アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

タグ:アイザック・アシモフ

 SF作家アイザック・アシモフの本で私が一番好きなのが実は自伝だ。肝心のSFの方は、『我はロボット』はさすがに小学生の頃(一回だけ)読んだが『銀河帝国の興亡』も『夜来たる』もまだ読んでいない。なのでとても「アシモフの読者です」とはいえないが、自伝だけは繰り返し読んだ。アシモフ博士をロール・モデルとして勝手に尊敬しているのだが、私なんかに尊敬されて博士も相当迷惑していたのでなかろうか。
 それにしてもアシモフ氏と私と比べてみると(比べること自体が侮辱かもしれないが)愕然とする。これでも同じ人類なのか。

1.博士は米国徴兵検査で計ったとき、知能指数が167とかあっていっしょに検査を受けた者の中では全米一だったそうだが、私はいつだったか就職試験で知能検査のようなものをされたとき、試験を受けた200人以上のなかで(人事部の人曰く)「文句なく最低点」を取ってしまったという折り紙つきの頭の悪さだ。

2.博士はボストン大学医学部教授と作家の二つの職業を両立しつづけ、世界人名事典などにも名前が載っているセレブだが、私の名などせいぜい高校・大学の卒業者名簿の隅のまた隅にしか載っていない。しかもその名簿も会費を払わずにいるため私の手元には届かない。

3.博士は若くして化学の博士号を取ったが、私は高校の授業で「アルファケトグルタル酸」という名前がおかしくて笑いの発作を起こし、化学の先生にどやされた大馬鹿だ。中学の時はメスシリンダーという器具の名前を教わり、さっそく「オスシリンダー」とギャグを飛ばそうと思ったら、理科の先生に「この器具の名前を言うと毎年必ず「オスシリンダー」と突っ込んで来る人がいますが、その駄ジャレはとっくに古くなってますからもうやめなさいね」と先手を打って牽制されてしまった。駄ジャレの先を越されるとさすがに見苦しい。

 こうやって比べていると、私などうっかりすると「人類の出来損ない」あるいは「害虫」として間引き・駆除されてしまいそうな案配だが、でも私を駆除するのはちょっと待ってほしい。たった一つ、ほんとうにたった一つだけ私のほうがアシモフ大博士に勝っている部分があるのだ。 それはロシア語動詞アスペクトだ。

 アシモフ氏はロシア(当時のロシアは現在のウクライナもベラルーシも含んでいた)生まれだが、3歳のときアメリカに移住したのでロシア語は出来なかった。ご両親の母語もロシア語でなくイディッシュ語だったそうだ。アシモフ氏自身はイディッシュ語・英語のバイリンガルだが、妹と弟はもう英語だけのモノリンガルだったという。家族の中で母語が変遷してしまった。この辺の話もとても興味深いが、とにかくアシモフ氏は大人になってからロシア語をやろうとして文法書を買ったと自伝にある。
 名詞の変化・動詞の活用を息も絶え絶えでクリアし、11章の「動詞アスペクト」まで来た時点でついに堪忍袋の尾が切れ、本を壁に叩き付けてロシア語を止めてしまったとのことだ。

 ロシア語は英語やドイツ語のように「行く」ならgoあるいはgehenと覚えればいいというものではない。はしょった言い方だが、あらゆる動詞がペアをなしていて、「行く」ならgo-1とgo-2の二つの動詞を覚えないといけない。1と2は使い方が決まっていて、同じgoでも1と2を間違えると文の意味が全然違って来てしまう。おまけに1と2は形に決まりがない、つまりどちらか一方を覚えればそこから自動的に他方を派生できるというワザが効かないので、闇雲に覚えるしかないのだ。例として次のようなペアを挙げてみる。それぞれ左が1、右が2だ。不定形が示してあるが、英語では一つの動詞ですむところがロシア語では動詞がそれぞれ二つあること、またその二つの動詞の形には一定の決まりがないことが見て取れるだろう。

записывать - записать (登録する)
кончать – кончить (終える)
махать – махнуть (振る)
говорить – сказать (話す)
делать – сделать (する)
читать – прочитать (読む)
писать – написать (書く)
идти – пойти (歩く)
избегать – избежать (避ける・逃れる)

ここでアシモフ氏は本を投げたが、私はまさにこのアスペクトという文法カテゴリーに魅せられて、それまで名詞や動詞の変化形が覚えられずにいいかげんもう止めようかと思ってたロシア語を続ける気になったのだった。

