アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:日本 > 昭和の日本

 本棚をいじっていたら黒澤明氏の自伝『蝦蟇の油』が出てきたのでちょっと拾い読みしてしまった。私は生まれて育った地域が黒澤氏とモロ重なっていて、自伝に出てくる地名そのほか多くが私が小学校の頃縄張りだったところである。
 黒澤監督のお兄さんは小学校時代から府内(都内)で一番を取ったくらいの秀才だったが、府立一中、現日比谷高校の受験になぜか失敗し、厭世観をつのらせて「それ以後は性格が変わってしまった」そうだ。27歳で自殺なさってしまったとのこと。黒澤監督の令兄のような例は時々耳にする。才能や学力の点では誰が見ても文句のつけようがないのに、試験とか何かの賞を取る、ということに関してはなぜかうまくいかない人たちのことを。

 何を隠そう私はその日比谷高校出身なのだが、私の頃は例の悪名高い「群制度」まっさかりだった。当時の受験制度では日比谷高校、九段高校、三田高校が11群という群を組んでいて、合格者はどこの高校に回されるか自分で決められなかったのである。だから当時都立を敬遠する人が結構いた記憶がある。私が日比谷に回されたのは運だ。実は私は都立は滑り止めで、本命はさる国立大学の付属高校だったのだが、そういう「都立は第二志望」という人も多かった。
 しかし今ではこの高校に行ってよかったと思っている。いろいろと面白い学校だった。
 
 以前にも書いたが、当時の日比谷高校では選択科目として「第二外国語」があって、そこでドイツ語をとった。私が現在でも抱いている「外国語というとすぐ英語を連想する人」に対する違和感はここで培われてしまったらしい。しかも受験の英語をほったらかしてドイツ語をやって遊んでしまったので未だに英語が苦手で、完全に人生にマイナス作用しているのだが、その代わり現在ドイツに住んでいるのは日比谷高校のドイツ語のおかげだろう。
 また次のようなことを覚えている。

 上にも書いたように、私は生まれ育ったのが、五反田・目黒・品川・高輪台のあたり、つまり品川区の最北端から港区南部にかけてなのだが、「○○じゃん」という言い回しを日常的に使っていた。ところが高校に来てみたら、私よりほんの少し北から来た人、港区北部や千代田区育ちの人は「じゃん」をまったく使っていなかったのである。つまり私の縄張りのあたりが「じゃん」の北限、言い換えると「じゃん」の等語線は私の家のあたりを走っていたらしい。 
 それまで私は「じゃん」は東京方言だと思っていたのだが、高校で初めてこれは横浜あるいは京浜方言であると知ったわけだ。もちろん当時は「等語線」などという言葉は知らなかったが、おもしろいなあとは思った。そのあと、芸術家を落ちこぼれて言語学に寝返った発端は案外このあたりがきっかけかもしれない。

 ちなみに日比谷高校のすぐ隣はメキシコ大使館だった(今もか?)が、そのメキシコ大使館と高校の間に遅刻坂と呼ばれる超急坂があった。私はその名前の由来を、「始業のチャイムがなりだしているので急ごうと思うのだが、坂があまりにも急なので、教室も校門も距離的にはすぐそこなのに一定時間内に走りきれず、惜しくも遅刻する」から、つまり「生徒を遅刻させる坂だから」だと聞いていたが、この間ネットをみたら、単に「遅刻しそうになってそこを走っていく学生さんの姿をよく見かける」ので遅刻坂と呼ばれるようになったと説明してあった。私の聞いている説の方がロジカルではないだろうか。単に「遅刻しそうになって焦って走る生徒の姿をみかける」くらいなら別に坂でなくてもよかろう。
 最寄り駅は地下鉄の赤坂見附だったが、ここで降りると必ず遅刻坂を通らないといけない。二番目に近い駅がやっぱり地下鉄の永田町だったが、ここで降りれば坂を上らずに登校できるため、坂を上りたくないがために遠回りして永田町から通ってくる若いくせに老人並みの軟弱者もいた。
 もっとも高校生ならこの坂を一気に歩ききれるのが普通だが(走って登りきることが出来た者はまれ)、教師だと途中で一回休みを入れないと上まで登りきれない。途中で3回休みを入れないとこの坂がこなせないようになったらに定年間近といわれていた。

