヒスパノ・ローマ人、宗教的にはモサラベ、ムラディ、ムデハルといった人たちは互いにどんな言語で話し、どんな言語を書いていたのだろうか。

 まあバスク人は北の方でバスク語を話しラテン語で書いていたのだろうが、その他の民族の言語生活は複雑だったらしい。宗教と言語が一致していなかったのである。文化的に圧倒的に上位にあったアラブ人の言語が広がり、キリスト教のモサラベまでアラビア語で読んだり書いたり話したりするようになってしまったことは前回書いた。つまり日常会話はアラビア語で行われていた。このアラビア語と言うのはもちろん書き言葉(ファーガソンのいうHバリアント、『162.書き言語と話し言語』参照)ではなく、それと著しく異なった口語のアラビア語である。バグダードのでもアラビア半島のでもない、アル・アンダルス特有のアラビア語口語が発展していた。当地のアラブ人が話していたのもこれである。
 しかしそのアラビア語口語と並行して住民はヒスパノ・ローマ語も日常会話に使っていた。西ゴート人が言語的にはヒスパノ・ローマ人と同化してしまったことは前回書いた通りだが、アラブ人の側にもこれのできる人がいくらもいた。これも前述の詩人国王アル・ムタミド・イブン・アッバードなどもヒスパノ・ローマ語がペラペラだったそうだ。ユダヤ人も日常話していたのはもちろんヘブライ語でなくヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語だった。ムラディにもヒスパノ・ローマ語を母語とする者多くいた。だから上で「日常会話はアラビア語で行われていた」と書いたのはやや不正確で、「アラビア語でも行われていた」としなければいけない。要するにバイリンガルな言語社会だったのだが、 言語社会がバイリンガルだと個人レベルでもバイリンガルな人が大勢いるということで、上の詩人国王なども決して例外ではなかったのだろう。
 注意すべきはこの「ヒスパノ・ローマ語」である。これは現在のスペイン語の直系の先祖ではない。モサラベ語、つまりモサラベ人の言語と言い(繰り返すがこれを話していたのはモサラベだけではない)、当時のカスティーリャ語とは著しく違った別言語である。アラブ人からはaljamía 「外国語」と呼ばれていた。現在イベリア半島に残っているロマンス語はポルトガル語、カスティーリャ語、カタロニア語しかないから、モサラベ語はつまり死語ということになる。『154.そして誰もいなくなった』でも書いたようにバイリンガル状態では一方の言語がもう一方の言語に押されて消滅してしまう危機があるが、ムスリム領内でのモサラベ語も文化語アラビア語に押され気味だったようで、9世紀には書き言葉までアラビア語を使うようになっていたモサラベも多かった(前項で述べたアルバロがボヤいた通りだ)。非寛容なベルベル人支配下ではモサラベはムスリム支配地から北へ脱出し、そこでカスティーリャ語に影響を与えながら吸収されていった。つまり現在スペイン語に夥しく見られるアラビア語要素は直接アル・アンダルスのアラビア語からだけではなくモサラベ語を通して受け入れたのもあるということだ。そうやって話者数は減ってはいたがそれでも13世紀前半には十分話者がいたそうだから、ネブリハの「カスティーリャ語文法」の想定読者にはモサラベ人も含まれていたはずだ。
 忘れてはいけないのがベルベル人である。「第一波」のベルベル人はアラブ人に同化してアラビア語を話していたが、「第二波」、ターイファ時代以降にやってきた人たちはそのままベルベル語を話していた。これもアラビア語に押されていたことは想像に難くない。
 さてそれらの人々の書き言葉はなんであったか。まずアラビア語文語である。ムスリムは当然としてこれで書いていたが、上述のように一部のモサラベ人も使っていた。ユダヤ人もこれで文学活動をしていた。その文章語ヘブライ語は姉妹言語アラビア語の影響を受けてさらに発展したそうだ。キリスト教徒側の文章語はもちろんラテン語だ。つまりアル・アンダルスには理論上1.アラビア語口語とアラビア語文語、2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語、4.ヒスパノ・ローマ語とヘブライ語、5.アラビア語口語とヘブライ語、6.アラビア語口語とラテン語、7.ベルベル語とアラビア文語という7種類のダイグロシアが存在していたということである。前者がLバリアント、後者がHバリアントだ。6はアラビア語を話すようになってしまったモサラベを想定したものだが、とにかく極めて複雑な言語社会だったに違いない。その上Lバリアントのバイリンガルが個人レベルで異なったダイグロシア間を行き来していただろうから複雑さがさらにグレードアップする。
 
