アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:アイヌ語

 ヨーロッパの言語で「言葉」をなんというのか示してくれているサイトがあってちょっと覗いたのだが、まず気が付いたのが「ことば」という言葉が「舌」の意味も兼ねている、あるいは元は「舌」を意味する言葉を転用して「ことば」に使っている言語が多いことだった。そこでもっとよく見てみようと思って私なりに調べて一覧表にしてみた。ついでに北アフリカ方面や中近東、コーカサスのあたりまで入れてみた。つまりユーロビジョン・ソング・コンテストに参加資格のある地域の主要言語である。
Tabelle1-220
「言葉」と「舌」が同じではない言語を黄色で染めてみたが、「ことば」を表す言葉は一つとは限らず、たとえばカタロニア語にもポルトガル語にも表に出した llengua、língua と並行して idioma(「言語」)という単語があり、逆に「ことば」を idioma と言っているカスティーリャ語には lengua という言葉も使われていたりするから、少し注意がいる。idioma はギリシャ語起源で、「舌」という意味はない。またさすがギリシャ語だけあってこの言葉自体は英語を始めそこら中の言語に取り入れられている。ただしズバリ「言語」という意味でではない。その他のロマンス語の「ことば」はもちろんラテン語のlingua (「舌」)起源である。
 面白いのがゲルマン語派の諸言語で「言葉」は「話す」「語る」などの行為を表す語から来ている。ドイツ語の Sprache は動詞の sprechen、英語の speak だ。この語は西ゲルマン祖語時代からあったようで、北ゲルマン語派のデンマーク語、スウェーデン語、またノルウェー語は中世低地ドイツ語からの借用らしい。例えばスウェーデン語では西ゲルマン語系の語が入って来る前までは tunga を使っていたそうだ。フェロー語、アイスランド語の mál は「西」ゲルマンでなく「ゲルマン祖語」にまで遡れる古い語らしく、東ゲルマン語のゴート語にも対応形がある。ノルウェーの公式の書き言葉の一つをブークモール bokmål というが、この「モール」もこれだ。さらにスウェーデン語にも mål(「言葉」)ということばがあるはある。しかしもう「古くさい言い方」だそうだ。先に出した tunga は単に古臭いというのを通り越して「古スウェーデン語」だからさらに古いことになる。これらがアイスランド語で「舌」と「話す」の二重構造になっているのが面白い。tunga (→ tungu)+mál である。オランダ語の taal は英語の tale で、「語る」。これも「舌」とは別だ。
 英語は乱暴な言い方をすればゲルマン語の文法がこれでもかというほど簡潔化された上にフランス語の単語を乗っけているような言語だから「ことば」もちゃっかりロマンス語系になっているのはわかる。ただ英語では「母語」のことを mother tongue といい、結局「ことば」という語を本来のゲルマン語の「舌」で表している。ドイツ語では「母語」は Muttersprache、無理やり英語に直せば mother speech で、「舌」は出てこない。ドイツ語の「舌」は toungue と同語源の Zunge である。
 ケルト語派のうちアイルランド語は「舌」を使っているが、その他の二言語はどちらも「話す」「発話する」で、「舌」ではない。
 次のスラブ語派だが、jazyk、jezik などは下でも述べる通り皆「舌」だ。古い印欧語形である。ウクライナ語とベラルーシ語の mova はスラブ祖語から。「言う」である。
 こういった言語状況をどう解釈したらいいのか。実はロマンス語派の lingua もスラブ語はの jazyk もゲルマン、ケルトの tongue も印欧祖語のでは同じ形 dn̥ǵʰwéh₂s (「舌」)に行きつくとされている。つまり元は皆同じ一つの語だったのだ。dn̥ǵʰwéh₂s はあくまで「舌」であって「言葉」という意味は持っていなかったっぽいので、印欧諸語が割れていく何千年もの過程の間に次第に抽象的な「言葉」という意味を担わされていったということなのだろう。その際単発的に「言葉」を「舌」でなくその行為そのもの、「話す、言う、発話する」という言葉で表す地域が出現した。これが単発現象であることはそれら非舌地域(?)の「言葉」が皆語源を異にしていることからもうかがえる。idioma、taal、Sprache、mál など、語源も形もバラバラだ。
 以上が上の表を見た時点の中間解釈だが、これを踏まえてさらに残りのユーロビジョン・ソング・コンテスト言語を調べるとこうなる。
Tabelle2-220
バルト語派にも「非舌単発現象」が現れているのがわかる。アルメニア語の lezu も lingua、 jayzk と同じく dn̥ǵʰwéh₂s 起源だそうだ。ギリシャ語、アルバニア語の glóssa、gjuhë は出所がよくわからないそうだが、とにかく dn̥ǵʰwéh₂s ではないようで、この点他の印欧語族と違っているが、「言葉」を「舌」と同じ語で表すという原則は共通している。クルド語 ziman とロマニ語 čhib はどちらも dn̥ǵʰwéh₂s でlingua、jezik、tongue と同じ。つまりスタンダードなパターンだ。
 さてヨーロッパの非印欧語はどうだろうか。フィノ・ウゴル諸語(私はフィンとウゴールは分けるべきじゃないかと個人的に思っているが)もテュルク諸語(これは一緒で完全にOK)も「舌」が「言葉」を同じ語が担当している。言語自体は全然違えど意味のメカニズム(?)の点では他の印欧語族といっしょである。この記事の最後で言うが私はこの事実を結構重く見ている。テュルク諸語にはさらに面白い現象があって、たとえばトルコ語には「ことば」という言葉に dil の他に zeban 、lisan という語がある、というかあった。あとの二つは現在は廃れているそうだが、zeban はインド・イラニアン語派の印欧語、具体的にはペルシャ語からの借用である。もう一つの lisan はアラビア語 لِسَان (lisān)からのこれも借用。アラビア語の「言語、舌」だ。同様にアゼルバイジャン語にも zəban、lisan があり、やはりすでに「古語」となっている。zeban、lisan はクリミアのタタール語にも見つかる。他のテュルク諸語では確認できなかったが調べればまだ見つかりそうだ。ペルシャ語とアラビア語の「舌&ことば」が自国語の「舌&ことば」に取って代わられたのである。
 ユーロビジョン地域の最後に次の言語を確認してみよう。
Tabelle3-220
まず、ジョージア語は「舌」を兼ねる。アラビア語 لُغَة (luḡa) は「言語」あるいは「方言」で、「舌」とは別だ。上でも述べたようにアラビア語にはこの他に「舌」も兼ねた لِسَان (lisān)という語がある。ヘブライ語の שפה (safá) は「舌」でなく「唇」の意味を兼ねているそうだ。実にややこしい。また同じセム語族でもマルタ語は政治的にヨーロッパの支配下にあった時期が長く、イタリア語の影響を強く受けている。道理で明らかにロマンス語からの借用である。ただマルタ語には lsien というセム語系の本来の語も存在する。
 バスク語はフィノ・ウゴルやテュルクと違ってヨーロッパのど真ん中(でもないか)にありながら「ことば」と「舌」は別だ(バスク語で「舌」は mihi)。非印欧語のくせに印欧語と同じになっているフィノ・ウゴールやテュルクと違う。 
 ここまでをまとめてみると、ヨーロッパの印欧語では「言葉」は本来「舌」の意味だった同一語 dn̥ǵʰwéh₂s で表される。特にゲルマン語派など例外的に「話す、言う」を使う言語もあるが基本は舌=ことば。dn̥ǵʰwéh₂s を使わない言語でもこの原則は保たれる。ヨーロッパはさらに非印欧語でも「舌」と「ことば」が同じ語になる、ということだ。

