アルザスのこちら側

一般言語学を専攻し、学位はとったはいいがあとが続かず、ドイツの片隅の大学のさらに片隅でヒステリーを起こしているヘタレ非常勤講師が人を食ったような記事を無責任にガーガー書きなぐっています。それで「人食いアヒルの子」と名のっております。 どうぞよろしくお願いします。

カテゴリ:ヨーロッパ > その他の国(含非ヨーロッパ)

 前回大まかに歴史背景を確認したが、イベリア半島の住民、バスク人、ゴート人、ユダヤ人、アラブ人、ベルベル人、ヒスパノ・ローマ人、宗教的にはモサラベ、ムラディ、ムデハルといった人たちは互いにどんな言語で話し、どんな言語を書いていたのだろうか。

 まあバスク人は北の方でバスク語を話しラテン語で書いていたのだろうが、その他の民族の言語生活は複雑だったらしい。宗教と言語が一致していなかったのである。文化的に圧倒的に上位にあったアラブ人の言語が広がり、キリスト教のモサラベまでアラビア語で読んだり書いたり話したりするようになってしまったことは前回書いた。つまり日常会話はアラビア語で行われていた。このアラビア語と言うのはもちろん書き言葉(ファーガソンのいうHバリアント、『162.書き言語と話し言語』参照)ではなく、それと著しく異なった口語のアラビア語である。バグダードのでもアラビア半島のでもない、アル・アンダルス特有のアラビア語口語が発展していた。当地のアラブ人が話していたのもこれである。
 しかしそのアラビア語口語と並行して住民はヒスパノ・ローマ語も日常会話に使っていた。西ゴート人が言語的にはヒスパノ・ローマ人と同化してしまったことは前回書いた通りだが、アラブ人の側にもこれのできる人がいくらもいた。これも前述の詩人国王アル・ムタミド・イブン・アッバードなどもヒスパノ・ローマ語がペラペラだったそうだ。ユダヤ人も日常話していたのはもちろんヘブライ語でなくヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語だった。ムラディにもヒスパノ・ローマ語を母語とする者多くいた。だから上で「日常会話はアラビア語で行われていた」と書いたのはやや不正確で、「アラビア語でも行われていた」としなければいけない。要するにバイリンガルな言語社会だったのだが、 言語社会がバイリンガルだと個人レベルでもバイリンガルな人が大勢いるということで、上の詩人国王なども決して例外ではなかったのだろう。
 注意すべきはこの「ヒスパノ・ローマ語」である。これは現在のスペイン語の直系の先祖ではない。モサラベ語、つまりモサラベ人の言語と言い(繰り返すがこれを話していたのはモサラベだけではない)、当時のカスティーリャ語とは著しく違った別言語である。アラブ人からはaljamía 「外国語」と呼ばれていた。現在イベリア半島に残っているロマンス語はポルトガル語、カスティーリャ語、カタロニア語しかないから、モサラベ語はつまり死語ということになる。『154.そして誰もいなくなった』でも書いたようにバイリンガル状態では一方の言語がもう一方の言語に押されて消滅してしまう危機があるが、ムスリム領内でのモサラベ語も文化語アラビア語に押され気味だったようで、9世紀には書き言葉までアラビア語を使うようになっていたモサラベも多かった(前項で述べたアルバロがボヤいた通りだ)。非寛容なベルベル人支配下ではモサラベはムスリム支配地から北へ脱出し、そこでカスティーリャ語に影響を与えながら吸収されていった。つまり現在スペイン語に夥しく見られるアラビア語要素は直接アル・アンダルスのアラビア語からだけではなくモサラベ語を通して受け入れたのもあるということだ。そうやって話者数は減ってはいたがそれでも13世紀前半には十分話者がいたそうだから、ネブリハの「カスティーリャ語文法」の想定読者にはモサラベ人も含まれていたはずだ。
 忘れてはいけないのがベルベル人である。「第一波」のベルベル人はアラブ人に同化してアラビア語を話していたが、「第二波」、ターイファ時代以降にやってきた人たちはそのままベルベル語を話していた。これもアラビア語に押されていたことは想像に難くない。
 さてそれらの人々の書き言葉はなんであったか。まずアラビア語文語である。ムスリムは当然としてこれで書いていたが、上述のように一部のモサラベ人も使っていた。ユダヤ人もこれで文学活動をしていた。その文章語ヘブライ語は姉妹言語アラビア語の影響を受けてさらに発展したそうだ。キリスト教徒側の文章語はもちろんラテン語だ。つまりアル・アンダルスには理論上1.アラビア語口語とアラビア語文語、2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語、4.ヒスパノ・ローマ語とヘブライ語、5.アラビア語口語とヘブライ語、6.アラビア語口語とラテン語、7.ベルベル語とアラビア文語という7種類のダイグロシアが存在していたということである。前者がLバリアント、後者がHバリアントだ。6はアラビア語を話すようになってしまったモサラベを想定したものだが、とにかく極めて複雑な言語社会だったに違いない。その上Lバリアントのバイリンガルが個人レベルで異なったダイグロシア間を行き来していただろうから複雑さがさらにグレードアップする。
 
 文化的に圧倒的に優勢だったのはアラビア語文語だが(ターイファ時代までは政治的にも圧倒していた)、これも前回述べたように(しつこい)アラブ人はイスラム以前にすでに言語文化を発達させており、ペルシャやギリシアの文明を自分の言葉に翻訳して増幅発展させることができた。現在の自然科学もアラブ人が知識をその言語にまとめて体系化してくれていなかったら、あちこちの言語に様々な知識がバラバラとある状態が長く続き、発展が今より遅れていたかもしれない。だから私は個人的に「アラブ人が自分たちで発明したものはほとんどない、他の文化を吸収して他に伝えただけだ」という言い方は不当だと思っている。「他の文明を吸収して他に伝える」と簡単に言ってくれるが、吸収する側にそれに見合った土台、よほどの言語文化がないとそんなことはできない。その「よほど」の例としてアッバース朝が9世紀始めにバグダッドに建てた「知恵の館」という図書館がある。世界各地からいろいろな文献を収集したばかりでなく、そのアラビア語翻訳も行っていた。アラビア語とギリシャ語ができたシリアのキリスト教徒などが従事した、世界の知の中心地であった。ここでアラビア語文語にさらに磨きがかかったのである。
 この翻訳文化、書物への敬意精神が3世紀の後アル・アンダルスに飛び火した。ただそこではアラビア語のほうが翻訳される側だった。すでに11世紀初頭にリポルRipoll という町の僧院にアラビア語文献の翻訳所が開かれ、その後12世紀始めに大司教ライムンドらによってトレドに翻訳学校が設置された。このトレドの翻訳所は有名だが、ギリシャの自然科学や哲学、ペルシャやアラビア文学ばかりでなく、コーランまで翻訳されたそうだ。それも1134年と1210年の2回もである。翻訳言語は当然ラテン語であった。
 この翻訳の過程がまた面倒で、まずアラビア語文語の読める者、モサラベあるいはムデハル、あるいはユダヤ人が当該テキストの内容をヒスパノ・ローマ語、つまり口頭で脇に控えているヨーロッパ中からやってきた識者に伝える。それを聞いて識者がラテン語に書き取るのである。上で言う2.ヒスパノ・ローマ語とラテン語、3.ヒスパノ・ローマ語とアラビア文語というダイグロシア型の話者が共通のLバリアントを通して交流したということだ。その共通Lバリアントが専らヒスパノ・ローマ語だったということは6.アラビア語口語とラテン語のパターンの話者は極めて少数だったか、ほぼ全員ヒスパノ・ローマ語とアラビア語口語のバイリンガルだったのだろう。とにかくこうして様々な文献が訳された。ヒポクラテスもアリストテレスもプトレマイオスもアラビア語から訳されたのだ。ペルシャの大学者イブン・スィーナー (本名はこれより遥かに長い。下記参照)の著書が訳されたのもここだ。ただその際名前がちゃっかりラテン語化されてAvicenna アヴィケンナとなり、こちらの名のほうが有名で、この人があくまでイスラム哲学者であることがかすんでしまっている。
 レコンキスタが進んだ1248年にはその地はカスティーリャ王国の支配下に入ったが、その王アルフォンソ10世はさすが「賢王」 Alfonso el Sabio と言われただけあって学術を奨励し宗教に寛容でトレドに第二の翻訳学校を建てた。翻訳する側の言語はカスティーリャ語だった。ダイグロシア崩壊の下地はここら辺から作られていったらしい。日本の言文一致運動もそうだったが、口語をもとにした書き言葉を磨き上げるのに翻訳が果たす役割は大きい。そしてこれも日本と同様、いきなり口語オンリーにするのも困難で、ラテン語への翻訳も続いてはいた。コルドバ生まれの大哲学者アブー・アル・ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュド(こんな名前が覚えられるか)の著書もこの時期にラテン語名アヴェロエス Averoes (これなら覚えられる)で翻訳されている。
 考えてみるとこの翻訳文化が大開花したのはヨーロッパではすでに十字軍が開始されアル・アンダルスはベルベル人が支配していた、政治的には非寛容色が強まっていった時期である。そういう時期でもキリスト教・イスラム教双方の側にこういう人たちがいたのだ。「みんないっしょ」のアル・アンダルスメンタリティの残照はまだ残っていたのか。

