アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ: 歴史

 今でもよく覚えているが、2007年にドイツ連邦議会でDie Linke(左党)という政党が動議を提出したことがある。ドイツが1904年に現在のナミビアで原住民にたいして行なった犯罪行為を埋め合わせすべきだ、という提案であった。

 ナミビアは1884年から1915年までドイツの植民地だった。当時は「ドイツ領南西アフリカ」(Deutsch-Südwestafrika)と言った。ドイツはイギリスやフランスより出遅れたため植民地でのふるまいは英・仏に比べてあまり人の口に上ってこないが、立派に(!)アフリカ人を虐待していたのである。その後第二次世界大戦時に行なった大虐殺がひどすぎて、それ以前に行なったアフリカ人ジェノサイドがかすんでしまっているが(ドイツ人さえこれを知らない人がいるし自称「ドイツ語・ドイツ文学を専攻したドイツの専門家」である日本人の無知さは言うまでもない、下記参照)、ジェノサイドはジェノサイドである。むしろホロコーストの根はこのあたりからすでに始まっていた、という点で史実としての重要度はホロコーストに優るとも劣るまい。

 ドイツ人が行なった「民族浄化」の対象になったのはヘレロとナマという民族である。上述のようにドイツ領南西アフリカは1884年からドイツの植民地であったが、始めから原住民に対する抑圧・無関心は相当のものだったらしい。もっともこの「現地人を自分たちと同等の人間とはみなさない」というのは当時のヨーロッパ列強だけではなく、そもそも植民地支配などというものを考えつく国のスタンダードメンタリティではなかろうか。日本だって例外ではない。
 1904年1月12日、ヘレロがその圧政に耐えかねて蜂起し123人のドイツ人が殺された。これが戦争にまで発展した。後にナマもこれに加わった。この、生意気にご主人様に対して蜂起した原住民に対するドイツ側の報復感情は常軌を逸していた。ドイツ側は住民から義勇兵を募ってSchutztruppe、植民地保護軍隊を形成したが、この手の「準」軍隊というのがどういうものであったかはドイツのSAや種々「討伐隊」などその後の歴史を見てみれば容易に想像がつく。実際私たちが想像する通りの集団であったようだ。最初ドイツ側の指揮をとったのは当時としては穏健でまともなテオドール・ロイトヴァインTheodor Leutweinという司令官だったが、この人は報復感情をあまりむき出しにしないようドイツ人達に警告した。しかしそもそもこのロイトヴァインにしても単に「絶滅指令は出さなかった」というだけで、捕虜を特に人道的に扱ったりはしなかったし、ヘレロ殲滅に反対した理由というのも「民族を1人残らず抹殺することなど物理的に無理」「社会的権利をすべて奪うだけで十分。そうしてヘレロをドイツ人のために働かせればいい」というものだったそうだから、その程度の司令官にさえ「あまり感情をぶつけるな」といわれるほどであったドイツ人の討伐軍がいかなるものであったか、想像するだに背筋が寒くなる。
 ところがこの甘すぎる司令官は1904年2月にはもう更迭され、首都ベルリンのドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からロタール・フォン・トロータLothar von Trotha中将という新しい指揮官がアフリカに派遣されてきた。軍隊や武器も強化された。現地の政府は原住民に対する厳しさが足りないと地元南西アフリカのドイツ人たちが本国へ向けていわばロビー活動を行なったらしい。このトロータが悪い意味ですごかった。最初からこの植民地戦争を「人種間戦争」または「人種殲滅戦争」とみなしてヘレロ撲滅を狙い、文書でも堂々とそう宣言したのである。

ロタール・フォン・トロータ
wikipediaから

220px-Lothar_von_Trotha

 1904年8月11日Waterbergというところで戦闘があり、ヘレロは戦いに負けた。トロータにとってはまさに「待ってました」であった。何万人ものヘレロが隣のオマヘケ砂漠に逃走した。大半は非戦闘員、つまり女子供である。ドイツ軍は退路を遮断した上、砂漠で水のあるところを占領したり毒を入れたりして難民が水を得る機会を奪ったため、大半は渇きで死んでいった。砂漠の向こう側はイギリス領だったが、ここまでたどり着けたのは僅か。繰り返すがこれをドイツ軍はワザとやったのである。始めからこの民族を皆殺しにするのが目的だったのだ。トロータはその時こう言っていたそうだ:

„Die wasserlose Omaheke sollte vollenden, was die deutschen Waffen begonnen hatten: Die Vernichtung des Hererovolkes.“

「ドイツが武力をもって開始したことを水のないオマヘケ砂漠が終わらせてくれるだろう。つまりヘレロ民族の絶滅である。」

あまりにも残酷な写真なのでこの記事に載せるべきかどうか迷ったが、ドイツ軍によるヘレロ虐殺。二次大戦時にドイツ陸軍が当時のソ連で行なった住民虐殺の様子と重なってみえる。
http://www.gfbv.it/2c-stampa/04-1/040107it.htmlから

040107herer

ドイツ人にオマヘケ砂漠に追いやられ水を遮断されてそれでも生き残ったヘレロ
https://segu-geschichte.de/voelkermord-herero/から

Herero

 この民族絶滅意図に批判的であったLudwig von Estorff ルートヴィヒ・フォン・エストルフという人が、すでに戦いに負けている民族をさらに砂漠に追いやり家畜諸共死に至らしめるようなやりかたに何の利があるのか、きちんとそれなりに扱ってやって受け入れてやればいいじゃないか、彼らはもう十分罰を受けているのだから、とトロータに提言したがトロータはガンとして耳をかさず、絶滅措置をそのまま推し進めたという。
 さらに殺しそこなったヘレロを収容するために強制収容所も作られた。この強制収容所Konzentrationslagerというものは元々スペインとアメリカに遡るのだそうだが、このドイツ領南西アフリカで使われて以来一気にその名称が世界に広まった。ナチスの発明ではないのである。男性ばかりか女子供までヘレロやナマが収容され人口を減らすのが目的で残酷な労働をさせられたが、その記述を読むと全くナチス時代の強制収容所そのものである。また、トロータがその典型だろうが弱い者や他の民族に理解や同情を示すのは「お花畑」「アマちゃん」、つまり精神が弱い証拠とみなすあたりもナチスの精神主義とまったく平行する。
 トロータは1905年の1月にドイツに帰り、1907年3月31日には戦争は正式には終結したがそこここに収容されていたヘレロ・ナマは1908年の一月27日までは留め置かれたそうだ。最初7万人から10万人いたヘレロが、戦争の後は1万7千人から4万人しか残っていなかった。2万人いたナマも半数しか残らなかった。ドイツ兵の数は1万4千人から1万9千人と推定されている。数字に幅があるのはしかたがない。

 Jürgen Zimmererユルゲン・ツィメラーという歴史学者はこのドイツ人の行為を「あらゆる定義・観点からみてジェノサイドであった」と断定している。

 ドイツの植民地支配は1915年まで続き、その後この南西アフリカにはブーア人(アフリカーナ、『89.白いアフリカ人』参照)が入り、英国領となり、さらに紆余曲折を経て1990年に独立したわけだが、その植民地支配自体は終了した後、つまり1920年代になってからもドイツ本国や南西アフリカにいろいろ記念碑や銅像が建てられた。「勇敢なドイツ兵士」を記念するためである。フォン・トロータをたたえる記念碑まであったそうだ。1930年代、ナチスの時代になってからはこのドイツ軍カルトぶりがさらに悪化し、いわば国民総ミリオタ状態になったことは想像に難くない。盛んにプロパガンダされたようだ。1935年にもこの「ドイツ人が植民地で行なった英雄行為」をたたえる銅像がデュッセルドルフに立てられている。
 「ホロコーストをやったのはナチ。普通のドイツ市民はむしろその犠牲者」という言い方をそのまま信じているそれこそお花畑な人が日本にはいるが、こんなもんは国土をさほど荒らされる事もなくドイツ人の支配を受けずに国民を虐殺されることがなかった戦勝国英米が余裕で行なったリップサービスである。ポーランドやフランス国民にはそんな絵空事を信じている者などいない。あれはドイツ国民がこぞってやった犯罪だと思っている。事実ソ連やポーランドでユダヤ人やスラブ人を虐殺したのは武装親衛隊ばかりではない、普通の陸軍兵士もやったのである。また、ヒトラーに政権を与えた後もドイツ国民側からこの政権に反対を唱える声があまり聞こえてこなかったのもゲシュタポが怖かったり情報が入って来なかったからばかりではない、「我々は支配者人種」という思想がドイツ人の心の底にはあったから、つまり国民の相当数が消極的にナチスに加担していたからである。歴史の歯車が狂っていたらアジア人の日本人など劣等民族として殲滅対象にされていたはずである。

 第二次大戦後はこの南西アフリカでの行為は忘れられてしまった。その歴史意識が転換し出したのはやっと1970年も終わりになってからだ。そここにいまだに立っている「植民地記念碑」を恥かしがる声が起こってきた。1978年には反帝国主義運動を起こしていたゲッティンゲンの学生の1人と思われる者に南西アフリカ記念碑の鷲の銅像が盗まれた。その銅像から切り取られた鷲の首が1999年になぜかナミビアの首都ウィンドホックで見つかり、現在はナミビア大学の学生協会の所有になっているそうだ。

これがそのワシの首
http://www.freiburg-postkolonial.de/Seiten/Goettingen-kolonialadler.htmから

GoettingenAdler

 さらに1984年、つまりドイツの南西アフリカ支配が始まってからちょうど100年目、学生ばかりでなく教授をも含むミュンスター大学の行動グループがやはりドイツ軍礼賛記念碑にWir gedenken der Opfer des Völkermordes unter deutscher Kolonialherrschaft in Namibia「ドイツの植民地支配下でジェノサイドの犠牲になった人々を追悼する」というプレートを付加しろと運動した。ここでVölkermord(民族浄化、「ジェノサイド」Genozidと同義である)という言葉が論争になり、結局プレートは実現しなかった。
 1990年、ナミビアが正式に国家として独立するが、これを機に1933年に建てられていた植民地支配記念碑を「どうにかしよう」という動きがブレーメンで起こり、1996年にその記念象には逆の意味が与えられ、「ドイツによるナミビアでの植民地支配の犠牲者に捧げる」というプレートがつけられた。除幕式、といっていいのかとにかく完成時には当時のナミビアの大統領Sam nujomaサム・ヌヨマ氏も招かれた。なお記念と書いたのは誤植ではない。この記念碑は本当に象の像なのである。

かつてドイツの植民地支配を誇示するものであった象の像は今は寛容のシンボルとなった。アフリカの国々の国旗を掲げる活動グループ。象のデカさがわかる。
http://www.der-elefant-bremen.de/aktion_10/elefantenfluesterin2.htmlから

schal

 植民地戦争勃発の100年目、2004年を前後してナミビア関係の史学論文や著書の出版も増えた。このブログの参考にしたVölkermord in Deutsch-Südwestafrika(ドイツ領南西アフリカでのジェノサイド)という本も2003年の出版である。また、ナミビアが正式に国家になったことで、ドイツ帝国の後裔である現在のドイツ連邦共和国に対して賠償問題も浮上した。2001年には米国でヘレロがドイツ銀行に対して当時の賠償を請求する裁判を起こしているそうだ。
 話は飛ぶが、1989年にドイツが統一したことによりドイツはワイマール共和国の正式な後裔ということになって、ナチスが一方的に破棄していたフランスに対する第一次世界大戦時の未払い賠償金の義務が生じたため、統一ドイツは2010年に完払するまで毎年フランスに残りの賠償金を払い続けていた。ご苦労なことである。