 そういえば、ウソか本当か私は知らないが、その隣のメキシコ大使館から「あんたんとこの学校の窓から時々消しゴムだろ鉛筆だろ丸めたテストの回答なんかがウチの庭に落ちてきて困る」とクレームがついたことがあるそうだ。まあ、メキシコ大使館だったからまだよかったのではないだろうか。これがソ連大使館だったら大使館内に消しゴム一つでも着地した時点で即ミグ戦闘機あたりが飛んできて高校の建物が爆撃されていたかもしれない。くわばらくわばら。

 さらに私はそこで剣道部だったのだが、この道場というのがボロくて修理しようにも予算が出ない、ということであるとき顧問の先生が率先して部員全員で商売したことがある。この顧問の先生というのが東京教育大出身、つまり後に私が飛んでいったさる荒野の大学の前身だから、なんかこう、あまりにも世界が狭すぎて閉所恐怖症になりそうだ。
 で、その「商売」だが、剣道部全員で何をしたかというとこういうことだ。

 日比谷高校の校庭に大きなイチョウの木があった、校歌にも歌われたそれはそれは立派な木だ。そのイチョウのギンナンを皆で拾ってあの臭い果肉を洗い落として加工し、放課後すぐ近くにある赤坂の料亭を回って売り歩いたのである。
 料亭の裏口から入っていって、「ギンナン買ってくれませんか?」と訊いてまわったら、その料亭の一つが「ウチは料理の材料は原則としてきちんとした信用のあるところからしか買わないんだが、見れば日比谷高校の学生さんだし、先生までついている。それに免じて買ってあげよう」と言って本当に校庭のギンナンを買ってくれたのだ!どうだすごいだろう。
 ここの卒業者名簿を見ると小林秀雄だろ利根川進だろがいるが、小林秀雄なんかには「赤坂の料亭でギンナンの行商」などという高貴な所業はとても出来まい。やれるもんならやってみろ。利根川博士などが「えーまいどー、実は私は先日ノーベル賞取った者ですが、このギンナン買ってくれませんか?」とか料亭で言ったらドツかれるのではないか。
 しかしその後別に道場がきれいになった記憶がないのだが、あのお金はどこに消えたのだろう。どうやらコンパ代にでもなったしまったらしい。

 それにしてギンナンの加工というのは臭いしネチャネチャしているしで商売としてはどうも割に合わない。いっそ前にカンを置いて道端で歌を歌うとか 外国人観光客相手に柔道・剣道のデモンストレーションしてみせて金をとるとかした方が儲かりそうだ。何しろ場所が永田町、国会議事堂のすぐ近くだからタイム誌とかニューズウィーク誌あたりが写真に載せてくれたかもしれない。そうなれば恥を世界に曝せる絶好のチャンスだったろうに。


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 私の住んでいる町はホッケンハイムのすぐ近くである。そう、あのジム・クラークが亡くなったサーキットだ。そもそも私がこの町に来たのもここがホッケンハイムから近かったのも一因なのだが、もう30年近く前こちらに来てすぐ、まだロクにドイツ語もしゃべれず右も左もわからないのにさっそく電車に乗ってホッケンハイムのサーキット見物に出かけた。あの頃は勝手に中に入って散歩ができたが、今はどうなっているのだろう。当時はまだ最寄の駅がちょっとボロかったが、何年か後に電車で通り過ぎたらきれいに改造されていた。
 『38.トム・プライスの死』でも書いたように実は私は1970年代のF1を結構覚えているのだが、世界チャンピオンにもなったJ・ハントとしばらくの間いっしょにマクラレンM23・M26に乗っていたヨッヘン・マスという選手がこの町の出身と聞いていた。一度M大学の学食でさっそくそんな話を隣の人にしたら、「うん、皆マスがここの出身だって言うけど、本当はここの近くのバート・デュルクハイムって小さな町の出なんだよね。まあ、本拠地ここだったみたいだし、住んでたのはこっちだから「M市出身」であながち間違いでもないけどさ」といきなりツーカー話が通じてしまった。日本では「ヨッヘン・マスって誰ですか?」と聞き返されるのがオチだったから、ああ、ドイツに来たんだなあ、としみじみ思ったものだ。