 ちなみにどの動詞をもってペアとなすかというのには決まりというか基準があって、ある過去形の文をいわゆる歴史的現在(presens historicum)に変換したとき使われる動詞同士(これは別にわざと駄ジャレを言っているのではない)をアスペクトのペアとみなすことになっている。歴史的現在とは過去の出来事を生き生きと描写するテクだが、この基準を提唱したのは私の記憶によればマースロフという言語学者だ。
 
 それは具体的に言うとこういうことだ。まず英語だが、普通の言い方と歴史的現在とでは次のように同じ動詞の現在形と過去形を使う。

And then Spartacus turned to the south and after three days arrived in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達した。

And then Spartacus turns to the south and after three days arrives in Syracuse.
→ それからスパルタクスは南に向かい、三日後にシラクサに到達する。
(歴史的現在)

 しかしロシア語だと、英語でturned, turns あるいはarrived, arrivesと同じ動詞が使われる部分で、それぞれ違う動詞が使われる。上の英語をロシア語で表すとそれぞれ次のようになる。太字の語を注目。

И тогда Спартак повернул на юг и за три дня добрался до Сиракуз.

И тогда Спартак поворачивает на юг и за три дня добирается до Сиракуз.
(歴史的現在)

повернул поворачивает がそれぞれいわばturn-2とturn-1、добралсядобирается がarrive-2とarrive-1に当たり、ペアをなしている。2の動詞はどちらも過去形、1のほうはどちらも現在形だ。上の表の動詞もそうだが、2のグループの動詞をロシア語文法では「完了体動詞」、1を「不完了体動詞」と呼んでいる。
 つまりこれらペアは活用などによって一方から他方が作られるのではなくて動詞そのものが違い、両方がまたそれぞれ独自に活用するのだ。 例えばповернул (turned)とповорачивает (turns)は、

不定形 поворачивать (to turn-1) (不完了体)
3人称単数男性:
поворачивал(過去)
поворачивает(現在)
удет поворачивать(未来)

不定形 повернуть (to turn-2) (完了体)
3人称単数男性:
повернул(過去)
現在形なし
повернёт(未来)

完了体動詞повернуть (turn-2)の方には現在形がない。

 これはこう考えるとわかりやすいかもしれない。
 「過去形」とか「未来形」とかは動詞の活用のカテゴリーであって、元の動詞は同じ一つの動詞だ。それに対して例えば名詞のカテゴリー「男性名詞」、「女性名詞」は一つの名詞を変化させて作られるのではなく(男性名詞から女性名詞を派生させることもなくはないが、これはむしろ例外現象だ)、元々の名詞がカテゴリー分けされている。 そこからそれぞれ、対格形fだろ複数形だろの語形変化を起こすわけだ。ロシア語の完了体動詞・不完了体動詞も言ってみれば「男性動詞」、「女性動詞」のようなものだ。

  私はまさにここ、アシモフ氏の挫折の原因となった部分で逆に切れそうになっていた堪忍袋の尾がつながったのである。一寸の虫にも五分の魂というか、私がアシモフ大博士に勝っている部分だってあるのだから、すぐには私を始末せずにまだしばらくはこのまま生かしておいてもらいたい。


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 若い人はもう覚えていない、と言うよりまだ生まれていないだろうが、むかしソ連からベレンコ中尉という人がミグ25(MiG25)という戦闘機に乗って日本にやってきて、そこからさらにアメリカに亡命申請する、という事件があった。日本中大騒ぎだったが、この事件はよく考えるととても面白い。