 さて、ナミビア賠償問題、いやそもそもナミビアでのドイツの戦争犯罪は2004年以降から次第にドイツ国内でも人の口に上るようになり、とうとう2007年に左党が連邦議会に動議を提出したことは始めに述べた通りである。私は長い間ドイツで暮らしていながらこのドイツ帝国の犯罪をこのときまで知らなかった。「戦争犯罪に無神経な日本人」を地で行ってしまったのである。
 左党の要求に対する当時のドイツ連邦議会の答えは「ドイツに責任があったことは認めるが補償やジェノサイド認定はしない」というものであった。これが今日までのドイツ政府の正式なスタンスである。しかし左党はその後もしつこく動議を出しているし、活動家や政治家からの追及の声も高い。2016年、連邦議会議長Norbert  Lammertノルベルト・ラマートが当時の行為について「ジェノサイド」という言葉を使ってニュースになった。けれどもこれは政府の公式な見解とは見なされていない。「謝罪はするがジェノサイド認定も賠償もしない」という連邦政府の姿勢は変わっていない。
 ここでジェノサイドと言った言わないが大騒ぎになるには理由がある。1968年にドイツ連邦共和国が加盟した国連協定、また1974年のヨーロッパ協定でも「戦争犯罪、人道に対する犯罪、ジェノサイドには時効がない」とされているからである。ジェノサイドと認定してしまうと芋蔓式に様々な法的義務が生じ、追求を止められなくなる、つまり「この件は歴史的に既に決着しています」ということができなくなるのだ。
 地元ナミビアでは毎年八月の最後の週末に「ヘレロの日」というのを設け、Okahandjaオカハンジャという町で祭り(?)を行ない、ドイツ軍によるヘレロ虐待の模様を芝居で再現しているそうだ。ナミビアには現在でも2万人強のドイツ人がいて、ドイツ語言語島を形成しているが、ヘレロの日にドイツ軍を演じるのは彼らではなくヘレロである。まだ話し合いは続いていくだろう。

ヘレロの日。ドイツ軍はヘレロ人が再現している
http://www.zeit.de/politik/deutschland/2016-07/bundesregierung-herrero-massaker-voelkermord
namibia-hereroから

namibia-herero-voelkermord

イラストに描かれたヘレロ戦争
https://www.welt.de/geschichte/article156071025/Mit-diesem-Genozid-will-die-Tuerkei-kontern.html#cs-Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal.jpgから

Herero-Aufstand-aus-Petit-Journal

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 ヨーロッパの非印欧語の公用語という話になるとまず口に上るのはフィンランド語とハンガリー語だろう。それからエストニア語やバスク語が出てくる。バスク語は国家レベルの公用語ではないが必ずと言っていいほど出る。反対に一国家の公用語となっている非印欧語でありながら何かとスルーされるのがマルタ語だ。英語と共にマルタの公用語で、セム語族である。
 しかしやっと名前を出して貰っても「マルタ語はヨーロッパで唯一のセム語族言語」とか「セム語族の言語の中でローマ字で記述されるのはマルタ語だけ」とか奥歯に物が挟まったような言い方をする人が多い。何が挟まっているんだ、セム語ということで正しいじゃないかと思われるかもしれないが、マルタ語は一目瞭然でアラビア語から発達した言語であることは明らかなのに妙にその点をぼかして上位観念の「セム語」を持ち出してくるのは不自然である。現にアフリカーンスの話なら真っ先にオランダ語の名が出る。印欧語が引っ張り出されるのはその後だ。そもそもマルタ語で「セム語」というときは非アラビア語のセム語というニュアンスで使っている場合が多い。M. H. Prevaesという人が報告しているが、「自分は今マルタ語の勉強をしている、特にアラビア語とのつながりを重点にしている」と現地のマルタ人に話したらうさんくさい目でこちらを見てきて、必死にマルタ語とアラビア語は関係ないと言い出す人が大半だったそうだ。ある人ははっきりとあなたは間違っている、マルタ語はフェニキア語起源だといい、またある人は俗ラテン語が起源と言い、次の人はラテン語なものか、マルタ語はヘブライ語の末裔なんだと主張する、ラテン語説は除外するとしてマルタ人が「セム語」というとき「非アラビア語」のつもりであることがよくわかる。こういう民間語源(?)がマルタ人の間には広く信じられているらしい。さらに言えばマルタ人はそう信じたい人が多いようだ。現在のマルタはヨーロッパ文化圏に属し、住民はキリスト教徒である。ヨーロッパ人たる自分たちの言葉がマグレブ・アラビア語なのだとは思いたくないのだろう。アラビア語とは認めている人もマグレブ方言でなく、イスラム教徒の迫害を逃れて来たシリアのキリスト教徒の言葉であると言い張ったりする。マルタ語には歴史的背景、話者の言語意識、果ては比較言語学の歴史などいろいろなものが奥歯に挟まっているのだ。

 マルタには紀元前5千年ころから人が住んでいたそうだ。青銅器の時代、紀元前2500年ごろから紀元前700年ごろまではフェニキア人が住人だった。その後その末裔のカルタゴ人というかポエニ人が住んだ。紀元前218年から202年にかけての第二次ポエニ戦争(懐かしい、高校の世界史でやらされた)でカルタゴがローマに壊滅されてからはローマの支配下にはいった。キリスト教そのものは紀元60年ごろには伝わってきていたようだが、いわゆるキリスト教化されたのは4世紀に入ってから。535年にはビザンチン帝国領になる。
 870年にアラブ人に占領され、ビザンチンとの小競り合いが続いていたようだが、1090年にすでにその前にシチリア島を支配していたノルマン人ルッジェーロ一世の統治下に置かれた。以後マルタは長い間シチリア・イタリアの支配下となる。1194年に神聖ローマ帝国のホーエンシュタウフェン朝がシチリアもろとも支配、1266年からアンジュー伯シャルルがやってきて支配したが1283年にはアラゴン王国に統治権が移る。この支配は1530年まで続くが、アラゴン王国が1516年にカスティリアと併合してスペインになったので最後の14年はスペインの統治ということになる。
 そろそろ高校で共通一次用にやった程度の世界史の知識では手に負えなくなってきたが、その後ロドス島から来た聖ヨハネ騎士団に統治される。1798にナポレオンがエジプトに向かう途中でマルタに来て支配した。革命後のフランスであったので、マルタの住民はそれまでの騎士団支配より「人民に優しい」政治をやってくれるだろうと期待したが当てが完全に外れたため、イギリスに援助を求めてフランス人を追い払って貰った。1800年のことだ。泣きつかれたイギリスはあまり積極的にマルタを支配に置こうとは思っていなかったらしく、最初統治権を騎士団に返そうとしたりしたが、結局そのままイギリス統治ということになってこれが1964年まで続いた。そして1964年、そういう話ではないがセルジオ・レオーネが『荒野の用心棒』を撮った年にマルタは独立国家となり、1979年には独立後もなんだかんだで居残っていた英軍が撤退して今日に至る。

 複雑な歴史だが、さらに複雑なのはその言語事情や住民構成である。細かく気にしだすとキリがないので面白いと思った点だけ述べるが、まずマルタには本当に、昔フェニキア人(またはポエニ人、カルタゴ人)が住んでいた。ここからマルタ語は当時から延々と話され続けてきたフェニキア語という伝説が起こったのだろうが、ローマの手に入ってからは住民はフェニキア人あるいはカルタゴ人ばかりではなかったはずだ。話されている言語もカルタゴ語、ラテン語、ギリシャ語の少なくとも3言語あったとみられる。書き言葉が確立していた強力な言語、ラテン語とギリシャ語が残らず、フェニキア語(あるいはカルタゴ語、ポエニ語)だけ残ったと考える理由がない。理由ばかりでなく9世紀以前のマルタ島についての資料そのものが非常に少ない。
 それでも870年にイスラム支配下にはいったことは複数の文献からわかっている。イスラム支配1090年まで続いたが、この時代のマルタ島やそこの住民についての記録となるとやはり少ない。しかしその数少ない資料によればマルタは870年から約180年間人がほとんど住んでいなかったとある。870年に入ってきたイスラム教徒が先住民を一掃してしまったらしい。ギリシャ語による記録にもそうあるらしいが、さらにal-Ḥimyarīという人もマルタは無人島だったと報告している。時たま漁師が魚を取りに来たり、船大工が木を伐りに来たり、誰かが蜂蜜を集めにきたりする以外は住む者のない廃墟の島であったと。そしてずっとその状態で放っておかれて、やっと1048年ごろから北アフリカなどからイスラム教徒が渡ってきて住み始めたらしい。現在のマルタの地名を調べても、マグレブ・アラビア語より古い起原と思われるものが全くみつからないのもそのいい証拠だそうだ。マルタは歴史的にも言語的にも大きな分断を経験しているのである。

マルタについてのal-Ḥimyarīのテキスト部分
J.M. Brincat. 1991. Malta 870-1054 : Al-Himyari’s Account and its Linguistic Implications. In: Said International, P.9-10 から
maltabeschreibung2BeschreibungMalta1



 1048年ごろからビザンチンの攻撃が始まった。前後して人がマルタにやってきた。マルタが戦略上重要になってきたため兵士だろその家族がドンドン移住してきたらしい。奴隷の数もそれ以上と思われる。つまりマルタはゼロからアラブ人の島となったのである。アラブ側は戦いの時奴隷に向かって「お前たちが今ここでいっしょに戦って敵を追い払ったら自由の身にしてやる」と言ったそうだ。そしてビザンチンは追い払らわれ、奴隷は自由の身となった。これもal-Ḥimyarīの記述である。
 続いて1090年からキリスト教ノルマン人の支配となったが最初ノルマン人は住民に改宗を強制しなかった。バスク語のところでも見たように(『103.新しい家』参照)ヨーロッパ中世の支配者というのはヨソからポッとやってきて統治するだけで、住民とはあまり触れ合いがない人も少なくない。ここでもしばらくの間住民はイスラム教のままであった。例えば1174年ごろのマルタ本島とマルタに属すもう一つの島ゴゾ島の住民の墓石を調べたところ一つを覗いて名前と日付とコーランや古典アラビア文学からの引用句が彫り付けてあったそうだ。住民の言語はアラビア語(の口語)、宗教はイスラム教だったことがわかる。
 キリスト教への改宗が始まったのは神聖ローマ帝国下である。1224年にフリードリヒ2世がイスラム教徒の追放を開始した。しかしなんだかんだで13世紀の終わりまではかなりのイスラム教徒が存在していたらしい。陸続きなら追放も簡単だが島だと出ていけと言われてもおいそれと出てはいけず、キリスト教徒に改宗してしまったものも多かったとみられるが、住民のほぼ全員を占めていたイスラム教徒がどうなってしまったか細かいところはわからない。とにかく以降はイスラム教徒は漸減し現在のマルタは完全にキリスト教国だが、住民の言語は(事実上)アラビア語である。木に竹を接いだとはまさにこれだ。始めに述べたようにマルタ語の起源はマグレブ方言ではなくアラビア語でもシリアのアラビア語だ、と主張する人がいるのはこのためだろう。シリアにはアラビア語を母語とする古いキリスト教徒がいるからだ。いまだにアラム語の話者さえいる。これらの人がイスラム教徒の迫害を逃れてマルタにやってきた、その言葉がマルタ語のもとになったのだと。あくまでもイスラム教との結びつきを否定したいのだ。

