アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:アスペクト

前回の続きです。

 ロシア語では不完了体の中立動詞から接頭辞の付加によって様々な完了体アクチオンスアルト動詞が派生され、そのうちのいくつか、たいていは一つだけが元の動詞のアスペクトペアになる。ではそこでペア選考に落ちた他の完了体動詞はどうなるのか。全員不完了体のペアもなく孤独な人生を送るのかというとそうではない。今度は逆に完了体の動詞を起点にして不完了体動詞のペアを作ることができるからだ。これを「二次的不完了体動詞形成」sekund're Inperfektivierung というが、それには反復態形成の形態素 -ива-、-ыва- あるいは -ва- を使う。不完了体の動詞から反復態が作られるのは「アクチオンスアルト形成」だが、完了体のアクチオンスアルト動詞からこれらの形態素が派生するのは反復態ではなく「不完了体アスペクト」ということになる。つまり -ива-、-ыва-、-ва- には反復態形成と不完了体形成という二つの違った働きがあって、どちらの機能かは派生元の動詞で決まるわけだ。文章で説明するとややこしいので先に挙げた петь(「歌う」)とписать(「書く」)の例を表にしてみよう。
Tabelle1-195
アスペクトペアを同じ色に塗ってみた。петьпропетьспетьзапеватьзапетьпопеватьпопеть はそれぞれ前者が不完了体、後者が完了体のアスペクトペアである。次にこれも前述の писатьを見てみよう。
Tabelle2-195
上の петь(「歌う」)と違ってズバリな反復態、писывать という形が存在しない。これは限定態пописать の不完了体ペア пописывать が二重機能をに担っていて писать の反復態はこちらの形で表すからだ。もう一つ、прописать が本当に孤独な人生を送らされている。прописывать という形自体は存在するのだが、これは持続限界態動詞のペアとはならない。というのは прописывать には二つの意味があるからだ。一つがここで述べている持続限界態というアクチオンスアルト動詞で、表す事象そのものは писать と変わらない。もう一つは接頭辞によって動詞の意味自体が変わり「処方箋を出す」「居住証明を発行する」という別の完了体動詞になる。これはもうアクチオンスアルト表現ではなくて語の派生だ。不完了体 прописывать はこの派生動詞のペアであって、アクチオンアルト動詞のほうとはくっつかないからこちらは独身のままとなる。常に二次的不完了体動詞形成作戦が効くとは限らないらしい 。もう一つの例が прочитать(「読む」)という完了体動詞である。この動詞も多義で、一つは читать (「読む」)という不完了体動詞の真正結果態で、これはめでたく читать のアスペクトペアに選ばれている。もう一つは持続限界態で、このほうの прочитать からは 上の独身 прописать と違って二次的不完了体動詞形成ができ、прочитывать  という不完了体ペアが作られる。つまりここは читать → прочитать → прочитывать というホップ・ステップ・ジャンプ的な一つの3段階過程ではなく、 читать → прочитать、 прочитать → прочитывать というそれぞれ別個の2つの過程と解釈しなければいけない。この прочитать(「読む」)の二つの機能の方は少なくとも両方アクチオンスアルトだが(真正結果態と持続限界態)、 прописать ではアクチオンスアルトなのは一方だけだ(持続限界態)。不思議なのは прописать (「書く」)も прочитать(「読む」)も双方持続限界態なのに「読む」だけが二次的不完了体動詞形成を許すことだが、これはもしかすると「処方する」のほうの прописать が頻度的に持続限界態に比べて圧倒的に優性で、後者が隅に追いやられてしまった、つまり使われなくなってしまったからかもしれない。それで辞書には「持続限界態の不完了体ペア」は確かに載っていないが、прописывать を敢えて持続限界態の意味で例えば歴史的現在で使ったらロシア人はきちんとアクチオンスアルトとして理解するのかもしれない。つまり理論的には存在するのかもしれないと思ったので、上で「常に二次的不完了体動詞形成作戦が効くとは限らないらしい 」といい加減な書き方をさせてもらった(するな)。
 実はその二次的不完了体動詞形成にはまだ先がある。例えば крыть(「覆う」)という不完了体の動詞からоткрыть(「開ける」)という完了体動詞が派生される。意味を見ればわかるようにこれは別動詞の派生だ。当然(?)ここから二次的不完了体動詞形成によって不完了体のペア、открывать(「開ける」)が作られる。ここからさらに分配態  пооткрывать(「次々に(全部)開ける」)が形成される -ыва- が入っているので不完了体のように見えるが完了体である。さすがにここからさらにしつこく  пооткрывавать などという不完了体形成は不可能で、この分配態氏は独身のままとなる。
 この二次的不完了体形成によって作られたペアは接頭辞ペアと違って純粋なアスペクトペアとされる。しかしロシア語のアスペクトペア(『16.一寸の虫にも五分の魂』『95.シェーン、カムバック!』参照)には接頭辞によるもの(上で述べたようにこのペアにはアクチオンスアルトと言う不純物が混じっている)、二次的不完了体形成によるもの(純粋なペア)の他にもう一つ、全く違った動詞がペアを組む場合がある。говорить - сказать(「話す」)、брать - взять(「取る、掴む」)(それぞれ前者が不完了体)がその代表例だがこれらは純粋ペアなのだろう。イサチェンコが特に言及していないのはそんなこと当たり前だからかもしれない。

 このように一見ややこしくはあるのだがロシア語では少なくともアクチオンスアルトとアスペクトの区別は極めてクリアなのがわかる。イサチェンコは完了体・不完了体、アクチオンスアルト、二次的不完了体動詞形成の全体像を次のような図にまとめている。поиграть とあるのは покрыть の誤植だろう(赤線)。

Isačenko, A.V. 1995. Die russische sprache der Gegenwart.München, p.418から
isacenko
点線で囲った領域がアクチオンスアルト形成、実線がアスペクト(ペア)形成の領域だ。細い矢印は別単語の形成、太い矢印がアスペクトペア形成(二次的不完了体動詞形成)、矢印なしの細線がアクチオンスアルト形成過程である。

 さてここで一点注意を要するのが、ロシア語では英語やドイツ語、日本語のような「表現しようと思えばできる」というのでなく、アスペクトが強制的な文法カテゴリーであることだ。だからロシア語でいうアスペクトの意味とはアスペクトという文法カテゴリーの意味ということ。カテゴリーを持たない言語でアスペクトやアクチオンスアルトの観念を把握定義する場合、二つの区別があいまいになるのは仕方がない。考えようによればアスペクトの意味、「事象を外から見るか、内部方見るかの違い」も一つのアクチオンスアルトと言えないこともないからだ。それでもこの二つの違いに敏感でない言語ではやはりアクチオンスアルトの観念が語彙形成の領域にまで拡大適用されることがある。上で見たように同じ接頭辞でも動詞そのものの意味に食い込む場合と意味内容にはふれない場合があり、少なくともロシア語学でのアクチオンスアルトはあくまで後者のことなのだがこの二つの区別がゴッチャになるのだ。言い換えると動詞の表す事象そのものの中にすでにアクチオンスアルトを見ることになる。前項の最初に出したような「語彙的アスペクト」というアクチオンスアルトの別名(繰り返すが私はこういう言い方を最近まで知らなかった)があるのもうなずける。これも前記事の筆頭に挙げた言語学事典に挙げてある例を見てみるとはっきりする。例えば entbrennen(「燃え上る」)を起動態としてあるのはロシア語と平衡している。brennen(「燃える」)というシンプレックスがあるし、接頭辞によってアクチオンスアルトが付加されているからだ。しかし同時に füllen(「満たす」)、arbeiten(「働く」)という単純形の動詞がそれぞれ faktiv、durativ というアクチオンスアルトとされている。ロシア語学にこの発想はあるまい。さらに「ドイツ語には確かに動詞を二つのカテゴリー、不完了体-完了体、あるいは継続/反復-終了/完成のきっちり区分けする仕組みはないが、haben や sein のと動詞の分詞との組み合わせによって表せる」とあり、アスペクトとアクチオンスアルトが区別されていないことが明かだ。さらにその際 stehen(「立つ」)が前者、そこから派生した動詞の entstehen(「起る、発生する」)が後者とされているが、entstehen は語の意味自体が変わっているのでアクチオンスアルトとは言えない。語彙、アスペクト、アクチオンスアルトの区別があいまいになっていて、これではイサチェンコに怒鳴りつけられそうだ。
 寺村秀夫氏もこの3つの区別があいまいになっていたことがある。『日本語のシンタクスと意味』の中で佐藤純一氏を引用して「接頭辞や接尾辞により派生的にアスペクト的意味を表す場合」の例として英語の recall、ドイツ語の erfinden(「発明する」)、日本語のブッ倒すを挙げていたのだ。英語、ドイツ語はアスペクトでもアクチオンスアルトでもなく、それぞれ call や finden(「見つける」)とは意味の異なる別動詞の派生である。日本語のブッ倒すについては下でまた述べるが、アスペクトではなく「倒す」からのアクチオンスアルト形成だ。引用元の佐藤純一氏の論文を読んでいないので、ロシア語学者である佐藤氏が元の論文ではもっと詳細にアスペクトの観念を定義し、件の例はあくまで注意書きつきで出したのを寺村氏が端折ったか(こちらの可能性が高いと思う。なぜなら佐藤氏は「アスペクト意味」という微妙な言葉を使い、ずばりアスペクトとは言っていないからである)、それとも佐藤氏が本当に、語形成、アスペクト、テンス、アクチオンスアルトを明確に区別していなかったのかわからないが、とにかくこの場では混同されている。
 その「ブッ倒す」だが、この種の派生は特に日常会話的表現で多くみられる。佐藤氏・寺村氏は「ヒッパタク」という例も挙げていたが、ちょっと思いついただけで次のようなものがある。

