インドの遥か東、というよりミャンマーのすぐ南にあるアンダマン・ニコバル諸島は第二次世界大戦中に2年間ほど日本領だったところである。特に占領期の後半に地元の住民をイギリスのスパイ嫌疑で拘束拷問し、しばしば死に至らせたり、食料調達と称して住民から一切合財強奪して餓死させたりした罪に問われてシンガポール裁判で何人も刑を受けた。私がちょっと見てみたのはインドで発行された報告だが、しっかり日本兵向けの Comfort Home についての記述もあった。日本軍はやってきたとき支配目的でさっそく地元の住民の人口調査なども行なっているが、問題はこの「地元の住民」、インド側でいうlocal poepleというのがどういう人たちかである。


その後上述のように外からの移住があり、原住民もヒンディー語に言語転換したり、10あった部族間での婚姻が進み、現在残っているアンダマン語は2言語のみ、しかもその二言語も純粋な形では残っておらず、人々の話しているのは事実上元のアンダマン諸語の混交形で、「大アンダマン語」という一言語と言った方が適切だそうだ。Abbi というインドの言語学者はこれを Present-day Great Andamanese、現代大アンダマン語と呼んでいる。しかもその話者というのが2013年時点で56人(!!)。アンダマン島本島ではなく、その周りの小さな小さな離島の一つ Strait Island というところにコミュニティを作って暮らしている。
イギリス人は19世紀からこのアンダマン諸語の研究を開始しており、結構文献や研究書なども出てはいる。現在もインドの学者が言語調査をし記録に残そうと必死の努力をしている。が、そもそもイギリス人やインド人など文明国の人が入ってきさえしなければ記録しようという努力そのものが無用だったろう。アンダマン諸語は孤立した島でそのまま話され続けていたはずだからである。自分たちが侵入してきたおかげで消えそうになっている言語を今度は必死に記録して残そうとする、ある意味ではマッチポンプである。しかし一方では外から人が来なかったせいで記録されることもなく自然消滅してしまった言語や、逆に人間の移住により新たに生じた言語だってある。後から来たほうが常に一方的に悪いとも言い切れまい。まさに歴史の悲劇としかいいようがない。
その壊滅状態の東アンダマン諸語と比べて西アンダマングループはまだ100人単位の話者が存在する。西グループを別名アンガン(またはオンガン)グループといい、さらに二つの下位グループに分類される。中央アンガンと南アンガングループで、前者にはジャラワ語、後者にはオンゲ語とセンティネル語が属す。ジャラワ語は元々南アンダマン島で話されていたが、現在では中および南アンダマン島西部がその地域である。話者はタップリいて(?)300人。オンゲ語は小アンダマン語で100人によって使われている。センティネル語は南アンダマン島の西方にあるやはり離島のセンティネル島で話されている。話者数は全くの未知である。というのは、ここの島の住民は外から人が来ると無差別に攻撃し、時として死に至らせるので言語調査ができないからである。それで現代大アンダマン語、ジャラワ語、オンゲ語には文法書があるがセンティネル語文法はまだない。
上述のように日本軍は侵略して来たときアンダマン島で「国勢調査」をしているが、そこで1945年7月現在の南アンダマン島の人口は17349人、そのうち女性5638人、男性が11713となっている。男性が女性の倍もいるのは多分当時そこにインド解放軍というか英国からの独立を目指す兵士らがたくさんいたからだろうが、そこにさらに注がついていて、この統計は「受刑者と aboriginal race (Jarawa )は除く」となっている。受刑者が多いのはアンダマン島がイギリスに対するオーストラリアのごとく流刑地として使われていたからであるが、ジャラワが人口勘定に入れてもらえていないのは、人間扱いされていなかったというより、ジャラワ人がいったい何人くらいいるのかわからなかったからだと思う。センティネル人ほどではないにしろ、ジャラワ人もいまだに外部との接触を嫌っているそうだ。日本軍が来る前のインド政府というかイギリス政府というか、とにかく現地の政府にも統計が取れていなかったのではないだろうか。
