アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:言語学 > 言語接触

 少し前まではコーカサスやシベリア諸民族の言語をやるにはロシア語が不可欠だった。文献がロシア語で書いてあったからだ。今はもう論文なども英語になってきてしまっているのでロシア語が読めなくても大丈夫だろう。残念といえば残念である。別に英語が嫌いというわけではないのだが、何語であれ一言語ヘゲモニー状態には私は「便利だから」などと手放しでは喜べない。どうしても思考の幅が狭まるからだ。
 そのコーカサス地方の言語、タバサラン語についてちょっと面白い話を小耳にはさんだことがある。

 タバサラン語では「本」のことを kitab と言うそうだ。アラビア語起源なのが明らかではないか。よりによってこの kitab、あるいは子音連続 K-T-B は、私が馬鹿の一つ覚えで知っている唯一のアラビア語なのである。イスラム教とともにこの言語に借用されたのだろう。
 そこで気になったので、現在イスラム教の民族の言語で「本」を何というのかちょっと調べてみた。家に落ちていた辞書だのネットの(無料)オンライン辞書だのをめくら滅法引きまくっただけなので、ハズしているところがあるかも知れない。専門家の方がいたらご指摘いただけるとありがたい。その言語の文字で表記したほうがいいのかもしれないが、それだと不統一だし読めないものもあるのでローマ字表記にした。言語名のあとに所属語族、または語群を記した。何も記していない言語は所属語族や語群が不明のものである。「語族」と「語群」はどう違うのかというのが実は一筋縄ではいかない問題なのだが、「語族」というのは異なる言語の単語間に例外なしの音韻対応が見いだせる場合、その言語はどちらも一つの共通な祖語から発展してきたものとみなし、同一語族とするもの。この音韻対応というのは比較言語学の厳密な規則に従って導き出されるもので、単に単語が(ちょっと)似ているだけですぐ「同族言語ダー」と言い出すことは現に慎まなければいけない。時々そういうことをすぐ言い出す人がいるのは困ったものだ。現在同一語族ということが科学的に証明されているのは事実上印欧語族とセム語族だけだといっていい。そこまで厳密な証明ができていない言語は「語群」としてまとめる。もちろんまとめるからにはまとめるだけの理由があるのでこれもちょっと似た点が見つかったからと言ってフィーリングで「語群」を想定することはできない。「テュルク語」については「語族」でいいじゃないかとも思うのだが、逆に似すぎていて語族と言うより一言語じゃないかよこれ、とでも思われたのか「テュルク語族」とは言わずに「テュルク諸語」と呼んでいる。
 話が飛んで失礼。さて「本」をイスラム教国の言葉でなんというか。基本的に男性単数形を示す。
NEU07-Tabelle1
 このようにアラビア語の単語が実に幅広い語族・地域の言語に取り入れられていることがわかる。アラビア語から直接でなく一旦ペルシャ語を経由して取り入れた場合も少なくないようだが。例外はアルバニア語とボスニア語。前者は明らかにロマンス語からの借用、後者はこの言語本来の、つまりスラブ語本来の語だ。ここの民族がイスラム化したのが新しいので、言語までは影響されなかったのではないだろうか。ンドネシア語の buku は英語からの借用だと思うが、kitab という言葉もちゃんと使われている。pustaka は下で述べるように明らかにサンスクリットからの借用。インドネシア語はイスラム教が普及する(ずっと)以前にサンスクリットの波をかぶったのでその名残り。つまり pustaka は「本」を表わす3語のうちで最も古い層だろう。単語が三つ巴構造になっている。しかも調べてみるとインドネシア語には kitab と別に Alkitab という語が存在する。これは Al-kitab と分析でき、Al はアラビア語の冠詞だからいわば The-Book という泥つきというか The つきのままで借用したものだ。その Alkitab とは「聖書」という意味である。クルド語の pertuk は古アルメニア語 prtu(「紙」「葦」)からの借用だそうだがそれ以上の語源はわからない。とにかくサンスクリットの pustaka ではない。

 面白いからもっと見てみよう。「アフロ・アジア語群」というのは昔「セム・ハム語族」と呼ばれていたグループだ。アラビア語を擁するセム語の方は上でも述べたように「語族」といっていいだろうが、ハム語のほうは「族」という言葉を使っていいのかどうか個人的にちょっと「?」がつくので、現在の名称「アフロ・アジア語」のほうも「族」でなく「群」扱いしておいた。
NEU07-Tabelle2
イスラム教徒が乗り出していった地域で話されていたアフリカのスワヒリ語は「イスラム教の民族の言語」とは言いきれないのだが、「本」という文化語をアラビア語から取り入れているのがわかる。ハウサ語の「本」は形がかけ離れているので最初関係ないのかと思ったが、教えてくれた人がいて、これも「ごく早い時期に」アラビア語から借用したものなのだそうだ。ハウサ語の f は英語やドイツ語の f とは違って、日本語の「ふ」と同じく両唇摩擦音だそうだから、アラビア語bが f になったのかもしれないが、それにしても形が違いすぎる。「ごく早い時期」がいつなのかちょっとわからないのだが、ひょっとしたらイスラム教以前にすでにアラビア語と接触でもしていたのか、第三の言語を仲介したかもしれない。ソマリ語にはもう一つ buug という「本」があるが、インドネシア語の buku と同様英語からの借用である。