 文化的に圧倒的に優勢だったのはアラビア語文語だが(ターイファ時代までは政治的にも圧倒していた)、これも前回述べたように(しつこい)アラブ人はイスラム以前にすでに言語文化を発達させており、ペルシャやギリシアの文明を自分の言葉に翻訳して増幅発展させることができた。現在の自然科学もアラブ人が知識をその言語にまとめて体系化してくれていなかったら、あちこちの言語に様々な知識がバラバラとある状態が長く続き、発展が今より遅れていたかもしれない。だから私は個人的に「アラブ人が自分たちで発明したものはほとんどない、他の文化を吸収して他に伝えただけだ」という言い方は不当だと思っている。「他の文明を吸収して他に伝える」と簡単に言ってくれるが、吸収する側にそれに見合った土台、よほどの言語文化がないとそんなことはできない。その「よほど」の例としてアッバース朝が9世紀始めにバグダッドに建てた「知恵の館」という図書館がある。世界各地からいろいろな文献を収集したばかりでなく、そのアラビア語翻訳も行っていた。アラビア語とギリシャ語ができたシリアのキリスト教徒などが従事した、世界の知の中心地であった。ここでアラビア語文語にさらに磨きがかかったのである。
 この翻訳文化、書物への敬意精神が3世紀の後アル・アンダルスに飛び火した。ただそこではアラビア語のほうが翻訳される側だった。すでに11世紀初頭にリポルRipoll という町の僧院にアラビア語文献の翻訳所が開かれ、その後12世紀始めに大司教ライムンドらによってトレドに翻訳学校が設置された。このトレドの翻訳所は有名だが、ギリシャの自然科学や哲学、ペルシャやアラビア文学ばかりでなく、コーランまで翻訳されたそうだ。それも1134年と1210年の2回もである。翻訳言語は当然ラテン語であった。
 この翻訳の過程がまた面倒で、まずアラビア語文語の読める者、モサラベあるいはムデハル、あるいはユダヤ人が当該テキストの内容をヒスパノ・ローマ語、つまり口頭で脇に控えているヨーロッパ中からやってきた識者に伝える。それを聞いて識者がラテン語に書き取るのである。上で言う2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語というダイグロシア型の話者が共通のLバリアントを通して交流したということだ。その共通Lバリアントが専らヒスパノ・ローマ語だったということは6.アラビア語口語とラテン語のパターンの話者は極めて少数だったか、ほぼ全員ヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語のバイリンガルだったのだろう。とにかくこうして様々な文献が訳された。ヒポクラテスもアリストテレスもプトレマイオスもアラビア語から訳されたのだ。ペルシャの大学者イブン・スィーナー (本名はこれより遥かに長い。下記参照)の著書が訳されたのもここだ。ただその際名前がちゃっかりラテン語化されてAvicenna アヴィケンナとなり、こちらの名のほうが有名で、この人があくまでイスラム哲学者であることがかすんでしまっている。
 レコンキスタが進んだ1248年にはその地はカスティーリャ王国の支配下に入ったが、その王アルフォンソ10世はさすが「賢王」 Alfonso el Sabio と言われただけあって学術を奨励し宗教に寛容でトレドに第二の翻訳学校を建てた。翻訳する側の言語はカスティーリャ語だった。ダイグロシア崩壊の下地はここら辺から作られていったらしい。日本の言文一致運動もそうだったが、口語をもとにした書き言葉を磨き上げるのに翻訳が果たす役割は大きい。そしてこれも日本と同様、いきなり口語オンリーにするのも困難で、ラテン語への翻訳も続いてはいた。コルドバ生まれの大哲学者アブー・アル・ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(こんな名前が覚えられるか)の著書もこの時期にラテン語名アヴェロエス Averoes (これなら覚えられる)で翻訳されている。
 考えてみるとこの翻訳文化が大開花したのはヨーロッパではすでに十字軍が開始されアル・アンダルスはベルベル人が支配していた、政治的には非寛容色が強まっていった時期である。そういう時期でもキリスト教・イスラム教双方の側にこういう人たちがいたのだ。「みんないっしょ」のアル・アンダルスメンタリティの残照はまだ残っていたのか。