大アンダマン語を壊滅させてしまった反省からか、下手に「文明」を教示しようとしてアボリジニやネイティブ・アメリカンの文化を破壊しアイデンティティを奪って精神的にも民族を壊滅させ2級市民に転落させたオーストラリアやアメリカ、ついでにアイヌを崩壊させた日本の例を見ていたためか、インド政府は生き残ったアンダマン民族をできるだけそっとしておき、同化政策などは取らない方針をとっているそうだ。それでも島にはインド人などが住んでいるのだから時々ニアミスが起こるらしい。最近新聞でちょっと読んだ話では、ジャラワ族の女性が外部の者に強姦される事件が何件かあったそうだ。その場合は犯人はこちら、というかインド側の者なのだから捕まえて罰すればいい。だが逆にジャラワ族が、強姦された結果生まれた子供の皮膚の色が白かったというので子供を殺す儀式を行なっていたことが報告されたりしている事件もある。これは立派な殺人行為だ。放って置かれているとはいえそこはインド領である。こういう殺人行為を見て見ぬ振りをしていていいのか、という問題提起もあり、いろいろ難しいらしい。
さて、その「現代大アンダマン語」であるが、そり舌音があり、帯気と無気に弁別機能があるあたり、孤立言語とはいえヒンディー語始めインドの言語と何気なく共通項がある。もちろん文法構造は全く違い、能格言語だそうだ。以下は上述の Abbi 氏が挙げている例。絶というのが絶対格、能が能格である。
billi-bi bitʰ-om
ship-絶 + sink-非過去
The ship is sinking.
tʰire-bi bas kʰuttral beno-k-o
child-絶 + bus + inside + sleep-遠過去
The child slept in the bus.
a-∫yam-e bas kuttar-al kona-bi it-beliŋo.
CL1-Shayam-能 + bus + indide-処 + tendu(果物の名前)- 絶 + 3目的語-cut-遠過去
Shyam cut the tendu fruit in the bus.
tʰire-bi ŋol-om
child-絶 + cry-非過去
The child cries.
つまり-e というのが能格マーカー、-biが絶対格マーカーである。 これが基本だが動作主が代名詞だったり複数だったりすると能格マーカーがつかないこともある。上の4番目の例と比べてみてほしい。
tʰire-nu-ø ŋol-om
child-複 + cry-非過去
The children cry.
絶対格マーカーも時として現れないことがあるそうだ。またどういうわけか他動詞の主語と目的語の双方が絶対格になっている例も Abbi は報告し、正直に理由はわからないと述べている。
能格言語であるという事自体ですでにアンダマン語は十分面白いのだが、その能格性をさえ背景に押しやってしまうくらいさらに面白い現象がこの言語にはある。上の3番目の例のCL1という記号がそれだ。これは a- という形態素(Abbi はこれらは clitic である、としている)が Class 1を表すマーカーであるという意味だが、アンダマン語では名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもマーカーがついてそれらの単語の意味がどのクラスに属するかはっきりとさせ、微妙なニュアンスの差を表現するのだ。その「クラス」は7つあるのだが、それらは何を基準にしてクラス分けされているのか? 当該観念あるいは事象の inalienability(譲渡不可能性、移動不可能性)の度合いと種類を基準にしてクラス分けしているのだ。クラス1、クラス2、クラス3、クラス4、クラス5、クラス6、クラス7のマーカーはそれぞれ a-、εr-、oŋ-、ut-、e-、ara-、o-(あるいは ɔ-)だが、これらは元々人体の一部を示すものであったらしい。a- は口およびそこから拡張された意味、εr- は主だった外部の人体部分、 oŋ- は指先やつま先など最も先端にある人体部分, ut- は人体から作り出されたものあるいは全体と部分という関係を表し, e- は内臓器官、ara- が生殖器や丸い人体器官 、o- が足や足と関連する器官である。
え、何を言っているのかさっぱりわからない?私もだ。文法執筆者の Abbi 氏はそりゃ大アンダマン語が出来るからいいが、氏がひとりで面白がっているのを見て私だって「ちょっと待ってくれ、何なんだよその inalienability ってのは?!」とヒステリーを起こしてしまった。
大雑把に言うと大アンダマン人は言語で表現されている事象が自分と、あるいは「AのB」という所有表現などの場合BがAとどれくらい分離しがたいかを常に言語化するのである。これが inalienabilityである。何まだわからない?では例を示そう。「血」は大アンダマン語で tei だが、この単語が裸でつかわれることはほとんどなくクラスマーカーが付加されるのが普通だが、その際どの「不可分性クラス」に分けられるかによって名詞の意味が変わってくる。