  もう一つアル・アンダルスの言語接触の例として詩があげられる。アル・アンダルスで特有のアラビア語口語が発達したことは上で述べたが、さらに10世紀ごろから新しい詩の形式が発展した。ムワッシャハ  muwaššaḥ (スペイン語で moaxaja)といい、連構造を持ち脚韻交代にパターンのある形だが、そのムワッシャハの最終連の後にハルジャ harǧa (スペイン語で  jarcha )というオマケといっては失礼すぎるがリフレーンのようなものがついていたのである。このハルジャがロマンス語史上極めて重要で、アラビア語文語でなくヒスパノ・ローマ語(つまり事実上モサラベ語、まれに古カスティーリャ語)で書かれていた。これが「ロマンス語で書かれた最古の詩」で11世紀初頭にまで遡れ、やっと12世紀に始まったオクシタンのトルバドゥール抒情詩より100年も古い。その一つを見てみると:

tanto amare, tanto amare, habîbi tanto amare!
Enfermeron olyos nidios, ya duolen tan male!

愛をたくさん、愛をたくさん、愛しい人 愛をたくさん!
輝く目が病気になった、ああ痛い痛い!
(無粋な訳ですみません)


これを今のスペイン語にすると次のようになるそうだ。

¡De tanto amar, de tanto amar, amigo, de tanto amar!
Enfermaron unos ojos brillantes, y que ahora duelen mucho.

注意しないといけないのはこれらハルジャが元々アラビア文字またはヘブライ文字で書かれていたことである。ということは母音が表記されていなかったのだ。またアラビア語文語の詩の尻尾にくっ付いていたことや、時々アラビア語からの借用語が使ってあったりするため(上の habîbi (太字)がそれ)、長い間誰もこれがロマンス語であることに気付かず、やっと1948年になってからスターン Samuel Miklos Stern という学者がこれが実はロマンス語であることを「発見」した。だからここに出したラテン文字の例はそのアラビア語表記からいろいろな学者が苦労して再構築したものである。同じハルジャでも解釈者によって表記が違っていたりするのもそのためだ。スターンに続いてゴメス García Gómez が1952年にさらに24のハルジャを見つけた。現在では60以上の作品が収集されている。
 ハルジャのモティーフは若い女性がつれない恋人の態度を嘆いたりするなど本家アラビア詩にはあまり見られなかったものだが、それにしてもアラビア語で詩を詠んだ後突然モサラベ語にコード転換してオマケを付けるという発想はどこから出てきたのか。そもそもハルジャを詠んだのはアラビア語の本歌を作った本人なのか。第一の疑問については当時は詩は朗読するものではなく節をつけて歌うもので、ムスリムとキリスト教徒は単に共存していただけでなく一緒に文化活動もし歌もいっしょに歌っていたからだという説を見た。「聴衆」も過半数はヒスパノ・ローマ語の母語者だったろうからそれにも配慮したのかもしれない。第二の疑問点だが、ハルジャはアラビア語詩人本人が作ったのではなく(そういう人もいたろうが)、記録には残っていないがすでに10世紀にはヒスパノ・ローマ語で作られた歌詞の原形のようなものがあり、アラブ詩人がそれを引用したのではないかとも言われている。
 このムワッシャハからさらにザジャル zaǧal(スペイン語で zéjel)という詩形が生まれた。ムワッシャハの連構造を引き継いでいるが、文語でなく全てアラビア語口語やヒスパノ・ローマ語で詠まれたものだ。このザジャルがカスティーリャ語の詩の発展に絶大な影響を与えたであろうことは容易に想像がつく。初期カスティーリャ語の詩のモティーフや登場人物の名前を見てもアラビア語口語のザジャルの詩にその原本が見いだせる例は枚挙にいとまがないそうだ。
 また15世紀のカタロニア語の詩集(歌集)に次のような作品があって注目に値する。

Di ley vi namxi
Ay mesqui
Naffla calbi

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero finar

Quando vos veo senyora
Por la mi puerta pessar
Lo coraçon se me alegra
Damores quiero morir.

最初の3行(イタリック)を長い間誰も解読できないでいたところ、ソラ=ソレ Josep Maria Solà-Solé という学者がこれがアラビア語であることに気づき次のように解読した。

(b)ille [h]i bi[k] namxi
Ay m(i)squi
Na(ḥ)la qualbi

詩全体を訳すとこうなる:

神よ、貴方と歩く
おお麝香
貴方は私の心を甘美にする(ここまでアラビア語)


貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛のあかしに歌を詠おう

貴方の姿を見ると、
私の(部屋の)扉を入ってくる貴方を見ると
心は歓びにふるえる
愛にためなら命をささげよう
(韻にも何もなってないヘタレ訳ですみません)

これはムワッシャハから「二か国語構成」というアイデアを受け継いだのだろう。尻尾でなく頭にいわば「逆ハルジャ」がくっついている。15世紀と言えばすでにグラナダ王国以外のイベリア半島がキリスト教徒の支配下に入っていたころだ。しかも北方のカタロニアはもともと最初からムスリムの支配をあまり受けていない。それでもアラブの精神文化の影響は強烈だったのだ。

 1492年、グラナダ王国が陥落し、ネブリハが新しい支配者の言語の普及を試みた時、イベリア半島はこういう多言語状態であった。さてこの豊饒な言語文化はその後どうなったのだろうか。残念ながらまさに「イヤな予感」通りの展開となったのである。
 グラナダ王国が消滅した時点でイベリア半島全体に住んでいたムデハル(前項参照)は後ろ盾を失った。またグラナダを占領した「ヨーロッパ化したキリスト教徒」は初期ムスリムのような寛容さは持っていなかった。1498年にはムスリムを強制的に改宗させる措置が始まり、1499年にはグラナダでアラビア語の本が焚書に付された。続いて1502年、カスティーリャでは「ムスリムは改宗するか出ていくかのどちらかにしろ」という正規のお触れが出た。これで出て行ったムデハルも多いが、これが1526年にはさらに強化されて、宗教だけでなく「ムスリムのような生活様式」まで禁止された。少し遅れてアラゴンでも1525年に人口の3分の1を占めていたと思われるムデハルの強制改宗令が発布された。これら、1492年以降にキリスト教に改宗したムスリムをモリスコ moriscos というが、改宗した後もなお不信の目で見られ続けた。というのもイスラム教では確かに一旦アラーに誓いを立てたものが他宗教に寝返るのは死に値する罪ではあったが抜け道があったのである。改宗が外からの強制による場合は、改宗したふりをして十字を切ってもいい、心のうちでこっそりアラーを信じよという隠れムスリム作戦が許されていた。キリスト教側はその心の領域まで完全に同一化しようとしたのである。1565年にはアラビア語の使用が禁止されモリスコの財産が没収されたりした。ここまでやられたらモリスコは反乱を起こすか(起こしたモリスコもいるが残酷に鎮圧された)出ていくしかない。
 1609年、モリスコの大量追放が始まり、当時推定850万人の人口の30万人を占めていたモリスコが主に北アフリカに追放された。その後1614年、何とか僻地に住んでいたモリスコも一掃され、イベリア半島はムスリムがいなくなった。
 
