アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:語学 > ロマニ語

 何年か前にこちらで結構大騒ぎになったニュースがある。ギリシアのロマ居住区で両親とは全く似ていない金髪の少女がみつかったため、親だと自称するロマ夫婦にほとんど自動的に「誘拐・人身売買の手先」の疑いがかかり、少女は保護された、という事件である。
 そのロマ夫婦は最初から、知り合いのブルガリアのロマが、産んだはいいが経済的に自分達では育てられないからと言ってこちらに預けてきたのだ、と主張し続けていたが、当局はそれを信用せず、行方不明となっている子供のリストなどを大掛かりに検索して徹底的に調査した。しかしそのロマの夫婦があっさりと「そんなに疑うのだったらその預け元のブルガリアの知り合いの携帯番号があるからそっちにあたってくれ」と主張するので、調べたらそのロマは始めから本当のことを言っていたのである。
 この事件で心ある人の議論になっていたのは、ロマとみると誘拐の犯罪のとすぐ連想するヨーロッパ社会の暗部であった。ギリシアにもロマ出身の政治家がいて(私の知る限りでは1990年代にスペイン国籍のロマのEU議員がいたし、現在でもハンガリー国籍のEU議員がいる)、真っ先にそのことを問題にしていた。
 期を同じくしてアイルランドでもロマの家庭に金髪の少女がいるのが見つかり、当局はその少女を保護したが、DNA鑑定をしてみたら本当にそのロマの子供だったのだ。そのロマはきちんと社会に溶け込んで仕事もしている普通の市民だった。

ヨーロッパ社会もまだまだだ。

 ロマの言語を「ロマニ語」というが、この「ロマニ」(romani)というのは「ロマの」という形容詞の単数女性主格である。なぜかというとこれはもともと romani čhib(「ロマの言語」)という言葉からとったもので、čhib というのが「言語」という意味の女性名詞なので、それに呼応して形容詞のほうも女性単数になっているからである。この形容詞の男性形は romano で、男性名詞 kher(「家」)にかかると romano kher(「ロマの家」)。私の家の近くに州のロマの本部、というか文化・情報センターがあるが、ここの名称が romano kher となっている。
 そのロマニ語の話者はヨーロッパ全体で推定1000万人という。リトアニア語・スウェーデン語など下手な国家言語より規模の大きい大言語である。もっともこの1000万というのがあまり正確な数字ではない。ロマニ語がもう話せなくなっているロマがいる一方でロマ出身ということを隠しておきたいがために実はロマニ語を話せるのに話せないことにしている人などもいて正確な統計が出せないからだ。しかしこの1000万と言う数字が本当ならばロマニ語はカタロニア語を抜いてヨーロッパ最大の少数言語ということになる。以前は最大の少数言語はカタロニア語だったが、ルーマニア・ブルガリア始めバルカン諸国がEUに加わったためロマニ語話者の人口が一気に増大し、カタロニア語はその地位を奪われたわけだ。

 本などにはいたるところに「ロマは北インド起源」と書いてある。でもそれを証明する歴史的文献などは存在しない。彼らがインド起源であるというのは純粋に比較言語学上で証明されたものだ。19世紀にヨーロッパで比較言語学が発展してすぐに関心をロマニ語に向けた学者もいた。バルカン言語学で有名なミクロシッチもその一人であるが、この人の名前は教科書などには普通フランツ・ミクロシッチと書いてある。が、彼はスロベニア人であって、当時そこがオーストリア領であったため本来「フラーニョ」という名前をドイツ語風にして名乗っていたのだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』の項参照)。ついでに言うと例のイヴ・モンタンもトリエステ生まれで、スラブ系の「イヴォ」が本名である。
 話が逸れたが、そのミクロシッチ、サンドフェルド(本国デンマーク語ではサンフェルというのだろうか)などの当時の大言語学者達が印欧諸語に対する膨大な知識を駆使して来る日も来る日も詳細に比較していった結果ロマニ語の起源がわかったのだ。
 ロマは元の元の大元は中部インドにいたものが、一旦北インドに移住してそこにしばらく住み、9世紀ごろにアルメニアとかあそこら辺のルートを通って、遅くとも11世紀にはビザンチンに入り、そこでタップリギリシャ語の影響を受けた後、14世紀ごろにヨーロッパ各地に散り始めたというが、本にはしごくあっさり書いてあるそういうことも歴史文献などに出ていたのではなく、すべて比較言語学で理論上出された結果である。例えばロマニ語にはアラビア語起源の借用語が非常に少ない、ということから民族移動のルートがアラビア語の話されている地域とあまり接触しない北の方を通った、と推定されるのだ。
 ドイツには15世紀からロマが住んでいたらしい。ドイツにロマが住んでいたことを述べている最初の文献は1408年にヒルデスハイムという町で書かれた文書だそうだ。

 以下にインド・イラニアン語派の言語とロマニ語で1から10までと100をなんというか挙げてみたが、互いによく似ている。「ドマリ語」というのは中近東に住んでいる同民族の言語である。
Tabelle1-50
(ここでxというのはあくまで [x]、つまり軟口蓋で出す摩擦音のことで「クス」とか「エックス」ではない)

 しかし実は別にミクロシッチほどの専門家でない、私のような素人目にもロマニ語はインドあたりの起源なのではないかと薄々感じることができる。この言語は音韻上、無気音と帯気音を弁別するからだ。これらは今のヨーロッパ内の印欧語ではアロフォンだ。帯気音は子音の後ろに h をつけて表すが例えばロマニ語には次のようなミニマル・ペアがある。
Tabelle2-50
また日本の印欧語学者泉井久之助氏は

Dadeske hi newi gili

というロマニ語の例を挙げているが、dadeske は「父」の与格、hi が英語の is、newi が「新しい」、gili が「歌」で、「父には新しい歌がある」。だからロマニ語は『42.「いる」か「持つ」か』の項で述べたようないわゆるbe言語なのである。

 さらに、件のギリシャのロマ夫婦の知り合いがブルガリアのロマだった、ということも考えてみると含蓄がある。ギリシアとブルガリアのロマはいわゆる「バルカングループ」という方言グループを形成しているから、ギリシャとブルガリアのロマは話が通じたのだろう。ルーマニア、セルビアのロマとなると「ヴラフ・ロマ」という別の方言グループに属しているから、相互理解はそれほどすんなり行かなかったのではないだろうか。ハンガリーと一部のオーストリアのロマは「中央グループ」という方言、ドイツのシンティ、フランスのマヌシュは「北方言群」に属すそうだ。

