ウクライナ語とロシア語、ベラルーシ語はどれも東スラブ語派の一員、いわば兄弟である。ロシア語が他の二言語に比べて圧倒的に強力であるため、大学で「東スラブ語学専攻」というのは事実上ロシア語学専攻のことだが(『5.類似言語の恐怖』参照)полногласие (「充音現象」,『56.背水の陣』『145.琥珀』参照)など典型的な東スラブ語の特徴をより明確に保持しているのはむしろウクライナ語のほう。ウクライナ語はロシア語より南スラブ語の影響が弱い、ということはつまり純粋な東スラブ語形を保持している。例えばロシアのプーチン氏とウクライナのゼレンスキイ氏は皮肉なことに同じ名前だが前者はヴラジーミル Владимир、後者はヴォロディミル Володимир という形で、この -la- 対  -olo- がそれぞれ南スラブ語形と東スラブ語形である。南スラブ語名の Владимир を取り入れたロシア語もその愛称形はヴォロージャ Володя となり本来の東スラブ語が現れる。それなら始めからウクライナ語のように東スラブ語形の Володимир を使えばいいのに。とにかくある意味ではウクライナ語のほうが正統な東スラブ語だ。これを譬えるとウクライナ語はイギリス英語、ロシア語はアメリカ英語といったところか。もちろん両言語の距離は英語と米語のそれより遥かに大きいが。
 もっとも英米語より距離があると言っても東スラブ諸語そのものが分離してまだ間もないからお互いに非常によく似ているのも事実だ。ロシア文学史などには「ロシア古代文学」としてキエフ・ルーシ時代の古典『イーゴリ戦記』、『子らの教え』、『過ぎし歳月の物語』などの作品が上がっているが、この頃はまだロシア語とウクライナ語(ベラルーシ語も)が分離していなかったから、これらはウクライナ文学の古典でもある。決定的な分離が始まったのはキエフ公国がタタールにやられて滅んだ1240年以降だが、それ以前に既にキエフ公国は衰退しており1169年にはキエフが北東、つまり現在のロシアから来た公に破壊されたりしていた。諸侯分裂の時代だったわけで、そこへまたステップの遊牧民がジワジワ圧力を強めていくにつれてドニエプル中流の住民が移動を始め、スラブ人ははっきりと二つの地域に分かれていった。北東と南西、つまり大ロシアと小ロシアとの分割の開始である。言語的にも方言分化が始まっていて、11世紀のキエフ(キーウ)、チェルニゴフ(チェルニヒウ)、12世紀のガリツィアの資料ではすでに現在のウクライナ語としての特報が現れていた。いずれにせよロシア語とウクライナ語は鎌倉時代に分離しはじめたのである。
 しかもタタールの圧力の下でこの北東部(大ロシア)と南西部(小ロシア)との間にはわずかしか交流がなく、小ロシア・ウクライナは独自の歴史を歩むことになった。大雑把に言うとウクライナは西のヨーロッパ文化圏に属すことになったのだ。ウクライナがタタールの下にあった時期はたった100年ほど。ロシアより遥かに短い。1300年以降は南西部ではタタールの影響は衰退していき、代わりにポーランドとリトアニアが当地に勢力を伸ばしてきた。12世紀から14世紀にかけてウクライナ西部にガーリチ・ボルイニ公国というのがあったが、これはハンガリー、ポーランド、リトアニア同様「ヨーロッパの国」だった。1350までには政治的にもポーランドの支配下に入っている。さらに1400年までにはリトアニア人が広大な公国を建て、ウクライナとベラルーシを支配下においた。このリトアニア領での公用語はベラルーシ語と教会スラブ語のミックス的「西部東スラブ語」だったが、私的な文書などの言語にはウクライナ語の特徴がはっきりと見て取れるそうだ。
 その後、1569年、ポーランドとリトアニアが合体してルブリン連合となり、ウクライナはポーランド領となった。以来ポーランドがロシア、プロシア、オーストリアに分割される1772年までウクライナはポーランドの支配下であり続ける。ウクライナ語が決定的にロシア語と別言語のステータスを獲得したのはこの時期で、政治や文化的にロシアと離れていただけでなく言語もポーランド語からの影響をタップリ受けた。一言でいうとここでウクライナ人はロシア人とは別の民族になったのである。長い間「アジア人」の支配下に置かれていたロシア人と、いち早くヨーロッパの一員になっていたウクライナ人とではメンタリティ的にも相当違いがあるだろうことは容易に理解できる。
 
