アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:アラビア語

 少し前まではコーカサスやシベリア諸民族の言語をやるにはロシア語が不可欠だった。文献がロシア語で書いてあったからだ。今はもう論文なども英語になってきてしまっているのでロシア語が読めなくても大丈夫だろう。残念といえば残念である。別に英語が嫌いというわけではないのだが、何語であれ一言語ヘゲモニー状態には私は「便利だから」などと手放しでは喜べない。どうしても思考の幅が狭まるからだ。
 そのコーカサス地方の言語、タバサラン語についてちょっと面白い話を小耳にはさんだことがある。

 タバサラン語では「本」のことを kitab と言うそうだ。アラビア語起源なのが明らかではないか。よりによってこの kitab、あるいは子音連続 K-T-B は、私が馬鹿の一つ覚えで知っている唯一のアラビア語なのである。イスラム教とともにこの言語に借用されたのだろう。
 そこで気になったので、現在イスラム教の民族の言語で「本」を何というのかちょっと調べてみた。家に落ちていた辞書だのネットの(無料)オンライン辞書だのをめくら滅法引きまくっただけなので、ハズしているところがあるかも知れない。専門家の方がいたらご指摘いただけるとありがたい。その言語の文字で表記したほうがいいのかもしれないが、それだと不統一だし読めないものもあるのでローマ字表記にした。言語名のあとに所属語族、または語群を記した。何も記していない言語は所属語族や語群が不明のものである。「語族」と「語群」はどう違うのかというのが実は一筋縄ではいかない問題なのだが、「語族」というのは異なる言語の単語間に例外なしの音韻対応が見いだせる場合、その言語はどちらも一つの共通な祖語から発展してきたものとみなし、同一語族とするもの。この音韻対応というのは比較言語学の厳密な規則に従って導き出されるもので、単に単語が(ちょっと)似ているだけですぐ「同族言語ダー」と言い出すことは現に慎まなければいけない。時々そういうことをすぐ言い出す人がいるのは困ったものだ。現在同一語族ということが科学的に証明されているのは事実上印欧語族とセム語族だけだといっていい。そこまで厳密な証明ができていない言語は「語群」としてまとめる。もちろんまとめるからにはまとめるだけの理由があるのでこれもちょっと似た点が見つかったからと言ってフィーリングで「語群」を想定することはできない。「テュルク語」については「語族」でいいじゃないかとも思うのだが、逆に似すぎていて語族と言うより一言語じゃないかよこれ、とでも思われたのか「テュルク語族」とは言わずに「テュルク諸語」と呼んでいる。
 話が飛んで失礼。さて「本」をイスラム教国の言葉でなんというか。基本的に男性単数形を示す。
NEU07-Tabelle1
 このようにアラビア語の単語が実に幅広い語族・地域の言語に取り入れられていることがわかる。アラビア語から直接でなく一旦ペルシャ語を経由して取り入れた場合も少なくないようだが。例外はアルバニア語とボスニア語。前者は明らかにロマンス語からの借用、後者はこの言語本来の、つまりスラブ語本来の語だ。ここの民族がイスラム化したのが新しいので、言語までは影響されなかったのではないだろうか。ンドネシア語の buku は英語からの借用だと思うが、kitab という言葉もちゃんと使われている。pustaka は下で述べるように明らかにサンスクリットからの借用。インドネシア語はイスラム教が普及する(ずっと)以前にサンスクリットの波をかぶったのでその名残り。つまり pustaka は「本」を表わす3語のうちで最も古い層だろう。単語が三つ巴構造になっている。しかも調べてみるとインドネシア語には kitab と別に Alkitab という語が存在する。これは Al-kitab と分析でき、Al はアラビア語の冠詞だからいわば The-Book という泥つきというか The つきのままで借用したものだ。その Alkitab とは「聖書」という意味である。クルド語の pertuk は古アルメニア語 prtu(「紙」「葦」)からの借用だそうだがそれ以上の語源はわからない。とにかくサンスクリットの pustaka ではない。

 面白いからもっと見てみよう。「アフロ・アジア語群」というのは昔「セム・ハム語族」と呼ばれていたグループだ。アラビア語を擁するセム語の方は上でも述べたように「語族」といっていいだろうが、ハム語のほうは「族」という言葉を使っていいのかどうか個人的にちょっと「?」がつくので、現在の名称「アフロ・アジア語」のほうも「族」でなく「群」扱いしておいた。
NEU07-Tabelle2
イスラム教徒が乗り出していった地域で話されていたアフリカのスワヒリ語は「イスラム教の民族の言語」とは言いきれないのだが、「本」という文化語をアラビア語から取り入れているのがわかる。ハウサ語の「本」は形がかけ離れているので最初関係ないのかと思ったが、教えてくれた人がいて、これも「ごく早い時期に」アラビア語から借用したものなのだそうだ。ハウサ語の f は英語やドイツ語の f とは違って、日本語の「ふ」と同じく両唇摩擦音だそうだから、アラビア語bが f になったのかもしれないが、それにしても形が違いすぎる。「ごく早い時期」がいつなのかちょっとわからないのだが、ひょっとしたらイスラム教以前にすでにアラビア語と接触でもしていたのか、第三の言語を仲介したかもしれない。ソマリ語にはもう一つ buug という「本」があるが、インドネシア語の buku と同様英語からの借用である。

 インドの他の言語は次のようになる。
NEU07-Tabelle3
最後に挙げたインド南部のタミル語以外は印欧語族・インド・イラン語派で、冒頭にあげたペルシア語、ウルドゥ語、パシュトー語と言語的に非常に近い(印欧語族、インド・イラン語派)がサンスクリット形の「本」が主流だ。ベンガル語 pustok もヒンディー語 pustak もサンスクリットの pustaka 起源。ただ両言語の地域北インドは現在ではヒンドゥ―教だが、ムガル帝国の支配下にあった時期が長いのでアラビア語系の「本」も使われているのはうなづける。これは直接アラビア語から借用したのではなく、ペルシャ語を通したもの。またベンガル語の boi は英語からの借用かと思ったらサンスクリットの vahikā (「日記、帳簿」)から来ている古い語だそうだ。
 インドも南に下るとイスラム教の影響が薄れるらしく、アラビア語形が出てこなくなる。シンハラ語は仏教地域。これら印欧語はサンスクリットから「本」という語を「取り入れた」のではなく、本来の語を引き続き使っているに過ぎない。それに対してタミル語、テルグ語、マラヤラム語は印欧語ではないから、印欧語族のサンスクリットから借用したのだ。これらの言語はヒンドゥー教あるいは仏教地域である。
 とにかく言語の語彙と言うのは階層構造をなしていることがわかる。上のインドネシア語の pustaka も後にイスラム教を受け入れたのでアラビア語系の語に取って代わられたが消滅はしていない。もっともバリ島など、今もヒンドゥー教地域は残っている。そういうヒンドゥー地域では kitab は使わないのかもしれない。
 「本」を直接アラビア語からでなくペルシャ語を通して受け入れた言語も多いようだが、ではイスラム以前のペルシャ語では「本」を何といっていたのか。中期ペルシャ語(パフラヴィー語)を見ると「本」を表す語が3つあったらしい。mādayān、nāmag、nibēg の3語で、なるほどアラビア語とは関係ないようだ。本来のイラニアン語派の語だろう。 mādayān は古アルメニア語に借用され(matean、「本」)、そこからまた古ジョージア語に輸出(?)されている(maṭiane、「本、物語」)。nāmag も namak (「字」)としてやっぱり古アルメニア語に引き継がれたし、そもそも現代ペルシャ語にもnāme として残っている。「字」という意味の他に合成語に使われて「本」を表す: filmnâme(「脚本」)。最後の nibēg も nebiという形で現代ペルシャ語に細々と残っており「廃れた形」ではあるが「経典」「本」。昔はこの語でコーランを表していたそうだ。