「飛ばす」→「ぶっ飛ばす」「すっ飛ばす」「かっ飛ばす」
「殴る」→「ぶん殴る」
「回す」→「ぶん回す」
「キレる」→「ブチ切れる」
「飛ぶ」→「ぶっ飛ぶ」「すっ飛ぶ」

これらのアクチオンスアルトを名付けるとしたら intensive A.、「強化態」だろう。「強調態」と言ったほうがいいかもしれないが、当該事象の程度あるいは事象に対する話者の心理的圧迫度が強まっている。これは小さなことだが「ぶっ飛ばす」/「すっ飛ばす」対「かっ飛ばす」の間には目的語の意味の違いがあるようだ。前者は飛ばされる対象物、例えば野球のボールなどが目的語に来るが、後者は何者かを飛ばす行為によって得られた結果が目的語となる。私の感覚では「ホームランをかっ飛ばす」「走者一掃のヒットをかっ飛ばす」とはいえるが「球をかっ飛ばす」というと少しおかしい。逆に「ボールをぶっ飛ばす」「手が滑ってバットをすっ飛ばした」とはいえるがホームランはすっ飛ばせない。そういう小さな違いはあるがまあアクチオンスアルトはいっしょに「強調態」でいいのではないだろうか。
 起動態は日本語では動詞の連用形に助動詞の「~だす」や「~始める」とつけて表現する。「読みだす」「読みはじめる」または「話しだす」「話しはじめる」などだ。この起動態はロシア語でもドイツ語でも比較的クリアに定義できるようだ。いわゆる瞬間動詞からも起動態は作れる。例えば「死に出す」「死に始める」は多くの個体が次々に死んでいき始めたという意味で可能だ。
 起動と違って終了するほうはいろいろニュアンスの違いがあって亜種がいくつもある。ロシア語でも終了を表す結果態には様々な亜種があることは前項で見たとおりだ。日本語では連用形に「~おわる」をつけた形、「読み終わる」や「食べ終わる」は終了態(terminative A.)だろうが、「終了」という基本の意味は変わらなくても「読みとおす」「話しとおす」などは持続限界態(perdurative A.)ということになろう。「読みきる」「食べきる」に対しては前項に出さなかったがイサチェンコが総体態(totale A.)というアクチオンスアルトを掲げている。事象または行為が 対象を全て網羅したので結果としてそこで事象が終了するものだ。
 さらに連用形+「~すぎる」は超過態とでも言ったらいいのだろうか。これはロシア語では слишком(too much)などの副詞で表すしかないが、日本語では動詞そのもののアクチオンスアルトとして表現できる。もっと面白いのが連用形+「~てみる」だろう。

「ちょっとその映画を見てみたが面白くなかった」
「この本、クソ面白いから読んでみて」
「あそこには一度行ってみたことがあるけど何もなくてつまんなかった」

これらの形は「ちょっと」という副詞と相性がいいので私は最初アクチオンスアルトは限定態(delimitative A.)か減少態(attenuative A.)かと思い、早とちって人にもそう説明してしまった。現象態というのはやはり前項には出さなかったがイサチェンコの提唱で、限定態が時間的に限られているのに対して当該事象や行為の程度そのものが弱まる、ロシア語では限定態と同じく по- という接頭辞をつけて表すことが多い。しかしよく考えるとこの日本語形は単に程度が弱まり時間的に限られるのではない、その行為・事象の対象あるいは結果に対する話者が判断というニュアンスが入る。だから限定態・減少態とは別のアクチオンスアルトを特にこれ用にデッチあげたほうがいいような気がする。「判断態」あるいは「保留態」とでもいおうか。
 このように日本語は助動詞によるアクチオンスアルト形成が結構体系的だ。接頭辞の場合のように一つの形態素がいろいろなアクチオンスアルトを代表すると同時に同じアクチオンスアルトが複数の接頭辞で表されるとかいうことがない、言い換えるとアクチオンスアルト対表現手段の対応が多対対でなくほぼ一対一対応をなしている。接頭辞のほうも形と機能がそれほどバラけているわけではない。これらを体系的にまとめてみると面白い研究になると思う。それともすでに誰かがやっているのだろうか?日本語はアスペクトとアクチオンスアルトの違いがあいまいなのが残念だがアクチオンスアルトそのものの表現法はロシア語よりむしろ整然としているのではないだろうか。
 面白いところではコーカサスのナフ・ダゲスタン語群の一つレズギ語に -ar-un という接尾辞を動詞につけて反復態を形成する例があるそうだ。qun(「飲む」)、raχun(「話す」)からそれぞれ qun-ar-un(「何回も飲む、たくさん飲む」)、 raχun-ar-un(「何回も話す、たくさん話す」)という動詞ができる。反復態と強化態を兼ねたようなアクチオンスアルトか。他のアクチオンスアルトの例もあるが、日本語やロシア語のような体系的な動詞パラダイムにはなっていないらしい。でも言語ユニバーサルに面白い研究課題ではあると思う。

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 ロシア語のアスペクトペア(『16.一寸の虫にも五分の魂』『95.シェーン、カムバック!』参照)には完了体動詞のほうに純粋なアスペクトの意味だけでなく、動作様態の意味合いが加わることがある。動作様態はアクチオンスアルトとドイツ語からの借用語がそのまま使われることがあるが、語彙的アスペクト Lexical aspect とも呼ばれていることを(やっと)先日知った。手元の言語学事典には英語で manner of action だと出ている。ロシア語ではアクチオンスアルトとアスペクトは明確に区別するが、他の言語ではどうもこの二つの観念がごっちゃにされやすいようだ。ロシア語ではそれぞれспособ дейсгвия、вид глагола である。
 ではそのアクチオンスアルトとは何なのかというと、これも人によって定義がバラバラで困るのだが、まあ(なんだよその「まあ」というのは?)わかりやすく言うと当該事象をどういうものとして動詞化するか、そのやり方をいくつかのグループにカテゴリー化したものだ。全然わかりやすくないが、例えばドイツ語の entflammen(「燃え上がる」)、einschlafen(「寝入る」)、losrennen(「走り出す」)という動詞を見てほしい。これらはそれぞれ flammen(「燃える」)、schlafen(「眠る」)、rennen(「走る」)という事象が開始されたことを表している。この「開始」という意味的部分がアクチオンスアルトである。接頭辞がつかない動詞でもアクチオンスアルトを表すことがある。例えば sterben(「死ぬ」)は「瞬間的」というアクチオンスアルトだ。
 他にどのようなアクチオンスアルトがあるかというと、これもまた学者によって違いがあり、例えばロシア語学ではイサチェンコという学者もロシア語アカデミー文法でも20以上のアクチオンスアルトを区別し、それらのアクチオンスアルトがさらにいくつかのグループに分類されたり逆にグループにまとめられたりしている。命名の仕方にもグループ分けにも両者には細かな差があって律儀に全部検討していくとキリがないので、まあ代表的なものだけ見てみよう。

