人工言語あるいは計画言語として知られているのものには、草案段階のものから完成したものまで含めると1000言語くらいあるそうだ。17世紀頃からすでにいろいろな哲学者や自然科学者が試みている。言語学者のイェスペルセンによるノヴィアルNovial、哲学者ブレアらによるインターリングアInterlingua、カトリック僧のシュライヤーによるヴォラピュークVolapükなどが知られているが、なんと言っても有名なのはポーランドの眼科医ザメンホフ(日本語では「ザメンホフ」と「メ」にアクセントを置いて発音しているがこれは本当は「ザ」に強調して「ザーメンホフ」というのが正しいような気がするのだが)によるエスペラントEsperantoだろう。実用段階まで完成を見た計画言語はこのエスペラントだけだ。後にこれを改良したイドIdo(エスペラントで「子孫」の意味)という言語をイェスペルセンらが唱えたが、エスペラントに取って変わることは出来なかった。
 エスペラントは1887年に発表されたが、20世紀の前半には世界中に受け入れられて「エスペラント運動」として広まった。日本でも有島武雄や宮沢賢治がこの言語をやっていたそうだ。二葉亭四迷もエスペラントについての論評を書いている。この言語が発表された直後いち早く運動が広がったのはロシアだったそうだから二葉亭はロシア語経由でエスペラントの存在を知ったのだろうか。しかし一方この運動は、特定の民族が非支配民族に押し付けた言語ではない、世界のあらゆる民族が対等の立場で使える共通言語としてのエスペラントを掲げ、反ナショナリズム、あらゆる民族の平等・連帯、世界平和という理想を目指した一種の社会運動だったから、当然ナチスドイツには弾圧されたし軍国主義の日本でも白い目で見られた。下手をすると現在の日本にもエスペランティストを「お花畑」の「人権屋」の「ブサヨ」のといって罵る人がいるかも知れない。
 残念ながらと言っていいのかどうか、二次大戦後は英語が事実上の世界共通語となってしまったため、世界共通語としてのエスペラントはややその存在意義を失ってしまったが、1980年代には日本でもまだ結構盛んに学習されていた記憶がある。
 そういえば当時、あまりエスペラントを研究している言語学者がいないと指摘する声を聞いたことがある。「君子エスペラントに近寄らず」という言語学者間での暗黙の了解でもあるのか、と誰かが何処かで書いていた。ドイツでも私が学生であった期間、エスペラントが授業やワークショップでテーマになったことは一度もないし、何年か前にはなんと「エスペラント」という言語の存在を知らない学生に会ったことがある。確かに「未知の言語の構造を解き明かし記述する」のが仕事の人にはエスペラントは研究対象にはなりにくいだろうが、社会言語学とか、言語の獲得、ニ言語間の干渉問題が専門の人ならば十分研究対象になるだろう。「エスペラントは母語になりうるか」とか「使用者の母語によってエスペラントは違いを見せるか」なんてテーマはとても面白そうだし、実際に地道に研究している人もいるらしい。先日の新聞でも最近エスペラント学習者が増えつつある、という記事を見かけた。言語学者から特に冷たく扱われているということはなさそうだ。第一ウィキペディアにもエスペラントが使われているし電子辞書の類も多い。コンピューター時代を迎えて、再び「人工言語」というものへの関心が強まったのだろうか。
 もっともこの計画言語が発表された当時は当時言語学の主流であった比較言語学の大家ブルークマンやレスキーン(『26.その一日が死を招く』の項参照)から完全に継子扱いされたらしい。「こんなものは言語学ではない」というわけか。しかし肯定的にみる言語学者もいた。アントワーヌ・メイエやボドゥアン・デ・クルトネなどは肯定的だったそうだ。後にアンドレ・マルティネもまたエスペラントを擁護している。大物言語学者が結構支持しているのである。

 さて、私はレスキーンでもメイエでもない単なるおバカな野次馬であるが、話を聞くとなにやら面白そうな言語なのでちょっと近寄ってみた。例えばこういう文章だが:

羊と馬たち

もう毛のない羊が馬たちを見た。
そのうちのあるものは重い車を引き、
あるものは大きな荷物を、
あるものは人をすばやく運んでいくのを。

羊は言った:
心が痛む。人間が馬たちを駆り立てるのを見ている私には。
馬たちは言った:
聞け羊よ。心が痛む、こういうことを知っている私たちには。
主人である人間が羊の毛を自分のために暖かい衣服にしてしまう。
それで羊には毛がない。

これを聞いて羊は野へ逃げて行った。

このテキストを無謀にも私がエスペラントに訳すと次のようになった。そこら辺の辞書だろ文法書だろをちょっと覗いてみただけなのでエスペランティストの人が見たら間違っているかもしれない。請指摘。

La Ŝafo kaj la Ĉevaloj

Ŝafo, kiu jam ne havis neniun lanon, vidis ĉevalojn,
unu el ili tiri (tirante?) pezan vagonon,
unu porti (portante?) grandan ŝarĝon,
unu (porti/ portante) viron rapide.

La ŝafo diris al la ĉevaloj:
La koro doloras al mi, kiu mi ridas homon peli (pelante?) ĉevaloj.
La ĉevaloj diris:
Aŭskultu, ŝafo, la koroj doloras al ni, kiu ni scias tion ĉi:
homo, la mastro, faras la lanon de ŝafoj je varma vesto por li mem.
Kaj la ŝafo ne havas lanon.

Aŭdinte tion, la ŝafo fuĝis en la kampon

関係節でkiu mi (who I/me)のように関係代名詞と人称代名詞を併記したのは故意である。ドイツ語のich, die ich kein Afrikaans kann, (アフリカーンス語が出来ない私、英語に直訳すればI, who I cannot Afrikaans)などの構文に従ったため。どうも二種の代名詞を併記したほうがすわりがいいような気がしたのである。また、前置詞の選択に困ったときはjeを使いなさいと文法書で親切に言ってくれていたので、さっそく使ってしまった。「毛を暖かい服にする」の「に」、この文脈で使うドイツ語のzuをどう表現したらいいかわからなかったのである。

 人工言語・計画言語ではアプリオリな計画言語、アポステオリな計画言語、それらの混合タイプの3種類を区別するそうだ。アプリオリな計画言語とは自然言語とは関係なく哲学的・論理学的な原理に従って構築されたもの、アポステオリな計画言語は一つあるいは複数の自然言語をベースにしたもの、混合タイプはその中間である。しかし考えるとこれは「計画言語を3種のカテゴリーに分ける」というより純粋なアプリオリタイプと純粋なアポステオリタイプを両極として、その間に様々な段階の計画言語が存在する、つまり連続したつながりと見たほうがいいだろう。
 いわゆる標準語とか共通語などはある意味人工的に設定された計画言語だが、これらは「限りなく自然言語に近い計画言語」、極致的にアポステオリな計画言語と言えるのではないだろうか。もっともこういう共通語が上述の1000言語の中に勘定されているとは思えないが。対してエスペラントは文法規則や単語など確かに様々な自然言語から持ってきているが、出所不明の部分、つまりザメンホフが純粋に頭の中で考えだした要素も少なくないから、ずっとアプリオリ寄りである。

 エスペラントよりはアポステオリ寄りだが共通語よりはアプリオリ寄りという計画言語として私が思いつくのは例の「印欧祖語」というアレである。これも上の1000言語には入っていそうもないが、過去から現在までの様々な言語を徹底的に調べたデータから論理的に帰納した(普通は印欧語「再建」と言っているが)立派な計画言語ではないだろうか。
 最初にこの「再建」を試みたのはアウグスト・シュライヒャーで、上に挙げたわざとらしい文章は実はシュライヒャーが自分で再建した印欧祖語で書いた寓話を訳したのである。一般に「シュライヒャーの寓話」として知られているテキストで、1868年に発表された。

Avis akvāsas ka

Avis, jasmin varnā na ā ast, dadarka akvams,
tam, vāgham garum vaghantam,
tam, bhāram magham,
tam, manum āku bharantam.