 ではそのアルメニア語やジョージア語では現在どうなっているのか。これらの言語はタバサラン語のすぐ隣、つまりコーカサスで話されているが、キリスト教民族である。アラビア語とは見事に無関係だ。
NEU07-Tabelle4
アルメニア語の matyan は上述の古ペルシャ語 mādayān の子孫で、主流ではなくなったようだが、「雑誌」「原稿」「本」など意味が多様化してまだ存命(?)だ。ジョージア語でも maṭiane(「聖人伝」)として意味を変えたが単語としては生き残っている。girk、cigni がアルメニア語、ジョージア語本来の言葉。オセチア語の činyg は古い東スラブ語の kŭniga からの借用だそうだ。道理で現在のスラブ諸語と形がそっくりだ(下記)。オセチア語と上にあげたイスラム教のタジク語は同じ印欧語のイラニアン語派だし話されている地域も互いにごく近いのに語彙が明確に違っているのが非常に面白い。しかしそのタジク語にも上記中世ペルシャ語の nāmag に対応する noma(「字」)という言葉が存在する。

 また次の言語はセム語族で、言語的には本家アラビア語と近いのに「本」を kitab と言わない。アムハラ・エチオピア民族はキリスト教国だったし、ヘブライ語はもちろんユダヤ教。
NEU07-Tabelle5
 アムハラ語はもちろんゲエズ語からの引継ぎだが、後者はヨーロッパのラテン語と同じく死語なので、本当の音価はわからない。ゲエズ文字をアムハラ語で読んでいるわけだから音形が全く同じになるのは当然と言えば当然だ。アムハラ語もゲエズ語もさすがセム語族だけあって「語幹は3子音からなる」という原則を保持している。これもアラビア語と同様 m- の部分は語幹には属さない接頭辞だから差し引くと、この語の語幹は ṣ-h-f となる。その語幹の動詞 ṣäḥäfä は「書く」。このゲエズ語の「本」はアラビア語に maṣḥaf という形で借用され、「本」「写本」という意味で使われている。アラビア語の方が借用したとはまた凄いが、それどころではなく、ヘブライ語までこのゲエズ語を輸入している。ヘブライ語には「聖書の写本」を表す mitskháf  という単語があるが、これは mäṣḥäf の借用だそうだ。なおゲエズ語の動詞の ṣäḥäfä は古典アラビア語の ṣaḵafa に対応していると考えられるが、後者は「書く」でなく「地面を掘る」という意味だそうだ。は? 
 ヘブライ語の sefer(語根はs-f-r、f は本来帯気の p だそうだ)はアッカド語の時代から続く古い古いセム語の単語で、アラビア語にもその親戚語 sifr という「本」を表す語が存在する。ただ使用範囲が限定されているようだ。
 逆にヘブライ語には katáv(「書く」)あるいは ktivá(「書くこと」)という語もある。一目瞭然、アラビア語の k-t-b と対応する形だ。「本」という意味はないようだが、とにかく単語自体はアラビア語、ヘブライ語どちらにも存在し、そのどちらがメインで「本」という意味を担っているかの程度に違いがあるだけだ。
 
 それにしても「本」などという文化語は時代が相当下ってからでないと生じないはずだ。本が存在するためにはまず文字が発明されていなければいけないからだ。当該言語が文字を持っていなかったら(文字のない言語など特に昔はゴロゴロあった)本もへったくれもない。だから当時の「先進国」から本という実体が入ってきたのと同時にそれを表す言葉も取り入れたことが多かったのだろう。普通「その国にないもの」が導入される時は外来語をそのまま使う。日本語の「パン」「ガラス」などいい例だ。
 言い換えると「本」という語は宗教と共にということもあるが文字文化と共に輸入されたという側面も大きいに違いない。イスラム教が来る以前にすでにローマ文化やラテン語と接していたアルバニア、グラゴール文字、キリル文字、ラテン文字など、文字文化にふれていたボスニアで、「本」がアラビア語にとって変わられなかったのもそれで説明できる。そういえばバルカン半島に文字が広まったのはキリスト教宣教と共にで、9世紀のことだ。イスラム教はすでに世界を席捲していたが、バルカン半島にイスラム教が入ってきたのはトルコ経由で14世紀になってからだ。当地にはとっくに書き言葉の文化が確立されていた。
 アルメニア語、ジョージア語、アムハラ語(ゲーズ語)も古い文字の伝統があって、独自の文字を発達させていた。ヘブライ語やサンスクリット、タミル語は言わずもがな、イスラム教どころかキリスト教が発生する何百年も前から文字が存在した。外来語に対する抵抗力があったのだろう。

 まとめてみるとこうなる。イスラムの台頭とともにアラビア語の「本」という語が当地の言語に語族の如何を問わずブワーッと広まった。特にそれまで文字文化を持っていなかった民族言語は何の抵抗もなく受け入れた。
 すでに文字文化を持っていた言語はちょっと様子が違い、イスラム以前からの語が引き続き使われたか、アラビア語の「本」を取り入れたのしても昔からの語は生き残った。ただその際意味変化するか、使用範囲が狭くなった。
 イスラム教の波を被らなかった民族の言語はアラビア語系の語を取り入れなかった。
 その一方、初期イスラム教のインパクトがどれほど強かったのか改めて見せつけられる思いだ。千年にわたる文字文化を誇っていたペルシャ語、サンスクリットという二大印欧語を敵に回して(?)一歩も引かず、本来の語、mādayān などを四散させてしまった。その際ペルシャ語は文字までアラビア文字に転換した。もっともそれまで使っていたパフラヴィ―文字はアラム文字系統だったからアラビア文字への転換は別に画期的と言えるほどではなかっただろうが、その侵略された(?)ペルシャ語は外来のアラビア語をさらに増幅して広める助けまでしたのだ。ペルシャ語のこのアンプ作用がなかったら中央アジアにまではアラビア語形は浸透しなかったかもしれない。
 ボスニア、アルバニアはずっと時代が下ってからだったから語が転換せずに済んだのだろう。