 まず上で述べた起動態(ingressive または inchoative Aktionsart 、ロシア語では начинательный способ дейсгвия)には次のような例があるが、1.異なった接頭辞が起動相を形成できること、2.起動相を帯びた動詞は完了体動詞、帯びない動詞のほうは不完了体であることに注目。
Tabelle1-194

 次に限定態(delimitative A.、ограничительный с.д.)。当該事象が限られた範囲内で遂行される、あるいは起こることを表す。「ちょっとだけよ」のイメージだ。
Tabelle2-194
限定態の「ちょっと」は時間的な「ちょっと」だが、事象や行為そのものが弱まる、つまり「ちょっと」になるのが弱化態(attenuative A.、смягчительный с. д.)である。イサチェンコはもとの動詞がすでに完了体である場合のみ弱化態と呼んでいるが、アカデミー文法ではイサチェンコが限定態に分類している動詞をこちらの弱化態に入れている。当然派生元は不完了体動詞だ(表の下部分)。学者によって揺れがあるいい例である。
Tabelle3-194

 続いて終了態(terminative A.、терминативный с. д.)は、事象の終了を表す。
Tabelle4-194

 持続限界態(perdurative A.、длительно-ограничительный с. д.)。特定の長さの時間持続した事象の終了を示す。そろそろアクチオンスアルトつきの動詞の意味が微妙すぎて翻訳がキツくなって来た。
Tabelle5-194

 有限態(finitive A.、финитивный または окончательный с.  д.)。行為が最後まで遂行されて打ち切られる。
Tabelle6-194
終了、持続限界、有限態など(「など」と書いたのは上述のように本来さらに数多くのアクチオンスアルトがあるからだ)がイサチェンコでは結果態(resultative A.)というアクチオンスアルトの亜種としてまとめられている。確かにこれらは皆事象あるいは行動が終わるという意味だからだ。違うのは終わり方、あるいは当該事象が終わるまでどんな経過をとったかという点だ。イサチェンコはそこで「真正結果態」として次のような例を挙げている。さすがに意味の差が微妙過ぎて双方の動詞を同じ訳にするしかないが、ということは両動詞の意味差がアスペクトの差に近いということである(下記参照)。
Tabelle7-194

 分配態(distributive A.、распределительный または дистрибутивный с. д.)。一つ一つの行為または事象が積み重なって最終的に特定量に達することを示す。またこの分配態はすでに接頭辞のついている動詞から形成される、つまり接頭辞がダブルになることがある(下の表の最後の例)。
Tabelle8-194
このアクチオンスアルトの動詞はセンテンス内で最終量(下線)が明示されるのが普通だ。動詞を並べただけではわかりにくいので使用例を挙げる。

Он позапирал все двери.
he + shut + all + doors
彼は次々の全てのドアを閉めた。

Она перебила всю посуду.
she + broke + all + crocketies
彼女は全ての食器を次々に割った。

Все сыновья переженились
all + sons + married
息子は皆次々に結婚した。


 さて、今まで見てきたのは接頭辞によるアクチオンスアルト形成だが、動詞のど真ん中に形態素をぶち込んで表すアクチオンスアルトもある。まず単発態(semelfaktive A.、одноактный с. д.)だが、事象や行為が一回だけスポンと起ることを示している。単発態の動詞は極めて例が多く、「瞬間動詞」Momentanverb と呼ばれることがあるがこの名称はちょっと誤解を招きやすい。例えば「死ぬ」は瞬間的に一回起る事象なのだから瞬間動詞かと思いそうになるが、ロシア語で言う瞬間動詞とはあくまで「単発態が特定の形態素によって明確にマークされている動詞」のことであって、意味を同じくする単発態を帯びない動詞、ニュートラルな動詞が同時に存在している。そしてここでもニュートラルな動詞は不完了体、単発態は完了体だ。
Tabelle9-194
最後の例では接頭辞使われている。
 残る大物アクチオンスアルトは反復態(iterative A.、многократный  с. д.)だ。このアクチオンスアルトも上の結果態のようにいくつかのサブカテゴリーに分類されることがある。比較的純粋な反復態動詞には次のような例があげられるが、ニュートラルなほうの動詞も反復態のほうも共に不完了体であることが特徴だ。
Tabelle10-194
反復態にはいろいろ亜種があるが、二つばかりみてみよう。まず弱化反復態(deminutiv-iterative A.、прерывисто-смягчительный с. д.)は事象または行為の反復が不規則で、その結果行為の程度そのものも弱まる。反復態と上述の弱化態が統合された感じで、形の点でも接頭辞とぶち込み形態素が両方同時に付加される。
Tabelle11-194

付随態(komitative A.、сопроводительный с. д.)。当該事象あるいは行為が他の行為や事象に付随して起ることを示す。
tabelle12-194
この付随態も上に分配態のように動詞だけではイメージが掴みにくい。例えば「その際話す」は次のような使用例がある。

Старик вил его и приговоривал.
old man +  hit + him + „and spoke“
老人は彼を殴りながら話をした


 最初に警告(?)した通り、これでアクチオンスアルトを全て網羅したわけではない。まだいろいろ種類があるが、すでにゲップが出そうなのでここら辺で羅列は止める。とにかくこういう微妙なニュアンスの差を一つの単語(動詞)で表せるロシア語動詞体系に驚く。しかし本題は実はこれからなのだ。アクチオンスアルトとアスペクトの関係という、学習者は絶対避けて通れないロシア語という言語の核心ポイントである。私がこのアスペクトをロシア語文法最大のセールスポイントを見なしていることは『107.二つのコピュラ』で書いたとおりだ。
 まず注意すべきは中立動詞が不完了体、そこから派生されたアクチオンスアルト動詞が完了体であるからといってこの二つをアスペクトのペアと混同してはいけないという点だ。種々の接頭辞を付加することによって一つの中立動詞から複数のアクチオンスアルト動詞が派生できるからだ。もっとも一つの動詞から上記で述べたアクチオンスアルトが全てもれなく派生できるわけではない。動詞が表している事象の性質上、理論的に付加できないアクチオンスアルトだってある。まず петь(「歌う」)という動詞の場合を見てみよう。

петь(不完了体)
запеть(完了体、起動態)
попеть(完了体、限定態)
пропеть(完了体、終了態)
спеть(完了体、単発態)
певать(不完了体、反復態)

反復態は不完了体だから当然ペアにはなれないのでひとまず置いておくが、接頭辞によって異なったアクチオンスアルト動詞が派生されるのがわかる。このうちの限られたアクチオンスアルトだけが(たいていは一つだけ。下記参照)『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べたアスペクトペア抽出作業によって петь のペアと見なされるのである。その完了体ペアを黄色で囲っておいたが、петь のペアは二人(二つ)、пропеть と спеть がある。配偶者が複数いる(ある)のは文の成分などの環境の違いによって二つのアクチオンスアルトが抽出テストを通るからだ。しかしこれはむしろ例外で配偶者は1人だけのことが多い。
 もう一つ писать(「書く」)という動詞の例。

писать(不完了体)
написать(完了体、真正結果態)
прописать(完了体、持続限界態)
дописать(完了体、完成態)
исписать(完了体、集積態)
пописать(完了体、限定態)

完成態と集積態というのは上では挙げなかったが、結果態の亜種である。ここでは配偶者は真正結果態一人だ。
 接頭辞によるアスペクトペア形成は非常にありふれたパターンで学習者は писать-написать(「書く」)、читать-прочитать(「読む」)、идти-поидти(「行く」)、делать-сделать(「する」)などのペアをお経のように丸暗記させられるが、厳密にいえばこれらは純粋なアスペクトのペアではないということになる。完了体動詞のほうが必ず何かしらのアクチオンスアルトを帯びていて、両者の意味差がアスペクトだけではない、言い換えるとアクチオンスアルトという「不純物」が混じっているからだ。純粋なアスペクトの違いとは話者の視点が当該事象の中にあるか外にあるかというだけの違いで(『178.日本語のアスペクト表現 その2』参照)、それ以上の意味が加わってはいけない。ここで参照したイサチェンコもアカデミー文法でも接頭辞によるアスペクトペアは本物のペアではないと明言している。そういえば同じスラブ語でも言語が違うと別の接頭辞を持った完了体動詞がペアになることがある、つまり結構揺れが大きいのもその「不純物」のせいだろう。


この項続きます


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前回の続きです)