 さて、ジム・クラークといえばロータスである。私よりちょっと年上の方々には、ロータスというと真っ先に「モスグリーン」と連想する人も多いだろうが、大抵の人はM・アンドレッティが運転していた漆黒のJPSロータスを思い浮かべると思う(すでにこれが古いって)。が、77年の富士スピードウェイに限ってロータスが一台真っ赤だったことをご存知だろうか?このときだけロータスに一台だけスポンサーがついてJPS LotusでなくImperial special Lotusだったのだ。ドライバーはグンナー・ニルソンだった。ロニー・ピーターソンもそんな感じだったが、いかにもスウェーデンらしく顔は少し怖かったがおとなしい人だった。
 私は76年、77年とももちろん富士スピードウェイにF1を見に行ったが、雨もよいの76年はメインスタンド付近、秋晴れの美しい日となった77年は最終コーナーのところに陣取った。そこでマシンが次々にやってくるのを見ていたわけだが、全く見慣れないマシンをみつけて驚いた。一周目には何だかわからなかったが、2周めにまた走ってきたときやっとロータスだと見分けがついたのである。でもその赤いロータスに驚いたのは私だけではない。周りで観戦していた人も結構ザワザワしだして、「おい、あれはロータスだぜ!なんと!ロータスが赤いぜ!」と皆口々に興奮して騒いていたから。

ああ懐かしい。これがニルソンの「赤いロータス」。エンジンはフォードV型8気筒であった。
grandprixinsider.comから

1977-nilsson-imperial-lotus-78

 あの頃は本当に牧歌的ないい時代で、エンジンはフォードV8、マトラV12、フェラーリ水平対抗12くらいしかなく、目をつぶって音聞いただけでエンジンがわかったものだ。腹の底にドーンと響いて来るような低音がフォード、頭のてっぺんにキンキン来るような甲高い音がマトラ12、その中間がフェラーリだった。たしかアルファロメオも走っていたはずなのだが、これは全く音が記憶にない。
 マリオ・アンドレッテイ、ジェームス・ハント、パトリック・デパイエやピーターソンは実物に会ったし(ハントは新宿で見かけた)、ジョディ・シェクターには握手してもらった。6輪タイレルP34とかにもベタベタこの手で触ってやった。あまり自慢にもならないが。
 1980年代になると富士スピードウェイにF1が来なくなったのとレースが妙にショー化してきたので興味がなくなった。だからアラン・プロストとかいわれるともう時代が新しすぎてついていけない。私が「フランス人レーサー」と聞いて真っ先に思い浮かぶのはパトリック・デパイエ、ジャン・ピエール・ジャリエ、ジャック・ラフィー、あとフランソア・セヴェールである。当時セナはまだカートに乗っていたし、ロスベルクは父親のほうがF2で走っていた。本当に私は年寄りである。

 「マシンの色変わり」ということでもう一つ思い出すのが、1977年に南アフリカで事故死したトム・プライス選手の乗っていたシャドウというマシンだ。このチームはドン・ニコルズという人がやっていたが、この「シャドウ」というネーミングはどうやってつけたのか、インタビュー記事を読んだことがある。
 このチームの創立は72年、つまりマシンが葉巻型から楔形に移行した頃。マシンはまず空気抵抗をできるだけ抑えなければいけないが、同時に上に舞い上がらないように地面に密着していなければいけないという基本コンセプトが常識になった頃だ。そのときニコルズは考えたそうだ。「空気抵抗がゼロでしかも地面にぴったりつく理想のマシンはつまり「影」ということだ」。それでその理想のマシンを目指していこう、という意気込みで「シャドウ」というチーム名にしたのだと。
 フェラーリとかマクラレンとかチームに自分の名前をつけて自己顕示する輩と比べてすごく哲学的で奥ゆかしいとは思った。ただ残念なことにこのチームはネーミングだけでなく、チームそのものも奥ゆかしい、つまり今ひとつ弱くてとてもフェラーリ・マクラレンとコンストラクターズ・ポイントを争えるようなレベルではなかったから(ごめんね)、私としてはプライスが早いとここんな所やめてロータスかそれこそマクラレンに移ってくれないかと思っていた。本当にプライスがロータスに移りそうだという噂があったそうだ。
 そのシャドウは前年あたりまで黒かったが1977年には新しいスポンサーがついていきなり白くなった。上で名を挙げたジャン・ピエール・ジャリエというのはプライスと黒いシャドウに乗っていたチームメイトである。その白いマシンで事故死したプライスの後釜に来たA.ジョーンズが77年のオーストリアGPで優勝したとき、私は「この勝利は本来プライスに与えられてるはずだったのに」と思った。
 ところで、このジョーンズはその後世界チャンピオンになった人だが、一見「近所の商店街の金物屋のおやじ」、あるいは「麦藁帽子を被り熊手持って干草をつついてる農家のおじさん」という感じで、誰がどう見てもレーシング・ドライバー、いわんや世界チャンピオンになったようには見えない。ここまでレーシング・スーツの似合わない人も珍しいのではないかと思うのだが、そういえば、ジャック・ブラバムもそんな感じだった。オーストラリア人ってこういう「気さくで気のいいおじさん」風の人が多いのだろうか。