 しかしそれまで文化面では本家バグダッドがモンゴル人に破壊された後も200年間その世界最高文化を維持し、経済面では特にイベリア半島東部で農業や様々な産業に従事してイベリア半島を支えていたモリスコがいなくなったことで、スペインは経済も文化も空洞化した。そのスの入った国内経済の穴埋めのため、スペイン政府は血眼になってアメリカ大陸を略奪し金銀を奪ったが、国内産業がスカスカなのに略奪品だけで国家財政を保つなど無理がありすぎる。モリスコ追放令を出す以前、ムデハルをジワジワいびり出していっていた時点、1575年にスペインはすでに一度国家破産しているのだ。そこへ持ってきてのモリスコ追放は「スペインにとって人道面だけでなく、経済面でも大災害であった。17世紀以降スペインが衰退していった大きな原因がこれである」と上述のボソング教授は言っている。

この名曲もこのような歴史を考慮して改めて聞いてみるとさらに胸に迫るものがある…



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 前にも出したダイグロシアという言葉がファーガソンの造語と思われがちなのに実はそうではないのに対し、今流行の(?)メリトクラシーという言葉は巷で思われている通り社会学者のマイケル・ヤング Michael Young の造語である。1958年に出版された the rise of the meritocracy というエッセイで登場した。ファーガソンのエッセイ的論文 Diglossia が出たのが1959年、チョムスキーの Syntactic structures が1957年出版だから、まさかヤングがわざと言語学と連動したとは思えないが、とにかく1960年直前から前半にかけてはエポックメーキングな時期だったようだ。ついでに『荒野の用心棒』もこの時期の制作である。
 ファーガソンの Diglossia も論文と言うよりエッセイに近かったが(『162.書き言語と話し言語』参照)、ヤングの the rise of the meritocracy は本当にエッセイである。しかも2033年にそれまでの社会の歩みを追うという設定だからからエッセイと言うよりはSF小説・未来小説のようで、内容は硬いのに「面白い」という言葉がぴったりだった。しかも最後にオチというかどんでん返しまでついている。ファーガソンやトゥルベツコイのエッセイ(『134.トゥルベツコイの印欧語』参照)はここまでスリルはない。提起される問題・議論が「人類社会は何処に行くのか」と「印欧語とは何か」「バイリンガルとは何か」では重みとしてはやはり前者の圧勝だ。印欧語の何たるかなどという問題は実際の生活に全然関わってこないからだ。

 メリトクラシーというのは「業績主義」「能力主義」ということだが、ヤングはこのメリトクラシーをそれまで英国で続いてきた世襲に変わる新しい階級社会として描き出している。「階級社会である」という軸はぶれていないのだ。だからいわゆる社会主義者が唱える「人は皆平等」という考えかたは、「センチメンタル」「ポピュリスト的」として洟もひっかけない。人類皆平等などというのは幻想というわけだ。念のため言っておくと、ヤングはそう主張しているのではなくわざとそういうことを言って問題提起しているだけだからあまりここで落ち込まないことだ。この先さらに描写が過酷になるから心の準備が必要だ。

 以前の英国では世襲的階級社会で、貴族、上流階級、労働者階級という風に枠ができていて、どの枠の中に生まれるかで大方職業や人生が決まってしまっていた。その際各々の階級内にはそれぞれ様々な知能の人がいた。頭のいい貴族もいたが、今の義務教育さえクリアできそうもないバカもいた(「バカ」などという差別用語を使ってしまって申し訳ないがヤングは本当に stupid、moron などの言葉を使っているので失礼)。しかし貴族に生まれればどんなバカでも国の要職につくことができたし金にも困らなかった。逆に下層階級にも天才的な頭脳の人がいたが、生まれが生まれなために社会の階段を這い上がれず、一生単純労働者として自分よりずっと頭の悪い周りの人に混じってトンカチをふるうしかなかった。
 国際間の競争が激しくなってきた昨今、こんなことをやっていたのでは生産性が上がらず国が衰退する。優秀な人を下層階級からドンドン這い上がらせてエリート教育し要職につかせるべきだというので様々な対策が立てられることになる。

 まず教育だ。選抜教育に力を入れるべきで、小学校中学校まで皆同じなんてやり方はアホ。小さい頃から頭の出来に応じて学校は分けるべき。グラマースクールその他の学校格差を廃止して機会均等とやらのために一律の総合学校なんかを設置するのは害にしかならない。頭が悪い生徒といっしょになんかさせておいたら、馬鹿が感染してしまい(とまで露骨な言い方をヤングはしていないが)子供の発達が障害される。できるだけ早い時期に頭のいい子だけでまとめ、エリート教育を開始すべきだ。エリート、つまり国や企業を引っ張っていく力のある人間というのは単に頭の回転が早いだけではだめ、それ相応の教養・立ち居振る舞いを身に着ける必要があるが、そういうのは付け焼刃で身につくものではない。特に下層階級の子供は才能があると分かった時点で上流階級の子供以上にできるだけ早く周りの馬鹿から引き離し自分と同等のIQの子供たちと(だけ)接触させるべき。でないと長年染みついてきた下賤さが振り落とせない。下層階級からIQの高い子供を引っ張り上げてエリートにするのは国益である。
 ヤングはアメリカの教育制度についてもちょっと触れ、馬鹿も利口も一律にエレメンタリ→ジュニア・ハイ→シニア・ハイと進む「平等」な教育をコキ下ろしている。もっとも幸いアメリカには大学間にレベルの差があって、そこで生徒が競争でき、頭の出来によって、いい大学・馬鹿大学というランク分けできるからまだいいが、実は17歳18歳になってからやっとIQによる選抜が始まるのでは遅いのだ。本来小学校に入る以前からしっかり知能検査して振り分けるべき。そして能力のない子供は下手に高等教育に進学させたりしないで中学程度で教育を終わらせ、さっさと働かせなさい。進学させたってどうせついていけないのだから。

 能力のある子供が下層階級だった場合逆の問題が出てくることがある。階級にふさわしく両親の人生観も下賤なことが多く、「知」の価値がわかっていない。せっかく自分の子供が知能的に高等教育の資格を持っていても「大学なんかに行く金が無駄。それよりさっさと就職しろ」と教育を中断させたりする。そういう下賤な親を黙らせるためにグラマースクールに行けた生徒には給料を出したらどうだろう。下手な労働者より多く出してやれば利口な子供の邪魔をする馬鹿な親も黙るだろう。
 もっとも能力のある下層階級の子供を「吸い上げる」のはそれでもまあ比較的簡単だ。やっかいなのは上流階級の子供が馬鹿だった場合である。親は自分たちは上流だと思っているし金もあるから子供にどうしても高等教育を受けさせたがる。さらに自分の所有している会社の幹部にしたがったりする。しかし能力・知能もない奴に大学に来られたりしたら周りの利口な学生の足を引っ張るから社会の迷惑だ。また頭の悪い奴が経営している企業が増えたら国益が損なわれる。同族経営、コネ進学などを不可能にするような制度が必要だ。例えば国民全員のIQリストを国が管理するというのはどうだろう。まあ日本のマイナンバーに「IQ」という項目があるようなものだ。

