日本は学歴社会だと平気でいう人がいるが、私は次の2点からこれには賛成しかねる。第一に学歴の意味を取り違えている人が結構いるし、第二に日本はむしろ学歴無関係社会だからだ。
学歴あるいは高学歴云々の話になると真っ先に大学名を持ち出す人がいるのが学歴の意味をわかっていない証拠である。学歴というのは何処の大学を出たかという事ではない、学士・修士・博士の区別のことだ。だから「東大出という高学歴」という言い方は本来成り立たない。東大でも学部しか出ていない人より、俗に言うFラン大学でいいから博士まで持っている人のほうが高学歴。海外で履歴書を書かされればFラン博士(あまりいい言葉じゃないですねこれ)のほうがずっとツブシが利く。
日本にはさらに不思議な現象がある。普通は学士・修士・博士と進むにつれてその資格を持っている人の数がゆるやかに減っていくのが筋であるのに、日本は学士に比べて修士の人数が異常に少ない。学士はやたらといるが修士でガッタリと減るのである。特に人文科学系はそうだ。日本語に「大学院」などという意味不明の言葉があるのが、学士対修士・博士と観念的にきっぱり2分割されているいい証拠だ。こちらは学士も修士も博士も単なる大学出である。
ドイツは歴史的な事情もあって学士より修士の方が多い。昔は学士など大卒扱いしてもらえず高卒と見なされてエライ迷惑を被った話は以前にも書いたが(『2.印欧語の逆襲』参照)、これは学制が変更された今でもそんな感じで学士で大学を出てしまうと人から「どうして途中で止めちゃったの?」と聞かれたりする。また、修士も多いが博士も多い。博士など大卒の一種だから、博士持ちの大部分の人は「普通の職業」につく。「博士=研究者」というトンチンカンな連想をされることもない。ドイツの大企業の経営陣などほとんど経営学博士だし、政治家もそう。前コール首相は法学博士、現メルケル首相は物理学博士である。大新聞の記者、コラムニストなども多くが博士号を持っている。職業安定所(ハロワと言え)の職員に博士持ちがいたのを見たことがある。仕事を探している博士号所有者の希望などをきちんと理解し、適切な求人情報を見つけてあげるには職員もそれなりの学歴がないと話がかみ合わないからか。以前ユーゴスラビア紛争の際、当地のNATO軍やコソボ平和軍の総指揮をとったドイツ国防軍のラインハルト将軍は歴史学の博士で(まさに文武両道だ)、引退した今も時々TVに出てきて歴史解説などとしている。さらに『荒野の用心棒』でマリソル役をやったドイツ人女優マリアンネ・コッホは医学博士である(彩色兼備とはまさにこれ)。
もちろん例外もあるが、学士や修士ではこちらでは社会で達せる地位が限られているといっていい。日本は学歴社会などとは言えない。ヨーロッパの学歴社会は日本より遥かに厳しいと私は思っている。
しかもその大学卒が、日本では入学者数と卒業者数がほぼ一致するという異常現象。本来大学と言うところはそんなにホイホイ卒業できるところではないはず、最後の一年間など就職活動をしながらの片手間の勉強で出られるようなところではないはずなのである。アメリカも簡単に卒業させてくれないという話を聞いたことがあるが、ドイツも学部によっては40%以上消えるところもある。これは大学をやめるというより学部を変わる人が多いということだが。だから、日本特有の「学歴より実力」という言い回しは成り立たない。大学を出た人は大抵実力ももっているからである。こういう言い方を何の疑問もなくする人がいるという事自体語るに落ちるでいかに日本には名前だけの学士が多いかの証拠ではあるが、それは世界的に見れば例外現象である。