  もう一つアル・アンダルスの言語接触の例として詩があげられる。アル・アンダルスで特有のアラビア語口語が発達したことは上で述べたが、さらに10世紀ごろから新しい詩の形式が発展した。ムワッシャハ  muwaššaḥ (スペイン語で moaxaja)といい、連構造を持ち脚韻交代にパターンのある形だが、そのムワッシャハの最終連の後にハルジャ harǧa (スペイン語で  jarcha )というオマケといっては失礼すぎるがリフレーンのようなものがついていたのである。このハルジャがロマンス語史上極めて重要で、アラビア語文語でなくヒスパノ・ローマ語(つまり事実上モサラベ語、まれに古カスティーリャ語)で書かれていた。これが「ロマンス語で書かれた最古の詩」で11世紀初頭にまで遡れ、やっと12世紀に始まったオクシタンのトルバドゥール抒情詩より100年も古い。その一つを見てみると:

tanto amare, tanto amare, habîbi tanto amare!
Enfermeron olyos nidios, ya duolen tan male!

愛をたくさん、愛をたくさん、愛しい人 愛をたくさん!
輝く目が病気になった、ああ痛い痛い!
(無粋な訳ですみません)


これを今のスペイン語にすると次のようになるそうだ。

¡De tanto amar, de tanto amar, amigo, de tanto amar!
Enfermaron unos ojos brillantes, y que ahora duelen mucho.

注意しないといけないのはこれらハルジャが元々アラビア文字またはヘブライ文字で書かれていたことである。ということは母音が表記されていなかったのだ。またアラビア語文語の詩の尻尾にくっ付いていたことや、時々アラビア語からの借用語が使ってあったりするため(上の habîbi (太字)がそれ)、長い間誰もこれがロマンス語であることに気付かず、やっと1948年になってからスターン Samuel Miklos Stern という学者がこれが実はロマンス語であることを「発見」した。だからここに出したラテン文字の例はそのアラビア語表記からいろいろな学者が苦労して再構築したものである。同じハルジャでも解釈者によって表記が違っていたりするのもそのためだ。スターンに続いてゴメス García Gómez が1952年にさらに24のハルジャを見つけた。現在では60以上の作品が収集されている。
 ハルジャのモティーフは若い女性がつれない恋人の態度を嘆いたりするなど本家アラビア詩にはあまり見られなかったものだが、それにしてもアラビア語で詩を詠んだ後突然モサラベ語にコード転換してオマケを付けるという発想はどこから出てきたのか。そもそもハルジャを詠んだのはアラビア語の本歌を作った本人なのか。第一の疑問については当時は詩は朗読するものではなく節をつけて歌うもので、ムスリムとキリスト教徒は単に共存していただけでなく一緒に文化活動もし歌もいっしょに歌っていたからだという説を見た。「聴衆」も過半数はヒスパノ・ローマ語の母語者だったろうからそれにも配慮したのかもしれない。第二の疑問点だが、ハルジャはアラビア語詩人本人が作ったのではなく(そういう人もいたろうが)、記録には残っていないがすでに10世紀にはヒスパノ・ローマ語で作られた歌詞の原形のようなものがあり、アラブ詩人がそれを引用したのではないかとも言われている。
 このムワッシャハからさらにザジャル zaǧal(スペイン語で zéjel)という詩形が生まれた。ムワッシャハの連構造を引き継いでいるが、文語でなく全てアラビア語口語やヒスパノ・ローマ語で詠まれたものだ。このザジャルがカスティーリャ語の詩の発展に絶大な影響を与えたであろうことは容易に想像がつく。初期カスティーリャ語の詩のモティーフや登場人物の名前を見てもアラビア語口語のザジャルの詩にその原本が見いだせる例は枚挙にいとまがないそうだ。
 また15世紀のカタロニア語の詩集(歌集)に次のような作品があって注目に値する。