 完了体アスペクトにはこの「新しい状況の出現」の他に temporal definiteness「時間的に(あるいは時間軸に)固定されている」(『95.シェーン、カムバック!』参照)という要素がある。Dickey という学者が強調していたそうだが、ちょっとDickey を離れてこちらで勝手にこの「時間軸に固定」という観念をいじってみよう。私はこれは R(eference time) の位置がはっきりしているという意味に解釈できると思う。前の例を繰り返すが、

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

では、単純過去で Reference time が括弧に入っている。つまり明示されていない、いろいろな解釈を許すということで、要は「特に固定されていない」、言い換えると definite の反対で temporally indefinite なのではないだろうか。ロシア語不完了体と同じだ。「~ている」の方はReference time がはっきりしていて、ロシア語完了体に対応する。
 これも前に名前を出したイサチェンコはロシア語の完了体・不完了体の差を次のように説明している:不完了体動詞では話者の視点が当該事象のただ中にあるから、始まりも見えなければ終わりも見えない。それに対して完了体動詞では話者は当該事象を外からみているから始まりも終わりも、そしてその事象が今どういう過程にあるのかもよく見える。イサチェンコはさらにこれを何かのパレードに譬えて、不完了体はパレードに参加して行進している人の視点だが(だから全体が見えない)、完了体ではパレードを観客席から観察しているようなもので、全体が見渡せる。行進の始まりも終わりも見えるし、次の行進、前の行進も見える、と描写している。それを図示してくれているのでさらにわかりやすいが、ちょっとそのイサチェンコの図示をさらにこちらで解釈してみよう。

イサチェンコの図
Isachenko
事象の外に出ている視点というのを R と解釈して時間軸の上に置いてみるとこうなる。どうも稚拙な図ですみません。
perfekt-iperfekt
不完了体ではRが事象の内部にあるから、その脇を通る時間軸と結びつきようがなく、軸に固定できない。これが temporally indefinite である。完了体は R を錨にして当該事象が軸に結わえ付けられるからtemporally definiteとなる。つまりライヘンバッハ、ディッキー、イサチェンコは実は同じことを互いに独立に主張しているのではないだろうか。

 この完了体アスペクトはある意味わかりやすく、ロシア語、日本語、英語間で(ドイツ語では先にも述べたようにアスペクトの観念がないがしろにされているからボツ)共通する部分が多いが、現在進行体アスペクトが問題だ。日本語では普通は継続動詞に「~ている」をつけて作る。完了体形成と同じ助動詞なのでややこしい。

田中さんは今本を読んでいる。

わかりやすい Mr. Tanaka is reading a book now である。ロシア語ではこういう場合、不完了体動詞を使う。

Он сейчас читает книгу.
he + now + read-不完了体・現在 + book
今彼は本を読んでいる。

しかしよく見てみると瞬間動詞も現在進行体アスペクトになりうることがわかる。寺村氏も似たような例を挙げているが、同じ行為が繰り返される場合である。

毎日何万人もの人が戦争で死んでいる。

複数の主語が次々に死んでいく場合で、一人一人は死ぬのが一回きりで「完了」したとしても「死ぬ」という事象自体は繰り返される。ロシア語でもこういう場合「死ぬ」の不完了体バージョン умирать を使う。

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.
in + world + every +  day + dies.不完了体 + about + 150000 + man
世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。

ここで動詞が умирает と単数三人称 になっているのは、名詞に5以上の数詞がかかると動詞が中性単数になるというロシア語の決まりのためである。事実上は主語は複数だ。この умирать は「ただいま死亡中」という意味にはならない。日本語の「田中さんは死んでいる」も「田中さんは故人」という解釈しかできない。そこを何とかと言われればいろいろ補助をくっつけて「田中さんは今死んでいっている」など無理やり現在進行体アスペクトに出来ないことはないが、ちょっと無理がある表現ではないだろうか。

 ここまでで結論すれば日本語の「~ている」はロシア語の完了体と不完了体どちらの意味も表現することができる、いわば一粒で二度おいしい(古い昭和ギャグを出すな)機能を持っているように見えるがちょっと考えてみよう。次の文だがロシア語だったらどちらも不完了体動詞の管轄で下手をすると同じセンテンスになってしまう。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。

 Он изучает русский язык по воскресеньям.
he + learns/ is learning + Russian + language + during + Sundays
彼は日曜日にロシア語を勉強します/しています。

さらに既出の文

В мире каждый день умирает приблизительно 150 000 человек.

も、日本語では実は二通りに訳せる。

世界で毎日およそ十万五千人の人が死んでいる。(上記)
世界で毎日およそ十万五千人の人が死ぬ。

もちろんロシア語でもやろうと思えば文のシンタクス構造を変えたり別の単語を使ってこの違いを表わすことはできるが日本語のようにストレートにはいかない。そもそもこの違いはどこにあるのか?前者は繰り返し、後者は一般的な事実、というか習慣だ。では「繰り返し」と「習慣」の違いは何か?私は前者が時間軸に結びついている、temporally definite であるのに対し、後者は時間軸上に接点がない、temporally indefinite なのだと解釈している。

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています。→ E = R = S
田中さんは日曜日にロシア語を勉強します。→ E = S

前者は明らかに具体性が高い。会話が行われている現時点で田中さんが実際にロシア語の学習を繰り返している、つまり definiteness をはっきりと感じる。後者にはそれがない。むしろ田中さんという人の人物描写で、汎時間的とでも言おうか。言い換えると日本語の「田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています」や英語の Mr. Tanaka is reading a book とロシア語のそれぞれ Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям あるいは Господин Танака читает книгу はアスペクト的にイコールではない

田中さんは日曜日にロシア語を勉強しています → E = R = S
Господин Танака изучает русский язык по воскресеньям  → E = S

Mr. Tanaka is reading a book  → E = R = S
Господин Танака читает книгу → E = S

ロシア語は E = R = S を表わすことができないのだ。だから不完了体 E (= R) = Sで暗に示すしかない。しかしこれはあくまで代用である。では不完了体がダメなら完了体の現在形を使えばいいのではと思うとこれが無理。なぜなら完了体には現在形が存在しないからである。たとえば不完了体の現在形

Он читает кнгу.

完了体

Он прочитает книгу.

では動詞の変化形パラダイムが同じなので(下線部参照)完了体も現在形のような気がするが、実はこれは未来形で「彼は読むだろう、今から読む」だ。つまり下のようなパラダイムになる(三人称単数のみ表示)。
Tabelle-elsas183
現在形がないから R が時間軸に結びついた「~ている」をストレートに表わせない。RがEに先行するか後続するなら大丈夫だが、E = Rだけはできないのだ。

過去
Он прочитал книгу.  E <  R = S
彼は本を読んだ/その本を読んでいる。

未来
Он прочитает книгу. (上述)E > R = S
彼は本を読むところだ。読もうとしている。

私はこのことにまさにこのブログ記事を書いていて気付いたのだが自分でも驚いた。

 逆にロシア語ではストレートに表わせるが日本語ではいろいろ芸を施さないと表わせないアスペクトニュアンスというのもある。前回の記事で日本語の「た」には単純過去と完了体アスペクトの両方の機能があると書いたが、「両方できる」ということはつまり形の上ではキッチリ分けられていないということだ。現日本語の「た」は古い日本語ではそれぞれアスペクトの違いを表わしていた複数の助詞「たり」「つ」「ぬ」「り」などが消滅してその機能を一身に請け負わされる羽目に陥ったわけだから、もともとの助詞がそれぞれ持っていたアスペクトの意味がおんぶお化けというか背後霊のように付着しているのはある意味当然と言える。
 ロシア語では過去に起こった繰り返し事象を完了体でも不完了体でも表わせるが、両者間には明確にニュアンス、つまりアスペクトの違いがある。日本語ではこれらの差が非常にあいまい、というより表わすことができない。

Ученик написал трудное слово несколько раз, чтобы запомнить его.
pupil + wrote-完了体 + difficult + word + several + times, + so that + to remember + it
覚えるために生徒は難しい単語を何回も書いた

Я несколько раз писал ему, чтобы он прислал фотографию своих детей.
I + several + times + wrote-不完了体 + to him, + so that + he + send + picture + of his + children
私はお子さんたちの写真を送ってくれるよう彼に何回か手紙を書いた