 もちろん能力検査のやりかたは心理学者や脳神経学者が研究を重ねて、能力のある人を捕りこぼさないようにしていかなければいけない。またIQ検査も受験者が当日たまたま風邪を引いていたり心の悩みを抱えていたりして低く出る可能性もあるし、そもそもスロースターターで知能の高さがある程度の年齢になってからジワジワ現れてくる人もいるからIQ検査は定期的に何度でも受け直せてアップデートできるようにする必要がある。

 つまり目ざすべき社会では学歴と能力・実力が完全に一致していて、学歴を見れば実力がすぐわかる社会、能力がある者だけがのし上がれ、貴族だろうが親が金持ちだろうが馬鹿だったら下に甘んじてもらうという、ある意味非常に厳しい階級社会なのである。いわゆる社内教育にもヤングは否定的。企業がグラマースクールや大学の真似事をして偉ぶりたい気持ちはわかるが、そんなものは「正規の学歴」の代わりにはならないというわけである。
 学者が粋を集めた能力検査は非常に精密なので無能な人がいいスコアを出してしまったり、能力のある人を捕りこぼしたりはしないようになっている上、上で述べたように繰り返しがきく。グラマースクールの生徒には給料が出る。そこまでしてやっても這い上がれない労働者階級と言うのは要するに能力がないということ。運が悪いの金がないからだのという慰めは通用しない(「彼らは劣等感を持っているのではない、実際に劣等なのだ」という表現が出てくる)。「勉強だけデキテモー」とか「頭デッカチ」と能力上流階級を罵ることもできない。IQの高い者にはその「社会の実力」も身につけさせるからである。救いようがない厳しさだ。その厳しい階級制度を維持するにはいろいろ解決すべき課題が生じる。
 まず、能力的に下層階級の人をどうするか。彼らが嫉妬や絶望のあまり外で暴れたり人生に希望を失って自暴自棄になったりしないよう懐柔しないといけない。その1は彼らにスポーツをさせることだ。頭で誇れない代わりに筋肉自慢をさせて得意になっていて貰えばいい。その2は、自分は下層でもいつか頭の良い子供や孫が生まれるかもしれないと、次の世代に希望を持たせ、自分は一生下層階級という人生に甘んじてもらうことだ。その3は「何もしない」ことだ。能力が下層の人にはそもそも組織的な抗議運動を起こしたり、政治の場に代表を送り込んだりできる頭はないから譬え多少暴れてもそれは単発に終わり、社会不安にまではならないだろう。
 さらにこれもある意味懐柔策だが、職業名称などをマイルドにしてあまり下層感を持たせないように変更する。だから例えば rat-catcher の代わりに rodent officer、lavatory cleaner の代わりに amenities attendant、 worker でなく technician と呼ぶ。Labour PartyはTechnicians Partyという名前に変更だ。こういうリップサービスをしておけば彼らもまあ自分が高級になったような気になってくれるだろう。

 ここまでですでに背筋が寒くなるが、まだ先がある。もう鬱病になりそうだ。

 さて、馬鹿が劣等感に駆られて暴れないように懐柔策を練ることに成功はしたとする。しかしそこでさらに大きな問題が起こる。IQ上流階級の人がドンドン社会を合理化し生産性が上がるにつれてIQの低い人たちにできる仕事が減っていくのである。単純作業などは皆機械がやるからだ。彼らに居場所を提供してやらないと社会が不安定になる。解決策としてIQの低い人たちには高い人たちの召使になってもらうというのはどうだろう。生産性の高い人がその能力を全て社会のために発揮できるよう、部屋の掃除やスーパーでの買い物などという下賤な仕事から解放してやり、そういう些末な作業はそれにふさわしいIQの人たちにやってもらえばいい。そうすれば能力的下層階級の人も失業しないで済む。
 
 ここでお花畑の社会主義者からクレームがつく。人間の価値とは何か?学歴・能力・IQだけが人間の価値なのか?それに対する答えはこうだ。人間の価値、美徳の基準などというものは世につれて変わる。昔槍をもって戦争していたころは力が強く人殺しの上手いのが美徳だった。封建制の頃は忍従の美徳、自分を捨ててご主君様に追従するのが美徳とされた。今の社会では生産性が美徳なのである。今の時代は学歴IQの高いものは低学歴よりも人間としての価値があるのだ。時代や社会に全く影響されないユニバーサルな「人間の価値」などというものは社会主義者のお花畑脳の産物だ。
 そもそも馬鹿も利口も選挙で同じ一票が入れられるというのは不合理だ。IQ値の高い人の一票は馬鹿の何倍かの重みを与えたほうがいい。

 しかしメリトクラシー社会を内部から不安定にしそうな要素は馬鹿の暴走ばかりではない。実は議会制・民主主義が危なくなる危険性があるのだ。今述べた「学歴によって一票の重みに差をつける」というのも相当危ないが、例えば労働者を代表する党を考えてみて欲しい。党員になるのはつまり労働者、知的下層階級である。そういう知能平均の党とそれよりずっと知能の高い大学教授や企業主を代表とする党はそもそも議会で話合う事さえできない。言語能力、教育程度が違いすぎるからだ。議会の権限を弱めて立法機能の一部を行政側に移行する手もあるがそれでは議会が単なる飾りになってしまう危険がある。それだと民主主義そのものがヤバくなるので(上述のように馬鹿の一票を軽くしたりすればすでに十分ヤバくなると思うが)、「下層階級の声を代表する」党が幹部や党員を当該階級でなく、ヨソのもっとIQの高い職業層から引っ張って来るしかない。どちらにしてもIQが下と見なされる職業層は政治に自分たちの声を送り込めなくなるのだ。これをどうするかが課題となる。

 もう一つの課題は女性問題である。基本的にはIQの高い女性にはドシドシ上昇してもらって馬鹿な男がのさばったりしないようにするのが国益だ。制度を整備してそういうことにならないようにすべきだが、現在の社会時点では実際問題として結婚すると女性の負担が増え、能力を上手く生かせないことが頻繁だ。そこで女性は結婚生活と仕事と力を半々に分散させるか、あるいは家事なんかはIQの低い召使に全部任せるか、さらにあるいは自分のIQを犠牲にして家庭生活を選ぶかということになるが、子供が生まれると頭だけでなく体にも負担が出るのでたとえ召使を使っても女性のIQの損失を賄いきれない。またIQの高い女性は当然子供も少なくとも自分と同等のIQを持ち自分より下の階級に落ちないように望むから、その確率を上げるため(頭のいい両親に馬鹿が生まれることだってある)できるだけIQ値の高い配偶者を探すようになる。
 だが考えてみて欲しい。結婚すると自分のIQが無駄になるのは確実、譬え高知能の配偶者を選んでも自分の子供が下に転落する危険性があるとなれば、馬鹿でもない限り(これらの女性は文字通り馬鹿ではない)結婚なんてヤーメタとなるだろう。子供も下手に自分で産んで転落のリスクを犯すより出来合い、つまり労働者階級の親から生まれた高IQ値の子供を養子として持ってきた方が確実だ。それで「養子仲介業」が盛んになる。下層階級の人はすぐ金のことを考えるので養子受け入れ側の女性が親にたんまり金を出せばすべて丸く収まる。この人身売買があまりにも横行したため、ついに政府は養子制限令を出すに至る。でないと一旦能力の上流階級に属してしまうとそれが世襲する危険が生じるからだ。
 そうこうするうち能力検査のやりかたも脳神経学者たちの努力の結果非常に確実さを増し、子供が生まれた時点、いや生まれる前にすでに将来のIQがわかるようになる。これも養子獲得競争が熾烈化した原因だ。

  以上がヤングの2034年以前の英国社会のシミュレーションである。昔は生まれた家柄で人生や職業が決まってしまっていたが、それが生まれたときのIQでその後の人生がすべて決まるようになるのだ。もっともヤング自身も描き出しているように実際は様々な問題が噴出してきてそうすんなりとは行かない。それからどうなるのか、人類社会はどこに行くのかという問題提起がエッセイの趣旨だ。