また、大学○年生という言葉がこちらにはない(「○回生」などというキモイ言葉は論外)。第一に大学在学期間はゼメスター(学期)で勘定するのが普通だし、終了資格取得のプランは学生各自バラバラで一斉にいちねんせい・にねんせいなどと進んでは行かないからである。もっとも自然科学系や医学系などは結構きっちりプログラムが決まっているらしいが、それでも留年という言葉は大学生には使わない。そういう言い方をするのは子供の学校までだ。その上ドイツでは入学とか卒業と言わずにそれぞれ登録、終了認定といい、日本やアメリカのような式の類が全くない。ギムナジウムの終了資格を貰ったら行きたい大学の事務局で「登録手続き」をする、これが入学である。だから一人一人入学の日が違う。
入学よりさらにバラバラなのが卒業だ。登録のほうは大学の冬学期が始まる前の3ヶ月ほどの間に集中しているが、卒業、つまり終了認定というのは論文が受理され、教授たちのOKが出て事務局から終了証書が出された日だから年中無休、本当に各自バラバラである。つまり卒業というのは「事務局に行って紙切れを貰ってくること」、それだけである。
日本では学士がこういういわばレミング状態なのに対して、修士・博士号になると突然やたらとモッタイをつける。つまり学士号はとてもその資格がないような者にまでホイホイ与える一方、修士・博士は資格を十分に持っていても与えないのである。私は日本のいわゆる大学院という所にはいたことがないのだが、つい最近になって博士号に「論文博士」「過程博士」などという意味不明の区別があると知って驚愕した。そんな区別はこちらにはない、一律「修士号保持者であり、規定の単位を取り、論文が認められれば博士」である。年数制限などあまり厳しくやっても意味がない。論文の内容によってはどうしても時間が必要だったりするからだ。もちろん、あまりにも進み方が遅いと指導教授のほうがシビレを切らせて辞めさせられたりすることもないではないし、そうこうしているうちに指導教授が亡くなってしまい、博士論文が宙に浮いてしまったという冗談のような目に会った知り合いが実際にいるが、それはまた別の話である。
そもそもいい大学というのは、成績のいい学生だけを集め、そのもともと成績のいい学生にホイホイ卒業スタンプを与えて出させる大学のことではない、多少出来の悪い学生でも入学させれば、優秀な人になって出てくることの出来る大学である。日本など逆に入学した時より馬鹿になって出てくる学生が(私のことだ)後を絶たないではないか。
もっとも日本だって昔はこういうレミング大学ではなかったらしい。明治時代の小説などを読めば、いや昭和初期に大学を出た人の話でさえ、在学期間も入学年齢も結構バラバラで、就職活動など卒業してからおもむろにし始めるのが普通であったことがわかる。
つまりこのレミング大学制を推進したのは大学のほうではなくて企業側ということだろうか。戦後すぐの時期に経済復興のベルトコンベア体制に合わせたものであろう。新卒採用と中途採用などというこちらでは説明してもわかってもらえない区別、いやほとんど「差別」があるのもそのせいではないだろうか。この日本語を聞くと私はいつもドイツ語のFrischfleisch(フリッシュフライシュ、「新鮮な肉」)という言葉を思い出す。入ってくるものは新鮮な程いい、加工されていないほうが、つまり下手に能力や自分の考えを持っていないほうがいい、というわけである。それとも江戸時代の外様と親藩の区別をいまだに引きずっているというわけか。
日本が経済的に羽振りが良かった時期などもう今は昔であるのに相変わらず大学でレミング卒業、企業で外様の差別などやっていて大丈夫なのか?