前者が完了体、後者が不完了体で、ロシア人は明確にこれらの文脈で完了・不完了を使い分けるが、日本語ではどちらも「書いた」である。前者は完了体なのだからといって「~ている」を入れて「生徒は…書いている」とすると不自然な文になってしまう。同じ繰り返しでも前者はその繰り返しの総体があるまとまりを持った一つの事象だ。「単語を覚えた」という新しい事態も出現している。対して後者は相手が写真を送ってくれたかどうかは問わず、とにかくこちらが何回か手紙を出したという繰り返しの事実を描写しているに過ぎない。前者で不完了体を使い、後者を完了体にするとロシア人は違和感を感ずるのだ。この繊細なアスペクト感覚には日本人もドイツ人も対抗できまい。さらにこういう例もある。

Он перечитал письмо несколько раз.
he + read through完了体 + letter + several + times
彼は手紙を何回も読み通した

Я перечитывал роман «Война и мир».
I + read through不完了体 + novel + „War and Peace“
私は小説「戦争と平和」を何回か読み通した

ここでも前者は繰り返しの総体が一つの事象というニュアンスだ。事象は一応終了して話者は手紙の内容が飲み込めた。後者はタイムスパンには触れられていない。今後もまた「戦争と平和」を読むかもしれない。とにかくなぜここでは完了体または不完了体になっているのかを後から説明して貰えればまあわからないこともないが、ロシア語作文などでこちらが自分でこの違いを表現し分けろと言われたら非母語者にはお手上げだ。

 お手上げだから撤退して日本語の「~ている」に戻るが、これの機能はロシア語のようにアスペクトを表わすというよりアスペクトを「強調すること」にあるのではないだろうか。それについてまた寺村氏が鋭い指摘をしている。

葛西善蔵は芥川自殺の翌年、昭和3年7月に死んでいる

という文の「~ている」は「この金魚は死んでいる」という単純な現状説明ではなく、過去の事実を今改めて確認し、現在の文脈の中でその意義を問う「回想的用法」であるとしている。EとRとの間に距離感がある。この距離感は「~ている」の持つ「アスペクト強調機能」からの派生ではないだろうか。

 前項の最初で述べた日本語のアスペクトというテーマのそもそもの出だしに戻るが、私の今までしていた大雑把な説明、「~ている」は完了体と現在進行体という正反対のアスペクトを表わす、つまり同じ形式が正反対の意味を持つという説明の仕方を実は著書の中で寺村氏に叱られたので反省のあまりこんな記事を2回にもわたって書いてしまったのであった:寺村氏はある形式にこのようにいろいろな意味があるとただ列挙するだけでは文法的な説明とはいえない、問題は多義にわたる用法、異なる意味をどう統一的に説明するかということだと言っている。いやしくも同じ形で表わされているのだから共通する意味の核があるはずだ、それを見つけないでただこの形式にはあれこれの意味がありますとゴチャゴチャ並べて終わりにするのは素人だということだ。そう言われてガーンと来たので、必死にここで私なりに考えてみて出た結論は、「~ている」には Reference time を可視化し、さらにそれを強調する機能があるということである。進行体だの完了体だのはそこから派生されて来た二次的な機能だ。
 アスペクトの強調という機能は「~てしまう」という助動詞も持っているが、こちらの方が強調の度合いが強い。さらに「~ている」と違って「~てしまう」は単にRの存在を可視化するのではなくて、さらにS < R を強調する。だから「不可逆性」「取り返しがつかない」「完全に一件落着」などのニュアンスが生ずるのではないだろうか。面白いことにロシア語の完了体動詞と似て「~てしまう」には現在形がない。つまりS = R を表わすことができない。

全部食べてしまった。

と助動詞が過去形の場合は E < R < S だが、

全部食べてしまう

は「全部食べている」のように E < R = S ではなく、形としては現在形だが意味的には「これから全部食べる」、つまり未来形 S < E < R だ。ロシア語の

Съем всё.
eat 完了体+ all
全部食べてやる/これから全部食べる(ぞ!)

とそっくりだ。


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 「~ている」という助動詞がアスペクト表現であることは知られている。私は今まで大雑把に次のような説明をしていた:「~ている」は正反対のアスペクトを表わす。現在進行体 progressiver Aspekt と完了体 perfektiver Aspekt で、「基本的には」継続動詞、事象が「読む」とか「見る」など当該事象が時間の幅を持つ事象を表わす動詞に「~ている」がついたら現在進行体、瞬間、つまり「死ぬ」「結婚する」など、始まったとたんにすぐ終了するような事象を表わす動詞についたら完了体だと。ただもちろん「その本はもう読んでいます」など、継続動詞でも実は完了体になるので、本当はそうきっぱりとは行かないことは言っておく。さらにうるさく言えば「現在進行体」はアスペクトではなく動作様相Aktionsart なのでロシア語をやっている人から突っ込まれそうだが(下記)、それについては黙っておく。
 しかししばらく以前からこれは安易すぎるのではないかと自分でも不安になってきていたため、先日寺村秀夫氏の『日本語のシンタクスと意味Ⅱ』を借りだして確認してみた。本来とっくに読んでいなければいけないはずの古典を今頃読んですみません。著者の寺村氏には直接お目にかかっている。大学時代に先生の授業をとっていたのだ。微妙に関西訛のあるダンディな先生で授業も面白かった。

 そもそもアスペクトというのは何なのか?コムリー Comrie という言語学者は「ある事態の内部的な時間構成のいろいろな見方」と定義しているそうだ。それが継続しているのか、完了しているのかいないのか、一回きりのものか繰り返されるのものか、そういった相の違いということで寺村氏も基本的にはこの見方を踏襲し、テンスが事象を点として見るなら、アスペクトは事象は幅として見るものだとしている。プロセスの中の時間のどういう位置にあるのかを表わそうとするものであると。もっともロシア語学者のイサチェンコはこういう違いはあくまで動作様相であってアスペクトではないと強調している。英語や日本語はロシア語のようにきっちり二分割でパラダイム化しテンスと独立したアスペクト体系がないので、アスペクトの観念の把握にいろいろ「不純物」が混入しやすいのかもしれない。でもライヘンバッハ Reichenbach というこれも有名な学者(三たびすみません。まだ原本読んでいません)の図式などはとてもクリアで日本語の説明にも使えそうだ。Reichenbach もテンスとアスペクトをいっしょにして論じているが、その際 Speech time、 Event time、 Reference time を基準として設定している。Speech time は発言が行われた時点、 Event time は当該事象が起こった時点で、この二つはわかりやすいが、これらとReference time を分けたのが非常な慧眼だ。これは当該事象が言語化された時点、観察された時点である。Speech time、 Event time、 Reference time をそれぞれS、E、Rとし、英語のSimple Past、Present Perfect の時系列を図示するとこうなる。< という印は閉じたほうにある事象が開いているほうより時間的に先行するという意味である。

Simple Past
I saw John
E = R < S

Present Perfect
I have seen John.
E < R = S

つまり Simple Past では当該現象が発生時点と同時に観察され、しかる後に発話されているのに対し、Present Perfect だと事象発生の後に観察・言語化されそれと同時に発話されていること、言い換えると完了体の本質は E < R ということだ。S の位置は問わない。この差と対応するドイツ語の構造、Ich sah Hans と Ich habe Hans gesehen はこの微妙な差をほとんど失ってしまい、単なるスタイルの差、あるいは方言差になってしまった。単純過去は「古風な響きで会話にはあまり使わない。それでも北ドイツの方では時々会話でも使っている」とのことである。だからということもないのだろうが、英語のSimple Past と Present Perfect の差が「いくら説明してもらってもよく呑み込めない」と言っていたドイツ人がいた。さてこの図式で現在進行形を表わすと

Sam is working.
E = R = S

で、三つがすべて同時である。では Sam was working はどうなるのか?私は上でも白状したようにReichenbach も Comrie も読んでいないので、勝手に自分で好きなように図式化させてもらうが、これは E = R < S としかやりようがなく、Simple Past といっしょになってしまう。これを防ぐには Simple Past の R をニュートラルにする、つまりSimple Past では Reference time は問わないとして、E (= R) < S とR を括弧にでもいれることだ。問わないわけだから状況によっては Simple Pastで E < (R =) S と事実上 Present Perfect と同じ時系列パターンを表わせることになる。
 これを日本語に当てはめてみると、

太郎に会った。E (= R) < S
太郎に会っている。E < R = S

太郎は結婚した。E (= R) < S
太郎は結婚している。E < R = S

となり、過去形(た形)と「~ている形」の違いが一応それらしく図式化できる。さらに面白いことに「た」が E < (R =) S のほうも表わせることを寺村氏は指摘している。この例は金田一春彦氏も引用しているが、

1.もう昼飯を食べたか。
2.きのう昼飯を食べたか。

の「た」を比べると前者は完了体アスペクト、前者が単純過去である。それが証拠にこの二つの質問に否定で答える場合、形が異なる。

1への答え;いや(まだ)食べていない/食べない。
2への答え:いや、食べなかった。

1に対しては皆本能的に完了アスペクト表現をとり、1の質問に「いや、食べなかった」で答えるとおかしい。もう一つ、

3.彼の話はよくわかったか?
4.私のいいたいのはこれこれだ。どうだ、いい加減にもうわかったか?