 ヤングのこのシミュレーションは舞台が英国社会に限られている。英国が台頭してきたアメリカ、ソ連、アジア諸国と生産性競争で勝ち抜くにはどういう社会を目ざすべきかというシミュレーションである。このエッセイが書かれたのは1958年だからまだ現在のようにはグローバル化が進んでいなかった頃なので、その点では視点が狭い。ちょっとこれを世界規模にまで敷衍して思考ゲームをして見よう。

 今までは生まれた国で一生を過ごすのが基本であった。国にはもちろん馬鹿から天才まで幅広い知能、幅広い能力の人がいた。イギリスの閉ざされた階級社会のようなものだ。このカースト、国籍だの民族の壁が取り払われて頭のいい人はジャンジャン自分の生まれた国を出てもっといい国に移動するべき、出身階級・出身国になんてこだわっていないで「上流国」に渡ってそこで自分の能力を十分発揮するのが人類全体の発展のためという国際社会の社会意識や価値観、コンセンサスが確立されたとする。というよりすでにそれがある程度コンセンサスだが。すると文明文化・技術の進んだ国にはガンガン世界から頭のいい高学歴の人が集まってくる。頭のいい人は語学だって得意だから言葉の壁なんて屁のようなものだ。そうやって住民の50%がIQ150以上である国が出てくる一方、国民の1%くらいしかIQ150がいない(むしろそっちのほうが普通だろよ)国も生じる。IQ100以下などめったにいない国とIQが80くらいの人が10%以上もいる(これもそっちが普通)国ができる。150と80ではお互い意思の相通が困難になるほどだから、国連総会なんて存在意義がなくなる。そもそも国民総低IQになったら政治ができないから国が成り立たない。ヤングのシミュレーションした英国の労働党ではないが、自党のメンバーでは組織を維持できないから頭のいい人を外国から引っ張ってきて行政をやってもらうしかない。
 では高IQ国が万々歳かというとそうはいかない。その国にふさわしくないような頭の悪い自国民をどうすべきかという問題が生ずる。馬鹿に国内に居残られたら自国民・移民を問わず頭のいい人たちの足を引っ張るからである。それに国内にはそういう人たちが就ける仕事も能力の高い人の召使くらいしかない。やはり定期的に国民にIQ検査をして一定のスコアを取れなかった人は等級の低い国に移住してもらおう。国民引き取り代として向こうの国に金を払えば喜んで馬鹿を受け入れてくれるに違いない。こちらも別の意味で言葉の壁の心配などいらない。引受先にはどうせサバイバル程度の語学で足りる仕事しかないからだ。
 現在の調子だとそういうことを本当にやる国が出てきそうで怖い。

 こういうのが人類の幸福か。「冗談じゃない」というのが私の気持ちであるが、ではこういう暴走をふせぐために逆にガッチガチに民族・国籍で国を囲ってしまい、ちょっと外国人が来たくらいでパニックを起こし、自国民が出ていくと裏切者だのもう帰って来るななどの罵声を浴びせる国ならいいのかというと、それも「勘弁してくれ」だ。「外人来るな」はむしろ実行が簡単だろうが、能力のある自国民の流出を食い止めるのは難しい。頭のいい人は国を出る能力もあるからだ。その力のある自国民を引き留めるのがどんなにむずかしいかは、旧ソ連や東ドイツを見ればわかる。壁を作り情報を統制し国民を監視するには膨大な費用がかかる。この国際競争時代にそんなムダ金を使っていたら国は衰退するばかりだ。物質・経済面ばかりではない、壁を作ってしまったら中の国民は精神的にもガラパゴス化し、知識をアップデートできないから周りの発展についていけない、搾りカスのような国民国家になること請け合いである。

 つまりメリトクラシー全開の国とガラパゴス単一民族国家間の選択は「冗談じゃない」か「勘弁してくれ」かの選択ということになる。ドイツ語ではこういう状態を表わすのに「ペストかコレラかのどちらかを選べ」という言葉がある。まさに救いようのない選択肢だ。

the rise of the meritocracy の表紙。表紙のイラストはちょっと可愛いが中身は過酷。
rise-of-meritocracy

本の内容はこちら。表紙が上とちょっと違いますが…

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 今回のサッカーW杯はスッタモンダの末ドイツがまたしても予選落ちしてアルゼンチンが優勝した。前回ドイツがコケたとき「大丈夫だ。次は韓国でなく日本に負けるから安心しろ」と私が言ったのは単なる冗談(のつもり)だったが、蓋を開けたら現実はそれ以上に過酷、2014年の呪い(『124.驕る平家は久しからず』参照)が全く解けていない展開となった。口は災いの元、相手に対するリスペクトを忘れて傲慢になると自分の方が没落するのは古今から様々な童話やおとぎ話で出しつくされたストーリーである。やはり口は慎んだ方がいい。
 それにしてもアルゼンチンは強かった。ここに勝てたのはサウジアラビアだけだ。本当に凄いチームだ(サウジがだ)。アルゼンチン戦でチームを勝利に導いたサレム・アル・ダウサリ Salem Al-Dawsari  の2点目のゴールは家で取っている新聞でしっかり「今大会で最も美しいゴール20」の一つに選ばれていた。

 しかしサウジアラビア以上に凄かったのはモロッコだろう。予選のグループはモロッコ、クロアチア、カナダ、ベルギーで、ほとんどの人が心の中でクロアチアとベルギーが本戦に進むだろうとふんでいたと思うが、クロアチアとは引き分けたものの、カナダ、ベルギーを粉砕してモロッコがグループ一位で予選を通過した。このあたりから普段いがみ合ったりしているアラブ系やアフリカの国々の人たちがこういう時だけ一致団結しはじめ、世界の広範囲にわたって一大サポート軍団が形成され始めた。しかし本戦第一戦目はスペインである。これもほとんどの人が心の中でスペインの勝利だろうと思っていただろうが、双方得点のないままPK戦に持ち込まれてモロッコが勝った。その得点の入らなかったレギュラータイムも決してダレていたわけではない、点を入れるチャンスもあり、ゴールの試みもあり、結構スリルがある展開ではあったのだ。その時点でアラブ世界を越えて欧州の観戦者も「おや、このチームは結構やるな」と姿勢を正し始めた。そこへ持ってきてあのPK戦である。まずスペイン側の最初の二人が外した。その前に日本・クロアチア戦でやはりPK戦になっていたが、これも日本は始めの二人が外し、ネット上では「PKくらい練習しておけ」などという無責任な発言が書き込まれたりしていたのだ。スペインよお前もかと皆思っただろう。モロッコのほうは二人まで順調に入れていたが3人目がキーパーに阻止されたので、これでスペインの次、キャプテンのブスケツはさすがに入れるだろうからまだ勝負はわからないと皆が(皆って誰よ?)思っていた矢先にブスケツまでキーパーのヤシン・ブヌに止められた。このブヌはボノとも発音され、カナダ生まれでヨーロッパでも活躍しており、結構名を知られているキーパーである。笑い顔が可愛いと評判でブスケツのゴールを止めたときも顔が笑っていたとあちこちで囁かれている。その次、待ったなしの状態で出てきたのがよりによってアシュラフ・ハキミだ。なぜよりによってなのかと言うとハキミはスペイン生まれで、スペインの国籍も持っているからである。そのハキミがパネンカ・キックを入れ試合終了