 ことほど左様な大言語なのに、その割にはロマニ語学習者が少ない、というか「ほとんどいない」のには原因がある。一つは上でも述べたように「方言差が大きく、中心となる言語ヴァリアントがない」ことがロマニ語の保護、特に文書化を妨げているからだ。特に強力な中央方言がないためにラテン文字で書くにしてもドイツ語風にするのかフランス語読みにするのか、クロアチア語表記で書くのか統一することができない。語彙や文法でも差が激しいので「ロマニ語文法」として一つにまとめるのが非常に難しい。さらにドイツのシンティなどは文書化・文法書の発刊そのものに反対している(下記参照)。
 理由の二つ目はロマニ語を話す人々に対する偏見。事実ナチの時代にはロマは「劣等民族」として虐殺された。
 三つ目の理由は、ロマ自身がその言語を外部のものに教えたがらないからだ。当然だ。何世紀もの間、周り中から敵意ある目で見られ(その被抑圧ぶりはユダヤ人の比ではない)、あろうことか組織的に虐殺されたりしたら、絶対に周りに対してオープンになどなれない。ナチスの時代には「言語調査」と称してロマのところへやってきて、収容所送りにする下準備したりした御用学者もいたそうだから。
 私自身一度どこかのネットサイトでシンティ、つまりドイツのロマが「ロマニ語を教わりたい」というドイツ人の書き込みに対して「やめてくれよ。ロマはよそ者に言語を漏らしたりしないよ。言語は私たちが誰からも奪われることがなかった唯一のものなんだ。」とレスしているのを目撃したことがある。もっともそれに対して別のロマが「そういう心の狭いことを言うからいつまでも差別されるんだ」と反論していたが。

 そういった事情にもかかわらず、ロマニ語の文法書なども細々と出てはいる。多くはドイツのロマニ語ではなく、抑圧経験がそれほど強烈ではなかったため、比較的オープンなカルデラシュというセルビアのロマグループの言語を基礎にしたものだそうだ。
 その文法書などにも、そして他の研究書などにも「ロマは『あまりにも理解できる理由によって』自分達の言語が記述されることには否定的である」と書かれている。この『あまりにも理解できる理由によって』という言い方に、こんなに魅力的な研究対象に対して手を出すことが許されない、しかもそれは自分達のせいなのだ、というヨーロッパの言語学者の自責の念をヒシヒシと感じるのだが。うめき声が聞こえてくるようだ。

 私は「語学をやる」というのは基本的にこういうこと、相手の最も繊細な部分に土足で突っ込んでいくことだと思っている。だから手軽な学習書を買い集め、「こんにちは」とか「さようなら」とかしゃべって見せて外国人に通じたと言って悦に入る、すぐに「○○語が出来ます」とかエラそうに言い出す、こういうチャライ態度にはちょっと抵抗を感じる。


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注意:この記事はGoogle Chromeで見るとレイアウトが崩れてしまいます。私は回し者ではありませんが、できればMozilla Firefoxをお使いください

 ドイツ語の映画のタイトルに最も頻繁に登場する名前といえばダントツに「ジャンゴ」(Django)だろう。そう、言わずと知れた『続・荒野の用心棒』(原題はズバリ『ジャンゴ』)の主人公の名前だが、この映画が当時ヨーロッパ中でクソ当たりしたために、後続のマカロニウエスタンの相当数が露骨に柳の下のドジョウを狙って主人公の名前をジャンゴとしているのだ。
 最近は「ジャンゴ」というとタランティーノの方をコルブッチの原作より先に思い浮かべる、どころかそれしか思い浮かばない若造(おっと失礼)が多いようだが、そういう人は、黒澤明の『用心棒』を見て、「これ、レオーネの『荒野の用心棒』とストーリーそっくりじゃないかよ」と黒澤監督をパクリ扱いしたさるドイツ人を笑えまい。

 さて、そのジャンゴ映画量産のことだが、ドイツ人はやることが徹底しているので、もとの映画では主人公が全く別の名前だった作品にまで「○○のジャンゴ」というドイツ語タイトルをつけ、吹き替えで名前を勝手にジャンゴにしてしまっている。フランコ・ネロが主役であればほぼ自動的に主人公は「ジャンゴ」。で、『ガンマン無頼』の主人公バート・サリバンもドイツではジャンゴだ。さらにネロがティナ・オーモンと撮った『裏切りの荒野』という作品。これはメリメの『カルメン』を土台にしたものだから、主人公も当然ホセという名前だったが、ドイツ語版ではこれが脈絡もなくジャンゴにされている。マカロニウエスタンのネタにするなんてメリメへの冒涜ではないのか。とかいうと逆にマカロニウエスタンへの冒涜になるかもしれないが。
 とにかくフランコ・ネロばかりでなく、原作ではサルタナという名前だったジョージ・ヒルトンの役もアンソニー・ステファン(まあこれは原作からすでにジャンゴだった役もかなりあったが)もドサクサに紛れてジャンゴにされた。テレンス・ヒルも原作とは無関係にジャンゴになったことがある。ジュリアーノ・ジェンマやジャン・ルイ・トランティニャンまでジャンゴ扱いされなかったのは奇跡というほかはない。

 下に示すのはそういった一連の「ジャンゴ映画」の一覧表だが、イタリア語原題と比べてドイツではいかに執拗に「ジャンゴ」が映画タイトルになっているかわかるだろう。左が製作年、その右がタイトルだが、イタリックで示したのがイタリアでの原題(まるでダジャレだ)、下がドイツ語タイトルである。日本で劇場公開されていない作品など邦題がわからなかったものが多く、正直いちいち調べるのもカッタルかったので邦題をあまり表示していなくて申し訳ない。
 しかし一方マカロニウエスタンには、私のような普通になんとなく映画を見ているだけの常人の想像を絶するようなフリークがいて、作品の製作年と監督や主役の名前を見ればどの映画かすぐわかり内容がたちまち思い浮かんでくるという変態いや専門家ばかりだから邦題など必要あるまい。このリストに上がっているジャンゴ映画は全部見た、と言いだす人がいても私は全然驚かない。ドイツは特にそうだ。私など「見たような気はするが内容は全然覚えていない」という程度の不確実なものまで勘定して水増し申告しても、この中で見た映画はせいぜい10作品くらいである。完全に修行が足りない。

1966 Django    
    Django
    『続・荒野の用心棒』    
      監督:セルジオ・コルブッチ、キャスト:フランコ・ネロ、ロレダナ・ヌシアク

1966 Le colt cantarono la morte e fu... tempo di massacro
      Django – Sein Gesangbuch war der Colt
   『真昼の用心棒』
    監督:ルチオ・フルチ、キャスト:フランコ・ネロ、ジョージ・ヒルトン

1966 Django spara per primo    
    Django – Nur der Colt war sein Freund
    監督:アルベルト・デ・マルティーノ、キャスト:グレン・サクソン、フェルナンド・サンチョ

1966 La più grande rapina nel West    
    Ein Halleluja für Django    
   監督:マウリツィオ・ルチディ、キャスト:ジョージ・ヒルトン、ハント・パワーズ

1966 Pochi Dollari per Django    
    Django kennt kein Erbarmen    
    監督:レオン・クリモフスキー、キャスト:アンソニー・ステファン、フランク・ヴォルフ

1966 Sette Dollari sul rosso    
    Django – Die Geier stehen Schlange
   『地獄から来たプロガンマン』    
    監督:アルベルト・カルドーネ、キャスト:アンソニー・ステファン、フェルナンド・サンチョ
    