では、3に対しては「いや、よくわからなかった」と過去形で答え、4には「いや、まだわからない」と現在形で答えるのが普通だ。皆アスペクトの違いがよくわかっているのだ。図示すると

1と4:E (= R) < S
2と3:E < (R =) S

ということになろう。ここで R の括弧を外したい場合、つまりR を明確に可視化したい場合に「~ている」などの動詞を付加して完了体アスペクト表現をとる。
 その完了体としての「~ている」だが、瞬間動詞だけが完了体になるのではない。継続動詞に「~ている」をつけて完了体を表わすなど皆普通にやっている。

手紙はもう書いている。
その映画は以前見ている。
あの人はロシア語を勉強しているからキリル文字がスラスラ読めるんだよ。

など、いくらでも言える。その際、主語でなく目的語のほうに視点が行くと「~てある」も使える。

手紙はもう書いてある。
宿題はやってあるから、遊びに行っていいでしょ?

だから瞬間動詞であろうが継続動詞であろうが自動詞の完了体表現には「~てある」は使えない。

邪魔者は消している。
邪魔者は消してある。
邪魔者は消えている。
*邪魔者は消えてある。

さて、ここではトピックマーカーを使ってあるので不明瞭になってしまっているが、この「邪魔者」の格はなんだろうか?「~ている」の文では明らかに対格だ。上の「ロシア語を勉強しているから云々」の例でもわかる。他の二つも格構造的には「手紙をもう書いている」、「その映画を以前見ている」だ。対して「~である」の場合は主・対どちらの解釈も成り立つ。

邪魔者が消してある。
邪魔者を消してある。

これは多分シンタクス構造の差で、生成文法もどきにオシャレな図示をするとそれぞれ

NP{邪魔者が}  VP [ V1{消して} V2 {ある}]。
NP {ZERO} VP [VP1 [NP {邪魔者を} V {消して}] VP2{ある}]。

とかなんとかとなる。つまり主格だと「邪魔者」が「消してある」という複合動詞全体にかかり、対格だと邪魔者はまず「消して」のみにかかり、それから両者いっしょに「ある」にかかるということだろう。「寿司が食べたい」と「寿司を食べたい」の差もこれだと私は思っている。ただこの「~てある」では主語にゼロ以外立つことができない。「~たい」では「私が寿司を食べたい」と普通の名詞が主語に立てるのと大きな違いだ。
 また場合によっては目的語に焦点をあてた「~ある」でないと非常に座りの悪い文になる。比較のため目的語を対格にそろえるが、後者は少し変だ。

戸を開けてある。
戸を開けている。

なぜ後者はおかしいのだろう。これは完了体というアスペクトの本質的な意味と関わってくるようだ。またロシア語を引っ張り出すが、ボンダルコという学者によるとロシア語の完了体アスペクトの動詞が共通に持っている意味は「新しい状況の出現」だそうだ。寺村氏も日本語のアスペクト表現を検討してそれに近いことを言っている。「戸を開けてある」では焦点の戸にとって確かに「開いている」という新しい事態が出現している。対して「戸を開けている」だと焦点の主語(ここではゼロ主語になっているので仮に「私」としておこう)にとっては何も新しい事態が発生していない。「手紙を書く」ならまだある意味業績が一つ加わったと解釈もできようが、戸を開けたからといって誰も感心などしてくれない。この点が「私はロシア語をやっている」との違いである。そこでは「私」の語学能力が増している。「私はロシア語をやってある」はどうか。新しい事態は「私」でなくむしろロシア語の方に起こる。ロシア語が「私ができる言語リスト」あるいは「今日やったことのリスト」に付け加わったのだ。

 せっかく引っ張り出したのでもう少しロシア語との比較を続けるが、ロシア語の不完了体動詞にはちょっと面白い機能がある。「結果の取り消し」だ。例えば次の文はどちらも「私は窓を開けた」だが、

Я открыл окно.
I + opened-完了体+ window

Я открывал окно.
I + opened-不完了体 + window

完了体では窓は今開いているニュアンスだが、不完了体だと一度開けた窓が今はまた閉まっている、つまり「開ける」の結果を取り消す意味合いになる。狭い意味の結果ではないが、効果が取り消される、つまり当該行為が無に帰してしまった場合も不完了体を使う。

Утром мы открывали окно, но сейчас в комнате опять душно.
朝窓を開けたが、もう今部屋の中がムンムンする。

それと対応するかのように、日本語でも結果を取り消すような表現が「~ている」の後に続くと少しおかしい。

窓を開けたが、外の音がうるさいんでまたすぐ閉めた。
窓を開けてあるが、外の音がうるさいんでまたすぐ閉めた。
朝窓を開けているが、もう今部屋の中がムンムンする。

さらに

彼は結婚したがすぐ離婚した。
彼は結婚しているがすぐ離婚した。

という比較でも後者、完了体アスペクトを使うと変だ。

上でも述べたように「た」でも完了体を表わせないことはない。ないがここでの「た」は「わかったか→わからない」と違って完了体と解釈することはできない。しかし完了体の助動詞を過去形にしていわば過去完了的意味にすると一応結果が取り消せる。

窓を開けてあったが、外の音がうるさいんで閉めた。
彼は結婚していたが離婚した。

これは結果として生じた状態、「開いている」と「結婚している」が既に過ぎ去ったことなので、取り消しが割り込める隙が生じる。しかしその際ある程度の時間的距離が必要で上でやったように「すぐ」という副詞を使うと許容度が減少する。

窓を開けてあったが、外の音がうるさいんですぐ閉めた。
彼は結婚していたがすぐ離婚した。

 これもロシア語だが、不完了体による結果の取り消し機能の例としてこんな文があった。本がソ連時代のものなので「同志」である。

Товарищ заходил ко мне, но меня не было дома.
comrade + called on-不完了体  + to + me, bur + me + not + was + at home
同志が私の家に立ち寄った。でも私は家にいなかった。

Ко мне зашёл товарищ, и мы смотрели с ним телевизор.
to + me + called on-完了体 + comrade, and + we + watched + with+ him + television
同志が私の家に立ち寄った。それでいっしょにテレビを見た。

不完了体動詞の заходил(不定形は заходить)では立ち寄ったという行為が無駄になり、完了体 зашёл (不定形 зайти)では同志が首尾よく私に会えている。

 私は最初、というよりここでこうやって改めて日本語と比べてみるまでロシア語不完了体動詞の取り消し機能はロシア語のカテゴリー体系、全動詞が完了か不完了かにきれいに2分割されているからだと思っていた。動詞は必ずどちらかに属するのだからこれは欠如的対立(『128.敵の敵は友だちか』参照)ということで、不完了体の本質は「完了体ではない」ところにある。事実ロシア語学者には完了体は有標、不完了体は無標とズバリ定義している人が何人もいる。つまり行為の結果が残っている場合は完了体を使うのだから、そこで敢えて完了体を使わず不完了体を使うということはまさに完了体ではない、とわざわざ表明したいということ、言い換えると完了体ではない→結果が出ていないという暗示だ。不完了体は本来なら別に結果を否定したりしない。「どっちでもいい」はずである。その「どっちでもいい」動詞に取り消しのニュアンスを生じさせたのはロシア語の欠如的対立カテゴリーであると。
 しかし今上で見たように動詞が全然2分割などされていない日本語でも「完了体アスペクトであることが明確でない動詞形は結果の取り消しと親和性が高い」となるとこれは動詞カテゴリーだけが原因でもないようだ。
 実は私は30年くらい前からロシア語不完了体の取り消し機能はロシア語動詞が欠如的対立をなしているからだという主張をどこかのスラブ語学の専門雑誌にでも投稿しようかと思っていたのをどうも面倒くさいので放っておいたのだが、ひょっとしたら私はとんでもなく間違っていたのかもしれない。放っておいてよかった。それにしてもここはだんだんその種の、生まれるに至らなかったいわば「水子論文」の供養ブログと化しつつある。