 インドの他の言語は次のようになる。
NEU07-Tabelle3
最後に挙げたインド南部のタミル語以外は印欧語族・インド・イラン語派で、冒頭にあげたペルシア語、ウルドゥ語、パシュトー語と言語的に非常に近い(印欧語族、インド・イラン語派)がサンスクリット形の「本」が主流だ。ベンガル語 pustok もヒンディー語 pustak もサンスクリットの pustaka 起源。ただ両言語の地域北インドは現在ではヒンドゥ―教だが、ムガル帝国の支配下にあった時期が長いのでアラビア語系の「本」も使われているのはうなづける。これは直接アラビア語から借用したのではなく、ペルシャ語を通したもの。またベンガル語の boi は英語からの借用かと思ったらサンスクリットの vahikā (「日記、帳簿」)から来ている古い語だそうだ。
 インドも南に下るとイスラム教の影響が薄れるらしく、アラビア語形が出てこなくなる。シンハラ語は仏教地域。これら印欧語はサンスクリットから「本」という語を「取り入れた」のではなく、本来の語を引き続き使っているに過ぎない。それに対してタミル語、テルグ語、マラヤラム語は印欧語ではないから、印欧語族のサンスクリットから借用したのだ。これらの言語はヒンドゥー教あるいは仏教地域である。
 とにかく言語の語彙と言うのは階層構造をなしていることがわかる。上のインドネシア語の pustaka も後にイスラム教を受け入れたのでアラビア語系の語に取って代わられたが消滅はしていない。もっともバリ島など、今もヒンドゥー教地域は残っている。そういうヒンドゥー地域では kitab は使わないのかもしれない。
 「本」を直接アラビア語からでなくペルシャ語を通して受け入れた言語も多いようだが、ではイスラム以前のペルシャ語では「本」を何といっていたのか。中期ペルシャ語(パフラヴィー語)を見ると「本」を表す語が3つあったらしい。mādayān、nāmag、nibēg の3語で、なるほどアラビア語とは関係ないようだ。本来のイラニアン語派の語だろう。 mādayān は古アルメニア語に借用され(matean、「本」)、そこからまた古ジョージア語に輸出(?)されている(maṭiane、「本、物語」)。nāmag も namak (「字」)としてやっぱり古アルメニア語に引き継がれたし、そもそも現代ペルシャ語にもnāme として残っている。「字」という意味の他に合成語に使われて「本」を表す: filmnâme(「脚本」)。最後の nibēg も nebiという形で現代ペルシャ語に細々と残っており「廃れた形」ではあるが「経典」「本」。昔はこの語でコーランを表していたそうだ。

 ではそのアルメニア語やジョージア語では現在どうなっているのか。これらの言語はタバサラン語のすぐ隣、つまりコーカサスで話されているが、キリスト教民族である。アラビア語とは見事に無関係だ。
NEU07-Tabelle4
アルメニア語の matyan は上述の古ペルシャ語 mādayān の子孫で、主流ではなくなったようだが、「雑誌」「原稿」「本」など意味が多様化してまだ存命(?)だ。ジョージア語でも maṭiane(「聖人伝」)として意味を変えたが単語としては生き残っている。girk、cigni がアルメニア語、ジョージア語本来の言葉。オセチア語の činyg は古い東スラブ語の kŭniga からの借用だそうだ。道理で現在のスラブ諸語と形がそっくりだ(下記)。オセチア語と上にあげたイスラム教のタジク語は同じ印欧語のイラニアン語派だし話されている地域も互いにごく近いのに語彙が明確に違っているのが非常に面白い。しかしそのタジク語にも上記中世ペルシャ語の nāmag に対応する noma(「字」)という言葉が存在する。

 また次の言語はセム語族で、言語的には本家アラビア語と近いのに「本」を kitab と言わない。アムハラ・エチオピア民族はキリスト教国だったし、ヘブライ語はもちろんユダヤ教。
NEU07-Tabelle5
 アムハラ語はもちろんゲエズ語からの引継ぎだが、後者はヨーロッパのラテン語と同じく死語なので、本当の音価はわからない。ゲエズ文字をアムハラ語で読んでいるわけだから音形が全く同じになるのは当然と言えば当然だ。アムハラ語もゲエズ語もさすがセム語族だけあって「語幹は3子音からなる」という原則を保持している。これもアラビア語と同様 m- の部分は語幹には属さない接頭辞だから差し引くと、この語の語幹は ṣ-h-f となる。その語幹の動詞 ṣäḥäfä は「書く」。このゲエズ語の「本」はアラビア語に maṣḥaf という形で借用され、「本」「写本」という意味で使われている。アラビア語の方が借用したとはまた凄いが、それどころではなく、ヘブライ語までこのゲエズ語を輸入している。ヘブライ語には「聖書の写本」を表す mitskháf  という単語があるが、これは mäṣḥäf の借用だそうだ。なおゲエズ語の動詞の ṣäḥäfä は古典アラビア語の ṣaḵafa に対応していると考えられるが、後者は「書く」でなく「地面を掘る」という意味だそうだ。は? 
 ヘブライ語の sefer(語根はs-f-r、f は本来帯気の p だそうだ)はアッカド語の時代から続く古い古いセム語の単語で、アラビア語にもその親戚語 sifr という「本」を表す語が存在する。ただ使用範囲が限定されているようだ。
 逆にヘブライ語には katáv(「書く」)あるいは ktivá(「書くこと」)という語もある。一目瞭然、アラビア語の k-t-b と対応する形だ。「本」という意味はないようだが、とにかく単語自体はアラビア語、ヘブライ語どちらにも存在し、そのどちらがメインで「本」という意味を担っているかの程度に違いがあるだけだ。
 
 それにしても「本」などという文化語は時代が相当下ってからでないと生じないはずだ。本が存在するためにはまず文字が発明されていなければいけないからだ。当該言語が文字を持っていなかったら(文字のない言語など特に昔はゴロゴロあった)本もへったくれもない。だから当時の「先進国」から本という実体が入ってきたのと同時にそれを表す言葉も取り入れたことが多かったのだろう。普通「その国にないもの」が導入される時は外来語をそのまま使う。日本語の「パン」「ガラス」などいい例だ。
 言い換えると「本」という語は宗教と共にということもあるが文字文化と共に輸入されたという側面も大きいに違いない。イスラム教が来る以前にすでにローマ文化やラテン語と接していたアルバニア、グラゴール文字、キリル文字、ラテン文字など、文字文化にふれていたボスニアで、「本」がアラビア語にとって変わられなかったのもそれで説明できる。そういえばバルカン半島に文字が広まったのはキリスト教宣教と共にで、9世紀のことだ。イスラム教はすでに世界を席捲していたが、バルカン半島にイスラム教が入ってきたのはトルコ経由で14世紀になってからだ。当地にはとっくに書き言葉の文化が確立されていた。
 アルメニア語、ジョージア語、アムハラ語(ゲーズ語)も古い文字の伝統があって、独自の文字を発達させていた。ヘブライ語やサンスクリット、タミル語は言わずもがな、イスラム教どころかキリスト教が発生する何百年も前から文字が存在した。外来語に対する抵抗力があったのだろう。