 これがアジアになると状況が一変する。
Tabelle4-220
印欧語族の zabân、jabān などは一目瞭然ヨーロッパのクルド語、ロマニ語と同じ dn̥ǵʰwéh₂s である。イランから中央アジアのタジキスタン、インドの相当部にかけてこれだ。まずペルシャ語からパンジャブ語までを見て欲しい。ここで実は例えばヒンディー語には同じ dn̥ǵʰwéh₂s 起源でも zabān とはちょっと形の違う जीभ (jībh) というズバリ(身体器官の)「舌」を表す語がある。ヒンディー語の他にもウルドゥ語(جِیبھ 、jībh)、グジャラート語(જીભ、jībh)、パンジャブ語(ਜੀਭ、jībh)、ネパール語 (जिब्रो、jibro)、ベンガル語(জিভ、jibh)、オリヤー語(ଜିଭ、jibha)にも表の「舌・ことば」とは少し形を変えた「舌」だけの語がある。
 マラーティー語、シンハラ語、ネパール語は黄色マークしてあるが、それは bhāṣā あるいは bhāṣāwa という語が「舌」ではなく、サンスクリットの भाषा(bhāṣā、「話す」)から来ているからだ。印欧祖語ではどんな形だったのかはよくわからないが、「舌」でないことだけは私が保証する(なんであんたが保証するんだ)。これらの言語は「ことば」が「舌」ではないという点でヨーロッパのゲルマン語派などと共通しているようだが、インドのほうはゲルマン語のように語形がバラバラではなく、全て同じ形をしている、つまり同一語から来ている点が違う。
 実はこのサンスクリットの「話す→ことば」という語は強烈な影響力を持っていて、「舌系」のヒンディー語、ウルドゥ語、パンジャブ語、ベンガル語、グジャラート語にも zabān などの同意語としてそれぞれ भाषा(bhāṣā)、بھَاشَا(bhāśā)、ভাষা(bhaśa)、ਭਾਸ਼ਾ (bhāśā)、ભાષા(bhāṣā)という「ことば」という語がある。「話す系」が水面下で深く浸透しているということだ。この点もヨーロッパとの違いだろう。逆に黄色に塗った3言語については「舌系」の方の同義語は確認できなかった。でも探せば実はあるかもしれない。
 そしてこのサンスクリットの「話す=ことば」はインド亜大陸のドラビダ諸語にも広く借用されている。サンスクリット系の「言葉」の同義語としてカンナダ語にも ನುಡಿ(nuḍi)というのがあるが、こちらがドラビダ語本来のものだ。テルグ語にもほぼ同じ形の నుడి(nuḍi、「ことば」)がある。同語源の語はタミル語、マラヤラム語にもあったが、意味が変わったり廃れたりしてしまった。つまりドラビダ諸語では固有の語がサンスクリット系の「話す」に取って代わられたということか。
 もっとも「言葉」はサンスクリット系の「話す」で表しても身体器官の「舌」そのものズバリの名称を表すのに dn̥ǵʰwéh₂s 系の語が取り入れられていたりする。例えばテルグ語の జిహ్వ(jihva)、ネパール語の जिब्रो(jibro)、シンハラ語の දිව(diwa)(後の二つは印欧語族)がその例だが、これはあくまで「舌」だけであって「ことば」の意味はないようだ。言い換えると印欧祖語の「舌」がだんだん抽象性を高めて「ことば」という意味を獲得していったのとは逆に「話す、言う」という言葉が抽象性を失って「舌」という意味になったりはできなかったわけだ。
 続いて北京語と広東語の「言語」(「語言」でも「言語」でも「言葉」の意味になるらしい)に「舌」の意味はないが、これはチベット語も同じで「舌」は ལྕེ (lce)。表には出さなかったがシッキム語にはチベット語の「ことば」、སྐད(skad)と同じ形の語があり、「声」とか「音声」の意味も兼ねている。いずれにせよ「舌」とは無縁だ。
 ビルマ語 စကား(ca.ka:)も「非舌系」なのは黄色に塗った通りだが、စကား は「言語」の他にも「語」という意味を兼ねており、日本語の「ことば」という言葉とまさに一緒である。 またビルマ語にはその他に ဘာသာစကား(bhasaca.ka:)という「ことば」と言う言葉」があるが、この前部 ဘာသာ(bhasa)はもちろんサンスクリットからの借用。後部が本来のビルマ語というわけで、ダブル構造になっているのが面白い。この記事の冒頭部で述べたアイスランド語と違って借用語に同じような意味の自国語を説明的に付加した構造だ。こういう構造は他の言語でも頻繁に見られ、例えばドイツ語ではちょっと前に「津波」のことを Tsunami-Welle、つまり Tsunami-wave と言っていた。同様に「鯉」を Koi-Karpf という。Karpf というのがドイツ語で「鯉」である。日本語でも私が子供のころはピザのことをピザパイと呼ぶ年配の人とかがいた。「パイ」も外来語ではあるが、古くから入ってきていたので当時すでに日本語化していて、「ピザ」とはいったいどのようなものか説明する役割を担っていたわけだ。
 あとちょっと補足しておきたいのだが、「舌組」にせよ「非舌組」にせよインドの印欧語族にはアラビア語 لِسَان (lisān)からの借用形が併用されている言語が散見される。ペルシャ語の لسان (lesân)、ウルドゥ語の لِسان (lisān)、ヒンディー語の लिसान(lisān)などの例が見つかった、ヒンディー語にまで浸透しているところを見るとこの借用現象はイスラム教言語限定ではないようだ。探せばもっと例があるかも知れない。以前に「本」をいう言葉がアラビア語から借用されていることが多いと書いたが(『7.「本」はどこから来たか』参照)、改めてアラビア語の凄さを感じる。

 さて引き続きアジアをもっと見ていってみよう。
Tabelle5-220
まず東南アジアはほとんどインド南部の言語と同じくサンスクリットの「話す=ことば」भाषा(bhāṣā)からの借用である。アウストロネシア諸語のインドネシア語、ジャワ語は一目で明らかだが、シャン語、タイ語、クメール語、ラオ語も全てこれだ。仏教と共に言葉も輸入されたのではないだろうか。タガログ語だけは形が違っているが、出所はやはりサンスクリットで चरित(caritá)という語から来ているそうだ。「動く、行動する」という意味である。うーん…
 ベトナム語のは中国語の借用だそうだが、とにかく東南アジアはサンスクリットあるいはプラークリットの波を被りまくっていることがわかる。比較のために最も遠いところにあるアウストロネシア諸語のマダガスカル語の例をあげておいたが、さすがにここまではサンスクリットの影響が及んでいない。
 さていよいよ我が東アジアである。中国語は既にみたが、日本語、韓国語、アイヌ語も共に「話す、言う」と関係する自国語の言葉で、「舌」とは全く別だ。韓国語の말 には日本語の「ことば」同様、language  と言う意味も word という意味もある。上のビルマ語と同じだ。そして日韓両言語とも本来の自国語の他に中国語からの借用語も使われている。日本語の「言語」、韓国語の언어(eoneo)だ。アイヌ語も「ことば」は「言う」で、「舌」は aw(-e-he) だから全然違う。
 ところが東アジアでもモンゴル語の хэл(xel)は「舌」の意味も兼ねていて、微妙にテュルク諸語と繋がっている。それで考えたのだが、ヨーロッパのフィノ・ウゴールもテュルクも要するに北西アジアの民族だ。この点でモンゴルと一緒。『213.太平洋のあちらとこちら』でも述べたように、松本克己教授が日本語とテュルク語やモンゴル語との距離を強調し、日本語、アイヌ語は北方アジアの言語とは実は一線を成し、東南アジアの言語などと「環太平洋言語」としてまとまりを見せるのではないかといっていたが、そうかもしれない。余計なお世話としてメキシコのナワトル語を調べてみたらあれまあ「ことば」は「話す」で表すではないか。「舌」は nenepili といって全然別の形だ。