 また住民の言語状態はイスラム支配の9世紀からすでにダイグロシアであった。ダイグロシアとは1957年に社会言語学者のファーガソンが広めた概念で、ざっくり言うと書き言葉と話し言葉との差が著しく、一言語の変種の差というより2言語と言ったほうがいい状態のことである。アラビア語がその代表的な例だが、会話はクレオール・フランス語でして、フランス語で書いているハイチなどもダイグロシアだ。言文一致以前の日本語もこのダイグロシアである。実は先日出版した私の本のテーマも何気にこのダイグロシアである(宣伝するな)。2つのバリアントをそれぞれH-バリアント、L-バリアントと言っている。日本、ハイチ、アラブ諸国のダイグロシアではHとLが親戚言語だが、まったく姻戚関係のない2言語がダイグロシアを形成することがある。南米ではグアラニ語対スペイン語でダイグロシアになっている。親戚言語によるダイグロシアをInnendiglossie(内ダイグロシア)、親戚でない言語によるダイグロシアを Außendiglossie(外ダイグロシア)と呼ぶ。
 イスラム支配下でのマルタの言語は古典アラビア語(H)とマグレブアラビア語(L)との内ダイグロシアであった。13世紀以降、イスラム教がバンされて社会上層部がキリスト教徒になり、正規の場で使われる言語がラテン語となった際もLのほうには変化がなく、ラテン語とマグレブ・アラビア語の外ダイグロシアに移行したにとどまった。話し言葉は相変わらずだったのである。
 もっともキリスト教支配の時代になるとヨーロッパのあちこちから貴族が移住してきたりしたので15世紀のころには上層部はイタリア語、というよりシチリア語を話していたらしい。その騎士団統治の頃からマルタの木に竹状態は支配者や学者の目につくようになり、16世紀ごろからマルタ語の研究が始まった。対イスラム教徒の戦略地としてマルタは重要になっていたし住民も増えるしで、支配者側も君臨すれども支配せず的なのんきなことを言っていられなくなったのだろう。下々の住民とのコミュニケーションが必要になってきたのである。簡単な文法書や辞書(ラテン語⇔マルタ語事典)の編纂が始まった。マルタ語の起源にも関心が集まった。
 識者のなかにはマルタ言語は「アラビア語の一種」であると素直に気づいたものもいたが、上述のようにフェニキア語だろヘブライ語だろを持ち出すものも多かった。その中にAgius De Soldanisという有名な学者がいる。フェニキア語そのものの検討をあまりしないままフェニキア語起源説を唱えてしまったため批判されているが(例えば1750年にDella lingua punica presentemente usata da’ Maltesiという論文を出している)、マルタ語の古い文献を収集し記述した業績は認めないわけにはいかない。またDe Soldanisはエトルリア語(『122.死して皮を留め、名を残す』)をフェニキア語の古い形と考えていたそうだ。
 もう一人言及すべき名前はMikiel Anton Vassalliである。18世紀の終わりから19世紀初頭にかけて活躍したマルタ語学の父ともいえるで言語学者で、正書法を確立しようと努力し、文法書や辞書を作った。 マルタ島の出身で母語はマルタ語だったが、さらにローマで(古典)アラビア語や他のセム語を勉強。1791にラテン語でマルタ語文法書、1796年にはマルタ語・ラテン語・イタリア語の辞書を出した。後者はKtyb yl Klym Malti, Mfysser byl-Latin u byt-Taljan sive Liber Dictionum Melitensium, hoc est Michaelis Antonii Vassalli Lexicon Melitense-Latino-Italumという長いタイトルだが、その最初の語Ktybは私の馬鹿の一つ覚えのアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』『53.アラビア語の宝石』参照)から類推して「本」という意味のマルタ語だろう。後半はラテン語になっていて著者の名前もラテン語化させてある。Vassalliはマルタ語の階層をなしていると見て、有史以前にマルタで話されていた原住民の言葉にフェニキア語やカルデア語がかぶさってできた原マルタ語が、ローマやビザンチン支配下でもラテン語・ギリシャ語の影響は受けないで来たものを9世紀にやっとまた外部、つまりアラビア語から影響を受けて今のマルタ語になった、と考えていたそうだ。言い換えると純粋なマルタ語はアラビア語によって「汚染された」という発想である。Vassalliほどの人でもこのような誤謬を犯した原因の一つは当時は比較言語学が今のように発展する以前で方法論が十分確立していなかったことだとPetersenという人が述べている。Vassalliがさらに詳細にアラビア語とマルタ語の比較を続けていれば、違った結論に達したろうとも。Vassalliがマルタ語文法の第2版を出したのが1827年。その死まで2年しか残されていなかった。
 1810年にWilhelm Geseniusがフェニキア・ポエニ語説を否定し、マグレブ・アラビア語とのつながりを主張した。しかしこの語もフェニキア語説がしつこく生き残ったことは上で述べたとおりである。

 マルタ語研究そのものの発展に並行して、その正書法を確立しようという動きもさかんになった。話し言葉でしかなかったマルタ語を書き言葉に昇格させようという動きである。これが言うは易し行うは難しであることは日本の言文一致運動のすったもんだを見ればよくわかる。現在のドイツ語もラテン語から書き言葉の座を奪うまでは長い長い時間と努力が必要であった。面白いことに正書法をも含めたマルタ語標準語を推進しようとしたのは当時の宗主国イギリス人で、マルタ語ネイティブ話者当人たちは最初あまり積極的でなかったそうだ。20世紀もだいぶ中に入った1920年にGħaqda tal-Kittieba tal-Malti という作家などによるいわば国語審議会(現在のAkkademja tal-Malti)が作られ、マルタ語の標準語化に力がそそがれるようになった。
 マルタ語を書き表すのにローマ字を使うことになったのは今まで見てきた歴史経過や住民の言語意識からみて当然であるがそこで問題が生じた。まずそのローマ字を何語読みにするかということである。日本語のローマ字綴りは英語読みだが、当時までマルタで使われていた書き言葉はイタリア語であったので結局イタリア語読みのローマ字を使うことになったが、その「結局」に至るまでまたいろいろ試みられたのは当然である。例えば上記のVassalliの提案した正書法は音韻論的に見て非常に優れたものであったにもかかわらず一般にあまり浸透しなかったが、そのローマ字がイタリア語読みでなかったからだ。
 次の課題はローマ字にない発音をどうやって表すかという問題である。これも最初はローマ字以外から持って来たりしていた。アラビア文字や時にキリル文字まで持ち出されることがあったが、最終的にラテン文字だけで表記することになった。現在の正書法が確立したのは1924年になってからである。

マルタ語正書法のいろいろ。M. H. Prevaes. 1993. The emergence of Maltese. Den Haagから
maltesisch-Orthographie
 
 さらに辞書編纂の際見出し語をどう並べるかも問題となった。ローマ字アルファベット順にするのかアラビア語やヘブライ語のような三子音語根の原則に従うのかということである。VassaliやDe Soldanisは純粋にアルファベット順にしていたそうだが、これはマルタ語の言語構造に一致しない。かと言って語根原則だけに従うとマルタ語の中で大きな割合を占めるロマンス語からの借用語が宙に浮いてしまう。それで「アラビア語起源の単語は語根原則、ロマンス語起原のものはアルファベット順」という折衷案をとったりしているらしい。ロマンス語からの借用語も時がたってアラビア語化され、めでたく(?)新しい子音語幹として定着することも時々あるそうだ。

 独立言語と言ってもマルタ語はやはりアラビア語ときれいさっぱり縁を切ることはできないようで、正書法にも標準アラビア語(アラビア語のH-バリアント)の影響が見える。代表的なのが għ という綴りで、事実上二字で一字なのだが(ドイツ語の ch のようなもの)現在のマルタ語ではこれは黙字である。そのためこの字を廃止しようと言う声もあるそうだ。にも関わらずDe Soldanis以来ずっとこの字(表記そのものは変わっていった。上記参照)が使われてきたのは、アラビア語の書き言葉にこれに対応する字があったからである。古典アラビア語ではこれが音価を持つれっきとした子音であって語根も作っていたがマグレブ方言、つまりアラビア語のL-バリアントでは消失してしまった。ただこれが前後の母音に影響を与えていたため、子音そのものが消失した後もその母音変化のほうは残ることとなった。それで għ は現代マルタ語では後続母音が長母音、または二重母音になることを示す。例えば「雷」ragħadは [rɐ:d] と読むことからわかるように a は長母音、ほかの母音は2重母音になるのだ:għu → [ɐʊ] または [ɔʊ] 、għi → [ɐɪ] または [ɛɪ]。 自身は消失したが、後続母音に影響して音価を変えさせた喉音などというとまるで例のソシュールが唱えた印欧祖語の喉音(『115.比較言語学者としてのド・ソシュール』参照)を髣髴とさせる。

マルタ語の動詞変化表の一部。さあ頑張って覚えましょう。
Borg, Albert et. al. 1997. Maltese. New York:358-361から

maltesischgrammar1

maltesischgrammar2


 最後になるが、そしてまたしてもそういう話ではないが『殺しが静かにやってくる』が撮られた1968年にWettingerとFsadni という学者が最古のマルタ語テキストを発見した。Cantilenaという詩で、1533年から1536年の間にBrandano De Caxarioの手で書かれたものだが、詩そのものはBrandanoの先祖で少なくとも1450年から1483年の間に生存していたことが確認されているPietru de Caxaro(i はどこへ消えたんだ?)という人が書いたものだ。ローマ字表記なので、現在の正書法で書き直して比べてみるとマルタ語正書法の発展の過程を追うことができる。20行からなる詩だが、私にはどうせマルタ語などわからないので全部引用しても仕方がないから最初の6行だけ比べてみよう。

原文正書法
Xideu il cada ye gireni tale nichadithicum
Mensab fil gueri uele nisab fo homorcom
Calb mehandihe chakim soltan ui le mule
Bir imgamic rimitne betiragin mucsule
Fen hayran al garca nenzel fi tirag minzeli
Nitla vu nargia ninzil deyem fil bachar il hali.

現代マルタ語正書法
Xidew il-qada, ja ġirieni, talli nħadditkom,
Ma nsab fil-weri u la nsab f’għomorkom
Qalb m’għandha ħakem, sultan u la mula
Bir imgħammiq irmietni, b’turġien muħsula,
Fejn ħajran għall-għarqa, ninżel f’taraġ minżeli
Nitla’ u nerġa’ ninżel dejjem fil-baħar il-għoli.