トム・プライスの黒いシャドウDN8(only-carz.comより)
shadow-dn8-02

これもおなじくプライス(ウィキペディアから)

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A.ジョーンズの白いアンブロシオ・シャドウ。オーストリアGPの時のもの。シャドウはこの勝利が唯一である。
(gettimages.comより)

156527205

プライスの亡くなった1977年南アフリカGPの次のレースでチームメイトのレンツォ・ツォルツィ(またはゾルジ)が運転したアンブロシオ・シャドウ。プライスは一レースだけしかこのアンブロシオに乗っていないためか写真が見つからなかった。(racer.comから)
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 私はリアルタイムで覚えている(とかバラすと年がバレる)のだが昔『子連れ狼』という劇画があった。水鴎流の達人拝一刀の陰惨な復讐劇だが、最終回でその一刀が深手を負ったまま宿敵柳生烈堂と対決し、とうとう力尽きて倒れたあと、三歳の息子大五郎が脇に落ちていた槍をとって烈堂に突進し、腹に一突き入れる。烈堂はそれを避けることなく両手を広げて自分の腹を突かせ、あまっさえそこで大五郎を槍ごと抱きしめて切先をさらに深く自分の体に突き入れるのである。その際烈堂は大五郎に向かって「我が孫よ」というのだが、この意味については二通りの解釈がある。一つ目は「大五郎は実は烈堂の孫だった」というもので、一刀の妻薊が烈堂の娘ということになるが、私は個人的にちょっと無理がありすぎると思っている。そうだとすると烈堂が自分の娘を惨殺させたということになるからだ。もちろん「草」と呼ばれる柳生配下の忍びの者のその後の行動をみれば自分の子を殺すくらいやるだろうとは思うが、一方で烈堂は自分の子供たちはそれなりに皆可愛がっており、臨月の実の娘の斬殺までやるかというと疑問が残る。宿敵拝一刀などの所に嫁いだ罰だというのなら、じゃあなぜそもそも娘をそんなところに嫁にやったのか解せない。念のためこの際原作28巻をすべて読んでみたが、「薊は烈堂の娘」などとは暗示さえする場面もない。この解釈はどうも根拠がないと思う。もう一つの解釈は不倶戴天の敵同士とはいえ一刀と烈堂は腕でも根性でも同等なので、烈堂は一刀を自分の息子と見なし、その子大五郎を孫と呼んだというもの。大雑把にはしょると「敵ながらあっぱれ」という烈堂から死んだ一刀に向けてのメッセージだ。私は自然にこちらの解釈をとった。もっとも技量と精神力は同等かもしれないが、その行動・目的にブレなく心に曇りなく、生き方もストイックな点で人間としては一刀のほうが上だろう。ひょっとしたら烈堂もその点で敗北を感じたから自分の腹に槍を突きさせたのかもしれない。
 その一刀は片手に大五郎を抱いてキメたポーズが有名だが、その際常に左手で子を抱いているのがさすがだ。そういえば野球のピッチャーも子供を抱き上げるときは必ず球を投げないほう、つまり利き腕ではないほうで抱いたそうだが、それと同じだろう。剣を持たないほうの手で子を抱くのである。