 実はなんとベラルーシ語にもこのアラビア語起源の кітаб (kitab)言う語が存在する。「本」一般ではなくイスラム教の宗教書のことだが、これはベラルーシ語がリプカ・タタール人によってアラビア文字で表記されていた時代の名残である。このアラビア語表記は16世紀ごろから20世紀に入るまで使われていた。そのころはトルコ語もアラビア文字表記されていて、現在のラテン語表記になったのはやはり20世紀初頭だ。
 このリプカ・タタール人というのはベラルーシばかりでなく、ポーランドやリトアニアにもいる。私がヨーロッパ系のポーランド人から自国内のリプカ・タタール人(国籍としてはポーランド人)と間違われたことは以前にも書いた通りだ。自慢にもならないが。

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 『13ウォーリアーズ』(The 13th warrior)というアントニオ・バンデラス主演の映画がある。原作はマイケル・クライトンの小説だそうで、10世紀のアラブの旅行家アハマド・イブン・ファドラーンの旅行記とベオウルフをくっ付けた話がベースになっている。一言でいうとアラブの文人が、旅行の途中で謎の戦闘民族に襲われて困っていたノルド人だかスカンジナビア人だかの未開部族の者と会い、彼らの要請でその土地まで出かけて行ってその部族を助けて敵と戦う、という筋なのだが、原作マイケル・クライトン、主演にバンデラスとあと助演にオマー・シャリフ、音楽はジェリー・ゴールドスミスという結構豪華な面子の割には、今ひとつプログラムピクチャーの域を出ていない感じだった。もっとも、映画という映画に全部タルコフスキーとかアラン・レネのような芸術性を発揮されてしまったら、映画一本見るのにもいちいち気合を入れねばならず、それはそれで大変だ。私はこういう、力で(だけ)は勝っているが頭では今ひとつ見劣りのする輩を知性と教養でねじ伏せるタイプの男性主人公(傲慢なのは嫌だが)が好きだし、単純に楽しめた。
 が、一箇所考えさせられてしまったシーンがひとつ。

 遠くアラビアからやってきた主人公はもちろん始めスカンジナビア蛮族の言葉が全く理解できないのだが、一日中彼らといて、彼らの言葉を聴いているうちたちまちその言葉をマスターしてしまい、夜になる頃にはしゃべり出す。蛮族は文人の頭の良さに感心する。
  映画では「一日のうちに」とも取れる描写だったが、これは「その部族の者と出会った地点から、彼らが住んでいる土地に行くまで何日も何日も旅行する間」をシンボル的に表していたのだろう。いずれにせよ、バンデラス演じるアラブの文人はその間受動的に言語を聞いていただけで、一言話してみて通じるかどうか試すとか、どうしてもわからない意味をちょっと聞くとかいうことはしていない。蛮族民はそのアラブ人は全く彼らの言語がわからないと思って好き勝手に彼をからかったところ、突然アラブの文人が彼らの言葉で反論してきたので、大いに驚き、「どうして俺たちの言葉がわかるんだ」と聞く。そこでアラブの文人は「ずっと君達のしゃべるのを聞いていたからね」と涼しい顔で応える。カッコいいぞ、バンデラス!

 確かにバンデラスはカッコいいが、そう簡単に問屋が卸すものだろうか。

 この蛮族の言語を習得する過程の描写自体はうまいと思った。「人間には生得的に言語獲得のメカニズムが脳内に備わっており、幼児は外から入ってくる言語情報、つまり周りで話されている言語を聞いて、それらのインプット情報が質的にも量的にも不完全であるにも関わらず、その言語の文法メカニズムを正確に獲得する。その証拠に幼児はある一定の時期(生後18ヶ月前後だそうだ)になると突然言葉を話し出す。言語獲得が脳神経の発達、つまり身体的な発達と密接に関わっているとしか考えられない」、という「言語の跳躍」がうまく表現されてはいた。監督自身が勉強していたのかスタッフに心理言語学の専門家でもついていたのか、映画製作というのは本当にいろいろな知識がいるものだと感心した。
 問題はこの言語獲得過程は母語についてだということだ。このアラブの文人氏はすでに大人で母語が固定してしまっていたから、彼にとっては蛮族の言葉は少なくとも第二言語、たぶん第三、第四言語以降の言語であったはず。そういう言語が母語と同じ獲得過程をたどるとは思えないのだが。事実、言語学者たちにも「遅くとも思春期までには子供は無意識で自然な母語獲得能力を失う」と言っている人がいる。脳が固まってしまったあとでは「インプットをもとにして言語の内部に備わっているメカニズムを自分で組み立てる」ことはできないのだ。そもそもその「自然な」母語だって組み立てるには、生まれたばかりの新品の脳をフル回転させても何年も何年もかかる。外から入ってくる言語音声を聞いて言語に内在する法則を自ら発見し自分の内部にシステムを構築する、という信じられないほど困難な作業だからだ。言語運用レベルまで勘定に入れれば、思春期以降になっても完全に言語を獲得するまでにはならないだろう。
 母語が固まってから言語をマスターする過程ではその最も肝心な部分、つまり「言語に内在する構造の発見」を自分ですることができないので、人から教えてもらわないといけない、つまりネイティブに説明して貰うか(話せはするがまともな説明は全くできないネイティブなど大勢いるから困るが)、言語学者が身を削るようにして記述した文法書に頼るしかない。ある意味では出来合いを鵜呑みにするわけだから時間は短くて済むだろうが、それでもその言語の内部メカニズムをすべて駆使できるようになるまでどんなに必死にやっても数ヶ月はかかる。いや数ヶ月でマスターできればもう表彰もの、私みたいに頭が悪いと何年いや何十年経っても四六時中文法だろ単語だろを間違える。
 この主人公のように、大人が何日かそばに座って言語音を聞いていただけで知らない言語をマスターするなんてあり得ないと思うのだが。チンパンジーレベルのヨーヘイホー言語だって覚えるの何週間もかかるのではないだろうか。

 前に語学の本の前書きに「外国語は誰にでも覚えられる。程度の差はあっても誰でもマスターできる。その証拠にあなたは日本語ができるだろう。だから他の言葉だってできるようになるのだ。」と書いてあるのを見て強い違和感を持ったことを覚えている。そもそもその「程度の差」というのが大問題で、まったく同じ勉強をし、まったく同じ時間をかけても、できるようになる者とそれこそ物にならない者との差が非常に大きく、これを一くくりにして「誰でも語学はできるようになる」と言い切っていいのかどうか疑問なのだが、この際それは不問にすることにしても、見逃せないのが「あなたは母語ができるだろう、だから外国語だってできるはずだ」というロジックである。これは少し乱暴すぎやしないか。なぜなら母語(私たちにとっては日本語)と外国語では習得・獲得のメカニズムが違うからである。
 その昔源義経だったか誰かが(義仲だったかもしれない)、どこかの合戦の際敵の裏側の断崖から攻め入ろうとすると、崖が急すぎて馬には降りられないと部下から抗議が上がった。すると大将は崖の上から鹿を走り下ろさせ、鹿が全部無事崖を降りきったのを見とどけて「鹿も四つ足、馬も四つ足、よって鹿にできることが馬にできないわけがない」といって作戦を強行した、という話を聞いてなんというアブナイ大将なのだろうと思ったのだが、上のロジックもちょっとこれと似ているような気がする。この合戦では幸い奇襲作戦が成功したからいいようなものの、馬が全部転げ落ちで足を折ったりしていたら、この逸話が「馬鹿」という言葉の語源かとカン違いしていたところだ。(上述の語学発言を「馬鹿な」といっているのではない。念のため)