ブスケツまで止めたPKキラー、笑顔のボノ。https://www.goal.com/en-ng/news/watch-bounou-denies-busquets-as-morocco-reach-world-cup-quarter-finals/blt87c717dee835ee58から
Bounou-smiling-bearbeitet
 PK戦自体もスリルがあったがそれより面白かったのはモロッコ側の観客席の様子である。面白いというと失礼かもしれないが、いい歳のおじさんが涙ぐんだりしている(もっともサウジアラビアがアルゼンチンに勝った時も泣いていたおじさんがいた)その狂喜乱舞ぶりを見たらこちらまで便乗サポートしたくなった。便乗と言えば、モロッコ・スペイン戦の後こちらではクラクションブーブーの自動車が夜っぴて走り回り、通りでは朝まで叫び声がしていた。いくら移民国ドイツと言ってもこの町にそんなにたくさんモロッコ人が住んでいるわけがない。チュニジアやアルジェリア、さらにパレスティナやシリア、エジプト人などアラビア語圏の人たちを全部勘定に入れてもまだ声量が大きすぎる。あれは多分トルコ人までどさくさに紛れて騒いでいたに違いない。
 もうモロッコはこれで十分だ、よくやったお疲れ様と誰もが思ったがまだ先があった。ロナウドのいるポルトガルに勝ったのである。予選でなら部外者が強豪に何かの間違いでチョロっと勝ってしまうことはあるが本選で強豪2チームをやっつけたとなるとさすがに偶然の範囲を超えていないか。続く準決勝ではフランス、3位決定戦でクロアチアに負けはしたが、その時も点を取られて総崩れになどならず、最後まで見るに足る試合を展開した。特にフランス戦でジャワド・エル・ヤミクが後ろ向きの姿勢で試みたあわや同点のゴールは語り草になっている。今さら「たられば」を言っても仕方がないとはいえ、あれが入っていたら試合の流れが完全に変わっていたに違いない。おかげでモロッコの「アトラスの獅子」というニックネームが定着したが、実は私はポルトガル戦の後彼らに「アブド・アル・ラフマーン一世軍」というあだ名をつけていたのである。北アフリカからやってきてイベリア半島全体を征圧したからだ。

エル・ヤミクはこの姿勢でゴールを試みた。引用元はそれぞれ
https://www.eldesmarque.com/futbol/mundial/1608141-las-delicatessen-de-qatar-2022-los-mejores-detalles-de-calidad-del-mundial

https://news.cgtn.com/news/2022-12-15/CGTN-Sports-Talk-France-end-Morocco-s-World-Cup-miracle-1fMBtD64zm0/index.html
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 こちらはモロッコに対して好意的な報道が多かった。モロッコが予選を通過し、アラブ語圏が全部後ろについてフィーバーしている姿を見て現地のレポーターが「政治も日ごろの争いもない。これがスポーツの意義でしょう」と言っていたが、私もそう思った。そもそもうるさく言えばモロッコは「アラブ民族」ではない。住民の多数はベルベル人である。私が以前会ったモロッコ人もアラビア語とベルベル語のバイリンガルだった。だからアフリカ人はもちろん、モロッコを応援するアラブ人たちは異民族を応援していたことになる。ここがスペインに勝った時もパキスタンやインドネシアからまでお祝いの書き込みがあった。逆に当チームの選手は外国生まれ・外国育ちが圧倒的多数。ハキミやボノばかりではない。それら「事実上外国人」の選手をモロッコ中が何の自己矛盾もなく同胞扱いして応援する。国とは何か、民族とは何かを考えさせられた。
 私は個人的に将来「国」というのはそういう方向に進んでいくのがいいと思っている。例えば日本国内の日本人とほぼ同数の日本人が外国生まれ外国育ちで、日本国内の住人も半数くらいが異民族、つまり在外+在日の日本人対在日外国人の割合が2対1,在外日本人対在日住民(そのうち日本民族は半数)の割合が1対2という想定をしてみよう。それだと在日日本人が全体の3割強しかいないことになる。言語的にも在外日本人の中にはもちろん日本語より現地の言語が優勢な人もいる。逆に在日外国人には日本語が母語の人もいる。こうなればちょっと周りと意見が違ったくらいで「お前本当に日本人か」などという意味のない質問を罵声のつもりで浴びせる輩も減るだろう。 
 そもそも選手を見れば瞭然だが、強豪扱いされている欧州のチームはすでに「移民」に頼りきりである。サハラ南北のアフリカ出身の選手がメチャクチャ多い。そうやって普段頼っているくせに彼らがたまにPKを外したりすると恩知らずな人種差別的罵声を浴びせたりする人がいるのは何様だ。それでも彼らが欧州の国のために戦っているのは単に「国には活躍の場所がない。出身国でサッカーなどやっていたらWCなどには永久に出られない」からではないか?出身国でもWCに出られるということになれば、欧州各国のアフリカの選手が雪崩をうって自国に帰り、欧州はスカスカ、ジダンもンバッペもいないチームでフランスはどこまで行けるか見ものだ。今回のモロッコを見ていたらそんな想像までしてしまった。政治的にはモロッコもカタールも個人的にちょっと住みたくはないのだが(褒めたり貶したり忙しすぎるぞ)、欧米だって褒められる部分ばかりではない。とにかくサッカーでは欧米・南米の独占状態がガタつくのは正直歓迎である。

 話が逸れたのでPK戦のことに戻すが、今大会ではPKの失敗が非常に目立った。まず日本もスペインも最初の2人が連続して外した。フランスはそれを見たからか、ンバッペを最初に持ってきた。景気づけというか、「良い例」というか「これに続け」というシグナルだろう。さすがにンバッペは入れたがその後が2人連続で外し、日本、スペインとほぼ同パターンとなってしまった。大体PKというのは入るのがデフォではないのか?だからこそたまにシューターが枠にあてたり(ベッカムのようにホームランをかっ飛ばすのは論外)、キーパーが止めたりすると「おおおっ」となるのだ。3人目くらいからその「おおお」が始まり4人目5人目で緊張感が頂点に達するという展開しか記憶にないので、今度のように最初からボコボコ外すPK戦が続出する症状はカタールの風土病か何かじゃないのかと疑っている。
 その風土病をものともせず平常運転したのがオランダで、対アルゼンチン戦では15枚のイエローカードが飛んだ。これは大会記録だそうだ。アルゼンチン側の分も含めての数だが、例えばボウト・ベグホルストが控えのベンチにいる時からすでに黄を食らうというオランダならではの伝統芸で、途中プチ場内乱闘などもあり、見ている方はさあ次は16文キックが出るぞ(『124.驕る平家は久しからず』参照)とワクワクした。チーム内にデ・ヨングという名前の選手がいたからだ。しかしこのデ・ヨングは名字が同じでもクンフー家デ・ヨングとは別人である。残念ながら(?)待望のケリは披露してくれなかった。

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以前書いた記事の図表を画像に変更していっています(レイアウトが特にスマホではグチャグチャになるため)文章にも少し手を入れました。私は母語の日本語も、今まで勉強したことのある言語も全て主格・対格言語なので、能格言語に憧れます。

元の記事はこちら
内容はこの記事と同じです。

 中国とパキスタンを結び、途中標高4714mの高所を通る国道35線は俗にカラコルム・ハイウェイと呼ばれている。1980年代に開通した。この国道のほとりにフンザHunza渓谷という谷があるが、ここで話されているのがブルシャスキー語(アクセントは「ル」にあるそうだ)という言語である。