名詞ばかりでなく、動詞もクラスわけされる。

同じセンテンス内の文要素がそれぞれ別のクラスに分けられることもある。
a-kɔbo εr-tɔlɔbɔŋ (be)
CL1-Kobo + CL2-背が高い + コピュラ
コボ(人の名)は背が高い
a-loka er-biŋoi be ara-kata
CL1-Loka + CL2-太っている + コピュラ + CL6-背が低い
ロカ(人の名)は太っていて(太っているが)背が低い。
「デブ」と「チビ」では不可分性のクラスが違っているのが面白い。
副詞もこの調子でクラス分けされるが、その際微妙にダイクシス関係などが変わってくるそうだ。
これらの例を見てもわかるようにこのクラス分け形態素は確かに元々は体の部分と意味がつながっていたものが、やがて抽象化され文法化されて本来の身体的意味はほとんど感じ取れなくなって来ているということである。Abbi はその辺を親切にわかりやすい表にして説明してくれている(「関係する身体部分」の項は上述)。



「縫う」についてはここで出したように c に帯気のマークがつけてあったが、アンダマン語は軟口蓋閉鎖音では帯気無気を音韻的に区別しないはずだから、音素としては単なる c のことかもしれない。また主著には「たった一人の」という意味の ontoplo という語が載ってがこれは oŋtoplo と同じ語なのではないだろうか。とすると意味が合わない。




大アンダマン語インフォーマントと言語学者のAbbiさん(中央)。その後亡くなったインフォーマントも多い。
Abbi, Anvita.2013. A grammar of the Great Andamanese Languege. Leidenから。下の写真も。

その他のストレイト島アンダマン語コミュニティのメンバー。何人か上の写真と同じ顔が見える。

この記事は身の程知らずにもランキングに参加しています(汗)。
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ニコバル諸島はちょっと置いておいてここではアンダマン諸島に限って話をするが、ここは主要島として北アンダマン島、中アンダマン島、南アンダマン島の3島があり、これらから少し離れてさらに南に小アンダマン島がある。もちろんこのほかにバラバラと無数の離島が存在する。
アンダマン諸島はここ。ウィキペディアから。
By edited by M.Minderhoud - own work based on PD map, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1012051
By edited by M.Minderhoud - own work based on PD map, Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1012051

ビルマ寄りの北・中・南アンダマン島は昔からビルマやインド、果てはイギリスなどから人々が移住してきた。インド各地から来た住民は出身地ごとにかたまってコミュニティーを造り、ビルマ人はビルマ人、イギリス人はイギリス人でコミュニティーを作ったが、これらコミュニティー間では争いもあまりなく、まあ平和に暮らしていたそうである。アンダマン島生まれのインド人など本国よりアンダマン人としてのアイデンティティーの方が強いそうだ。現在人口役20万人強。この多民族な住民が日本軍が来た時の local poeple だろうが、問題はアンダマン島にはオーストラリアやアメリカ、さらに日本の北海道のようにもともとそこに住んでいた原住民がいたということである。それらの人々はもちろん固有の言語を持っていた。アンダマン諸語である。そのアンダマン諸語はまず大きく分けて東アンダマン諸語と西アンダマン諸語に分けられるが、東アンダマングループに属する言語はもともと10あり、1800年時点では北・中・南アンダマン島全体にわたって話されていた。
アンダマン諸語。残念ながら話されている地域は激減してしまった。これもウィキペディアから。
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=330184
CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=330184