 しかしポーランドのウクライナ支配は要するに異民族支配だったから、ウクライナ住民にしてみれば他人に頭を抑えられている状態で、不満も強かった。そこでザポリージャのコサック、ボフダン・フメリニツキイ Богдан Хмельницький の下にウクライナ東部がポーランドに対して蜂起した。1648年ロシア皇帝モスクワ大公アレクセイに援助を要請しそれによってポーランドの支配から逃れたのだが、ここで歴史家の見解が分かれるそうだ。ウクライナにしてみればロシアはあくまで「同盟国」であり、ウクライナはロシアと同等、一歩譲ってロシアを宗主国とするにしてもウクライナとロシアは別国家、少なくとも別民族のつもりであった。当時はすでに言語の面でも歴史の面でもウクライナ人はロシア人とははっきり分かれていたのだから。支配者と住民が別民族・別言語などということは西欧ではデフォである。スペインとオランダがいっしょくたにハプスブルク家の支配下にあったこともその一例だ。だがロシア人はウクライナ人をあくまで「ロシア人の亜種」と考えたかったようだ。それでもしばらくはウクライナは少なくとも自治領のステータスではあった。イヴァン・コトリャレーウシキー Іван Котляревський(1769-1838)によるウクライナ語による文学創作の試みがなされたのもこの時期、18世紀後半のことだ。
 1772年に「本国」ポーランドがロシアに食われてウクライナが完全にロシア領になった後もウクライナ語の文章語を確立しようという活動はさかんに続けられた。記事の冒頭で述べたような南スラブ語要素を意識的に排除する動きが出てきたのもこの時期である。 コトリャレーウシキーや農奴出身の詩人タラス・シェウチェンコ Тарас Шевченко(1814-61、下記)などの作品は最初ロシア語綴りで出版されたが、やがてウクライナ語独自の正書法への模索が始まった。ミハイロ・マクシモヴィッチ Михайло Максимович(1804-1873)という学者が正書法を考案したがあまり普及せず、パンテレイモン・クリッシュ Пантелеймон Куліш (1819-97)の綴りがクリシフカ Кулішівка と呼ばれて広く使われるようになった。1857年にはウクライナ語の文法書がでている。
 こうして見てみると、18世紀から19世紀にかけてロシア語の文学言語確立の時期にウクライナでも同時に独自の文学言語が確立されていったことがわかる。マルコ・ヴォフチョークのようなロシア文学とウクライナ文学の両方に貢献したバイリンガルの作家もいる。また、自由な精神の発動としての文学が支配者にとっては目の上のタンコブだったのもロシア・ウクライナ共通で、上のシェウチェンコなどは皇帝ににらまれて10年間も流刑生活を送っている。
 文学活動どころか1863年にはウクライナ語の使用自体が学校で禁止され、1873年には出版その他、ロシア帝国内での言語使用そのものが禁止された。ウクライナのインテリ層がこぞって国外逃亡したのもむべなるかな。逃亡先は当時まだオーストリア・ハンガリー帝国領、つまり外国であったリヴィウ Львів だった。ここで東部ウクライナ人もポーランド語の影響をタップリ受けたウクライナ語に接し、それがウクライナ全体に持ち込まれたのである。その後1905年に幸い禁止が解かれ、文化の中心はキーウに戻った。直後の1907年にはボリス・フリンチェンコ Борис Грінченко(1863-1910)によるウクライナ・ロシア語辞典が出版された。ウクライナ語が特にロシア語に対して独立言語として確立するための確実な一歩である。
 さらにソ連政権下で正書法の整備が進んだ。まず1928年にソ連邦ウクライナ共和国の言語学者で正書法が決められたが1933年にソ連の横やりが入り一部改良した。例えばそこで ґ という文字は使用しないことになり、普通の г に統一させられたそうだ。ウクライナ語では元は g(有声軟口蓋閉鎖音)であった г の音が変化し、13世紀前半に有声軟口蓋摩擦音 [ɣ] となり、そこからさらに16世紀ごろ有声声門摩擦音の [ɦ] になった。これは h の有声バージョンである。前に書いたが、ベラルーシ語では г は [ɣ] と教わったが、実際に聞いてみたら h にしか聞こえなかった。もしかしたらベラルーシ語でも [ɦ] と発音する場合が多いのかもしれない。さらに私にはそれが無声に聞こえた。つまり h で、ウクライナ語の г をラテン文字では h で写し取るそのままである。つまりベラルーシ語やウクライナ語では声門摩擦音では有声・無声に弁別的機能がないということだ。さらに両言語には g という音がない。これは不便だ。g などという音はそこら中の言語が持っている。g がなくてはそれらの言語から借用ができない、ということで特に g という音を表すためにウクライナ語では ґ という文字が使われていた。それを禁止されたのでプロパガンダがプロパハンダとなってしまった。