Di ley vi namxi
Ay mesqui
Naffla calbi

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero finar

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero morir.

最初の3行(イタリック)を長い間誰も解読できないでいたところ、ソラ=ソレ Josep Maria Solà-Solé という学者がこれがアラビア語であることに気づき次のように解読した。

(b)ille [h]i bi[k] namxi
Ay m(i)squi
Na(ḥ)la qualbi

詩全体を訳すとこうなる:

神よ、貴方と歩く
おお麝香
貴方は私の心を甘美にする(ここまでアラビア語)


貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛のあかしに歌を詠おう

貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛にためなら命をささげよう
(韻にも何もなってないヘタレ訳ですみません)

これはムワッシャハから「二か国語構成」というアイデアを受け継いだのだろう。尻尾でなく頭にいわば「逆ハルジャ」がくっついている。15世紀と言えばすでにグラナダ王国以外のイベリア半島がキリスト教徒の支配下に入っていたころだ。しかも北方のカタロニアはもともと最初からムスリムの支配をあまり受けていない。それでもアラブの精神文化の影響は強烈だったのだ。

 1492年、グラナダ王国が陥落し、ネブリハが新しい支配者の言語の普及を試みた時、イベリア半島はこういう多言語状態であった。さてこの豊饒な言語文化はその後どうなったのだろうか。残念ながらまさに「イヤな予感」通りの展開となったのである。
 グラナダ王国が消滅した時点でイベリア半島全体に住んでいたムデハル(前項参照)は後ろ盾を失った。またグラナダを占領した「ヨーロッパ化したキリスト教徒」は初期ムスリムのような寛容さは持っていなかった。1498年にはムスリムを強制的に改宗させる措置が始まり、1499年にはグラナダでアラビア語の本が焚書に付された。続いて1502年、カスティーリャでは「ムスリムは改宗するか出ていくかのどちらかにしろ」という正規のお触れが出た。これで出て行ったムデハルも多いが、これが1526年にはさらに強化されて、宗教だけでなく「ムスリムのような生活様式」まで禁止された。少し遅れてアラゴンでも1525年に人口の3分の1を占めていたと思われるムデハルの強制改宗令が発布された。これら、1492年以降にキリスト教に改宗したムスリムをモリスコ moriscos というが、改宗した後もなお不信の目で見られ続けた。というのもイスラム教では確かに一旦アラーに誓いを立てたものが他宗教に寝返るのは死に値する罪ではあったが抜け道があったのである。改宗が外からの強制による場合は、改宗したふりをして十字を切ってもいい、心のうちでこっそりアラーを信じよという隠れムスリム作戦が許されていた。キリスト教側はその心の領域まで完全に同一化しようとしたのである。1565年にはアラビア語の使用が禁止されモリスコの財産が没収されたりした。ここまでやられたらモリスコは反乱を起こすか(起こしたモリスコもいるが残酷に鎮圧された)出ていくしかない。
 1609年、モリスコの大量追放が始まり、当時推定850万人の人口の30万人を占めていたモリスコが主に北アフリカに追放された。その後1614年、何とか僻地に住んでいたモリスコも一掃され、イベリア半島はムスリムがいなくなった。
 