 まとめてみるとこうなる。イスラムの台頭とともにアラビア語の「本」という語が当地の言語に語族の如何を問わずブワーッと広まった。特にそれまで文字文化を持っていなかった民族言語は何の抵抗もなく受け入れた。
 すでに文字文化を持っていた言語はちょっと様子が違い、イスラム以前からの語が引き続き使われたか、アラビア語の「本」を取り入れたのしても昔からの語は生き残った。ただその際意味変化するか、使用範囲が狭くなった。
 イスラム教の波を被らなかった民族の言語はアラビア語系の語を取り入れなかった。
 その一方、初期イスラム教のインパクトがどれほど強かったのか改めて見せつけられる思いだ。千年にわたる文字文化を誇っていたペルシャ語、サンスクリットという二大印欧語を敵に回して(?)一歩も引かず、本来の語、mādayān などを四散させてしまった。その際ペルシャ語は文字までアラビア文字に転換した。もっともそれまで使っていたパフラヴィ―文字はアラム文字系統だったからアラビア文字への転換は別に画期的と言えるほどではなかっただろうが、その侵略された(?)ペルシャ語は外来のアラビア語をさらに増幅して広める助けまでしたのだ。ペルシャ語のこのアンプ作用がなかったら中央アジアにまではアラビア語形は浸透しなかったかもしれない。
 ボスニア、アルバニアはずっと時代が下ってからだったから語が転換せずに済んだのだろう。

 実はなんとベラルーシ語にもこのアラビア語起源の кітаб (kitab)言う語が存在する。「本」一般ではなくイスラム教の宗教書のことだが、これはベラルーシ語がリプカ・タタール人によってアラビア文字で表記されていた時代の名残である。このアラビア語表記は16世紀ごろから20世紀に入るまで使われていた。そのころはトルコ語もアラビア文字表記されていて、現在のラテン語表記になったのはやはり20世紀初頭だ。
 このリプカ・タタール人というのはベラルーシばかりでなく、ポーランドやリトアニアにもいる。私がヨーロッパ系のポーランド人から自国内のリプカ・タタール人(国籍としてはポーランド人)と間違われたことは以前にも書いた通りだ。自慢にもならないが。

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 ロシア文学というと私は6の項で前にも書いたショーロホフの『他人の血』(Чужая кровь)のほかにフセヴォロド・ガルシンの短編も繰り返して読んだ。若くして亡くなった19世紀後半の作家である。
 ガルシンは短編『あかい花』(Красный Цветок)が何といっても有名だが、私は『信号』(Сигнал)も好きだ。そこには足るを知った人間の美しさが描かれていると思う。

 主人公の一人は鉄道の線路番のおじさんだ。この人は人生でさんざん辛酸をなめて来て、世の中に対して愚痴や恨み言のひとつやふたつ出ても全くおかしくない境遇なのだが、そういう言葉が全然出ず、つてで線路番の仕事につけることになり、住む家もできたと大喜びして、一生懸命仕事に励んでいる。法律で決められている(はず)の15ルーブルでなく12ルーブルしか給料を貰わなくても「食うに困る訳じゃなし」と文句も言わない。
 もうひとりの主人公、若い線路番は若くて正義感と社会への恨みに燃えている。彼は給料のピンはねを許さない。お偉いさんがやたらといばっていて貧乏人を搾取するのに反抗し、「世直し」を唱える。
 この若いほうは、訴えても訴えても不正が直らないのに業を煮やし、とうとう鉄道の線路のレールを細工して汽車を脱線させ、世間の奴等に目にもの見せてやろうとする。
 老線路番がそれを目撃してしまう。彼は、何の罪も無い乗客が犠牲になると想像するだに絶えられず、ほとんど自分の命を犠牲にしてまで汽車に合図して止めようとする。
 それを見ていた若い線路番は、血まみれになって倒れた老線路番に代わってとうとう自ら汽車に合図をして脱線を止める。そして汽車から降りて来た人々にむかって「私がレールを細工した。私を逮捕してくれ」と自分から告げる。

 この老線路番を「問題意識が足りない」とか、「そういう卑屈な奴がいるから社会悪がなくならないんだ」と非難できるだろうか?私には、むしろ一見皆のための世直しに燃えているように見える若い線路番のほうが、その実自分の欲望・自分の個人的恨みを「正義」という美しいオブラートで包んでいただけ、つまり憎しみが原動力となっていただけなのではないかとも思えるのだが。
 またこの老線路番は、若いほうがレールを細工しているのを見つけた際も、「何をするんだこの野郎!」などとののしったりはしない。「お願いだからレールを元に戻してくれよう!」と懇願するのだ。どこまでいい人なんだろう。
 その彼が、若いほうにしみじみ言ってきかせた言葉がある。

 От добра добра не ищут.

「善から善を求めるな」、つまり「得た物を大切にしてそれ以上これでもかと欲しがるな」ということわざだが、実はロシア語には他にも似た意味の、

 Без денег сон крепче.

という格言がある。「お金がないほうが眠りは深い」、つまり「下手に財産を持っていると心配事も増える」という意味なのだが、これを聞いたとき驚いた。以前、メソポタミアで紀元前3千年ごろ話されていたシュメール語に同じようなことわざがあると聞いていたからだ。

 銀をたくさん持っている者は幸せだろう。
 麦をたくさん持っている物は嬉しいだろう。
 だが、何も持っていない者は眠れるだろう。

それでこのロシア語の格言が何処から来たのかちょっと調べてみたら、どうもユダヤの聖典タルムードのミシュナーから来ているようだ。ユダヤの精神文化にはメソポタミアから引き継がれている部分が少なからずあるそうだから、バビロニアの昔にシュメール文化の遺産も引き継いでいたのだろうか。ユダヤ人はもともと中東の民、そしてメソポタミア文明も中東が発祥地だから、紀元前3千年の格言をタルムード経由でロシア語が引き継いでいる、というのはありえない話ではない。そうだとすると本当にスケールの大きい格言だ。そこでさらに偶然家に落ちていた本を調べてみたが、まとめるとだいたい以下のようになる。

1.シュメール語は紀元前3700年からメソポタミアで話され、文字で書かれた最初の言語だが、紀元前2800年に当地がアッカド語を話すアッシリアの支配下に入った後でも書き言葉として使われ、アッカド語・シュメール語のダイグロシア状態であった。アッカド語はセム語族、シュメール語の系統は不明である。

2.アッカド語は紀元前1950年に南部のバビロニア語と北部のアッシリア語に分裂。アッシリア語は紀元前600年ごろに消滅したが、バビロニア語は紀元ごろまで保持された。アッカド語は当時アッカド人以外の中東・メソポタミア周辺の民族にも広くリングア・フランカとして使われていた。