その後上述のように外からの移住があり、原住民もヒンディー語に言語転換したり、10あった部族間での婚姻が進み、現在残っているアンダマン語は2言語のみ、しかもその二言語も純粋な形では残っておらず、人々の話しているのは事実上元のアンダマン諸語の混交形で、「大アンダマン語」という一言語と言った方が適切だそうだ。Abbi というインドの言語学者はこれを Present-day Great Andamanese、現代大アンダマン語と呼んでいる。しかもその話者というのが2013年時点で56人(!!)。アンダマン島本島ではなく、その周りの小さな小さな離島の一つ Strait Island というところにコミュニティを作って暮らしている。
イギリス人は19世紀からこのアンダマン諸語の研究を開始しており、結構文献や研究書なども出てはいる。現在もインドの学者が言語調査をし記録に残そうと必死の努力をしている。が、そもそもイギリス人やインド人など文明国の人が入ってきさえしなければ記録しようという努力そのものが無用だったろう。アンダマン諸語は孤立した島でそのまま話され続けていたはずだからである。自分たちが侵入してきたおかげで消えそうになっている言語を今度は必死に記録して残そうとする、ある意味ではマッチポンプである。しかし一方では外から人が来なかったせいで記録されることもなく自然消滅してしまった言語や、逆に人間の移住により新たに生じた言語だってある。後から来たほうが常に一方的に悪いとも言い切れまい。まさに歴史の悲劇としかいいようがない。
その壊滅状態の東アンダマン諸語と比べて西アンダマングループはまだ100人単位の話者が存在する。西グループを別名アンガン(またはオンガン)グループといい、さらに二つの下位グループに分類される。中央アンガンと南アンガングループで、前者にはジャラワ語、後者にはオンゲ語とセンティネル語が属す。ジャラワ語は元々南アンダマン島で話されていたが、現在では中および南アンダマン島西部がその地域である。話者はタップリいて(?)300人。オンゲ語は小アンダマン語で100人によって使われている。センティネル語は南アンダマン島の西方にあるやはり離島のセンティネル島で話されている。話者数は全くの未知である。というのは、ここの島の住民は外から人が来ると無差別に攻撃し、時として死に至らせるので言語調査ができないからである。それで現代大アンダマン語、ジャラワ語、オンゲ語には文法書があるがセンティネル語文法はまだない。
上述のように日本軍は侵略して来たときアンダマン島で「国勢調査」をしているが、そこで1945年7月現在の南アンダマン島の人口は17349人、そのうち女性5638人、男性が11713となっている。男性が女性の倍もいるのは多分当時そこにインド解放軍というか英国からの独立を目指す兵士らがたくさんいたからだろうが、そこにさらに注がついていて、この統計は「受刑者と aboriginal race (Jarawa )は除く」となっている。受刑者が多いのはアンダマン島がイギリスに対するオーストラリアのごとく流刑地として使われていたからであるが、ジャラワが人口勘定に入れてもらえていないのは、人間扱いされていなかったというより、ジャラワ人がいったい何人くらいいるのかわからなかったからだと思う。センティネル人ほどではないにしろ、ジャラワ人もいまだに外部との接触を嫌っているそうだ。日本軍が来る前のインド政府というかイギリス政府というか、とにかく現地の政府にも統計が取れていなかったのではないだろうか。
大アンダマン語を壊滅させてしまった反省からか、下手に「文明」を教示しようとしてアボリジニやネイティブ・アメリカンの文化を破壊しアイデンティティを奪って精神的にも民族を壊滅させ2級市民に転落させたオーストラリアやアメリカ、ついでにアイヌを崩壊させた日本の例を見ていたためか、インド政府は生き残ったアンダマン民族をできるだけそっとしておき、同化政策などは取らない方針をとっているそうだ。それでも島にはインド人などが住んでいるのだから時々ニアミスが起こるらしい。最近新聞でちょっと読んだ話では、ジャラワ族の女性が外部の者に強姦される事件が何件かあったそうだ。その場合は犯人はこちら、というかインド側の者なのだから捕まえて罰すればいい。だが逆にジャラワ族が、強姦された結果生まれた子供の皮膚の色が白かったというので子供を殺す儀式を行なっていたことが報告されたりしている事件もある。これは立派な殺人行為だ。放って置かれているとはいえそこはインド領である。こういう殺人行為を見て見ぬ振りをしていていいのか、という問題提起もあり、いろいろ難しいらしい。