 しかしそれまで文化面では本家バグダッドがモンゴル人に破壊された後も200年間その世界最高文化を維持し、経済面では特にイベリア半島東部で農業や様々な産業に従事してイベリア半島を支えていたモリスコがいなくなったことで、スペインは経済も文化も空洞化した。そのスの入った国内経済の穴埋めのため、スペイン政府は血眼になってアメリカ大陸を略奪し金銀を奪ったが、国内産業がスカスカなのに略奪品だけで国家財政を保つなど無理がありすぎる。モリスコ追放令を出す以前、ムデハルをジワジワいびり出していっていた時点、1575年にスペインはすでに一度国家破産しているのだ。そこへ持ってきてのモリスコ追放は「スペインにとって人道面だけでなく、経済面でも大災害であった。17世紀以降スペインが衰退していった大きな原因がこれである」と上述のボソング教授は言っている。

この名曲もこのような歴史を考慮して改めて聞いてみるとさらに胸に迫るものがある…



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10年くらい前の記事ですが足りない部分があったので(私の頭のことか?)大幅に書き加えました。表も画像にしました。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 少し前まではコーカサスやシベリア諸民族の言語をやるにはロシア語が不可欠だった。文献がロシア語で書いてあったからだ。今はもう論文なども英語になってきてしまっているのでロシア語が読めなくても大丈夫だろう。残念といえば残念である。別に英語が嫌いというわけではないのだが、何語であれ一言語ヘゲモニー状態には私は「便利だから」などと手放しでは喜べない。どうしても思考の幅が狭まるからだ。
 そのコーカサス地方の言語、タバサラン語についてちょっと面白い話を小耳にはさんだことがある。

 タバサラン語では「本」のことを kitab と言うそうだ。アラビア語起源なのが明らかではないか。よりによってこの kitab、あるいは子音連続 K-T-B は、私が馬鹿の一つ覚えで知っている唯一のアラビア語なのである。イスラム教とともにこの言語に借用されたのだろう。
 そこで気になったので、現在イスラム教の民族の言語で「本」を何というのかちょっと調べてみた。家に落ちていた辞書だのネットの(無料)オンライン辞書だのをめくら滅法引きまくっただけなので、ハズしているところがあるかも知れない。専門家の方がいたらご指摘いただけるとありがたい。その言語の文字で表記したほうがいいのかもしれないが、それだと不統一だし読めないものもあるのでローマ字表記にした。言語名のあとに所属語族、または語群を記した。何も記していない言語は所属語族や語群が不明のものである。「語族」と「語群」はどう違うのかというのが実は一筋縄ではいかない問題なのだが、「語族」というのは異なる言語の単語間に例外なしの音韻対応が見いだせる場合、その言語はどちらも一つの共通な祖語から発展してきたものとみなし、同一語族とするもの。この音韻対応というのは比較言語学の厳密な規則に従って導き出されるもので、単に単語が(ちょっと)似ているだけですぐ「同族言語ダー」と言い出すことは現に慎まなければいけない。時々そういうことをすぐ言い出す人がいるのは困ったものだ。現在同一語族ということが科学的に証明されているのは事実上印欧語族とセム語族だけだといっていい。そこまで厳密な証明ができていない言語は「語群」としてまとめる。もちろんまとめるからにはまとめるだけの理由があるのでこれもちょっと似た点が見つかったからと言ってフィーリングで「語群」を想定することはできない。「テュルク語」については「語族」でいいじゃないかとも思うのだが、逆に似すぎていて語族と言うより一言語じゃないかよこれ、とでも思われたのか「テュルク語族」とは言わずに「テュルク諸語」と呼んでいる。
 話が飛んで失礼。さて「本」をイスラム教国の言葉でなんというか。基本的に男性単数形を示す。
NEU07-Tabelle1
 このようにアラビア語の単語が実に幅広い語族・地域の言語に取り入れられていることがわかる。アラビア語から直接でなく一旦ペルシャ語を経由して取り入れた場合も少なくないようだが。例外はアルバニア語とボスニア語。前者は明らかにロマンス語からの借用、後者はこの言語本来の、つまりスラブ語本来の語だ。ここの民族がイスラム化したのが新しいので、言語までは影響されなかったのではないだろうか。ンドネシア語の buku は英語からの借用だと思うが、kitab という言葉もちゃんと使われている。pustaka は下で述べるように明らかにサンスクリットからの借用。インドネシア語はイスラム教が普及する(ずっと)以前にサンスクリットの波をかぶったのでその名残り。つまり pustaka は「本」を表わす3語のうちで最も古い層だろう。単語が三つ巴構造になっている。しかも調べてみるとインドネシア語には kitab と別に Alkitab という語が存在する。これは Al-kitab と分析でき、Al はアラビア語の冠詞だからいわば The-Book という泥つきというか The つきのままで借用したものだ。その Alkitab とは「聖書」という意味である。クルド語の pertuk は古アルメニア語 prtu(「紙」「葦」)からの借用だそうだがそれ以上の語源はわからない。とにかくサンスクリットの pustaka ではない。