 まずMiG(МиГ)という名称だが、これはМикоян и Гуревич(ミコヤン・イ・グレヴィッチ、ミコヤンおよびグレヴィッチ)の略で、МикоянもГуревич も設計者の名前だ。この、-ян(ヤン)で終わる名前というのはロシア語でなく、もともとアルメニア語である。
 そういえば以前ノーム・チョムスキーという大言語学者がマサチューセッツ工科大学で生成文法の標準理論や拡大標準理論を展開していたころ、ソ連に「適応文法」というこれも難しい理論を繰り広げていたシャウミャン(Шаумян)という学者がいたが、この人も名前の通りアルメニア人である。さらにロシア言語学会の重要メンバーの一人でドイツでも名を知られていたアプレシャン(Апресян)も名前そのものはアルメニア系だ。氏自身はモスクワ生まれのモスクワ育ちのようだが。
 次にグレヴィッチ(Гуревич)。この、ヴィッチ(-вич)で終わる名前は基本的にセルビア語・クロアチア語起源なのだが、ベラルーシにも散見される。ウクライナにもある。あと、リトアニアにもこの-вичで終わる姓が多いそうだが、これはベラルーシもウクライナも中世から近世にかけてリトアニア大公国の領土だったからではないだろうか。当時支配層はリトアニア語を話していたが、国民の大部分はスラブ人で、話す言葉もスラブ語、書き言葉も南スラブ語派の古教会スラブ語だったはずだから、そのスラブ人が現在のリトアニア領にもやってきて住みついていたのでは。ついでに女優のMilla Jovovich(ミラ・ヨボビッチあるいはジョボビッチ)もウクライナ出身だが、そもそも父親がセルビア人だから苗字が-вичで終わっているのは当然だ。
 グレヴィッチ氏はロシアのクルスク地区のルバンシチナという町の生まれだそうだが、ここはウクライナと接している地域である。さらに、このベラルーシ、ウクライナの東部にはユダヤ人が多く居住していたので、ユダヤ系ロシア人、というかユダヤ系ソ連人には-вич姓の人が多いそうだ。事実このグレヴィッチ氏もユダヤ系である。「ドイツ系に-вич姓が多い」という記述を時々見かけるが、ここにはひょっとしたらイディッシュ語を話すユダヤ人も含まれているのかもしれない。イディッシュ語はいわばドイツ語から発達してきた言語で、部外者が聞くとドイツ語そのものに聞こえるそうだから。ちなみにユダヤ系のSF作家のアシモフ氏の故郷ペトロヴィッチ村もベラルーシとロシアとの国境地域にある。
 さらにパイロットのベレンコ(Беленко)中尉だが、-коで終わる名前は本来ウクライナ語。
 
 つまり、かの戦闘機はソ連から飛んできたのに純粋にロシア語の名前が一つもない。ソ連がいかに他民族国家であるか、まざまざと見せつけられた事件だとは思う。 

 そもそも人名や地名には今はもう失われてしまった古い言語の形が温存されている場合がよくあるので気にしだすと止まらなくなる。日本の東北地方や北海道の地名にアイヌ語起源のものが多いのもその例で「帯広」というのは元々アイヌ語の「オ・ペレペレ・ケプ」(川尻がいくつにもさけている所)から来たそうだ。
 ヨーロッパでも人名に印欧語の古形が残されている場合がある。たとえば例のローマの暴君ネロ。このNeroという語根は非常に古い印欧祖語の* h2 ner-「人間」から来ている。h2というのは印欧祖語にあったとされる特殊な喉音である。ここで肝心なのはもちろんner-のほうだ。なお、比較・歴史言語学で使う「*」という印は現在の文法理論つまり共時言語学で使われるような「非文法的」という意味でなく、「具体的なデータは現存していないが理論上再構築された形」という意味だから注意を要する。その* h2 ner-だが、Neroばかりでなくギリシア語のανηρ(アネール、現代ギリシア語ではアニル)もこれが語源。サンスクリットのnṛあるいはnára(人間)、アヴェスタ語のnā(人間)もこれだそうだ。いわゆるイラン語派は今でもおおむねこの語をよく保っているが、なにせ古い語なので、ローマの時代のラテン語ではすでにこの語は普通名詞としては使われなくなっており、本来の意味も忘れ去られていた。僅かに人名にその痕跡を残していたわけだ。なお、サンスクリットの、下に点のついたṛは母音のr、つまりシラブルを形成するrで、現代のクロアチア語にもこの「母音のr」がある。例えばクロアチア語で「市場」をtrgというのだ。
 
 ヨーロッパの現代語ではリトアニア語のnóras(意思)や、あと意外にもロシア語のнрав(ンラーフ、性格・気質)やноров(ノーラフ、強情さ)も* h2 ner-起源だそうだ。しかしこちらは意味のほうが相当変化している模様。しつこく言うとнравは南スラブ語起源のいわば借用語で、норовがロシア語本来の東スラブ語形である。その東スラブ語のноровのほうはさらに意味がずれていて、口語的表現である上、カンが強くてなかなか乗りこなせない馬に対して「御しがたい」というときこの語を使うそうだ。人間がついに馬になってしまっている。