3.同じくセム語族のヘブライ語はその存在が紀元前1200年ごろから知られ、紀元前4世紀ごろにはミシュナーが編纂されたが、紀元後2世紀にはもう話し言葉としては使われなくなっていき、書き言葉として継承されるのみとなった。

4.ミシュナーのヘブライ語にはアラム語(セム語族)の影響が顕著である。

5.アラム語は紀元前12世紀ごろにシリア・メソポタミアで話されていた。紀元前8世紀にはアッカド語(バビロニア語とアッシリア語)やカナーン語を駆逐して中東全域に広まっていたが、その後アラビア語に取って代わられた。

つまり時間的にも地理的にもシュメール語→アッカド語→アラム語→ヘブライ語という流れが理論的にはミッシング・リンクなしで可能である。可能なのだが、もっと詳しく資料を調べて証拠を出せといわれると私の言語能力では完全にお手上げだ。語学が出来ないと人生本当に不便でしかたがない。

 語学はできないくせに私はヘソ曲がりなのでそこでこんなことも考えてしまった: いわゆる格言・ことわざというものには純粋に民衆の知恵からきたものばかりでなく、為政者が下々の者からあまり文句が出ないように考案して標語・道徳として押し付けたものも混ざっている。また、民衆の知恵だとしても下々の者自身が「考えるだけ無駄」と、諦めの極意として自らを抑圧するため心に刻んだものだ、との解釈も成り立たないことはない。
 しかし仮にこの格言が「為政者が下々に押し付けたマニュアル」だとしても、シュメールの時代からこれらの言葉を胸に刻んで黙々と自分に与えられた人生を受け入れ、富とか権力などとは全く無縁に営々と歩み続け、存在の痕跡さえ残さずにやがて完全に消えていった人たちのこと、私と全く同じような人たちのこと、こういう人生そのもののの重さ、生きることそのものの重みを思うと襟を正さずにはいられない。

46f22
なんと『あかい花』と『信号』がまとめられている単行本があった。しかもタイトル画には線路番が脱線を阻止しようとして列車に旗で合図している『信号』のラストシーンが使われている。


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 いろいろな言語が、語族が違うにもかかわらず、その地理的な隣接関係によって言語構造、特に統語構造に著しい類似性類似性を示すことがある。これをSprachbund(シュプラッハブント)、日本語で言語連合現象と言うが、この用語は音韻論で有名なニコライ・トゥルベツコイの言葉で、もともとязыковой союз(ヤジコヴォイ・ソユーズ、うるさく言えばイィジカヴォイ・サユース)というロシア語だ。バルカン半島の諸言語が典型的な「言語連合」の例とされる。

 その「バルカン言語連合」の主な特徴には次のようなものがある。
1.冠詞が後置される、つまりthe manと言わずにman-theと言う。
2.動詞に不定形がない、つまりHe wants to go.と言えないのでHe wants that he goes.という風にthat節を使わないといけない。
3.未来形の作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞の活用でもなく、不変化詞を動詞の前に添加して作る。その不変化詞はもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものである。

 このバルカン言語連合の中核をなすのはアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語である。人によっては現代ギリシア語も含めることがある。アルバニア語、ギリシア語は一言語で独自の語派をなしている独立言語(印欧語ではあるが)、ブルガリア語・マケドニア語はセルビア語・クロアチア語やロシア語と同じスラブ語派、ルーマニア語はスペイン語、イタリア語、ラテン語と同様ロマンス語派である。
 セルビア語・クロアチア語は普通ここには含まれない。満たしていない条件が多いからだ。しかしそれはあくまで標準語の話で、セルビア語内を詳細に観察して行くと上の条件を満たす方言が存在する。ブルガリアとの国境沿いとコソボ南部で話されているトルラク方言と呼ばれる方言だ。この方言では冠詞が後置されることがある。つまりセルビア語トルラク方言は、前にも言及した北イタリアの方言などと同じく、重要な等語線が一言語の内部を走るいい例なのだ。

 旧ユーゴスラビアであのような悲惨な紛争が起こって、多くの住民が殺されたり避難や移住を余儀なくされた。言語地図もまったく塗り替えられてしまったに違いない、あのトルラク方言はどうなっているのだろうと気にしていたのだが、先日見てみたらしっかりUNESCOの「危機に瀕した言語リスト」に載っていた。

セルビア語トルラク方言の話されている地域。ウィキペディアから。
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1061354
565px-Torlak

 さらに調べていたら、上述の1の現象に関連して面白い話を見つけたのでまずご報告。地理的に隣接する言語の構造がいかに段階的に変化していくかといういい例だ。

1.バルカン言語連合の「中核」ブルガリア語は上で述べたようにこの定冠詞theを後置する。ъという文字はロシア語の硬音記号と違ってここではいわゆるあいまい母音である。
Tabelle1N-18
2.バルカン言語連合に属さないセルビア語標準語には、定冠詞と呼べるものはなく、指示代名詞だけだ。日本語のように「これ」「それ」「あれ」の3分割体系の指示代名詞。標準セルビア語だからこれらの指示代名詞は前置である。
Tabelle2N-18

3.西ブルガリア語方言とマケドニア語、つまりセルビア語と境を接するスラブ語はこの3分割を保ったまま、その指示代名詞が後置される。つまり、「冠詞」というカテゴリー自体は未発達のまま後置現象だけ現われるわけだ。
Tabelle3N-18
3のマケドニア語と2の標準セルビア語を比べてみると前者では3種の指示代名詞が名詞の後ろにくっついていることがよくわかる。形態素の形そのものの類似性には驚くばかりだ。
 Andrej N. Sobolevという学者が1998年に発表した報告によれば、セルビア語トルラク方言でもこの手の後置指示代名詞が確認されている。例えば、
Tabelle4N-18
ə というのは上のブルガリア語の ъ と同じくあいまい母音。godine-ve 以下の3例は複数形だ。全体として西ブルガリア語方言とそっくりではないか。

 おまけとして、「バルカン言語連合中核」アルバニア語及びルーマニア語の定冠詞後置の模様を調べてみた。一見して、1.アルバニア語はルーマニア語に比べて名詞の格変化をよく保持している(ブルガリア語はスラブ語のくせに英語同様格変化形をほとんど失っている)、2.さすがルーマニア語は標準イタリア語といっしょに東ロマンス語に属するだけあって、複数形は-iで作ることがわかる。3.ルーマニア語はさらにスラブ語から影響を受けたことも明白。prieten「友人」は明らかに現在のセルビア語・クロアチア語のprijatelj「友人」と同源、つまりスラブ語、たぶん教会スラブ語からの借用だろう。ついでにクロアチア語で「敵」はneprijatelj、「非友人」という。