1966 Starblack    
    Django – Schwarzer Gott des Todes    
    監督:ジャンニ・グリマルディ、キャスト:ロバート・ウッズ、へルガ・アンダーソン

1966 Texas, addio    
    Django, der Rächer    
   『ガンマン無頼』
    監督:フェルディナンド・バルディ、キャスト:フランコ・ネロ、アルベルト・デラクア

1967 Bill il taciturno    
    Django tötet leise
    監督:マッシモ・プピロ、キャスト:ジョージ・イーストマン、リアナ・オルフェイ

1967 Cjamango    
    Django – Kreuze im blutigen Sand
    監督:エドアルド・ムラルジア、キャスト:イヴァン・ラシモフ、エレーヌ・シャネル

1967 Dio perdona … io no!    
    Gott vergibt… Django nie!
    監督:ジュゼッペ・コリッツィ、キャスト:テレンス・ヒル、バッド・スペンサー

1967 Due rrringos nel Texas    
    Zwei Trottel gegen Django
   『テキサスから来た2人のリンゴ』
    監督:マリーノ・ジロラーミ、キャスト:フランコ・フランキ、チッチオ・イングラシア

1967 Le due facce del dollaro
    Django - sein Colt singt sechs Strophen
   監督:ロベルト・ビアンキ・モンテロ、
             キャスト:モンティ・グリーンウッド、ガブリエラ・ジョルジェッリ

1967 Il figlio di Django    
    Der Sohn des Django
   監督:オスヴァルド・チヴィラーニ、キャスト:ガイ・マディソン、ガブリエレ・ティンティ

1967 Il momento di uccidere    
    Django – Ein Sarg voll Blut
    監督:ジュリアーノ・カルニメオ、キャスト:ジョージ・ヒルトン、ウォルター・バーンズ

1967 Non aspettare, Django, spara!    
    Django – Dein Henker wartet    
    監督:エドアルド・マラルジア、キャスト:イヴァン・ラシモフ、ペドロ・サンチェス

1967 Per 100.000 Dollari t’ammazzo    
    Django der Bastard
    監督:ジョヴァンニ・ファゴ、キャスト:ジャンニ・ガルコ、クラウディオ・カマソ

1967 Preparati la bara!    
    Django und die Bande der Gehenkten
   『皆殺しのジャンゴ』    
    監督:フェルナンド・バルディ、キャスト:テレンス・ヒル、ホルスト・フランク

1967 Quella sporca storia nel West    
    Django – Die Totengräber warten schon
   『ジョニー・ハムレット』    
   監督:エンツォ・カステラーリ、キャスト:アンドレア・ジョルダーナ、ギルバート・ローランド

1967 Se sei vivo spara    
    Töte, Django
   『情無用のジャンゴ』
   監督:ジュリオ・クエスティ、キャスト:トマス・ミリアン、ピエロ・ルッリ

1967 Se vuoi vivere… spara!    
    Andere beten – Django schießt
   監督:セルジオ・ガローネ、キャスト:イヴァン・ラシモフ、ジョヴァンニ・チャンフリーリャ

1967 Sentenza di morte    
    Django – Unbarmherzig wie die Sonne
   監督:マリオ・ランフランキ、キャスト:ロビン・クラーク、トマス・ミリアン

1967 L’uomo, l’orgoglio, la vendetta    
    Mit Django kam der Tod
   『裏切りの荒野』
    監督:ルイジ・バッツォーニ、キャスト:フランコ・ネロ、ティナ・オーモン

1967 L'uomo venuto per uccidere    
    Django – unersättlich wie der Satan    
   監督:レオン・クリモフスキー、キャスト:リチャード・ワイラー、ブラッド・ハリス

1967 La vendetta è il mio perdono    
    Django – sein letzter Gruß    
   監督:ロベルト・マウリ、キャスト:タブ・ハンター、エリカ・ブランク

1967 Lo voglio morto    
    Django – ich will ihn tot    
    監督:パオロ・ビアンキーニ、キャスト:クレイグ・ヒル、レア・マッサリ

1968 Black Jack    
    Auf die Knie, Django
   監督:ジャンフランコ・バルダネッロ、キャスト:ロバート・ウッズ、ルシエンヌ・ブリドゥ

1968 Chiedi perdono a Dio, non a me    
    Django – den Colt an der Kehle
   監督:ヴィンツェンツォ・ムソリーノ、キャスト:ジョージ・アルディソン、ピーター・マーテル

1968 Execution    
    Django – Die Bibel ist kein Kartenspiel
   監督:ドメニコ・パオレッラ、キャスト:ジョン・リチャードソン、ミモ・パルマーラ

1968 Una lunga fila di croci    
    Django und Sartana, die tödlichen Zwei    
    監督:セルジオ・ガローネ、キャスト:アンソニーステファン、ウィリアム・ベルガー

1968 Quel caldo maledetto giorno di fuoco    
    Django spricht kein Vaterunser    
    監督:パオロ・ビアンキーニ、キャスト:ロバート・ウッズ、ジョン・アイルランド

1968 Réquiem para el gringo    
    Requiem für Django    
    監督:ホセ・ルイス・メリーノ、キャスト:ラング・ジェフリース、フェミ・ベヌッシ

1968 Il suo nome gridava vendetta    
    Django spricht das Nachtgebet    
   監督:マリオ・カイアーノ、キャスト:アンソニー・ステファン、ウィリアム・ベルガー

1968 T’ammazzo!… raccomandati a Dio    
    Django, wo steht Dein Sarg?    
    監督:オスヴァルド・チヴィラーニ、キャスト:ジョージ・ヒルトン、ジョン・アイルランド

1968 Uno di più all’inferno    
    Django – Melodie in Blei    
    監督:ジョヴァンニ・ファゴ、キャスト:ジョージ・ヒルトン、ポール・スティーブンス

1968 Uno dopo l’altro    
    Von Django – mit den besten Empfehlungen    
   監督:ニック・ノストロ、キャスト:リチャード・ハリソン、パメラ・チューダー

1968 Vado… l’ammazzo e torno
    Leg ihn um, Django
   『黄金の三悪人』
   監督:エンツォ・カステラーリ、キャスト:ジョージ・ヒルトン、ギルバート・ローランド

1969 Ciakmull, l’uomo della vendetta    
    Django – Die Nacht der langen Messer    
    監督:エンツォ・バルボーニ、キャスト:レオナード・マン、ウッディー・ストロード

1969 Dio perdoni la mia pistola    
    Django – Gott vergib seinem Colt    
    監督:レオポルド・サヴォナ、キャスト:ワイド・プレストン、ロレダナ・ヌシアク

1969 Django il bastardo    
    Django und die Bande der Bluthunde    
    監督:セルジオ・ガローネ、キャスト:アンソニーステファン、パオロ・ゴズリーノ

1969 Django sfida Sartana
   (ドイツ劇場未公開)        
   監督:パスクァーレ・スキティエリ、キャスト:ジョルジョ・アルディソン、トニー・ケンダル

1970 Arrivano Django e Sartana…è la fine!    
    Django und Sartana kommen    
   監督:デモフィロ・フィダーニ、キャスト:ハント・パワーズ、ゴードン・ミッチェル

1970 C’è Sartana… vendi la pistola e comprati la bara!    
    Django und Sabata – wie blutige Geier    
   監督:ジュリアーノ・カルニメオ、キャスト:ジョージ・ヒルトン、チャールズ・サウスウッド

1970 Quel maledetto giorno d'inverno…Django e Sartana… all’ultimo sangue
   (ドイツ劇場未公開)
   監督:デモフィロ・フィダーニ、キャスト:ハント・パワーズ、ファビオ・テスティ