 理屈から言えばこの映画のストーリーとしては、1.主人公氏は最後まで蛮族の言葉をしゃべらず、ジェスチャーだけ、せいぜい超ブロークンな単語の断片のみによるコミュニケーションを押し通す、2.主人公は蛮族の地にやって来る以前に当該言語の文法を一通りやり終えていた、という設定にする、の二通りしかあり得ないのでは?
 しかし一方、このシーンは映画のターニングポイントとして極めて重要。それまで「奇声をあげて棍棒をぶん回すのが男の価値」だと思っていた単細胞どもが「知は力なり」という事実に目覚める出発点なのだから、そこで主人公が実はすでにこっそり文法をやってズルをしてしまっていたりしたらドッチラケではないか。
 まあ、プロデューサーのほうも、そこまで突っ込んでくるような物好きもいまいと判断したか、バンデラスにずっとジェスチャーばかりやらせておくわけにもいかないと思ったか、そのターニング・ポイントまではラテン語や古ノルド語(実際に映画で使われていたのは現代ノルウェー語のブークモールだそうだ)などが飛び交っていたのにそこからは英語の会話(私が見たのはドイツ語吹き替えだが)でストーリーが進んでいく。ついでに言わせて貰うとバンデラスが最後に妙にまともないわゆる「戦士」になってしまい、結局は棍棒タイプ、剣を持って戦えるタイプの男性像が称賛される形になってしまっているのは残念だ。主人公には最後まで軟弱な学者タイプを貫いてほしかったが、まあそれだと映画になるまい。

 だから私もそういう疑問点には目をつぶることにしたのだが、ただアラブの文人の役をスペイン人のバンデラスがやったのは意味深長だと思った。スペイン語は1492年に解放されるまで600年もの間アラビア語の波を被っていて、単語や言い回しにも地名にもアラビア語起源のものが相当ある。映画『ターミネーター』で使われて以来国際語と化している感の「アスタ・ラ・ビスタ」(Hasta la vista)の「アスタ」ももとは「○○まで」を意味するアラビア語の前置詞hattaだそうだ。つまりこのキャストで製作者は「スペイン人はアラブ人といっしょ」と暗示したかったのか。まさか。
 でもそういえば以前、誰かスペイン語学の学者が、スペイン語をきちんとやるにはアラビア語の知識は不可欠、と言っていたのを覚えている。そんな異次元の言語まで動員しなくてはまともに勉強できないなんてスペイン語学習者も大変だ。それと比べるとドイツ語やロシア語はまだ楽なのではないだろうか。ドイツ語学ならラテン語ができればもうオンの字、ロシア語には古教会スラブ語があれば十分間に合うし、そもそもラテン語も古教会スラブ語も印欧語だから勝手が違って困ることもないだろう。

 ちなみに、映画では「知性の価値」に目覚めた蛮族の頭領が主人公に「音の絵が描けるか?」と聞く場面がある。これは「字が書けるのか?」という意味だ。主人公が砂にすらすらアラビア文字を書いて見せ、発音してやると統領は感心する。つまりこの人も他のノルマン人と同様文盲で無教養なのだが、上で述べたようにバンデラスに自分たちの言葉をしゃべられて周りの者がやったポカーンと口をあけた馬鹿面とはやや趣が違う。さすが統領だけに「知」というものに興味を示しているからだ。私はこの周りがやった顔のほう、「初めて知に遭遇した無教養人の馬鹿面」を見るのが辛かった。実は私も人の話がわからなくてこういう顔をしてしまうことがしょっちゅうだからだ。「私はいま凄い馬鹿面をしているな」と自分でも気づいているのにそういうポカーンとした表情しかやりようがない。完全に自分の鏡を見ているようで身につまされすぎた。


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 2013年にボストンマラソンに爆弾が仕掛けられたことがあった。犯人はツァルナエフという兄弟だったが、兄は射殺され弟は捕まった。
 この事件で真っ先に気になったのが「ジョハル」という弟の名前の出所だ。当時の新聞を見ると犯人はチェチェン人、とあり、キルギスタンやカザフスタン、ロシアなどを転々とした後、現在両親はダゲスタンにいる、ということだった。するとこの名前はチェチェン語なのか。チェチェン語はいわゆるコーカサス言語で『51.無視された大発見』で述べたような能格構造を持っている。私の見た新聞ではこの名前がローマ字でしか発表されていなかったので、こちらで勝手にロシア語綴りを想定してджохарとして検索したところ本当に説明が見つかった。

Джохар (араб. جوهر‎ чеч. ДжовхIар):мужское имя персидско-арабского происхождения, часто встречаемое в Чечне, изредка в Дагестане, Азербайджане и Иране.

「「ジョハル」(アラビア語جوهر、チェチェン語でДжовхIар「ジョフヒアル」):ペルシア語・アラビア語起源の男性の名前で、チェチェンに多く見られるが、ダゲスタン、アゼルバイジャン、イランにも時々ある。」
 
 さらにТ. А. Шумовский (T.A.シュモフスキー)という学者が次のように書いているそうだ。

«На бытовом уровне обращает на себя внимание персидское гавхар — „драгоценный камень“, которое, перейдя в арабское джавхар с тем же значением, создало помимо нарицательных на русской и английской почве собственные имена: индийское Джавахарлал, чеченское Джохар, армянское Гоар»

「ペルシャ語の単語гавхар「ガヴハル」がよく使われているのが注目される。これは「宝石」という意味で、アラビア語にも「ジャヴハル」として借用され同義に使われているが、普通名詞以外でもロシア語や英語圏で固有名詞のもとになった:ヒンディー語の名前「ジャヴァハルラル」、チェチェン語「ジョハル」、アルメニア語「ゴアル」など。」

この「英語圏」английской почвеというのは「印欧語圏」の間違いではないのか?また文脈から判断すると「ロシア」にはチェチェン語やダゲスタン語域などロシア語をリングア・フランカとして話す地域も勘定されているようだ。
 
 しかしそれより気になったのはその上の説明で「ペルシア語・アラビア語起源」とあって、ペルシャ語とアラビア語がハイフンでつながっていることだ。これらの言語は全然語族が違うからこの二つをくっつけるのは無理があるのではないか。この語はペルシャ語かアラビア語のどちらかが他方から借用したはずだ。シュモフスキーはペルシャ語が元、と言っているがそれはどうやってわかるのか?アラビア語と似た形の語形ならそこここの言語に見られる:

1.ルーマニア語の「宝石」giuvaierはオスマン時代のトルコ語cevher(「宝石・本質」)から借用されたもの。トルコ人のCevahirという名前(男女共)もこれと同源だそうだ(対応するアラビア語のJawahirとは女性の名前)。「宝石」はアラビア語でجَوْهَر ‎(jawhar)である。
 さらにトルコ語には「宝石・鉱石」という意味のmücevherという言葉がある。ここで接頭辞がmü とウムラウト化しているのは母音調和のためだろう。トルコ語mücevherの元のアラビア語の言葉مُجَوهَر (mujawhar) は本来「宝石で飾られた(もの)」という意味だそうだ。
 私が馬鹿の一つ覚えで聞いているアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』の項参照)K-T-Bにも次のようなmuのついている例があった:

kitāb(書物);kātib(著者); maktūb (手紙);mukātaba(文書)

これで一つ覚えが一気に「馬鹿の四つ覚え」になった。すごい進歩である。

2.インドネシア語jauharもアラビア語からの借用。
3.スワヒリ語johariも見ての通りアラビア語から。
4.ヨーロッパのイスラム教国の言語、アルバニア語では「宝もの」をxhevahirと言うが、xh は dž と発音するから、これも露骨にアラビア語からの借用である。
5.スペイン語にも一目でアラビア語起源とわかるalhaja(「宝石」)という単語があった。インドネシア語のAlkitab(「聖書」「コーラン」)と同じく定冠詞つきの借用だ。ただしこれは「ジャヴハル」および「ジョハル」とは別の حاجه (ḥāǧah) という語からきていて、本来「必要な物」とか「欲望」とかいう意味だとのことだ。

 このようにあまりにもあちこちの言語でアラビア語の「宝石」が借用されているのを見て(スペイン語は別単語ではあるが)こりゃペルシャ語の方がイスラム教といっしょにアラビア語から取り入れたのではないか、という疑いがわいてきた。アルメニア語はそのペルシャ語を通したのではないだろうか。
 で、手始めに両言語の音韻組織を調べて見た。

(1)ペルシャ語
persisch

(2)アラビア語 I
Arabisch-Deutsch

(3)アラビア語 II
Arabisch_Englisch


すると「手始め」のつもりがこれで結論が出てしまった。疑いはほぼ解消。こりゃペルシャ語→アラビア語という方向しかありえない。
 まずここでの注目点は g と dž との対応だ。ペルシャ語がアラビア語から取り入れた、と仮定するとどうしてdžの音(国際音声字母だと [ʤ] )がペルシャ語で g ([g])になるのか説明がつかない。反対にペルシャ語からアラビア語に流れた、と仮定すると簡単に説明できてしまうのだ。

 アラビア語は [g] と [ʤ] を音韻的に区別しない。どちらの音も /dž/(英語の j にあたる)という音素なのである。つまりこれらはアロフォン(異音、絶対「異音素」と混同しないように)である。上の(2)を見て欲しい。 /g/ という独立した音素がない。アラビア語の ج という字は標準アラビア語では[ʤ] と発音するが、地域によってはこれを [g] と発音するところもあるし、そもそも日本語での l と r と同じく、どっちで発音しても構わないのだ。(3)のʒ~d͡ʒ~ɟ~ɡj~ɡ という部分を見るとわかるように [g] から [ʤ] まで様々な音が同じ音素の異音となっている。アラビア語では無声子音の [k] は独立音素だが、有声の [g] は音素ではないのである。
 例を挙げる。下のج という形はこの字を単独で書いた場合の形で語頭での字形は下の一番右にあるように >の下に点がついているような字だが、同じ字をエジプト方言ではg、標準アラビア語では j、つまり dž と発音することがわかるだろう。

「宝石・宝物」
標準アラビア語: جوهرة (jáwhara)
エジプト方言: جوهرة (gawhara)

「キャメル」(جمل、「駱駝」)という英語の元になったアラビア語の「駱駝」の最初の文字(右端)もこれだが、標準アラビア語というか中近東では「ジャメル」である。「カメル」あるいは「ガメル」というのはエジプト方言の発音で、イギリス人はここからとりいれたのだろう。
 
 なので、ペルシア語の g をアラビア語では جで写し取り、その字の標準アラビア語発音で dž と読んだ、そのアラビア語発音がさらに他の言語、特にイスラム教の民族の言語に伝わった、と考えると非常にすっきり説明ができる。アルメニア語はアラビア語を通さず直接ペルシャ語から取り入れたか、そもそもペルシャ語もアルメニア語も印欧語だから元の古い形がどっちにも残っていた、つまり同源だったためか、g の音が残ったのだろう。
 ルーマニア語もこれをdž で取り入れているが(上記参照)、これはアラビア語からの直接借用でなく、アラビア語からこの語を借用したトルコ語をさらに仲介している。ペルシア語→アラビア語→トルコ語→ルーマニア語という経路だ。ひょっとしたらトルコ語との間にさらにブルガリア語が介入しているのではないかとも思うが、とにかく長旅お疲れ様でした。バルカン半島は長い間トルコに支配されていたからこれはわかる。

 さてアラビア語に対してペルシャ語では g と dž はアロフォンでなく異音素である。上の(1)を参照してほしい。/g/ と /dž/ は両方独立した音素として表にのっているだろう。なので、もし「ジョハル」が原型であればそれを「ゴハル」なんかにしないでそのまま「ジョハル」という形で借用できたはずなのだ。だからこの「ゴハル」⇔「ジョハル」は、ペルシア語→アラビア語という借用方向しかありえない。

 ここまで一生懸命調べてからちょっと他の資料を覗いてみたら、「この語は現代ペルシャ語でgohar、中世ペルシャ語ではgwhl またはgōhr(「本質・宝石」、アラビア語はこの中世ペルシャ語からの借用)、そして古期ペルシャ語では*gauθraまたは*gavaθraだった」、とあっさり説明してあるではないか。文献学上ではとっくに証明済みだったわけだ。この古代ペルシャ語はgav- という語幹から派生したもので、もともと「育つ」とか「増える」という意味だそうだ。
 それにしてもせっかく自分で一生懸命検索したり考察したりした私の今までの苦労は完全に無駄な努力・余計なお世話だったのである。ちぇっ。
 
 気を取り直してさらにみてみると、ルーマニア語以外のバルカン諸言語にも「アラビア語の宝石」は広がっているらしい。次のような例が挙げてあった。

ギリシア語: τζοβαΐρι ‎(tzovaḯri、「宝石・宝物」)
セルボ・クロアチア語: džèvēr/џѐве̄р, dževáhir/џева́хир (「高価な宝石」)