 なぜロシア側はこんな変な横やりを入れたのか。ロシア語では г は g だが、その代わり h の音がない。外国語の h は г で写し取る。だからヨコハマはヨコガマに、ハンブルクはガンブルクになる。こんな妙ちきりんな変換をされた側の言語話者がロシア語に対してブーたれたり、こんな音韻対応しかできないロシア語を馬鹿にするのを一度ならず目撃した。ウクライナ語はその逆だが、h と g が区別できない点ではロシア語と同じである。ウクライナ語がそれを改良しようと外来語用に特に g を設定したら、笑われるのはロシア語だけになってしまう。「我々は運命共同体だ。いっしょに笑いものになれ。抜け駆けはゆるさん」というサインだったのかもしれない。人にはそういう強制をしておいて、自分ではちゃっかりその後外国語の h はなるべく g でなく х [x] で写し取るようになってしまったからロシア語はこすい。これだと確かに横浜がヨコハマと聞こえるようになる。そのお返しというわけでもないだろうが、ソ連崩壊後独立国になった際ウクライナのほうは ґ という文字を復活させた。ただあまり使用はされていない。
 この1933年、独立後の1993年の他に1960年にも少し正書法の改訂が行われている。

 そのウクライナ語はロシア語とどう違っているのか。語彙がいろいろ違うのは当然だが、そもそも語彙の違いというのは見た目が派手なわりには言語決定の基準としては極めて弱い。例えば日本語には中国語からの借用語(つまり漢語)がゴロゴロあるが、言語そのものは全く別だ。大切なのは言語構造、特に音韻体系のほう。これがウクライナ語とロシア語では違っている。g  や充音現象については上で述べたが、もう一つ目を引くのが母音 i 音の違いだ。ウクライナ語には学習者泣かせのロシア語音 ы  [ɨ] がない。и と і の二つの「イ」があるが、発音はそれぞれ [ɪ] と [i]、つまり英語やドイツ語でお馴染みの met と meet、bitten と bieten の違いである。しかしここで早合点して、じゃあロシア語の ы と и がウクライナ語ではそれぞれ и  [ɪ] と і  [i] になるんだなと思うとそれが違う。ロシア語の ы と и の音韻対立がなくなる、というのが正しい。つまり音韻体系そのものが違うのだ。ちょっと見てみただけでもウクライナ語の и がロシア語の ы と и 双方に対応していることがわかる。アクセントのあるなしには関係がない(下線部。太字はアクセント位置)。そしてウクライナ語の и は先行子音を口蓋化させない。だから Володимир はヴォロヂミルではなくヴォロディミルと日本語表記していい。
Tabelle1-185
і が対応するのはむしろロシア語の е である。
Tabelle2-185
ただ、こちらの方はアクセントが関わってきていて、上の例は全てアクセントのある母音である。「7」では語末の子音で口蓋化・非口蓋化の音韻対立が失われているが、この現象はベラルーシ語でも見られる。アクセントがない е はウクライナ語でも е で現れる。
Tabelle3-185
アクセントのあるロシア語の е とウクライナ語の е が対応する例もあるはあるが例が少なかった。私が見かけたのは次の2例だけである。
Tabelle4-185
前置詞の без は種々の合成語にも現れるが、その際はアクセントが語幹の方に移動し без 自体にはアクセントがなくなるので定式通り е である:бездарний「才能のない」、безжалісний「情け容赦のない」(ロシア語ではそれぞれ бездарный と безжалосный)など。
 逆にアクセントがないロシア語の е とウクライナ語の і が対応する例に сімсот(ロシア語で семьсот)などがあるが、これは元の「7」が持っている і を引き継いだに違いない。してみると上の бездарний も定式通りというより、単に元々の前置詞の形が保持されているだけなのかもしれない。