 面白いからもっと見てみよう。「アフロ・アジア語群」というのは昔「セム・ハム語族」と呼ばれていたグループだ。アラビア語を擁するセム語の方は上でも述べたように「語族」といっていいだろうが、ハム語のほうは「族」という言葉を使っていいのかどうか個人的にちょっと「?」がつくので、現在の名称「アフロ・アジア語」のほうも「族」でなく「群」扱いしておいた。
NEU07-Tabelle2
イスラム教徒が乗り出していった地域で話されていたアフリカのスワヒリ語は「イスラム教の民族の言語」とは言いきれないのだが、「本」という文化語をアラビア語から取り入れているのがわかる。ハウサ語の「本」は形がかけ離れているので最初関係ないのかと思ったが、教えてくれた人がいて、これも「ごく早い時期に」アラビア語から借用したものなのだそうだ。ハウサ語の f は英語やドイツ語の f とは違って、日本語の「ふ」と同じく両唇摩擦音だそうだから、アラビア語bが f になったのかもしれないが、それにしても形が違いすぎる。「ごく早い時期」がいつなのかちょっとわからないのだが、ひょっとしたらイスラム教以前にすでにアラビア語と接触でもしていたのか、第三の言語を仲介したかもしれない。ソマリ語にはもう一つ buug という「本」があるが、インドネシア語の buku と同様英語からの借用である。

 インドの他の言語は次のようになる。
NEU07-Tabelle3
最後に挙げたインド南部のタミル語以外は印欧語族・インド・イラン語派で、冒頭にあげたペルシア語、ウルドゥ語、パシュトー語と言語的に非常に近い(印欧語族、インド・イラン語派)がサンスクリット形の「本」が主流だ。ベンガル語 pustok もヒンディー語 pustak もサンスクリットの pustaka 起源。ただ両言語の地域北インドは現在ではヒンドゥ―教だが、ムガル帝国の支配下にあった時期が長いのでアラビア語系の「本」も使われているのはうなづける。これは直接アラビア語から借用したのではなく、ペルシャ語を通したもの。またベンガル語の boi は英語からの借用かと思ったらサンスクリットの vahikā (「日記、帳簿」)から来ている古い語だそうだ。
 インドも南に下るとイスラム教の影響が薄れるらしく、アラビア語形が出てこなくなる。シンハラ語は仏教地域。これら印欧語はサンスクリットから「本」という語を「取り入れた」のではなく、本来の語を引き続き使っているに過ぎない。それに対してタミル語、テルグ語、マラヤラム語は印欧語ではないから、印欧語族のサンスクリットから借用したのだ。これらの言語はヒンドゥー教あるいは仏教地域である。
 とにかく言語の語彙と言うのは階層構造をなしていることがわかる。上のインドネシア語の pustaka も後にイスラム教を受け入れたのでアラビア語系の語に取って代わられたが消滅はしていない。もっともバリ島など、今もヒンドゥー教地域は残っている。そういうヒンドゥー地域では kitab は使わないのかもしれない。
 「本」を直接アラビア語からでなくペルシャ語を通して受け入れた言語も多いようだが、ではイスラム以前のペルシャ語では「本」を何といっていたのか。中期ペルシャ語(パフラヴィー語)を見ると「本」を表す語が3つあったらしい。mādayān、nāmag、nibēg の3語で、なるほどアラビア語とは関係ないようだ。本来のイラニアン語派の語だろう。 mādayān は古アルメニア語に借用され(matean、「本」)、そこからまた古ジョージア語に輸出(?)されている(maṭiane、「本、物語」)。nāmag も namak (「字」)としてやっぱり古アルメニア語に引き継がれたし、そもそも現代ペルシャ語にもnāme として残っている。「字」という意味の他に合成語に使われて「本」を表す: filmnâme(「脚本」)。最後の nibēg も nebiという形で現代ペルシャ語に細々と残っており「廃れた形」ではあるが「経典」「本」。昔はこの語でコーランを表していたそうだ。