さて、その「現代大アンダマン語」であるが、そり舌音があり、帯気と無気に弁別機能があるあたり、孤立言語とはいえヒンディー語始めインドの言語と何気なく共通項がある。もちろん文法構造は全く違い、能格言語だそうだ。以下は上述の Abbi 氏が挙げている例。絶というのが絶対格、能が能格である。
billi-bi bitʰ-om
ship-絶 + sink-非過去
The ship is sinking.
tʰire-bi bas kʰuttral beno-k-o
child-絶 + bus + inside + sleep-遠過去
The child slept in the bus.
a-∫yam-e bas kuttar-al kona-bi it-beliŋo.
CL1-Shayam-能 + bus + indide-処 + tendu(果物の名前)- 絶 + 3目的語-cut-遠過去
Shyam cut the tendu fruit in the bus.
tʰire-bi ŋol-om
child-絶 + cry-非過去
The child cries.
つまり-e というのが能格マーカー、-biが絶対格マーカーである。 これが基本だが動作主が代名詞だったり複数だったりすると能格マーカーがつかないこともある。上の4番目の例と比べてみてほしい。
tʰire-nu-ø ŋol-om
child-複 + cry-非過去
The children cry.
絶対格マーカーも時として現れないことがあるそうだ。またどういうわけか他動詞の主語と目的語の双方が絶対格になっている例も Abbi は報告し、正直に理由はわからないと述べている。
能格言語であるという事自体ですでにアンダマン語は十分面白いのだが、その能格性をさえ背景に押しやってしまうくらいさらに面白い現象がこの言語にはある。上の3番目の例のCL1という記号がそれだ。これは a- という形態素(Abbi はこれらは clitic である、としている)が Class 1を表すマーカーであるという意味だが、アンダマン語では名詞にも動詞にも形容詞にも副詞にもマーカーがついてそれらの単語の意味がどのクラスに属するかはっきりとさせ、微妙なニュアンスの差を表現するのだ。その「クラス」は7つあるのだが、それらは何を基準にしてクラス分けされているのか? 当該観念あるいは事象の inalienability(譲渡不可能性、移動不可能性)の度合いと種類を基準にしてクラス分けしているのだ。クラス1、クラス2、クラス3、クラス4、クラス5、クラス6、クラス7のマーカーはそれぞれ a-、εr-、oŋ-、ut-、e-、ara-、o-(あるいは ɔ-)だが、これらは元々人体の一部を示すものであったらしい。a- は口およびそこから拡張された意味、εr- は主だった外部の人体部分、 oŋ- は指先やつま先など最も先端にある人体部分, ut- は人体から作り出されたものあるいは全体と部分という関係を表し, e- は内臓器官、ara- が生殖器や丸い人体器官 、o- が足や足と関連する器官である。
え、何を言っているのかさっぱりわからない?私もだ。文法執筆者の Abbi 氏はそりゃ大アンダマン語が出来るからいいが、氏がひとりで面白がっているのを見て私だって「ちょっと待ってくれ、何なんだよその inalienability ってのは?!」とヒステリーを起こしてしまった。
大雑把に言うと大アンダマン人は言語で表現されている事象が自分と、あるいは「AのB」という所有表現などの場合BがAとどれくらい分離しがたいかを常に言語化するのである。これが inalienabilityである。何まだわからない?では例を示そう。「血」は大アンダマン語で tei だが、この単語が裸でつかわれることはほとんどなくクラスマーカーが付加されるのが普通だが、その際どの「不可分性クラス」に分けられるかによって名詞の意味が変わってくる。