 (この項まだ続きます。続きはこちら

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 ジョージ・スティーブンスの『シェーン』は日本で最もポピュラーな西部劇といってもいいだろうが、実は私は結構最近になって、自分がこの映画のラスト・シーンを誤解釈していたことに気づいた。例の「シェーン、帰ってきてぇ!」という部分だ。あれのどこに誤解の余地があるのかといわれそうだが、それがあったのだ。まあ私だけが蛍光灯(私の子供のころはものわかりの遅い、ニブイ人のことを「蛍光灯」と呼んでからかったものだが今でもこんな言い回しは通じるのか?)だったのかも知れないが。

 私が『シェーン』を初めてみたのは年がバレバレもう40年以上前のことだが、それ以来私はあの、ジョーイ少年の「シェーン、帰ってきて」というセリフ、というか叫びを「シェーン、行かないで」という意味だと思っていた。当時これをTVで放映した水曜ロードショーがここを原語で繰り返してくれたが、英語ではShane, come back!だった。「帰ってきて!」だろう。一見何の問題もない。
 今になって言ってもウソっぽいかもしれないが、実は私は初めて見た時からこのシーンには何となく違和感を感じていたのだ。このセリフの直後だったか直前だったかにジョーイ少年のアップが出るだろう。ここでのジョーイ少年の顔が穏やかすぎるのである。「行かないで!」と言ったのにシェーンは去ってしまった。こういうとき普通の子供なら泣き顔になるのではないだろうか。「行かないで、行かないで、戻ってきて、ウエーン」と涙の一つも流すのではないだろうか。映画のジョーイ少年は大人しすぎる、そういう気はしたのだが、アメリカの開拓者の子供は甘やかされた日本のガキなんかよりずっと大人で感情の抑制が出来るのだろうと思ってそのまま深く考えずに今まで来てしまった。
 ところが時は流れて○十年、これを私はドイツ語吹き替えでまた見たのだが、件のラストシーンのセリフが、Shane, komm wieder!となっているではないか。これで私は以前抱いたあの違和感が正しかったことを知ったのである。

 Komm wieder!というのは強いて英語に置き換えればcome againで、つまりジョーイ少年は「行かないで」と言ったのではなく、「いつかまたきっと来てくれ」といったのだ。今ここでシェーンが去ってしまうのは仕方がない。でもまたきっと来てくれ、帰ってきてくれ、と言ったのだ。「行かないで」ならば、Shane, komm zurückと吹き替えられていたはずである。事実『七人の侍』で志村喬が向こうに駆け出した三船敏郎に「菊千代、引け引け」(つまり「戻れ」ですよね)と言った部分ではKikuchiyo, komm zurückと字幕になっていた。ジョーイ少年はKomm zurückとは言っていない。少年がここでわあわあ泣き叫ばず、なんとも言えないような寂しそうな顔をしたのもこれで説明がつく。

 言い換えると英語のcome backは意味範囲が広く、ドイツ語のwiederkommenとzurückkommenの二つの意味を包括し、日本語の「帰って来て」では捕えきれない部分があるのだ。そこで辞書でcome backという単語を引いてみた。しかしcome backなんて動詞、this is a penの次に習うくらいの基本中の基本単語である。そんなもんをこの年になって辞書で引く、ってのも恥ずかしい極致だったが、まあ私の語学のセンスなんてそんなものだ。笑ってくれていい。例文などを読んでみると確かにcome backはいまここで踵をかえせというよりは「一旦去った後、いくらか時間がたってから前いた場所に戻ってくる」という意味のほうが優勢だ。芸能人が「カムバックする」という言い方などがいい例だ。

 さて、私は上で「come backは二つの「意味」を包括する」と言ったが、この言い方は正確ではない。「今ここで踵を反す」も「いつかまた踵を反す」も意味内容そのものはまったく同じである。つまり「今いたところに戻る」ということだ。ではこの二つは何が違うのか?「アスペクトの差」なのである。ナニを隠そう、私は若いころこの「動詞アスペクト」を専門としていたのでウルサイのだ。

 その「動詞アスペクト」とは何か?

 以前にも書いたが、ロシア語では単にcomeとかgoとか seeとかいう事ができない。ちょっとはしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアになっていて英語・ドイツ語・日本語ならば単にcomeとか「来る」ですむところが二つの動詞、いわばcome-1 とcome-2を使い分けなければいけない。come-1 とcome-2は形としては派生が利かないので闇雲に覚えるしかない、つまり動詞を覚える手間が普通の倍かかるのである。
 どういう場面にcome-1 を使い、どういう場面にcome-2を使うかには極めて複雑な規則があり、完全にマスターするのは外国人には非常にキツイというか不可能。あの天才アイザック・アシモフ氏も、一旦ロシア語を勉強し始めたのに、この動詞アスペクトがわからなくて挫折している(『16.一寸の虫にも五分の魂』参照)。例えば英語では

Yesterday I read the book.

と言えば済むがロシア語だといわば

Yesterday I read-1 the book
Yesterday I read-2 the book

のどちらかを選択しなくてはいけない。単にreadということができないのである。ロシア語ではそれぞれ

Вчера я читал книгу.
Вчера я прочитал книгу.

となる。читалとпрочиталというのが「読んだ」であるが、前者、つまりread-1だとその本は最後まで読まなかった、read-2だと完読している。また、1だと何の本を読んだかも不問に付されるのでむしろYesterday I read-1 a bookと不定冠詞にしたほうがいいかもしれない。
 
 1を「不完了体動詞」、2を「完了体動詞」と呼んでいるが、それでは「不完了体」「完了体」の動詞がそれぞれ共通に持つ機能の核、つまりアスペクトの差というのは一言でいうと何なのか。まさにこれこそ、その論争に参加していないロシア語学者はいない、と言えるほどのロシア語学の核のようなものなのだが、何十人もの学者が喧々囂々の論争を重ねた結果、だいたい次の2点が「完了動詞」あるいは完了アスペクトの意味の核であると考えられている。
 一つは記述されている事象が完了しているかどうか。「読んだ」ならその本なり新聞なりを読み終わっているかどうか、あるいは「歩く」なら目的地に付くなり、疲れたため歩く行為を一旦終了して今は休んでいるかどうか、ということ。もう一つはtemporal definitenessというもので、当該事象が時間軸上の特定の点に結びついている、ということである。逆に「不完了体」はtemporally indefinite (temporaryじゃないですよ)、つまり当該事象が時間軸にがっちりくっついていないでフラフラ時空を漂っているのだ。

 上の例の不完了体Yesterday I read-1 the bookは「昨日」と明記してあるから時間軸にくっついているじゃないかとか思うとそうではない。「昨日」自体、時間軸に長さがあるだろう。いったいそのいつ起こったのか、一回で読み通したのか、それとも断続的にダラダラその本を読んだのか、そういう時間の流れを皆不問にしているから、事象はやっぱりフラフラと昨日の中を漂っているのである。
 スラブ語学者のDickeyという人によればチェコ語、ポーランド語などの西スラブ語では「事象が完了している・いない」がアスペクト選択で最も重要だが、ロシア語ではこのtemporal definitenessのほうが事象の完了如何より重視されるそうだ。だからロシア語の文法で「完了体・不完了体」と名づけているのはやや不正確ということになるだろうか。

 さて、『シェーン』である。ここのShane, come back!、「いつでもいいから帰ってきて」はまさにtemporally indefinite、不完了アスペクトだ。それをtemporally definite、「今ここで帰ってきて」と完了体解釈をしてしまったのが私の間違い。さすが母語がスラブ語でない奴はアスペクトの違いに鈍感だといわれそうだが、鈍感で上等なのでしつこく話を続ける。