拝一刀と言えば何といってもこのポーズ。必ず左手で子供を抱く。
小池一夫・小島剛夕、1972~1976年、『子連れ狼』、第8巻、66ページ、東京:双葉社

8-66

同第13巻、92ページ
13-92

『子連れ狼』の最終回を読んでいる時読者はほとんど全員こういう気持ちでいたに違いない。
同第28巻、151ページ
28-151
 もうひとつ「我が孫よ」で気になるのはそこで使われている不変化詞「よ」である。前に日本語の格は13あると書いたが(『152.Noとしか言えない見本』参照)、実はその時不変化詞「よ」を付加して表される「ブルータスよ」などの形を「呼格」として一つの格と見るべき、つまり「よ」を格助詞とみるべきなのではないかと迷った。最終的には否定の方に傾いたのだが、完全にズバッと却下できたわけではない。この機会にちょっと見直してみたい。
 まず「よ」も他の格助詞も頻繁に省略はされる。されるのだがされた際のニュアンスに大きな違いがある。例えば

山田さん来た!
山田さん来た!

あるいは

もうその本読みましたか?
もうその本読みましたか?

のどちらがそれぞれ「正しいか」と聞けば皆最初の方だと答えるだろう。二番目の文では本来あるべきものが省略されていることを明確に感じるのだ、それに対し

ブルータス、お前もか。
ブルータス、お前もか。

のどちらの文が「正しいか」という質問に最初の文の方が正しいと答える人はあまりいまい。「どちらも正しい」「この二つの文はそもそもニュアンスが違うから正しい正しくないなどとは決められない」などという答えが返ってくると思う。ではどんな「ニュアンスの差」かというとこれも割と簡単で、「よ」は明らかに文語調である。だから「烈堂よ、お主も老いたな」とは言えるが「山田さんよ、あなたも年を取りましたね」とは言えない。また下でも述べるように口語の「おいおいお前よぉ」の「よぉ」とこの疑似呼格「よ」とは別単語であると私は思っている。
 そういえば『子連れ狼』は当時萬屋錦之介主演でTVシリーズ化されたが、その最終回での烈堂のセリフは「おお、我が孫よ」といって感嘆詞がついていた。この感嘆詞はあくまで「おお」であって「おう」ではない。「おお」と「おう」では発音は全く同じだが、ニュアンス的に明確な差があり「おお」の方が格調が高い。だから「おう、我が孫よ」だとおかしいし、逆に「おお、この桜吹雪が見えねえか」は文体的にギクシャクしている。「おう、この桜吹雪が見えねえか」でないと座りが悪い。

 この、名詞につく「よ」は文語的というのが第一の注意点だが、口語文法では時々終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」を分けている。「我が孫よ」の「よ」は間投助詞だ。辞書によっては終助詞の「よ」でも間投助詞の「よ」でも「文末の種々の語に付く」と全く同じ説明がしてあってイライラする。終助詞は動詞形容詞の終止形、間投助詞は名詞につくとズバリと言いきっていけないことはないと思うが(中に間投助詞の例として 「君だよ、そこの君。」という文をあげているのがあった。こういうRight Dislocationを持ち出すのは反則だろうし、そもそも「君だよ」の「よ」はコピュラの終止形についているから終助詞ではないのか)、とにかく「よ」ではNPに付くのとCP(またはS)レベルにつくのを区別する。いわゆる体言止めの文でもCPと見なす。たとえば次の文ではそれぞれ二番目の文で動詞に「の」がついて文全体が名詞化されているのでウルサク言えば名詞に接続しているはずだが間投助詞ではなく終助詞とみなす。