「セルボ・クロアチア語」などという古い名称が使われているが、ここに挙がっているdžèvēr(ジェヴェール)、dževáhir (ジェヴァーヒル」)というのは今で言うボスニア語ではないだろうか。私の持っている相当詳しいクロアチア語・ドイツ語辞典にはこの語が出ていなかったし、ここの資料にも「regional な語」とあった。ギリシア語も「セルボ・クロアチア語」もトルコ語のcevahir を借用したらしい。
 さらに面白いことに、現代ペルシャ語は、もともと自分たちのほう、つまり中世ペルシャ語からアラビア語に輸出した語を後になってアラビア語からjauhar (または jawhar)として逆輸入している。ここではアラビア語→ペルシャ語の方向だから当然頭音が j になっていて、まさに上で音韻考察した通りの図式である。なお、そうやって里帰りした際意味の場も変化してしまい、現代ペルシャ語のjauhar が本来の「宝石」の意味で使われるのは「まれ」あるいは「古語的用法」だそうだ。jauharは普通は「本質」「インク」「酸」という意味に使われるとのこと。この3つの意味が同じ単語でいっしょになっているのが不思議だが、これじゃあまり「故郷に錦を飾った」という感じがしない。

追記:ひょっとして英語のjewel やjewelry もコレかとカン違いする人が出てきそうなので念のために書くと、これらはそれぞれ古フランス語のjouel とjueleryeが起源で、さらに遡ると俗ラテン語の*jocale ‎(「品のあるもの」)。しかしもっと遡ると最終的にはラテン語のiocusまたはjocusに行き着くそうだ。なんとこれは見ての通り「ジョーク」とか「娯楽」という意味。ウッソー!


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 いつだったか、インドの学校では九九を9×9=81までではなく、12×12=144まで暗記させられる、と聞いていたのをふと思い出して調べてみたら12×12ではなく20×20までだった。「じゅうに」と「にじゅう」を聞き違えたのかもしれない。
 言語によっては12で「2」を先にいうこともあるし、反対に20のとき「10」が前に来たりするからややこしい。また、11と12が別単語になっている言語もある、と言っても誰も驚かないだろう。英語がそうだからだ。英語ばかりでなくドイツ語などのゲルマン諸語全体がそういう体系になっている。ゲルマン諸語で1、2、3、10、11、12、13、 20、30はこんな具合だ。
Tabelle1-81
13からは「1の位の数+10」という語構造になっているが11と12だけ系統が違う。11(それぞれelf, elva, ainlif)の頭(e- あるいはain-)は明らかに「1」だが、お尻の -lf、 -iva、 lif はゲルマン祖語の *-lif- または *-lib- から来たもので「残り・余り」という意味だそうだ。印欧祖語では *-liku-。ドイツ語の動詞 bleiben(「残る」)もこの語源である。だから11、12はゲルマン諸語では「1あまり」「2あまり」と言っているわけだ。
 この、11、12を「○あまり」と表現する方法はゲルマン祖語がリトアニア語(というか「バルト祖語」か)から取り入れたらしい。本家リトアニア語では11から19までしっかりこの「○あまり構造」をしていて、20で初めて「10」を使い、日本語と同じく10の桁、「2」のほうを先に言う。
Tabelle2-81
ゲルマン語は現在の南スウェーデンあたりが発祥地だったそうだから、そこでバルト語派のリトアニア語と接触したのかもしれない。そういえば昔ドイツ騎士団領だった地域には東プロシア語という言語が話されていた。死滅してしまったこの言語をゲルマン諸語の一つ、ひどい場合にはドイツ語の一方言だと思い込んでいる人がいるが、東プロシア語はバルト語派である。
 印欧語ではないが、バルト海沿岸で話されているフィンランド語も11から19までは単純に「1と10」という風には表さない。
Tabelle3-81
11、12、13の-toistaという語尾はtoinenから来ていて、もともと「第二の」という意味。だからフィンランド語では例えば11は「二番目の10の1」だ。完全にイコールではないが、意味的にも用法的にもリトアニア語の「○余り」に近い。「20」のパターンもリトアニア語と同じである。
 
 ケルト諸語ではこの「○余り構造」をしておらず、11、12は13と同じくそれぞれ1、2、3と10を使って表し、一の位を先に言う。
Tabelle4-81
アイルランド語の10、a deichはdéag や dhéag と書き方が違うが単語そのものは同一である。後者では「10」が接尾辞と化した形で、これがブルトン語ではさらに弱まって -ek、-zek になっているが構造そのものは変わらない。それより面白いのは20で、「10」も「2」も出て来ず、一単語になっている。これはケルト祖語の *wikantī から来ており、相当語形変化をおこしているがブルトン語の ugentも同語源だそうだ。印欧祖語では *h1wih1kmt* あるいは h₁wih₁ḱm̥ti で、ラテン語の vīgintī もこの古形をそのまま引き継いだものである。「30」、tríocha と tregont も同一語源、ケルト祖語の *trī-kont-es から発展してきたもの。つまり20、30は11から19までより古い言語層になっているわけだ。これはラテン語もそうだったし、それを通して現在のロマンス諸語に引き継がれている。
Tabelle5-81
当然、といっていいのかどうか、サンスクリットやヒンディー語でも「20」は独立単語である。
Tabelle6-81
ヒンディー語の bīs はサンスクリットの viṃśati が変化したもの。下のロマニ語の biš についても辞書に viṃśati 起源と明記してある。もっともそのサンスクリットは数字の表し方がかなり自由で学習者泣かせだそうだが、学習者を泣かせる度合いはヒンディー語のほうが格段に上だろう。上の11、12、13、それぞれ gyārah、 bārah、tērah という言葉を見てもわかるように、ヒンディー語では11から99までの数詞が全部独立単語になっていて闇雲に覚えるしかないそうだ。もっとも13の -te- という頭は3の tīn と同語源だろうし、15は paṅdrah で、明らかに「5」(pāṅc)が入っているから100%盲目的でもないのだろうが、10の位がまったく別の形をしているからあまりエネルギー軽減にはならない。やはり泣くしかないだろう。
 同じインド・イラニアン語派であるロマニ語の、ロシアで話されている方言では20と30で本来の古い形のほかに日本語のように2と10、3と10を使う言い方ができる。
Tabelle7-81
ドイツのロマニ語方言では30をいうのに「20と10」という表し方がある。
Tabelle8-81
ハンガリー・オーストリアのブルゲンラント・ロマの方言では20と30を一単語で表すしかないようだが、11から19までをケルト語やサンスクリットと違って先に10と言ってから1の位を言って表す。これは他のロマニ語方言でもそうだ。
Tabelle9-81
手持ちの文法書には13がbišutrinとあったが、これは誤植だろう。勝手に直しておいた。他の方言にも見えるが、ロマニ語の30、trianda, trianta, trandaはギリシャ語からの借用だそうだ。
Tabelle10-81
古典ギリシア語では13からは11、12とは語が別構造になっているのが面白い。それあってか現代ギリシャ語では11と12では一の位を先に言うのに13からは10の位が先に来ている。20と30はケルト語と同じく独立単語で、20(eikosi または ikosi)は上で述べたブルトン語 ugent、ラテン語の viginti、サンスクリットの viṃśati と同じく印欧祖語の *(h₁)wídḱm̥ti、*wi(h₁)dḱm̥t または *h₁wi(h₁)ḱm̥tih₁ から発展してきた形である。