 ところがアルバニア語はこの古い古い印欧語をこんにちに至るももとの「人間」の意味で使用している。アルバニア語で「人間」はnjeri(ニェリ)。これは「バルカン言語連合」の項でも書いたようにa manで、the manならば後置定冠詞がついてnjeri-uとなる。アルバニア語はこのほかにも音韻構造などに印欧語の非常に古い形を保持している部分がかなりあるそうだ。
 ちなみにアイルランド語のneart(力)も直接* h2 ner-からではないが、そこから派生された* h2 ner-to(精力のある)が語源とのことだ。

 さてこちらのギムナジウムはラテン語をやるのが基本だし、ラテン語で何か書いてあるのを町のそこここでまだ見かけるから、読める人、知っている人は結構いる。それで機会があるごとにNeroの名前は本来どういう意味か知っているかどうか人に聞いて見るのだが、いまだに印欧語の* h2 ner-だと正しく答えた者は一人もいない。昔人を通してギムナジウムのラテン語の先生に質問してみたことがあるが、やはり知らなかった。この先生もそうだったが、ほとんどの人が「黒」を意味するnegroから来ていると思い込んでいた。真相を知っていたのは日本人の私だけだ。ふっふっふ。

 自慢してやろうかとも思ったが、たまに珍しく何か知っているとすぐズに乗って事あるごとにそれをひけらかしたがるというのもさすがに見苦しい、かえって無教養丸出しだと思ったので黙っていた。日本人は謙虚なのである(誰が?)。


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 日本語に「弾よけ」という言葉がある。非戦闘員(兵士でもいいが)が配置の具合で戦場の矢面に立ってしまったりして、無防備で敵の攻撃に曝された場合、「これではまるで弾よけだ」と表現する。 そういう場所に立たされた非戦闘員の方も「俺達を弾よけにするつもりか?!」と言って怒る。
 ドイツ語ではこの「弾よけ」をKanonenfutter(カノーネンフッター)、つまり「大砲のエサ」と言う。この言い方、ヒドくないだろうか?日本語の「弾よけ」なら一応理屈としては後方部隊の役に立ったというニュアンスがあるが、「エサ」だと単に犬死しただけだ。さらに「弾よけ」は無生物にも使え、たとえばクリント・イーストウッドが『荒野の用心棒』のラストで胸からぶら下げていた自作の鉄板も「弾よけ」だが、「エサ」は生物に対してのみ使用可で妙にナマナマしい色合い。
 独和辞典ではこのKanonenfutterを「弾丸の餌食」と訳してある。Kanoneは本来は「弾丸」でなく「大砲」という意味だから、ウルサク言えば「大砲の餌食」となるところで、「弾・弾丸」なら本当はKugelなのだが、「大砲」か「弾丸」かの違いはこの際どちらでもいいと思う。引っかかるのはむしろ「餌食」という言い回しのほうだ。これでは語感が離れすぎてて誤訳に近い感じ。「弾丸の餌食」という言葉はたとえば、兵士が壁の厚さ50cmのトーチカの中にいたのに運悪く狭い覗き穴から入ってきた弾に額をぶち抜かれて即死した場合にも使える。「彼はトーチカの中にいたのに弾丸の餌食になった」とか表現できる。が、ドイツ語のKanonenfutterはそういう時には使えない。これが使えるのは「弾の飛び交う戦場のど真ん中を無防備でビービー走り回り、当ててくださいと言わんばかりの人」に対してだけだ。 あくまでエサなのだから向こうが食べやすいようこちらから出向いて行かなければいけない。

 ちなみに手元の独露辞典を引いてみたらKanonenfutterはпушечное мясо(プーシェチノエ・ミャーサ)というそうだ。直訳すると「大砲用の肉」だ。「エサ」よりさらにナマナマしい。話は飛ぶが、пушечноеというのは「大砲の」という形容詞だが、これの元になる「大砲」という言葉はпушка(プーシカ)で、ここから『8.ツグミヶ原』の項で述べた造語メカニズムによって作られた苗字が例のПушкин(プーシキン)である。