昨日東京に行ったよ。
昨日東京に行ったよ。

山田さんは馬鹿だよ。
山田さんは馬鹿なよ。

ここで「山田さんは馬鹿よ」という場合は「馬鹿」の品詞が違う。「馬鹿なのよ」馬鹿はナ形容詞だが、「馬鹿よ」の馬鹿は「馬鹿者」という意味の名詞である。「馬鹿だよ」についてはナ形容詞、名詞の二通りの解釈が可能だ。
 つまり間投助詞は文語時代には普通に使われていたが口語では廃れてしまい、それを使った表現はいわば有標、それに対して終助詞の「よ」は完全に口語体系内に根を下ろしているということになる。それが証拠に終助詞の「よ」を使うと間投助詞の「よ」と逆に格調が下がるのだ。

間投助詞
ブルータス、お前もか。
終助詞
ブルータス、お前もか

だから「ブルータスよ、そなたもか」とは言えるが「ブルータス、そなたもかよ」とは言えない。「ブルータスよ、お前もかよ」は「よ」が二回ついてウザいという以前に二つの「よ」が文体的に相反して互いに排斥しあうのでやはりNGである。
 終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」はシンタクスの面でも機能の面でも異なり、しかも相互排除しあうという点で、完全に別単語だ。さらに「ブルータスよぅ、お前もか」の「よぅ」はそもそも助詞ではなく感嘆詞だろう。「よぅ、ブルータス」の「よぅ」が後置されたものだと思う。文の品が急降下するが「ブルータスよぅ、お前もかよ」という文は問題なく成り立つ。感嘆詞の「よぅ」と間投助詞の「よ」が文体レベルで同類項だからだ。ここでは最後の「よ」は助詞だが、「ブルータスよぅ、お前もかよぅ」だと最後の「よぅ」は感嘆詞で、シンタクス構造が違う。とにかく終助詞の「よ」と間投助詞の「よ」、感嘆詞の「よ(ぅ)」は別単語であろう。

 さて上述のように文語では間投助詞の「よ」が普通に(つまり無標表現として)使われていたのなら、では文語には「格としての呼格」があったと見なすべきだろうか。例えばロシア語で oh my god を боже мой というが、この боже という形は「神」бог の呼格形だ。ロシア語では語形変化のパラダイムとしての呼格は失われてしまったが、昔あった呼格の名残がまだそこここに残っているのであるわけだ。現代日本語の「よ」もそんな感じなのだろうか。だがこればかりはネイティブを捕まえてその言語感覚にたよるほかはない。つぎの文のどちらが「正しい」と感ずるか、昔の人に聞いてみるしかないのである。

少納言。直衣着たりつらんは、いづら。
少納言、直衣着たりつらんは、いづら。

そこで相手が最初の文が本来正しいと答えたら呼格の存在が濃厚、単なるニュアンスの差と答えたら「よ」は単なる間投助詞ということになろうが、何といっても文語のネイティブはとっくに死に絶えているから調査のしようがない。私はどうも昔の人も今と同様「ニュアンスの差」と答えるような気がするのだが、それはあくまで私の勝手なフィーリングである。
  そのようなわけで私は口語でも文語でも、つまり日本語には呼格という格はない、という見解に傾いてはいるのだが、一つ引っかかる点がある、文語には「よ」という正真正銘の格助詞が存在したということだ。現在の「より」と同じく奪格を表していたが、上代では具格も引き受けていた。今でいう「で」である。

浅小竹原腰なづむ空は行かず足行くな

奪格や具格と呼格では機能が違いすぎるし、いくら形が同じだからと言って間投助詞の「よ」と格助詞の「よ」を同単語あるいは同起源と見るのは乱暴すぎるだろう。第一呼格が吸収される場合は(少なくとも印欧語に限っては)例外なく主格が呼格を飲み込む。対格や奪格、具格などの斜格が呼格を吸収した例はない。斜格が呼格の機能を担うようになるなど前代未聞である。しかし奪格・具格の「よ」とは完全に別単語ならそれでもいいから、間投助詞の「よ」のほうもほうとしてひょっとして太古の昔は何らかの格意識を担っていたりはしなかったのかな、という想いが心の隅の隅でまだしつこく燻っている。もっともそれを言い出すと格とは何ぞや、日本語にそもそも格はあるのかという大問題に発展しそうで私の手に負えなくなるだろうから、あまりこれ以上つつかずにそのまま燻っていて貰うほうが無難だが。