名詞ばかりでなく、動詞もクラスわけされる。

同じセンテンス内の文要素がそれぞれ別のクラスに分けられることもある。
a-kɔbo εr-tɔlɔbɔŋ (be)
CL1-Kobo + CL2-背が高い + コピュラ
コボ(人の名)は背が高い
a-loka er-biŋoi be ara-kata
CL1-Loka + CL2-太っている + コピュラ + CL6-背が低い
ロカ(人の名)は太っていて(太っているが)背が低い。
「デブ」と「チビ」では不可分性のクラスが違っているのが面白い。
副詞もこの調子でクラス分けされるが、その際微妙にダイクシス関係などが変わってくるそうだ。
これらの例を見てもわかるようにこのクラス分け形態素は確かに元々は体の部分と意味がつながっていたものが、やがて抽象化され文法化されて本来の身体的意味はほとんど感じ取れなくなって来ているということである。Abbi はその辺を親切にわかりやすい表にして説明してくれている(「関係する身体部分」の項は上述)。

挙げてある単語の例は別の文献(下記参照)からとったが、そこでは(多分編集者の横やりによって)発音表記が不正確だったので Abbi 氏の主著にあたって確認して発音を直してある。下線を引いてあるのは主著で確認できなかった語だが、それらでは o と ɔ、e と ε などの違いが反映されていない虞があってすみません。またさらに引用した「別の文献」で誤植なんじゃないかと思ったものあったので主著からそれにあたると思われる語を挙げておいた(太字)。
ɸ はpʰ(帯気の p)のアロフォン。また amu(「唖の」)については Abbi 氏は主著で akamu という異形態素を使った形を報告している。そこでは akamu は「食いしん坊」という意味とあるが同時にakamu を「唖の」の意味に使うネイティブスピーカーの例も報告していて、言語調査の一筋縄ではいかないことがわかる。
他のクラスも見て行こう。
ɸ はpʰ(帯気の p)のアロフォン。また amu(「唖の」)については Abbi 氏は主著で akamu という異形態素を使った形を報告している。そこでは akamu は「食いしん坊」という意味とあるが同時にakamu を「唖の」の意味に使うネイティブスピーカーの例も報告していて、言語調査の一筋縄ではいかないことがわかる。
他のクラスも見て行こう。

c は英語の ch(無声軟口蓋閉鎖音)。

「縫う」についてはここで出したように c に帯気のマークがつけてあったが、アンダマン語は軟口蓋閉鎖音では帯気無気を音韻的に区別しないはずだから、音素としては単なる c のことかもしれない。また主著には「たった一人の」という意味の ontoplo という語が載ってがこれは oŋtoplo と同じ語なのではないだろうか。とすると意味が合わない。


「考える」については主著には ebiŋe、進行形で etabiŋe とあるが、さらにもう一つの別文献には eʈabi:ɲe という形で出ている(ʈ はそり舌)。どうも皆微妙に形が違っていてどれが本当なのかわからないのだがとにかくこの動詞がクラス5に属することだけは間違いない。また「親切な」は上に挙げたクラス2の「美しい」と形が酷似していて引っかかるが、語幹が同じでもクラスによって意味が違ってくるという例なのかもしれない。


言語環境によっては別にこれらの意味を付加するわけでもないのにとにかくクラスマーカーをつけること、例えばこういう文法構造の文では形容詞、あるいは動詞をしかじかのクラスでマークしなければいけないという規則になっている場合もあるそうだ。つまりこのクラス分けというのは一部文法化しているのである。
Abbi 氏はこのアンダマン語の調査結果を2023年にも Spektrum der Wissenshaft という科学雑誌で発表している。これは米国の Scientific American 誌のドイツ語版で自然科学の記事が中心なのだが、この号では天文物理や生物学の記事を押しのけて Abbi の言語学の記事が表紙を飾った。ただ主な読者層が言語学者ではないからか、それともドイツ語訳の際そうさせられたのか、発音表記が安直なローマ字表記になっているのが残念だ(上述)。また詳しい文法書が出版された2013年のからこの記事までの10年の間にも何人もインフォーマントが亡くなっている。
大アンダマン語の西方で話されているセンティネル語はまだ調査記述が全く出来ていないそうだが(上述)、この言語もこんなに難しいものなのだろうか。私など矢を射掛けられるまでもなく、言語を見せられただけで心臓麻痺を起こして即死しそうだ。大アンダマン語インフォーマントと言語学者のAbbiさん(中央)。その後亡くなったインフォーマントも多い。
Abbi, Anvita.2013. A grammar of the Great Andamanese Languege. Leidenから。下の写真も。

その他のストレイト島アンダマン語コミュニティのメンバー。何人か上の写真と同じ顔が見える。

2023にSpektrum der Wissenschaft の表紙を飾ったアンダマン語の記事。
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