アルバニア語:
Tabelle-Alb1N-18
Tabelle-Alb2-18
ルーマニア語:
Tabelle-Rum1-18
Tabelle-Rum2-18
 私はある特定の言語のみをやるという姿勢そのものには反対しない。一言語を深くやれば言語一般に内在する共通の現象に行きつけるはずだとは思うし、ちょっと挨拶ができて人と擬似会話を交わせる程度で「何ヶ国語もできます」とか言い出す人は苦手だ。でも反面、ある特定の一言語、特にいわゆる標準語だけ見ていると多くの面白い現象を見落としてしまうこともあるのではないだろうか。言語、特に地理的に近接する言語はからみあっている。そして「標準語」などというのはある意味では幻想に過ぎない。


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 一度バルカン言語連合という言語現象について書いたが(『18.バルカン言語連合』)、補足しておきたい続きがあるのでもう一度この話をしたい。
 バルカン半島の諸言語、特にアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア・マケドニア語、現代ギリシア語は語族が違うのに地理的に隣接しているため互いに影響しあって言語構造が非常に似通っている、これをバルカン言語連合現象と呼ぶ、と以前述べた。そこで定冠詞が後置される現象の例をあげたが、いわゆる「バルカン言語」には他にも重大な特徴があるので、ここでちょっとを見てみたい。未来形の作り方である。

 上述の4言語は未来形作り方が特殊で、補助動詞でもなく動詞自身の活用でもなく、不変化詞を定型動詞の前に添加して作る。そしてその不変化詞というのがもともと「欲しい」という意味の動詞が退化してできたものなのだ。「私は書くでしょう」を順に見ていくと:
Tabelle1-40
「私」という代名詞は必ずしも必要でなく、shkruaj、 scriu、 piša、 γράψωがそれぞれ「書く」という動詞の一人称単数形。アルバニア語、ルーマニア語、現代ギリシャ語は接続法、ブルガリア語の動詞は直接法である。アルバニア語のtë、ルーマニア語の săが接続法をつくる不変化詞、ギリシャ語ももともとはここにναという接続法形成の不変化詞がついていたのが、後に消失したそうだ(下記参照)。まあどれも動詞定型であることに変わりはないからここではあまり突っ込まないことにして、ここでの問題は不変化詞は不変化詞でも、do、 o、 šte、 θαのほう。変わり果てた哀れな姿になってはいるが、これらはもともと「欲しい」という動詞が発達(というか退化)してきた語で、昔は助動詞で立派に人称によって活用していたのである。その活用形のうち三人称単数形がやがて代表として総ての人称に持ちいられるようになり、それがさらに形を退化させてとうとう不変化詞にまで没落してしまったのだ。

 アルバニア語のdoはもともとdua、ルーマニア語のoはoa(これだってすでに相当短いが)で、さらに遡るとラテン語のvoletに行き着く。ブルガリア語のšteはもと古教会スラブ語のxotĕti(ホチェーティ、「欲する」)の3人称単数形で、ロシア語の不定形хотеть(ホチェーチ)→三人称単数хочет(ホーチェット)、クロアチア語不定形htjeti(フティエティ)→三人称単数hoće(ホチェ)と同じ語源だ。現代ギリシア語のθαはθα <  θαν <  θα να < θε να < θέλω/θέλει ναという長い零落の過程を通ってここまで縮んだそうだ。これらの言語は語族が違うから語の形そのものは互いに全く違っているが、不変化詞の形成過程や機能はまったく並行しているのがわかるだろう。
 またこれらの未来形は動詞が定型をとっているわけだから、構造的に言うとI will that I writeに対応する。上で述べた接続法形成の不変化詞të、 să、 ναも機能としてはthatのようなものだ。またこれらの言語には動詞に不定形というものがないのだが、これも「バルカン言語現象」の重要な特徴だ。英語ならここでI will write あるいはI want to writeと言って、that節など使わないだろう。ブルガリア語でもthatにあたるdaを入れて「私は書くだろう」をšta da piša、つまりI will that I writeという方言がある。書き言葉でも時々使われるそうだが、これは「古びた言い方」ということだ。この場合、未来形形成の不変化詞がまだ助動詞段階にとどまり、完全には不変化詞にまで落ちぶれていないから全部一律でšteになっておらず、štaという一人称単数形を示している。「君は書くだろう」だとšteš da pišešだ。問題の語が語形変化しているのがわかるだろう。

 面白いのはここからなのである。

 前にも言ったように、普通「バルカン言語連合」には含まれないセルビア語・クロアチア語が、ここでも微妙に言語連合中核のブルガリア語とつながっているのだ。
 まずセルビア語・クロアチア語は動詞の不定形をもっているので、未来形の一つは「欲しい」から機能分化した助動詞と動詞不定形でつくる。言い換えるとここではまだ「欲しい」が不変化詞にまで退化しておらず助動詞どまりで済んでいるのだ。
Tabelle2-40
ブルガリア語のštはクロアチア語・セルビア語のćと音韻対応するから、上のほう述べたブルガリア語の助動詞3人称単数形šte、その2人称形štešはセルビア語・クロアチア語では計算上それぞれće 、ćešとなるが、本当に実際そういう形をしている。一人称単数はブルガリア語でšta、セルビア語・クロアチア語でćuだからちょっと母音がズレているが、そのくらいは勘弁してやりたくなるほどきれいに一致している。セルビア語・クロアチア語では「書く」がpisatiと全部同じ形をしているが、これが動詞不定形だ。

 セルビア語・クロアチア語では上のような助動詞あるいは動詞+動詞不定形という構造と平行してthatを使った形も使う。おもしろいことに西へ行くほど頻繁に動詞不定形が使われる。なのでクロアチア語では「私はテレビを見に家に帰ります」は動詞の不定形を使って

Idem kući gledati televiziju
go (一人称単数) + home + watch(不定形)+ TV(単数対格)
→ (I) go home to watch television


というのが普通だが、東のセルビア語ではここでthatにあたるdaを使って

Idem kući da gledam televiziju
go (一人称単数) + home + that + watch(一人称単数)+ TV(単数対格)
→ (I) go home that I watch television