1970 Uccidi Django… uccidi per primo!
   (ドイツ劇場未公開)
   監督:セルジオ・ガローネ、キャスト:ジャコモ・ロッシ・スチュアート、アルド・サンブレル

1971 Anche per Django le carogne hanno un prezzo    
    Auch Djangos Kopf hat seinen Preis        
   監督:ルイジ・バッツェラ、キャスト:ジェフ・キャメロン、ジョン・デズモント

1971 Il mio nome è Mallory "M" come morte    
    Django – Unerbittlich bis zum Tod    
    監督:マリオ・モローニ、キャスト:ロバート・ウッズ、ガブリエラ・ジョルジェッリ

1971 Quel maledetto giorno della resa dei conti
    Django – Der Tag der Abrechnung    
    監督:セルジオ・ガローネ、キャスト:グイド・ロロブリジーダ、タイ・ハーディン

1971 Una pistola per cento croci    
    Django, eine Pistole für hundert Kreuze    
   監督:カルロ・クロッコーロ、キャスト:トニー・ケンダル、マリーナ・ムリガン

1971 W Django!    
    Ein Fressen für Django    
    監督:エドアルド・ムラルジア、キャスト:アンソニー・ステファン、クラウコ・オノラート

1972 La lunga cavalcata della vendetta    
    Djangos blutige Spur    
   監督:タニオ・ボッチア、キャスト:リチャード・ハリソン、アニタ・エクバーグ

1987 Django 2: il grande ritorno    
    Djangos Rückkehr    
    監督:ネッロ・ロサーティ、キャスト:フランコ・ネロ、クリストファー・コネリ

 さて、その元祖となった『続・荒野の用心棒』の主人公ジャンゴだが、監督のセルジオ・コルブッチはこの名前をヨーロッパのジャズ・ギターの第一人者ジャンゴ・ラインハルトから持って来ている。ラインハルトはベルギー生まれのロマ、フランス語でマヌシュと呼ばれるグループの出身らしいが、このマヌシュは『50.ヨーロッパ最大の少数言語』の項で述べたようにドイツのロマ、シンティと同じ方言グループに属している。つまり「ジャンゴ」という名前は本来ロマニ語。その名前の由来について調べてみたら2説あった。

1.Django(またはDžango)はJean、Johannes、Giovanniという名前のロマニ語バージョンである。
2.Džangoとはロマニ語でI wake up、または I woke upという意味である。

困った。どちらの説でも疑問点が出てきてしまったからだ。

1について:
Jean、Johannes、Giovanniのロマニ語バージョンならDžanoとかいう形にはならないのか?その/g/という音素はどこから来たのか。

2について:
調べてみたら「目覚める」というロマニ語はdžungadol、方言によってはdžangadolまたはdžangavel(辞書形は3人称単数形)だそうだが、それなら「私は目覚める」はdžangaduaまたはdžangavua(シンティ)、あるいはdžangadavもしくはdžangavav(その他の方言)、「私は目覚めた」だと džangadomまたはdžangavomとか何とかになると思うのだが。/d/または/v/の音素が消えてしまっているのはなぜか?

 つまりどちらも確かに形は似ているとはいえ、前者は音素が一つ余り、後者は一つ足りない。帯に短し襷に長しでどちらもストレートにDžangoにはならない。もっともシンティのdžangavuaが一番近いなとは思ったし、

džangavua→[dʒanɡavʊa]→[dʒanɡaʊa]→[dʒanɡɔ:]→[dʒanɡɔ]

とかなんとか音の変化の流れを解釈すれば説明がつかないことはない。
 しかし私はロマニ語ができないので確かなことはわからないし、こんな小さなことは本なんかには出ていないだろうと思ったので人に聞くしかないなと判断し、まずオーストリアのグラーツ大学の教授に上のようなことを述べ、「どっちが正しいんでしょうか?」と問い合わせのメールを出したが音沙汰なし。「この忙しいのになんなんだこの馬鹿メールは?」と無視されたか(されて当然だと我ながら思う)、スパム扱いされて自動的にゴミ箱行きになったかと思い、今度はヨーロッパでロマニ語研究プロジェクトを立てているもう一つの大学、イギリスのマンチェスター大にメールを出してみたら2日後に次のような返事が来た。

Dear 人食いアヒルの子,

unfortunately we are not able to help you.
Reconstructing the etymology of personal name is almost impossible if there are no written records of a given name across a considerable length of time. Unfortunately, this is the case for Django.

Sorry to disappoint you,

*** ***

Romani Project
School of Languages, Linguistics & Cultures
University of Manchester
Manchester M13 9PL, UK

*** ***という部分は研究員の方の名前だが、もちろん伏せ字にしておいた。しかし2日もたってから返事が来たということは一応まじめに検討してくれたのか、それとも単に放っておかれたのか?どちらにしても大変お騒がせしました。

 と、いうわけでジャンゴという名前の由来は「わからない」というつまらないオチに終わってしまった。


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 『17.言語の股裂き』の項で、西ロマンス諸語はラテン語の複数対格を複数形全般の形として取り入れ、東ロマンス語はラテン語の複数主格をもって複数形としたと言われていることを話題にした。私自身はこの説にはちょっと疑問があるのだが、それとは別に対格か主格かという議論自体は非常に面白いと思っている。他の言語でもこの二格が他の格に比べて特別なステータスを持っている事例が散見されるからだ。

 ロシア語は数詞と名詞の組み合わせが複雑な上(『58.語学書は強姦魔』の項参照)しかも数詞そのものまで語形変化するという勘弁してほしい言語だが、1より大きい数、つまり英語やドイツ語で言う複数の場合その他の格(生格・与格・造格・前置格)では数詞とその披修飾名詞の格が一致するのに主格と対格ではそれらが別の形になる。
Tabelle1-65
どの場合も数詞名詞共に格変化を起こしているが、生格・与格・造格・前置格では名詞と数詞は同じ格である。例えば「二つの机」の与格では数詞двумも名詞столам(ただし複数形)も与格で形が似ているのがわかる。同様に「三ルーブリ」造格ではтремя(「3」)もрублями(「ルーブリ」)も造格、「50冊の本」の前置格でもпятидесяти(「50」)、книгах(「本」)共に前置格形である。
 ところが「2つの机」「3ルーブリ」の主格・対格では数詞自体は主格・対格だが披修飾名詞が一見単数生格で一致していない。「一見」と書いたのはもちろんこれが文法書によく説明してあるような単数生格でなく実は双数主・対格(再び『58.語学書は強姦魔』参照)であることを考慮したからだ。その意味では4までは数詞と披修飾名詞の格は一致しているといえるだろうが、他の格は披修飾名詞が皆複数形となっているのに主・対格だけは双数形になっているわけだから、やはり主格・対格は特殊と言っていいと思う。5以上ではこれがさらにはっきりしていて、「50冊の本」の主格・対格は数詞が主格あるいは対格だが名詞は明確に複数生格である。これを本物の(?)生格пятидесяти книгと比べてみると面白くて、ここでは数詞がきちんと生格になっているため披修飾名詞の生格と一致している。つまり主・生・対格の3格で披修飾名詞が生格になっているのだ。さらに面白いのは数詞がつかない場合、例えば単にbooksと言いたい場合は「本」が複数形のкнигиという形になることだ。これは主格・対格同形である。