カラコルム・ハイウェイ。Hunza や Nager (Nagar)という地名が見える。
Karakoram_highway.svg

 谷の一方がフンザ、川を挟んだ向こう側がナゲルNager という地名で、いっしょにされてフンザ・ナゲルと呼ばれていることが多い。しかしこの二つはそれぞれ別の支配者(ブルシャスキー語でtham)に統治される独立国であった。両国間での戦争さえあったそうだ。1891年にイギリスの支配下に入り1947年に自主的にパキスタンへの併合の道を選んだ。長い間君主国としての独立性を保っていたが、ナゲルは1972年フンザは1974年に王国としての地位を失い単なるパキスタン領となった。フンザには約4万人、ナゲルにもほぼ同数のブルシャスキー語話者がいると見られる。両者間には方言差があるが相互理解には何ら支障がない。ナゲルの方が保守的だそうだ。例えばhe does it をナゲルではéću bái といってéću が動詞本体、báiはいわば助動詞だが、これがフンザでは合体してéćái または éćói という形になっている。同様にyou have done it はナゲルでétu báa、フンザでétáa または étóo となる。母音の上についている「´」はアクセント記号だが、フンザではこの短い単語にアクセントが二つある、ということは山が二つあることになるわけでいかにも元は二つの単語だったと思わせる。また本来同じ母音が二つ連続していたのがフンザでは一母音に短縮され、ナゲルで「一ヵ月」は hísa-an というのにフンザでは hísan と母音が縮まっている。語彙の点でもいろいろ相違があるらしい。
 このフンザとナゲルの他にもう一つブルシャスキー語地域がある。フンザ渓谷の北西約100kmのところにあるヤスィンYasinという辺境の谷がそれ。ここの方言はフンザ・ナゲルとはさらにはっきり差があり、フンザ/ナゲル対ヤスィンという図式になるそうだ。それでもやはり相互理解の邪魔にならない程度。このヤスィン方言の話者は昔ナゲルから移住してきた人たちの子孫、つまりヤスィン方言はナゲル方言から分かれたものらしい。いくつかの資料から分かれた時期は16世紀ごろと推定できる。南米スペイン語と本国スペイン語との違い同じようなものか。またヤスィン方言はフンザよりさらに語尾や助詞・助動詞の簡略化が進んでいるとのことだ。オランダ語とアフリカーンスを思い出してしまう。ブルシャスキー語の話者の総数はおよそ10万人だそうだから、単純計算でヤスィン方言の話者は2万人ということになる。でも「10万人」というその数字そのものがあまり正確でないようだから本当のところはわからない。
 ちょっとこの3つの方言を比べてみよう。
Tabelle1-144
「目」と「肝臓」の前にハイフンがついているのは、これらの語が単独では使われず、常に所有関係を表す前綴りが入るからだ(下記参照)。全体的にみると確かにナゲル→フンザ→ヤスィンの順に形が簡略化していっているのがわかる。また、フンザの「目」の複数形などちょっとした例外はあるにしてもヤスィンとフンザ・ナゲル間にはすでに「音韻対応」が成り立つほど離れているのも見える。しかし同時にこれらのバリアントが言語的に非常に近く、差異は単に「方言差」と呼んでもいいことも見て取れる。確かにこれなら相互理解に支障はあるまい。またナゲル→フンザ→ヤスィンの順に簡略化といっても一直線ではなく、例外現象(例えば下記の代名詞の語形変化など)も少なくないのは当然だ。

ブルシャスキー語の話されている地域。上がウィキペディアからだが、雑すぎてイメージがわかないのでhttp://www.proel.org/index.php?pagina=mundo/aisladas/burushaskiという処から別の地図を持ってきた(下)。
Burshaski-lang

burushaski

 ブルシャスキー語の研究は19世紀の半ばあたりから始まった。周りと全く異質な言葉だったため、当時植民地支配していたイギリス人の目に留まっていたのである。最初のころの研究書は量的にも不十分なものだったが、1935年から1938年にかけて出版されたD. L. R. Lorimer 大佐による全3巻の研究書はいまだに歴史的価値を失っていない。氏は英国人で植民地局の役人だった。しかし残念ながらこれもこんにちの目で見るとやはり音韻面の記述始め語彙の説明などでも不正確な面がいろいろあるそうだ。1930年代といえば今の構造主義の言語学が生まれたばかりの頃であるから仕方がないだろう。
 その後も研究者は輩出した。例えば Hermann Berger の業績である。ベルガー氏は1957年からブルシャスキー語に関心を寄せていたが、1959年、1961年、1966年、1983年、1987年の5回、現地でフィールドワークを行い、その結果をまとめて1998年に3巻からなる詳細なフンザ・ナゲル方言の研究書を出版した。一巻が文法、2巻がテキストとその翻訳、3巻が辞書だ。最後の5回目のフィールドワークの後1992年から1995年まで現地の研究者とコンタクトが取れ手紙のやり取りをして知識を深めたそうだ。その研究者はデータを集めたはいいが発表の きっかけがつかめずにいて、理論的な下地が出来ていたベルガー氏にその資料を使ってもらったとのことだ。ヤスィン方言についてはすでに1974年に研究を集大成して発表している。
 最初は氏はブルシャスキー語の親族関係、つまりどの語族に属するのかと模索していたようで、一時はバスク語との親族関係も考えていたらしいことは『72.流浪の民』でも紹介した通りであるが、その後自分からその説を破棄しブルシャスキー語は孤立語としてあくまで言語内部の共時的、また通時的構造そのものの解明に心を注ぐようになった。1966年の滞在の時にはすでにカラコルム・ハイウェイの建設が始まっていたので外国人は直接フンザ・ナガル渓谷には入れずラーワルピンディーというところまでしか行けなかったそうだが、そこでインフォーマントには会ってインタビュー調査をやっている。1983年にまた来たときはハイウェイがすでに通っていたわけだが、あたりの様子が全く様変わりしてしまっていたと氏は報告している。

 さてそのブルシャスキー語とはどんな言語なのか。大雑把にいうと膠着語的なSOVの能格言語であるが(大雑把すぎ)、特に面白いと思うのは次の点だ。

 まずさすがインド周辺の言語らしくそり舌音がある。[ʈ, ʈʰ,  ɖ,  ʂ, ʈ͡ʂ ,  ʈ͡ʂʰ,  ɖ͡ʐ , ɻ] の8つで、ベルガーはこれらをそれぞれ ṭ, ṭh, ḍ, ṣ, c̣, c̣h, j̣, ỵ と文字の下の点を打って表記している。それぞれの非そり舌バージョンは [t, tʰ, d, s, t͡s,  t͡sʰ, d͡ʑ , j]、ベルガーの表記では t, th, d, s, c, ch, j, y だ。最後の y、 ỵ の非そり舌バージョンは半母音(今は「接近音」と呼ばれることが多いが)だが、これは母音 i のアロフォンである。つまり ỵ は接近音をそり舌でやるのだ。そんな音が本当に発音できるのかと驚くが、この ỵ は半母音でなく子音の扱いである。また t, tʰ, d  の部分を見るとその音韻組織では無気・帯気が弁別性を持っていることがわかる。さらにそれが弁別的機能を持つのは無声子音のみということも見て取れ、まさに『126.Train to Busan』で論じた通りの図式になってちょっと感動する。

ベルガーによるブルシャスキーの音韻体系。y、w はそれぞれ i、u  のアロフォンということでここには出てこない。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.13 から
burushaski-phoneme-bearbeitet
 しかしそり舌の接近音くらいで驚いてはいけない。ブルシャスキー語には文法性が4つあるのだ。これはすでにLorimer が発見してそれぞれの性を hm、hf、x、y と名付け、現在の研究者もこの名称を踏襲している。各グループの名詞は語形変化の形が違い修飾する形容詞や代名詞の呼応形も異なる、つまりまさに印欧語でいう文法性なのだが、分類基準は基本的に自然性に従っている。hm はhuman masculine で、人間の男性を表す語、人間でない精霊などでも男性とみなされる場合はここに属する。hf はhuman feminine、人間の女性で、男の霊と同じく女神なども hm となる。ただし上で「基本的に」と書いたように微妙な揺れもある。例えばqhudáa(「神」)は hm だが、ことわざ・格言ではこの語が属格で hf の形をとり、語尾に -mo がつくことがある。hf の bilás(「魔女」)は時々 x になる(下記)。この x 、 y という「文法性」には人間以外の生物やモノが含まれるが両者の区別がまた微妙。動物はすべて、そして霊や神で性別の決まっていないものは x 。これらは比較的はっきりしているが生命のない物体になると話が少し注意が必要になる。まず卵とか何かの塊とか硬貨とか数えられるものは x、流動体や均等性のもの、つまり不可算名詞や集合名詞は  y になる。水とか雪とか鉄とか火などがこれである。また抽象名詞もここにはいる。ややこしいのは同じ名詞が複数のカテゴリーに 属する場合があることだ。上で挙げた「揺れ」などではなく、この場合は属するカテゴリーによってニュアンスというより意味が変わる。例えば ráac̣i は hm なら「番人」だがx だと「守護神」、ġénis は hf で「女王」、y で「金」となる。さらに ćhumár は x で「鉄のフライパン」、y で「鉄」、bayú は x だと「岩塩」、つまり塩の塊だが y では私たちが料理の時にパラパラ振りかけたりする砂状の塩だ。
 もちろん名詞ばかりでなく、代名詞にもこの4つの違いがある。ヤスィン方言の単数形の例だが、this はそれぞれの性で以下のような形をとる。hf で -mo という形態素が現れているが、これは上で述べた -mo についての記述と一致する。
Tabelle2-144
フンザ・ナゲルでは hm と hf との区別がなくh として一括できる。
Tabelle3-144
 さらに動詞もこれらの名詞・代名詞に呼応するのは当然だ。