さて、日本では特に人文科学系の博士が異常に少ないことは時々日本の知人とも雑談の話題になるのだが、何人かこんな話をしていた(ただし私自身で事実の確認はしていない):日本には博士号すら持っていないのに大学教授をやれてしまっている人が少なからずいる。そういう無博士教授は自分より高い学歴を学生に与えることができない、つまり権限がないのだ、と。この話が本当だとするとこれは低学歴の連鎖である。
そういえば、私の友人にも大学で教鞭を取っている経験の長さといい研究成果の発表ぶりといい、こちらならとっくの昔に博士号を持っていそうなのに出してくれる資格のある人が見つからず、延々と放浪した人がいる。それでも最近では結構博士号を出すようになってきたとのことだが、その理由が「欧米に出ていってそこで博士取ってくる教授が増えたからね。日本にいたんじゃ埒があかないし」ということだそうだ。つまり言葉の苦労を割り引いてもアメリカで博士を取ってきたほうが早いということか。もちろんこの「早い」というのはアメリカの大学が一旦入学すれば誰でもスコンスコン博士を出す、ということでなく、勉強の制度が整っている、という意味であるが。
ドイツは日本より厳しい学歴社会、ということはつまりドイツの社会は権威主義、階級社会なのかとも思う。こちらの社会のちょっと嫌な面で、確かにある面ではそういうところもあるのだが、言葉の上では逆に日本語よりずっと開かれていると感じられる部分がある。これは英語も同じで中学生の頃mathemacian とかbiologistという単語が「大学の数学あるいは生物学教授」も「数学あるいは生物学専攻の学生」も表すことができると聞いて驚いたのを今でも覚えている。Linguistもそうで、これを「言語学者」などと訳してしまうと研究者や大学教授以外はLinguistを名乗れないような感じになってしまう。これらの言葉は本来「言語学・者」「生物学・者」「数学・者」と形態素分解すべきで、「言語学をやる者」、つまり言語学概論の初日に授業を受けに来た学生もノーム・チョムスキーも一律に言語学・者なのである。もっともチョムスキーは元Linguistと呼んだほうがいいかもしれないが、とにかく教授だろ学生だろの社会地位は区別しない。研究者なら本来「言語学学者」と「学」がダブっているはずだと思うが、その「学」が一つ落ちている「言語学者」という日本語を「言語・学者」と誤分析するから話が通じなくなるのだ、アメリカから来た20歳くらいの若い学生がI’m a linguistといったのを「ほう、お若いのに学者さん。頭いいんですね」とか間の抜けた解釈をしてしまいかねない。
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学歴あるいは高学歴云々の話になると真っ先に大学名を持ち出す人がいるのが学歴の意味をわかっていない証拠である。学歴というのは何処の大学を出たかという事ではない、学士・修士・博士の区別のことだ。だから「東大出という高学歴」という言い方は本来成り立たない。東大でも学部しか出ていない人より、俗に言うFラン大学でいいから博士まで持っている人のほうが高学歴。海外で履歴書を書かされればFラン博士(あまりいい言葉じゃないですねこれ)のほうがずっとツブシが利く。
日本にはさらに不思議な現象がある。普通は学士・修士・博士と進むにつれてその資格を持っている人の数がゆるやかに減っていくのが筋であるのに、日本は学士に比べて修士の人数が異常に少ない。学士はやたらといるが修士でガッタリと減るのである。特に人文科学系はそうだ。日本語に「大学院」などという意味不明の言葉があるのが、学士対修士・博士と観念的にきっぱり2分割されているいい証拠だ。こちらは学士も修士も博士も単なる大学出である。