 日本語でも主格つまり「○○が」と対格「○○を」は特別なステータスを持っているのではないかと感じることがある。主題の助詞「は」と組み合わせた場合、この2格のマーカーが必ず削除されるからだ。

鳴く
→ 鳥がは鳴く
→ 鳥(が)は鳴く
→ 鳥Øは鳴く
→ 鳥鳴く

殺さない
→ 人をは殺さない
→ 人(を)は殺さない
→ 人Øは殺さない
→ 人殺さない

これに対してその他の格マーカーは「は」をつけても消されることがない。

処格: 東京行かない → 東京には行かない
奪格: お前から言われたくない → お前からは言われたくない

「に」は消せることがあるが、「から」は消せない:

東京は行かない
*お前は言われたくない

つまり斜格マーカーには「共存できない」どころか共存しないと文がおかしくなるものさえあるのだ。

「は」の他に主格・対格は「も」とも共存ができない。

田中さん来た 
→ *田中さんがも来た。
→ 田中さん来た、

その本読んだ
→ ??その本をも読んだ
→ その本読んだ

ただ私の感覚では対格のほうはギリギリで「も」と共存できる。「その本をも読んだ」は文語的表現で話し言葉としては非常に不自然だが、許せないこともない。ないが他の格マーカーと比べると許容度が格段に低い。

北海道へも行った。
佐藤さんとも話した。
外国にも住んだことがある。
地下鉄でも赤坂見附まで行ける。
ここでも野球ができるよ。

これらは全部無条件でOK.だ。共格「と」、具格「で」、同じく処格の「で」などは上の「は」の場合と同じく、格マーカーが居残らないとむしろ非文になる。
 格マーカーにはどうも微妙な階級がありそうだ。いずれにせよ主格と対格は特別といえるのではないだろうか。

ロマニ語もその意味でちょっとスリルのある構造になっているようだ。ギリシアとトルコのロマニ語では「ロマ」(夫・男)という男性名詞の変化パラダイムが以下のようになっている。
Tabelle2-65
ロマニ語は地域差が激しいのでロシアやオーストリア、セルビアなどのロマニ語では微妙に形が違っているが、はっきりと共通していることがある。それは名詞の変化パラダイムが2層になっているということだ。
 まず主格と対格(このグループのように呼格が残っている場合は呼格も)の形の違いは古いインドの祖語から引き継いだもので「語形変化」と呼んでいい。ここでは -és がついているが、語によってはゼロ形態素だったりするし(kher(主格)-kher(対格)、「家」)、女性名詞では -ja が付加される(phen(主格)- phen-já(対格)、「sister」)。
 ところが主・対格以外の斜格は対格をベースにしてそこにさらに膠着語的な接尾辞を加えて作っている。対格というよりはむしろ「一般斜格」と呼んだほうがよさそうだ。つまりロマニ語は主格と対格以外では本来の変化形が一旦失われ、後からあらためて膠着語的な格表現を使ってパラダイムを復活させたということだ。これらの形態素は発生が新しいから元の語の文法性や変化タイプに関わりなく共通である。例えば上で言及した女性名詞 phen- phen-já も主格・対格以外は男性名詞の rom と同じメカニズムで斜格をつくる。上の例と比べてみてほしい。
Tabelle3-65
 どうしていろいろな言語で主格と対格が他の斜格に比べて強いのか。もちろんこれは単なる私の想像だがやはりこの二つが他動詞の必須要素であり、シンタクスの面でも意味の面でも対立性がはっきりしている上使用頻度が高いからではないだろうか。能格言語で能・絶対格と他の斜格(能格言語でも「斜格」と呼んでいいのか?)との関係がどうなっているのか興味のあるところだ。興味はあるのだが調べる気力がない。知っている人、調べた人がいたらメッセージでもいただけると嬉しい。


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 エマヌエル・ガイベルという後期ロマン派の詩人の作品にZigeunerleben(「ジプシーの生活」)という詩がある。シューマンの作曲で「流浪の民」として日本でも有名だが、第二連はこうなっている。

Das ist der Zigeuner bewegliche Schar,
Mit blitzendem Aug' und mit wallendem Haar,
Gesäugt an des Niles geheiligter Flut,
Gebräunt von Hispaniens südlicher Glut.

それは移動するジプシーの群れ
きらきら光る眼と波打つ髪
ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い
イスパニアの南国の灼熱に肌を焦がす
(原作の韻など全く無視した無粋な訳ですみません)


3行目「ナイルの神聖な流れのほとりで乳を吸い」という部分が気になるが、これはいわゆるジプシー、つまりロマがエジプトから来たと当時広く信じられていたからである。言いだしっぺが誰であるかはわからない。彼ら自身がそう自称したとも言われている。『50.ヨーロッパ最大の少数言語』の項でも書いたようにロマの起源はインドであるが、その存在が文献に現れるのは11世紀に当時のビザンチン帝国の記録が最初だ。当時ビザンチン帝国だけでなく、中東全般にわたって広く住んでいたらしい。彼らはキリスト教を受け入れていた(そうだ)。肌の色が浅黒く、その地では周りからコプト人と見なされていたのを巡礼目的や十字軍でパレスティナに来ていたヨーロッパ人が本国に伝えた、とも聞いた。
 これは単なる想像だが、私にはロマの方からコプト人だと自己申告したとはどうも考えにくいのである。浅黒い膚のキリスト教徒を見てヨーロッパ人が勝手にコプトだと思いこみ、ロマが特にそれに異を唱えないでいるうちにそういう説が定着してしまったのではないだろうか。そもそもロマ自身は自分たちがエジプト出身扱いされているのを知っていたのだろうか。 ヨーロッパ人側がロマをエジプトから来た人々と「思いたかった」、出エジプト記を今度はキリスト教徒を主役にして再現したかった、つまりある種の宗教ロマン物語を信じたかったのでないだろうか。そしてそういう図式が当時のキリスト教社会にアピールして定着したのでは。例えば上のガイベルの詩にもこんな部分がある。

Und magische Sprüche für Not und Gefahr
Verkündet die Alte der horchenden Schar.

そして苦境や危機に陥れば
老婆が魔法の言葉を告げる
(モーゼかこの老婆は?)


Und die aus der sonnigen Heimat verbannt,
Sie schauen im Traum das gesegnete Land.