 ではそのアルメニア語やジョージア語では現在どうなっているのか。これらの言語はタバサラン語のすぐ隣、つまりコーカサスで話されているが、キリスト教民族である。アラビア語とは見事に無関係だ。
NEU07-Tabelle4
アルメニア語の matyan は上述の古ペルシャ語 mādayān の子孫で、主流ではなくなったようだが、「雑誌」「原稿」「本」など意味が多様化してまだ存命(?)だ。ジョージア語でも maṭiane(「聖人伝」)として意味を変えたが単語としては生き残っている。girk、cigni がアルメニア語、ジョージア語本来の言葉。オセチア語の činyg は古い東スラブ語の kŭniga からの借用だそうだ。道理で現在のスラブ諸語と形がそっくりだ(下記)。オセチア語と上にあげたイスラム教のタジク語は同じ印欧語のイラニアン語派だし話されている地域も互いにごく近いのに語彙が明確に違っているのが非常に面白い。しかしそのタジク語にも上記中世ペルシャ語の nāmag に対応する noma(「字」)という言葉が存在する。

 また次の言語はセム語族で、言語的には本家アラビア語と近いのに「本」を kitab と言わない。アムハラ・エチオピア民族はキリスト教国だったし、ヘブライ語はもちろんユダヤ教。
NEU07-Tabelle5
 アムハラ語はもちろんゲエズ語からの引継ぎだが、後者はヨーロッパのラテン語と同じく死語なので、本当の音価はわからない。ゲエズ文字をアムハラ語で読んでいるわけだから音形が全く同じになるのは当然と言えば当然だ。アムハラ語もゲエズ語もさすがセム語族だけあって「語幹は3子音からなる」という原則を保持している。これもアラビア語と同様 m- の部分は語幹には属さない接頭辞だから差し引くと、この語の語幹は ṣ-h-f となる。その語幹の動詞 ṣäḥäfä は「書く」。このゲエズ語の「本」はアラビア語に maṣḥaf という形で借用され、「本」「写本」という意味で使われている。アラビア語の方が借用したとはまた凄いが、それどころではなく、ヘブライ語までこのゲエズ語を輸入している。ヘブライ語には「聖書の写本」を表す mitskháf  という単語があるが、これは mäṣḥäf の借用だそうだ。なおゲエズ語の動詞の ṣäḥäfä は古典アラビア語の ṣaḵafa に対応していると考えられるが、後者は「書く」でなく「地面を掘る」という意味だそうだ。は? 
 ヘブライ語の sefer(語根はs-f-r、f は本来帯気の p だそうだ)はアッカド語の時代から続く古い古いセム語の単語で、アラビア語にもその親戚語 sifr という「本」を表す語が存在する。ただ使用範囲が限定されているようだ。
 逆にヘブライ語には katáv(「書く」)あるいは ktivá(「書くこと」)という語もある。一目瞭然、アラビア語の k-t-b と対応する形だ。「本」という意味はないようだが、とにかく単語自体はアラビア語、ヘブライ語どちらにも存在し、そのどちらがメインで「本」という意味を担っているかの程度に違いがあるだけだ。
 