という言い方をするようになる。だから未来形もその調子で動詞定型を使って次のようにいえる方言がある、というよりこれが普通だそうだ。
Tabelle3-40
上で述べたブルガリア語の方言あるいは「古風な言い方」とまったく構造が一致している。ところがセルビア語の方言にはさらに助動詞のću /ćeš/ će/ ćemo/ ćete/ ćeという活用が退化してću /će/ će/ će/ će/ ćuとなり、かつdaが落ちるものがあるとのことだ。(私の見た本には三人称複数形の助動詞をćuとしてあったが、これはćeの間違いなのではないかなと思った。)
Tabelle4-40
 ここまできたらću /će/ će/ će/ će/ ću(će?)が全部一律でćeになるまでたった一歩。あくまで仮にだが、未来形が次のようになるセルビア語の方言がありますとか言われてももう全然驚かない。
Tabelle5-40
この仮想方言(?)を下に示すブルガリア語と比べてみてほしい。ブルガリア語は本来キリル文だが、比べやすいようにローマ字にした。
Tabelle6-40
šteがćeになっただけであとはブルガリア語標準語とほとんど同じ構造ではないか。前に述べた後置定冠詞もそうだったが、セルビア語はいわゆるバルカン言語の中核ブルガリア語と言語連合の外に位置するクロアチア語を橋渡ししているような感じである。

 バルカンの言語は結構昔から大物言語学者が魅せられて研究しているが、こういうのを見せられると彼らの気持ちがわかるような気がする。もっとも「気持ちがわかる」だけで、では私も家に坐ってこんなブログなど書いていないで自分で実際に現地に行ってフィールドワークしてこよう、とまでは気分が高揚しないところが我ながら情けない。カウチポテトは言語学には向かない、ということか。


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 2013年にボストンマラソンに爆弾が仕掛けられたことがあった。犯人はツァルナエフという兄弟だったが、兄は射殺され弟は捕まった。
 この事件で真っ先に気になったのが「ジョハル」という弟の名前の出所だ。当時の新聞を見ると犯人はチェチェン人、とあり、キルギスタンやカザフスタン、ロシアなどを転々とした後、現在両親はダゲスタンにいる、ということだった。するとこの名前はチェチェン語なのか。チェチェン語はいわゆるコーカサス言語で『51.無視された大発見』で述べたような能格構造を持っている。私の見た新聞ではこの名前がローマ字でしか発表されていなかったので、こちらで勝手にロシア語綴りを想定してджохарとして検索したところ本当に説明が見つかった。

Джохар (араб. جوهر‎ чеч. ДжовхIар):мужское имя персидско-арабского происхождения, часто встречаемое в Чечне, изредка в Дагестане, Азербайджане и Иране.

「「ジョハル」(アラビア語جوهر、チェチェン語でДжовхIар「ジョフヒアル」):ペルシア語・アラビア語起源の男性の名前で、チェチェンに多く見られるが、ダゲスタン、アゼルバイジャン、イランにも時々ある。」
 
 さらにТ. А. Шумовский (T.A.シュモフスキー)という学者が次のように書いているそうだ。

«На бытовом уровне обращает на себя внимание персидское гавхар — „драгоценный камень“, которое, перейдя в арабское джавхар с тем же значением, создало помимо нарицательных на русской и английской почве собственные имена: индийское Джавахарлал, чеченское Джохар, армянское Гоар»

「ペルシャ語の単語гавхар「ガヴハル」がよく使われているのが注目される。これは「宝石」という意味で、アラビア語にも「ジャヴハル」として借用され同義に使われているが、普通名詞以外でもロシア語や英語圏で固有名詞のもとになった:ヒンディー語の名前「ジャヴァハルラル」、チェチェン語「ジョハル」、アルメニア語「ゴアル」など。」

この「英語圏」английской почвеというのは「印欧語圏」の間違いではないのか?また文脈から判断すると「ロシア」にはチェチェン語やダゲスタン語域などロシア語をリングア・フランカとして話す地域も勘定されているようだ。
 
 しかしそれより気になったのはその上の説明で「ペルシア語・アラビア語起源」とあって、ペルシャ語とアラビア語がハイフンでつながっていることだ。これらの言語は全然語族が違うからこの二つをくっつけるのは無理があるのではないか。この語はペルシャ語かアラビア語のどちらかが他方から借用したはずだ。シュモフスキーはペルシャ語が元、と言っているがそれはどうやってわかるのか?アラビア語と似た形の語形ならそこここの言語に見られる:

1.ルーマニア語の「宝石」giuvaierはオスマン時代のトルコ語cevher(「宝石・本質」)から借用されたもの。トルコ人のCevahirという名前(男女共)もこれと同源だそうだ(対応するアラビア語のJawahirとは女性の名前)。「宝石」はアラビア語でجَوْهَر ‎(jawhar)である。
 さらにトルコ語には「宝石・鉱石」という意味のmücevherという言葉がある。ここで接頭辞がmü とウムラウト化しているのは母音調和のためだろう。トルコ語mücevherの元のアラビア語の言葉مُجَوهَر (mujawhar) は本来「宝石で飾られた(もの)」という意味だそうだ。
 私が馬鹿の一つ覚えで聞いているアラビア語(『7.「本」はどこから来たか』の項参照)K-T-Bにも次のようなmuのついている例があった:

kitāb(書物);kātib(著者); maktūb (手紙);mukātaba(文書)

これで一つ覚えが一気に「馬鹿の四つ覚え」になった。すごい進歩である。

2.インドネシア語jauharもアラビア語からの借用。
3.スワヒリ語johariも見ての通りアラビア語から。
4.ヨーロッパのイスラム教国の言語、アルバニア語では「宝もの」をxhevahirと言うが、xh は dž と発音するから、これも露骨にアラビア語からの借用である。
5.スペイン語にも一目でアラビア語起源とわかるalhaja(「宝石」)という単語があった。インドネシア語のAlkitab(「聖書」「コーラン」)と同じく定冠詞つきの借用だ。ただしこれは「ジャヴハル」および「ジョハル」とは別の حاجه (ḥāǧah) という語からきていて、本来「必要な物」とか「欲望」とかいう意味だとのことだ。

 このようにあまりにもあちこちの言語でアラビア語の「宝石」が借用されているのを見て(スペイン語は別単語ではあるが)こりゃペルシャ語の方がイスラム教といっしょにアラビア語から取り入れたのではないか、という疑いがわいてきた。アルメニア語はそのペルシャ語を通したのではないだろうか。
 で、手始めに両言語の音韻組織を調べて見た。