そして陽光に満ちた故郷を追われ
祝福の地を夢に見る
(das gesegnete Landあるいはgesegnetes Land(祝福された土地)というのも聖書からの概念)


 こうやって都合のいい時だけは(?)ロマンチックな描写をするが、何か起こると、いや起こらなくてもロマは一般社会で差別抑圧されていたのである。「虐待」といってもいい。ひょっとしたら文学者はロマが普段虐待されているそのために、せめて言葉の上では美しくロマンチックに描いてやって、言い換えるとリップサービスでもしてやって読者の、いや自身の目をも現実から背けようとしたのかもしれない。
 この詩が出版されたのは1834年で、比較言語学者のポットがロマの言語とインド・イラニアン語派との類似に気づいたのは1844年、ミクロシッチが詳細な研究を行なったのが1872年から1880年にかけてだから、ガイベルはまだこの時点ではロマがインド起源ということを知らなかったのだろう。しかし一方ガイベルは1884年まで生きており、古典文献学で博士号までとっているのだからミクロシッチの論文を読んでいたかもしれない。もっとも文学と言語学というのが既に仲が悪いことに加えて、ガイベルの当時いたプロイセンとミクロシッチのいたオーストリア・ハンガリー帝国は敵同士だったから、その可能性は薄いと思うが。

 ロマはビザンチン帝国内に結構長い間住んでいたらしく、その語彙には当時のギリシア語からの借用語が目立つそうだ。例えば:
tabelle1-72
 語彙ばかりでなく、派生語を作る際の形態素などもギリシャ語から輸入している。抽象名詞をつくるための-mos (複数形は-mota)がそれ。
 ギリシア語に触れる以前、つまり現在の北インドからコーカサスの言語からの借用は、はっきりどの言語からと断定するのが難しい。借用から時間が経って借用元の言語でもロマニ語内でも語の形が変化を起こしてしまっている上、そもそもあそこら辺の言語はロマニ語と同じく印欧語だから、当該単語が借用語なのか双方の言語で独立に印欧祖語から発展してきたのか見分けがつけにくいらしい。
 それでも当地の非印欧語、グルジア語やブルシャスキー語からの借用を指摘する人もいる。ブルシャスキー語というのはパキスタンの北で細々と話されている言語である。能格言語だ。それにしてもグルジア語にしろその他のコーカサスの言語にしろ、あのあたりの言語がそろって能格言語なのはなぜだ?以前にも書いたように、シュメール語と無関係とは思えないのだが。
 そのブルシャスキー語からロマニ語への借用をヘルマン・ベルガー(Hermann Berger)という学者が1959年に発表した『ジプシー言語におけるブルシャスキー語からの借用語について』(Die Burušaski-Lehnwörter in der Zigeunersprache)という論文で指摘し、13ほど例を挙げ、嫌というほど詳細な検討を加えている。ベルガーの説には批判や疑問点も多いらしいが、面白いので一部紹介しておきたい。著者はこの論文の中でブルシャスキー語とバスク語との親類関係についても肯定的に発言している。
Tabelle2-72
 ビザンチンがオスマントルコに滅ぼされると、ロマはヨーロッパ内部へ移動し始めた。現在ヨーロッパ大陸にいるロマは方言の差が激しく、すでに意思の疎通が困難な場合が多いそうだが、これはロマニ語内部での変化に加えて(それだけだったらたかが600年ぽっちの間に意思疎通が困難になるほど変遷するとは思えない)、あちこちでいろいろな言語と接触して外部から変化させられたためだろう。面白い例が一つある。セルビアで話されているErliというロマニ語方言(というべきか言語というべきか)では未来形をまさにバルカン言語連合の図式どおりに作るのである。Erliでは動詞の接続法に不変化詞kaをつけて表すが、このkaは「欲しい」という動詞kamelが後退したもの。

Ka   dikhav
未来. + see(一人称単数形・接続法)
私は見るだろう

『40.バルカン言語連合再び』の項で挙げたアルバニア語、ルーマニア語、ブルガリア語、現代ギリシア語と比べてみてほしい。構造が完全に平行しているのがわかる。

アルバニア語
doshkruaj
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
        
ルーマニア語
oscriu
未来 + 接続法マーカー +「書く」一人称単数現在
 

ブルガリア語
šte piša
未来 +「書く」一人称単数現在

現代ギリシア語
θα γράψω
未来 +「書く」一人称単数接続法

ところが同じロマニ語でもブルゲンラント・ロマニ語というオーストリア、ハンガリーで話されている方言だと未来形を純粋な語形変化で表す。

phirav (「行く」一人称単数現在) + a
→ phira「私は行くだろう」
phires (「行く」二人称単数現在) + a
→ phireha「君は行くだろう」
など

 上で述べたようにロマの一部がバルカン半島を去ったのはそれほど古い話ではない。それなのにブルゲンラントのロマニ語がバルカン言語連合現象の影響を受けていない、ということはバルカン言語連合という現象自体が比較意的新しい時代に起こったか、現象そのものは昔からあったがロマが周りとあまり接触しなかったとかの理由で影響を被るのが他の言語より遅かったかのどちらかである。語彙面での借用状況を考えると「周りとの接触が乏しかった」とは考えにくいので最初の解釈が合っているような気がするが、なにぶん私は素人だから断言はできない。

 またロマニ語は借用語と本来の言葉との差を明確に意識しているらしく、外来語と土着の単語とでは変化のパラダイムが違う。下は旧ユーゴスラビアのヴラフ・ロマの例だが、kam-(「欲しい」)という動詞はロマニ語本来の、čit-(「読む」)はセルビア語からの借用。ロシア語でも「読む」はчитать(čitat’)である。
Tabelle3-72
つまり土着の単語で母音aやeが現れる部分が外来語ではoになっているのである。これは名詞の変化パラダイムでもそうで、ロマニ語本来の語raklo(「男の子」)と上でも述べたギリシア語からの借用語foroの語形変化ぶりを比べるとわかる。単数形のみ示す。
Tabelle4-72
ここでもeとoがきれいに対応している。なお、私の参照した資料にはなぜか対格形が示されていなかったが、『65.主格と対格は特別扱い』で見たように対格は膠着語的な接尾マーカーなしの第一層一般斜格を使うから「男の子を」はrakl-esになるはずである。それに対して「町を」は一般斜格のfor-osではなく主格と同形のforoになるはずだ。ロマニ語はロシア語と同じく(というよりロシア語がロマニ語と同じく)生物・非生物の差を格変化形で表すからである。
 そういえば日本語は外来語とヤマト言葉を片仮名と平仮名(と漢字)で書き分けるがロマニ語はこの区別をパラダイムでやるわけか。


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 日本語では生物が主語に立った場合と無生物が主語に立った場合とでは「存在する」という意味の動詞が違う。いわゆる「いる」と「ある」の区別であるが、

犬がいる。
馬鹿がいる。
機関銃がある。

これをもっと詳細に見てみると生物は「いる」、無生物は「ある」とは一概にいえないことがわかる。

あそこにタクシーがいる。
昔々おじいさんとおばあさんがありました。

しかしタクシーに「いる」を使えるのは駅前で客を待つべく待機しているタクシーなど中に運転手がいる、少なくともいると想定された場合で、意味が抽象化して「タクシーという交通機関」を意味するときは「ある」しか使えない。「そっちの町にはタクシーなんてあるのか?」などと小さな町のローカルぶりを揶揄したいときは「ある」である。さらに「この時間にまだタクシーがあるのか?」という疑問は家から電話でタクシーを呼ぼうとしている人に発せられるのに対し、「この時間にまだタクシーがいるのか?」だと駅に夜着いてキョロキョロタクシーを探している人にする質問だ。
 また昔々おじいさんがありましたというと、おじいさんがいましたといった場合よりこのおじいさんが物語の登場人物であることが前面に出てくる。つまり生身のおじいさんより抽象度がやや高くなることはタクシーの場合と同じだ。もっとも「おじいさんがありました」はひょっとしたら、「おりました」の変形かもしれない。