 それにしても「本」などという文化語は時代が相当下ってからでないと生じないはずだ。本が存在するためにはまず文字が発明されていなければいけないからだ。当該言語が文字を持っていなかったら(文字のない言語など特に昔はゴロゴロあった)本もへったくれもない。だから当時の「先進国」から本という実体が入ってきたのと同時にそれを表す言葉も取り入れたことが多かったのだろう。普通「その国にないもの」が導入される時は外来語をそのまま使う。日本語の「パン」「ガラス」などいい例だ。
 言い換えると「本」という語は宗教と共にということもあるが文字文化と共に輸入されたという側面も大きいに違いない。イスラム教が来る以前にすでにローマ文化やラテン語と接していたアルバニア、グラゴール文字、キリル文字、ラテン文字など、文字文化にふれていたボスニアで、「本」がアラビア語にとって変わられなかったのもそれで説明できる。そういえばバルカン半島に文字が広まったのはキリスト教宣教と共にで、9世紀のことだ。イスラム教はすでに世界を席捲していたが、バルカン半島にイスラム教が入ってきたのはトルコ経由で14世紀になってからだ。当地にはとっくに書き言葉の文化が確立されていた。
 アルメニア語、ジョージア語、アムハラ語(ゲーズ語)も古い文字の伝統があって、独自の文字を発達させていた。ヘブライ語やサンスクリット、タミル語は言わずもがな、イスラム教どころかキリスト教が発生する何百年も前から文字が存在した。外来語に対する抵抗力があったのだろう。

 まとめてみるとこうなる。イスラムの台頭とともにアラビア語の「本」という語が当地の言語に語族の如何を問わずブワーッと広まった。特にそれまで文字文化を持っていなかった民族言語は何の抵抗もなく受け入れた。
 すでに文字文化を持っていた言語はちょっと様子が違い、イスラム以前からの語が引き続き使われたか、アラビア語の「本」を取り入れたのしても昔からの語は生き残った。ただその際意味変化するか、使用範囲が狭くなった。
 イスラム教の波を被らなかった民族の言語はアラビア語系の語を取り入れなかった。
 その一方、初期イスラム教のインパクトがどれほど強かったのか改めて見せつけられる思いだ。千年にわたる文字文化を誇っていたペルシャ語、サンスクリットという二大印欧語を敵に回して(?)一歩も引かず、本来の語、mādayān などを四散させてしまった。その際ペルシャ語は文字までアラビア文字に転換した。もっともそれまで使っていたパフラヴィ―文字はアラム文字系統だったからアラビア文字への転換は別に画期的と言えるほどではなかっただろうが、その侵略された(?)ペルシャ語は外来のアラビア語をさらに増幅して広める助けまでしたのだ。ペルシャ語のこのアンプ作用がなかったら中央アジアにまではアラビア語形は浸透しなかったかもしれない。
 ボスニア、アルバニアはずっと時代が下ってからだったから語が転換せずに済んだのだろう。

 実はなんとベラルーシ語にもこのアラビア語起源の кітаб (kitab)言う語が存在する。「本」一般ではなくイスラム教の宗教書のことだが、これはベラルーシ語がリプカ・タタール人によってアラビア文字で表記されていた時代の名残である。このアラビア語表記は16世紀ごろから20世紀に入るまで使われていた。そのころはトルコ語もアラビア文字表記されていて、現在のラテン語表記になったのはやはり20世紀初頭だ。
 このリプカ・タタール人というのはベラルーシばかりでなく、ポーランドやリトアニアにもいる。私がヨーロッパ系のポーランド人から自国内のリプカ・タタール人(国籍としてはポーランド人)と間違われたことは以前にも書いた通りだ。自慢にもならないが。

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