 さて、実はドイツ語には意味的には「弾よけ」に近いmenschlicher Schutzschild(メンシュリッヒャー・シュッツシルト)という言葉があることはある。でもこれは日本語で「人間の盾」と訳されているように堅い専門用語的ニュアンスが強く、戦闘の悲惨さ、残酷さ、あるいは司令官の道徳性の欠如といった深刻な意味合いが前面に出ていて「弾よけ」あるいはKanonenfutterのような自虐的なユーモア性は全くない。
 この「語感」というのは相当の曲者で、私は未だに「指示対象、つまり意味としては合っているのだが、ニュアンスが違いすぎる語」を知らずに使って大笑いされるか、座をシーンと静まり返らせてしまう(こっちの方がずっと危険だ)ことが頻繁にある。会話で使ってしまうならまだしも、ときどき変な言葉をちゃんとした文章で書いてしまったりするから危ない。この辺の語選択はやっぱりネイティブでないと駄目だ。

 もう1つ気にかかっている言い回しにes handelt sich bei A um B というのがある。handeltは英語のhandles(動詞の3人称単数)、sichは再帰代名詞だからいわば英語のitself、umは「を巡って」という意味、beiは「において」とか「のところで」という意味のそれぞれ前置詞なので、無理矢理英語に直訳するとit handles itself by A around Bだ。そのままでは何の事だかわかりにくいが辞書を引くと、手元の独和辞典にはbei Aのないes handelt sich um Bという形しか出ておらず、意味として「Bの事が扱われている、Bが問題(重要・話題)である。Bに関係している」とある。こう 出られれば普通の神経の者ならbei A 付きのes handelt sich bei A um Bの意味は「AにおいてはBが問題となっている」「AのところではBが扱われている」という意味だと思うだろう。ところがこれがそうではないのだ。bei Aが付くと意味がガラリと変わり、es handelt sich bei A um Bはずばり「AはBである」、つまりこの形は機能としてはコピュラ(繋辞)なのである。たとえば以下の例はアイザック・アシモフ氏のThe Relativity of Wrong(1988)のドイツ語訳にあったものだが、ちょっと見てほしい。2つ目のセンテンスがこのes handelt sich bei A um Bのパターンである。

Der Benzolring besteht aus sechs ringförmig angeordneten Kohlenstoffatomen, wobei an jeden Kohlenstoffatom ein Wasserstoffatom hängt. Es handelt sich dabei um eine sehr stabile Atomgruppe, die im Körper sehr wahrscheinlich nicht zerstört wird.

dabeiはda + beiで、daは本来「ここ」という場所的な意味だから辞書を鵜呑みにすると、次のように訳さざるを得ない。太字の部分を見てみてほしい。

ベンゾール環は輪状をなした6つの炭素原子からなっているが、そこの炭素原子の一つ一つにそれぞれ水素原子が一つついている。ここでは、体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群が問題になっている。

 これで文の意味が通じるだろうか?少なくとも私には最初のセンテンスと2つ目のセンテンスの意味が全然つながらない。ここの2つ目のセンテンスはコピュラ(繋辞)構造として「これは体内ではとても破壊されることのなさそうな極めて安定した原子群である」と訳さないと意味が通じない。daは「ここ」ではなくて「これ」となるわけである。実は私もドイツ語を習い始めのころ、独和辞典を鵜呑みにしてしまったせいでこの文を上のように解釈し、今ひとつ理解できなくて往生した。ところがその後もこのbei A付き構造は学術的な文章はもちろん、普通の新聞の論説などでも頻繁に見かけたため、さすがの私も文脈から推して、これは擬似コピュラなのだと思い至った。ある意味ではこちらのbei Aのある形のほうがずっと重要なのに辞書にはまったく出ていない。これはドイツ語学習者はbei Aなしのes handelt sich um Bの意味、つまり「Bが問題である」からbei A付きの「AはBである」を誰でもたやすく推論できるはずだということか?私にはできないのだが。

 ずっと後になってから独英辞典を引いてみたら、sich um A handelnは確かにto be a matter of A, to concern A とあったが、

es handelt sich bei diesen angeblichen UFOs um optische Täuschungen

というbei A付きのほうはちゃんと私が予想したように、

these alleged UFOs are simply optical illusions

としっかりコピュラで言い換えてある。しかもこのbei A付き構造の重要性を強調すべく、このほかにもいくつもいくつも例文を載せてそのすべてをA=Bで言い換えて見せ、この構文が機能的にはコピュラだということが学習者の頭にしっかり刻み込まれるよう配慮してある。たまたま私の持っていた独和辞典に出ていないだけなのかと思って家にある独和辞典を4冊調べてみたが、どれにも載っていなかった。辞書が古いせいかもしれない。最新の独和辞典にはこの擬似コピュラは説明されているのだろうか。