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 マリア Maria という名前があるが、これをナワトル語で Malintzin という。後ろについた -tzin というのはいわば丁寧語の接尾辞で、日本語で言えば「お」だろうか。江戸時代に例えば「シマ」という名前の女性を「おシマさん」と呼んだようなものだ。-in は多分ナワトル語の音韻か形態素を整える働きだろうから、つまり Maria は Malia。要するにナワトル語は l と r の区別をしないのである。日本語やアイヌ語と同じだが、流音が一つしかない言語は別に珍しくはなく、東アジアの言語は韓国語から中国語からモンゴル語から皆そうだ。太平洋の向こう側ではナワトル語の他にケチュア語もこのタイプである。
 さらにナワトル語にはソナント以外には有声子音がない。b、d、g、z がないのである。ないというより無声子音と有声子音の音韻対立がないといったほうが正確だろう。ナワトル語には無気と帯気の対立もないから、「l と r の区別がない」と言う点ではお友達であった中国語、韓国語とは袂を分かつ。日本語には無気と帯気の区別がない点ではお友達だが、その代わりb、d、g、z などの有声子音を区別する。するはするがこれら有声音は本来の日本語には存在しなかったのではないかと言う言語学者は少なくない。これらの音は中国語の影響によって後から生じたというのである。それが証拠にb、d、g、z などの音は「ば・だ・が・ざ」というように元の文字「は・た・か・さ」に濁音を付加して表す。無声子音の方がデフォなのだ。だから日本語も昔はナワトル語とお友達だったのかもしれない。
 これらの「流音が一つ」、「無声と有声の対立がない」「無気と帯気の対立がない」という特徴を今に至るも保ち続けている言語はアイヌ語だ。それでふとナワトル語とアイヌ語はすごいお友達なのではないかと思った。スケールの大きな話だ。それだけに一掃アイヌ語が消滅寸前なのが残念でならない。
 ところがさらにナワトル語の入門書を読み進んで文法に行くと、両言語の類似点は「ふと」どころではなさそうなことがわかる。どちらもいわゆる抱合語 polysynthetic languages で、動詞の語幹を核にして人称表現、時表現などがベタベタ頭や尻にくっつき、動詞が肥大するのである。「いわゆる」と言ったのは、この抱合語という用語の意味が毎度のことながら言語学者によって少しずつ違うので、細かくこだわりだすと先に進めなくなるからだ。ここでは一般に把握されている意味での抱合語という大雑把な把握でお許し願いたい。
 前にもちょっと述べたが、ナワトル語は動詞に人称接頭辞がついて「語形変化」する。まずバレンツ価1,つまり主語だけを要求する ēhua(「出発する」)という自動詞を見てみたい。
Tabelle1-213
â という表記は母音の後ろに声門閉鎖音が続くという意味で(『200.繰り返しの文法 その1』参照)、複数形のマーカーである。接頭辞として付加される人称形態素だけとりだすと以下のようになることがわかる。3人称では単複共にゼロマーカーとなる。
Tabelle2-213
(i) と母音を括弧に入れて挿入したのは、動詞が子音で始まる場合は i が挿入されるからだ。ナワトル語は語頭には連続子音を許さないからである。例えば miqui(「死ぬ」)という動詞は次のようになる。
Tabelle3-213
二人称複数形に i がついていないのは mm という子音連続が語頭に立たないからだ。
次にバレンツ価2,主語と目的語を取る他動詞だが、主語を受け持つ接頭辞に目的語を表す接頭辞をつける。ということは主語マーカーと動詞との間にさらなる人称接頭辞が挟まってくることになる。今度はまず最初に人称形態素だけ取り出して表にしてみよう。
Tabelle4-213
主語と目的語が一致する場合は普通の人称接頭辞とは別の再帰接頭辞を使うので n(i)- +-nēch-、t(i)- + -mitz- などの組み合わせはあり得ない。3人称だけは「彼が彼を」と言う場合、主語の彼と目的語の彼は違う人物であり得るのでOKだ。itta(「見る」)という動詞で見ると:
Tabelle5-213
ここでは主語が単数の場合のみ示したが、複数主語の場合は上で見たように動詞の最後に声門閉鎖音が入るから、「彼らが彼を見る」は quittâ、「彼らが彼らを見る」は quimittâ。また「彼」は「彼女」でもあり得るのだが、面倒くさいので「彼」に統一した。
 では主語や目的語が代名詞でなく普通の名詞の場合はどうするのか。例えば「その男が死ぬ」などである。そういうときは動詞の外側に拡張子(?)として名詞を立てる。動詞の接頭辞と名詞とが呼応することになる。

ø-miqui in tlācatl
3.sg-die + the + man
その男が死ぬ

動詞の現在形は英語で言う現在進行形の意味にもなれるので、「その男が死んでいっている、死にそうだ」ともとれる。3人称の主語が単複共にゼロマーカーをとることは上で述べた。「その男たちが死ぬ」なら名詞と動詞が複数形(『200.繰り返しの文法 その1』参照)になる(太字)。

ø-miquî in tlācâ
3.pl-die + the + men
その男たちが死ぬ

自動詞なら拡張名詞が必要になるのはゼロマーカーの3人称のときだけだから、語順を除けば the man dies や the men die といった英語などと一見並行しているように見えるが、文構造の本質は全く異なる。他動詞では3人称の目的語が拡張名詞と接頭辞が呼応することになる(太字)。比較のためまず主語が接頭辞のみの一人称の例をみてみよう。

ni-qu-itta in calli
1.sg-3.sg-see + the + house
私が家を見る。

主語も目的語も3人称になると当然拡張名詞が二つになる。

Ø-qu-itta in cihuātl in calli
3.sg-3.sg-see + the + woman + the house
その女が家を見る。

基本語順は VSO なのがわかるが、目的語が不定名詞だと目的語が前に来てVOSになる。

Ø-qui-cua nacatl in cihuātl
3.sg-3.sg-see + meat + the + woman
その女が肉を食べる

さらにトピック化した名詞(主語でも目的語でも)は動詞の前に来たりするのでややこしいが、どちらの名詞も不定形だったり逆に双方定型だったりして意味があいまいになるそうなときは主語名詞が先行するのが普通だ。もっともどうしようもない場合もある。

Ø-qui-tlazòtla in pilli
3.sg-3.sg-love  + the + child

は「彼がその子を愛する」なのか「その子が彼を愛する」なのかわからない。文脈で判断するしかない。
 動詞接頭辞としてはこれらの人称代名詞のほかにも someone、something を表すものや再帰接頭辞、また方向を表現するものなどあって順番も決まっているのだがここでは省く。

 さて上で述べたようにアイヌ語も動詞に人称を表す接頭辞がつく。以下はちょっと資料が古いのだが、金田一京助、知里真志保両氏による。まず主語マーカーを見てみよう。上のナワトル語と比べてほしい。
Tabelle6-213
アイヌ語には雅語と口語の二つのパラダイムがあり、口語では一人称複数形に包含形と除外形の区別がある(『22.消された一人』参照)。日本語なら文語と口語の違いだろうが、文語、ファーガソンの言うHバリアントは必ずしも「書き言葉」とは限らない。文字を持たない言語にも古い形が口伝えで保存され、場所を限って使われ続けることがあるのだ。「口承の文語」というわけだが、いろいろな言語でその存在が確認されている。どちらにせよ形態素の形そのものがナワトル語とは全然違うので両言語間のいわゆる「親族関係」やらを云々することはできまい。だが、3人称はゼロマーカーという点が全く同じで感動する。次に目的語の接頭辞だが、目的語についても3人称がゼロマーカーになる点が上のナワトル語と異なる。
Tabelle7-213
まず主語、目的語の両方を持つ他動詞の構造を見てみよう。主語の接頭辞の次に目的語接頭辞が続き、最後の動詞語幹が来る。ナワトル語にそっくりだ(繰り返すが似ているのは構造だけで形態素そのものの形は全く似ていない)。kore(「与える」)という動詞で見ると:
Tabelle8-213
「彼が彼(ら)に与える」の形は資料にはなかったので私が再構築したものである。次に口語だが雅語と比べてイレギュラーな点がいくつかある。
Tabelle9-213
「私があなたに与える」は資料では確かにこの表のようになっていたのだが、e-kore の誤植かもしれない。事実 e-kore-ash という方言形があるそうだ。「彼が彼(ら)に与える」は上と同様私の勝手な判断である。大きく目を引く点は、主語が一人称で目的語が2人称の場合は一人称主語が脱落する。しかしここには出さなかったがその2人称目的語が尊敬形、-i- だと主語は脱落しない。この一人称は別の所でもおかしな挙動をし、例えば自動詞ではナワトル語と違って一人称主語マーカーが後置される。つまり接頭辞でなく接尾辞になるのだ。それで「入る」という動詞 ahun の雅語一人称単数「私が入る」は ahun-an。口語だと定式通りku-ahun である。ではこの一人称主語接尾辞は雅語だけの現象かと言うとそうではなく「私が笑う」は mina-an、nina が「笑う」だ。
 次に3人称の主語や目的語が普通の名詞だったらどうなるのか。アイヌ語も拡張子がつく。「私が酒を飲む」は:

sake a-ku
sake + 1.sg-drink

「あなたが猫を追う」は:

meko e-moshpa
cat + 2.sg-hunt

主語も目的語も3人称の場合は動詞が裸になる。

Seta meko noshpa
dog + cat + ø-ø-hunt
犬が猫を追う

基本的にはナワトル語と同じだ。ただアイヌ語は語順がナワトル語よりやや厳しいらしく、拡張子もSOVの一点張りらしい。
 さて上の「与える」という動詞の例だが、ちょっと待てと思うのではないだろうか。「与える」はバレンツ価が3,主語と間接目的語の他に「何を」、つまり直接目的語がいるからだ。残念ながら金田一氏の本にはそこの詳しい説明がなかったのでちょっとこちらで勝手にナワトル語から類推して考えてみよう。
 上で見たようにナワトル語の(アイヌ語も)人称接頭辞や名詞には格を表す形態素がない。だから対格目的語も与格目的語も要するに目的語、形の上での区別はないが「目的語を二つとる動詞」はある。ナワトル語文法には bitransitive (二重他動詞?)という言葉が使ってあるが、その代表が「与える」 maca だ。「私があなたにそれを与える」という場合、「私」という接頭辞が先頭、次に「あなた」が来て3番目に3人称単数の接頭辞が来るはずなのだが、目的語接頭辞は二つつくことはできないという規則があり、3番目に来るはずだった目的語3人称の接頭辞は削除される。事実上「私-あなた-動詞」という形になるわけだ。与えられたものが名詞である場合は拡張子がつく。例えば

Ni-mitz-maca in xōchitl
1.sg.-2.sg-give + the + flower(s)

は「私があなたに花をあげる」という意味になる。「花」という名詞(太字)は動詞内に呼応する要素を持たない。また花の受け取り手が「その女性」である場合は本来「私-彼女-それ-動詞」だが、「私-彼女-動詞」になり、拡張子が二つつく。

Ni-c-maca in cihuātl in xōchitl
1.sg.-3.sg-give + the + woman + the + flower(s)

「その女性」だけが動詞内に呼応要素を持ち、「花」は相変わらず宙に浮く。また3人称が主語のときは主語がゼロマーカーだから、目的語接頭辞が一つつくだけ。

Qui-maca in Pedro cōzcatl in cihuātl
ø-3.sg-give + the + Pedro + jewellery + the + woman
ペドロがその女性に宝石をあげる。

拡張子が3つ付加されているが、「宝石」は不定形だから「その女性」の前に来る。
 実は3人称の目的語が複数だった場合は複数マーカーだけ残ったりするのだが、もうこれで十分だと思うので(すでにゲップが出ている)それは無視し、基本の「2番目の目的語接頭辞は削除される」という原則にのっとってアイヌ語の「与える」kore の使い方を類推してみよう(アイヌ語ではそもそも3人称は常にゼロマーキングだが)。主語が一人称単数だと「私があなたに酒をあげる」は口語ではこうなるのではないだろうか。

Sake echi-kore

前述のように一人称単数主語は口語ではイレギュラーだが、雅語だと接頭辞が二つ、拡張子はつくが動詞内に呼応する要素がないという原則通りの形になるだろう。

sake a-e-kore

「あなたが私に酒をくれる」ならこうなりそうだ。

sake e-en-kore

問題は拡張子が二つ以上重なったらどうなるかだ。例えば「パナンペが私に酒をくれる」「パナンペが美智子に酒をあげる」はそれぞれ

Panampe sake en-kore
Panampe Michiko sake kore

とでも言うのだろうか。知っている人がいたら教えてほしい。

 前に松本克己教授が日本語、アイヌ語、さらに太平洋の向こう側のナワトル語、ケチュア語も含めた環太平洋の諸言語には一定のまとまりがあり、これによって日本語とアルタイ語は明確に袂を分かつと主張していたが、こういうのをみるとなるほどと思う。

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 人間の手の指の数を元にしているからだろうと思うが、アラビア数字など数の体系は十進法である。数そのものは10進法なのに数詞の方は10進法でないことが多々あり、いろいろ悶着が起きることは『81.泣くしかない数詞』でも書いた通りだ。12進法の名残が残っている言語も多い。3でも4でも割れるから本来12進法の方が便利なんじゃないかとも思うがまあ小数点や分数を使えば済むことだから別に10進法に反旗を翻す必要もあるまい。
 現代日本語の数詞は10進法とよくマッチしていて10まで数詞を暗記すれば99まで言える。11は10+1,12は10+2と1の位を10の後に言って順々に進み、20まで来たら今度は2の方を10の前につければいいからだ。英語の eleven、twelve などのように変な単語は出て来ないし、10は常に「じゅう」、2はいつも「に」で thirteen のように10が間延びしたり、twenty のように2が化けたりしない。10が10個あると「じゅうじゅう」とはならないで「ひゃく」という新しい単位になるが、これはそうやって時々更新せずにいつまでも10までの数詞で表現すると数が大きくなるにつれて収集がつかなくなり、コミュニケーションに支障がでるからだろう。「じゅうじゅう」くらいならまだいいが、1000になると「じゅうじゅうじゅう」、10000は「じゅうじゅうじゅうじゅう」で、言うのも大変だが聞く方も「じゅう」が何回出たかきちんと勘定していなければならない。「じゅう」を一回でも聞き違ったり言い違ったりすれば桁が違ってくるから常に緊張していなければならないから、本当に油断も隙もない。何桁目かで新しい数詞を入れて一息つける場所はどうしても必要だ。それで「ひゃく」という言葉が出れば200は20と同じメカニズム、100の前に2と言って表すから100という言葉を覚えれば999まで言うのに何の問題もない。100が10あると再び「じゅうひゃく」とはならず新しい「せん」という単位になる。その千が10あると「じゅうせん」でなく万となり、その後は4桁ごとに新しくなる。
 実は母語が英語やドイツ語の人に日本語の数詞を教えるとこの「1000からは4桁ごとに」という部分で躓く人が結構いる。英独語では1000からは3桁ごとに更新されるからだ。最初に「日本語では10×1000が新しい単位になる」と釘を刺し、4桁システムを図に書いて念を押してやっても、13000と書いて「これを日本語で言ってみろ」というと「じゅうさんせん」と答える輩が必ずいる。「じゅうせんという言葉はありません。10000は万というんですってば」というと3分くらい考えてから「じゅうさんまん」と答えたりする。「じゅう」という言葉が頭の中にこびりついて離れないのである。一種の言語干渉だ。そこで10000+3000と分け、「この2つの部分をバラバラに言ってみろ」と言ってやっても「じゅうまんさんぜん」などと外す人がいる。目の前に図がかいてあるのにである。そこでシビレを切らせて「いちまんさんぜんだろがよこのバカタレ」と怒鳴りつけると(嘘)、「そうなんだ!」とクイナの新種を発見したかのように感動される。たかが一万でこの調子だから十万、百万、千万、果ては億の単位になるとスリルが倍増する。しかもこれは数字を書いてそれを読ませているだけだからまだラクチンで、グレードアップして数字をドイツ語でいい、例えば「zwei und achzig Millionen(two and eighty millions、ドイツ語では一の位を十の位の前に言う)と日本語で言え」と言われてソラで答えられる人は少数派だ。大抵自動的に「はちじゅうに…」と直訳しだす。「安直に直訳すんな田吾作」と怒鳴ると(怒鳴らない)、そばの紙切れに数字を書いてゼロを勘定しだす。それでもまだ数え間違えて「はちおくにひゃくまん」と言ったり「はちまんにじゅうまん」と日本語がゲシュタルト崩壊したりいやもう面白いのなんの。自分は暗算が苦手と言う日頃のコンプレックスも吹っ飛ぶ面白さだ。中国人は桁取りが日本語と同じ(というより日本語が中国語と同じ)だから数字を見て日本語でいう分には楽勝なのだが、数字をドイツ語でいうとそのドイツ語のほうの数詞を把握するのに手間取る。これは私もそうだったから気持ちはよくわかる。私もミリオンとか言われても今一つ感覚がつかめなくて戸惑った。やはり「百万」と言ってもらわないと気分が出ない。
 