 私は今はそうやってこのcome back!を不完了アスペクトと解釈しているが、それには有力な証拠がある。『静かなドン』でノーベル賞を取ったショーロホフの初期作品に『他人の血』という珠玉の短編があるが、このラストシーンが『シェーン』とほとんど同じ状況なのだ:革命戦争時、ロシアの老農夫が瀕死の若い赤軍兵を助け、看病しているうちに自分の息子のように愛するようになるが、兵士は農夫のもとを去って元来たところに帰っていかねばならない。農夫は去っていく赤軍兵の背中に「帰ってこい!」Come backと叫ぶ。
 つつましい田舎の農家に突然外から流れ者が入り込んできて、好かれ、いつまでもいるように望まれるが、結局外部者はいつか去っていかねばならない、モティーフも別れのシーンも全く同じだ。違うのは『他人の血』では叫ぶのが老人だが、『シェーン』では子供、ということだけだ。老人は去っていく若者の後ろからворочайся!と叫ぶが、このворочайсяとは「戻る」という不完了体動詞ворочатьсяの命令形である。「いつかきっとまた来てくれ」だ。「引け引け、戻れ」なら対応する完了体動詞воротитьсяを命令形にしてворотись!というはずだ。日本語の訳では(素晴らしい翻訳。『6.他人の血』参照)この場面がこうなっている(ガヴリーラというのが老人の名)。

「帰って来いよう!…」荷車にしがみついて、ガヴリーラは叫んだ。
「帰っちゃ来まい!…」泣いて泣きつくせぬ言葉が、胸の中で悲鳴を上げていた。

 『シェーン』でも「帰ってきてぇ」ではなく「帰ってきてねぇ!…」とでもすればこのアスペクトの差が表せるかもしれない。


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 どれか一つ戦争映画を紹介してくれと言われたら私はエレム・クリモフ監督のソ連映画『Иди и смотри (「Come and see」)』(1985)を勧める。第二次世界大戦時のベラルーシにおけるパルチザン対ドイツ軍の戦いを描いたもので、ソビエト・ロシアの芸術の伝統をそのまま引き継いだような大変美しい映像の映画である。ストーリーにもわざとらしい勇敢なヒーローは出てこない。使用言語の点でもロシア語のほかにベラルーシ語を聞くことができるから面白いだろう。

 タイトルの『Иди и смотри』だが、Иди(イジー)とсмотри(スマトリー)はそれぞれидти (イッチー、「行く」)、смотреть (スマトレーチ、「見る」)という動詞の単数命令形だ。どちらも不完了体の動詞なので(『16.一寸の虫にも五分の魂』の項参照)ロシア語をやった人はひっかかるだろう。
 普通「なんか外がうるさいわね。ちょっと行って見て来てよ」という場合は完了体動詞の命令形を使い、「пойди и посмотри」(パイチー イ パスマトリー)とかなんとか言うはずだ。授業でも「通常命令形は完了体を使う」と教わる。 なぜここでは対応する不完了体動詞が使われているのか。

 不完了体の動詞の命令形の用法の一つに、「相手が躊躇していたり、遠慮していたりするのを強く促す」あるいは「一度中断した行為の再開を促す」という働きがあるのだ。つまり命令・要求の度合いが強く、「何をグズグズしてるんだ? 早く作業に取り掛かれ!」「途中で止めるな、続けろ」というニュアンスだ。以下の例では最初のget upが普通に完了体動詞、二つ目が強い要求の不完了体命令形となっている。

Встань, ну вставай же!
起きる (完了体・命令) + さあ + 起きる(不完了体・命令) + 強調
起きろ、やい、さっさと起きろってば!

 前にも取り上げたショーロホフの『他人の血』にも不完了体の命令文が使われる場面がある。革命時の内戦で赤軍と戦うために出かけていった一人息子が帰ってくるのをコサックの老夫婦が首を長くして待っているが、何の知らせもない。いや、風の噂は届いていた。息子の部隊はクリミア半島で全滅した、と。ある日息子といっしょに同じ村から出征して同じ部隊にいた知り合いが帰って来る。その知り合いが老夫婦を訪ね、息子が戦死した模様を伝えるのである。父親のほうは感情を押し殺してその報告に耳を傾け続けるが、母親のほうは堪えられない。途中で叫びを上げて泣き出してしまう。その母親を父親は「黙れ」と怒鳴りつけ、ひるんで黙ってしまった知り合いに対して「さあ、しまいまで言ってくれ」とうながすのである。まさにそこで不完了体動詞の命令形が使われているのだ。

Ну, кончай!
さあ + 終える・最後までやる(不完了体・命令)

これが単なる「しまいまで言え」だと完了体を使うから

Кончи!
終える・最後までやる(完了体・命令)

となる。息子の死を告げかねて言いよどむ訪問者をこの父親が促す場面が他にもあるが、そこでもやはり動詞は不完了体だった。
 
 また不完了体動詞の命令形には「ずっとその行為をやり続けろ」というニュアンスを帯びることがある

смотрите всё время в эту сторону!
見る(不完了体・命令形・複数) + すべて + 時間 + ~の中に + この + 側
ずーっとこっちの側を見てなさい!

さらに「繰り返してその行為をやりなさい」という時にも不完了体動詞で命令する。

Учите новые слова регулярно!
覚える(不完了体・命令) + 新しい + 単語 + 規則的に
規則的に新しい単語を覚えなさい!

いずれにせよ、不完了体動詞の命令形には「普通以上の」意味あいがあるのだ。

 だから『иди и смотри 』はcome and seeと訳して間違いではないが(「行く」がcomeになっていることはここでは不問にする)、単に「行って、そして見ろ」ではなくて、目を背けたくなるようなドイツ軍の蛮行、女・子供まで、いや「劣等人種ロシア人をこれ以上増やさないように」優先的に女子供を虐殺していったドイツ軍の、とても正視出来ないような狂気をその目で見るがいい、見続けるがいい」という非常に強い重いニュアンスだと私は解釈している。
 それあるにこの映画の邦題は『炎628』という全く意味不明なものになっているのだ。628というのは当時ドイツ軍に焼き払われたベラルーシの村の数だが、いきなりそんな数字をタイトルに持って来たって観客に判るわけがないではないか。こんな邦題をつけた責任者には「ワースト邦題賞」でも授与してやるといい。これからも映画の芸術性を隠蔽し、客足を遠のかせるような立派なタイトルをドンドン付けていってほしいものだ。

 もっとも論文などで「○○参照」という時もсм.、つまり不完了体のсмотритеを使う。これは皆私のように「注」を読むのをめんどくさがって大抵すっ飛ばすので「見ることを強く要求」されていると解釈することもできるが、当該行為を「抽象的に指示」するときは不完了体を使うから、まあこれは別に「横着しないで注もちゃんと読みやがれ」と怒られているわけではないようだ。ほっ。

 さて、肯定の命令形では今まで述べたように完了体動詞がデフォ(言語学用語では「無標」)で、強いニュアンスを伴う不完了体動詞が有標だが、これが「~するな」という否定の命令になると逆に不完了体動詞のほうがデフォ、完了体動詞が有標となるから怖い。
 完了体の否定命令を使うと、警告の意味がある、つまりその行為が本当に行なわれてしまいそうな実際的な危険性がある、というニュアンスになるのだ。たとえば普通に「その本をなくすなよ」と言いたい場合は不完了体を使って

Не теряй эту книгу!
否定 + 失くす(不完了体・命令) + この本を
この本失くさないで!

だが、相手が本当に失くしそうな奴だったりしてこちらに一抹の心配があり、特にクギを指しておきたい場合は完了体で命令するのだ。

Не потеряй эту книгу, она из библиотеки.
否定 + 失くす(完了体・命令) + この + 本を + それ + ~から + 図書館
この本失くすんじゃないぞ、図書館から借りたんだから。

 このように肯定の命令では完了体動詞がデフォ、否定の命令では不完了体がデフォなわけだが、これが以前に『16.一寸の虫にも五分の魂』で述べた「歴史的現在と過去形」と共にいわゆるアスペクトのペアを決める際の助けになっている。同じ事象をニュアンスなしで肯定と否定の命令で言わせ、肯定命令で使われた動詞と否定命令で使われた動詞をペアと見なすのである。
 このアスペクトのペアというのはロシア語文法の最重要項目のひとつであり、大学では大抵語学そのものと平行して特に動詞アスペクトだけをみっちり仕込まれる授業をうけさせられる。必須単位である。これがわからないとロシア語の文章を正しく理解することができないからだ。文の意義だけ取れても意味が取れなければ特に文学のテキストを解釈するには致命的だろうし、日常会話でもいわゆる空気が読めずに困るだろう。


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。

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