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 『16.一寸の虫にも五分の魂』の項でも述べたように私はアイザック・アシモフの自伝がとても面白いと思っている。例えば氏の家庭内言語についての述べられている箇所。氏のご両親はロシアの出身だったが、母語はイディッシュ語だったそうだ。ロシア語も出来たはずだとアシモフ氏は言っているが、自分では両親がロシア語を話すのを一度も見た、というか聞いたことがないと書いている。
 アシモフ氏自身は3歳の時にアメリカに渡り、言語は英語とイディッシュ語のバイリンガルだが、優勢言語は英語だった。面白いのはここからで、氏の妹さんはイディッシュ語はわずかに理解することは出来るが話せなかった、9歳下の弟さんに至っては完全に英語のモノリンガルでイディッシュ語を理解することさえ出来ないそうだ。つまり家庭内レベルでイディッシュ語から英語への言語変換が起こっているわけだ。
 移民の家庭などはこのパターンが多く、子供たちはたいてい現地の言語が優勢言語なのでそれがあまりできない両親に通訳や文法チェックプログラムや辞書代わりにコキ使われたりしている。もっとも「WORDの文法チェック代わり・グーグル翻訳代わりに子供をコキ使う」というのは親のほうもある程度現地の言語を習得していないとできない。元の文章がなければチェックして貰うもなにもないからだ。実際何年もその国に住んでいるのにほとんどその言語が話せないという人は決して珍しくない。こうなると子供は通訳というより「手足」あるいは「眼と耳」であり、子供同伴でないと医者にもいけないし、近所の人と立ち話もできないし、それよりTVで映画を見ることができないだろう。本国映画だって現地の言語に吹きかえられているのだから。それともDVDでしか映画を見ないのか?不便だろうなとは思う。

 言語学者のグロータース氏も家庭内言語事情が複雑だったらしい。氏はベルギー出身で家族の全員がフランス語(ワロン語)とオランダ語(フラマン語)のバイリンガルだったそうだが、優勢言語が一人一人微妙に違い、オランダ語優勢のお姉さんにうっかりフランス語でしゃべりかけたりするとムッとされる、また、フランス語が優勢の妹さんでも配偶者がオランダ語話者の人に優勢言語のフランス語で話しかけたりすると、自分の夫がないがしろにされたような気を起こされてやっぱりムッとされる。言語選択には非常に気を使ったそうだ。こういう日常生活を生まれた時から送っていれば、言語というものに敏感にもなるだろう。家庭内どころか、学校でも役所でも一言語だけで用が足りる日本人にはとても太刀打ち出来るような相手ではない。
 このグロータース氏は1980年代だったと思うが、一度専門雑誌の「月刊言語」にインタヴュー記事が載っていたのを覚えている。日本語で聞かれ、日本語での受け答えだったが、氏の発言が全部片仮名で書かれていた。私はなぜ月刊言語ともあろうものがこんなことをするのかわからなかった。普通に平仮名で氏の発言を書けばいいではないか。それとも外国人の話す日本語と日本人の話す日本語を区別したかったのか、氏の発言が日本語であったことを強調するつもりであったのか、いずれにせよベッタリ片仮名で書かれた記事はとても読みにくかった。
 私の知っている教授も、母語はクロアチア語だったがあるとき研究室で話をしていた際、ちょうど娘さんから電話がかかって来たことがある。「電話」である。当時はケータイなどというものはまだなかった。するといままで私とドイツ語でロシア語の話をしていた先生は受話器をとるとやにわにオランダ語で対応を始めたのである。ドイツに来る前はオランダで長く教鞭をとっていたため、お子さんの母語はオランダ語なんだそうだ。溜息が出た。

 もちろんヨーロッパにだってモノリンガルの立派な語学音痴はたくさんいるから「ヨーロッパ人は語学が得意」と一般化することなどできないが、バイリンガルが日本より格段に多いのは事実だ。移民の子供たちも両親の母語がまったくできなくなってしまうのはさすがにまれで、たいていバイリンガルになる。その際優勢言語が個々人で微妙に違っているのは当然だが、本国の言語そのものも両親のと微妙に違ってきてしまうことがある。現地の言語の影響を受けるからだ。私がリアルタイムで見聞きしたそういう例の一つがクロアチア語の「どうしてる、元気かい?」という挨拶だ。本国クロアチア語ではこれを

Kako si?    あるいは
Kako ste?