 あと、面白いのが前にも述べた(『18.バルカン言語連合』『40.バルカン言語連合再び』)バルカン半島の言語で、バルカン連語連合の中核ルーマニア語、アルバニア語では11から19までがone on ten, two on ten... nine on ten という構造になっている。
Tabelle11-81
11を表すルーマニア語の unsprezece、アルバニア語の njëmbëdhjetë、ブルガリア語の edinadesetはそれぞれun-spre-zece、 një-mbë-dhjetë、edi(n)-na-deset と分析でき、un、 një、edinは1、spre、 mbë、naは「~の上に」、zece 、dhjetë、desetが「10」で単語そのものは違うが造語のメカニズムが全く同じである。さらに実はブルガリア語ばかりでなくスラブ語派はバルカン外でも同じ仕組み。
Tabelle12-81
ロシア語 odin-na-dcat’、クロアチア語の jeda-na-est でもちょっと形が端折られていたりするが、one on ten という構造になっていることが見て取れるだろう。20、30は日本語と同じく「に+じゅう」「さん+じゅう」である。

 ここでやめようかとも思ったが、せっかくだからもうちょっと見てみると、11から19までで、1の位を先に言う言語が他にもかなりある。
Tabelle13-81
ヘブライ語は男性形のみにした。アラビア語の「11」の頭についているʾaḥada は一見「1」(wāḥid)と別単語のようだが、前者の語根أ ح د ‎('-ḥ-d) と後者の語根و ح د ‎(w-ḥ-d) は親戚でどちらもセム語祖語の*waḥad-  あるいはʔaḥad- から。ヘブライ語の אֶחָד ‎('ekhád) もここから来たそうだから意味はつながっている。アラビア語ではつまり11だけはちょっと古い形が残っているということだろうか。
 「11だけ形がちょっとイレギュラー」というのはインドネシア語もそうで、12からははっきり1と2に分析できるのに11だけ両形態素が融合している。
Tabelle14-81
この11、sebelas という形は se + belas に分解でき、se は古マレー語で「1」、インドネシア語のsatu と同義の形態素である。belas は11から19までの数詞で「10」を表す形態素。これもマレー語と共通だそうだ。つまりここでも古い形が残っているということだ。
 さらにコーカサスのジョージア語(グルジア語)も1の位を先に言う。
Tabelle15-81
-meṭi は more という意味の形態素だそうで、つまりジョージア語では11から19までを「1多い」「9多い」と表現していることになり、リトアニア語の「○余り構造」とそっくりだ。「13」の ca- はもちろん sami が音同化して生じた形である。また、ジョージア語も「20」という独立単語を持っていて、30は「20と10」である。

 シンタクス構造が日本語と似ているとよく話題になるトルコ語は11~19で日本語のように10の位を先に言う。その点はさすがだが、20と30は残念ながら(?)日本語と違って独立単語である。20(yirmi)も30(otuz)もテュルク祖語からの古い形を踏襲した形なのだそうだ。
Tabelle16-81
バスク語も10の位を先に言うようだ。能格言語という共通点があるのにジョージア語とは違っている。もっとも30は「20と10」で、これはジョージア語と同じである。
Tabelle17-81
こうして見ていくと「20」という独立単語を持っている言語は相当あるし、数詞という一つの体系のなかに新しく造語されて部分と古い形を引き継いだ部分が混在している。調べれば調べるほど面白くなってくる。今時こういう言い回しが若い人に通じるのかどうか不安だが、まさにスルメのように噛めば噛むほど味わいを増す感じ。数詞ネタでさかんに論文や本が書かれているのもわかる気がする。


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 小学校の頃、ある種のお面(般若のお面だったと思う)が怖くて怖くて目にするたびにパニック状態になってしまう少女が主人公になっている物語というか短編を読んだことがある。その少女をあるときそのボーイフレンドが軽い気持ちでからかって、いきなり「ばあ」という風に般若のお面をつけて彼女の前に現れた。少女はパニックのあまりボーイフレンドを殴り、叫び声をあげながら自分の家に走って逃げて部屋に駆け込み鍵をかけ、何時間も出てこなかったというストーリー展開だったと記憶している。私は子供心にもこのボーイフレンドとやらの無神経ぶりに義憤を感じざるを得なかった。
 この少女のように本当の恐怖症でなくとも怖くて怖くて仕方がないというものがある人は多いが、その恐怖の対象を軽々しく人にバラしたりしない。悪用されたりしたらエライことになるからだ。いつだったかこちらのTVの軽い番組で、邪魔だと思っている人が蛇に対して病的な恐怖症を抱いている事を偶然知ったライバルが、その人が泳いでいるプールに蛇を投げ込んでパニック状態にさせ溺れ死を狙うというストーリーがあった。
 そういう、下手をすると命に関わる弱みを打ち明けるというのはその人を信頼しているからこそである。それあるにその信頼を逆手にとってわざわざからかいのネタにするとは何事か。どうしてこの少女はそんなゲスなボーイフレンドと付き合っているのか、と私は憤慨したのである。
 
 確かにこのボーイフレンドのように恐怖症あるいは不安障害に悩んでいる者を実際に知っているのにそれを真剣に受け止めず、ましてやその弱みをつつくというのはゲスであろうが、個人的に不安障害のある知り合いがいない場合今ひとつ真面目に取れないというのは結構あるのではないだろうか。
 例えば私は最近 Anatidaephobia という言葉を知った。ドイツ語では Anatidenphobie、「アヒル恐怖症」あるいは「ガン・カモ恐怖症」である。アヒルやガチョウそのものに対する病的な恐怖でなく、アヒルやガチョウ、あるいはカモやガンに見られている、観察されているのではないかという恐怖、つまり間接的・潜在的な恐怖だそうだ。「アヒル恐怖症」というより「アヒルの視線恐怖症」と言った方がよさそうだ。発作が起こると周りのどこかにアヒルがいるのではないかと、気になって気になって何度も振り返ざるを得ず、心臓は早打ちしだし冷や汗は出て、日常生活に支障さえきたすそうだが、これを聞いた時私は「なんでそこで急にアヒルが出てくるのよ。そんなものがあるわけないでしょ」と大笑いしてしまった。今でもどうも本当の話とは思えない。いろいろな恐怖症リストなどを見てもこのアヒル恐怖症は乗っていないし、第一この言葉を最初に使ったのは心理学者ではなくGary Larson という漫画家で、The far side という作品の中に出て来るそうだ。ちょっとネットを見ても「本当に患者がいるのかよ?!」「いるわけないだろ」というやりとりが目立つ。そのうちフェイスブック内で anatidaephobia sufferers society というコミュを見つけたがそのトップ画像といい、書き込み内容といい、どうも本当に苦しんでいるようには思えない。「本当にこんな不安障害者がいるのか?」という疑問を拭いきれないのだが、もし真剣に苦しんでいる患者さんがいたらまことに申し訳ない。考えを改めるから連絡してきてほしい。