 今までそうやって「はっせんにひゃくまん」がスッと出ない人を見て己の暗算コンプを解消して嬉しがっていたら、バチが当たったらしくコンプの鉄槌が今度は私の頭上にやってきた。
 世の中には20進数を基本にして桁取りする言語も結構ある。両手両足の指の数である。有名なのがフランス語で、60までは正常(?)だが、70になると突然20進法が顔を出し、70は60+1、71は60+11、76は60+16、77になると17という一語がないので60+10+7。80はさらに露骨で4×20、81は4×20+1、90は4×20+10、91が4×20+11と言うので一瞬電卓に手が伸びかけるが、所詮それも100までだから一瞬伸びた手はすぐ引っ込む。1000を過ぎれば3桁ごとに新しくなり、1000で mille、10000が million、つまり英語ドイツ語と全く同じである。100までの数詞に少しくらい20進法が出てくるくらい可愛いもんだ。問題は100を過ぎても延々と20進数を貫くスゲー言語があることで、これはさすがに電卓か計算用メモ帳が必要になって来る。

 たとえばナワトル語だ。ナワトル語には百という言葉がない。 5×20という。120は 6×20、200は10×20である。20×20の400になってやっと新しい単位になる。それでは20
までは全部違う名称で丸覚えかというと、そうではなく5、10、15で一息つけるようになっている。これは何も学習者が小休止できるようにサービスしているわけではなくて片手片足の指の数だろうが正直余計混乱する。20進法なら20進法でいいから全てそれでやってくれよもう。
 まず20まで見てみよう。
Tabelle1-211
基本的に5ごとにベースが変わり、6は5+1、7は5+2、11が10+1、12は10+2、15はそれ自体一つの単語だから16から19までは15+1、15+2、… 15+4という構造になっているのがわかる。「基本的に」といったのは5については数詞は mācuīlli、合成数詞を作る形態素のほうは chiuc と違う形をしているからだ。だが原則は変わらない。11から14、16から19までの1の位についている接頭辞 on- または om- は and  という意味である。
 なお、ここで使ったナワトル語の表記は広く流布している正書法より音韻記述が正確で長母音・短母音の違いがしっかり表示されているが、その元になっているのは17世紀にスペインの宣教師 (生まれはフィレンツェ)オラシオ・カロチ Horacio Carochi が著した文法書で、ローマ字を英語読みしてはいけない。ce、ci はそれぞれ se、si だし、co、ca、cu は ko、ka、ku、つまり c という同じ文字が違う子音を表すのである。では sa、su、so はどうなるのかというと z を使い za、zu、zo と書く。英語読み病にかかっていると z を有声音にしてざぜぞと読んでしまいそうになるが z は無声子音、英語のs である。だからs という字は使わない。では英語の z のような有声歯茎摩擦音はどうするんだと言うと心配はいらない。ナワトル語にはソナント以外の有声子音は存在しない、つまり英語の z の音はないからである。ke と ki はそれぞれ que、qui と表記する。またナワトル語に円唇子音 [ kʷ] があるがこれに母音が続く場合は c に u を続けて表す:cua、cue、cui。母音u と o は母音自体がすでに円唇音だからか、子音と両方円唇化するのは難しいのだろう、cuu、cuo は普通のcu、co となる。また円唇子音が子音の前か語末に来る場合は uc と書く。上述の chiuc の最後の子音がこれ。6で chicuacē とu とc  の位置が入れ替わっているのはここでは円唇子音に母音 a が後続するからだ。また ch は破擦音の[tʃ]、まあ英語の ch である。x は ks でなく[ʃ ]、英語の sh だ。hua、hui、hue は wa、wi、we。接近音の w が子音の前や語末に来ると先程の [ kʷ] のように u と h の位置を変えて uh とする。また ll などの重子音はスペイン語のように音価を変えずに律儀に [l:] と発音。さらに『200.繰り返しの文法 その1』でも少し述べたように tl は t と l のような子音連続ではない。二字使っているのはあくまで仕方なしにであって、これは ch と同じく一つの破擦音、流音と同時に舌で上あごの横っちょの隙間をこするである。文で説明すると難しそうだが発音自体は決して難しくはない。この流音破擦が l に続くと擦る部分が消えて単なる l になる:l+tl=ll。だから5 mācuīlli、15 caxtōlli、20 cempōhualli の最後尾についている lli という形態素は本当は ltli。tliというのは絶対格(能格対絶対格の絶対格とは意味が違うので注意)のマーカーで語幹につく。これらの単語は語幹が l で終わっているためマーカーが li になっているが、語幹が c でおわる10 màtlāctli では絶対格マーカーが本来通りtli で現れている。à と逆向きのアクセント記号がついているのか当該母音の後に声門閉鎖音が続くという意味なので à は [a?] だ。
 では発音がわかったところで被修飾語の名詞と数詞の順番についてだが、基本的には名詞の前に来る(太字)。

Ni-qu-itta ēyi cuahuitl
1.sg-3.sg-see + 3 + tree
I see three trees

さらに名詞に定冠詞がついていると数詞は動詞の前にさえ立てる。

Ēyi ni-qu-itta in cuahuitl
3 + 1.sg-3.sg-see + the + tree
I see the three trees

ナワトル語の数詞はシンタクス的には floating numeral quantifier 的(『158.アヒルが一羽二羽三羽』参照)なのかもしれないが、合成数詞(11~14と16~19)はなんと名詞を中に挟むことができる。