 さらにロシア語の и がウクライナ語の і となる場合もある:кони(「馬」、複数主格)対 коні(同。下記参照)。しかしこれも環境が限られているようだ。
 この、ウクライナ語の і は実は е であるということをふまえれば、一瞬驚愕するウクライナ語の母音交代 і 対 о もある程度納得がいく。ロシア語の о がウクライナ語では і で現れるというだけでなく、
Tabelle5-185
ウクライナ語内部のパラダイムでも і 対 о が交代する。кінь の変化を見てみよう。
Tabelle6-185
ウクライナ語が男性名詞単数で呼格をパラダイムとして持っていること(太字)、しかも母音が -u であることに何より熱血感動するが、とにかくここの і と о の交代を е と о のそれと見なすとロシア語との平行性が見えてくる。ロシア語でも е と о は密接に関係しており、例えば е か о で終わる名詞は双方中性名詞。また語形変化のパラダイム内でこの交代を示す単語も多い:сестра(「姉妹」、単数主格)→ сёстры(同複数主格)→ сестёр(同複数生格)。ё という字の母音は o で、常にアクセントを持つ。ウクライナ語の複数主格と生格はそれぞれ сестри と сестер または сестер だ。ウクライナ語には ё の文字がないので対応する音は先行子音に軟音記号をつけ、母音そのものは o と記す:ロシア語слёзы(「涙」複数主格)対ウクライナ語 сльози。単数主格はそれぞれ слеза と сльоза だから、「姉妹」の場合と е と о の関係が逆で、こちらはウクライナ語のほうが о になっている。だから完全に平行しているわけではないが、「平行性」は明確だ。
 
 前にクロアチア語の母語者がウクライナ語を聞いた感想として「聞いた感じがクロアチア語とよく似てるんで驚きました。どうもロシア語だけ他のスラブ語と全然響きが違いますね」と言っていたが、ひょっとしてその原因はこの「統一 i 音」にもあるのではないかと思っている。

ロシア語(上)とウクライナ語(下)の母音構成。i の音の違いが明確。ソ連時代の出版だが、それにしてももうちょっとどうにかした印刷はできないのか。
Букатевич, Р.И. Очерки по сравнительной грамматике восточнославянских языков. 1958. Одесса, p.34 から
phoneme-Uk-Ru-bearbeitet
 ではウクライナの言語構成はどうなっているのか。2017年のさる調査によると住民の64%はウクライナ語、17.1%がロシア語、17.4%が両言語、0.8%が「その他の言語」を母語としているそうだ。「その他」の内訳は書いていなかったが、トルコ語、タタール語、ギリシア語あたりだろう。ロシア語使用者は都市部に多いが、別の資料によれば2017年時に都市部でロシア語を日常的に使っているのは32.7%、ウクライナ語オンリーが45.5%、両方使うのが21.4%となっている。2006年の調査と比べるとロシア語使用者が減り、ウクライナ語オンリーの割合が増えている。ウクライナ語人口に地方差があるのも知られているが、東部ではロシア語オンリー65.3%、ウクライナ語オンリーが11.6%、双方同程度23%だ。比べて西部ではウクライナ語オンリーが90.6%、ロシア語オンリー2.9%、双方が5.3%。南部は構成が西部と似ており、北部と中央部は中間的だが、ウクライナ語オンリーがロシア語オンリーの倍以上から3倍近くいる。
 注意しないといけないのは、「自分はウクライナ人だと思っている」住民が90%だということで、つまり母語と民族・国籍が完全には一致していないのである。単純計算して10%の「自分はウクライナ人だと思っていない」グループが全員ロシア語母語者だとしても17.1%の残りの7.1%は「母語はロシア語だが自分はウクライナ人だと思っている」ということで、これはゼレンスキー氏やティモシェンコ氏がいい例だ。両者とも母語(第一言語)はロシア語で、ウクライナ語は後から習得したもの。ティ氏はそれでもウクライナ人だし、ゼ氏は母語(ロシア語)、国籍(ウクライナ)、民族(ユダヤ)が全部違っている。

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