 さて、この anatiden あるいは anatidae というのは「カモの類」という意味の学術用語で、1811年にイギリスの昆虫学者 William Kirby の造語とのことである。学術用語だから(?)当然ラテン語だが、前半の anat-はラテン語の「カモ」でいいとして、後半の接尾辞 -idae は本来ギリシャ語の -ίδης (-ídēs) をラテン語風にしたものだ。「○の類」とか「○の一族」である。なお、ラテン語で「カモ」の単数主格は anas といって s で終わっているがそれ以外の格ではここが t になり、例えば単数属格はanatis、単数対格 anatem、複数では主格対格が同形で anatēs だから、「カモの類」もここから類推して anatidae と t 形を使っている。
 そのラテン語の anas は印欧祖語の *h₂énh₂ts または *h₂énh₂tis から派生したものだが、面白いことにこのアヒルあるいはカモという言葉は現在のロマンス語派でバラバラである。
 まず、イタリア語のアヒルは anatra と一目瞭然ラテン語の直系だが、フランス語では canard、スペイン語とポルトガル語では patoである。前者は cane という語幹に 性別を表すard という接尾辞がついたもので、語幹 cane は中世低地ドイツ語からの借用、「舟・ボート」という意味だそうだ。現在のドイツ語の Kahn(小船・はしけ)である。これは印欧祖語の *gan- あるいは *gand-(「舟」、「うつわ」あるいは「管状のもの」)に遡れるそうだ。スペイン語・ポルトガル語の pato はペルシャ語の bat がアラビア語を経由して借用されたもの。『20.カッコいいぞ、バンデラス!』にも書いたがスペイン語にはアラビア語起源の言葉がやたらと多い。
 しかしスペイン語、ポルトガル語には pato と平行してそれぞれ ánade、adem というアヒルを表す言葉が存在する。ラテン語からの派生である。面白いのはポルトガル語の adem で、明らかに単数対格形(上述)から来たもの。以前『17.言語の股裂き』で現在の西ロマンス諸語で複数主格形を作るのに付加される s は、一般に言われるように対格から来たのではなく古い形が残ったためではないか、と書いたがこれを見ると「おや、やっぱりあれらは対格起源なのかな」とも思う。専門家のご指摘を請いたい。

 もう一つの有力なロマンス語、ルーマニア語ではアヒルは rață である。似た形はバルカン半島に広まっていて、アルバニア語の rosë、クロアチア語の raca、ハンガリー語の réce、ロマニ語の ráca など、何か共通のサブストレータムをなしているのではないかということだが、この語の起源自体については正直に uncertain とあった。しかもこれにはちょっと注釈が必要で、例えばクロアチア語ではアヒルは普通 patka である。raca を使う地域は限定されているそうだ。さらにクロアチア語にはスラブ語本来、というより印欧語本来の utva(下記参照)という言葉もあり、カモの一種である「コガモ」を指す。ところがハンガリー語では逆に réce の方が「コガモ」で、アヒル・カモ一般は kasca だ。クロアチア語の正規の(?)アヒル、patkaはスラブ祖語では *pъtъka でロシア語の「鳥」птица と同源だそうだ。クロアチア語でも鳥は ptica。もちろん始祖鳥の学名アルケオプテルクス(この学名はラテン語でなくギリシャ語)のプテルクスと同語源である。
 さらにアルバニア語の rosë だが、このトスク方言(『39.専門家に脱帽』『100.アドリア海の向こう側』参照)の単語の古形を *roça と再現していた説明を見かけた、それによればこの語はアルバニア祖語では *(a)nātjā、そこからさらにラテン語同様印欧祖語の *h₂énh₂ts に遡れるということだ。トスク語がロータシズムを起こしてアルバニア祖語と n  対 r で対応しているあたり確かに理屈通りなのだが、そうすると他のルーマニア語だろなんだろもアヒルをこのアルバニア語、しかも新しいトスク方言から借用したことになる。なぜなら上記バルカン半島の他の印欧語のアヒルは *h₂énh₂ts とは直接結びつかないからだ。クロアチア語では音韻的に起源の証明された utva とダブっているし、そもそも言語間で形が似すぎているから、祖形からそれぞれ発展してきたものではありえない。さらに非印欧語のハンガリー語まで似た形が広まっているとあれば、借用語としか考えられないのである。
 しかし、アルバニア語というのはバルカン半島でそこまで勢力や影響力を持っていたことがない。むしろ他の言語からアルバニア語への借用のほうが圧倒的に多い。それともこの語はアルバニア祖語というかイリュリア語の時期にバルカン半島中に広まったのか。でもそうすると他の言語でロータシズムは起こしていないはずである。ということで rosë を *(a)nātjā に帰するのはちょっと無理があるような気がするのだが…
 現代ギリシア語のアヒルはさらに違っていてπάπια。オノマトペだそうだ。ロマニ語に上記の ráca のほかにアヒルを表す papin という単語があるが、これはギリシャ語からの借用であることが明白である。

 ゲルマン諸語ではロマンス諸語やバルカンの言語ほどアヒルがバラバラではなく(鳥肉業者かよ)、ドイツ語の Ente、オランダ語の eend、スウェーデン語の and などは皆ラテン語 anas と同起源で印欧祖語の *h₂énh₂ts または *h₂énh₂tis から。ゲルマン祖語では *anuðz または *anaþ となる。つまり英語だけが変な単語になっているわけだが、この duck は動詞の duck と同じ語源。つまり「潜る」と「ひょいと下げる」という意味から来たそうだ。ドイツ語にも ducken(「ひょいとかがめる」)という動詞があるし、「もぐる」の tauchen ともつながっているらしい。古期英語ではまだ他のゲルマン諸語といっしょでアヒルを *h₂énh₂ts 系の単語 ened で表していたが中期に語が入れ替わった。ついでに古高ドイツ語では ant、中高ドイツ語では anut だった。さらについでに言えばレオーネのマカロニウエスタン『夕陽のギャングたち』の英語タイトルは duck, you suckerだが、この duck はもちろんドナルドダックのダックではなく、動詞のほう、つまり「頭をかがめろ」である。原題は Giù la testa。
 ロシア語のアヒル утка も *h₂énh₂ts で、スラブ語祖語の *ǫty。スラブ祖語や古教会スラブ語の鼻母音 ǫ (ѫ)がロシア語の у (u) と対応することは前にも述べたが(『38.トム・プライスの死』『39.専門家に脱帽』)、ここでもきれいな対応になっている。

 アヒルから観察されるのは恐怖を感ずる人がいるかも知れないが、こうやってこちらの方からアヒルという語を観察していくのは面白く、それによってアヒルの視線への恐怖にも打ち勝てるのではないだろうか。攻撃は最大の防御である。


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 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

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