Avis akvabhjams ā vavakat:
kard aghnutai mai vidanti manum akvams agantam.
Akvāsas ā vavakant:
krudhi avai, kard aghnutai vividvant-svas:
manus patis varnām avisāms karnauti svabhjam gharmam vastram avibhjams
ka varnā na asti.

Tat kukruvants avis agram ā bhugat.

 シュライヒャーの祖語はサンスクリットに似ていたが、その後研究が進んで、サンスクリットはそれなりに印欧祖語からは離れていたはずだということが次第にはっきりしてきたため、シュライヒャーのほぼ70年後、1939年に再び祖語再建を試みたヘルマン・ヒルトのバージョンは特に母音構成が大きく違っている。

Owis ek’wōses-kʷe

Owis, jesmin wьlənā ne ēst, dedork’e ek’wons,
tom, woghom gʷьrum weghontm̥
tom, bhorom megam,
tom, gh’ьmonm̥ ōk’u bherontm̥.

Owis ek’womos ewьwekʷet:
k’ērd aghnutai moi widontei gh’ьmonm̥ ek’wons ag’ontm̥.
Ek’wōses ewьwekʷont:
kl’udhi, owei!, k’ērd aghnutai vidontmos:
gh’ьmo, potis, wьlənām owjôm kʷr̥neuti sebhoi ghʷermom westrom;
owimos-kʷe wьlənā ne esti.

Tod k’ek’ruwos owis ag’rom ebhuget.

 さらに2013年にもアンドリュー・バードAndrew Byrdが再建している。

H₂óu̯is h₁éḱu̯ōs-kʷe

 h₂áu̯ei̯ h₁i̯osméi̯ h₂u̯l̥h₁náh₂ né h₁ést, só h₁éḱu̯oms derḱt.
só gʷr̥hₓúm u̯óǵʰom u̯eǵʰed;
só méǵh₂m̥ bʰórom;
só dʰǵʰémonm̥ h₂ṓḱu bʰered.

h₂óu̯is h₁ékʷoi̯bʰi̯os u̯eu̯ked:
dʰǵʰémonm̥ spéḱi̯oh₂ h₁éḱu̯oms-kʷe h₂áǵeti, ḱḗr moi̯ agʰnutor.
h₁éḱu̯ōs tu u̯eu̯kond:
ḱludʰí, h₂ou̯ei̯! tód spéḱi̯omes, n̥sméi̯ agʰnutór ḱḗr:
dʰǵʰémō, pótis, sē h₂áu̯i̯es h₂u̯l̥h₁náh₂ gʷʰérmom u̯éstrom u̯ept,
h₂áu̯ibʰi̯os tu h₂u̯l̥h₁náh₂ né h₁esti.

tód ḱeḱluu̯ṓs h₂óu̯is h₂aǵróm bʰuged.

hにいろいろ数字がついているのはいわゆる印欧語の喉音理論を反映させたのであろう(『24.ベレンコ中尉亡命事件』の項参照)。いかにも現代の言語学者らしく、音声面に重きをおいていることがわかる。
 まあこうやって見ている分にはゾクゾクするほど面白いが、この印欧祖語はエスペラントのように実際の言語使用には耐えないだろう。名詞は多分8格あって、数は単・双・複の3つ、動詞の変化も相当複雑なことになっていたろうし、ちょっと学習できそうにない。さらにエスペラントはその体系の枠内で新しい単語を作り出すことが出来るが、印欧祖語はあくまで「再建」だから造語力というものがない。再建した学者本人たちもまさかこれをラテン語や英語の代わりに世界語として使おうとは思っていなかっただろう。特に2013年のバージョンを見るとそれこそ「近寄るべからず」と言われているような気になる。


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