英訳にすると大体こうなるそうだ。
Witness my predicament, my friends (neighbours), as I shall relate it to you:
[What] never has there been, neither in the past, nor in your lifetime,
A [similar] heart, ungoverned, without lord or king (sultan),
That threw me down a well, with broken stairs
Where, yearning to drown, I descend the steps of my downfall,
I climb back up and down again, always faced with high seas.

Cantilena原文。ラテン語の前文がついている。ウィキペディアから
Il-Kantilena

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング 
人気ブログランキングへ

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 1492年は受験生泣かせの年で(誰が泣くか)世界史で重要な出来事が3つも起こった。その一はコロンブスのアメリカ大陸到着(一部には新大陸発見などという名称も使われているようだが、いくら何でも先住民に失礼すぎやしないか)、その二がレコンキスタの完成(グラナダ王国の滅亡)、その三がアントニオ・デ・ネブリハによる『カスティーリャ語文法』Gramática de la lengua castellana の出版である。
 ネブリハの『カスティーリャ語文法』は長い間ヨーロッパで唯一の書き言葉・文化語であったラテン語の位置が各国言語、つまり口語にとって変わられていく重要な一歩となった。その序文でネブリハはこの本を大国となったカスティーリャの女王イザベラに捧げ、新たにその支配下にはいった(カスティーリャ語を母語としない)民がこの素晴らしい支配者の言語が使えるようになるための手助けになろうと言っている。またそこで述べられているネブリハの言語観は今でも通じる近代的なもので、この文法書は 今から見ると言語学史上の金字塔であった。
 私はその『カスティーリャ語文法』について大きく誤解していた点が二つある。まず、私はこれがあたかも1957年に出版されたチョムスキーの Syntactic Structures のごとく出版と同時にセンセーションを巻き起こしたのかと思っていた。ところが実はそうではなかったらしく、ネブリハの生存中当書はほとんど人の目を引かず、やっと18世紀になってから第二版が出たそうだ。ダイグロシア崩壊期によくある「下品な口語なんかに文法もクソもあるか」というお決まりの批判にも晒された。そもそもネブリハはラテン語の専門家で、直前の1486年に『ラテン語入門』Introductiones latinae という本を出版している。こちらの方は売れに売れて16世紀だけで59版刷られたそうだ。「金字塔」という評価はずっと後になってからなされたのである。
 二つ目の誤解は、「新たに女王の支配下に入った民」と聞いてアメリカ大陸の先住民が思い浮かんでしまい、植民地の支配を容易にするためにカスティーリャ語を押し付ける手助けにこの文法書を捧げたのかと思っていたことだ。こちらの誤解の方がずっと程度が馬鹿で我ながら赤面に堪えない。ちょっと考えてみればわかりそうなものだった。
 『カスティーリャ語文法』が出版されたのは1492年8月18日である。その直前、やっと8月3日にコロンブスが航海に出発したのだから、当然その時点では植民地もアステカ人やインカ帝国への虐殺・支配はまだ影も形もない。コロンブスのバハマ到着が10月12日、その地でいろいろ探検して、スペインに帰って女王に航海の結果を報告したのは翌年1493年3月である。しかもコロンブス本人は死ぬまで自分の行った地はインドか中国だと思っていたのだし、ネブリハも確かに文法書の出版は1492年だが原稿そのものはそのずっと以前から着手していただろうから、「女王支配下の新住民」がアメリカ大陸の先住民を指していたはずはない。
 この「新たに支配下に下った住民」というのはイベリア半島の住民のことである。ロマンス語を母語としない住民、つまりアラブ人とユダヤ人のこと以外あり得ない。グラナダ王国が陥落したのは文法書が出る前の1492年6月2日だがそれ以前にイスラム側はジワジワと領土を失っていっていた。しかし領土が失われ支配者が入れ替わっても住民まで入れ替わったわけではない。早とちりな誤解への反省の意味を込めてちょっとイスラム支配下のスペインの歴史や言語構成、住民構成はどうなっていたのか見直してみた。

 本題に入る前に確認しておきたいことが何点かある。第一点が「レコンキスタ」、「再征服」という命名にそもそも問題があることだ。複数の歴史家がそう言っている。この言葉から連想されるのはキリスト教徒が団結してムスリム支配のイベリア半島を北からジワジワ取り戻していったという図である。しかし実情は全然違う。領土の奪回を狙ったイベリア半島のキリスト教領主は別に「キリスト教の地」を回復しようなどという意図はなく、単に自分の領土、自分の勢力を拡張したかっただけで宗教の事など頭になかった。現に隣のキリスト教領主の領地を奪い取るために仲良しの(?)イスラム教領主の助けを借りたり同盟を結んだりする、またはその逆が日常茶飯事だったそうだ。当地ではキリスト教徒とイスラム教徒は小競り合いはあってもきちんと共存していたである。
 「レコンキスタ」という言葉に暗示される「キリスト教対イスラム教」という間違った対立図式を無理やりイベリア半島にまで当てはめようとしたのは13世紀の初頭エルサレムを取り戻せと十字軍にハッパをかけたローマ教皇インノケンティウス3世あたりらしいが、とにかく「レコンキスタ」という用語は後から人為的にイベリア半島に投影された観念なので不適切だそうだ。
 もっとも十字軍などキリスト教側が狂信化していった時期にはイベリア半島のほうもアラブ人でなくベルベル人の支配下にあって、このベルベル人はアラブ人より宗教的寛容度がずっと低かったようだ(下記)。それで対立図式が当てはまりやすい状況ではあったらしい。

 第二の確認事項は、アラビア文化とイスラム教は区別して考えないといけないことだ。言い換えると「アラブ化」は「イスラム化」とイコールではないということである。イベリア半島にイスラム教徒がやってきたのは711年、イスラム教が起こった622年から100年も経っていない。軍の大部分を構成するベルベル人を率いていたアラブ人が携えてきた文化は「イスラム文化」ではなく「アラブ文化」である。アラブ人が武力だけでなく文化の面でも世界最高のレベルに達したのは確かにイスラム教をかすがいとして諸部族が統一され、領土がアラビア半島外に広がってから、ウマイヤ朝がダマスクスに、アッバース朝がバグダッドに中心を定めてからだろう。そこでインド、古代ギリシア、メソポタミアなどの知の遺産に触れて高度な文化を築き上げた。だがそれ以前、イスラム帝国がまだアラビア半島から出ない頃にすでにアラブ人たちは詩などの言語の文化を発達させていた。酒を愛し、愛の歓び悲しみを歌う高度な言語文化、そういう下地があったからこそ他の文化に触れて自然科学や数学・哲学を自分たちのものとして消化し、自らの文化をドッと開花させられたのだ。野蛮人だったら(差別発言失礼)そこで相手の高度な文化に飲み込まれて自分たちの文化のほうは消滅させてしまうのがオチだ。イベリア半島に伝わったのはこういうアラブの豪族文化であって必ずしもイスラム文化ではない。だからこそイベリア半島には「アラブ人化したキリスト教」が大量にいたのである(下記)。

 第三点。「スペイン人」、つまり「イベリア半島人」としてのアイデンティティはいつ生じたのか。ローマ帝国時代は自分たちをローマ人と思っていたろうが(もちろんバスク人などローマ以前からの先住民はいた)、帝国崩壊後、5世紀から6世紀にかけてゲルマン民族の西ゴート人がやって来て支配者となる。だからスペイン語にはロドリゲス、ゴンザレス、エンリケス、アルバレスなど一目でゲルマン語だとわかる名前が多い。だがそのゴート人は上層部に限られ、当時300万人ほどとみられるヒスパノ・ロ―マ人に対してゴート人はたった15万人くらいで、しかも被支配者の文化に飲み込まれてキリスト教となり言語も速攻でロマンス語に転換してしまった。(ということはゴート人はさすがゲルマン人だけあって「蛮族」だったわけですかね)
 歴史家の意見が分かれるのはここからで、伝統的なスペイン史観では、西ゴート人支配下で「イベリア半島人」(原スペイン人)というアイデンティティが生じていたが、8世紀の初頭にアラビア人が「押し入ってきたので」住民は自分たちのアイデンティティを守るべく立ち上がってレコンキスタに持って行った、ということになる。この歴史観を取っている人には例えばサンチェス・アルボルノス Claudio Sánchez-Albornoz などがいる。もう一つは、西ゴート人支配の頃にはまだまだ「イベリア人または(原)スペイン人」としての一体感などなかった、それが生じたのはアラブ人の支配下でイベリア半島が統一されてから、特にああ懐かしや高校世界史で習ったアブド・アル・アフマーン一世下のウマイヤ朝がスペインをまとめてから、そこで初めて自分たちは同一民族であるという意識が生まれたのだという見解。つまりアラブ文化はイベリア半島人の血肉だということだ。近年はこちらの見解の方が優勢だそうで、カストロ Américo Castro などの学者が唱えている。
 
 四つ目の点は、上記の三点全部に関連することだが、イスラム教は本来他の宗教、キリスト教とユダヤ教に対して非常に寛容だったことだ。このこと自体ははさすがに現在の欧州では(まともな教養の人は)皆知っている。知っているは知っているが時とすると忘れそうになる人もいるので再確認しておく必要がある。イスラム教徒はキリスト教徒、ユダヤ教徒を「啓典の民」ahl al-kitāb と呼んで一目置き、支配地でも宗教の自由を完全に認め、種々の宗教儀式を遂行するのにイチャモンなどつけなかった。ただ他宗教の教徒は人頭税を払わないといけなかったようだ。
 ウマイヤ朝期に首都コルドバでさかんにムスリムをディスっていたキリスト教徒 Eulogius という人物でさえ「このクソ宗教への改宗を強要されたりはしていない」と言っている。後にイスラム教国のグラナダ王国が陥落したとき、キリスト教の支配者がその地に残っていたイスラム教徒に「改宗するかスペインから出ていくか」の二者選択を迫ったのとは対照的である。時代が下ってバルカン半島を支配していた時もイスラム教支配者は基本的に他宗教に寛容であった。そうでなかったらボスニア・ヘルツェゴビナ、シリア、果てはエジプトに現在でも大量のキリスト教徒が暮らしているわけがない。とっくに殲滅されていたはずである。特に成立して間もないイスラム教に支配されていたいイベリア半島にはこの「みんないっしょ」感覚があったらしい。それで上述のように「スペイン人としての一体感はイスラム支配下で発生した」と主張する歴史家もいるのだろう。