(1)ペルシャ語
persisch

(2)アラビア語 I
Arabisch-Deutsch

(3)アラビア語 II
Arabisch_Englisch


すると「手始め」のつもりがこれで結論が出てしまった。疑いはほぼ解消。こりゃペルシャ語→アラビア語という方向しかありえない。
 まずここでの注目点は g と dž との対応だ。ペルシャ語がアラビア語から取り入れた、と仮定するとどうしてdžの音(国際音声字母だと [ʤ] )がペルシャ語で g ([g])になるのか説明がつかない。反対にペルシャ語からアラビア語に流れた、と仮定すると簡単に説明できてしまうのだ。

 アラビア語は [g] と [ʤ] を音韻的に区別しない。どちらの音も /dž/(英語の j にあたる)という音素なのである。つまりこれらはアロフォン(異音、絶対「異音素」と混同しないように)である。上の(2)を見て欲しい。 /g/ という独立した音素がない。アラビア語の ج という字は標準アラビア語では[ʤ] と発音するが、地域によってはこれを [g] と発音するところもあるし、そもそも日本語での l と r と同じく、どっちで発音しても構わないのだ。(3)のʒ~d͡ʒ~ɟ~ɡj~ɡ という部分を見るとわかるように [g] から [ʤ] まで様々な音が同じ音素の異音となっている。アラビア語では無声子音の [k] は独立音素だが、有声の [g] は音素ではないのである。
 例を挙げる。下のج という形はこの字を単独で書いた場合の形で語頭での字形は下の一番右にあるように >の下に点がついているような字だが、同じ字をエジプト方言ではg、標準アラビア語では j、つまり dž と発音することがわかるだろう。

「宝石・宝物」
標準アラビア語: جوهرة (jáwhara)
エジプト方言: جوهرة (gawhara)

「キャメル」(جمل、「駱駝」)という英語の元になったアラビア語の「駱駝」の最初の文字(右端)もこれだが、標準アラビア語というか中近東では「ジャメル」である。「カメル」あるいは「ガメル」というのはエジプト方言の発音で、イギリス人はここからとりいれたのだろう。
 
 なので、ペルシア語の g をアラビア語では جで写し取り、その字の標準アラビア語発音で dž と読んだ、そのアラビア語発音がさらに他の言語、特にイスラム教の民族の言語に伝わった、と考えると非常にすっきり説明ができる。アルメニア語はアラビア語を通さず直接ペルシャ語から取り入れたか、そもそもペルシャ語もアルメニア語も印欧語だから元の古い形がどっちにも残っていた、つまり同源だったためか、g の音が残ったのだろう。
 ルーマニア語もこれをdž で取り入れているが(上記参照)、これはアラビア語からの直接借用でなく、アラビア語からこの語を借用したトルコ語をさらに仲介している。ペルシア語→アラビア語→トルコ語→ルーマニア語という経路だ。ひょっとしたらトルコ語との間にさらにブルガリア語が介入しているのではないかとも思うが、とにかく長旅お疲れ様でした。バルカン半島は長い間トルコに支配されていたからこれはわかる。

 さてアラビア語に対してペルシャ語では g と dž はアロフォンでなく異音素である。上の(1)を参照してほしい。/g/ と /dž/ は両方独立した音素として表にのっているだろう。なので、もし「ジョハル」が原型であればそれを「ゴハル」なんかにしないでそのまま「ジョハル」という形で借用できたはずなのだ。だからこの「ゴハル」⇔「ジョハル」は、ペルシア語→アラビア語という借用方向しかありえない。

 ここまで一生懸命調べてからちょっと他の資料を覗いてみたら、「この語は現代ペルシャ語でgohar、中世ペルシャ語ではgwhl またはgōhr(「本質・宝石」、アラビア語はこの中世ペルシャ語からの借用)、そして古期ペルシャ語では*gauθraまたは*gavaθraだった」、とあっさり説明してあるではないか。文献学上ではとっくに証明済みだったわけだ。この古代ペルシャ語はgav- という語幹から派生したもので、もともと「育つ」とか「増える」という意味だそうだ。
 それにしてもせっかく自分で一生懸命検索したり考察したりした私の今までの苦労は完全に無駄な努力・余計なお世話だったのである。ちぇっ。
 
 気を取り直してさらにみてみると、ルーマニア語以外のバルカン諸言語にも「アラビア語の宝石」は広がっているらしい。次のような例が挙げてあった。

ギリシア語: τζοβαΐρι ‎(tzovaḯri、「宝石・宝物」)
セルボ・クロアチア語: džèvēr/џѐве̄р, dževáhir/џева́хир (「高価な宝石」)

「セルボ・クロアチア語」などという古い名称が使われているが、ここに挙がっているdžèvēr(ジェヴェール)、dževáhir (ジェヴァーヒル」)というのは今で言うボスニア語ではないだろうか。私の持っている相当詳しいクロアチア語・ドイツ語辞典にはこの語が出ていなかったし、ここの資料にも「regional な語」とあった。ギリシア語も「セルボ・クロアチア語」もトルコ語のcevahir を借用したらしい。
 さらに面白いことに、現代ペルシャ語は、もともと自分たちのほう、つまり中世ペルシャ語からアラビア語に輸出した語を後になってアラビア語からjauhar (または jawhar)として逆輸入している。ここではアラビア語→ペルシャ語の方向だから当然頭音が j になっていて、まさに上で音韻考察した通りの図式である。なお、そうやって里帰りした際意味の場も変化してしまい、現代ペルシャ語のjauhar が本来の「宝石」の意味で使われるのは「まれ」あるいは「古語的用法」だそうだ。jauharは普通は「本質」「インク」「酸」という意味に使われるとのこと。この3つの意味が同じ単語でいっしょになっているのが不思議だが、これじゃあまり「故郷に錦を飾った」という感じがしない。

追記:ひょっとして英語のjewel やjewelry もコレかとカン違いする人が出てきそうなので念のために書くと、これらはそれぞれ古フランス語のjouel とjueleryeが起源で、さらに遡ると俗ラテン語の*jocale ‎(「品のあるもの」)。しかしもっと遡ると最終的にはラテン語のiocusまたはjocusに行き着くそうだ。なんとこれは見ての通り「ジョーク」とか「娯楽」という意味。ウッソー!