 上でブルシャスキー語は膠着語な言語と書いたのは、トルコ語のような真正の膠着語と違って語の後ろばかりでなく接頭辞が付きそれが文法上重要な機能を担っているからだ。面白いことに動詞に人称接頭辞が現れる。動詞の人称変化の上にさらに人称接頭辞が加わるのだ。例えば werden (become) という自動詞では動詞本体の頭に主語を表す人称辞がついて

i-mánimi → er-wurde (he-became)
mu-mánumo → sie-wurde (she-became)

となり、動詞の語形変化と接頭辞で人称表現がダブっているのがわかる。もっともブルシャスキー語は膠着語的な言語だから、上の例でもわかるように「動詞の人称変化」というのは印欧語のような「活用」ではなく動詞本体に接尾辞がつくわけで、つまり動詞語幹が前後から挟まれるのだ。これが単語としての動詞でシンタクス上ではここにさらに主語(太字)がつく。

hir i-mánimi → der Mann wurde (the man became)

だからこの形は正確にいうと der Mann er-wurde (the man he-became) ということだ。一方他動詞の場合は、「能格言語」と聞いた時点ですでに嫌な予感がしていたように人称接頭辞が主語でなく目的語を表す。

i-phúsimi → er ihn-band (he him-bound)
mu-phúsimi → er sie-band (he her-bound)

ここにさらに主語と目的語がつくのは自動詞と同じだ。

íne hir i-phúsimi → er band den Mann (he bound the man)

直訳すると er ihn-band den Mann (he him-bound the man) である。ここまでですでにややこしいが問題をさらにややこしくしているのが、この人称接頭辞が必須ではないということだ。どういう場合に人称接頭辞を取り、どういう場合に取らないか、まだ十分に解明されていない。人称接頭辞を全く取らない語形変化(語尾変化)だけの動詞も少なからずある。また同じ動詞が人称接頭辞を取ったり取らなかったりする。そういう動詞には主語や目的語が y-クラスの名詞である場合は接頭辞が現れないものがある。また人称接頭辞を取る取らないによって意味が違ってくる動詞もある。人称接頭辞があると当該行動が意図的に行われたという意味になるものがあるそうだ。例えば人称接頭辞なしの hir ġurċími (der Mann tauchte unter/ the man dived under) ならその人は自分から進んで水に潜ったことになるが、接頭辞付きの hir i-ġúrċimi (何気にアクセントが移動している)だとうっかり足を滑らして水に落っこちたなど、とにかく外からの要因で起こった意図していない潜水だ。他動詞に人称接頭辞がつかないと座りの悪いものがあるのはおそらくこの理由による。上で述べたように他動詞だから接頭辞は目的語を示すわけだが、その目的語から見ればその作用は主語から来たもの、つまり目的語の意志ではないからだ。逆に自動詞に接頭辞を取ると座りが悪いのがあるが、それは意味そのものが「座る」とか「踊る」とか主語の主体性なしでは起こりえない事象を表す動詞だ。さらに人称接頭辞のあるなしで自動詞が他動詞に移行する場合もある。例えば接頭辞なしの qis- は「破ける」という自動詞だが接頭辞がつくと i-qhís- で、「破く」である。
 もうひとつ(もういいよ)、名詞にもこの人称接頭辞が必須のものがある。上述のハイフンをつけた名詞がそれで、「父」とか「母」などの親族名称、また身体部分など、持ち主というかとにかく誰に関する者や物なのかはっきりさせないとちゃんとした意味にならない。例えば「頭・首」は-yáṭis だが、そのままでは使えない。a-yáṭis と人称接頭辞 をつけて初めて語として機能する。上の動詞で述べた接頭辞 i- は hmで単数3人称だが、このa-  は一人称単数である。これにさらに所有代名詞がつく。jáa a-yáṭis となり直訳すると mein ich-Kopf (my I-head)、「私の頭」である。これに対し他の名詞は人称接頭辞がいらない。jáa ha で「私の家」、「家」に接頭辞がついていない。しかし持ち主がわからず単にa head または the head と言いたい場合はどうするのか。そういう時は一人称複数か3人称複数の人称接頭辞を付加するのだそうだ。

 極めつけというかダメ押しというか、上でもちょっと述べたようにこのブルシャスキーという言語は能格言語(『51.無視された大発見』参照)である。自動詞の主語と他動詞の目的語が同じ格(絶対格)になり他動詞の主語(能格)と対立する。ベルガー氏がバスク語との関係を云々し、コーカサスの言語とのつながりをさぐっている研究者がいるのはこのためだろう。ブルシャスキー語は日本語などにも似て格の違いを接尾辞でマークするので印欧語のように一発できれいな図表にはできないが(要するに「膠着語的言語」なのだ)、それでも能格性ははっきりしている。絶対格はゼロ語尾、能格には -e がつく。

自動詞
hir i-ír-imi
man.Abs + hm.sg.-died-hm.sg
der Mann starb (the man died).

他動詞
hír-e gus mu-yeéċ-imi
man.Erg + woman.Abs + hf.sg-saw-hm.sg
Der Mann sah die Frau (the man saw the woman)


ブルシャスキー語の語順はSOVだから、他動詞では直接目的語の「女」gus が動詞の前に来ているが、これと自動詞の主語hir(「男」)はともにゼロ語尾で同じ形だ。これが絶対格である。一方他動詞の主語はhír-e で「男」に -e がついている。能格である。人称接頭辞は上で述べた通りの図式だが、注意すべきは動詞の「人称変化」、つまり動詞の人称接尾辞だ。自動詞では接頭、接尾辞ともに hmの単数形で、どちらも主語に従っているが、他動詞では目的語に合わせた接頭辞は hf だが接尾辞の方は主語に呼応するから hm の形をとっている(下線部)。言い換えるとある意味では能格構造と主格・対格構造がクロスオーバーしているのだ。このクロスオーバー現象はグルジア語(再び『51.無視された大発見』参照)にもみられるし、ヒンディー語も印欧語のくせに元々は受動態だったものから発達してきた能格構造を持っているそうだから、やっぱりある種のクロスオーバーである。

 ところで仮にパキスタン政府がカラコルム・ハイウェイに関所(違)を設け、これしきの言語が覚えられないような馬鹿は入国禁止とか言い出したら私は絶対通過できない。そんな想像をしていたら一句浮かんでしまった:旅人の行く手を阻むカラコルム、こんな言語ができるわけなし。


ブルシャスキー語の格一覧。Kasus absolutusが絶対格、Ergativが能格。
Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.63 から
burushaski-Kasus-bearbeitet
そしてこちらが人称接頭辞一覧表。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil I Grammatik. Wiesbaden:Harrassowitz: p.90 から
burushaski-praefixe-bearbeitet
ベルガー氏が収集したフンザ方言の口述テキストの一つ。ドイツ語翻訳付き。「アメリカ人とK2峰へ」。Berger, Hermann. 1998. Die Burushaski-Sprache von Hunza und Nager Teil II Texte mit Übersetzungen. Wiesbaden:Harrassowitz: p.96-97 から
burushaski-text-bearbeitet


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