 この「イスラム支配下のスペイン」のことを「アル・アンダルス」という。歴史用語である。

 さてそれらの確認事項を踏まえてアラブ人の到来からネブリハの文法書出版に至るまでのイベリア半島の歴史をごくかいつまんで追ってみた。
 上述のようにイベリア半島はラテン語崩れのロマンス語を話すいわばヒスパノ・ローマ人を少数のゴート人の貴族が支配している状態だった。ガッチリ統一された国家でなく諸侯のバラバラ支配だったので結束が弱く、あっという間にアラブ人に入られたのである。711年、アラブ人の将軍ムーサー・イブン・ヌサイルの代理ターリク・イブン・ジヤードが7000人のアラブ人兵士と5000人のベルベル人の兵士を率いてやってきた。それでスペインの最南端が「ターリクの山」、ジャバル・アル・ターリクと呼ばれているのだ。もちろんこれがジブラルタルという名前の語源である。続いて将軍自身もさらに18000人ほどの増強兵力(その多くはベルベル人)を率いて上陸し、あっという間にイベリア半島を支配した。支配者アラブ人の人口は兵士や、後からやってきたその家族を入れても5万人ほどだったのではないかと思われる。それに対してヒスパノ・ロ―マ人は五百万人から六百万だったと、上述とは別の歴史家の推定している(やはり人によってばらつきがあるようだ)。
 ゴート人なんかの文化にはほとんど影響を受けなかったヒスパノ・ローマ人も、このアラブ人の文化は自分たちを遥かに凌駕していることに気づきたちまち影響された。ヒスパノ・ローマ人の四分の一が一世代内でイスラム教に改宗、10世紀には四分の三、後のグラナダ王国では住民の大半がイスラム教徒だったと推定される。この人たちは muladíes、ムラディと呼ばれた。また上述のようにイスラム教徒は他宗教に寛容だったのでキリスト教徒のままでいた住民も少ないとは言えなかった。これを mozárabes、モサラベという。「アラブ人のようになった人たち」という意味だ。モサラベはイスラム教は取り入れなかったが、アラブ文化には強烈に影響された。上述のように「イスラム化」には何世紀かかかっているが「アラブ化」は速攻だったようだ。すでに9世紀にコルドバのアルバロ Álvaro(名前からするとこの人はゴート人である)とかいうモサラベ人がボヤいている:「最近の若いもんはラテン語もよくできないくせにアラビア語の詩だの寓話だのをありがたがり、イスラムの哲学神学の本ばっか読みやがる。アラブ人の言語文学を勉強し過ぎてキリスト教のこと書くのにまでアラビア語の文章語を使いおって、ああ嘆かわしい」
 身近な者がどんどんアラブ化していくのに危機感を持ったのはアルバロばかりではなかったらしく、不満の矛先をイスラム教徒に向けて悶着をおこすこともあったらしい。居辛くなって9世紀ごろからまだアラブ人に支配されていないイベリア半島の北の方に移住する者もいた。もともと人のあまり住んでいなかったところで、支配しても得になりそうになかったのでアラブ人に無視されていたのである。後にここから「レコンキスタ」が始まった。

初期のアル・アンダルス。ウィキペディアから。
By Al-Andalus732.jpg:Q4767211492~commonswiki (talk · contribs)EmiratoDeCórdoba910.svg:rowanwindwhistler (talk · contribs)derivative work: rowanwindwhistler (talk) - Al-Andalus732.jpgEmiratoDeCórdoba910.svg, CC0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=59750789
Al-Andalus732.svg
 ウマイヤ朝に続くコルドバ・カリフ国の終わりごろ、11世紀の初頭から国が分裂しはじめ、小国相対するいわば戦国時代になった。これをターイファ tā’ifa 時代という。面白いことにこの、政治的に不安定だった時期に優れた詩人や思想家・芸術家が続出した。諸侯が権力を誇示するために武力をひけらかすばかりでなく、競って芸術の擁護者たろうとしたからである。セビーリャのアル・ムタミド・イブン・アッバード al-Mu'tamid ibn Abbad など自らが詩人である領主もいた。
 一方このターイファ諸侯が周りとの戦いのためアフリカからベルベル人の傭兵をさかんに呼び寄せたことから政治状況がさらに不安定になった。ベルベル人がアラブ人に取って代わってアル・アンダルスを支配するようになったからである。この時期にやってきたベルベル人は、ムーサー・イブン・ヌサイルやウマイヤ朝のアラブ人と共に来たベルベル人とは分けて考えないといけない。前者はイスラム教徒だったばかりでなくアラブ文化にも同化していたが、後者はアラブ化はせずイスラム教だけ取り入れた集団であったからだ。背景となったアラブ文化、その寛容さや享楽的な背景なしでイスラム教だけ取り入れたらどうなるかは簡単に想像がつく。彼らは今でいうイスラム原理主義だった。キリスト教に対するのと勝るとも劣らない批判の目をアル・アンダルスの「堕落した」イスラム教徒に向けた。例えばそこでよく詠まれていたペルシャのイスラム神学・哲学者アル・ガザーリー al Ghazālī の著書を焚書に処したりしている。またコルドバ・ウマイヤ朝やカリフ国がダマスクスやバグダッドの当時世界最高の文化と密接な交流があったのに対し、ベルベル人の臍の緒は常に北アフリカと繋がっていた。11世紀からアル・アンダルスを支配したベルベル人の王国アルモラヴィド朝もその後継者のアルモハード朝も首都はイベリア半島にでなく、モロッコのマラケシュにあったのだ。このベルベル人支配の下でキリスト教モサラベ人はコルドバ・カリフ国より格段に居辛くなった。「居辛く」というより追放令も出たそうだ。そのモサラベの脱出先、北の方も北の方で上述のように十字軍のころ、キリスト教側も狂信的になっていたころである。しかもピレネーの向こう側から助っ人がワンサとやってきた。ボソング Georg Bossong という史学者はこの状況を「ヨーロッパ化したキリスト教とアフリカ化したイスラム教、つまり十字軍とジハードの衝突」と言っている。この二者がアル・アンダルスを引き裂いたのである。
 言い換えると、もし「イスラム教がイベリア人のアイデンティティを分断した」とどうしても考えたいのなら、それはアラブ人のことではない、(第二波の)ベルベル人である。そして文明文化をもたらしたアラブ人は「イベリア人」の側なのだ。
  そういえば昔当時のスペインを題材にした(という)『エル・シド』という映画があったが、あれも注意しないと解釈を誤る。原作の叙事詩にすでに脚色があることに加え、映画も原作に忠実とは言い難く、しかもご丁寧にキリスト教スペクタクル映画の定番チャールトン・ヘストンが主役なので、どう見ても「イスラム教と戦ったレコンキスタのキリスト教英雄伝」にしか見えない。しかし実際のエル・シド、Rodrigo Díaz de Vivar あるいは Ruy Díaz de Bívar はむしろターイファの騎士で、カスティリアのキリスト教領主から、サラゴサのイスラム教領主へ転職し(これはあくまで「転職」であって裏切りとかそういうものではなかった。上述のようにアル・アンダルスではユダヤ教もキリスト教もイスラム教も「みんないっしょ」だったからである)、その領主に何年も忠実に使えている。そして共にバレンシアに攻め入ってきたアルモラヴィド人(ベルベル人)と戦ったのである。この映画のラストをおぼろげに覚えているが、エル・シドの死体が馬に乗せられて戦場を駆け抜けるとき(あらネタバレ)、ターバンを巻いた兵士たちが畏怖の念に憑かれてサーッと引いていく。あれらの兵士はアラブ人ではない、北アフリカの「異民族」ベルベル人のはずだ。これを単純に「イスラム戦士」といっしょくたな解釈をしてはいけない。

アルモラヴィド朝の領土。首都はスペインでなくモロッコのマラケシュにあった。
https://historiek.net/al-andalus-het-spanje-der-moren/74627/から

Het-imperium-van-de-Almoraviden
 さてこのベルベル人は戦いでは勇敢、宗教的には生真面目だったが、政治の駆け引きや人民の統治能力がなく、どんどんその領土を失っていった。キリスト教徒の南進によって、その領土内には大量のイスラム教徒が居残ることになる。彼らは町の中心部からは立ち退かされたが、領内に住むこと自体は許され、宗教の自由も認められた。これらのイスラム教徒を mudéjares、ムデハルという。「居住を許された者」という意味だ。このムデハルも言語や文化の面でキリスト教側に大きな影響を及ぼした。
 13世紀半ばにはセビーリャがキリスト教徒の手に落ち、イベリア半島はほとんどキリスト教側の支配下に入った。その「ほとんど」を維持し、1492年まで200年に渡ってイスラム教の王国として持ちこたえ、高度な文化を維持したグラナダのナスル朝はアラブ人の国である。武力ではなく政治手腕で持ちこたえた国だったが、とうとうグラナダの陥落する時がやってきた。最後の王アブー・アブダラー Abū ʿAbdallāh はキリスト教側の降伏要求に応じて1492年1月2日宮殿の鍵を手渡したのである。王はグラナダから追われ最後に峠から町を一瞥して溜息をついた。その峠が現在 El Suspiro del Moro「ムーア人の溜息」と呼ばれる場所である。それを見て王の母が言ったそうだ:「何を女みたいにメソメソしているの?町を取られたってあなた、それを守り切れなかったのはあなたでしょ」。もちろんこれは単なる伝説である。
 細かい事を言えばアブー・アブダラーはアラブ人であってムーア人、つまりベルベル人ではなかったはずだが、グラナダ王国の時期には北から「居辛くなった」ムデハルが多数う移住してきてある程度均等な社会を構成しており、住民レベルではアラブ人とベルベル人の区別は薄れていたそうだ。
 溜息の後アブー・アブダラーは北アフリカに渡り、モロッコのフェズで不幸な生活を送りそこで死んだ。

(前置きだけで記事が終ってしまいました。この項続きます。)

「レコンキスタ」進行の様子。最後の砦グラナダ王国も1492年陥落した。
http://ferdidelange.blogspot.com/2018/05/reconquista-van-miquel-bulnes-is.htmlから

2000px-Reconquista_(914-1492).svg


この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 前回大まかに歴史背景を確認したが、イベリア半島の住民、バスク人、ゴート人、ユダヤ人、アラブ人、ベルベル人、ヒスパノ・ローマ人、宗教的にはモサラベ、ムラディ、ムデハルといった人たちは互いにどんな言語で話し、どんな言語を書いていたのだろうか。