 「我が孫よ」の考察が一段落したところで本題の『子連れ狼』に戻るが、この作品が漫画アクションに連載されていたのは1970年から1976年まで。日本映画界が崩壊し、黒澤明が自殺未遂にまで追い込まれ、そこからまた立ち直って『デルス・ウザーラ』を撮った時期と重なる。
 黒澤監督は漫画を嫌い「手塚治虫以外の漫画は子供には読ますな。特に少女漫画はいけない」と言っていたそうだ(当時の分類に従えば『子連れ狼』は「漫画」ではなく「劇画」だが)。またテレビへの対抗処置として手っ取り早く観客をおびき寄せるため「性と暴力」路線に墜ちてかえって崩壊の速度を高めた当時の映画界とは「断固戦う」とまで言明していたくらいだから、監督が『子連れ狼』の原作を読んでいたということはないだろう。いわんや監督がこの作品の「ファン」だったなどとは絶対あり得ないと思っている。一方また監督も家でTVそのものは結構見ていたようだし、晩年はジブリのアニメなども好きだったらしいので、萬屋の『子連れ狼』のほうは見ていたかも、少なくともこの作品は知っていたかもしれない。
 なぜ私がここまで黒澤明が『子連れ狼』を見た見ないにこだわるかと言うと、実は私は『乱』の一文字秀虎を見てつい柳生烈堂を思い出してしまったからである。そりゃあ妄想がひどすぎると言われればまあそうかもしれないが、逆方向、黒澤から『子連れ狼』への影響のほうははっきりしている。例えば第11巻の十三弦というエピソードでは困窮して当然標準価格の一殺五百両など出せない百姓の頼みを一膳の飯で引き受ける。『七人の侍』そのものだ。この一刀というキャラは生きざまと言い、死にざまと言い、冷酷なようで実は非常に慈悲深い人格と言い、そもそも拝一刀などという名前と言い、文句のつけようがないまさに理想の侍ではないだろうか。『七人の侍』の久蔵をベースに『隠し砦の三悪人』の真壁六郎太を小さじ一杯ほど加え凄みを効かせたような感じ。ただ黒澤はその理想の侍を「刺客」という設定にすることは絶対あるまい。黒澤のヤクザ嫌い、無法者嫌いは有名だ。
 もうひとつ黒澤映画の侍たちと違うのはその死に方だろう。黒澤は理想の侍を銃で死なせた。監督自身「野武士との斬りあいなどで殺させたくはなかった。道端で惨めた死にざまを晒させたくなかった。バーンと撃たれて死んだ方が潔い」と言っていたそうだ。潔く花と散る散華の死に方をさせたかったと。子連れ狼・拝一刀の死に場所はさすがに「道端」などではなかったが延々と続く斬り合いで血を流し、いわばボロボロになりながらも最後まで倒れずに立ったまま死ぬ。確かに凄惨すぎて「花と散る」というイメージではない。一方これはあくまで私の個人的な考えだが、せっかく剣で鍛えたのに結局は飛び道具でイチコロという展開より侍は侍らしく剣で死ぬ方がむしろ散華と言えるのではないだろうか。自分が斬り殺されるわけではないから無責任なことを言って恐縮だが。
 とにかく『子連れ狼』を読んでいると他にも黒澤の時代劇のあの場面・この場面がチラチラする。例えば第3巻16話では千秋実と稲葉義男(『七人の侍』)と藤田進(『隠し砦の三悪人』)を合計して3で割ったような感じの侍が一刀に「刺客なんかを止めろ」と説く。もっともこれらは小池一夫(原作)あるいは小島剛夕(画)が意識的に借用したというより(上述の一膳の飯の場面だけは意識的だろうが)、時代劇を作ろうと思ったら黒澤映画を避けて通ることはできなかったといったほうがいいだろう。何をどう描写しようが黒澤時代劇の中に似たようなキャラが見つかってしまうのである。そういえば『子連れ狼』の連載が始まる前年、1969年には『七人の侍』などの黒澤作品が初めてTV放映もされているから劇場公開で見逃してこの時初めて見たという人も多かったに違いない。
 またこれは徹底的にどうでもいい話だが、小島剛夕は黒澤がただ一人「読むに足る漫画家」と認めた手塚治虫と誕生日が全く同じなんだそうだ。

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