Ni-qu-itta màtlāctli omōme cuahuitl
1.sg-3.sg-see + 12 + tree

Ni-qu-itta màtlāctli cuahuitl omōme
1.sg-3.sg-see + 10 + tree + and-2

どちらも I see 12 trees である。

 さてこれからが本題である。20 cempōhualli は実は cem-pōhualli と形態素分析でき、cem- はcē、つまりcempōhualli は1×20である。21は上の11、16とメカニズムが同じで20+1、cempōhualli oncē、25は  cempōhualli ommācuīlli、26  cempōhualli onchicuacē でまあ日本語やドイツ語と同じだが、30は1×20+10、cempōhualli ommàtlāctli なのでそろそろ注意が必要になってくる。31は1×20+10+1だからcempōhualli ommàtlāctli oncē かと思うとそうではなくて、プラスが複数並列する場合は on あるいは om を連続させることを避けて二番目のプラスに īpan または īhuān を使い、cempōhualli ommàtlāctli īpan cē となる。38は1×20+15+3、 cempōhualli oncaxtōlli īpan ēyi。40は2×20で、以後20進法で次のように続く。
Tabelle2-211
だんだん20 pōhualli という単語を見るとゲップがでそうになってきたが、この調子で50は2×20+10、ōmpōhualli ommàtlāctli、75が3×20+15、ēpōhualli oncaxtōlli、125が6×20+5、chicuacempōhualli ommācuīlli。この辺はまだいい。220は(10+1)×20、màtlāctli omcempōhualli、340は(15+2)×20、caxtōlli omōmpōhualli だが、この220や340も11や17などの合成数詞が入っているからそれをバラしてそれぞれ10×20+1×20、màtlācpōhualli īpan cempōhualli、15×20+2×20、caxtōlpōhualli īpan ōmpōhualli ということもできる。これらは20で割り切れるからいいが端数の出る数字はややこしさが増し、330は(15+1)×20+10、caxtōlli oncempōhualli īpan màtlāctli、333が(15+1)×20+(10+3)、caxtōlli oncempōhualli īpan màtlāctli omēyi だ。ここで10+3をわざわざ括弧に入れたのはなぜ上の38と違って on- または om- の複数使用が許されるのかをはっきりさせたかったからで、プラスが階層構造になっていて単なる並列ではないという意味だ。
 この後やっと400、20×20になってtzontli という新しい単位となる。そしてそれがまた20倍になると20×(20×20)、8000 xiquipilli という単位になる。上の20と同じく、400と言う時も頭に1とつけて1×400と表現するから centzontli になる。以下ちょっと見てみよう。
Tabelle3-211
4800は màtlāctzontli īpan(または īhuān)ōntzontli ということもできる。実は参照した Michel Launey の入門書(Christopher Mackay 翻訳編集)には  màtlāctzontli īpan omōntzontli とあったが、これは誤植だと思う。4000×X+400×X、あるいは400×X+20×X という場合のプラス部は om-/on- でなく īpan を使うため500は centzontli  īpan nāuhpōhualli (1×400)+(5×20)、日本語だと「せん」の一語ですむ1000は2×400+10×20、ōntzontli īpan màtlācpōhualli と複雑なのに2000になると突然簡単になって5×20、mācuīltzontli。どうも調子が狂う。5000は再び20進法の本領発揮で(10+2)×400+10×20、màtlāctli omōntzontli īpan màtlācpōhualli。1482のように細かくなると3×400+(10+4)×20+2、ētzontli īpan màtlāctli onnāuhpōhualli īpan ōme、1519が3×400+15×20+(15+4)、ētzontli īpan caxtōlpōhualli īpan caxtōlli onnāhui、たかが736が1×400+(15+1)×20+(15+1)、centzontli īpan caxtōlli oncempōhualli īpan caxtōlli oncē という騒ぎ。おい電卓を持ってこい。
 おお、電卓が来たか。では少し先を見てみよう。上で述べた通り400の次に新しい単位になるのはそれがまた20倍になってから、つまり8000 cenxiquipilli あるいは cēxiquipilli になるまでお預けだ。28000は3×8000+10×400、ēxiquipilli īpan màtlāctzontli、141927は(15+2)×8000+(10+4)×400+(15+1)×20+7、caxtōlli omōnxiquipilli īpan màtlāctli onnāuhtzontli īpan caxtōlli oncempōhualli īpan chicōme。
 理屈から行けば8000の20倍、160000でまた新しい単位になりそうなもんだが、残念ながらというか幸いというか、そのまま8000 xiquipilli が使われ続け、(1×20)×8000、 cenpōhualxiquipilli になるらしい。3200000なら(1×400)×8000、 centzonxiquipilli である。

 ナワトル語の20進法ぶりのことは数学者の遠山啓氏も『数学入門』で言及しているが(ただしそこではナワトル語と言わずにアズテック(語)と呼んでいる)、遠山氏によるとマヤ語もこの方式なんだそうだ。もっともなにも太平洋を越えるまでもなくアイヌ語も20進法である。
 アイヌ語の数詞を見てみよう。アイヌ語はローマ字読みでいい。ナワトル語と違って「5」が登場してくることはないが、その代わり6から9までは10を基準にした引き算になっている。
Tabelle4-211
6の i- は ine と同じで4と言う意味。つまり6は10−4。同様に7の ar-  は3 re、つまり10−3。8 tup-e-san の tup は tu、e-san は「足りない」だから8は「二つ足りない」、同様に9は「一つ足りない」である。こりゃあナワトル語よりさらに油断がならない。11~19についている  ikashma は「余り」で、11、12はそれぞれ「とおあまりひとつ」「とおあまりふたつ」だが、一の位を十の位より先に言う点がドイツ語といっしょである。以下100まで見ていくとこうなる。
Tabelle5-211
30、50、70、90では−10の部分が先に来るので正確には−10+(x×20) だろう。そこの -e- という形態素(太字)は「で以って」「があれば」という接辞だそうで、30はつまり「あと10あれば40」という意味だ。参照した資料には残念ながら100までしか載っていなかったのだが、400や8000はアイヌ語ではどうなるか気になったのでちょっとネットを見てみたら、方言によって違いがあったり使用例が少なすぎたりしてどうもナワトル語のようにスカッと行かない。それでも200は10×20、wan hotne、400で新しい単位になり、600は(−10×20)+2×400と記している記事があった。8000はわからない。アイヌはメキシコ先住民のようには大きな数字を駆使して暦を作ったりしなかったから単位は400までで足りたのかもしれない。

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図表を画像に変更したりして一度記事を全面変更しましたが、その後今更英語にも包含と除外を区別する場合があることを安井稔教授が指摘しているのを見たのでさらに変更しました。再投稿します。言語と言うのは本当に驚くことばかりです。

内容はこの記事と同じです。

 セルジオ・レオーネ監督の代表作に Il Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されて The good, the bad and the ugly というタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜか Zwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zwei にして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。
 さらに日本でも I quattro dell’ Ave Maria、「アヴェ・マリアの4人」というタイトルの映画が『荒野の三悪党』になって一人タイトルから消えている。無視されたのは黒人のブロック・ピータースだろうか。だとすると人種差別問題だ。ドイツ語では原題直訳で Vier für ein Ave Maria。