 まあバスク人は北の方でバスク語を話しラテン語で書いていたのだろうが、その他の民族の言語生活は複雑だったらしい。宗教と言語が一致していなかったのである。文化的に圧倒的に上位にあったアラブ人の言語が広がり、キリスト教のモサラベまでアラビア語で読んだり書いたり話したりするようになってしまったことは前回書いた。つまり日常会話はアラビア語で行われていた。このアラビア語と言うのはもちろん書き言葉(ファーガソンのいうHバリアント、『162.書き言語と話し言語』参照)ではなく、それと著しく異なった口語のアラビア語である。バグダードのでもアラビア半島のでもない、アル・アンダルス特有のアラビア語口語が発展していた。当地のアラブ人が話していたのもこれである。
 しかしそのアラビア語口語と並行して住民はヒスパノ・ローマ語も日常会話に使っていた。西ゴート人が言語的にはヒスパノ・ローマ人と同化してしまったことは前回書いた通りだが、アラブ人の側にもこれのできる人がいくらもいた。これも前述の詩人国王アル・ムタミド・イブン・アッバードなどもヒスパノ・ローマ語がペラペラだったそうだ。ユダヤ人も日常話していたのはもちろんヘブライ語でなくヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語だった。ムラディにもヒスパノ・ローマ語を母語とする者多くいた。だから上で「日常会話はアラビア語で行われていた」と書いたのはやや不正確で、「アラビア語でも行われていた」としなければいけない。要するにバイリンガルな言語社会だったのだが、 言語社会がバイリンガルだと個人レベルでもバイリンガルな人が大勢いるということで、上の詩人国王なども決して例外ではなかったのだろう。
 注意すべきはこの「ヒスパノ・ローマ語」である。これは現在のスペイン語の直系の先祖ではない。モサラベ語、つまりモサラベ人の言語と言い(繰り返すがこれを話していたのはモサラベだけではない)、当時のカスティーリャ語とは著しく違った別言語である。アラブ人からはaljamía 「外国語」と呼ばれていた。現在イベリア半島に残っているロマンス語はポルトガル語、カスティーリャ語、カタロニア語しかないから、モサラベ語はつまり死語ということになる。『154.そして誰もいなくなった』でも書いたようにバイリンガル状態では一方の言語がもう一方の言語に押されて消滅してしまう危機があるが、ムスリム領内でのモサラベ語も文化語アラビア語に押され気味だったようで、9世紀には書き言葉までアラビア語を使うようになっていたモサラベも多かった(前項で述べたアルバロがボヤいた通りだ)。非寛容なベルベル人支配下ではモサラベはムスリム支配地から北へ脱出し、そこでカスティーリャ語に影響を与えながら吸収されていった。つまり現在スペイン語に夥しく見られるアラビア語要素は直接アル・アンダルスのアラビア語からだけではなくモサラベ語を通して受け入れたのもあるということだ。そうやって話者数は減ってはいたがそれでも13世紀前半には十分話者がいたそうだから、ネブリハの「カスティーリャ語文法」の想定読者にはモサラベ人も含まれていたはずだ。
 忘れてはいけないのがベルベル人である。「第一波」のベルベル人はアラブ人に同化してアラビア語を話していたが、「第二波」、ターイファ時代以降にやってきた人たちはそのままベルベル語を話していた。これもアラビア語に押されていたことは想像に難くない。
 さてそれらの人々の書き言葉はなんであったか。まずアラビア語文語である。ムスリムは当然としてこれで書いていたが、上述のように一部のモサラベ人も使っていた。ユダヤ人もこれで文学活動をしていた。その文章語ヘブライ語は姉妹言語アラビア語の影響を受けてさらに発展したそうだ。キリスト教徒側の文章語はもちろんラテン語だ。つまりアル・アンダルスには理論上1.アラビア語口語とアラビア語文語、2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語、4.ヒスパノ・ローマ語とヘブライ語、5.アラビア語口語とヘブライ語、6.アラビア語口語とラテン語、7.ベルベル語とアラビア文語という7種類のダイグロシアが存在していたということである。前者がLバリアント、後者がHバリアントだ。6はアラビア語を話すようになってしまったモサラベを想定したものだが、とにかく極めて複雑な言語社会だったに違いない。その上Lバリアントのバイリンガルが個人レベルで異なったダイグロシア間を行き来していただろうから複雑さがさらにグレードアップする。
 
 文化的に圧倒的に優勢だったのはアラビア語文語だが(ターイファ時代までは政治的にも圧倒していた)、これも前回述べたように(しつこい)アラブ人はイスラム以前にすでに言語文化を発達させており、ペルシャやギリシアの文明を自分の言葉に翻訳して増幅発展させることができた。現在の自然科学もアラブ人が知識をその言語にまとめて体系化してくれていなかったら、あちこちの言語に様々な知識がバラバラとある状態が長く続き、発展が今より遅れていたかもしれない。だから私は個人的に「アラブ人が自分たちで発明したものはほとんどない、他の文化を吸収して他に伝えただけだ」という言い方は不当だと思っている。「他の文明を吸収して他に伝える」と簡単に言ってくれるが、吸収する側にそれに見合った土台、よほどの言語文化がないとそんなことはできない。その「よほど」の例としてアッバース朝が9世紀始めにバグダッドに建てた「知恵の館」という図書館がある。世界各地からいろいろな文献を収集したばかりでなく、そのアラビア語翻訳も行っていた。アラビア語とギリシャ語ができたシリアのキリスト教徒などが従事した、世界の知の中心地であった。ここでアラビア語文語にさらに磨きがかかったのである。
 この翻訳文化、書物への敬意精神が3世紀の後アル・アンダルスに飛び火した。ただそこではアラビア語のほうが翻訳される側だった。すでに11世紀初頭にリポルRipoll という町の僧院にアラビア語文献の翻訳所が開かれ、その後12世紀始めに大司教ライムンドらによってトレドに翻訳学校が設置された。このトレドの翻訳所は有名だが、ギリシャの自然科学や哲学、ペルシャやアラビア文学ばかりでなく、コーランまで翻訳されたそうだ。それも1134年と1210年の2回もである。翻訳言語は当然ラテン語であった。
 この翻訳の過程がまた面倒で、まずアラビア語文語の読める者、モサラベあるいはムデハル、あるいはユダヤ人が当該テキストの内容をヒスパノ・ローマ語、つまり口頭で脇に控えているヨーロッパ中からやってきた識者に伝える。それを聞いて識者がラテン語に書き取るのである。上で言う2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語というダイグロシア型の話者が共通のLバリアントを通して交流したということだ。その共通Lバリアントが専らヒスパノ・ローマ語だったということは6.アラビア語口語とラテン語のパターンの話者は極めて少数だったか、ほぼ全員ヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語のバイリンガルだったのだろう。とにかくこうして様々な文献が訳された。ヒポクラテスもアリストテレスもプトレマイオスもアラビア語から訳されたのだ。ペルシャの大学者イブン・スィーナー (本名はこれより遥かに長い。下記参照)の著書が訳されたのもここだ。ただその際名前がちゃっかりラテン語化されてAvicenna アヴィケンナとなり、こちらの名のほうが有名で、この人があくまでイスラム哲学者であることがかすんでしまっている。
 レコンキスタが進んだ1248年にはその地はカスティーリャ王国の支配下に入ったが、その王アルフォンソ10世はさすが「賢王」 Alfonso el Sabio と言われただけあって学術を奨励し宗教に寛容でトレドに第二の翻訳学校を建てた。翻訳する側の言語はカスティーリャ語だった。ダイグロシア崩壊の下地はここら辺から作られていったらしい。日本の言文一致運動もそうだったが、口語をもとにした書き言葉を磨き上げるのに翻訳が果たす役割は大きい。そしてこれも日本と同様、いきなり口語オンリーにするのも困難で、ラテン語への翻訳も続いてはいた。コルドバ生まれの大哲学者アブー・アル・ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(こんな名前が覚えられるか)の著書もこの時期にラテン語名アヴェロエス Averoes (これなら覚えられる)で翻訳されている。
 考えてみるとこの翻訳文化が大開花したのはヨーロッパではすでに十字軍が開始されアル・アンダルスはベルベル人が支配していた、政治的には非寛容色が強まっていった時期である。そういう時期でもキリスト教・イスラム教双方の側にこういう人たちがいたのだ。「みんないっしょ」のアル・アンダルスメンタリティの残照はまだ残っていたのか。

  もう一つアル・アンダルスの言語接触の例として詩があげられる。アル・アンダルスで特有のアラビア語口語が発達したことは上で述べたが、さらに10世紀ごろから新しい詩の形式が発展した。ムワッシャハ  muwaššaḥ (スペイン語で moaxaja)といい、連構造を持ち脚韻交代にパターンのある形だが、そのムワッシャハの最終連の後にハルジャ harǧa (スペイン語で  jarcha )というオマケといっては失礼すぎるがリフレーンのようなものがついていたのである。このハルジャがロマンス語史上極めて重要で、アラビア語文語でなくヒスパノ・ローマ語(つまり事実上モサラベ語、まれに古カスティーリャ語)で書かれていた。これが「ロマンス語で書かれた最古の詩」で11世紀初頭にまで遡れ、やっと12世紀に始まったオクシタンのトルバドゥール抒情詩より100年も古い。その一つを見てみると:

tanto amare, tanto amare, habîbi tanto amare!
Enfermeron olyos nidios, ya duolen tan male!

愛をたくさん、愛をたくさん、愛しい人 愛をたくさん!
輝く目が病気になった、ああ痛い痛い!
(無粋な訳ですみません)


これを今のスペイン語にすると次のようになるそうだ。

¡De tanto amar, de tanto amar, amigo, de tanto amar!
Enfermaron unos ojos brillantes, y que ahora duelen mucho.

注意しないといけないのはこれらハルジャが元々アラビア文字またはヘブライ文字で書かれていたことである。ということは母音が表記されていなかったのだ。またアラビア語文語の詩の尻尾にくっ付いていたことや、時々アラビア語からの借用語が使ってあったりするため(上の habîbi (太字)がそれ)、長い間誰もこれがロマンス語であることに気付かず、やっと1948年になってからスターン Samuel Miklos Stern という学者がこれが実はロマンス語であることを「発見」した。だからここに出したラテン文字の例はそのアラビア語表記からいろいろな学者が苦労して再構築したものである。同じハルジャでも解釈者によって表記が違っていたりするのもそのためだ。スターンに続いてゴメス García Gómez が1952年にさらに24のハルジャを見つけた。現在では60以上の作品が収集されている。
 ハルジャのモティーフは若い女性がつれない恋人の態度を嘆いたりするなど本家アラビア詩にはあまり見られなかったものだが、それにしてもアラビア語で詩を詠んだ後突然モサラベ語にコード転換してオマケを付けるという発想はどこから出てきたのか。そもそもハルジャを詠んだのはアラビア語の本歌を作った本人なのか。第一の疑問については当時は詩は朗読するものではなく節をつけて歌うもので、ムスリムとキリスト教徒は単に共存していただけでなく一緒に文化活動もし歌もいっしょに歌っていたからだという説を見た。「聴衆」も過半数はヒスパノ・ローマ語の母語者だったろうからそれにも配慮したのかもしれない。第二の疑問点だが、ハルジャはアラビア語詩人本人が作ったのではなく(そういう人もいたろうが)、記録には残っていないがすでに10世紀にはヒスパノ・ローマ語で作られた歌詞の原形のようなものがあり、アラブ詩人がそれを引用したのではないかとも言われている。
 このムワッシャハからさらにザジャル zaǧal(スペイン語で zéjel)という詩形が生まれた。ムワッシャハの連構造を引き継いでいるが、文語でなく全てアラビア語口語やヒスパノ・ローマ語で詠まれたものだ。このザジャルがカスティーリャ語の詩の発展に絶大な影響を与えたであろうことは容易に想像がつく。初期カスティーリャ語の詩のモティーフや登場人物の名前を見てもアラビア語口語のザジャルの詩にその原本が見いだせる例は枚挙にいとまがないそうだ。
 また15世紀のカタロニア語の詩集(歌集)に次のような作品があって注目に値する。

Di ley vi namxi
Ay mesqui
Naffla calbi

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero finar

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero morir.