ドイツは歴史的な事情もあって学士より修士の方が多い。昔は学士など大卒扱いしてもらえず高卒と見なされてエライ迷惑を被った話は以前にも書いたが(『2.印欧語の逆襲』参照)、これは学制が変更された今でもそんな感じで学士で大学を出てしまうと人から「どうして途中で止めちゃったの?」と聞かれたりする。また、修士も多いが博士も多い。博士など大卒の一種だから、博士持ちの大部分の人は「普通の職業」につく。「博士=研究者」というトンチンカンな連想をされることもない。ドイツの大企業の経営陣などほとんど経営学博士だし、政治家もそう。前コール首相は法学博士、現メルケル首相は物理学博士である。大新聞の記者、コラムニストなども多くが博士号を持っている。職業安定所(ハロワと言え)の職員に博士持ちがいたのを見たことがある。仕事を探している博士号所有者の希望などをきちんと理解し、適切な求人情報を見つけてあげるには職員もそれなりの学歴がないと話がかみ合わないからか。以前ユーゴスラビア紛争の際、当地のNATO軍やコソボ平和軍の総指揮をとったドイツ国防軍のラインハルト将軍は歴史学の博士で(まさに文武両道だ)、引退した今も時々TVに出てきて歴史解説などとしている。さらに『荒野の用心棒』でマリソル役をやったドイツ人女優マリアンネ・コッホは医学博士である(彩色兼備とはまさにこれ)。
もちろん例外もあるが、学士や修士ではこちらでは社会で達せる地位が限られているといっていい。日本は学歴社会などとは言えない。ヨーロッパの学歴社会は日本より遥かに厳しいと私は思っている。
しかもその大学卒が、日本では入学者数と卒業者数がほぼ一致するという異常現象。本来大学と言うところはそんなにホイホイ卒業できるところではないはず、最後の一年間など就職活動をしながらの片手間の勉強で出られるようなところではないはずなのである。アメリカも簡単に卒業させてくれないという話を聞いたことがあるが、ドイツも学部によっては40%以上消えるところもある。これは大学をやめるというより学部を変わる人が多いということだが。だから、日本特有の「学歴より実力」という言い回しは成り立たない。大学を出た人は大抵実力ももっているからである。こういう言い方を何の疑問もなくする人がいるという事自体語るに落ちるでいかに日本には名前だけの学士が多いかの証拠ではあるが、それは世界的に見れば例外現象である。
また、大学○年生という言葉がこちらにはない(「○回生」などというキモイ言葉は論外)。第一に大学在学期間はゼメスター(学期)で勘定するのが普通だし、終了資格取得のプランは学生各自バラバラで一斉にいちねんせい・にねんせいなどと進んでは行かないからである。もっとも自然科学系や医学系などは結構きっちりプログラムが決まっているらしいが、それでも留年という言葉は大学生には使わない。そういう言い方をするのは子供の学校までだ。その上ドイツでは入学とか卒業と言わずにそれぞれ登録、終了認定といい、日本やアメリカのような式の類が全くない。ギムナジウムの終了資格を貰ったら行きたい大学の事務局で「登録手続き」をする、これが入学である。だから一人一人入学の日が違う。
入学よりさらにバラバラなのが卒業だ。登録のほうは大学の冬学期が始まる前の3ヶ月ほどの間に集中しているが、卒業、つまり終了認定というのは論文が受理され、教授たちのOKが出て事務局から終了証書が出された日だから年中無休、本当に各自バラバラである。つまり卒業というのは「事務局に行って紙切れを貰ってくること」、それだけである。
日本では学士がこういういわばレミング状態なのに対して、修士・博士号になると突然やたらとモッタイをつける。つまり学士号はとてもその資格がないような者にまでホイホイ与える一方、修士・博士は資格を十分に持っていても与えないのである。私は日本のいわゆる大学院という所にはいたことがないのだが、つい最近になって博士号に「論文博士」「過程博士」などという意味不明の区別があると知って驚愕した。そんな区別はこちらにはない、一律「修士号保持者であり、規定の単位を取り、論文が認められれば博士」である。年数制限などあまり厳しくやっても意味がない。論文の内容によってはどうしても時間が必要だったりするからだ。もちろん、あまりにも進み方が遅いと指導教授のほうがシビレを切らせて辞めさせられたりすることもないではないし、そうこうしているうちに指導教授が亡くなってしまい、博士論文が宙に浮いてしまったという冗談のような目に会った知り合いが実際にいるが、それはまた別の話である。