 ロシア語では主語でなく目的語でこの生物・無生物を表現し分ける。パラダイム上で対格形が生物か無生物かで異なったパターンをとるのだ。まず、生物、人間とか子供とかいう場合は目的語を表す対格形と生格形が同じになる(太字)。まず単数形を見てみよう。
Tabelle1-88
それに対して無生物だと主格と対格が同形になる。
Tabelle2-88
ただしこれは男性名詞の場合で、女性名詞の場合は主格、生格、対格が皆違う形をしているからか、生物・無生物の区別がない。
Tabelle3-88
「女性の言語学者」と「言語学」は形の上ではи (i) が入るか入らないかだけの差である。中性名詞はそもそも皆無生物なのでこの区別はする必要がない。

 上の例は単数形の場合だが、複数形になると両性とも生物・無生物の区別をする。生物は主格と生格が同形、無生物は主格と対格が同形という規則が女性名詞でも保たれる。

「言語学」の複数形というのは意味上ありえないんじゃないかとも思うが、まあここは単なる形の話だから目をつぶってほしい。
Tabelle4-88
 さらに上で出した「子供」の単数ребёнок の複数形は本来ребята なのだが、子供の複数を表すには別単語の дети という言葉を使うのが普通だ。ロシア語ではこの語の単数形は消滅してしまった。クロアチア語にはdjete(「(一人の)子供」)としてきちんと残っている。そのдетиは次のように変化する。生物なので対格と生格が同形だ。
Tabelle5-88
 例えば「言語学者が映画を見る」「女の言語学者が映画を見る」はそれぞれ

Лингвист смотрит фильм.
Лигвистка смотрит фильм.

だが、「言語学者が言語学者を殴る」「女の言語学者が女の言語学者を殴る」は

Лингвист бьёт лингвиста.
Лигвистка бьёт лингвистку.

となる。

 ところがショーロホフの小説『人間の運命』には次のようなフレーズがある。

Возьму его к себе в дети.
I’ll  take + him + to + myself + in + children

主人公の中年男性が、戦争で両親を失い道端で物乞いをしていた男の子を見かけて「こいつを引き取って、自分の子供にしよう」とつぶやくセリフである。в (in) は前置詞で、対格を支配するから、生物である「子供」の場合はв детейとなるはずだ。なぜまるで非生物のように主格と同形になっているのか。腑に落ちなかったのでロシア人の先生にわざわざ本を持って行って訊ねたことがある。するとその先生はまず「あら、これは面白い。ちょっと見せて」と真面目に見入り出し、「ここでは生身の子供を指しているのではなく、子供という観念というかカテゴリーというかを意味しているから無生物扱いされて主格と同形になっているのだ」と説明してくれた。
 その後、生物の対格が主格と同形になる慣用句があることを知った。いずれも生物がグループとか種類というかカテゴリーを表すものである。

идти в солдаты (本来солдат
go + in + soldiers
(兵隊に行く)


выбрать в депутаты  (本来депутатов
elect + in + members of parliament
(議員に選ぶ)


この、「カテゴリーや種類の意味になるときは無生物化する」というのは上の日本語の例、「タクシーがいる・ある」「おじいさんがいました・ありました」にもあてはまるのではないだろうか。さらに「細菌」とか「アメーバ」とか使う人によって生物と無生物の間を部妙に揺れ動く名詞がある、という点も共通しているが、ロシア語は「人形」(кукла、クークラ)や「マトリョーシカ」(матрёшка)が生物扱いとのことで、完全に平行しているとはいえないようだ。言語が違うのだから当然だが。

 さて、面白いことにロマニ語もロシア語と全く同じように生物と無生物を区別する。以下はトルコとギリシャで話されているロマニ語だが、ロマニ語本来の単語では生物の複数形が語形変化してきちんと対格形(というより一般斜格形というべきか、『65.主格と対格は特別扱い』の項参照)になるのに対し、無生物では対格で主格形をそのまま使う。ロシア語と違って男性名詞・女性名詞両方ともそうなる。
Tabelle6-88
属格は非修飾名詞によって形が違って来るため全部書くのがめんどくさかったので男性単数形にかかる形のみにした。「家」の対格が一般斜格でなく、主格と同形になっているのがわかるだろう。その無生物でも与格以下になると突然語根として一般斜格形があらわれるのでゾクゾクする。女性名詞でもこの原則が保たれる。
Tabelle7-88
複数形でも事情は同じだ。(めんどくさいので)以下主格、対格、与格形だけ示す。
Tabelle8-88
下手にロシア語をやっている人などは「これはロシア語の影響か」とか思ってしまいそうだが、私にはロシア語からの影響とは考えられない。第一にこの例はトルコのロマニ語のもので、この方言はロシア語なんかとは接触していないはずである。第二に生物の対格は古い印欧語から引き継いだ対格・一般斜格をとっていて属格(ロシア語でいう生格)と同形ではない。
 もっともロマニ語でも生物と無生物のあいだを揺れ動くグレーゾーンがあるそうで、魚とか蛆虫とかはどっちでもいいらしい。また無生物が擬人化すると生物あつかいになるとのことで、日本の「タクシーがいる」あたりと同じ感覚なのだろうか。


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以前の記事の図表レイアウトが機種やブラウザによってはグチャグチャになるので、図表を画像に変更していっています。誤打(あるある!)の訂正や文章の見直しもしています。米国で昔「インディアン」と言っていたのを今はそうせず「ネイティブ・アメリカン」と呼ぶのと似て「ジプシー」という言葉は今は使いません。「ロマ」と言います。

内容はこの記事と同じです。

 何年か前にこちらで結構大騒ぎになったニュースがある。ギリシアのロマ居住区で両親とは全く似ていない金髪の少女がみつかったため、親だと自称するロマ夫婦にほとんど自動的に「誘拐・人身売買の手先」の疑いがかかり、少女は保護された、という事件である。
 そのロマ夫婦は最初から、知り合いのブルガリアのロマが、産んだはいいが経済的に自分達では育てられないからと言ってこちらに預けてきたのだ、と主張し続けていたが、当局はそれを信用せず、行方不明となっている子供のリストなどを大掛かりに検索して徹底的に調査した。しかしそのロマの夫婦があっさりと「そんなに疑うのだったらその預け元のブルガリアの知り合いの携帯番号があるからそっちにあたってくれ」と主張するので、調べたらそのロマは始めから本当のことを言っていたのである。
 この事件で心ある人の議論になっていたのは、ロマとみると誘拐の犯罪のとすぐ連想するヨーロッパ社会の暗部であった。ギリシアにもロマ出身の政治家がいて(私の知る限りでは1990年代にスペイン国籍のロマのEU議員がいたし、現在でもハンガリー国籍のEU議員がいる)、真っ先にそのことを問題にしていた。
 期を同じくしてアイルランドでもロマの家庭に金髪の少女がいるのが見つかり、当局はその少女を保護したが、DNA鑑定をしてみたら本当にそのロマの子供だったのだ。そのロマはきちんと社会に溶け込んで仕事もしている普通の市民だった。