という。kakoは英語やドイツ語のそれぞれhowとwie、siはコピュラの2人称単数、steは本来2人称複数だが、ドイツ語やフランス語のように敬称である。ロシア語と同じくクロアチア語もコピュラや動詞がしっかりと人称変化するので人称代名詞は省いていい、というより人称代名詞をいちいち入れるとウザくなってむしろ不自然になる。だからこのセンテンスは英語のHow are you?と完全に平行しているのである。
 ところが、ドイツ生まれのクロアチア人にはその「元気かい?」を

Kako ti ide?

という人が非常に多い。これは明らかにドイツ語の「元気かい?」

Wie geht es dir?
how + goes + it + to you/for you

を直訳したもので、tiは人称代名詞tiの与格tebi(ドイツ語のdir、英語の to you)の短縮形(短縮形になると主格と同じ形になるから注意が必要)、 ideは「行く」という意味の動詞 ićiの現在形3人称単数である。ここでもシンタクス上の主語it(ドイツ語のes)は現れないが、構造的に完全にドイツ語と一致しているのである。この表現には両親の世代、いや年が若くても本国クロアチア語しか知らない人、いやそもそもバイリンガルの中にも違和感を持つ人がいる。私のクロアチア語の先生も「最近はね、Kako ti ide?とかいう変なクロアチア語をしゃべる人が多くて嫌になりますが、皆さんはきちんとKako si?と言ってくださいね」とボヤいていた。
 日本語の「会議が持たれます」の類の言い回しにも違和感を持つ人が大分いる。これは英語からの影響だろう。

 バイリンガルといえば、モノリンガルより語学が得意な人が多いというのが私の印象だが(きちんと統計を取ったり調査したりはしてはいない単なる「印象」である。念のため)、これは何故なのか時々考える。以前どこかで誰かが「あなたは記憶力がいいから語学をやれといつも薦めている」という趣旨のアドバイスをしているのを見て「こりゃダメだ」と思った。語学で一番大切なのは記憶力ではない、「母語を一旦忘れる能力、母語から自由になれる能力」である。いったん覚えたことがいつまでも頭から離れない人はずっと日本語に捕らわれて自由になれないから、生涯子音のあとに余計な母音を入れ続け、日本語をそのまま意味不明の英語にし続けるだろう。そういう人はむしろ語学に向いていないのである。母語を通さずに当該外国語の構造をそれ自体として受け入れるという発想ができにくいからだ。
 もちろんバイリンガルも母語にしがみつく人が大半という点では語学音痴のモノリンガルと同じである。が、バイリンガルには母語が二つあり、一方の言語を話しているときはもう一方の言語から自由になっている。言語というものはそれぞれ互いに独立した別構造体系である、ということを身にしみて知っている。だから異言語間の飛躍がうまいのではないか、とそんなことを考えてみたりしている。繰り返すが、これは披験者の脳波を調べて証拠を握ったりしたわけではない、単なる想像だ。

 ところで、こちらで外国人に「どこから来たんですか?」という聞き方する人には教養的に今ひとつな場合がある。気の利いた人は皆「あなたの母語は何ですか?」と聞いてくることが多い。例えば私など見た目は完璧に日中韓だが、旧ソ連かアメリカ出身で母語はロシア語か英語である可能性もなくはないからだ。またクルド人に出身国を聞いてもあまり意味がないし、ベルギーに数万人ほど住んでいるドイツ民族の人を「ベルギー人」と言い切るのも無理がある。教養があって見聞の広い人は「母語」、「所属民族」、「国籍」が本来バラバラであることを実感として知っているが、そうでない人はこの3つを自動的に一緒にしてしまうことが多いわけだ。逆にそれなら人にすぐ出身国を聞いてくる人は皆言葉については無教養とかというと、もちろんそんなことは絶対ないが、私は教養ある人に見せかけたいがために「どこから来たのですか?」という聞き方はせずにいつも母語を訊ねている。が、時々「リンガラ語です」とか「アルーマニア語とアルバニア語のバイリンガルです」とか答えられて、「は?それはどこで話されているんですか?」と結局国を聞いてしまったりしているからまあ私の見せかけの教養程度など所詮そのレベルだということだ。何をいまさらだが。


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