 もっともタイトル上で無視されただけならまだマシかもしれない。映画そのものから消された人もいるからだ。レオーネと同じようにセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品 La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここで人が一人削除されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来なくなっているらしい。「らしい」というのは私が見たのはドイツの劇場公開版ではなく、完全版のDVDだからだ(下記)。劇場版では登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていた。ドイツ語のタイトルは Der Gehetzte der Sierra Madre でちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないが完全版のDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分である。件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。つまり劇場版では全く吹き替えされていない、ということは出てきていないということだ。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 ちょっと話が急カーブしすぎかもしれないがやはり「一人足りない」例に、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれたのがロシア語の мы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳すると we with you なのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でも you and I と訳す。同様にこの友達100人も「私と君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言う inclusive(包括的あるいは包含的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現は exclusive(排除的あるいは除外的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞 we にあたる表現に際して包含的なものと除外的なものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類の we を体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語の方言にもこの区別があるらしい。「少なからず」どころか実はこの区別を持つ言語は世界中に広がっているのだ。南北アメリカやアジアだけでなく環太平洋地域、南インドやアフリカ南部の言語にも見られる。さらに足元琉球語の方言にもある。印欧諸語やセム語にはないが、話者数でなく言語の数でみると包含・除外の区別は決して「珍しい」現象ではない。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左が inclusive、右が exclusiveの「我々」だ。
Tabelle1-22
あちこちの資料から雑多に集めてきたのでちょっと統一がとれていないが、とにかくアフリカ南部からアジア、アメリカ大陸に広がっていることがわかる。ざっと見るだけで結構面白い。
 ジューホアン語というのが見慣れないが、これがアフリカ南部、ナミビアあたりで話されている言葉だ。
 中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的に inclusive、exclusive 両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特に inclusive として用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群のエヴェンキ語にもこの対立がある。満州語とエヴェンキ語は inclusive と exclusive がそれぞれmusə と mit、bə と bū だから形まで近い。
 問題はハワイ語やジューホアン語の双数・複数という分類だ。これらは安易にウィキペディアから持ってきた例だが、双数と言うのはつまり私が一人、あなたも一人の合計二人、複数ではこちら側かあちら側かにさらにもう一人いて3人以上、つまり複数なのかと思うとどうも事情は常にそう簡単ではないらしい。言語によっては双数とやらは実は単数あるいは非複数と解釈するべきで、それを「双数」などと言い出したのは、1.文法には数、人称というカテゴリーがあり、2.人称は一人称、二人称、三人称のきっちり三つであるという思考枠から出られない印欧語頭の犯した誤解釈だというのである。これは松本克己教授の指摘だが(もちろん氏は「印欧語頭」などという下品な言い回しは使っていない)、そもそも「一人称複数で包含と除外を区別」という言い方自体に問題があるそうだ。包含形に単・複両形を持つ言語は消して珍しくない。たとえば松本氏の挙げるニブフ語(ギリヤーク語)の人称代名詞は以下のような体系をなしている。
Tabelle2-22
人称は3つだけではないと考えさえすれば極めてすっきりした体系なのに、パンフィーロフ Панфилов В. З というソ連の学者は「1人称でも2人称でも3人称でもない人称」を見抜くことができず、話し手と聞き手が含まれているのだから単数とは見なせないと考えて、全くニブフ語の言語感覚を逸脱した「双数」という概念を藪から棒に一人称にだけ設定して次のように記述した。思い切りわかりにくくなっている。
Tabelle3-22
包含形を一人称複数の一種とせずに独立した一つの人称カテゴリー(包含人称あるいは一人称+二人称)とみなさざるを得ないのはアイマラ語も同じだ。アイマラ語は数のカテゴリーがないが、後に特殊な形態素を付けて増幅形をつくることができる。
Tabelle4-22
上のように hiwasa と naya-naka を比べても唐突すぎてよくわからないが、こうすれば体系をなしているのがよくわかる。さらに南太平洋のトク・ピシンも同じパターンなのが面白い。
Tabelle5-22
トク・ピシンというのは乱暴に言えばメラネシアの現地語の枠組みの上に英語が被さってできた言語だ。mi というのは英語の me、yu は you である。yumi で包含人称を表わすというのはまことに理にかなっている。トク・ピシンには本当に一人称双数形があるが、パンフィーロフ氏はこれをどうやって図式化するのだろう。不可能としか言いようがない。
 それではこれらの言語での包含人称とやらの本質は何なのか。例えばアイヌ語の(いわゆる)一人称複数包含形には1.一人称の間接表現(引用の一人称)、2.2人称の敬称、3.不特定人称の3つの機能があるそうだ。3番目がポイントで、他の言語とも共通している。つまり包含人称は1・2・3人称の枠から独立したいわば第4の人称なのである。「不特定人称」「汎人称」、これが包含形の本質だ。アメリカの言語学では初め inclusive の代わりに indefinite plural または general plural と呼んでいたそうだ。plural が余計なのではないかとも思うが、とにかく多くの言語で(そうでない言語もあるだろうが)包含対除外の単純な二項対立にはなっていないのである。
 そもそも一口に人称代名詞と言っても独立形か所有形(つまりある意味「語」でなく形態素)か、形の違いは語形変化によるのか膠着かによっても機能・意味合いに差が出てくるからまだまだ議論分析の余地が大ありという事だろう。
 
 ところで私の感覚だと、日本語の「私たち」と「私ども」の間にちょっとこの包含対除外のニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまり exclusive 寄りの意味が強いのではないだろうか。実はこの点を松本教授も指摘していて、それを読んだとき私は「おおっ、著名な言語学者を同じことを考えてたぞ私!」と万歳三唱してしまった。これは私だけの考えだが、この「私たち」と「私ども」の差は直接 inclusive 対 exclusive の対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えると inclusive 対 exclusive の対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれない。
 また上述のロシア語 мы с тобой 、つまりある意味では包含表現は単純に ты и я(you and me)やмы(we)というより暖かい響きがあるそうだ。 まどみちおさんも実は一人抜かしたのではなくて、むしろ暖かい友だち感を強調したかったのかも知れない。登場人物を映画やタイトルでぶった切るのとは逆である。
 さらに驚くべきことには安井稔氏が英語にも実は inclusive と exclusive を表現し分ける場合があることを指摘している:
Let's go.
Let us go.
という例だが、前者は単に後者を短く言ったものではない。意味と言うか会話上の機能が違う。前者は Shall we go?(さあ行きましょう)、後者は Let us be free! (私たちを行かせてください、自由にしてください)と同じ、つまり Let's の us は相手が含まれる inclusiv、Let us の us は相手が含まれない exclusive の we である。
 
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 セルジオ・レオーネ監督の代表作に Il Buono, il Brutto, il Cattivo(邦題『続・夕陽のガンマン』)というのがある。「いい奴、悪い奴、嫌な奴」という意味だが、英語ではちゃんと直訳されて The good, the bad and the ugly というタイトルがついている。この映画には主人公が3人いて三つ巴の絡み合い、決闘をするのだが、ドイツ語タイトルではこれがなぜか Zwei glorreiche Hallunken(「華麗なる二人のならず者」)となっていて人が一人消えている。消されたのは誰だ?たぶん最後に決闘で倒れる(あっとネタバレ失礼)リー・ヴァン・クリーフ演じる悪漢ではないかと思うが、ここでなぜ素直にdrei (3)を使って「3人の華麗なならず者」とせず、zwei にして一人減らしたのかわけがわからない。リー・ヴァン・クリーフに何か恨みでもあるのか。
 さらに日本でも I quattro dell’ Ave Maria、「アヴェ・マリアの4人」というタイトルの映画が『荒野の三悪党』になって一人タイトルから消えている。無視されたのは黒人のブロック・ピータースだろうか。だとすると人種差別問題だ。ドイツ語では原題直訳で Vier für ein Ave Maria。

 もっともタイトル上で無視されただけならまだマシかもしれない。映画そのものから消された人もいるからだ。レオーネと同じようにセルジオという名前の監督、セルジオ・ソリーマの作品 La Resa dei Conti(「行いの清算」というような意味だ。邦題は『復讐のガンマン』)は、『アルジェの戦い』を担当した脚本家フランコ・ソリナスが協力しているせいか、マカロニウエスタンなのに(?)普通の映画になっている珍しい作品だが、ここで人が一人削除されている。
 この映画はドイツでの劇場公開時にメッタ切り、ほとんど手足切断的にカットされたそうだ。25分以上短くされ、特に信じられないことに最重要登場人物のひとりフォン・シューレンベルク男爵という人がほとんど完全に存在を抹殺されて画面に出て来なくなっているらしい。「らしい」というのは私が見たのはドイツの劇場公開版ではなく、完全版のDVDだからだ(下記)。劇場版では登場人物を一人消しているのだから当然ストーリーにも穴が開き、この映画の売りの一つであるクライマックスでの男爵の決闘シーンも削除。とにかく映画自体がボロボロになっていた。ドイツ語のタイトルは Der Gehetzte der Sierra Madre でちょっとバッチリ決まった日本語にしにくいのだが、「シエラ・マドレの追われる者」というか「シエラ・マドレの追われたる者」というか(「たる」と語形変化させるとやはり雰囲気が出る)、とにかく主人公があらぬ罪を着せられて逃げシエラ・マドレ山脈で狩の獲物のように追われていく、というストーリーの映画のタイトルにぴったりだ。でもタイトルがいくらキマっていても映画自体がそう切り刻まれたのでは台無しだ。
 私はもちろんこの映画を1960年代のドイツでの劇場公開では見ていないが完全版のDVDを見ればどこでカットされたかがわかる。ドイツ語吹き替えの途中で突然会話がイタリア語になり、勝手にドイツ語の字幕が入ってくる部分が所々あるのだ。これが劇場公開で切られた部分である。件の男爵はドイツ語吹き替え版なのにイタリア語しかしゃべらない。つまり劇場版では全く吹き替えされていない、ということは出てきていないということだ。
 この切断行為も理由がまったくわからない。ソリーマ監督自身がいつだったかインタビューで言っていたのを読んだ記憶があるが、このフォン・シューレンベルクという登場人物は、ドイツ人の俳優エーリヒ・フォン・シュトロハイムへのオマージュだったそうだ。なるほど人物設定から容貌から『大いなる幻影』のラウフェンシュタイン大尉にそっくりだ。背後には『エリーゼのために』をモチーフにしたエンニオ・モリコーネの名曲が流れる。そこまで気を使ってくれているのによりによってドイツ人がそれをカットするとは何事か。
 