そもそもいい大学というのは、成績のいい学生だけを集め、そのもともと成績のいい学生にホイホイ卒業スタンプを与えて出させる大学のことではない、多少出来の悪い学生でも入学させれば、優秀な人になって出てくることの出来る大学である。日本など逆に入学した時より馬鹿になって出てくる学生が(私のことだ)後を絶たないではないか。
もっとも日本だって昔はこういうレミング大学ではなかったらしい。明治時代の小説などを読めば、いや昭和初期に大学を出た人の話でさえ、在学期間も入学年齢も結構バラバラで、就職活動など卒業してからおもむろにし始めるのが普通であったことがわかる。
つまりこのレミング大学制を推進したのは大学のほうではなくて企業側ということだろうか。戦後すぐの時期に経済復興のベルトコンベア体制に合わせたものであろう。新卒採用と中途採用などというこちらでは説明してもわかってもらえない区別、いやほとんど「差別」があるのもそのせいではないだろうか。この日本語を聞くと私はいつもドイツ語のFrischfleisch(フリッシュフライシュ、「新鮮な肉」)という言葉を思い出す。入ってくるものは新鮮な程いい、加工されていないほうが、つまり下手に能力や自分の考えを持っていないほうがいい、というわけである。それとも江戸時代の外様と親藩の区別をいまだに引きずっているというわけか。
日本が経済的に羽振りが良かった時期などもう今は昔であるのに相変わらず大学でレミング卒業、企業で外様の差別などやっていて大丈夫なのか?
さて、日本では特に人文科学系の博士が異常に少ないことは時々日本の知人とも雑談の話題になるのだが、何人かこんな話をしていた(ただし私自身で事実の確認はしていない):日本には博士号すら持っていないのに大学教授をやれてしまっている人が少なからずいる。そういう無博士教授は自分より高い学歴を学生に与えることができない、つまり権限がないのだ、と。この話が本当だとするとこれは低学歴の連鎖である。
そういえば、私の友人にも大学で教鞭を取っている経験の長さといい研究成果の発表ぶりといい、こちらならとっくの昔に博士号を持っていそうなのに出してくれる資格のある人が見つからず、延々と放浪した人がいる。それでも最近では結構博士号を出すようになってきたとのことだが、その理由が「欧米に出ていってそこで博士取ってくる教授が増えたからね。日本にいたんじゃ埒があかないし」ということだそうだ。つまり言葉の苦労を割り引いてもアメリカで博士を取ってきたほうが早いということか。もちろんこの「早い」というのはアメリカの大学が一旦入学すれば誰でもスコンスコン博士を出す、ということでなく、勉強の制度が整っている、という意味であるが。
ドイツは日本より厳しい学歴社会、ということはつまりドイツの社会は権威主義、階級社会なのかとも思う。こちらの社会のちょっと嫌な面で、確かにある面ではそういうところもあるのだが、言葉の上では逆に日本語よりずっと開かれていると感じられる部分がある。これは英語も同じで中学生の頃mathemacian とかbiologistという単語が「大学の数学あるいは生物学教授」も「数学あるいは生物学専攻の学生」も表すことができると聞いて驚いたのを今でも覚えている。Linguistもそうで、これを「言語学者」などと訳してしまうと研究者や大学教授以外はLinguistを名乗れないような感じになってしまう。これらの言葉は本来「言語学・者」「生物学・者」「数学・者」と形態素分解すべきで、「言語学をやる者」、つまり言語学概論の初日に授業を受けに来た学生もノーム・チョムスキーも一律に言語学・者なのである。もっともチョムスキーは元Linguistと呼んだほうがいいかもしれないが、とにかく教授だろ学生だろの社会地位は区別しない。研究者なら本来「言語学学者」と「学」がダブっているはずだと思うが、その「学」が一つ落ちている「言語学者」という日本語を「言語・学者」と誤分析するから話が通じなくなるのだ、アメリカから来た20歳くらいの若い学生がI’m a linguistといったのを「ほう、お若いのに学者さん。頭いいんですね」とか間の抜けた解釈をしてしまいかねない。
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