最初の3行(イタリック)を長い間誰も解読できないでいたところ、ソラ=ソレ Josep Maria Solà-Solé という学者がこれがアラビア語であることに気づき次のように解読した。

(b)ille [h]i bi[k] namxi
Ay m(i)squi
Na(ḥ)la qualbi

詩全体を訳すとこうなる:

神よ、貴方と歩く
おお麝香
貴方は私の心を甘美にする(ここまでアラビア語)


貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛のあかしに歌を詠おう

貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛にためなら命をささげよう
(韻にも何もなってないヘタレ訳ですみません)

これはムワッシャハから「二か国語構成」というアイデアを受け継いだのだろう。尻尾でなく頭にいわば「逆ハルジャ」がくっついている。15世紀と言えばすでにグラナダ王国以外のイベリア半島がキリスト教徒の支配下に入っていたころだ。しかも北方のカタロニアはもともと最初からムスリムの支配をあまり受けていない。それでもアラブの精神文化の影響は強烈だったのだ。

 1492年、グラナダ王国が陥落し、ネブリハが新しい支配者の言語の普及を試みた時、イベリア半島はこういう多言語状態であった。さてこの豊饒な言語文化はその後どうなったのだろうか。残念ながらまさに「イヤな予感」通りの展開となったのである。
 グラナダ王国が消滅した時点でイベリア半島全体に住んでいたムデハル(前項参照)は後ろ盾を失った。またグラナダを占領した「ヨーロッパ化したキリスト教徒」は初期ムスリムのような寛容さは持っていなかった。1498年にはムスリムを強制的に改宗させる措置が始まり、1499年にはグラナダでアラビア語の本が焚書に付された。続いて1502年、カスティーリャでは「ムスリムは改宗するか出ていくかのどちらかにしろ」という正規のお触れが出た。これで出て行ったムデハルも多いが、これが1526年にはさらに強化されて、宗教だけでなく「ムスリムのような生活様式」まで禁止された。少し遅れてアラゴンでも1525年に人口の3分の1を占めていたと思われるムデハルの強制改宗令が発布された。これら、1492年以降にキリスト教に改宗したムスリムをモリスコ moriscos というが、改宗した後もなお不信の目で見られ続けた。というのもイスラム教では確かに一旦アラーに誓いを立てたものが他宗教に寝返るのは死に値する罪ではあったが抜け道があったのである。改宗が外からの強制による場合は、改宗したふりをして十字を切ってもいい、心のうちでこっそりアラーを信じよという隠れムスリム作戦が許されていた。キリスト教側はその心の領域まで完全に同一化しようとしたのである。1565年にはアラビア語の使用が禁止されモリスコの財産が没収されたりした。ここまでやられたらモリスコは反乱を起こすか(起こしたモリスコもいるが残酷に鎮圧された)出ていくしかない。
 1609年、モリスコの大量追放が始まり、当時推定850万人の人口の30万人を占めていたモリスコが主に北アフリカに追放された。その後1614年、何とか僻地に住んでいたモリスコも一掃され、イベリア半島はムスリムがいなくなった。
 
 しかしそれまで文化面では本家バグダッドがモンゴル人に破壊された後も200年間その世界最高文化を維持し、経済面では特にイベリア半島東部で農業や様々な産業に従事してイベリア半島を支えていたモリスコがいなくなったことで、スペインは経済も文化も空洞化した。そのスの入った国内経済の穴埋めのため、スペイン政府は血眼になってアメリカ大陸を略奪し金銀を奪ったが、国内産業がスカスカなのに略奪品だけで国家財政を保つなど無理がありすぎる。モリスコ追放令を出す以前、ムデハルをジワジワいびり出していっていた時点、1575年にスペインはすでに一度国家破産しているのだ。そこへ持ってきてのモリスコ追放は「スペインにとって人道面だけでなく、経済面でも大災害であった。17世紀以降スペインが衰退していった大きな原因がこれである」と上述のボソング教授は言っている。

この名曲もこのような歴史を考慮して改めて聞いてみるとさらに胸に迫るものがある…



この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 前にも出したダイグロシアという言葉がファーガソンの造語と思われがちなのに実はそうではないのに対し、今流行の(?)メリトクラシーという言葉は巷で思われている通り社会学者のマイケル・ヤング Michael Young の造語である。1958年に出版された the rise of the meritocracy というエッセイで登場した。ファーガソンのエッセイ的論文 Diglossia が出たのが1959年、チョムスキーの Syntactic structures が1957年出版だから、まさかヤングがわざと言語学と連動したとは思えないが、とにかく1960年直前から前半にかけてはエポックメーキングな時期だったようだ。ついでに『荒野の用心棒』もこの時期の制作である。
 ファーガソンの Diglossia も論文と言うよりエッセイに近かったが(『162.書き言語と話し言語』参照)、ヤングの the rise of the meritocracy は本当にエッセイである。しかも2033年にそれまでの社会の歩みを追うという設定だからからエッセイと言うよりはSF小説・未来小説のようで、内容は硬いのに「面白い」という言葉がぴったりだった。しかも最後にオチというかどんでん返しまでついている。ファーガソンやトゥルベツコイのエッセイ(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)はここまでスリルはない。提起される問題・議論が「人類社会は何処に行くのか」と「印欧語とは何か」「バイリンガルとは何か」では重みとしてはやはり前者の圧勝だ。印欧語の何たるかなどという問題は実際の生活に全然関わってこないからだ。

 メリトクラシーというのは「業績主義」「能力主義」ということだが、ヤングはこのメリトクラシーをそれまで英国で続いてきた世襲に変わる新しい階級社会として描き出している。「階級社会である」という軸はぶれていないのだ。だからいわゆる社会主義者が唱える「人は皆平等」という考えかたは、「センチメンタル」「ポピュリスト的」として洟もひっかけない。人類皆平等などというのは幻想というわけだ。念のため言っておくと、ヤングはそう主張しているのではなくわざとそういうことを言って問題提起しているだけだからあまりここで落ち込まないことだ。この先さらに描写が過酷になるから心の準備が必要だ。

 以前の英国では世襲的階級社会で、貴族、上流階級、労働者階級という風に枠ができていて、どの枠の中に生まれるかで大方職業や人生が決まってしまっていた。その際各々の階級内にはそれぞれ様々な知能の人がいた。頭のいい貴族もいたが、今の義務教育さえクリアできそうもないバカもいた(「バカ」などという差別用語を使ってしまって申し訳ないがヤングは本当に stupid、moron などの言葉を使っているので失礼)。しかし貴族に生まれればどんなバカでも国の要職につくことができたし金にも困らなかった。逆に下層階級にも天才的な頭脳の人がいたが、生まれが生まれなために社会の階段を這い上がれず、一生単純労働者として自分よりずっと頭の悪い周りの人に混じってトンカチをふるうしかなかった。
 国際間の競争が激しくなってきた昨今、こんなことをやっていたのでは生産性が上がらず国が衰退する。優秀な人を下層階級からドンドン這い上がらせてエリート教育し要職につかせるべきだというので様々な対策が立てられることになる。

 まず教育だ。選抜教育に力を入れるべきで、小学校中学校まで皆同じなんてやり方はアホ。小さい頃から頭の出来に応じて学校は分けるべき。グラマースクールその他の学校格差を廃止して機会均等とやらのために一律の総合学校なんかを設置するのは害にしかならない。頭が悪い生徒といっしょになんかさせておいたら、馬鹿が感染してしまい(とまで露骨な言い方をヤングはしていないが)子供の発達が障害される。できるだけ早い時期に頭のいい子だけでまとめ、エリート教育を開始すべきだ。エリート、つまり国や企業を引っ張っていく力のある人間というのは単に頭の回転が早いだけではだめ、それ相応の教養・立ち居振る舞いを身に着ける必要があるが、そういうのは付け焼刃で身につくものではない。特に下層階級の子供は才能があると分かった時点で上流階級の子供以上にできるだけ早く周りの馬鹿から引き離し自分と同等のIQの子供たちと(だけ)接触させるべき。でないと長年染みついてきた下賤さが振り落とせない。下層階級からIQの高い子供を引っ張り上げてエリートにするのは国益である。
 ヤングはアメリカの教育制度についてもちょっと触れ、馬鹿も利口も一律にエレメンタリ→ジュニア・ハイ→シニア・ハイと進む「平等」な教育をコキ下ろしている。もっとも幸いアメリカには大学間にレベルの差があって、そこで生徒が競争でき、頭の出来によって、いい大学・馬鹿大学というランク分けできるからまだいいが、実は17歳18歳になってからやっとIQによる選抜が始まるのでは遅いのだ。本来小学校に入る以前からしっかり知能検査して振り分けるべき。そして能力のない子供は下手に高等教育に進学させたりしないで中学程度で教育を終わらせ、さっさと働かせなさい。進学させたってどうせついていけないのだから。

 能力のある子供が下層階級だった場合逆の問題が出てくることがある。階級にふさわしく両親の人生観も下賤なことが多く、「知」の価値がわかっていない。せっかく自分の子供が知能的に高等教育の資格を持っていても「大学なんかに行く金が無駄。それよりさっさと就職しろ」と教育を中断させたりする。そういう下賤な親を黙らせるためにグラマースクールに行けた生徒には給料を出したらどうだろう。下手な労働者より多く出してやれば利口な子供の邪魔をする馬鹿な親も黙るだろう。
 もっとも能力のある下層階級の子供を「吸い上げる」のはそれでもまあ比較的簡単だ。やっかいなのは上流階級の子供が馬鹿だった場合である。親は自分たちは上流だと思っているし金もあるから子供にどうしても高等教育を受けさせたがる。さらに自分の所有している会社の幹部にしたがったりする。しかし能力・知能もない奴に大学に来られたりしたら周りの利口な学生の足を引っ張るから社会の迷惑だ。また頭の悪い奴が経営している企業が増えたら国益が損なわれる。同族経営、コネ進学などを不可能にするような制度が必要だ。例えば国民全員のIQリストを国が管理するというのはどうだろう。まあ日本のマイナンバーに「IQ」という項目があるようなものだ。

 もちろん能力検査のやりかたは心理学者や脳神経学者が研究を重ねて、能力のある人を捕りこぼさないようにしていかなければいけない。またIQ検査も受験者が当日たまたま風邪を引いていたり心の悩みを抱えていたりして低く出る可能性もあるし、そもそもスロースターターで知能の高さがある程度の年齢になってからジワジワ現れてくる人もいるからIQ検査は定期的に何度でも受け直せてアップデートできるようにする必要がある。