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 何年か前、オーストラリアのラジオ局の軽はずみな冗談が人を一人死なせたことがあった。

 当時第一子出産のためにケート妃が入院していた病院にDJが二人して英王室の者を装ってイタズラ電話をかけ、中の様子を聞きだそうとした。電話対応に慣れているいつもの職員がその時たまたま電話を取らず、看護婦さんの一人が電話をとったが、有名人に対してマスコミがよくやる低俗な突撃レポート的な攻勢に慣れておらず、電話をを真に受け、「わかりました、ちょっとお待ちください」と丁寧にとりついで内部の者につないだ。つながれた人は別の職員だったが、王室の者だと最初の看護婦さんがつげたため、内部の様子をいろいろ話してしまった。そのやり取りをオーストラリアのDJたちはラジオで曝し、DJは自分のツイートで「あそこまで簡単に引っかかる人も珍しい」とか何とか騙された看護婦さんを嘲笑った。ところがその看護婦さんは恥ずかしさと責任感から自殺してしまったのである。あとには夫と子供たちが残された。
 その直後はさすがにDJ二人もラジオ局も一応の誠意は見せて神妙に謝罪したが、さらにその後DJの一人がオーストラリアで何かの賞をとったと記憶している。視聴率、というか視なしの聴率を稼いだからだ。本当に後味の悪い事件だったが、これはこういうことを企画したラジオ局やそれをやったDJだけを責めてすむ問題ではないと思う。人が引っ掛けられたりかつがれたりするの見るのが面白いと感じる人が世の中にいる限りこの手の番組は製作され続けるだろう。ある意味では私たち視聴者がこの真面目な看護婦さんを死に追いやったのである。

 さて、そうやって亡くなられた看護婦さんはJacintha Saldanhaという名前のインド人だった。この苗字だが、-nh-という綴りが入っていて明らかにポルトガル語ではないか。hをnの後ろにつけると口蓋化のn、つまりニャ・ニュ・ニョとなるはずだ。名前のJacinthaのほうも見るからにヨーロッパ系で、調べてみたらギリシャ語の「ヒヤシンス」と同源だそうだ。この名前の別バージョンとしてcinthaという形もある。英語のCinthiaあるいはCynthiaと似ているがこちらのほうは全く別語源である。
 どうしてインド人がこういう名前なのか気になってさらに調べてみたら、ヴァスコ・ダ・ガマの時代からインド(の一部)では途切れることなくポルトガル語が母語として話されているらしい。ゴアは1947年にインドがイギリスから独立した時も、香港やマカオと同じく本国のインドには属さず、当時のサラザール政権はインドの度重なる返還要求にも首を縦に振らなかった。シビレを切らしたインド政府が強硬手段に出てゴアを占領し、ここを事実上インド領にしたのはやっとつい最近(でもないが)の1961年のことだ。さらにそれをポルトガル政府が承認したのはサラザールの死後、1974年のことである。故人はMangaloreというゴアの近くの町の出身だったが、ゴア周りばかりでなくインド南東部にもポルトガル語地域がある。そういえば「カースト」という言葉はもともとポルトガル語だったはずだ。
 確かに現在では英語やヒンディー語に押されていってはいるが、年配の人にはポルトガル語を母語とする人がまだいるそうだ。

Map_of_Portuguese_India
インドのポルトガル語地域。Mangaloreという地名ににしっかりマルがついている。(ウィキペディアから)

 知っている人にたまたまタミール・ナドゥから来ている人がいたのでちょっと聞いてみたことがあるが、「はい、ポルトガル人の子孫はタミール・ナドゥに結構います。私の知り合いにもポルトガルが母語の人がいます。全員タミル語とのバイリンガルですが。ポルトガル語話者は北インドにもいます。あと、フランス人話者もいて、彼らには出生と同時に自動的にフランス国籍が与えられるので、成長するとフランスに「帰る」ことが多いです。」とのことだった。上の図を見ると確かにインドの北西部には小さなポルトガル語地域が見えるし、さらに調べてみるとタミール・ナドゥには本当にフランス語地域がある。

French_India_1815
これはちょっと古い時代のフランス語地域だが、なるほどこれなら今でもフランス語話者がいるだろう。(これもウィキペディア)

 ポルトガル語といえば自動的にブラジルが思い浮かぶが、実はアフリカにもポルトガル地域が結構ある。アフリカ西岸の島国、カーボヴェルデやギニアビサウ、果ては南アフリカでもちゃっかりポルトガル語が使われているが、アフリカで最も重要なポルトガル語国はなんと言ってもアンゴラとモザンビークだろう。ここでは西岸の島国と違ってポルトガル語ベースのクレオールではなく、狭い意味での「ポルトガル語」が話され、公用語にもなっている。住民の大多数がポルトガル語を話せるし、2013年現在でこの両国で合わせて4500万人ほどのポルトガル語話者がいるそうだ。2億人のブラジルほどではないが本国の人口は1000万人くらいだからその4倍だ。その他のアフリカの国々のポルトガル語人口も全部合わせると8000万人から一億人にもなるという。そういえばサッカーのポルトガルチームに時々黒人選手が混じっているのを見かけるが、アンゴラかモザンビークの出身なのかもしれない。だとすると言葉には全く困らないはずだ。前にTVでアフリカのこのあたりの地域のドキュメンタリーをやっていたが、現地の人、つまり黒人がポルトガル語の名前だったし、ポルトガル語をしゃべっていた。

 アジアではインドのほかにマカオと東チモールが旧ポルトガル領として有名だが、マカオでは最後までポルトガル語があまり浸透せずに終わった。東チモールでは1975年にここを軍事併合したインドネシアが1981年以来ポルトガル語を一切公式の場から追放したため、今では住民の1割くらいしかポルトガル語ができないそうだ。2002年インドネシアが撤退して東チモールが独立した時、再びポルトガル語に公用語の地位が与えられた。
 以前さる日本の方から聞いた話だが、その人の母方に東ティモール出身のインドネシア人の友人がいたそうで、祖母の代までポルトガル語を話していたといっていたそうだ。それにしてもインドのゴアにしろ、東チモールにしろポルトガル話者は年配の人ばかりのようで気になる。アフリカや南アメリカと違ってアジアでは周辺にヒンディー語、中国語、インドネシア語などの強力な現地語があったから、ポルトガル語は容易には浸透しなかったらしい。亡くなられた看護婦さんも名前は確かにポルトガル語だが、もしかすると言葉自体は話せなかったのかもしれない。現在アジアでのポルトガル人口は広い地域に散らばっているにも関わらず総計でも1万人に遥かに満たないという。アジアのポルトガル語は消滅していくかもしれない。今後が気になるところだ。


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