 ちょっと話が急カーブしすぎかもしれないがやはり「一人足りない」例に、私も大好きなまどみちおさん作詞の「1年生になったら」という童謡がある。「一年生になったら友達を100人作って100人みんなで富士山に登りたい」というストーリーだ。実は当時から子供心に疑問に思っていたのだが、友達が100人いれば自分と合わせるから富士登山する人数は合計で101人になるはずではないのか。一人足りないのではないか。
 この疑問への答のヒントを与えてくれたのがロシア語の мы с тобой(ムィスタヴォイ)という言い回しだ。これは直訳すると we with you なのだが、意味は「我々とあなた」でなく「あなたを含めた我々」、つまり「あなたと私」で、英語でも you and I と訳す。同様にこの友達100人も「私と君たち友達を含めた我々100人」、つまり合計100人、言語学で言う inclusive(包括的あるいは包含的)な表現と見ていいのではないだろうか。逆に富士山に登ったのが101人である場合、つまり話者と相手がきっちりわかれている表現は exclusive(排除的あるいは除外的)な表現といえる。
 
 言語には複数1人称の人称表現、つまり英語の代名詞 we にあたる表現に際して包含的なものと除外的なものを区別する、言い換えると相手を含める場合と相手は含めない場合と2種類の we を体系的に区別するものが少なからずある。アイヌ語がよく知られているが、シベリアの言語やアメリカ先住民族の言語、あとタミル語、さらにそもそも中国語の方言にもこの区別があるらしい。「少なからず」どころか実はこの区別を持つ言語は世界中に広がっているのだ。南北アメリカやアジアだけでなく環太平洋地域、南インドやアフリカ南部の言語にも見られる。さらに足元琉球語の方言にもある。印欧諸語やセム語にはないが、話者数でなく言語の数でみると包含・除外の区別は決して「珍しい」現象ではない。ちょっと例を挙げてみると以下のような感じ。それぞれ左が inclusive、右が exclusiveの「我々」だ。
Tabelle1-22
あちこちの資料から雑多に集めてきたのでちょっと統一がとれていないが、とにかくアフリカ南部からアジア、アメリカ大陸に広がっていることがわかる。ざっと見るだけで結構面白い。
 ジューホアン語というのが見慣れないが、これがアフリカ南部、ナミビアあたりで話されている言葉だ。
 中国語は体系としてはちょっとこの区別が不完全で、「我們」は基本的に inclusive、exclusive 両方の意味で使われるそうだ。他方の「咱們」が特に inclusive として用いられるのは北京語も含む北方の方言。満州語の影響なのではないかということだ。そう言われてみると、満州語と同じくトゥングース語群のエヴェンキ語にもこの対立がある。満州語とエヴェンキ語は inclusive と exclusive がそれぞれmusə と mit、bə と bū だから形まで近い。
 問題はハワイ語やジューホアン語の双数・複数という分類だ。これらは安易にウィキペディアから持ってきた例だが、双数と言うのはつまり私が一人、あなたも一人の合計二人、複数ではこちら側かあちら側かにさらにもう一人いて3人以上、つまり複数なのかと思うとどうも事情は常にそう簡単ではないらしい。言語によっては双数とやらは実は単数あるいは非複数と解釈するべきで、それを「双数」などと言い出したのは、1.文法には数、人称というカテゴリーがあり、2.人称は一人称、二人称、三人称のきっちり三つであるという思考枠から出られない印欧語頭の犯した誤解釈だというのである。これは松本克己教授の指摘だが(もちろん氏は「印欧語頭」などという下品な言い回しは使っていない)、そもそも「一人称複数で包含と除外を区別」という言い方自体に問題があるそうだ。包含形に単・複両形を持つ言語は消して珍しくない。たとえば松本氏の挙げるニブフ語(ギリヤーク語)の人称代名詞は以下のような体系をなしている。
Tabelle2-22
人称は3つだけではないと考えさえすれば極めてすっきりした体系なのに、パンフィーロフ Панфилов В. З というソ連の学者は「1人称でも2人称でも3人称でもない人称」を見抜くことができず、話し手と聞き手が含まれているのだから単数とは見なせないと考えて、全くニブフ語の言語感覚を逸脱した「双数」という概念を藪から棒に一人称にだけ設定して次のように記述した。思い切りわかりにくくなっている。
Tabelle3-22
包含形を一人称複数の一種とせずに独立した一つの人称カテゴリー(包含人称あるいは一人称+二人称)とみなさざるを得ないのはアイマラ語も同じだ。アイマラ語は数のカテゴリーがないが、後に特殊な形態素を付けて増幅形をつくることができる。
Tabelle4-22
上のように hiwasa と naya-naka を比べても唐突すぎてよくわからないが、こうすれば体系をなしているのがよくわかる。さらに南太平洋のトク・ピシンも同じパターンなのが面白い。
Tabelle5-22
トク・ピシンというのは乱暴に言えばメラネシアの現地語の枠組みの上に英語が被さってできた言語だ。mi というのは英語の me、yu は you である。yumi で包含人称を表わすというのはまことに理にかなっている。トク・ピシンには本当に一人称双数形があるが、パンフィーロフ氏はこれをどうやって図式化するのだろう。不可能としか言いようがない。
 それではこれらの言語での包含人称とやらの本質は何なのか。例えばアイヌ語の(いわゆる)一人称複数包含形には1.一人称の間接表現(引用の一人称)、2.2人称の敬称、3.不特定人称の3つの機能があるそうだ。3番目がポイントで、他の言語とも共通している。つまり包含人称は1・2・3人称の枠から独立したいわば第4の人称なのである。「不特定人称」「汎人称」、これが包含形の本質だ。アメリカの言語学では初め inclusive の代わりに indefinite plural または general plural と呼んでいたそうだ。plural が余計なのではないかとも思うが、とにかく多くの言語で(そうでない言語もあるだろうが)包含対除外の単純な二項対立にはなっていないのである。
 そもそも一口に人称代名詞と言っても独立形か所有形(つまりある意味「語」でなく形態素)か、形の違いは語形変化によるのか膠着かによっても機能・意味合いに差が出てくるからまだまだ議論分析の余地が大ありという事だろう。
 
 ところで私の感覚だと、日本語の「私たち」と「私ども」の間にちょっとこの包含対除外のニュアンスの差が感じられるような気がするのだが。「私ども」というと相手が入っていない、つまり exclusive 寄りの意味が強いのではないだろうか。実はこの点を松本教授も指摘していて、それを読んだとき私は「おおっ、著名な言語学者を同じことを考えてたぞ私!」と万歳三唱してしまった。これは私だけの考えだが、この「私たち」と「私ども」の差は直接 inclusive 対 exclusive の対立というより、むしろ「ども」を謙譲の意味とみなして、謙譲だから相手が入っているわけがないと解釈、言い換えると inclusive 対 exclusive の対立的意味合いは二次的に派生してきたと解釈するほうがいいかもしれない。
 また上述のロシア語 мы с тобой 、つまりある意味では包含表現は単純に ты и я(you and me)やмы(we)というより暖かい響きがあるそうだ。 まどみちおさんも実は一人抜かしたのではなくて、むしろ暖かい友だち感を強調したかったのかも知れない。登場人物を映画やタイトルでぶった切るのとは逆である。
 さらに驚くべきことには安井稔氏が英語にも実は inclusive と exclusive を表現し分ける場合があることを指摘している:
Let's go.
Let us go.
という例だが、前者は単に後者を短く言ったものではない。意味と言うか会話上の機能が違う。前者は Shall we go?(さあ行きましょう)、後者は Let us be free! (私たちを行かせてください、自由にしてください)と同じ、つまり Let's の us は相手が含まれる inclusiv、Let us の us は相手が含まれない exclusive の we である。
 
この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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