 つまり目ざすべき社会では学歴と能力・実力が完全に一致していて、学歴を見れば実力がすぐわかる社会、能力がある者だけがのし上がれ、貴族だろうが親が金持ちだろうが馬鹿だったら下に甘んじてもらうという、ある意味非常に厳しい階級社会なのである。いわゆる社内教育にもヤングは否定的。企業がグラマースクールや大学の真似事をして偉ぶりたい気持ちはわかるが、そんなものは「正規の学歴」の代わりにはならないというわけである。
 学者が粋を集めた能力検査は非常に精密なので無能な人がいいスコアを出してしまったり、能力のある人を捕りこぼしたりはしないようになっている上、上で述べたように繰り返しがきく。グラマースクールの生徒には給料が出る。そこまでしてやっても這い上がれない労働者階級と言うのは要するに能力がないということ。運が悪いの金がないからだのという慰めは通用しない(「彼らは劣等感を持っているのではない、実際に劣等なのだ」という表現が出てくる)。「勉強だけデキテモー」とか「頭デッカチ」と能力上流階級を罵ることもできない。IQの高い者にはその「社会の実力」も身につけさせるからである。救いようがない厳しさだ。その厳しい階級制度を維持するにはいろいろ解決すべき課題が生じる。
 まず、能力的に下層階級の人をどうするか。彼らが嫉妬や絶望のあまり外で暴れたり人生に希望を失って自暴自棄になったりしないよう懐柔しないといけない。その1は彼らにスポーツをさせることだ。頭で誇れない代わりに筋肉自慢をさせて得意になっていて貰えばいい。その2は、自分は下層でもいつか頭の良い子供や孫が生まれるかもしれないと、次の世代に希望を持たせ、自分は一生下層階級という人生に甘んじてもらうことだ。その3は「何もしない」ことだ。能力が下層の人にはそもそも組織的な抗議運動を起こしたり、政治の場に代表を送り込んだりできる頭はないから譬え多少暴れてもそれは単発に終わり、社会不安にまではならないだろう。
 さらにこれもある意味懐柔策だが、職業名称などをマイルドにしてあまり下層感を持たせないように変更する。だから例えば rat-catcher の代わりに rodent officer、lavatory cleaner の代わりに amenities attendant、 worker でなく technician と呼ぶ。Labour PartyはTechnicians Partyという名前に変更だ。こういうリップサービスをしておけば彼らもまあ自分が高級になったような気になってくれるだろう。

 ここまでですでに背筋が寒くなるが、まだ先がある。もう鬱病になりそうだ。

 さて、馬鹿が劣等感に駆られて暴れないように懐柔策を練ることに成功はしたとする。しかしそこでさらに大きな問題が起こる。IQ上流階級の人がドンドン社会を合理化し生産性が上がるにつれてIQの低い人たちにできる仕事が減っていくのである。単純作業などは皆機械がやるからだ。彼らに居場所を提供してやらないと社会が不安定になる。解決策としてIQの低い人たちには高い人たちの召使になってもらうというのはどうだろう。生産性の高い人がその能力を全て社会のために発揮できるよう、部屋の掃除やスーパーでの買い物などという下賤な仕事から解放してやり、そういう些末な作業はそれにふさわしいIQの人たちにやってもらえばいい。そうすれば能力的下層階級の人も失業しないで済む。
 
 ここでお花畑の社会主義者からクレームがつく。人間の価値とは何か?学歴・能力・IQだけが人間の価値なのか?それに対する答えはこうだ。人間の価値、美徳の基準などというものは世につれて変わる。昔槍をもって戦争していたころは力が強く人殺しの上手いのが美徳だった。封建制の頃は忍従の美徳、自分を捨ててご主君様に追従するのが美徳とされた。今の社会では生産性が美徳なのである。今の時代は学歴IQの高いものは低学歴よりも人間としての価値があるのだ。時代や社会に全く影響されないユニバーサルな「人間の価値」などというものは社会主義者のお花畑脳の産物だ。
 そもそも馬鹿も利口も選挙で同じ一票が入れられるというのは不合理だ。IQ値の高い人の一票は馬鹿の何倍かの重みを与えたほうがいい。

 しかしメリトクラシー社会を内部から不安定にしそうな要素は馬鹿の暴走ばかりではない。実は議会制・民主主義が危なくなる危険性があるのだ。今述べた「学歴によって一票の重みに差をつける」というのも相当危ないが、例えば労働者を代表する党を考えてみて欲しい。党員になるのはつまり労働者、知的下層階級である。そういう知能平均の党とそれよりずっと知能の高い大学教授や企業主を代表とする党はそもそも議会で話合う事さえできない。言語能力、教育程度が違いすぎるからだ。議会の権限を弱めて立法機能の一部を行政側に移行する手もあるがそれでは議会が単なる飾りになってしまう危険がある。それだと民主主義そのものがヤバくなるので(上述のように馬鹿の一票を軽くしたりすればすでに十分ヤバくなると思うが)、「下層階級の声を代表する」党が幹部や党員を当該階級でなく、ヨソのもっとIQの高い職業層から引っ張って来るしかない。どちらにしてもIQが下と見なされる職業層は政治に自分たちの声を送り込めなくなるのだ。これをどうするかが課題となる。

 もう一つの課題は女性問題である。基本的にはIQの高い女性にはドシドシ上昇してもらって馬鹿な男がのさばったりしないようにするのが国益だ。制度を整備してそういうことにならないようにすべきだが、現在の社会時点では実際問題として結婚すると女性の負担が増え、能力を上手く生かせないことが頻繁だ。そこで女性は結婚生活と仕事と力を半々に分散させるか、あるいは家事なんかはIQの低い召使に全部任せるか、さらにあるいは自分のIQを犠牲にして家庭生活を選ぶかということになるが、子供が生まれると頭だけでなく体にも負担が出るのでたとえ召使を使っても女性のIQの損失を賄いきれない。またIQの高い女性は当然子供も少なくとも自分と同等のIQを持ち自分より下の階級に落ちないように望むから、その確率を上げるため(頭のいい両親に馬鹿が生まれることだってある)できるだけIQ値の高い配偶者を探すようになる。
 だが考えてみて欲しい。結婚すると自分のIQが無駄になるのは確実、譬え高知能の配偶者を選んでも自分の子供が下に転落する危険性があるとなれば、馬鹿でもない限り(これらの女性は文字通り馬鹿ではない)結婚なんてヤーメタとなるだろう。子供も下手に自分で産んで転落のリスクを犯すより出来合い、つまり労働者階級の親から生まれた高IQ値の子供を養子として持ってきた方が確実だ。それで「養子仲介業」が盛んになる。下層階級の人はすぐ金のことを考えるので養子受け入れ側の女性が親にたんまり金を出せばすべて丸く収まる。この人身売買があまりにも横行したため、ついに政府は養子制限令を出すに至る。でないと一旦能力の上流階級に属してしまうとそれが世襲する危険が生じるからだ。
 そうこうするうち能力検査のやりかたも脳神経学者たちの努力の結果非常に確実さを増し、子供が生まれた時点、いや生まれる前にすでに将来のIQがわかるようになる。これも養子獲得競争が熾烈化した原因だ。

  以上がヤングの2034年以前の英国社会のシミュレーションである。昔は生まれた家柄で人生や職業が決まってしまっていたが、それが生まれたときのIQでその後の人生がすべて決まるようになるのだ。もっともヤング自身も描き出しているように実際は様々な問題が噴出してきてそうすんなりとは行かない。それからどうなるのか、人類社会はどこに行くのかという問題提起がエッセイの趣旨だ。

 ヤングのこのシミュレーションは舞台が英国社会に限られている。英国が台頭してきたアメリカ、ソ連、アジア諸国と生産性競争で勝ち抜くにはどういう社会を目ざすべきかというシミュレーションである。このエッセイが書かれたのは1958年だからまだ現在のようにはグローバル化が進んでいなかった頃なので、その点では視点が狭い。ちょっとこれを世界規模にまで敷衍して思考ゲームをして見よう。

 今までは生まれた国で一生を過ごすのが基本であった。国にはもちろん馬鹿から天才まで幅広い知能、幅広い能力の人がいた。イギリスの閉ざされた階級社会のようなものだ。このカースト、国籍だの民族の壁が取り払われて頭のいい人はジャンジャン自分の生まれた国を出てもっといい国に移動するべき、出身階級・出身国になんてこだわっていないで「上流国」に渡ってそこで自分の能力を十分発揮するのが人類全体の発展のためという国際社会の社会意識や価値観、コンセンサスが確立されたとする。というよりすでにそれがある程度コンセンサスだが。すると文明文化・技術の進んだ国にはガンガン世界から頭のいい高学歴の人が集まってくる。頭のいい人は語学だって得意だから言葉の壁なんて屁のようなものだ。そうやって住民の50%がIQ150以上である国が出てくる一方、国民の1%くらいしかIQ150がいない(むしろそっちのほうが普通だろよ)国も生じる。IQ100以下などめったにいない国とIQが80くらいの人が10%以上もいる(これもそっちが普通)国ができる。150と80ではお互い意思の相通が困難になるほどだから、国連総会なんて存在意義がなくなる。そもそも国民総低IQになったら政治ができないから国が成り立たない。ヤングのシミュレーションした英国の労働党ではないが、自党のメンバーでは組織を維持できないから頭のいい人を外国から引っ張ってきて行政をやってもらうしかない。
 では高IQ国が万々歳かというとそうはいかない。その国にふさわしくないような頭の悪い自国民をどうすべきかという問題が生ずる。馬鹿に国内に居残られたら自国民・移民を問わず頭のいい人たちの足を引っ張るからである。それに国内にはそういう人たちが就ける仕事も能力の高い人の召使くらいしかない。やはり定期的に国民にIQ検査をして一定のスコアを取れなかった人は等級の低い国に移住してもらおう。国民引き取り代として向こうの国に金を払えば喜んで馬鹿を受け入れてくれるに違いない。こちらも別の意味で言葉の壁の心配などいらない。引受先にはどうせサバイバル程度の語学で足りる仕事しかないからだ。
 現在の調子だとそういうことを本当にやる国が出てきそうで怖い。

 こういうのが人類の幸福か。「冗談じゃない」というのが私の気持ちであるが、ではこういう暴走をふせぐために逆にガッチガチに民族・国籍で国を囲ってしまい、ちょっと外国人が来たくらいでパニックを起こし、自国民が出ていくと裏切者だのもう帰って来るななどの罵声を浴びせる国ならいいのかというと、それも「勘弁してくれ」だ。「外人来るな」はむしろ実行が簡単だろうが、能力のある自国民の流出を食い止めるのは難しい。頭のいい人は国を出る能力もあるからだ。その力のある自国民を引き留めるのがどんなにむずかしいかは、旧ソ連や東ドイツを見ればわかる。壁を作り情報を統制し国民を監視するには膨大な費用がかかる。この国際競争時代にそんなムダ金を使っていたら国は衰退するばかりだ。物質・経済面ばかりではない、壁を作ってしまったら中の国民は精神的にもガラパゴス化し、知識をアップデートできないから周りの発展についていけない、搾りカスのような国民国家になること請け合いである。

 つまりメリトクラシー全開の国とガラパゴス単一民族国家間の選択は「冗談じゃない」か「勘弁してくれ」かの選択ということになる。ドイツ語ではこういう状態を表わすのに「ペストかコレラかのどちらかを選べ」という言葉がある。まさに救いようのない選択肢だ。

the rise of the meritocracy の表紙。表紙のイラストはちょっと可愛いが中身は過酷。
rise-of-meritocracy

本の内容はこちら。表紙が上とちょっと違いますが…

 この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
 人気ブログランキング
人気ブログランキングへ
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