ヨーロッパ社会もまだまだだ。

 ロマの言語を「ロマニ語」というが、この「ロマニ」(romani)というのは「ロマの」という形容詞の単数女性主格である。なぜかというとこれはもともと romani čhib(「ロマの言語」)という言葉からとったもので、čhib というのが「言語」という意味の女性名詞なので、それに呼応して形容詞のほうも女性単数になっているからである。この形容詞の男性形は romano で、男性名詞 kher(「家」)にかかると romano kher(「ロマの家」)。私の家の近くに州のロマの本部、というか文化・情報センターがあるが、ここの名称が romano kher となっている。
 そのロマニ語の話者はヨーロッパ全体で推定1000万人という。リトアニア語・スウェーデン語など下手な国家言語より規模の大きい大言語である。もっともこの1000万というのがあまり正確な数字ではない。ロマニ語がもう話せなくなっているロマがいる一方でロマ出身ということを隠しておきたいがために実はロマニ語を話せるのに話せないことにしている人などもいて正確な統計が出せないからだ。しかしこの1000万と言う数字が本当ならばロマニ語はカタロニア語を抜いてヨーロッパ最大の少数言語ということになる。以前は最大の少数言語はカタロニア語だったが、ルーマニア・ブルガリア始めバルカン諸国がEUに加わったためロマニ語話者の人口が一気に増大し、カタロニア語はその地位を奪われたわけだ。

 本などにはいたるところに「ロマは北インド起源」と書いてある。でもそれを証明する歴史的文献などは存在しない。彼らがインド起源であるというのは純粋に比較言語学上で証明されたものだ。19世紀にヨーロッパで比較言語学が発展してすぐに関心をロマニ語に向けた学者もいた。バルカン言語学で有名なミクロシッチもその一人であるが、この人の名前は教科書などには普通フランツ・ミクロシッチと書いてある。が、彼はスロベニア人であって、当時そこがオーストリア領であったため本来「フラーニョ」という名前をドイツ語風にして名乗っていたのだ(『36.007・ロシアより愛をこめて』の項参照)。ついでに言うと例のイヴ・モンタンもトリエステ生まれで、スラブ系の「イヴォ」が本名である。
 話が逸れたが、そのミクロシッチ、サンドフェルド(本国デンマーク語ではサンフェルというのだろうか)などの当時の大言語学者達が印欧諸語に対する膨大な知識を駆使して来る日も来る日も詳細に比較していった結果ロマニ語の起源がわかったのだ。
 ロマは元の元の大元は中部インドにいたものが、一旦北インドに移住してそこにしばらく住み、9世紀ごろにアルメニアとかあそこら辺のルートを通って、遅くとも11世紀にはビザンチンに入り、そこでタップリギリシャ語の影響を受けた後、14世紀ごろにヨーロッパ各地に散り始めたというが、本にはしごくあっさり書いてあるそういうことも歴史文献などに出ていたのではなく、すべて比較言語学で理論上出された結果である。例えばロマニ語にはアラビア語起源の借用語が非常に少ない、ということから民族移動のルートがアラビア語の話されている地域とあまり接触しない北の方を通った、と推定されるのだ。
 ドイツには15世紀からロマが住んでいたらしい。ドイツにロマが住んでいたことを述べている最初の文献は1408年にヒルデスハイムという町で書かれた文書だそうだ。

 以下にインド・イラニアン語派の言語とロマニ語で1から10までと100をなんというか挙げてみたが、互いによく似ている。「ドマリ語」というのは中近東に住んでいる同民族の言語である。
Tabelle1-50
(ここでxというのはあくまで [x]、つまり軟口蓋で出す摩擦音のことで「クス」とか「エックス」ではない)

 しかし実は別にミクロシッチほどの専門家でない、私のような素人目にもロマニ語はインドあたりの起源なのではないかと薄々感じることができる。この言語は音韻上、無気音と帯気音を弁別するからだ。これらは今のヨーロッパ内の印欧語ではアロフォンだ。帯気音は子音の後ろに h をつけて表すが例えばロマニ語には次のようなミニマル・ペアがある。
Tabelle2-50
また日本の印欧語学者泉井久之助氏は

Dadeske hi newi gili

というロマニ語の例を挙げているが、dadeske は「父」の与格、hi が英語の is、newi が「新しい」、gili が「歌」で、「父には新しい歌がある」。だからロマニ語は『42.「いる」か「持つ」か』の項で述べたようないわゆるbe言語なのである。

 さらに、件のギリシャのロマ夫婦の知り合いがブルガリアのロマだった、ということも考えてみると含蓄がある。ギリシアとブルガリアのロマはいわゆる「バルカングループ」という方言グループを形成しているから、ギリシャとブルガリアのロマは話が通じたのだろう。ルーマニア、セルビアのロマとなると「ヴラフ・ロマ」という別の方言グループに属しているから、相互理解はそれほどすんなり行かなかったのではないだろうか。ハンガリーと一部のオーストリアのロマは「中央グループ」という方言、ドイツのシンティ、フランスのマヌシュは「北方言群」に属すそうだ。

 ことほど左様な大言語なのに、その割にはロマニ語学習者が少ない、というか「ほとんどいない」のには原因がある。一つは上でも述べたように「方言差が大きく、中心となる言語ヴァリアントがない」ことがロマニ語の保護、特に文書化を妨げているからだ。特に強力な中央方言がないためにラテン文字で書くにしてもドイツ語風にするのかフランス語読みにするのか、クロアチア語表記で書くのか統一することができない。語彙や文法でも差が激しいので「ロマニ語文法」として一つにまとめるのが非常に難しい。さらにドイツのシンティなどは文書化・文法書の発刊そのものに反対している(下記参照)。
 理由の二つ目はロマニ語を話す人々に対する偏見。事実ナチの時代にはロマは「劣等民族」として虐殺された。
 三つ目の理由は、ロマ自身がその言語を外部のものに教えたがらないからだ。当然だ。何世紀もの間、周り中から敵意ある目で見られ(その被抑圧ぶりはユダヤ人の比ではない)、あろうことか組織的に虐殺されたりしたら、絶対に周りに対してオープンになどなれない。ナチスの時代には「言語調査」と称してロマのところへやってきて、収容所送りにする下準備したりした御用学者もいたそうだから。
 私自身一度どこかのネットサイトでシンティ、つまりドイツのロマが「ロマニ語を教わりたい」というドイツ人の書き込みに対して「やめてくれよ。ロマはよそ者に言語を漏らしたりしないよ。言語は私たちが誰からも奪われることがなかった唯一のものなんだ。」とレスしているのを目撃したことがある。もっともそれに対して別のロマが「そういう心の狭いことを言うからいつまでも差別されるんだ」と反論していたが。

 そういった事情にもかかわらず、ロマニ語の文法書なども細々と出てはいる。多くはドイツのロマニ語ではなく、抑圧経験がそれほど強烈ではなかったため、比較的オープンなカルデラシュというセルビアのロマグループの言語を基礎にしたものだそうだ。
 その文法書などにも、そして他の研究書などにも「ロマは『あまりにも理解できる理由によって』自分達の言語が記述されることには否定的である」と書かれている。この『あまりにも理解できる理由によって』という言い方に、こんなに魅力的な研究対象に対して手を出すことが許されない、しかもそれは自分達のせいなのだ、というヨーロッパの言語学者の自責の念をヒシヒシと感じるのだが。うめき声が聞こえてくるようだ。

 私は「語学をやる」というのは基本的にこういうこと、相手の最も繊細な部分に土足で突っ込んでいくことだと思っている。だから手軽な学習書を買い集め、「こんにちは」とか「さようなら」とかしゃべって見せて外国人に通じたと言って悦に入る、すぐに「○○語が出来ます」とかエラそうに言い出す、こういうチャライ態度にはちょっと抵抗を感じる。


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